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わが国古来のいわゆる「かたき
討」とか、「
仇討」とかいうものは、勿論それが
復讎を意味するのではあるが、単に復讎の目的を達しただけでは、かたき討とも仇討とも認められない。その手段として我が手ずから相手を殺さなければならない。他人の手をかりて相手をほろぼし、あるいは他の手段を以て相手を破滅させたのでは、完全なるかたき討や仇討とはいわれない。真向正面から相手を
屠らずして、他の手段方法によって相手をほろぼすものは
寧ろ卑怯として
卑められるのである。
これは我が
国風でもあり、第一には武士道の感化でもあろうが、それだけに我がかたき討なるものが甚だ単調になるのは
已むを得ない。なにしろ復讎の手段がただ一つしかないとなれば、それが単調となり、
惹いて平凡浅薄となるのも自然の結果である。我がかたき討に深刻味を欠くのはそれがためであろう。かたき討といえば、どこかで相手をさがし出して、なんでも構わずに叩っ斬ってしまえばいい。ただそれだけのことが眼目では、今日の人間の興味を惹きそうもないように思われるので、わたしは今まで仇討の芝居というものを書いたことがなかった。
この頃、この『歌舞伎』の誌上で拝見すると、木村錦花氏は大いにこのかたき討について研究していられるらしい。どうか在来の単調を破るような新しい題材を発見されることを望むのである。
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わが国のかたき討なるものは、いつの
代から始まったか判らないらしい。普通は曾我兄弟の仇討を以て記録にあらわれたる始めとしているようであるが、もしかの曾我兄弟を以てかたき討の元祖とするならば、
寧ろ
工藤祐経を以てその元祖としなければなるまい。工藤は親のかたきを討つつもりで、
伊東祐親の
父子を射させたのである。祐親を射損じて、せがれの
祐安だけを射殺したというのが、そもそも曾我兄弟仇討の発端であるから、十郎五郎の兄弟よりも工藤の方が先手であるという理窟にもなる。
それからまた、
文治五年九月に奥州の
泰衡がほろびると、その翌年、すなわち建久元年の二月に、泰衡の遺臣
大河次郎重任(あるいは
兼任という)が兵を
出羽に挙げた。その宣言に、むかしから子が親のかたきを討ったのはある、しかも家来が主君の
仇を報いたのはない。そこで、おれが初めて主君のかたき討をするのであるといっている。勿論かれは奥州の田舎侍で、世間のことを何にも知らず、勝手の熱を吹いているのであるが、建久元年といえば曾我兄弟の復讎以前
||曾我の復讎は建久四年
||である。その当時の彼が昔から親のかたきを討った者はあると公言しているのを見ると、曾我兄弟以前にもその種のかたき討はいくらもあったらしい。家来のかたき討も大河次郎が始めではない。
いずれにしても、昔のかたき討は一種の暗殺か、あるいは
吊合戦といったようなもので、それがいわゆる「かたき討」の形式となって現れて来たのは、
元亀天正以後のことであるらしい。
殊に徳川時代に
入っていよいよ
盛になったのは
誰も知る通りである。しかもそれが最も行われたのは
享保以前のことで、その後はかたき討もよほど衰えた。
幕府の方針として、かたき討を公然禁止したわけではないが、決して奨励してはいなかった。なるべくは私闘を止めさせたいのが幕府の趣意であった。しかも
已にかたき討をしてしまった者に対しては別に
咎めるようなこともなかったから、やはりかたき討は絶えなかったのである。
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幕府直轄の土地には
殆どその例を聞かないようであるが、藩地ではかたき討の願書を差出して許可されたのもあるらしい。それについて毎々議論の出ることは、ここに一定の場所を定め、竹矢来などを結いまわして仇討の勝負をさせる。その場合にかたきの方が勝ったらばどうなるかということである。已にかたき討を許可した以上、一方が返り討にされては困る。どうしても仇の方を負けさせなければならない。
それがために、その前夜はかたきの方を眠らせないとか、あるいは
水盃に毒を入れて飲ませるとか、種々の臆説を伝える者もあるが、そんなことはしなかったに相違ない。万一かたきが勝った場合には、その藩中で腕におぼえのある者が武士は相身互い、義によって助力するとかいって斬って来る。首尾よくそれを斬伏せたところで、入れ代って二番手三番手が撃ち込んで来れば、結局疲れて
仆れるにきまっている。こんなわけで、已にかたきという名を附けられた以上、たとい相手をかえり討にしても、生きて還されないことになっているらしい。
しかし芝居や講談にあるような、竹矢来結いまわしのかたき討などは実際めったになかったであろう。幕末になっては、幕臣は勿論、各藩士といえども、かたき討のために
暇を願うということは許されなかった。わたしの父の知人で、虎の門の内藤家の屋敷にいる者が
朋輩のために兄を討たれた。かたきはすぐに
逐電したので、その弟からかたき討のねがいを差出したが、やはり許可されなかった。ただし兄の遺骨をたずさえて帰国することを許された。内藤家の藩地は日向の延岡であるが、その帰国の途中、高野山その他の仏寺を遍歴参拝することは苦しからずということであった。要するに仏事参拝にかこつけて、かたきのゆくえ捜索を黙許されたもので、それは非常の恩典であると伝えられたそうである。それとても江戸から九州までの道筋に限られていることで、全然方角ちがいの水戸や仙台へは足を向けられないわけであった。果してそのかたきは知れずに終った。
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錦花氏のいわれた通り、亀山の仇討は元禄曾我と唄われながらもその割に
栄えないのは、石井兄弟のために少しく気の毒でもある。しかもそういう意味の幸不幸は他にいくらもある。現に浄瑠璃坂の仇討のごときは、それが江戸の出来事でもあり、多人数が党を組んでの討入りでもあり、現に大石内蔵助の吉良家討入りは浄瑠璃坂の討入りを参考にしたのであると伝えられている位であるが、どうもそれが
ぱっとしない。事件が京阪に関係がないので、浄瑠璃坂も浄瑠璃に唄われず、人形にも仕組まれず、闇から闇へ葬られた形になってしまった。よし原の秋篠なども芝居になりそうでならない。もっとも「
女郎花由縁助刀」という
丸本にはなっているが、芝居や講談の方には採用されず、したがってあまりに知られていないらしい。
なんといっても、かたき討は大石内蔵助と荒木又右衛門に株を取られてしまったので、今更どんな掘出し物をしても彼らを凌ぐことはむずかしい。大石には芸州の浅野が附いている、荒木には備前の池田が附いている。こういう
大大名のうしろ
楯を持っている彼らのかたき討よりも、無名の
匹夫匹婦のかたき討には
幾層倍の
艱難辛苦が伴っていることと察しられるが、舞台の小さいものは伝わらない。勿論、かれらは名のために仇討をしたのではあるまいが、第三者から見れば何だか気の毒のようにも感じられるのが沢山ある。