登場人物
能因法師
藤原節信
能因の弟子良因
花園少將
少將の奧園生
伏柴 の加賀
陰陽師阿部正親
[#改ページ]能因の弟子
少將の奧
藤原時代。秋のなかば。
洛外の北嵯峨。能因法師の庵 。
藁葺の二重家體にて、正面の上のかたに佛壇あり、その前に經卷をのせたる經机を置く。
佛壇につゞきて棚のやうなものを調 へ、これに歌集または料紙箱 、硯など色々あり、下のかたは壁にてその前に爐を設く。下のかた折曲りて竹の肱掛窓 あり。家體の上のかたは奧の間のこゝろにて出入の襖あり。庭に面せる方は簾をたれたる半窓にて、窓の外には糸瓜 のぶら下りし棚あり。庭の下のかたに低き垣の枝折戸、垣のほとりには秋草咲けり。垣の外には榎の大樹あり。うしろには森、丘、田畑など遠く見ゆ。
洛外の北嵯峨。能因法師の
藁葺の二重家體にて、正面の上のかたに佛壇あり、その前に經卷をのせたる經机を置く。
佛壇につゞきて棚のやうなものを
(主人 の能因法師、四十餘歳、上のかたの窓より首を出してゐる。その顏は日に燬 けて眞黒になつてゐる。弟子の良因は庭に降りて落葉をかいてゐる。鳥の聲きこゆ。)
良因 どうもひどい落葉だな。秋もだん/\に深くなつたとみえて、この頃は一日ごとに落葉が多くなつて來た。おゝ、鳥が頻りに鳴く。(空をみる。)けふは好い天氣だ。野遊びの人も澤山出たであらう。
能因 (窓より聲をかける。)良因。良因。
良因 はい、はい。
能因 好い天氣だな。
良因 朝夕 は北山颪しがそろ/\と身にしみて來ましたが、日のなかはまだ少し暑いくらゐでございます。
能因 秋のゆふ日といふものは、忌 にびり/\と暑いものだ。かうして毎日毎日顏を晒してゐるのも隨分難儀だぞ。察してくれ。
良因 お察し申します。きのふは少し用があつて、京の町までまゐりますと、六條の河原にあなたと同じやうな首が梟 らされて居りましたよ。
能因 六條河原に······獄門か。
良因 丁度そんな首でございました。
能因 馬鹿を云へ。しかし斯うやつて首だけ晒してゐるところは、まつたく獄門だよ。隨分黒くなつたらうな。
良因 好い加減に染まりました。もう些 との御辛抱でございませう。
能因 あき風が大分吹いて來たから、もうそろ/\と『秋風ぞ吹く白河の關』と遣つてもよからう。
良因 いや、まだ些と早うございませう。奧州 からこゝまで歸るには、道中の日數 がなかなかかゝりますからな。
能因 毎日この糸瓜と睨みつくらをしてゐるのも隨分苦しいぞ。あゝ、秋風がもつと吹いてくれ。あき風ぞ吹く白河の關······秋風ぞ吹く白河の關······。どうだ、幾たびも訊くやうだが、おれの顏も好い加減に黒くなつたらうな。
良因 御心配には及びません。さうして根よく天日 に晒しておゐでなさいましたから、染は上染 、眞黒々に染めあがりました。
能因 誰が見ても長の道中をして來たやうにみえるだらうな。
良因 それは大丈夫。請合 でございますよ。およそ世界にそんな眞黒な顏をしてゐるのは、あなたと海坊主のほかはございますまい。はゝゝゝゝゝ。
能因 はゝゝゝゝゝ。
(藤原節信 、三十餘歳、門 に來りてうかゞふ。)
節信 おたのみ申す。
良因 え。(おどろいて窓の下に來る。)もし、お師匠樣。だ、誰かまゐりました。
能因 誰か來た······。(おどろく。)
良因 さあ、早く、早く······。見られては大變でございます。早く、早く······。
能因 いゝか、まだ歸らないと云ふのだぞ。
節信 良因は留守かな。(大きく云ふ。)
良因 はい、はい。唯今まゐります。
(能因はあわてゝ窓から首を引込める。良因は何食はぬ顏で門 に來る。)
良因 はい、はい。どなた······。
節信 良因か。
良因 おゝ、節信樣でございましたか。さあ、こちらへ······。
(節信は内に入りて、縁に腰をかける。良因は氣づかはしさうに窓の方を見かへる。)
節信 おゝ、こゝの庭にも落葉が多い。もう秋になつたな。
良因 はい。それをしきりに待つてゐるのでございますよ。
節信 秋になるのを待つてゐるのか。
良因 え。(口隱 る。)いえ、其。······秋になればお師匠樣も戻られませうかと存じまして······。
節信 能因殿はいつごろ戻られるな。
良因 なにを申すも陸 の奧 、遠い道中でございますから、旅から旅をさまよひ歩いて、いつ戻られるかはつきりとは判りませんが、先づ白河の關に秋風でも吹きましたら······。
節信 (笑ふ。)これ、これ、嘘をつくな。
良因 え、決して嘘は申しません。お師匠樣はまつたく奧州から戻らないのでございます。
(再び窓の方 を見かへる。)
節信 今あの窓から眞黒な首が出てゐたが······。
良因 (おどろく。)え。
節信 あれは誰だ。誰だな。
良因 いえ、それは何かのお見違ひでございませう。おゝ、それ、それ、あなたはあの糸瓜を御覽じたのでございませう。
節信 えゝ、馬鹿なことを······。糸瓜が口をきいて堪るものか。わしが見た眞黒な糸瓜は大きな口をあいて、貴公を相手になにか笑つてゐたぞ。
良因 え。(いよ/\困る。)へえ、その糸瓜が笑つてをりましたか。これは甚だ不思議なことで······。
節信 とぼけるのも好い加減にしてくれ。なるほど、顏は眞黒でよく判らなかつたが、聲を聞いたのが確 な證據だ。
良因 でも、つんぼうの早耳といふことも······。
節信 わしは聾ではない。今こゝで貴公と大きな聲でおしやべりをして、何かげら/\笑つてゐたのは、たしかに能因御坊の聲だ。いや、一體あの男が怪しからんぞ。この節信とは多年睦まじう附合つてゐながら、わしの顏をみて俄に逃げ隱れるなどとは、甚だ面白くない仕打だ。よし、よし、これから奧へ踏み込んで、能因めをこゝへ引摺り出して來るからさう思へ。(行きかゝる。)
良因 もし、もし、飛んでもないことを······。お師匠樣はまつたくお留守で······。
節信 なにを云ふのだ。引込んでゐろ。
(節信は奧へゆかうとするを、良因はあわてゝ遮り、兩人頻りに爭ふうちに、能因は窓から再び首を出す。)
能因 まあ、待つてくれ、待つてくれ。
節信 おゝ、能因か。なぜ隱れてゐる。
能因 それには色々仔細のあることで······。今そこへ行つて話すからお待ちください。(首を引込める。)
節信 それ、みろ。師匠は内にゐるではないか。この嘘つき坊主め。
(節信は扇にて良因を一つ毆 はせる。)
良因 いや、どうも恐れ入りました。
(良因はあたまを抱へて閉口してゐる。奧より能因出づ。)
能因 節信殿、どうも御無沙汰をいたした。
節信 奧州へ旅行と聞いてゐたが、いつの間に戻つて來られた。いやどうも眞黒な顏になられたな。いかに長い旅をしたと云つて隨分ひどく日に燬けたものだ。(能因の顏をみて噴き出す。)これはどうも、はゝゝゝゝ。
能因 そんなに黒くなりましたかな。(自分の顏を撫でる。)これ、良因。貴樣は上染だなどと無暗に煽てたが、ちつと色が濃過ぎたらしいぞ。
良因 ちつと染めあがりが惡うございましたかな。この頃は何分にも秋の日が強 うございますから······。いえ、夏のうちは丁度好い加減の黒さでございましたが、この半月ばかりで急に眞黒になりましたやうで······。
能因 では、もう少し洗ひ落すかな。いや、又あまり洗ひすぎて元の白地になつても困る。なかなか染加減がむづかしいな。(しきりに顏を撫でまはしてゐる。)
節信 小野小町の草紙洗ひではあるまいし、洗へば白くなるの、黒くなるのと、それは一體どう云ふわけでござるな。はゝあ、さては貴公の顏の黒いのは何か墨でも塗つてゐられるのか。
能因 どうして、どうして、墨を塗つて濟むくらゐならば、三月も四月も獄門同樣の苦しい思ひは致さぬのだが······この春から毎日毎日天日に照付けられて、面の皮はひり/\する。いや、並大抵の辛抱ではござらなかつた。
節信 はてな。どうも貴公達の云ふことはよく判らぬ。どうで長い旅をすれば、自然に日にも燬けるものを、なにも好んで無理に黒くするにも及ぶまい。元來があまり白くもない顏を、又その上に黒くしてどうするのでござるな。
能因 それが其、どうも困つたな。もう斯うなつたら致し方がない。實は其、旅といふのは······。
良因 あ、もし、もし······。(云ふなと制する。)
能因 (かんがへる。)いや餘人でない節信殿だ。貴公に限つて、わたくしの祕密を打明けますれば、かならず御他言くださるな。よろしいか。
節信 承知いたした。貴公とわしとの仲だ。八百萬 の神々に誓つて、なにごとも他言は致すまい。さあ、いかなる祕密も御遠慮なく······。(膝をすゝめる。)
能因 これ良因。節信殿は格別、ほかの人に聞かれては大變だぞ。よく表に氣をつけろよ。
良因 はい、はい。(門をみる。)
能因 實を申せば、その奧州の旅といふのは嘘でござる。
節信 え、奧州へ旅立ちすると云つたのは嘘であつたか。なぜ又そんな嘘をいつて······。
能因 叱ツ、叱ツ。(良因に。)これ、これ、表に誰もゐないか。劍呑だぞ。
良因 大丈夫でございます。
節信 はゝあ、判つた。さては貴公。義理の惡い借財でも出來たがために、遠い奧州へ旅行すると詐つて、奧にかくれてゐたのだな。
能因 いや、いや、大晦日まではまだ間もあるのに、決してそんな卑怯なわけでは······。
節信 では······。(考へる。)おゝ、さうだ。人は見掛けによらぬもので、貴公は年甲斐もなく、若い女にでも係り合つて、その始末に困つた揚句が、留守をつかつて奧にかくれて······。いや、呆れた男だ。
能因 いや、いや、そんな洒落れたわけでもない。實は近頃わたくしが歌をよみました。
節信 貴公は名高い歌よみだ。定めて面白い歌であらう。して、その歌は······。
能因 唯今お目にかける。お待ちください。
(能因は棚の箱から色紙を持つてくる。節信はうけ取りて讀む。)
節信 都をば霞と共に出でしかど、あき風ぞ吹く白河の關。むゝ。(感心してゐる。)
能因 どうでせうな。都をば霞と共に出でしかど······。
良因 秋風ぞふく白河の關。(大きく云ふ。)
能因 これ、靜にしろと云ふに······。表に誰も聞いてゐないか。
良因 あ、來ました、來ました。(向うを指さす。)
能因 え。(おどろいて起つ。)ほんたうに來たか。來たか。(奧へ逃げ込まうとする。)
良因 はゝゝゝゝ。
能因 こいつ又かついだな。忌々しい奴だ。(安心して坐る。)ほんたうに冗談は拔きにして、眞面目にそこらを見張つてゐろ。
良因 はゝ、大丈夫でございます。
節信 (色紙を繰返してよむ。)いや、天晴れの秀逸、あき風ぞ吹く白河の關は面白い。今更ではないが、節信もほと/\感心いたした。
能因 さあ、そこでござるて。わたくしも折角それだけの秀逸を浮びながら、唯つまらなく世に出しては、人がそれほどに賞美してもくれまいと存じて、色々に工夫をいたした。
節信 なるほど、成程。して、その工夫は······。
能因 その工夫がなか/\むづかしい。この良因とも相談いたして、色々に肝膽を碎いた揚句が、今度の旅で······。みちのくへ歌枕見にまゐると世間へは立派に披露して、實はこの春から我家の奧に隱れてゐました。(頭をかく。)
節信 では、陸奧ではなくて家の奧に隱れてゐたのか。いや、ずるい男だ。わしもこれには一杯食はされた。はゝゝゝゝゝ。
良因 もし、節信樣。家 のお師匠樣ばかりではございません。室内旅行はこの頃の都の流行物 でございますよ。
能因 そこで好い頃を見はからつて、能因は奧州の旅から歸つたと披露すれば、大勢の人があつまつて來て、きて道中は如何 でござつた。奧州名物の信夫 もぢ摺 、野田の玉川、あさかの沼、鹽釜櫻 御覽 じたかなどと云ふ。こつちは得たり賢しと、勿體らしくこの歌を持ち出して、あき風ぞ吹く白河の關······。いかにも實地を歌つたやうに聞えて、みんなも一入感心いたす。おなじ歌でも斯うして世に出せば十段も價値 があがつて、人の信仰も又格別といふもの。
節信 (呆れる。)これはいよ/\驚いた。風雅の歌人 とみせかけて、貴公も案外の山師だな。
能因 風流專一の歌よみでも、このくらゐの宣傳を致さねば、今の世の中は渡られませんよ。が、こゝに唯一つ困つたのは······。(わが顏を指さす。)色を黒くすることで······。なにしろ都から奧州まで百里二百里の長い道中をしたといふからには、顏も手足もずゐぶん日に燬けてゐる筈。そこで又わたくしは工夫をいたした。表向きは留守と云つて、奧の一間に隱れてゐながら、人の見ない時をうかゞつて、毎日あの窓から首を出して、まるで生きた獄門も同樣、あさ日ゆふ日に晒されてゐました。能因が眞黒な顏のいはれはこの通り······。はて、お笑ひなさるな。當人はそれでも一生懸命でござつたよ。
節信 (ふき出す。)いや、もう何とも御挨拶ができぬ。あゝ、貴公は智慧者、世捨人には惜いものだ。
能因 ちつと智慧をお貸し申さうか。はゝゝゝゝ。
節信 はゝゝゝゝ。
(この時、良因は又もや向うを指さして騷ぐ。)
良因 もし、お師匠樣。來ました、來ました。
能因 え、ほんたうか、ほんたうか。
良因 今度こそは嘘いつはり無し、たしかに二人づれがこつちへ歩いてまゐります。おゝ、それ、それ、ひとりは歌自慢の加賀といふ生意氣な當世女、もう一人は花園の少將殿らしく見えますが······。
節信 あの二人はかねて戀仲だと聞いてゐるから、幸ひ今日は日和もよし、手に手をひかれて秋の野邊を、そゞろ歩きなどしてゐると見えるな。
能因 それはむかうの勝手だが、こゝへ押掛けて來られては甚だ迷惑。(たち上る。)これ、良因。もしも二人がこゝへ來たらば、おれはまだ奧州から戻らぬと云ふのだぞ。いゝか。
良因 それは萬事心得てをります。
能因 こんなものを見つけられては大變だ。
(節信より彼の色紙を取返へし、料紙箱にしまひ込む。)
節信 少將殿がこゝへ參られては會釋などが面倒だ。わしもこれでお暇 といたさう。(庭に降りる。)
能因 あ、ちよいとお待ち下さい。折角おたづね下されたのだから、土産によいものを差上げませう。
(能因は袂より小さき鉋屑を取出し、懷紙にのせて勿體らしく出す。)
節信 (うけ取りて不思議さうにみる。)これは鉋屑のやうだが······蚊いぶしには餘り輕少過ぎる。(摘んでみる。)さりとて飯 の菜にもなるまい。これは一體どうするので······。
能因 節信殿ほどの御人 でも、おそらくは御存じあるまい。それは日本に二つとない珍しいもの。雉子も鳴かずば撃たれまいと歌はれて、むかしから有名の長柄 の橋。
節信 むゝ。
能因 その橋を作つたときの鉋屑で······。
節信 いや、天下一品、これは恐れ入つた。さすがの節信も生れてから初めて見ました。しかしかやうな珍しいものを頂戴しては、こつちでも何か御返禮をいたさねばなるまい。(ふところを探つて舌打をする。)かうと知つたら持參するものを、あいにくに家 へ置き忘れてまゐつた。では、後刻かさねて······。
能因 決して義理堅い御返禮には及びません。
良因 あれ、あれ、もう二人がまゐります。
節信 さうか。さうか。
(節信はあわてゝ門 を出て、向うをみる。)
節信 おゝ、なるほど、來た、來た。今度は嘘ではない。能因殿、早く姿をかくさぬと化 の皮があらはれますぞ。
能因 はい、はい。良因、いゝか。たのんだぞ。留守と云へ、留守といへ。
(能因はあわてゝ奧に逃げ込む。節信は向うへ行きかけしが、更に路をかへて下の方に入る。)
良因 はゝ、節信殿も面白い人だ。長柄の橋の鉋屑にはひどく恐れ入つて歸つたが、あの人のことだから、きつと負けない氣になつて、なにか又不思議な古物 を持つてくるに相違ない。浦島の乘つた龜の甲だとか、八股の大蛇 の尻尾だとか名をつけて、飛んでもないものを擔ぎ込んで來るだらう。なにしろ、家のお師匠樣とは好い取組だ。はゝゝゝゝ。
(良因は再び庭を掃く。向うより花園少將、二十餘歳。院の女房加賀、廿歳ぐらゐにて、手に野菊の枝を持ち、むつまじげに連れ立つて出づ。)
花園 よい日和であつたなう。
加賀 山には紅葉、野には菊、きのふけふは秋の色もだん/\に増してまゐりましたな。
花園 さうぢや。さうぢや。秋の野山もこれからが面白いなう。さつきから其處らを果しもなくあるいたので、足も大分くたびれた。
加賀 何處かそこらで一休み致しませう。おゝ、あすこが宜しうございます。
花園 あの庵室めいた草の家 は誰の住居かの。
加賀 御存じはございませんか。あれは能因法師の宿でございます。
花園 なるほど、わしも一二度立寄つたことがある。あるじの能因は陸奧 の旅に出て、まだ歸らぬとか聞いてゐるが、誰か留守居の者があらう。
加賀 良因といふ暢氣なお弟子坊主が留守番をしてゐますから、休みながら何か面白い話でも聞きませうよ。
(二人は門にくる。)
加賀 良因さん。大層お掃除に精が出ますね。
良因 や、これは加賀どの。おゝ、花園の少將殿も御一緒でございましたか。さあ、さあ、どうぞこちらへ。
(花園と加賀は庭に入る。)
花園 おゝ、主人 は留守ぢやと聞くに、庭の手入れはなか/\行屆いてゐるの。
良因 いえ、もう、毎朝やかましく叱られますので······。
加賀 え、誰に叱られるの。
良因 (あわてる。)えゝ、何、其。これまで毎朝叱られてゐた癖が付いてゐるので、師匠が留守でもこの通り綺麗に掃除をしてをります。
花園 かげひなたがなくて感心な男ぢや。
良因 なんでも人間は正直が肝腎でございます。(傍 を向いて笑ふ。)
花園 小半日も歩いたせゐか、喉が渇いて來た。湯を一杯振舞つて貰へまいか。
良因 はい、はい。唯今すぐに沸かして差上げませう。先づこれへお掛けくださいまし。
(花園は縁に腰をかける。良因は内へ入りて、爐に枯枝を焚きつける。加賀は垣のそばに立ちて草花などをながめてゐる。蟲の聲きこゆ。)
花園 おゝ、もう日が暮れかゝつて來た。
良因 あきの日は短うございますよ。
加賀 こゝらではまだ蟲の聲がきこえますね。
良因 夜になるときり/″\すが枕邊 でも鳴いてをります。
花園 それは一入風流なことぢや。どうぢや、加賀。嵯峨野の秋のゆふべを題にして、お得意の歌でもよまぬか。
加賀 この頃は何だかうは/\してゐて、歌を詠まうなどと云ふ氣分に些つともなれませんの。
花園 では、もう歌はお止めか。
加賀 止めるもんですか。今に日本一の歌よみになるんですもの、ほゝゝゝゝ。おゝ、それ、それ、その歌で思ひ出しました。いつかは云はう云はうと思ひながら、つい延び/\になつてゐたのですが、ねえ、あなた······。わたくし、少しあなたに折入つてお願ひがございますの。
花園 あらたまつて何ぢやの。いゝ着物でも欲しいといふのか。(笑ふ。)
加賀 いゝえ、そんなことぢやございません。びつくりしちやあ不可ませんよ。(花園のそばに來て腰をかける。)あなたとは斯うして二年越しも仲好くしてまゐりましたが······。あの、今日かぎりでもう赤の他人になつて頂きたいんですが······。
花園 え。(おどろいて起つ。)だしぬけに何 、何故 そんなことを云ひ出したのぢや。なにか氣に障つたことでもあるのか。譯を聞かう。わけを云やれ。(詰め寄る。)
加賀 まあ、お待ち下さいまし。あなたは親切過ぎるくらゐに優しくして下さるんですもの、氣に障るやうなことは幾ら探したつてありやあ致しません。愛想づかしの種が無くつて困つてゐるくらゐでございますわ。
花園 それならば不足はない筈、なぜに縁を切らうと云ふのぢや。わからぬな。
加賀 あなたには判らなくつても宜しいんです。ねえ、あなた。どうぞ他人になつてやると唯一言おつしやつて下さいよ。
花園 藪から棒にそれは無理ぢやよ。
加賀 無理は初めから承知の上でございますよ。(たち上る。)
花園 (※[#「慌」の「亡」に代えて「曷−日−勹」、128-3]てゝひき止める。)いや、おまへは兎角に我儘をいふが、それは宜しくないぞ。よく其譯を聞かぬうちに、無暗にこの返事がなると思ふか。積つてもみやれ。
加賀 では、譯を申したら承知してくださいますね。
花園 さあ、そのわけを聞いた上で、なるほどと此方 の腑に落ちたら兎も角も······。
加賀 兎も角もではいけません。屹と承知すると仰しやつて下さい。ようございますか。
花園 まあ、仕方がない。よし、よし。(澁々 ながら首肯 く。)
加賀 (再び腰をおろす。)その譯といふのは先づ斯うでございます。わたくしは去年の丁度今頃に、ふいと斯んな歌を思ひつきました。
良因 え、(思はず乘出して聽く。)
花園 その歌は······。
加賀 かねてより思ひしことよ伏柴 の、樵 るばかりなる嘆きせんとは。
花園 かねてより思ひしことよ伏柴の······。
良因 樵るばかりなる歎きせんとは······。
花園 (かんがへる。)むゝ。面白いなう。
良因 面白い歌でございますな。(ひどく感心する。)
花園 云ふまでもなく戀歌ぢやが、男に捨てられた時の心を詠んだものゝやうに思はれるの。
良因 (いよ/\乘出してくる。)左樣、左樣。おもふ男に捨てられた時に、あゝ、大方こんなことになるだらうと思つてゐたと、しみ/″\歎息するやうな女心のあはれさが窺はれますな。
加賀 それですから色々考へたのでございます。(起つてあるく。)折角これだけの名歌を思ひ附いたからには、なんでもこれは戀人をこしらへて······それもなるたけは身分の好い、世間に名を知られたお方を相手にして······中途で其人に捨てられる。さあ、その時に初めてこの歌を披露すれば、ほんたうにわたくしの心の底から絞り出されたやうに思はれて、あゝ可哀さうにとみんなが屹と感心しませう。
良因 なるほど、なるほど。いや、似寄つた話もあるものだ。
加賀 え。
良因 なに、こつちのことでございます。
花園 世間の男どもは屹とさう云ふ女に同情して、わい/\褒めちぎるに相違あるまい。わしも隨分覺えのあることぢや。
加賀 さうなればわたくしは、この歌一つのために忽ち世間に名がひろまります。さあ、世間でなんと云ひませうかねえ。かねてより思ひしことよ伏柴の······。
良因 では、伏柴の加賀とでも申しませうかな。
花園 伏柴の加賀······。風流な名ぢやなう。
加賀 さう、さう、伏柴の加賀······。屹とみんなが然う云ひませう。(縁に腰をかける。)さうしてそれが都は勿論、遠い陸奧から筑紫 の果までも傳はつて、伏柴の加賀といへば日本に隱れのない才女、あつぱれの歌よみだと皆んなが褒めそやすに相違ございません。さうなれば本望ですわ。
花園 いや、わかつた。判つた。それでわしに捨てられたいと云ふのぢやな。
加賀 あなたに捨てられなければ、いつまで經つてもこの歌を世に出すことが出來ないで、つまり寶の持腐れになつてしまふぢやございませんか。わたくしは去年あなたと戀した始めから、けふは捨てられるか、あしたは捨てられるかと、捨てられるのを待つてゐたのです。
花園 では、わしと戀をしたのも、その歌を世に出すための手だてであつたのか。いや、これはおどろいたなう。
加賀 それですから、こゝらであなたに捨てられると、萬事が都合よく參ります。ね、さうでせう。わたくしがあなたと戀する。さうして、あなたに捨てられる。そこでこの歌を披露すれば、誰だつて僞らざる告白だと思ひませう。
花園 なるほど、自分の名を賣り擴めるにはよい工夫ぢや。
加賀 あなたも感心なすつたら、この通り······。(手に持つ花を捨てる。)わたくしを打つちやつて下さるでせうねえ。早く返事をなさいよ。もう日が暮れますわ。
花園 これはあんまりぢや。困つたなう。(途方にくれてゐる。)
良因 これは内のお師匠よりも又ずつと上手 だ。(感心する。)なるほど、この頃の女はえらいものだ。
花園 しかし物は相談ぢやが······。(加賀の手を取つて糸瓜の棚の下に來る。)先づ一旦おまへの望み通りに、わしはお前をふり捨てる。むごく情 なく邪慳に振捨てる。おまへが一月ばかりも泣いて暮す。そこでその伏柴の歌を披露して世間の奴原をさん/″\感心させて置いて、もう好い頃と思つたら、ふたりが元の通りに撚りを戻すと、かういふ趣向には行くまいかの。
加賀 (花園の手をふり拂つて縁の方へ來る。)それも惡くはございませんが、今から確にお請合はできませんね。だつて、かんがへて御覽なさいまし。あたくしが伏柴の加賀と名を知られるやうになれば、世間の若い人たちが屹と打つちやつては置きますまい。方々から戀歌や色文が雨のやうに來るでせう。百夜通 ひの眞實をみせる人も出て來るでせう。さうなると、わたくしも色々に氣が迷ひますわ。(縁に腰をおろして考へる。)
良因 いや、御もつとも、御もつとも。さうなるとなか/\目移りがして、うつかり決めるわけには行きますまい。
花園 (悲しい聲。)では、どうでもこれぎりか。
加賀 御縁があつたら又かさねて。(たち上る。)
花園 いや、情ないことになつてしまつた。かうと知つたら、わしも何か悲しさうな歌を作つて置けばよかつたが、生憎にわしは歌が下手ぢや。いつそ其歌をこつちへ讓つてくれるわけには······。
加賀 御冗談仰しやつちや不可ませんよ。あら、あなた、涙ぐんでいらつしやるの。あなたも隨分男らしくないわねえ。(笑ふ。)
花園 お前もあんまり女らしくはあるまいぞ。やれ、やれ、とんだ目に逢ふものぢや。(歎息する。)
良因 (慰めるやうに。)今時の女と戀をなさるからは、遲かれ速かれこんな事になると云ふ御覺悟がなければなりませんよ。かねてより思ひしことよ伏柴の······。
花園 樵るばかりなる歎きせんとは······。あゝ。情ない。しかし名歌ぢや。よく詠んだ。
加賀 (又笑ふ。)あなたは泣きながら感心していらつしやるの。をかしうござんすわねえ。ほゝゝゝゝ。では、もうお暇をいたしますよ。
(加賀は行きかゝるを、花園は駈寄つて袂を捉 る。)
花園 まあ、さう現金にしないでもよさゝうなものぢや。せめて名殘りにもう少しこゝで話して行つてもよいではないか。
加賀 さう事がきまりましたら、一刻も早い方がようございます。これから歸路 に二三軒廻つて、この歌を吹聽して來ようと思ひますから······。(振切つて行きかゝる。)
良因 あ、もし、もし、それほどお急ぎならば、こゝに色紙も短册もあります。寧 そこゝで二三枚かいて行つたら早手廻しでせうが······。
加賀 それは丁度都合が好いこと。それぢやあ二三枚書かしてくださいな。
良因 さあ、さあ、御遠慮なく······。筆も硯も今持つてまゐります。
(良因は棚より筆、墨、硯、色紙、短册などを持ち來る。加賀は縁に腰をかける。)
良因 さあ、澤山お書きなさい。五枚でも十枚でも百枚でも······。
加賀 もういつの間にか日が暮れて、手下 が薄暗くなつて來ましたね。(花園に。)あなた、濟みませんが墨を磨つて下さいませんか。
花園 はい、はい。かしこまりました。
(花園は墨を磨る。加賀は筆を執つて色紙に歌をかく。良因も首を出して見てゐる。このうちに奧の襖を窃 と明けて、能因も顏を出してのぞく。)
加賀 先づこれで二枚書けましたわ。(云ひつゝ不圖能因の顏を見ておどろく。)あれつ。
花園 え。(これも見かへりて驚く。)やあ。
(ふたりは驚きて庭に飛び降りる。能因もあわてゝ襖をしめる。)
良因 (きよろ/\して。)もし、どうしたのでございます。天井から壁虎 でも落ちてまゐりましたか。
花園 壁虎どころか。あ、あの襖のうしろから化物が······。
良因 え、化物が······。あの奧から······。
加賀 眞黒な顏をして眼ばかり晃 つた大坊主が······。いつの間にかぬうと首を出して······。
良因 眞黒な大坊主が······。(噴出しさうになるのを、やつと呑込んで眞面目な顏。)はあ、さうでございますか。それは不思議······。(わざと考へる。)一體それは何者でございませうか。
花園 わしにも判らぬが、大方は化物ぢや。(扇を持直して身がまへする。)
加賀 左もなければあんな所から眞黒な首を出す筈がありませんわ。(顫へる。)ねえ、あなた。どうしたら可いでせう。
花園 古い家には鬼が棲むといふが、まつたくそれに相違あるまい。あるじの留守を窺つて、鬼めがいつの間にか入込んだとみえる。(良因に。)これまで別に怪しいことも無かつたかの。
良因 (眞面目で。)いや、さう云へば此頃はとき/″\に不思議なことが無いでもございませんでした。どうかすると奧の方で、うはゞみのやうな大きな鼾の聲がきこえます。
加賀 まあ。
良因 それから天氣の好い日には、あの窓から眞黒な大坊主の首がぬつと出ます。
花園 それぢや、それぢや。今そこに現はれたのは確にそれぢや。こりや飛んだところに來あはせたなう。(鐘の聲きこゆ。)おゝ、鐘が鳴る。今が逢魔 が時といふのぢや。
加賀 ですから、わたくしは早く歸らうと思つたのに、あなたが無理にお止めなすつたもんですから······。あゝ、こんな處へ來なければよかつた。なにしろ、早く逃げませうよ。
花園 さうぢや、さうぢや。
(二人は逃支度をする。良因は縁を降りて止める。)
良因 (可笑さを隱して。)もし、もし、わたくし一人をこゝへ置去りにして、あなた方ばかり逃げて行かうとは、あんまり情 なうございます。
花園 いや、いや、もう一刻もこんな處にはゐられない。加賀、早う來やれ。
良因 いえ、あなた方もかゝり合でございます。滅多にお歸し申すことはなりません。
(二人は逃げようとするのを、良因は意地わるく止める。この捫着のうちに花園は向うを見る。)
花園 や、よい人が見えたぞ。あれ、あれ、あすこを阿部正親殿 が通る。
良因 え。
花園 あれは都にかくれのない陰陽師 ぢや。一體この家の奧には鬼が棲むか蛇が棲むか、占つて貰はうではないか。
加賀 それがようございます。早くこゝへ呼びませうよ。
良因 (少し困る。)いえ、それには及びますまい。
花園 まあ、兎もかく呼んでからのことぢや。おうい。
加賀 おうい。
(二人はしきりに呼ぶ。陰陽師阿部正親、御幣 を持ちて出づ。)
正親 はてな。わしを呼ぶのは何處か知らん。若い男と女の聲ぢやが。(前後を見かへる。)
花園 おうい。
加賀 おうい。
正親 はてな。やつぱり判らぬ。(考へる。)おゝ、好いことがある。これぢや。(御幣を地に立てゝ、その倒れたる方を見て首肯く。)はゝあ、これを眞直にまゐれといふ神の御告げぢや。ありがたい、有難い。
(正親は再び御幣をいたゞいて、この家 の門 にあゆみ來る。)
花園 おゝ、正親どの。よくぞお出でくだされた。
正親 少將殿に加賀殿。これは能因法師の宿ではござらぬか。
加賀 左樣でございます。まあ、どうぞこつちへお通り下さい。
正親 はい、はい。(庭に入る。)そこで、わたくしに何ぞ御用でもござるかの。
花園 主人の能因が旅の留守に、この家にさま/″\の不思議が起りました。
正親 はてな。
加賀 あの奧の間に怪しいものが棲んでゐて、時々に眞黒な顏を出すのでございます。一體あれは何者か、あなたに占つて頂くわけには參りますまいか。
正親 それは雜作もないこと。わたくしは御存じの通り、陰陽博士阿部晴明 が一の弟子、たとひ如何なる不思議がござらうとも、私がかならずその正體を見あらはして進ぜまする。して、その不思議といふのは、あの奧の一間のうちでござるか。
良因 まあ、そんなやうな譯でございますが、失禮ながらあなたの御うらなひで、あの化物の正體が判りませうかな。
正親 御念にはおよばぬ。今に奇特を見せまするぞ。
(正親は縁に上りて、上のかたの襖にむかひて坐し、うや/\しく御幣をさゝげて祈る。花園と加賀は一心に打守りゐる。家のうしろを囘りて來りし心にて、下のかたの垣の外に、能因忍び出づ。)
能因 (小聲。)良因、良因。
良因 え。(左右を見まはす。)
能因 こゝだ、こゝだ。
良因 え。(拔足して垣の傍 にくる。)どうしてこんな處へお出でなさいました。
能因 貴樣が詰らないことを云つて嚇 すものだから、陰陽師などが遣つて來て、何だかあぶなさうになつて來たから、そつと裏口から拔出して來たのだ。
良因 なにしろ、あいつの立去るまではそこらに隱れてお出でなさいまし。(云ひつゝ下のかたを見る。)や、大變。誰かまた此方へ來ました。
能因 來たか、來たか。(あわてゝ家のうしろに隱れる。)
(この中に正親は祈り終りて不思議さうな顏。)
正親 はて、わからぬ。世にも不思議なことがあるものぢや。
花園 お判りになりませぬか。
正親 この一間のうちには何にも居らぬやうぢやが······。(かんがへる。)
加賀 なんにも居りませんか。
正親 内は空虚 ぢや。藻拔の殼ぢや。鬼も人も棲んでゐるやうに思はれぬ。はてなう。
良因 (空呆けて。)でも、唯 つた今たしかに眞黒な大坊主が首を出しましたが······。ねえ、お二人樣。
花園 さあ、たしかに出たやうに思はれたが······。
加賀 わたくしも確に見ましたわ。どうかもう一度占つて見てくださいませんか。
正親 いや、幾度占つても同じことぢや。
加賀 當るも八卦、あたらぬも八卦とか云ふこともありますから、念の爲にもう一度······。
正親 (居直る。)これは怪しからぬ事を申さるゝ。當るも八卦、あたらぬも八卦とは何事でござる。身不肖ながら正親は、大道占ひのたぐひではござらぬぞ。常時日本 にかくれなき陰陽博士阿部晴明が一の弟子······。
加賀 それはもう判つてゐますよ。
正親 その正親が有るといへば有る、無いと云へば無い。それを疑ふは神をうたがふも同じことでござるぞ。
加賀 でも、現在奧にゐる者の正體が判らないぢやありませんか。
正親 いや、判つてゐる。なんにも無いと判つてゐるのぢや。
加賀 なんにもない筈はありませんよ。
(この爭ひの中に、下のかたより花園の奧方園生 出で來りて、垣の外より窺ふ。)
花園 まあ、兩方でさう赤め合つても仕方があるまい。この奧に何がゐるか居ないかは、襖をあけてみれば判ることぢや。良因、念のために明けてみやれ。
良因 (わざと逡巡して。)いえ、それはまつぴら御免下さいまし。
花園 まだ怖いか。
良因 なんだかまだ不安心でございます。どうかあなた御自身で······。
花園 いや、わしも御免ぢや。
加賀 誰だつて氣味が惡うございますわ。たしかに變なものがゐるに違ひないんですもの。
正親 (いよ/\怒る。)まだ私 を疑つてゐるのか。いよ/\以て怪しからぬことぢや。さう云ふこなたこそ鬼か惡魔ぢや。
加賀 え、なんですつて······。わたしが鬼か惡魔ですつて······。
正親 おゝ、此頃の女子 は惡魔よりもおそろしいと、師匠の晴明どのが常々申されてゐるわ。
良因 なるほど、その占ひはよく中 つてゐるかも知れない。(笑ふ。)
加賀 ひとを馬鹿におしなさるな。なんでわたしが惡魔ですよ。(詰め寄る。)
正親 神の御告をあざける徒 は惡魔も同然ぢや。退 れ、すされ。(御幣にて加賀を打つ。)
加賀 おや、わたしを打 ちましたね。
正親 かうして惡魔を攘 ふのぢや。(又打つ。)
加賀 わたしを狐だとでも思つてゐるんですか。もう堪忍ができませんよ。
(加賀は正親の御幣を奪ひ取りて、あべこべに打つ。正親の烏帽子落ちる。正親怒つて御幣をうばひ返さんとし、たがひに挑み爭ふ。)
花園 まあ、まあ、喧嘩をしては困る。これ、良因。見物してゐないで早く止めてくれぬか。
良因 はい、はい。(笑つて見てゐる。)
加賀 なんの、男に負けてたまるものか。
(御幣にて正親を又打つ。正親いよ/\怒りてむしり合ふ。花園は制し兼ねてうろ/\してゐるところへ、園生は走り入る。)
園生 (花園の胸倉をつかむ。)もし、あなた。なんでこんな處へ這入り込んでゐるんです。又この生意氣な、歌自慢のおしやらく女と一緒に、こゝらをうろつき歩いてゐるんでせう。さあ、さあ、早くお歸んなさい。(無理無體に引立 てる。)日の暮れるのが判りませんか。
花園 まあ、待つてくれ。こつちには色々の事件が起つてゐるのぢや。お前などの來るところではない。早く歸れ。
園生 あなたこそ來る處ぢやあありませんよ。さあ、わたしと一緒にお歸んなさい。(小突く。)
花園 まあ、待てといふのに······。
園生 いゝえ、待たれません。
(こゝにも花園夫婦の喧嘩がはじまる。)
良因 いや、喧嘩が二組になつた。面白い、面白い。(笑つて見物してゐる。)
(一方の正親は加賀をおさへ付けてほつと一息つく。)
正親 さあ、どうぢや。正親のうらなひが中 つたか、外れたか、現在の證據をみせてやるわ。
(加賀を突き放して、上の襖をがらりと明くれば、内から能因は再び眞黒な顏をぬつと出す。出逢ひがしらに正親はあつとおどろいて飛び退く。加賀は顏を掩うてうつ伏す。花園も園生もきやつと云つて逃げ退 く。園生は倒れながら花園にすがる。)
園生 もし。あ、あれは······。な、なんでございます。(顫へる。)
花園 な、なんぢや知らぬが、もう斯うしてはゐられないのぢや。(逃げかゝる。)
園生 (一生懸命に縋る。)どうぞわたしも一緒に連れて行つて下さいまし。足が顫へてもう一足も歩かれません。
能因 わはゝゝゝゝ。(高く笑ふ。)
加賀 (泣聲。)それ、御覽なさいな。出て來たぢやありませんか。
正親 こりやたまらぬ。大變ぢや、大變ぢや。
(正親は御幣を投り出して逃げ去る。花園もいよ/\悸 えて逃げかゝれば、園生は縋りながら引摺られてゆく。)
園生 もし、あなた、あなた······。
花園 何でもいゝから、早く、早く······。うつかりしてゐたら鬼一口に啖 はれうぞ。
園生 え。
(又べつたりとなるを、花園は扶け起して逃げる。)
花園 さあ、早く、早く。
(花園夫婦はこけつ轉 びつ逃げ去る。)
良因 あはゝゝゝゝゝ。
能因 わはゝゝゝゝゝ。
(二人は腹をかゝへて笑ふ。加賀は怖々 ながら透してみる。)
良因 お師匠樣。いや、面白いことでございました。
能因 面白かつたな。おれも陰陽師が來たと聞いて、一旦は裏口へ逃げ出したが、喧嘩が餘り面白いので、又引返して覗きに來たら、だしぬけに襖をがらりと明けられたには驚いたよ。併しみんな弱い奴等だ。おれの眞黒な顏に驚いて命から/″\逃げてしまつた。はゝゝゝゝゝ。
加賀 あら、あなたは能因さんぢやありませんか。まあ、人が惡い。私、どんなにびつくりしたか知れませんわ。良因さんも同腹 になつて、わたし達を嚇かしたのね。隨分ひどい。
能因 いや、嚇かしたと云ふわけではないが、自然に物がかう間違つて來たので······。まあ、まあ、堪忍してください。
加賀 ほんたうに惡い洒落ですわ。私、胸がまだどき/\することよ。
良因 では、お湯を一つ······。丁度今沸きました。(湯を汲んで出す。)
能因 しかし世の中はおそろしいものだ。わたしは「秋風ぞふく白河の關」の歌を世に出す爲に、これだけの苦勞をしてゐると、どうして、世間には又あなたのやうな上手 がある。「伏柴の樵るばかりなる」といふ歌一つを世に出すためには、若い女が自分の美しい顏や黒い髮や、柔かい肉體 を資本 に、わざ/\ほかの男と戀をして、それを踏臺に自分の名を賣りひろめようとは······。おい、良因。なるほど今の世渡りはむづかしくなつたな。
良因 とても女にはかなひませんよ。實に物すごい事でございます。
能因 おれの化物よりも餘つぽど凄いぞ。あゝ、怖ろしい、怖ろしい。實に怖ろしい世の中だ······。
加賀 では、あなたも自分の歌に勿體を付けるために、奧州へ旅行するなどと嘘をついて、内に隱れてゐたんですか。まあ。
能因 何がまあだ。あなたが花園の少將と戀をしたのと同じことですよ。わたしの黒くした顏は、もう一度白くなる時もあるだらうが、あなたの身體は汚れたが最後、もう綺麗にはなりませんぜ。
加賀 (笑ふ。)そんなことは何うでも構ひませんよ。どうで女の戀といふものは一生に一度で濟みやあしませんわ。
能因 さあ、それだから怖ろしいと云ふのだ。では、いづれ近い中にあなたの歌が世に出るのですね。
良因 感心して褒めちぎる奴の顏が見たうございますよ。
加賀 えゝ。一日も早く世に出してみんなに褒められたいと思ひますわ。かねてより思ひしことよ伏柴の、樵るばかりなる歎きせんとは。あなたのも何 れ出るんでせうね。
能因 もう斯うなつてはぐづ/\しちやあゐられません。あしたにも歸つたことにして、私もすぐに披露しませう。都をば霞と共に出でしかど、秋風ぞ吹く白河の關。
加賀 どつちを人が褒めるでせうね。
良因 世間には隨分あわて者が多いから、どつちも同じやうに擔ぎ上げることでございませうよ。おゝ、すつかり暗くなつて來ました。どれ、燈火 をつけませうか。(奧に入る。)
加賀 併しこの祕密はおたがひに洩らしますまいね。
能因 後日に露顯すれば兎もかくも、當分は何事も窃 に、ひそかに······。
加賀 ほんたうに然うですわ。
(下のかたより藤原節信は松明 を持ちて急ぎ出づ。)
節信 頼む。たのむ。
加賀 あ、また誰か來たか。
(能因はあわてゝ奧に逃げ込む。引き違へに良因は燈臺を持ちて出づ。)
良因 はい、はい、どなた······。
節信 (急ぎ入る。)能 ······。(云ひかけて加賀を見返り、あわてゝ口をつぐむ。)
良因 いえ、御遠慮には及びませんよ。この御婦人はこつちよりも上手なのでございますから······。さあ、どうぞお上り下さいまし。
(能因は奧より出る。)
能因 おゝ、節信どの。又お出でなされたか。
節信 早速ながら先刻の御返禮にまゐつた。
良因 大方さうであらうと存じましたよ。
節信 長柄の橋の鉋屑といふ天下一品の古物を頂戴したからには、こちらでも相當の御返禮をいたさねば相成るまいと、早々に屋敷へ立戻つて、かやうなものを持參いたした。どうぞ御受納をねがひたい。(ふところより紙づつみを出す。)
能因 これは義理のお固いこと。貴公の御返禮とあれば定めてお珍らしいものでござらう。早速拜見······。
(能因は紙づつみを披く。加賀も良因ものぞいて見る。包の中よりは干した蛙 が一匹出る。)
加賀 あら、忌だ。まあ、こんなものを······。
能因 これは蛙の干物のやうでござるな。
良因 いくらお師匠樣が惡物食 ひでも、ひきがへるの干物は召上りますまい。
節信 (自慢らしく。)それは井出 の玉川の蛙でござる。
能因 はゝあ、成程。むかしから歌によむ井出の玉川の蛙でござるか。(蛙の足を摘 んでぶらさげて見る。)いや、これはお珍らしいものを有難うござる。世間には隨分書畫骨董を珍重いたす人も澤山ござるが、蛙の干物までは手がとゞきますまい。骨董趣味もこゝまで進まねば話せませんな。
加賀 まあ、ばか/\しい。鼻の缺けた觀音樣や、蟲の蝕 つた繪卷物の穿索で足りないで、かんな屑や蛙の干物まで大事にするとは······。これを思ふと骨董趣味なんて云ふものは、つまり氣違ひの道樂ですわね。
節信 なに、氣違ひだと······。これは怪しからん。
能因 まあ、まあ、よろしい。兎かく今の人は喧嘩が好きで困る。
加賀 だつて、あんまりばか/\しいんですもの。そんな干枯びた穢いものを······。
能因 干枯びた穢いもの······。あなただつて、何日 まで若くつてはゐない。やがてこんな干枯びた······。(蛙を眼のさきへ突き出す。)
加賀 あれ、忌 ですよ。(飛び退 く。)
能因 はゝゝゝゝゝ。
||幕||