妖怪とか
変化とか、生霊とか死霊とか
種々な
怪物に
就ては
度々前に話をしたり書いたりしたから改めて申すまでも無かろうから今度は少し変った筋の話をする事にする。
一体怪物と云えば不思議なもので世間にあまり類と真似の無いもののようだが、よく考えてみるとこの世の中にありとあらゆるものは皆
怪物になる、ただ私達の眼が慣れっこになったので
怪物に見えなくなってしまったのに過ぎない。それが証拠には火鉢の中にある火を御覧なさい、これが第一
怪物である、黒くなっているうちは
弄っても熱くないが火になって赤くなれば触ることさえ出来ない、科学者に云わせると分子の運動とか何だとか
理窟を附けるがよく考えれば不思議なもので確かに
怪物である、庭に咲いている菊の花を
嗅いでみるといい
芳香がする、この花がまた
怪物である、云うに云われない菊特有の
香気はどうして出来たものか、これも深く詮索をすれば結局判らない事になってしまう。次に鐘を叩くとカアーンと音がする、その音は影も形もなく
駈るように遠くに響いて行く、人間の
拵えた説明では
到底その理由が満足に判らない、これも確かに
怪物である。
かく
種々怪物の例を挙げて来たが、こう云う我々人間こそ最も大きな
怪物である。悪い事も考えれば善い事も考える、歩きたいと思えば足が動くし、手を揚げようとすれば手が揚がる、生理学者の説明はさることながら
詮ずるに人間は
一向に判らない
大怪物である。この自分が
大怪物である事を悟らずに
種々怪物の事を想像してやれ宙を飛んだり舞ったりするのが
怪物であるの、
怪物に
目方はないなぞと勝手に考える、しかしこれは疑えば
疑が出て来る、
成程地球の引力で物が下に
静としているのだが、もし地球の運転が逆になったら
反って宙を飛ぶのが並のもので下に
静としているのが
怪物になるかも知れない。また
目方にしてもその
通で
此処で十
匁あるものを赤道直下で
量ったらきっと
目方が減る、
更らに太陽や惑星の力を受けない世界に行って
目方を
量るとしたら、
目方はまるで無くなってしまうかも知れない。してみると
目方がなければ
怪物だとは
一寸云い
難くなる。
まあ
怪物に
目方があってもなくっても、そんな事は構わないとして次に
大怪物である我々人間の事を少し考えたい、人間が五官によっている間はまだ悪い
怪物である、世人は科学に中毒してあまりに人間の五官を買い
被り過ぎている。暗いところでは何も見えない、鼠や猫に劣る眼を持って実際正確に事物が見えようか、
盗人の
足痕を犬のように探れない鼻で実際香が嗅げようか、舌にしてもその例に
洩ない、触感も至って不完全なもので、人間はこの五官では
到底正確に事物を知ることが出来るものではないのである。ただ
茲に不思議なのは心である、五官の力を借りないでこの心で事物を知る能力が人間に備っている。
即ち
種々ある手段によって
三摩地の
境涯に入れば自ら五官の力を借りずに事物を正しく知ることが出来る、古来聖人君子の説かれた
教は皆この五官の
迷を捨てよと云う事に他ならないのである。
世の中には
怪物が沢山居る、学問が進んで
怪物の数が
少くなったと云うがそれはいい加減なことで
却って
殖えたかも知れない、我国にも
有形無形の
怪物が
彼方にも
此方にもゴロリゴロリ
転って世の中はまるで
百鬼夜行の姿である。
私は百物語で幽霊があるとか、狐や狸は
化るものであるとか、世の中に
種々ある
怪物の詮索をするのを
止めて
先ず我々人間が一番大きな
怪物で
神変不思議な能力を持っていると
喝破し、多くの人々にどうか悪い
怪物にならないで五官の
迷を捨て修養の道に工夫を凝らし
三摩地の
境に入っていい
怪物におなりなさいと勧め、これで
一向怖く無い
怪物談を
切上げる事にする。