私は
玩具が
好です、
幾歳になっても
稚気を脱しない
故かも知れませんが、今でも玩具屋の前を
真直には通り切れません、ともかくも立停って
一目ずらりと見渡さなければ気が済まない位です。しかしかの清水晴風さんなどのように、秩序的にそれを研究しようなどと思ったことは一度もありません。ただ
ぼんやりと眺めていればいいんです。玩具に向う時はいつもの
小児の心です。むずかしい理窟なぞを考えたくありません。随って歴史的の古い玩具や、色々の新案を加えた
贅な玩具などは、私としてはさのみ懐しいものではありません。
何処の店の隅にも転がっているような一山
百文式の我楽多玩具、それが私には
甚く嬉しいんです。
私の少年時代の玩具といえば、春は
紙鳶、これにも
菅糸で
揚げる
奴凧がありましたが、今は
廃れました。それから獅子、それから
黄螺。夏は水鉄砲と水出し、取分けて蛙の水出しなどは
甚く行われたものでした。秋は
独楽、
鉄銅の独楽にはなかなか
高価いのがあって、その頃でも十五銭二十銭ぐらいのは珍らしくありませんでした。冬は
鳶口や
纏、これはやはり火事から縁を引いたものでしょう。四季を通じて行われたものは
仮面です。今でもないことはありませんが、何処の玩具屋にも色々の面を売っていました。
仮面には張子と土と木彫の三種あって、張子は一銭、土製は二銭八厘、木彫は五銭と決っていましたが、木彫はなかなか精巧に出来ていて、
槃若の
仮面などは凄い位でした。私たちは狐や
外道の
仮面をかぶって往来を
うろうろしていたものです。そのほかには武器に関する玩具が多く、弓、
長刀、刀、鉄砲、兜、
軍配団扇のたぐいが勢力を占めていました。私は
九歳の時に浅草の仲見世で
諏訪法性の兜を買ってもらいましたが、
錣の毛は白い麻で作られて、私がそれをかぶると
背後に垂れた長い毛は地面に
引摺る位で、外へ出ると犬が
啣えるので困りました。兜の鉢はすべて張子でした。概して玩具に、
鉄葉を用いることなく、すべて張子か土か木ですから、玩具の
毀れ
易いこと不思議でした。槍や刀も木で作られていますから、少し打合うとすぐに折れます。竹で作ったのは
下等品としてあまり好まれませんでした。小さい者の玩具としては、犬張子、
木兎、
達摩、鳩のたぐい、一々数え切れません、いずれも張子でした。
方々の縁日には
玩具店が沢山出ていました。
廉いのは
択取り百文、高いのは二銭八厘。なぜこの八厘という
端銭を附けるのか知りませんが、二銭五厘や三銭というのは決してありませんでした。
天保銭がまだ通用していた
故かも知れません。うす暗いカンテラの灯の前に立って、その縁日玩具を
うろうろと
猟っていた少年時代を思い出すと、涙ぐましいほどに懐しく思われます。
私の玩具道楽、しかも我楽多玩具に趣味を
有っているのは、少年時代の昔を懐しむ心、それがどうも根本になっているようです。私が玩具屋の前に立った時、
先ず眼につくのは旧式の我楽多玩具で、何だか昔の友に出逢ったような心持になります。実用新案の
螺旋仕掛などには何の懐しみを有つことが出来ません。随って小児にまでも
頭脳が古いと
侮られますが、どうもこれは趣味の問題ですから
已むを得ません。旧式の張子の
仮面などを手に
把って
じっと眺めていると、ひどく若々しい心持になる時と、何とはなしに悲しくなる時と、その折々に
因って気分の相違はありますけれども、いずれにしても、その玩具を通して少年時代の夢を忍ぶことは、私に取っては嬉しいことです、
堪らないほどに懐しいことです。大人でないと笑われても、私はこの年になるまで、我楽多玩具と別れを告げることは出来ません。この頃は少しばかり人形を貰い集めていますけれど、これは道楽の余業で、ほんとうの道楽は一山百文式の我楽多玩具にあること勿論です。しかし時代の変遷で、その我楽多もだんだんに減って来るので困ります。
大師の
達摩、
雑司ヶ
谷の
薄の
木兎、
亀戸の
浮人形、柴又の
括り
猿のたぐい、
皆な私の見逃されないものです。買って来てどうするという
訳のものではありませんが、見るとどうも手が出したくなります。電車の中などでも薄の木兎などを
担いでいる人を見ると、何だか懐しくなって、声をかけてみたいように思うこともあります。
こういう意味ですから、私の道楽はその後何年
経っても進歩するはずはありません。根が研究的から出発しているのでありませんから、いわゆる「通」になるべきはずはありません。しかし我楽多玩具に対する私の趣味は、年を取るに随ってますます深くなるだろうと思っています。