冒頭から自分のことを云ひだして恐縮であるが、拙作のなかで先づ/\そこばくの評判を克ち得たものは「寄席」と「円朝」とだらうが、近世話術文化の花であり、最高峰だつた三遊亭円朝は、落語家のなかでの温泉好きで、その著作中、温泉に取材したものには「
穴に入 る仕度 か蛇の這廻 り
明治九年八月末のことだからいまはその温泉の辺り、絶好なアベックのハイキングコースともなつてゐよう。
温泉と云へばかの明治の才人、
温泉で芸者をあげて遊ばうとして、円生が、
「年下の芸者はいくつ位だ」
と宿の女中に訊くと、
「四十ぐらゐです」
と云はれて愕くところが面白い。
年下が四十くらゐなら、年上は六、七十かと円生大いに愕くのであるが、なんの年下ではなく、此は伊香保の方言で「年した」即ち年をした、年を
わかい
同じく明治の文人で、根岸派の老匠
話術、漸く円熟の域に入つた当代の六代目、円生君も、しば/\往年の麗人
私のつたない小説「寄席」の中に主人公の
ところが訪ねて行くとこの土地では落語はダメだから講談をやれと云はれる。
本人も当惑したが、苦し紛れ、でたらめに人情ばなしを講談らしく仕立て直してお茶を濁さうと、とりあへず温泉へ汗をながしに行くと、四、五人のお客がゐてみなパリ/\の江戸つ子。
しかも、此がなか/\の講談通で、当代講談界の名人上手を月旦して、一々、その芸評がまた
すつかりビックリしてしまつた今松は、今夜、自分を聴くお客の中にこんな大講談ファンがゐてはとてもいけないと恐る/\まかりでて正体を現し、落語家が誤魔化してやる講談ゆゑ「定めしお聴きにくからうが、あなた方にアクビなんかされた日にはそれこそお
と折入つてたのみ込んだ。
義に強いは江戸つ子の常、万事、心得たとこの旦那たち、胸を叩いて引受けて呉れた上、
「今夜は何を演るつもりだね師匠」
と訊ねた。
で、
「
とオド/\今松が答へて引下がり、その晩、その温泉旅館の仮設の高座へ上がると、一ばん前にそのお客たちがゐて大喝采を浴びせて呉れたのち、
「先生、文七元結をたのむよ」
わざとひとりがかう云ふと、
「ウムこの先生の文七は
また別のひとりが
落語家にとつて、かう客に先入観を与へて呉れるほど、喋りいいことはない。
今松、大いに感謝しながら長講熱演、するとまたその客が、
「オイ先生、じつによかつた、此は御祝儀だぜ」
とそのころは誰もがザラに懐中してゐた日本紙にお
云ふまでもなく、チップ。此に釣込まれて、甲も投げる。乙も投げる、丙も、丁も。かくて今松は、その晩、予想以上の多大の収入にありつけた。
此も偏に、あの講談通のお客の
嬉し欣んで最後に、神棚へ上げておいた紙包を下ろしてソーッと開けて見たら、なんと中には一銭も入つてゐずたゞ紙包みだけだつたと云ふ。
心憎いまで、およそ意気なお客のこのやり方、昔の東京人士で温泉の一つへもつからうと云ふ手合は、みなかうしたリファインされた市井文化人だつたのだ。
この話、私の創作ではなく正しく実話で、このあと、ほんたうの講談師がまん前の温泉旅館へ出演、つひに相方が一堂に会して
時、明治三十三年八月十一日、前述した巨匠円朝逝いて、東海道を巡業中の円遊、むらく、
当代の古今亭志ん生君は、戦時中、独演会で小著「寄席」のこの一節を演じ、
「御難をして熱海の贔屓を頼つていく一節など如何にも実感があつて志ん生の自叙伝を聴く思ひがあつた」
と当時安藤鶴夫君から東京新聞紙上で激賞され、今夏、大岡龍男君と三人、座談会の砌りにも安藤君は未だこの出来栄をおぼえてゐられて、
「放送演芸会で志ん生に『
としみ/″\云はれた。
訛りはあつたが、節廻しに些か哀調のあつた音曲師の
「じつにすばらしい温泉ですね、此だけのお湯を涌かすのには、余つ程
と云つて笑はれたのは、落語界でも有名な一つばなし。
人気はなかつたが、江戸前の滑稽で、「のざらし」は柳好、柳枝より上位だつた柳亭燕路は、北国の某温泉へ巡業したとき、土地の芸者に見染められ、深更、酔払つてその芸者が宿の彼を呼出しに来たら、応待にでた一座のマネージャーが、
「かへれ/\、この一座には、貴様たち田舎芸者に買はれるやうなケチな芸人はひとりだつてゐないんだぞ」
と追返してしまつた。
翌朝、此を本人の燕路が知つて、いや、残念がるまいことか、胸中
「
じつにどうも癪に障るが、その晩の芦洲の口演を、ヂッと楽屋で聴いてゐると、その描写の巧さ、義賊も侠客も
「ジツニウマイ。ワタシ、コノヒト、給金イリマセン。温泉、オ酒、ソレデ沢山」
と絶讃したと云ふ。
私が未熟な落語家時代、一と夏、湯河原温泉へ興行にでかけた。
一座は、いまの円太郎、小せん、小半次と云つた名題の愚連隊揃ひ、川柳点に所謂「片棒をかつぐゆうべの
その上、円太郎がシャー/\滝壺へ、酔余の放尿をした。
ところがやゝ経つて、ヒョイと不動の滝を見るとおどろいた、いまゝで清洌、玉のやうだつた滝の水が、忽ち無気味に赤ちやけた濁水と化してゐる。
何しろ不動祠畔の蟇へ石を投付けたその上に、そこの滝壺へ小便をしたと云ふのだから、神罰、
一同、麦酒の酔も醒果てゝ、やゝ暫くは呆々然としてゐたが、そのうち
「ねえさん······あの······この滝の水······どうして······こんなに色が変つて······」
と茶屋の娘に訊ねたら、とたんに娘の答がいい。
「この滝、いま上の方で工事をしてるもンで、とき/″\赤土がながれて来て色が変るんです」
長田幹彦出世作たる「旅役者」は、作者も亦旅役者の群れへ入つての体験と云ふが、私もこの湯河原の興行では、借りて来た馬車で太鼓を叩き/\町廻り、私自身、車上からビラを撒いた。
こんなことが後年、芸人物をかくのに、いか許りいい勉強となつたか、おもへばいまや廿年の昔。