香煙と法衣とより離れて、わが殿中の一隅
金薄の
脱落ちたこの一室に来れば、ずつと気やすく神と語ることが出来る。こゝへ来ては、腕を支へられずに、わが
老来を思ふのである。
弥撒を行ふ間は、わが心自づと強く、身も
緊つて、尊い葡萄酒の
輝は眼に満ちわたり、聖なる
御油に思も潤ふが、このわが廊堂の人げない処へ来ると、此世の
疲に
崩折れて、
跼まるとも
構ない。「見よ、この人を。」
主は実に訓令と教書との荘厳を介して、其司祭等の声を聞取り給ふのではあるまい。紫衣も珠玉も絵画も
主は
確に嘉し給はぬ。唯この狭い密房の中より発するわが不束な
口籠ならば、或は愍み給はむも知れぬ。
主よ、かゝる老の身の予は、今こゝに白衣を着て御前に
伺候し奉る。予はインノセンスと呼ばれて、君の
知しめすが如く、何もえしらぬ。而して予が法王の聖職に在ることを
容し給へ、聖職は始より既に制定せられ、予は唯に之に従ふのみ。予がこの高位を設置したのでは無い。予は先づ日の光を、色硝子の荘麗なる
反映に窺はむより、寧ろこの円形の玻璃板に透見るを悦ぶ。世の常の老人の如く、予をして
哭かしめ給へ、永遠の夜の波の上に、辛らく差上げたこの蒼白の皺顔を君の御前に向け奉る。わが世の
終の日数の経ちゆく如く、この痩せ細つたる手指をそうて、わが
指金も
滑り落ちる。
神よ、予はこの世に於ける君が御名代として、信仰の浄い葡萄酒を湛へた、このわが凹めたる手を捧げ奉る。世に大なる
犯がある、極めて大なる
犯がある。吾等は之を赦免し得る。世に大なる異端がある、極めて大なる異端がある。吾等は仮借せずに之を罰せねばならぬ。白衣を着けて、
金薄も脱落したこの密房に跪く時、予は烈しい苦悶に悩んでゐる。
主よ、世の中の犯と異端とは壮大なるわが法王職の領分に属するか、或はまた一介の老人が単に合掌するこの光の圏内に属するかを判じ難いからである。また君が御墓についても悩んでゐる。御墓はいつも異教徒にとり巻れてゐる。これが恢復を計る者も無い。今はたれも聖地に向つて君が御くるすを導くことなく、われらは皆昏々として眠つて居る。騎士は物の具を収め、国王は指揮を忘れた。
主よ、われはまた胸をうつて、自ら責めてゐる。弱い哉、老いたる哉。
廊堂のこの狭い密房に立ちのぼる、このわが囁に聞き給へ、而して御諭を授け給へ。わが臣下等はフランドル、独逸の国々より、馬耳塞、ジエノアの市々に亘つて、不思議の報知を送つて来る。今までに無い異端の宗派が生じた。処々の市々は黙したる裸形の女人等が走り歩るくを見た。この恥知らぬ唖の女等はたゞ天に指すばかり、又数多の狂人は
朝に立つて、世の破滅を説く由。修道の隠者、流浪の学生たちは、いろいろの噂をしあふ。而していかなる心の狂惑にや七千有余の小児等は、それとなく心ひかれて家を棄て出た。
御十字架と杖とをもつて、旅に出でた者が七千人もある。何の武器も有つてゐ無い。頼るべ無き幾千人の小児等よ、われらの恥辱よ。彼等は真の教を弁へてゐない。わが臣下どもが尋ね問ふと、一斉に答へて、聖地の恢復の為、イエルサレムへ行くといふ。さりとて海は越されまいと訊けば、否、海は波をわけて干上り、通路を開くに相違無いと答へる。信心深い世間の親たちが、彼等を引留めても夜の間に閂を破り、垣を越えて了ふ。小児等の多くは貴人の落胤である。不憫極まる者どもかな。
主よ、是等の嬰児は皆破船の憂目を見て、追つてモハメットの宗門に渡される。バグダットの帝王は遠い其宮殿に待伏してゐる、或はあらくれの船乗の手に落ちて人買に売られる。
主よ、教法の掟に従つて、言上する事を、容し給へ。必定、この小児十字軍は善い
業で無い。之が為に御墓の恢復は思ひもよらぬ。唯、正しき信仰の
外端に

ふ浮浪の徒を増すばかりである。わが司祭等は之を保護しえまい。あの憐れなる者どもには確に悪魔が
憑いた。彼等は山上の豕の様に群を成して断崖の方に走つて行く。
主よ、君のよく知り給ふ如く、悪魔は好んで幼児を捉へる。曽つて、彼は鼠取の姿を仮りて、其笛の音にハメリンの町の子等を
誘つた。子等は皆

エゼルの河中に溺れ死んだとも言ふ。又は、或る山の中腹に封じ籠まれたともいふ。信仰無き者の呵責される処へ、悪魔が幼児等を導かぬやう、用心せねばならぬ。
主よ、君のよく知り給ふ如く、信仰の改変は善い事で無い。信仰はひとたび燃立つ
叢に現れて、
直に幕屋の中に収められた。後また
髑髏が丘の上、君が唇に洩れたことはあるが、之を聖体の器と筺とに蔵せよとの神慮であつた。今是等の稚い預言者等は君が教会の大厦を破砕しさうである。これは是非禁遏せねばならぬ。見よ、油にて清められたる吾等は君に奉仕して、白衣と長袍とを摩り耗らしつゝ、救を得ん為の一心に諸の誘惑に
抗つてゐる。さるを今己が為す行の何たるを弁へぬ彼等をも嘉し給はば即ち吾等司祭を貶しめ給ふに非ざるか。もとよりこれらの幼児を君の御許に到らしめたい、但し君が御教の道に依らねばならぬ。
主よ、君が御掟に従つて、かくは言上し奉る。是等の幼児は、此儘にして終に死すべきか。願はくはインノセンスの治下に新しき
幼児の戮殺あらしむる勿れ。
噫、神よ、この僧冠を戴きて君が御諭を乞ひ奉る事を恕し給へ。老衰の身顫はまた襲ひ来る。この憐れなる手を見給へ。老い朽ち果てたる此身かな。幼児の信仰はもはやわが心に無い。この密房の壁に歳を経た其金色は、白らみ果ててゐる。御空の日の
円影も白らんでゐる。
衣も白い、涸れたわが
心は清い。君が御掟に従つて言上し奉るのみ。世に大なる犯がある、極めて大なる犯がある。世に大なる異端がある、極めて大なる異端がある。わが心、今疲れ倦んで惑ふ。或は罰も下し難く、また赦免も与へ難いのであらうか。われらの過去を憶へば決断に躊躇する。此身はまだ奇跡を見たことが無い、心の暗を照し給へよ。或はこれが奇跡なるか。
主は如何なる
休徴を彼等に与へ給ひしぞ。時は今来たか。わが身の如き老いたる者も、君の清き幼児のやうに白かれと御意し給ふか。噫、七千人。たとひ信仰に無知なりとも、七千人の
幼児が無知を罰し給ふか。われも亦インノセンスといふ。
主よ、われも彼等の如く罪は無い。
老の
極のこの身を罰し給ふ勿れ。彼等の願望は決して成就しまいと、永い歳月は予に教へる。それとも、これが奇跡であらうか。他の冥想の時の如く、密房は今寂としてゐる。現身に立出で給へと求め奉る事の無益なるは勿論ながら、わが老年の高みより、法王職の高みより祈り奉る。願はくは教へ給へ。今は何にも解らぬ。
主よ、彼等は君が憐れなる
幼児である。而してわれ、インノセンスには、すべて、わからぬ、わからぬ。