私は七、八年前より妖怪のことを研究しておりまして、今日のところでは、いまだ十分に研究し尽くしたわけではありませんがその研究中であって、いろいろその事実を収集しております。果たしてこれが何年の後に成功するか分かりませんが、どうぞしてこれだけの事実を集めた上で、一つの学科として研究したいという私の精神であります。このことは、今日この教育社の記念会の席でお話しするのは、少し不適当かと思いましたが、しかし、学術上において研究する上には、教育に最も密接なる関係を有するものでありまするから、今日は、かく教育に熱心なる諸君が御集会の席で、教育の点から、その一斑をお話しいたす考えでござります。(謹聴)
私がこれを研究し始めまして以来、諸方から続々、妖怪事実を御報道にあずかりまして、すでに今日まで集まっておるのが五、六百ないし七、八百に達しておりまして、本箱の中は報道をもって充満しております。これは誠に私の望むところで、図らずもかくのごとく多くの事実が集まったのは、私にとっては誠に幸福と思っておることでござります。が、その報告を調べてみまするというと、私が考えておることと、ある部分においては実によく一致しておりますが、また、ある部分においては、私の考えとどうも合っておらんと思うこともあります。妖怪学のことについては、私が他日これを研究し尽くした後にお話しいたすつもりでありますから、今日までいろいろ人から要求を受けたこともありましたけれども、いまだまとめて話したことはありません。よって、今日も全体について話はいたしませぬけれども、これまでの報告と私の考えたこととが相違しておるところをお話し申して、今後御報道にあずかるについて御注意を願います。
世間にては、妖怪と申すとその字から想像を下して、単におばけか幽霊のようなものに限るごとく考え、あるいは
さて、この偶合論については、これを偶然と必然の二者に解釈をいたしておかねばなりません。偶然とはいかなることかと申すと、わけも道理も分からんが、かくかくのことがある、すなわち理由なくして起こるものを偶然という、道理なくして起こるものを偶然という、原因なくして起こるものを偶然という。必然というのは、ぜひそうなければならんもので、すなわち立派な道理があって起こるもの、立派な原因があって起こるもの、立派な理由があって起こるもの、これを必然という。すべて事の発生するには、必ず必然と偶然の二とおりあります。すなわち立派な道理がない、よしあるとしても、われわれがこれを見いだし得ないときは、しばらくこれを名づけて偶然という。必然は全くこれに反対したものである。私は偶然と必然の間になお一つの名目を設けてこれを
まず、偶合なることを右の三者に分かちまするというと、必然と偶然とは果たして全く相異なるものであるかというと、決してさようではありません。二者ともに関係を有しておるものである。今、いろいろな事実を集めてみまするというと、偶然に属すべきものであるか、はた必然に属すべきものであるか、判然しないものがあります。その場合において、一つの部を設けて、これを蓋然といわなければなりません。しかしながら、この三者はその分界がいたって判然しておりません。そもそも原因あれば必ず結果あり、結果あれば原因ありということは、哲学上および理学上における原則であって、この原則によって諸般のことを説明をなすのが、今日の学問である。ゆえに、もしここにこの原則に反するものがあるといたしたならば、これはそのままにしておいて、学術外のものとして、今日の学術上より、必然の理を離れたものであるとしておかねばならん。すでに今日以前、すべて物は必然の理によって生ずるものであるとなしきたったものなれば、今後いろいろな新事実が現出するも、これは必ず必然の理に基づいて生ずるものであるという想像を起こさねばなりません。今この妖怪のごときも、全くしかるべき理由がなくして現れるもので、果たしてこれは偶然であるべきものか、あるいはその実必然であるか、われわれがいまだその道理を見いだすことができないために、しばらくこれを偶然と名づけておくものであるかというに、私はこれを必然であるとみなして、必然の道理をもって説明するつもりであります。果たしてしからば、妖怪も一つの学科として研究しなければなるまいと思います。これ、今日私が妖怪学を研究する大体の主意であります。
さて、この偶然に事物が相合するということについては、これを仮に偶合もしくは偶中と申します。今この偶合を大別して、空間上の偶合と時間上の偶合の二種といたします。空間上の偶合というのは、ここにあった事柄と遠くにあった事柄が相合することである。たとえば、私が遠国にある人のことを思うと、その思った念が先方へ通ずることをいいます。すなわち、ここに一つの変化があって、同時に他の一つの変化がそれに合することをいうのである。自分の朋友がたしかに国元におるのに、突然目先にその姿が現出して、たちまち消えてしまった。不思議であると思ってたずねてみると、ちょうどその時刻に死亡したというごときは、その一例であります。時間上の偶合というのは、今言ったことが二、三日の後に至って合する、いわゆる予言者のごとき類である。何年の後に
今、まず偶然について、空間上の偶合と時間上の偶合を合して、その種類をお話し申します。前、申し述べましたとおり、今ここにあった事柄と、千里も二千里も遠くにあった事柄が合するということは、極めてめずらしきことであって、通常起こるのは、多く近い所にある。のみならず、ずいぶんこれらは説明ができることであります。まず、通常なにびとにも分かりやすいことから、お話をいたすつもりであります。(謹聴)
世間では、よく翌日の天気を今日予知するということを申します。実に不思議である、分かるわけがない、あるいは分かるかも知れませんが、しかしわれわれの力では到底分かるわけに参りません。しかし、よく世の人が天気を占うということを申しますが、これとても全くなんらの原因もなくして占うのでなく、多少の経験によってこれを知ることができるのでありましょう。たとえば、月が
夢見るは雨と日和 のふたつなり
かわらぬ時に見るはまれなり
鳥の声すみてかるきは日和なり
おもく濁るはあまけとそしれ
今度は少しきたないのですが、かわらぬ時に見るはまれなり
鳥の声すみてかるきは日和なり
おもく濁るはあまけとそしれ
小便のしげきは日和、飲水の
はらに保つを雨と知るへし
蚤 や蚊 の極めてしげく食ふならば
雨のあがりと雨気つくころ
香の火の何より早く立ちぬるは
雨のあがりと雨気つくころ
ね心の悪き夜ならば雨と知れ
偖 ては盗人油断ばしすな
右の歌によって、天気の晴雨を知ることができる。また、俗に寒割ととなえて、寒中の三十日をもって一年にかたどり、それによって年内の天気を知ることができると申します。また、一年中の出来事を知る方法があります。たとえば、雪は豊年の貢ぎととなえて、雪がたくさん降ればその年は豊年である、あるいははらに保つを雨と知るへし
雨のあがりと雨気つくころ
香の火の何より早く立ちぬるは
雨のあがりと雨気つくころ
ね心の悪き夜ならば雨と知れ
これには第一、天文が関係を有しておる。天文と人事が関係を有することは、シナの歴史にたくさん見るところであって、これはいちいち申し上げるわけに参りませんが、『左伝』などを御覧になれば、お分かりになりましょう。私がここに書いて参りましたところを申しますると、『

つぎに今日、多く日本に行われておるものは、人の吉凶禍福を占うことであって、すなわち
かくのごときことは、外国においても往々見るところであります。私がかつて英国の田舎におりましたときに、ちょうど十二月のころであって、ある書店に暦を売却しおるを認め、一本をあがなってこれを見るに、その中に翌年の天気および吉凶禍福を、子細に書き載せてありました。それから、かかる種類のものを集めてみると、たくさんあります。田舎の暦はすべて、かかる事柄のみを記したるものである。しかして、その裏に前年の適中した事実を挙げてあります。これはことごとく適中するわけには参りませんが、十中の七八までは、大抵あたるということである。その中において私は、日本の磐梯山破裂の情況を書いてあるのを見いだしました。その前年度の暦に、日本の方角に当たって大地震が起こるということを書き載せてあったところが、果たして磐梯山が破裂をなしたということが、予言の適中した一証として、暦の裏に書いてありました。それから私が旅宿に帰って、今日かくかくの奇妙なものを求めてきたということを告げますると、旅宿の主人が、「どうぞ、それを日本国へ持ち帰ることはやめて下さい。かかる
それから私はなお、これに類似したものを収集せんがため、その暦の発行所の番地を記し、その後ロンドンに至りその家をたずねましたところが、極めて片隅の場所に小さな本屋がありまして、そこへ入って目録を見たところが、かかることに関係したことのみ、たくさんありました。それゆえに、図らずも多くの材料を得て、これらの書類を買い入れて参りました。
今一つはマジナイの一種であります。これもずいぶんたくさん集めてありますが、今その一、二を挙げてみますると、第一、血止めのマジナイ。これはなんの草でもよろしい、ある草を三品集めて、その草をもって天に向かって合掌し、一首の歌を詠む。すなわち、「朝日が下の三葉草付けると止まる血が止まる」(笑)と言って、この草を取って出血する所に付け、都合三度この歌を詠むと、血が即座に止まると申します。また、他人の所へ行って犬に
また、犬が吠えつくときに、犬伏せと申して、親指を犬と立て、これを伏して
しゃっくりをなおすマジナイは、舌の上に「水」という字を書いて、これをのませます。つぎに、ただ今ではありませんが、その昔よくあったことで、船待ちをしないマジナイというものがあります。それは、一首の歌を詠み、「ゆらのとを渡る船人かぢをたえ行方も知らぬ恋の道かな」といいて唱えます。
つぎに、マジナイの一種で、食い合わせ法というものがあります。例えば、
これらは、ほぼその理由を推考することができまするが、少しく普通人の考えをもって解し難いと思うのは、人の吉凶禍福を
それで、私が諸君に対して妖怪の事実を御報道下さる際に、あわせて知らしていただきたいと思いまするのは、前申しましたごときマジナイ、食い合わせの類、例えば「おこり」のごとき、今日といえども日本の慣習として、到底医師の力に及ばんものとして、これをいろいろマジナイをもって治しておりまするが、そういう事柄について御記憶になっておることがあったならば、その方法等もあわせて御報道を願いたいのであります。その他、つまらんようなことですが、足にマメができたとか、あるいは頭に
右のごとき事実を集めてこれを研究してみると、なるほどと悟るところがあります。しかし、いちいちこれを説明するということは、一朝一夕にでき得べきことではありませんが、まずこれらは、まず偶然と必然の二者に区別することができようと思います。すでにこれを区別し得るならば、偶然と必然なるものは、果たしてはじめよりその区別が存するものであるか、あるいはその区別は元来存しておらないものであろうか、もし果たして区別がないならば、すべてのことが偶然もしくは必然の一方に帰着しなければならん。しかるに、右のごとき事実をあまた集めてみまするというと、その区別が判然と分かりません。中には、はじめは偶然であると思ったものが、だんだん考えてみると必然であることを見いだすことがある。すなわち、偶然の必然たるゆえんは、あるたしかなる理由があり、ある立派なる原因があって起こったものであるということを発見することがあります。しからば、偶然なるものは全くなくして、単に必然のみであるかという疑点が、一つここに起こって参ります。もし、偶然と必然なるものが異なるものであるならば、その間に判然たる区画があるべきはずである。しかるに、その区別が一定しない以上は、同一物の上に二個の区別の存すべき道理がない。必ず、いずれかその一方に帰着しなければなりません。また、偶然といい偶中というものが、十が十ながらことごとく適中すれば実に奇態であるが、よく調査を遂げてみると、その適中するものは極めてまれである。ことに偶中するものといえども、全くなんらの原因もなくしてあたるにはあらずして、多少基づくところがあってしかるわけである。たとい、いかに巧妙なる予言者といえども、少しも事情の見るべきものなくして、よく予言するということはできません。また、人相を見るにしても、一応事情を質問し、もしくはその人の容貌を見て、はじめて分かるのであって、もし他人に代理を命じて自己の身上を占わせようとなしたならば、いかに
今、その事情の二、三を列挙してみますると、例えば、人の死する時刻をはかってみると、夜半以後に多いようである。また、天気の方から言ってみても、今日のごとき曇天もしくは雨天の日に多い。そのわけは、少しく考えをめぐらしたならば、ただちに分かる話である。なぜ、人の死することが天気や時刻に関係を有しておるかと申すと、かかる天気や時刻というものは、病人にとってもっとも不適当なる時刻であり、かつもっとも不愉快なる天気でありて、平素強健なる人といえども、自然気分が悪くなるくらいであるから、まして病み疲れたるものは、なおさら不快を増すに違いない。それで、多く人が死ぬのである。また、世間で
また、かのマジナイのごとき、食い合わせ法のごとき、いずれもそのもの自身が必ず人をなおす力があるのではなくして、そのものが人に信仰力を与えて、その信仰力によって平癒するのであります。また、かの人相見もしくは売卜者が、その人相を見てその吉凶禍福を予知するというごときものも、およそ人の思想と顔色とは関係を有するものであるゆえに、なにか人の意想上に変化を生ずるときは、それがただちに顔色にあらわれる。もっとも、人によって現れる度は違いましょうが、とにかく多少現れるには相違ありません。それゆえに、かの人相見のごときものは、人の顔色を相して、その思想の変化を知るところの観察力に富んでおるものである。すなわち、素人のわれわれが見ては分かりませんけれども、彼らの目をもって見れば、その人の顔を見て、その心のいかんを知ることができるのであります。ゆえに、これらの人が予想すると、たいてい十中の八九は適中するのである。また、世間ではよくめぐり合わせということを申します。すなわち、一つの不幸が重なると、しきりに不幸が続き、また幸いがあると、むやみに幸福がつづきます。これにも多少理由があるのです。あまり不幸が続きますと、ついには妄想を起こして、天罰のなすところにあらざるかと疑わしめ、幸福が打ち続くと、天帝の加護に出ずるものにあらざるかと思わしめ、前者は不安の念を起こし、後者は安心の思いをなすに基づくものである。不安の思いをなして事を処するから、自分は十分に思考をめぐらしたつもりでも、ほかよりこれを見れば、往々その考えが間違っております。ゆえに、いったん不幸をこうむったものは、失敗を重ぬることが多い。これに反して、幸福を受くるものは、心がたしかになる。心がたしかになるから、すべて事物を判断する上についても、その目的、方法をあやまることが少ない。ゆえに、たとい商業をなすにしても、一度利益を得ると引き続いて仕合わせよくなるというのは、
その他、夢の中で見たことが事実起こったり、あるいは気障りがしたと思うとそれがある事実と暗合をなし、あるいは夢中で未来に起こることを見たというごときことは、いまだ私が取り調べ中でござりまするから、いずれ調べ上げた後に、ゆっくり御報道いたしたいと思います。今日は時間がありませんから、それらの点は申し上げません。ただ今申し上げましたごとく、時間上の偶合と空間上の偶合は、学問上研究しなければならんことでありまして、これは果たして必然の理があって起こるもので、全く偶合ではないとしてこれを研究するのは、実に学術の力である。しかし、今日は学術が進歩してきたとは申しながら、その範囲が極めて狭小にして、妖怪のごときは多少心理学において研究しておったけれども、いまだ一科の学問とはなりません。畢竟、学者が多忙にして、実際、手を下すひまもなかったのであります。しかるに、私は心理学を研究する間に、このことを思い出したのでありまして、心理学なるものは今日立派な一科の学問であるが、ひとり妖怪のことに至りては、一般に世人が、ただこれは鬼神の所為である、偶然に出ずるものであるとなし、全くこれを道理の外において顧みるものがないようであるが、果たしてこれは道理の外に存するものであるかどうかということに疑いを起こし、従来道理の外に存しておったものが、漸次学術の進歩に従ってだんだんこれを研究し、今日はすでにこれを道理の中に加えて、一科の学問となりたるもの多々あるをもってこれを見れば、この妖怪のごときもまた、十分に研究を尽くしたならば、必ず一つの学科となすことができるであろうと思います。(喝采)
出典 『教育報知』第二七一号、明治二四(一八九一)年七月四日、二|七頁、尾張捨吉郎速記。