『
矢筈草』と題しておもひ
出るままにおのが身の
古疵かたり
出でて筆とる
家業の
責ふさがばや。
さる頃も或人の
戯にわれを捉へて
詰りたまひけるは今の世に小説家といふものほど
仕合せなるはなし。昼の
日中も
誰憚るおそれもなく
茶屋小屋に出入りして女に戯れ遊ぶこと、これのみにても
堅気の若きものの目には
羨しきかぎりなるべきに、世の常のものなれば
強ひても包みかくすべき身の恥身の不始末、
乱行狼藉勝手次第のたはけをば尾に
鰭添へて
大袈裟にかき立つれば世の人これを読みて
打興じ遂にはほめたたへて先生と
敬ふ。
実にや人倫五常の道に
背きてかへつて世に迎へられ人に敬はるる
卿らが
渡世こそ
目出度けれ。かく戯れたまひし人もし深き心ありてのことならんか。この『矢筈草』目にせば遂にはまことに
憤りたまふべし。『矢筈草』とは
過つる年わが
大久保の
家にありける
八重といふ
妓の事を
記すものなれば。
八重その頃は
家の妻となり
朝餉夕餉の仕度はおろか、
聊かの
暇あればわが
心付かざる
中に机の
塵を払ひ
硯を清め筆を洗ひ、あるいは蘭の
鉢物の虫を取り、あるいは古書の
綴糸の切れしをつくろふなど、
余所の見る目もいと
殊勝に
立働きてゐたりしが、
故あつて再び身を
新橋の
教坊に置き
藤間某と名乗りて
児女に
歌舞を
教ゆ。
浄瑠璃の言葉に琴三味線の
指南して「
後家の
操も立つ月日」と。八重かくてその身の
晩節を
全うせんとするの心か。
我不レ知。
そもそも小説家のおのれが身の上にかかはる事どもそのままに
書綴りて一篇の物語となすこと西洋にては十九世紀の
始つ
方より
漸く世に行はれ、ロマンペルソネルなどと
称へられて今にすたれず。即ちゲーテが作『若きウェルテルの
愁』、シャトオブリヤンが作『ルネエ』の
類なり。わが国にては
紅葉山人が『
青葡萄』なぞをやその
権輿とすべきか。近き頃
森田草平が『
煤煙』
小粟風葉が『
耽溺』なぞ殊の外世に迎へられしよりこの
体を取れる名篇
佳什漸く数ふるに
遑なからんとす。わけても最近の『
文芸倶楽部』
(大正四年十一月号)に出でし
江見水蔭が『
水さび』と題せし一篇の如き我身には取分けて
興深し。されば我今更となりて八重にかかはる我身のことを
種として長き一篇の小説を
編み
出さん事かへつてたやすき
業ならず。小説を綴らんには是非にも篇中人物の性格を
究め物語の筋道もあらかじめは定め置く要あり。かかる苦心は近頃
病多く気力乏しきわが身の
堪ふる処ならねば、むしろ随筆の気儘なる
体裁をかるに
如かじとてかくは
取留めもなく
書出したり。小説たるも随筆たるも
旨とする処は
男女の仲のいきさつを写すなり。客と芸者の悶着を語るなり。亭主と女房の喧嘩犬も
喰はぬ話をするなり。犬は喰はねど
煩悩の何とやら
血気の方々これを読みたまひてその人もし
殿方ならばお客となりて芸者を見ん時、その人もし
芸者衆ならばお座敷かかりてお客の前に
出でん時、
前車の
覆轍以てそれぞれ身の用心ともなしたまはばこの一篇の『矢筈草』
豈徒に男女の
痴情を種とする売文とのみ
蔑むを得んや。
矢筈草は俗に
現の
証拠といふ薬草なること、江戸の人
山崎美成が『
海録』といふ随筆第五巻目に見えたり。曰く、「矢筈草俗に現の証拠といふこの草をとりみそ汁にて食する時は
痢病に
甚妙なり又
瘧病及び
疫病等にも甚
効あり
云々」。
この草また
御輿草と呼ぶ。
萩の
家先生が辞典『
ことばのいづみ』を見るに、「げんのしようこ
※牛児[#「特のへん+尨」、U+727B、116-2]。植物。草の名。
野生にして葉は五つに分れ
鋸歯の如き
刻みありて長さ一
寸ばかり、
対生す。夏のころ梅の如き
淡紅の花を開き
後莢をむすび熟するときは
裂けて
御輿のわらびでの如く巻きあがる。茎も葉も痢病の妙薬なりといふ。みこしぐさ。」とあり。
我この草のことをば八重より聞きて始めて知りしなり。八重その頃
(明治四十三、四年)新橋の
旗亭花月の裏手に
巴家といふ看板かかげて
左褄とりてゐたり。好まぬ酒も家業なれば是非もなく呑過して腹いたむる折々日本橋通一丁目
反魂丹売る
老舗(その名失念したり)に人を
遣して矢筈草
購はせ
土瓶に
煎じて茶の代りに呑みゐたりき。われ生来多病なりしかどその頃は腹痛む事稀なりしかば八重が
頻にかの草の
効験あること
語出でても更に心に
留むる事もなくて
打過ぎぬ。
然るをそれより三、四年にして
一夜激しき痢病に襲はれ
一時は
快くなりしかど春より夏秋より冬にと時候の変り目に雨多く降る頃ともなれば必ず腹痛み
出で
鬱ぎがちとはなりにけり。かつては寒夜客来
テ茶当
ツレ酒
ニ竹

湯沸
テ火初
メテ紅
ナリ〔
寒夜に
客来りて茶を酒に
当つ
竹
に
湯沸きて
火初て
紅なり〕といへる
杜小山が
絶句なぞ口ずさみて殊更
煎茶のにがきを好みし
朱泥の
茶
、今は矢筈草押込みて煎じつめ
夜ごと
眠につく時
持薬にする身とはなり果てけり。
八重近頃は身もいとすこやかになりしと聞く。さらば今は矢筈草も用なきこそ目出度けれ。
およそ人の一生血気の
盛を過ぎて、その身はさまざまの
病に
冒されその心はくさぐさの
思に悩みて今日は咋日にまして日一日と老い衰へ行くを、時折物にふれては身にしみじみと思知るほど情なきはなし。
宿昔青雲
ノ志、蹉
ス白髪
ノ年、誰
カ知
ル明鏡裏、形影自
ラ相憐
ム〔
宿昔 青雲の
志。
蹉
す
白髪の
年。誰か知る
明鏡の
裏。
形影自ら
相憐む〕とはこれ人口に
膾炙する唐詩なり。鏡に照して白髪に驚くさまは
仏蘭西の小説家モオパサンが『
終局』といふ短篇にも
書綴られたり。
われ
髪いまだ白からず。しかも既にわれながら老いたりと感ずること昨日今日のことにはあらず。父を
喪ひてその一週忌も過ぎける
翌年の夏の初、突然烈しき
痢病に冒され半月あまり枕につきぬ。元来酒を
嗜まざれば従つて日頃
悪食せし覚えもなし。
強ひて罪を他に負はしむれば
慶応義塾にて取寄する弁当の洋食にあてられしがためともいはんか。そも
三田の校内にては
奢侈の風をいましめんとて校内に取寄すべき弁当にはいづれもきびしく代価を制限したり。されば料理の材料おのづから粗悪となりてこれを
食へば
終日胸苦しきを覚ゆ。紅がらにて染めたるジャム
鬢付のやうなるバタなんぞ見る折々いつも気味わるしと思ひながら雨降る日なぞはつい門外の
三田通まで
出で行くに
懶く、その日も
何心なく一皿の
中少しばかり食べしがやがて二日目の
暁方突然
腸搾らるるが如き
痛に目ざむるや、それよりは
夜の
明放るるころまで
幾度となく
廁に走りき。
その頃わが住める
家はいと広かりき。われは二階なる南の六畳に机を置き北の八畳を客間、
梯子段に
臨む西向の三畳を
寝間と
定めければ、幾度となき
昇降りに疲れ果て両手にて痛む
下腹押へながらもいつしかうとうととまどろみぬ。
目覚れば
早や
午に近し。召使ふものの知らせにて離れの
一間に住み給ひける母上捨て置きてはよろしからずと
直様医師を
呼迎へられけり。われは心
窃に
赤痢に感染せしなるべしと思ひ付くや人の話にてこの病の苦しさを知り心は
戦々兢々たり。幸にして医師の診断によればわが病はかかる恐しきものにてはなかりしかど、
昼夜絶る
間なく
蒟蒻にて腹をあたためよ。
肉汁とおも湯の
外は何物も
食ふべからず。
毎朝不浄のもの検査すべければ薬局に送り届けよなぞ、医師はおごそかにいひ置きて帰り行きぬ。わが
家には父いませし頃より二十年あまりも召使ふ老婆あり。このもの医師の命ぜし如く早速蒟蒻あたためて
持来りしかばそれをば下腹におし当てて再びうとうとと眠りき。
南向の小窓に雀の子の母鳥呼ぶ声
頻なり。梯子段に
誰れやら昇り
来る足音聞付け
目覚むれば老婆の蒟蒻取換へに
来りしにはあらで、
唐桟縞のお
召の
半纏に
襟付の
袷前掛締めたる八重なりけり。
根下りの
丸髷思ふさま
髱後に
突出し
前髪を短く切りて
額の上に
垂らしたり。こは
過る日八重わが書斎に
来りける折書棚の
草双紙絵本の
類取卸して見せける
中に
豊国が絵本『
時勢粧』に「それ
者」とことわり書したる女の前髪切りて
黄楊の
横櫛さしたる姿の
仇なる、今時の芸者もかうありたしとわれの
戯れにいひけるを、何事も
気早の八重、机の上にありける
西洋鋏手に取るより早く前髪ぷツつり切落し、鏡よ鏡よとて喜びさわぎしその
名残りなりかし。
八重その年二月の頃よりリウマチスにかかりて舞ふ事
叶はずなりしかば
一時山下町の
妓家をたたみ心静に養生せんとて殊更山の手の
辺鄙を選び
四谷荒木町に隠れ住みけるなり。わが
家とは
市ヶ
谷谷町の
窪地を隔てしのみなれば日ごと二階なるわが書斎に来りてそこらに
積載せたる新古の小説雑書のたぐひ何くれとなく読みあさりぬ。彼女
元北地の産。年十三にして既に名をその地の
教坊に
留めき。生来
文墨の戯を愛しよく風流を解せり。
読書に
倦めば
後庭に
出で
菜圃を歩み、花を
摘みて
我机上を飾る。今わが
家蔵の古書
法帖のたぐひその破れし表紙切れし
綴糸の
大方は見事に取つぐなはれたる、皆その頃八重が心づくしの形見ぞかし。八重かくの如く日ごとわが
家に来りて夕暮近くなる時は、われと共に連れ立ちて
芝口の
哥沢芝加津といふ師匠の
許まで
端唄ならひに行くを常としたり。
前の
夜も哥沢節の稽古に出でて
初夜過る頃四ツ谷
宇の
丸横町の
角にて別れたり。さればわが
病臥すとは夢にも知らず、八重は
襖引明けて始めて
打驚きたるさまなり。
八重申しけるはわが身かつて
伊香保に遊びし頃谷間の
小流掬み取りて山道の
渇きをいやせし
故か
図らず
痢病に襲はれて命も
危き目に
逢ひたる事あり。その
後は
幾年月人の
酒興を助くる
家業の哀れはかなき、その身の害とは知りながら客の勧むる
盃はいなまれず、
家に帰らば
今宵もまた苦しみ
明すべしと心に泣きつつも酒呑みてくらせし故腹の
病はよく知りたり。養生の法とても、わが身かへつて医師にまさりて
明ならん。医のととのへ勧むる薬は元より
怠り給ふな。さりながら古老の昔よりいひ伝ふるものには何事に限らず
霊験ある事あり。わが身いまだ
妓籍を脱せざりし頃絶えず用ひたるかの矢筈草今も四谷の
家にあり。煎じて参らすべければ
聊かその匂ひの悪しきを忍びたまへとて、
直に人を
走せて矢筈草取寄せ煎じけり。
われ生れて
煎薬といふもの呑みたるはこれが始めてなり。この薬たしかに効能あるやうに覚えければその後は
風邪心地の折とてもアンチフェブリンよりは
葛根湯妙振出しなぞあがなひて煎じる事となしぬ。例へば雪みぞれの
廂を打つ時なぞ
田村屋好みの
唐桟の
褞袍に
辛くも身の
悪寒を
凌ぎつつ消えかかりたる
炭火吹起し
孤燈の
下に煎薬煮立つれば、
夜気沈々たる書斎の
中に
薬烟漲り渡りて
深けし
夜のさらにも深け渡りしが如き心地、何となく我身ながらも涙ぐまるるやうにてよし。
八重が心づくしにて病はほどもなく
癒えけり。
芍薬の花散りて世は早くも夏となりぬ。
梅雨のあくるを待ち兼ねてその年の
土用に
入るやわれは朝な朝な八重に
誘はれて
其処此処と草ある処に
赴きかの薬草
摘むにいそがしかりけり。
矢筈草はちよつと見たる時その葉
蓬に似たり。
覆盆子の如くその
茎蔓のやうに延びてはびこる。
四谷見附より
赤坂喰違の土手に沢山あり。
青山兵営の裏手より
千駄ヶ
谷へ
下る道のほとりにも
露草車前草なぞと
打交りて多く生ず。
採り
来りてよく土を洗ひ茎もろともにほどよく
刻みて
影干にするなり。
われは東京市中の
閑地追々土木工事のために
伐り開かるべきことを憂ひて止まざるものなれば、やがては矢筈草生ずる土手もなくなるべしと思ひ、その
一束をわが
家の庭に移し植ゑぬ。われその年の秋母の
許を得て始めて八重を迎へ
家を修めしめしが、それとても
僅半歳の夢なりけり。その人去りて庭の
籬には摘むものもなくて矢筈草
徒に
生ひはびこりぬ。万事傷心の
種ならざるはなし。その
翌年草の芽再び
萌出る頃なるを、われも
一夜大久保を去りて
築地に
独棲しければかの矢筈草もその
後はいかがなりけん。近頃
新に住む人ありと聞けば廃園の雑草と共に大方は
刈除かれしや知るべからず。
事新らしく自然主義の理論説き出づるにも及ぶまじ。この世をよしと言ひあしと観る十人
十色の考その人々によりて異り行くも、一つにはその人々の健康によることなり。われその身の
衰行くを知るにつけて世をいとふの念押へがたく日に日に
弥増さり行くこそ是非なけれ。
わが知れる人々の
中にはいかにもして我国の演劇を改良なし意味ある芸術を起さんものをと
家人の誤解世上の
誹謗もものかは、今になほ十年の
宿志をまげざるものあり。聞くだに涙こぼるる美談ぞかし。然るにわれは早くも
心挫けてひたすら
隠栖の安きを求めんとす。しかもそは取立てていふべきほどの絶望あるにもあらず
将悲憤慷慨のためにもあらず。唯劇場の
燈火あまりにあかるく目を射るに
堪へざるが如き心地したるがためのみ。それに引換へて父の世より
住古せし我家の内の薄暗く書斎の
青燈影もおぼろに
床の花を照すさま何事にもかへがたく
覚初めたるがためのみ。茶屋といふものなくなりて、劇場内の食堂の料理何となく気味わるき心地せられしがためのみ。雨の降る
夜なぞとぼとぼと
遠道を帰り行くことの苦しくなりしがためのみ。これらのことその身すこやかなれば
元よりいふにも足らぬことなれど、寒さを恐れて春も
彼岸近くまで
外出の折には必ず
懐炉入れ歩くほどの
果敢なき身には、以上の事皆観劇のために払ふべき
大なる犠牲の如くに感ぜらる。新聞屋の
種取りにと
尋来るに逢ひてもその身丈夫にて人の顔さへ見れば
臆面なく
大風呂敷ひろぐる勇気あらば願うてもなき自慢話の相手たるべきに、しからざる身には唯々うるさく
辛きものとなるなり。世上の文学雑誌にわが身のことども口ぎたなく悪しざまに書立つるを見てさへ
反駁の筆
執るに
懶きほどなれば、見当違ひの議論する人ありとて何事もただ
首肯くのみにてその非をあぐる勇気もなし。いはんやその誤を正さん
親切気においてをや。時折
遠国の見知らぬ人よりこまごまと我が
拙き著作の面白き
節々書きこさるるに逢ひてもこれまたそのままに打過して厚き
志を無にすること
度々なり。
心地すぐれざるも
打臥すほどにもあらねば
病めりとはいひがたし。
病なくして病あるが如き身のさまこそいぶかしけれ。
下谷の
外祖父毅堂先生の詩に小病無
クレ名怯
ル二暮寒
ヲ一〔
小病に
名無く
暮寒を
怯る〕といはれしもかくの如き心地にや。
老杜が
登高の
七律にも万里
ノ悲秋常
ニ作レ客
ト百年
ノ多病独登
ルレ台
ニ〔
万里の
悲秋 常に客と
作る、百年の多病 独り
台に登る〕の句あり。
正月二月の寒風に吹かれて
家に
入れば、眼くるめくばかり頭痛を催し、八月の炎天を歩み汗を拭はんとて物かげに
憩ひ風を迎ふれば凉しと思ふ間もなく、
忽ち肌ひやひやとして気味わるき寒さを覚ゆ。冬の日はわれ
人共に寒きものなればさして悲しとも思はねど夏はつくづく情なき事のみなり。夕方の
行水にも湯ざめを恐れ、
咽喉の
渇きも冷きものは口に入るること
能はざれば、これのみにても人並の交りは出来ぬなり。人にさそはれ
夕凉に
出る時もわれのみは
予め夜露の肌を
冒さん事を
慮りて気のきかぬメリヤスの
襯衣を着込み常に
足袋をはく。
酒楼に
上りても
夜少しく
深けかかると見れば
欄干に近き座を離れて我のみ一人
葭戸のかげに露持つ風を避けんとす。をちこちに
夜番の
拍子木聞えて空には銀河の
流漸く
鮮ならんとするになほもあつしあつしと
打叫びて
電気扇正面に置据ゑ
貸浴衣の
襟ひきはだけて胸毛を吹きなびかせ
麦酒の盃に投入るるブツカキの氷ばりばりと石を割るやうに
噛砕く当代紳士の
豪興、われこれを以て野蛮なる
哉や没趣味なる哉やと嘆息するも誠はわが虚弱の
妬みに過ぎず。何事に限らずわが言ふ処
生まじめの議論と思給はば
飛でもなき
買冠なるべし。
慶応義塾のつとめもかくては日に日に
退儀となりぬ。朝早く
出掛間際に腹痛み
出ることも
度々にて、それ懐中の
湯婆子よ
懐炉よ
温石よと立騒ぐほどに、大久保より
札の
辻までの
遠道とかくに出勤の時間おくれがちとはなるなり。
時雨そぼふる
午下火の
気乏しき西洋間の教授会議または
編輯会議も唯々わけなくつらきものの
中に数へられぬ。
何時の
幾日には遊びに行かんと親しき友より軽き約束
申出でられてももしやその日に腹痛まば
如何にせん、雨降らば
出にくからんなぞ取越苦労のみ重れば折角の
興もとく消えがちなるこそ悲しけれ。
心柄とはいひながら
強ひて
自ら世をせばめ人の
交を断ち、
家にのみ
引籠れば
気随気儘の空想も門外世上の声に妨げ
覚まさるる事なければ、いつとしもなくわれは誠に背も
円く前にかがみ
頭に霜置く
翁となりけるやうの心とはなりにけり。
八重も女の身の既に
三十路を越えたり。始めのほどはリウマチスの
病さへ
癒えて舞ふに苦しからずなりなば再び新橋にや帰らん新に柳橋にや出でんあるひは地を選びて師匠の
札をや掲げんなぞ思ひ
企つる処さまざまなりしかども、いつか我が
懶惰の習ひにや馴れ染めけん、かつは日頃親しく
尋来る向島の隠居
金子翁といふ老人のすすめもありてや、浮世の夢をよそに、思出多き一生を大久保の里に
埋め、早衰のわが身が
朝夕の世話する事とはなりぬ。そは
甲寅の年も早や秋立ち
初めし八月末の日なりけり。目出度き相談まとまりて金子翁を八重が仮の親元に
市川左団次夫妻を
仲人にたのみ
山谷の
八百屋にて
形ばかりの
盃事いたしけり。
(金子翁名元助天保御趣意の前年江戸和蘭陀屋敷御同心の家に生るといふ清元の三絃をよくしまた宇治の太夫となりて金紫と号す瓦解の後商となり横浜に出で産を起し
上に有馬温泉を建つ二子あり坂東秀調はその長子藤間金之助はその次子なり)八百屋
善四郎が
家はその時庭の
地揚げ土台の根つぎなぞ致すため客をことわりてゐたりしかど金子翁かつて八百屋が先代の主人とは懇意なりける由にて事の次第を
咄して頼みければ今の若き主人心よく承知して池に
臨む
下座敷を清め床の間の軸も
光琳が松竹梅の
三幅対をかけその日のみわれらがために
一日商売の面倒をいとはざりけり。
この日残暑の
夕陽烈しきに山谷の
遠路をいとはずしてわが母上も席に
連り給ひぬ。母は既に父
在せし頃よりわが身の八重といふ
妓に
狎れそめける事を知り玉ひき。
去歳わが
病伏しける折
日々看護に
来りしより追々に言葉もかけ給ふやうになりて
窃にその
立居振舞を見たまひけるが、
癇癖強く我儘なるわれに
事へて何事も意にさからはぬ
心立の殊勝なるに加へて、殊に或日わが居間の軸を
掛替ゆる折
滬上当今の書家
高
といふ人の書きける
小杜が
茶煙禅榻の
七絶すらすらと
読下しける才識に母上このもの全く世の常の女にあらじと感じたまひてこの
度の婚儀につきては深くその身元のあしよしを問ひたまはざりき。
八重
竹柏園に遊びて和歌を学びしは久しき以前の事なり。近頃四谷に
移住みてよりはふと
東坡が酔余の
手跡を見その
飄逸豪邁の筆勢を
憬慕し
法帖多く
購求めて
手習致しける故
唐人が
行草の書体訳もなく
読得しなり。何事も日頃の心掛によるぞかし。
八重
家に
来りてよりわれはこの世の清福
限無き身とはなりにけり。人は
老を嘆ずるが常なり。然るにわれは
俄に老の
楽の新なるを誇らんとす。人生の哀楽唯その人の心一ツによる。
木枯さけぶ
夜すがら
手摺れし
火桶かこみて影もおぼろなる
燈火の
下に煮る茶の
味は
紅楼の
緑酒にのみ酔ふものの知らざる所なり。
寝屋の屏風
太鼓張の
襖なぞ破れたるを、妻と二人して今までは互に
秘置きける古き
文反古取出して読返しながら張りつくろふ楽しみもまた
大厦高楼を家とする
富貴の人の
窺知るべからざる所なるべし。菊植ゆる
籬または
廁の窓の
竹格子なぞの損じたるを
自ら庭の竹藪より竹
切来りて結びつくろふ
戯もまた家を
外なる
白馬銀鞍の
公子たちが知る所にあらざるべし。わが物書くべき草稿の
罫紙は日頃
暇ある折々われ自らバレン持ちて
板木にて
摺りてゐたりしが、八重今は
襷がけの手先墨にまみるるをも
厭はず
幾帖となくこれを摺る。かかる楽しみも近頃西洋紙に万年筆走らせて議論する文士の知らざる所とやいはん。
わが
家には
亡父の
遺し給ひし書籍盆栽文房の器具
尠からず。八重はわれを助けて
家を修めんがため『
林園月令』、『
雅遊漫録』、『
草木育種』、『
庭造秘伝鈔』、『
日本家居秘用』なぞいふ
類の和漢の書取出して読みあさり、
硯の海の底深う
巌のやうにこびりつきたる墨のかす洗ひ落すには
如何にすればよき。
蒔絵の金銀のくもりを
拭清むるには如何にせばよきや。
堆朱の盆
香合などその
彫の間の塵を取るには如何にすべきや。盆栽の梅は
土用の
中に
肥料やらねば来春花多からず。
山百合は花終らば根を掘りて乾ける砂の
中に入れ置けかし。あれはかくせよ。これはかうせよと
終日襷はづす
暇だになかりけり。
わが父はこの上なく物堅き人なりき。然れども生前自ら選みたまひしその詩稿『
来青閣集』といふを見れば
良辰佳会古難並 〔
良き
辰と
佳き
会は
古より並び難し
玉手※
[#「てへん+參」、U+647B、128-8]※
[#「てへん+參」、U+647B、128-8]酒幾巡
玉手※※[#「てへん+參」、U+647B、128-8][#「てへん+參」、U+647B、128-8]として
酒幾たびか
巡る
休道詩人無艶分
道う
休れ
詩人に
艶分無しと
先従花国賦迎春
先ず
花国従り
賦して春を迎えん
新歳竹枝
新歳 竹枝〕
春鳥無心喚友啼 〔
春鳥は
無心に友を喚びて
啼き
蘭舟繋在水祠西
蘭舟は
繋がれて
水祠の
西に
在り
暖波一面花三面
暖波は
一面 花は
三面真個温柔郷此堤
真個の
温柔郷なり
此の
堤 看花七絶
看花 七絶〕
の如き
艶体の詩を
誦し得るなり。またかつて中国に遊び給ひける時
姑蘇城外を過ぎて
妓に贈り給ひし作多きが
中に
麗質嬌姿本絶羣 〔
麗質 嬌姿 本より
羣を
絶す
蘭房別占四時春
蘭房は
別ても
占む
四時の春
相逢無語翻多恨
相い
逢いて
語無く
翻って
多恨し
桃葉桃根画裏人
桃葉 桃根 画裏の
人如在

香亭北看 〔
沈香亭の
北に
在りて
看るが
如く
妖姿冶態正春闌
妖姿 冶態 正に
春闌なり
多情卿是傾城種
多情の
卿は
是れ
傾城の
種不信小名呼墨蘭 信ぜず
小名に
墨蘭と呼べるを〕
の如き
能くわが記憶する所なり。現に
城南新橋の
畔南鍋街の一
旗亭にも
銀屏に酔余の筆を残したまへるがあり。
われ
家を継ぎいくばくもなくして妓を妻とす。家名を
辱しむるの罪元より
軽きにあらざれど、如何にせんこの妓心ざま
素直にて唯我に
事へて過ちあらんことをのみ
憂ふるを。何事も
宿世の因縁なりかし。
初手は唯かりそめの
契も
年経ぬれば人にいはれぬ深きわけ重なりてまことの涙さそはるる事も
出で
来ぬるなり。これらをや迷の夢と悟りし人はいふなるべし。世の
誚人の
蔑も迷へるものは
顧ず。われは唯この迷ありしがためにいはゆる当世の教育なるもの受けし女学生
上りの新夫人を迎ふる災厄を
免れたり。
盃持つ
妓女が
繊手は女学生が体操仕込の腕力なければ、
朝夕の掃除に主人が
愛玩の
什器を
損はず、
縁先の盆栽も
裾袂に枝
引折らるる
虞なかりき。世の中
一度に二つよき事はなし。
親しき友にも八重との婚儀は改めて
披露せず。
祝儀の心配なぞかけまじとてなり。物堅き親戚一同へはわれら
両人が身分を
省みて無論披露は遠慮致しけり。人のいやがる小説家と世の卑しむ
妓女との
野合、事々しく通知致されなば親類の奥様や御嬢様方かへつて御迷惑なるべしと察したればなり。然れども世は情知らぬ人のみにはあらず。我らがこの
度の事目出度しとて物祝ひ賜はる
向も
尠からざりしかば、八重は口やかましき我が身が世話の手すきを
見計らひて諸処方々返礼に出歩きけり。秋も
忽過ぎ去りぬ。菊の花
萎るる
籬には
石蕗花咲き出で
落葉の梢に
百舌鳥の声早や珍しからず。裏庭の
井のほとりに栗
熟りて落ち
縁先には
南天の実、
石燈籠のかげには
梅疑色づき
初めぬ。
初冬の山の手ほどわが
家の庭なつかしく思はるる折はなし。人は
樹木多ければ山の手は夏のさかりにしくはなけんなど思ふべけれど、
藪蚊の苦しみなき
町中の
住居こそ夏はかへつて
物干台の
夜凉縁日のそぞろ歩きなぞ
興多けれ。
簾捲上げし二階の窓に
夕栄の
鱗雲打眺め
夕河岸の
小鰺売行く声聞きつけて
俄に
夕餉の仕度
待兼る心地するも町中なればこそ。
翻つて冬となりぬる町の住居を思へば建込む
家にさらでも短き
日脚の更に短く長火鉢置く茶の間は不断の
宵闇なるべきに、山の手の庭は木々の葉落尽すが故に夏よりも
明く晴々しく、書斎の丸窓も
芭蕉朽ちて
穏なる日の光
終日斜にさすなり。
露時雨夜ごとにしげくなり行くほどに落葉朽ち腐るる
植込のかげよりは絶えず土の
香薫じて、
鶺鴒四十雀藪鶯なぞ小鳥の声は春にもまして
賑し。げに山の手は十一月十二月かけての折ほど忘れがたく
住心地よき時はなきぞかし。
八重諸処への礼歩きもすまして今は
家にのみあり。
障子は皆新しう張替へられたり。家の柱
縁側なぞ時代つきて
飴色に黒みて
輝りたるに障子の紙のいと白く
糊の匂も失せざるほどに新しきは何となくよきものなり。座敷も常よりは明くなりたるやうにて
庭樹の影小鳥の飛ぶ影の穏かなる夕日に映りたるもまた常よりは
鮮なる心地す。夕風裏窓の竹を鳴して日暮るれば、新しき障子の紙に
燈火の光もまた清く澄みて見ゆ。冬となりてここにまた何よりも嬉しき心地せらるるは桐の
火桶、
炉、
置炬燵、
枕屏風なぞ春より冬にかけて久しく見ざりし家具に再び遇ふ事なり。去年の冬より今年も春なほ寒き折までは毎朝つやぶきん掛けてよく拭き込みたる火鉢、夏の
中仕舞ひ込みたる押入の
塵に大分
光沢うせながら
然も見馴れたる昔のままの形して去年ありける同じき処に
置据ゑられたる
宛ら旧知の友に逢ふが如し。君もすこやかなりしか。我もまた
幸に余生を保ちぬと言葉もかけたき心地なり。
寔に
初冬の朝初めて火鉢見るほど、何ともつかず思出多き心地するものはなし。わが友
江戸庵が句に
これ
聊かも
巧む所なくして然もその意を尽したる
名吟ならずや。
去歳の冬江戸庵主人
画帖一折携へ
来られ是非にも何か絵をかき句を題せよとせめ給ひければ我止む事を得ず机の側にありける桐の
丸火鉢を見てその形を写しけるが、俳想乏しくて即興の句出でざる苦しさに、何やら訳もわからぬ文句左の如く書流したる事あり。
折かがむ背中もやがて
円火鉢 かどのとれたる老を待つかな
それはさて置き、八重わが
家に来りてよりはわが
稚き時より見覚えたるさまざまの
手道具皆手入よく綺麗にふき清められて、昨日まではとかく家を
外なる楽しみのみ追ひ究めんとしける放蕩の
児も
此に漸く
家居の
楽を知り父なき
後の家を守る身となりしこそうれしけれ。
おほよその人は詩を
賦し絵をかく事をのみ芸術なりとす。われも今まではかく思ひゐたり。わが芸術を愛する心は小説を作り劇を評し声楽を聴くことを以て足れりとなしき。然れども人間の欲情もと
極る処なし。我は遂に
棲むべき
家着るべき衣服
食ふべき料理までをも芸術の
中に数へずば止まざらんとす。進んで
我生涯をも一個の製作品として取扱はん事を欲す。然らざればわが心遂にまことの満足を感ずる事
能はざるに至れり。我が生涯を芸術品として見んとする時妻はその最も大切なる製作の一要件なるべし。
人はかかる
言草を耳にせば
直に
栄耀の餅の皮といひ
捨つべし。されど芸術を味ひ楽しむ心はもと貧富の別に関せず。深刻の
情致は何事によらずかへつて富者の知らざる処なり。わが衣食住とわが生涯を以て
活きたる詩活きたる芸術の作品となすに何の
費をか要せん。
裏路地の
佗住居も
自ら
安ずる処あらばまた全く画興詩情なしといふべからず、金殿玉楼も心なくんば春花秋月なほ
瓦礫に
均しかるべし。
わが
家山の手のはづれにあり。三月
春泥容易に乾かず。五月早くも蚊に襲はる。
市ヶ
谷の
喇叭は
入相の鐘の余韻を乱し往来の軍馬は門前の草を
食み塀を蹴破る。昔は貧乏
御家人の
跋扈せし処今は
田舎紳士の奥様でこでこ
丸髷を
聳かすの
地、元より何の
風情あらんや。然れどもわが書庫に
蜀山人が文集あり『
山手閑居の
記』はよくわれを慰む。わが庭広からず然れども
屋後なほ数歩の
菜圃を
余さしむ。
款冬、
芹、
蓼、
葱、
苺、
薑荷、
独活、芋、百合、
紫蘇、
山椒、
枸杞の
類時に従つて皆
厨房の
料となすに足る。八重
日々菜園に出で
繊手よくこれを
摘み調味してわが日頃好みて集めたる
器に盛りぬ。
つらつら
按ふに我国の料理ほど野菜に富めるはなかるべし。西洋にては
巴里に赴きて初めて
菜蔬の
味称美すべきものに
遇ふといへどもその種類なほ我国の多きに比すべくもあらず。支那には果実の珍しきもの多けれど菜蔬に至つては
白菜菱角藕子嫩筍等の
外われまた多くその他を知らず、菜蔬と
魚介の
味美なるもの多きはこれ日本料理の特色ならずとせんや。
食器の
清洒風雅なるまた
大に誇るに足るべし。西洋支那の食器金銀珠玉を以てこれを製するあり、その質堅牢にしてその形の壮麗なる元より我国の及ぶ処ならず。洋人銀の
肉叉を用ひ漢人
翡翠の
箸を
把る。しかして
我俗杉の丸箸を以て最上の礼式とす。万事皆かくの如し。また思ふに西洋支那の食卓共に華麗荘厳の趣あれども
四時を通じてその模様大抵同じきが如く、その料理とこれを盛る食器との調和対照に意を用ゆる事我国の如く甚しからざるに似たり。我国の
膳部におけるや食器の質とその色彩
紋様の
如何によりてその趣全く変化す。夏には夏冬には冬らしき
盃盤を要す。
誰か
鮪の刺身を赤き
九谷の皿に盛り
新漬の
香物を
蒔絵の椀に盛るものあらんや。日本料理は器物の選択を最も緊要となす。ここにおいてその法全く特殊の芸術たり。盃盤の選択は酒楼にあつては
直に主人が
風懐の
如何を
窺はしめ一家にあつては主婦が心掛の如何を推知せしむ。八重多年
教坊にあり都下の酒楼旗亭にして知らざるものなし。
加るに
骨董の鑑識浅しとせず。わが晩餐の膳をして常に詩趣俳味に富ましめたる敢て
喋々の弁を要せず。いつも痒いところに手が届きけり。されば八重去つてよりわれ
復肴饌のことを
云々せず。机上の
花瓶永へにまた花なし。
八重何が故に
我家を去れるや。われまた何が故にその後を追はざりしや。『矢筈草』の一篇もとこの事を書綴りて愛読者諸君のお慰みにせんと欲せしなり。新聞紙三面の記事は
世人の喜ぶ所なり。実録とさへ
銘打てば下手な小説もよく売れるなり。作者くだらぬ長談義にのみ耽りて容易に本題に入らざる
所以のものそれ果して何ぞ。
目出度き
甲寅の年は暮れて新しき年もいつか鶯の
初音待つ頃とはなりけり。
一日われ
芝辺に所用あつて朝早くより
家を出で帰途築地の
庭後庵をおとづれしにいつもながら
四方山の話にそのまま
夜をふかし車を頂戴して帰りけり。
門の戸あく音に主人の帰りを待つ飼犬の
裾にまつはる事のみ常に変らざりしが
家の内
何となく
寂然として、召使ふ
子女一人のみ残りて八重は既に家にはあらざりき。八畳の茶の間に
燈火煌々と輝きて、二人が日頃食卓に用ひし
紫檀の大きなる
唐机の上に、
箪笥の鍵を添へて一通の手紙置きてあり。初め
小婢のわが帰るを見るや
御新造様は御風呂めして九時頃お出掛になりやがて
何処よりとも知らず電話にて今夜はおそくなる故帰らぬ
由申越されぬと告げけるが、その折にはわれさまでは驚かず、大方新橋あたりの
妓家ならずば
藤間が弟子のもとに遊べるならんと思ひしに、唐机の上の封書開くに及び初めて事の容易ならぬを知りけり。
『矢筈草』いよいよこれより本題に
入らざるべからざる所となりぬ。然るに作者
俄に
惑うて思案
投首煙管銜へて腕こまねくのみ。
その年の桜咲く頃八重は五年振りにて再び
舞扇取つて立つ身とはなれるなり。好奇の
粋客もしわが『矢筈草』の後篇を知らんことを望み玉はば
喜楽可なり
香雪軒可なり
緑屋またあしからざるべし随処の
旗亭に八重を
聘して親しく問ひ玉へかし。八重唯舞ふ事を
能くするのみにあらず
哥沢節は既に
名取なり近頃また
河東を修むと聞く。彼女もし問ふものに向つてあらはに事の仔細を語る事を欲せずとせんか、代るに
低唱微吟以てその
所思を託せしむべき歌曲に乏しからざるべし。凡そ人その思ふ所を伝へんとするや必ずしも田舎議員の如く怒号する事を要せざるべし。何ぞまた新しき女に
傚つてやたらに告白しむやみに
懺悔するに及ばんや。われ近頃人より
小唄なるものを教へらる。

三ツの車に
法の道ソウラ出た
······悋気と
金貸や罪なもの
また以てわが
一時の情懐を託するに足りき。
昨日となれば何事もただなつかし。何ぞ事の是非を
究めて
彼我の
過を
明にするの要あらんや。青春まことに
一夢。老の
寝覚めに思出の種一つにても多からんこそせめての慰めなるべけれ。
活きがひありしといふべけれ。
石橋をたたいて五十年無事に世を渡り得しものは誠に結構と申すの外なし。
一度足踏みすべらせて
橋下の激流に
陥れば
渾身の力尽して泳がんのみ。
彼岸に達せんとすれども
流急なれば
速に横断すべくもあらず。あるひは流に従つて漂ひあるひは
巌角に
攀ぢて
憩ひ、
徐にその道を求めざるべからず。ここにおいてか無事石橋を歩むものの知らざる処を知る。話の種多く持つ身とはなるなり。
芸者その
朋輩の
丸髷結ふを見ればわたしもどうぞ一度はと
茶断塩断神かけて念ずるが多し。芸者も女なり。いやな旦那をつとめて好きな役者狂ひの
口直しにも少し飽きが来れば、
定まる男
一人にかしづいて見たい殊勝の願ひを起す。これ波瀾より平坦に
入るものけだし自然の人情なるべし、決して
咎むべきにあらず。さればそんじよそこらの
姐さんたちそれぞれよい客見付けて足を洗ひ、中には
鳥子餅くばるもあれど、その噂朋輩の口よりまだ消えもやらぬに、早くもああくさくさしちまつたよと、泣いたり笑つたりした揚句の果は
復旧の古巣に還るもの
甚頻々。去就出没常ならず。さればお
上にては
一度芸者の鑑札返上致せしものには
半歳を経ざれば再びこれを
下げ渡さざるの制を設くといふ。けだし役人衆の繁忙を防がんがためなるべし。
そんな事はどうでもよいとして、芸者何が故にかくは出たり引込んだり致すぞや。通人いふ。
一度商売したものは辛抱の置き処が違ふ故当人いかほど殊勝の覚悟ありても
素人のやうには
行かぬなり。これを
巧みに使つて身を落ちつかせてやるは亭主となつた男の
思遣り一ツによる事なり。
年増盛を過ぎて一度商売を
止めた女、また二度出るは気の毒なものと察してやるが訳知つた人の
情なり。男の顔に泥塗るやうな事さへせぬかぎり大抵のことは大目に見てやるがよし。漢学者のやうに
子曰くで何か事あれば直ぐに
七去の
教楯に取るやうな野暮な心ならば初めから芸者引かせて女房にするなぞは大きな間違ならんと。
駁するものは言ふ。芸者したものは
酸いも
甘いも知つてゐるはずなり。
栄耀栄華の味を知つたもの故芝居も着物もさして珍らしくは思はぬはずなり。何があつても素人のやうには立騒がずともすむ
咄なり。万事さばけて呑込み早かるべきはずなり。亭主の
癇癪も
巧にそらして気嫌を直さすべきはずなり。素人では気のつかぬ処に気がつく故にそれ
者はそれ者たる値打があるなり。もしそれ持参金つきの箱入娘貰つたやうに万事遠慮我慢して
連添ふ位ならば何も世間親類に
後指さされてまでそれ
者を
家に入るるの要あらんや。
いやに
済ました人おつに
咳払ひして進み出でて曰く両君の
宣ふ所
各理あり。皆その人とその場合とに因つてこれを施して可なるべし。素人も芸者も元これ女なり。生れて女となる。女の身を全うするの道古来唯従ふの一語のみ。従はざれば今の処日本にては女の身は立ちがたし。芸者気随気儘勝手次第にその日を送り得るやうに見ゆれどもさにあらず。元これ愛嬌商売なれば第一に世間に従つて行かねばならぬなり。お客に従はねばならぬなり。
出先の茶屋の女中に従はねばならぬなり。足を洗つて素人となる。
則旦那に従はねばならぬなり。その
家に従はねばならぬなり。同じく皆従ふなり。
一人に従ふと
諸人に従ふとの相違のみ。そのいづれかを選ぶべきやはこれその人の任意なり。素人となれば素人の苦楽共にあり商売に出れば商売の苦楽また共に生ず。無事平坦を望まば素人たるべし。変化を欲せば芸者たるべし。これまたその人とその場合によつて論ずべきなり。
孔明兵を
祁山に
出す事
七度なり。
匹婦の
七現七退何ぞ改めて怪しむに及ばんや。唯その身の事よりして人に
累を
及しために
後生の
障となる事なくんばよし。皆時の運なり。素人とならばその日その日の金銭
出入帳書く事怠らぬがよし。商売に出でなば勤めべき処よく勤むべし。朝起きた時奥歯に物のはさまつたやうな心持する事なくその日その日を送り得ば
妓となるも妻となるも何ぞ選ばん。あれも一生これも一生ぞかし。いづれにしても柔和は
女徳の第一なり。加ふるに
悋気を
慎まば妓となるとも人に愛され立てられて身を全うし得べし。いはんや
正路の妻となるにおいてをや。
おつにすました人
弁出して尽くる所を知らず。これでは作者よりも皆様が御迷惑とここに横槍を入れて『矢筈草』を終る。
大正五丙辰暮春稿