一
「じゃとっさん、夕方になったら馬ハミ(糧)だけこさいといてくんなさろ、無理しておきたらいかんけんが」
出がけに嫁が、
「ああよし、よし······」
善ニョムさんは、そう寝床のなかで返事しながらうれしかった。いい嫁だ。孝行な
しかし、善ニョムさんは寝床の中で、もう三日くらした。年のせいか左脚のリュウマチが、この二月の寒気で痛んでしようがなかった。
「温泉にやりちゃあけんと、そりゃ出来ねえで、ウンと寝て
息子は金がないのを
寝ていると、眼は益々
「ナアとっさん、麦がとれたら山の湯につれてってやるけん、おとなしゅう我慢していてくんなさろ······」
しかし、善ニョムさんは、リュウマチの痛みが少し薄らいだそれよりもよっぽど尻骨の痛みがつよくなると、我慢にも寝ていられなくなった。善ニョムさんは今朝まだ息子達が寝ているうちから思案していた。||明日息子達が川端
二
畑も田圃も、麦はいまが二番肥料で、忙しい筈だった。||
「もう嫁達は、川端田圃へゆきついた
「これでよし、よし······」
野良着をつけると、善ニョムさんの
「三国一の花婿もろうてナ||ヨウ」
スウスウと
「ウム、
善ニョムさんは感心して、肥料小屋に整然と長方形に盛りあげられた肥料を見た。馬糞と、藁の腐ったのと、人糞を枯らしたのを、ジックリと揉み合して調配したのが、いい加減の臭気となって、善ニョムさんの鼻孔をくすぐった。
善ニョムさんは、片手を伸すと、一握りの肥料を
「いい出来だ、これでお天気さえよきゃあ豊年だぞい」
善ニョムさんは、幸福だった。馬小屋の横から
「ドッコイショ||と」
天秤の下に肩を入れたが、三四日も寝ていたせいか、フラフラして腰がきれなかった。
「くそッ」
踏んばって二度目に腰を切ると、天秤がギシリ||としなって、やがて善ニョムさんは腰で調子をとりながら、家の土橋を渡って野良へ出た。
三
榛の木畑は、榛の木
土堤の尽きるはるか向うに、桜に囲まれた山荘庵という丘があった。この見はるかす何十町という田圃や畑の地主は、その山荘庵の丘の上の屋敷に住んでいる大野という人であった。
善ニョムさん達は、この「大野さん」を成り上り者と
「ヨッチ||ヨッチ」
土堤下から畑のくろに沿うて善ニョムさんは、ヨロつく足を踏みしめ上ってくると、やがて麦畑の隅へ、ドサリと
「お、伸びた、伸びた」
善ニョムさんは、ハッ、ハッ息を切らしながら、天秤棒の上に腰を下ろすと、何よりもさきに青黒い麦の芽に眼を配った。
黒くて柔らかい
「こらァ、豪気だぞい」
善ニョムさんは、充分に肥料のきいた麦の芽を見て満足だった。腰から煙草入れをとり出すと一服
「なァ、いまもっといい肥料をやるぞい||」
やがて善ニョムさんは、ソロソロ立ち上ると、
「ナァ、ホイキタホイ、ことしゃあ豊年、三つ蔵たてて、ホイキタホイ······」
一握り二株半||おかみの
「ドッコイショーと」
二タうね撒いて、腰を延ばした善ニョムさんは、首をグッと
「おや、また
フト目に入った山荘庵の丘の上に、赤い瓦の屋根が見えた。
「また
四
そう
「金の大黒すえてやろ、ホイキタホイ」
麦の芽は、新しく撒かれる肥料の下で、首を振り、顔を
善ニョムさんは、老人のわりに不信心家だが、作物に対しては誰よりも熱心な信心家だった。雲が破けて、陽光が畑いちめんに落ちると、麦の芽は輝き躍って、善ニョムさんの
それだから、ちょうどそのとき、一匹の大きなセッター種の
「チロルや、チロル、チロルってば······」
くさりを切らした洋装の娘が断髪を風に吹きなびかして、その犬のあとを追いかけて同じく榛の木の土堤上に現われたのも善ニョムさんは、わからなかった。
赤白マダラの犬は、主人の
そんとき、善ニョムさんは、気がついてびっくりした。
「こ、こん畜生め!」
いきなり、しゃがんで
「ち、ちきしょうめ!」
しかし、犬は素早く畑を飛び出すと、畑のくろをめぐって、下の畑へ飛び下りた。そしてこれも顔を赤くホテらした断髪の娘は、土堤から畑の中へ飛び下りると、
「チロルや、チロルや」
五
善ニョムさんは、もう
「ど、どちきしょめ!」
断髪の娘は、不意に、天秤棒でお
「いたいッ」
娘は、金切声で叫びながら、断髪頭を振り向けて、善ニョムさんを
「ど、どうしてくれる、この麦を!」
善ニョムさんは、その断髪娘が、誰であるかを見極めるほどの思慮を失っていた。「||さぁこん畜生、立たねえか、そらおめえの
善ニョムさんは、また天秤棒を振りあげたが、図々しく、断髪娘はお
「いたい、いたいッ」
十六七の断髪娘は、立派な洋服を、惜し気なく、泥まみれにしながら、泣き
「誰か来てよう||、この百姓をつかまえてちょうだいよう||」
善ニョムさんも、ブルブルにふるえているほど
その夕方、善ニョムさんは、息子達夫婦よりも、さきに帰って何喰わぬ顔して寝ていた。
夜になって、息子が山荘庵の地主から
「とっさん、おめえ大変なこと仕出かしたなァ」
息子は
六
善ニョムさんが
しかし、善ニョムさんはケロリとしていた。
「だけんど、おめえあの娘ッ子が······」
「だけんどじゃねえや、とっさん」
息子は、負けずぎらいな
「相手が地主の一人娘じゃねえか」
息子は、分別深く話した。
「地主はスッカリ
「で、もとどおりになったかいな」
「ウウン、そうはいかねえ、謝りのしるしに榛の木畑をあのままそっくり取上げるちゅうこって、やっとおさめてきた」
「榛の木畑を?」
善ニョムさんは、びっくりして頭をあげた。
「仕様がないじゃないか、とっさん」
息子はおさえつけるようにそう云った。
「いやだ、
善ニョムさんは、子供のように頭をふりながら、向うを向いてしまった。
「そんな駄々ッ子見てえなこと云うんじゃねえ、とっさん」
しかし、善ニョムさんは、頭を振って云いつづけた。||いやだ、いやだ、俺ァいやだ||。
善ニョムさんは、泣声になって
「いやだ、俺ァ······、あの麦に指一本でもさわってみろ、こんだァあの娘ッ子を、あいつが麦を踏みちぎったように、あの断髪頭をたたき