「鐵」の字古く「銕」また「※[#「金+截」、U+496B、262-2]」に作る。「銕」の字は

次に「※[#「金+截」、U+496B、262-8]」の
そこで「※[#「金+截」、U+496B、262-12]」の字が出来た。わが国には古え
ついでにいう。わが国にも太古青銅の利器がなかったのではない。筑紫鉾と言われた銅剣・銅鉾の類は、少からず土中から発掘される。しかしこれはシナ伝来の文化の結果で、現にわが国で製作せられ、わが国の意匠の表現せられたものがあっても、その製作法は起原をシナに有するものと察せられる。しかしてこれとは別に鉄の精煉は行われたものらしい。これらのことについては、他日別に詳説の機あることを期待する。
この機会をもって、自分は一言懺悔せねばならぬことがある。
たしか一昨年のころのことと思う。今の北野神社の宮司、当時は国学院大学長の山田〔(新一郎)〕法学士が、日本歴史地理学会で、日本においては銅器よりも、鉄の製造が前に発達したとのことを、長々と述べられたことがあった。当時自分は、わが考古学界に古鏡の研究が盛んになって、わが古代の鏡は、シナ伝来の漢鏡で、その以前のものはないとのことが、黙々の間に承認されそうな形勢であったので、それに対するある意味の防禦線ではなかろうかと考えた。したがって、はなはだ失礼ながら、その学説に対しても、深く耳を傾けようとはしなかった。もとよりこれについて、口頭でも、また文字をもってでも、あえて反対意見を発表したのではなく、ただ批評を求められたについて、われらと研究方法が違うとのことを述べたに過ぎなかったから、別に自分に責任を生じた訳ではないが、その後さらに研究を重ね、ことに冶金専攻の斎藤〔(大吉)〕工学博士の教えを受くるに及んで、少くもわが太古において、シナ伝来の青銅器製作法とは別に、鉄器製造の技術の発達を承認せざるを得なくなった。鋳物師 なる青銅器の製作とは別に、鍛冶部 なる鉄の鍛冶の発達を認めたくなった。ここに至って自分は斎藤博士に謝するとともに、山田学士に対しても、過去の不明を白状し、研究の動機を与えられたことを謝せねばならぬ。ただしその研究方法は依然として山田君とは違う。したがって山田君の御説の全部を承認したのではないことを、ここに保留しておきたい。ただ古く鍛冶部 の存在した事実を承認して、ともに研究を進めたいと思う。その詳細は他日の発表を待たれたい。
たしか一昨年のころのことと思う。今の北野神社の宮司、当時は国学院大学長の山田〔(新一郎)〕法学士が、日本歴史地理学会で、日本においては銅器よりも、鉄の製造が前に発達したとのことを、長々と述べられたことがあった。当時自分は、わが考古学界に古鏡の研究が盛んになって、わが古代の鏡は、シナ伝来の漢鏡で、その以前のものはないとのことが、黙々の間に承認されそうな形勢であったので、それに対するある意味の防禦線ではなかろうかと考えた。したがって、はなはだ失礼ながら、その学説に対しても、深く耳を傾けようとはしなかった。もとよりこれについて、口頭でも、また文字をもってでも、あえて反対意見を発表したのではなく、ただ批評を求められたについて、われらと研究方法が違うとのことを述べたに過ぎなかったから、別に自分に責任を生じた訳ではないが、その後さらに研究を重ね、ことに冶金専攻の斎藤〔(大吉)〕工学博士の教えを受くるに及んで、少くもわが太古において、シナ伝来の青銅器製作法とは別に、鉄器製造の技術の発達を承認せざるを得なくなった。