緑雨が小説改良会設立案といふのを提げて、初めて私のとこへ来たのは明治十八年の秋頃であつたらうから、彼れとの交際は二葉亭とよりも古く、竹のや(饗庭篁村)とよりも少し早い。不知菴の来訪は、明確には記えてゐないが、二葉亭よりも晩かつたから、早くも明治廿年以後であつたらう。
二人とも、大久保へ移つてからは、多い時は月に四五度、少くも二回は欠かさない常得意で、来れば短くて小半日、長い時は日曜の午前に来て夕食間際までゐて帰つて行くのが例であつた。魯菴の其頃の話題は、主として西鶴の作の評、芭蕉論、内外の文学論、とりわけロシャ小説の礼讃、二葉亭の噂、紅、露の比較、硯友社のわる口、文壇一般のアラさがし、時としては二葉亭との談論の二番煎じかと思ふやうな社会政策の断片。後には座談の名人とも言はれた彼れ、其時分から一かどの

晩年には、頭も滑ツこく禿げ、口前も如才なくなり、目にも愛嬌が出来、福徳円満の好々爺とも見られたが、明治卅何年ごろまでは、其筆に現れてゐた通りの皮肉味が彼れの眉間に漂つてゐた。で、彼れに嘲罵されて憤懣してゐた硯友社其他の作家連が、彼れと相知るに及んで、ます/\彼れを毛虫扱ひにして、其訪問を忌避したのも一理ある。
因みにいふ、明治廿五六年のころだと憶ふ、不知菴と戸川残花とに勧められて、三人連れ立つて、数寄屋橋河岸(?)の或人相見を訪ねたことがある。其頃大ぶ評判になつてゐた人相見だとか聞いたが、往つて見ると、当人は二階の六畳に小机を前に陣取つてゐたが、年齢は三十五六、どこにどういふ特色も見えない男であつた。三人ともわざと袴を穿かず、けれども学者と見えたり、文士と見えたりしてはまづいといふので、縞の羽織か何かの着流しで、先づは商人めかして出掛けたものだ。真先に見て貰つたのが紹介役の不知菴。検断に曰く「あなたは剣難の相がある。御用心なさい、云々。」例の冷笑を目に湛へて内田が引退る。二番目は私だ。やゝ暫く検按してゐたが、曰く「あなたは非常に疑ひ深い人だ。しかし慥かに大勢の人の
若干の謝儀を置いて、三人とも外へ出ると、相顧みて、人相見のナンセンスを一笑に附したものゝ、不知菴の剣難云々だけは万更の間違ひでもないやうに、其当時、私は感じたものだ。黒子云々は如何にも唐突で、冷かな内田はもとより、私も只鼻で笑つて聞き流したのみであつたが、それにしても、やつ、残花に対して、なぜあんな事をいつたのかゞ不審であり、又残花が帰つてから[#「帰つてから」は底本では「帰ってから」]、われ/\同様、聞き流しにしてしまつたらうかどうかゞ、余計な事だが、今以て少々気懸りである。黒子はたしか二つと言つた。
毛虫扱ひにされたのは緑雨も同じだといへる。彼れも不知菴に劣らず作家訪問をしたやうである。冷静と皮肉味と沈著と話し声の低かつた事とだけは、二人の間に共通性があつたが、同じく諷刺家であり、嘲罵家であり、批評家であり、江戸生れであつたにも拘らず、性格は大ぶ違つてゐた。彼れの歿した当時、次ぎのやうに私は評した。(原文に君とあるのを今は彼れと改めて引抄する。)
「為人 は、決して彼れの書いた嘲罵文などのみを読んで、軽率に想像してゐる人々が思ふやうではなかつた。本来は至極内気な、義理がたい、臆病といつてよいほどに用心深く、気の小さい、併しながら頗る見識高い、折々は人に憎まれるほど高慢のほのめく、親分や兄分になることを好く、狷介な、選り好みの何に附けてもむづかしい、さりとて面と向つては、至つて口数の寡い、優しい、おとなしい、ひよろ/\と痩せた、色の白い、目元に愛嬌のある、白い歯をチラと出して、冷かに笑ふ口元に忘れられぬ特質のある、先づは上品な下町式の若旦那であつた。
いや、はじめて会つた明治十八年前後の彼れは、若旦那といふよりも寧ろお嬢さんとも評すべき一種のハニカミ癖の持主で、ハンケチで始終口元を掩ひつゝ、伏し目勝ちに物いふのがきまりであつた。(花柳界では、「ハンケチさん」の異名で通つてゐたことを後に知つた。)正直正太夫と名宣つてからは、其筆と共に態度も様子も変り、新進の作者らには怖れられ、古参連には憎がられもしたが、そのシニシズムは、どちらかといふと、文学界だけの事で、本来の理想は江戸式通人のそれに似たものであつたらしく、常識の豊かな、唯物主義の、楽観家であつた。不遇や貧困と闘ひつゞけた割にはわるくひねくれず、高慢であつたゞけに卑屈や軽薄の弊はなく、どことなく懐かしみのある、さすがに持つて生れた純真味を形なしにしてはしまはなかつた男であつた。敬意を表して近附く後進者に対しては、兄分らしく、先輩らしく深切であつた。今とは違ひ、何事も東京中心の時代であつて、文壇には江戸文芸の余威 が尚ほ熾んであつたのだから、都会風俗通であつた彼れは地方出の新進者に怖れられもし、敬せられもしたのである。」
いや、はじめて会つた明治十八年前後の彼れは、若旦那といふよりも寧ろお嬢さんとも評すべき一種のハニカミ癖の持主で、ハンケチで始終口元を掩ひつゝ、伏し目勝ちに物いふのがきまりであつた。(花柳界では、「ハンケチさん」の異名で通つてゐたことを後に知つた。)正直正太夫と名宣つてからは、其筆と共に態度も様子も変り、新進の作者らには怖れられ、古参連には憎がられもしたが、そのシニシズムは、どちらかといふと、文学界だけの事で、本来の理想は江戸式通人のそれに似たものであつたらしく、常識の豊かな、唯物主義の、楽観家であつた。不遇や貧困と闘ひつゞけた割にはわるくひねくれず、高慢であつたゞけに卑屈や軽薄の弊はなく、どことなく懐かしみのある、さすがに持つて生れた純真味を形なしにしてはしまはなかつた男であつた。敬意を表して近附く後進者に対しては、兄分らしく、先輩らしく深切であつた。今とは違ひ、何事も東京中心の時代であつて、文壇には江戸文芸の
緑雨の作物を読むと、彼れは夙くから一廉の狭斜通であつたらしく想像されるが、身銭を切つて屡々遊ぶ余裕のあつたとも思はれぬ彼れであつたから、それは、主として老通人で、『今日新聞』といふを発行してゐた小西義敬に愛され、其配下に雑報記者となり、花柳遊びのお侶役を兼ねてゐた結果であつたらうと推測される。明治十九年ごろ、私も小西に頼まれて、『今日新聞』へ何か三四回書いて送つたことがあつた。其因縁から、或日或処へ招待された。それは俗に「コックリ様」と称した table-turning が初めてわが国へ持込まれた時なので、さういふ物に真先きに魅惑を感ずるのが狭斜の習ひだから、座興かた/″\其宴席へ例の三脚と円盤とが持出された。と、大小の芸妓らはいふに及ばず、主人役の小西までが騒ぎ立つて、試験を始めた。最初は半信半疑でゐた者までが余り覿面に中るので、気味わるがり、盤へ手を載せるのをいやがる程の謬信ぶり。緑雨が其一人であつたからをかしい。とゞ、無理遣りに手を載せさせられた彼れの方へ、問答の急所々々で、盤が微かな音まで立てゝかしいだので、彼れは殆ど顔の色までも変へた。彼れにはそれほど
心意生理学の知識を外国から伝へたは、多分、東京大学の医学部と文学部が真先きであつたらう。私がカーペンターの Principles of Mental physiology で
前の話は明治十九年ごろの事だが、それより余程後、多分、廿三四年の事かと思ふ、私が『早稲田文学』への寄稿の事か何かで、珍らしくも彼れを其本所緑町の宅へ訪ねた事があつた。と彼れが「是非に」と勧めるから、午前もまだ十時ごろであつたけれど、余儀なく伴はれて柳橋の或旗亭へ往つた。隅田川を向うに見る四畳半の小座敷。主人の彼れは酒を嗜まず、私も余りいけぬ口の上に、午前ではいよ/\下さらない。ほんの三四品を待合式に膳に並べて、楼婢を相手に、何の変哲もない雑談半ばへ「今日は」とも何とも言はず、のつそりと無作法に
文壇の通信係りとしての彼れの面影を伝へるために、左に明治廿七年五月のかと思ふ書簡を掲げる。
「拝啓······衣更着 このかたの御無沙汰、これは毎度のことゆゑ御詫び申す迄も無之と存候、其後珍事も無之候や、春既に往き、夏未だ来らず、世間にてはこれをよい時候と申候、断然筆を捨つべしと思ひ定めても、人は矢張小生を筆持つ男としか扱はず、いまだに定まる業も無之、この塩梅にては迚も世渡りは不相成候、ひまさへあれば横川以東郊外散歩を極め申候、先夜吾妻森へ出かけ候処星の光もかすかなる程の闇とて、路の高低少しも分らず、犬に吠えらるゝこと三四度に及び大辟易、一人の我れに反対する者なしとて、嘗て深夜の散歩を主張致し候ひしも、今回に懲りてお廃止、」
当人は非常の犬嫌ひであつた。当夜のおびえぶりを見るやうだ。
「今度の改革にて免職となりたるお役人の古手と同道、押上の土手をぶらつき、茶見世へ立寄候処、今日は風が吹いて灰が立つから煙草盆はあげませぬ、煙草を吸ふなら煙管を出しなさい、一寸うちへ行つて火をつけて来てあげようといふ、それではお茶といへば、今水をさしたばかり、ぬるいよとて呉れず、茶見世の女にあつてすらも斯くの仕合せ、さて/\と申すばかりの身の上に候、されど斯くまで喰ひ違ひ候はゞ、たとひ世にある人々がこれをヒガミなりと申すまでも、飽くまで喰ひ違ふ方妙ならんと存候、聞けば不知庵もよほど窮し居るよし、されど小生程にはあらざるべし、唯身一つのことなれば、小生は中々身一つとは行かず、色々のもの附いて廻り、今や執達吏の手中に落ちて、来る月曜日は公売処分を受くるなり、筆持つ人々に貧乏は沢山あれど、これは小生が魁けなるべし、月ヶ瀬行の失策、寧ろ失体咄山の如し、「狂言綺語」発行前の内輪もめと一緒になつて、彼の党は四分五裂、お互ひに罵詈し合へり、吉野行の一連は、わざと大阪を避けて無事に帰り来りしよし、これは一厘五毛の割前もキチンと立てる方の人々なれば、其筈なるべし。」
月ヶ瀬行、云々は劇通連の事か? 吉野行、云々は不明。
「南翠老人大阪で大不出来、八方より攻撃せらる、多分昨今は東京に参り居るならん、しかし逃げたのではなく、所用ありてとの事、小桜縅の文壇佳話、一つどころか皆ウソなり、小生が水蔭より文淵のことをたづねられて「結構です、実に結構です、見当の違つて居る段に於て実に結構です」と答へしが、あの通りの佳話と相成り居り、これは/\とばかり、話もウツカリ出来ず、美妙はセツセと脚本を作り居り候由、無論みごとなものと考へ候、しかし公けにせずに仕舞へば猶以て見事に候、浪六茶屋の主人、編笠をかぶり青黛を施し、白博多の帯をしめて茶を汲み居り候ひしとか、此の人来年は富士見楼のお花見に雇はれて、弁慶に扮し、七つ道具を背負つて、牛込警察署へ拘引せられねば本物にあらず、風のたよりまだ/\沢山なれど、又思ひ附き候節可申上、本月に入りて封書をしたゝめ候こと、これがはじめてに候、早々。
十九日
斎藤」
坪内様