時代はよく解りませんが、僕の
祖父の若い時ですから、七十年ばかり前でしょう。
大隅国加治木に
長念寺という寺がある。
其寺に、
或人が死んで
葬られた。生前の名は忘れました。四十九日
経ってから家族が墓石を建てたんです。その墓石
||高サ約二尺くらいの小さな墓
||に、
仏名が彫ってある、
慥か四字でした。上の字は忘れましたが、「□
本居士」と彫ってあります。
その「本」とい字の下の十の横の
一に
朱が入れてあるのです。今
現にその朱が入っています。
その十の字の一画の、由来因縁になるお話ですが、始め、墓石を建てた時、その「本」と云う字が、石工の誤りで、「木」と云う字になっていたのです。
それを
誰も気が
着かないで、そのまま建ててしまったのですね。
ところが、その墓石を建てた晩に
||死んだ人の親友に、
妙善と云う
僧侶がある、これは別の
天総寺という寺に、住職をしていました
||その天総寺の門前へ来て、「妙善妙善。」と呼ぶ声がする。
その声が
如何にも死んだ人の声に似ている。いつもその天総寺へ遊びに来る
度に、そう云う風にその人は呼んでいたそうです。
で、
如何にもその声が似ているから、妙善は「まあお
入んなさい。」と言ったんですね。そうすると、その人は入って来たんです。白装束のまんま、死んだ時の姿で、そうして
庫裡へ
上って来た。
ちゃんと座敷へ入って、坐蒲団の上へ坐ったそうです。
で、普通の挨拶をしたんですね、何と挨拶をしたか、それは知らないが。
その時、その妙善の
梵妻が、お茶を持って入って来たんです。で、
左に
右夫妻とも
判然見た。
それから、その、
梵妻の持って来たお茶を、その死人が飲み
乾したんです。そして、
「今夜少しお願いがあって来た。」と言ったんです。
「
甚麼事ですか、出来る事なら、何でもやりましょう。」と言うと、「実はその、今日墓石を建てて貰った。ところがその
戒名の字が一字違っている。『本』という字が『木』になっている。しかし
家の
連中は女子供ばかりだから
屹度気が
着かぬに相違ない。お前に頼むから『木』の字を『本』に直してくれ」と云った。
それから、妙善は、
「ええ
那様事なら訳はないです。それじゃ
明朝、
左に
右行って、
検べてみて直しますが、そう云う事は長念寺の
和尚の
処へも行って、
次手にお
談なすったら
可いでしよう。」と言うと、「そうか、それじゃ帰りに
一寸寄って、話して行こう。」と言ったそうです。
その時お寺で
素麪が煮てあったんです。それから、「これは
不味い物ですけれど」ってその
梵妻が持って来たんです。そうしてそれをその
死人の前へ出した。
すると、「これは非常に
旨い。」と言ってその
素麪を食べてしまった。そうして、「
宜しく頼む。」と言って、幽霊は帰って行ってしまった。
後で妙善は、もし幽霊ならば本当に食える筈はない。お茶を飲んで、
素麪を食ったのは
些と怪しい
||と考えた。
で、よくよく座敷の中を
検べてみると、その座敷の
隅々、
四隅の
処に、
素麪とお茶が少しずつ、
雫したように置いてあった。
それで、どうしてもこれは狐や狸の
業ではない。確かに幽霊だろうとその妙善は思ったんです。
それから翌日になりまして、長念寺の
和尚の
処へ、妙善が出掛けて行った。そして、
昨夜その
何某がやって来て、実は
是々こう云う事があったが、お前の方へも来たかと聞いてみたんです。
やっぱり
此方にもちゃんと来ておる。そして、その時刻が、
丁度天総寺の方からこの長念寺に歩いて来るだけの時刻を隔ててやって来ている。そうして、その
和尚にもちゃんと頼んだんだそうです。
それから二人は、「まあ
左に
右行ってみよう」と云って、一緒に墓所へ出掛けて行った。見ると、
果して、墓石の字の、「本」が「木」になっている。
それでその「木」へ
一を彫って、
其処だけ特に
朱を入れたんだそうです。それ
限、幽霊は出ては来なかった。
その話を妙善から、
直接に
祖父が聞いたんです。
或時
祖父が僕を連れて、その墓場へ見せに行った。見ると、ちゃんと
朱が入っている。
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