身をせめて深く
懺悔するといふにもあらず、唯
臆面もなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は
閲歴を語ると号し、或時は思出をつづるなんぞと
称へて文を売り酒
沽ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、
尺八吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに
築地へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり。然るをなほも古き机の
抽斗の底、雨漏る
押入の片隅に、もしや
歓場二十年の夢の跡、あちらこちらと遊び歩きし茶屋小屋の勘定書、さてはいづれお目もじの上とかく
売女が無心の手紙もあらばと、
反古さへ見れば
鵜の目鷹の目。かくては
紙屑拾もおそれをなすべし。
つらつらここにわが売文の由来を顧み
尋るにわれ始めて小説の単行本といふもの
出せしはわが友
巴山人赤木君の経営せし美育社なり。数ふれば
早十七年のむかしとなりぬ。巴山人は早稲田出身の文士にて
漣山人門下の秀才なりしが明治三十四年同門の黒田
湖山と
相図り
麹町三番町二七不動のほとりに居をかまへ文学書類の出版を企てき。その頃文学小説の出版としいへば殆ど春陽堂一手の専門にて作家は
紅葉露伴の門下たるにあらずんば殆どその述作を
公にするの道なかりしかば、義侠の巴山人奮然意を決してまづわれら木曜会の気勢を揚げしめんがために
貲を投じ美育社なるものを興し月刊雑誌『
饒舌』を発行したり。『饒舌』は寸鉄かへつて人を殺すに足るとて三十二頁の小冊子とし、黒田湖山主筆となりて毎号巻頭に時事評論を執筆し
生田葵山とわれとは小説を掲げ
西村渚山は泰西名著の翻訳を
金子紫草は海外文芸消息を
井上唖々は俳句と随筆とを出しぬ。これと共に美育社は青年小説叢書と題してまづ生田葵山の小説『自由結婚』次に余の拙著『野心』西村渚山の『
小間使』黒田湖山の『大学攻撃』等を出版し、また
星野麦人をして『
古今俳句大観』四巻を編纂せしめき。翌年美育社ますます業務を拡張し
神楽坂上寺町通に書籍雑誌の
売捌店をも出せしが突然社主赤木君故ありてその郷里に帰らざるべからざるに及び、惜しい
哉事皆中絶するに至りぬ。雑誌『饒舌』は湖山
一人の手に残りて『ハイカラ』と改題せられしが気焔また既往の
如なる
能はず
幾何ならずして廃刊しき。
これより
先生田葵山
書肆大学館と相知る。主人岩崎氏を説いて文学雑誌『
活文壇』を発行せしめ、井上唖々と共に
編輯のことを
掌りぬ。『活文壇』は木曜会
同人の作を発表するの
傍汎く青年投書家の投書を歓迎して販売部数を多からしめんことを試みたり。然れども当時この種の投書雑誌には
小島烏水子の『文庫』、
田口掬汀氏の『新声』
等その勢力
甚盛なるあり。新刊の『活文壇』は再三上野
三宜亭に誌友懇談会を開き投書家を招待し木曜会の文士
交
文芸の講演を試むる等甚
勉むる処ありしが、
書肆早くも月々の損失に驚き文学を
疎じて
赤本を迎へんとするに至つて『活文壇』は忽ち廃刊となりき。
ここに本町一丁目の
金港堂明治三十五年の頃突然文学婦人少年等の諸雑誌
並に小説書類の出版を広告して世の
耳目を驚かせしことあり。金港堂といへば人に知られし教科書々類の
版元なり。この書肆の資金を以て文芸その他諸雑誌の発行に着手せんかこれまで
独天下の春陽堂博文館ともどもに
顔色なからんとわれ
人共に第一号の発刊を待ちかねたり。やがて現はれたるものを見れば文学雑誌はその名を『文芸界』と称し
佐々醒雪を主筆に
平尾不孤草村北星斎藤弔花の諸子を編輯員とし巻首にはたしか
広津柳浪泉鏡花らの新作を掲げたり。されどこれらの新作さして評壇の問題とならず雑誌はまた
徒に尨大なるのみにて一貫せる主張といふものなく甚締りなしとの非難ありき。されば従来の『文芸倶楽部』と『新小説』、依然として一は通俗的に一は専門的なる本来の面目を
把持して長く雑誌界に覇をとなへ得たり。
金港堂の『文芸界』は第一号の発刊と共に賞を懸けて長篇小説を募集しぬ。敢て選者の名を
公にせざりしかど醒雪子以下同誌編輯の諸子なりしや明なり。余が『地獄の花』とよべるいかがはしき拙作はこの懸賞に応募したるもの。選に入ること
能はざりしが編輯諸子の認むる所となり単行本として出版せらるるの光栄を得たるなり。原稿料この時七十五円なりき。さてこの折選に入りしもの一等に
米光関月の『
千石岩』二等に
斎藤渓舟の『
残菊』、田口掬汀の某作等ありしと記憶す。これらの作家皆功成り名遂げて早くも文壇を去りしに、思へばわれのみ唯一人今に浮身を
衆毀の
巷にやつす。哀むに堪へたりといふべし。
懸賞小説といへばその以前より毎週『
万朝報』の募集せし短篇小説に余も二、三度味をしめたる事あり。選者は
松居松葉子なりしともいひまた故人
斎藤緑雨なりしといふものもありき。応募者には知名の大家折々
小遣取りにいたづらするもの多かりし由。当時懸賞小説さまざまありしが
中に『万朝報』の短篇最もすぐれたるを見ればかかる噂もまんざらの根なしごとにはあらざりしが如し。
金港堂より単行本出せし後はどうやらかうやらわれも新進作家の列に数へ入れらるるやうになりぬ。たしか明治三十六年の春なりしと覚ゆ。新俳優
伊井蓉峰小島文衛の一座
市村座にて
近松が『
寿門松』を一番目に鴎外先生の詩劇『
両浦島』を
中幕に紅葉山人が『
夏小袖』を
大喜利に据ゑたる事あり。またこの一座この度の興行にはわれらの知友たりし
畠山古瓶といへる早稲田出身の文士、伊井の弟子となり初めて舞台へ出づべしといふに、いささか気勢を添へんものと或日
風葉葵山活東の諸子と共に、おのれも市村座に赴きぬ。あたかも
好しその日は
与謝野鉄幹子を中心とせる
明星派の人々『両浦島』を
喝采せんとて土間桟敷に集れるあり。幕いよいよ明かんとする時畠山古瓶以前は髯むぢやの男なりしを綺麗に剃りて
羽織袴の様子よく幕外に出でうやうやしく伊井一座この度鴎外先生の新作狂言
上場の
許を得たる光栄を述べき。一幕二場演じをはりてやがて再び幕となりし時、わが
傍にありける某子突然わが袖をひき隣れる桟敷に葉巻くゆらせし髭ある人を指してあれこそ森先生なれ、いで紹介すべしとて、わが驚きうろたへるをも構はずわれを引き行きぬ。われ森先生の
謦咳に接せしはこの時を以て始めとす。先生はわれを
顧み微笑して『地獄の花』はすでに読みたりと言はれき。余文壇に出でしよりかくの如き歓喜と光栄に打たれたることなし。いまだ電車なき世なりしかどその
夜われは一人
下谷よりお茶の水の流にそひて麹町までの道のりも遠しとは思はず楽しき未来の夢さまざま心の
中にゑがきつつ歩みて家に帰りぬ。
かくて『文芸界』をはじめ『新小説』『文芸倶楽部』なぞに原稿を持ち行きても三度に一度はしぶしぶながら買つてくれるやうになりぬ。されど原稿は三月半年と買はれたるまま
公にせられざれば、売名にのみ心あせるものの長く
堪ふべき所ならず。ここに詩人
蒲原有明子新声社の主人と相知れる
由を聞き子を介して新声社に
赴き『夢の女』と題せし一作三百枚ほど持てあましたるものをば原稿料は無用なればとて、ここに再び単行本一冊を出版したり。新声社は
即いまの新潮社が前名にて当時は
神田錦町区役所の横手にささやかなる店をかまへゐたり。この一書さして版元の損にもならざりしと見えつづいて『女優ナナ』の出版にこたびは原稿料三拾円を得たり。これ明治三十六年初夏のことにてその年の秋虫の声やうやく繁くなり行く頃われはふと
亜米利加に渡りぬ。
わが売文のむかしがたりの
中ここに
書漏せしはやまと新聞社に雇はれ雑報とつづきもの書きて月々拾弐円を得しことなり。そは明治三十四年なりしと覚ゆ松下某といふ人やまと新聞社を買取り
桜痴居士を主筆に迎へしよりその高弟
榎本破笠従つて入社しおのれもまた
驥尾に附しけるなり。その時まで一年ほどわれは既に人にも語りし如く桜痴居士の門弟となり歌舞伎座にて拍子木打ちてゐたりしが、今の
歌右衛門福助より
芝翫に改名の折から
小紋の
羽織貰ひたるを名残りとして楽屋を去り新聞記者とはなりぬ。過ぎしことなれば身の耻語りついでに語り出せば楽屋通ひよりまたまた二、三年前のことなり。われ講釈と落語に新しき演劇風の朗読を交へ
人情咄に一新機軸を
出さんとの野心を抱き、その頃朝寝坊むらくと名乗りし三遊派の落語家の弟子となりし事もあり。当今都下の席亭にむらくと看板かかぐるものはその頃の人とは同じからずといふ。
余のやまと新聞社に
入りし時三面雑報欄を受持ゐたるは
採菊山人と
岡本綺堂子なりき。採菊山人は
即山々亭有人にして
仮名垣魯文の歿後われら後学の徒をして明治の世に江戸戯作者の風貌を
窺知らしめしもの実にこの翁
一人ありしのみ。さればわれ
日々編輯局に机を連ねて親しくこの翁の教を受け得たる事今にして思へばまことに涙こぼるる次第なり。岡本綺堂子はその頃
頻にユーゴー、ヂュマなぞの伝奇小説を読まれゐたり。子は半蔵門外に居を構へおのれは一番町なる父の
家に住みければ新聞社の帰途堀端を共に語りつつ歩みたる事度々なりき。子はその頃より
甚謹厳
寡言の人なりき。
日比谷には公園いまだ成らず
銀座通には鉄道馬車の
往復せし頃
尾張町の
四角今ライオン
珈琲店ある
辺には
朝野新聞中央新聞毎日新聞なぞありけり。やまと新聞社は銀座一丁目の横町いま見る建物なりしかば、表通
岩谷天狗の煙草店に雇われたる妙齢の
女店員いつもこの横町に集りて
緋の
蹴出しあらはにして
頻に自転車の稽古するさま折々目の保養となりしも既に過ぎし世のこととぞなりぬる。女の自転車と馬乗りとはその頃の流行なりしにや
吉原品川楼の
抱が
和鞍に乗りての
遊山また
新橋芸者が自転車つらねて花見に出かけし噂なぞかしましき事ありけり。
さてわが新聞記者たりしもわづか
半年ばかり社員淘汰のためとやらにて突然解雇の知らせを得たり。わが記者たりし時世に起りし事件にていまに記憶するは
星亨の
刺客に害せられし事と
清元お
葉の失せたりし事との二つのみ。新聞記者をやめたる後は再びもとの如く歌舞伎座の楽屋に
入らん事を
冀ひしかど敬して
遠けらるるが如くなりしかばここに意を決し志を改めて
仏蘭西語稽古にと
暁星学校の夜学に通ひ始めぬ。巴山湖山両子の美育社を興せしはあたかもこの年の秋なれば話の順序ここにて初めに立戻るものと知るべし。
『あめりか物語』は明治四十年
紐育より仏蘭西に渡りし年の冬
里昂市ヴァンドオム
町のいぶせき下宿屋にて草稿をとりまとめ序文並に挿絵にすべき絵葉書をも取揃へ市立美術館の
此方なる郵便局より書留小包にして
小波先生のもとに送り出版のことを依頼したるなり。この稿料いかほどなりしか記憶せず。
翌年秋帰国せし時『あめりか物語』は既に
市に出でゐたりき。われは
直に仏蘭西滞在中及び帰航の船中にものせし草稿を訂正し『ふらんす物語』と名づけ前著出版の関係よりして
請はるるままに再び博文館より出版せしめしが忽ち発売禁止の
厄に会ひてこれより出版書肆との談判
甚面倒になりけり。わが
方にては最初出版契約の際受取りたる原稿料金百弐拾五円を返済すべしと申送りしを博文館にてはそれだけにてはこの損失はつぐなひがたし出版契約書の第何条とやらに原稿につきて不都合のことあり発行者に迷惑を
及したる時は著作者はその責任を負ふべき
旨明記しあれば既に御承知のはずなりと
手強く申出で容易に譲らざる模様なればわれはこの喧嘩相手甚よろしからずと思ひそのまま打捨て
如何様に
申来るも一切返事せざりき。わが
家の玄関には毎日のやうに
無性髯そらぬ洋服の男来りて
高声に面会を求めさうさう留守をつかふならばやむをえぬ故法律問題にするなどと
持前のおどし文句をならべて帰るなぞ
言語道断の振舞度々なりき。博文館編輯局にはその折木曜会の知友多かりき。小波先生は
即編輯総長の椅子にあり。『太陽』には
浅田空花子『中学世界』には
西村渚山人『文芸倶楽部』には
思案外史石橋氏
各その主筆なりき。これらの人々と会合せし折博文館の文士に対する
甚礼なき事を語りしに、出版課に雇はれゐるものは皆かくの如し物のわかるものは一人もなければ打ちすて置きて心に留めたまはぬがよしといふ。かくて『ふらんす物語』損害賠償の談判は八年に渡りて落着せず大正五年
籾山書店『荷風傑作鈔』なるものを出版し
該書の一部を採録するに至り重ねて
懸合面倒とはなりけり。かの薄気味わるき博文館使用人は再び
頻々としてわが玄関に来りて文句をならぶ。不愉快いふばかりもなし。さすがの余も遂に譲歩してここに旧著に類似したる『新ふらんす物語』なるものの編纂と出版発売を黙許しその代りとして旧著の版権を著者の方へ取り戻すこととなしぬ。されば過般博文館より発売せし『新ふらんす物語』なるものの芸術並に文学上の責任に至つては
毫も原著者の
与り知る所にあらず。かの一書は実に原著者の意志に反して出版せられたるものなりかし。この事ありてより余は
書肆を恐れ憎むこと
蛇蝎の如くなりぬ。今の世士農工商の階級既に存せずといへども利のために人の道を顧みざる
商賈の
輩は全く人の最下に位せしめて然るべきなり。
毎朝勝手口に御用ききに来る出入商人始めはいかにも正直らしく見せ掛け次第々々に品物を落して不正の利を
貪るを常とす、米屋酒屋薪屋皆然らざるはなし。書肆の月刊雑誌を発行するや最初は何事も
唯々諾々主筆のいふ処に従ふといへども号を追ふに従つてあたかも女房の小うるさく物をねだるが如く機を見折を窺ひ
倦まず
撓まず内容を俗にして利を得ん事のみ図る。理想は文士の生命にして利は商人の生命よりも首よりも更に大事とする所なり。両者到底水火相容るるものにあらざるはけだしやむをえざるなり。
わが著書のその筋より発売を禁止せられしもの『ふらんす物語』についで『歓楽』と題せし短篇集あり。後にまた『夏姿』といふものあり。『歓楽』の一篇は初め『新小説』に掲載せし折には何事もなかりし故その頃
飯田町六丁目に店を持ちたる
易風社の主人に
請はるるままその他の小篇と合せて一巻となし出版せしめたるに忽ち発売禁止となりぬ。易風社はその以前謝礼として壱百円を贈り来りしが発売禁止となるも博文館の如く無法なる談判をなさざる故わが方にても
重々気の毒になりいそぎ『荷風集』一巻の原稿をつぐなひとして送りけり。この著
幸にして版を重ねき。易風社店を閉ぢし時籾山書店『歓楽』の紙型を買取り店員某の名儀を以て再びこれを出版す。然る処この度は何の
御咎めもなく今に至つてなほ販売せりといふ。
『夏すがた』の一作は『三田文学』大正四年正月号に掲載せんとて書きたるものなりしが稿成るの後
自ら読み返し見るにところどころいかがにやと首をひねるべき箇所あるによりそのまま発表する事を中止したりしを籾山書店これを聞知り是非にも
小本に仕立てて出版したしと再三店員を差遣されたればわれもその当時は
甚眤懇の間柄むげにもその
請を
退けかね草稿を渡しけり。然れどもその折出版届にわが名は
出すまじ万一の事ありても当方にては一切責任を負はざればその辺よくよく御承知あれと念に念を押してやりけり。果せるかなこの小冊子発売禁止となりしのみか、籾山書店はその筋へ始末書を取られ厳しきお叱を蒙りけり。籾山書店今に折々人に語りて永井さんのおかげでは度々ひどい目に逢ひますと。かくては罪まつたく作者にあるが如し。
寛政のむかし
山東庵京伝洒落本をかきて
手鎖はめられしは、
板元蔦屋重三郎お
触にかまはず利を得んとて京伝にすすめて筆を執らしめしがためなりといひ伝ふ。とかくに作者あまり板元と懇意になるは間違のもとなり。
『
伊波伝毛乃記』といふものあり。これ
曲亭馬琴暗に人を
誹りて
己れを
高うせんがために書きたるものなりとか。おのれがこの『
嘉加伝毛乃記』いささか名は似たれどもゆめゆめさる不都合の下心あるにあらず。書かでもよきこと書くは唯いつもの筆くせとしかいふ。
このごろ雑誌『新潮』の記者見るにも足らぬわが著作を
採りこれを
基として余が文学年表なるものを編輯し
該誌上に掲載すべければとて過ぎし日のことどもさまざま問合せ来りぬ。これによりて日頃は全く忘れ果てたりし事どもここに再び思浮ぶる節々多くなりぬ。
そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、『
簾の月』と題せし未定の草稿一篇を携へ、
牛込矢来町なる
広津柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものといふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしが
一ツ
橋なる校舎に
赴く日とては
罕にして毎日飽かず諸処方々の芝居
寄席を見歩きたまさか
家にあれば小説俳句漢詩狂歌の
戯に耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四、五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念
漸く押へがたくなりければ遂に
何人の紹介をも
俟たず
一日突然広津先生の
寓居を尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしは
予め電話にて春陽堂に聞合せたるによつてなり。
余はその頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。『
今戸心中』、『
黒蜥蜴』、『
河内屋』、『亀さん』
等の諸作は余の愛読して
措く
能はざりしものにして余は当時
紅葉眉山露伴諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。
先生が寓居は矢来町の何番地なりしや今記憶せざれど
神楽坂を上りて
寺町通をまつすぐに行く事
数町にして左へ曲りたる細き
横町の右側、
格子戸造の
平家にてたしか
門構はなかりしと覚えたり。されど庭ひろびろとして樹木
尠からず
手水鉢の鉢前には梅の古木の形面白く
蟠りたるさへありき。格子戸あけて上れば三畳つづいて六畳(ここに後日門人
長谷川濤涯机を置きぬ。)それより四
枚立の
襖を境にして八畳か十畳らしき奥の一間こそ客間を兼ねたる先生の書斎なりけれ。
床の
間には遊女の
立姿かきし墨絵の
一幅いつ見ても掛けかへられし事なく、その前に据ゑたる机は
一閑張の極めて粗末なるものにて、先生はこの机にも床の間にも書籍といふものは一冊も置き給はず唯六畳の
間との境の襖に添ひて古びたる書棚を置き麻糸にてしばりたる古雑誌やうのものを乱雑に積みのせたるのみ。これによりて見るも先生の
平生物に
頓着せず
襟懐常に
洒々落々たりしを知るに足るべし。
初めて余のおそるおそる格子戸
明けて案内を乞ひし時やや暫くにして出で
来られしは鼻下に
髭を
蓄へし四十年配の
眼大きく色浅黒き人なりき。その様子その年配正しくこの
家の
主人らしく見ゆるにぞ、この人こそわが崇拝する『今戸心中』の作者なるべけれと思へば、
俄にをののく胸押静め、漸くに名刺差出し突然ながら先生にお目にかかりたき由
言出でしに髭ある先生らしき人は訳もなく
主人は唯今不在なれば帰宅次第その
趣申伝ふべしといはるるに我は是非なくさらば明朝また御邪魔にお伺ひ致すべしとそのまま格子戸を立去りしが、どうも今の人が柳浪先生らしき気がしてならぬ故そつと
建仁寺垣の
破れ目より庭越しに内の様子を窺へば、残暑なほ去りやらぬ九月の夕暮とて
障子皆
明け放ちし座敷の
縁先、かの髭ある人は煙草盆引寄せ
悠々として煙草のみつつ夕風さそふ庭打眺めつ。さてはわが想像にたがはざりけり。
何人の紹介状をも持参せず突然たづね行きける故主人自ら立出でしまま不在といひて謝絶せしなるべし。かくてはわが熱心の先生に通ぜん日まで
幾度となく尋ね行くより外に道なしと翌日の夕暮再び案内を乞ひしにこの度は女中らしき
媼取次に出でて
直に
此方へと奥の間に通されぬ。見れば床の間の前なる一閑張の机に物書きゐる人あり筆を
擱きて此方に
向直らるるに、
昨日取次に立出でられし人に瓜二つともいふべきほどよく似たれども、近く対座して重ねてよくよく見れば年も少しく若く
身体つきもまたすこし痩せたる別人なり。後日に至りて先生の話に聞けば取次に出でし人は先生の
令兄にて日頃地方を旅行せらるる肖像画家なりとの事なりき。
さてその
夕われは是非にも門人となりたき由懇願せしに先生なかなか承知したまはず、小説家なぞにならんと思立つは
大なる心得違なり、君今学業を
放擲してかかる邪道に踏み迷はば他日必ず後悔
臍をかむ事あらん文筆を好まば唯正業の余暇これをなして可なりかつはまたわれは尾崎や川上とは異なりてかの人々の如く多く門生を養ひ教ふるの
煩に
堪へざるものなり、今までも度々人に頼み込まれし事あれど皆ことわりぬ。されば到底貴下の満足する如く丁寧に教ふる事は
叶ひがたかるべし。もしそれにてもよければやむをえざる故唯折々
暇あらん時遊びに
来られよ。我もまたいそがしからずば君が草稿の字句
仮名遣の誤ぐらゐは正すことを得べしといはれけり。わがよろこび誠に筆紙のつくすべき処ならず
幾重にもよろしくとてその日は携へ来りし草稿『
簾の月』一篇を差置きもぢもぢして帰りけり。
柳浪先生の
繍眼児を飼ひて楽しみとせられしはあたかも余の始めて先生を見たりしその頃より始まりしなり。最初『簾の月』一篇を置きて帰りし折には胸のみとどろきし故にや小鳥の籠の
有無には更に心もつかざりしが、その後重ねて教を乞ひにと行く度々鳥籠は一ツ二ツと
増え
来りてその年の冬には六畳の間の片隅一間の壁に添ひて繍眼児の籠はさながら鳥屋の店の如く積重ねらるる事二、三段にも及びやがて鶯の籠さへかの墨絵の遊女が一幅かけたる薄暗き床の間に二ツまで据ゑ置かれぬ。先生がその
内相を失はれたるはこの前年なりしといふ。されば守るにその人なき家の内何となく物淋しく先生独り令息
俊郎和郎の両君と静に小鳥を飼ひて
娯みとせられしさまいかにも文学者らしく見えて
一際われをして
景仰の念を深からしめしなり。それより後明治三十六年に及びてわれ
亜米利加に渡らんとするの時
暇乞ひに赴きし折には先生は
麻布龍土町に
居を移され既に二度目の夫人を迎へられたりき。
先生が矢来町の閑居には小鳥と共に門人もまた加はり来りぬ。最初に長谷川濤涯君次に
中村春雨君また女流の作家にてその名失念したれど妙齢の人代る代るかの六畳の間に机を据ゑたり。余は
一番町なる父の家より一週に一、二度は欠かさず草稿を携へて通ふ中やや読むに足るべきもの二、三篇先生の
添刪を経たる後博文館または春陽堂の編輯局に送られき。これと共にわれはまた川上眉山、小栗風葉、徳田秋声等の諸先輩折々矢来の閑居に
来るを見ておのづから
辱友となることを得るに至れり。かくて明治三十二年七月わが小説『
薄衣』と題せし一篇柳浪先生合作の名義にて初めて『文芸倶楽部』の誌上に掲げられたり。当時文壇に勢力ある雑誌はいづれも新作家が作を掲ぐる事を好まざりしよりかくは先生の許を得てその名を借用せしなり。この年朝日新聞記者
栗島狭衣君
牛込下宮比町の寓居に俳人
谷活東子と
携提して文学雑誌『
伽羅文庫』なるものを発行せんとするや矢来に来りて先生の新作を請へり。時に先生
筆硯甚多忙なりしがため余に題材を
口授し
俄に短篇一章を作らしむ。この作『
夕蝉』と題せられ
再合作の署名にて同誌第一号に掲げられぬ。『伽羅文庫』は二号を出すに及ばずして廃刊しき。
その頃わが一番町の書斎に
大山吾童とよぶ人しばしば遊びに来りぬ。当時尺八の名人
荒木竹翁の門人にて吾童といふはその芸名なり。余もまた久しく
浅草代地なる竹翁の家また
神田美土代町なる
福城可童のもとに通ひたる事あり度々『
鹿の
遠音』『月の曲』なぞ吹合せしよりいつとなく懇意になりしなり。この人生れてより
下二番町に住み
巌谷小波先生の門人とは近隣の
誼にて自然と
相識れるが
中にも取りわけ
羅臥雲とて
清人にて日本の文章俳句をよくするものと親しかりければ互に往来する中われもまた羅君と語を
交るやうになりぬ。羅氏俳号を
蘇山人と称す。
大清公使館通訳官
浙江の人
羅庚齢の長子なり。この人或日の夕
元園町なる小波先生の邸宅に文学研究会あり木曜日の夜
湖山葵山南岳新兵衛なんぞ呼ぶ門人多く相集まれば君も行きて見ずやとてわれを伴ひ行きぬ。これ余の始めて木曜会に
赴きしいはれなり。木曜会の事はここにいはずとも既にその主人が手記せるもの『
駒のいななき』といふ書の中に掲げられたれば就きて
看るこそよけれ。
乙羽庵主人大橋氏
逝きて
後『文芸倶楽部』の主筆に
三宅青軒といふ小説家ありけり。日頃人に向ひて『文芸倶楽部』はわれを戴きて主筆とせしより
忽発行部数三、四万を
越るに至れりと
誇顔に語るを常としき。また人の文学を談ずる事あれば当今小説家と称するもの枚挙に
遑あらざれど真に文章をよくするものに至つてはもし
向島の
露伴子を
措きなば恐らくは我右に
出るものあらざるべしと
傍若無人しきりに豪語を放ちて自ら高うせしかば新進気鋭の作家一人として青軒を憎まぬものはなかりけり。されど『文芸倶楽部』によりてその作を発表せんには是非にも主筆の知遇を待たざるべからずとて怒を忍び辞を低うして虎の門
外なるその家を
訪ふものも
尠なからず。
一日おのれも菓子折に
生田葵山君の紹介状を添へ
井上唖々子と打連れ立ちて行きぬ。日頃噂に聞く大家の事なれば最初はまづ門前払なるべしと内々覚悟せしにわけもなく二階の書斎に通され君らは巌谷の門生なりとか。これまでに何か書きたる事ありやと話は
容易く先方より切出されぬ。唖々子はその頃
頻に斎藤緑雨が文をよろこび雅号を
破垣花守と称ししばしば緑雨が『おぼえ帳』に似たるものを作りゐたり。この
夜も一文を懐中にせしままおそるおそる
取出して閲覧を請ひけるに青軒子仔細らしく打見て墨を濃く摺り書体を
叮嚀に書かるるは若き人に似ず感心なりとそれよりそろそろ世の新進作家なるものの生意気なる事をさまざま口ぎたなく痛罵したる後君たち文章を書かんと思はば何はさて置き漢文をよく読み給ふべしそれも
韓柳の文のみにて足れりといふにあらず
艶史小説の
類殊に必要なり。されば支那小説の事に関してはわれもまた露伴子と共に決して人後に落つるものならずと言ふ。唖々子はかつて文学博士
島田篁村翁の家塾にあり漢学の素養浅からざるの人。おのれもまたいはゆる門前の小僧習はざれども父より
聞かじりたる事なきにあらざりしかば問はるるがままに
聊か答ふる処ありしにぞ
大に青軒翁の信用を博しその
夜携へ行きける我が原稿は唖々子のものと共に即座に『文芸倶楽部』誌上に掲載の快諾を得たりき。
この青軒先生こそはやがてわれをば
桜痴居士
福地先生に紹介の労を取られし人にてありけれ。されどこの
度の訪問は初めて
硯友社の諸先輩を歴訪せし時とは異りて容易に望を遂ぐる事能はざりけり。福地先生の
邸はその時
合引橋手前
木挽町の
河岸通にて
五世音羽屋宅の並びにてありき。一番町のわが
家よりかしこまでは電車なければかなりの遠路なりしを歩み歩みて朝八時頃われは先生が外出したまはざる前をと思ひて三、四度、また夕刻帰邸の時分をはかりて五、六回、先づ青軒翁が紹介状を呈出し面談の
栄を得ん事を請願せしが、或時は不在或時は多忙或時は
不例或時は来客中とばかりにて遂に望の叶ふべき模様もなかりけり。さすがの我も
聊か疲労しかつはまたこの上
強ひんには礼を失するに至らん事を
虞れせめてわが芝居道熱心の
微衷をだに開陳し置かばまた何かの折宿望を達するよすがにもなるべしと長々しき論文一篇を草しそつと玄関の敷台に差置きて立ち去りぬ。やがて半月あまりを経たりしに突然福地家の執事
榎本破笠子より
予て先生への御用談一応小生より
承り
置べしとの事につき御来車ありたしとの書面に接し即刻番地を目当に同じく木挽町の河岸通なる破笠子が寓居に赴きぬ。これ明治三十三年わが二十二歳の夏なりき。
さて破笠子はおのれが歌舞伎座作者部屋に入り芝居道実地の修業したき心底
篤と聞取りし後
倶に出でて福地家に至り勝手口より上りてやや暫くわれをば
一間に控へさせけるがやがてこなたへとて先生の書斎と覚しき座敷へ導きぬ。川風凉しき夏の夕暮は
燈火正に点ぜられし時なり。福地先生は風呂より上りし所と見えて
平袖中形牡丹の
浴衣に
縮緬の
兵児帯を前にて結び
大なる革蒲団の上に座し
徐に銀のべの
煙管にて煙草のみてをられけり。破笠子は
恭しく手をつき
敷居際よりやや進みたる処に座を占めければ伴はれしわれはまた一段下りて僅に膝を敷居の上に置き得しのみ。破笠子の口添を待ちわれは
今夕図らず拝顔の望を達し
面目この上なき旨申述ぶる中にも万一先生よりわが学歴その他の事につきて親しく問はるることあらば何と答へんかなぞ
宛ら警察署へ鑑札受けに行きし芸者の如く独り胸のみ痛めけるが、先生は更にわが
方には見向きもしたまはず破笠子を相手に
今朝巴里の
川上(壮士役者音二郎が事なり)より新聞を郵送し
来れりとて巴里劇界の消息を
語出されぬ。かくて三十分ばかりにて我は再び破笠子に伴はれ福地家を辞して帰りしがそれより三、四日にして歌舞伎座盆興行の稽古となるやわれはここに榎本氏
請人にて歌舞伎座へ証文を入れいよいよ
梨園の人とぞなりける。証書の
文言左の如し。
一
私儀狂言作者志望につき福地先生
門生と
相成貴座楽屋へ
出入被差許候上者劇道の秘事楽屋一切の密事
決而口外
致間敷候
依而後日のため
一札如件 歌舞伎座稽古は
後々まで三階運動場を使用するが例なり。稽古にかかる前破笠子より葉書にて作者部屋のものを呼集め
手分なして
書抜をかく。当日われは破笠子より作者の面々に引合されつづいて翌日
本読にと先生出勤の折には親しく皆のものへよろしく頼むとの
一言これまことに
御前の御声掛りにして作者の面々
自らわれをば格別の客分たらしめんとするにぞわれは破笠子に
計りて客分の待遇は小生の願ふ所にあらず旦那芸はかへつて
甚しき耻辱なれば
何卒楽屋古来の慣例に従ひ寸毫の遠慮なく使役せられん事を
請うて止まざりしかば破笠子さればとて重ねて先生へ申上げわれをば
竹柴七造といふ作者の
預弟子となしこの人より楽屋万端の心得
拍子木の入れ方など見習ふ事となしぬ。時に歌舞伎座作者部屋には榎本氏を除きて四人の作者あり。竹柴七造
竹柴清吉は
黙阿弥翁の
直弟子にて一は成田屋
付一は音羽屋付の
狂言方とて
重に
団菊両優の狂言
幕明幕切の
木を受持つなり。他に
竹柴賢二浜真砂助といふ作者ありき。賢二といへるは
寺内河竹新七の弟子なればなほ
血気盛の年頃なりしが真砂助は先代
瀬川如皐の弟子とやらよほどの高齢なるに寒中も帽子を
冠らず
尻端折にて
向脛を出し
半合羽日和下駄にて
浅草山の
宿辺の
住居より木挽町楽屋へ通ひ衣裳
鬘大小の道具帳を書きまた番附表看板
等の下絵を綺麗に書く。この老人
猿若町三座表飾の事なぞ
委しく知りゐたり。
さてわが始めて劇部の人となり親しく稽古を見たりし盆興行は団菊両優は休みにて
秀調染五郎家橘栄三郎松助ら一座にて一番目は染五郎の『
景清』
中幕は福地先生新作長唄
所作事『
女弁慶』(秀調の
出物)二番目家橘栄三郎松助の「
玄冶店大喜利」家橘栄三郎の『
女鳴神』
常磐津林中出語りなりき。作者見習としてのわが役目は木の稽古にと幕ごとに
二丁を入れマハリとシヤギリの
留を打つ事幕明幕切の時間を日記に書入れ、楽屋中へ不時の通達なすべき事件ある折には役者の部屋々々大道具小道具方衣裳
床山囃子方等楽屋中漏れなく触れ歩く事等なり。
着到の太鼓打込みてより一日の興行済むまでは厳冬も羽織を着ず部屋にても
巻莨を遠慮し作者部屋へ
座元もしくは来客の方々見ゆれば叮嚀に茶を汲みて出しその
草履を揃へまた
立作者出頭の折はその羽織をたたみ食事の給仕をなし始終つき添ひ働くなり。わがしばしば草履をそろへ茶を汲みて
出せし楽屋のお客様には
大槻如電永井素岳などありけり。
九月となりてわれはここに初めて団菊両優の
素顔とその稽古とを見得たり。狂言はたしか『
水戸黄門記』
通しにて中幕「
大徳寺」
焼香場なりしと記憶す。団十郎はその年春興行の折病に
罹り一時は危篤の噂さへありしほどなればこの度菊五郎との
顔合大芝居といふにぞ景気は
蓋を明けぬ中より
素破らしきものなりけり。つづいて十一月には一番目『
太功記』
馬盥より
本能寺討入まで
団洲の
光秀菊五郎
春永なり中幕団洲の
法眼にて「
菊畑」。菊五郎の
虎蔵福助の息女を相手にしての
仕草六十
余の老人とは思へぬほど若々しく水もたれさうな
塩梅さすがに古今の名優と楽屋中にても人々驚嘆せざるはなかりけり。二番目は菊五郎の「
紙治」これは
丸本の「紙治」を舞台に演ずるやう
河竹新七のその時
新に
書卸せしものにて
一幕目小春髪すきの
場にて
伊十郎一中節の小春をそのまま
長唄にしての独吟あり廻つて
河庄茶屋場となる
二幕目は
竹本連中出語にてわれら聞馴れし
炬燵の
場引返して
天満橋太兵衛殺の
場となる。当時の劇界いまだ
鴈治郎を知らず「紙治」はいと珍しきものなりしが如し。菊五郎と鴈治郎とはもとより
雲泥の相違あるものなれば並べていひ
出るは誤りなれども近頃鴈治郎を見馴れし目より当年の菊五郎を思へば幕明きし時
定木を枕に
後向きに横はりし
音羽屋の姿は実に何ともいへたものにはあらず小春が手を取りよろよろと駆け出で
花道いつもの処にて
本釣を打ち込み
後手に
角帯引締め
向を見込むあたり全く二度とは見られぬものなりけり。この狂言
書卸の事とて稽古に念を入れし事到底
今人の思ひも及ばぬ処なるべし。書抜の
読合済みし日音羽屋は茶屋
三州屋二階に
竹本相生太夫を招き置きて「紙治」一段を語らせこれを登場俳優一同に傾聴せしめ、なほ浄瑠璃すみし
後は親しく
役々言葉の語りやうをば太夫へ質問するなぞ苦心のほど察するに
余あり。初日を出せし後にも二、三度
合方を替へそれにてもなほ落ちつかぬ模様なりけり。
芸談に耽らば限りなき事なれば筆をとどむ。歌舞伎座今は
殆その外観を変じたれど元より改築したるにあらねば楽屋の部屋々々今なほかつてわが見たりし当時に異ならず。十年の後われ
遠国より帰来してたまたま知人をここに訪ふや当時の部屋々々空しく存して当時の人なく当時の妙技当時の芸風また地を払つてなし正に国亡びて
山河永にあるの嘆あらしめき。長々しく昔をのみ語るの愚を笑ふ
勿れ。当時楽屋口を入りて左すれば福助松助の
室あり右すれば
直に作者
頭取部屋にして
八百蔵の室これに隣りす。それより小道具衣裳方あり廊下の
端より離れて
団洲の室に至る。
小庭をひかへて
宛然離家の
体をなせり。
表梯子を
上れば
猿蔵染五郎
二人の室あり家橘栄三郎これに隣してまた鏡台を並ぶ。それより床山を間にして
間口甚ひろきものは
即菊五郎の室にして隣りは
片岡市蔵それよりやがて裏梯子の
降口に秀調控へたりき。三階は
相中大部屋なればいふに及ばざるべし。団八梅助頭取をつとめき。
秋暑の
一日物かくことも苦しければ身のまはりの手箱
用箪笥の
抽斗なんど取片付るに、ふと上田先生が書簡四、五通をさぐり得たり。先生
逝きて既に三年今年の
忌日もまた過ぎたり。
駒光何ぞ
駛するが如きや。
おのれ始めて上田先生が
辱知となるを得たりしは千九百八年三月先生の
巴里に滞留せられし時なり。これより先わが身なほ
里昂の
正金銀行に勤務中一日公用にてソオン
河上の
客桟に
嘲風姉崎博士を訪ひし事ありしがその折上田先生の
伊太利亜より巴里に
来られしことを聞知りぬ。わが胸はいまだその人を見ざるに先立ちて怪しくも轟きたり。何が故ぞや。そもそもその
年月わが身をして深く西欧の風景文物にあこがれしめしは、かの『即興詩人』『
月草』『かげ
草』の如き森先生が著書とまた『最近海外文芸論』の如き上田先生が著述との感化に外ならざればなり。わが身の始めてボオドレエルが詩集『悪の花』のいかなるものかを知りしは上田先生の『太陽』臨時増刊「十九世紀」といふものに物せられし近世
仏蘭西文学史によりてなりき。かくてわれはいかにかして仏蘭西語を学び仏蘭西の地を踏まんとの心を起せしが、
幸にして今やその望み
半既に達せられし折柄、あたかも
好し先生の巴里に
来れるを耳にす。わが
欣び
譬へんに物なし。やがてわれは里昂の銀行を辞職し巴里に入りて
拉甸区の一
客舎に投宿したり。然れども巴里にはもとより知る人ひとりもなかりしかば先生の旅館も知るによしなく紹介を求めんにもそのつてなかりき。われは初めて北米に遊びてよりこの
年月語るに友なき境涯に馴れ果て今は
強ひて人を尋ねもとむる心もおのづからに薄らぎゐたりしかば、唯ひとり巴里の
巷の逍遥にうつらうつらと日を過すのみなりき。
ある
夜元老院門前の大通なる左側
小紅亭とよべる
寄席に行きぬ。この寄席もまた巴里ならでは見られぬものの一なるべし。木戸銭安く
中売の
婆酒
珈琲なぞ売るさまモンマルトルの卑しき寄席に
異らねど演芸は極めて高尚に極めて新しき管絃楽またはオペラの断片にて毎夜コンセルヴァトアルの若き楽師
来つて演奏す。折々
定連の客に投票を
請ひ新しき演題を定めあるひは作曲と演奏との批評を求むるなどこの小紅亭の高尚最新の音楽普及に力をつくす事
一方ならぬを察すべし。おのれドビュッシイ一派の新しき作曲大方漏すことなく聴き得たるはこの小紅亭の
夕なり。初て上田先生を見たるもまたこの小紅亭の夕ぞかし。
小紅亭の定連は多く拉甸区の書生画工にして時には
落魄せる老詩人かとも思はるる白髪の
翁を見る。その
夕中入も早や過ぎし頃ふとわれは聴衆の中にわが身と同じく黄いろき顔したる人あるを見しが、その人もまたわれを見て互に隔たりし席より
訝しげに顔を見合せたり。然れども
何人なるやを知らざれば言葉もかはさで去りぬ。これ
即上田先生にして、その
夕先生は
英吉利西風の背広に髭もまた英国風に刈り鼻眼鏡をかけてゐたまひけり。
次の日われサンジェルマンの四ツ角なる
珈琲店パンテオンにて手紙書きてゐたりしに、向側なる
卓子に
二人の同胞あり。相見れば
一人はわが身かつて外国語学校支那語科にありし頃見知りたりし
仏語科の
滝村立太郎君、また他の一人は
一橋の中学校にてわれよりは二年ほど上級なりし
松本烝治君なり。この旧友二人はその夕クリュニイ博物館前なる旅館にありし上田先生のもとにわれを
誘ひゆきたり。
翌年(明治四十二年)の春もなほ寒かりし頃かと覚えたりわれは既に国に帰りて父の
家にありき。上田先生
一日鉄無地羽二重の
羽織博多の帯
着流しにて突然
音づれ
来給へり。この時のわがよろこびは初めて巴里にて相見し時に優るとも劣らざりけり。なべて洋行中の交際としいへば多くは
諺にいふなる旅は道づれのたぐひにて帰国すればそのままに打絶ゆるを。先生のわが身に対する交情こそさる
通一遍のものにてはなかりしなれ。火鉢を間にしてわれらは互に日本服着たる姿を怪しむ如く顔見合せ今更の如く
昨日となりにし巴里のこと語出でて
愁然たりき。
明治四十三年の
初森上田両先生慶応義塾大学部文学科刷新の事に参与せらるるやわが身もその
驥尾に附して
聊か為す所あらんとしぬ。事既に十年に近き昔とはなれり。当時はあからさまに言ひがたき事なきに
非ざりしかど十年
一昔の今となりては、いかに慎みなきわが筆とて
最早や
累を人に及さざるべし。その頃われは父への手前心はもとより進まねど何処か学校の教師にてもやせんと
思煩へる折からなり。ふと第三高等学校仏蘭西語の教師に人を要するやの噂ちらと耳にせしかば早速事を京都なる先生に
謀りしことありき。これに対する先生の返書今偶然これを
篋底に見出しぬ。再読するにまのあたり生ける先生の言を聞くが如し。
妄にこれを左に録する
所以感慨全く禁ずべからざるがためなり。
拝啓久しく御無沙汰に打過ぎ
候段平に
御宥免被下度候しかし毎度新聞雑誌にて面白き
御作拝見
仕りわれら芸術主義の
徒のためかつは徳川の懐かしき趣味のため御奮闘ありがたく
奉感謝候、小生事去年の秋よりついつい上京の機を得ず帝都の
眼覚しき活動に遠ざかりて残念至極に候まま
明日は明日はと思ひつつ
今日までに
相成候が今月末は是非とも東京へ参り御眼にかかりたく
存をり候実はただ今
直にても御面会致し親しく懇願
致度事件
出来候が何分意に
任かさず候故手紙にて申上候
昨年御手紙にて当地高等学校仏蘭西語学教師の件御話これあり候が早速その
向を探り申候処今年九月よりの事なれば何分まだ人選
等の事は校長にも深く考へをらず従つて御尊父様の御親交ある
松井博士の紹介あらば自然御就任の事となるべしと考へ小生もあまり騒立てぬ方かへつてよろしからむと
控をり候しかし小生の心の底には別に一種の考ありて貴兄の
御入洛を小生自身にとりて非常なる幸福と存ずると共にただ今帝都にて新芸術の
華々しき活動を試みさせ給ふ貴兄をして教育界の沈滞したる空気中に入れしかも京都の如き不徹底古典趣味の田舎へ移す事は貴兄自身にとりてもわが文学のためにも
不得策にはあらざるかとやや心進まざる
向もこれあり種々熟考仕候その内段々時日を経てその後の
経行を観察仕候処一、二の候補者も
出来たれど、どれもまだ確定せず教授の細目も聞合せ候が仏語の極めて初歩のみを教へる事にて
重に当地あるひは東京の仏蘭西法科へ入学する者のための如く
随て狭い田舎の事なれば自然大学の教師なぞよりも幾分か注文も出るならむと考へ候かたがた取集めて考へればあまり面白き事業とは思へずまたたとへ忍び得る事としても貴兄の如き芸術家をかかる刺※
[#「卓+戈」、105-5]の少き田舎に置く事はどうしても口惜しい事ならむと確信の度ますます強く相成申候それ故御返事を今日まで怠りをり申候この段まことに失礼に候ひしが何かもつと華々しき事業をと心掛けついつい今日に相成候然るに一月三十一日に至りて急に東京より来信これあり珍らしき事を聞込候
この事は非常に秘密に
致をり候やうに
承をり候が実は今度東京の慶応義塾にてその文学部を大刷新しこれより
漸々文壇において大活動を
為さむとする計画これありそれにつき文学部の中心となる人物を定むる必要を感じ候
趣に候、そこで三田側の諸先輩一同
交詢社にて大会議を開き森鴎外先生にも
内相談ありしやうに覚え候が、義塾の専任となりて
諸の画策をする文学家を選び候処
夏目漱石氏か小生をといふ事に相定候由、然るに夏目氏は朝日新聞の関係を絶つ事
難くして交渉
纏らずまた森先生より小生に頼むやうにと義塾の人が
千駄木を訪問したる時、森先生のいはるるには、京都大学の関係上小生の交渉もむづかしからむと申され候由、そこで先方の言ふには小生のことわりたる時誰がそれならば適当ならむとあるに答へて、森先生は貴兄を推薦なされ候、先方の申すには然らば小生に頼む時いつそ事情を打明けて小生の
身上動きがたき場合には直ちに小生より貴兄へこの事件交渉してもらひたしとの事に御座候、小生は森先生の手紙に対し種々考を述べ置候が要するにただ今京都を去る事は出来兼ね候
趣返事いたし、また貴兄を推薦されし森先生の眼光に服しをる旨申送り候、右やうの次第万事打明け候が貴兄はこの交渉に御応じの
御心如何にや、三田の中心となりて文壇にそれより御雄飛の御奮発は小生の
偏に懇願する所何卒御快諾の吉報に接したく存をり候もとより御内意を伺ふまでにて事定らば別に正式の交渉はこれあるべく候
委細の事は
御面唔の節と存候が小生の聞込みたる処にては、唯学校を盛にするだけの事ではなくもつと
大なる運動の序幕かと存をり候例へば帝国劇場の如きは義塾の側より殆ど自在に使ひ得られべきやう見受けられ
余は言はずとも
種々面白き事ありさうに候、芸術家最高の事業はどうしても劇部にありと信ずる小生はこれを聞いて
直にモリエエルやグリックやゲエテ、ワグナアさてはアントワンを思出し何かの形にてこの愉快なる事業に助力したく自分でも
大に心を動かし候なほ委しくは森先生と御相談あるもよろしかるべきが、以上の
成行筆紙にてニュアンスを尽しがたく候がざつと
如斯に候
条件については決して不満足のなきやう
致べく、その方は殆どカルト・ブランシュの如き様子に候、これまた御承諾さへ相成らば森先生が万事
御含みのやうに候とにかく芸術のためこの際御快諾の
御報に接するやう
祈上候
匆々 二月五日
上田敏
永井荷風様侍史
張目飛耳の
徒多き今の文界なれば万事決定まで何分内密に願上候
悦子よりもよろしく申上候田舎にありて
曾遊の地を思ひつづけをり候ままかつてとまりしホテルの紙を用ゐ候
この書信は
維納の
客桟ホテル・ブリストルの記章を印刷したる書簡箋にペンにてこまごまと
認められたり文中悦子とあるは令夫人なり。
諄々としてわが身のことを説き
諭さるるさま
宛ら慈母の
児を見るが如くならずや。この一書によりてわが三田に入りし当時の消息もまたおのづから
分明なるべし。わが返書に対し折返して到着したる先生の書次の如し。その全文を掲ぐ。
二月七日の御手紙拝見仕候
先は過日の唐突なる願事御聞届
被下候段深く感謝仕候その後森先生とも種々御打合せの御事と察し申候が何卒折角の壮挙ゆゑ三田の方御助力を懇願仕候御謙遜の御手紙なりしが決して貴兄ならば成功せざるはずなしと確信仕候殊に御自身教鞭を執らるるのみならずその上
向後の発展上一種の Elan を与へ奮心を
惹起する任務は普通の学究にては出来にくかるべしと思へばこそ貴兄へ懇請仕候ひしかと存候小生は本月末か来月早々上京のつもりに候故その時
篤と御話申上ぐべく候
京都にては全く
話対手なく困却仕候唯宅の者と散歩して食事でもするより他に致方なく候ただ本年は元日より今日まで毎日拙作を起草しそれにて
紛れをり候この地はとにかく読書にも創作にも不適当なるぶるじよあじいの国にて御話にならぬ
無聊の
郷に候唯この頃はルウィエといふ
伊東さんのお嬢さんを
娶つた若い海軍士官と往来しこの
他に先月より二、三人急に仏蘭西人が加はつてややおもしろく相成候
きのふの御作中
柳橋の芸者が
新橋といふ敵国を見る処おもしろく拝見仕候また先日のモリス・バレスが故郷の
白楊の並木をおもふ一節感服仕候当地の
平田禿木氏はボオ・ブラムメルの処を見て
英国好の人なれば甚だ嬉しがりをり候文芸に型や主義は要らず縦横に書きまくるが
可しと考ふる小生は貴兄の
作物が鳥の歌ふ如く自然に流れでるのを羨ましく思をり候今後種々の方面へ筆を向けて、あとから追付かむとする評論家の息をはずませてやり給へと遥かに
嘱望仕候
有楽座にて二十六日はヴィニエッチ氏の音楽と他に『椿姫』の芝居これあり候由もし上京して間に合はば幸福と存候がちとむづかしく候
過日同座にて一度御眼にかかりしのみなれど何卒御尊父様並に御母堂へよろしく
御鳳声被下度候 匆々
二月十一日朝
上田敏
永井荷風様侍史
かくの如く先生はわが拙作の世に
出るごとにあるいは書を寄せあるいはわが
家に
来給ひて激励せられき。『三田文学』第一号漸く出でんとするや先生の書簡はますます細事に
渉りて懇切をきはめぬ。
拝啓益々御清適の段
奉賀候、その後『三田文学』御経営の事
如何に相成候や過日大倉書店番頭
原より他の事にて二回ほど書面これあり候
序に、はじめは談判不調(
尤も
与謝野君との間の略式の話について)次にはまた再度貴兄及び塾と談合をはじめたる趣を書添へをり候とにかく雑誌御経営の困難御察申候
これにつき森先生の意見は如何に候や小生の考にては原稿料は多少他よりも高く見積りて置く事必要なるは先日申したる如くに候が何もづぬけて高くするにも及ばずはじめよりあまり多く売らむと計りても無益かと存候、要するに二百頁の雑誌とすれば毎月三百円の総入費あらば事足りむか、自営にすればその幾分は確に戻つて来るはず、
書肆の方には一年に月数拾円の損として他方に広告機関ともなる利益もあるはずこの条件に近い所にて大倉もうけ合ひさうなものに候がどういふ
工合にて謝絶せしやら何はともあれ来月中旬にいづれ雑誌発刊の
運と存候ついてはほぼ原稿締切期限等
御示教被下度候小生も何か
一文寄稿したく候
一昨日より家内および娘とともに宇治川に遊んで
河沿の宿にとまり翌朝奈良へまかりこして新築の奈良ホテルといふに休み、そこより車を雇ひて
春日社頭の鹿をはじめ名所遊覧仕候がホテルの赤旗をつけた車にのつた所はまるでめりけんの観光団に御座候ひき、
夢見の
里とも
申べき Nara la Morte にはかりよんの
音ならぬ
梵鐘の声あはれに
坐ろ
古を思はせ候、その時またおもふやう
安倍仲麿がこの小さき
邑を出でて大陸の支那しかも唐代の支那を見た時、とても帰られなくなりて今欧洲の
大都に遊ぶ人の心の如くに日本を
呪詛せしものと存候このつぎ御来遊のせつは御一所に奈良へ出かけたきものに候
妻よりよろしく 匆々
三月二十一日
上田敏
永井荷風様侍史
大正五年われ既に病みてつかれたり。まさに退いて世の交りを断たん事を欲し
妓家櫛比する
浅草代地の
横町にかくれ住む。たまたま両国大相撲春場所の初日に当りてあたり何となく色めき立てる
正午近くなり。われ
銭湯より手拭さげて帰り
来る
門口京都より
東上せられし先生の尋ね
来らるるに会ひぬ。さては先生の寛容深くわが放蕩無頼を
咎めたまはざるかと、思へばいよいよ喜びに堪へず、直に
筋向なる
深川亭にいざなひしが、何ぞ
図らんこの会飲
永劫の別宴とならんとは。心ゆくばかり半日を語り尽して酒亭を出でしが表通は相撲の打出し間際にて電車の雑沓
甚しかりければ、しばしが
間とて再びわが
隠家の二階に
請じて初夜過ぐる頃までも語りつづけぬ。わが
家の近くには
豊沢松太郎竹本播磨太夫の
住居妓家の間に
交りてありければにや、女の
音〆には似も寄らぬ正しき
太棹の響折々漏れ聞ゆるにぞ談話は江戸俗曲の事また先頃先生のさる
書肆より翻刻を依頼せられしといふ『
糸竹初心鈔』がことより、やがてはわがその頃の作品の批判に移りて、かかる種類のものにては
笠森お
仙が一篇
詞最もおだやかに
想最もやはらかに形また最もととのひしものなるべしと語られけり。
数日の後先生再び京都に
赴かんとせらるるや我いかにしけん今までは一度も先生を停車場に送りたる事なかりしを。
後にて
思合すれば虫が知らせしなるべし。この
夕ばかりは怪しくも中央停車場に出で行く心起りて、食堂の
卓子に汽車出づる間際まで令夫人令嬢と共に
珈琲をすすりこの次夏の休みの御上京を待たんと言ひしがそは全く
仇なる望にてありけり。
大正五年七月九日先生の
訃いまだ
公にせられざるに先立ち
馬場孤蝶君悲報を二、三の親友に伝ふ。余
倉皇として車を先生が
白金の
邸に走らするに一片の香煙既に寂寞として
霊柩のほとりに漂へるのみ。われこれを見し時
咄嗟の感慨あたかも万巻の図書
咸陽一炬の
烟となれるが如き思ひに打たれき。わが当代の文化や先生の訃によつてその失ふところ殆ど計り知るべからざる事を思ひたればなり。
大正七年稿