怪談の
中でも、人間が死ぬ
断末魔の
刹那に遠く離れて
居る、親しい者へ、知らせるというのは、決して怪談というべき
類では無かろうと思う、これは立派な精神的作用で、
矢張一種のテレパシーなのだ。
私の知ってる女で、好んで心理学の書を読んでいた人があったが、その女の
談に、
或時、その女が自分の親友と二人遠く離れて居て、二人の相互の感情が
通うものか、
如何か、一つ実験をしようと、
前以て約束をして、それから
後、お
互に
憶出した時、その月日と時刻とを記しておいて、
後になって、それを
互に
合してみると、その
中の十中の六までは、その相互の感情が、ひったり一致をしていたそうだ。元来女の性質は
単純な物事に信じ易いものだから、
尚更こういうことが、
著るしく現われるかもしれぬ。それが
為めか、かの
市巫といったものは
如何も昔から女の方が多いようだ。
また
曾て、
或老僧の幽霊観を聞いた事があったが、それは、人がもし死ぬという瞬間には、その人の過去に経て来た、一生涯の光景が、必ずその人自身の
眼先に見えるものだと、いっていたが、
丁度これと同様な話を、その
後にまたある
知己からも聞いた事があった。それは、その人が 或る
[#「 或る」はママ]闇夜に道を歩いていて、突然知らずに、高い土手の上から
辷り落ちたそうだが、その際土手を
辷り落ちて行く瞬間に、
矢張その人自身の過去の光景が、眼に映ったといっていた。そして
尚老僧のいうのには、その場合その人自身の
頭脳に、何か一つ残るものがあって、それは各人に
依って
異るが、もしも
愛着心の強い人ならば、それが残ろうし、
恨悔しい念があったらば、怨霊という様なものが残るので、それにその人自身の全勢力が
集注して、
或場合に
於て、必ずこの世に現れるものだといっていたが、この事は
或程度に於て、信じられそうな説だと思う。元来僧侶というものは、こんな事を平気で、
談すので、
或僧の
談によると、
所謂寺の亡者が知らせに来る場合には、必ずその人の生前の性質が現れる、例えば気の荒い人だったらば、
鉦の叩き
様が
頗る荒っぽいそうだし、温和な人ならば、
至極静かに知らせるといっていたが、それは
兎に
角何れの僧侶に訊ねても、この寺へ知らせに来るというのは、真実のものらしい。要するに、
是等のことは、
凡てまだその人が活きている時の、精神的感応であるから、決して怪談ではなかろうというのである。
議論は
兎に
角として、私もこの方向には、
頗る興味を持っている。
否近頃では、それ以上で、実は熱心に一つ研究をしてみようかと考えているくらいだ。しかし幸か不幸か、まだ自分には、まるで
実見がないが、色々他人から聴いたのを、少し
談してみよう。
東北地方は
一躰は
関西地方や
四国九州の辺と
異って、何だか薄暗い、
如何にも幽霊が出そうな地方だが、私がこの夏行った、
陸中国遠野郷の
近辺も、一般に昔からの伝説などが多くあるところだ。
此処で聞いた
談に、
或時その近在のさる
豪家の娘が病気で、
最早危篤という時に、その
家の若者が、
其処から十町
許もある遠野町へ薬を買いに行った、時はもう夜の九時頃のことで、月が
朧の晩であった。若者も大急ぎに町へ出て、その薬を求めて、
主家の方へ戻って来る途中、
其処は山の
裾を廻る道なので右の方が松林で、左が
田畝になっているのであるが、彼はその
途を一人急いで、娘のことなど考えながらやって来ると、突然
行手の林の中にある岩の上に白いものが見える。「おや何かしらん」と
怪みつつ
漸々にその
傍へ
近付いて見ると、岩の上に若い女が
俯向いている、これはと思って横顔を
差覘くと、
再度喫驚した。それは今自分がそのために薬を買いに行った、病床にある娘であったので、不思議に思ったが、若者は我を忘れて
直ぐ声をかけた。
「みよーさん、(娘の名)
貴嬢は、まあ
如何して、こんな所へ来なすっただ」と
訊ぬると、娘はその
蒼白い顔を
擡げて、苦しそうな息の下から、
「お前を、待ちかねて、
此処まで来たのだよ」と答えたので、
「それはそれは、遅くなって
御免なさい、何しろこんな所へ居なすっちゃ、
身体に
悪るいから私が
背負って行って
家へ帰りましょう」と
云ながら、手に持っていた、
薬瓶をその岩の上に置いて、いざ
背負おうと、
後向きになって、手を出して待っているが、娘は
中々被負らないので、彼は
待遠くなったから、
「さあ、早く行きましょう」と
不図後方を振向くと、また
喫驚。岩の上には、
何時しか、娘の姿が消えていて、ただ
薬瓶のみがあるばかり。これはとばかりに、若者は
真蒼になって
主家へ
駈込んで来たが、この時
既に娘は、哀れにも息を
引取っていたとの事である。