一
私は今年四十二才になる。ちょうどこの雑誌の読者諸君からみれば、お父さんぐらいの年頃であるが、今から指折り数えると三十年も以前、いまだに忘れることの出来ないなつかしい友達があった。この話はつくりごとでないから本名で書くが、その少年の名は林茂といった心の
私は五年生ごろから、こんにゃく売りをしていた。学校をあがってから、ときには学校を休んで、近所の屋敷町を売り歩いた。
私は学校が好きだったから、このんで休んだわけではない。こんにゃくを売って、わずかの
こんにゃくは町のこんにゃく屋へいって、私がになえるくらい、いつも五十くらい借りてきた。こんにゃくはこんにゃく芋を
「ホイ、きたか||」
と云って私にニコニコしてくれた。
「きょうはいくつだ、ウン、百くらい持っていって売ってこい」
頭をなでてくれたり、私が計算してわたす売上金のうちから、大きな五厘銅貨を一枚にぎらしてくれることもあった。
五厘銅貨など諸君は知らないかも知れぬが、いまの一銭銅貨よりよっぽど大きかったし、五厘あると学校で書き方につかう半紙が十枚も買えた。私はこんにゃく一つ売って一厘か一厘五毛の利益だったし、五十みんな売っても五六銭にしかならない。
ところが、その五十のこんにゃくはなかなか重い。前と後ろに
||こんにゃはァ、こんにゃはァ、
大きな声でふれながら、いつも町はずれから、大きな屋敷が沢山ある住宅地の方へいった。こんにゃはァ、というのは、こんにゃくだ、こんにゃくだという意味で、大声でふしをつけると、ついそんな風に言葉がツマってしまうのである。
||こんにゃはァ、こんにゃはァ、
腰で調子をとって、天秤棒をギシギシ言わせながら、一度ふれては十間くらいあるく。それからまた、こんにゃはァ、と怒鳴るのだが、そんなとき、どっかから、
「||こんにゃくやさーん」
と、呼ぶ声がきこえたときの
五つか六つ売れると、水もそれだけ減らしていいから、ウンと荷が軽くなる。気持もはずんでくる。ガンばってみんな売ってゆこうという気になる。
「こんちはァ、こんにゃく屋ですが、御用はありませんか」
一二度買ってくれた家はおぼえておいて、台所へいってたずねたりする。
しかし売れないときは、いつまで
ねえ読者諸君! はたで眺めるぶんには、仕事も気楽に見えるが、実際自分でやるとなると、たかがこんにゃく売りくらいでも、なかなか骨が折れるものだ。
||こんにゃはァ、こんにゃはァ、
ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところで、ふしをつけて平気で怒鳴れるようになるまでには、どんなに
私だってまだ少年だから恥ずかしい。はじめのうちは、往来のあとさきを見廻して、だれもいないのを見とどけてから、こんにゃはァ、と小さい声で、そッと
それからだんだん、ふれ声も平気で言えるようになり、天秤棒の重みで一度は赤く皮のむけた肩も、いつかタコみたいになって痛くなくなり、いつもこんにゃくを買ってくれる家の奥さんや女中さんとも
それは往来で、同級生にぶっつかることだった。天秤棒をキシませながら、ふれ声をあげて、フト屋敷の角をまがると、私と同じ学帽をかぶった同級生たちが四五人、
「あッ、徳永だ||」
と、だれかが叫ぶ。するとまた、
「ホントだ、あいつこんにゃく屋なんだネ」
と、違った声がいう。私は勇気がくじけて、みんなまできいてることが出来ない。こんにゃくを売ることも忘れて、ドンドンいまきた道をあと戻りして逃げてしまう。
こんなとき、私が、
「ああおれはこんにゃく屋だよ。それがどうしたんだい」
と言えればよかった。そしたら意地悪共も黙ってしまったにちがいない。ところが
そんな風だから、学校へいってもひとりでこっそりと運動場の隅っこで遊んでいたし、友達もすくなかった。学問は好きだったから出来る方の組で、副級長などもやったことがあるが、何しろ欠席が多かったから、十分には勤まらない。先生はどの先生も私を可愛がってくれたし、欠席がつづくと私の家へ訪ねてきてくれたりした。しかし私には同級生の意地悪共が怖い。意地悪ではない同級生たちさえ意地悪に見えてきて、学問と先生を除けば、みんな怖かった。
ところが、あるときこんなことがあった。
もうすぐ夏になる頃の、天気のいい日曜日だった。私は朝からこんにゃく桶をかついで、いつものように屋敷の多い住宅地を売ってあるいていたが、あるお
そのお邸は石垣のうえにある高台の家で、十ばかりの石段をのぼらねばならぬ。石段をのぼると大きな黒い門があって、砂利をしいた道が玄関へつづいている。左の方はひろい
「今日は、こんにゃく屋でございます······」
私はそう言いたいのだが、うまく声が出ない。こいつが眼をさましたらどうしよう? しかし黙っていては女中さんは出てこぬし、こんにゃくは売れない。私は勇気をだして、犬の顔ばっかり見ながら、ふるえる声で||こんにちは||と言った。すると、果して大きな犬はすぐ眼をさました。ブルドックだか土佐犬だか、耳が小さく
「||こんにゃく屋でございます」
もうそのときは、叫ぶように、犬にむかって言った。怪しいもんではない、ということを知ってもらいたいために叫んだ。しかし犬にはわからなかった。う、う、と
「あら奥様、奥様、大変ですよう||」
そのときになって勝手口からとびだしてきた女中さんが、苦もなく犬の首輪をつかんで引き離しながら、奥の方へむかって叫んでいるのであった。
「こんにゃく屋がお菜園をメチャメチャにしてしまいましたわ」
私もそれで気がついた。幸いこんにゃく桶は水がこぼれただけだったが、私の尻餅ついたところや、桶のぶっつかったところは、ちょうど紫色の花をつけたばかりの
「なにさ、おやおや||」
玄関の
「まあ、大変なことをしてくれたネ。こんにゃく屋さん、これはうちの旦那さまが丹精していらッしゃるお菜園だよ、ホンとにまァ」
奥さんは、私の足もとから
「どうもすみません」
お辞儀しながら、私は犬の方を見た。しかし犬はもうけろりとして、女中さんの
「犬が怖かったもんですから」
そういうと、女中さんが、
「お前が逃げるからだよ、逃げなきゃ跳びつきなんかしやしない、ねえクマ、そうでしょ」
犬の頭を
「三本、五本と、ああ、これも折れてる||」
奥さんは菜園のなかを、こごんで折れてしまった茄子をかぞえてあるきながら、
「ほんとに九本も、折っちまったじゃないか、
「···············」
私は何度も「すみません」とお辞儀したが、それより他に言葉もめっからないので、しまいには黙って頭を
「すむもすまんもありゃしないよ。こんにゃくなんか
私は着物についた泥土をはらって、もう一度お辞儀した。すると、そのとき奥さんや女中さんのうしろで、並んでみていた子供のうちから誰れかが出てきて、
「オイ、徳永くん」
と
「
と云ってお辞儀した。林は口数の少ない子だから、それだけしか言わなかったが、それはあきらかに、私のために
それで、こんどはいくらかおどろいたような奥さんの声が
「おや、この子、茂さんのお友達?」
私は林が何と答えてくれるだろうと思った。また犬の頭をなでている女中さんも、うしろにたってみている子供たちも、一緒に林の顔を見ていた。
「ええ」
すると林は、それだけだが、非常にはっきりと、顔をあげて言ったのだった。私はその瞬間、一ぺんに
二
林は五年生のとき、私たちの学校へ入ってきた子だった。ハワイで生れてハワイの小学校にあがっていたが、日本に帰って勉強するために、お祖母さんと、妹と三人で、私が犬に
クラスのうちで一番
林と私はそれまで一緒に遊んだりしたことはなかったが、いつもニコニコしている子だから嫌いではなかった。力の強い子で、朝、教室の前で同級生たちを整列させているとき、級長の号令をきかないで乱暴する子があると、黙って首ッ玉と腕をつかんでひっぱってくる。そんなときもやはりわらっていた。
林が私のために、
ときどきは、私と一緒にこんにゃく売りについてくることもあった。そして、
「よし、こんどはおれにかつがせろよ」
と言って、代ってこんにゃく
しかし林が一緒にこんにゃく売りについてきてくれるので、どんなに私は肩身がひろくなったろう。第一に林はこんにゃく売りを軽蔑するどころか、
「ハワイって、外国かい?」
一緒に歩きながら、私達はよくハワイの話をした。林のお父さんも、お母さんもまだそこで大きな商店をやってるということだった。
「アメリカさ、太平洋の真ン中にあるよ」
フーン、と私は返辞する。地図で習ったことを思いだすが、太平洋がどれくらい広くて、ハワイという島がどれくらい大きいのか想像つかないからだった。
「どうして日本に戻ってきたの?」
「日本語を勉強するためにさ」
「ヘェ、じゃハワイでは何語を教わっていたんだい」
「英語さ」
私はますますおどろいた。
「じゃ、英語よめるんだネ」
「ああ、話すことだってできるよ」
私はとても不思議な気がして、林の顔を穴があくほどみた。そしてこの子が何でもない顔をしているんで、いよいよ不思議だった。
しかし林が英語が上手なのは真実だった。六年のとき、私達の学校を代表して、私と林は「郡連合小学児童学芸大会」にでたことがある。郡の小学校が何十か集って、代表児童たちが得意の
読者諸君も、中学へあがられると、たぶん教わると思うが、ナショナルリーダーの三に「マンキィ、ブリッジ」(猿の橋)という課がある。手の長い
学芸大会では拍手
あるとき林の家へいって遊んでると、林が大きな写真帳をもってきて、私にみせたことがある。それはハワイの写真で、汽船が沢山ならんでいる海の景色や、白い洋服を着てヘルメット帽をかぶった紳士やがあった。その紳士は林のお父さんで、紳士のたっているうしろの西洋建物の、英語の看板のかかった商店が、林の生れたハワイの家だということであった。
「ぼくが生れないずッとまえ、お父さんもお母さんも、労働者だったんだよ」
林はそう言って、また写真帳の他のところをめくってみせた。そこには、洋服は洋服だが、
「とても働いたんだネ、働いて金持になって、今のお店を作ったんだ」
「フーム」
「いまお父さんは市の収入役してるよ、アメリカ人でも、フランス人でもお父さんのところへ相談にくるんだよ」
「フーム」
私は写真帳を見ながら、すっかり感心してしまった。そして林が
働いてえらい人間にならねばならない。日本ばかりでなく、外国へいってもえらい人間にならねばならないと思った。
それからはこんにゃく
小学校を卒業してから、林は町の中学校へあがり、私は工場の小僧になったから、しぜんと別れてしまったが、林のなつかしい、あの私が
その後、私はねっしんに勉強して小説家になった。林茂君もたっしゃでいれば、どっかできっとえらい人間になっていてくれるだろう。いま一度逢って、あのときのお礼を言いたいものだ。