「タッちゃん、なに読んでるの?」
これも読書組の、トシが
「いやよ」
タツは、
「意地わる!」
作業帽の下から、赤ちゃけた頭髪をハミ出さしたトシは、タツをぶつ
九時半の休憩時間は十五分しかなかった。だから読書組の、古雑誌や小説本を読む連中は、ベルが鳴ると、手も顔も洗わないで、いくらか静かな、この工場の中庭へかけ出してきた。
立ちッ通しの、徳利のような大きな足をせいぜいのばして、十五分を出来るだけ有効につかうのだ。
タツは、両手でかくすようにして、その「赤煉瓦」を読んだ。文学的な、タツにはわからない小むずかしいことが書いてあったり、プロレタリアと資本家は敵同士で、おれたちは、血をもってやつらと闘わねばならぬとか、タツは一方で恐怖めいたものを感じながら、それでも自分達の安い賃銀でつくっている煙草が、日本の軍事費の大部分になっていることを説明した記事なぞは、ひどく彼女をひきつけたりした。
「松本さんは、共産党かしらん?」
タツは、
それ以来、松本は「小説」のことや、いろんなことで、タツを誘った。タツも松本たちに何かタメになるグループがあって、彼女も行ってはみたかったが、何となしに怖いような、それにどっか松本の理屈ッぽいところが好きになれなかった。
「ちょッと、学者、この字は『
ノブ子という肥ったのが、芝生を
「行ってみようか?」
そう思うすぐそばから、新聞などで書きたてられている「共産党」というものの、陰惨な、暗いカゲがのしかかってきた。
「ちょっと、来たわよ」
「芝生に入っちゃダメだよ」
「組長」たちは、作業服が少しもよごれていないで、きれいに『化粧』していた。彼女達は作業しないし、みんな
「何、云ってやがんだい、
悪口屋のトシが、組長達が廊下の方へ消えるとすぐ芝生にころがった。蛍とは『尻で光る』という意味だ。
廊下の方では、コンクリの上に、ペッタリ
「ちょいと、また誰か戦争にゆくわよ」
たれかが叫んだので、タツたちもそっちを振り向いた。葉撰工場の入口のとこで、在郷軍人の服を着た男工が、みんなに取り
「あ、『原料運搬』の人だ」
ノブ子が云った。みんなそっちへ近寄っていった。
ソバカスの多い、青い顔した男は四十位に見えた。ダブついた服の肩に、星が二つあった。帽子を
「あんな年寄が戦争にゆくのかね?」
トシが、ノブ子に云った。
「うん、こんどは後備でも何でも、ドシドシゆくんだ」
「あの人は、子供が四人あるンだッてさ」
食堂の湯沸かし婆さんが、眼を赤くしながら、みんなに
「じゃ、皆さん」
出征者は、ガフ、ガフの帽子をまた
「
「
友達でない者たちも、出征者についてゆきながら、廊下の終りのとこで、バンザイ、バンザイと
タツも、じッと見送った。
K
彼女が知ってるのは、
朝は六時五十分に、正門がしまって、七時に仕事にかかって、九時半、正午、三時の休憩があるほかは、いつも機械の前に立ちっとおしだった。
「また『なでしこ』よ、わしゃユーウツだねぇ||」
煙草葉の入った
「ちかごろは下級品一方だね」
『はぎ』『なでしこ』そんなのが多かった。
バサ、バサ······。タツは流しこみ、だった。肥後葉の十一等なんていう
「きッと不景気のせいなんだよ」
隣の六ノ機械の『揃え』で、トシがおせいの方へ云ってた。
「そうかもしんない、あたいんちのおやじも、『はぎ』から『なでしこ』になっちゃったよ」
ガラっ
「どうせ売れないんなら、いい原料つかァいいじゃないかね」
「そうだね、
煙草葉が残ると、年度末には、何日もかかって、焼かれた。そのいくらかを
「羽鳥君」
うしろから、タツの肩をたたいて、『書記』の松本がのぞきこんだ。
「あのゥ、今晩、来られないか?」
黒い工手服を着た、書記の松本は、神経質な大きな眼玉、しゃくれた長い
「············」
タツは、まだ決心つかずにいた。
「あたし、まだ無学だから」
タツは自分でもツマランと思いながら、そんな返事をした。
「そんなことあるもんか、一ノ組から、早川君もいくよ」
「早川って、トリちゃん?」
「そうだ」
松本は、課長席の方へ気を配って、籠札なんぞしらべるふりをした。
「それに、明日は日曜じゃないか」
タツはまだ考えていた。
「アトで、も一度くるから······ね」
そういって、松本は隣の台へいった。小柄な商業学校出の、この若い工手待遇の書記は、みんなから「眼玉の松ちゃん」でとおっていた。
「いってみようか?」
タツはそう思った。||トリちゃんもゆくんだから||。
でも
「だって、トリちゃんちだって、みんな同じだ」
そう思うと、急に元気が出た。お
書記松本のうちは、
トリとタツが、二人でいったときは、六七人の人が
「そんなにかしこまっていないで、こっちに寄っとくれよ、みんな局の人達だ」
松本が一人でとりもった。他の二人の男は、原料運搬で、女三人は、葉撰から二人、医務局の女事務員が一人だった。
「これは、やっと昨夜出来た、第二号だ」
「赤煉瓦」二号は、一号よりもいろんなことが書いてあった。||短い小説だとか、タツ達にもむずかしいような論文や、それから『
「さァ、みなさんで
自己紹介のとき、医務局の事務員だといった女がタツたちの方へ云った。二十四五くらいの、出戻り女、といった、神経質な感じのする女だった。
タツもトリも
「どうだい、遠慮なく
松本がいうと、葉撰部のお
「
松本は頭をかきながら、タツ達の方を向くと、トリが||あたしも······と云って、丸いふくれた
タツは、案外チグ、ハグな、失望した気持だった。様子からして、事務員の太田という女と松本と二人でやってるらしいこの文学雑誌中心の会が、何となくピッタリしなかった。
「や、おそくなりました」
「ぼく、栗原というんです、よろしく」
松本の横に坐ってニコニコした。そしてすぐ
「そこの縁日店をのぞいてたらおそくなっちゃった、もう『金魚』を売ってんだね」
この青年が入ってきたら、いやに『秘密くさい』
「ボクは、専売局で働いたことはないけど、郷里は百姓で『
自己紹介に、そんな余計なことまで云って笑わせた。
松本や太田とは
「昨夜、『
みっちゃんと云われたお
「文学にしてもプロレタリアが研究するのは、こんな形式からじゃない」
と、むずかしいことを云った、がすぐ栗原は云い直した。
「もッとさ、みんなにわかるような······」
「そう、そう」
お
「こんどは不平ランをつくろうじゃないか。たとえば、タンツボ掃除を工女にやらせるな、とか、食堂出入りの『お
タツはびっくりした。この男は、なンて局内のことに明るいんだろうと思った。
「それから、局内じゃ、スポーツは、一工場から一人か二人だけ選抜されて、他の人達は指をくわえてなければならないだろう、あんなのも反対して、みんながスポーツ道具をつかっていいようにしろ、なンていいじゃないかなァ」
「それなら······」
トリが、また
「工場に持ってゆくと、ドシドシ売れちゃうわ」
「そうだ、定価一銭ぐらいでね」
栗原は、松本の煙草を不器用に口へ持っていった。
栗原は、ちょっとも文学青年らしくなかった。松本の神経質にくらべて、まるきりちがっていた。
「羽鳥君たち、芝園の方へゆくんなら、一緒にゆこう」
帰るとき、アトから追っかけるようにして出てきた栗原は、電車に乗るまでも、乗ってからも、
「あの人、いったい何だろう」
トリと二人になったとき、トリがタツに云った。
「そうね、運動してる人かも知れないわ」
タツはそう答えた。そして今晩出かけるまで『左翼の人達』という、ブル新聞や何かを通して知っていた、何となく陰惨な、悲壮な感じがしていたのが、まるきり反対で、不思議な気がした。
タツの云ったことはあたった。栗原は『全協食産労働』のオルグだということを知ったのは『
そして、そのときは彼女も『食産』の組合ニュースや『労新』を読んでいた。ニュースを読んでるものは、タツのほかにトリ、みちちゃん、トシ、ノブ子なぞ五人ばかりだった。
『赤煉瓦』は、立派な工場新聞になってゆきつつあった。葉撰部に十三、砂掃の第一に八、第二に二十一枚、そのほか『原料部』や『
タツは、『赤煉瓦の会』へ、初めていってから
「ちょっとタッちゃん」
三時の休憩後、機械についてると、相棒のおせいがそばへ寄ってきた。おせいも『赤煉瓦』の読者だった。
「あのね」
「でも大丈夫だ、あたいが取りかえしてやったのさ、だけどあいつのことだから······」
ガラっ
「だからね、あたいたちみんなで、服部フクを
おせいのやりそうなことだった。タツもしばらく考えていた。
「どういう風にして······」
「かまわないから七八人で、こッぴどくいじめてオドカすんだよ、相手は『犬』だから、『赤テロ』だ」
おせいは、
おせいがコッソリ、コッソリ仲間を募って歩いていた。タツは、しかし、おせいちゃんだって、あんな風になったんだからと思わずにいられなかった。
三時のベルが鳴ると、おせいもタツも顔や手を洗わずに、コンクリの廊下へウロウロしていた。トシちゃんが
「来たよ、来たよ、フクが······」
真ッ白な作業服のスソをヒラつかせながら、鼻筋を真ッ白に塗った組長が、いそぎ足で来た。いつものように、『職員休憩室』へ、課長や工長
洗面所のワキを二十間ばかりすぎたとこで、一列横隊に、腕を組んだトシちゃんたちが十人ばかりで、いきなりブッつかろうとした。
服部フクは
「何を、何をするんですッ」
最初はおどろきで、口も
「何もクソもあるかッ」
おせいがいきなり作業帽の上から頭髪をつかんでひっぱった。
「山本ふみちゃんを
「須田課長のお
「この
ツネられたり、殴られたりしながら、服部フクは廊下にころんでしまった。ビリケン頭の工長が
その翌々晩、タツ達は、組合分会の会合を、局の近くにあるトシのうちで開いた。
「服部フクは出て来なくなったね」
今晩の会合から、初めて出て来たおせいが云った。
みんな緊張していた。あの事件に関係した十五六人をみんな
「大丈夫だよ、わかっても、せいぜい昇給停止くらいだ」
トシが云った。
「そうなりゃ、そうなったで、昇給停止反対でやるさ」
松本が来た。書記だけに、課長の方の事情がよくわかるので、みんな待っていた。
「大丈夫だ。課長は服部フクとの関係が、いくら何でも、公然となると自分が危いから、女の方に泣寝入りさせたらしい」
「だから、出て来ないのかね?」
トリが云った。
「いや、服部フクだって、あんなにされちゃ出て来られないよ。いくら組長が『犬』だって、ある程度、人望がなくちゃツトまらんさ」
みんな「バンザイ」と叫び出したい気持だった。あの日以来、組長どもが急に
「しかし、要心しなきァいかん、課長も『
「よかったね、松本さんにたのみゃァ、手に入るかもしんないよ」
タツがこの際『組長公選運動』を、ドシドシやろうと云った。局の制度は、軍隊式に、各課長の下に、次席、工長、書記、組長、工手、工手補、
「どうしたの、太田さん?」
いま
「栗原さんがやられたんだって!」
みんな黙ってしまった。
「
「局の西通用門で、『
太田はまだ顔色が青かった。
「こうなれば、度胸据えてやるさ」
トリが云った。誰もかれも、検挙の手がみんなに延びると思わずにいられなかった。
「じゃ、抜かれても、ちゃんとアトが残るように······」
悲壮な覚悟で、分会は終った。タツはいろいろ自分の書物類まで始末した。
それから二日
「ガン張ってるのか知らん?」
トリが、タツの顔をみると、そう云った。
「さァ」タツにも見当つかなかった。二十日も三十日も、いろんな拷問に、
「一人でも多く分会員をつくることよ」
タツは、何よりそれだと考えた。『赤煉瓦』をふやし、いいメンバーをどしどしつくってゆくことが、栗原を奪った白テロに対する
「まぁ」
びっくりしてみると、栗原がニヤニヤ笑って近づいて来た。まるでその顔色は、草の芽が、日蔭でのびたような色だった。
アト戻りして、家ン中へ入れると、栗原は両脚をヒキずるように上へあがった。
「昨夜出て来たよ。いやどうもマイった」そう云って笑う栗原の顔色は、しかし、ちょっともマイったようでなかった。
四十五日間、蒸しかえしで、ガン張ってきた様子を話してから、こう云った。
「タッちゃん、『赤煉瓦』は延びたそうだね、松本にくわしくきいたんだ」
タツはうなずきながら、この強い同志をジッとみていた。
「俺は二度、×されたよ、気を失ったよ、ホラ」
そう云って、栗原はグイと着物をまくって太股をみせた。紫色の斑点が、大きくあくれ上がっていた。
「しかし、まァ、それで『赤煉瓦』が延びたと思やァ、これッぽッち安いもんさ」
タツは、涙がコボレそうだった。二度も×されて、一言も泥を吐かなかった同志、『赤煉瓦』を身をもって守った同志、鉄のような同志······。
「ありがとう」
タツは思わず手をのべて、栗原の手をにぎった。それは若い男女の別を超えた、同志としての握手だった。