誰かがヨーゼフ・Kを
「どなたですか?」と、Kはききただし、すぐ半分ほどベッドに身を起した。
ところが男は、まるで自分の出現を文句なしに受入れろと言わんばかりに、彼の質問をやりすごし、逆にただこう言うのだった。
「ベルを鳴らしましたね?」
「アンナに朝食を持ってきてもらいたいのです」と、Kは言い、まず黙ったままで、いったいこの男が何者であるか、注意と熟考とによってはっきり見定めようと試みた。
ところがこの男はあまり長くは彼の視線を受けてはいないで、
「アンナに朝食を持ってきてもらいたいのだそうだよ」
隣室でちょっとした笑い声が聞えたが、その響きからいって、数人の人々がそれに加わっているのかどうか、はっきりしなかった。見知らぬ男はそれによってこれまで以上に何もわかったはずがなかったが、Kに対して通告するような調子で言った。
「だめだ」
「そりゃあ変だ」と、Kは言って、ベッドから飛びおり、急いでズボンをはいた。
「ともかく、隣の部屋にどんな人たちがいるのかを見て、グルゥバッハ夫人がこの私に対する邪魔の責任をどうとるのか知りたいのです」
こんなことをはっきり言うべきではなかったし、こんなことを言えば、いわばその男の監督権を認めたことになるということにすぐ気づきはしたが、それも今はたいしたこととは思われなかった。見知らぬ男もずっとそう考えていたらしい。男がこう言ったからである。
「ここにいたほうがよくはないですか?」
「いたくもありませんし、あなたが身分を明らかにしないうちは、あなたに口をきいていただきたくもないんです」
「好意でやったんですよ」と、見知らぬ男は言い、今度は進んで扉をあけた。
Kがはいろうと思ってゆっくり隣室へはいってゆくと、部屋はちょっと見たところ、前の晩とほとんどまったくちがったところがなかった。それはグルゥバッハ夫人の住居で、おそらくこの家具や敷物や
「君は部屋にいなければいけなかったのだ! いったいフランツは君にそう言わなかったか?」
「で、どうしようというんです?」と、Kは言い、この新しく知った人物から眼を転じて、戸口のところに立ち止っているフランツと呼ばれる男のほうを見、次にまた視線をもどした。
開いた窓越しにまた例の老婆が見えたが、彼女はいかにも老人らしい好奇の眼で、今ちょうど、向い合った窓のところへ歩み寄って、その後の成行きを一部始終見届けようとしていた。
「グルゥバッハ夫人にちょっと||」と、Kは言い、彼から遠く離れて立っている二人の男から身を引離そうとするようなしぐさを見せて、歩みを進めようとした。
「いけない」と、窓ぎわの男が言い、本を小さな机の上に投げて、立ち上がった。「行っちゃいけない。君は逮捕されたんだぞ」
「どうもそうらしいですね」と、Kは言い、次にたずねた。「ところで、いったいどうしてなんです?」
「君にそんなことを言うように言いつかっちゃいない。部屋にはいって、待っていたまえ。訴訟手続きはもう始まったんだから、時が来れば万事わかるようになるだろう。君にこんなに親切に話すことは命令の範囲を出ているんだ。けれど、おそらくフランツ以外に聞いている者は誰もいないだろうし、あれからして規則に違反して君に親切なんだからね。これからさきも、君の監視者がきまったときのように幸運に恵まれるなら、安心できるわけだよ」
Kはすわろうと思ったが、さて、部屋じゅうどこにも窓ぎわの椅子のほかにすわるところがないことに気づいた。
「まあ今に、万事がしごくもっともだということがわかるさ」と、フランツが言い、もう一人の男といっしょに彼のほうに歩み寄ってきた。特に後者はKよりもひどく背が高く、何度も彼の肩をたたいた。二人ともKの寝巻をためつすがめつして、君はこれからもっとわるいシャツを着なければならぬようになるだろうが、このシャツもほかの下着類といっしょに保管しておいてやろう、そして事が有利に解決したら、君にまた返してやろう、と言うのだった。
「そういうものを倉庫に入れるくらいなら、おれたちに渡したほうがましだ」と、彼らは言った。「倉庫ではしばしば横領されることがあるし、そのうえ、ある期間が過ぎると、その手続きが終ろうが終るまいがおかまいなく、何でもかでも売り払ってしまうからね。それに、こんな訴訟はなんて手間取ることだろう、ことに近頃はねえ! もちろん、最後には倉庫から売上金をもらうだろうが、第一に、売却の場合言い値の金高できまるものじゃなく、
Kはこんな話にほとんど注意をはらっていなかった。自分の持物に対する所有権というものはおそらくまだあるはずだが、彼はそんなものをあまり重んじていなかったし、自分の置かれた状態をはっきり知ることのほうが、いっそう大切だった。しかし、この連中のいる前では、少しもゆっくり考えてみることができず、二番目の監視人||まったくのところただの監視人にすぎないはずだが||の腹がしょっちゅう、明らかになれなれしげに彼にぶつかり、彼が眼を上げると、頑丈そうな、わきへねじれた鼻をした、このでっぷりした図体とはおよそ似つかわしからぬ干からびて骨ばった顔が見え、この顔が彼の頭越しにもう一方の監視人と話し合っていた。いったいこいつは何者だろう? 何をしゃべっているのだろう? どんな役所の者なのだろう? おれは法治国に住んでいるのだし、国じゅうに平和が支配しているし、すべての法律は厳として存在しているのに、何者がおれの住居においておれを襲うということをあえてしたのだろうか? 彼はつねに、万事をできるだけ気安く考え、最悪のことはそれがほんとうに始まってから信じ、たといいっさいの危険が迫っても、将来のことは取越し苦労しない、という傾向であった。ところが今の場合、それは正しくないように思われた。すべてを
彼はまだ自由であった。
「失礼します」と、彼は言って、急いで二人の監視人のあいだを通って自分の部屋へ行った。
「やつは物がわかるらしいな」と、背後で言うのが聞えた。
部屋にはいった彼は、すぐ机の引出しをあけた。そこは万事がきちんと片づいていたが、捜した身分証明書だけは、興奮しているためか、すぐには見つからなかった。とうとう自動車証明書を見つけだし、それを持って監視人たちのほうへ行こうとしたが、この書類はあまり役にたたぬように思えたので、もっと捜したうえ、ついに出生証明を見つけだした。彼がまた隣室にもどったとき、ちょうど向い合った扉が開き、グルゥバッハ夫人がそこへ足を入れようとした。彼女はほんの一瞬間姿を見せただけで、Kを認めたとたん、明らかに当惑した様子を見せ、ごめんなさいと言って、引っこみ、きわめて慎重に扉をしめた。
「どうぞおはいりなさい」と、Kは今ならまだ言うこともできた。
だが彼は、書類を持って部屋の真ん中に立ち、まだ扉をじっと見ていたが、扉は二度とは開かず、やがて監視人たちに声をかけられてびっくりした。二人の男は開いた窓ぎわの机にすわっており、Kが気づいたときには、彼の朝飯を食っていた。
「なぜあの人ははいらなかったんです?」と、彼はきいた。
「はいっちゃいけないんだよ」と、大きいほうの監視人が言った。「君は逮捕されているんだからな」
「いったいどうして逮捕なんかされているんです? しかもこんなやりかたで?」
「ああ、また始まったね」と、その監視人は言い、バタパンを
「答えてもらわなくちゃなりません」と、Kは言った。「これが私の身分証明書です、今度はあなたがたのを見せてください、それに何よりもまず逮捕状をね」
「冗談言うな!」と、監視人は言った。「君は君の立場に
「そうだ、君も観念したほうがいいぜ」と、フランツが言い、手にしていたコーヒー
Kは思わず知らず、フランツと視線で渡り合っていたが、やがて書類をたたいて、こう言った。
「これが私の身分証明書です」
「そんなものがなんだというんだ」と、大男の監視人がすぐさま叫んだ。「子供より行儀がわるいぞ。いったいどうしようっていうんだ? われわれ監視人と身分証明書だとか逮捕状だとかのことで議論すれば、君のたいへんな、厄介きわまる訴訟がたちまち片づくとでも思っているのか? われわれは
「そんな法律って知りませんね」と、Kは言った。
「それだからなお困るんだよ」と、監視人が言った。
「ただあなたがたの頭にだけある法律なんですよ」と、Kは言い、なんとかして監視人の考えていることのなかにはいりこみ、それを彼の都合のよいほうに向けるか、あるいはそれにもぐりこんで同化しようと思った。ところが監視人はただ突き放すように言うのだった。
「今にわかるようになるよ」
フランツが
「おい、ウィレム、あいつは、法律を知らないって白状し、同時に、自分は無罪だって言い張っているぜ」
「まったくお前の言うとおりだが、あいつには全然わからせることはできやしないよ」と、もう一方の男が言った。
Kはもう返事をしなかった。こんな下っ端の連中||彼ら自身が、そうだ、と白状している||のおしゃべりでこれ以上頭を混乱させられる必要なんかあろうか、と彼は思った。連中は、自分自身でもまったくわからないことを言っているのだ。落着きはらっているのは、
「あなたがたの上役のところへ連れていってくれませんか」と、彼は言った。
「あちらが、そうしろ、と言われるならばね。それまではだめだ」と、ウィレムと呼ばれた男が言った。
「で、君に言っておくが」と、彼は言い足した。「部屋に帰っておとなしくしていて君についての指示が来るのを待ったがいいね。つまらぬ考えでぼんやりしてないで、落着いているがいいぜ。そのうち大きな命令が君に下るよ。君はおれたちを、おれたちの親切にふさわしいようには扱わなかったね。おれたちは相も変らぬつまらぬ連中かもしれないが、少なくとも今は君に対しては自由な人間だ、ということを君は忘れているんだ。これはけっして少しばかりの優越じゃないんだぜ。それでも、君が金を持っているなら、あの喫茶店から軽い朝飯ぐらいは取ってきてやるつもりはあるよ」
この申し出には答えずに、Kはしばらくじっと立ち止っていた。隣の部屋の扉、あるいは控えの間の扉をあけてさえも、おそらく二人はあえて彼を阻止しないだろうし、極端にまでやってみることがおそらく最も簡単な、事の解決法であろう。けれど二人は彼につかみかかってくるかもしれないし、一度たたき倒されたならば、現在彼らに対してある点ではまだ持ち続けている優越的地位をすべて失ってしまうのだ。それゆえ彼は、事の自然な成行きがもたらすはずの解決の安全ということのほうを選び、部屋にもどったが、彼のほうからも監視人のほうからも、もう一言も発せられなかった。
彼はベッドに身を投げ、洗面台から見事な
そのとき、隣室からの呼び声が彼をひどく驚かしたので、彼は歯をコップにぶつけた。
「監督が呼んでおられる!」と、いうことだった。彼を驚かしたのは、ただその叫び声だけだった。この短い、断ち切られたような、軍隊式の叫び声は、監視人のフランツのものとはまったく思えないものだった。ところで命令そのものは、彼にはきわめて好ましかった。
「とうとう来ましたね!」と、彼は叫び返し、戸棚をしめ、すぐ隣室へ急いで行った。そこには二人の監視人が立っていて、当然だといわんばかりに、彼をまた部屋へ追い返した。
「冗談じゃないぞ、え?」と、彼らは叫んだ。
「シャツを着たまま監督の前に出ようっていうのか? そんなことをしたら、あの人は君をさんざんにたたきのめさせるぞ、それにおれたちも巻き添えだ!」
「ちぇ、放っておいてくれたまえ!」と、もう洋服
「なんと言おうとだめだ」と、監視人たちは言ったが、Kが大声で叫ぶと、まったくおとなしく、いやほとんど悲しげにさえなり、そのため、彼を当惑させ、あるいはいわば正気に返らせるのだった。
「ばかばかしい仰山さだ!」と、なおもぶつぶつ言ったが、すでに上着を椅子から取上げ、しばらく両手で持ったまま、監視人たちの
「黒の上着じゃなくちゃいけない」と、彼らは言った。
Kはすぐさま上着を床に投げ、言った。||彼自身、どんなつもりでこう言ったのか、わからなかった。
「だってまだ本審理じゃないんだ」
監視人たちはにやりとしたが、主張はまげなかった。
「黒の上着じゃなくちゃいけない」
「そうすれば事が早くすむのなら、それでもかまいませんよ」と、Kは言い、自分で洋服箪笥をあけ、長いことたくさんの服をひっかきまわし、いちばんいい黒の服を選んだ。腰まわりの出来がよいので知人たちのあいだでほとんど大評判となった背広である。
そして、別なシャツも引出して、念入りに着はじめた。風呂にはいれ、と無理
着物を完全に着てしまうと、ウィレムのすぐ前を通って、
部屋の
「ヨーゼフ・Kだね?」と、監督はきいたが、おそらくはただ、Kのきょろきょろした眼差を自分に向けさせるためであった。Kはうなずいた。
「
「そうですね」と、Kは言ったが、ついに物のわかる人間に向い合って、自分のことに関して話ができるのだ、という快い感情が彼をとらえた。
「確かに驚きはしましたが、けっして非常に驚いたというわけでもありません」
「非常に驚いたわけでもない?」と、監督はきき、机の真ん中に蝋燭を立てて、そのまわりにはほかの品々を並べたてた。
「どうも申上げた意味を誤解しておられるらしいですが」と、Kは急いで述べたてようとした。
「つまり」||ここで彼は言葉を切り、椅子はないだろうかと、あたりを見まわした。
「すわってもかまいませんか?」と、彼はきいた。
「それはできないことになっている」と、監督は答えた。
「つまり」と、Kはこれ以上
「なぜ、ことに今日の出来事のようなのにはそうなんだ?」
「事のすべてを冗談だと見ている、と言うんじゃないのです。冗談にしては、やられた道具だてがおおげさすぎますからね。アパートの住人みな、そしてあなたがたも、事に加担しておられるようですし、こうなると冗談の範囲を
「まったくそうだ」と、監督は言い、何本マッチがマッチ箱のなかにあるのか、数えていた。
「しかし一面、この事件はたいして重要性を持ってはいません。そう推論できるのは、私は告発されてはいるものの、私が告発されるような罪は、少しも見つけだせないからです。しかし、それも二の次です。問題は、誰に告発されたのか、ということです。どの役所が手続きをやっているのか? あなた方は役人なのか? どなたも制服は着ておられないし、あなた方の服は」||ここで彼はフランツのほうを向いた||「制服とは申せませんからね。どうみても、むしろ旅行服といったものです。こうした疑問に明瞭なご返事を願いたいと思います。これがはっきりすれば、お互いにきわめて気持よくお別れできる、と確信します」
監督はマッチ箱を机の上に置いて、言った。
「君はたいへん間違っている。ここにおられる方々も私も、君の事件についてはまったく枝葉の存在なんだ。実のところ、それについてはほとんど何ひとつ知ってはいやしない。われわれは規則どおりの制服を着ることもできようが、それで君の事件がどうなろうというものじゃない。君が告発されているなどということは、私はまったく言えないし、あるいはむしろ、いったい君が告発されているのかどうかさえ、知ってはいないのだ。君が逮捕された、ということは確かだ。それ以上は知ったことじゃない。おそらく監視人たちが何かよけいなことをしゃべったかもしれないが、それならそれはただのおしゃべりだ。君の質問にはお答えしないが、われわれのことや、君にこれから起るかもしれないことやにはあまり頭を使わないで、それよりか君自身のことを考えるほうがよい、と忠告しよう。自分は潔白だという気持でこんな騒ぎをやらないことだな。君がほかのことでは与えているさしてわるからぬ印象を、ぶちこわしてしまうからね。それにまた、およそ口をもっと慎むことだ。君がこれまでしゃべったことはほとんどみな、ただほんの二言三言にとどめておいても、君の態度からしてわかったことだろうし、そのうえ、君にとって格別有利なものでもなかったからね」
Kはじっと監督を見た。見かけたところ年下らしい男から、ここで
「まったくばかげたことだ」
これを聞いて三人は彼のほうを向き、言うことは聞いてやるがという様子だが、真剣な顔つきで、彼をじっと見た。Kは最後にまた監督の前で立ち止った。
「ハステラー検事は私の親友なんですが」と、彼は言った。「電話をかけてかまいませんか?」
「よろしい」と、監督は言った。「だが、電話をかけることにどんな意味があるのかは私にはわからないが、まあ、個人的な用事で検事と話さねばならないんだろうな」
「どんな意味かわからないですって?」と、Kは腹をたてたというよりは
「あなたはいったい何者です? 意味などと言っているくせに、およそありうるかぎり無意味なことをやっているじゃないですか? かわいそうなくらいばかげたことじゃありませんか? この方々がまず私を襲ったのに、今はこの部屋であちらこちらに立ったりすわったりしていて、あなたの面前で私に高等馬術をやらせているんです。私は明らかに逮捕されているらしいが、検事に電話することがどんな意味を持っているか、と言われるんですか? よろしい、電話はかけますまい」
「だがまあそう言わずに」と、監督は言って、電話のある控えの間のほうに手を伸ばし、「どうぞ、電話をかけたまえ」
「いや、もう結構です」と、Kは言い、窓ぎわへ行った。
向うでは連中がまだ窓ぎわにいたが、今やっと、Kが窓ぎわへ寄ったので、静かにながめていることを少しばかり邪魔された様子だった。二人の老人は
「向うには向うで、あんな見物がいるんです」と、Kは大声で監督に向って叫び、人差指で外を示した。
「そこからどけ!」と、彼は窓向うにどなった。
三人のほうもすぐ二、三歩退き、そのうえ、二人の老人は男の後ろにまわったが、男は二人の老人をその幅広い身体でおおい隠し、その口の動きから判断するのに、遠くてよくはわからないが何か言っているらしかった。しかし、彼らはすっかり見えなくなってしまったのではなく、そっとまた窓ぎわに近づくことのできる瞬間をねらっているらしかった。
「あつかましい、遠慮のないやつらだ!」と、部屋のほうに振返りながら、Kは言った。Kが横眼で見取ったところでは、監督もおそらく彼の言うことに同感だったらしかった。しかしまた、全然彼の言うことに耳をかしていないようにも思えた。というのは、片方の手をしっかりと机の上に押しつけ、指の長さをそれぞれ比べてみている様子だったからである。二人の監視人は飾り布でおおったトランクに腰をかけ、
「さて、みなさん!」と、Kは叫んだが、一瞬のあいだ、三人全部を肩に背負っているように思えた。「あなたがたのご様子では、私についての用件は終ったものと考えてよさそうですが。私の意見では、あなたがたの行動が正しかったか、正しくなかったか、というようなことをもうこれ以上考えずに、互いに握手し合って事を円満に決着することがいちばんよいように思われます。あなたがたも私と同意見でいらっしゃるなら、どうか||」
そう言って彼は、監督の机に歩み寄って、手を差出した。監督は眼を上げ、
「銀行ですって?」と、Kは言った。「私は逮捕されたんだ、と思っていましたよ」
Kはちょっと
「逮捕されたんですから、どうして銀行へ行けましょう」
「ああ、そのことか」と、すでに戸口にいた監督は言った。「それは君の考え違いだよ。君は逮捕された、確かにそうだが、それは君が職業をやってゆくことを妨げはしないんだ。今までどおりの暮しかたをしても、ちっともかまわないんだ」
「それじゃあ逮捕されるのも、たいしてわるいことじゃありませんね」と、Kは言い、監督のそばに近づいた。
「初めからそう言っているはずだ」と、監督は言った。
「しかしそれなら、逮捕通知もたいして必要でなかったようですが」と、Kは言って、さらに近くへ寄っていった。ほかの連中も近寄ってきた。皆が狭い部屋の扉のところへ集まった。
「それは私の義務だったのだ」と、監督が言った。
「ばからしい義務ですね」と、Kは負けてはいずに言った。
「そうかもしれない」と、監督が答えた。「だが、こんな話で時間をつぶしたくない。君が銀行に行くものとばかり私はきめこんでいた。君はあらゆる言葉を気にしているので言っておくが、銀行に行くように君を強制するつもりはないんで、君が行きたいと思っているときめこんだだけのことだ。そして、君が気軽に出かけられ、銀行に出てもできるだけ目だたぬようにするため、君の同僚の三人の方々を君のためにここへお連れしてきてある」
「なんですって?」と、Kは叫び、三人をまじまじとながめた。このなんの特徴もない、貧血の若い男たちは、写真を
「お早う」と、Kはしばらくして言い、きちんと頭を下げる三人に手を差伸べた。
「僕は君たちにちっとも気がつかなかった。それじゃ、仕事に出かけようか?」
三人は笑いながら、ずっとそれを待ちもうけてでもいたかのように気を入れてうなずき、ただKが帽子を部屋に取残して手にしていないのに気づくと、彼らは皆相次いで取りに走っていったが、その様子からは、ともかくある種の当惑ぶりというものが想像されるのであった。Kは黙って立ったまま、二つの開いた扉を通ってゆく後ろ姿を見ていたが、いちばん
「あんなところを見るんじゃない!」と、大声で叫んでしまい、一人前の男たちに対してこんな物の言いかたをすることがどんなに目だつことかに、気づくことさえなかった。だが弁解の必要もなかった。ちょうど自動車が来たからである。彼らは車に乗り、走りだした。そのときKは、監督と監視人たちとが帰ってゆくのに全然気づかなかったことを思い出した。監督に気を取られて三人の行員を見そこない、今度はまた行員たちに気を取られて監督を見失ったのだった。こんなことではあまり気を配っているとは言えないし、この点でもっと精密に観察しよう、とKは決心した。しかし、彼は思わず知らずのうちに振向き、自動車の背のクッションの上へ身体を曲げ、できればまだ監督と監視人たちが見えないか、とうかがってみた。しかし、すぐにまた向き直り、ゆったりと車の
この春Kは、できれば||というのはいつもたいてい九時までは事務室にすわっていたからだが||仕事のあと、ひとりでかあるいは行員たちといっしょに、ちょっとした散歩をし、そのあとであるビヤホールに行き、年配の紳士が多い常連のテーブルの仲間にはいって、普通、十一時まですわるというふうにして、夜分を過す習慣だった。しかし、たとえばKの仕事の
しかしこの夜は||日中は仕事に追われ、また丁重で親しげな誕生日の祝いを言われながらたちまち過ぎ去ってしまったが||Kはすぐ家に帰ろうと思った。昼間の仕事のちょっとした合間に、彼はそのことを考えていた。いったいなぜこんなことを考えるのかはっきりとはわからなかったが、今朝の出来事のためにグルゥバッハ夫人の家全体に大きな混乱が引起され、秩序を回復するためにはまさに自分が必要なように思われるのだった。しかし、この秩序が一度回復されれば、あの出来事のあらゆる
夜の九時半に、住んでいる家の前に来ると、入口で一人の若い男に出会った。その男はそこで足を踏んばって立っており、パイプをふかしていた。
「どなたです?」と、Kはすぐたずね、顔をその若い男に近づけたが、玄関の薄暗がりのなかではよくは見えなかった。
「門番の息子です、
「門番の息子だって?」と、Kはきき、ステッキでいらいらしたように床をたたいた。
「旦那、ご用でしょうか?
「いや、いいよ」と、Kは言ったが、その声のなかには、この男がある悪事をやったのだが自分はゆるしてやるのだ、というような何かゆるすような調子が含まれていた。
「もういいよ」と、彼は言い、歩みを進めたが、階段を登る前に、もう一度振向いた。
まっすぐ自分の部屋へ行ってもよかったが、グルゥバッハ夫人と話したくなって、すぐ彼女の部屋の扉をたたいた。夫人は靴下を編みながら机のそばにすわり、机の上にはさらに一山の古靴下がのっていた。Kはどぎまぎして、こんなに遅くお邪魔してすみません、と申し訳をしたが、グルゥバッハ夫人は非常に愛想よく、そんな申し訳は聞きたくないというふうで、あなたならいつでも、お話ししてよい、私があなたを間借人のうちいちばんよい、いちばんりっぱな方だと思っていることはよくご存じでしょう、と言うのだった。Kは部屋を見まわしたが、また完全に元どおりになっていて、朝には窓ぎわの小さな机の上にのっていた朝飯の道具も、すでに片づけられてあった。
「女の手というやつは、こっそりと多くのものを片づけるものだ」と、思った。自分ならおそらく道具を即座にたたき割ってしまって、部屋から運び出すことなどはきっとできるものではなかったろう。彼はグルゥバッハ夫人を感謝めいた気持でじっと見つめた。
「なぜこんなに遅くまでお仕事をなさるんです?」と、彼はたずねた。
二人とも机にすわり、Kはときどき手を靴下のなかへ突っこんだ。
「仕事が多うござんしてね」と、彼女は言った。「昼間は間借人の方々にかかりきりですし、自分の仕事を片づけておこうとすると、どうしても夜分だけしかありません」
「今日はさだめしよけいな仕事をおさせしましたろう?」
「どうしてですの?」と、夫人はたずね、いくらか真顔になって仕事の手を
「今朝ここにいた連中のことです」
「ああ、あのこと」と、彼女は言い、また平静にかえって、「たいして手のかかることではありませんでしたわ」
Kは黙って、靴下編みをまた始めた夫人をながめた。あのことを言ったので、彼女は不審に思っているようだ、あのことを言ったのを変なふうにとっているらしい、と思った。それだけに、あのことを言うことが大切なのだ。年配の婦人とだけあのことを話すことができる。
「いや、きっとお手数をおかけしました」と、彼は言った。「しかし、あんなことはもう二度と起りますまい」
「ええ、あんなことは二度と起りませんよ」と、励ますように言い、ほとんど悲しげに彼に
「ほんとうにそうお思いですか?」と、Kはたずねた。
「そうですとも」と、彼女は低い声で言った。「けれど何より、あのことをあまりむずかしくお考えになってはいけませんわ。この世の中では何が起るかわかったものじゃありませんもの! Kさん、あなたがうちとけて私とお話しくださるので、私もつつまずに申しますが、私は扉の後ろでちょっと盗み聞きしましたし、二人の監視人たちも私にいくらか話してくれましたの。なにしろあなたのご運に関することですし、ほんとうに私の気にかかることですもの。そりゃあ、私には出すぎたことでしょうよ、なにしろ私は下宿の
「おっしゃったことはばかげたことじゃありませんよ、グルゥバッハさん。少なくとも私も部分的にはあなたと同じ考えです。だが私はこのことをあなたよりも鋭く判断しますから、私は簡単にそれを何か学問めいたことなどとは少しも考えないで、およそ無意味なことだと考えるんです。私は急に襲われたっていうわけです。もし眼がさめたらすぐ、アンナが来ないことなどに惑わされずに起き上がり、邪魔にはいる人間なんかに眼もくれずにあなたのところへ行き、今朝は番外に台所ででも朝飯を食べ、着物はあなたに私の部屋から持ってきていただいたなら、つまり理性的に振舞っていたなら、それ以上のことは何も起らず、起るはずのいっさいのことが防がれたことでしょう。でも心構えが全然できていなかったんです。たとえば銀行でなら心構えもできており、こんなことは起りようもないんです。自分の小使がいるし、外線と社内との電話が眼の前の机の上にあるし、顧客や行員がひっきりなしにやってきます。そのうえ、何よりも肝心なことですが、銀行ではいつも仕事とつながりがあり、そのためいつも頭が働いていて、こんな仕事の相手をさせられることは、まったく楽しみみたいなもんです。だが、事はすんだのですし、私もまったくこれ以上あんなことについてお話ししたくはありません。ただ、あなたのご判断、物わかりのよい女の方の判断というものをお聞きしたいと思ったのです。私たちの意見が一致したことをよろこんでいます。では私に手をお出しください、こんなに意見が一致したからは、手を握り合ってその気持を強めなくてはなりますまい」
夫人は手を差出すだろうか? 監督のやつは手を差出さなかったが、とKは考え、夫人を前とは変って探るようにじっと見つめた。彼が立ち上がったので、彼女も立ち上がったが、Kが言ったことが全部はのみこめなかったので、少しこだわっている様子だった。このこだわりのため、彼女は、自分で少しも言おうとは思わなかった、そしてその場にまったくそぐわぬようなことを、口走ってしまった。
「どうかそうむずかしくお考えにならないでください、Kさん」と、彼女は言い、泣き声になって、もちろん握手などは忘れていた。
「私は何もむずかしくなぞ考えてはいないと思いますが」と、Kは言い、突然疲れを感じ、この夫人の同意などは意味がないということをさとったのだった。
扉のところで彼はさらにたずねた。
「ビュルストナーさんはおりますか?」
「いらっしゃいません」と、グルゥバッハ夫人は言い、この素っ気ない返事に気づいて、おくればせながら物のわかったような気持をこめて、微笑んでみせた。
「あの方はお芝居ですわ。何かご用ですか? 私からお伝えしておきましょうか?」
「いや、ちょっとあの人とお話ししようと思っただけです」
「残念ですが、いつお帰りかわかりませんわ。芝居にいらっしゃると、いつもお帰りが遅いんでね」
「いや、どうでもいいんです」と、Kは言い、頭を
「それにはおよびません、Kさん、あなたは気を使いすぎますわ。あの人は何もご存じありませんし、朝早くから出かけているうちに、もうすっかり片づきました。ご自分でごらんになってください」
そして、彼女はビュルストナー嬢の部屋の扉をあけた。
「結構です、よくわかっています」と、Kは言ったが、開いた扉のところまで行っていた。
月が静かに真っ暗な部屋のなかにさしこんでいた。見たところでは、実際、万事元のままで、ブラウスももう窓の
「あの人はよく夜遅く帰ってきますね」と、Kは言い、その責任はあなたにある、というようにグルゥバッハ夫人を見つめた。
「どうしても若い人たちはそうですわ!」と、グルゥバッハ夫人は言い訳をするように言った。
「確かにそうですね」と、Kは言った。「でも極端になりがちですよ」
「そうですね」と、グルゥバッハ夫人は言った。「あなたのおっしゃるとおりです、Kさん。おそらくこの人の場合もそうでしょう。ビュルストナーさんのことをわるく言うつもりはほんとうにありません。あの人はよい、かわいい娘さんですし、親切で、きちんとし、時間もしまりがあり、よく働きますから、万事たいへん感心しているんですが、もっと自分に誇りを持ち、慎みがなくてはならないということだけはほんとうですわ。今月になってもう二度も、場末の通りを男を変えて歩いているのを見ました。Kさん、あなただけに申しますが、私はほんとうにいやな気持がしました。けれど、そのうちあの人に面と向ってこのことを言うことに、どうしてもなるでしょう。それに、私にあの人のことを疑わせるのは、何もこのことだけではありませんわ」
「それはまったく見当ちがいですよ」と、怒って、ほとんどそれを隠すのを忘れて、Kは言った。「それにあなたは、私があの人のことについて言ったことを明らかに誤解なすったようですね。そんなつもりで言ったんじゃないんです。はっきり言っておきますが、あの人に何かそんなことを言っちゃいけませんよ。あなたは全然間違っておられる。私はあの人のことをよく知っていますが、あなたが言われたことはまったく
「Kさん」と、グルゥバッハ夫人は嘆願するように言って、彼がもうあけている扉のところまで、急いで追いかけてきた。「ほんとうのところまだあの人に話を持ち出そうとは思っていません。もちろん、その前にもっとよくあの人のことを見ようと思うんですけれど、私の知っていることをあなたにだけお打明けしたんです。結局のところ、こう考えるのは、自分の下宿をきれいにしておきたいと思う家主の誰でもの気持にちがいありません。そして私のつもりもそれとは少しもちがわないんですわ」
「きれいにだって!」と、Kは扉の
そして彼は扉をぴしゃりとしめ、低いノックの音にはもうおかまいなしでいた。
だが、全然眠たくないので、まだ起きていて、ビュルストナー嬢が何時に帰ってくるかをこの機会に確かめよう、と決心した。それからまた、あまりよいことではないが、またあの女と一言二言話すことも、おそらくできるだろう。窓ぎわで横になって、疲れた眼を押えると、グルゥバッハ夫人を罰してやろう、ビュルストナー嬢を説き伏せて、いっしょにこの家を出てやろう、ということさえ一瞬頭に浮ぶのだった。しかしすぐに、そんなことをするのはおそろしくやりすぎだと思われたし、今朝の出来事のために住居を変える気になった自分というものに対して、疑念さえも覚えた。これよりも無意味で、ことに無益でばからしいことは、何もないだろう、と思うのだった。
人けのない通りをながめることに飽きたとき、この家にはいってくる者がすぐソファから見えるように、控えの間の扉を少しあけてから、ソファの上に身を横たえた。およそ十一時まで、葉巻を一本ふかしながら、ソファの上に静かに横になっていた。それからあとは、もうそこにじっと待ってはいられなくなり、少し控えの間にはいった。こうすれば、ビュルストナー嬢の帰宅を早めることができるように思われたのだった。特に彼女を求める気持はなかったし、どんな格好の女だったかけっして詳しく思い出せもしなかったが、今は彼女と話がしたく、帰りが遅いため今日という日の終らぬうちに不安と混乱とを彼女がもたらしたことが、彼をいらつかせた。今晩の食事を食べもしないで、今晩に予定していたエルザを訪ねることもやめてしまったについては、彼女にも責任があるのだ。もちろん、今からでもエルザの勤めている酒場へ行けば、この二つのことは取返しがつく。それはもっと
十一時半を過ぎたとき、誰かの足音が階段のところで聞えた。考えに没頭し、自分の部屋ででもあるかのように足音高く控えの間をあちこち歩いていたKは、自分の部屋の扉の背後に逃げた。やってきたのは、ビュルストナー嬢だった。寒気を覚えながら、扉をしめるとき、絹のショールを細い肩に締めつけた。この機を失すれば、彼女は自分の部屋にはいってしまい、真夜中なので、きっとKはそこへ押し入ることもできないだろう。そこで今こそ声をかけるべきときだったが、自分の部屋の電燈をつけておくことを運わるく忘れていたので、
「ビュルストナーさん」
それは呼びかけているのではなく、嘆願の調子だった。
「どなたかいらっしゃるの?」と、ビュルストナー嬢はたずね、大きな眼をしてあたりを見まわした。
「私です」と、Kは言って、姿を現わした。
「ああ、Kさんでしたの!」と、ビュルストナー嬢は
「今晩は」と、彼女はKに手を差出した。
「あなたにちょっとお話ししたいことがあるんです、今でよろしいでしょうか?」
「今ですの?」と、ビュルストナー嬢はたずねた。「今じゃなくちゃいけませんの? 少し変じゃありません?」
「九時からお待ちしていたんです」
「でも、私は芝居に行っていましたの。あなたがお待ちだなんて少しも存じませんでしたわ」
「お話ししようということの動機になっているのは、今日初めて起ったことなんです」
「それじゃ、倒れるほど疲れてはいますけれど、それ以外にはどうしてもお断わりする理由もありませんから、ほんの少しだけ私の部屋に来ていただきましょう。こんなところでは絶対にお話もできませんし、みなさんをお起ししてしまうでしょう。そうなったらほかの人たちのためというより、私たちのため不愉快なことになりますわ。私の部屋の明りをつけますから、それまでここでお待ちになってちょうだい。それからここの明りを消してくださいね」
Kは言われるままにしたが、なおしばらく、ビュルストナー嬢が彼女の部屋からもう一度小声で、はいるようにと求めるまで待っていた。
「おかけください」と、彼女は言い、安楽椅子を示したが、彼女自身は、疲れていると言ったくせに、ベッドの
「で、どんなご用ですの? ほんとうにお伺いしたいですわ」
彼女は軽く脚を組んだ。
「あなたはおそらく」と、Kは言い始めた。「事柄は今お話しせねばならぬほど差迫ったことでないとお思いかもしれませんが、しかし||」
「前置きなどはいつも聞きすごしますわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「それなら私のほうも気が楽です」と、Kが言った。「あなたのお部屋が
「私の部屋がですって?」と、ビュルストナー嬢は言い、部屋を見るかわりに、Kをまじまじとながめた。
「そうなんです」と、Kは言って、二人はここで初めて互いに視線を
「でもそれがほんとうに伺いたいことですわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「いや」と、Kは言った。
「それじゃあ」と、ビュルストナー嬢は言った。「私は別に秘密に立ち入りたいとも思いませんし、おもしろくないとおっしゃるなら、何も異議は申上げません。あなたが求めていらっしゃるゆるしというのは、よろこんで差上げますわ、別にかきまわした様子も全然見受けられませんもの」
平手を腰の辺へぴったり当てたまま、彼女は部屋のなかを一まわりした。写真のあるマットのところで立ち止った。
「まあごらんなさい!」と、彼女は叫んだ。「私の写真がほんとうにごちゃごちゃですわ。いやですこと。それじゃあやっぱり、誰かが私の部屋にはいりましたのね。失礼ですわ」
Kはうなずいてみせ、単調で無意味なはしゃぎかたをどうしても
「変なことですわ」と、ビュルストナー嬢が言った。「留守のあいだに私の部屋にはいってはいけないなんて、あなたご自身がよくおわかりでしょうに、私から申上げねばならないなんて」
「いや、つまり私が申上げたのは」と、Kは言い、自分も写真のところへ行った。「あなたのお写真に手をかけたのは、私じゃなかったということです。あなたはお信じにならないでしょうから申上げますが、審理委員会が三人の銀行員を引っ張ってきたんです。そのうちの一人は、近い機会に銀行から追い出してやろうと思っていますが、そいつが写真を実際手に取ったのです。そうです、審理委員会がここで開かれました」と、女が物問いたげな
「あなたのためにですの?」と、女がたずねた。
「そうです」と、Kが答えた。
「そんなことありませんわ」と、女は叫んで、笑い声をあげた。
「でも」と、Kは言った。「それじゃあ私が無罪だと信じてくださるんですか?」
「さあ、無罪って······」と、女は言った。「たぶんゆゆしい判断をそうすぐには申せませんわ、それに私もあなたのことはよく存じておりませんけれど、すぐに審理委員会に押しかけられるなんていうだけでも、重罪人にきまっています。でもあなたは自由でいらっしゃるんですから||少なくともあなたの落着いたご様子を拝見して、あなたは
「そうです」と、Kは言った。「でも審理委員会は、私が無罪だ、あるいは考えられたほど罪はないのだ、とさとったかもしれません」
「きっとそうですわ」と、ビュルストナー嬢はきわめて慎重に言った。
「ねえ」と、Kは言った。「あなたは裁判
「ええ、存じません」と、ビュルストナー嬢は言った。「そしてこれまでもしばしば残念に思っていましたわ。なぜって、私はなんでも知っておきたいんですし、裁判のことなんかは特に興味があるんですもの。裁判というのは独特の魅力がありますわね? でもこの方面で私の知識はきっと完全なものになりますわ、来月になれば事務員としてある弁護士事務所にはいりますから」
「そりゃあ、たいへん結構です」と、Kは言った。「そうなればあなたに少しは私の審理にお力添えいただけましょう」
「もちろん、できますわ」と、ビュルストナー嬢が言った。「なぜできないということがありましょう? よろこんで私の知っていることをご用だてます」
「まじめで申上げているんですよ」と、Kは言った。「あるいは少なくとも、あなたがおっしゃっているのと同じ程度に半ばまじめで言っているんですよ。弁護士を引っ張ってくるには、事は少々小さすぎますが、できれば忠告者をよく利用しなければなりません」
「そうですね、けれど私に忠告者になってくれとおっしゃるんでしたら、問題は、いったい何なのかを知らなければなりません」
「それがまさにむずかしいんです」と、Kは言った。「私自身がわからないんです」
「ああ、それじゃ私をからかっていらっしゃったのね」と、ひどく失望した様子でビュルストナー嬢が言った。「そんなことのためにこんな夜遅くを選ぶなんて、あんまりばかげていますわ」
そして、それまでずっと二人いっしょに立っていた写真のところから離れてしまった。
「いや、そうじゃありません」と、Kは言った。「ふざけてなんかいるんじゃありませんよ。私の言うことをお信じにならないっておっしゃるんですか! 私にわかっていることは、すでにあなたに申上げました。いや、私にわかっている以上にです。というのは、審理委員会なんていうものじゃなかったのですが、ただ私がそう勝手に名づけたのです。どうもどう言ってよいのかわからなかったものですから。審理などは全然行われませんでした、私はただ逮捕されただけなんです、けれどある委員会の手で行われたことだけは確かです」
ビュルストナー嬢は安楽椅子にすわっていたが、笑い声をたてた。
「で、逮捕はどんなふうにして行われましたの?」と、彼女はきいた。
「恐ろしいことでした」と、Kは言ったが、今はそんなことなどは考えていないで、ビュルストナー嬢の様子にすっかり心を奪われていた。彼女は片手で顔をささえ、||
「それじゃああんまり月並みで、なんのことやらわかりませんわ」と、ビュルストナー嬢が言った。
「何が月並みすぎるとおっしゃるんです?」と、Kはたずねたが、すぐに思い出して、たずねた。「あのときどういう有様だったか、あなたに申上げろとおっしゃるんですね?」
彼は動こうとしたが、立ち去ろうとはしなかった。
「もう疲れてしまいましたわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「お帰りが遅いんですよ」と、Kが言った。
「とうとうあげくの果てが、お
「必要だったのです。それはすぐわかっていただけると思います」と、Kは言った。
「夜間用の机をベッドのところからこっちへ持ってきてもよろしいですか?」
「なんということをお思いつきになったのです?」と、ビュルストナー嬢は言った。「もちろんそんなことをしていただいては困ります!」
「それじゃあ、あなたにお見せできないじゃありませんか」と、その言葉によって測り知れない損害をこうむったように興奮しながら、Kは言った。
「そうね、もし説明してくださるのに必要なら、机をほんのそっと動かしてください」と、ビュルストナー嬢は言い、しばらくしてからかなり弱々しい声で付け加えた。「疲れていたので、つい度を越したことをさせてしまったわ」
Kは机を部屋の真っ
「人物の配置を正しくのみこんでいただきます。それはたいへんおもしろいんです。私が監督とします。そこのトランクの上には二人の監視人が腰かけており、写真のところには三人の若い男が立っています。窓の把手には、私はただついでに言っておくのですが、一枚の白いブラウスがかかっています。そして今や、審理が始まります。ああ、私は自分のことを忘れていました。最も重要な人物、つまりこの私は、ここの机の前に立っています。監督は脚を組み、腕を椅子の背にこうやってだらりと下げ、ひどくのんびりとすわっている。無類の不作法者です。そして今や、ほんとうに審理が始まります。監督は、まるで私の眼をさまさなくてはならないというように大声をあげ、真っ向からどなりつけます。あなたにおわかりねがうためには、恐縮ですが私もここでどなってみなければなりません。ところで、彼がこうやってどなるのは、ただ私の名前だけなんです」
笑いながら耳を傾けていたビュルストナー嬢は、Kがどなるのをさえぎるために、人差指を口もとにあてたが、時すでに遅かった。Kはすっかり役柄に没頭していて、ゆっくりと叫んだ。
「ヨーゼフ・K!」
それでも彼がおどかしたほどは大声ではなかったけれども、その叫び声は、突然口をついて吐き出されると、ゆっくりと部屋のなかでひろがってゆくように思われた。
そのとき、二、三度隣室の扉をたたく音がした。力強く、短かな、規則正しいノックだった。ビュルストナー嬢は
「何もこわがることはありません」と、彼はささやいた。「万事は私にまかせておきなさい。人がいるはずはありませんよ。この隣は空部屋で、誰も寝てはいませんよ」
「でも」と、ビュルストナー嬢はKの耳もとでささやいた。「
「そんなことは全然ありませんよ」と、Kは言い、彼女がクッションに倒れかかると、その額に
「どいて、どいて」と、彼女は言い、急いでまた身を起した。「帰ってください、お帰りになって。どうしようというおつもりですの、あの人は扉のところで聞き耳をたてていますわ、すっかり聞えますわ。なんて私に面倒をおかけになるの!」
「私は帰りませんよ」と、Kは言った。「あなたがもう少し落着かれるまでは。部屋の向うの
彼女はそこまで連れてゆかれるままになっていた。彼は言った。
「なるほどあなたにとって不都合なことではありましょうが、全然危険というようなことじゃない、ということをあなたはよく考えてくださらなくちゃいけません。ご存じのように、このことの
ビュルストナー嬢は、黙って、少し
「私があなたを襲ったのだ、とグルゥバッハさんが信じたってかまわないじゃありませんか?」と、Kは言葉を継いだ。
すぐ眼の前に、彼女の
「ごめんなさい、突然ノックが聞えたためすっかり驚いてしまったので、大尉がいることから起るかもしれない結果を恐れたわけじゃないの。あなたがどなられたあとたいへん静かになったのに、そこへノックの音が聞えたものですから、あんなに驚いてしまいました。また私は扉の近くにすわっていたものですから、ほとんどすぐそばにノックの音が聞えたの。あなたのお申し出はありがとうございますが、私は結構ですわ。私の部屋で起ったことはすべて、私が責任を持ちます。しかも誰が何を言ってきましてもそうしますわ。もちろん、あなたのご好意はよくわかりますが、それと並んで、どんな私に対する侮辱があなたのお申し出のなかに含まれているかをお気づきにならないなんて、ほんとうに不思議ですわ。でも、もうお帰りになって、私をひとりにしておいてください。今はさっき以上にひとりでいることが必要ですの。ほんの二、三分とおっしゃったのが、もう三十分かそれ以上にもなりましたわ」
Kは彼女の手をとらえ、次に手首をつかんだ。
「お気をわるくしたんじゃありませんか?」と、彼は言った。彼女はその手をはずして、答えた。
「いいえ、どういたしまして。私はいつでも、どなたに対してでも、気なんかわるくはいたしませんわ」
彼はふたたび彼女の手首をつかんだが、今度ははずしもせずに、そのまま彼を扉のところまで連れていった。Kは、帰ろうとしっかと心をきめていた。ところが、扉の前まで来ると、こんなところに扉があるなんて思いもしなかったというような顔で止ってしまい、ビュルストナー嬢はこの瞬間を利用してKから逃れ、扉をあけ、控えの間に
「ねえ、ちょっとこっちに来てちょうだい。ごらんになって」||彼女は大尉の扉を示したが、扉の下からは明りがもれていた||「あの人は明りをつけて、私たちの様子をおもしろがって聞いていたんだわ」
「どれ」と、Kは言い、飛びこみ、女をひっとらえて、口に接吻し、それから顔じゅうに接吻したが、まるで
「もう帰ります」と、彼は言い、ビュルストナー嬢の洗礼名を呼ぼうとしたが、知らなかった。彼女は物憂げにうなずき、すでに半分ほど身体をそむけ、彼が手に接吻するままに
Kは電話で、次の日曜日に彼の件についてちょっとした審理が行われる、ということを伝えられた。この審理は、おそらく毎日曜日ではないが、次々に再三規則正しく行われるだろう、と彼の注意が喚起された。一方では、審理をすみやかに終えることは誰もの利益ではあるが、他方、審理はあらゆる点で徹底的でなければならず、といってそれと結びついている努力を考えると、けっしてあまり長すぎてもいけない。それゆえ、次々に続くが、それぞれは短い審理をやるという逃げ道を選んだ。審理日を日曜日にきめたのは、Kの職業上の仕事の邪魔をしないためである。貴君も同意されたものと仮定するが、もしほかの日をお望みなら、できるだけそれにそうようにはする。審理はたとえば夜でもよろしいが、夜ではきっと貴君の頭が十分
この通知を受取って、Kは返事もせずに、受話器をかけた。彼はすぐさま、日曜日に出かけることにきめた。行くことはどうしても必要で、審理が始まったし、自分のほうもそれに対抗しなければならぬ。この審理でもう最初の最後にしてしまわなければならぬ。彼はまだ考えこんで電話のところに立っていたが、そのとき背後で支店長代理の声がした。電話をかけようとしたのだが、Kが通路をふさいでいたのだった。
「よくない知らせですか?」と、支店長代理は軽く言ったが、別に何かを聞き取ろうというためではなく、Kを電話から
「ちょっと、K君、日曜の朝、私のヨットでのパーティーにいらっしゃってくれませんか? かなりの集りになるはずで、きっと君のお知合いもそのなかにはいるでしょう。特にハステラー検事ね。来てくださいますか? どうかいらっしゃってください!」
Kは、支店長代理の言うことに注意をはらおうとした。それは彼にとってつまらぬことではなかった。というのは、彼とけっしてよい関係にはなかった支店長代理のこの招待は、相手のほうからの
「ありがとうございます! でも残念ですが、日曜日は時間がありません、先約がありますので」
「残念です」と、支店長代理は言い、向き直って、ちょうど通じた電話でしゃべりはじめた。
短かな話ではなかったが、Kはぼんやりしてそのあいだじゅう電話のそばに立ち続けていた。支店長代理が受話器を下ろしたときになって初めて、彼はぎくりとし、必要もないのに立っていたことを少し言い訳するため、言った。
「今電話がかかってきて、どこそこまで来いということだったのですが、時間を言うのを先方が忘れたものですから」
「もう一度かけてきいたらどうですか」と、支店長代理は言った。
「たいしたことじゃないんです」と、Kは言ったが、それによって前の、それだけでもすでに
日曜日は
建物は、自分でもはっきりと想像してみることはできないがともかくなんらかの特徴で遠くからでもわかるだろうし、あるいは入口の特別な人の動きで離れていても見分けがつくだろう、と考えていた。ところが、彼が行くことになっていたユリウス通りは、Kがそのとっつきのところで一瞬立ち止ってながめると、両側ともほとんどまったく一様な家々、高い、灰色の、貧しい人々の住む貸家ばかりが並んでいた。日曜日の朝なので、たいていの窓には人がいて、腕まくりの男たちがそこによりかかり、煙草をふかしたり、小さな子供を窓ぎわに用心深く、やさしくささえたりしていた。ほかの窓々には寝具がいっぱいつまっていて、その上にときどき女のもじゃもじゃな頭が現われた。人々は互いに街路を隔てて呼び合い、そんな呼び声がちょうどKの頭上で大きな笑い声を引起した。長い通りには一定の間隔をおいて、道路の高さよりも低いところにあって二、三段降りると行き着く、さまざまな日用品を売る店が並んでいた。それらの店へ女たちが出入りをしたり、階段の上に腰かけてしゃべったりしていた。品物を窓に向って差出している
Kは、ここまで来れば時間は十分ある、予審判事がどこかの窓から自分を見ていて、したがって自分が現われたのを知っている、というような格好で、ゆっくりと街路を奥へと進んでいった。九時少し過ぎであった。建物はかなり遠くにあり、ほとんど尋常でないくらいに間口がのびていて、特に入口は高くて幅が広かった。それは明らかにそれぞれの商品倉庫所属のトラックを通すためであり、それらの倉庫はこの時間ではまだしまっており、大きな中庭を取囲んでいて、さまざまな商会のマークをつけていたが、そのいくつかはKも銀行の業務上知っていた。いつもの習慣とはちがって、こういうような様子をすべて詳しく胸に畳んでおこうと、なおもしばらく中庭の入口のところに立ち止っていた。近くの箱の上に一人の
審理室に行こうとして、Kは階段のほうに向ったが、またじっと立ち止ってしまった。この階段のほかに中庭にはまだ三つの別な階段の登り口があり、そのうえ中庭の奥の小さな通路は次の中庭へ通じているように見えたからである。部屋の位置をもっとよく教えてくれなかったことに立腹したが、自分を取扱うやりかたが特別怠慢で投げやりであるし、このことは大いに声を大にしてはっきり言ってやろうと腹をきめた。しかし結局は階段を登っていったが、裁判は罪によって引寄せられるのだ、と言った監視人のウィレムの言葉を思い出し、心のなかでその言葉を考えてみたけれども、それなら結局、審理室はKが偶然選ぶ階段の上にあるにちがいない、ということになるはずだった。
登ってゆきながら、階段で遊んでいるたくさんの子供たちの邪魔をする結果になったが、子供たちは、Kが彼らの列をかきわけてゆくと、悪意のある眼でじっと見るのだった。
「この次またこの階段を登ることになったら」と、彼は心ひそかに思った。「連中を買収する菓子を持ってくるか、連中をなぐるステッキを持ってくるかのどちらかにしなければなるまい」
もうすぐ二階というとき、ボールが行ききってしまうまで、しばらくたたずんで待ちさえしなければならなかった。大人のルンペンのようないやな顔つきをした二人の小さな子供が、そうやっている彼のズボンにつかまった。それを振切ろうとでもしようものなら、彼らを痛めつけないともかぎらず、また大声をあげられるのではないかと思って、やめにした。
二階に来て、いよいよほんとうの部屋捜しが始まった。審理委員会はどこですか、ときくわけにもいかないので、
「指物師のランツっていう人がここにいませんかって」
「指物師のランツ?」と、ベッドの人がきく。
「そうです」と、Kは言うが、そこには疑いもなく審理委員会はないのだから、彼の用件はもうすんでいるのだった。多くの人々は、Kが指物師のランツにどうしても会わなければならないのだと思いこんで、長いあいだ考えては、指物師の名を言うが、それがランツというのとほんの少しばかり似ている名前であったり、隣の人にきいてくれたり、あるいはずっと離れた部屋まで連れていってくれたが、彼らの考えでは、そういう人がおそらく又貸しで住んでいるかもしれないし、また自分たちよりも事情に明るい人がいる、というわけであった。ついにはKはもはやほとんど自分でたずねる必要がなくなり、こんなふうにして各階を引っ張りまわされると、初めは非常に実際的に思われていた自分の計画も、残念に思えてきた。六階に登るところで、もう捜すのをやめようと決心し、彼をさらに上へ連れてゆこうとする親切な若い男と別れて、降りていった。ところがすぐ、こういうふうにやってみたことがむだだったことに腹がたち、もう一度引返して、六階のとっつきの扉をノックした。その小さな部屋で彼の見た最初のものは、すでに十時を示している大きな壁時計だった。
「指物師のランツさんはこちらにいらっしゃいましょうか?」と、彼はたずねた。
「どうぞ」と、黒い輝く眼をした一人の若い女が言ったが、彼女はちょうど
Kは、何かの集りにはいったのだ、と思った。おびただしい、色とりどりの服を着た人々が||一人としてはいってきた彼に注意する者はなかった||窓が二つある中くらいの部屋にいっぱいで、部屋は、ほとんど天井の近くで回廊に取巻かれており、その回廊がまた同じように完全に満員で、人々はただ身をかがめてやっと立つことができ、頭と背中とを天井にぶつけていた。空気があまり
「指物師のランツさんと申したのですが?」
「ええ」と、女は言った。「どうぞお通りになってください」
もし女が彼のそばまで寄ってきて、扉の
「それがいいですよ」と、Kは言った。「しかし、もう超満員ですよ」
それでも彼はまた中へはいった。
扉のすぐ近くのところで話していた二人の男のあいだを通り抜けると、||その一人は、大きくひろげた両手で金を勘定する動作をやっており、もう一方の男は彼の眼を鋭くのぞくのだった||ひとつの手がKをつかんだ。それは、小柄な、
「こちらです、こちらですよ」と、彼は言った。Kは男に引かれるままになって行ったが、ごちゃごちゃで沸きかえっている雑踏のなかにも狭い通路があいており、おそらくその通路で二つのグループに分れているらしい、ということがわかった。このことは、Kには左右の最前列にはほとんど一人として自分のほうに向いている顔が見あたらず、話と身振りとを自分のグループの連中にだけ向ってやっている人々の背中ばかりが見える、ということでもはっきりとした。たいていは黒服を着ており、古びた、長い、だらりと
Kが連れてゆかれた広間の向うの奥には、やはり人でいっぱいの非常に背の低い演壇の上に、横向きに置かれてひとつの机が立っており、その背後、演壇の端に、一人の小柄な、
「一時間と五分前に来なければいけなかったのだ」と、彼は言った。
Kは何か返答しようと思ったが、その余裕がなかった。男がそう言うやいなや、広間の右側の半分でどっと不平のつぶやきが起ったからである。
「一時間と五分前に来なければならなかったのだ」と、男は声をあげて繰返し、また素早く広間を見下ろした。すぐに不平の声も高まったが、男がそれ以上何も言わなかったので、それもやっと次第に消えていった。今では広間は、Kがはいってきたときよりはずっと静かになっていた。ただ回廊にいる連中だけが、口々に、何かしゃべることをやめなかった。上のほうの薄暗がりと煙と
Kは、話をするよりも観察してやろう、と腹をきめたので、表向きの遅刻の申し訳をすることをやめて、ただこう言った。
「遅すぎたかはしれませんが、ともかく今は来たわけです」
「なるほどね」と、男が言った。「しかし、私は今となってはもう君を尋問する義務はないのだ」||また不平のつぶやきが起ったが、今度は誤解らしかった。というのは、男は人々を手で制しておいて続けたからである||「しかし、今日のところは例外として、尋問しようと思う。こんな遅刻は二度と繰返してはいけない。では、前に出たまえ!」
誰かが演壇からとび降りたので、Kに余地ができ、彼は上へ登った。彼は机にぎゅうぎゅう押しつけられて立っていたが、背後の群衆が非常に大勢なので、予審判事の机とおそらくは判事その人さえも演壇から突き落すまいと思うなら、群衆に抵抗しなければならないほどであった。
しかし予審判事はそんなことはいっこうおかまいなしで、いかにもゆったりと肘掛椅子にすわり、背後の男に何か終りの言葉を言うと、彼の机の上にある唯一の品物である小さなノートをつかんだ。それは学校ノートのようで、古びて、あんまりめくりすぎたらしく、すっかり形がくずれていた。
「では」と、予審判事は言い、ノートをめくり、確かめる調子でKに向って言った。「室内画家だったね?」
「ちがいます」と、Kは言った。「ある大きな銀行の業務主任です」
こう答えると、下の右側のグループから笑い声がひとつ起り、それがあまりおかしそうだったので、Kもつりこまれて笑わないではいられなかった。人々は両手を
ところが、広間の左半分はまだ依然として静かであり、そこでは人々が列をつくって並び、顔を演壇のほうに向け、壇上で
「予審判事さん、私が室内画家かというお尋ねは||むしろ、あなたはきかれたのではなくて、頭ごなしに私に言われたのですが||私に対してなされている手続きの
Kは語るのをやめて、広間を見下ろした。彼が言ったことは、鋭かったし、彼の意図以上に鋭くはあったが、しかし正しかった。喝采があちこちで起らなければならぬところだったが、全員黙ったままであり、人々は明らかに緊張して次に来るべきものを待っている面持で、おそらくはその静けさのうちには爆発が用意されているのであって、それは万事にけりをつけるにちがいなかった。ちょうど広間の入口の扉が開き、仕事を終えたらしい例の若い洗濯の女がはいってきて、十分気をつかっているらしいのだが幾人かの人々の視線を自分のほうに引きつけているのは、眼ざわりなことだった。ただ予審判事だけがKを直接よろこばせたが、それは、Kの言ったことにすぐさま図星を当てられたらしいように見えたからであった。Kの発言に驚かされたからであるが、判事はそれまで、回廊に向って突っ立ちながら、そのままの姿勢で聞いていた。ところが今は、静かな間が生じたので、気づかれまいとするように、次第に腰をおろした。顔つきを抑えるためだろうが、ふたたび例のノートを取上げた。
「そんなことをしたって何の役にもたちませんよ」と、Kは続けた。「予審判事さん、あなたのそのノートも、私が言うことを裏づけています」
自分の平静な言葉だけがこの見知らぬ集りのうちに響いていることにすっかり満足して、Kはそのうえ、ノートを無造作に予審判事から引ったくり、きたないものにさわりでもするかのように指先で中ほどの一枚をつまみ上げたので、ぎっしり文字のつまった、しみだらけの、縁の黄色くなったページが、両側にだらりと下がった。
「これが予審判事の文書です」と、彼は言って、ノートを机の上に落した。
「予審判事さん、どうかごゆっくりと先をお読みください。こんな学校ノートなんか私は少しも
予審判事は机の上に落ちたノートを取上げ、少し整理してから、またそれを読もうとしたが、このことは、深い屈従のしるしでしかありえず、あるいは少なくともそう考えられるべきことであった。
最前列の人々の顔は非常に緊張してKに向けられたので、彼はしばらく彼らのほうを見下ろした。いずれもが相当な年配の人々で、幾人かは
「私に起ったことは」と、Kは続けたが、今度は前よりもいくらか低目であり、絶えず最前列の顔をうかがっているため、話にいくらか落着かぬ表情を与えた。「私に起ったことは、まったくのところ個人的な事件にすぎず、私はそれをたいして深刻なものとは受取っていませんので、それ自体としてはさして重大ではありませんが、それは、多くの人々に対してなされている手続きのよい例であります。これらの人々のためにこそ私はこうやって立っているのであり、自分一個のためではありません」
彼は思わず声を高めた。どこかで誰かが両手を高く上げて拍手をし、叫んだ。
「異議なし! そうだぞ。異議なし! もう一度言うぞ、異議なし」
最前列の連中はあちこちで
「私はうまく話すなどということは望みません」と、Kはこうした確信から言った。「また私はとうていそんなことはやれません。予審判事さんのほうがおそらくずっと上手に話されましょう。それがご商売だからです。私が望んでいるのはただ、ある公然たる不正を公にしゃべろうということです。どうか聞いてください。私は約十日ばかり前から逮捕されています。逮捕という事実そのものがばかばかしいのですが、しかしそれは今ここで申上げるべきではありません。私は、朝、寝込みを襲われましたが、おそらくは||これは判事の言われたことからして否定できませんが||私と同様に無実な画家の誰かを逮捕せよ、という命令を受けたらしいのですが、この私が選ばれたのでした。隣室は二人の不作法な監視人に占領されました。たとい私が危険な強盗であったとしても、これ以上の用心はできなかったでしょう。そのうえ、この監視人たちがけしからぬやつらで、つまらぬことを私の耳にしゃべり散らし、
彼がここまで話して言葉を切り、黙りこんでいる予審判事のほうをうかがい見ると、この男がちょうど群衆のなかの誰かと眼で合図をしているのを認めたように思えた。Kは微笑して、言った。
「ちょうど今、この私のそばで予審判事さんは諸君の中の誰かとそっと合図をされたようです。これによって見ると、諸君の中には、この演壇上から指図されている人がいるようです。今の合図が舌を鳴らして野次れというのか、喝采しろというのか、私にはわかりませんが、事が一足先に露見したからには、万事のみこんだうえで、合図の意味など知ろうとは思いません。それは私にはどうでもよいのであって、私は公然と予審判事さんに、こそこそした合図のかわりに、はっきりと口に出して、『今、舌打ちしろ!』とか、次には『今、手をたたけ!』とかいうように命令していただいて結構だ、と申上げます」
当惑したのか、それともいらいらしてきたのか、予審判事は椅子の上であちこちと身動きした。すでにさっき彼と話していた背後の男は、また彼のほうに身をかがめたが、ただ普通に励ますためなのか、それとも彼に特別な策を授けるためなのか、であろう。下のほうでは人々が、低声でだがさかんにしゃべり合っていた。これまでは対立する意見を持っていたように見受けられた二つのグループがまじり合って、ある者は指でKをさし、ほかの者は予審判事を指さすのだった。室内の霧のような
「もうじき終ります」と、Kは言い、
「万事は私とは縁が薄いことですから、私は平静に判断を下しますが、この名目上の裁判に諸君が関心がおありとして、もし私の申すことをお聞きくだされば、大いに有益だと思います。私が申上げることに対して諸君がお互いにお話し合いになることは、後のことにしていただきたいのです。時間がありませんし、私はもうすぐ帰りますから」
すぐに静かになったが、Kはすでに、そんなにもこの集会をリードしていた。もう初めのころのように叫ぶ者もなく、賛成の拍手をする者もなかったが、すでにKに納得されているか、あるいはもうほとんどそうなっているかのように見受けられた。
「疑いもなく」と、Kはきわめて小声で言った。集まった全員が緊張して耳を傾けていることが彼をよろこばせ、この静けさのうちにひとつのどよめきが生れ、それは最も熱狂的な拍手よりも心をそそったからである。
「疑いもなく、この法廷のあらゆる言動の背後には、したがって私の場合で言えば逮捕と今日の審理との背後には、ひとつの大きな組織があるのです。この組織は、買収のきく監視人や
Kは広間の
「ああ」と、彼は叫び、両手を高く上げたが、突然いっさいが氷解したという思いがそうさせたのだった。
「君たちは実はみな役人なんだな、君たちはまったく、私が攻撃したあの腐敗した徒党なんだ。聴衆と探偵とになってここにつめかけ、見せかけだけのグループに分れて、私をためすために一方が喝采したのだ。罪のない人間をどうやって引っ張りこむかを研究しようとしたのだ! さて、おそらく諸君はここに来てむだではなかった。ある男が無実の罪の弁護を君たちに期待した、ということを大いに慰みにしたか、あるいは||寄ってくるな、さもないとなぐるぞ」と、Kは特に自分のほうへにじり寄ってきた、震えている一人の老人に言った||「あるいはほんとうに何かを勉強したはずだ。そこで君たちの商売に対してお祝いを言ってやろう」
机の端にあった自分の帽子を素早くつかんで、ともかく完全な驚きで等しく黙りこくってしまった静寂の中を、出口へと殺到していった。ところが予審判事のほうがKよりも早かったらしく、扉のところで待ち受けていた。
「ちょっと待ちたまえ」と、彼は言った。
Kは立ち止ったが、予審判事のほうは見ないで、彼がすでに把手に手をかけていた扉を見ていた。
「断わっておくが」と、予審判事は言った。「君は今日||君にはまだよくわかっていないらしいが||尋問というものが逮捕された者にいつでも与える利益を、放棄してしまったのだ」
Kは扉に向って笑った。
「ルンペンどもめ」と、彼は叫んだ。「尋問なんかいっさい返上するよ」
そして扉をあけ、階段を駆け降りた。背後では、またにぎやかになって集りの騒音が沸き上がったが、この出来事をおそらく研究者の態度で討議しはじめたのだった。
Kは次の週のあいだ、改めて和解してくるのを毎日待っていた。尋問を拒絶すると言ったことを言葉どおりに取られたとは、信じられなかった。ところが期待した和解の申し出が、実際、土曜日まで来なかったので、何も言ってはこないが暗黙のうちにあの同じ家に同じ時間に来いというのだろう、と考えた。それで日曜日にまた出かけていったが、今度はまっすぐ階段と廊下とを通り抜けた。彼のことを覚えていた何人かの人々は戸口で彼に
「今日は法廷は開かれません」と、女が言った。
「なぜ開かれないんです?」と、彼は言い、信じようとはしなかった。ところが、女が隣室の扉をあけたので、彼も納得がいった。部屋はほんとうにからっぽで、からっぽなだけにこの前の日曜日よりもいっそうけちくさく見えた。相変らず演壇の上に立っている机には、二、三冊の書物がのっていた。
「あの本を見てもいいですか?」と、Kはたずねたが、特に興味があってのことではなく、この部屋にやってきてまったくむなしい結果に終りたくないためだった。
「いけません」と、女は言って、また扉をしめた。「それは許されていません。あれは予審判事さんの本です」
「ああ、そうですか」と、Kは言い、うなずいた。「きっと法律書だが、罪がないだけでなく何も知らぬうちに判決を下されてしまうというのが、この裁判所のやりかたなんだ」
「そうかもしれませんわ」と女は言ったが、彼の言うことがよくはわかっていないらしかった。
「それじゃあ、もう行こう」と、Kは言った。
「何か予審判事さんにお伝えすることがありますか?」と、女が言った。
「あの人をご存じですか?」と、Kはたずねた。
「もちろんですとも」と、女は言った。「主人が廷丁ですから」
そう言われてはじめてKは、この前来たときは
「この部屋をただで借りているんですけれど、開廷日には部屋をあけなければなりません。主人の身分ではいろいろと不便もありますわ」
「部屋のことではたいして驚いてもいませんが」と、Kは言い、渋い顔で女を見つめた。「むしろご主人がおありだというのに驚いているんです」
「私があなたのお話を邪魔してしまったこのあいだの裁判のことをあてこすっていらっしゃるんですか?」と、女がきいた。
「もちろんですよ」と、Kは言った。「今日ではもう過ぎたことだし、ほとんど忘れてしまったが、あのときはほんとうに腹がたちました。それがどうです、ご主人があると自分で言われるんですからね」
「お話が折られたことは、あなたのためにわるいことではなかったのよ。みなさんはあとで、あなたについてずいぶんわるい判断を下していました」
「そうでしょうが」と、Kは話をそらしながら言った。「でもそれでは言い訳にはなりませんよ」
「私を知っていてくれる人なら、誰でも私を許してくれますわ」と、女は言った。「あのとき私に抱きついた人は、ずっと前から私を追っかけていたんです。私、普通は男の人をひきつけなんかしないんでしょうが、あの人にはそうなんです。このことは隠れもないことで、主人ももうのみこんでいるんですわ。でも主人は地位を維持しようと思うなら、我慢しなきゃならないんです。あの人は学生さんで、これから偉くなるんですもの。あの人はいつも私をつけまわして、あなたがいらっしゃるほんの少し前に帰っていったところですわ」
「ほかの連中もみんなそんなものですよ」と、Kは言った。「別に驚きませんよ」
「あなたはきっと、ここで何かを改善しようと思っているのね?」と、女はゆっくりと、探るように言ったが、自分にもKにも危ないことを何か言っているような様子だった。
「それはあなたのお話からわかっていましたわ。お話は私にはたいへん気に入りましたの。もちろんほんの一部分だけを伺ったのですけれど。初めのところは聞けませんでしたし、終りのところではあの学生といっしょに床の上にころがっていましたから。||ここはまったくいやですわ」と、しばらく
Kは微笑し、手を女の柔らかな両手の中で少し動かした。
「もともと」と、彼は言った。「あなたの言うようにここを改善するなんていうことは、僕にできる立場じゃないし、たとえばあなたがそんなことを予審判事に言おうものなら、きっと笑われるか、罰せられるかしますよ。事実僕は、自ら好んでこんなことに首を突っこむはずじゃなかったし、ここの裁判組織を改善する必要があっても、何も僕の眠りを妨げられるはずはないのです。ところが、僕が表向き逮捕されたということによって、||つまり僕は逮捕されたのです||ここに首を突っこまざるをえなくなったのですが、それも僕自身のためにですよ。それでもあなたに何かのお役にたつならば、もちろん大いによろこんでやりはします。ただ隣人愛からといったようなことじゃなくて、あなたのほうも僕を助けてくださることができるということがあるためです」
「いったいどうすればお助けできますの?」と、女がきいた。
「たとえばあの机の上の本を見せてくれればですよ」
「お安いご用ですわ」と、女は叫び、彼を急いで引っ張っていった。どれも古びた、すり切れた本で、厚表紙は真ん中でほとんどちぎれ、ただ
「ここのものはなんでもなんてよごれているんだろう」と、Kは頭を振りながら言い、女は、Kが本を手にする前に、エプロンで少なくとも表面だけは
Kはいちばん上の本を開いたが、いかがわしい絵が出てきた。一組の男女が裸でソファにすわっており、画家の卑俗な意図がはっきりうかがえたが、そのまずさ加減があまりにひどいので、結局は男と女とだけしか眼にははいらず、それがあまりに立体的に絵から浮び出て、ひどく固くなってすわっており、遠近法が間違っているため、やっとこさ互いに向い合っていることがわかる始末だった。Kはそれ以上めくるのをやめ、ただ二冊目の本の扉をあけると、『グレーテが夫のハンスよりこうむらねばならなかった苦しみ』という題名の小説だった。
「これが、ここで研究されている法律書か」と、Kは言った。「こんな人間たちに
「あなたの援助をしますわ」と、女は言った。「よくって?」
「ほんとうにできるんですか、あなた自身、危なくならないで? あなたのご主人はなんでも上役の言うとおりだ、とさっきあなたはおっしゃったが」
「それでも私はあなたをお助けしますわ」と、女は言った。「こちらにいらっしゃい。私たちは相談しなければなりません。私の危険のことなんかもうおっしゃらないで。危険なんて、自分で
女は演壇を指さし、彼女といっしょに階段に腰かけるようにすすめた。
「きれいな黒い眼をしているのね」と、二人がすわると、女は言って、下からKの顔を見上げた。
「私もきれいな眼をしているって言われますわ。でもあなたのほうがずっときれいよ。あなたが初めてここにはいっていらっしゃったときすぐに、気がつきました。それだからこそまた、
ははあ、こういうわけなんだな、とKは思った、彼女は
「あなたが僕を助けられるとは思いませんね」と、彼は言った。「僕をほんとうに助けてくれるためには、偉い役人たちとの関係が必要だ。ところがあなたはただ、ここで大勢うようよしている
「いいえ」と、女は叫び、すわったままでKの手をとらえようとしたが、彼はその手を十分素早く引っこめることができなかった。
「今すぐ行かないで。私に間違った判断を下しておいて行ってはいけません! ほんとうにもうお帰りになるつもり? ほんの少しここにいてくださるご親切をお持ちになれないくらい私ってつまらぬ女ですの?」
「あなたは誤解しているんですよ」と、Kは言って腰をおろした。「僕がここにいることがほんとうにあなたに望ましいのなら、よろこんでいますよ。暇はあるんだが、今日は審理が行われると思って来たのでした。これまで言ったことで僕は、僕の訴訟について何も僕のためにやっていただきたくはない、ということをお願いしたのです。けれども、訴訟の結果なんか僕にはどうでもよいのだし、有罪の判決だってただ笑ってやるつもりでいるのだ、ということをあなたがお考えになるなら、援助をお断わりしたこともあなたの気をわるくすることはないはずです。これも、およそ裁判がほんとうに終るものと仮定してのことで、どうなるものかはなはだあやしいと思います。むしろ僕は、役人たちが怠慢なためか、忘れっぽいためか、あるいは
「もちろんですとも」と、女は言った。「あなたをお助けしようと言ったとき、まず第一にあの人のことを考えさえしたのですもの。あの人がただの身分の低い役人かどうかは知りませんでしたが、あなたがそうおっしゃるんですから、おそらくそうなのでしょう。それでも、あの人が上へ提出する報告はいつもいくらか有力なものだ、と信じています。そしてずいぶん報告を書きますわ。役人たちは怠け者だ、とあなたはおっしゃいましたが、きっとみんなそうではないし、あの予審判事さんは特にそんなことありませんわ。あの人はたくさん書きますのよ。たとえばこの前の日曜日には、裁判が夕方ごろまで続きました。みなさんが帰ってしまっても、予審判事さんは広間に残って、私はランプを持ってゆかねばなりませんでしたわ。家には小さな台所ランプしかなかったのですが、それで満足してすぐ書き物を始めました。そうしているうち、あの日曜日にちょうど休暇を取っていた主人も帰ってき、二人で家具を運びこみ、部屋を整え直しましたが、次にまた隣の人たちが来て、
突然女は話を折って、Kを落着かせようとでもするように、彼の手の上に自分の手を置き、ささやいた。
「静かに、ベルトルトが私たちのほうを見ていますわ」
Kはゆっくりと眼を上げた。法廷の扉のところに一人の若い男が立っていたが、小柄で、脚が少し曲っており、短く、薄い、赤みがかった
「気をわるくしないでちょうだい。いいえ、むしろ、私のことをわるい女だとは思わないようにお願いしますわ。あの人のところに行かなければなりませんの。いやな男ですわ、ちょっとあの曲った脚を見てちょうだい。でもすぐ戻ってくるわ、そしたら、もしあなたが連れていってくださるなら、あなたと行くわね、どこへでもあなたのお望みのところへ行きますわ、私を好きなようにしてちょうだい、私はここからできるだけ長く離れられたら、幸福でしょうし、もちろん、永久に離れられるのなら、いちばんいいわ」
女はなおもKの手をさすっていたが、とび上がって、窓べに駆けていった。思わず知らずKは女の手を求めて
こうやって女に対するさまざまな思いに打勝ってから、窓ぎわでの低声の会話が彼には長すぎるように思われ、演壇を指の関節で、次には
「我慢ができなかったら、帰ったらいいだろう。ずっと前に帰っていたってよかったんだ、君がいなくたって誰も気にはかけないからね。いや、それどころか帰らなきゃいけなかったんだ、つまり僕がはいってきたときにさ、そしてできるだけ早くね」
こう言ううちにはすべての怒りが爆発しているのだったろうが、同時にその言葉のうちには、気に入らない被告に話しかける未来の法官の
「我慢ができないというのはほんとうだが、このいらいらした気持は、君がわれわれを置いて帰ってくだされば、いちばん簡単に片づくんだ。だがもし君が法律の研究のためにここへ来ているとでもいうのなら||君が学生だっていうことは聞いたよ||よろこんで場所を明け渡し、その女の人と出てゆこう。ともかく君は、裁判官になる前にはもっともっと勉強しなくちゃなるまいからね。君の研究している司法制度のことはまだよくは知らないが、確かにもう
「こんな男を自由にうろつかせておくべきじゃなかったんだ」と、Kの侮辱的な言葉に対する釈明を女に対してやりたいらしく、学生は言った。「それは手落ちだった。予審判事には言ったんだが、尋問中は少なくとも部屋にとどめておくべきだった。予審判事はときどき
「くだらぬおしゃべりですよ」と、Kは言い、手を女のほうに伸ばした。「こっちへいらっしゃい」
「おいでなすったね」と、学生が言った。「いや、いや、この人は君には渡さないよ」
そして、思いがけない力で女を片腕で抱き上げ、女をいとしそうにながめながら、背中を曲げて扉のほうに走っていった。そのあいだもKに対する恐れは
「むだだからおよしなさいな。予審判事が私を呼びによこしたの。私、あなたといっしょに行けないわ。このちっぽけないやらしい人が」と、言いながら、手で学生の顔をなでまわしながら、「このちっぽけないやらしい人が私を放さないのよ」
「で君は、放されたくないんだろう!」と、Kは叫び、片手を学生の肩にかけたが、学生は歯でぱくりと食いつこうとした。
「いけないわ!」と、女はわめき、Kの両手を払いのけた。「いけない、いけないわ、そんなことしないで、なんということなさるの! そんなことしたら私の身の破滅よ。放してあげて、ねえ、放してあげて。この人はほんとうにただ予審判事さんの命令どおりやっているんで、私を判事さんのところへ連れてゆくのよ」
「それじゃあ行ってもいいよ、そして君にはもう二度と会いたくないね」と、Kは幻滅を感じさせられ憤激しながら言い、学生の背中に一撃を与えたので、学生はすこしよろめいたが、すぐに倒れてしまわなかったことをよろこんで、女をかかえていっそう高くとびはねた。Kはゆっくり彼らの
好奇心からKはさらに扉のところまで急いで行った。女がどこへ連れてゆかれるかを見ようとしたのだったが、学生がまさかたとえば女を腕にかかえて街路を行くはずはなかろう、と思った。道は思ったよりはるかに近いということがわかった。この居間のすぐ真向いに、狭い木造りの階段がおそらく屋根裏まで通じているらしく、それは曲っているので、終りまでは見えなかった。この階段を登って学生は女を運んでいったが、これまで走ったために弱ってしまい、すでにきわめてゆっくりと、あえぎながら登っていた。女は手で下のKに合図をし、肩を上げ下げして、自分はこの
二人はすでに消えたが、Kはまだ戸口に立ち続けていた。女が自分を裏切ったばかりでなく、予審判事のところへ連れてゆかれるなどと言いたてて、自分をだましてもいるのだ、ということを認めざるをえなかった。予審判事が屋根裏にすわって待っている、などということはありえようはずがないではないか。木の階段をいつまでながめていても、何もわかりはしなかった。そのときKは登り口に小さな札を見つけたので、近寄ってゆくと、子供じみた、
Kがまだ
「君は廷丁さんですね、そうでしょう?」と、Kはたずねた。
「そうです」と、男は言った。「ああそう、あなたは被告のKさんですね、やっと気がつきました、ようこそおいでで」
そして男はKに手を差出したが、Kはまったく予期しなかったことで驚いた。
「でも今日は法廷はお休みなんです」と、Kが黙っているのに、廷丁は言った。
「わかっています」と、Kは言い、廷丁の私服をながめたが、役目の唯一のしるしとして、普通のボタン二、三個のほかに、将校の
「ほんの少し前に君の細君と話していたんだが、もういませんよ。学生が予審判事のところへ連れていったんです」
「ごらんのように」と、廷丁は言った。「家内はいつでも連れてゆかれます。今日は日曜日なんで、私は仕事をしなくてもいいんですが、私をここから追い払うために、どう見たって不用な用事で外にやられました。しかもあまり遠くまでやられたわけじゃないんで、大急ぎで行きさえすれば、まだ遅れないでもどれる見込みがあったんです。だからできるだけ速く走って、使いに出されたお役人に、伝言を扉の
「ほかのやりかたがありませんか?」と、Kは微笑しながらきいた。
「どうもありませんや」と、廷丁は言った。「今ではもっといやなことになってきているんです。これまではただあいつが家内を自分のところへ引っ張っていっただけですが、今ではもう、どうせそうなるものとずっと前から思ってはいたんですが、予審判事のところへまで連れてゆくんです」
「ところで君の細君のほうには罪はないのかね?」と、Kは言ったが、こうたずねないではいられなくなったのであり、それほど彼も
「どういたしまして」と、廷丁は言った。「あれにいちばん罪があるくらいでさあ。家内はあいつに
「そういうこととなると、もちろんどうしようもないね」と、Kは言った。
「どうしてどうしようもないんです?」と、廷丁はきいた。「あの学生は臆病者なんですから、家内にさわろうとしたら、一度、もう二度とはそんなことをやろうとはしなくなるようにぶちのめしてやらなきゃなりません。でも私にはできないことですし。ほかの人も私のためにやってはくれません、誰でもあの男の権勢を恐れているんでね。ただあなたのような人だけができるんですよ」
「いったいどうして僕が?」と、Kは驚いて言った。
「でもあなたは告訴されていましたね」と、廷丁は言った。
「そうなんだ」と、Kは言った。「それに、あの男はおそらく訴訟の結末を左右する力は持たないとしても、予審にはそいつができそうなだけに、心配しなくちゃいけないんです」
「そうですねえ」と、Kの意見はまったく自分自身のと同じように正しいものといわんばかりに、廷丁は言った。「でもここでは原則として、見込みのない訴訟はやられないことになっているんですが」
「僕の意見はあなたのとはちがいますね」と、Kは言った。「でもそれは別として、時にあの学生のやつを料理してやる必要はあると思いますね」
「あなたには大いに感謝しますよ」と、廷丁はいくらか儀礼的に言ったが、ほんとうは彼の最高の望みが実現できないものと信じこんでいるらしかった。
「おそらくまた」と、Kは言葉を続けた。「君の上役のほかの連中も、一人残らず同じように料理してやるに値しますね」
「そうですとも」と、何か自明のことだというかのように廷丁は言った。それから、これまでは非常に親しげにしてはいたが見せなかった、信じきったような
「あいつらはしょっちゅう陰謀をやっているんです」
しかし、こういう話が彼には少し不快になったらしかった。話を折って、こう言ったからである。
「さて事務局に行かなくちゃなりません。いっしょにいらっしゃいませんか?」
「何も用事はないんだけれどね」と、Kは言った。
「事務局をごらんになれますよ。誰もあなたのことを気にはかけますまい」
「見る値打ちがありますかね?」と、Kは
「そりゃあ」と、廷丁は言った。「きっとおもしろいですよ」
「よし」と、Kはついに言った。「いっしょに行きましょう」
そして、彼は廷丁よりも足早に階段を駆け登った。
そこに踏み入ると、すんでのことで倒れそうになった。扉の後ろにもうひとつ階段があったからである。
「公衆のためには気をつかっていないようですね」と、彼は言った。
「およそ少しでも気なんかつかっていませんよ」と、廷丁は言った。「ごらんなさい、ここが待合室です」
それは長い廊下で、そこから、立てつけのわるい扉をいくつか通って、屋根裏のそれぞれの小部屋に通じているのだった。
直接光のはいる口がなかったけれども、真っ暗ではなかった。多くの小部屋は廊下に面して、一面の板仕切りのかわりに、むきだしだがともかく天井まで届いている
「あの人たちはどんなにか卑下しているんですね」
「そうです」と、廷丁は言った。「あれは被告です、ここでごらんになるのはみな被告なんです」
「そうですか!」と、Kは言った。「それじゃあ僕の仲間っていうわけですね」
そして彼は、次の大柄で
「ここで何をお待ちですか?」と、Kは
ところがこんなふうに思いがけなく話しかけられて、その男はすっかり取乱してしまったが、それが明らかに、ほかのところでなら確かに自分も制御できるし、多くの人々に対してかちえた優越感を容易には捨てさってはいないような、世故に
「この方はまったくただ、何をお待ちですか、とおたずねになっただけなんですよ。どうぞお答えになってください」
男は廷丁の声を聞きなれているらしく、そのためKがきくよりも効果があった。
「私が待っていますのは||」と、彼はしゃべりはじめたが、すぐつかえてしまった。明らかに彼は、質問にできるだけ詳しく答えるためにこう切り出すことを選んだのだったが、その先が続かなくなった。待っている人たちの何人かが近づいてきて、この三人のグループを取巻いたので、廷丁は彼らに言った。
「どいた、どいた、通路はあけなくちゃいけない」
人々は少し
「一カ月前に、私の事件の証拠申請をしましてね、片づくのを待っているんです」
「まったくたいへんなお骨折りのようにお見受けできますね」と、Kが言った。
「ええ」と、男は言った。「なにせ自分のことですからね」
「誰もがあなたのように考えるとはきまっていませんよ」と、Kは言った。「たとえば私も告訴されているんですが、ほんとうに心からうまくゆくようにと願ってはいますものの、証拠申請だとか、あるいはそのほかの何かそういった
「私には詳しいことはわかりませんが」と、男はまたすっかりあやふやな態度になって言った。すなわち彼は明らかに、Kが自分をからかっているのだ、と思ったのであり、そのため、何かまた失敗をやるのではないかという心配から、前の答えをそのまま繰返すのがいちばんよいと考えたらしかったが、Kのいらいらしたような眼差を前にしてただこう言うのだった。
「私としては、証拠申請をしたのです」
「私が告訴されているとは、きっと思ってはいらっしゃらないのですね」と、Kはきいた。
「どういたしまして、そう思っております」と、男は言い、少しわきへ退いたが、返答の中には信頼ではなくて不安だけが現われていた。
「それじゃ、あなたは私の言うことを信じないんですね?」と、Kは言い、その男の屈従的態度に思わず知らず刺激され、どうしても信じさせてやろうというように男の腕をとらえた。しかし何も苦痛を与えてやろうとしたわけではないので、ほんの軽くとらえただけだったが、それでも男は、Kに二本の指ではなく、真っ赤な火ばさみでつかまれたように、悲鳴をあげた。このばかばかしい悲鳴でKは男に
「たいていの被告はああいうように神経質になっているんです」と、廷丁が言った。
彼らの背後では、もう悲鳴をあげることをやめた例の男のまわりに、ほとんどすべての待ち合せている人たちが集まり、この思わぬ出来事について詳しくききただしているらしかった。そこへ、Kに向って監視人がやってきたが、おもにそのサーベルでそれとわかったのだけれども、少なくとも色から見るのに
Kは監視人や廊下の仲間のことを長くは気にかけていなかったが、およそ廊下の中ほどまで来ると、扉がなくてあいた場所になっており、右手に曲れそうになっているのに気づいたので、彼らのことをもうすっかり忘れてしまった。こちらに行っていいのか、と廷丁にきいてみると、廷丁はうなずいたので、Kはそこでほんとうに右手へ曲った。しょっちゅう一、二歩廷丁の先を歩かねばならぬことがわずらわしく、少なくともこの場所では、まるで自分が逮捕されて引きたてられてゆくような格好に見えることもありえた。それでしばしば廷丁の追いつくのを待ったが、廷丁はすぐにまたおくれてしまうのだった。ついにKは、自分の不快さにけりをつけるため、言った。
「ここがどんなところか見てしまったから、もう帰ろうと思います」
「まだ全部ごらんじゃありませんよ」と、廷丁は少しも動じないで言うのだった。
「全部が全部見たくもありませんね」と、ほんとうに疲れを感じてさえいるKは言った。「もう帰りますよ、出口はどっちですか?」
「もうわからなくなっちまったんですか?」と、廷丁は驚いて言った。「この端まで行って、廊下を右へいらっしゃればまっすぐ戸口に出ます」
「いっしょに来てください」と、Kは言った。「道を教えてくれませんか、どうも間違いそうだ、ここにはたくさん道があるんでね」
「ひとつきりの道ですよ」と、もうとがめるような口調になって廷丁は言った。「あなたとまたもどってゆくわけにはいきませんね、報告しにゆかねばなりませんし、そうでなくともあなたのためにだいぶ時間をつぶしましたからね」
「いっしょに来なさい!」と、Kはとうとう廷丁の不実さを突きとめたというように、鋭い口調で繰返した。
「そんなにどならないでください」と、廷丁はささやいた。「ここはどこも事務室ですから。ひとりでお帰りになりたくないなら、もう少し私といっしょに行くか、あるいは、報告をすませてくるまでここで待ってくださいませんか。そうすればよろこんでごいっしょに帰りますよ」
「だめだ、だめだ」と、Kは言った。「待てはしないし、今いっしょに来たまえ」
Kはまだ、自分がいる場所をよく見まわしていなかったが、その辺にぐるりとあるたくさんの木の扉のひとつが開いたときになって初めて、眼をそちらに向けた。Kの大声を聞きつけたらしい一人の娘が現われて、たずねた。
「何かご用ですか?」
その背後に遠く、薄暗がりの中をさらに一人の男が近づいてくるのが見えた。Kは廷丁の顔をじっと見た。この男は、誰もあなたのことなど気にはかけない、と言ったのではなかったか。ところがもうすでに二人がやってきて、ほんの小人数でもたくさんだというわけだが、役人連が彼のことに注意を払うようになったし、なぜここに来たのか、という釈明をきこうとするだろう。唯一の筋の通った、認められうる釈明というのは、自分は被告であり、次の尋問の予定日をきこうと思ったのだ、というのであるが、彼としてはまさにこんな釈明こそしたくはない。特にこれは真実でもないからであるが、偽りだというわけは、彼はただ好奇心で来たのであり、あるいは、釈明としてはやはり通りにくいのだが、この裁判制度の内部もその外部と同じようにいやなものだ、ということを確かめようとする要求からやってきたのだからである。そしてまったく、自分のこういう
ところが、彼が黙って立っていることが奇妙に思われたらしく、実際、娘も廷丁も、次の瞬間にはなんらかの大きな変化が彼に起るにちがいないし、それを見ないでおきたくはない、とでもいうようにKを見つめるのだった。そして戸口には、Kがさっき遠くから認めた男が立って、
「おかけになりません?」
Kはすぐすわり、もっとよい姿勢をとろうとして、
「少しめまいがなさるんでしょう?」と、女は彼にきいた。娘の顔が彼のすぐ眼の前にあったが、多くの女がその女盛りに持っているような強烈な表情を浮べていた。
「心配なさらないほうがいいですわ」と、娘は言った。「ここでは珍しいことではありません。初めてここへ来ると、ほとんど誰でもこんな発作を起すのよ。ここは初めてですの? そうね、それなら珍しいことじゃないわ。太陽がここの屋根板を照りつけますし、熱くなった木が空気をうっとうしく、重苦しくするんです。ですからこの場所は事務室にはあまり向かないんです、もちろんそのほかの点ではいろいろ大きな利益があるにはあるんですけれど。でも空気の点では、訴訟当事者が大勢行き来する日には、そしてそういうのはほとんど毎日ですけれど、ほとんど息もつけないくらいなんです。それから、ここにはまたいろいろ洗濯物が干しにかけられるということをお考えになれば、||それを下宿人に全部が全部断わるわけにもいきませんものね||少しぐらい気分がおわるくなられても不思議でないとお思いでしょう。でも、しまいにはこの空気にすっかり慣れます。二度目か||あるいは三度目にいらっしゃるときには、ここでもう胸を押しつけるようなものをもうお感じにならなくなることでしょう。もうおよろしくはありません?」
Kは答えなかった。こうして突然身体の具合がわるくなってここの連中の手のうちにはいったようになっていることがあまりにもつらいことだったし、そのうえ、今自分の不調の原因を聞いたばっかりに、よくはならないで、むしろ少しわるくなったのであった。娘はそれにすぐ気づいて、Kの元気を回復させるために、壁に立てかけてあった
「ここにはいらっしゃれませんわ、通行の邪魔になりますもの||」Kは、どんな通行の邪魔になるのか、と視線できいた||「よろしかったら、病室へお連れしましょう。あなた、手を貸してちょうだい」と、娘は戸口の男に言ったが、男もすぐ近寄ってきた。
しかし、Kは病室へは行きたくなく、これ以上引きまわされることはまっぴらだったし、行けば行くほど腹がたつにちがいなかった。そこで、
「もう歩けます」と、言い、立ち上がったが、気持よくすわっていだだけに耐えられず、身体が震えるのだった。ところが身体をまっすぐに立てることもできなかった。
「どうもだめです」と、頭を振りながら言い、
「私が思うのに」と、男が言ったが、ところで男は身だしなみがよく、特にその、二つの長いとがった端に終っている灰白のチョッキで、目だった。「この人が気持わるくなったのはここの空気のせいだよ。だから、まず病室に連れてゆきなどしないで事務局から出てもらうのが、いちばんいいし、この人にもいちばん気持がいいんじゃないかな」
「そうですよ」と、Kは叫び、無性によろこんでほとんど男の話の中に割ってはいった、「きっとすぐよくなるでしょうし、そんなに弱っているわけじゃなく、ただ少し
そして、二人が彼の腕の下をとらえやすくするため、肩を上げた。
ところが男は求めに応じないで、両手を知らん顔でポケットに突っこんだまま、大声をあげて笑った。
「ごらん」と、男は娘に言った。「やっぱり私の言ったとおりじゃないか。この人はどこででも気分がわるくなるんじゃなくて、この部屋に限ってわるくなるんだ」
娘も微笑んだが、男があえてKをあまりひどく
「だって君、どうだっていうんだ」と、男はなおも笑いながら言った。「そりゃあ、この人を連れてはゆくさ」
「それならいいわ」と、格好のいい頭をしばらくかしげながら、娘は言った。
「この人が笑っていることをあまり気にされなくていいんですのよ」と、娘はKに言ったが、Kはまた
「そりゃあそうだが」と、男はあざけるように言った。「君、なぜこの人にわれわれの内幕を洗いざらいしゃべるのか、あるいは全然聞きたくもないのに無理に聞かせるのか、私にはわからないね。いいかい、この人は明らかに自分の用件があってここに来ているんだからね」
Kは抗弁する気が全然なかった。娘の意図は親切なものらしいし、おそらくKの気をまぎらせ、あるいは気分をまとめる機会を彼に与えるためのものだったのだが、手段が間違っていたのだった。
「この人にあなたの笑ったわけを説明してあげなければいけなかったんだわ」と、娘は言った。「ほんとに人を侮辱するものだったわ」
「最後に連れていってあげれば、もっとわるい侮辱だってこの人は許しなさる、と私は思うね」
Kは何も言わず、一度も顔を上げないで、二人が自分についてまるで事件についてのように論じ合っているのを、我慢していた。それが彼にはいちばん好ましかった。ところが突然、一方の腕に案内係の手、他方のに娘の手を感じた。
「じゃあ立ちなさい、お弱いお方」と、案内係は言った。
「お二人とも、ほんとうにすみません」と、よろこび驚きながらKは言い、ゆっくり立ち上がり、ささえをいちばん必要とする場所に自分のほうから他人の手を持っていった。
「私にはこう思われるんですけど」と、彼らが廊下に近づいたとき、娘は小声でKの耳にささやいた。「この案内係さんのことをよく思っていただくようにすることが、とりわけ、私の責任なんじゃないかしら。信じていただいて結構なんですけれど、私はほんとうのことを言おうと思います。あの人は冷たい人じゃないのよ。病気の訴訟当事者を連れ出すなんて、あの人の役目じゃありませんのに、ごらんのように、あの人はしますのよ。きっと私たちの誰もが冷たくなんかないし、きっとみなよろこんで人を助けたいんですわ。それでも裁判所の役人なものですから、私たちは冷たいし、誰も助けようなどとは思っていない、っていうように見えがちなんです。ほんとうにつらいわ」
「ここでちょっと休みませんか」と、案内係が言ったが、もう廊下に出て、Kがさっき話しかけた被告のちょうど前に来た。Kは、ほとんど自分を恥じていた。さっきはこの男の前にちゃんと立っていたのだが、今は二人がささえねばならず、帽子は案内係がひろげた指の上にのせており、髪形は乱れ、
「今日はまだ」と、彼は言った。「私の申請が片づきはしない、ということをよく存じています。けれど、ここで待たしていただけるだろう、今日は日曜日だし、時間があるし、ここでお邪魔にはならない、と思ってまいりました」
「そんなに言い訳をおっしゃらなくたってよろしいですよ」と、案内係は言った。「そんなに気をつかっていただくのはまったく恐縮です。あなたはここで余計な場所ふさぎをしておられるが、私の面倒にならないかぎりは、あなたの事件の進行を逐一たどられるのを妨げはしませんよ。自分の義務をおろそかにしている人たちばかり見ていると、あなたのような人たちのことは我慢するようになります。どうぞおかけください」
「訴訟当事者を相手にすることをなんて心得ていることでしょう」と、娘は言い、Kもうなずいたが、すぐ、案内人が彼にまたきいたので、とび上がった。
「ここで腰かけませんか?」
「いや」と、Kは言った。「休みたくはありません」
できるだけきっぱりとそう言ったのだが、実際は、腰かけることが彼には気持よかったにちがいなかった。まるで船酔いのようだった。難航中の船に乗っているように思われた。水が板壁の上に落ちかかり、廊下の奥からはかぶさる水のような
「もっと大きな声で」と彼は頭を垂れたままささやいてから、恥じた。自分には聞き取れないけれど十分大きな声で言われたのだ、ということを知っていたからである。そのときとうとう、眼の前の壁に穴があいたように、さわやかな風が吹きつけてきた。そしてそばで言う言葉を聞いた。
「初めは行きたがるが、ここが出口だ、と何回でも言ってやればいい。そうすれば動かなくなるよ」
Kは、娘があけた出口の扉の前に立っていることに気づいた。身体じゅうの力が一時に戻ってきたような気がし、自由の身の前味を味わうのだった。すぐに階段に一段足をかけ、そこから、自分のほうに身体をかがめている二人の道づれに別れを告げた。
「どうもありがとう」と、彼はまた言い、繰返し二人の手を握ったが、二人が事務局の空気に慣れていて、階段からやってくる比較的さわやかな空気にも耐えがたそうなのを見てとって、初めて立ち去った。二人はほとんど返事もせず、もしKがきわめて素早く扉をしめてやらなかったならば、娘はおそらく倒れたであろう。Kはしばらくじっと立ち止っていたが、懐中鏡で髪を直し、次の踊り場にころがっている帽子を拾い上げ、||案内係がきっとそれを投げ出したのだった||階段を降りていったが、気持があまりにさっぱりし、あまりに
最近Kは、ビュルストナー嬢とほんの少しでも話すことができなかった。きわめてさまざまなやりかたをしてみて、彼女に近づこうとしたが、彼女はいつでもそれを
グルゥバッハ夫人がKに朝飯を持ってきたとき||Kをひどく怒らせて以来、夫人はどんな小さなことも女中にはまかせなかった||Kは、五日ぶりに初めて彼女に話しかけないでいられなくなった。
「いったい今日は、なぜ控えの間がこう騒がしいんですか?」と、コーヒーを
Kはグルゥバッハ夫人のほうを見なかったが、彼女がほっとしたように息をつくのがわかった。Kのこのようなきびしい質問さえも、夫人は、許しあるいは許しの始まり、と考えたのだった。
「片づけているんじゃありません、Kさん」と、夫人は言った。「モンタークさんがビュルストナーさんのところへ移るだけのことでして、荷物を運んでいるんですわ」
夫人はこれ以上は言わず、Kがどうそれをとり、話し続けることを許すかどうか、待ちかまえていた。だがKは夫人をためしたのだったので、考えこんだように
「ビュルストナーさんのことについてのあなたの前の疑いを、もう捨て去ってしまったでしょうね?」
「Kさん」と、この質問だけを待ちかまえていたグルゥバッハ夫人は叫び、彼女の重ねた手をKのほうに差出した。
「あなたは、このあいだの何気ない話をむずかしくおとりになったのですわ。私はちっとも、あなたなりほかのどなたかなりを傷つけようなどとは思いませんでした。Kさん、あなたはもう私とは長年のお付合いですから、そのことを信じていただけるはずですわ。私がこの数日どんなに思い悩んだか、あなたにはおわかりになれませんわ! 私が間借人の方の悪口を言うなんて! そしてあなたは、Kさん、そう思っていらっしゃるんです! そして、あなたのことを追い出すんだなんておっしゃったんだわ! あなたのことを追い出すなんて!」
最後の言葉はもう涙でつまってしまい、エプロンを顔にあてて、声をあげてすすり泣きするのだった。
「泣かないでください、グルゥバッハさん」と、Kは言い、窓から外を見たが、ただビュルストナー嬢だけのことを考え、そして、彼女が見知らぬ娘を自分の部屋に迎え入れたことを考えていたのだった。
「泣かないでください」と、もう一度言ったが、振向くとグルゥバッハ夫人はまだ泣いていた。
「実際あのときは私もそうわるい意味で言ったんじゃありません。お互いに誤解していたんです。そういうことは旧友でも起りうることですよ」
グルゥバッハ夫人はエプロンを眼の下までずらせて、Kがほんとうに仲直りしたのかを見た。
「ねえ、そういうわけだったんですよ」と、Kは言い、グルゥバッハ夫人の態度から判断するのに、例の大尉が何も暴露してはいないらしかったので、あえてさらに言葉を足した。「よその娘のことで私があなたと仲たがいするなんて、ほんとにそうお思いですか?」
「ほんとにそうですわね、Kさん」と、グルゥバッハ夫人は言ったが、いくらか安心したように思って早速まずいことを言ったのは、彼女の運のつきだった。「しょっちゅう自分にきいてばかりいるんですのよ。なぜKさんはあんなにビュルストナーさんのことばかり気にしているんだろう? あの方から何かいやな言葉を聞いたら私は眠れないっていうことをよくご存じなのに、あの人のことでなぜ私といさかいなんかなされるんだろう、って。あの人については、ほんとに自分の眼で見たことだけを申上げたんだわ」
Kはそれに対して何も言わなかった。最後の言葉で夫人を部屋から放り出してやらねばならない、と思ったが、そうはせずにおいた。コーヒーを飲み、グルゥバッハ夫人におしゃべりがすぎるということを気づかせてやるのにとどめた。室外ではまた、モンターク嬢の、控えの間いっぱいを横切ってゆく引きずるような足音が聞えた。
「聞えますか?」と、Kはきき、手で扉のほうをさした。
「ええ」と、グルゥバッハ夫人は言い、
「そんなことはあなたの知ったことじゃないですよ」と、Kは言い、茶碗の中の砂糖の残りをつぶした。「いったいそれで何かあなたの損害になるんですか?」
「いいえ」と、グルゥバッハ夫人は言った。「そのこと自体は私にはほんとに願ったりですわ。それで部屋がひとつあき、そこへ私の
「なんていうことを考えられるんです!」と、Kは言い、立ち上がった。「そんなつもりじゃ全然ありませんよ。あのモンタークさんが歩いているのを||ああ、またもどってきましたね||我慢できないからといって、あなたは私のことをどうも神経過敏とお考えのようですね」
グルゥバッハ夫人は、まったく自分には手の施しようもないように思った。
「Kさん、引っ越しの残りを延ばすように申しましょうか? もしお望みなら、すぐそうしますけれど」
「いや、ビュルストナーさんのところへ移らせてやりなさい!」と、Kは言った。
「ええ」と、グルゥバッハ夫人は言ったが、Kの言うことを理解しきってはいないようだった。
「それじゃあ」と、Kは言った。「あの人の荷物を運ばなくちゃいけない」
グルゥバッハ夫人はただうなずいた。この口もきけないで当惑している有様は、表面上はただ
ちょうどKがまた扉のところまで来たとき扉をたたく音がした。それは女中で、モンターク嬢がKさんと少しお話ししたいことがあり、それゆえ食堂でお待ちしているから、おいでくださるようお願いします、ということを伝えた。Kは女中の言うことを考えこんだようにじっと聞いていたが、ほとんど
「ほとんどなんにも手をおつけになっていませんわ」と、グルゥバッハ夫人は言った。
「ああ、いいんですから持っていってください!」と、Kは叫んだが、すべてのものにモンターク嬢が浸みこんでいるようであり、いやな気持だった。
控えの間を通り抜けるとき、ビュルストナー嬢のしめきった扉をながめた。けれど、この部屋へ招かれたのではなく、食堂へだった。彼は食堂の扉を、ノックもせずにあけた。
食堂は、奥行はきわめてあるのだが、間口は狭い、窓がひとつしかない部屋だった。その部屋には場所が大いにあるにはあるので、扉側の
もう食事の
Kが部屋にはいると、モンターク嬢は窓ぎわから食卓のそばに沿ってKのほうにやってきた。二人は互いに、黙ったまま
「私のことをご存じかどうか知りませんが」
Kは、眼を
「よく存じています」と、彼は言った。「だってもうかなり長くグルゥバッハ夫人のところにお住いじゃありませんか」
「でも、私がお見かけしたところでは、下宿のことはあまり気にかけていらっしゃらないようですが」と、モンターク嬢は言った。
「そんなことはありません」と、Kは言った。
「おかけになりませんか?」と、モンターク嬢は言った。二人は、黙ったまま、食卓の一番端にある椅子を二つ引出し、互いに向い合って腰をおろした。しかし、モンターク嬢はすぐまた立ち上がった。ハンドバッグを窓敷居に置き忘れ、それを取りにいったからである。部屋じゅうを
「私はただ友達に頼まれて、ちょっとお話ししたいのです。あの人は、自分で来ようと思ったのですが、今日は少し気分がわるいものですから。どうかあしからずお思いになって、あの人のかわりに私の申上げることをお聞きくださいまし。あの人も、私があなたに申上げる以外のことは申上げられませんでしょう。反対に私は、あの人よりも申上げられるものと思いますわ、私は比較的局外の立場にありますから。あなたもそうお思いでございましょう?」
「いったい、おっしゃることってなんですか?」と、Kは言葉を返したが、モンターク嬢の眼が絶えず自分の
「私はビュルストナーさんご自身でお会いくださるようお願いいたしたのですが、それはご承知願えぬわけですね」
「そうです」と、モンターク嬢は言った。「あるいはむしろ、そうではありません、と申上げるべきかもしれません。あなたは妙にきっぱりとした物の言いかたをなさいますわね。一般に言って、お話しすることをお引受けしたわけでもなければ、またその反対にお断わりしたわけでもありません。でも、お話しすることを不必要と考える場合だってありうるわけでして、ちょうど今の場合がそうなんです。おっしゃることを伺って、今は私、はっきりとお話しできますわ。あなたは私のお友達に、手紙か口頭でお話しすることをお求めになりました。でもあの人は、これは私も少なくともそう考えなければならないのですが、このお話し合いがなんについてなのか知っております。そして、そのため、私にはわからない理由から、たといほんとうにお目にかかることになっても、それは誰のためにもならない、と確信しておりますのよ。そしてあの人は昨日になってやっと私にそのことを話してくれましたが、ほんのちょっとだけでした。そしてそのとき言ったことは、お会いすることはたぶんKさんにもたいしたことじゃないのでしょう、なぜならKさんもほんの偶然によってそんなことをお考えになったのであり、ご自分でもきっと、特別お話しいたさなくとも、たとい今すぐではなくてもほんのすぐあとで、そんなことがみな無意味だということにお気づきになるでしょうから、ということでした。それに対して私は、それはそうだがKさんにはっきりしたご返事をしてさしあげたほうが、事を完全にはっきりさせるためには有益なことだと思う、と答えました。私はこの役目を引受けることを申出ましたが、少しためらってから、あの人は私の言うことを承知しました。おそらく私はあなたのお望みのようにも振舞ったことと思いますが。なぜなら、どんなつまらぬ事柄においてでも、少しでもはっきりしないことがあれば心を悩ますものですし、今の場合のようにたやすく片づけることができるものなら、すぐしてしまったほうがよろしいですからね」
「どうもありがとうございます」と、Kはすぐ言い、ゆっくりと立ち上がり、モンターク嬢を見つめ、それから食卓の上、次に窓の外をながめ、||向う側の家は
最近のある夕方、事務室と中央階段とを隔てる廊下をKが通ると、||その晩は彼がほとんどいちばん
「ここで何をやっているんだ?」と、興奮のためせきこんで、しかし高声でではなく、Kはきいた。明らかにほかの二人を
「あなたが予審判事にわれわれのことで苦情を言ったものだから、われわれは
そう言われてやっとKが気がつくと、それはフランツとウィレムとであり、第三の男が、彼らを打つため、手に笞を持っていた。
「ところが」と、Kは言い、男たちを見つめた。「何も苦情を言ったわけじゃありませんよ。ただ、私の住居で起ったことを言っただけだ。そして君たちのほうも、けっして非の打ちどころのないように行動したわけじゃないからね」
「でも」と、ウィレムが言ったが、一方フランツはその背後に隠れて、明らかに身を守ろうとしているのだった。「われわれのサラリーがどんなにわるいかご存じなら、われわれについてもっとよい判断を下してもらえるはずですよ。私は家族を養わなけりゃなりませんし、このフランツは結婚しようと思っているんです。よくあることですが、もっと金が楽になるようにとするんだけれど、ただ働くだけでは、どんなに一生懸命やってみても、うまくゆきはしない。そこであんたのりっぱな下着類がわれわれを誘惑したわけで、もちろん、そんなことをするのは監視人には禁じられているし、不正にはちがいないんだけれど、下着は監視人のもの、というのはしきたりで、これまではいつもそうだったんですよ、ほんとうに。それにまた、逮捕されるくらい運のわるい人間にそんな物が何の役にたつかも、わかりきったことじゃありませんか? もちろん、そんなことをあからさまに言い出されたんじゃ、罰が来るにきまっていますよ」
「君が今言ったことは、私も知らなかったし、またけっして君たちを罰するように要求したわけじゃないんだけれど、根本的なことを問題にしたんですよ」
「おいフランツ」と、ウィレムは別な監視人のほうを向いた。「この人はおれたちの処罰なんか要求しなかった、とおれが言ったろう? 今お前も聞いたとおり、この人はおれたちが罰せられなくちゃならないってことは知らなかったって言うんだ」
「こんな話に乗せられちゃだめだ」と、第三の男がKに言った、「罰は正当でもあるし、逃げられもしないものなんだ」
「そいつの言うことを聞いちゃいけません」と、ウィレムは言い、笞でぴしゃりとやられた手を素早く口に持ってゆくときにだけ、話をとぎらしたが、「われわれが罰せられるのは、ただあんたが密告したためなんですよ。そうでなければ、われわれのやったことを聞かれたって、なんにも起りはしなかったはずです。罰が正当だなんて言えるものですかね? われわれ二人、ことに私のほうは、監視人として長いあいだりっぱにやってきたんです。||あなただって、われわれが、役所の立場から言えば、よく監視したっていうことは、白状しなけりゃあならんはずだ。||われわれは、出世する見込みがあったんだ。きっと間もなくこの人みたいに笞刑吏になれたんだ。この人ときたら誰からも密告されないっていういい身分なんですよ。なぜってこんな密告なんてほんとうにほんのまれにしか起りませんからね。ところが今では万事おしまいです。われわれの出世も止ったし、監視人の役よりはずっと下の仕事をやらなきゃならないでしょうし、そのうえ、今はこんな恐ろしく痛い笞を食う始末ですからね」
「笞はそんなに痛いんですか?」と、Kはきき、笞刑吏が彼の前で振っている笞をよく見た。
「すっかり脱がされて裸にならなくちゃなりませんからね」と、ウィレムは言った。
「そうなんですか」と、Kは言い、笞刑吏をよくながめたが、水夫のように
「二人の笞を助けてやる見込みはありませんか」と、彼は男にきいた。
「だめだね」と、笞刑吏は言い、にやにやしながら頭を振った。
「着物を脱ぐんだ!」と、男は監視人たちに命令した。そしてまた、Kに言った。
「あいつらの言うことを全部信用しちゃいけませんぜ。なにせ笞が
「こういう腹の笞刑吏だっていますよ」と、ちょうどバンドをゆるめていたウィレムが言い張った。
「こら」と、笞刑吏は言い、笞で頸の上に一撃を加えたので、
「この人たちを逃がしてくれたら、お礼はたっぷりしますよ」と、Kは言い、もう笞刑吏の顔は見ないで||こういう取引はお互いに眼を伏せたまますませるのがいちばんいいのだ||紙入れを取出した。
「きっとお次は、おれのことも密告し」と、笞刑吏は言った。「そしておれにも笞を食わせようっていうんだろう。だめだ、だめだよ!」
「よく考えてごらんなさい」と、Kは言った。「この二人が罰せられることを望んだのなら、いまさら金を出して助けてやるはずがないじゃないですか。ただこの戸をしめて、これ以上見たり聞いたりしたくないっていうんで家に帰れば、それでもすむんですよ。ところがそうはしない。むしろ、この人たちを逃がしてやりたいって真剣に考えているんです。二人が罰せられなきゃあならない、いやただ罰せられるかもしれない、とわかったなら、この二人の名前は言わなかったでしょう。私はこの二人に罪があるとは全然思いませんね。罪があるのは組織なんだ、上の役人たちなんだ」
「そのとおりですよ!」と、監視人たちは叫んだが、すぐ一撃をすでに着物を脱いだ背中に食った。
「もしここで君の笞の下に高位の裁判官がいるのなら」と、Kは言って、そう言いながらすでに振上げられていた笞を押えて下げさせた、「君がなぐることをほんとうに邪魔はしませんよ。反対に、君がそういういいことをやってくれるのを元気づけるために、金をやってもいいくらいだ」
「あんたが言うことは、もっともらしく聞えるが」と、笞刑吏は言った。「おれは
監視人のフランツは、おそらくKが割りこんできてよい結果になるものと期待しながらこれまでかなり控え目な態度でいたが、このとき、まだズボンだけははいたままで扉のところへ現われ、ひざまずいてKの腕に取りすがり、ささやいた。
「われわれ二人を助けていただけないなら、少なくとも私だけでも逃がす算段をやってみてください。ウィレムは私より年上で、あらゆる点で感じが鈍いですし、二年ばかり前に一度軽い笞刑を受けたことがあるんですが、私はまだそんな恥を受けたことはないし、ただウィレムに教えられたとおりにやっているだけなんです。あいつがよいにつけわるいにつけ、私の先生株でしてね。
彼はKの上着で、涙でびしょぬれの顔をふいた。
「もう待ってはやらないぞ」と、笞刑吏は言い、両手で笞をつかみ、フランツに打下ろしたが、一方ウィレムは、隅にうずくまって、頭を動かそうともしないで、こっそり様子をうかがっていた。そのとき悲鳴があがったが、それはフランツのもらしたもので、とぎれず、変化のない叫びであり、まるで人間からではなく、拷問される機械からほとばしったように思われるものだった。廊下じゅうがその叫びで鳴りわたり、家全体がそれを聞いたにちがいなかった。
「わめいちゃいけない」と、Kは叫んだが、自分を抑えることができなかったのだった。そして、小使がやってくるにちがいない方角を緊張して見つめながら、フランツを突くと、それはたいして強かったわけではないが、それだけでもこの思慮を失った男は倒れ、
「私だよ!」
「今晩は、主任さん」と、返事が叫んだ。「どうかしたんですか?」
「いや、なに」と、Kは答えた。「中庭で犬がほえているだけなんだ」
それでも小使が動こうとはしないので、彼は言葉を足した。
「君たちは仕事をしていていいんだよ」
小使たちと話をしなければならなくなる羽目にならぬように、窓から身体を乗り出した。しばらくしてまた廊下を見ると、小使たちはもう立ち去っていた。しかしKは窓ぎわにとどまっていて、物置部屋にはいろうともせず、家にもどりたくもなかった。見下ろすと、小さな四角の中庭で、そのまわりはぐるりと事務室が取囲み、窓はもうみな暗くなっていたが、最上階の窓だけが月光の反射を受けていた。Kは視線をこらして、二、三台の手押車をごちゃごちゃ集めてある木材置場の片隅の
遠くで小使たちの足音が聞えた。彼らに目だたぬように、窓をしめ、中央階段のほうに行った。物置部屋の扉のところでしばらく立ち止り、聞き耳をたてた。まったく静まりかえっていた。あの男が監視人たちをなぐり殺してしまったのかもしれない。実際、彼らはまったく男の手中に納まったのだった。Kは
次の日もまだ、監視人のことがKの念頭を離れなかった。仕事をしていても気が散って、無理にやってしまおうと思ったので、前日よりもなお少し長く事務室に居残らなければならなかった。帰りがけにまた物置部屋の前を通りかかり、習慣になっているかのように扉をあけてみた。真っ暗なはずと思っていたのに現実に見たものは、とうてい理解できなかった。万事が、昨晩扉をあけたとき見たままで、少しも変っていなかった。すぐ敷居の後ろまで来ている印刷物とインク瓶、笞を手にした笞刑吏、相変らずすっかり裸の監視人たち、棚の上の蝋燭、そして監視人たちは訴え、叫びはじめるのだった。
「ああ、あんた!」
すぐKは扉をしめ、しっかとしめでもするかのように、
「物置部屋を片づけちまってくれないか!」と、彼は叫んだ。「まったく
小使たちは、明日掃除をするつもりでいた、と言ったので、Kはうなずき、もう夜も遅くなった今、自分が考えたとおり仕事を無理にさせるわけにもゆかなかった。小使をしばらく身近におこうと思って、しばらく腰をおろし、二、三枚の謄写をひっかきまわし、それで自分が謄写を調べているように見せかけることができたと思い、自分といっしょに小使たちが帰ろうとはしていないのを見てとったので、疲れきって、ぼんやりと、家へ帰っていった。
ある日の午後||ちょうど郵便締切日の前なのでKは非常に忙しかったが、書類を持ってはいってくる二人の小使のあいだを押し分けて、
「どうしても人払いが必要なんだ」と、叔父は苦しげに
Kはすぐさま、誰も部屋に入れてはいけないと命じて、小使たちを部屋から出した。
「いったいなんということをやったのだ、ヨーゼフ?」と、二人きりになったとき叔父は叫び、机の上にすわり、すわり心地をよくするためさまざまな書類を見境もなく
「窓の外なんか見ている!」と、叔父は腕をあげて叫んだ。「後生だから答えてくれ、ヨーゼフ! ほんとうなのか、いったいあんなことがほんとうにありうることかね?」
「叔父さん」と、Kは言って、ぼんやりしていた気持を振切った、「なんのことやらさっぱりわかりませんが」
「ヨーゼフ」と、叔父はたしなめるように言った。「わしの知るかぎり、お前はいつもほんとうのことを言ってきた。ところがお前の今の言葉を聞くと、どうもそれをわるいしるしととらなきゃならんようだね?」
「ああ、叔父さんの用件がわかりましたよ」と、Kは素直に言った、「きっと私の訴訟のことをお聞きになったんですね」
「そうだよ」と、ゆっくりうなずきながら、叔父は答えた。「お前の訴訟のことを聞いたんだ」
「いったい誰からですか?」と、Kはきいた。
「エルナが手紙で言ってよこしたんだ」と、叔父は言った。「あれはお前とは全然交渉がないし、残念ながらお前はたいしてあれのことを気にかけていない。それでもあれはそのことを聞いたんだぞ。今日あれの手紙をもらって、もちろんすぐここへやってきたんだ。別にほかの理由はなかったが、これだけでも十分理由になるように思われるな。お前に関する手紙の個所を読んでやるぞ」
彼は紙入れから手紙を取出した。
「ここにある。こう書いてあるぞ。『ヨーゼフにはもうずっと会っておりません。先週一度銀行へまいりましたが、ヨーゼフはたいへん忙しく面会してもらえませんでした。ほとんど一時間ほども待ちましたが、ピアノのお
Kはうなずいたが、最近のさまざまなごたごたのためすっかりエルナのことを忘れ、彼女の誕生日のことも忘れていたので、チョコレートの話は明らかにただ、自分のことを叔父と叔母とに対してよく思わせてくれようとする心づかいから考えだしたものだった。それは非常にいじらしく、これからはきちんきちんと送ってやろうと思った芝居の切符ではきっと十分に償いきれないものだったけれども、寄宿舎を
「で、どうだね?」と、叔父はきいたが、手紙ですっかり、急いでいたこと、興奮していたこと、を忘れてしまい、もう一度手紙を読んでいるらしかった。
「ええ、叔父さん」と、Kは言った。「ほんとうにそうなんです」
「ほんとうだって?」と、叔父は叫んだ。「ほんとうってどういうことなんだ? そんなことがほんとうだなんて、ありうることかい? どんな訴訟なんだ? でも刑事訴訟じゃあるまいな?」
「刑事訴訟なんです」と、Kは答えた。
「で、お前はここに落着きはらってすわっていながら、刑事訴訟を背負いこんでいるのか?」と、叔父は叫んだが、声がいよいよ大きくなっていった。
「落着いていればいるほど、結果はいいんです」と、Kは疲れたように言った。「心配しないでください」
「そんなことじゃ、わしのほうは安心できん!」と、叔父は叫んだ。「ヨーゼフ、なあヨーゼフ、自分のこと、
「ちがいますよ」と、Kは言い、立ち上がった。「叔父さんの声は大きすぎますよ。きっと小使が扉のところに立って、聞いています。それは不愉快ですからね。むしろ外に行きませんか。外に出たら、何なりと叔父さんの質問にお答えしますよ。身内の人たちにも弁明しなけりゃならないとは、重々わかっていますからね」
「そうだ!」と、叔父は叫んだ。「まったく言うとおりだ、さあ急ぐんだ、ヨーゼフ、急ぐんだ!」
「まだ少し言いつけておかねばならないことがありますから」と、Kは言い、電話で代理を呼んだが、代理はすぐやってきた。興奮している叔父は、わざわざやらなくたってきまりきったことなのに、あなたを呼んだのはこの男だ、と代理に手でKのことをさしたりするのだった。Kは机の前に立ち、低い声でいろいろな書類を取上げながら、自分がいないあいだ今日のうちに片づけねばならないことをその若い男に説明したが、相手は冷やかな、しかし注意深い態度で聞いていた。叔父は、もちろん話を聞いているわけではないが、まず眼を丸くし、神経質そうに
「とうとう
ホールには二、三人の行員や小使があちこちに立っており、またちょうど支店長代理が横切ってゆくところだったが、都合がわるいことに、訴訟についての質問をやめさせる手段がなかった。
「で、ヨーゼフ」と、叔父はそのあたりに立っている人々の挨拶に軽い会釈で答えながら、言い始めた。「もうはっきりと言ってくれ、どんな訴訟なんだ」
Kは何か口ごもりながら、少し笑いもし、階段のところへ来てからやっと、人がいるところではおおっぴらに話したくないのです、と叔父に説明した。
「ほんとうにそうだ」と、叔父は言った。「だがもう話してもいいだろう」
頭をかしげて、葉巻を短く、せわしげにぷかぷかふかしながら、叔父は一心に聞いていた。
「叔父さん、まずお断わりしておきますが」と、Kは言った。「普通裁判所の訴訟じゃないんです」
「それはいかん」と、叔父は言った。
「どうしてですか」と、Kは言い、叔父をじっと見つめた。
「それはいかん、って言うのだ」と、叔父は繰返した。
二人は通りに通じる表階段の上にいた。門衛が聞き耳をたてているようなので、Kは叔父を引っ張りおろした。街路のにぎやかな往来が二人を迎えた。Kの腕にすがった叔父は、もうあまりせきこんで訴訟のことをきかなくなり、しばらくは黙りさえして歩みを進めた。
「だがどういうことが起ったのだ?」と、ついに叔父がきいたが、突然立ち止ってしまったので、その後ろを歩いていた人々は驚いて避けた。
「こんなことは突然起るものじゃなし、ずっと前からじっくり起ってくるのだから、その徴候もあったにちがいないのに、なぜ手紙でそれを言ってよこさなかったんだ? お前も知っているとおり、わしはお前のためになんでもやってきているし、今でもいわば後見人と言えるくらいで、わしは今日までそれを誇りにしてきた。もちろん今でもお前を助けてやるつもりだが、訴訟がもう始まっているとすると、どうもむずかしいぞ。ともかく、ここで少し休暇を取り、田舎のわしらのところへ来るのがいちばんいいだろう。それにお前は少し
「ここを離れることは禁じるかもしれませんよ」と、叔父の話に少し釣りこまれたKは言った。
「そんなことをするとは、わしは思わん」と、叔父は考えこんだように言った。「お前が旅行に出たために役所の権力が減る面は、そんなに大きくはあるまい」
「叔父さんは」と、Kは言い、叔父を立ち止らせておかないように腕を取った、「私ほどこの事件に重きをおかないものと思っていましたが、ご自身でどうもむずかしく考えておられるようですね」
「ヨーゼフ」と、叔父は大声をあげ、立ち止ることができるようにKから逃れようとしたが、Kがそうはさせなかった。「お前は変ったな。お前はいつも非常に考える力がしっかりしていたのに、今はどうもどこかへ置き忘れたようだぞ? 訴訟に
「叔父さん」と、Kは言った。「興奮は無用です。興奮しているのは叔父さんのほうだし、また私のほうもそうかもしれません。興奮したんでは訴訟に勝てませんからね。叔父さんのご経験は少々私を驚かせますが、いつも、そして今でも大いに尊敬しているんですから、私の実地の経験も少しは認めてください。身内の者まで訴訟によってわずらわされるって叔父さんがおっしゃられるんですから、||このことは私としてはまったく理解できませんが、まあそれは別なことだからやめましょう||よろこんでなんでもおっしゃることに従うつもりです。ただ田舎に滞在するということだけは、叔父さんのお考えの意味ででも利益になるとは思われませんね。そんなことをすりゃあ、逃げたことになるし、罪を自覚していることになりますからね。それに、ここにいるといよいよ追いまわされはするものの、また自分でもっと事を動かすこともできるんです」
「もっともだよ」と、叔父は、今はやっと互いに歩み寄りができた、というような調子で言った。「わしがそういうことを言いだしたのはただ、お前がここにいると、事がお前の無関心な態度で危なくなるように思えたし、わしがお前のかわりに事をやればいっそうよいと考えたからだ。だがもしお前が全力をあげて自分でやろうというのなら、もちろんはるかによいことだ」
「それじゃこの点で私たちは一致したわけです」と、Kは言った。「そこで、私がまずやらなきゃあならないことについて、何かお考えがありますか?」
「もちろん事柄をもっと考えてみなくちゃならん」と、叔父は言った。「お前もわかってくれるだろうが、わしはもうこれで二十年もほとんど田舎に居きりなので、こういう方面の勘が鈍ってしまったよ。こっちにいておそらく事情に明るい人たちとの、さまざまな肝心なつながりも、自然とゆるんでしまった。お前もよく知っているとおり、わしは田舎で少し見捨てられていたんだ。ほんとうにこんな事件にぶつかってみて初めて、自分でもそれがわかる。奇妙なことにエルナの手紙を読んだだけでそういうことがいくらかわかったし、今日もお前の顔を見ただけで、ほとんどはっきりわかったんだが、お前のこの事件は少々意外だったな。だがそんなことはどうでもよろしい、今いちばん大切なのは、時を失わないということだ」
こう話しているうちにもう、
「これからフルト弁護士のところへ行こう」と、彼は言った。「あの男はわしの同窓生だった。お前も名前は知っているだろう? 知らないか? だが変だね。貧乏人の保護者で弁護士として、たいへん名声の高い人だ。だがわしは、人間としてのあの男に大いに信頼をおいている」
「叔父さんのやられることは、なんでも私には結構ですよ」と、叔父が用件を取扱ういかにもせっかちな、押しつけがましいやりかたに不快を覚えさせられたが、Kは言った。被告として貧民相手の弁護士のところへ行くことは、あまり愉快なことではなかった。
「こんな事件にも弁護士を頼めるものとは知りませんでした」と、彼は言った。
「もちろんだよ」と、叔父は言った。「わかりきったことじゃないか。どうして頼めないなんていうことがある? ところで、事件を詳しく知っておくため、わしにこれまで起ったことを話してくれないか」
Kはすぐ話し始めたが、何も隠しだてはしなかった。完全にぶちまけるということが、訴訟は大きな恥辱だ、という叔父の意見に対してあえてやれる唯一の抗議だった。ビュルストナー嬢の名前はただ一度だけ、ほんのついでに口に出しただけだったが、それは何も公明正大になんでも言うという態度を傷つけるものではなかった。ビュルストナー嬢は訴訟とは何も関係がなかったからである。話しながら窓越しにながめ、自分たちがちょうど裁判所事務局のあった例の郊外に近づいているのを見てとり、叔父にそのことを注意したが、叔父はその偶然の一致をさして驚くべきこととは思わなかった。車は一軒の暗い家の前に止った。叔父は、すぐ一階のとっつきの部屋の扉のベルを鳴らした。待ちながら、にやにやして大きな歯をむきだし、ささやいた。
「八時だ。訴訟のことで行くのには尋常じゃない時間だな。しかしフルトはわしのことをわるくは思うまい」
扉ののぞき窓に、二つの大きな黒い眼が現われ、しばらく二人の客をじっと見つめて、消えた。ところが扉はあかなかった。叔父とKとは互いに、二つの眼を見たという事実を確かめ合った。
「新しい女中で、見知らぬ人間を恐がっているんだろう」と、叔父は言い、もう一度ノックした。また眼が現われ、今度はほとんど悲しげに見えるのだったが、おそらくはただ、二人の頭のすぐ上で強くじいじい音をたてて燃えてはいるがほとんど光を出してはいない裸ガス燈の生みだした錯覚だったかもしれなかった。
「あけてくれ」と、叔父は叫んで、
「弁護士さんは病気ですよ」と、彼らの後ろでささやく声がした。小さな廊下の向うの
「病気? あの男が病気だっておっしゃるんですね?」そして、その紳士が病気そのものででもあるかのように、ほとんど
「扉をもうあけましたよ」と、その紳士は言い、弁護士の扉を指さし、寝巻をかき合せて、消えた。扉はほんとうに開かれており、一人の若い娘が||黒い、少し飛び出た、あの眼をKはふたたび認めた||長い白エプロン姿で控えの間に立ち、
「この次はもっと早くあけてください!」と、叔父は
「おいで、ヨーゼフ」と、ゆっくりと娘のそばを通り過ぎるKに叔父は言った。
「弁護士さんはご病気です」と、叔父は止っていないでどんどん扉のほうに行くので、娘は言った。
Kはまだぽかんと娘をながめていたが、娘のほうはすでに向き直って、入口の扉をまたしめにいった。人形のような格好の丸い顔で、
「ヨーゼフ!」と、叔父はまた叫び、娘にきいた。
「心臓病かね?」
「きっとそうだと思います」と、娘は言い、蝋燭を携えて先に立ち、部屋の扉をあける暇をとらえた。蝋燭の光がまだ届かない部屋の隅のベッドで、長い
「レーニ、誰が来たんだ?」と、蝋燭に眼がくらんで客の見分けがつかない弁護士がきいた。
「アルバート、君の旧友だよ」と、叔父は言った。
「ああ、アルバートか」と、弁護士は言い、この訪問客には何も取繕うことは
「ほんとうにそんなにわるいのかい?」と、叔父は言い、ベッドの縁に腰をおろした。「わしはそうは思わんぞ。いつもの心臓病の発作だよ。いつもと同じようにすぐ直るよ」
「そうかもしれないが」と、弁護士は低い声で言った。「でも今度はこれまでよりもわるいんだ。呼吸が苦しく、全然眠れないし、日ましに弱ってゆくんだ」
「そうか」と、叔父は言い、大きな手でパナマ帽をしっかと膝に押しつけた。
「そいつはわるい知らせだな。ところでちゃんと養生しているのか? それにここはどうも陰気で、暗いな。この前ここに来てからもうだいぶになるが、あのときはもっと親しみがあるように思えたぞ。ここにいるお前の小娘もあまり陽気じゃなさそうだし、どうもとりすましているな」
娘はまだ蝋燭を手にして、扉の近くに立っていた。どうもはっきりしない彼女の
「おれのように病気だと」と、弁護士は言った。「安静にしなければならん。おれには別に陰気じゃないよ」そして少し間を置いてから、言葉を足した。「それにレーニはよくおれを看病してくれるよ。いい娘だ」
しかし、その言葉に叔父は承服できず、明らかに看護婦に偏見をいだいているらしく、病人には何も言わなかったが、看護婦がベッドのところへ行き、蝋燭を夜間用の小さな机の上に置き、病人の上に身をかがめて、布団を整えながら病人と小声で話すのを、きびしい眼つきで追っていた。ほとんど病人への心づかいなどは忘れてしまい、立ち上がって看護婦の
「看護婦さん、しばらく二人だけにしてくれないかね。友達と個人的な用件で話さねばならぬことがあるんだ」
まだ病人の上にずっと
「ごらんのとおりたいへん病気が重いのですから、どんな用件もお話しはできません」
看護婦は叔父の言葉をおそらくはただ
「こん畜生」と、興奮のため
「もちろん、お互いに理性を失ってしまったわけじゃない。わしの要求することができない相談なら、わしも無理には要求すまい。だがもう出ていってくれないか!」
看護婦はベッドのそばにしっかと立ち、完全に叔父のほうを向き、Kにはそれが見られたように思えたのだが、片手で弁護士の手をさすっていた。
「レーニの前ならなんでも言えるよ」と、疑いもなく切に願うような調子で、病人は言った。
「わしのことじゃないんだ」と、叔父は言った。「わしの秘密じゃないんだ」
そして彼は向き直ってしまい、もう言い合いをやっているつもりはないが、まあちょっと考える余裕を与えてやろう、という様子だった。
「いったい誰のことなんだ?」と、消え入るような声で弁護士はきき、また身体を横にした。
「わしの
「おお」と、病人はずっと元気になって言い、Kに手を差伸べた。「ごめんなさい、あなたには全然気がつきませんでした。レーニ、あっちへ行きなさい」と、看護婦に言ったが、娘のほうも全然逆らわず、病人はまるで長い別れででもあるかのように彼女に手を差伸べた。
「それじゃ君は」と、病人はついに叔父に言ったが、叔父も気持が解け、彼のほうに近寄った。
「見舞いに来てくれたんじゃなくて、用事で来たんだね」
病気見舞いという考えがこれまで弁護士をうんざりさせていたかのようで、そこで今は元気づいたように見え、かなり骨の折れることであるのにちがいないのに、絶えず一方の肘で身体をささえたままの姿勢をとり、髯の真ん中あたりの一束をしょっちゅう引っ張っていた。
「あの
ここで言葉を切り、ささやいた。
「請け合うが、あの女め立ち聞きしている!」
そして扉に飛びついて行った。しかし、扉の背後には誰もいなかったので、叔父はもどってきたが、彼女が立ち聞きしていないことは叔父にはいっそう陰険なことに思われたので、少しも失望してはいなかったけれども、確かに気をわるくしてはいた。
「君はあれを誤解しているよ」と、弁護士は言ったが、それ以上看護婦のことをかばおうとはしなかった。おそらくそれで、あの娘はかばう必要がないのだ、ということを言い表わそうとしたのであろう。しかし、ずっと熱心な調子で彼は言葉を続けた。
「君の甥御さんのことだが、もしこのきわめてむずかしい問題にぶつかれる元気がわしにあるなら、もちろんわしもたいへん
Kは、この話がさっぱりわからぬように思えて、説明を求めようとして叔父の顔を見つめたが、叔父のほうは蝋燭を手にして夜間用の机のそばにすわり、早速机から
「私にはおっしゃることがわかりませんが||」
「ほう、あなたのことを誤解しているとでも言われるんですかな?」と、弁護士のほうもKと同じように驚き、かつ当惑してたずねた。
「おそらく先走りしすぎたんでしょう。いったいなんのことで私と相談なさろうと言われるんですか? あなたの訴訟のことだとばかり思っていました」
「もちろんだよ」と、叔父は言い、次にKにたずねた。「いったい、どうしようっていうんだ?」
「そうなんですが、いったい私のことや訴訟のことをどこからお聞きになったんです?」と、Kはきいた。
「ああ、そのことですか」と、弁護士は微笑しながら言った。「わしは弁護士ですからね。裁判所の人たちと付合いもあるし、いろいろな訴訟、目だつ訴訟について話も出るわけだし、ことに友人の甥御さんのことともなれば、覚えてもいますよ。それに不思議はないわけです」
「いったいどうしようっていうんだ?」と、叔父はもう一度きいた。「お前はどうも落着きがないよ」
「あなたは裁判所の人たちと付き合っているんですね?」と、Kがきいた。
「そうですよ」と、弁護士が言った。
「お前は子供のようなことをきくね?」と、叔父は言った。
「自分の専門の人たちと付き合うんじゃなければ、いったい誰と付き合うんでしょう?」と、弁護士が言い足した。
その言葉の響きは抗しがたいものがあったので、Kは全然返事をしなかった。
「でもあなたは大審院なんかの裁判で仕事をするんで、屋根裏なんかでするんじゃないでしょう」と、彼は言おうと思ったが、でも思いきってそれを実際言いだすことはできなかった。
「あなたもよくわかっていてもらいたいが」と、何かわかりきったことをついでにくどくど説明するような調子で、弁護士は言葉を続けた。「あなたもよくわかっていてもらいたいが、こういう付合いから弁護依頼人にとってのさまざまな大きな利益を引出せるんでね。しかもいろいろな点でだ。もっともそのことは伏せておいてくださらぬと困るがね。もちろんわしは今、病気のために少し思うようにゆかぬ点があるが、それでも裁判所のいい友達に見舞いに来てもらい、少しは耳に入れているんです。おそらく、ぴんぴんして一日じゅう裁判所で暮している多くの人たちよりもよけいに聞いていますよ。たとえばちょうど今もありがたい訪問客に来てもらっているんですよ」そうして暗い部屋の隅を指さした。
「いったいどこに?」と、驚いてしまったKは荒々しくきいた。彼はおろおろとあたりを見まわした。小さな蝋燭の光は向う側の壁まではとうてい届かなかった。ところがほんとうにその片隅に、何かが動きはじめた。そのとき叔父が高々と上げた蝋燭の光を浴びて、そこの小さな机のそばに一人の中年の紳士がすわっていた。その人物はきっと全然呼吸をしなかったので、そんなに長いあいだ気づかれなかったのだったろう。自分に注意が向けられたことに明らかに不満らしく、その人物は大仰に立ち上がった。短い翼のように両手を動かして、紹介や挨拶はいっさいお断わりと言おうとするかのようであり、どんなことがあっても自分が居合すことによって他人の邪魔をしたくはない、どうかまた暗がりに置いて自分がいることなど忘れてもらいたい、と願っているようであった。しかしこうなってはもうそんなわけにもゆかなかった。
「あなたには驚かされましたよ」と、弁護士は説明じみた調子で言い、同時にその紳士には促すようにこっちにいらっしゃいと合図をしたが、この人物はゆっくりと、ためらうようにあたりを見まわしながら、しかし一種の品位をもって近づいてきた。
「事務局長さん、||ああ、そうだ、ごめんください、ご紹介しませんでしたな、||こちらは友人のアルバート・K、こちらは甥御さんの業務主任ヨーゼフ・K、そしてこちらは事務局長さん。||で、事務局長さんはご親切にもおいでくださったのだ。こんなご訪問の価値というものは、ほんとうはただ、事務局長さんがどんなに仕事でお忙しいかという消息に通じているものだけがわかるんだよ。さて、それにもかかわらずこの方はおいでくださったので、もちろん、弱っているわしに許されるかぎり、いろいろお話ししていたんだ。訪問客があったらお断わりしろ、とレーニには命じてはなかったが、わしらだけで話そうという考えだったのだ。ところが君が扉を
「残念ながらもうほんの少ししかお邪魔しておられません」と、事務局長は親しげに言い、ゆったりと安楽椅子にすわり、時計を見るのだった。「用事に追われていてね。だがいずれにせよ、私の友人のお友達とお知合いになる機会は取逃がしたくはありませんからね」
彼は頭を軽く叔父のほうに曲げたが、叔父はこの新しい近づきに大いに満足しているように見えるものの、いつもの癖で敬意の心持を表現することができず、事務局長の言葉に対して、当惑したような、しかし大きな笑い声で調子を合わせるのだった。なんとも見苦しい光景だった! Kは落着いて皆を観察できた。誰も彼をかまう者はなかったからである。事務局長は、どうもこれは彼のならわしらしかったが、一度引っ張り出された以上、座談を進んで
そのとき、陶器の割れるような騒音が控えの間から聞え、皆が聞き耳をたてた。
「どうしたのか、私が行ってみましょう」と、Kは言い、ほかの連中に自分を引止める機会を与えるかのように、ゆっくりと出ていった。控えの間にはいり、暗闇の中で見当をつけようとするかしないかのうちに、彼が扉にまだしっかと置いている手に、Kの手よりもずっと小さい手が置かれ、扉を静かにしめた。ここで待ちかまえていたのは、例の看護婦だった。
「なんでもなかったのよ」と、彼女はささやいた。「お皿を一枚、壁に投げただけなのよ、あなたをこっちに呼ぼうと思って」
少しおどおどしながらKは言った。
「僕もあなただと思いましたよ」
「それじゃ、いっそういいわ」と、看護婦は言った。「こっちへいらっしゃい」
二、三歩で曇りガラスの扉のところへ来たが、それを看護婦はKの前であけた。
「どうぞおはいりなさいな」と、女は言った。
おそらく弁護士の仕事部屋であった。三つの大きな窓のそれぞれに面した床に小さな四角形を映してさしこんでいる月光を頼りにながめたかぎりでは、どっしりした古い家具類を並べた部屋だった。
「こっちよ」と、看護婦は言い、木彫りのもたれのついた、黒ずんだ長持を示した。腰をおろしながらKは部屋を見まわしたが、天井の高い大きな部屋で、貧民相手のこの弁護士の依頼人たちは、この部屋に入れられては面くらってしまうにちがいなかった。客が堂々たる机の前に進み出てゆく小刻みの歩みが、Kには眼に見えるような気がした。だがもうこんなことも忘れてしまい、ぴったりと彼に寄り添って彼をほとんど長持の横のもたれに押しつけている看護婦だけに、眼を奪われていた。
「あたしは思っていたのよ」と、女は言った。「あたしが呼ばなくたって、あなたのほうから自分で来るだろうって。でも変だったわ。部屋にはいるなりずっとあたしを見つめて、それからあたしを待たせたりなんかして。あたしのことレーニって呼んでね」と、早口でずばりと付け足したが、一瞬たりともこの会話をむなしくしてはならないとでもいうようだった。
「いいですよ」と、Kは言った。「だが、僕が変だったということだが、レーニ、それはたやすく説明のつくことですよ。第一には、お年寄りたちのおしゃべりを聞かねばならなかったんで、理由もなしに出てはこられなかったし、二番目には、僕は厚かましくはなく、むしろ
「そうじゃないわ」と、レーニは言い、腕を長持のもたれにかけ、Kを見つめた。「あたしなんかあなたのお気に召さなかったんだし、今でもきっとお気に召してはいないのよ」
「お気に召すって、そりゃあたいしたことはないけれどね」と、Kは逃げを打ちながら言った。
「まあ!」と、女は
「きっとこれは僕の裁判官だね」と、Kは言い、指でその絵をさした。
「その人は知ってますわ」と、レーニは言い、やはり絵を見上げた。「しょっちゅう、ここへ来るのよ。この絵は若いときのだっていうんだけれど、あの人はこの絵に似ていたはずがないわ。だってあの人はほとんどちんちくりんなんですもの。それでも、ここのみんなと同じように、ひとりでいい気になって
女のこの言葉に返事をするかわり、Kはただレーニを抱き、ぐいと引寄せたが、女はじっと頭をKの肩にもたせかけていた。しかし、彼は付け加えて言った。
「どんな身分の人なの?」
「予審判事よ」と、女は言い、自分を抱いているKの手をつかみ、指をもてあそんだ。
「また予審判事なのか」と、Kは失望して言った。「身分の高い役人たちは隠れているんだ。でも、この人はいかめしい椅子にすわっているじゃないの」
「みんな作りごとよ」と、顔をKの手の上にかがめて、レーニは言った。
「ほんとうは、台所椅子の上に古い馬の
「ちがうよ、けっしてそんなことはないんだ」と、Kは言った。「どうもあんまり考えなさすぎるくらいなんだ」
「そのことがあなたのやってる誤りじゃないのよ」と、レーニは言った。「あなたはあんまり強情すぎるっていう話だけれど」
「誰が言ったの?」と、Kはきいたが、女の身体を胸に感じ、その豊かな、黒い、しっかと巻いた髪毛を見下ろしていた。
「それを言ったら、おしゃべりしすぎるわ」と、レーニは言った。「名前はきかないでちょうだい。でも、あなたの間違っていることは捨てて、もうあんまり強情にしないことよ。この裁判所には逆らうことはできなくて、結局白状しなければならないのよ。どうかこの次のときには白状してちょうだい。そうしたら初めて、逃げる見込みができるのよ、そうしてから後のことよ。けれどそれだって人の助けなしではできないけれど、この助力のことで心配しちゃだめ、あたしが自分でしてあげるわ」
「君はこの裁判所のことと、そこで必要な
「これでいいわ」と、女は言い、スカートの
「で、もし僕が白状しなければ、君は僕を助けられないの?」と、Kはためすようにきいた。どうもおれには女の助力者が集まるな、と彼はほとんど不思議にさえ感じながら思った。まずビュルストナー嬢、次は廷丁の細君で、最後はこの小さな看護婦だが、この女はおれに得体の知れない欲望をいだいているようだ。おれの膝の上にのっているこの様子はどうだ、まるでここがこの女の唯一の所を得た場所とでもいうみたいだ!
「だめよ」と、レーニは答え、ゆっくりと頭を振った、「そしたらあたしはあなたを助けられないわ。でも、あなたはあたしの援助なんてほしくはないし、どうでもいいんでしょう、あなたは身勝手で、人の言うことなんか聞かないんだから」
「好きな人がいるのね?」と、しばらくして女が言った。
「とんでもないよ」と、Kは言った。
「おっしゃいよ」と、女が言った。
「そうだね、まあ」と、Kは言った。「いいかい、もう切れてしまったんだ。けれど写真まで肌身につけているってわけさ」
女にせがまれてエルザの写真を見せると、女は膝の上で丸くなって、写真をしげしげと見た。それはスナップ写真で、エルザがいつも酒場でよく踊る円舞のあとで、彼女を
「コルセットの
「こんな女、きらいだわ。不器用で荒っぽいわ。でも、あなたには優しくて親切でしょう、それは写真で見てわかるわ。こんなに大柄でがっしりした女って、優しくて親切な以外に取柄のないものよ。でも、あなたのために身を投げ出すことできるかしら?」
「できないね」と、Kは言った。「優しくて親切でもないし、僕のために身を投げ出すこともできないだろう。僕もまたこれまで、そのどっちだって求めたことはなかったさ。だが、僕は君ほどこの写真をよく見たことはなかったよ」
「じゃ、この人のことたいして問題にしてはいないのね」と、レーニは言った。「じゃ、あなたの恋人じゃないわけだわ」
「でも」と、Kは言った。「僕の言ったことを撤回はしないね」
「それじゃ、あなたの恋人でもいいわ。でも、この人を失ったり、誰かほかの人、たとえばあたしと取替えても、たいして恋しがりはしないわけね」
「確かに」と、Kは微笑しながら言った。「そういうことも考えられるが、この人は君に比べて大きな長所があるんだ。僕の訴訟のことを何も知らないってことさ。そして、たとい知っていても、そんなことを考えはしないだろうね。僕に折れて出るようになんてすすめはしないだろうよ」
「そんなこと長所じゃないわよ」と、レーニは言った。「ほかの長所がないんなら、あたしは勇気をなくさないわよ。何か身体に片輪のところあるの?」
「片輪のところ?」と、Kはきいた。
「そうよ」と、レーニは言った。「あたしにはこんなちょっとした片輪のところがあるのよ、見てごらんなさい」
女は右手の中指と薬指とをひろげると、そのあいだには皮膜が、短い指のほとんど一番上の関節にまで達していた。Kは暗がりの中で、女の見せようとするものがすぐにはわからなかったが、そのため女は、Kがさわるように、彼の手を持っていった。
「なんという自然の戯れだ」と、Kは言い、手全体をすっかり見てしまってから、言葉を足した。「なんというかわいらしい
レーニは一種の誇らしさをもって、Kが
「まあ!」と、女はすぐに叫んだ。「あなたはあたしに接吻したのね!」
口をあいたまま、素早く、女は
「あんたはあたしに取替えたんだわ!」と、女はときどき叫んだ。「ごらんなさい、もうあたしに取替えたんだわ!」
そのとき女の膝がすべり、短い叫び声をあげてほとんど絨毯の上に倒れかかった。Kは女をささえようとして抱いたが、女に引下ろされた。
「もうあんたはあたしのものよ」と、女が言った。
「これ家の
「こら」と、彼は叫んだ。「なんだってあんなことをやるんだ! せっかくうまくゆきそうだったお前の用件をめちゃめちゃにしちゃったじゃないか。ちっぽけなきたならしい女と、どろんをきめこんだりなんかして。そのうえ、あいつは明らかに弁護士の情婦じゃないか。そして一時間ぐらいも帰ってこないとは。言い訳をするでもなし、隠そうとするでもなし、公然と女のところへ走り、女にくっついているんだ。そうやっているあいだ、お前のために骨折っているこの叔父、お前のために味方にしておかねばならない弁護士、それにまず、今のところならお前の事件をまったく牛耳れるあのりっぱな事務局長、こうしてわしらは集まったんだ。どうやったらお前を助けられるか相談しようとし、わしは弁護士を慎重に扱わなければならん、弁護士は弁護士で事務局長をというわけだ。そこでお前には、少なくともわしを応援してくれる十分な理由があったんだぞ。ところがそうもしないで、お前は消えていなくなっているという始末だ。とうとう隠しきれなかったが、あの人たちは
冬のある午前のこと||戸外では
訴訟のことが彼の頭を離れなかった。弁護文書を作成して裁判所に提出することがよくはないかと、すでに何度となく考えたのだった。その中で短い経歴を書き、比較的重要な事件のひとつひとつについて、どういう理由で自分はそういう行動をとったのか、そのような行動のしかたは現在判断してみるのに非難すべきか、是認すべきか、そして正しくなかった、あるいは正しかったとしてどんな理由をあげることができるのか、説明しようとした。どうも文句がないわけではないあの弁護士なんかの単なる弁護に比べて、このような弁護文書の利点は疑いもなかった。Kはまったくのところ、あの弁護士が何を企てているのか、全然知らなかった。いずれにせよたいしたことではなさそうだった。もう一カ月も自分を呼んでくれたことはないし、それより前に話したときにも、この男は自分のために多くのことをやってくれる能力があるのだ、という印象を受けたことは一度もなかった。何よりもまず、ほとんどまったくKに問い合せをしたことがなかった。ところが今の場合には質問すべきことがたくさんあったのだ。質問こそおもな事柄であるはずだった。自分自身で今の場合に必要な質問を並べたてることができる、という感じをKは持ったくらいだった。ところが弁護士は、質問するかわりに、自分のほうでおしゃべりをするか、黙って彼に向い合ってすわるかして、きっと耳が遠いからだろうが、少し机の上に前かがみになり、
こんなような話で、弁護士は尽きるところを知らなかった。
こうした訪問をありがたいことに中断してくれる唯一のものは、レーニであった。彼女はいつも心得ていてくれて、Kがいるとき弁護士に茶を運んでくるのだった。そうするとKの背後に立ち、弁護士が一種のがっつきかたで
「お前まだいたのかい?」と、茶をすませると、弁護士はきいた。
「茶道具を下げようと思ったのですの」と、レーニは言い、最後にKの手をもう一度握ると、弁護士のほうは口をぬぐって、元気を新たにしてKに説教しはじめるのだった。
弁護士が手に入れようとしているのは、慰めだったのか、絶望だったのか? Kにはそれがわからなかったが、自分の弁護がどうもあまり結構な人間の手中にあるのでないということは確かだ、と思った。弁護士ができるだけ自分を前面に立てようとしていること、彼の言い草だとKの訴訟は大きなものだということだが、こんな大きな訴訟をやったことはこれまでに一度もないということ、それは歴然としたことだったけれども、Kは、弁護士の言うことはみなほんとうだろう、と考えた。ただ、彼が絶えず揚言する役人たちに対する個人的関係というのは、いつまでもうさんくさかった。いったいそういう連中がもっぱらKの利益のために利用し尽されるはずがあろうか? ただ身分の低い役人たちのことであって、したがって訴訟のある転回がおそらく昇進に重要な意味を持っているようなきわめて従属的な地位にある役人たちなのだ、ということを弁護士はけっして言い忘れはしなかった。おそらく彼らは弁護士を利用して、こういう、被告にとってはもちろん不利にきまっている転回をねらっているのではなかろうか? おそらく彼らはこういうことをどの訴訟ででもやるのではないのであって、確かに、そうしたことはありそうもないことだ。弁護士の名声を傷つけないようにしておくことが役人たちにとっても大いに大切であるため、訴訟の進行中に弁護士の仕事のために利益を譲歩するような訴訟の場合だって確かにあるのだ。だが、ほんとうにそういう事情だとすれば、どういうふうにして彼らはKの訴訟、弁護士も言明したようにきわめてむずかしく、したがって重要な訴訟であり、始まるとすぐ裁判所に大きな注意をひいたこの訴訟に、関与するつもりだろうか? 彼らがやろうとすることは、たいして疑問の余地がありえなかった。その徴候は実に、訴訟がすでに幾月も続いているのに最初の願書がまだ受理されていない点や、弁護士の申立てによると万事がやっと始まったばかりの状態にあるという点に、すでに認められるのだった。これはもちろん、被告を眠らせて無援の状態にしておき、次に突然決定を被告に突きつけるか、あるいは少なくとも被告の不利に終った予審を上級官庁に送局するという知らせを突きつけるかするのに格好なことだった。
Kが自分で乗り出すことが、絶対に必要だった。いっさいがそうしようというつもりもなく彼の頭のなかを過ぎてゆくこの冬の日の午後のような、ひどい疲れの状態の
もちろん、さしあたってのところはあまりに心配しすぎる理由はなかった。銀行では比較的短時日に現在の高い地位に登り、すべての人に認められてこの地位を守ることもできたのだから、今はただ、こういうことを可能ならしめた能力を少し訴訟に利用すればよいのであって、うまくゆくことは疑いがなかった。何よりもまず、何か成功をなしとげるためには、自分に罪があるかもしれないという考えをすべて払いのける必要があった。罪などはないのだ。訴訟は大きな仕事以外のものではなく、そういうものを彼はしばしば銀行のためにやって利益をあげてきたのであるが、その内部にはきまってさまざまな危険がひそみ、まずそれを防がなければならないような仕事なのである。このためにはもちろん、何か罪があるなどという考えをもてあそんでいてはならず、自分の利益に関しての考えをできるだけしっかりと保持していなければならない。この見地からすると、弁護士をできるだけ早く、できれば今晩のうちに断わって、自分の弁護をやめてもらうことも、避けられないことだった。弁護士の話によるとそういうことは前代
だが、Kはこうしたことをすべてやりとげるだけの勇気はあったが、願書を書くことのむずかしさは圧倒的であった。前にも、つまり一週間ほども前には、こういう願書を自分でつくる必要に迫られた場合のことを、はじらいの感情をもって想像できるだけだったが、これがまたむずかしいものでもあるということは、全然考えてもみなかった。Kは思い出したが、ある午前のこと、ちょうど仕事で忙殺されていたとき、突然書類をみなわきへ押しのけて、
今日ではKはもう恥のことは忘れ、願書はどうしてもつくりあげてしまわねばならない、と思った。事務室ではそういう時間が見つからないとすれば、そしてそれはきわめてありそうなことであるが、そうなれば家で毎夜やらなければならない。夜でも十分でなければ、休暇をとらなければならない。ただ中途半端なところにとどまっていないことである。それは仕事でばかりでなく、いつでも、またどんな場合でもいちばんばかげたことだ。もとより願書というのはほとんど際限のない仕事であった。たいして心配性の人間ではなくとも、願書をいつか仕上げるというようなことはできない相談だ、というふうに思いこみやすかった。弁護士の書類完成を妨げているような怠慢とか術策とかのためではなく、現在の告訴状もそれの今後の増補もわからぬままに、きわめて細かな行動や出来事にいたるまで全生活を記憶に呼びもどし、書き表わし、あらゆる角度から検討しなければならなかったからである。そのうえ、こんな仕事はなんと
それは、小柄で元気のよい紳士で、Kがよく知っているある工場主だった。工場主は、Kの大切な仕事を邪魔したことをわび、Kのほうは、工場主をこんなに長く待たせたことをわびた。だが、このわびからして非常に機械的な調子、またはほとんど作りものの感じのする調子で言ったので、工場主がすっかり用件で夢中になっていなかったならば、それに気がついたにちがいなかった。男は気づきもしないで、急いで計算書や表をありとあらゆるポケットから引出すと、Kの前にひろげ、いろいろな項目を説明し、こうやって、ざっと見渡してさえ気がついたちょっとした計算の誤りを訂正し、一年ほども前にKと結んだ同じような仕事のことをKに思い出させ、ついでに、今度は別な銀行が
「むずかしいですね」と、Kは言い、口もとに
「ありがとう、もうみんな承知しています」
そして、またそれを机にもどした。Kはむっとして彼を横から見つめた。だが支店長代理は全然気がつかないか、気がついたにしてもかえってそれに元気づけられるかして、しばしば高笑いし、一度ぬかりのない受けこたえで工場主を明らかに当惑させ、しかしすぐ自分自身の言ったことに異論をはさんでみせて相手を当惑から解きほぐしてやり、最後に彼の事務室に来るように誘い、そこでなら用件を終りまでやれるだろう、と言った。
「これはたいへんむずかしい用件です」と、工場主に言った。「それはすっかりわかっていますから。そして業務主任さんには」||こう言いながらもほんとうはただ工場主にだけ向って話しかけるのだった||「われわれだけで片づけるほうがお気に召すでしょう。この用件は冷静に考えることが必要ですからね。ところがこの方は今日はとても忙しいらしく、もう一時間以上も幾人かの人が控室で待っていますよ」
Kはまだ、支店長代理から向き直り、愛想よさそうではあるがこわばった微笑を工場主に対してしてみせるだけの落着きを辛うじて持っていたが、そのほかのことには全然手を下すことができず、少し前かがみになって両手で机の上に身体をささえ、ちょうど机の後ろにいる売り子のような格好になり、二人が話を続けながら机から書類を取上げ、支店長室に消えてゆくのをながめていた。扉のところでなお工場主は振向き、これでお別れするのではなく、もちろん話の結果について業務主任さんにも報告するし、自分個人としてもまだほかにちょっとお話しすることがある、と言った。
やっとKはひとりになった。誰か別な客を迎えようとは全然考えず、部屋の外の人々は自分がまだ工場主と折衝中だと思いこみ、このために誰も、そして小使さえも、自分のところへはいってこないのは、なんと気持のよいことだろう、という考えが、ただ漠然と彼の意識に上ってくるのだった。窓ぎわへ行き、手すりに腰をおろして、片手を
いったい何が自分を心配させるのかもわからぬまま、彼は長いあいだそうして腰かけていた。ただときどき少しぎくりとして肩越しに控室のほうを見たが、空耳だが物音を聞いたように思ったからであった。だが誰も来ないのでいくらか落着き、洗面台に行って冷たい水で洗うと、さわやかな頭になって窓べの場所にもどってきた。弁護を自分の手で引受けようという決心が、初めに思ったよりもいっそう重要に思えた。弁護を弁護士にまかせていたうちは、まだ根本的には訴訟にほとんど関係していなかったも同然で、ただ遠くからながめていたのであって、直接それから
そして今でも、銀行のために働かねばならぬのだろうか?||彼は机の上を見やった。||今でも客を招き入れ、彼らと折衝をせねばならぬのだろうか? 訴訟が進行し、あの屋根裏部屋では裁判所の役人たちがこの訴訟の文書をめぐって集まっているのに、銀行の仕事にかまっていなければならないのだろうか? 仕事はまるで、裁判所によって公認され、訴訟と関連してそれにつきまとっている拷問のようなものではないか? およそ銀行の中にあって、自分の仕事を評価するとともに、この特殊な状態を考慮してくれる人がいるだろうか? そんなことをしてくれる人は全然ない。誰がどれくらいそれについて知っているのかはまだまったくはっきりとはしていないが、訴訟のことは全然知られていないわけではなかった。だが支店長代理のところまでは噂はまだおそらく届いてはいないらしく、もしそうでなければ、この男がきっと同僚のよしみも人情もあったものではなくそれを利用しつくす有様を、すでにはっきりと見なければならなかったことだろう。そして支店長はどうだろう? 確かに彼はおれに好意を持っており、訴訟のことを聞けば、おそらくすぐにできるだけおれのために事を容易にしてやろうとしてくれるだろうが、きっとそういう態度を貫くことはできまい。なぜならば、おれがこれまで形成していたバランスが弱まりはじめるにつれて、支店長はいよいよ代理の影響に押されることとなり、代理はそのうえ支店長の苦しい立場を自分の勢力の増強のために利用しつくしているようなやつだからだ。それゆえ、おれは何を望むべきか? おそらくこんなふうに考えることによって抵抗力を弱めることになるだろうが、自分自身を欺かず、万事を現在としてできるだけはっきりと見ることもまた必要なことだ。
格別の理由もなかったが、ただしばらくはまだ机に帰りたくはなかったので、窓をあけた。窓はなかなかあかず、両手で把手をまわさねばならなかった。やっとあけると、窓の幅と高さとだけ、
「いやな秋ですね」と、Kの背後で工場主が言ったが、支店長代理のところからもどって、気づかれずに部屋にはいってきていたのだった。Kはうなずき、不安げに工場主の書類入れを見つめた。その中から彼は今にも書類を引っ張り出し、支店長代理との交渉の結果をKに話しそうだった。だが工場主はKの視線を追い、書類入れをたたき、それをあけないで言った。
「どういうことになったか、お聞きになりたいでしょう。書類入れの中にはもう契約書がはいっているのも同然です。支店長代理さんは魅力のある人ですね。だがまったく危険のない人じゃないですが」
彼は笑ってKの手を握り、彼のことも笑わせようとした。ところがKには、工場主が書類を見せようとしないことがまたまたあやしく思われたので、工場主の言葉が少しもおかしくはなかった。
「きっと天気病みでいらっしゃるんですね? 今日はたいへんふさいでいらっしゃるようにお見受けしますが」
「そうです」と、Kは言い、両手でこめかみを押えた。「頭痛と家庭の心配です」
「まったくです」と、せわしげな人間で、人の言うことは落着いて聞けない工場主は、言った。「誰でも十字架を負わなければならんのです」
工場主を送り出そうとするかのように、Kは思わず知らず扉のほうへ一歩進んだが、工場主は言った。
「業務主任さん、あなたにもう少しお話しすることがあります。こんな日に申上げてあなたをわずらわすことはたいへん恐縮ですが、最近二度もあなたのところへまいって、いつも忘れてしまっていたものですから。でもこれ以上延ばしますとおそらく完全に役にたたなくなりましょうからね。そうなると残念ですからねえ。なぜって私の話は根本においておそらく値打ちのないものではありませんからね」
Kが答える余裕もないうちに、工場主は彼のそばに歩み寄り、指の関節で彼の胸をたたき、低い声で言った。
「あなたは訴訟にかかりあっていらっしゃるんですってね?」
Kは
「支店長代理があなたにお話ししたんですね!」
「いや、そうじゃありません」と、工場主は言った。「支店長代理が知っているわけがないでしょう?」
「ではあなたは?」と、Kはずっと落着きを取戻して言った。
「あちらこちらで裁判所のことは何かと聞きますんでね」と、工場主は言った。「お話ししようと思うことも、まさにそのことなんです」
「たくさんな人が裁判所と関係を持っているんですね!」と、Kは頭を
「お伝えすることのできることがたいして詳しくはなくて残念です。しかし、こういう事柄ではほんの少しでもおろそかにしてはなりませんからね。それに、私の尽力はささやかなものでありましょうが、あなたをなんとかしてお助けいたしたい気持に駆られておりますので。私たちはこれまで仕事の上のよい友達でしたからねえ。ところで||」
Kは今日の相談のときの自分の態度のことでわびようとしたが、工場主は黙って話を中断させてはおらず、自分は急いでいるのだということを示すために書類入れを
「あなたの訴訟のことは、ティトレリという男から知りました。画家でして、ティトレリというのはただその男の雅号ですが、ほんとうの名前は全然知りません。この男は、数年来ときどき私の事務所にやってきて、小さな絵を持ってくるんですが、||まるで
がっかりしてKはその手紙を受取り、それをポケットに押しこんだ。いちばんうまくいった場合でも、この紹介状のもたらす利益などは、工場主が自分の訴訟について知っており、画家がそのニュースをひろめてまわる、ということに含まれている損害に比べれば、比較にならぬくらい小さなことだった。もう扉のほうへ行きかけている工場主に一言二言礼を言うことも、ほとんどやる気にはなれなかった。
「行ってみますよ」と、扉のところで工場主と別れるとき、Kは言った。「あるいは、今は非常に忙しいので、一度私の事務室のほうへ来てもらいたいと書くかもしれません」
「あなたがいちばんいい
Kはうなずき、さらに控室を通って工場主について行った。だが、表面では平静を装っているものの、自分の言ったことに非常に驚いていた。ティトレリに手紙を書くだろうと言ったのは、もとよりただ工場主に対してなんとかして、紹介状はありがたく思っている、ティトレリと会う機会のことはすぐ考える、ということを示そうと思って言ったことにすぎないのだが、もしティトレリの味方が値打ちがあるものと見てとれば、ほんとうに手紙を書くことも
そのことを考えてまだ頭を振っていると、小使がそばにやってきて、この控室のベンチに腰かけていた三人の客に注意を向けさせた。彼らはすでに長いあいだKのところへ招かれるのを待っていた。小使がKと話すなり、立ち上がって、好機をとらえて誰よりも先にKの前に行こうとした。銀行側が無礼にもこの待合室で時間を空費させたもので、彼らのほうももう遠慮をしようとはしなかった。
「業務主任さん」と、早速一人が言った。だがKは小使に
「みなさんごめんなさい、今ちょうどお会いする時間がないんです。はなはだ恐縮ですがさし迫った外での用事を片づけなければなりませんので、すぐ出かけなければなりません。ごらんのとおり、今たいへん長く引留められておりましたので。明日でも、あるいはいつなり改めておいでねがえませんか。なんなら用件を電話でお話しすることにしませんか? または今手短かに何のご用件か伺っておいて、のちほど詳しく書面でお答えいたしましょう。もちろん、この次来ていただくのがいちばんよろしいのですけれど」
このKの提案は、完全にむなしく待たされたことになった三人の客を非常に驚かせたので、黙って顔を見合すばかりだった。
「それじゃあ、そうきまりましたね?」と、帽子を持ってきた小使のほうを振向いたKは、たずねた。Kの部屋のあけっ放しの扉からは、戸外で雪がたいへんひどくなったのが見えた。そこでKは外套の
ちょうどそのとき、隣室から支店長代理が出てきて、外套を着たKが客たちと言い合っているのを微笑しながらながめ、こうきいた。
「もうお帰りですか、業務主任さん?」
「そうです」と、Kは言い、身体を正した。「用件で出かけなければなりませんので」
しかし支店長代理は、すでに客たちのほうを向いていた。
「で、この方々はどうなんです?」と、きいた。「もうかなりお待ちのように思うんですが」
「もう話がきまったんです」と、Kは言った。だが客たちはもう我慢ができなくなり、Kを取囲んで、用件が重要なものでなければ、一時間も待ちはしなかったろう、そして今すぐ、それもとっくりと個人的に、話し合ってもらいたい、と述べたてた。支店長代理は彼らの言うことをしばらく聞いていたが、帽子を手に持ち、あちこち
「みなさん、たいへん簡単な
そして、自分の事務室に通じる扉をあけた。
Kが今やむなく放棄せねばならなかったものを、支店長代理はすべて我が物としてしまうことをなんと心得ていたことか! しかしKは、絶対的に必要である以上のものを放棄しなかったろうか? 不確かな、きわめて乏しいということを認めざるをえないような希望をいだきながら未知の画家のところへ行っているあいだに、銀行のほうでは彼の声望は取返しのつかぬような損害をこうむるのだった。外套をまた脱いで、まだ顔をそろえて待たされている二人の客だけでも取戻すほうが、ずっと賢明であったろう。彼の本立てで我が物顔に何か捜している支店長代理をそのとき見つけなかったなら、Kはおそらくそうしたかもしれない。Kが憤慨して扉に近づいたとき、支店長代理が叫んだ。
「ああ、まだ出かけなかったんですね」
Kのほうに顔を向け、すぐまた捜し始めるのだったが、その顔の数多くの鋭い
「契約書を捜しているんですよ」と、彼は言った。「あの商会の社長さんが、君のところにあるはずだ、と言われるんだが。捜してくれませんか?」
Kが一歩近づくと、支店長代理は言った。
「いや、ありました」
そして、契約書だけではなく、きっとほかのものもたくさん入れているにちがいない大束の書類を持って、また自分の部屋にもどっていった。
「今のところはあいつは手には負えないが、おれの個人的な
すぐ画家のところへ行った。画家は郊外に住んでいるのだったが、裁判所事務局のある例のところとは全然反対の方面であった。もっとみすぼらしい
「絵描きのティトレリっていう人いる?」
十三になるかならぬかのいくらか
「絵描きのティトレリさんって知っている?」
少女はうなずくと、今度は彼女のほうからたずねた。
「あの人になんの用事なの?」
Kには、あらかじめ少しティトレリについて知っておくことが有益に思われた。
「おじさんのことを描いてもらおうと思うんだよ」と、彼は言った。
「描いてもらうの?」と、少女はきき、やたらに大きく口をあけ、Kが何か非常に驚くべきことかまずいことかを言ったのでもあるかのように手で軽く彼をたたき、そうでなくとも短かすぎるスカートを両手でつまみ上げると、高いところで叫び声がもう聞き取れぬくらいになっているほかの子供たちの後を追って、できるだけ早く駆け上がっていった。だが階段のその次の折り返しのところで、Kはまた少女たち全部といっしょになった。明らかに佝僂の子にKの意図を教えられて、彼を待っていたのだった。階段の両側に立ち、Kがうまく通るように壁に身体を押しつけ、手でエプロンの
「おお!」と、一行がやってくるのを見て、男は叫んだ。佝僂の少女はよろこんで手をたたき、ほかの少女たちは、Kをもっと早く追いたてようとして、彼の後ろから押すのだった。
まだ登りつめないうちに、上では画家が扉を大きく開き、深く身体をかがめて、Kにはいるようにすすめた。少女たちのほうは追い払い、子供がどんなに頼んでも、また彼の許しがなければ無理にでも押し入ろうとどんなにやってみても、一人でも入れようとはしなかった。ただ佝僂の子だけが画家の伸ばした腕の下をくぐり抜けることに成功したが、彼はその子の後を追い、スカートをつかむと自分のまわりでぐるぐると引きまわし、扉の前のほかの子たちのところへ置いた。子供たちは、画家がそうして持場を離れているあいだ、それでも敷居を越してやろうとはしなかった。Kはこういう有様をどう判断すればいいのかわからなかった。すなわち、万事がまるで仲よく
「画家ティトレリです」
Kは、背後で少女たちがささやいている扉を指さして言った。
「この家ではたいへん人気がおありのようですね」
「ああ、
「この腕白たちにはほんとうに困っています」と、言葉を続けながら、いちばん上のボタンがちょうどちぎれてしまった寝巻から手を出し、椅子をひとつ持ってきて、Kにかけるようにすすめた。
「前に、あの連中の一人を||その子は今日はいなかったですが||
そのときちょうど、扉の向うでやさしい、おどおどしたような声が叫んだ。
「ティトレリさん、もうはいってもいい?」
「いけないよ」と、画家は答えた。
「あたしだけでもいけない?」と、声がまたきいた。
「いけないね」と、画家は言い、扉のところへ行き鍵をかけた。
Kはそのあいだに部屋を見まわした。このひどい小さな部屋がアトリエと呼ばれるかどうかは、言われなければひとりで思いつくものではなかった。奥行、間口ともにここでは、
鍵をまわしてしめる音は、Kに、すぐ帰るつもりだったことを思い出させた。そこで工場主の手紙をポケットから取出し、画家に渡して言った。
「あなたのお知合いのこの方からあなたのことを伺い、そのおすすめでまいったのです」
画家はさっと手紙を通読し、それをベッドの上に投げた。もし工場主がきわめてきっぱりと、ティトレリは自分の知合いで、自分の喜捨に頼ってきた貧しい人間だ、と言ったのでなかったら、この有様を見ては、ティトレリが工場主のことを知らないか、あるいは少なくとも彼のことを思い出すことができないのだ、とほんとうに考えることもできたろう。そのうえ、画家はこうきくのだった。
「絵をお買いになりたいんですか、それとも肖像を描けとおっしゃるんですか?」
Kはびっくりして画家を見つめた。いったい手紙には何が書いてあるんだろう? 自分がここに来たのはほかならない訴訟について問い合せようと思うからだ、と工場主が手紙で画家に告げているものだとばかりKは考えていた。あんまりあわてすぎ、よくも考えてみないで駆けつけたようだ! だが、こうなってはなんとか画家に答えなければならないので、画架に
「ちょうど絵のお仕事ですね?」
「そうです」と、画家は言い、画架の上にかかっていたシャツを、ベッドの手紙のほうに投げた。
「肖像画です。いい仕事ですが、まだすっかりできあがってはいません」
偶然がKに幸いし、裁判所のことを話すきっかけが、はっきりと彼に与えられたのだった。というのは、それは明らかに裁判官の肖像だったからである。ところでそれは、弁護士の事務室の絵にひどく似ていた。もちろんこれは全然別な裁判官であって、
「裁判官ですね」と、Kはすぐ言おうとしたが、しばらくはまだ控えて、細部をよく見ようとするかのように絵に近づいた。椅子の背の真ん中にある大きな像がなんであるか彼にはわからなかったので、画家にそれをきいてみた。これはもう少し手を加えなくちゃならないんです、と画家は答え、小さな机からパステルを一本持ってくると、それで少しその像の輪郭をなすったが、そうしてもKにははっきりとはわからなかった。
「正義の
「もうわかりましたよ」と、Kは言った。「ここに眼隠しの布があるし、ここに
「そうなんです」と、画家は言った。「頼まれてこう描かなくちゃならなかったんですが、ほんとうは正義の女神と勝利の女神とをひとつにしたんです」
「どうもあまりうまい取合せじゃありませんね」と、Kは微笑しながら言った。「正義はじっとしていなくちゃいけませんね。そうでないと秤が揺れて、正しい判決ができませんからね」
「その点は依頼主の注文に従ったんです」と、画家は言った。
「きっとそうでしょうね」と、自分の言葉で誰も傷つけまいとしたKは、言った。
「この像は、ほんとうに椅子にすわっているままを描かれたんですね」
「いや」と、画家は言った。「私はその像も椅子も見ませんでした。いっさい考案ですが、描くべきものは注文をつけてもらいました」
「えっ、なんですって?」と、画家の言うことがよくわからないというようにわざと装いながら、Kは言った。「でもこれは、裁判官の椅子にすわっている裁判官でしょう?」
「そうですが」と、画家は言った。「でも高い地位の裁判官じゃなくて、こんなりっぱな椅子にすわったことなんかないんです」
「それなのにこんないかめしい物腰で描いてもらうんですか? まるで裁判所の長官のようにすわっていますね」
「そうです、この人たちは虚栄心が強いんですよ」と、画家は言った。「だが、こういうふうにして描いてもらっていいという、上のほうの許可を受けているんです。誰もが、どう描いてもらっていいのかきめられているんですよ。ただこの絵では服装や椅子の細部が見分けられませんね。パステルはこういう表現には不向きです」
「そう」と、Kは言った。「パステルで描かれているのは変ですね」
「裁判官がそう望まれたんです」と、画家は言った。「これはあるご婦人にあげることになっています」
絵をながめていることが、彼に仕事をしようとする欲求を起させたらしく、シャツの袖をたくし上げ、二、三本パステルを手に取った。そしてKは、そのパステルの震える
「この裁判官はなんという人ですか?」と、彼は突然きいた。
「それは言えません」と、画家は答え、絵に深くかがみこんで、初めはあんなにも敬意をこめて迎えた客を明らかに無視するのだった。Kはそれを気まぐれと考え、それに腹をたてたが、こんなことで時間をむだにしたからであった。
「あなたはきっと裁判所とご懇意なんですね」と、彼はきいた。
画家はすぐパステルをそばに置き、身体を起し、両手をこすって、にやにやしながらKを見つめた。
「いつも、すぐに真相を言えとばかりおっしゃるんですね」と、彼は言った、「紹介状にも書いてありますが、あなたは裁判所のことが聞きたいのに、私の気をひこうとしてまず私の絵のことを話されたのですね。だが、私はそれをわるくはとりませんが、そんなことは私の場合適当じゃないってことをご存じなかったんです。いや、結構ですよ!」と、Kが何か異議をさしはさもうとすると、画家は鋭くさえぎりながら言った。そして次にこう言葉を続けた。
「ところでおっしゃったことは完全に正しいのでして、私は裁判所に信用が厚いのです」
Kにこの事実で満足する時間を与えようとするかのように、画家はちょっと
「それは公に認められた地位なんですか?」
「いや」と、Kの言葉で先の話が腰を折られたように、画家は手短かに言った。しかしKは、相手を黙らせてしまうことを望まず、言った。
「で、そういうような認められていない地位のほうが認められているのよりも有力なことが、往々ありますね」
「それはまさしく私の場合がそうですね」と、画家は額に
「私は昨日工場主とあなたの事件について話しましたが、あの方が私に、あなたのことをお助けする気はあるか、とききましたので、『その方は一度私のところへ来ていただくといいんですが』と、お答えしました。で、あなたがこんなに早く来てくだすって、うれしいことです。事柄はあなたをたいへん悲しませているようですが、それについては私ももちろん不思議とは思いません。まず外套でもお脱ぎになったらどうですか?」
Kはただほんの少しだけここにとどまるつもりだったが、画家のこのすすめは大いにありがたかった。部屋の空気が彼には次第にうっとうしくなってきたが、もうこれまでに何回か不思議に思いながら、部屋の
「私は暖かくなけりゃいけないんです。だがここはたいへん気持がよろしいでしょう? 部屋はこの点、実に場所がいいんです」
それに対してKは何も言わなかったが、彼を不快にしたのはほんとうは暖かさではなく、むしろこもった、息苦しくさせられるような空気のためであり、部屋はずっと前から換気されていないにちがいなかった。Kのこの気分のわるさは、画家が自分ではこの部屋で唯一の椅子にすわって画架の前に構えていながら、Kにはベッドの上にすわるようすすめたので、いよいよ強まったのだった。そればかりではなく、Kがベッドのほんの端にすわっている理由を画家は誤解したらしく、かえってKに、どうかお楽にしてくださいとすすめ、Kが
「あなたは潔白ですか?」と、彼はきいた。
「そうです」と、Kは言った。
この質問への返事はKを心からよろこばせた。ことにそれが、一人の私人に対して、したがってなんらの責任もなく言えたためであった。まだ誰も彼にこんなにあけすけにたずねたものはなかった。このよろこびを味わいつくすために、彼は言葉を足した。
「私はまったく潔白なのです」
「そうですか」と、画家は言い、頭を垂れて、考えこむ面持だった。突然また頭をもたげると、言った。
「もし潔白なら、事はきわめて簡単です」
Kの眼差は曇った。この裁判所に信用が厚いと称する男は、無邪気な子供みたいなことを言う、と思った。
「私が潔白だからといって、事は簡単にはならないでしょう」と、Kは言った。それでも微笑せずにはおられず、ゆっくりと頭を振った。「裁判所が没頭しているたくさんの細かいことと関係がありますからね。ところで結局、本来は全然何もなかったはずなのに、どこからか大きな罪が出てくるのですよ」
「そう、そう、確かに」と、まるでKが自分の考えていることに
「でもあなたは潔白ですね?」
「そりゃそうですよ」と、Kが言った。
「それがいちばん大切なことですからね」と、画家が言った。
「あなたは確かに裁判所のことを私よりずっとよくご存じですし、私は、もちろんさまざまな人からですが、それについて聞いたこと以上にはほとんど知っていません。だがすべての人々の言うことは、軽率な告訴などは提起されないし、裁判所は一度告訴したとなると、被告の罪について固く確信し、この確信を取除くことは容易でない、ということではみな一致していますよ」
「容易でないですって?」と、画家はきき返し、片手を高く振った。
「いやけっして裁判所はそういう確信を取除かれませんね。この部屋で一枚のカンバスの上にすべての裁判官を並べて描き、あなたがそのカンバスの前で自分を弁護されたほうが、現実の裁判所でよりもずっと効果をあげられますよ」
「そうでしょう」と、Kはつぶやき、自分は画家をただちょっと探ってみようとしたのだったということを忘れていた。
扉の向うでは、また一人の少女がききはじめた。
「ティトレリさん、お客さんはすぐ帰らないの?」
「みんな黙っていな!」と、画家は扉のほうに向って叫んだ。「お客さんとお話中だっていうことがわからないのか?」
しかし、少女はこの返事では満足せず、またきいた。
「おじさん、その人のこと
それに続いて、はっきりとはしない、賛成するような叫びが入り乱れて聞えた。画家は扉に飛んでゆき、ほんの少しだけ
「静かにしないと、みんな階段から投げおろしてやるぞ。この階段にすわって、おとなしくしていなさい」
おそらく子供たちはすぐには聞かなかったようで、画家は命令しなければならなかった。
「階段にすわるんだ!」
するとやっと、静かになった。
「ごめんなさい」と、Kのところへまたもどってくると、画家は言った。
Kは扉のほうにはほとんど向かず、相手が自分を守ろうと思っているのか、またどうやって守るつもりなのか、完全に画家にまかせていた。彼は今度もほとんど身動きせずにいたが、画家が彼のほうに身をかがめ、室外には聞かれないようにして彼の耳にささやいた。
「この女の子たちも裁判所に属しているんです」
「なんですって?」と、Kはきき、頭をわきに
「まったくすべてが裁判所に属していますからねえ」
「そいつはまだ気がつきませんでした」と、Kは手短かに言った。画家の一般的な言いかたは、少女たちについてのヒントから不安な点をいっさい取除いていた。それでもKはしばらく扉のほうを見ていたが、その向うでは子供たちは今度は静かにして階段にすわっていた。ただ一人だけが、角材のあいだの裂目から一本の
「裁判所についての大要をまだご存じないようですね」と、画家は言い、両脚を大きくひろげ、爪先で床の上をぱちっと打った。「でもあなたは潔白なんだから、そんなものは必要としないでしょう。私ひとりであなたを助け出しますよ」
「どうやろうとおっしゃるんですか?」と、Kがきいた。「どんな論拠も裁判所にはむだだ、とほんの少し前ご自分で言われたばかりじゃありませんか」
「裁判所に持ち出されるような論拠だけがだめなんですよ」と、画家は言い、Kが微妙なある相違に気づいていないというように、人差指を上げた。「でも、この点について公の裁判所の背後、したがって評議室や廊下や、あるいはたとえばこのアトリエで試みることは、それとは事情が別なんです」
画家の今言ったことは、Kにはもはやそれほど信じられぬことのようには思われず、それはむしろ、Kがほかの人々からも聞いたことと多くの一致を示していた。まったく、大いに有望でさえあった。裁判官がほんとうに、弁護士が言ったように容易に個人的な関係によって動かされるものならば、虚栄心の強い裁判官たちに対する画家の関係は特に重要であり、いずれにせよ過小に評価はできなかった。それからこの画家は、Kが次第に自分の身のまわりに集めた一群の援助者のうちでも、大いに板についていた。一度銀行で彼の組織力がほめられたことがあったが、まったくひとりになって自分だけに
「私がほとんど法律家のようにお話しすることを変にお思いじゃありませんか? 私がこんなに影響を受けているのは、裁判所の方々としょっちゅうお付合いをしているからなんです。もちろん、その利益もたくさんありますが、芸術的高揚は大部分消えてしまいますね」
「いったいどうやって初めて裁判官たちと結びつくようになられたのです?」と、Kは言ったが、画家をすっかり自分の仕事で使う前に、まずその信用を獲得しようと思ったのだった。
「非常に簡単なんですよ」と、画家は言った。「この結びつきは親譲りなんです。私の父がすでに裁判所の画家でした。それは、代から代へと伝えられてゆく地位なんです。このために新しい人間は使うことができません。すなわち、さまざまな役人の階級を描くためには、非常に多種多様な、そして何よりもまず秘密な規則が立てられているため、それらの規則はおよそある一定の家以外にはわかっていないのです。たとえば、あそこの引出しの中に父の手記がありますが、私は誰にも見せません。ところがそれを知っている者だけが、裁判官を描くことができるのです。けれど、私がこの手記をなくしても、私だけが自分の頭に畳んでいるたくさんの規則がありますので、誰も私の地位を私と争うことはできやしません。どんな裁判官も、昔の偉大な裁判官が描かれているように描かれたいのでして、それができるのは私だけです」
「それは
「そうです、微動もしません」と、画家は言い、誇らしげに肩をそびやかした。「それだからこそ、訴訟にひっかかっている哀れな男をそこここで助けてやろうという気にもなれるんですよ」
「で、どうやってそれができるんですか?」と、画家が今哀れな男と言ったのは自分ではないかのように、Kは言った。しかし画家は、話を脇道にそらさせてはいないで、言った。
「たとえばあなたの場合なら、あなたは完全に潔白なんだから、次のようなことをやってみようと思います」
自分が潔白であることを繰返して言われることが、Kにはすっかりわずらわしくなっていた。こんなことを言って画家は訴訟がうまく片づくことを自分の援助の前提にしているが、もちろんそんなことでは援助も
画家は椅子をベッドに近寄せて、声を低めて語り続けた。
「どんな種類の釈放を望まれるのか、まずお聞きしておくのをすっかり忘れていました。三つの可能性があって、ほんとうの無罪、外見上の無罪、それから引延ばし、となっています。もちろん、ほんとうの無罪がいちばんいいわけですが、ただ私にはこの種の解決をやれる力は少しもないのです。私の考えでは、ほんとうの無罪に持ってゆける力のある人は、およそ一人もいないと思います。この場合に決定力を持っているのはおそらく被告が潔白なことでしょう。あなたは潔白なのですから、おひとりであなたの潔白なことを頼りにすることも、実際できるわけです。それならあなたは私も
この整然たる言いかたは、初めはKを
「あなたは矛盾に陥っておられる、と思いますね」
「なぜですか?」と、画家は我慢強くきき、にやにやしながら椅子にもたれかかった。この薄笑いがKに、画家の言葉の中にではなく、裁判手続きそのものの中に矛盾を見いだすことに今や取りかかっているのだ、という感情をいだかせた。それでもたじろいではおらずに、言った。
「あなたは初めには、裁判所にはどんな論拠も歯がたたないと言われ、次に、ただしこれは公開の裁判の場合だけのことで裏には裏があるのだ、と言われたが、今度は、潔白な者は裁判所に対してなんらの援助も要らない、とさえ言われるのです。この中にすでに矛盾があります。そのうえ、裁判官には個人的に働きかけることができる、と前には言われたのに、今度は前言を否定して、あなたの言われるほんとうの無罪はとうてい個人的な働きかけで手に入れることができないものだ、と言っておられる。その点に第二の矛盾があります」
「そんな矛盾はたやすく説明できますよ」と、画家が言った。「ここでは二つのちがった事柄が話に出ているので、法律に書いてあることと、私が個人的に経験したことと、それを混同しちゃいけませんよ。法律には、もっとも私は読んだことはありませんが、もちろん一面では、罪のないものは無罪とされる、と書いてあるが、他面、裁判官は手を使えば動かせる、とは書いてないでしょう。ところが私はその全然反対を経験したのでした。ほんとうの無罪宣告なんかひとつも知らないが、裁判官を動かした例はたくさん知っています。もちろん、私の知っている事件には無罪の場合がなかったのだ、ということもありえます。でもそんなことはありそうもないことじゃありませんか? あんなにたくさんの事件にただのひとつの無罪もないものでしょうか? すでに子供のときに、父親が家で訴訟のことを話すのを聞きましたし、父のアトリエにやってくる裁判官たちも、裁判のことを話したものです。私たちのサークルでは、およそほかのことなんか話さないのです。自分で裁判所に行く機会があるようになるとすぐ、私はそういう機会をいつも利用しつくし、無数の訴訟を重要な段階で傍聴し、眼で見ることのできるかぎりはそれを追っかけてきました。それなのに||私は告白しなければなりませんが||ほんとうの無罪宣告なんか出会ったためしがないのです」
「ただの一度も無罪宣告に出会ったことがないというわけですね」と、自分自身と自分の希望とに言い聞かすように、Kは言った。「ですがそのことは、裁判所について私がすでにいだいていた考えを裏書きするものです。ですから裁判所は、この面からも無用なわけですね。ただ一人の
「そう一般的な言いかたをしちゃいけません」と、画家は不満げに言った。「私はただ自分の経験のことを言ったんですから」
「でもそれで十分ですよ」と、Kは言った。「それとも以前に無罪宣告があったことを聞かれたことがあるんですか?」
「そういう無罪宣告は」と、画家は答えた。「もちろんあったはずです。ただ、それを確かめることがむずかしいだけです。裁判所の終局の決定は公開されませんし、それは裁判官にも近づきがたいものなので、そのため昔の判例についてはただ伝説が残っているだけなんです。こうした伝説はもちろんほんとうの無罪宣告を多数含んでさえいて、信じることはできましょうが、証明することはできないのです。それでも全然無視することはできないのでして、ある種の真実は確かに含んでいますし、またたいへん美しいので、私自身も、このような伝説を内容としているいくつかの絵を描いたようなわけです」
「単なる伝説じゃ私の意見を変えられませんね」と、Kは言った。「きっと裁判所の前に出たら、こういう伝説を引合いに出すわけにもいきますまいしね?」
画家は笑った。
「そう、それはできませんね」と、彼は言った。
「それじゃ、そんなことについてしゃべるのも無益なわけです」と、Kは言い、画家の意見がありそうもないことだと思われ、またほかの意見と矛盾している場合でも、まずしばらくはみな受入れておこうと思った。画家が言ったことすべてを真相かどうか確かめたり、あるいは全然
「それじゃほんとうの無罪宣告のことは除外するとして、もう二つの別な可能性のことを話すとしましょう」
「外見上の無罪宣告と引延ばし作戦とです。それだけが問題になりますね」と、画家は言った。「だが、その話をする前に、上着をお脱ぎになりませんか? きっとお暑いでしょう」
「そうですね」と、Kは言ったが、これまでは画家の説明だけにしか気を配っていなかったのに、今は暑さを思い出さされたため、ひどい汗が額の上ににじみ出てきた。「ほとんど耐えられませんね」
画家は、いかにもKの不快がよくわかるというようにうなずいた。
「窓をあけてはいけませんか」と、Kがきいた。
「だめです」と、画家が言った。「ただガラス板をしっかりはめてあるだけですから、あけられないのです」
Kはそこでやっと、画家か自分が突然窓ぎわに行き、窓をあけ放つという場合のことを今までずっと期待していたのだ、ということに気がついた。実は、霧でも口いっぱいに吸いこもうと待ちかまえていたのだった。この部屋で空気から完全に
「これじゃまったく気分もわるいし、健康にもわるいでしょうね」
「いや、そんなことはありません」と、画家は自分の窓を弁護するために言った。「窓があかないため、ただのガラス一枚だけなんですが、この部屋では二重窓よりもよく暖かさが保たれます。たいして必要じゃないんですが、換気をしようと思えば、材木の隙間のどこからでも空気がはいってきますんで、扉をひとつか、あるいは両方でもあければいいんです」
Kはこの説明で少し安心させられ、画家の言う第二の扉はどこにあるかと、あたりを見まわした。画家はその有様に気づき、言った。
「扉はあなたの後ろにありますが、ベッドでふさがなけりゃならなかったんです」
今やっとKは壁の小さな扉を見た。
「この部屋ではすべてがアトリエにしちゃあんまり小さすぎるんです」と、Kの非難に先まわりしようとするように、画家が言った。
「できるだけうまく配置をしなけりゃならなかったんです。扉の前にベッドじゃ、もちろんたいへんまずい場所にあるわけです。たとえば、私が今
この話のあいだじゅう、上着を脱ぐべきかどうか、Kは考えていたが、もしそうしなければ、この部屋にこれ以上とどまることはできない、ととうとう見てとったので、上着を脱いだが、用談が終ったらまた着ることができるように、
「上着を脱いじゃったわよ!」そして、この見ものを自分でも見ようとして、子供たちはみな隙間にひしめき集まった。
「子供たちはつまり」と、画家が言った。「私があなたのことを描くので、あなたが上着を脱がれたのだ、と思いこんでいるんです」
「そうですか」と、Kは言ったが、腕まくりになってすわっているものの、前よりたいして気持がよくならないので、相手の言葉をほとんどおもしろいとも思わなかった。まるでぶつぶつ言うように、彼は言った。
「ほかの二つの可能性というのはなんでしたっけね?」
その言いかたをまたもう忘れていたのだった。
「外見上の無罪宣告と引延ばし作戦とです」と、画家は言った。「どちらを選ぶかは、あなた次第です。いずれにせよ私が援助すればできることですが、もちろん骨が折れぬわけじゃありません。この点のちがいというのは、外見上の無罪宣告のほうは一時に集中した努力が必要ですし、引延ばしのほうはずっと少ないが、長く続く努力が必要だ、というところにあります。そこでまず外見上の無罪宣告のほうです。あなたがこれをお望みと言われるなら、私は全紙一枚にあなたの潔白なるゆえんの証明書をあげます。こういう証明書の型は父から伝えられていて、全然文句をつけられないものです。ところでこの証明書を持って、私の知っている裁判官のところをまわり歩くんです。そこでたとえば、今描いている裁判官が今晩モデルになりにここへ来たときに、その証明書を見せてやる、ということから始めるんです。私は彼にその証明書を見せ、あなたが無罪だということを言明し、あなたの無罪を保証してやります。だがそいつは、単に外面的ではなくて、ほんとうの、拘束力のある保証なんですよ」
画家の眼つきの中には、Kが自分にこんな保証をするという重荷を負わせようとしているのだ、と言わんばかりの非難めいたものが浮んでいた。
「まったく大いにありがたいことです」と、Kは言った。「で、裁判官があなたを信じても、私にはほんとうの無罪を宣告してくれないんじゃありませんか?」
「すでに申しましたように」と、画家は答えた。「もとより、どの裁判官も私を信じてくれるかどうかはまったく確実なわけでなく、たとえば多くの裁判官は、あなたご自身をお連れすることを要求するでしょう。そうしたらあなたには一度ごいっしょに行っていただかなければなりません。もちろんこうなれば事はすでに半ばはうまくいったようなものです。ことに私はもちろん、問題の裁判官のところでどう振舞わなけりゃならないかっていうようなことは、前もって詳しくお教えしておきますからね。それよりまずいのは、||これも起るかもしれないんですが||私のことを初めから受けつけてくれない裁判官たちの場合です。こういう連中は、もちろん私はいろいろやってはみますが、あきらめることで、なに、そうやっても大丈夫なんです。なにしろ個々の裁判官が事を決定するわけじゃありませんからね。さてこの証明書に十分な数の裁判官の署名をもらったら、この証明書を携えて、まさにあなたの訴訟をやっている裁判官のところへ行きます。おそらくその署名ももらえましょうが、そうなれば万事はそれまでより少しは早く運んでゆくというものです。だがこうなればもう一般にはたいして妨害もなく、被告たちにとっていちばん確信の持てる時期なんです。変ではありますがほんとうのところ、人々はこの時期のほうが無罪宣告の
「そうなれば自由というわけですね」と、Kは
「そうです」と、画家は言った。「しかしただ外見上だけ自由、あるいはいっそううまく言えば、しばらくのあいだの自由なんです。つまり、私の知人であるいちばん下のほうの裁判官たちは、最後的に無罪を宣告する権限がなく、そういう権限はただいちばん上の、あなたにも私にも、私たちすべてにとってまったく手の届かない裁判所だけが握っているのです。そこがどういうものかは、私たちにはわかりませんし、ついでに申しておけば、知ろうとも思わないんです。そこで、告訴から解放する大きな権限は私たちの裁判官も持っていませんが、彼らは確かに、告訴からゆるめる権限は持っているんです。すなわち、あなたがこういうふうにして無罪を宣告されると、あなたは一時告訴から離れますが、告訴はその後もあなたの上に漂っていて、上からの命令があり次第、すぐに効力を発生するんです。私は裁判所と非常に深い結びつきにありますから、またあなたに申上げられますが、裁判所事務局に対する規定中には、ほんとうの無罪宣告と外見上のとの区別は、純粋に外面的に示されているだけです。ほんとうの無罪宣告の場合には、訴訟文書は完全に廃棄され、手続きからすっかり姿を消し、告訴だけでなく、訴訟も、無罪宣告も取消され、いっさいが取消されるのです。外見上の無罪宣告となるのと別です。文書について言うと、無罪の証明、無罪の宣告、そして無罪宣告の理由についていよいよ文書がふえるという以外の変化は起らないのです。ところで文書は依然として手続き中ですから、裁判所事務局間の絶え間のない交渉によって要求されるままに上級各裁判所に送りこまれ、下級裁判所に差戻しになり、大小の振れ、長短の滞りによって上下に揺れるわけです。これらの道程は予測がつきません。外側から見ると、ときどきは、いっさいがずっと前から忘れられ、文書は紛失し、無罪宣告は完全なもののように見えます。だが、事情に明るい人間ならば、そんなことは信じません。文書は紛失したわけでなく、裁判所が忘れることなどありえません、いつか||誰もそれを期待しないわけですが||裁判官の誰かが文書を注意深く手に取り、この事件においては告訴がまだ生きていることを認め、即時逮捕を手配します。ここで私は、外見上の無罪宣告と新しい逮捕とのあいだには長時間が経過するということを認めたわけでして、それはありうることで、私もそういう場合をいろいろ知ってはおりますが、無罪を宣告された者が裁判所から家に帰ってみると、彼をまた逮捕するという命令を受けた人間が家で待っている、ということも同じようにありうることなんです。こうなればもちろん、自由な生活は終りです」
「そして訴訟は改めて始まるんですか?」と、Kはほとんど信じられないできいた。
「もちろん」と、画家は言った。「訴訟は改めて始まるんですが、また前と同様に外見上の無罪宣告を受ける可能性があるわけです。また全力を集中すべきで、けっして降参してはいけません」
最後の言葉を画家が言ったのは、おそらく、少しげっそりしてしまったKが彼に与えた印象を考慮に入れてのことであった。
「ですが」と、画家が何か暴露することに先まわりするかのように、Kはきいた。「第二の無罪宣告を受けることは、最初の場合のよりもむずかしいんじゃありませんか?」
「この点では」と、画家が答えた。「なんともはっきりしたことは言えません。あなたはきっと、裁判官たちが第二の逮捕というんで、被告のために判決でなんらかの影響を受けるのではないか、とおっしゃるんでしょう? そういうことはありません。裁判官たちはすでに最初の無罪宣告の際にこの逮捕を予見していたのです。ですからこういう状態はほとんど影響力を持つことはありません。しかし、そのほかの無数の理由から、裁判官たちの気持や事件に対する法律的判断が別になっている場合もありますし、第二の無罪宣告のための努力は、変化した情況に適合させられなければなりませんし、一般的に言って、最初の無罪宣告の前と同じように力を尽してやられなくてはなりません」
「でも、この第二の無罪宣告もまた、終りというわけじゃないんでしょうね」と、Kは言い、それを拒むかのように頭をめぐらした。
「もちろんそうじゃありません」と、画家は言った。「第二の無罪宣告には第三の逮捕が続き、第三の無罪宣告の次には第四の逮捕と続いてゆきます。そのことは外見上の無罪宣告という言葉の中に含まれているわけです」
Kは黙っていた。
「外見上の無罪宣告は、あなたには明らかに有利でないように見えますね」と、画家が言った。「おそらくあなたには引延ばしのほうがいっそうよくあてはまるでしょう。引延ばしなるものの本質を説明してさしあげましょうか?」
Kはうなずいた。画家はゆったりと椅子によりかかり、寝巻のシャツをはだけ、片手をその中に差しこんで、それで胸と
「引延ばしというのは」と、画家は言い、完全に適切な説明を捜しているようにしばらく前方を見つめるのだった。「引延ばしというのは、訴訟が引続いていちばん低い訴訟段階に引留められることを言うのです。これをうまくやるには、被告と援助者、特に援助者のほうが、裁判所と絶えず個人的な接触を保つことが必要です。繰返して申上げますが、この場合には外見上の無罪宣告を受けるときのような労力は必要ではありませんが、もっとずっと注意力が必要です。訴訟を絶えず眼から離さぬようにし、担当裁判官のところへ規則的に時間を隔て、またさらに特別なことのあるときには出向き、こういうふうにして親しみを持たせるように努めなければなりません。裁判官と個人的に知り合っていなければ、知合いの裁判官を通じて圧力をかけてやるとともに、そうだからといって直接の話し合いをあきらめてしまわないことです。この点を怠らなければ、訴訟は最初の段階を
最後の言葉がまだ語られているうちに、Kは上着を腕にかけて、立ち上がった。
「立っちゃったわよ!」と、すぐさま扉の外で叫び声がした。
「もうお帰りですか?」と、自分も立ち上がった画家が言った。「きっと空気のせいで部屋にはいたたまれなくなられたんでしょう。たいへん残念なことです。まだたくさんお話しせねばならなかったのに。もっと手短かに申上げねばならないところでした。でも、おそらくおわかりになっていただけたものと思います」
「ええ、そうですとも」と、Kは言ったが、聞くために無理にしていた努力で、頭が痛かった。こう保証してやったのに、画家は、帰路のKに慰めを与えてやろうとするように、これまで言ったことをみなもう一度取りまとめるため、言うのだった。
「二つの方法には、被告の有罪判決を妨げるという共通点があります」
「しかし、ほんとうの無罪宣告というものも妨げてしまいますね」と、自分がそれに気づいたことを恥じるように、Kは低い声で言った。
「あなたは事の核心を握られました」と、画家は早口に言った。
Kは
「私の提案についてまだ決心されていらっしゃらないようにお見受けします。それはごもっともだと思います。私も、すぐ決心することはなさらぬようにとさえ、おすすめしたのですからね。長所と短所とが紙一重なんです。万事詳しく見積ってみなければなりません。もちろんあまり時間を失うことはできませんが」
「またすぐまいります」と、Kは言い、急に決心して上着を着、外套を肩の上にひっかけ、扉のほうに急いだが、扉の後ろでは子供たちが叫びはじめた。Kには、叫んでいる少女たちが扉を通して見えるような気がした。
「だがお約束は守っていただきます」と、Kを送ってついては来なかったが、画家は言った。「でないと、自分から伺いに銀行に行きますよ」
「どうか扉をあけてください」と、Kは言い、
「子供たちがうるさいですが、いいですか?」と、画家はきいた。「むしろこの出口をお使いになったらどうですか」と、ベッドの後ろの扉を示した。
Kは合点とばかりベッドまで飛んでもどってきた。ところがそこの扉をあけもしないで、画家はベッドの下にもぐりこみ、下からきいた。
「もうちょっとお待ちください。絵をひとつ見ていただけませんか? なんならあなたにお譲りしてもいいですよ」
Kは、無愛想にもできない、と思った。なにしろ画家は自分のことを引受けてくれ、今後も援助すると約束もしてくれたのだが、自分が忘れっぽいため援助に対する報酬のことをも全然言ってはなかったし、
「荒野の風景です」と、画家は言い、Kにその絵を手渡した。二本の弱々しげな樹が描かれていて、はるかな距離をおいて黒ずんだ草の中に立っていた。背景は多彩な日没の光景だった。
「いいですね」と、Kは言った。「いただきましょう」
Kは考えもなしにひどく手短かに言ったが、画家がその言葉を別にわるくもとらず、二番目の絵を床から取上げたので、ほっとしたのだった。
「これはその絵とは反対傾向の作品です」と、画家が言った。反対傾向の作品のつもりだったのだろうが、最初の絵に比べて少しのちがいも認められず、ここには樹々があり、ここには草があり、そこには日没がある、というようなものだった。だがKにはそんなことはどうでもよかった。
「美しい風景ですね」と、彼は言った。「両方いただき、事務室にかけましょう」
「モチーフが気に入られたようですね」と、画家は言い、第三の絵を持ち出し、「幸いなことに、ここにも同じような絵があります」
ところが同じようなどころでなく、むしろ完全に同じ荒野の風景だった。画家は、古い絵を売るこの機会を存分に利用したのだった。
「これもいただきましょう」と、Kは言った。「三枚でいかほどでしょう?」
「ま、その話はこの次にしましょう」と、画家は言った。「お急ぎのようですし、私たちはどうせ連絡があるわけですからね。ともかく、絵が気に入られてうれしいことです。ここの下にある絵をみな差上げましょう。みな荒野の風景ばかりですが、もうこれまでにたくさんの荒野の風景を描きました。多くの人は、
しかし、Kは乞食画家の職業体験などには全然興味がなかった。
「みんな包んでください!」と、画家の話をさえぎって、彼は叫んだ。「明日小使が来て、持っていきますから」
「いや、それにはおよびません」と、画家が言った。「おそらく、すぐあなたと行ってくれる運び手をご用だてできるでしょう」
そしてついにベッドの上に身をかがめると、扉をあけた。
「ご遠慮なくベッドの上にお乗りください」と、画家は言った。「ここに来る人は誰でもそうするんですから」
こうすすめられなくともKも遠慮をするつもりはなく、片足を羽根布団の真ん中に置いていたが、あいた扉を通して向うを見て、足をまた引っこめた。
「あれはなんです?」と、彼は画家にきいた。
「何を驚いておられるんです?」と、画家のほうもKの有様に驚いて、きいた。「あれは裁判所事務局ですよ。ここに裁判所事務局があることをご存じなかったんですか? 裁判所事務局はほとんどどの屋根裏にもありますから、どうしてここにだけあってはならないということがありましょう? 私のアトリエもほんとうは裁判所事務局のものなんですが、裁判所が私に用だててくれているんです」
ここに裁判所事務局を見つけたことにKはたいして驚きはしなかったが、主として自分自身、自分の
「もうお供できませんよ!」と、子供たちに押しつけられて笑いながら、画家が叫んだ。
「さようなら! あまり長く考えこんでいないようにしてください!」
Kは二度と画家のほうを振向かなかった。
小路に出て、出会った最初の馬車に乗った。廷丁を追い払うことが彼には問題だった。普通ならばおそらく誰にも目だつような男ではないが、廷丁の金ボタンが絶えず眼にはいってたまらなかった。いかにも職務大事といわんばかりに、廷丁は御者台にすわろうとした。だがKは彼を追い払っておろした。Kが銀行の前に着いたときは、正午はもうとっくに過ぎていた。絵は車の中にほっぽらかしにしたかったが、いつかの機会に画家に向って、この絵を持って帰れと言う必要に迫られることがあろうか、と思った。そこでそれを事務室に持ちこませ、少なくともここ数日は支店長代理の眼を逃れることができるように、机の一番下の引出しに鍵をかけて入れた。
ついにKは、弁護士に自分の代理をさせることをやめる決心をした。こういうふうに振舞うことが果して正しいだろうか、という疑念は根絶できなかったが、それが必要であるという確信が勝ちを占めた。弁護士のところへ行こうという日になって、その決心は彼から仕事する能力を大いに奪い、ことに遅い仕事の運びのため、きわめて遅くまで事務室に居残らなければならず、やっと弁護士の
弁護士の扉のベルを鳴らしても、最初は例のごとくむなしかった。
「レーニのやつ、もっと早くできようものを」と、Kは考えた。それでも、寝巻姿の男かあるいはほかの誰かが自分をわずらわすことになるのであれ、いつものようにほかの依頼人がはいりこむのでなければ、それだけでもまだましだった。Kは二度目にボタンを押しながらもうひとつの扉を振向いてみると、今日はこれもしまったままだった。ついに弁護士の扉ののぞき窓に二つの眼が現われたが、レーニの眼ではなかった。誰かが扉をあけたが、しばらくはまだ扉を押えていて、居間のほうに向って叫んだ。
「あの人だよ!」
そして、それからやっと完全にあけた。Kは、その背後のほかの居間の扉で
「ここに雇われているんですか?」と、Kはきいた。
「いや」と、男は答えた。「この家の者ではありません。弁護士さんは私の代理人でして、ある法律問題のためにここに来ているんです」
「上着も着ておられませんが?」と、Kはきき、手振りでその男のしどけない身なりを指さした。
「ああ、お許しください!」と、男は言い、彼自身初めて自分の格好をながめるように、蝋燭で自分を照らした。
「レーニはあなたの恋人ですか?」と、Kは手短かにきいた。両脚を少し開き、帽子を持った両手を背後で組んでいた。
「とんでもないことです」と、相手は言い、驚いて身を守るように手を顔の前にあげた。「どうして、どうして、いったい何を考えておられるんですか?」
「まあ信用しておきましょう」と、Kはにやにやしながら言った。「それはそうとして||いらっしゃい」
彼は帽子で男に合図をし、先に立ってゆかせた。
「なんというお名前ですか?」と、歩きながらKはきいた。
「ブロック、商人のブロックです」と、小男は言い、こう名乗りながらKのほうに向き直ったが、Kは相手を立ち止らせてはおかなかった。
「ほんとうのお名前ですか?」と、Kはきいた。
「そうですとも」というのが返事だった。「どうしてお
「お名前をお隠しになる理由がおありだろうと思いましたんでね」と、Kは言った。
彼はきわめて自由な気分だったが、こんなふうになれるのは、普通ならばただ、見知らぬ土地で卑しい連中と話していて、自分自身に関することはいっさい自分の胸に納めておき、ただ落着きはらって他人の利害のことをしゃべり、それによって相手をおだて上げたり、また思いのままに突き落すことができるときにだけやれることである。弁護士の事務室の扉のところでは立ち止り、扉をあけ、おとなしくついてきた商人に向って叫んだ。
「そんなに急がないでください! ここを照らしてくれませんか?」
Kは、レーニがこの部屋に隠れていまいかと思い、商人に
「あれを知っていますか?」と、彼はきき、人差指で高いところを示した。
商人は蝋燭を掲げ、眼をぱちくりさせながら見上げて、言った。
「裁判官です」
「位の高い裁判官ですか?」と、Kはきき、その絵が商人に与えた印象を観察するため、商人の側にまわった。商人は感嘆しながら見上げていた。
「位の高い裁判官ですね」と、彼は言った。
「あなたもたいして眼がきかないですね」と、Kは言った。「位の低い予審判事のうちでもいちばん低いやつですよ」
「ああ、思い出しました」と、商人は言い、蝋燭を下げ、「私もそんなことを聞きましたっけ」
「そりゃあもちろんね」と、Kは叫んだ。「すっかり忘れていました、もちろんあなたもお聞きになっているにちがいありませんね」
「だが、なぜもちろんなんですか、いったいなぜ?」と、Kに両手で追い立てられて扉のところまで動いてゆきながら、商人はきいた。廊下に出て、Kは言った。
「どこにレーニが隠れているかご存じでしょう?」
「隠れているですって?」と商人は言った。「そんなことはわかりませんが、台所に行って、弁護士さんにスープをつくっているのでしょう」
「なぜすぐおっしゃってくださらないのです?」と、Kがきいた。
「あなたをお連れしようと思ったのに、私のことを呼びもどされたものですから」と、矛盾する命令に混乱させられてしまったように商人は答えた。
「きっとうまくやったと思っているんでしょう」と、Kは言った。「とにかく連れていってください!」
台所にKは行ったことはなかったが、驚くほど大きく、設備が整っていた。炉だけでも普通の炉の三倍も大きかったが、入口のところにかかっている小さなランプだけで台所が照らされているので、ほかのものは細かなところがわからなかった。炉のそばにレーニは例のごとく白いエプロン姿で立ち、アルコールランプの上にかかっている
「今晩は、ヨーゼフ」と、横眼を使いながら彼女は言った。
「今晩は」と、Kは言い、片手でわきにある椅子を示し、商人にすわるように合図をすると、彼は言われるままにすわった。だがKはレーニのすぐ後ろに行き、肩の上に身をかがめ、きいた。「あの男は誰なの?」
レーニは片手でKを抱き、もう片方の手でスープをかきまぜながら、彼を引きつけて、言った。
「ブロックっていう、かわいそうな人で、貧弱な商人なのよ。まああの人を見てごらんなさい」
二人は振返った。商人はKに示された椅子にすわり、もう
「君は下着姿だったぜ」と、Kは言い、手で女の頭をまた炉のほうに向けた。女は黙っていた。
「恋人なのかい?」と、Kがきいた。女はスープ鍋をつかもうとしたが、Kはその両手を取って、言った。
「返事をするんだ!」
「事務室へいらっしゃいよ、みんなお話ししてあげるわ」と、女は言った。
「いや」と、Kは言った。「ここで話してもらいたいね」
女は彼にしがみつき、
「今、接吻なんかしてもらいたくはない」
「ヨーゼフ」と、レーニは言い、懇願するようにだが真っ向からKの眼を見た。「ブロックにやきもちなんか焼いちゃいけないわ。||ルーディ」と、商人のほうを向いて言うのだった、「あたしを助けてちょうだい。ねえ、あたし疑られているのよ、蝋燭なんか置いて」
商人は気をつけていなかったと思われるのだったが、まったくよく事情をのみこんでいた。
「なぜあなたがやきもちなんか焼くのか、私にもわかりませんね」と、ほとんど刃向う様子もなく言った。
「私にもほんとうはわかりませんよ」と、Kは言い、微笑しながら商人を見つめた。
レーニは高笑いして、Kが気がつかないでいるのを利用して、彼の腕の中にはいりこみ、ささやいた。
「もうあんな人放っておきなさいな。どんな人かごらんになったでしょう。あたしが少しあの人の面倒をみるのは、弁護士の
彼が外套を脱ぐのを助け、彼から帽子を取上げ、それを持って控室に駆けてゆき、駆けてくると、スープを見た。
「あなたのことを先に取次ごうかしら、それとも先にスープを弁護士さんのところへ持ってゆこうかしら?」
「まず取次いでくれたまえ」と、Kは言った。
彼は腹をたてていた。ほんとうは、自分のこと、ことに疑問がある解約のことをレーニと詳しく相談しようと思っていたのだったが、商人がいるのでそんなことをする気がなくなってしまった。しかし、こんな微々たる商人にすっかり邪魔にはいられるにはあまりに自分の問題は重要なように思われたので、もう廊下に出ていたレーニを呼びもどした。
「やっぱりまずスープを持っていってくれたまえ」と、彼は言った。「僕と話すためにも元気をつけておかなきゃいけないし、きっとほしいんだろう」
「あなたも弁護士さんの依頼人でいらっしゃるんですね」と、確かめるように商人は部屋の隅から小声で言った、だが、それはKによくは取られなかった。
「あなたとなんの関係があるんです?」と、Kが言うと、レーニも言った。
「あんたは黙っていらっしゃい。||じゃ、最初にスープを持ってゆくわ」と、レーニはKに言い、スープを皿に
「僕があの人に言うことを聞いてくれれば、眠りはしないさ」と、Kは言い、何か重大なことを弁護士と折衝するつもりであることを見抜かせようとし、いったい何なのか、レーニにたずねさせ、そこで初めて彼女の助言を求めようと思った。ところが女は、ただ言われた命令をきちんと果しただけだった。盆を持って彼のそばを通り過ぎるとき、故意に軽く彼にぶつかり、ささやいた。
「スープを飲み終ったら、できるだけ早くあなたを取返せるように、あなたのことを取次ぐわ」
「行きたまえ」と、Kは言った。「行きたまえ」
「もっと親切にするものよ」と、女は言い、盆を持ったまま扉のところでもう一度、すっかりこちらを向いた。
Kは女の後ろ姿を見送った。弁護士を断わるという決心が、今は最後的にきまった。あらかじめレーニとそれについて話すことがもうできなかったことも、きっとかえってよかっただろう。女には事柄の全体に対する十分な見通しがほとんどついていないので、きっとやめるようにすすめたことだろうし、おそらくはKも今回はほんとうに解約を思いとどまったことだろう。そして依然として疑惑と不安とにとどまることになり、しかもこの決心はあまりに動かせないものなので、結局はしばらくしてこの決心を実行することになっただろう。しかし、決心が実行されるのが早ければ早いほど、損害は避けられるわけだった。ところで商人もおそらくそれについて何か意見があるかもしれない。
Kは振返ったが、商人はそれに気づくやいなや、すぐ立ち上がろうとした。
「どうかそのままにしてください」と、Kは言い、椅子をひとつ商人のそばに置いた。
「ずっと前から弁護士さんに依頼なすっていらっしゃるんですか?」と、Kはきいた。
「そうです」と、商人は言った。「古くからの依頼人です」
「何年ぐらい、あの人に弁護をやってもらっているんです?」と、Kはきいた。
「どういう意味かわかりかねますが」と、商人は言った。「商売上の法律事件では||私は穀物商をやっていますんで||あの弁護士さんに、商売を始めたときから弁護をやってもらっています。それでおよそ二十年来のことですが、私自身の訴訟のほうは、あなたはきっとこちらのことをおっしゃっているんでしょうが、やっぱり初めからのことで、もう五年以上にもなります。そうです、五年はたっぷり越えました」
そして古い紙入れを取出して、言葉を続けた。
「ここに全部書きつけてあります。お望みなら、はっきりした日付を申上げましょう。全部が全部覚えていることはむずかしいですからね。私の訴訟はどうももっと前から続いています。妻が死んですぐ始まったのですからね。で、もう五年以上にもなります」
Kは商人のほうに寄っていった。
「それじゃあ、弁護士さんは普通の法律事件も引受けるんですか?」と、彼はきいた。裁判所と法律学とがこういうふうに結びついているということは、Kには非常に安心に思われた。
「こういう法律事件でのほうがほかの事件でよりも有能だとさえ言われています」しかし、言ったことを後悔しているらしく、片手をKの肩に置いて、言った。
「どうか私の言ったことは内密にお願いします」
Kは安心させるように男の
「いや、私は裏切り者じゃないですから大丈夫ですよ」
「つまりあの人は執念深いもんですからねえ」と、商人は言った。
「でも、あなたのような忠実な依頼人には、あの人もきっと変なまねはしないでしょう」と、Kは言った。
「とんでもない」と、商人は言った。「興奮すると見境がありませんし、それに私もほんとうはあの人に忠実なわけでもないんでしてね」
「どうしてなんですか?」と、Kはきいた。
「そのことをあなたにお話ししなくちゃいけませんか?」と、商人は思い惑うように言った。
「してくださってもかまわないでしょう」と、Kは言った。
「それでは」と、商人は言った。「一部だけ申上げますが、私たち二人が弁護士に対して何も言わないという約束をしっかりと守るように、あなたも私に秘密なことを打明けてくださるんですよ」
「あなたはたいへん用心深いな」と、Kは言った。「だが、あなたを完全に安心させるにちがいない秘密をひとつ申上げましょう。ところで、弁護士に対するあなたの不実というのはいったいどういうことです?」
「実は」と、商人はためらいながら、何か面目ないことを白状するような調子で言った。「あの人のほかにほかの弁護士たちもいるんです」
「そんなことなら、たいしてわるいことじゃありませんよ」と、少しがっかりして、Kは言った。
「ところがここじゃあ」と、白状しはじめてから苦しそうな息をついた商人は、Kの言葉でいっそううちとけて、言った。「それが許されないんです。そして、いわゆる弁護士のほかに三百代言を頼むことはことに許されていません。ところがまさにそのことを私はやっているんで、三百代言が五人いるんです」
「五人ですか!」と、Kは叫んだが、まずこの数に驚かされたのだった、「このほかに弁護士を五人もですか?」
商人はうなずいた。
「今ちょうど六人目と交渉中なんです」
「だが、どうしてそんなにたくさん弁護士が
「みな要るんです」と、商人は言った。
「そのわけを説明してくれませんか?」と、Kがきいた。
「いいですとも」と、商人は言った。「まず、訴訟に
「それじゃあなたご自身も裁判所で仕事をやられるんですか?」と、Kはきいた。「まさにそのことについて伺いたいものです」
「その点については、ほとんどお話しすることがありません」と、商人は言った。「初めのうちは確かにそうもしようとしたのですが、すぐやめにしてしまいました。あまりに疲れて、たいして効果がないんです。裁判所で自分で仕事をやり、交渉をやることは、少なくとも私には全然できないことだとわかりました。そこではただすわって待つことだけで、たいへんな骨折り仕事です。あなたご自身も、事務局のあの重苦しい空気はご存じのはずですね」
「僕が事務局に行ったということを、どうして知っているんですか?」と、Kはきいた。
「あなたが通ってゆかれたとき、ちょうど待合室にいたんです」
「なんという偶然でしょう!」と、すっかり夢中になり、これまでの商人の
「たいした偶然じゃありませんよ」と、商人は言った。「私はほとんど毎日のようにあそこにいるんですから」
「私もこれからおそらくしばしば行かなきゃなりませんが」と、Kは言った。「きっともうあのときほどうやうやしく迎えられることはないでしょうね。みなが起立しましたからねえ。きっと、私のことを裁判官だと思ったのでしょう」
「いや」と、商人は言った。「あのときは廷丁に
「じゃあ知っていたんですね。だがそうなると、私の態度はきっと
「いや」と、商人は言った。「それどころか。でもつまらぬことですよ」
「つまらぬことって、どんなことです?」と、Kがきいた。
「なぜそんなことをおききになるんですか?」と、商人は腹立たしげに言った。「あなたはあそこの連中のことをよくはご存じでないらしく、おそらく事情を誤解していらっしゃるのでしょう。あなたはよくお考えにならなけりゃなりませんが、この手続きではしょっちゅういろいろな事柄が口の
「私の唇ですか?」と、Kはきき、懐中鏡を取出して、じっと見た。「私の唇に別に変ったところは見えませんけれどね。で、あなたはどうですか?」
「私もそう思いますね」と、商人は言った。「全然そんなことはありませんよ」
「あの連中はなんて迷信深いんでしょう!」と、Kは叫んだ。
「だからそう申上げたでしょう?」と、商人がきいた。
「いったいあの人たちはそんなに行き来をし、意見を交換し合っているんですか?」と、Kは言った。「私はこれまで全然仲間からはずれていましたよ」
「一般には互いに行き来してはいません」と、商人は言った、「それはできないでしょう、なにしろ人数が多いですからね。それに共通の利害もほとんどないんです。ときどきはあるグループで共通の利害という信念が浮び出ることもあるんですが、すぐに間違いだということがわかってしまいます。裁判所に対して共同でやられることなど、何もありません。各事件も単独に調べられ、まったく慎重きわまる裁判所というものですよ。それで共同で何もやることはできないんです。ただ個人が何かこっそりうまくやったことはときどきあります。それが成功したときにやっとほかの人々が聞くというわけですから、どういうふうにしてやられたか誰にもわかりません。それで共同一致ということはなく、待合室のあちこちで寄り合うことがあっても、そこで相談はほとんどされていません。迷信深い考えというのは昔からあって、確かにおのずとふえています」
「あの待合室に待っている人たちを見ましたが」と、Kは言った。「まったく無益なことに思われましたよ」
「待つことは無益じゃありません」と、商人は言った。「無益なのは自分だけで手出しをすることです。すでに申上げたように、私は今、この弁護士のほかに五人頼んでいます。彼らに事を完全にまかせることができるだろうと、人は思うでしょう。私自身からして初めはそう思いました。しかし、それはまったく間違っているんです。ただ一人に頼んでいるときよりもまかしておけないくらいです。このことはおわかりでないでしょう?」
「ええ」と、Kは言い、商人があまり早くしゃべるのを妨げるために、なだめるように自分の手を相手の手の上に置いた。「どうかもっとゆっくりお話ししてください。どれもみな私にとって大切な事柄ですが、どうもあなたのお話についてゆけません」
「それをおっしゃってくだすって結構でした」と、商人は言った。「で、あなたはまだ新米で、末輩です。あなたの訴訟は半年ばかりでしたね? そう、そのことは伺いました。そんなに新しい訴訟だなんて! ところが私はこうした事柄をもう数限りなく考え抜いてきましたので、世の中でいちばんわかりきったことなんですよ」
「あなたの訴訟がもうそんなに進んでいるのを、きっとよろこんでおられるでしょう?」と、Kはきいたが、商人の事件がどういう状態にあるのかあけすけにたずねようとは思わなかった。ところが相手からも、はっきりした返事は得られなかった。
「そうです、訴訟は五年間もころがしてきました」と、商人は言い、頭を垂れた。「簡単な仕事じゃありませんよ」
それからしばらく黙った。Kは、レーニがもう来ないか、と耳を澄ました。一面では、彼女が来なければと思った。まだまだ聞きたいことはあるし、商人とこうしてうちとけて話しているときレーニに邪魔されたくはなかったからである。だがその反面、自分が来ているのにこんなに長く弁護士のところにいることに腹をたて、スープを持ってゆくだけならこんなに長くかかるわけはない、と思った。
「私は今でもまだ」と、商人がまたしゃべりはじめたので、Kはすぐ注意を集中した。「私の訴訟が今のあなたのと同じように新しかったときのことを覚えています。あのときはここの弁護士さんだけでしたが、大いに安心していたわけじゃなかったんです」
これでなんでも聞きこめるぞ、とKは考え、勢いよくうなずいたが、それによって商人をけしかけて、知る値打ちのあることをなんでも言わせることができる、というような様子だった。
「私の訴訟は」と、商人は続けた。「さっぱり進みませんでした。それでも審理は行われ、私もそのたびごとに出向き、材料を集め、帳簿を全部裁判所に提出しましたが、これは後で聞いたところによると、全然必要じゃなかったそうです。しょっちゅう弁護士さんのところへ行き、弁護士さんもいろいろな願書を出してくれました||」
「いろいろな願書ですって?」と、Kはきいた。
「そうです」と、商人が言った。
「それは私には大切なことです」と、Kは言った。「私の事件の場合、あの人は今でもまだ最初の願書を書いてばかりいるんです。まだ何もやってはいません。これでわかりましたが、あの人は破廉恥にも私のことを無視しているんだ」
「願書がまだ完成しないということは、きっといろいろ理由があるんでしょう」と、商人は言った。「ところで、私の願書がまったく値打ちのないものだということが、後になってわかりました。ある裁判所の役人の親切でそのひとつを自分で読んだことさえあります。それは大いに学者ぶったものでしたが、ほんとうは中身がからっぽでした。まず、私にはわからないひどくたくさんのラテン語、次に数ページにわたる裁判所に対する一般的な嘆願、それから、はっきり名前はあげてはないが事情に通じた者ならかならずわかるにちがいない一人一人の役人に対するお世辞文句、それから次に、まさしく犬のように裁判所にへりくだっている調子の弁護士の自賛、そして最後に、私のと似てるという以前の法律事件の吟味、というわけです。これらの吟味は、もちろん、私がたどれたかぎりでは、きわめて慎重にできていました。こうしたことで弁護士の仕事に判断を下そうとは思いませんし、私が読んだ願書もたくさんのもののうちのひとつでしかなかったわけですが、ともかく当時訴訟になんらの発展が見られなかったということだけは、今申上げておきたいと思います」
「それじゃ、どんな発展を望まれたんですか?」と、Kはきいた。
「おたずねはごもっともです」と、商人は微笑しながら言った。「この手続きでは発展はほんのまれにしか望めないんです。ところがその当時はこのことが私にはわかっていませんでした。私は商人ですが、当時は今よりもっとずっと商人でしたので、はっきりとした発展というものがほしくて、全体が結末に近づくとか、あるいは少なくとも規則正しく上昇の経過をたどるとかしてもらいたかったのです。ところがそうはゆかずに、あるものはただ、たいてい同じ内容を持つ尋問ばかりでした。返答はもうまるで
「大弁護士ですね?」と、Kはきいた。「いったいどういう人たちなんですか? どうしたら会えるんですか?」
「ははあ、あなたはまだ彼らのことをお聞きになっていないんですね」と、商人は言った。「彼らのことを聞かされたあとで、しばらく彼らのことを夢に見ないような被告というのは一人もありません。だがあなたは、むしろそんな誘惑にかかってはなりません。大弁護士が何者かは、私は知りませんし、彼らのところへ近づくことはきっと誰にもできないのです。彼らが手がけたとはっきり言えるような事件を、私は知りません。かなりの被告を弁護はするんですが、被告の意志ではどうにもならないし、彼らが弁護しようと思う者たちだけを弁護するんです。だが、彼らが引受ける事件というのは、きっと下級裁判所を
「それじゃあ、あなたはその当時大弁護士のことは考えなかったんですか?」と、Kはきいた。
「長くは考えませんでしたが」と、商人は言い、また薄笑いした。「残念ながらすっかり忘れることはできませんし、ことに夜にはこんな考えがとかく浮んできましてね。しかし、当時私は即効をあげることを望みましたんで、三百代言のところへ行ったんです」
「まあ、こんなところにくっついてすわって!」と、盆を手にしてもどってきて、扉のところに立ったレーニが、言った。
確かに二人はひどくくっついてすわり、少し
「もう少し待って!」と、Kはレーニに拒むように叫び返したが、まだ依然として商人の手の上に置いていた手を、いらだたしそうにぴくぴくさせた。
「この方が私の訴訟の話を聞こうとおっしゃるんだよ」と、商人はレーニに言った。
「さあお話しなさい、お話しなさい」と、女は言った。女は商人と愛情をこめて話すが、また見下げた様子が見られ、これがKの気にさわった。今ではわかったのだが、この男はやはりある値打ちがあるし、少なくも経験を持ち合せており、それをうまく話すことができるのだ。レーニはどうもこの男を不当に判断している、そう思った。彼は、商人が長いあいだしっかと持っていた
「三百代言のことをおっしゃってくださろうとしたところでしたね」と、Kは言い、それ以上何も言わずに、レーニの手を押しやった。
「何をするのよ?」と、レーニはきき、軽くKをたたき、蝋を落す仕事を続けた。
「そうです、三百代言のことでした」と、商人は言い、考えこむように額に手をやった。Kは助け舟を出そうとして、言った。
「あなたは即効をあげようと思われ、三百代言のところへ行かれたのです」
「そう、そのとおりでしたね」と、商人は言ったが、話を続けなかった。
「きっとレーニの前ではそのことを言いたくないんだな」と、Kは思って、先をすぐ今聞きたいといういらだたしさを
「僕のことは通じてくれた?」と、彼はレーニに言った。
「もちろんよ」と、女は言った。「あなたのことをお待ちかねよ。もうブロックはやめにしなさいな。ブロックはまだここにいますから
彼はまだ
「ここにいらっしゃいますか?」と、商人にきいたが、商人自身の返事が聞きたく、レーニが商人のことをまるでいない者のように言うのが気に入らず、今日はレーニに対して心ひそかに大いに腹をたてていた。ところがまた、レーニが返答しただけだった。
「この人はここによく泊るのよ」
「ここに泊るって?」と、Kは叫んだ。商人には自分が弁護士との話を手早く片づけるあいだだけ待ってもらうが、すんだらいっしょに出かけて、すべてを徹底的に、誰にも邪魔されずに語り合うつもりだった。
「そうよ」と、レーニは言った。「誰でもあなたみたいに好きなときにやってきて、弁護士さんに会わせてもらえはしないわ、ヨーゼフ。弁護士さんが病気なのに、夜の十一時にもなって会ってくださるのを、あなたってば全然ありがたいとも思っていないようね。あなたのためにお友達がやってくれることを、まるで当り前のことだぐらいにしか考えていないのね。でもあなたのお友達、少なくともあたしは、よろこんでやってあげてよ。なんにもお礼なんか要らないわ、ただあたしをかわいがってくれればそれでいいの」
「お前をかわいがるって?」と、Kは最初の瞬間に考えたが、それから次に頭の中をかすめる考えがあった。「そうだ、実際おれはこの女を愛しているのだ」それにもかかわらず、彼はほかのことをいっさい無視して、言った。
「私は依頼人だから、会ってくれるのは当り前さ。もし会ってもらうためにも他人の助力が必要だというなら、一歩行くごとにしょっちゅう
「この人ったら今日はなんて
「今度はおれがいないも同然だ」と、Kは思い、商人がレーニの
「弁護士さんがこの方を迎えるのにはほかのいろいろな理由があるんだよ。つまり、この方の事件は私のよりも興味があるんだ。そのうえ、この方の訴訟は始まったばかりで、したがって手続きもたいして進行はしていないらしいから、弁護士さんはまだよろこんでこの方のことにかかりあっているんだ。けれども後ではきっと変ってくるよ」
「そう、そうね」と、レーニは言い、高笑いしながら商人を見た。「この人はなんておしゃべりなんでしょう! あなたはこの人のことなんか」と、ここで女はKに向った。「少しでも信用しちゃだめよ。いい人なんだけれど、おしゃべりなの。おそらくそのために弁護士さんもこの人のこと我慢ができないのよ。ともかく、気が向かなければこの人なんかに会わないわ。そんなことやめさせようって、あたしもずいぶん骨を折ったけれど、できないのよ。いい、何度もブロックが来たってお伝えするのに、三日目になってやっと会うような始末なの。でも呼ばれたちょうどそのときにブロックがその場にいないと、みんなだめになり、また改めてお伝えしなけりゃならないのよ。それであたしはブロックにここに泊ることを許してあげたの。弁護士さんが夜中でもこの人のことを呼ぼうとベルを鳴らすことも、これまでにあったことだわ。それで今ではブロックは夜中でも用意しているの。もちろん今度はまたブロックがいるってことがわかると、弁護士さんはこの方をお通ししてくれって頼んだことをときどきやめにしてしまうこともあるわ」
Kは、問いかけるように商人のほうを見た。商人はうなずき、さっきKと話し合っていたのと同じように率直に言ったが、
「そう、あなたもそのうち弁護士さんの言うことをよく聞くようになりますよ」
「この人はただ見せかけに苦情を言っているのよ」と、レーニは言った。「ここに泊るのはうれしいって、あたしにもう何べんも白状したわ」
彼女は小さな扉のところへ行き、それを押しあけた。
「あなたこの人の寝室をごらんになる?」と、女はきいた。
Kはそちらへ出かけ、敷居のところから、幅の狭いベッド一つでいっぱいになっている天井の低い、窓のない部屋をのぞきこんだ。このベッドに乗るにはベッドの
「女中部屋でお休みになるんですね?」と、Kはきき、商人のほうを振返った。
「レーニが
Kは長く商人の顔を見つめていた。彼が商人から受けた第一印象は、おそらく正しかったのだ。訴訟がもう長いあいだ続いたので、経験を持っているにはちがいないが、これらの経験に高価な代償を払ったのだった。突然Kは商人のこの有様に耐えられなくなった。
「この人をベッドに連れてゆきたまえ!」と、彼はレーニに叫んだが、女は彼の言うことが全然わからないらしかった。だがおれ自身は弁護士のところへ行こう、解約を通告して、ただ弁護士からばかりでなくレーニと商人とからも縁を切ろう、と思った。ところが扉のところまで行くか行かないかのうちに、商人が低い声で言葉をかけた。
「業務主任さん」
Kは機嫌のわるそうな顔つきで振返った。
「あなたは約束をお忘れになりましたね」と、商人は言い、椅子から懇願するように身体を伸ばした。「私にも秘密をおっしゃってくださるということでしたが」
「そうでした」と、Kは言い、自分をまじまじと見つめるレーニにも
「この人は弁護士を解約するんだ!」と、商人は叫び、椅子から飛び上がって、腕を振上げて台所じゅうを走りまわった。何度も繰返して叫ぶのだった。「この人は弁護士を解約するんだ!」
レーニはすぐKに飛びかかっていったが、商人が邪魔にはいると、両手の
「たいへんお待ちしていましたよ」と、弁護士はベッドから言い、蝋燭の光で読んでいた文書を夜間用の机の上に置き、眼鏡をかけると、Kを鋭く見つめた。Kはわびもせずに、言った。
「すぐに帰りますから」
わびではなかったので、弁護士はKのこの言葉を相手にせずにやりすごし、言った。
「この次はもうこんな遅くはお会いしませんからね」
「それは願ったりです」と、Kは言った。
弁護士は、いぶかしげにKの顔を見た。
「まあおかけください」と、言った。
「ではお言葉どおり」と、Kは言い、椅子を夜間用の机のそばに引寄せ、すわった。
「扉の鍵をおかけになったようですな」と、弁護士は言った。
「そうです」と、Kは言った。「レーニのためでした」
彼は、誰でも容赦するつもりはなかった。ところが弁護士はきいた。
「あれがまたしつっこいことをしましたか?」
「しつっこいですって?」と、Kはきいた。
「そうです」と、弁護士は言って笑ったが、
「きっとあれのしつっこいことをごらんになったでしょうね?」と、きき、Kがぼんやりと夜間用の机の上についていた手をたたいたので、Kは素早くその手を引っこめた。
「あなたはそのことをたいして問題にしておられぬようだが」と、Kが黙っているので弁護士は言った。「そのほうがよろしい。さもないとわしがおそらくあなたにおわびしなければなりませんからな。それがレーニの奇妙なところでしてね。わしは前からそれを大目に見ていますし、あなたがたった今扉をおしめにならなかったら、お話もいたさなかったでしょう。この奇妙なところというのは、もちろんあなたにご説明するまでもないんですが、あなたは私のことを驚いてごらんになるので申上げておきますけれど、それは、レーニがたいていの被告の人々を美しいと思いこむことなんですよ。あれは誰にでもくっつき、誰にでもほれますし、もちろん誰からも愛されもします。その後で、私がよいと言えば、わしを興がらせるため、ときどきそれについて話してくれます。お見かけしたところだいぶ驚いていらっしゃるようですが、わしはこのことにたいして驚きはしませんね。見分ける眼力がありさえすれば、被告の人々はほんとうに美しいと見えることがしょっちゅうあるものですよ。これは確かに、奇妙な、いわば自然科学的と言える現象なんです。もちろん、告訴の結果何かはっきりとした、詳細に規定できるような
Kは、弁護士が語り終えたとき、すっかり気を落着け、最後の言葉には目だつほどにうなずきさえしたが、そうすることによって前々からの自分の見解にみずからの裏打ちを与えるのであった。その見解によるとこの弁護士は、いつも、そして今度も、事の本質には触れていない一般的なことばかり伝えては自分の気をそらし、いったい自分のために実際に仕事をして何かをやってくれたか、という根本問題は、避けよう避けようとばかりしているように思われるのだった。弁護士は確かに、Kがこれまでよりも自分に対して抵抗していることに気づいたらしかった。というのは、弁護士は黙ってしまい、Kのほうが話しだす機会を与えたからである。ところが、Kがいつまでも黙っているので、きいた。
「今晩は何かきまったご意図を持っていらっしゃったのですか?」
「そうです」と、Kは言い、弁護士をもっとよく見るため、片手で少し蝋燭の光をさえぎった。「今日をかぎりあなたには私の弁護をやめていただきたい、と申上げようと思います」
「なんですと」と、弁護士は言い、ベッドの中で半身をもたげ、片手で
「おわかりいただけたと思います」と、Kは身体をこわばらせてきちっと立ち、相手の出方に身構えするようにすわっていた。
「では、そのプランについてお話しすることもできますね」と、しばらくの後、弁護士は言った。
「もうプランなんていうものじゃありませんよ」と、Kが言った。
「そりゃあそうかもしれませんが」と、弁護士は言った。「でもわしらは何事もあわてすぎたくはありませんね」
弁護士は「わしら」という言葉を使って、Kを手放す気は毛頭ないし、たとい代理人ではありえなくとも、少なくとも引続いて忠告者ではありたいというような素振りだった。
「あわてているわけじゃありません」と、Kは言い、ゆっくりと立ち上がり、自分の椅子の後ろに行った。「十分に考えましたし、おそらくあまり長く考えさえしたようです。決心はもうきまっています」
「それではもう少し言わせてください」と、弁護士は言い、羽根布団を
「そんなに冷えるようなことをなさる必要は全然ありませんよ」
「事はなかなか重大です」と、弁護士は言いながら、羽根布団で上半身を包み、それから両脚を毛布に突っこんだ。「あなたの
老人のこういう感傷的な話は、Kにはきわめてありがたくなかった。というのは、避けたいようなくだくだしい説明にどうしてもなったし、そのうえ、もちろん彼の決心をけっして翻すことはできなかったが、率直に白状するとそれをいろいろと迷わしたからである。
「ご親切にご心配いただいてありがとうございます」と、彼は言った、「あなたが私の事件をできるだけ、そして私にとって有利だとお考えのかぎりお引受けくだすったということも、よく存じております。しかし、最近、それは十分でないという確信を持つにいたりました。もちろん私は、あなたのようなたいへん年長で経験に富んだ方に、私の考えに従っていただくようにしようとはけっして思いません。もし私がときどき思わず知らずにそんなことをしようといたしましたなら、どうかお許しねがわなければなりませんが、事はあなたご自身のおっしゃられるようになかなか重大ですし、私の確信によりますと、訴訟に対してこれまでやった以上に強力に手を出すことが必要だと思われます」
「よくわかりましたが」と、弁護士は言った、「あなたは短気ですね」
「私は短気なんじゃありません」と、Kは少し興奮して言い、もうたいして自分の言葉に気を使わないことにした。「私が叔父といっしょにあなたのところへ初めて伺ったとき、私には訴訟なんかたいして問題ではなかったということは、あなたもご存じでしょうし、いわば力ずくで思い出させられるのでなかったなら、私は訴訟のことは完全に忘れていたのでした。ところが叔父が、あなたに弁護をお願いしろと言い張るものですから、叔父の気を損じないためにそうしました。それで、弁護士に弁護をおまかせするのは訴訟の重荷を少しでも避けるためなんだから、これで私の訴訟も前よりは気軽になるものとばかり思っていたわけです。ところが事実はまったく反対です。それまでは、あなたにお願いしてからほど訴訟のために心配させられるということは、なかったのです。私ひとりのときには、自分の事件については何も手を出しませんでしたが、それを心配することもほとんどなかったのでした。ところが今では、代理人もおられるし、何事が起っても万端の用意が整えられていて、ひっきりなしに緊張してあなたが手を下してくださるのを待っていたわけですが、さっぱりでした。もちろん、おそらくはほかの人からはもらえそうにもないさまざまな裁判所についての情報を、あなたからいただきはしました。しかし、訴訟が確かに私の気づかぬうちにだんだんと身に迫ってきている今となっては、それでは十分ではなくなったのです」
Kは椅子を突きのけて、両手を上着のポケットに突っこんだまま立ち上がった。
「訴訟をやっているうちの、ある時期には」と、弁護士は低い声で落着いて言った。「本質的に新たな事態というものが起らなくなるのです。あなたと同じような訴訟の段階にある大勢の依頼人の方々が、これまでもわしの前に立って、あなたと同じようなことを言ったものですよ!」
「そうだとすると」と、Kは言った。「そういう同じような依頼人たちは、私と同じように当然な理由があったのです。それだからそんなことは全然私に対する
「何もあなたに反駁しようとは思いません」と、弁護士は言った。「だがわしが申上げておきたいと思うのは、あなたにはほかの人々よりも判断力というものを期待していたということです。ことにあなたには、ほかの依頼人に対してやる以上に、裁判組織とわしの仕事とについて詳しくお教えしておいたんですからね。ところが今は、こんなにしてさしあげているのにあなたはわしを十分ご信用にならない、ということを見なければならないというわけです。あまりわしのことを軽く考えてくだすっては困りますね」
弁護士はKに対してなんと卑屈な態度をとったことか! 確かに今においてこそいちばん感じやすくなっているにちがいない自分の身分に関する体面というものを全然忘れてしまっているのだ。なぜこういう態度をとるのか? 見かけたところ仕事の多い弁護士で、そのうえ金もあるらしいし、もうけがなくなることも一人ぐらいの依頼人を失うことももともとたいしたことではないはずだ。そのうえ、病身だし、仕事を減らすことを自分でも考えたほうがよいのだ。それにもかかわらずKのことをこんなに引きとらえているなどとは! なぜだろうか? 叔父に対する個人的な
「いずれおわかりのことと思いますが、わしは大きな事務室を持ってはいますが、助手は一人も使ってはいません。以前はそれとちがい、二、三人の若い法律家がわしのために働いてくれていたときもあったのですが、今ではわしひとりでやっています。その理由は、わしが自分の専門を変え、だんだんあなたのケースのような法律事件だけをやるようにしたためでもありますが、また一部はこの種の法律事件によっていよいよ認識を深めたためです。わしの依頼人の方々や、わしが引受けた課題というものに対して罪を犯したくないと思うならば、こういう仕事は誰にもまかせられない、ということをさとったのです。しかし、仕事も全部自分でやろうと決心したについては、それ相応の結果を生じました。すなわち弁護の依頼をほとんどすべてお断わりせねばなりませんでしたし、わしと特に親しい人々の言うことだけしかきけませんでした。||ところで、わしが投げ捨てた
Kはこんな談義で、納得させられるというよりは、むしろいらいらしてきた。弁護士の口調からなんとはなしに、自分を待っているものがなんであるか聞き取れるような気がした。いま譲るとなると、また例の慰め文句が始まるのだろう。願書が
「弁護をお続けになる場合、私の事件について何をやってくださろうというのですか?」
弁護士はこの侮辱的な質問にさえ乗ってきて、答えるのだった。
「あなたのためにすでにやってまいったことを、続行するんです」
「そのことならまったくわかっています」と、Kは言った。「ですが今はもうそれ以上おっしゃるにはおよびません」
「もう一回やってみようと思うんです」と、Kを興奮させた事柄はKに関係があるのではなくて自分に関係あることなのだ、とでもいうかのように弁護士は言った。
「つまりわしはこう思うんだが、あなたはわしの法律顧問としての地位を間違って判断されているばかりではなく、そのほかにも妙な態度をとられているが、そんな態度をとられるのは、あなたが被告であるのにあまりにいい待遇を受けていられる、あるいはもっと正しく言って、どうでもいいというふうに、少なくとも外見上どうでもいいというふうに取扱われている、ということのわるい結果ですね。このどうでもいいというふうに取扱っているということにも理由があるんですよ。つまり、自由であるよりも鎖につながれているほうがいいということもしばしばあるもんでしてね。だが、ほかの被告がどういうふうに取扱われているかということをあなたにお教えしたいと思いますが、そうすればおそらくあなたはそれから教訓を引出すこともできますよ。そこでこれからブロックを呼びますから、扉をあけてここの夜間用の机のそばにおかけになってください!」
「かしこまりました」と、Kは言い、弁護士が要求したとおりにした。いつでも学ぼうという心構えであった。しかし、どんな場合に対しても安全な処置をとっておこうと思って、彼はきいた。
「ですが、私があなたの弁護はお断わりしているということは、わかっていただけましたね?」
「わかりました」と、弁護士は言った。「しかし今晩のうちにも
彼はまたベッドに横になり、羽根布団を
ベルの合図とほとんど同時にレーニが現われた。素早くあたりを見て、何が起ったのかを知ろうとした。ところがKが落着いて弁護士のベッドのそばにすわっていたので、ほっとした様子だった。自分をじっと見つめているKに、
「ブロックを連れておいで」と、弁護士は言った。ところが彼女は、ブロックを連れてくるかわりに、ただ扉の前まで出て、叫んだ。
「ブロック! 弁護士さんのところへいらっしゃいって!」
それから、弁護士が壁のほうを向いたままで何も問題にしてはいないからであろうが、Kの椅子の後ろにこっそりとまわりこんだ。そうしてから、椅子のもたれの上に身体を曲げてきたり、もちろんきわめてやさしげに、また注意深げにだが、両手を彼の
ブロックは呼ばれてすぐやってきたが、扉の前で立ち止り、はいったものかどうかと考えている様子だった。
「ブロックは来たかね?」と、彼がきいた。この問いは、すでにかなりな距離に進んでいたブロックの胸に明らかに一撃を与え、次にまた一撃を背中に与えたので、彼はよろめき、背中を深く曲げて立ち止って、言った。
「おります」
「なんだと言うのだね?」と、弁護士は言った。「都合のわるいときに来るんだね」
「お呼びではありませんでしたか?」と、ブロックは弁護士にというよりは自分自身にきいてみて、身を防ぐように両手を前に出し、逃げてゆく身構えをした。
「呼びはしたんだが」と、弁護士は言った。「都合のわるいときに来るんだね」
そしてしばらく
「君はいつも都合のわるいときにばかり来るね」
弁護士がしゃべってからは、ブロックはもうベッドのほうを見ず、むしろ部屋の
「帰ったほうがよろしいでしょうか?」と、ブロックがきいた。
「もう来ちゃったんだから」と、弁護士は言った。「いなさい!」
弁護士はブロックの望みをかなえてやったのではなくて、
「
「ぜひどうぞ!」と、ブロックが言った。
弁護士がすぐには返事をせぬので、ブロックはもう一度懇願を繰返し、ほとんどひざまずかんばかりに身体をかがめた。ところがそのとき、Kが彼に
「君はなんていうことをするんだ?」と、Kは叫んだ。
レーニが彼の叫ぶのを妨げようとしたので、彼は女のもう一方の手もつかんだ。彼が女をしっかとつかんでいるものは、愛情の握りかたではなかったし、女も繰返し
「君の弁護士はいったい誰かね?」
「あなたです」と、ブロックは言った。
「で、わしのほかには?」と、弁護士がきいた。
「あなたのほかには誰もいません」と、ブロックが言った。
「それじゃ、ほかの人の言うこともきかないことだね」と、弁護士は言った。
ブロックは弁護士の言うことをすっかりのみこみ、悪意のこもった
「もう邪魔はしませんよ」と、Kは椅子にもたれて言った。「ひざまずいたり、四つばいになったり、なんでも好きなようになさい」
ところがブロックにも、少なくともKに対しては
「あなたは私に対してそんなふうな口をきいてはいけません。それはよろしくありませんよ。なぜ私を侮辱なさるんです? しかもこの弁護士さんの前で、なぜなさるんです? ここでは、あなたと私との二人は、ただお慈悲で我慢していただいているんですよ。あなただって告訴されていて訴訟にかかりあっているんですから、私よりましな方というわけじゃありません。それでもあなたが紳士だというなら、あなたよりりっぱなというわけじゃないけれども、私もあなたと同様紳士ですよ。そして、ことにあなたからは紳士として口をきいていただきたいですね。あなたはここで腰をかけ、落着いて話を聞いているのに、私のほうはあなたの言いかただと四つばいになっているというので、あなたは優越感を持っていらっしゃるのなら、私は昔の判例のことを申しましょう。それは、容疑者にとっては静かにしているよりも動くほうがよろしい、なぜなら静かにしている者は、知らぬ間に
Kは何も言わずに、ただこの混乱した男をまじろぎもせずにじっと見つめていた。ほんのこの数秒のうちになんという変化が起ったのであろう! この男をあちらこちらと投げ出し、敵も味方も区別できなくさせているのは、訴訟なのだろうか? 弁護士はわざとこの男を侮辱し、今はただKの前で自分の権力を見せつけ、それによっておそらくはKのことも服従させようということだけをもくろんでいることが、この男にはわからないのだろうか? だがブロックがそういうことをさとることができず、あるいはさとっていても弁護士を非常に恐れているので何の役にもたたないのだとしても、それではどうして、弁護士をだまして、彼のほかになおほかの弁護士にやってもらっているということを隠しているほど、
「弁護士さん」と、彼は言った。「この男が私に口をきくのをお聞きになりましたか? まだこの男の訴訟なんていうものは時間で数えることができるくらいなのに、五年も訴訟をやっている私のような者に、いいことを教えてやろうって言うんです。そのうえ私をののしりさえします。何も知らぬくせに、作法や義務や裁判所の慣習が要求するところを微力ながらできるだけ詳しく勉強してきた私というものを、ののしったりするんです」
「人のことなんか心配するんじゃないよ」と、弁護士が言った。「そして、君が正しいと思うことをやるんだ」
「おっしゃるとおりです」と、自分自身を勇気づけるように言い、ちらと横眼を使いながらベッドのすぐそばにひざまずいた。
「このとおりひざまずいています、弁護士さん」と、彼は言った。
だが弁護士は黙っていた。ブロックは片手で控え目に羽根布団をなでた。この場を支配している静けさの中で、レーニはKの両手から離れると、言った。
「痛いわよ。放してちょうだい。あたしはブロックのところへ行くわ」
女はそちちへ行き、ベッドの縁に腰をおろした。ブロックは女が来たことを大いによろこんで、すぐさまさかんな、しかし言葉には出さないしぐさで、弁護士に自分のことを取りなしてくれと頼むのだった。彼は明らかに弁護士の知らせを切に求めていたが、おそらくはただ、そうした知らせをほかの弁護士たちに利用しつくさせるという目的だけのためだった。レーニは、どうやったら弁護士に取入れるかを、詳しく知っているようだった。弁護士の手を示して、
「どうもそれをこの男に話すことは
「なぜ躊躇なさるんですの?」と、レーニはきいた。
Kは、すでにしばしば繰返された、そしてこれからもしばしば繰返されるにちがいない、ただブロックにとってだけ新鮮味を失わないような、よく覚えこまれた会話を聞くような気がした。
「あの男は今日はどんなふうだった?」と、弁護士は答えるかわりに、きいた。レーニはそれについて述べる前に、ブロックのほうを見下し、この男が両手を彼女のほうにあげて懇願しながらすり合せる有様をしばらくながめていた。最後に彼女は真顔でうなずき、弁護士のほうに向き直り、言った。
「おとなしくして一生懸命でしたわ」
長い髯を生やした老商人が、若い娘に有利な証言を嘆願するのだった。その場合に何か下心があるとしても、同じような立場にある一人の人間の眼にとって、是認されることは何ひとつなかった。弁護士がこんな見世場をやって自分を手に入れようなどとどうして考えることができるのか、Kには全然気持がわからなかった。自分をこれまでは追い払いはしなかったけれども、こんな場面を見せつけては今度こそ自分を離れさせることになるだろうに。弁護士はこの場に居合す者をほとんど侮辱しているのだった。それゆえ、弁護士のやり口というのは、幸いにもKはたいして長いあいだそれの思いどおりにならなくてもすんだのだが、依頼人がついに世の中のことをすべて忘れ、ただ訴訟の終るまでこのような迷いの道の上に身体を引きずってゆくことを望むというようにさせるものだった。もう依頼人ではなく、弁護士の犬だった。もし弁護士が、まるで犬小屋の中にはい入るようにベッドの下にはい入って、そこからほえてみろ、と命じたならば、この男はきっとよろこんでそうしたにちがいなかった。ここで語られているすべてを詳細に自分の胸に納めておいて、上級の場所でそのことを訴え、報告することを任務とするもののように、Kは確かめ考えこむようにじっと聞いていた。
「一日じゅうあの男は何をやっていたのかね?」と、弁護士はきいた。
「あたしはあの人のことを」と、レーニは言った。「あたしの仕事の邪魔をされないように、いつもいる女中部屋の中に閉じこめておきましたわ。
「そう聞いて、うれしいよ」と、弁護士は言った。「だがちゃんとわかって読んでいたのかね」
こんな会話が
「もちろんそんなことは」と、レーニは言った。「はっきりとはお答えできませんわ。とにかくあたしは、この人が徹底的に読んでいるのを見ましたの。一日じゅう同じページを読んでいて、読みながら指で一行一行たどっていましたわ。この人のほうをのぞきこむといつでも、読むことがひどく苦労なように溜息をついていました。この人にお貸しになった書類は、きっとわかりにくいものなんですのね」
「そうだよ」と、弁護士は言った。「それはもちろんむずかしいよ。わしはこの男にそれがいくらかでもわかったとは思わないね。あの書類はただ、わしがこの男の弁護のためにやっている闘いがどんなにむずかしいか、少しでも感じ取らせてやればよいのだ。そしてこのむずかしい闘いを、わしはいったい誰のためにやっているんだ? それは||言うのもばかばかしいが||ブロックのためなんだ。これが何を意味するかも、わしはこの男にわからせてやるよ。ひっきりなしに勉強していたかね?」
「ほとんどひっきりなしでしたわ」と、レーニは答えた。「ただ一度だけ水が飲みたいってあたしに頼みましたの。それで通風窓からコップ一杯渡してやりましたわ。それから八時にこの人を出してやって、食物をあげました」
今ここでほめられているのは自分のことなのだ、そしてそれはKには印象を与えただろう、とブロックは横眼でちらとKを見た。今は大いに有望と思っているらしく、身のこなしもいっそう伸び伸びとし、
「お前はこの男をほめているね」と、弁護士が言った。「しかし、そんなことをやると、まさにそのためにわしは話しにくくなるんだよ。つまり裁判官は、ブロックという男についても、それの訴訟についても、あまりよくは言わなかったんだよ」
「よくは言わなかったんですって?」と、レーニはきいた。「どうしてそんなことがあるんですの?」
ブロックは、今はとっくに言われてしまった裁判官の言葉を自分の都合のいいように曲げる力をこの女が持っていると信じているかのように、緊張した眼つきで女を見つめた。
「よくはなかったね」と、弁護士は言った。「わしがブロックのことを話しはじめたら、不快そうになった。『ブロックのことはやめたまえ』と、言ったよ。そこで、『私の依頼人です』と、わしは言った。『あなたはいいように使われているんだ』と、彼が言う。そこでわしは、『彼の事件はまだだめにはなっていないと思います』と、言った。『あなたはいいように使われているんだ』と、相手が繰返した。『そうは思いませんが』と、わしは言ってやった。『ブロックは訴訟に熱心で、いつも自分の事件を追いかけています。私の家に住み込みも同然になって、いつでも情報に通じていようとしているのです。こんな熱心さは珍しいですよ。確かに個人的には愉快なやつではないし、作法はなっていなくて、きたならしいけれど、訴訟の点では非の打ちどころがありません』とな。わしも非の打ちどころなくしゃべったんだが、わざと誇張してやったんだ。そしたら彼はこう言うんだ。『ブロックはずるいだけだ。あの男はたくさんの聞き込みをかき集めて、訴訟を引延ばすことを知っている。けれどあれの無知のほうがずるさよりもずっと大きいくらいだ。あれの訴訟なんか全然始まっていないということを聞いたら、そして、訴訟開始の鐘の合図も全然鳴らされたことがないと言ってやったら、それに対してどう言うだろうか』ブロック、おとなしくするんだ」と、弁護士は言った。ブロックがよろよろする膝で立ち上がり、明らかに説明を求めようとする気配を示したからである。
弁護士がはっきりした言葉でずばりとブロックに向って言ってのけたのは、これが初めてだった。疲れた眼で半ばはどこともなく、半ばはブロックのほうを見下したが、ブロックはこの眼差を見て、またへなへなとひざまずいてしまった。
「裁判官のこんな言葉は、君には全然意味を持たないんだよ」と、弁護士は言った。「どうか一言ごとに驚かないでもらいたいね。そんなことが繰返されると、もう全然打明けられないよ。一言話しはじめると、今こそ最終判決が下されるのだというような顔つきで見つめられるんだからねえ。ここにはわしの依頼人もいらっしゃるんだから、少しは恥を知ってもらいたい! この方がわしにおいてくださっている信用というものも台なしにしてしまうよ。いったい、どうしてくれっていうんだい? まだ君は生きているし、まだわしの
ブロックは当惑して下にうずくまり、ベッドの前に敷いてある小
「ブロック」と、レーニはたしなめる調子で言い、上着の
「もう毛なんかなでるのをやめて、弁護士さんのおっしゃることを聞きなさいな」
(編集者マックス・ブロート注 本章未完)
Kは、銀行にとってたいへん大切な、そして初めてこの町に滞在したあるイタリア人の顧客にいくつかの芸術上の旧跡を見せるように、という命を受けた。この命令は、ほかのときならばきっと名誉に感じたでもあろうが、今では、大いに努力してやっと銀行での信用を保てるという有様なので渋々引受けた。事務室から引離される一刻一刻が、彼を心配させた。事務室にいる時間はとっくにもう以前のように利用できなくなっていたし、多くの時間はただほんとうに仕事をしているようにやっと見せかけて過すのだったが、それだけに、事務室にいないと心配が大きかった。出かけるとなると、しょっちゅう自分をうかがっていた支店長代理がときどき自分の事務室にやってきて、自分の机にすわり、書類をくまなく探り、多年この自分とほとんど友達同然になっている顧客に応接し、自分と疎隔させ、そればかりでなくさまざまな失策さえも暴露する有様が、眼に見えるように思えてしかたがなかった。そういう失策にはKは今では仕事をしているあいだしょっちゅう四方八方から脅やかされていることがわかっていたが、もう避けることができなくなっていた。そのため、こんな晴れがましい場合であっても、商用外出やちょっとした出張旅行を命じられると||またこんな命令が最近たまたまたび重なったのだが||しばらく自分を事務室から遠ざけて自分の仕事を調べあげるつもりなのだろうとか、あるいは少なくとも、自分は事務室ではいなくてもちっとも困らぬと思われているのだ、という想像をいつも持ちやすかった。こういう命令の多くは苦もなく断われるのであったが、あえて断わる気にはなれなかった。たとい恐れはほとんどまったく根拠がないものであるにせよ、命令を断わることは自分の不安な心持を告白することになるからであった。こうした理由から、このような命令を見かけはさりげなく受け、骨の折れる二日がかりの出張をしなければならなかったときも、よくない
雨の激しい、荒れ模様の朝だったけれども、Kはこれから控えている一日のことに腹をたてながら、七時にはすでに事務室に行ったが、イタリア人の訪問にかかりきりにさせられるまえに少なくともいくらかの仕事を片づけるためであった。少し準備しておこうとして、半夜をイタリア語の文法の勉強に過したので、非常に疲れていた。最近ではあまり
「すぐ行くよ」と、Kは言い、小さな辞書をポケットに入れ、外国人のために用意されている町の名所のアルバムを腕にかかえ、支店長代理の事務室を抜けて支店長室にはいっていった。誰もきっとまじめには期待していなかったはずだが、こんなに早く事務室にやってきて、すぐに求めに応じられることを彼はよろこんでいた。支店長代理の部屋はもちろんまだ深夜のようにがらんとしており、きっと小使は代理のことも呼ぶように命じられたのであろうが、それは果せなかったのだった。Kが応接室にはいってゆくと、二人の紳士は深い
それでKは支店長と別れた。まだ残っている時間は、伽藍への案内に必要な、日常語ではない言葉を辞書から書き抜いて過した。これはきわめて厄介な仕事だった。小使たちが郵便物を持ってくるし、行員がいろいろ問い合せに来て、Kが仕事をしているのを見て、扉のところで立ち止るが、Kが聞いてやるまでは立ち去ろうとしなかった。支店長代理はKの邪魔をしないではおらず、たびたびはいってきては彼から辞書を取上げ、明らかに全然意味もないのにそれをめくって見るのだった。扉があくと、控室の薄暗がりの中には顧客たちさえ浮び上がり、
ちょうど九時半に、彼が出かけようとすると、電話の呼び出しがあって、レーニがお早うを言い、どうしているかときいてきたので、Kは急いでありがとうと言い、伽藍へ行かねばならないので、今は話しているわけにはゆかないと言った。
「伽藍にですって?」と、レーニはきいた。
「そうだよ、伽藍に行くんだ」
「なぜ伽藍になんか行くの?」と、レーニは言った。
Kは手短かに説明しようとしたが、それを始めるか始めないかのうちに、レーニが突然言った。
「あなたは追い立てられているのよ」
自分が求めもせず、期待もしていなかったこんな同情は、Kには我慢がならず、たった二言三言ばかりで別れの
「そうだ、おれは追い立てられているのだ」
だがもう遅くなってしまい、約束の時間に間に合うように到着できないという危険がすでにあった。自動車で行ったが、出かけるまぎわにアルバムのことを思い出し、さっきそれを渡す機会がなかったので、今度持ってゆくことにした。
はるかかなたの主祭壇の上には、大きな三角形を形づくった
イタリア人を待つことは今はもう不必要と思われたが、外は豪雨にちがいないし、この場所もKが予期したほど寒くはなかったので、しばらくここにいることに決心した。すぐ身近なところに大きな説教壇があり、その小さな、
「いったいどうしろというのだろう?」と、Kは低い声で言ったが、ここで叫ぶことはやらなかった。次に財布を取出し、いちばん近くのベンチを通り抜けてその男のところへ行った。ところが男はすぐ手で拒絶の動作を示し、肩をすくめると、
「子供みたいなやつだ」と、Kは考えた。「あの馬の頭では寺男の役目でも十分には勤まるまい。あの男はなんという格好で、おれが立ち止ると自分も立ち止り、おれが行こうとすると、様子をうかがっているんだろう」
微笑しながらKはその老人に続き、内陣をすっかり通り抜けて祭壇の上にまで登っていったが、老人は何かを指さすことをやめず、Kは、その合図は自分を老人の足跡からそらそうという以外の目的がないと思われるので、わざと振向かなかった。ついにはほんとうに追いかけることをやめたが、相手をあまり恐ろしがらせたくはなかったし、イタリア人が万一来た場合のために、この化け物をすっかり追っ払ってしまいたくはなかったからだった。
アルバムを置き忘れた場所を捜しに内陣の中央にはいってゆくと、祭壇合唱隊用のベンチにほとんどくっついているひとつの柱に、きわめて簡単に、飾りけのない
説教の直前に用意することになっているランプが上のほうについていなかったなら、Kはこの小さな説教壇にもきっと気づかなかったことだろう。これで見ると今から説教でも行われるのだろうか? こんなからっぽの教会でやるのか? Kは階段を見下ろしたが、それは柱にからみつきながら説教壇へと続いており、非常に狭いので、人間が通るためではなく、ただ柱の装飾に使われているようだった。ところが説教壇の下のほうに、ほんとうに僧が立っていたので、Kは驚いて薄笑いしてしまったが、僧は登壇する身構えで手すりに手をかけ、Kのほうを見ていた。それから軽く頭でうなずいたので、Kは十字を切り、身体をかがめたが、そんなことはもっと前にやらなければならなかったのだ。僧はちょっととび上がって、短い、足早な歩みで説教壇を登っていった。ほんとうに説教が始まるのだろうか? きっと寺男は思ったほど頭がないわけではなく、Kを説教者のところへ狩り出そうとしたのだろうか? これはもちろん、からっぽの教会ではきわめて必要なことだったわけだ。さらにどこかのマリアの像の前に老婆がいたから、それも来なければならぬだろう。そして、ほんとうに説教だというなら、オルガンの序奏がなくてよいだろうか? しかしオルガンは静まりかえって、その見上げるように高い暗闇の中から、ただぼんやりとのぞいているだけだった。
今のうちできるだけ早く出てしまうべきではないか、とKは考えた。今そうしなければ、説教のあいだに出てゆける見込みはなかったし、そうなると説教の続くかぎり居残らねばならない。イタリア人を待つために事務室でもかなりの時間を失ったし、もうとっくに自分の義務はないはずだ。時計を見ると、十一時だった。だがいったい、ほんとうに説教がやられるものだろうか? Kだけが聴衆となるわけだろうか? もし自分がただ教会を見物しようとするだけの外国人だったら、どうなのだろうか? 根本的には自分もそれと大差はないのだ。今は十一時で、ウイークデー、こんなすさまじい天気だというのに、説教があろうなどと考えることはばかげていた。僧は||疑いもなく僧だったが、平べったい、
ところがそうではなく、僧はむしろランプを調べて、さらに燈心を少しねじり上げ、ゆっくりと手すりのほうに向き直って、角ばった前方の縁を両手で握った。そうやってしばらく立ち、頭は動かさずにあたりを見まわした。Kは相当の距離とびすさって、
「ヨーゼフ・K!」
Kはぴたりと立ち止り、眼前の床を見つめた。まだしばらくは自由であり、まだ歩み続け、彼のところから程遠からぬ三つの小さな黒ずんだ木の扉のどれかを通って逃げることもできた。そうすれば、それはまさに、自分には言うことがわからなかった、あるいは言うことは聞き取ったがそんなことを問題にはしたくない、という意味を表わすことになっただろう。しかし、もし振返ったならば、言うことはよくわかったし、自分はほんとうに呼びかけられた本人であって、言うことに従う、ということを告白したことになるのだから、しっかりとつかまれてしまう。僧がもう一度叫んだなら、Kはきっと立ち去ってしまっただろうが、Kが待っているのにいっさいが静かなままなので、僧が今何をやっているのかを見ようとして、少し頭を向けた。僧はさっきと同じように落着いて説教壇上に立っていたが、Kの頭の動きを認めたことははっきりとわかった。こうなってはKが完全に振向いてしまわないと、子供じみた隠れん坊遊びになってしまうだろう。Kは振返ると、僧に指の合図で、近くに来るよう呼び寄せられた。もはやいっさいは公然となったので、Kは||そうしたのは好奇心からでもあり、また用事を手短かにすませるためだったが||
「君はヨーゼフ・Kだね」と、僧は言い、片手を漠然たる動作で手すりに上げた。
「そうです」と、Kは言ったが、以前にはいつも自分の名前をなんと公然と言えたことだろうかと思った。最近ではこの名前が重荷であって、今では初めて出会う人々さえも自分の名前を知っている。まず自己紹介をし、それから初めて知合いとなるのは、なんといいことだろう、と考えるのだった。
「君は告訴されているね」と、僧はことさら低い声で言った。
「そうです」と、Kは言った。「そう言われました」
「それじゃ、君が私の捜していた人だ」と、僧が言った。「私は
「ああ、そうですか」と、Kは言った。
「君と話すために」と、僧が言った。「君をここまで呼ばせたのだ」
「それは知りませんでした」と、Kは言った。「私がここへ来たのは、あるイタリア人に伽藍を案内するためです」
「よけいなことは言わぬように」と、僧は言った。「手に持っているのはなんだ?
「いいえ」と、Kは答えた。「町の名所アルバムです」
「手から離しなさい」と、僧が言った。
Kはアルバムを非常に激しく投げ捨てたので、それはぱらぱらと開き、ページがくしゃくしゃになって床の上を少しすべった。
「君の訴訟は旗色がわるいが、知っているかね?」と、僧はきいた。
「私にもそう思われます」と、Kは言った。「できるだけの努力をしてきましたが、これまでは効果がありません。確かに、願書をまだ仕上げておりません」
「結局どうなると思うかね?」と、僧がきいた。
「前にはきっとうまく片づくだろうと思っていましたが」と、Kは言った。「今ではときどき自分でもどうかと思います。どうなるかはさっぱりわかりません。あなたはおわかりですか?」
「いや」と、僧は言った。「しかし、おそらくうまくはゆくまい。人は君のことを罪があると考えているぞ。君の訴訟はおそらく下級裁判所を全然脱しえまい。人は、少なくともしばらくは、君の罪は立証されたものと考えているぞ」
「でも私には罪はないのです」と、Kは言った。「それは間違いです。いったいどうして、およそ一人の人間が有罪だなんてことがありえましょうか? ここにいる私たちは、あなただって私だって、みんな人間です」
「それはそうだが」と、僧は言った。「罪のある連中はいつでもそういうふうに言うものだ」
「あなたもまた私に対して偏見を持っているんですか?」と、Kがたずねた。
「偏見なんか持ってはいない」と、僧は言った。
「それはありがたいですが」と、Kは言った。「手続きに関係している人々はみな、私に対して偏見を持っているんです。彼らはまたそれを関係のない人々にも吹きこむんです。私の立場はいよいよむずかしくなるばかりです」
「君は事実を見誤っているんだ」と、僧は言った。「判決は一時に下るものではなく、手続きがだんだんに判決に移り変ってゆくんだ」
「それじゃ、そうですかね」と、Kは言い、頭を垂れた。
「さしあたって君の事件についてどうしようと思うのかね?」
「もっと助けを捜そうと思います」と、Kは言い、僧がそれをどう判断するか見ようとして、頭を上げた。「私が利用しつくしていないある種の可能性がまだあるんです」
「君はあまり他人の援助を求めすぎる」と、僧は
「ときどきは、いやしばしば、あなたのおっしゃるとおりです」と、Kは言った。「しかし、いつもそうだとは申せません。女たちは大きな力を持っています。もし私が、自分の知っている二、三人の女たちを動かして、協力して私のために働かせたら、私は間違いなくやり抜くことでしょう。ことにこの裁判所ではそうです。ほとんど女の
僧は頭を手すりのほうに曲げたが、今やっと説教壇の天蓋が彼を押えつけはじめたようだった。外はどんな荒天だろうか? もう陰鬱な日中ではなく、すでに夜もふけていた。いくつもの大窓のガラス絵は、暗い壁にほんの一筋の淡い光でも投げかけることはできなかった。そしてちょうど今、寺男は主祭壇の蝋燭をひとつひとつ消しはじめた。
「気をわるくされたんですか?」と、Kは僧にきいた。
返事がなかった。
「どんな裁判所に勤めているか、あなたは知らないのです」と、Kは言った。
上ではなお依然として森閑としていた。
「私はあなたを侮辱するつもりはないんです」と、Kが言った。
そのとき、僧が下のKに向ってどなった。
「いったい君は二歩前方が見えないか?」
怒りでどなったが、同時にまた、誰かが倒れるのを見た人が、自分も驚いてしまったので、不用意に、われ知らず叫んだようでもあった。
二人は長いあいだ黙っていた。僧は下のほうを支配している暗闇の中でKをはっきりとは見られなかったらしいが、Kのほうは僧を小さなランプの光の中にはっきりと見た。なぜ僧は降りてこなかったのか? 彼は説教はせずに、Kに二、三のことを述べただけだったが、よく考えてみると、Kのためになるよりは害になるようなものに思われた。しかし、確かにKには僧の善意は疑いないように思われ、もし降りてきたら、意気投合することも不可能ではなく、またたとえば、どうやって訴訟は左右されるかというようなことではないが、どうやって訴訟から
「降りてきませんか?」と、Kは言った。「説教をなさるわけでもないでしょう。降りていらっしゃい」
「もう降りてもいい」と、僧は言ったが、おそらくどなったことを後悔しているらしかった。ランプを
「初めは離れて君と話さなければならなかったんだ。そうでないとあまりに人に左右されやすくなって、役目を忘れてしまうんでね」
Kは階段の下で僧を待った。僧は降りてきながら階段の上のほうからもうKに手を差出した。
「私と話してくださる時間が少しありませんか?」と、Kはきいた。
「
「たいへんご親切なことです」と、Kは言い、二人は並んで、暗い内陣の中をあちこちと歩いた。
「裁判所の人たち全部のうちで、あなただけは例外だ。たくさんの人を知っていますが、あなたをほかの誰よりも信頼しますね。あなたとなら打明けて話ができる」
「早まっちゃいけない」と、僧が言った。
「早まるってどういう点でですか?」と、Kがきいた。
「裁判所のことだよ」と、僧が言った。「法律の入門書には、君のような惑いについてこう書いてある。||
「それじゃあ、門番は男をだましたんですね」と、その話に非常に強くひきつけられたKは、すぐ言った。
「先走っちゃいけない」と、僧が言った。「他人の意見を吟味しないで受取るもんじゃない。わしは君に、この話を本に書いてあるとおりに話したんだ。だますとかいうようなことについては全然書いてない」
「でもそれは
「門番はその前にはきかれなかったんだ」と、僧は言った。「またよく考えてもらいたいが、彼は門番にすぎないんだし、門番としては義務を果したわけだ」
「義務を果したって、なぜそう思われるんですか?」と、Kはきいた。「果しはしませんね。彼の義務はおそらく、縁のない者はすべて追い払うということであったのでしょうが、その入口をはいることにきまっているその男は、入れてやるべきだったのでしょう」
「君はこの書物に十分敬意をはらっておらず、話をつくり変えているんだ」と、僧は言った。「この話は掟にはいるのを許すことについて、二つの重要な門番の言明を含んでいる。ひとつは冒頭、ひとつは結末にあるんだ。そのひとつの個所には、男に今ははいることを許せないと書いてあり、もう一個所には、この入口はお前だけのものだ、とある。この二つの言明のあいだに矛盾があれば、君の言うことが正しいのであって、門番は男をだましたことになろう。ところが全然矛盾がないんだ。反対に、第一の言明は第二のを暗示さえしている。門番は、男に将来ははいることを許す可能性があるという見込みを与えることによって、義務を逸脱したのだ、とほとんど言うことができよう。そのころには男を追い払うというだけが彼の義務であったらしく、事実この書物の多くの注釈者も、門番が厳密さというものを愛するように見え、厳格に自分の役目を守っているのに、およそそんな暗示をほのめかしたことについて、不思議に思っている。多年のあいだ自分の持場を離れず、まったく最後というときになって初めて門をしめるし、自分の役目の重大さというものをきわめて自覚しているんだ。なぜなら、『わしには力がある』と言うからだ。上役に対する尊敬というものを知っている。『わしはただいちばん低い門番だ』と言うからだ。多年のあいだ、この本に書いてあるように『無関心な質問』を投げるだけだったのだから、おしゃべりでもないし、贈り物については『何か手を尽さなかったと君が思わないように、もらっておこう』と言うのだから、
「そりゃあ、あなたはこの話を私より詳しく知っているし、またずっと前から知っているんですからね」と、Kは言った。
二人はしばらく黙っていた。やがてKが言った。
「それじゃああなたは、男はだまされたんじゃない、と思うんですか?」
「私の言うことを誤解しちゃいけない」と、僧が言った。「わしは君にただ、この話について行われているいろいろな意見を教えているだけだ。君はいろいろな意見をあまり尊重してはいけない。書物は不変であって、いろいろな意見などはしばしばそれに対する絶望の表現にすぎないのだ。この場合についても、だまされたのはまさに門番のほうだ、とするような意見さえあるくらいだ」
「それは極端な意見ですね」と、Kは言った。「どういう根拠に基づいているんですか?」
「根拠は」と、僧は答えた。「門番の単純さというものから出ている。門番は掟の内部を知らないのであって、ただ道だけを知っているのだが、その道も入口の前でいつもやめなくてはならない、というのだ。彼が内部について持っているイメージは、子供らしいものと考えられるし、男を恐れさせようとするものを自分でも恐れているのだ、と認められる。まったく、彼のほうが男よりもそれを恐れているのだ。なぜならば、男は内部にいる恐ろしい門番たちの話を聞いてさえもただはいることだけを望んだのに、門番のほうははいろうとは思わず、少なくともそれについては何事もわかっていないからである。ほかの注釈者は、掟に仕えるよう採用されたのであるし、こういうことはかならず内部でだけ行われるはずであるから、門番は内部にいたことがあるにちがいない、と言ってはいる。それに対して答えられることは、内部からの呼び声で門番に命じられたのかもしれないが、三番目の門番を見てもう我慢ができないくらいだから、少なくとも内部の奥深くまで行ったことはありえないはずだ、ということだ。ところでそのうえ、多年のあいだに門番たちについて述べているほかに何か内部について語ったということが、書いてもない。それは禁じられていたのかもしれないが、その禁止についても語ってはいない。そういうことから結論されているのは、内部の有様や意味について何も知らないし、それについて錯覚している、ということだ。しかしまた、
「りっぱに理由がつきましたね」と、僧の説明のところどころの個所を低声につぶやきながら繰返していたKは、言った。「りっぱに理由がつきましたね。そして私も今では門番がだまされたものと信じます。けれど、そうだからといって私の以前の意見をやめてしまったわけではありません。というのは、二つの意見は互いに部分的に重なり合うからです。門番がはっきり見ていたのか、あるいはだまされたのか、ということははっきりきまらないと思います。男はだまされた、と私は言いました。もし門番がはっきりと見ているのなら、それを疑ってみることもできましょうが、門番がだまされたのだとすれば、その錯覚は必然的に男へ移ってゆかねばなりません。そうなると門番は
「それにはこういう反対説があるんだ」と、僧は言った。「つまり多くの人々は、この話は誰にも門番について批判を下す権利を与えていない、と言うんだ。門番がわれわれにとってどう見えようとも、彼は掟に仕える者であり、したがって掟に属し、したがってまた人間の批判を
「そんな意見に私は賛成しかねますね」と、Kは頭を振りながら言った。「なぜなら、もしこの意見に賛成するならば、門番の言ったことをすべて真実と考えなくてはなりません。ところが、そういうことはありえないということを、あなたご自身詳しく理由づけたんですからね」
「いや」と、僧は言った。「すべてを真実だなどと考えてはいけない、ただそれを必然だと考えなくてはならないのだ」
「憂鬱な意見ですね」と、Kは言った。「虚偽が世界秩序にされているわけだ」
Kは結論的にそう言ったが、彼の終局の判断ではなかった。あまりに疲れていて、その話のあらゆる結論をことごとく見渡すことができなかったし、その話が彼を導いていったのは不慣れな思考法でもあった。彼にというよりも裁判所の役人の一味の論議にふさわしいような、非現実的な事柄だった。単純な話が形のゆがんだものとなってしまい、そんなものを自分から振落してしまいたかったが、今は大いに思いやりを見せるようになった僧は、それを
二人はしばらく黙ったまま歩み続け、どこにいるのかわからないまま、僧のすぐそばにくっついていた。Kの手にしているランプはとっくに消えてしまっていた。一度、ちょうど彼の眼の前で聖人の銀の立像がただ銀の輝きだけできらめき、すぐまた暗闇へと消えていった。すっかり僧に
「もう正面入口の近くじゃありませんか?」
「いや」と、僧は言った。「まだだいぶ遠い。もう帰りたいのか?」
Kはちょうどそのとき帰ることを考えていたわけではなかったが、すぐ言った。
「そうです、帰らなければなりません。私はある銀行の業務主任で、銀行では私を待っています。私がここにやってきたのはただ、外国人の顧客に伽藍を案内するためです」
「それじゃあ」と、僧は言い、Kに手を差出した。「行きたまえ」
「でも真っ暗でひとりでは見当がつきかねるのですが」と、Kは言った。
「左の壁のほうに行き」と、僧は言った。「それから壁に沿って壁を見失わないようにして行けば、出口が見つかるよ」
僧が二、三歩離れるか離れないかのうちに、Kはきわめて大声で叫んだ。
「どうか待ってください!」
「待つよ」と、僧が言った。
「まだ何か私に用はありませんか?」と、Kがきいた。
「ない」と、僧が言った。
「前はたいへん親切にしてくれ」と、Kは言った。「私に万事を説明してくれたのに、今はもう私のことなんかどうでもいいというように私を見捨ててしまうんですね」
「だが、君は帰らねばならないんだろう」と、僧は言った。
「そうですが」と、Kは言った。「今言ったことをよく考えてください」
「まず君は、わしが誰かをよく考えることだ」と、僧は言った。
「教誨師です」と、Kは言い、僧のほうに近づいた。すぐ銀行に帰るということは、彼が言ったほど必要なことではなく、ここにとどまっていてもいっこうにさしつかえなかった。
「それだから私は裁判所の人間だ」と、僧は言った。「そうだとしたらなぜ君に用事があろう。裁判所は君に何も求めはしない。君が来れば迎え、行くなら去らせるまでだ」
Kの三十一歳の誕生日の前夜||夜の九時頃で、街の静かになるときだった||二人の紳士が彼の住居にやってきた。フロックコート姿で、
「私のところに来るようにきまっていたのはあなた方でしたか?」と、彼はきいた。
紳士たちはうなずき、一人は手にしたシルクハットでもう一人のほうを示した。Kは、自分は別な訪問客を待っていたのだ、と思った。窓ぎわへ行き、もう一度暗い通りをながめた。通りの向う側の窓々もほとんど全部もう暗くなっていて、多くの窓にはカーテンがおろされていた。二階の明りのついたひとつの窓では、
「老いぼれた、
Kは突然、彼らのほうを向き、きいた。
「どこの劇場でやっておられるんですか?」
「劇場?」と、一人は口もとをぴくぴくさせながら、もう一人のほうに意見を求めた。もう一人のほうは、全然手の下しようのない生物体と闘っている
「質問される心構えができていないようだ」と、Kはつぶやき、帽子を取りにいった。
階段の上で早速、二人はKの腕を取ろうとしたが、Kは言った。
「通りに出てからにしてください。私は病気じゃないんだから」
ところが門の前に来るとすぐ、Kがこれまで人と歩いたことのないようなやりかたで、Kの腕を取った。二人は肩を彼の肩のすぐ後ろにくっつけ、腕を曲げないで、むしろそれを利用してまっすぐのままKの腕にからませ、下のほうでは、訓練の行き届いた、慣れた、反抗できぬようなつかみかたで、Kの両手をとらえた。Kは身体をこわばらせて二人のあいだにはさまれて歩いていったが、今では三人が統一を形づくっているので、一人が倒されれば、全部がめちゃめちゃにされてしまうほどだった。ほとんどただ無生物だけが形づくりうるような統一だった。
街燈の下で、Kはしばしば、こんなにくっついているのでやるのはむずかしかったが、自分の部屋の薄暗がりではできなかったほどはっきりと、二人の連れを観察しようとした。
「きっとテノール歌手なんだろう」と、Kは二人の重々しい二重
Kがそれに気づいて立ち止ると、そのためにほかの二人も立ち止った。広々とした、人けのない、さまざまな施設で飾られた広場にいた。
「どうしてあんた方みたいな人をよこしたんだろう!」と、きくというよりも叫んだ。
二人はどう返事をしていいかわからぬらしく、病人が休もうとするときの看護人のように、腕を
「もう歩かない」と、Kはためしに言ってみた。二人はそんなことに返答する必要はなく、つかみかたをゆるめず、Kをその場から連れ去ろうとすれば十分だったが、Kは抵抗した。
「もう大いに力を振うというどころでなく、根限りの力をつかってみよう」と、彼は考えた。脚を引っ張られながら、
「この連中もたいへんな仕事をやらずばなるまい」
そのとき彼らの眼前に、低くなっている小路から小さな階段を伝わってビュルストナー嬢が広場へと登ってきた。その女がそうだということはまったく確かではなかったが、もちろん似ていることは大いに似ていた。だが、それが確かにビュルストナー嬢であるかどうかはKにもたいした問題ではなく、ただ自分の抵抗の無意味さがすぐ彼の意識にのぼってくるのだった。抵抗し、今二人を大いにてこずらせ、拒みながらも生の最後の輝きを味わおうと試みても、それはなんら英雄的なことではなかった。彼は歩きだし、それによって二人をよろこばせたことが、いくらか自分自身に報いられる結果になった。Kが道をどの方角にとっても二人は黙っているので、彼は女が彼らの前で歩いてゆく道についてゆくことにきめた。何か女に追いつこうとか、できるだけ長く女を見ていたいとかいうためではなく、ただ女が彼にとって意味する警告を忘れないためだった。
「おれが今なしうる唯一のことは」と、彼はつぶやいたが、自分の歩みと二人の歩みとがぴったり合っていることが彼の考えを裏づけるように思われた。「おれが今なしうる唯一のことは、冷静に処理してゆく理性を最後まで保つことだ。おれはいつも二十本もの手を持って世の中にとびこもうとしたのだったが、そのうえあまり適当でない目的のためにだったのだ。それは間違っていた。一年間の訴訟がおれに全然教えるところがなかったということを、おれは見せるべきだろうか? 物わかりの鈍い人間として退場すべきだろうか? 訴訟の初めにはそれを終えようと願ったのに、その大詰になった今ではまた始めたいと思っているなどと陰口を言われてよいものだろうか? そんなことを言われたくない。この道中、おれに対してこんな半分
そうしているうち、女は横町に曲ってしまったが、Kはもう女には用はなく、同伴者たちにまかせきりになっていた。今や三人全部が完全にわかり合って月光の中のある橋を渡った。Kが示すどんな小さな身動きにも、男たちは今はよろこんで従い、Kが少し欄干のほうに向うと、彼らもすっかりそちらを向いた。月光の中に輝き震えている水は、ひとつの小さな島で分れ、その島の上には、一まとめにされたように樹や
「立ち止るつもりは全然なかったんです」と、Kは同伴者たちに言い、彼らがいかにも自分の意のままにしてくれるのを恥ずかしく思った。一人はもう一方の男に、Kの背後で、間違って立ち止ったことについて軽くとがめているようだった。それから彼らはまた歩いていった。
登り坂の小さな道をいくつか行ったが、そこにはあちらこちらに警官たちが立ち止ったり、歩いたりしていた。あるいは遠くのほうに、あるいはすぐ近くにいるのだった。もじゃもじゃの
こうして彼らは大急ぎで町から出た。町はこの方角では、ほとんど変り目というものがなく、すぐ野原に続いていた。まだまったく町らしい趣をとどめている一軒の家のそばに、小さな石切場が、見捨てられ、荒涼として、横たわっていた。この場所が初めから彼らの目的地だったのか、あるいはあまり疲れてもうこれ以上走れなくなったからか、ここで二人は立ち止った。そして、黙ったまま待ちかまえているKを手放し、シルクハットを脱ぎ、石切場を見まわしながら、額の汗をハンカチでぬぐった。あたり一面に、ほかの光にはないような自然らしさと落着きとをもって、月光がふり注いでいた。
さて次の仕事はどちらがやらねばならぬのかという点についていくらか
しかし、Kの
「まるで犬だ!」と、彼は言ったが、恥辱が生き残ってゆくように思われた。
[#改丁]
≪付録≫
ある日、Kが出かけようとしていた直前、電話で呼び出され、すぐ裁判所事務局に来るよう求められた。これに従わぬことのないように念をおされた。彼が述べた前代
ところでKは、その晩、エルザを訪問するように言ってあったので、この理由からだけでも裁判所には行けなかった。それによって裁判所に出頭しないことを理由づけることができることを彼はよろこんだが、もちろんこんな理由を使う気は全然なかったし、この晩にほかの前約が全然なかったとしても裁判所には行かないということはきわめてありうることだった。ともかく、自分にはりっぱな権利があると思いながら、もし行かなかったらどうなるか、と電話できいてみた。
「君をかならず見つけ出せるだろう」というのが返事だった。
「で、進んでゆかなかったというので、罰せられることはあるんですか?」と、Kはきき、きっと言うにちがいないと思われる言葉を予想しながら微笑した。
「そんなことはない」という返事だった。
「それは結構です」と、Kは言った。「ですがそれなら、今日の召喚に従わなければならないどんな理由があるというんです?」
「わざわざ裁判所に強制手段をとらせるようなことはしないものだ」と、だんだん弱くなって最後に消えてゆく声が言った。
「そんなことをしたら、非常に軽率というものだ」と、Kは出てゆきながら考えた。「しかし強制手段というのはどういうものか、一度お目にかかる必要がある」
ためらうことなく、エルザのところへ出かけた。くつろいで車の
昼食のとき、突然、母をたずねようと思いついた。今はもう新年もほとんど終りかけているから、母にこの前会ってから足かけ三年になる。母はあのとき、お前の誕生日には来るようにと頼んだので、彼もいろいろ支障はあったがその頼みに応じ、誕生日のたびごとに母のもとで過すよう約束さえしたのだったが、この約束は確かにもう二度も破ったのだ。しかしそのかわりに今度は、誕生日はもう二週間ばかり後のことだが、それまでは待たずにすぐ行こうと思った。ちょうど今行かねばならぬ特別な理由は何もない、と自分に言い聞かせはした。それどころか、故郷の小さな町に一軒の商店を持っており、Kが母に送る金を管理してくれている一人の
しかし、そんなことはどうあろうとも、Kは今は行くことに心をきめた。彼は最近では別な不快さのために一種の愚痴っぽさを身につけてしまった。自分のしたいと思うことになんにでも
考えを少しまとめるために窓ぎわに行ったが、すぐに食事を片づけさせ、小使をグルゥバッハ夫人のところへやって、旅行に出る旨を知らせ、必要と思うものを夫人につめてもらって
「いいえ」と、Kは言ったが、それ以上の説明はしなかった。
両手を背後に組み、部屋の真ん中に突っ立っていた。
Kはそれからしばらく、事務室の中をあちこち歩きながら小使を待っていたが、Kが旅行に出る理由を聞こうとして何回もやってくる支店長代理には、ほとんど口もきかずに
(編者注 以下は抹消されている)
······もちろん、彼がいちばんやりたかったことはやれなかった。つまり、クリヒの長年の銀行勤めで、Kは人を見る眼や世故に
Kは、銀行の法律顧問であるある弁護士によってこの仲間に連れこまれた。ひところKはこの弁護士と銀行で夜遅くまで長い打合せをやらねばならぬときがあって、そこでおのずと弁護士といっしょにその常連席で夕食をとり、仲間づきあいを大いに楽しむ、ということになったのだった。ここで見られるのは、ただ学問のある、声望の高い、ある意味では権力のある紳士たちばかりであって、彼らの気晴らしというのは、むずかしい、人生とは関連の薄い問題を解こうと努め、この点で疲れるほどやるということにあった。K自身はもちろん、介入できることはほとんどなかったが、遅かれ早かれ銀行でも役にたつようなたくさんのことを聞く機会を手に入れた。そしてそのうえ、いつでも役にたつような個人的な関係を裁判所と結ぶことができた。だがその仲間の人々も、彼のことをよろこんで迎えるように見えた。間もなく実業の専門家として認められ、こういう事柄についての彼の意見は||その場合に事が全然皮肉などなしに運ぶということはなかったが||何か
ところが時のたつにつれ、二人は非常にうまが合うようになったので、教養や職業や年齢のちがいがすべて消えてしまうほどだった。彼らは互いに交際したが、ずっと以前から互いに釣り合った相手同士のようであり、その関係においてときどきは外見上一方がすぐれているように見えるときがあると、それはハステラーではなくてKのほうだった。なぜならば、Kの実際的経験は裁判所の机の上ではけっしてありえぬほど直接的に手に入れられたものなので、たいていはそれが物を言ったからである。
この友情はもちろん、その常連たちのあいだに間もなく広く知れ渡り、誰がKを仲間に連れこんだのかということは半分忘れられてしまい、Kと合うのはともかくハステラーだということになった。Kがこの仲間にはいっている権利があるかどうかということが疑わしくなると、彼は十分の権利をもってハステラーのことを引合いに出すことができるのだった。しかし、Kはそれによってひとつの格別有利な立場を獲得した。なぜなら、ハステラーは声望も高かったが、恐れられてもいたからである。彼の法律的な頭の力や巧みさというものはきわめて驚嘆すべきものではあったが、この点では多くの人々が少なくとも彼と同等であった。だがしかし、彼が自説を守る荒々しさにはなにびとも匹敵できなかった。ハステラーは相手を説き伏せることができないと、少なくとも相手を恐怖におとしいれるのだ、という印象をKは受けたが、彼が人差指を立てるだけで多くの人々は
初めのうちはKがハステラーに、あるいはまた検事のほうがKに、帰路を途中まで同伴してゆくのだったが、後にはこんな夜々はきまって、ハステラーがKに、自分といっしょに家まで来てしばらく自分のところにいてくれるようにと誘うことで終った。そうすると二人はなお一時間も、ブランデーを飲んだり、葉巻をふかしたりして過すのだった。こうした晩はハステラーにとっては非常に楽しいものだったので、二、三週間ヘレーネという名の一人の婦人を彼のもとに住まわせていたときにも、こうしてKと過す夜々を捨てようとはしなかった。肥った、かなりな年配の婦人で、黄ばんだ膚をし、額のあたりに巻いている真っ黒な巻毛を持っていた。Kが初め彼女を見たときは、きまってベッドにはいっており、いつもそこにまったく恥ずかしげもなく横になり、分冊の小説本を読むのをつねとしていて、検事とKとの談話などは気にもかけなかった。夜も遅くなると、やっと身体を伸ばし、あくびをし、また、別なやりかたで注意を自分に向けることができないときには、読んでいる小説の一冊をハステラーに向って投げた。すると検事はにやにやしながら立ち上がり、Kに別れを告げるのだった。もちろん後には、ハステラーがヘレーネに飽き始めると、女は男二人が会うことを手きびしく邪魔した。そうなると彼女はいつも、完全に服装を整えて二人を待つのだったが、しかもそれがきまってあるひとつの服であって、それを女はきわめて高価な、似合うものと考えているらしかったが、実は古ぼけた、けばけばしい舞踏服で、飾りに
ちょうど次の朝、銀行で支店長は商売上の話のついでに、昨晩Kを見かけたように思う、と言った。もし私の錯覚でなければ、あなたはハステラー検事と腕を取合って歩いていた、ということだった。支店長はこのことを非常に奇妙に感じているらしく、||もちろんこれはまたいつもの彼の
「そういうお付合いをしているとは私は全然知らなかった」と、支店長は言ったが、弱々しい、親しげな微笑だけがこの言葉のきびしい調子を和らげているのだった。
(編者注 この断章は本文第七章に直接つながるものだったのであろう。これの冒頭は、第七章の最後の章句の写しを収めているのと同じ紙片に書かれている)
初めは特別の意図をいだいてやったわけではなかったが、Kはさまざまな機会に、彼の事件の最初の告発を行なった役所の所在地を聞きこもうと努めた。彼は苦もなくそれを聞いた。ティトレリもヴォールファールトも、初めてきかれたときにすぐに、その家の詳しい番地を言った。その
Kはすでに画家の本性をよく知っていたので、別に反対もせず、それ以上たずねることはしないで、ただうなずいて言われたことを知識としてただ受取った。最近すでにしばしばそうであったように今度もまた、わずらわしさにかけてはティトレリが弁護士のかわりを十分するように思われた。ちがいというのはただ、Kはティトレリのことを弁護士のように捨てはしなかったこと、もししたいと思いさえするなら、造作なく振捨てることができるだろうということ、さらにティトレリはひどく腹蔵のないこと、そればかりでなく、今は以前ほどではないがおしゃべりなこと、そして最後にKのほうでもティトレリを大いに苦しめることができるということ、それぐらいであった。
そしてこの件についてもKは同じように相手を悩ませたが、ティトレリにその家のことを話すときにはしばしば、お前にはあることを隠しているのだ、自分はあの役所とはいろいろな関係を結んだ、しかしその関係はまだそうたいして進んではいないので人に知られると危険がある、というような調子で言うのだった。ところがティトレリが彼にもっと詳しく言わせようとすると、Kは突然話をそらし、長いあいだ二度とその話をしないのだった。彼はこういうちょっとした成功を楽しんだ。今では裁判所をめぐるこうした連中のことは前よりもずっとよく知っているし、今ではもうこの連中と戯れることもできるし、ほとんど自分でも彼らの中にはいりこんでいて、彼らが身を置いている裁判所の第一段階というものがある程度可能としている相当な見通しを少なくともしばらくは手に入れているのだ、と思いこんだ。自分の地位をこんな
こんなふうな希望をKは毎日のように心にいだいて暮していたわけではなく、一般にはきっぱりと見境をつけ、なんらかの困難を
(編者注 以下は抹消されている)
そうやってかなり長いあいだ横になっていたが、とうとうほんとうに休んでしまった。今でもいろいろ考えてはいるが、ある朝、Kはいつもよりずっと気分がさわやかで、闘志にあふれていた。裁判所のことはほとんど考えなかった。裁判所を思い出しても、このまったく
(編者注 以下三三三ページ十六行まで抹消されている)
この朝は、こうした希望がことに正しいもののように思えた。支店長代理はゆっくりと部屋にはいってきて、手を額に当て、頭痛がすると訴えた。Kはまずこの言葉に返答しようと思ったが、じっと考え、支店長代理の頭痛にはなんら容赦しないで、すぐ事務上の詳しい説明に取りかかった。ところがそうすると、この頭痛がたいしてひどいものでなかったためか、あるいは問題に対する関心が痛みをしばらく追いやったのか、ともかくも支店長代理は話しているうちに手を額から取って、いつもと同じく、まるで解答を携えて質問に向ってゆく模範生のように、即座に、ほとんど熟考もせずに、答えるのだった。Kは今度こそ相手に立ち向い、相手を何回でもはね返すことができるはずだったのだが、支店長代理の頭痛という考えが、あたかもそれが支店長代理の不利ではなくて、利点ででもあるかのように、絶えずKの邪魔をした。相手がこんな痛みを耐え、克服しているのは、なんと驚嘆すべきことだろうか! ときどき相手は、自分の言うことに基づいてというわけではないが微笑し、自分が頭痛を持っているのに、考えることにかけてはそのために少しも妨げられてはいない、ということを得意がっているように見受けられた。全然別なことが語られていたのだが、同時に無言の対話が行われ、その中で支店長代理は、自分の頭痛の激しさを口に出して言いこそしないにせよ、しょっちゅう、自分のはただ危なくはない苦痛であって、したがってKがいつも苦しんでいるようなのとは全然ちがうものだ、ということをほのめかしもした。そしてKがいくら対抗しても、支店長代理が苦痛を片づけてしまうやりかたは、彼に今日もまたそんな具合だった。支店長代理はすぐはいってきて、扉の近くに立ち止り、新たに始めた習慣に従って鼻眼鏡を
「わるい木だ」と、腹だたしげに支店長代理は言った。
彼らが劇場から出たとき、雨が少し降っていた。Kはすでに、その脚本とひどい上演とにうんざりしていたが、
「叔父さん、どうも」と、彼は言った。「近々あなたのご援助をほんとうに必要とすることと思いますが。どういう方面でかはまだはっきりわかってはいませんけれど、ともかくも必要になるでしょう」
「お前はわしをあてにしていいさ」と、叔父は言った。「わしは実際、どうしたらお前を助けられるかということばかり考えているんだ」
「叔父さんは相変らずですね」と、Kは言った。「ただ私は、叔父さんにまたこの町に来ていただくようにお願いしなければならなくなると、叔母さんが気をわるくなさるんじゃないかと、それが心配です」
「お前の事件のほうがそんなふうな不愉快なことよりよっぽど大切なんだ」
「おっしゃることには同意できませんが」と、Kは言った。「しかしそれはどうあろうと、必要もないのに叔父さんを叔母さんからお預かりしていたくはありません。ごく最近に叔父さんに来ていただかなくてはならぬことは前もってわかっているのですから、しばらくはお帰りになりませんか?」
「あしたかい?」
「そうです、明日にでも」と、Kは言った。「あるいは今これから夜行ででも、そうしたらいちばんいいと思うんですが」