私がまだ
巴里で
画生をしていた時分は、一緒に部屋借りをしていたのは、
布哇生れの米国人であった。この人の
描いた
画は、日本でも
誰か持っている人があるだろうが、
中々巧いもので、
殊に故郷の
布哇で有名な、かの噴火口の夜景が得意のものであった。この人は
彼地有名の銀行家ビショップ氏の推薦により、特に
布哇出身の美術家を養成する目的で、この
巴里の美術学校へ送られたのである。私はこの男と共に、
巴里の
一寓に住まって、朝夕皿を洗ったり、煮物をしたりして、つまり二人で自炊生活を営んでいたのであった。食後の休みなどには、
種々の
世間談も初まったが、この怪談というものは、
何れの人々も、興味を持つものとみえて、私等は
或晩のこと、
偶々それを初めたのであった。
この男が、まだ
布哇の伯母の
家に、
寄寓していた頃、それは
恰も南北戦争の当時なので、伯母の息子
即ちその男には従兄に当たる青年も、その時自ら軍隊に
加って、義勇兵として戦場に臨んだのであった。その留守中のこと、
或晩
最早家の人も
寝鎮って、夜も大分
更けた頃に、
不図戸外で「お母さん、お母さん、」と呼ぶ従兄の声がするので、伯母もその男も、共に眼を覚して、一緒に玄関まで出て、そこの扉を開けて、外を見ると、従兄は
勿論、
誰の姿も
其処に見えない、不思議とは思ったが、その夜はそれなりに、寝てしまったのである。
翌朝になって、家人一同が、昨夜の出来事を
談して
如何にも奇妙だといっていたが、多分
門違でもあったろうくらいにしてその
儘に過ぎてしまった。やがてそれから月日も
経って、従兄も無事に戦争から、
芽出度凱旋をしたのであった。勇ましい戦争談の末に、伯母が先夜の事を語ると、従兄は
暫時、黙って指を
繰ってなどしていたが、やがてポンと
膝を叩いていうには、「それじゃ、全く私の声だったかもしれない、というのは、その日は
恰度、○○の大戦争があった日なので、私もその時に、この足をやられて
遂に
仆れたのだが、何しろ戦争が激しいので、負傷者などを、構ったりなどしていられないから、
仆れた者は、それなりにして、全軍は前方へ進んで行った、私はその晩一夜、寒い霜の夜に
曝されたなり、病院にも入れられず、足の
疵の痛いので苦悶をしていると、この時まざまざと故郷の事などが、眼の前に浮んで来るので、私は思わず「お母さん、お母さん」と
一口二口叫んだが、それが
丁度その時刻頃であったろう」と、従兄自身も不思議な顔をして語ったので、
傍に居たその男も、
頗る妙に感じたと、その夜その男が
談したが、これ
等も
矢張、テレパシーとでもいうのであろう。