二十年ほども昔のこと、垂水の山寄りの、一めんの松林に蔽はれた谷あひを占める五泉家の別荘が、幾年このかた絶えて見せなかつた静かなさざめきを立ててゐた。その夏浅いころ、別荘の古びた冠木門を、定紋つきの自動車に運ばれて来た二人の人物が、くぐつて姿を消したのである。その日ののち、通りかかる里の人々の目は、崩れかけた築地のひまから、松林の奥に久方ぶりの燭火の幽かにまたたくのを見た。
丁度その年の秋の末に、五泉家のごく身近かには、一つの婚姻が
五泉男爵夫人李子は、厚母伯爵家の出であつた。彼女は十八歳で
かうして、久しい間見棄てられてゐた五泉家の垂水の別荘は、朽ち傾いた昔ながらの冠木門を開いて、この年若い男爵夫人を迎へ入れることになつたが、移り住んだのは彼女一人ではなく、曾根至と呼ばれる青年が同じ自動車の踏段を踏んで姿を現した。至は五泉家にとつて遠い姻戚に当る、今は死に絶えた或る一族の遺子であつた。彼は幼い頃から五泉家に引取られて成長したのであつたし、また彼が、厚母伯爵家の当主である喬彦の妹麻子と殆ど生れ落ちるとからの許嫁の間柄であり、この厚母兄弟が当時須磨寺の里に住んでゐたことが併せて、彼の同行を極めて自然なものにしたのであつた。そのうへ、十九歳の夏を迎へた厚母麻子と彼との結婚の日取までが、二人の知らぬ遠い昔に何人かの手に依つて定められてゐて、前にも言つたやうにもうその秋に迫つてゐた。
曾根至が垂水に移ることになつたについても、五泉家の後室の密やかな下心の動きを探ることが出来る。彼はこの家に引取られて人となつたものの、その受けた待遇は一種奇妙なものであつた。手早に言へば、彼は或る敬遠のさびしさを味ひながら成長したのである。何がその原因なのか、一時代前のことは彼自身も知らぬ。それにせよ、表面にあらはれた
······かうした約束の錯綜の姿に、読者は定めし或る煩はしさを感じられるに違ひない。けれどどうぞ、此等の人物の性格の底に、暗い術策のやうなものは何も期待しないで戴きたいものである。そしてもし、そのやうな影がほの見えることがあつたとしても、それは
李子夫人が至を伴つて垂水の別荘の主となつたのは、六月も半ば過ぎたころであつた。その年は空梅雨で、早目に澄みかへつた夏空の藍が、はげしい炎暑を約束してゐた。その日から二た月が過ぎた。それにつれて曾根家と厚母伯爵家の婚姻の日は近づいた。けれど彼等には相変らずの安穏な日々が続いてゐるらしく見えた。もともと、婚姻とは彼等にとつてただ厳かな儀式、いはば何者かの意志によつて定められたその日を果たす、と言ふだけのことに過ぎなかつた。固より彼等がそんな不躾な考へを口にのぼせる人達でなかつたことは言ふまでもないが、またそれだけに、婚姻といふ想像に何の期待も何の不安も感ぜぬ、殆ど徹底した冷たい心の持主であつたのは事実である。垂水の家で、また須磨寺の家で、至と麻子とは
二人が特別な間柄を意識して対座するのは、その夏がはじめてであつたけれども、といつて彼等の表情に、何かとりたてて目新らしい感情の動きが見られたのでもなかつた。至が肉づいた肩先を揺すつて鷹揚な笑ひを波だたせると、麻子もやがて同じく鷹揚な微笑を眼許に湛へてそれに対へた。二人の羞恥は主に、自分が不図して相手より先に
彼は厚母麻子に対するとき、同族としての態度に少しのひけ目も感ぜずに居られたが、李子に対しては、これまで彼が五泉家で受けてゐた待遇のさせる業でもあらうか、何とはなしに自分が一段低い族の生れのやうな気がしてならなかつた。この内心の
或る日のこと、長い炎暑の一日の終りを告げるものの十分余りの通り雨が馳せ過ぎたあとで、至は自分の居間に充てられた離れの縁に籐椅子を持ち出して、暮れ残る空の明るさに心を吸ひとられてゐた。この離れの間は、母屋とは長い渡殿で結ばれて、四囲に迫る丈の高い松樹の影に囲まれてゐた。南に面して月見草の咲く僅かな芝生があり、その尽きるあたりの丘のうへには、四阿が夕空の青を吸ひとつて黒ずんで見えた。名残の点滴が、時たま松蔭の柔かな土にかすかな音を立てては滲み入つた。ふと至は、四阿を抜けて白い浴衣姿の李子夫人が丘を下りるのを見た。夫人は、黄色い花の間の夕闇を縫つて近づいて来る。彼女をこんな光線の中に見出すのは、至には初めてであつた。夫人の姿に何か珍らしい美が匂つてゐるやうに思はれて、彼はひそかに籐椅子をきしませて、その方を見やつた。
「何を御覧になつて?」と、芝生の中頃から李子は気置きのない声で尋ねかけた、「また何かむづかしい考へごとでも遊ばして?」
彼女の声に至は思ひ構へぬ羞恥に打たれてたじろいだ。彼が眸をやつてゐた先は、夫人の姿のうへではなかつたのか。それも何かしら新しい意味を籠めて。······それと同時に彼は見出すのであつた、夫人がこれ迄見たことのない簡素な引つつめ髪に結つてゐることを。自分を捉へてゐた新しい感情は、ただその髪の与へた印象に依るものに過ぎないことに自分を説き伏せながら、彼はわれにもなく言つた。||
「お髪が変つたので別の方かと思ひました。随分お若く見えたので。」
夫人はそれには微笑で答へながら、団扇の音を立てた。軒端の夕闇に新しい湯の香が漂つて、その匂ひが不図彼に、或る無念な想像を起させるのであつた。五泉家の長い間の風習として、彼のお湯の順番はいつも夫人のあとであつた。彼女は垂水の別荘に移つてからも、この風習を棄てなかつた。それは恐らく、彼女のおつとりした生れつきでは気附かぬ事柄だつたに違ひない。このやうな些細な順序が、成長した青年の心に蔑みを感じさせ
「お先きに」と夫人が思ひ出したやうに言ひ継いだ、「すこしお加減がぬるいので、いま燃させて差上げましたわ。もう少しお待ちになつて。······まあ大変な蚊! 蚊遣りをお焚きになつては。」
至が蚊遣りに火を入れてゐるあひだ、夫人は軒端に佇んで、珍らしく京都の話をはじめた。五泉家の古びた邸は草深い御室にあつた。手紙でも来て、その日は久し振りで京都が彼女の心を占めてゐたのであらう。男爵は暫く比叡山に
「だんだんお爺さんになつて、お寺籠りがよく似合ふやうになつて······」と夫人は幽かな非難を漂はせながら笑つた。それは、過ぎた日の事とはまだ言へぬ、良人の素行に向けられたものに違ひなかつた。至が言つた。
「お爺さんのお
「ま、至様のお口のお悪いこと。いつの間にそんなことお覚え遊ばして?」夫人は若やいだ笑声を立ててふと口籠つたが、それなり歌ふやうに言ひ棄てた、「あのひとはお爺さん、けれど私は若者!」
一瞬、稚なさが不自然に揺れたやうであつた。それも直ぐ、これといふあらはれもなしに消えた。
やがて夫人が至にお湯をすすめて、再び月見草の丘をのぼつて行つたあとでも、至は大分長いあひだ籐椅子を動かなかつた。彼にはこの夕暮ほど、夫人の姿が近しく思はれたことがなかつた。彼は夫人の秘密に、遂に一足を近づいたのを感じた。しかしこのやうな心の距離の変化はごく陰微なものであつたので、李子に覚られるわけがなかつた。不思議な眼の
確かに、喬彦の心がそれほどに敏い嗅覚を具へてゐたのは、嫉妬のさせる業にほかならなかつた。彼の貴族の子としての早熟さは、まだ中学の生徒だつた頃に早くも、父伯爵の手文庫の底から、家系に関する一つの秘事を探り出させてゐた。それは一通の古びた手紙であつたが、それに
かうして、喬彦の恋は満たされないままに残つた。暗い炎は殆ど消え失せたもののやうに見えた。それがいま数年を隔てて、李子が垂水に移つて互ひの生活が間近になるにつれ、ふたたび穂をもたげたのであつた。喬彦が李子の美をふたたび発見することになつたのは、曾根至の瞳をとほしてである。彼は李子を直接に見るときには、憎悪と蔑みをしか感じなかつた。けれど至の眼の奥に、日毎に色を変へながら昂まつてゆく感情のほのめきを見てとる時、喬彦の心を激しい嫉妬がさいなむのであつた。そして彼の嫉妬は、眠りかけた昔の恋を不思議な形に変へて呼びさました。
夏山に蝉の音の満ちるころ、麻子の新しい衣裳の柄選みの相談役に、李子は須磨寺の家に招かれた。帰りは夜になつて、喬彦が送つて来た。鉄道線路を越して坂道を垂水の別荘に近づいたとき、喬彦はふと傍の松原のなかへ躍るやうに踏込んだ。止つてはまた二三間ほど粗々しく走つた。その思ひがけぬ動作に、李子は立ちどまつて闇をすかした。余程遠くへ行つたらうと思つた彼の姿は、そのあたりひとしほ闇の色濃く見える老樹の幹に靠れて、思ひがけぬ近さにあつた。
「どうなすつて、喬さん」李子の声に心やすい哀願がにじんだ、「犬でもゐて?」
「いや、何でもない。ちよつと思ひ出したことが······」はげしく、制するやうに彼が答へた。彼もまた、何かに怯えてゐるやうであつた。
喬彦は燐寸をすつた。赤い
「いやな喬さん||」李子は喬彦の笑ひの余韻を急いで拭きとらうとするかのやうに言つた、
「さ、もう行きませう。遅くなりますよ。」
彼がやうやく松原を出て来たのは、それから三分ほどもたつた後であつた。李子は並んで歩きはじめた彼の顔をのぞき込み、蟀谷に太い青筋の浮き出てゐるのを見た。これは彼女もよく知つてゐる、甥の時たまの激しい
しかし、喬彦がその夜くぐり抜けたと自ら信じた危機は、それで終つてはゐなかつた。そしてこの内心の闘ひがやうやく彼の心の
手紙の文字は、正しい筆遣ひにもかかはらず、それでは蔽ひかくせぬ乱れの跡をとどめてゐた。読みすすむにつれ、夫人の眼はきらきらして、美しい唇が引きつるやうに歪むのであつた。喬彦は昔の手文庫の秘密について書いてよこしたのである。だがその文面は、李子の出をあばいてこれを罰するのではなしに、却つて自分が子供のときに犯した秘事の告白であるかのやうに見えた。寧ろそれは、彼が望んだやうに厚母家の名誉にかけた威嚇ではなしに、厚母一族の不純さの懺悔としか見えなかつた。喬彦は一たい何に目が暗んで、これほどのことを見境すら附かなくなつたのであらう? それとも、彼はこの手紙を手引にして、何かを彼女にねだらうと企らんでゐるのか知ら。五泉家にうとまれ、荒れ果てた別荘へ追ひやられてゐる現在の彼女から。······とまれ、李子がこの不可解な手紙を読み終へたときに得たのは、ひろびろとした呼吸感であつた。今まで厚母家の一人として、知らず識らず背負つてゐた虚飾の枷が解け去るのであつた。この手紙に遠廻しに語られてゐる遠い昔の事柄がもし本当なら、彼女は逆に喬彦の名誉にかけて彼を威すことが出来るのではないか。つまり、手紙が彼女に宣告したのは、敗北ではなくて、思ひがけなく手に入つた優越なのではないか。
彼女は機械的にペンを取上げた。けれど次第に落着きを取戻すとともにその考へを振り棄てて、ペン皿のうへで甥の手紙に火を点じた。手紙が幾層かの醜く反り返つた灰になるのを見澄したのち、彼女は床にはいつた。間もなく不思議なほどに深い眠りが彼女を捉へてゐた。
その真夜中、李子は何かするどい物音を耳にして目をさました。高い動悸が打ち、神経は一時に研ぎすましたやうに冴えわたつた。息ぐるしい闇の中に、いま眠りと現実の境で耳にした物音は、枕許の書机のうへで手紙の灰が、冷えはじめた夜半の空気に誘はれ立てた、微かな干割れの音に過ぎなかつた。それと知つたあとでも、彼女は
彼女は床を離れた。そして枕頭の紙燭に火を入れると、冷たい水を飲むために湯殿に隣る洗面所へと、よろめくやうに歩いて行つた。夏の夜の蒸暑さが、やがて暁の清冷に代らうとしてゐた。とはいへ、戸外の闇のまだまだ重く色濃い中で、油蝉の啼く声がしきりだつた。冷たいコップの触感を唇の上に感じたとき、彼女の智がはじめて目をさまし、李子はやつと自分のあらはな情感の姿をさとるのであつた。李子は自分の手を見た。彼女はよろめいたのだ。今となつては何もかももう遅すぎた。燃殻の干割れは、彼女の耳に怖ろしい復讐を囁いたのではなかつたのか。紙燭を取り上げたとき、すでに彼女の指は汚れてゐたのではなかつたのか。窓の曇硝子をとほして、彼女は戸外の闇の重さをはかつた。
いま李子夫人のやうな性格を、例へば五泉家の後室のそれに比較して見るのは、興味深いことである。後室の性格を、謂はば開花期に於ける貴族精神を代表するものとするなら、李子夫人のそれは没落期の一典型とは考へられまいか。それは世間一般に考へられてゐるやうに、享けた血の純不純に依るものではない。実際後室にしてもが、その生家の血統を検べつくして見て、其処に一筋の汚れの跡もないと誰が断言するだらうか。それのみか、貴族階級を流れる血が最も汚れたものでないと誰が断言するだらうか。後室に一生を毅然とした挙止で貫かせたのは、そしてあらゆる
李子は熱した唇をつよく拭いた。それは冷水の刺戟によつて一しほ鮮紅に燃え立つやうであつた。彼女はわななく指に紙燭を取りあげた。やがて灯影が彼女の寝間とは反対側に折れて、離れへ導く渡殿を仄々と渡つて行くのが見えた。彼女の秘めた足どりは安らかな夢の敷物を踏むやうに。······
二た月の夜と日が流れた。垂水の別荘にも須磨寺の家にも、余所目には何の変りも見えなかつた。結婚の日の迫るにつれて人々の往き来は[#「往き来は」は底本では「住き来は」]繁くなつて行つたが、別に幸福の色が濃くなりまさつたといふわけでもない。そして、定めの日取りを違へずに曾根家と厚母家の結婚披露が、神戸の或る古めかしいホテルで催された。
李子と喬彦の席は斜めに向ひ合つてゐたけれど、松に蘭をあしらつた大きな水盤に遮られて、お互ひの顔は見えなかつた。正面の至の席と李子の間には何の遮るものもなかつた。その空間を至の方から、するどいながら清らかな視線が絶え間なく流れた。李子は、この結婚の席でほとんど半年ぶりの対面をした良人の、取りつくろつた会話につつましく応へながら、時をり眼をあげて遥かな至の眸に酬いるのであつた。やがて乾杯のとき、はじめて松と蘭の上に喬彦の蒼白な顔があらはれた。しかし彼の気むづかしげな眼は、李子を避けて合ふことがなかつた。