偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆そうであろう。
わたくしが
砂町の南端に残っている
元八幡宮の
古祠を
枯蘆のなかにたずね当てたのは全く偶然であった。始めからこれを尋ねようと思立って杖を曳いたのではない。漫歩の途次、思いかけずその処に行き当ったので、不意のよろこびと、突然の印象とは思立って尋ねたよりも遥に深刻であった。しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは
蒼茫たる
暮烟につつまれて判然としていなかったのも、印象の深かった
所以であろう。
或日わたくしは
洲崎から
木場を歩みつくして、
十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の
欄には
豊砂橋としてあった。
橋向には広漠たる空地がひろがっていて、セメントのまだ生々しい
一条の新開道路が、
真直に走っていたが、行手には雲の影より外に目に入るものはない。わたくしはその日地図を持って来なかったので、この新道路はどこへ出るものやら更に見当がつかなかったのであるが、しかしその
果はいずれ放水路の堤に行き当っているにちがいない。堤に出さえすれば位置も方角も自然にわかるはずだと考え、案内知らぬ道だけにかえって興味を覚え、目当もなく歩いて行くことにしたのである。
道路は
市中の昭和道路などよりも一層ひろいように思われ、両側には歩道が設けられていたが、ところどころ会社らしいセメント
造の建物と
亜鉛板で囲った小工場が散在しているばかりで、人家もなく、人通りもない。道の左右にひろがっている空地は道路よりも地盤が低いので、歩いて行く
中、突然横から吹きつける風に帽子を取られそうな時などは、道を行くのではなく、長い橋をわたっているような気がした。
道が
爪先き上りになった。見れば鉄道線路の土手を越すのである。鉄道線路は二筋とも
錆びているので、滅多に車の通ることもないらしい。また踏切の板も渡してはない。線路の上に立つと、見渡すかぎり、自分より高いものはないような気がして、四方の眺望は悉く眼下に横わっているが、しかし海や川が見えるでもなく、砂漠のような埋立地や
空地のところどころに汚い
長屋建の人家がごたごたに寄集ってはまた途絶えている光景は、何となく知らぬ国の村落を望むような心持である。遥のかなたに
小名木川の
瓦斯タンクらしいものが見え、また反対の方向には村落のような人家の尽きるあたりに、草も木もない黄色の岡が、孤島のように空地の上に突起しているのが見え、その麓をいかにも急設したらしい電車線路が走っている。と見れば、わたくしの立っている土手のすぐ下には、
古板で囲った小屋が二、三軒あって、スエータをきた男が裸馬に
飼葉を与えている。その
側には朝鮮人の女が物を洗っている。わたくしは鉄道線路を越しながら、このあたりの光景を名づけて何というべきものかと考えた。かつて何もなかった処であるから、荒廃でもなく破壊でもない。放棄せられたまま顧みられない風景とでもいうのであろう
······。
セメントの新道路は鉄道線路の向へ行っても、まだ行先が知れない。初めわたくしはほどなく
荒川放水路の土手に達するつもりであったので、少し疲労を覚えると共に、
俄に方角が知りたくなった。丁度道の片側に汚い長屋建の小家のつづきはじめたのを見て、その方の
小路へ曲ると、忽ち電車の線路に行当った。通りがかりの人に道を尋ねると、左へ行けばやがて
境川、右へ行けば直ぐに
稲荷前の停留場へ出るのだというのである。
わたくしはこの辺の地理には
明くない。三十幾年のむかし、洲崎の遊里に
留連したころ、
大門前から堀割に沿うて東の
方へ行くとすぐに砂村の
海辺に出るのだという事を聞いて、漫歩したことがあったが、今日記憶に残っているのは、
蒹葭の唯果も知らず生茂った間から白帆と鴎の飛ぶのを見た景色ばかりである。思うに、今日東陽公園先の運動場になっているあたりを歩いたのかも知れない。砂村は今砂町と改称せられているが、むかしの事を思えば「砂村町」とでも言って置けばよかったのである。
わたくしは歩いている小道の名を知ろうと思って、物売る家の看板を見ながら行くと、長屋建の小家のつづく間には、ところどころ柱の太い
茅葺屋根の農家であったらしいものが残っているので、むかしは稲や蓮の葉の波を打っていた処である事を知った。農家らしい
古家では今でも
生垣をめぐらした平地に、
小松菜や
葱をつくっている。また方形の広い池を
穿っているのは養魚を業としているものであろう。
突然、行手にこんもりした樹木と神社の屋根が見えた。その日
深川の町からここに至るまで、散歩の途上に、やや年を経た樹木を目にしたのはこれが始めてである。道は辻をなし、南北に走る電車線路の柱に、「稲荷前」と書いてその下にベンチが二脚置いてある。また東の方へ曲る角に巡査派出所があって、「砂町海水浴場近道南砂町青年団」というペンキ塗の
榜示杭が立っていた。
わたくしが偶然
枯蘆の間に立っている元八幡宮の古祠に行当ったのは、砂町海水浴場の榜示杭を見ると共に、何心なく一本道をその方へと歩いて行ったためであった。この一本道は近年つくられたものらしく、敷きつめられた砂利がまだ踏みならされていない処もある。右側は目のとどくかぎり
平かな砂地で、その
端れは堤防に限られている。左手はとびとびに人家のつづいている中に、不動院という門構の寺や、医者の家、
土蔵づくりの雑貨店なども交っているが、その間の路地を覗くと、見るも哀れな裏長屋が、向きも方角もなく入り乱れてぼろぼろの
亜鉛屋根を並べている。
普請中の
貸家も見える。道の上には長屋の子供が五、六人ずつ群をなして遊んでいる。
空車を曳いた馬がいかにも疲れたらしく、
鬣を垂れ、
馬方の背に額を押しつけながら歩いて行く。職人らしい男が二、三輛ずつ自転車をつらね高声に話しながら走り過る
······。
道は忽ち静になって人通りは絶え、霜枯れの雑草と枯蘆とに
蔽われた
空地の中に進入って、更に縦横に分れている。ところどころに泥水のたまった養魚池らしいものが見え、その岸に沿うた
畦道に、夫婦らしい男と女とが糸車を廻して綱をよっている。その響が
虻のうなるように際立って耳につくばかり、あたりは
寂として枯蘆のそよぐ音も聞えないのは、日も漸く傾いて、ひとしきり風の鎮る時刻になったせいであろう。赤塗の自転車に乗った電報配達人が綱を
綟っている男女の姿を見て、道をきいていたが、分らないらしい様子で、それなり元きた
彼方へと走って行った。
空はいつの間にか暮れはじめた。わたくしが電報配達人の
行衛を見送るかなたに、初て荒川放水路の堤防らしい土手を望んだ時には、その辺の養魚池に臨んだ番小屋のような小家の窓には
灯影がさして、池の
面は
黄昏れる空の光を受けて、きらきらと
眩く輝き、枯蘆と霜枯れの草は、かえって明くなったように思われた。ふと枯蘆の中に枯れた松の大木が二、三本立っているのが目についた。近寄って見ると、松の枯木は広い池の中に立っていて、その木陰には半ば朽廃した神社と、灌木に蔽われた
築山がある。庭は随分ひろいようで、まだ枯れずにいる松の
木立が枯蘆の茂った彼方の空に聳えている。垣根はないが低い土手と
溝とがあるので、道の
此方からすぐ境内へは
這入れない。
わたくしは
小笹の茂った低い土手を廻って、漸く道を求め、古松の立っている鳥居の方へ出たが、その時冬の日は全く暮れきって、軒の傾いた
禰宜の家の
破障子に薄暗い
火影がさし、歩く足元はもう暗くなっていた。わたくしは朽廃した社殿の
軒に辛くも「元富岡八幡宮」という文字だけを読み得たばかり。境内の碑をさぐる事も出来ず、鳥居前の曲った小道に、松風のさびしい音をききながら、もと来た一本道へと
踵を
回らした。
小笹と
枯芒の繁った
道端に、生垣を
囲した茅葺の農家と、近頃建てたらしい二軒つづきの
平家の貸家があった。わたくしはこんな淋しいところに家を建てても借りる人があるか知らと、何心なく見返る途端、格子戸をあけてショオルを肩に掛けながら外へ出た女があった。女は歩きつかれたわたくしを追越して、早足に歩いて行く。
わたくしは枯蘆の中の水たまりに
宵の
明星が
々として浮いているのに、覚えず立止って、出来もせぬ俳句を考えたりする
中、先へ行く女の姿は早くも夕闇の中にかくれてしまったが、やがて稲荷前の電車停留場へ来ると、その女は電柱の下のベンチに腰をかけ、電燈の光をたよりに
懐中鏡を出して化粧を直している。コートは着ていないので、一目に見分けられる着物や羽織。化粧の様子はどうやら
場末のカフェーにいる女給らしくも思われた。わたくしは枯蘆の中から化けて出た狐のような心持がして、しげしげと女の顔を見た。
電線の鳴る音を先立てて、やがて電車が来る。洋服の男が二人かけ寄って、ともどもに電車に乗り込む。洲崎大門前の終点に来るまで、電車の窓に映るものは電柱につけた電燈ばかりなので、車から降りると、町の
燈火のあかるさと蓄音機のさわがしさは驚くばかりである。ふと見れば、枯蘆の中の小家から現れた女は、やはり早足にわたくしの先へ立って歩きながら、
傍目も触れず大門の方へ曲って行った。狐でもなく女給でもなく、公休日にでも外出した娼妓であったらしい。わたくしはどこで
夕飯をととのえようかと考えながら市設の電車に乗った。
その
後一年ほどたってから再び元八まんの
祠を尋ねると、古い社殿はいつの間にか新しいものに建替えられ、夕闇にすかし見た境内の廃趣は過半なくなっていた。世相の急変は
啻に繁華な町のみではなく、この
辺鄙にあってもまた免れないのである。わたくしは最初の印象を記憶するためにこの記をつくった。時に昭和九年
杪冬の十二月十五日である。
元八幡宮のことは『江戸名所
図会』、『
葛西志』、及び風俗画報『東京近郊名所図会』等の諸書に
審である。
甲戌十二月記