最早九年ばかり以前の事だ、当時私の宅へよく遊びに来た
芝警察署
詰の某氏の
実見談である。その男というのはその時分
丁度四十一二ぐらいで、
中々元気な人だったし、
且つ職務柄、幽霊の話などは
初から「
何んの
無稽な」と
貶した方だった、がしかしその男がこの時ばかりは「
君実際
恐怖かったよ」と顔色を変えて私に
談したくらいだから、当人は余程凄かったものだろう、いや聴いていた私さえその時に思わずゾーッとしたくらいだったから。
咄というのは
斯うだ。何でも当時その男が転居をした家の出来事だ。所は
芝烏森で俗に「
林の屋敷」と呼ばれていた屋敷長屋の
端れの
家だったが、
家内の
間取といい、庭の
趣といい、
一寸気取った家で、
凡て
上方風な少し陰気ではあったが
中々凝った
建方である、
殊に便所は座敷の
傍の細い
濡椽伝いに
母家と離れている様な具合、当人も
頗る気に入ったので
直に
家主の
家へ行って相談してみると、
屋賃も思ったより
安値いから非常に喜んで、
早速其処へ
引移ることにした。
さて家人が
其処へ転居してから一週間ばかりは何の変事も無かった、が
偶然或夜の事
||それは
恰度八月の
中旬のことであったが
||十二時少し過ぎた頃、急にその男が便通を催したので、
枕許の
手燭へ
燈をつけて、例の細い
濡椽を伝って便所へ行った、闇夜の事なので庭の
樹立等もあまりよく見えない、
勿論最早夜も
更け渡っているので
四辺はシーンと静かである、持って来た
手燭は便所の外に置いて、内へ入った、便所の内というのも、例の上方式の前に
円窓があって、それに
簾が
懸っている、
蹲踞んでいながら
寝むいので何を考えるでもなく、うとうととしていると何だか急にゾーッと
悪寒を覚えたので思わず窓の
簾越に庭の方を見るとハット
吃驚した、外の
椽側に置いた
手燭の
燈が暗い庭を
斜に照らしているその
木犀の樹の
傍に
洗晒しの
浴衣を着た一人の老婆が立っていたのだ、顔色は
真蒼で頬は
瘠け、眼は窪み、
白髪交りの髪は乱れているまで
判然見える、だがその男にはついぞ見覚えがなかった、
浴衣の模様もよく見えたが、その時は不思議にも口はきけず、そこそこに出て手も洗わずに
母家の方へ来て寝た、しかし
床へ入っても
中々寝られないが彼はそれまでこんな事はあんまり信じなかったので、
或は近所の
瘋癲老婆が裏木戸からでも庭へ入って来ていたのではないかと思ってそれなりに寝てしまった。翌朝になると
早速裏木戸や
所々と人の入った様な
形跡を尋ねてみたが、
何れも皆固く
閉されていたのでその
迹方もない、彼自ら実は少し薄気味悪くなり出したが、女子供に云うべき事でもないので家人へは
一言も云わずにいた。その
後幸い
一と
月ばかりは何の変事も
起らなかった、がさすがにその当座は夜分便所に行く事だけは出来なかった、そのうち
時日も
経ったし職務上
種々な事があったので、彼はいつしかそんな事も忘れていた、が、またそれは十月の
初旬の頃であった、もう秋の風が肌に寒い頃だったがふと
或晩、彼は
矢張一時頃に便所へ行きたくなったので
手燭をつけて行った、しかしその時は
一切以前の出来事は忘れていた。
同様に
手燭を外に置いて内へ入って
蹲踞んでいながら、思わず前の
円窓を見て、フト一ヶ月ばかり前に見た怪しき老婆を
思出した、さあ気味が悪くなって
堪らないが、うんと度胸を据えて今夜はもし出たら一つよく見届けてやろうと思って
簾から庭の外を見たが、闇に
四隣寂寥として
手燭の弱い
燈に照らされた木立の影が長く地に
印せられて時々桐の葉の落ちる音がサラサラとするばかり、別に何物も見えない。これは
矢張自分の
迷であったかと思って、悠然と
其処を出て、手を洗って
手拭で手を拭きながら、
一寸庭を見ると彼は
呀と驚いた、また立っていたのだ、同じ顔、同じ姿でしかも黙って
此方を向いて今にも自分の方へ来そうなので、もう彼も
堪らなくなったから、急いで
母家へ駆けこんで
床へ入ったが、この晩は、とうとう一晩、
如何しても寝られないので仕方なく
徹夜をした。
一度ならず二度までもあまりといえば不思議なので
翌朝彼は
直に
家主の家へ行った、
家主の
親爺に会って今日まであった事を一部始終
談して、
一躰自分の以前には
如何な人が住んでおったかと訊ねたが、初めの内は
言を左右にして
中々に真相を云わなかったが
終にこう白状した、その
談によると、
何んでもこの
家を建てた人と云うのは某華族へ一生奉公に
上っていた老女だそうだ。この婆さん真実の身内というものがない、その関係もあったろうが、元来が
上方者の
吝嗇家だったから、御殿奉公中からちょびちょび
小金を溜めて大分持っていたそうだ、しかしもう
齢が
齢なので屋敷も
暇を貰って自分は
此処へ一軒
新らしく家を建てたが、
何分にも
老先の短かい身に頼り少いのが心細く、養子を貰ったそうだ。ところが不幸にもその養子になった男が
頗る
放蕩無頼の徒で、今まで老婆が虎の子の様な溜めておいた金を、
何時しか老婆を
騙し
騙し浪費して、
終に
最早すっかり無くなった時分にはとうとう姿を隠して家を逃げてしまった、残された老婆は非常に
怨憤み
落胆して常に「
口惜しい
口惜しい」といっていた。
終にそれがもとで発狂して死んでしまった。もとより親戚
故旧の無い身だから多分区役所の御厄介になった事だろう。彼はこの
談話を聞いて、初めてそれに
異いないと悟った、その老婆の怨霊がまだこの家に残っていて、無関係の彼の眼にも見えたと思った、それで
最早こんな家にはおられないからと
早速また転居をしようと思ったが、彼の職務上もあるし、一つは
後々の人の
為めにもと思ったので、近所の人達を集めて僧侶を
聘し、この老婆のため、その家の庭で、供養をしてやった、何しろこういう風に、人の思いというものは恐ろしいものと、自分も
兼て人から聞いていたが、
面の当り
実見したのは初めてだと
流石のこの男が私に話したのであった。