この物語は、昨年の秋の末、九州のごく西のはずれの大村という城下町の、その侍小路のふるい屋敷町におこったできごとです。
だいたいこのあたりは、そのむかし、おもだった藩士たちの屋敷跡で、むかしは
おまけにきょうはこのさびしい屋敷町に、いっそうわびしくショボショボと、朝からしぐれがふりつづいて、暮れるに早い秋の日が、もうとっぷりと夕闇をただよわせておりました。
そして、この屋敷町の一角、坂道の木の間がくれに見える、お城の石垣と、あたりを圧してひときわいかめしい
この家のあるじは、よほどさざんかがすきとみえて、門から玄関、玄関からひろい築山、後庭へと、いちめんにさざんかの老樹がおいしげって、そろそろひらきそめた淡紅や白や深紅の花が、けむる秋しぐれのなかに目もあやにうつくしく、門にかけられた看板は、木のかおりもあたらしく久住医院とよまれました。
「おや、ほえてるのは、五郎丸のようだが······?」
と久住博士は、ふと夕餉の箸をおいて、ふつうではない犬のほえかたに耳をかたむけました。
そのころ、いいえ、そのまえから、この医院の飼犬の五郎丸が、くれかかった坂の下のほうの闇にむかって、しきりに喉のおくで、妙なうなりごえをたてていたのです。
犬のするどい嗅覚には、なにか人には見えない闇にうごめく異様なけはいが、それとわかるのでしょうか。いよいよちかづくそのけはいに、五郎丸のうなりは、ますます烈しくなってまいりました。
ウウ、ウウ、ウォーッ! ウウ、ウヮン! ウヮン! と、おどりあがったり、矢のように、門のほうめがけてかけだしたり、気もくるわんばかりに、はげしくほえたてていたのです。
なるほど! この犬がほえるのもどうり! 歩いてきたのか? けむりのようにしのびこんできたのか? とつぜん、白いすがたが、パッとこの暗い門のなかへ、うかびあがってきました。
と、この物語はこのへんからはじまってまいります。
それは、赤ン坊をせおって、この寒空に
五郎丸がさっきから、坂の下をめがけてうなっていたところをみれば、もちろんあの長い坂を、のぼってきたにはちがいありませんが、あがるにもおりるにも、石ころだらけの坂道を、足音ひとつさせずに歩いてくるということは、けっしてできないはずなのです。
それを、この老婆は物音ひとつさせず、通り魔のごとくに、門のなかへはいりこんできたのですから、ふしぎというほかはありません。
しかも、老婆は、四方八方にけわしいまなざしをくばって、せなかの赤ン坊もわすれたように異様に底光りのする目で、にくにくしげに犬をにらみつけて、いまにも五郎丸におどりかからんばかりの、たけだけしいその形相は、これが人間の老婆かと、うたがわれんばかりです。
もうひとつふしぎなのは、この五郎丸という犬でした。これは小馬ほどもある土佐産の猛犬なのでしたが、ふだんから
それが、この老婆だけは、狂気のごとくにほえたけっているのですから、何かこの老婆の正体が、ただならぬものに見えたのかもしれません。
ともかく犬は、ふだんとまったくかわって、牙をいからせ、歯をむきだして猛りくるい、いまにも老婆にかみつかんばかりです。老婆もまた、そのものすごい形相から察すれば、この猛犬におどりかかるかもわかりません。
が、そのとき、犬のほえかたがあまりにもすさまじいのにおどろいてか、玄関に灯がさして、平松という看護婦もでてくれば、かかえ車夫の吉蔵も、あきれかえったように勝手口からとびだしてきました。
とたんに、今までものすごかった老婆の形相が、ハッとしたようにおだやかな表情になって、
「しっ! しっ!」
と、おとなしく、傘で五郎丸を追いはらっているのです。
「まァ、どうしたんでしょうね? あんなにほえて! 吉蔵さん、早く、追ってあげて······」
「これ五郎丸! てめえ、いいかげんにしねえかい! ほえるんじゃ、ねえったら! ふだんめったにほえねえのに、今夜にかぎって、どうしたってんだ! これ! やめろったら!」
「だめよ、そんなことぐらいじゃ! 早く、つれていってしばってよ」
「これ! もうだまれったら、だまんねえか!」
それでも犬は、必死になって、おさえた吉蔵の手をふりもぎり、地面をけって、なおも、老婆に立ちむかおうとしているのです。そして、吉蔵にむりにひきずられ、毛をさかだてて、牙をならしている五郎丸のすがたは、もしこれが口がきけるものなら、
「あなたがたは、なにもしらないからわたしばかり叱っていますが、この婆アの正体をお知りになったら、それこそ、びっくり仰天してしまわれますよ」
と、無念がっていたのかもしれません。
ひきずられていく五郎丸を見ると、はじめて満足したように、老婆はニヤリとうすわらいをもらしましたが、やせおとろえて骨ばった顔、むきだした乱ぐい歯、それが玄関の灯影にうつってチラチラとゆれるものすごさは、まるで芝居の鬼面そっくり······。
ながめていた平松看護婦も、思わずゾッとして、背筋に氷のはしるような気持になりました。
それにしても、この老婆はなんとやつれているのでしょう。まるで骨と皮ばかり······。
あぶらっけもない白髪は、雨にうたれてしずくをたらし、ボロボロのやぶれ傘をにぎったまっさおな手! 死人が墓場からさまよいでてきたかと、うたがわれんばかりのすがたです。
おまけに晩秋の、こんなしぐれのふるうすら寒い日に、洗いざらしの単衣ものをきて、たびもはかずに、素足にピチャピチャと、すりへらした下駄をつっかけ、このからだのどこから、いったい、猛犬の五郎丸におどりかかろうとするような、あんな気力がわきでるものでしょうか?
「ちょっくらうかげえやすけんど······久住先生のお屋敷は、こちらさまでごぜえやしょうか?」
「ハァ、久住はこちらですけど······あなたは?」
「おらがは東戸松在から、めえったもんでごぜえやす。······先生さまおいでやしたら、ちょっくらこの赤ン坊さみていただきてえと、思えやんしてな夜分におうかげえして、もうしわけねえでごぜえやすけんど······」
思ったよりも、しっかりした口調で老婆はいいました。
「ご診察なら、内玄関のとなりに診察室の入口がありますから、そちらからおはいりになって、しばらくお待ちになってください。······先生は今お食事中ですから」
みてもらいたいという赤ン坊は、老婆の背中にスヤスヤとねむって、病人らしくもありませんでした。このおばあさんのほうが、よっぽど病人だわ! と思いながら、奥へいそぐ途中で看護婦の平松は、朋輩の笠井という看護婦と、廊下ですれちがいました。
「とてもおっかない病人がきたのよ。わたしゾッとしてしまったわ。すまないけれど、診察室の入口へぞうきんをもっていってくれない? あの泥足であがられちゃ、やりきれないから」
そうして、茶の間のほうへいそいでいきました。
「先生、患者さんでございますが······」
院長の久住博士は、あかるい電灯の下で、夫人の頼子といっしょに、夕餉の箸をとっていられました。
こんなさびしい片田舎にすんでいるお医者といえば、どんな白髪の老先生かと、みなさんはお考えになるかもしれませんが、博士はそんな年をとったかたではありません。まだ年も三十二、三、そうしていかにも学生あがりらしくキビキビとして、スポーツマンタイプの、そのくせどこかやさしそうな瞳がメガネの奥にまたたいていられます。
博士はついさいきんまで、東京大学医学部の、助教授までもつとめて、こんな田舎にうもれているような、ふつうありふれたお医者さんではけっしてないのです。
ただ、夫人の頼子が胸をわずらっていられるばっかりに、前途ある大学助教授の地位を、おしげもなくなげうって、転地療養かたがた、しばらく夫人の故郷近くのこの土地へきて、医院をひらいていられるかただったのです。
ですから美しい頼子も、一日もはやくじぶんの病気がよくなって、また東京へもどって、輝かしい学者としての道へ夫を専念させてあげたいと、そればっかりをねがっていました。
博士は、すこしはじぶんの勉強にもなるつもりで、ほんの数人の患者でもきてくれればけっこうだと、思っていられたのかもしれませんが、こんな田舎に、めずらしい名医がおいでになったといううわさが、人から人へつたわって、朝から晩まで患者がたえず、今では博士も、ろくろくからだのやすまるひまとてもないのです。
「これじゃあんまり繁昌しすぎて、ちとありがためいわくのようだね」
と、夫人をかえりみて、悲鳴をあげられたくらいでした。
いま看護婦から、このふしぎな患者のしらせをうけられて、このへんの貧しい百姓たちのうちでも、ことにみすぼらしい老婆で、このビショビショ雨のふる晩に、単衣もので赤ン坊をおぶってきたときいては、じぶんのつかれも忘れて、心から気のどくに感じられました。
「よし、すぐにいくよ。······だいぶうすら寒いようだから、部屋をあたためておくように······」
「まァ、かわいそうに、そんなにぬれてるの?」
と、夫人も美しい眉をひそめました。
しかし、博士や夫人のこんなやさしい心づかいも、それはまだこの老婆をひと目も見ていられないからで、その老婆というのは、はたして博士夫婦が、これほど憐みをかけるにふさわしい人間だったのでしょうか?
ただ、老婆の正体を、するどい嗅覚で見やぶったらしい五郎丸だけが、つながれながらも、あいかわらず猛りたっているらしく、また家人に警戒をうながすように、しきりに遠ぼえしているのが夜のしずけさをやぶって、ぶきみにきこえてきました。
「や、おまたせしました······」
と、博士は部屋にはいると、まず平松看護婦が記しておいたカルテをとりあげました。
熱三十八度二分。脈、百三十······。住所、東彼杵 郡東戸松村字 白上二二三番地。津田まさの孫よし子二歳。
「ほほう、これはたいへんだね······」
と博士は、カルテをながめて、びっくりされました。
博士がびっくりされたのは、赤ン坊の容体でもなければ、またこの老婆のことでもありません。じつはこの患者の住所が、あまりにも遠いのにおどろかれたのです。
この老婆のすんでる東戸松村というのは、博士のすんでいる上小路からでは、つづらおりの
「さ、拝見しましょうかね」
と回転椅子をまわして、老婆とまともに顔があったとたん、博士は、もういちど、目をみはらずにはいられませんでした。
なんというひどいやつれかたでしょう! やせてること、まるで骸骨のようです。そしてはだけた胸から、肋骨がひとつひとつ透いてみえて、さながら昔話にある安達ヶ原の鬼婆があらわれでてきたようです。
「わたしがみてあげたいのは、赤ちゃんより、お婆さんのほうだね」
と、笑いにまぎらして、それとなくいってみましたが、きこえたのかきこえないのか、老婆はそしらぬ顔をしています。
「どれ、赤ちゃんの胸をはだけてごらん······そう······そうやって、膝に抱いて······」
聴診器をあててみましたが、
「おかしいな? どれ! ここへ寝せてごらん」
と、博士は壁際のベッドを指さしました。
「ああ、これだな······」
ふとももにポツンと赤くはれあがって、根をはった
「熱はこれのためだね。······お母さんのおっぱいを、あまり飲まなかったでしょう?」
しかしあいては、うなずいただけで、べつだんなんとも返事をいたしません。
「たいしたこともないがね、
赤ン坊の治療はかんたんにすみました。が、それにしても気になるのは、あまりにも瘠せおとろえたこの老婆のほうです。このやつれかたはただごとではありません。
「お婆さん、どこかぐあいでも、悪くはないのかね?」
うんにゃ、おらがは、なんともねえでやす! といわんばかりに頭をふりました。しかし、医者として、このからだがどうしてみすごしにできましょう。
「どれ、ちょっと、手をだしてごらん!」
と、脈をにぎったとたん、不安そうにさっきから、下目づかいに博士の顔を見まもっていた老婆は、腹だたしげに、その手をふりはらってしまいました。
「おらがは、なんともねえだてえのに! おらがは病気じゃねえだったらようッ!」
かみつかんばかりの、おそろしい顔なのです。
そしてその瞬間、なんともいえぬなまぐさいにおいが、プウンと鼻をうって、おそらく顔も口も洗ったことがないらしく、おもわず博士も、顔をそむけてしまいました。
「そうかね、わたしのからだじゃないんだから、お婆さんが、イヤならしかたがないが······」
しかたなく博士は机にむかって、カルテに、いまの処置を書きいれはじめました。
看護婦の平松は老婆のせなかに、泣いている赤ン坊をおぶせてやって、手当のすんだばかりの油紙や、膿盤やメスなどを、かたづけていたように思われました。
そして老婆は博士のうしろで、かえりじたくをしていたようにおぼえていましたが、ちょうどそのときだったのです。なんというふしぎなことでしょう。
机にむかってペンをはしらせていた博士は、老婆に背をむけたまま、とつぜんに、ひきいれられるような、睡気をもよおしてきました。トロトロ、トロトロと、たまらない睡気です。ハッ! として気がついて、どうしたのだろう? と、ふしぎそうに部屋を見まわすと、そこにたたずんでジーッとじぶんを見つめているおそろしい老婆の顔が、目にはいりました。
その異様な底光りのする瞳に、ギョッとしたのもつかのま、また、トロトロと、頭のしんがしびれるばかりの睡気におそわれてきました。いま目にうつった老婆の顔も、赤ン坊の顔も、だんだんと遠のいていって、ペンをにぎったまま、ガックリと博士は机にうつ伏してしまいました。
「······あなた······あなた······あなたったら! まア! どうなさったの? こんなところで居眠りなんかなさって! ······あら、平松さんまで······ さア、お起きなさいよ、平松さん!」
夫人にゆりおこされて、ハッとして博士が目をさましたときは、もう老婆のすがたはそこにはなく看護婦の平松までが博士同様に、スグかたわらの寝台にもたれてねむりこんでいました。
「へえ! 眠ったのかい?······ちっとも知らなかった! いったいどうしたわけなんだ」
と博士はぼんやりして、あたりを見まわしました。
「まア、奥さま······わたし、どうしたんでしょう?」
平松もきまりわるげに、キツネにつままれたような顔をしています。
「あなたは、机にむかったままで眠ってらっしゃるし······平松さんは、その寝台にもたれて、
と夫人はおかしさをこらえながら、けげんな顔をしているのです。
「でも、いまのお婆さんはおそろしい人ね······わたし、身ぶるいしてしまいましたわ! そっと奥まではいりこんできて、部屋のなかをのぞきこむんですもの······とても気味の悪い人よ」
「部屋のなかをのぞきこんでた? ······そういえば、あのお婆さんはどうしたんだろう? ······」
「いまごろ、そんなことをおっしゃったって、もう、いやしませんわ、わたしがいま、送りだしたばっかりなんですもの」
と夫人はちょっと笑いをうかべましたが、しかし、あの老婆がよほどこわかったとみえ、その顔は、スグ気味悪そうにひきしまりました。
そして椅子に腰をおろしながら、夫人の話というのは、こうだったのです。
赤ン坊が雨にぬれているときいて、かわいそうに思った夫人は、お乳でもこしらえてあげようと台所に立ちました。できたミルクもころあいにさめたので、診察室にもってこようと思って、長廊下をあるいてきたとたん、ふと思いもかけずそこに見たのは、電灯の光もとどかぬ薄暗い廊下のかどに、中腰をして赤ン坊をおぶったあの老婆が、ふすまのかげから、ジッと茶の間のようすをうかがっていたというのです。そのときの夫人はべつだん恐ろしいとも思わず、きっとお手洗へでもいったかえりに、部屋をまちがえているのだと思いましたから、
「部屋をおまちがえになったんじゃありません? 診察室は、あちらですのよ」
と、声をかけてみたというのです。
と、だまって立ちあがって、ジロリと夫人のほうをふりむいた顔は······とたんに、夫人はおもわず総毛だって、あッ! とすんでのことによび声をあげようとしました。恐ろしいとも、恐ろしいとも! くらい廊下のなかで、ギラッと目ばかりをひからせて、ニタリと笑った口は耳もとまで裂けて······まだこんなおそろしい顔は、いままでに見たことがありません。
「······あ! ······あの······診察室はこちらですのよ」
と、それでも夫人はふるえながらも、老婆をつれてこようとすると、老婆はさっとじぶんでさきに立って、もときたほうへもどっていってしまったというのです。
そして、返事もしなければ、夫人にあいさつもせず、さっさと下駄をはいて、そのままあとをふりむきもせずに、雨のなかをかえっていってしまったというのです。
「ほんとうに恐ろしくて、わたしふるえてしまいましたわ」
「うむ、山奥の婆さんだからね、礼儀もなにも知らないのだろう。······それにしても、ぼくたちふたりして眠りこんでしまうなんて、ふしぎだね。······なんだか怪談みたいだね。ふしぎな晩だよ。おまけに雨がショボショボふって、まるでむかしのおばけ話にそっくりじゃないか!」
と博士はべつだん気にもとめず、腹をゆすって、笑いだしました。
五郎丸もほえるのをやめたらしく、そとの雨脚だけが、だいぶ烈しくなってきたようすです。
「この雨じゃ今夜はもう患者もこんだろう。どれ、一風呂浴びてくるかな」
と、博士は、ウーンとひとつ伸びをしてたちあがりましたから、それでこの話もそれっきりになってしまいました。
が、いまから思えば、もしこのときに博士や夫人が、もうすこしこの老婆のあやしいそぶりに気をくばって、そして老婆のおそろしい正体に、たとえすこしでも気がついていられたら、まさか、あんな悲惨な目にもあわなかったのではあるまいかと、なにかそのてんに心のこりなものが感じられてなりません。
というのは、博士や夫人は気づかれなかったかもしれませんが、読者のみなさまは、もう、この老婆のあやしいそぶりの数々には、とっくに気がついておいでになりましょう。
ですから、あとでこの話をきいたとき、わたしは、なぜだれかひとりでもそのときに、この老婆のあやしいそぶりに気がつかなかったのだろうか? と、じだんだふみたいほど、残念に感じられてならなかったのです。
しかしくわしい事情をきいてみれば、そこにはまた、なるほどと思われることがないでもありませんから、それをみなさまにも呑みこんでいただくために、この博士夫妻がすんでいられたこの家が、どういう由来の家であったかということを、いちおう申しあげておくことにいたしましょう。
博士のすんでいられたこの家が、このあたりでもひときわ人目をひいて宏荘なのもどうり! いまから何代かまえまでは、いまも町はずれにのこるお城の城代家老、石藤
城代家老といえば、藩でも殿さまのつぎにくらいするおかたで、このかたが、たいそうさざんかをお好みになり、さざんかの名木という名木をあつめ、屋敷のまわりへおうえになったので、いまでも
もちろん今では、そのご家老の子孫は死にたえて、だれひとりのこっていられるかたもありませんでしたが、さすがは一藩の城代家老だったかたの住居だけに、
そして頼子夫人の実家というのは、何代かまえから、このご家老の縁つづきになっていられたので、この宏大な屋敷は、いつのころからか夫人の実家のもち家になっていたのです。
頼子夫人の実家は、ここから六里半ばかりはなれた、吉浦という海岸にある、県下きっての大網元で、夫人にはもう両親もなく、たったひとりのお兄さまがあとをついでいられました。
が、そのお兄さまとて、じぶんの事業がいそがしくて、とてもこんな
「あのお家に、わたし、すみたいわ······お兄さま、わたしにかしてくださらない?」
とたのみましたが、
「ばかな、あんなところへすんでごらん、夜になると、キツネがないてでるぜ!」
と、はじめはお兄さまもあいてにされませんでした。
「それより、もっとよい場所に、あたらしく家をたててあげるよ。そこでゆっくりと保養をするんだな?」
しかし夫人は、あたらしい家をこしらえていただくよりも、ただ無性にこの山茶花屋敷ばかりが頭にこびりついてはなれなかったのです。
いまから思いあわせると、もうそのころから、そろそろ夫人のうえには、あやしい影がおおいはじめていた証拠だといえるのかもしれません。
とにかく、夫人のように胸をわずらっている病人にとっては、この山茶花屋敷ほど、絶好なところはないのです。
はるかに大村湾のけしきを一望のうちにのぞんで、遠くむらさきいろにかすんだ島原半島の山々をながめ、小だかい丘を背に、庭はひろびろと林にかこまれて陽あたりがよく、これほどうってつけのところはありません。
それに、博士も、一も二もなく夫人にさんせいされましたので、お兄さまも、やっとのことでここへすむことを同意されました。そして、玄関のとなりへ診察室と待合室をつくって、裏庭の池にのぞんだ築山のかげには、夫人のために洋風の寝室を建てましされました。
お兄さまは、妹夫婦のために、じぶんのかかえ車夫だった吉蔵という屈強な男と、おもとという忠実な女中とをまわしてよこされ、それでもまだ気にかかるのか、夜が無用心だろうと、何万円というお金をだして土佐からとりよせた、五郎丸という犬までつれてきてくださったのです。
そんなわけで、たださえ近在になりひびいている侍小路の山茶花屋敷に、このごろは、吉浦の網主のうつくしい妹ごさまがおうつりになったそうな、そしてだんなさまは、東京の大学のえらい先生さまで、お医者さまだそうなと、たちまち近郷近在のうわさのたねになりました。
そしてくる患者くる患者、みてもらったかえりに、どれ、山茶花屋敷のお庭を拝見してかえろうかなと、奥庭から、なかには書院のほうまで無えんりょにのぞきこんでいくのでした。
この田舎の人のぶさほうさを、博士も夫人も、いちいち気にもできず、ただ苦笑しているほかはありませんでしたが······
そういうぶさほうな習慣を見なれていたばっかりに、いまこのあやしげな老婆が、夫人の居間をのぞきこんだときいても、博士も夫人も、さして深くは気にとめていられなかったのです。
さて、その翌日は、博士は長崎の医科大学の会合に出席して、町の停車場までかえりついて、むかえにきていた吉蔵のくるまにのったのは、もうかれこれ五時すぎぐらいになっていたかもしれません。
停車場から博士の屋敷までは小一時間くらいの道のりで、もうそのじぶんには、いりあいの鐘がちかくの寺からなりひびいて、町には灯がはいっていました。
きのういらい、この地方特有の南風がはげしくふきまくっているせいか、町の商店は大戸をおろして、往来には人影ひとつ見えません。
そのひっそりとした夕方の田舎道を、くるまに
そしてくるまの進みがだいぶおそくなって、吉蔵のはく息が、ハァハァと苦しげになってきたのは、屋敷へのぼるだらだら坂へかかってきたからなのでしょう。
この坂さえのぼりきってしまえば、山茶花屋敷は目と鼻のさきなのです。と、そのとたんに、
「あッ!」
と、いきなり吉蔵が梶棒をとめました。
「ど、どうした! 吉蔵!」
「だ、だんなさま! た、たいへんなものが飛んで!」
「とんだ? なにが?」
「ひ、
「バカ! あんなものは、人魂じゃない! ばかなことをいわずに、早くやってくれ!」
もちろん、博士も、いま、くらい空に光をはなって、ながい尾をひきながら、右手のやぶかげの墓場へ消えてゆくものを見ました。が、しかし、いまの世のなかに、いったい人魂などというものがあるでしょうか? 医学者である博士は、そんなことを信じてはいませんでした。
と、その瞬間、こんどは博士のほうが「あッ!」と思わず声をあげるところでした。
なんとその
昨夜の老婆なのです! が、声をあげるひまもなく、母衣はたちまち何事もなかったようにおろされました。
と、そのとたん、
「あ、いけねえ!」
と、こんどは、ガクンとまえのめりにくるまがとまりました。
「ど、どうしたんだ! 吉蔵!」
「うごかねえだ! 誰かくるまをうしろからおさえていますだ!」
なるほど、吉蔵が必死の力をふりしぼっているにもかかわらず、くるまは大地に根がはえたように、ビクともうごきません。とすれば、いまのぞきこんだ老婆がおさえているのでしょうか!
けれどもあのやせ腕に、それだけの力があるとも思えません。
「だれだ! くるまのうしろにいるやつは! バカな真似をすると、しょうちせんぞッ!」
とっさに思いついて、博士は闇にむかって声をはりあげてみました。と、とたんに、タタタタと力ぬけでもしたように、二、三歩およいで、ガックリと吉蔵は膝をつきました。が、さすがは長年車夫でつとめあげた吉蔵です。
「だ、だんなさま、し、しっかりと、つかまっていてくだせえましよう!」
と、そのままガラガラと坂をかけあがって、とうとう門内の砂利道まで、一気にひきこみました。そして、
「だんなさまのおかえり!」
と叫ぶと同時にそこにへたばって、ハァハァと肩でいきをしているのです。
しかも、
「あなた!」
と、その声にとびだしてきた夫人の顔もまッさおなれば、看護婦の平松の顔も、血の気もないまでに、あおざめきっているのです。
「あなた! また、あのこわいお婆さんがきましたのよ。ゆうべの、あのお婆さんが······そして五郎丸が、血をはいて死んでますのよ」
「五郎丸が? ど、どこで死んでいる?」
「裏の出口の下の······茶畑のなかで······血まみれになって死んでますんです」
と、看護婦が、あとから口をはさみました。
「······さっき、あのこわいお婆さんがきたとき、またゆうべのように、気がちがったかと思うほどほえてましたけど、それからおもとさんがご飯をやろうとして、いくらよんでもこないもんですから······さがしにいきましたら、茶畑のなかで······」
「ようし······いってみてこよう! 吉蔵、おまえすまんが、懐中電灯をもって、ついてきてくれないか!」
博士は庭をよこぎって、むかしの
五郎丸の死骸は、その茶畑のなかほどの、お地蔵さまの立っているすぐ横手によこたわっているのです。
「うむ······ひどい死にかたをしている······」
さすがの博士も、その五郎丸の屍体を見ると、顔をそむけずにはいられませんでした。
「五郎丸! てめえのようなつよい悧巧な犬がよ······どうしてこんな殺されかたをしたんだ」
と、
よほどひどい格闘をしたのでしょうか? あたりは土や草がふみにじられて、五郎丸はむごたらしいすがたで死んでいるのです。死因はふかい爪傷で、下腹部をひきさかれ、内臓までも露出しているのです。
五郎丸は、日本犬中でももっとも強いといわれる土佐の二歳の雄犬です。めったおこらぬかわりに、いったんおこったがさいご、強盗の二人や三人は、わけなくかみふせてしまうほどの猛犬なのです。その五郎丸に、これだけ爪をたてて殺してしまうあいてといえば、まずシシかトラかヒョウのような猛獣のほかはありません。
しかしそんな兇暴な猛獣が、こんなところにいるわけはないでしょう。すると、いったいこれは、何者の仕業なのでしょうか?
じっと考えこんでいる博士のひとみに、闇のなかにもひときわしるく、わが家の山茶花屋敷とおぼしき家の棟が、ぬっとそばだって、何かあやしきものののろいか怨みでも、そのうえにかけられているような、不吉な感じがしてなりませんでした。
そしてそのとき、博士の困惑をいっそう増させようとしてか、頭上の雑木林の梢がザワザワと風にゆらめいて、てっぺんから、ホウ、ホウ! と陰気なフクロウのなき声がきこえてきました。
「ふしぎだな! あの猛犬の五郎丸が、どうしてあんな殺されたかたをしたのだろう?」
とその夜博士は、とけない疑問に胸をつかれて、床についてからも、なかなか眠れませんでした。やがて夜も一時、二時ごろ、ようやく一日の疲れがでたのでしょう、トロトロとしましたが、それもつかの間、だれかに烈しくゆすぶられて、博士はパッととびおきました。
手さぐりで、枕もとのスタンドへ手をのばそうとしたとたん、やわらかな手が、しっかりと博士の手をおさえました。
「つ、つけないで······あかりをつけてはいけません」
と、まっくらななかで、夫人の声が、博士にすがらんばかりに、おののいているのです。
「ど、どうした? なぜあかりをつけちゃいけないんだ?」
「あなた······さっきから、だれか、家のまわりを歩いているのよ······ほら! きこえるでしょう? あら、だんだんまたこっちのほうへくるわ······あなた、どうしたらいいでしょう?」
「なあに大丈夫だよ、近所の野良犬かもしれんよ!」
が、それは決して、犬の足音ではないのです。
耳をすませると、夫人のいうとおり、たしかに露にぬれた落葉をふんで、ザクリザクリと足音をしのばせて、家のまわりを歩いているではありませんか。しかも、その足音がときどきとだえるのは、雨戸のふしあなから家のなかをのぞきこんでいるけはいです。
そればかりか、ときどき、雨戸に手をかけてみるらしく、ガタガタと風もないのに戸のきしむ音がして、······また、ザクリザクリとあつい落葉をふんで、歩きだしているようすが、ありありとうかがわれます。
「あなた······だれか、家をねらってるのよ······ど、どうしましょうか? 金ダライでもたたいて、さわぎましょうか? それとも吉蔵を起してくださる······?」
「ま、ちょっと待ってごらん! へたに騒ぎだすと、にげてしまうから、······うむ! たしかに人だ! ······」
博士は手ばやく帯をしめなおして、暗いなかにたちあがりました。トロトロしていたので、たしかな時間はわかりませんが、おそらくは草木も眠るといわれる、
この真夜中に、人の家の庭にしのびこんで、部屋のまわりをうろつくとは、もうふつうではありません。遺恨のあるものか、強盗か、いずれはそんなたぐいだったでしょう。さすがの博士も気味が悪くて、なんともいえぬ緊張をおぼえました。
「ようし! 頼子、おまえここにじっとしておいで、······ちょっといってみてくる」
「あぶないわ。あなた、やめてよ! 相手がどんな人間だか、わかりませんもの······それよりおねがいですから、早く吉蔵たちを起してちょうだいよ······」
「いいや、大丈夫だ。どんな人間か、ちょっとみてくるだけだ。そのようすでは、すぐみんなを起す······」
すばやく寝室をでると、博士は、長い廊下のほうへはいかず、寝室をでたすぐ右側のかどにあるふだんはつかったこともない、しめきって、ふとい
この板戸をあけると、そこが裏庭のまんなかで、表庭からきた池の水ぎわになっているのです。
むかし、御城代さまのころには、ここが非常のときのぬけ口になっていたのかもしれません。
その板戸をあける、博士ははだしのまま、しめった土の上へおり立ちました。おりるとき、心張棒を木剣のかわりに、しっかりとにぎりしめていました。
まっくらな空······そして銀砂子をまいたように、無数の星がまたたいているあたりを見まわしながら、博士はすばやく、庭の人のせたけよりも高いつつじの根元に身をひそめました。
ここならば
······と、ふたたびザクリザクリと、落葉をふむ音が、しのびやかにきこえてきました。
「くるな!」
博士が棒をにぎりなおして、息をのむまもなく、夜目にもしるく白いきものをきたものが、ソロリソロリとちかづいてくるのです。
暗くて、定かにはわかりませんが、どうやらときどきあゆみをとめて、雨によりそっているのは、どこかにしのびこむ隙がないかとさがしている模様です。
やがて曲者は、博士のしゃがんでいる池のむこうがわを、いま博士がでてきた非常口のほうへと、ちかづいていくようです。必死にみはっている博士の目に······いいえ、目というよりも、その心の感じに、いま曲者が非常口の戸に、手をかけているようにみえました。
「しまった?」
と、おもわず博士は胸をとどろかせました。
戸はしめてあっても、心張棒をかっていないその非常口は、もし曲者が手をかけたがさいご、スルスルとあいてしまうでしょう。しかも曲者は、その非常口のまえにすいつけられたように、うごかないのです。
博士はかたずをのみました。
と、とたんにやはり曲者は、かんで戸じまりのしてないのに気づいたものか、ゴトゴトやっているなと思っているうちに、スーッと重い杉戸が開きはじめました。
もう、猶予はできません。戸があいたがさいご、そのスグとなりの寝室には、頼子が雇人と遠くはなれて、ただひとりでふるえているのです。どんな危険がおこるかもわかりません。
博士は、いつ、どうしてそこまでかけよっていったか、じぶんにもおぼえがありませんでした。
「き、貴様! なにをするのか!」
と、さけんで、はげしいいきおいで樫の棒をうちおろしました。
たしかに手ごたえが······いいえ、手ごたえどころではありません。すでに非常口に半身をのりいれた曲者の肩さきへ、火のようないきおいで棒はうちおろされたのです。が、なんというかたいからだでしょう。うちこんだ棒は、岩にでもブツかったように、ジーンと博士の手のほうがしびれてきました。
しかもおどろいたことには、これほどの一撃をくらいながら、あいてはべつだんうろたえたようすもなく、半身をのりいれたまま、ジロリとこちらをふりむいているのです。
「あ! き、貴様は······」
と、博士がおどろいたのも道理!
なんとそれは、ゆうべのあの老婆ではありませんか! いいえ、ゆうべばかりではなく、さっきは坂の途中でくるまの母衣をまくってのぞきこみ、博士のるすちゅうに家にきて、みんなをふるえあがらせた、あのおそろしい老婆だったのです。
博士はいきどおりが、胸もとまでこみあげてきました。
「なんの恨みがあって、貴様は真夜中まで、人の家へめいわくをかけるのだ! さ、そのわけをいえ!」
あいてが強盗や泥棒でなくて、あのやせおとろえた老婆だとしっては、腹はたっても、いまさら打ちすえる気にもなれません。
しかたなく博士は棒をすてて、ことばはげしくつめよりました。
「わけをいえ! さ、早く、わけをいえったら、なぜいわんのだ! 老人だと思ってがまんしていれば、いい気になって! ふざけたまねばかりすると、しょうちせんぞ! さ、いえ! どうして、わけがいえんのだ!」
ウヌ! と博士は老婆のえりをひっつかみました。が、そのえりに博士の手がかかったかかからぬかに、老婆の顔がみるみるかわりました。闇のなかで口が耳もとまでさけ、目がランランと輝いて······しかもその顔が、博士の眼前におどったとみた瞬間、あッ! と博士のからだはもんどりうって、いやというほど、大地にたたきつけられました。
「ウヌ、病人だと思っていれば、なまいきな! 貴様、手むかいする気か?」
起きあがっておどりかかった瞬間! ギャオッ! とひと声、すさまじい叫びをあげて、老婆はたちまち博士の手をふりはらって、にげだしました。その瞬間、ヒリリと刺すような痛みを手の甲に感じて、博士がおもわずひるんだすきに、ガサガサガサとはげしい音をのこして、となり屋敷とのさかいの、雑木林へわけいってしまったのです。
スグつづいてあとを追いましたが、その早いこと! 早いこといなずまのごとく陽炎のように、とても人間業とは思われません。夜の闇はふかくて、そのすがたをたちまち博士は見うしなってしまいました。
いまのさわぎで、雇人も起きだして、寝室では、夫人が吉蔵たちにかこまれて、ガヤガヤとさわいでいました。
「だんなさま、泥棒がへえったそうでやすが、寝とりまして、いっこうにぞんじませんで、······えら、申しわけねえこんでごぜえやした」
「あなた、どこまで追ってらっしゃったの? やっぱり泥棒でしたの? どんなかっこうしてまして?」
「暗いから、よくわからなかった。追ってったんだが、雑木林のなかへにげこんじゃってね」
「夜があけやしたら、村の駐在所までしらすことにいたしやしょう。またやってくるといけねえだから」
「なあに、何かとられたわけでもないから、まあ、いいさ。さ、みんなも寝なさい。······どうせコソ泥棒だ、もうきもせんだろう」
と、なにげない
「あら、あなたの寝巻に血が······、まァ······手の甲から血がたれて······どうなさったの?」
「うむ、いまあいつを追ったときに、そこでつまずいたから、茨ででもひっかいたんだろう」
と夫人に心配させぬよう、さりげなくいいすてて、博士は診察室へはいっていかれました。
夫人から注意されるまでもなく、さっき老婆から爪でもたてられたとみえて、手の甲がヒリヒリとかなり痛んでいたのです。
手ばやく消毒して、さて傷口をあらためてみて、かなりそのふかいのにおどろきました。
一筋······二筋······三筋······するどい爪でひきさかれたとみえて、あらってもあらっても、ポタリポタリと、血がしたたりおちてくるのです。しかもながめればながめるほど、これが人間からうけた傷あとか? とうたがわれんばかりの、深いふかい傷······。
「ウム······ふしぎだな!······」
と博士は、小首をかしげました。
どう考えてみても、人間には、これほどまでにあいてに深い傷をおわせるするどい爪は、生えていないはずなのです。ハテナ? と思ったとたん、ふと頭にうかんできたものがありました。
あの犬の五郎丸の死因になった爪傷、どうしても腑におちなかったあの爪傷が、ちょうど、いまじぶんの手の爪傷とまったくおなじだったのです。ハッと、おもわず博士は、くらい診察室にたちすくみました。
もしそうだとすると、犬の五郎丸を殺したのもあの老婆······? 樫の棒で一撃をあたえたときの手ごたえといい、襟首に手をかけたときに、すごい力で大地にたたきつけられたことといい、目にもとまらぬはやさで雑木林ににげこんだすばやさ!······みんなたしかに人間業とも思われぬあやしさです。
ではあの老婆の正体はいったいなんでしょうか?
むかしは、年老いて通力を得たキツネやタヌキは、人をたぶらかしたという話もありますが、文明のこんにちに、そんなバカバカしいことのあろうはずもなく、考えれば考えるほど、老婆の正体というものが、博士にもわからなくなってくるのでした。
さて、その夜もあけると、顔をあらっている博士に、
「だんなさま、おはようごぜえやす」
と、吉蔵がほうきを片手に、よってきましたが、
「俺にはどうも、解せねえことがありやすだ。ちょっくら、きてみておくんなさらねえだか」
「なんだい? 吉蔵、朝っぱらから」
「だんなさまは、ゆんべ泥棒がへえったとおっしゃいましただなあ?」
「ああいったよ。だが、それがどうしたんだね?」
「泥棒なら、人間でやんしょう? ところがけったいなことに、人間の足跡なんてえものはちっともねえでやす。あるものはだんなさまのばかりでやんすがな······」
「だって、俺がこの目で見たんだからね、まちがいはないよ」
「だんなさま、そりゃなにか、だんなさまのかんちげえじゃ、ねえでやんしょうかな? 大きな獣の足跡が、······クマみてえな足跡ばかりがあるでやんす」
吉蔵にいわれて博士は、裏庭へまわってみました。
ふだんだれも足をふみこまず、おまけに陽の目を見ぬ家のかげなので、土もやわらに青苔がはえて、裏庭から雑木林のほとりまで、吉蔵がいうとおり、博士のはだしの足跡にいりみだれて、大きな獣の足跡が、クッキリとのこされているのです。
「ふうむ······」
と、さすがに博士も、うならずにはいられませんでした。
この足跡は、老婆の肩に一撃をくわせてあとを追いかけ、この雑木林の中で見うしなったときのものにちがいなく、そうすると、あの老婆は獣の足跡をのこしていったことになります。
「ようし、吉蔵、俺にはすこし考えがあるから、このことだけは、だれにも話すなよ。人にけっしてしゃべるんじゃないぞ!」
「話すでねえとおっしゃれば、しゃべりはしましねえが、······だんなさま、やっぱり、クマでごぜえやしょうがな? この足跡はクマでなけにゃ、ほかに見当もつかねえだ」
「だから、それをしらべるまで、だまっているんだというんだ」
と、かたく吉蔵にくちどめしておいてから、博士は夫人の待っている、茶の間の朝の食卓にむかいました。
もしかすると、またあの老婆が、なにくわぬ顔でやってくるかもしれないぞ! とその日一日博士は、胸をおどらせていましたが、とうとうその日は、老婆はすがたを見せませんでした。が、やがてその日も暮れかかろうとするころ、またもや博士がひっくりかえるような、おどろくべきニュースがとびこんできたのです。
その日の診察もこれでおわろうとするときでしたが、
「先生、診察ではありませんけれど、東戸松村からお百姓さんが、先生にちょっとおうかがいしたいことがあるって、いってきてますが」
と、看護婦の笠井にあんないされてはいってきたのは、年のころ三十七、八、みるからにぼくとつそうな、陽にやけたお百姓さんでした。
「なにか、わたしにききたいことがあるとか? どういうご用でしょうね?」
と、きがるく博士からうながされましたが、えらいお医者さまの前へでて気おくれしたのか、汗ばかりふいて恐縮しているのです。が、やっと決心したように、
「どうしてもわしどもにゃハァ、合点のいかねえ話だけんど、もしや先生さまごぞんじじゃねえかと思いやんして、それで、おうかげえしたわけでごぜえやすけんど······先生さまは、おとついふたつばかりになる赤ン坊のできものを療治なさったことァあんめえでやしょうかね?······どうも、ふしぎでたまんにえでやんすが······わしは東戸松村の、白上てえところのものでやんす······」
お百姓の話によると、この白上という辺鄙な山奥にすむお百姓夫婦のふたつになる赤ン坊が、五、六日まえから左の股にできものができて、痛むとみえて、昼も夜もヒイヒイないてお乳もろくろくのまず、夫婦で話して、いちどお医者さまへつれていこうと思いながら、なにせ山奥のこととて、一日のばしにしているうちに、いいあんばいにできものが
ところが、三日ほどまえに夫婦が野良からかえってきてみますと、いつも赤ン坊をいれておくかごの中が、もぬけのからになっていたというのです。そこで村中大さわぎしてさがしていましたところ、その日もとっぷり暮れたころになって、だれもいないとなりの納戸から、不意に火のつくような赤ン坊の泣きごえがして、神かくしにでもあったように、赤ン坊がいつのまにかちゃんとかえってきていたというのです。
それにまだふしぎなことは、その三、四時間のあいだに、赤ン坊のできものは、ガーゼや
いったいだれが、こういうことをしでかしたのか? しんせつでしてくれたのか、いたずらなのか?
「もうそれからは、家内はまた子どもをかくされやしねえかと、半狂人みてえになっとりやして、仕事も何も手につかねえでやす。そこでわしもきょうは野良を一日休んで町さきで、医者さまのとこさ軒なみにきいてまわっとるでやすが、もうこれで五人の先生さまに、うかがったでやす。こちらの先生さまいれて、六人目になるでやすが······」
「ほう!······フウム······」
きけばきくほどふしぎな話ですが、博士には思いあたるふしがあるのです。
「わしどものとこから、ここまで十里近くありやすだ······でやすから、赤ン坊の見えなくなった、ほんの三時間や四時間ぐらいでは、いくら足のはやいもんでも、先生さまのお宅までくるわけのねえことはようくわかっとでやすが、どこできいても知んねえ知んねえおっしゃってでやしたから、念のため、うかげえにあがりましたようなわけで······」
「ちょっとお待ちなさい。わたしにも、すこし思いあたるところがある······」
博士はあいてをおさえて、大いそぎでカルテをぬきだしてみました。
「······
「それが、わしの家内の名前でやすが······へえ? 先生さまのところへめえっておりやしただか? で、だれが、つれてめえりやしたでしょうな?」
「お婆さんですよ。こわい顔をした、六十くらいのお婆さんがね」
「へえ! 六十くらいの婆さんが? 先生さま、すりゃふんとうでごぜえやしょうかな?」
と、あいては目をまるくして、せきこみました。
「何か先生さまの、お考えちげえじゃねえでやしょうかな」
「いや、そのお婆さんにたのまれて、わたしがこの手で、あなたの赤ちゃんのできものを切開してあげたんですから、まちがいはないです。しかし女だから、家内や看護婦のほうがわたしより、もっとよくおぼえているかもしれません。念のため、呼んできいてみましょう」
もう、こうなっては、夫人や看護婦たちにも内証にしておくことができなくなりました。
博士はお百姓のまえへ夫人や平松をよんで、そのとき赤ン坊が、どんな模様のちゃんちゃんこをきていたか、そして赤ン坊の顔の特長がどうであったかということなどを、あらためてききだしてみましたが、お百姓は、その赤ン坊はたしかにじぶんの子どもにそういがないが、そのおそろしい顔をした老婆だけは、なんとしても、心あたりがないと、頭をふっているのです。そしてさいごに夫人が、老婆のきもののことを話すと、
「へえ! その婆さんは、
と、お百姓の目がひかりました。
「ど、どういう模様の、単衣もんでやしょうな? じつはそのとき、外にほしといた家内の単衣が、二枚なくなってたでやす。洗いざらしの、ボロでやすが······」
「下の単衣はわかりませんけど、上のは、あらい十字絣の······まるで三十二、三の女がきるような、派手な柄でしたわ。······お婆さんが、ずいぶん派手なゆかたをきてらっしゃると、それでいまでもおぼえてるんですわ」
「あ、奥さま! それでやす、とられたのは、その十字絣で! わしどもの家内は二十七になりやすから、それにまちがいはねえでやす」
「まァ! それではあのお婆さんは、お宅からとったきものをきて······お宅の赤ちゃんをつれてきたんでしょうか? まァおそろしいこと······なんてお婆さんなんでしょうね!」
と、夫人はおそろしさに、身をふるわせました。
それにしてもふしぎなのは、このお百姓の足でさえ、たっぷり一日はかかる遠い道を、わずか三、四時間のうちに平気でいったりきたりする。あの老婆の正体は、いったい何者なのだろうか? ということでした。
しかも夫人は、これだけのことでもうふるえあがっていられるのですから、昨夜老婆が家をのぞきまわっていたことなどしったら、それこそもうどんなにおびえあがって、家中がたいへんなさわぎになってしまうかわかりません。それを思うと必要以外のことは、いっさいいわずにおこうと、博士はいっそうかたく口をつぐんでしまわれました。
けさ足跡を見て吉蔵にくちどめしていらい、博士は老婆の正体について頭をなやましぬいていたのです。そこへもってきて、いまのお百姓のことばをきけば、その神出鬼没のはやわざには、まったくおどろかずにはいられません。
もはやこれでは、この老婆はけっして、人間ではありません。たしかに、妖怪変化のたぐいです。
その妖怪変化のたぐいが、おとといもきてまたゆうべも、真夜中に足音をしのばせて、すきあらばこの家をおそおうとして、庭をウロつきまわっているのですから、さすが快活な博士も、なんともかともいいようのないおそろしさをおぼえずにはいられませんでした。
「おそろしいわね」
「とても、こわいわ······わたし······」
お百姓もかえったあとは、もうじぶんたちの部屋へひっこむどころではなく、看護婦も女中も、夫人といっしょに茶の間にひしかたまって、青い顔をしてふるえているかたわらで、博士はひとり黙念として腕をくみながら、考えこんでいました。
だいいちかりに、あの老婆が妖怪変化であるとしても、いまの世のなかに、そんな妖怪などというものが、ありうることでしょうか? よしあったにしても、その妖怪変化がなぜこうまでもしつこく博士の家を、ねらっているのでしょうか? 考えれば考えるほど、まったくわからなくなってくるのです。
そこでその晩は、家中一同、せまい茶の間へあつまって、ほとんどだきあわんばかりのざこねということにして、ただ博士と車夫の吉蔵だけが、枕許へお酒をとりよせて、夜をあかすことにしました。それでも一同は、風にガタンと雨戸がなったり、きしんだりするごとに、すわこそ老婆がしのびこんだか? と、安き心地もありません。
飲んだお酒にもサッパリ酔わず、一刻も早く東の空がしらんでくれればいいと、そればっかりがたのみだったのです。
さすがの老婆も、このただならぬ気配を察したものか、その晩はべつだんあらわれたようすもありませんでした。が、女たちがこんなふうに震えあがってしまったのでは、これからさきこのひろい屋敷で、夜をすごすことができませんし、また博士のからだもたまりません。
そこで翌日はとうとう、つめかけてくる患者をことわって、吉浦にすむ夫人のお兄さまにたのんで、このわけを話して、屈強な男たちを二、三人かりてこようと、でかけることにしました。
「きょうは義兄さん、内証であなたにすこし、おたのみがあってきたんですがね」
と、博士はさっそく話をきりだしました。
ふしぎな老婆のきたことから、あの猛犬の五郎丸の奇怪な死、そしてそのあくる晩博士の手の甲につけられた爪傷が、五郎丸の爪傷とまったくおなじであったこと、さらに東戸松村からきたお百姓のことまで、のこるくまなく話されたのです。
お兄さまは、はじめのうちこそ笑い顔をしていましたが、あまりのふしぎさに、これをそのまま信じてよいのかどうかに、こまりきった表情をされました。
「きみのようなりっぱな学者にわからない話を、ぼくには、どうも······こまったね」
と、ためいきをもらされるほかはないのです。
「まさかいまごろ、妖怪変化がでるとも思われないし、······しかしきみのたのみは、しょうちしたよ。あんなところにすんでたら、さぞ淋しかろうと、内々ぼくも気にかかっていたんだよ」
「わたしも、こんな話をもちこんだら、さぞ義兄さんに笑われると思ってたんですが、そうかといってほかに相談する人もないし、また話したところでなかなかわかってもらえませんからね。ですが、もうこのままにはしておけないのです。第一、あのからだの弱い頼子が心配ですからね」
お兄さまは、ふかいものおもいにしずみながら、ポツリポツリと話している義弟の博士の顔をながめていられましたが、なにか、ふと思いだされたように、
「ああ待ってくれ、靖彦君······いまひょっと思いだしたことがある。あ、そうだった。そうだった。あの了福寺の和尚だった······」
と、膝をたたかれました。
「靖彦君······きみの話の腰をおるようですまんが、どうだい? ここから半道ばかり奥に、了福寺という寺があるんだが、いまからぼくといっしょにそこまで、いってくれないかね?」
「なぜ、そんなところへいくんです?」
「きみたちがまだ東京にいる時分のことだが、そこの和尚がいちど、なにかのついでに、ぼくに、あの屋敷をね||いまきみたちのすんでいる家さ||あの家をおしがらずに、ひとおもいにこわしてしまえ! と忠告してくれたことがあるんだよ。
いまそれを思いだしたんだ。そのときは、坊主め何をくだらんことをいう! と思って、気にもとめずにききながしていたんだ。いまきみの話をきいているうちに、家をこわせといった和尚の話に何か関係があるように思われてきたんだよ。なぜあの家をこわせといったのか? そのわけを、きみとこれから和尚のところへいって、きいてみたいんだよ」
正直なところ、博士はあまり気がすすみませんでした。むかしの化けもの話ではあるまいし、そんな年をとった田舎寺の坊主のいったことばなどを気にして、きいてみたところで、なんの役にたつわけでもないし! と思っていられたのです。しかし、お兄さまがせっかく親切にいってくださるのを、無下にことわるわけにもいかず、とうとうつれだっていくことになりました。
その了福寺は、この吉浦の町はずれから
「おうおう、吉浦の健一さんか、遠いところをようこそ見えられたな、さァさァ、こちらへおあがり······」
七十をすぎた老僧は、きさくに玄関へ立ちあらわれましたが、お兄さまのうしろにしたがった博士にチラッと目をそそぐと、おや! といったように、まっしろな眉毛の下のひとみが、さすように博士の面へとまりました。
「健一さん、このお若いかたは、おつれかいな?」
「ハ、まだおひきあわせもしませんでしたが、義弟でして······妹のつれあいなのです······」
「いかんな···これはいかんな······」
と和尚さんは、お兄さまのことばも耳に入らぬようにつぶやきながら、いぶかしそうにじっと、博士の面へ目をとめていられるのです。
「健一さん、くるそうそうろくなことをいわん坊主だと思われるかしらんが、このお若いかたにはおそろしいものがついとるな。命をねらわれとる······」
とたんにお兄さまも博士も、ハッと顔色をかえてしまいました。
「と、おっしゃいますと?」
「このお若いかたのうしろに、ゆだんのならぬものがついとるんじゃよ······あんた、このごろうちから、なにか恐ろしい目におうてなさるじゃろが?」
「ハ、じつはそのことについて、きょう義兄のところへ相談にまいって、こちらへうかがおうということになりまして······」
「そうじゃろ、そうじゃろ、あんたには恐ろしいものがついとる。いかん、いかん! 早くしまつしてしまわにゃいかん! さあさ、はやく靴をぬいで······おあがり! できることはご相談にのってしんぜよう」
青苔のにおいがただよう、しずかなふるびた書院へ通されてから、博士は一部始終をこの和尚さんに話されました。
「そうであろ······おおかたそんなことであろうと、わしも察していましたのじゃ」
と、和尚さんはふかくうなずかれました。
「ときにあんたは、その老婆がなにものか、見当がついておいでかな?」
「ハ、それがいっこうにわかりませんので······」
「健一さん、これはあんたの、大失策じゃよ。わしがあの家は悪因縁のまつわっとる家じゃから、こわしてしまいなされと三年まえにすすめたときに、なぜそのとおりになされなかったのじゃ? わしもできるだけのことはしてしんぜるが、そのかわりわしのいうことだけは、守らにゃいけませんぞ。さもないと、その老婆にかかって、命をおとさにゃならぬ」
「その、老婆というのは、いったい何者でしょうな?」
お兄さまがたまらなくなって、せきこまれました。
「わしの見るところでは、人間ではないな」
「人間でないとおっしゃると······?」
「わしは怨霊じゃろと見ている。怨霊も怨霊、よほど
「怨霊?······へえ! 怨霊とはおどろきましたね。で······では、この災難を、どうしたら救っていただけるでしょうか?」
「ま、お待ち······それはわしもいまから頭をひねるんじゃが。そんな怨霊が、なんのためにあんたたちに
と、老和尚は、つよく念を押してから、世にもふしぎな身の毛もよだつようなおそろしい話をはじめられたのです。
「それはいまから百七十年ばかりもむかしのことなのじゃが······あるいはかれこれ二百年ばかりになるかもしれんな。そのころ山茶花屋敷には、この屋敷をたてた石藤
と、むかしをしのぶように、和尚さんは
この老僧は、いったいどういう話をしてくださったのでしょうか? だいぶ長いお話になりますから、それを私がかわって申しあげることにいたしましょう。
まえにもいいましたとおり、城代家老といえば、藩では殿さまのつぎに位する権力ならびないおかたです。
左近将監はそのころ四十五、六、かくばったその名のしめすとおり、
若党、
おそらく、碁のあいてでも待っていたのかもしれませんが、ちょうどそれは暑い暑い真夏の七つ時、
南国西九州の午後の四時は、まだまだ陽ざかりもおなじこと、あけはなした縁側の藤棚には、夕陽がカッカと照りつけて、草も木もグッタリと土いきれのなかにあえいでいます。
じっとすわっていてもタラタラと
がっしりとしたたくましい骨組や、
そしてこのまちがいも、もとはといえば、やはりその癇癖のつよい、気のみじかいところから起ったことなのでしょうが、御城代のごきげんが悪いときくと、城中のさむらいたちでも、この邸につかえている召使たちでも、声をひそめてちぢみあがるといわれるくらい、名代のかんしゃくもちでとどろきわたっているかたでした。
そしていまも、その待ってる人がなかなかあらわれないとみえて、左近将監の癇はだいぶピリピリと、たかまってきている模様です。
「佐平治! 佐平治! コレ、そこにだれかおらぬか?」
と、手をたたいてふすまごしに、雷のような声をだしました。
「ハ!」
と、へだてのふすまがあいて、若党がしきいぎわに手をついております。
「およびでいられましょうか?」
「そこにいたら、なぜ、返事をせぬ? うかつものめが!」
と、えんりょえしゃくもなく癇声は、その佐平治とよばれた若党のうえに落下します。
「おおかた、主人がいねむりでもしていると心得て、貴様までがそこでいねむりしていたことであろう。不届千万な!」
「おそれいります!」
「ただおそれいっておったのではわからん! 竜胆寺どのはまだおみえにならぬのか? 竜胆寺の小金吾どのは?」
かみつくような声でした。
「ハ! まだおみえになりませぬようで······」
「たわけものめ!」
と、ふたたび雷が頭の上でなりわたりました。
「ヌケヌケと昼寝なんぞしおって、おみえになったかならぬか、どうして貴様にわかる! 横着者め! はようといっておむかえしてこんか! たわけものめが!」
「ハ! では、た······ただいま、······ただいまよりおむかえにいってさんじまする」
左近将監は、もう返事もせずに平伏した若党のほうへ背をむけたまま、かんしゃく筋をピクピクと、そのいかつい顔のこめかみのあたりにうかべながら、じっと盤面の石をにらんでいます。
「当節の若いものは······約束の刻限をたがえることを、なんとも思うとらん······
と襟首のあたりの汗をいらだたしげにふいているのは、いま立ちさった若党のことを怒っているのではありますまい。おそらくすがたをまだ見せぬ、その竜胆寺の小金吾とやらいう碁のあいてのことをでもブツブツいっていたのかもしれません。
「コレ藤······藤······藤はおらぬか? 八重······八重······たれぞ、麦茶でももてまいれというに! ええ! どいつもこいつも気のきかぬやつばかりそろいおる!」
と、ふたたび大声をはりあげて、せっかくならべた碁盤の石を、腹だたしげにジャラジャラとくずしてしまいました。
こうして城代の左近将監が、かんしゃくをおこしてじれきっているころには、西陽のかんかんてりつけて、白くすなほこりをまいあがらせている邸のまえの坂道をかけおりて、若党の佐平治はたきなす汗をぬぐいながら、
石橋をわたりおえて、これと従者の若党と、したしげに何か話しながら、いましずかに歩をはこんでくる、美々しい小姓姿の少年がありました。
「お、竜胆寺さまだ! 竜胆寺さまの若さまがおみえになった!」
と、まぶしい光線に小手をかざしながら、若党の佐平治のホッとすまいことか! たちまち満面に喜悦をたたえながら、砂ほこりをけたててちかづいていきました。
万物を赤々とそめなしている、このあかるい光線のなかに、絵のようにクッキリとうきだしながら、おちついた足取りでこちらへむかってくるこのお小姓姿の少年は、なんという世にもうつくしいすがただったでしょう。
すきとおらんばかりに色白な、十六、七の前髪立ちの少年ですが、そのおもては熱気にむされてじっとりと汗ばみ、さくらいろにほんのりと上気しています。
そしてパッチリと見ひらいたまつげの長いひとみは、黒水晶のようなすずしさをおびて、
「いや、もう、若さま、さきほどから主人がきついお待ちかねで、おひとりで石をならべ、
いや、もう、助かりましたと申しあげてよろしいやら、ありがたいと手をあわせて、よろしいやら······なんともおかげさまで助かりましてございます」
「ハハハハハご家老のかんしゃくは音にきこえたもの······約束の刻限にだいぶおくれてさぞかしおいらだちのこととは察していたが······」
と、この若さまとよばれるお小姓は、女のようにやさしい笑みをもらされました。にいっと愛らしいえくぼがうかんで、紅いくちびるからまっしろな糸切り歯がちらとのぞいています。
「そちどもの迷惑も察せぬではないが、こまったことに、母が三、四日来の病気でのう。病はさしたることもないが、なにせ親ひとり子ひとり······ことに、目の見えぬ母をかかえていることとて、よろずに心細がってわしばかりをたよりにあそばさるる。許してくれい、佐平治とやら! なかなかぬけだしてくることが、できんかったのじゃ」
「それはそれは、ぞんじませんで、ついてまえのことばかり申しあげまして······ま、あのようなお気質の主人でございますれば、しょうちしてはおりましても······そこはつい、その······おいでがございませんと、いちずにかんしゃくがつのるようなわけでござりましょう······」
と、若党は暑さと恐縮のためにいっそう汗をぬぐいました。
「わしは他人じゃからかまわぬが、そちども召使たちには、わしのきようがおそいと、とんだ迷惑をかけるのう。では、······さ、佐平治とやら、そちはひとあしさきに将監どののお邸へもどってな、わしが参着したと、先ぶれしてはどうな? さもないとまた気がきかぬやつとしかられるかもしれぬぞ。わしにかまわずに、さ、ひとあしさきにもどってはどうな?」
「おそれいります。さようなれば、てまえは一足おさきへごめんこうむりまして······」
「そう、遠慮はいらぬ。そういたせ、そういたせ」
と、少年はいたわりを目もとにほほえませて、やさしくうなずきました。そしてかんしゃくもちの主人をもった若党が、かわききった道をほこりをたてて、坂をかけあがっていくあとから、おちつきはらってべつだんいそぐでもなく、ゆうゆうと山茶花屋敷のほうへあゆんでいくすがたは、左近将監などとは雲泥の相違のおくゆかしさといわなければなりません。
が、それにしても、頬髯いかめしい、あから顔の四十いくつかの左近将監が、しきりに待ちきっていた碁のあいてというのは、こんな
そして、権勢ならびなき城代家老石藤左近将監がかんしゃくをおこして待ちかねきっているときいても、べつだんおどろきあわてたようすもなく、あいかわらずおちつきはらって、ゆうゆうたる足どりで坂道をあがっていくとは、さてもふしぎな少年とお思いになるかもしれませんが、そのわけは、回をあらためて申しあげることにいたしましょう。
おちつきはらっているのも道理! このお小姓は家老石藤
ここから一里ばかりはなれた上久原というところにあるその邸も、この御家老の山茶花屋敷にくらべては比較にならぬほど手ぜまであり、また召使としても、いまつれている若党のほかには、下男がひとりに女中がひとり······この御家老の
しかし、家柄としては、この大村藩中もっとも家格たかく、殿さまさえもいちもくおかれて、なにかの儀式のおりなどには、最高位をしめる、いわば代々この大村藩の客分ともいうべき身分のかただったのです。
系図によれば、むかしはここの殿さま大村出雲守のあるじすじにあたる家柄だったとかで、はやくに父君をうしなわれ、いまでは不幸にして眼病をわずらって両眼をめしいられた母君とふたり、まことにわびしい日をくらしてはいられますが、殿さまからは、生涯無役、客分として大村藩のつづくかぎり、禄高四千八百石にあておこなうものなりという、お墨付をもらっていられる、まことに、気楽な身分のかただったのです。
これで、この少年が美々しい小姓すがたはしていても、けっしてたんなる殿さまのお小姓でないことは、みなさまにもおわかりになったであろうと思われますが、同時にこの少年が、幼より碁の道にひいでて、天才碁客として、その方面にだれ知らぬものない名をうたわれて、まねかれれば城代家老の邸へも足はむけられますが、もってうまれた名家の気品たかく、たかが家老ぐらいがかんしゃくを起そうがおこすまいが、眉毛ひとつうごかされぬわけも、またみなさまにはおのみこみになれたであろうと思われます。
やがて坂をのぼりきって、うつくしい小姓すがたは白扇片手に、しずかに玉砂利をふんで城代屋敷の表玄関へとかかりました。
すでにさきほどの佐平治から、
「竜胆寺さまの御入りィ!」
と、さきぶれがかかっておりますから、このときには召使一同玄関へいながれて、頭をさげております。
そしてかんしゃくはおこしても、左近将監とても座敷にすわって、横柄にかまえているわけにはまいりません。かんしゃくすじをピクピクさせた顔に、とってつけたような笑みをうかべて、玄関へでむかえてきました。
「これはこれは、小金吾どのにはお暑いところをようこそ、ようこそ!」
藩中のさむらいなれば、頭を腰のあたりまでさげて、御家老さま! と、ここで平伏するかもしれません。しかし少年ながらも名門の若さま、そんなブザマはいたしません。
「御家老!」
と、式台にたたずんで、かるく左近将監に目礼しました。
「ただいまも、左平治とやらお召使にもうしたるごとく、母
「いやいや、そのごあいさつではいたみいります。そのおとりこみのなかをわざわざご光来、拙者のほうこそおそれいります。ささ、まずまずお通りくだされい! さあ、さあ、······これ、八重! なにをまごまごしとる! 小金吾どののお腰のものでもおあずかり申しあげぬか? なに? 陽がおちると、広書院のほうがかえってすずしいと? それならそれで、なぜ早く席をそちらのほうへうつさん?」
などと、さっきとはうってかわって、下へもおかぬ上機嫌のもてなしです。
「御母君のごようすはいかがかと、じつは拙者もないないお案じ申しあげとる。なんせ、この暑気ではな······ごようすはいかがでござるな? どんなごあんばいで?」
「病はさしたることもありませんが、ごしょうちのように不自由なからだ、召使どもはおりましても、心ぼそがって一刻もてまえをはなしたがらぬにはこまります」
「ごもっとも、ごもっとも! ごむりもないことじゃ、ごむりもないことじゃ!」
と、左近将監は
「
と、このわがままいちずな御家老は、さっきまでのかんしゃくはどこへやら! じぶんが碁をうちたいばっかりに、その不自由な母親のもとからこの少年をよびつけたこともわすれて、ケロリかんとしてそういいましたが、もちろんこの家老の心のなかに、そんな思いやりなどがあったわけでは、微塵もありません。
ですから、ごむりもない、ごむりもない、そばにいてあげなされ! といっている横から、もうそんなことはわすれて、碁の話でむちゅうです。
「いや、もう、このまえは拙者さんざんの敗北でしたがな······ささ、あいさつなどはこの暑苦しいのに、どうでもよろしい、拙者もこのとおり、ごめんをこうむっております。そこもとも、どうぞおたいらに······拙者もこんどこそは小金吾どのを打ちやぶるべく、この四、五日来妙手を一手案じましてな。この手をもちいて一勝負こころみたく、いやもう、腕がなって腕がなって、先刻来、一刻千秋の思いでご入来をお待ちしていましたわい。さ、なにはともあれ、まず一石、一石!」
と、来たそうそうから、碁の話ばかりです。
少年は苦笑しながら、侍女のはこんできた盤面にむかいました。
孝心のふかいこの少年は、たとえかりそめの病とはいえ、目の不自由な母のせわを、召使などの手にゆだねて、家をあけてきたくはなかったのです。
しかし、いま殿さまが江戸表へおのぼりになって、留守をあずかる御城代から再三再四のむかえをうけながら、さしたる病でもないのに母の病気を口実にいかぬということは、何か家柄を鼻にかけて、御家老などは眼中にもないというふうにとられるのも、おもしろくありません。
そして病気のお母さまも見えぬ目をしばたたきながら、こうおっしゃっていられたのです。
「そなたの気がすすまぬものをむりにおいでとはすすめにくいが、しかし、むかしはいかな家柄なればとて、いまでは大村どのの
城代どのは評判の
と、すすめられて、心はすすまぬながらも、ここまで足をはこんできたのです。母がてまえをはなしたがらなくて······と、少年はいっていましたが、事実は逆で、少年自身がはなれたがらなかったのです。ですから
が、さっきからのとってつけたような、左近将監の歯のうくよなおせじをきいているうちに、少年の心にはむらむらとおさえがたい不快の念がきざしてきました。
そなたは年も若ければ、なるべく家中のお歴々からにくまれないようにしなければなりませぬとの、母の
またその
無言で盤面にむかうと、少年はもくもくと石をとりました。とったどころではありません。腕前の相違をさとって、二度とふたたびじぶんをよびつけることのできないように思うぞんぶんに打ち負かしてくれようという肚でしたから、その気組みはしぜんしぜんと少年の目にあらわれ、顔にあらわれてまいります。
パチリパチリと、ひとこともいわずにうちこんでいく、その気合のするどさ!
「ほほう! きょうは小金吾どの! だいぶお手荒うござるな!」
と、はじめのうちはタバコをすったり、お茶を飲んだりして、ゆうゆうとうっていた左近将監もびっくりして、飲みかけた湯呑みを下へおきました。そして、じぶんの顔を見あげて、ニヤリとつめたい笑みをくちびるにうかべたまま、一言もいわぬ少年の、玉のようなおもてに目をはしらせたとたん、ハッとしたように、この家老もいずまいをただしました。
「さようでござるか! わかり申した······と。······よろしい、わかり申した······と。勝負はどこまでいっても、勝負でござる。なさけ容赦は、いらぬことでござると、な。よろしい、拙者もそのつもりで、かかりもうそう」
と、もうお茶にもタバコにも手をださなくなりました。いいえ、手をださなくなったばかりではありません。一局また一局と、だんだん負けこんでくるにしたがって、また癇のむしがたかぶってきたのでしょう。しだいしだいに左近将監の顔色がかわってきました。
考えだした妙手もヘチマもあったものではありません。九州の
「よろしい! そうでられるか! では、拙者はこういたそう······と」
左近将監は、四十いくつのふんべつざかりの城代家老ともあろうものが、あいてがまだ子どもであることもわすれて、苦戦におちいると、頭からポッポと湯気をたちのぼらせはじめました。
顔はまっかにもえて、目が血ばしって、もちまえの癇癖をこらえてうなりながら、さっきからじいっとくちびるをかんで盤面をにらみつけているのです。
陽はとっぷりとくれて、時刻はもはや四つ
さっきから女中の藤や八重が、いくたびかようすを見にきているのですが、ふたりとも箸をとるどころではありません。そのようすにあきらめて、台所へでもひっこんでしまったのでしょう。ひっそりとして、あたりには
そして少年のほうもまた思惑がはずれたように、さっきとはちがって、だいぶ焦燥の色がその美しい顔にただよっています。
たてつづけに負かしてくれたら、こりていいかげんで、やめにするだろうと思いのほか、左近将監のしつこいことしつこいこと······もう一局もう一局とねだって、はてしがないのです。
「さ、御家老! そう考えこんでいられても、きりがありません。だいぶ夜もふけましたし、母も待っておりましょうから、てまえもこのへんで、おいとまいたしたいと思います。······さ、早く、石をおおろしください! もう勝ち負けは、わかっているではありませんか!」
しかし、むちゅうになっている家老には、このことばも耳にはいりません。どこへおろそうかと石をはさんでとまどっているようです。考えに考えて、やっとパチリと一石······と、間髪をいれず少年の石がパチンとひとつ!
「あっ!」
と、家老がさけびをあげました。
「そ、その石だけは、ちょっと待ってもらいたい! ちょっと······その石だけは!」
「なりませぬ!」
と、少年はひややかに、いいはなちました。
「さ、つぎをお打ちください」
「ちょ、ちょっと、待ってもらいたい······そうせかされても······」
左近将監の
「では、ここへおろすか······」
間髪をいれず、また少年の石が、パチンとひとつ!
「あっ!」
と、家老がいそいでその石をとりのけようとしたとたん、少年は顔色かえて、無言のまま刀をひきよせました。
「御家老! てまえは、これで失礼をいたします」
「な、な、なんとめさるこの一局をかたづけずに?」
「さよう!
「ひ······ひ、卑怯とは······?」
「さようではござりませぬか! てまえの打った石におどろいて、すでにお打ちになったごじぶんの石をとりのけようとは、卑怯ではございませぬか」
「しかし、まだ石を打たぬのだから、さしつかえないではないか! 拙者が石を打ちおろさぬうちに、そこもとが打ちおろされた。いわば、はやまってそこもとが打ちおろされたも同然······拙者、とりのけたからとて、いっこうさしつかえないと思うのじゃが」
「恥をお知りなされませ、御家老! 若年とあなどっておいいくるめなされますか! 戦場で弓矢をあわせながら、敵のいきおいにおどろいて、あわてて軍勢のたてなおしをなされますか? 卑怯未練なおかたのおあいては、てまえにはつとまりかねます」
「············」
理の当然のことばに、かえすことばもなくさしうつむいたとたん、
「ごめん!」
と少年は刀をひっさげて立ちあがりました。
「さようか······ぜひもござらぬ!」
と、しかたなく左近将監も立ちあがりましたが、たださえ
「ウヌ暴言思いしったか!」
とばかり、背後からいきなり抜き打ちにバサッと、けさがけに肩から切りおろしました。サッと血は天井にも欄間にもしぶいて、少年は二足三足よろめきましたが、さすがは名門の若君、重傷にもめげず、全身紅にそまりながらも刃を抜きあわせました。
「ウウム、無念! かかる卑怯者とはしらざりしが不覚! ウウム、無念な」
と、はぎしりしながら左近将監めがけてきりつけましたが、もはやこの
「いわせておけば、
と、花のような少年の死を眼下にみおろしながら、血刀ひっさげたまま茫然としてあえいでいた左近将監のすがたは、さながら悪鬼のごとき形相であったということが、いまもなおつたえられております。
もちろん、いくらひろい屋敷といっても、これだけのさわぎが起って、きこえぬというはずはありません。召使たちは、いずれもギョッとして、広書院のほうのただならぬようすに耳をすませました。
たしかにいま、すごい叫びと、人のたおれるような音がしたと思いましたが、つづいて物音はもうなんにもきこえず、広書院は、なにかぶきみにしずまりかえっているけはいです。
「いまの声をおききになりました? どうしたんでしょうねえ? たしかにいまのは、だんなさまのお声のようでしたけれど······」
「竜胆寺さまの若さまと、何かいさかいでもなすったのかしら? きょうはだいぶ、癇がたっておいでのようですから」
と女たちはおびえて、目を見あわせているだけです。こういうときには、しかられてもなんでもちかづいていけるのは、いちばんお気にいりの若党の、佐平治以外にはないのです。
「ま、みんなさわがないで、······じっとして、······じっとして······わしがいって、ひとつようすを見てくるから······」
と、いくまがりもいくまがりもある長い廊下を、抜き足さし足広書院のほうへちかづいていく佐平治とても、もちろんいい気持ではありません。
しかもその座敷には、主人の
ふすまに手をかけながら、思わず佐平治のすくんだのも、むりはないでしょう。ややあって、
「ごめんくださりませ、だんな」
と、スーッとふすまをひらいて、ひと目座敷のなかを見わたしたとたん、おもわず、
「ヒャァ!」
と、この若党は、尻餅をついてしまいました。
「だ······だ······だんなさま! これは······これは······」
とばかり、口がきけぬのもどうり! このむごたらしさは、いったいなんといったらよろしいでしょう。長押といわず、欄間といわず、血は天井にまでとびちって、座敷のなかいちめんを、紅に染めています。
その血の海のなかに、女のような白足袋の足を佐平治のほうへなげだして、しっかと刀の柄をにぎったまま
「しまった······しまった······とんだことをしてしまった······これはいかぬ······これはしまった」
と、そこに佐平治が、
このかんしゃくもちの家老にも、じぶんの手にかけた少年が、ただの家中の若侍ではなく、殿の大村出雲守さますら一目おかれる、お客分竜胆寺家の跡取りであるということが、いまようやく癇のおさまった頭に、思いだされてきたのでしょう。
「これはいかん! しまったことをした! これはいかん!」
またぞろ刀の
「ウウヌ、佐平治! 貴様見おったな? やい、こら、みおったな!」
「だ······だんなさま、こ······これは······とんだことをなされまして······」
「は、早く······そ、そこのふすまをしめえ! な、なにをしとる! は、早く、なかへはいって、ふすまをしめえというに!」
魂も身にそわず、両脚をガクガクとふるわせながら、やっとのことで
「見られた以上は、
「だ······だんなさま······お、お手つだいを······いたします······お手つだいを······いたし······ま······する」
「けっして余人には、もらさぬな?······一言でももらしたが最後、貴様の
もちろんこの目色では、いやだといったが最後、将監の血刀はたちまち抜きうちに、佐平治の首へとんでくるにちがいありません。
「ど······どうぞ、ごかんべんを! お、お手つだいいたしまするだんでは、ござりませぬ。お、お手つだいを······」
「ようし、その儀ならば、将監心にとめて、ふくみおくぞ!」
と、ほっと左近将監は、ふかい吐息をもらしました。
「召使どもは、なにをいたしおる? 感づいた模様か?」
「ご安心なされませ、だんなさま! まだ、感づいてはおりませぬ。お勝手口にひしかたまってふるえております」
「一同を、勝手口に封じこめておけ! かりそめの碁の勝ち負けより、竜胆寺どのといさかいを生じ、ひきとむるをきかず、小金吾どのは、血相かえてかえられた。将監癇癖つのって、
「だ······だんなさま、おどろきましたひょうしに、腰がぬけまして、······た、たつことができませぬ」
「いくじのない奴、これしきのことに! さ、たちおらぬか!」
と、きき腕とってポーンとひとつ、尻をけとばされて、やっとのことで佐平治の腰がたちました。
「人に知られては、身の一大事! 命おしくば、さ、早くいたさぬか!」
おどかされて、すかされて、這うようにして納戸のむこうへころがりんだ佐平治の声が、とぎれとぎれにきこえてまいります。
「八重どの······藤どの······仲八、権六······定吉······表座敷へ、でてはなりませぬぞ! 碁のおあらそいから、だんなさまご癇癖つのらせられて、竜胆寺さま若さま、お立ちかえりあそばされた。だれかれの容赦なくブッタぎるぞと、だんなさま
竜胆寺さまお供のおかたは、どこにいられる? 竜胆寺さまお供のおかたはどこにおられます!」
と、ふるえふるえよばわる佐平治の声が、表玄関のほうまで、ひびいてまいります。
そうら、だんなさまのご癇癖が、おつのりあそばしたぞ! と、召使一同がびくびくもんで、納戸のかげにひしかたまっています。
そのあいだに佐平治は、てきとうにことばをかまえて、不審顔している若さまのお供を、かえしてしまいました。
そしていいつけられたとおり、番手桶に水をくんで、広書院へもどってきたときには、すでに左近将監は死体をどこかへはこんでしまったものとみえて、もはやそこに若さまのすがたはなく、あまつさえ、大村藩城代家老ともあろう身が、
それからひとときあまりの後、だれも玄関へ出むかえるものもないのに不審をいだきつつ、
「ただいま立ちかえりました」
と、表玄関からはいってきた新之丞の声をききつけると、びっくりしたようにとびだしてきたものは、藤でもなければ八重でもなく、若党の佐平治だったのです。
薄暗いところですから、さだかにはわかりませんが、妙にものにおびえたように、そのくせなにかソワソワとしておちつきがなく、
「さ、さ、若さま! だんなさまがさきほどから、お待ちかねでいられます。そのままでスグに、どうぞ! 若だんなさまおかえりでいらせられまするぞ!」
と、みちびいてくれた広書院は、もはやスッカリ洗いきよめられて、一時二時のまえ、そこで、そんなにもおそろしい惨劇が演じられたとは、だれだって感づこうはずもありません。
そして城代左近将監は、
「せがれか?」
と、ふりむいた顔は、もはやいつもとはなんのちがったところもみえません。
「そちに、すこしく話したいことがあっての、······かえりをまっていたところじゃ! ささ、もそっとそばへよれ。他聞をはばかる儀での、もそっと近くよらぬか!」
と、おちつきはらって膝をむけてきましたが、もしそのとき新之丞に、すこしでも勘がはたらきましたならば、長押のほとり、欄間のあたり、そして天井の上、いくらふいてもきよめても、とうていとりさることのできぬ人間のあぶらだけは、ウッスラとそこに消えのこって、無念の歯がみをしている花のような若さまのたましいが、なおこの部屋のなかにさまよっていることを、気づいたであろうと思われます。
「よいか、わかったな家の一大事、父が身の破滅にもおよぶことなれば、かまえてそちは、けっして人にもらすでないぞ! 殿ご帰国のあかつきには、殿のご前態は、父よりよしなに申しあぐる。そちはただ、人にもらしさえせねばいいのじゃ、わかったな、わかったか?」
と、けわしい目をして、左近将監は新之丞に、むりおしに念をおしております。
「身分たかき家柄とはいえ、あまりと申せば
あんどんの影はほのぐらく、じぶんのいいことばかりをならべたてている左近将監の声は、ボソボソといつまでもつづいておりますが、うなずいている新之丞の顔は、父から秘密をあかされて、一刻ごとに血の気がひいていくように思われます。
あくる日から、左近将監はいつもとかわらず、御殿へも出仕すれば、また、殿さまにかわって藩の政務もつかさどり、顔色にも挙動にも、なんのかわったところも見えません。
しかも左近将監のいいふらしたうわさ||九州の
「いやいや、拙者の腕がつよくて、小金吾どのをやぶったわけではござらぬ。ほんのはずみで、三番勝負のうち三番まで、勝ちとおしたというまでのこと、まったく偶然でござるよ。さるを、若気のいたりとはいえ、たかが勝負ごとぐらいに敗れたからとて、目の不自由な老母をうちすてて、碁の修業に出奔するとは、たとえがたき
と、眉をひそめながらためいきをついているのです。
そればかりか!
「おそるべきお腕前、いかがなものでござりましょうな、ご城代! それがしにも一手、ご指南をねがえませんかな?」
と請うものがあっても、左近将監はかぶりをふって、それ以来プッツリと、碁石を手にしません。
「いやいや、いたすまじきは勝負の道、拙者あの晩に、小金吾どのの憤激ぶりを見て、家をほろぼすものは勝負事であると、つくづく感じもうした。以来碁は、もはやけっしていたさぬと、拙者心にちかってござる」
と、笑いにまぎらしていうのですから、これをきいた人々は、
みんな御城代のいわれるとおり、さては小金吾どの碁にまけたくやしさに、一修業してくるつもりで出奔してしまわれたなど、こういちずに思いこんでいたことでした。
さて、このごろ左近将監のかわったことといえば、碁のかわりに書見がたのしみだといって、御殿からかえってくると裏のはなれ座敷へひきこもって、本ばかりよんでいることでした。
そして、こうやって一藩のまつりごとを執っている以上、いつなんどき刺客がおそうてこんともかぎらぬが、そのときの用心に、壁裏づたいに避難できるよう、しかけをしておく必要があるといって、左官屋をよんで召使をとおざけて、じぶんがつきっきりで壁をあつく塗りなおさせました。
しかし、それも、左近将監のようなまつりごとを見ている人には、けっしてめずらしいことではなく、むかしからよくためしのあることなのですから、召使たちのだれひとりそれをふしぎと思うものもありませんでした。
かくて、城代左近将監の山茶花屋敷には、まことに平穏無事な日がつづいておりましたが、ここに見えぬ目に涙をながして、ゆくえの知れぬわが子のため、心もくるわんばかりの日々を送っている、不幸な人がありました。ここから一里あまりはなれた上久原というところにある、竜胆寺家の老いたる小金吾の母だったのです。
あの晩、九時になっても十時になってもわが子がもどってこないので、気はすすまぬながらでかけていっても、そこは年若のこと、やはり碁を打っているうちについおもしろ味が増して、夏の夜を御家老と打ち興じているのだなと思いましたから、さかしいとはいっても子どもというものはしようのないものと、ひとり笑いながら、老母は見えぬ目をしばたたきつつ床についていましたが、そこへ老母の夢をおどろかせたのは、夕方供をしていった八郎太という、若党のかえりだったのです。
一里の道をとんでかえってきたとみえて、このすずしい夜ふけに八郎太は、ビッショリと汗をかいていました。
「若さまは、もうおかえりになりましたでしょうか······?」
御城代さまごけらいのお話によれば、かくかくしかじかで······と、佐平治からきかされたとおりの、
「まあ、待ちゃ! ハテ、ふしぎなことがあるもの! そなたの供していった小金吾は、まだかえってきませぬが······」
と、老母は床の上におきなおりましたが、ふだんのわが子のそぶりから考えて、老母にはなんとも
その小金吾が、たかが碁に負けたくらいのことで、家をすて親をすてて出奔してしまったとは、なんとしてもうけとれる話ではありません。
「そなた、その話は、城代どのごけらいから、きいておいでなのかえ? ならば、気のどくながらもういちど、城代どのお屋敷へとってかえして、このたびは石藤左近将監どのお口からじきじきにきいてきてくださらぬか? 老母いささか腑におちかねるところあり、まことに心痛いたしておりますればと、ようくこちらの事情を申しあげての······遠い道をそなたにはまことに気のどくながら······」
「なんのなんの、てまえ若さまのお供をいたしながら、まことにお供甲斐もござりませぬしまつで······ご隠居さま、どうぞお許しなされてくださりませ。このとおりでござります」
と、若党は地面にひれふして、頭をすりつけました。
そしてふたたび左近将監の邸へとってかえしましたが、幾度とってかえそうとも、いくら左近将監の口からじきじきわけをきこうとも、これだけに悪智恵をめぐらした卑怯な家老が、どうしてほんとうのことを、あかすわけがありましょう。
老母の面はいよいようれいにとざされましたが、かんしゃくは強かろうとも、まさかに一国の城代家老ともあろう人が、黒を白といいくるめようとも考えられません。
腑におちぬてんはかずかずありますが、とにもかくにも万一ということもありますから、隣国
が、もちろん、亡くなった小金吾があらわれようはずもなく、ただ日のみが一日たち二日とたち三日······四日······十日······十五日とたって、消息はかいもくわからず、各地の親類からもまた、立ちよったというしらせなどは、ただのひとつもまいりません。
しかもちかごろ人のうわさにきけば、城代はのこされた老母の身を痛く心痛して、あれ以来碁石もフッツリと手にせられず、もっぱら書見にふけっていられるとのこと······さすれば城代のことばにも、いつわりはないものとみなければなりません。もはや老母にも、わが子の見当は、かいもくつかなくなりました。
そしてつれない日のみが、一日二日三日とたって、さしもの暑さもすぎてこのごろは、秋雨のしとしとふる、いとど
たださえ親ひとり子ひとり、ことには盲目の身の、たよりに思うわが子のゆくえはわからず、いまでは老母は食事もすすまなければ、人とことばをかわすのもものうく、半病人同様のあわれなすがたになり、召使たちもなんともなぐさめることばもなく、胸を痛めておりました。
が、さて、ちょうどそのころの、ある晩のことだったのです。
きょうも朝からじとじとと、こやみもなく
ふと見ると、ほのぐらい枕もとのあんどんのかげに、ションボリと両手をついて、くるしげにあえいでいる小姓姿の少年が、もうろうと老母の目にうつってまいりました。
「おう! そなたは小金吾······そなたは小金吾······」
と、見るより老母は、おどりあがりました。
「どうしました、小金吾そのかわりはてたすがたは||」
「······」
しかしことばもなく
「おう、そなたは斬られなすったな? だれに斬られなすった? ささ、はやく、あいてをおいい」
ことばせわしく問いかけましたが、しかし小金吾はやっぱり、くるしげに脾腹をおさえたまま、じいっとさしうつむいて、なにもいいません。肩と脾腹からは、ますます血をふきだして、いまにもガックリとまえにのめりそうです。
「小金吾、小金吾! なんです、それしきの傷で! 傷はあさい、さ、はやく、母においいなさい! だれに斬られなすった? だれに? そなたも武士の子、竜胆寺のあととりではありませんか!」
もはや臨終がせまっていたのでしょう。目はすでにとじていましたが、しかも目をとじながらも母のことばが、耳へはいったとみえて、小金吾はうつくしい面をあげて、斬られぬほうの片手をしずかにさしあげました。
そしてその手はうらめしげに、城代家老の山茶花屋敷を、じいっと指しているのです。
「城代か、城代か?」
と、気ぜわしく、母は問いました。小金吾は、じいっとうなずきました。
「おう、案のじょう! 左近将監に斬られなすったか? もしやそうではあるまいかと、母も考えておりましたのじゃ。おのれ、にっくい左近将監め! よくもよくも、口からでまかせのいつわりを申しおって! おお、無念じゃろ、無念じゃろ、小金吾! さぞ、無念じゃろ! そなたの気のすすまぬものを、むりにすすめて母がだしてやって······みんな、母の罪なのじゃ! 母が悪かった、悪かった! さ、それではもうつかれたろ、ゆっくりとな小金吾、ゆっくりとそなたの行くところへいって、おやすみよ!」
それをきいて安心したか、小金吾はガックリとそこに、くずおれてしまいました。そしてそのすがたは、かきけすように消えさってしまいました。
とたんに老母は、ハッと夢がさめたのです。ほのぐらいあんどんの光のみさびしくまたたいて、もはやそこには、だれのいるけはいもありません。そして老母は、ビッショリと汗をかいているのです。
「早月はおりませぬか? 早月は······?」
「ご隠居さま、およびでいられましょうか?」
と、つぎの間から小間使の早月が、ねまきすがたではいってきました。
「早月、眠っているところを起して、気のどくですが、ちょっとそのあんどんのうしろのほうを、見てくださらぬか」
と老母は、見えぬ目をしばたたきました。
「そこに、だれかおりませぬかえ?」
「え、いいえ、どなたもべつだんに······」
「そのへんに、血でもたれてはおりませぬかえ?」
「え、血が?」
と、早月は、びっくりしたように声をあげました。
「いいえ、ご隠居さますこしも······」
と、気味悪そうに、たたみに目をおとしているのです。
「では、それでいいのだよ、ご苦労でした。わたしは目が見えないから、それをおまえにたしかめてもらいたかったのです。それでわかりました。さ、もういいから、いっておやすみ!」
「ご隠居さま、ほかに何か、ご用でも?」
「いいえ、もうそれでいいのです。さあさ、行って早くやすんでおくれ!」
もちろん老母は、早月にもなにひとこといいませんでした。そして早月のさったあと、見えぬ目からポロリポロリと涙をしたたらせながら、床の上に起きなおってくちびるを噛みしめていましたが、このときどこからともなくあらわれた、真っ黒なものが、音もなくちかづいてくると、かしこまって老母の膝に身をすりよせてきました。
玉といって、この竜胆寺の邸にもう八、九年あまりも飼われている、年をへて全身の毛も銀色にかがやいた、老猫だったのです。
まことに
小金吾は生前どのくらい、この猫をかわいがっていたかしれません。玉よ玉よと、片時もそばをはなさぬくらい目をかけていましたから、その主人が急に見えなくなって、玉もどんなにがっかりしているのかしれません。
老母の泣いているのがわかるとみえて、ニャーオとなきもせず、ただお察し申しあげますといわんばっかりに、身をすりよせてくるのが、かえってなんともいえず、いじらしく思われます。
「玉や、おまえも淋しいのかえ?」
と泣きながら老母は、玉の頭へ手をやりました。
「······あんなにかわいがっていた小金吾がいなくなって、おまえもさぞさびしかろ。おうおう、わたしのいうことがわかるのかえ? そうかそうか、さびしいか······もうおまえも小金吾には、かわいがってもらえないのだよ。おまえをかわいがった小金吾は、いまもわたしの夢枕に立って、もう死んだか生きたか生死のほども、わからないのだよ」
と玉の頭をなでて泣きながら、人にものいうごとくにいいきかせていましたが、やがてその涙はしだいしだいに、愚痴とかわってきました。
「利巧だ利巧だとおまえは、くる人ごとにほめられていたが、畜生のあさましさ! 主人がこんなに悲しんでいることも、わからないのだろうねえ? おなじ猫でも、年をへて、
はては玉を邪険におしやって、老母は両手で顔をおおって、床の上に突っぷしてしまいました。
老母のいうことがわかるかのように、玉は面目なげにうなだれておりましたが、またどこへともなくノソリノソリと、足音も立てずに消えていってしまいました。
しかし、それから一時ばかりののち、雨にうたれてぬれそぼれた松の枝から枝へつたわって、身がるにピョコンと、この邸の外へおり立ったものがありました。さっきさんざん老母に愚痴をいわれていた猫の玉でしたが、おそらくそれに気がついていたものは、ただのひとりもなかったであろうと思われます。真っ暗な夜は深々とふけわたって、雨はショボショボとふり、風さえくわわって森の梢は、ごうごうと音だてていました。
しかも、塀の外へおり立ってランランたる目をして、キッと闇のなかをうかがいながらブルブルッと二、三度、身ぶるいするやいなや、玉はたちまち、見るもすさまじい大怪猫のすがたとかわってしまいました。そしていつのまにあつまったのか、うしろは五、六匹
もちろん老母は深いうれいにしずんでいますし、召使たちはその老母をなぐさめるのにことばもなく、胸を痛めておりますから、だれだってこの二、三日猫の玉がすがたを見せないのに気のつこうはずもありません。
が、それから三日ばかりもたったころでしょうか。老母の枕もとへ、またソーッとはいってきたのは、その玉だったのです。
老母はなにか物思いにしずんでいるのでしょうか? うるさいとみえて、顔もあげません。その老母をうながすようにめずらしく玉は、ニャーオ、ニャーオと、あまえたように二声三声なきたてました。それでも老母は顔をあげません。ニャーオとこんどは玉はいくらか大きな声をあげました。
「うるさいね、むこうへおいき! おまえになんぞかまっていられないのだよ······」
と、邪険な声をだして、老母はふと、顔をあげました。が、そのとたん、何か玉のそぶりで盲目のするどい勘を打ったものがあるのでしょう。おや! といわぬばかりにふしぎそうな面持で、
「············」
けげんそうに、そのふたつの小切れを手にとりあげて掻いなでていましたが、瞬間、おうっ! とばかりに、なんともいえぬ叫びをあげて、老母は夢中でふとんをけっておどりあがりました。
「早月、早月! 早月はおりませぬかえ? いなければだれでもよい、ちょっときておくれ!」
「早月さんのすがたがちょっと見えませぬが······なんぞご用でいらせられましょうか?」
と、はいってきたのは、早月のかわりに初野という、召使だったのです。
「早く早く、これを見ておくれ。わたしには小切れのように思えるのだが、なんでしょう······?」
「
と、初野はきみわるそうな叫びをあげました。
「あ、······
竜胆寺家代々の定紋、笹竜胆がついているとすれば、まさしくそれは、あの日、小金吾がきていったきものにまちがいありません。
「では、これを見ておくれ! これはなんの小切れでしょう?」
「麻の切れはし······
と、初野はふしぎそうに、表をかえし裏をかえして見いっているようすです。
三蓋菱の定紋がついているとせば、まさしく石藤左近将監の定紋······しかも、左近将監のきものの切れはしには、泥も血もつかず、小金吾の切れはしのみ泥にまみれ、黒血がこびりついているのです。もはやいわずとも、事情はハッキリとうなずかれます。
たしかに小金吾は左近将監のために斬りころされて、どこかにうめられてあるにそういありません。それをしらせるために、玉は小金吾の定紋のついたところを食いちぎり、ついでに左近将監のきものの定紋をも、食いさいてきたのでしょう。
「ああ、ありがとうよ。それだけわかれば、もうけっこう。用があれば、またよびますから、さ、もう、さがっていいのですよ、ご苦労でした」
と、いぶかしげに手をついている初野を、つぎの間へさがらせると、
「おお、おまえは······」
老母はわれを忘れて、いきなり玉をかき抱きました。
「なんという利巧な······利巧な······主人思いな······」
と、胸がせまって、あとはことばがでてこないのです。
「よくこれだけの働きをしてくれました。ありがたく······ありがたく······お礼をいいますぞ! いつぞやは腹立ちまぎれに、おまえをののしりつけたのはとんでもない考えちがい! 玉や、許しておくれ、許しておくれ! おまえはなんという忠義な······忠義な猫でしょう! 小金吾が知ったら、どんなにおまえの志をよろこんでくれるかしれません。ああすっかりこれで腑におちました」
玉には老母の泣いてよろこんでいてくれるのが、よくわかるとみえて、老母の膝の上で頭や背をなでられながら、さもうれしげにゴロゴロと、のどをならしているのです。
やがて老母は、食いきられた小金吾のきものの切れはしを仏壇にそなえて、手さぐりでお
「佐平治! コリャ佐平治! そのほう大いそぎでいって左官屋をよんでこい! ネズミに食いやぶられるような、こんなぞんざいなぬりかたをするとは、
と、例のはなれ座敷のなかで、左近将監はゆでダコのようになってどなりちらしています。じぶんでも、たすきをかけて、なにかネズミの大穴をつくろっているけはいです。そして、いっぽう納戸のたんすにもたれた奥女中八重が、
「どうしてたんすのなかまで、ネズミがはいったもんでしょうねえ? たんすにはどこにも食いやぶったあとがないし······おまけにだんなさまのご紋のついたきものがたった一枚だけ食いやぶられて······」
と藤と額をあつめてこまりきっているのです。
「あしたにもだんなさまがおめしになるとおっしゃったら······ねえ、お藤さん、わたしどうしたらいいんでしょうねえ!」
と、思案
が、しかし、そんな城代屋敷のことなどは、しばらくおき、こうしてたしかに左近将監が小金吾を殺したという証拠は、明白にあがっていても、こちらはやせおとろえた盲目の老母の身。どうしてこのかたきを討つことができましょう。かりに訴えでてみても、かんじんの殿さまは江戸表にあっておるす。
そして、こういう訴えをとりあげてさばく、
どうしようか、こうしようかと心にもだえつつ、老母はとるすべもなくくちびるを噛んで、ただ無念の涙にかきくれていました。しかも、玉のくわえてきた証拠と符節をあわせるように、その晩もまた小金吾の亡霊は、老母の枕もとにあらわれてきたのです。やはり邸中がねしずまって、あんどんの影がくらくなったころおいに、もうろうと人影がさしてきたのです。
しょんぼりとさしうつむいて、肩と脾腹から、こんこんと血をふき、その
「おう、おう! 小金吾、かたきを討ってほしいのか? かたきをとってほしいのか?」
見るより、老母は身をのりだしました。
「おう、おう、母も察しています。さぞ無念だろう、うらめしいでしょう。行くところへも行けぬでしょう」
と、老母は身もだえました。
「せめて、母の目なりとあいていたら、どんなにでもして左近将監にうらみの
老母は血の涙をこぼしました。
「しかし、もう、これで母にも決心がつきました。めしいても武士の妻······あすは将監の邸へいって、かなわぬまでも
と、生ける人にものいうごとく、老母は小金吾の亡霊に語りました。そして、そのことばが耳へはいったのか、小金吾はガックリとうなだれて、そのままかきけすようにすがたは消え去ってしまったのです。
夜があけると、老母は若党の八郎太をよびたてました。
わが子の無念をはらしてやりたい一心に、老いの身、盲目の身をもかえりみず、左近将監に、恨みのやいばをむけようと思いたったのです。
しかし老母は、思いたったいちねんかたく、どうせ老人の身で一太刀むくいたがさいご、じぶんも生きてかえれぬことは、じゅうぶんに覚悟のうえですから、うわべには左近将監にゆだんさせるため、何げなくよそおいながらも、肌着類はすべてあたらしいものにとりかえ、内ぶところには竜胆寺家伝来の
しかし、ざんねんながらこの悲壮な老母の決心も、ついにむだにおわりました。はやりにはやった老母の願いにもかかわらず、左近将監はあってくれないのです。
「けっしてお手間はとらせません。ほんのひとめでけっこうですから、あうだけあっていただけまいか?」
と、玄関のまえに土下座せんばかりのたのみをも、
「小金吾どの、累を当家にまでおよぼす家出をせられたばかりか! 親は親で、わが子の不始末をたなにあげて、ことの一部始終をうけたまわりにまいったとは、なんたるたわごと······子も子なれば親も親······人のおもわくもいかが、早々おひきとりをねがいたいと、当家主人、火のごとくに猛りたっております」
と、若党の佐平治をもっていわせて、かたくこばんで会ってくれないのです。
「おいいぶんはさることながら、親が子のかえらぬしまつを知りたきは、だれしもおなじこと······お目にかかるまでは、お玄関さきを拝借して何日でも待ちまする。さよう将監どのへおつたえねがいたい」
しかし、なんとしてもこの卑怯な家老は、会おうといたしません。
「当家の迷惑このうえなし。お目にかかることはまかりならぬ! と、追いかえしてしまえ! 佐平治、かまわぬ、わしが許す、とっととたたきかえしてしまえ!」
内心は老母にあうのが、気がとがめていたのかもしれませんが、うわべは虚勢をはって、召使たちの手前、頭から湯けむりたてて
「かねておききおよびでもござりましょうが······」
と、とうとう佐平治はへこたれて、奥へきこえぬよう、老母のまえに手をつきました。
「無類のかんしゃくもち、いったん癇がたったとなれば、なんとしてもききわけるかたではござりませぬ。いかがでござりましょう? きょうのところは一応おひきとりくださいまして、またのお越しをねがわれますまいか?」
「おだまりめされ! 家来までが、相手が女とあなどって、無礼をいわるるか? 竜胆寺小金吾の母! 亡夫竜胆寺
これでは佐平治づれには、歯がたつものではありません。老母はでんと玄関さきへ腰をおろしております。
「竜胆寺さまのご隠居さま······はしじか失礼ではござりますが、粗茶などおめしあがりくださいませ」
と、みるにみかねて、八重がお茶をはこんでまいりました。老母はさしうつむいてふりむきもいたしません。
「ご隠居さま······どうぞ······粗茶などおめしあがりくださいまして······」
「ああああ······世が世ならば竜胆寺妥女の妻! 家老石藤左近将監風情の軒さきに、乞食のごとくにうずくまりもせぬものを!」
と、老母は、顔をふせたまま、はらはらと落涙いたしました。
「お女中······主人に似あわぬしんせつもの、そなたのしんせつはかたじけないが、左近将監がみずから茶をたててきたからとて、将監づれの軒さきで、犬猫のごとくに茶は飲めませぬのじゃ。もってかえられるがよい」
と、やさしく八重をたしなめました。そして、
「ああぜひもない、八郎太、かえりましょう。会ってくれぬものを、いくら待っていたからとて、しかたがない。さ、かえりましょう······」
またもや八郎太の背におわれて、ポロポロとくやし涙にむせびながら、やっと立ちさっていきました。
彼岸とんぼのとびしきる、通る人もない田舎道を、おう人もおぶわれた人も、だまりこくってかえっていきましたが、もうそのときには、左近将監を刺そうという気力も失せ、つかれはてた老いのからだは、愛するたったひとりの子にさき立たれて、もう世のなかになんの望みもなく、しみじみ死を考えていたのでしょう。
ふたたびかえるまいと思っていたわが家へもどってきても、あいかわらず床の上にもくもくとして、なんにもいわずに物思いにしずんでおりました。そして、ニャーオとなきながらそばへよってきた玉の頭をなでながら、
「おまえは利巧な猫ですからわかるでしょうが、こよいはわたしも小金吾のあとを追うが、主人がいなくなったからとて、けっしてわたしや小金吾をうらむではありませんよ。だれか情けあるご主人にそだてられて、寿命のあるまで、長く長くこの世に生きるのだよ!」
と、人にものいうごとくに、さとしていましたが、やがて見えぬ目をむけて、キッと山茶花屋敷のほうを指さしました。
「コレ玉、ようくおきき! 小金吾と小金吾の母が一生のおねがいです。どうか百年も二百年もおまえはこの世に生きながらえて、主人の仇を討っておくれ! にくさもにくい左近将監に、主人のうらみをむくいておくれ。そして将監が死んだならば、その子の新之丞に、新之丞が死んだならばその子に、その孫に······そしておよそ代々将監に血のつづくかぎり、石藤家にたたりをしておくれ。これが老母の一生のおねがいです。おまえはかしこい、かしこい猫、ようく老母が臨終のたのみをききわけておくれ」
わかったのか、わからぬのか、玉はじっとこうべをたれて老母の膝の上で、このおそろしい呪いのことばをきいているようです。
たださえさびしい竜胆寺家に、秋の夜はいとど音もなくふけて、邸のまわりの枯れすすきをなびかせている風のみが、サヤサヤとわびしい人の世の悲しみをつたえていましたが、そのあくる朝、
「ご隠居さま、お目ざめでいられましょうか?」
と、戸障子をあけはなつために、早月がはいっていったと思うと同時に、座敷のなかから、けたたましい叫びをあげてころがりでてきました。
「八郎太さん、萩江さん、初野さん、早くきてくださいよう! ご隠居さまがたいへんですよう! ご隠居さまが······」
その声におどろいて、みんながかけつけてきたときには、もはやゆうべのうちに、老母は小金吾のあとを追ったとみえて、白装束にきかえたからだは、左胸とのどを突き、みごとな自害を遂げています。
ひっそりとした邸のなかは、急にわきたつようなさわぎになってきましたが、この混雑にとりまぎれて、そのとき以来、猫の玉のいなくなったことに気づいたものは、だれひとりもいなかったのです。
かくして老母は、無念の自害を遂げてしまいましたが、たださえあととりの小金吾はゆくえしれず、のこる老母も自害をとげては、もはやあとに家をつぐものもおりません。とうとうここに、さしもの名家竜胆寺家も、むなしく断絶······。
召使たちは、泣く泣く主家にわかれをつげて、ちりぢりに立ちさり、上久原の邸は、いまではすむ人もなく、草木のおいしげるにまかせて、いたずらに
が、ちょうどこのころから、家老左近将監の身には、さまざまな変異があらわれはじめてきたのです。
ある日の暮れがた、将監が御殿からかえろうとしていたのは六つ半ごろ、いまの午後の六時ごろになっていたかもしれません。
お城から退出してくるのには、城の大手門から両側に、さくらの並木のつらなっている馬場をくだってこなければなりませんが、両側はひろい濠になって、そこには一面の蓮がおいしげって、ひるまでもさびしいところだったのです。
ちょうどこの並木のまんなかごろ······なかでもことに枝葉のしげってこんもりとしたさくらの木影を、いま、左近将監の乗馬が通りかかったときのことだったのです。
「えェい!」
と、気合するどく、わずかにくらの上で身をねじりましたから切っさきは、はずれて、馬の
「
刀をかまえて目を四方にくばりつつ、
とたんにさっと、また、手もとにおどりこんできた刃先のするどさ、ひっぱずして横にはらった将監のやいば、みごとにきわまったかと思いのほか、早くも曲者は樹上にとびあがり、枝の上に気合をはかっているようすです。その身のかるいこと、目にもとまりません。
「ひ、卑怯もの! 名をなのれ! 石藤左近将監なるぞ! 城代なるぞ!」
その声が耳にはいったのか、はいらぬのか、無言の曲者はビューッと風をきって、こんどはおがみ打ちにうしろから切りおろしてきました。やっとのことでうけとめましたが、将監の舌をまいたのは、なんともかともいいようなく、この曲者の身のこなしの軽いことです。
いまうしろにいたかと思えば、たちまち右へまわり、右へまわったかと思えば、つぎの瞬間には高い樹上におどりあがり、樹上にいるかと思えば、前から切りおろす、ヒラリヒラリと足音ひとつたてず、しかもおどろいたことには、このやみのなかに曲者は目が見えるとみえて、そのねらいの正確さ! よういならぬあいてです。
「ようし······左近将監と知って斬りかかるからには、容赦せんぞ! いざこい、あいてをせん」
と左近将監も決心しました。
「こい! かかってこい! いざきたれ!」
とたんに、さくらの根元からとびあがったとみえて、曲者は馬上の将監のまっこうから、切りつけました。チャリンとうけたとたんに、曲者は将監の頭上をとびこえて、反対側へおり立ったようです。
もはやそれからは、応接にいとまもありません。縦、横、十文字、前後左右、始終無言でヒラリヒラリと切りかかってくる曲者をあいてに、将監は汗みどろになって馬を縦横無尽にのりまわしつつ、斬りむすんでいましたが、相手の電光のようなすばやさにかかっては、いくら気をいらだてても、もはや馬からおりるひまもありません。
かくして無言の曲者をあいてに、小半刻あまりもわたりあっていたでしょうか? 供のものが急をお城へつたえたとみえて、いまでてきた城の大手門のほうから、ワッワッというさけび声とともに、おびただしい提灯の火がちらついて、先鋒の若侍三、四人は、すでに
「ご家老さま! 梶平三郎お手つだいにさんじました!」
「門馬光春、まいりました!」
「豪太夫、ご助力申しあげまする!」
つづいて、ワッワッと提灯の火がよせてまいります。
もうこれまでと曲者もあきらめたのでしょう。だいぶいらだって、最後の切りこみと同時に、ドスンと馬に体あたりをひとつくらわし、そのまま闇にまぎれ、どこかへ退散してしまったようです。
「ご城代さま、おけがはござりませぬか?」
「ごぶじでこざりましたか?」
と、口々に、提灯の火をとりかこんだなかに、ドサッ! と重い物音と同時に、ヒヒィーン! と悲しげないななきをたてて、左近将監をのせたまま、馬はその場に横倒れにたおれてしまいました。あぶみをふんばって、わずかに落馬をまぬがれた将監が、
「おのおのがた、あかりを見せられい!」
と、さしよせられた提灯の光にてらしてみて、びっくりしたことには、ドスンとぶつかったひょうしに、曲者は馬の脇腹から下腹へかけて、ななめにするどい爪をたてたとみえて、無残にも馬は内臓をそこに露出して、血潮をあふれさせながら、断末魔のあえぎをつづけているのです。
馬上の左近将監めがけて、とびあがって斬りつけると同時に、馬の下腹をひきさいたそのはやわざにも、舌をまきますが、もっとおどろくのは、そのひきさいたのが、刀や短刀のような刃ものではなく、まるでするどいけだものの爪ででもひきさいたような跡のあることでした。
しかし、曲者はけだものではありません。始終無言の闇のなかですから、さだかにはわかりませんが、将監の目に映じたすがたは、たしかに黒装束覆面の怪人だったのです。
「このはやわざにはおどろきましたな!」
「なんでしょうな? この傷口は······?」
しかし、どうしてもこのひっかき傷の判定だけは、だれにもつきません。そしてつかぬままにおそらくこれは、大村藩をねらってどこか隣国の藩からでもいりこんだ、忍術使ではなかろうかということになりました。
左近将監はもちろん、竜胆寺家の怪猫玉が、いよいよ老怪猫の本性をあらわして、じぶんをつけねっていようなどとは、夢にもしろうはずもありません。
したがってそのあくる日から、供回りはいっそうに厳重になったのでしょう。ここしばらくはべつだんかわったこともありませんでしたが、やがてそのうち、第二の異変がおこってきたのです。
ある日のこと、そのときはすでに左近将監が例のちかづきがたいほど厳重な供回りのものをしたがえて、山茶花屋敷へもどってきたばかりのときでしたが、若党の佐平治があわただしく将監の居間へかけこんできました。
「だ······だんなさま······た、たいへんでござります」
「臆病者め! またたいへんか? 貴様のたいへんにはききあきとるぞ!」
「いえ、もう······これこそたいへんで! ご門前で腰元風の若い女をあいてに、若侍が切りあいをはじめておりまして!」
「なに? 若い女あいてに、侍が切りあいをはじめたとな?」
と、さすがに将監もおどろきました。
「当藩のものか?」
「いえいえ、遠国の侍らしく······通りがかりに、なにか親の仇呼ばわりをして、女のほうからきりかけましたようすで······」
「当家は、大村藩城代家老の邸、当家門前の切りあいはめいわくいたす、と、追っぱらってしまえ!」
「じょ······じょ······ご冗談でござりましょう。なかなかもちましてわたしごときに、そんな真似のできるものではござりませぬ。双方真剣で切りあっておりまして······それそれ、こういうまにもきこえてくるでござりましょう。あの刃の音が!」
佐平治が目の色かえているのも道理! なるほど、ちゃりんちゃりんと切りむすぶ音がきこえてまいります。
「さてさて不甲斐ない奴! ようし、わしがいって追っぱらってくる」
と、すでに邸にかえってきものをきかえた左近将監は、きながしのまま太刀をひっさげて表へでてまいりました。
なるほど、門前では旅姿りりしいうつくしいひとりの娘をあいてに、これも旅姿の若侍が、はげしく切りむすんでおります。
「刀をひかれえ! 双方とも、刀をひかれえ! 拙者は当家のあるじ、いかなる意趣、遺恨かは知らねども、拙者門前にての斬りあいは、はなはだもって迷惑いたす。べつだんに拙者、あつかいをいたす所存もござらねば、おのおのがたは、ところをかえてぞんぶんにいたされえ!」
「ご当家おんあるじと見て、おすがり申しまする!」
と、懐剣をかまえたまま、若い女のほうが声をかけました。
「それなるものは、わたくし父の仇にて、柳三之介と申しまするもの。ただいまご当家ご門前にてそれなるすがたを見かけ、なのりをあげましたるしだい。あわれおなさけにしばらくのあいだ、ご門前を汚しまするだん、お許しねがわれますまいか?」
「アイヤご主人! ただいまそれなる女の申すごとく、拙者その女の父を、武士道の遺恨やむにやまれぬ仕儀によって、討ちはたしたるものには相違ござらねども、それにはそれだけの理由のあること、しばらくこの場において、勝負の儀ご容赦ねがわれまじくや? なのりあげられたるうえからは、ふびんなれどもこの場において、かえり討ちにいたす所存にござれば······」
「それが迷惑だというのでござる。場所をかえられたい。拙者門前が迷惑だというのでござる。そうそうほかの場所へうつられたい」
「それなれば、これほどお願い申しあげましても、ご当家おん主にはお許しくださらぬのでござりますな。女ひとり永年
「さよう、迷惑なこと。おてまえのご苦心などは、拙者知ったことではござらぬ。拙者門前でさえなくば、それでけっこうでござる」
じぶんの門前さえ血でよごさなければ、けっこうという、利己主義一点ばりの話に、女のうつくしい頬にはみるみる血がのぼってきました。懐剣片手にキリキリと歯がみをしています。
「これは血も涙もなきお人······そこなる柳三之介どのに申す。あまりと申せば冷酷無情······いかがでござりましょう。わたくしども両人、勝負を決すべきところなれども、まずこれなる邪魔ものをおたがい心をあわせてかたづけて、それより心しずかに勝負を決しましては、いかがでござりましょうな?」
「ごもっともなるおいいぶん······合点いたしてござる」
「では······柳どの」
「しからば浪路どの······」
「いざ!」
「いざ、いざ!」
めんくらったのは左近将監です。こんな無法きわまるバカバカしい話というものがあるものではありません。
「これは理不尽な! なにをする、迷惑ではないか! 拙者になんの関係がある? ああ、コレあぶないではないか!」
と、右にさけ、左にさけているのですが、斬りこんでくるふたりの切っさきのするどさ! しかもどういうものか、女のほうは左近将監が家のなかへはいるのを用心するかのように、たえず将監のうしろへうしろへとまわって、柳三之介とよばれる男に、将監を討たせようとするけはいです。しかもまた、その柳という若侍が、飛鳥のごとく、刀をひらめかして手もとにとびこんでくるかと思えば、とびすさり、そのすばしこいこと!
「ああコレ、あぶないではないか! 拙者になんの恨みがある? これはしたり、これは
と、いっても耳へはいればこそ! 右にさけ、左にさけ、とうとう将監は門の駒つなぎのところまで、さがってきました。
「よろしい! これだけ理否を申してもわからねば、拙者も武士ぞ、抜くぞ! よろしいか、抜くぞ!」
とうとう左近将監も太刀を抜きはなちました。
「これだけいうても理不尽に、拙者に斬りかかるとならば、えんりょはいたさぬ。斬るぞ!
とたん! 手もとにくりこんできた女を、将監は目にもとまらず斜上にすくいあげました。女のからだはまっぷたつと思いきや!
と、そのとき、ハハァと将監にも思いあたるところがあったのです。
さっきは気がつきませんでしたが、どんなに飛鳥のごときはたらきをしても、このふたりは足音がないのです。こないだの桜の馬場の曲者と、なんのかわりもありません。
「||ハハァ、親のかたきなどとはまっかなうそで、このごろ俺が用心してるものだから、なれあい喧嘩で俺を表へひっぱりだしたな」
と、はじめてこのふしぎなふたりの挙動が、腑におちたのです。
とたんにもって生れたかんしゃくが全身に発して、もはや猶予はなりません。とびこんできた柳という若侍とわたりあうこと二、三合! さすがは無念流の達人、横にはらった大剣、みごとにきまって、あいてはギャッと一声、血けむりたててそこにブッたおれました。おのれ! と手もとにくりこんでくる女の、懐剣もつ手をはらっておいて、一足ふんごむと、まっぷたつとばかり肩口へ斬りつける、あわれ女もギャッと一声! これもまた、血けむりたててそこにブッたおれました。
人ふたりを斬りたおして、左近将監もさすがにのどのかわきをおぼえてきました。ほっとひといきついて、
「八重! 藤! 茶をもてまいれ! たれぞ茶をもてまいれというに!」
と、片隅にふるえている召使たちに、茶をはこばせて、血のしたたる太刀をさげたまま、ふとい息をつきながら、玄関で茶のたちのみをしているすきに、
「あ、だんなさま、だんなさま! あれあれあれ! あんなことをして!」
と、八重のびっくりしてのびあがって叫ぶ声に、ふりむいてみますと、なんと大胆不敵! さっきまで、そこをウロウロして、斬りあいを遠巻きに見ていた山伏すがたのひとりが、将監がうしろを見せたすきをねらって、そこにころがっている、男女ふたりの死体を両脇にかかえて、逃げだそうとしているところだったのです。
「ウヌ、さてはおのれも一味だったのか? 待て、曲者! 待ちおらんか!」
と、茶碗をなげすてて、血刀さげて大いそぎでその山伏のあとを追いましたが、曲者は死体を両脇にかかえたまま、あとをも見ずに逃げさります。そのはやいこと、はやいこと! とてもおいつけるものではありません。左近将監も思わずわれをわすれて、
「ウウム、忍術つかいというものは、さすがにみごとなものじゃのう」
と、嘆声をあげていましたが、この期におよんでも、まだ将監は、これが小金吾のかたきを討たんがための、怪猫玉のしわざであるとは、夢にも気がつきません。
かくて一度ならず二度までも、襲撃に失敗し、しかもそのたびごとに、左近将監の身のまわりはますます用心をかさねてきましたが、殺された旅の若い女も、かたき役の柳という若侍も、それらはいずれも怪猫の
さて、ちょうどそのころのある日のことでした。奥女中の八重が納戸のたんすのまえで、しきりに左近将監のきものをたたんではしまっているときだったのです。
八重は、夕方左近将監が御殿からひけてかえってきたときにさしあげるお夕飯のおかずのことで、
「おや、わたしうっかり忘れていた。お藤さんは魚政にいいつけといてくれたかしら?」
魚政というのは出入りのおさかなやでしたが、わたしちょっと手がはなせないからお藤さん、魚政がきたらあなたそういいつけて、だんなさまのおさしみをつくらせておいてくださらない、とたのんでおいたのです。
もう夕飯のしたくにかからなければならないのですが、毎夕かならず二、三本のおかんをあける習慣になっている左近将監の、酒のさかなでも用意しておかない日には、たださえ癇癖のつよい将監から、どんなおしかりをうけぬともかぎりません。それを思うと、もう、きものをたたんでいるどころではありません。家のなかをかけだすようにして、八重は表玄関へとんでいきました。
もう左近将監が御殿からかえるにまもないころですから、いつものように藤も玄関の式台や、あがり階段のあたりを、手ぬぐいで
「お藤さんちょいとあんた! さっきたのんどいたものを、魚政にいっといてくれたかしら?」
「ええおさしみでしょう、さっきいっときましたよ。きのうは海がしけて、だんなさまのお召しあがりになるようなお魚がないから、店へかえって何か見つくろって、スグおとどけいたします、っていってましたからね。もうお台所のほうへきてるんじゃないでしょうかねえ」
と雑布をかけながら藤はふりむいて答えました。
「そう······どうもありがとう。それならわたしも安心したけれど。じゃ、もうきてるでしょうよ。······どうもありがとうよ」
と安心した八重は、とんとんと長い廊下をわたって、ひきかえしてきました。そうして台所へいってお膳ごしらえをするまえに、いましまいきれなかったきものを、たんすのなかへかたづけてしまおうと思って、もういちど納戸の中へはいってきたのですが、そのひょうしに八重は、全身総毛だたんばかりのおどろきにうたれたのです。
なんとそこには、ついたったいま別れてきたばかりの藤が、しょんぼりとたたずんでいるではありませんか!
「あらまあお藤さん、なんてあんたは人をびっくりさせるの? どこをまわってわたしよりさきにここへきたの? いまわたしと口をきいてたばっかりじゃないの?」
と八重はびっくりして声をかけました。
しかし、藤はなんにも返事をしないのです。ただそこに突ったっているばかりなのです。もう夕方ですから日はしずんでいます。ことにここは広い中廊下にさえぎられたうすぐらい部屋で、青白い月の光線がさしているばかりなのでしたが、その青白い光線をうけてしょんぼりたっている藤のすがたは、まるで幽霊のようなすがたに見えるのでした。しかも気のせいか、藤はまっさおな顔をして、目ばかり妙にギラギラと薄気味悪い光をはなっているのです。
「まあおどかしちゃいやだよ、お藤さん、なんてまあこわい顔をして!」
と、そばへよろうとして、
「あら、あんたはまあ! なんてすばしこい人なんでしょう。いつのまにそんなかっこうをして! まあおどろいた! まるで手品つかいみたいな人ねえ!」
と、ふたたび八重がおどろきの叫びをあげたのも道理!
この納戸の中へさきまわりして、この藤がはいっているさえびっくりなのに、いま気がついて見れば藤はいつのまにか、頭の手ぬぐいをとってたすきをはずし、裾をちゃんとおろして、しかもそのうえ、手に小さなふろしき包みさえもっているのです。
こうなってきてはもうこの藤という女は、人間業をする女とは思われなくなってくるのです。しかも藤はなんともいわないのです。
「どうしたのよ、お藤さん、なぜそんなこわい顔をして、人の顔ばっかり見てるのさ?」
となにげなくすりよったとたん、藤の目がギラリとすごい光をはなって、はじめてのどの奥からおしだすように、妙な声をだしました。しかも八重は気がつきませんでしたが、その声はなにかかすれたような声で、たったいま玄関で問答してきた藤の声とは思われぬような声だったのです。
「お八重さん、あなたは殺されたいか?」
「何を冗談いってるのよ。世のなかに殺されたい人間がひとりでもいますかよ」
と八重がせせら笑ったとたん、かすれたような藤の第二の声がとんできたのです。
「だんなさまは、あんたを手討ちにするとおっしゃっていられるんだそうだよ」
「わたしがお手討ちになる? わたしがお手討ちになるんですって? お手討ちになるようなわるいことを、何をわたしがしたというんでしょう?」
と八重はまっさおになってふるえだしました。
「だ、だ、だれがそういったの? だれからあなたはきいてきたの?」
「いま若党の佐平治さんが、ひとあしさきにとんできて······は、早くあなたをにがしてしまえって、わたしにおしえてくれたのよ。だからわたし早くあなたにおしえてあげようと思って······こうして、荷物をもってきてあげたのよ。さ、早くお逃げなさい! もうおっつけだんなさまがおかえりになる。おかえりになったらもう間にあわない。さ、早く早くこの荷物をもって!」
「ああ、ああ······もうわたし······どうしたらいいんでしょう?······なんにも悪いこともしてないのに?」
と途方にくれて八重は、オロオロともう泣きださんばかりの顔をしているのです。
「そんなことをいくらいったってはじまらない! 癇癖がお起きになれば、見さかいなく人をブッた斬りなさるだんなさまのご気質は、あんただって知ってるでしょう? さ、もうおっつけだんなさまもおかえりになる。わたしもこうしてはいられない。さ、もうわたしはお玄関のほうへいくよ」
「あ、お藤さん待って、待って、ちょっと待って······後生だからちょっと待って!」
「あんたをたすけたことがわかれば、わたしまでも同罪よ。あんたのまきぞえを食うのはわたしもいやだからね。さ、もうわたしはいくよ」
「待って! 待って! 待ってちょうだいったら! 後生だからお藤さん、待ってちょうだいよう······わたしはいったいどうしたらいいんでしょう?」
「だから、殺されるのがいやだったら早くお逃げといってるじゃないか!······人がせっかくしんせつにおしえてあげてるのに!」
「お藤さん、わたしがにげたあとで、あんたにご迷惑がかからないかしら」
しかしそれに返事はなくて、
「お八重さん、あんたの在所は久留里村だとおいいだったわね」
と藤は何か思案するように帯のあいだに手をさしいれました。
「さ、わたしこれだけお金も用意してきてあげたわよ。どうせお給金も何ももらえはしないんだから······これだけあったら当分こまりはしないでしょう?」
とキラリと目を射るような小判を三枚······そのころの金としては莫大な金額というべきだったでしょう。
「まあお藤さん、あんたはしんせつな、しんせつな······なんというしんせつな······」
と、とうとう人のいい八重は泣きだしてしまいました。
「おや、だんなさまがおかえりになったんじゃないかしら?」
と藤はきき耳をたてました。
そのだんなさまがかえってこられたが最後、八重! そこになおれ! 不埓千万な! 手討ちにいたす!······それを考えるともう、八重は生きたここちもありません。
「さあ、それじゃこうしてはいられない!······お藤さん。あんたにはいろいろお世話になって······お礼はことばにはいいつくせない! いまにきっとご恩返しはしますから······」
「よけいなことはいいから、さ、早く裏から逃げて······町のほうへ逃げてはいけないよ、だんなさまと途中であったらたいへんだから! 命はありませんから!······道へでたらお小姓街道をスグ右のほうへお逃げ!」
もし八重の心さえすこしおちついて冷静であったならば、あるいはそのとき、藤のことばをいぶかしいと感じたかもしれません。だいいち、じぶんの身に思いあたるなんの落度もないのに、いくら癇癖もちだからとて、そうそう左近将監が斬ったりハッたりしようはずもないことです。
しかも、それをおしえにきてくれた佐平治が、かんじんの本人につたえないで、藤にだけつたえたということも、考えてみれば妙なことですし······そしてとりわけふしぎきわまることは、はじめにもいったように、玄関さきで話してきたばかりの藤が、八重よりさきにどうして納戸の中にはいっていたかということなのでしたが、気のどうてんしている八重には、もうそこまで物事を考えるおちつきを、まったくうしないきっていたのです。
そして藤にワッワとせかしたてられるままに、魂も身にそわず、ふるえながら八重は、そのまま夕闇にまぎれて左近将監の邸を逃げだしていました。
そして逃げだしていった八重のうしろすがたを見送りながら、ニヤリとすごい笑みをもらして藤がすがたを消すと、こんどはいれかわりに拭き掃除をすませたほんものの藤が、
「まあ、お八重さんたらどこへいったんでしょうねえ······もうじきだんなさまがおかえりになるというのにねえ」
と、ひとりごとをいいながら、間ごと間ごとをさがしまわっていたということを、いま必死になって村のほうへとお小姓街道を逃げている八重は、神ならぬ身の、露いささかもしるはずはなかったであろうと思われます。
八重が、お小姓街道を魂も身にそわず走っているちょうどそのころおいに、まだ奉公にきてまもないお稲という下働きの下女が、うすぐらい台所の土間で、しきりにだんなさま左近将監のおかずごしらえをしていましたが、そこへ足音もたてずにまるで
ことばもなくしずかにちかよって、せっせと働いているお稲のうしろにたたずんでいるのです。
夕闇はひろい台所のなかいっぱいにただよっていますし、かまどの下では薪が炎をあげ、フツフツと大釜は煮たっていますし、せわしく鍋の中へ箸をつっこんで、煮物の味加減をみているお稲は、うしろにだれかたたずんでいるともしりません。
やがて、ふとなにげなくうしろをふりむいたとたん、ヒャーとしりもちをつかんばかりに、この山だしの下女はおどろきの声をあげました。
「まあ、おどれえた。お八重さまではねえだかね、なんておまえさま、こわい顔をしてそんなところに立ってらっしゃるだね。······ああ、おどれえた! おらはァたまげてしまいましただよ」
しかし、お八重さまとよばれた女はなにひと口もききません。ただ目ばかりすごい底光りをはなっているのです。
と、いうことになりますと、おや! とみなさまはびっくりなさるかもしれません。お小姓街道を走っていた八重が、思いなおしてまた左近将監の邸へかえってきたのかとお思いになるかもしれません。
しかし、ほんものの八重ならば、いまたしかに息を切らせてお小姓街道を、村のほうへとひた走りに走っているところです。殺されるとわかっている恐ろしい邸へなど、どうしてかえってくるわけがありましょう。しかも、いまたたずんでいる八重はかたちもきものも、ほんものの八重と寸分のちがいもありませんが、ただ目の光だけがまったくちがいます。ほんものの八重は、けっしてこんなすごい目つきはしないのです。
「お八重さま、どうしなすっただかね? えらくだまって、こわい顔をして······」
とお稲がふたたび声をかけたとき、はじめて八重が口をひらきました。
「人にきかれるとたいへんなことになる。もっとそばへおより!」
「おら、なんだか、今夜のおまえさまはこわいような気がするだなァ」
と山だしのお稲は薄気味悪そうな声をだしました。
「なにもこわいことはありません。もっとそばへおより!······人にきかれたらたいへんだから」
「なんの話だかね······おら、気が小せえほうだから、あんまりおどかさねえでくらっせえよ」
と、こわごわそばへよった下働きの耳へ口をつけて、一言何かささやいたと思ったとたん、たちまちこの下働きは、ガタガタガタガタと、とめどもなくふるえだしました。顔色がまっさおにかわって、口がきけないのです。
「ふんなら······おら······今夜······だんなさまにお手討ちに? ああ、どうすべえなァ、どうしたらええべなァ······なにもおら悪いこともしねえだになァ······」
おんおんと声をあげて泣きだしてしまいました。
「おまえ助かりたいかえ?」
「お八重さま、後生一生のおねがいだァ、助けてくだせえまし······おらは在所に年をとった父つァまとふたりッきりだァ······死んだら父つァま、どんなに嘆くかわかんねえだべなァ······お八重さま、一生ご恩にきるだァ。助けてくだせえまし······」
ポロポロとあられのような涙を、陽にやけた頬につたわらせて、八重にすがりつきました。
「では、わたしが内証で助けてあげる! すぐおにげ! そこはそのままでいいからスグおにげ!」
「逃げますだ! 逃げますだとも! おらもう、こんなおそろしいお邸には一刻もいられましねえだ······」
「だんなさまにみつかると、おまえもう命はないよ。反対の道へおにげ! お小姓街道を村のほうへおにげ! さ、ここにお給金もわたしがもってきてあげた。手をおだし!」
「お八重さま······おら······もう······ほんとうに、おまえさまのごしんせつには······」
と下働きは泣きぬれながら両手をあわせて八重をふしおがみました。
左近将監はこの下働きのご主人さまにはちがいありませんが、こんな下働きふぜいに城代の左近将監がちょくせつことばをかけることなどは絶対にありません。
藤はお金のだしいれ、その他将監の身のまわりのこまごまとした用をたし、八重はきものやお膳部の用をうけたまわっている奥女中でしたから、こんな台所のはしためにとっては、八重のほうこそ、どんなやさしいちょくせつのご主人さまとも思えたかもしれません。
やがて、きものをつつんだ大風呂敷きをしょったこの下働きと八重のすがたは、うちつれだってもうとっぷりと夜の闇のたれこめた台所の入口のそとへあわただしく消えさってしまいました。が、ちょうどそのころに、遠く玄関口のほうからは、
「おかえりィ! だんなさまのおかえりィ!」
という叫びがきこえて、だいぶにぎやかに人の足音がちかづいてきたようです。
しかし、遠くはなれたこの台所だけは、しーんとして人影ひとつなく、ただ煮物のわきたっている音だけがして、白いゆげをたちのぼらせていましたが、やがてまた戸口から、そうっとあたりを見まわしながらはいってきた黒影がありました。
お稲を送りだした八重かと思いのほか、もう八重のすがたはそれになく、なんとそれはたったいまおくりだされたばかりの下働きのお稲だったのです。
が、これもほんとうのお稲とはだいぶちがいます。目がギラギラと異様にかがやいて······だいいち、ほんとうのお稲ならば、大きなふろしき包みをしょって、いまごろはこけつまろびつ必死になってお小姓街道を村のほうへと逃げ走っていたころだったでしょう。そしてこんな恐ろしいお邸などへ、なにしにノコノコもどってくるわけがありましょう。
ごらんなさい、いまはいってきた怪しげなお稲を!
ギラギラと底光るひとみを四方八方へくばりつつ、ぬき足さし足そうっと流しもとへちかづいていくではありませんか! そしてそこにまたたいている上りがまちの薄暗いあんどんの光にすかしみて、もういちど奥のほうへするどい目をくばると、なんとふしぎや! 人間の女のくせに、けだもののように、耳をピクピクと二、三度ふるわせて、あたりの気配にきき耳をたてています。
と、その手がソロソロとうごいて、いま煮えている鍋のふたをとりました。帯のあいだからとりだした紙包みの白い粉を、ザラザラとながしこむと、何食わぬ顔で、しゃもじをもってしずかにかきまわしています。そしてやがてまたふたをして、耳をうごかしながら、ニヤッと笑みをうかべてあたりを見まわした顔つきのすごさ!
が、その瞬間だったのです。たちまちこの恐ろしい下働きは、なんにおどろいたのか、おそろしい
「な、な、な、何をしやがった、この女ァ! ふてえ真似をしやがって! な、な、何をいれやがったんだ、だんなさまのお食事のなかに!」
と、おどりこんできたものがあったのです。いま左近将監の供をしてかえってきたのでしょう、若党の佐平治だったのです。
「ヤイ女ァ! 逃げる気か?」
手首をつかんだ手をひきよせて、佐平治は目をいからせました。
「おかしな真似をしてやがると、人が入口からみてるともしらず、やい、だんなさまのお召しあがりもののなかへ何をいれた! ヤイお稲、だれにたのまれて、てめえは毒をいれやがったんだ? ウヌ逃げる気か」
逃げる気かも、なにもあったものではありません。つかまれた手をふりきって、女は身をひるがえそうともがいています。たちまちドタバタとえらいさわぎがはじまってきました。
「ウヌ、こいつ、女のくせにくそ力があるやつ!······あ、いけねえ!」
たちまちドシーンと、佐平治はへっついのそばへたたきつけられました。
起きなおって逃げようとする女に組みついていく。ドタンバタンと上になり下になり、はねっかえされ······またおさえつけ······。
「いけねえ! こいつァ女のくせにおそろしい力のある畜生だ!」
と、佐平治は息をきらせはじめました。
「ウヌ、畜生! ひっかきやがったな!」
よほど深く爪をたてられたとみえて、たちまちタラタラと佐平治の手の甲をつたわって血がながれだしました。
「仲八······権六······定吉······おーいみんなきてくれ! 手つだってくれい! おーい権六! 仲八! 定吉い!」
またもや
「てごわい女じゃねえか! しかたがねえ、みんなでかかってしばりあげてしまえ! 佐平治どん、そら加勢するぞう!」
みんなでわめいて、いちどきにおどりかかりましたが、その強いことつよいこと! たちまち仲八は土間へたたきつけられて、カエルのようにへたばり、権六はへっついの角へ投げつけられて、すんでのことに頭をたちわるところでした。もはや邸のなかじゅう、われかえらんばかりのさわぎです。
そしてだれか、左近将監のところへも注進したものがあったとみえて、ズシンズシンと足音たかく、帰邸そうそうまだ紋服もぬぎかえぬ左近将監が、刀を藤にもたせてあらわれました。
「なんじゃ、見ぐるしいそのさわぎは! 大の男が四人も五人もかかりおって、たかが女ひとりくらいにそのざまは!」
と、にがりきって突っ立っているのです。
「わしの食事に毒をいれたやつはその女か? よし、わしがじぶんでとりしらべる。権六! 女の顔をこちらへむけえ!」
やっとのことで、どうやら組みふせた女のえり髪をつかんで、顔を左近将監のほうへむけさせることができました。
「藤、
じいっと首をさしのべた左近将監の目と、組みふせられながら下からにらんでいる女の目と······火花をちらしてじーっとふれあったとみたとたん、たちまちムーンと女の五体に力がみちみちて、なんという恐ろしい力がでてきたのでしょう。さながら電気にでもかけられたように佐平治も権六も仲八も定吉もたちまちはねとばされて、女は土間のまんなかに仁王立ちに突ったってしまいました。
いいえ突ったったばかりではありません。女はみるみる血相かえて憤怒の形相ものすごく、髪の毛をさかだてて将監をにらんでいるのです。しかもウウウウウと、のどの奥で奇怪なうなりをたてています。
「ウウウウおのれは左近将監! にくさもにくし石藤左近将監、よくもよくも竜胆寺小金吾さまをたばかり殺しおったな」
「なに! 竜胆寺小金吾! さてはさては······藤! 刀をよこせ! 早く刀をだせ! ウーム」
というより早く、藤からうけとった刀をぬいて、抜きうちざまにまっぷたつ! と切りつけた瞬間、飯たき女とあなどったお稲のからだが、たちまち左近将監の眼前におどって、そのとたん暴風のような、つむじ風のような、怒濤のようなすさまじい風がまきおこってきました。そしてその
しかもふるえあがっている人々の耳をうってくるものは、屋根の棟をゆりうごかして、ごうごうとなりはためいているその大つむじ風のなかで、ギャオギャオ! ギャァギャァ! と身の毛もよだたんばかりの怒り声をだして、右左にすさまじくとびかかっている、とぎすましたようなけだものの爛々たる目のかがやきと、その目を追ってヤッオウ! と気合いするどく稲妻のようにピカリピカリとひかる左近将監の刀のひらめきばかりだったのです。
生きたここちもなく、耳をおさえて土間にひれふしている一同の上に、およそこのつむじ風のようななりはためきは、どのくらいのあいだもつづいていたことでしょうか。やがて、
「おのれくせもの、思いしったか!」
と、ひときわたかい左近将監の叫びと同時に、たしかに手ごたえあったらしく、
「ギャオッ!」
というくせものの悲鳴もろとも、バリバリバリバリと羽目板か天井をかきむしるような音をさいごに、さしものすさまじいさわぎもしずまってしまいましたが、
「藤! あかりをつけい! 手燭をつけい! 権六、佐平治、早くあかりをつけい!」
と左近将監の声に、生きたここちもない一同、おそるおそる顔をもたげたときには、天井から屋根へかけて、ポッカリとあいた大穴のむこうから、星がキラキラと顔をのぞかせて、しかもふるえながら藤がつけたあんどんのまえへ、血のしたたった刀をつきだして、ためつすがめつ無念そうな左近将監のすがたが目についたばかりです。
お城の桜の馬場の襲撃に失敗し、かたきうちをよそおって門前へのおびきだしに失敗し、さぞ、くせものも無念だったでしょうが、左近将監もまた、この事件ではふかく考えさせられずにはいませんでした。
いままではまさかに竜胆寺小金吾のうらみをはらすために、じぶんがつけねらわれているとは夢にもしりませんでしたから、てっきり他藩よりのしのびのものと考えていましたが、もはや今夜のひとことで、くせものの正体の見きわめがついたのです。
「······おのれ左近将監! にくさもにくし石藤左近将監よな! よくもよくも竜胆寺小金吾さまをたばかり殺しおったな!」
さてはさては忍術使と思いのほか、竜胆寺小金吾のうらみをはらすため、きょうまでおれをつけまわしおったな! と、やっとその正体はのみこめましたが、さてあいてがなんであるかは、サッパリわからないのです。
「フウム······フウム」
と、さすがの左近将監も空腹をわすれて、じーっと座敷に端座して小首をかしげていましたが、いくら考えても見当はサッパリつかないのです。
ともかくくせものがどんな毒をしこんだのか、それをためしてみようとあって、さっきの煮物を
お膳部がかりの奥女中の八重をたばかってにげださせ、お膳部がかりの下働きお稲をたばかってこれまたにげださせ、じぶんがお稲にばけこんで、ゆうゆうと左近将監を毒殺しようとたくらんだくせものの、そのたくらみの用意周到さもさることながら、その毒薬の力のすさまじさには、まったく舌をまかずにはいられなかったのです。
ガツガツとむさぼりたべていた仲八の仔犬が、やがて満腹したように鍋をはなれて、二足三足ヨチヨチとあるきだしたとたん······、そのあるきだした瞬間、たちまち四肢をビクつかせて、グーッ! と、おびただしい血へどをはいてブッたおれました。ブッたおれた全身に波のようなけいれんをおこして、やがて断末魔の息をあえがし、そこに命がたえてしまいました。そのあいだ、おそらく数語をかわすいとまとてない、みじかいあいだの出来事だったでしょう。
が、さてこれほどの周到な計画をめぐらすくせものが、二度や三度の失敗をかせねたからとて、どうしてそのままに思いとどまってしまうわけがあったでしょう。やがてそこには、日ならずして第四回目のおそろしい事件がもちあがってきたのです。
それは左近将監の老母の隠居所でのふしぎなできごとです。が、それを申しあげるためには、まず左近将監の老母が、どこにすんでいたかということからお話しいたさなければ、みなさまにはおわかりにもならないであろうと思われますが、ずっとこの物語のはじめのほうで······まだ了福寺の和尚さんのお話にはいるまえ、博士の飼犬の五郎丸が、なにものかのために、みるもむざんな最期をとげて、その屍骸のあったところは、この山茶花屋敷の裏庭をよこぎって、むかしの厩のくずれた小屋跡から、雑木林のかげを野草におおわれた
この茶畑をこしますと、スグそこが八重の逃げていったお小姓街道になります。このお小姓街道のむこうがわは、また陽あたりのいいいちめんの小高い丘になっているのです。
そして左近将監の母の隠居所というのは、そのころこの丘のなかほどに建っておりました。そしてそこには、こぢんまりとした茶室づくりの家のなかに、将監の老母がふたりばかりの女中にかしずかれて、何不自由もない日をのんびりとくらしていたのです。
かんしゃくもちの左近将監でも、さすがに親のことですから三日に一度、五日に一度、
「お母上いかがでござるな? おかわりあらせられませぬかな?」
と庭の木戸口のところから声をかけていくのですが、まえにもいったとおり、殿さまは江戸表にご在府中で、おるすをあずかる城代家老の身はなかなかいそがしく、ここのところ十日ばかりというもの、つい顔だしもおこたっていましたが、その奇怪な事件というのは、このあいだにわきおこってきたのです。
というのは、つい二、三日まえ、この隠居所ではたらいているお里という老母づきの女中が、ごくないないで、だんなさまにお目どおりしてお話申しあげたいことがある、といってまいっておりますが、と、若党の佐平治がしきいぎわに平伏してきたのです。
「里がわしに話があると?」
書見中の左近将監はピクピクと毛虫のようなまゆをうごかしました。
「母上の召使ふぜいが何もわしに用のあるわけはない。話があったら母上が直接の主人じゃ。母上に話したらよかろう。そういってたたきかえしてしまえ!」
と例によってケンもホロロの返事です。
「かしこまりました。では当人によくそう申しつたえておきますでござりましょう」
と佐平治は一礼してひきさがっていきましたが、ふたたびこまったようにしきいぎわに頭をすりつけてきたのです。
「だんなさま、やはり何かないないでだんなさまのお耳へいれたいことがあると、当人はたってお目通りをねがっておりますが······」
「うるさいやつじゃな。······左近将監をなんと心得おる!」
と、もう将監はかんしゃく眉をピクツかせました。
「わしは一藩の政務をつかさどる身、召使ふぜいと鼻つきあわせるいとまはないわ! 佐平治、そち、話をきいてしかるべくとりはからっておけ」
それなり顔を書物の上にふせて、佐平治は、もうとりつく島もありません。
「では······てまえが話をききまして······なんとかとりはからっておくことにいたしましょう」
しかしその佐平治は、またもや三度頭をすりつけてきました。
「やはりいけません。だんなさま! 当人はなんとしても、だんなさま以外のお耳へはいれられぬ話だ、と申しまして······もしだんなさまおききくださらずば、何事も申しあげずに、このままお暇をねがいたいなどと申しおりまして······てまえなどへは、何ひとつ話すものではござりません。なにかよほどこみいった話がございますようで······」
「たわけものめ!」
と例によってまた左近将監のおハコがはじまりました。
「そち、何年当家につかえおる! それしきのとりしまりもできずに、若党がつとまるか! バカものめ!」
と頭ごなしにどなりつけましたが、そのかんしゃくまぎれに、
「よべ! そのですぎ女をよべ! さっさとせんか!」
と、ついでにこの女中もどなりつけるつもりでいたのでしょう。かんしゃくすじがポッカリとこめかみのあたりに、もうみみずのようにフクれあがっているのです。
「おそれいります。ではただいま召しつれますでございます」
と、もう主人のかんしゃくにはなれきっておりますから、佐平治は蚊のくったほどにも感じません。表面はしおらしくもみでをしてひきさがっていきましたが、やがて、
「だんなさま、里をめしつれましてございます」
と、そこへ佐平治とならんで指をついている四十くらいの女中を見ると、
「召使のぶんざいをもって押しかえし押しかえし、うるさい女じゃな! 主人にたいしてなんの密談がある? そちは相談したいことがあっても、わしには、召使ふぜいと相談したいことはなんにもないわい!」
と、もう頭ごなしのドラ声です。
「······申しあげようか申しあげまいか······事ご隠居さまのおん身にかかわりますことなれば、なんにも申しあげずと、このままお暇ねがおうかとずいぶん考えましたなれど······ほかならぬ大恩うけたご主人さまおん家にかかわる一大事とぞんじまして······だんなさまご立腹をもかえりみず、たびたび押しかえしてお目どおりねがいまして······お許しくださりませ」
「前置きがくどい! さっさと思うことをいうたらどうじゃ!」
とニベもなくひとつあびせかけました。
「だんなさま······じつはご隠居さまお身のうえのことなのでございますが······」
と決心はしてきても、主人の母親のことですから、女中のお里もさすがにためらいの色を見せております。
「佐平治、なにをとんま面してボヤボヤいたしておる。そちにはもう用はない。なぜさがりおらん」
へえ! と佐平治が去ったあとで、ようやく決心がついたように膝をすすめました。
「だんなさま······一大事でございます。ご隠居さまのこのごろのごようすが、なんとしてもわたくしの目には腑におちぬことだらけでございます。わたくしの目には、ご主人なれど、このごろのごようすは、もはや妖怪変化か魔性のものが、かりにご隠居のおすがたをかりているとしか、どうしても思われなくなりました······」
「な、な、なんと!」
と思わず左近将監も膝をのりだしました。
「そちにとっては主人の身、わしにとっては大恩ある母上を、妖怪変化か魔性のものとはききずてならぬ一言! 里! 主人なり主人の母の
「それなればこそだんなさま······きょうまでわたくしは、お耳へいれようかいれまいかと、どんなに悩んでおったかわかりません。······もしお耳へいれてもおききいれなくばと······きょう申しあげようか、あすは申しあげようかと······」
「くどい! そちの悩んだ話などどうでもよいわい! それだけの覚悟あっての話かどうか、わしは問うておる! 主人の親をさして妖怪変化とはよういならぬ一言! よもや一時の思いつきや、たわむれではあるまいな」
「わたくし、ご隠居さまやだんなさまには、なみなみならぬご恩をうけまして、どうしてたわむれや酔興でこんなことを申しあげるわけがございましょうか?
もしわたしくの申しあげますことを、うそいつわりとお思いくださいますならば、だんなさまお調べくださいまして、スグにご合点のおまいりになる話でございます。そのうえでもし、まだご疑念がございましたならば、ご主人さまを悪口雑言いたしました罪······里をお手討ちくださいますとも、わたくしに否やはございません」
「よし、それだけの覚悟のうえの話ならばきこう! 要点だけをかいつまんで述べてみよ! そのかわり、もしまちがっておったならば、そちをそのままにはさしおかんぞ! さ、どこが妖怪変化かのべてみよ!」
まちがったが最後、そのままにはさしおかんぞ! とばかりに将監は刀の鯉口切らんばかりに片膝立てて身をのりだしています。そのすさまじい形相のまえに逐一申したてようというのですから、お里もよほどの確信も決心もあってのことだったのでしょうが、
「もうかれこれ半月ばかりもまえからのことだったのでございます」
とお里が話しだしたのはこういうことだったのです。
その半月ぐらいまえから女中のお里の目に、なんだかこのごろのご隠居さまのごようすが変だなと思われたのは、妙に目つきがするどくなって、なにかご隠居さまにじーっとみつめられると、全身ゾーッと冷水でもかけられたような気がすることだったのです。
やがてそのうちに、おや! と気がついたのは、ご隠居さまのお食事がたいそうおすすみになることだったのです。左近将監の母親は、すでに七十八歳にもなっていられる老人ですから、ふだんはそうたくさん食事をめしあがるほうではなかったのです。たった一膳のご飯さえ、いやいやめしあがるかたが、なんとこのごろの食事のすすみかたというものは! 三度三度のご飯は老人にも似合わずおかわりをかさねて、一度に三杯ぐらいはかならずめしあがられます。そしてつけたおかずはあまさずにお皿をなめたようにきれいにめしあがられます。
ずいぶんご隠居さまは、このごろはおいしそうにお食事をなさると、内々舌をまいていましたが、そのうちにふと気のついたのは、ご隠居さまが、このごろは妙なお食事をなされることだったのです。それは、はじめのうちはご飯とおかずをべつべつにめしあがっていられますが、やがてめんどうくさそうにご飯の中へおつけでもお魚でもみんなブチまぜて、おあがりになることだったのです。あっけにとられてとうとうお里はあるとき、口にだしたことがあるのです。
「ご隠居さま······たいへんめずらしいめしあがりかたをなさいます。そういうめしあがりかたをなさいまして、よくおなまぐさくございませんね」
とお里はべつだん悪気もなく、ただびっくりしたあまり、笑いながらうかがってみたにすぎませんが、そのとき、ジロリとお里をごらんになったご隠居さまの目の底光りしてこわいこと、こわいこと!
「こういう食べかたをしては悪いとお里はいいやるのかえ!」
「いえいえ、めっそうな! 悪いなどとけっしてそんな!」
「ではどんな食べかたをしてもよいではないかえ? じつは
とおっしゃいましたが、あまりにもお里をごらんになるそのお目の光のこわさに、とうとうお里は目をふせて、口をつぐんでしまった······とこういう話なのです。
「だんなさま! だんなさまはご隠居さまに、そういうめしあがりかたをおすすめになりましたでしょうか?」
「バ、バカなことをいえ! 猫や犬ではあるまいし······どこの世界にそういう妙な食べかたを親にすすめるバカものがある!」
と、めんくらって左近将監は目をむきだしました。
「でもご隠居さまは、そのときそうおっしゃったのでございます」
しかもご隠居さまのおかわりになったのは、ただそんなことばかりではないというのです。いままではご隠居さまは魚類よりもむしろ野菜のほうをおこのみになっていらしたのに、このごろはまるで人がおかわりになったように、野菜などはとんとふりむきもなさらず、ただお魚ばかりをたいへんお好みになるというのです。
「フウム······フウム······」
と、さすがの左近将監も、目を皿のようにして鼻息あらく、お里の話にききいっていました。
「しかもそればかりではございません、だんなさま。ついおとといの朝のことでございました。ご隠居さまは庭をあるいているうちにころんだのだから、たいしたことはない、左近将監のほうへしらせたら、決してそのままにはそちたちをしておきませぬぞ! と、たいそうこわいお顔をなさいまして、お幾どんに床をおしかせになってお休みでございましたが、どうもときどき苦しそうにおうなりあそばします。だいぶおけがもお重いらしい、これはどうしたものかしら? と、いろいろ思案いたしまして、ふと夜中に目がさめましたところ、奥の間のほうから、だれか二、三人の声でヒソヒソとひくい話し声がきこえてまいるのでございます。
八つ
真夜中にご主人さまのお話を立ちぎきするのは、重々よくないこととはぞんじましたが、だれもお客さまのいらっしゃる時刻でもないのに、ハテふしぎな! と思いましたものですから、
戸じまりをしてわたくしどもがやすみましたのは、たしかに四つ
「なんと? 黒装束の男とな?」
「ハイ、まっくろな装束をつけたおかたがふたり、ご隠居さまをかこんで······しかもご隠居さまはあんどんのかげで片肌おぬぎになって、
「疵の療治を?」
「左の肩からお乳の上へかけて、見るもむごたらしい刀傷を! たしかに刀傷でございます。
ご隠居さまはよほどおいたみなのでございましょう。顔をしかめてウウム······ウウムとうなっておいでになりましたが、ひとりの黒装束が、そのお疵へ何か
······だんなさま、つかぬことをおうかがいいたしますが、権六どんの話では、さきおとといの晩お稲さんのすがたにばけた曲者が、だんなさまのおめしあがり物の中へ、毒をいれようとしてたいへんなさわぎになって、だんなさまはそのお稲さんにばけた曲者を、まっくらな中でお斬りになったとかうかがっておりますが、だんなさまはそのとき、曲者のどこをお斬りになりましたか、おぼえておいででございましょうか?」
「ウウムそうか!」
と左近将監にも思いあたるところでもあったのか、一膝のりだしてうなずきました。
「いかにもまっくらな中であったから、しかとはわからぬが······待てよ。そのときわしは左へはらって······右ななめから斬りおろして······」
と左近将監は考えこみました。
「たしかにそうじゃ。右ななめから斬りおろして手ごたえを感じたから、そうじゃ。傷はあいての左肩から乳へかけて、左ななめに斬りつけているはずじゃ」
「なら、だんなさま、たしかにご隠居さまはそのときの曲者にそういございません。疵は左ななめに乳の上へかけて、よほどの
「フームそうか!」
と、さすがに左近将監もあまりにも執念ぶかいこの曲者には、ただただあきれるばかり、しばらくはことばもありません。
「ようし、わかった! たしかにその曲者じゃ! わしに斬られたはらいせに、おのれ! 獣のぶんざいをもって、よくもよくも隠居所にしのびこんで、たいせつな母上に危害をあたえおったな、おのれ憎くき曲者め!」
と歯ぎしりして目を怒らせて無念の形相です。
「して、そ、それからどうしたのじゃ?」
「残念ながら、わたくしの見ききいたしましたのはそれだけでございます。あまりの恐ろしさに、ガクガクと歯の根もあわずふるえながら立っておりましたが、ちょうどそのおりでございました。さらし布をもっておりました黒装束が、鼻をピクピクさせまして、
『おかしいぞ! どこからか人のにおいがしてくるぞ』
と申しました。
『何をバカばかりいってるのだ! この真夜中におきてるやつがあるものか! 女中どもも
と、申しましたので、その布をもった黒装束も、いいぐあいに、それ以上はあやしみもいたしませんでした。
こんなおそろしい曲者たちに見つかりましては、命のほどもあぶないとぞんじましたので、そのまま、そうっと部屋へもどってまいりました。もう恐ろしくておそろしくて、一晩中歯の根もあわなかったのでございます。そしてスグだんなさまへおしらせ申しあげようと思いましたが、あんな
「さようか! そちの申すことはようく相わかった。よくぞしらせてくれた。あらためて、そちには将監くれぐれも礼をいうぞ。そうとは知らず、さきほどよりそちを疑ってさまざまのことを申したなれど、わしにとっては大事な
と、ようやく左近将監も夢からさめたようなここちです。
「よい、よい! そちのせっかくのしらせを決してわるうはとりはからわぬ。今日明日中にも、わしみずから乗りこんで、しかるべく曲者を成敗してくれるつもりじゃが、わしにもいろいろと考えがあるで、そちはこれでいちおうひきとってよろしい」
と左近将監は腕をこまねきましたが、お里の身になってみれば、なかなかひきとれるものではありませぬ。
「だんなさま後生でございます。お助けなされてくだされませ。お屋敷の一大事と思い、ご注進いたしましたなれど、あいては尋常一様の曲者ではござりませぬ。わたくしがおしらせにまいりましたことは、きっともう感づいていて、立ちかえりましたなら、どんな目にあわされるかわかりませぬ。だんなさまお助けなされてくださりませ!」
「よしそれならば、そちはしばらくここにとどまっておれ。すぐに乗りこんで成敗いたすつもりなれど、せっかくしんせつに知らしてくれたそちの身に、危害くわわることも将監の本意ではない。手不足のおりからじゃ。よいよい、そち、こちへとどまって八重の仕事でもいたしおれ」
そして話しおわって、今さらのように恐ろしがっているお里を勝手元へおいやり、将監はじーっと目をつぶって腕組みをしていました。
なるほどひしひしと思いあたることがあります。
曲者が忍術使やなにかでなく、竜胆寺小金吾の仇とじぶんをつけねらっていることは、すでにこないだの名のりかけでわかりましたが、さてそれが人間よりもよほど智恵のまわった、容易ならぬ妖怪変化のたぐいであろうということは推測し得ても、それがなんであるか? ······キツネであるかタヌキであるか猫であるかという見当はサッパリつかなかったのです。が、いまお里の話によって、ようやく左近将監にも、そのおおよその見当がついてきたように思われます。
むやみやたらと魚をたべたがること······そして骨ものこさぬこと······同時に飯の上に魚をまぶせてかきまわしてたべるということになれば、まず犬か猫でしかありません。しかし犬が人にばけたということは、あまりきいたこともありませんが、猫は魔性のものといって、むかしからたびたび変幻出没自在のはたらきをしています。
してみれば、じぶんを小金吾の仇とつけねらっているものは、まずようすから察すると猫······それも年をへたよほどの怪猫らしく思われます。その怪猫が、このあいだはお稲にばけてじぶんにおそいかかり、それがかなわぬとみると、こんどはあの深傷をうけながらも、屈せずに隠居所へはいりこんで、じぶんの母を食いころしてまんまと老母にばけ、じぶんの油断をうかがっているとは、なんという怪猫の執念深さ! さすがかんしゃくもちの左近将監も、思わず背筋から冷水でもブチかけられたように、ブルブルッと身ぶるいせずにはいられませんでした。
しかし、じぶんでは怪猫とひとまずきめてはみましたが、あいてはかりにも親のすがたにばけている以上、念には念をいれなければなりません。
「佐平治はおらぬか? 佐平治は! こりゃ佐平治、佐平治!」
と、手をたたき、大声をだして佐平治をよびたてました。
「だんなさま、およびでございましょうか?」
と、手をついた佐平治に、
「そちはいったい竜胆寺の屋敷へ、いままでになんどばかりいったことがある?」
と問いかけました。
「さようでござりますな。両三度ばかりも、お使いにまいったでござりましょうか?」
「あの屋敷にキツネか猫のたぐいが、それもだいぶ年をへたやつらしいが、いたかどうじゃ?」
「キツネか猫が······」
と、思いがけぬ問いに佐平治はびっくりしました。
「さて······と。てまえはだんなさまのご用でまいりましても、いつもお玄関さきで立ちかえっておりましたから、ついぞあのお屋敷のなかまでは······いっこうにぞんじませんでしたが」
「たわけものめ! 主人の使いでいったら、なぜそれくらいのことに心をとめておかん?」
と例によってまことにむりな小言です。
「しかたがない! では、大いそぎで生前小金吾の屋敷へしたしく出いりいたしおったるもの······そうじゃ、お小姓頭の但馬隼人正······
「ハ、かしこまりました。ではただいまスグに」
佐平治があわただしくとびだしていったあとで、将監はもういちど腕をくんで考えました。あいてはよういならぬ曲者です。こんどこそあとくされのないよう一挙に仕とめてしまわなければなりませんが、あの手ごわい曲者のことを考えると、仲八や権六や定吉などといったやからを何人つれていったからとて、とうていものの役にたつものではありません。やはり家中の若侍たち五、六人もひっぱっていこうかと、はじめは考えぬでもありませんでしたが、
「いかん、いかん! これはいかん!」
と、ハッとしてにがい顔をしました。このあいだお稲にばけた曲者が、にくさもにくい石藤左近将監! よくもよくも竜胆寺小金吾さまを、たばかり殺しおったな! と、なのりかけてきたことを思いだしたからなのです。
お、いけん、いけん! もしまた家中の若侍たちのまえであんな大声でなのりかけられたら、小金吾を殺したことを、ひたかくしにしているじぶんの旧悪は、一時にばれてしまうおそれがある。よし、
と、あくまでも召使たちに思いやりのない左近将監は、そう決心をきめたのです。そして刀をとりだして拭いをかけて、用意おこたりなく、あれこれと手くばりをととのえておりました。
「だんなさま、わかりましてございます。やっぱり、やっぱりおりましてございます」
と、汗をふきながら佐平治が息せききってかえってきたのは、もうかれこれ夕闇のたれこめるころおいでした。
「やっぱり利巧な猫がおりましたそうでございます。お亡くなりになりました若さまがたいそうおかわいがりになっておりましたそうで······それが竜胆寺のご隠居さまがお亡くなりになりましたときから、プッツリとすがたを見せませぬそうで······」
「おう、やっぱり猫がいたか! フウム、なるほど怪猫じゃったのか。そうかそうか、怪猫のしわざじゃったのか!」
と、はじめて左近将監にも腑におちました。なるほど曲者が怪猫だったとすれば、いっさいがっさい合点がまいります。
桜の馬場での襲撃も、門前でおこなわれたあのふしぎな仇討ちの謎も······そしてまた最後に奥女中の八重がゆくえをくらまし、飯炊きのお稲もゆくえをくらまし、膳部のかかりをみんなおっぱらっておいて、ゆうゆうと飯炊き女にばけこんで、左近将監の食事のなかへ毒薬をしこもうとして、佐平治に見つかるや、とうとうその本性をあらわして、将監におどりかかってきたことといい、その毒殺にも失敗するや······こんどは隠居所の老母をくいころして、そのすがたにばけて将監のゆだんをねらっているてんといい、その智恵の周到さ! その執念深さ! おそろしいとも気味わるいとも、いわんかたありません。
もはやこのおそろしいあいてには一刻の猶予もできません。時刻をのばしていたら今夜にもじぶんの命があぶないのです。もはやこのようすでは、おそらく八重もこの怪猫におびきだされてくいころされ、お稲も闇のなかでくいころされているものと見なければなりません。
なんというおそろしい怪猫! 憎きやつ! と、左近将監は、じぶんが小金吾をころしたばっかりに、事はおこっているのだというのも忘れて、火のようにたけりたちました。
ようし! 怪猫め! 今夜こそ有無をいわせず目にものみせてくれるぞ!
「佐平治、佐平治! こりゃ佐平治!」
猫のことでさんざんかけめぐってきて、部屋へもどって休息のいとまもなく、佐平治はまたもやよびたてられました。
「コリャ佐平治! 仲八、権六、定吉どもをよびあつめい! よびあつめて、めいめいに鋤、鍬、鎌なんでもかまわん! 手なれた柄物をもたせ、身じたくさせい! わしのあとからついてこさせえ!」
「だんなさまどちらへお供いたしますので?」
「そちだけにはおしえておく。臆病者ぞろいのやつらじゃ。やつらにまえもって話してはならぬぞ! よいか、わかったな? これからわしが隠居所へいく。そちはやつらに指図して、隠居所の出口出口をかためさせるのじゃ! そしてわしが斬りつけて、もし老母がにげだしてきたがさいご、きょうこそわしが許す。たとえわしの老母たりともくるしゅうない、一同で柄物をふるってその場をさらせず滅多打ちにうちころしてしまえ! わかったな? わしの老母だとえんりょしてひるんだがさいご、そちたちの命はないぞ! えんりょは無用じゃ! そちが指図をしてその場をさらせずうちころしてしまうのじゃ!」
「だ、だんなさまそれでは、ご、ご隠居さまをわたくしどもが、お
「たわけものめ、いまになってもまだ腑におちぬか? わしの老母ではない! 老母にすがたをかえた怪猫なのじゃ! 過日来飯炊きにばけてわしに仇をなし、······ソレ、そちにも手傷をおわせたであろうがな? 竜胆寺めの怪猫が、わしの老母をくいころして、いまわしの老母にばけこんでいるのじゃ。わかったか?」
「そ、それではだんなさま! 竜胆寺さまの怪猫めが、ご隠居さまをくいころして、ただいまご隠居さまにばけておりますんで」
「ゆだんすな、けっしてぬかるでないぞ!」
「これは、おどろきましたな。いやハヤおそろしいことで、なんともハヤもう身の毛のよだつようなお話でござりますな」
と佐平治にいたっては、あまりのおそろしさに、ただもうブルブルとふるえているばかりです。そしていうなといわれても、佐平治からそうっと耳打ちされたのでしょう。まだ怪猫にもあわぬうちから、仲八、権六、定吉らはいずれも顔色かえて浮足だちながら、鍬をかつぎ玄能をふりふり、逃げごしをして将監のあとからくっついてまいります。
さて、この一隊をひきつれてお小姓街道をよこぎって、一同が隠居所のほうへちがづいてきたときには、もはや夜はとっぷりとくれはててまッくらく、空には星ばかりがまたたいておりました。
そしてふるえたった一同をつれて、砂利をしきつめた隠居所の坂道を、いましも登ろうとしていたときでした。隠居所の小門がギイッーとあいて、なかから提灯をつけた若い女がひとりでてまいりました。すれちがいざまに、
「だんなさまでいられましょうか?」
「おう、そちは幾か?」
と、将監も歩をとめました。お幾はお里の朋輩女中でしたが、これは老母づきの小間使で、まだ二十一、二のきれいな女です。
「いまごろどこへゆく?」
「ハイ、ご隠居さまのおいいつけで、だんなさまのお屋敷まで、ちょっとまいります」
「なんの用事じゃ?」
「お香を拝借にあがります。ご隠居さまのおおせには、今夜かならず左近将監が見えるほどに、お茶といっしょに香をたかねばならぬが、あいにく香がきれたによって、そなたちょっと藤のところまでいって、香をかりてきよ、とおおせられましたので、お屋敷までいってさんじます」
「ほう! 今夜かならずわしがくるとおおせられてか? フウム······」
年をへた怪猫には、もうじぶんのいくことがわかっていたのか? と将監は心のうちで舌をまき同時によういならぬあいてに、いっそう身のひきしまるのをおぼえました。
「香などたくにおよばん! ひきかえせ、ひきかえせ!」
「でも······ご隠居さまのおいいつけで······」
とお幾は、老母と、左近将監のあいだにはさまって、モジモジとこまっているようです。
「よし、それならいけ、いけ! いそいでかえってくるにはおよばん! ゆっくり話しこんでこいよ!」
左近将監としては、めずらしく思いやりのあることばでしたが、けっしてそうではありません。怪猫をしとめるのには、なまじっかマゴマゴと足手まといの女子どもなどは、いないほうがいいと思ったからにほかなりませんでした。が、さて、
「それではだんなさま、どうぞごゆるりと······」
と小腰をかがめて坂をおりていったお幾が、やがて坂の下に立ちどまって、将監のうしろすがたをながめながら、すごい目をしてニヤリと薄笑みをもらしたことも、またその提灯の火が、お小姓街道のなかほどあたりまでもいくと、暗々の闇のなかにフッとかききえてしまったことも、神ならぬ身の将監たちには、いささかの気もつかなかったであろうと思われます。
そしてそのころには、ふるえている仲八や権六どもに柄物をかまえさせて、老母のにげだしてきそうな要所要所に身をひそめさせ、そしてじぶんは佐平治ひとりをつれて、奥庭ふかく、ちょうど老母のやすんでいる寝所ちかくの縁側のそばで、しきりに佐平治に指図をしているまっさいちゅうだったのです。
「よろしいか! わしの見るところではこの縁の下の奥のほう······左のほうへよって曲者のねている真下あたりがあやしいとにらんでいる。そのへんの土が、かならずやわらかくなってるにちがいない。わしの老母をくいころして、そこに骨をうめているにちがいあるまい。そうっと掘りおこしてみよ。曲者に気づかれぬよう音をたてるなよ! 手で掘りおこしてみよ、手で!」
スグ畳一枚上には老母にばけた曲者がねむっているのですから、佐平治は声をだすわけにはいきません。つくばいながら、だまってしきりにうなずいております。
「よいか、かならずかならず、けどられぬよう心して掘れよ」
そして縁の下ふかくしのびこんでいった佐平治を見ると、将監は刀のつかに手をかけたまま、暗黒の闇の八方にするどい目をくばっています。いまにもあれ、雨戸をけやぶって老母がおどりだしてきたら、抜き討ちにパッサリと斬りつけんばかりの身がまえです。
そして、はく息、すう息にすら心して佐平治は縁の奥ふかくはいこみ、刀をかまえたまま左近将監は、闇のなかへするどい目をひからせてたたずんでいます。
風もなく木の葉のそよぐ音ひとつきこえてはまいりません。御城下に遠いこのへんの武家屋敷はみんな星空の下にとけこんだように、しずかなねむりについて、さすがの曲者もなんにも知らずにスヤスヤと眠りにふけっているのでしょうか、家のなかは、ひっそりとしずまりかえって、コトリとの物音もきこえてはまいりません。
一刻······二刻······ときはしずかにすぎていきましたが、やがてたたずんでいる左近将監の足許へ手で提灯をかこいながら、ゴソゴソとはいよってきたものがありました。
「だんなさま······ありました、ありました。どっさりありました」
と声をひそめた佐平治なのです。
「こんなにもいっぱい······まだまだいっぱいにうずまって······とてもいちどにもてるものではございません」
泥だらけの手にかかえこんできたものは、もはや提灯をさしつけてしらべるまでもありません。食いころして肉をむさぼりくったとおぼしき人間の手の骨や、大腿骨······ふくらはぎの骨······中にひときわめだつのは、怨めしげにうつろの目をむけた人間の頭蓋骨······ごらんなさい! そこにはなまなましい頭の皮に、まだ白髪まじりの長い髪の毛さえもついております。
「おう! まさしく母上······にっくき曲者め! よくも母上をかかる無残至極な目にあわせおって! ぬけぬけと母上にばけおったな」
と、さすがの将監もこの
「さぞご残念でござりましたろう。母上! さぞやご無念でごさりましょう。将監けっしてこのままにはさしおきませぬ。こよいただいま、かならずご無念はおはらしいたします。どうぞ草葉のかげからごらんくださりますよう!」
生ける人にものいうごとく、髑髏をふしおがむと、たちまちこめかみには、ふといかんしゃく筋がピクピクと脈うってきました。
はじめはおとなしくおとずれて、病気見舞にことよせて斬ってしまうつもりでいた計画も、たちまちどこかへすっとんでしまって、まなじりをつるしあげてキリキリと歯をかみならしました。
「だんなさま、もっともっとお骨をひろってまいりましょうか?」
と佐平治の問いにたいしても、
「ええもういいわい! 証拠さえつかめばもうよろしいわい! 母上の
いいつける間ももどかしく、奥庭をよこぎって、もう、その手は玄関のひき戸にかかっております。ここはさっき小間使のお幾がでていったところとみえ、そのままスルスルとわけもなく戸があきました。音をひそめるにも何も、あったものではありません。
いかりくるった将監は廊下をふみならす音もあらあらしく、刀をぬきはなってドタドタとたちまち奥の間の襖をけやぶって、曲者の寝所へ乱入しましたが、なんと老母にばけた曲者がおどりかかってくるかと思いのほか、そこにはあんどんの灯心だけがわびしげにまたたいて、あたたかそうな夜具はフックラとのべられてありますが、もはやもぬけの殻となっておりました。
「ウヌ! さては風をくらってすがたをくらましおったな! おのれ曲者、出会え、出会え! 母のかたき、左近将監礼にまいったぞ!」
もはや心がいらだっておりますから、いちいち間ごと間ごとの押入や戸をあけはなっている気もありません。それとおぼしきところへは、ことごとくプスリプスリと刀をさしこみ、さしこみ、しだいしだいに追いつめて、便所のなかまでしらべてまいりました。
ドシンとからだごとブッツけて雨戸を一枚ひっぱずすと、
「佐平治! 裏のものおきのなかをさがしてみよ! 曲者は逃げおったぞ!」
つづいてまたつぎの間へ······もはや将監のしらべた部屋は襖といわず、押入といわず、プスリ、プスリとさんたんたる
「卑怯なるふるまいをするな。曲者出会え! そのほうのつけねらう左近将監のほうより礼にまいったぞ! 出会え! 母のかたきを討ちにまいったるぞ! 出会え!」
よばわりよばわり、つぎの間もしらべましたが、ここにもすがたはかいくれ見あたりません。そして曲者のすがたが見あたらぬことが、いっそう将監の癇をいらだたせてきました。
「曲者、出会え、出会え!」
と、廊下をぬけて勝手口へおどりでてきたとたん、
「だ、だ、だんなさま······お助けくだされませ。幾でございます。曲者ではございません。······お助けくだされませ!」
両のたもとをかかえて刃の下をかいくぐって逃げだそうとしたのが、小間使のお幾でしたが、もうこのお幾がほんとうのお幾であって、さっき屋敷へいくといってすれちがったのが、ニセのお幾であったのか母の白骨を見て煮えたぎりきった左近将監には、ふんべつのつこうはずもありません。
「こ、こいつ、めんどうな!」
とばかり、たちまち刃を横にはらったからたまりません。
「後生でございます。お助けくだされませ······ワァーッ」
と叫んだのがこの世のおわり! 血けむりたててお幾のからだはそこにたおれました。
その屍をふみこえて、ついで下男部屋の戸をガラリとひきあけると、そこには、部屋のかたすみに
「下郎! そこでなにをいたしおる!」
斬られるのかと思いますから、ヒャア! とさけんで逃げだそうとしたのが、また将監の癇をたかぶらせました。
「下郎待てえ!」
うしろからケサガケに斬りつけられて、
「ワァーッ!」
とひとこえ! これも血けむりたてて、まえのめりにのめってしまいました。
納戸といわず、勝手口といわず、湯殿、女中部屋、······およそ曲者のひそんでいそうなところへは、プツリプツリとところきらわず刀をつきさして、邪魔になる戸障子を切りはらい、それでも曲者のすがたが見あたらなくて、じだんだふんで歯ぎしりしつつ、やがて玄関口へ出てきた左近将監のすがたを、もしだれか見たならば、おそらくその人間は、キャーッとさけんで逃げだしたにちがいありませんでしょう。
「佐平治、佐平治! 曲者のすがたを見なかったか? 仲八! 権六! これえ出え! 曲者を見なかったか?」
まっくらな晩でさいわいでした。仲八も権六も佐平治も、この鬼のような主人のすがたに気づく者はありませんでしたが、さてこの期におよんでも、まだだれもさっきすれちがったお幾が、その曲者の正体で、左近将監の襲撃を感づいて、いちはやくお幾のすがたにばけて、逃げだしてしまったのだとは、だれあって気のつくものはありませんでした。
今夜こそは! と意気ごんだかいもなく、もとむる曲者のすがたは見あたらず、しかも癇癖にまかせて、罪もない仲間の茂助と、小間使のお幾ふたりを手にかけて、さすがにしょんぼりとして左近将監主従の一行が、もくもくとして、門の砂利道をくだって、お小姓街道をよこぎって、いまじぶんの屋敷の門前のだらだら坂へさしかかってきたときだったのです。
スグそこの闇のなかには、ひときわ濃く石垣のうえに、左近将監の屋敷がそびえたっていましたが、片側はいちめんに大きな竹藪、そしていしころがゴロゴロとして、まことに足場のわるいところでした。
「だんなさまおそれいりますが、ちょっとお待ちくださいまし。ただいますぐに、お灯をつけますから」
と、佐平治はかがみこんで提灯の火をつけるために、しきりにカチカチと火打ち石をすりあわせていましたが、
「おや!」
とふしぎそうな声をあげて、火をつけおわっても提灯を地べたへたたきつけて、しきりになにかさがしているようすです。
そればかりではありません。腰をかがめたまま二足三足そのへんをあるきまわっているのです。
「おや、だんなさま! これはおかしゅうございますぞ! 血がたれておりますぞ! おや! ここにも血がながれている。ワァーッ! こりゃたいへんだ! お屋敷まで血がつづいておりますぞ! だれか、この道をひきずられていったらしゅうございますが」
「人を斬れば血がでるのはあたりまえじゃ! 血ぐらいにおどろくなら、人間をやめたらいいじゃろう!」
と、なにを仰山にさわぎたてるかこのバカものめ! といわんばっかりに、ブッチョウ面をしてにがにがしげにいいはなちましたが、そのとたん、またもや、
「ワァーッ!」
と佐平治はふるえごえをはりあげました。なにか道からひろいあげたようすです。
「だ······だんなさま! た、たいへんでございます! こ、これは若さまのご印籠でございましょう」
「な、なに新之丞の印籠とな? どれ、どれ、みせい!」
さすがに左近将監の声もはずみました。が、その瞬間、
「お、たしかに新之丞の印籠じゃ! 佐平治! もそっと灯をみせい! お、血がついとるな」
「だんなさま、だんなさま!」
と、こんどは権六が大声をあげました。
「こ、ここにお刀がおちております。これは若様のお脇差ではござりませぬか?」
「お、これも新之丞の脇差じゃ! あ、これはいかん! 血がついとる」
とたんにさっと、左近将監の顔色がかわったようすです。
「佐平治、仲八······つづけ!」
とばかりに、さすがの将監の語尾もふるえをおびて、その瞬間将監は両刀をわしづかみに、わが家をさして宙をとぶようにかけだしていました。
血は斑々とたれつづいているのでしょうが、まっくらな夜ですから、もはやなんにもわかりません。ひろい石段を一気にかけあがって、いよいよおもて玄関へむかう砂利のところで、将監はべっとりとしたものに足をすべらせて、もういちどあゆみをとめました。
「佐平治、佐平治! あかりをみせい! 血ではないか」
「おう、だんなさま、たいへんな血が! お、若さまのおはかまのひもがここに切れております。これはだんなさま、よういならぬことで!」
佐平治が提灯の光のかげでふるえ声をだしたのも道理、いま佐平治がさししめしたそこには、よほどのすざまじい格闘がおこなわれたのでしょう。そのあたりいちめんにべっとりと血がたまって、そのなかからいま佐平治のひろいあげたのは、新之丞のはかまのひもだったのです。
しかもつい目と鼻のさきのこの玄関まえで、これだけのものすごい格闘がおこなわれたともしらず、玄関のとびらには厳重にかんぬきがかかって、屋敷のなかは、ねしずまったように、シーンとして物音ひとつきこえてはまいりません。
「これはいかなこと! だんなさまがおかえりだというに、みんなはいったいなにをしているのだ」
と、さすがの佐平治もしたうちをしました。
「お藤どん、お里どん! おーいお藤どん、お里どん! コレお藤どーん······お里どーん······どうしたもんだ! みんな、なにをしてるんだァ! おーい、だんなさまのおかえりだというに、おーい!」
ドンドンと破れんばかりに戸をたたいた佐平治は、またもやなんにおどろいたのか? ヒャーッ! と悲鳴をあげてスッととびあがりました。ゆらゆらと提灯の火がゆらめいて、足もとをてらした瞬間、
「わ、おうっ!」
と、ふたたびものすごい叫びをあげました。
「だ······だ······だんなさま、若さまがここにたおれておいでになります。あ、いけません! こんなにべっとりと血まみれになって······」
「なにっ、新之丞が? は、はやく、佐平治! あ、あかりをみせいというに!」
じだんだふんでる将監へ、返事はなくて、なんにおどろいたのか、またもや佐平治が絶叫をあげました。
「うおーっ······だんなさま······ワ、若さまが曲者にくいころされて、ウワーッ、お顔がはんぶんありません······」
「な、な、なにをいたしておる、佐平治! はやくだきおこさぬか······し、新之丞! 新之丞! しっかりいたせ!」
しかもこのとき、仲八か権六か、玄関のとびらのあかぬのに業をにやして、裏口のほうへまわったのでしょう。
「だ、だ、だんなさま······台所の大戸が大穴をあけられておりますぞ······わあっ、曲者がお屋敷のなかをあらしておりますぞォ!」
つづいて厩小舎へとびこんだ仲八の絶叫です。
「だんなさま、
「はやく手燭をつけい! 玄関の戸をけやぶって、あかりをつけい! なんじゃ新之丞、武士のせがれともあろうものが、曲者ふぜいに! これしきの傷に······し、新之丞······新之丞······」
まっくらな玄関さきの闇のなかで、それらしい死骸をだいて左近将監は、じだんだふんで
つづいてガラガラと玄関のとびらが両方にひらいて、パッと光がもれてきた瞬間、左近将監がそこにみたものは!
曲者はくいころした屍骸を、この玄関へたてかけておいたのでしょう。玄関の敷台へもたれかかるようにして大の字なりに足をふんばった新之丞のすがた! 佐平治のいうとおり顔半分はくいちぎられて、のどをえぐられ、それでもまだあきたらず、右肩をくいやぶり、左手首をくいきり、全身紅にそまって、そののこった顔半分の目を無念げにクワーッ! と見ひらいて、無残とも凄惨とも! さすがの左近将監も顔をそむけずにはいられません。
しかも顔をそむけた左近将監のまえへ、ころがるようにとびこんできたのは、いま屋敷のなかへあかりをつけおわった権六でした。
「たいへんです、たいへんです、だんなさま、だんなさま!······お屋敷のなかはまるで血の海でございます。お藤どんもお里どんも、みんなくいころされて······目もあてられませぬ」
「なに、お藤もお里もくいころされておる? おのれ、けだものめ! よくもよくも左近将監のうらをかきおって······」
いかりのあまり、無我夢中でタタタタタと土足のままふみこんだ表書院······。
いつぞや小金吾をきりころしたあの表座敷から中廊下へうつろうというしきいぎわには、おそらく手燭をもってあるいているうしろからおどりかかられたとみえて、血の海のなかに、肩をくいやぶられ、右腕をくいきられた奥女中のお藤が、さしのばした左手に火の消えた手燭をしっかりとにぎりしめたまま、うつぶせになっております。
「ウウム」
と歯をかみならしつつ、そのお藤の屍体をしりめにかけこんでいった納戸と台所のわき······そこもまた血の海と化して、真正面からおどりかかられたとみえて、顔半分ガブリとくいちぎられ、目も鼻も口もなくて、無残な白骨をあらわしたお里がのけぞったまま、納戸の板戸にもたれています。かさねがさねの
「ム、ウムッ」
と、くちびるをかんでとびおりた勝手口の土間にも、外からなげこんだらしい女の屍体がふたつ。
いつぞやおびきだされた途中でおどりかかられたのでしょう。いずれも肩、胴、顔のきらいなくくいあらされたお八重と飯炊きのお稲の屍骸が、これだけは血もすでに乾からびきって、どこかうずめておいたところでも堀りだしてきて、ほうりこんだとみえて、おびただしい土ぼこりにまみれたまま、おりかさなっています。
そしてなるほど台所におろした大戸には、大穴があけられて、曲者はその戸の外から乱入してきたものでしょう。ふせぎきれなかったとみえて、おりかさなってこれまた、目、鼻、口、喉の区別なくくいさかれた下男の嘉蔵と三四松の死骸がふたつ······。
なるほどたたいてもさけんでも玄関の戸のあかなかったのも道理! 隠居所へでかけているるすのまに、屋敷のなかはことごとく全滅をとげていたのです。
全体のようすからさっするに、御殿の出仕からかえってきた新之丞と、待ちぶせていた怪猫のあいだに、坂の途中から屋敷の入口へかけて、はげしい格闘がおこなわれ、そのものおとにおどろいたお藤やお里や下男たちが、大いそぎで戸をしめて、ふるえあがっているところへ、新之丞をくいころした怪猫が、勝手口をやぶって侵入したのでしょう。
そしてにげまどう女たちにおどりかかって、屋敷のうちいちめんを血の海と化し、死人の山をきずいたあげく、左近将監をあざけるようにお八重とお稲の死骸までもくわえてきて、ほうりこんだものにちがいありません。
しかもいまや屋敷のうちはシーンとしずまりかえって、どこに怪猫のひそんでいるけはいもなく歯ぎしりすればとて、怒ればとて、もはや一切合切あとのまつりです。
「······ム、ウム······ム、ウム」
と、ふかい吐息をもらして台所の土間に腰をおろしたまま、もはやおきあがる気力もなく、左近将監は刀を杖に、じーっとさしうつむいておりました。血刀ぬいて土足のままかけこんできた気力ももうまったく失せきって、もはや顔をあげる力もありません。
なんとふしぎなことでしょう。
ややあってうなだれていた顔をムックリとあげた左近将監は、けげんそうな面持をして、キョロキョロとあたりをふしぎそうに見まわしているではありませんか。
急に夢からさめたように、そして眠りからでも起きあがったかのように、しかも、その顔をごらんなさい、もはやまったく形相がかわりきっているのです。目がキリキリとつりあがって、おそろしく血ばしっています。が、それはけっして癇癪の顔ではありません。癇癪とはまったくかわっておちつきがなく、あたりをキョロキョロと見まわしているその顔は······。
あっ! もはやまったく、いままでの左近将監の顔ではありません。
ごらんなさい、ごらんなさい! 左近将監はとうとう気がくるってしまったのです。
母親を怪猫に殺されて、にえたぎっている心のなかで、たよりにしきっている最愛の
刀を杖にぼうぜんとしてうなだれている間に、ついにこの鬼のような城代家老は、心がまったくみだれきってしまったのです。
そしてさっき血相かえておどりこんできたすがたとはまったく反対に、刀をダラシなくひきずったまま、ノソリノソリと血みどろの屋敷のなかを、玄関のほうへとひきかえしてゆきました。
目だけはたえずキョロキョロとおちつきがなく、しかもたえず物おじしたように、どこかからだの中心をうしなってヒョロヒョロと······。
納戸のまえにはお里が板戸にもたれてたおれています。しかし将監は、それをふりかえるでもありません。
表座敷には、手燭をにぎったまま、お藤がつっぷしています。しかしそれをふりかえるでもありません。玄関の式台には、お藤どころかお里どころかだいじなだいじな息子の新之丞がたおれています。しかしそれさえも、もう左近将監の目にはとまりません。
ただ物の怪につかれたように、ギラギラとした目で闇のなかをみすえながら、砂利をふんで門のほうへでていこうとしているのです。
玄関のまえには、妻をころされてとほうにくれた仲八をかこんで、権六や定吉や佐平治が、ぼうぜんとしてことばもなくたたずんでいます。
「だんなさま、どちらへおいでなされます?」
と、あっけにとられて追いすがってきた権六と仲八をふりかえると、そのギラギラした左近将監の目が、異様な形相をおびてきました。おそらく曲者のすがたとでも、そのくるった目には、うつったのかもしれません。
「くせもの!」
と一声、権六めがけてやにわにまっこうから唐竹割に、かえす刀でグザと! 仲八の脇腹へ!
「うわァ!」
と、のけぞった権六と仲八のかげから、横とびににげだす定吉へ、
「曲者にげる気か!」
と、これもうしろから一太刀······気はちがっても腕はたしかなのですから、たまりません。
「ウワーッ」
と血けむりたてて、これもおりかさなってたおれてしまいました。
「だんなさま、なんで仲八や権六を、お斬りになりました? 権六や仲八に、なんのおちどがございます?」
さすがに色をなして若党の佐平治がつめよってきましたが、それにはこたえがなくて、
「ええい」
と闇をつんざいてピカリと
「ヒヤーッ!」とわずかに身をかわしましたが、あぶなくてあぶなくてちかよれたものではありません。まっくらな闇のなかに刀ばかりがピカリピカリとして、将監の顔まではもはや、手燭もあんどんの光もとどきません。
「だんなさま待ってくださいまし。だ、だんなさまは、てまえまでもお斬りなされますか」
それにもことばはなく、ただ刀をかまえたまま、ジリジリと左近将監の黒いかげがせまってきます。
「おのれ、くせもの! この期におよんで、まだ逃げる気か?」
「え、なにくせもの」
ハハァ! とこれで佐平治にも、権六や仲八がころされて、いままたじぶんにまでも刀をむけている、左近将監の気持がのみこめました。
「ハハァだんなさまは、お気がちがわれましたな? じゃ、もう、しかたがねえ! てまえのご奉公も、これまでだ! だんなさま、これでお別れいたします。ながながお世話さまでございました」
身をひるがえして佐平治が闇のなかへおどりこんだとたん、間一髪のところで、
「ええい、おう!」
と将監はおどりかかってきましたが、わずかに背筋一寸か二寸の差で、わおぅっ! と佐平治はからくものがれることができました。
「卑怯もの、かえせ! おのれ曲者! 逃げようとて逃がすものか!」
必死になって逃げゆくうしろから、左近将監もまたおいかけてきます。そして追うものと追われるものと、主従ふたりは、このさんたんたる死人の屋敷をあとにして、黒暗々たる闇のなかへとそのすがたをけしてしまいました。
が、このころにはもはや、神通力をえた怪猫は、そのすがたをくるった左近将監の眼前にのみあらわして、将監はもはやまったく、怪猫の意のままにみちびかれていたのではないかと思われます。
くるった主人を見かぎった佐平治は、お小姓街道を右へそれて、村のほうへ村のほうへとのがれさりましたが、将監は血刀をひっさげたまま左のかた御城下のほうへ! 御城下のほうへ、御城下のほうへと息をきらせて怪猫のすがたをもとめてまいります。
お小姓街道のつきるところは、自然石をならべた小川の橋になります。ここへくるまでに、すでに左近将監は、町からとぼとぼと杖をつきながら、つつみをせおった老婆をひとりと、そのあとからきた村の百姓とを、すれちがいざまに一刀のもとに斬りたおしていました。
そしてその石の橋をわたって約一町あまり、しだいしだいに城の大手、例のいつか黒装束の曲者のあらわれた、桜並木の馬場へとせまってきましたが、時刻はちょうどいまの夜の八時半ごろであったろうかと思われます。
町でいっぱい飲んだらしくほろよいきげんの侍ふたり、提灯をつけて朗々と詩を誦しながら、お城のほうへときかかりました。
「くせもの、思い知ったか」
追いすがりざまにバッサリと一太刀······。
「ウウン」
と、ひとりはたちまちその場にたおれましたが、つれは心得ある侍とみえて、そこの木立をたてにとって刀をぬきあわせました。
「無礼ものめ、曲者よばわり奇怪な! 名をなのれ! 拙者は御書院番多治見数馬、人からうらみをうけるおぼえはないぞ」
「おのれ、くせもの、思い知ったか!」
「名をなのれ、名を!······ほほう、これはめずらしい! 貴様はそうとうにつかえるな」
チャリンチャリンとはげしく斬りむすぶこと二、三合······。
「無礼もの! 貴様は間庭無念流のつかい手だな! これはおもしろい! ようし、いくぞ! 拙者もいくぞ!」
「怪猫のぶんざいをもって、間庭無念流をみぬくとは、小癪千万な! 老母のかたき、伜の仇! 城代石藤左近将監の刃をうけてみよ」
「お、その声は御城代!」
と、あいての侍はがくぜんとして、五、六歩あとへさがりました。
「御城代! 刀をおひきくだされい! 拙者は御書院番多治見数馬でごさる! 御城代! 刀をおひきくだされい」
「怪猫のくせに、御書院番とはほざいたりやな! おのれ、思い知ったか!」
横にはらってきた一刀を、あいてはみごとにうけとめましたが、とたんにパッと刀をひっぱずすと、タタタタタとまたもや五、六歩、うしろへひきさがりました。
「卑怯のようなれど、拙者、御家老と刀をあわせる気はござらぬ。これでおひきもうす。ごめん」
「おのれ、曲者、にげる気か! 待てえ曲者ひきかえせ」
しかし侍はとっとと足ばやに、城のほうへはしりさっていくようすです。いいえ、はしりさっていくばかりではありません。だいぶまえのほうへいく、やはり侍らしい黒影にむかって、大声をはりあげました。
「御用心めされや、かたがた! 御城代石藤左近将監殿が乱心めされたぞ! 血刀ひっさげて拙者のあとよりおうてまいらるる。そうそうに、おさけあれや!」
「なに? 御家老ご乱心とな? おう、かしこまってござる。ほれ、かたがた!」
いずれも城をさして、逃げかえっていくようすです。
卑怯なり曲者、うしろをみするとは、卑怯なり! とあとはおってきましたが、しかし将監はべつだん、侍たちをめざしているようでもありません。ただ怪猫のまぼろしばかりを、もとめているのでしょう。
例のさくらの木のしたまでくると、そこに立ちどまって、いまの侍たちのことはスッカリわすれはてたように、さくらの木のこずえを見あげて、おのれ曲者、おのれ曲者と、しきりに刀をふりまわしているのです。
おそらくほかの人には見えずとも、くるった左近将監の目にだけは、さくらの枝のかげに、怪猫のすがたがうつっていたのかもしれません。
が、刀はふりまわしていても、もうこのときには、くるった頭はいよいよその度をまして、刀をふりかざしているかと思えば、たちまちゲラゲラと笑いだし、ゲラゲラと笑いだしたかと思えば、また目をいからせて枝を見あげてにらみつけ、ヨダレをながして前を子どものようにあけっぴろげて、カラキシだらしがありません。
しかも上を見あげてさんざん狂態をつくしていたあげくのはてに、なんと、あろうことかあるまいことか! さくらの幹にもたれて上を見あげながら、グッと帯をひきさげて、きものの前をくつろげはじめました。
「ワッハッハッハッハこはおもしろし、おもしろし! 獣のぶんざいをもって、侍の腹の切りかたをしりたいとな! いかにもおしえてつかわす。後学のために、よーく上からながめておれ! 城代石藤左近将監の立ち腹の切りかたと、申すはな······まず、
とうとうじぶんの腹へ、刀を突きたててしまいました。
「グッと上へ切っさきをあげ······痛くともうめきをあげず······ウウム、これはだいぶこたえるなこらえてうめきをあげぬが真の武士じゃ! ウウム、これはいかん、だいぶこたえる······グッとあげ······ウウム······ウウム」
血は滝のようにあふれだして、侍の腹の切りかたを、おしえてつかわすもなにもあったものではありません。もう幹にもたれてもいられなかったのでしょう。どっとまえのめりにうっ伏してウウムウウム、とくるしげにあえいでいたのは、まことに自業自得のなれのはてというほかはありませんでしたが、この時分には、もはやさっきの侍たちの注進によって、城内では御城代乱心のしらせに、上を下へとさわいでいましたでしょう。
お城の大手からくりだしてくる提灯の火がひとつふえ、ふたつふえ、しだいしだいにその数を増してまいります。そしてその提灯の火は、右をてらし左をしらべつつ、ワッワと声をあげておいおいとちかづいてきましたが、やがてさくらの根元にうごめいている、黒いかげを見いだしたのでしょうか?
「お、なにやらさくらの根元に、うめいているぞ!」
とちかよってきましたが、提灯をかざしたその一隊は、おもわずそこに
見よ、見よ! その瞬間、バサッとすさまじい音をたてて、さくらの枝からなにかまっくろな大きな怪物が、うめいている左近将監の上へとびおりました。そしてとびおりると同時に、するどい爪をたてたのでしょう。バリバリ! と肉のやぶれる音がして、一同ハッと息をのんだ瞬間、怪物は、いともかるがると将監のからだをくわえると、ひとふりふたふり爛々たるまなこをして、一同をにらみつけながら、パッと横手のくらがりのなかへ、すがたをくらましてしまいました。
あまりのすさまじさに、一同夢に夢みているような気持で、あっけにとられていましたが、のちにこの左近将監の死体は、目、鼻、口、なにがなにやら見わけもつかないくらいに噛みちぎられた無残なすがたを、おのが住居である山茶花屋敷正面式台の上に、大の字なりにころがされて、息子の新之丞の死体にならべてあったと、いまにつたえられているのです。
「どうも······だいぶ話が長うなってしまったが、なんと、おどろきなされたか? おそろしいともおそろしいとも! こういう、なんともかともいいようのない、おそろしい因縁が、あの屋敷にはからみついとりますのじゃ」
と長いまっしろい
みじかい秋の日はもうくれかけているのでしょうか。裏山からさびしい山鳩のなきごえがきこえて、この座敷から見える庭の苔むしたかけいのあたり、その上に枝をさしのべているこんもりとした紅葉の老木のあたり、もう晩秋の夕暮れはそろそろちかづいているように思われます。
「······こういう身の毛もよだつような、悪因縁がまつわりついとる家じゃから、わしはあの屋敷をこわしてしまいなされ! と、健一さん、あんたにしつこくすすめたわけなんじゃ」
和尚さんは、渋茶にのどをうるおしながら、博士のお義兄さまをかえりみられました。
「あのときわしがいったように、ひと思いにこわしてさえおけば、あんたもこんなおそろしい目にはあいなさらなかったのじゃ」
と、こんどはかたわらに黙念としている博士をかえりみられました。
「が、わしもわるかった。あのとき、ただこわせ、こわせとばかりすすめずに、これこれこういうわけじゃから、こわしてしまいなされ! とわけを話してあげればよかったのじゃが、そこまでうちあけなかったから、あんたもひと思いに、こわす気にもなれんかったのじゃろう······これはわしも失敗じゃ。わしにも大きな責任がある。が、いまからでもおそうはない。悪いことはいわん! こんどこそこれにこりて、ひと思いにこわしてしまいなされ」
「もちろん、もう和尚さんが、のこしておけとおすすめになっても、こわしてしまいます。さっきからお話をうかがっておりますあいだ、もうそればっかりかんがえておりましたが。······しかし、それにしてもどうも、なんとも······からだ中のさむくなるようなお話で······」
と、ききおわっても、まだウソ寒そうに、お義兄さまは肩のあたりをすくめていられましたが、思いは博士とてもおなじことでした。文明のこんにち、こんなバカな話があるものだろうか? といくら自問自答してみても、げんにあのおそろしい老婆をこの目でみ、またおそろしい数々のできごとにも、であっているのですから、なんとしても、もう疑う余地はありません。
博士の胸には、いままでどうしても解くことのできなかった謎のことごとくが、朝日のまえの狭霧のように、たちまち消えさっていくのをおぼえましたが、それと同時に、またいろいろな疑問もわきおこってまいります。
あいては和尚さんのいうがごとくに、怪猫だとしても、ではその怪猫というのは、百七十年たったいまでも、まだ生きてうごいていて、こういうおそろしい、さまざまなたたりをしているのでしょうか。また第二には、左近将監にたいしてこそ竜胆寺家や怪猫のうらみはあれ、なんのためになんの関係もない博士の家族にまでも、こんなおそろしいたたりをしているのでしょう?
ききたいことは博士の胸にもお義兄さまの胸にもわきあがっていました。そして、それを和尚さんも察しられたのでしょう。小坊主をよんで、あたらしくお茶をいれかえさせると、
「さて、わしの話は、これでおわったのじゃが、これだけでは、わしがいいかげんな、出放題でもいったように思われるといけぬから、なぜわしが、いままでいったような、こんな話をしっているかということ、ついでにいっておいたほうが、よいと思うのじゃが」
と話しだされた和尚さんのお話によると、この了福寺という寺は、山茶花屋敷よりまだふるく二百年もむかしから建っているお寺でしたが、この寺の二代目の和尚さんは、名前を恵善といわれました。
ちょうどいまから三年ばかりも以前のこと、この寺につたわっているむかしからのふるい経文や帖面などの虫干しをしていられるときに、和尚さんはその恵善和尚の書かれた『山茶花屋敷石藤左近将監殿御一家過去帖』というふるい帖面をみつけだされたのです。
その帖面というのは、いまから百七十年もまえに書かれたものらしく、紙の色も
吉浦の商人、和泉屋佐平治なるもの、永代経料として三両二分をおさめて、石藤左近将監殿はじめ、非業の最期をとげられし人々のため、当寺において三、七、二十一日間の、供養をいとなむものなり。
と、その恵善和尚の手をもってかかれているところをみれば、例の左近将監におわれて、お小姓街道を、将監とは反対に村のほうへにげてたすかった、若党の佐平治は、のちに吉浦にすんで商人になったらしいのですが、だんだんお金ができるにしたがって、むかしを思いだして、助かったのはじぶんひとりっきりのことを考えると、さすがに寝ざめがよくなかったのでしょう。当時としては莫大な、三両二分という大金をだして、非業の最期をとげた主人左近将監をはじめ、むかしの朋輩たちの追善供養を、この恵善和尚にたのんだらしく思われるのです。
そして恵善和尚はしょうちして、三、七、二十一日間の供養をいとなまれましたが、佐平治の話があんまり奇怪をきわめているのと、それにひとつはこの寺のあとあとの和尚さんが、将監の命日にはわすれずに供養をいとなむようにと、佐平治からきいた話をくわしくしるして、寺の過去帖とされたものだろうという、和尚さんの推測だったのです。
ですから、その過去帖の上には『無用の人へ他言を禁ず』と恵善和尚さんの手で、したためられていましたが、本堂にはもうひとつ、そのころにつくられたらしい、ふるびたお
もはや年代がたって、字もハッキリとよめず、だれのお位牌だろうと、ながいあいだこの和尚さんにもわかりませんでしたが、この過去帖をよんで、ふと思いついたのは、もしかすると後をとむらう人もないのを気のどくに思って、そのとき恵善和尚さんがつくった、小金吾と小金吾の老母のお位牌ではなかろうかという和尚さんの想像でした。
「いったい、その怪猫というのは、いまでも生きておりますのでしょうか?」
と、たまりかねて博士は膝をのりださずにはいられませんでした。
「なんのなんの······百七十年もむかしの怪猫が、どうして生きているわけがあろう」
「では、さっきから怪猫のたたりとおっしゃいますのは?」
「だからじゃよ。わしはそれを、怪猫の怨霊じゃろうと、こうみていますのじゃ。
怪猫というのはさっきもお話したように、飯炊き女のお稲にばけたときに、左近将監からうけた傷がもとで、死んでしもうたが、その死にぎわの一念がじゃな······獣の怨霊が、まだまだあの屋敷のどこかにのこっていて、それがさまざまの怪異なり、たたりなりをするものと、こうわしはにらんでいますのじゃ。
さてさて世のなかに、獣の一念ほど、おそろしいものはないのう」
「が、それならば和尚さん。どうして左近将監などにはなんの縁もゆかりもないわたしどもにまでその怨霊は、たたりをしますのでしょうか? それがどうしても、わたしには腑におちないのですが」
和尚さんは目をとじたまま、じーっとなにか考えて、それにはなにも答えられませんでしたが、ややあって、
「健一さん、つかぬことをきくようじゃがな」
と、お義兄さまのほうへ視線をむけてこられました。
「あんたの家の屋号は、むかしから和泉屋といっていられるが、······その和泉屋をひらいた一番のご先祖の名前は、ごしょうちかな?」
「くわしいことはしりませんが、たしか佐平治とか、申したようにきいておりますが」
「さ、それじゃよ、それであんたにもおわかりじゃろう?」
と和尚さんの目は、ふたたび博士のほうへむけられてきました。
「和泉屋佐平治、······それが恵善和尚にたのんで、その追善供養をいとなんだ、あんたの奥さんや健一さんのご先祖で、例のたったひとり左近将監のところからにげだした、若党の佐平治なのじゃ。これで、不審がはれなすったじゃろう? ······怪猫にしてみれば、憎さもにっくい左近将監一家のものは、ことごとく食い殺してしもうたが、たったひとり、左近将監に手をかして佐平治だけを、とりにがしてしもうたのが、無念で無念でならなかったのじゃろう。その佐平治の子孫が||つまりあんたの奥さんやあんたのことなのじゃが、こんどの屋敷へはいってこられたから、さっそく怨霊がたたりをはじめたのじゃろうと、こうわしは、ふんどりますのじゃ······」
きけばきくほど
「おねがいです、和尚さん。いったいどうしたら、この災難をのがれることができるでしょうか? なんとかひとつ、助けていただく工夫は、ありませんでしょうか?」
と、お義兄さまが、必死の面持ちで、和尚さんにすがりつかれました。
「さっきからお話をうかがっていましても······妹の身が、心配でたまらないのです。じつは、義弟はあすこで、医者を開業していますが、もう医者なんぞ、どうでもいいのです。あんな家は、もう、あしたにでもひきはらわせてしまうつもりです。とうぶん、わたくしの家に、いっしょにいてもらうつもりですが、その引越すまでのあいだでも、もしおそろしいことがおこったら? と、気が気ではないのです。なんとか、災難をのがれるいい工夫は、ないもんでしょうか?」
こういうおそろしいできごとにかかっては、もはや、こんにちの学問や科学ぐらいの力で、解決のつくものではありません。いまの世のなかに、そんなバカげたことが、などと嘲笑っていたらこのおそろしい怨霊のために、どんな悲惨な事件がもちあがらぬともかぎりません。
もうこの危難をすくっていただくのには、なんとしても、朝晩仏につかえて世のなかの長い経験をつまれた、こういう老僧の智恵をかりる以外には、方法がないとお義兄さまは考えられたのでしょう。しかも、思いは博士とてもおなじだったのです。
まえにもいいましたように、博士はここへこられるまでは、りっぱな学者として、東京大学の医学部の助教授までもつとめていられたくらいですから、本来ならば、なにをバカげた話ばかりしてこの山寺のもうろく坊主め! と一言のもとに笑いころげてしまわれる立場にあった人かもしれません。
が、しかし、このあいだから身にふりかかっている、あのおそろしいできごとを思いだすと、もうまったく、生きたここちはないのです。
「おねがいします、和尚さん、なんとかひとつ、ゼヒよいお智恵をかしていただけませんでしょうか」
と、博士もうれいの色をおもてにあらわして、ことばすくなに、たのみこまれました。右左からすがってくるふたりに、目をとじたまま、
「わかっとる、わかっとる! ようく、わしにはわかっとるから、いまその方法を考えとるところじゃよ」
と、長い
「おたのみがなくともわしのできることは、なんなりとしてしんぜるつもりじゃが、こまったことに、これはよういならぬ相手でのう。長年仏につかえてきたわしにも、なかなかよい才覚がうかばぬのじゃよ。それでさっきから、思案していますところなのじゃ」
と、ふかい吐息をもらされました。
「ともかく一番安全な方法は、あの屋敷を即刻出てしまうことじゃ。そしてあんな家は、スグにとりこわしてしまうこと······これよりほかに、安全な方法というものもないのじゃが、しかしそんなことをいくらいまここでくりかえしてみたところで、急場の間にはあわぬ。また、相手はよういならぬ怨霊のことじゃから、いよいよあんたたちが、あそこをでるとさとれば、どんな異変をおこさぬともかぎらぬし······これはよほど考えてみんとのう」
と和尚さんは腕をくんで、じーっと目をつぶられましたが、夕闇のせまってくるうちに、かえりをいそぐふたりにとっては、その目をとじていられるあいだの、どんなに長く感ぜられたことかわかりません。
「しかし、こうやって考えているあいだも、気にかかるのは、あんたの奥さんの身の上じゃ」
と和尚さんは博士のほうをむかれて、
「よろしい、ほかには、これぞという方法も見あたらぬ。しかたがない、ひとつこうしてみなさったらどうじゃな」
そのいわれるのには、いちばん怨霊からねらわれて、危険にさらされているのは、博士よりもむしろ和泉屋佐平治の直接の血をひいている、夫人の頼子のほうなのです。
それじゃからあんたは、かえりに健一さんのところへよって、屈強な若者二、三人をつれて、山茶花屋敷へかえりなさいとおしえてくださるのです。
そんな若者たちが何人いたからとて、こういう目にみえぬ怨霊にたいしては、なんの役にもたたぬかもしれぬが、総じて死霊というものは、あかるいところや、にぎやかなところをきらう性質じゃから、げんきのよい若者をつれていって、酒でものませて寝ずの番でもさせておいたら、すこしは災難よけの役にたつかもしれぬ。
「が、しかし、そのばあい健一さん、あんたはあの屋敷へちかづいてはならぬよ。博士夫人の頼子さん同様、あんたも佐平治の血統として、怨霊にねらわれる危険がじゅうぶんにある」
だからあんたは、その若者たちを家へつれてかえったら······とまた博士にいわれるのです。
「スグに荷づくりをして引越しのしたくにかかるのじゃ。ただし、そのばあいくれぐれも注意しておくことは、たとえ引越しがあしたじゅうにおわらなくても、日がくれたら荷物のこともなにもかまわんから、みんなをつれて屋敷を出て、町の宿屋かなにかへとまるのじゃ。命あっての物種じゃから、かならず、夫人の頼子さんといっしょにそとへ出て、あの屋敷で夜をおくってはなりませぬぞ。そして夜があけたら、また家へもどって荷物をはこびだす。夕暮れになったらまた家をでる。そんなことを二、三日もくりかえしていたら、引越しもできるじゃろう」
というのである。
「どうじゃな、わかられたかな? わしのいうことをかたく守ってくれぬと、どんなまちがいが起らぬともかぎらぬからのう。あんなおいぼれ坊主が、何をバカげたことをぬかしよるなどと、わしのいうことに疑いをもちなさると、とんだことになりますぞ!
が、これだけでは、まだ心許ない。じゃによって、これからわしがお経をよみながら、ありがたい仏の御名を書いた護符を、つくってしんぜよう。家へかえったら、あんたはさっそくこれを、間ごと間ごとの、鴨居と敷居ぎわの二箇所ずつへはりなさい。死霊は仏の御名を忌むものじゃから、こうしておいたら庭へははいってきても、まさか家のなかまでは、はいってもこぬじゃろう」
と、しんせつな和尚さんは、のこるくまなく指図をしてくださいました。そしてつけくわえておっしゃるのには、
「そのばあいくれぐれも注意して、かならず一間でもわすれぬように貼るのじゃよ。ここはよかろう、あそこはよかろうなどと一間でも貼りわすれたら、そこからたいへんなことがおこらぬともかぎらぬからの。よろしいかな? よくおわかりになったじゃろうな? では、さ、こうしているあいだも気がせく、あの屋敷はみんなで幾間あるかな? なに? 十六間? その十六間のうちにはふだんつかわぬ部屋も、はいっとるのじゃろうな? 一間でも、わすれたら危険じゃよ!」
和尚さんから、くれぐれも念をおされて、博士は、十六間にまちがいありませんと、答えられましたが、いまにして思えば、博士はなぜそのとき、もっと、和尚さんが念をおされたことにようく注意して、もっと慎重に指をくって、屋敷の間数をかんじょうしてみられなかったのだろうか? と、まことにそれが、残念に思われてなりません。
ともかく博士から、十六間にちがいないときかされた和尚さんは、さっそくお経をとなえながらつごう三十二枚の護符を書いてくださるのでしょう。
さっきとりつぎにでたり、お茶をはこんできた小坊主ふたりも、和尚さんにあわせて、お経を唱和しているとみえて、奥の和尚さんの居間からは、木魚の音とともに、さびしい山寺の夕暮れにただようて、とぎれとぎれに読経の声が、きこえてまいりました。
さて、心のなかでは苦笑しながらも、和尚さんのかいてくださった護符をふところにおさめてあつく和尚さんにお礼をいって、お義兄さまとともに博士は山をおりられましたが、やがてこのお義兄さまの吉浦の家へよって、屈強な若者三人ばかりをつれて、ようやくわが家のある大村の停車場へかえりつかれたのは、もう夜もだいぶふけているころでしたでしょう。
お義兄さまからわけはきかされても、まだあのおそろしい老婆をいちどもみたこともなければまたこわい思いをしたこともないこれらの漁師あがりの若者たちは、いずれもげんきいっぱい、ハチきれんばかりの勢いでした。
小さいときから海でくらして、いずれおとらぬ銅色をして、隆々たる筋肉がもりあがった命知らずの若者たちは生まれてまだこの世のなかで、おそろしいということを知りません。
「先生さま! 心配さっしゃるこたァねえでがすヨ。吉浦のだんなさまは、妹思いのおかただでえらく心配してござらっしゃるようだが、なあに幽霊がでようが鬼がでようが、おれたち三人もいりゃあ、気のきいた化物ァむこうでおどろいて、ひっこんじまうでがさァ」
「そうともそうとも! 八のいうとおりでやす。おれたちにゃ、けえって猫の化物めがでてくれたほうが、ありがてえくれえのもんだァ! でやがったら畜生! 薪雑棒でブッぱたいてくれて半殺しにあわしてくれるでがさァ」
「山吉! てめえの半殺しにした猫の化物を、吉浦さひっぱってって、見世物にしたら、さぞ見物がきて、もうかるべえなァ」
こわいものしらずの若者たちが、幽霊がでるの、怪猫の化物がでるのときかされて、いさみにいさんで内心大よろこびで、でかけてきているのですから、そのげんきのよいことといったらお話になりません。
何さまこれでは怨霊のほうで、でるのを見あわせにするだろうと思われんばかりの、げんきさです。
この若者たちのすがたを見ていると、博士の気持も何かは知らずひきたってきました。現代の医学をおさめたりっぱな医学博士ともあろう身が、あんな山寺の老僧などの愚にもつかぬ護符をありがたくおしいただいてきたことが、いまさらこの若者たちのてまえ、なんだかはずかしいような気持さえしてきましたが、停車場から半里の、くらい夜道も、このたくましい若者たちの威勢のよい話にひきたてられて、いつのまにか頼子たちのまっている、山茶花屋敷の門までたどりついたのです。
そして、屋敷のなかでは、かえりのおそい博士の身をあんじて、頼子をはじめ看護婦の平松や笠井、女中のおもとや車夫の吉蔵たちが、どんなに博士のかえりをまちわびていたかは、もはやくどくどと、申しあげるまでもありますまい。
げんきな若者たちの声とともに、博士のかえってこられたのをしると、
「ほうら! だんなさまのおかえりだ!」
と、みんなよみがえったようにホッとして、玄関へころがりでてきました。
しかもそこには、
「若奥さま、しばらくでごぜえやす」
「若奥さま、今晩は!」
と口々にあいさつして、銅色のたくましい顔をならべた雲突くばかりの大男が、三人までもニョッキリと、突ったっているではありませんか!
「まあ! 八蔵に山吉じゃないの? 与助までも! みんなできてくれたの? まあ、たすかったわ! おまえたちがきてくれたら、もう千人力よ。さあそんなところにたってないで、はやくあがってちょうだいよ! もとや、吉浦のお兄さまのところから、三人もきてくれたわよ。もうこわくないわよ! 何かおいしいごちそうでも、こしらえてあげてちょうだいよ」
と、奥のほうへむかって声をかけながら、いままで、ひしかたまっていた夫人の頼子が、どんなによみがえったように、息づきましたことか!
それにつれて、それこそいままで、幽霊でもでそうにまっくらだった台所や、内玄関脇の看護婦部屋にまでもあかりがさして、看護婦たちの笑いごえが、どんなに家のなかをあかるくいろどってきたかということなどは、これももう、いまさらあらためていうまでもないことであろうと思われます。
おまけに、はじめは膝小僧をそろえて窮屈そうにかしこまっていたこの連中も、やがてお酒がでて、すき腹にそれがだんだんしみこんでくるにしたがって、そこはもともと浜辺そだちのあらくれ男たちですから、腕がムズムズしてきたのでしょう。今夜はひとつおれたちが、寝ずの番の交替でひと晩中庭に張り番をして、その猫の化物たらいうもんに、お目にかからにゃなんねえだ、というさわぎでした。
なんのなんの、八と俺らと与助の三人で、ひとりずつ交替に庭をあるきまわって、化物の畜生でてきやがったら、はり殺してしまうでさァとハリ切っている三人をなだめて、ともかくおまえたちは知るまいが、あの猛犬の五郎丸でさえ、あんなにズタズタにひきさいてしまうほどのするどい爪のもち主なのだから、もし不意をおそわれたら危険だ、車夫の吉蔵もくわえて、ふたりで一組の交替にして、見まわったらよかろうと、博士はむりにすすめて、若いものたちにそうさせることにしました。
和尚さんの話によれば、日がくれてからはぜったいにこの屋敷のなかにいてはあぶない、ということでしたが、この夜更の十時、十一時ごろになって、この大勢をひきつれて、町の宿屋などへいけるものではありません。和尚さんは、あんなことをいっていたが、この命知らずの三人がきてくれたら、もう大丈夫だろうと、いくらか博士も気がゆるんでいましたから、夜番はこの四人にまかせておいて、その晩は博士も頼子も看護婦たちも、また女中も、ひさしぶりに枕をたかくして、グッスリとねむることにしたのです。
そして博士は、四人がザクザクと落葉をふんで、かわるがわる夜番に出ていくのを耳にしながら苦笑しつつ例の和尚さんの書いてくださった護符を、部屋部屋の敷居と鴨居に貼ってあるくことにしたのです。
「貴方なにをしてらっしゃるの? 糊なんぞもって······そんなくらい廊下につったって······」
と頼子はあやしみましたが、博士は夫人にもこの護符の話だけはしませんでした。だいいち、こんな護符なんぞ、博士自身がバカバカしいと思っていられることなのです。
ただしんせつな和尚さんが、せっかく書いてくれたことですから、バカバカしいとは思いながらも、老人の好意を無にしないために、貼ってあるいているだけのことですから、頼子にはなんにも話さずに、ただじぶんだけの内証で、そうっと貼ってあるいていられたのです。
おもて玄関のわきの、小金吾の殺された座敷からはじめて、間ごと間ごとの敷居と鴨居へ一枚ずつ······ひろい中廊下をはさんでそのへんのふだんしめきってつかわない、むかしの部屋のいり口へも二枚ずつ、上下に貼ってあるかれました。
が、やがて台所までぜんぶ貼ってこられたときに、あ、これはいかん! 数をまちがえてしまったな! とはじめて気づかれたのは、和尚さんにきかれたとき博士は、ぜんぶで間数を十六間といわれましたが、貼りおわって気がついたのは、なんとぜんぶでは十七間だったのです。
ですから一間分だけなくなってしまいましたが、もともと博士は、和尚さんのいわれたことをほんとうに心から信じていられたわけではないのです。ですからべつだん、護符がたりなくなったからとて、それを苦にもやまれませんでした。
「ええ、しようがないな!」
と苦笑して、貼りのこした部屋はそのまま、たいして気にもとめずに、やがて夫人や看護婦たちの笑いあっている茶の間へもどってしまわれましたが、博士が護符をはらなかったその一間というのは、この家へひっこしてきていらい、雨戸をしめきって、まだ一度もつかったことのない部屋、この屋敷の一番西のはずれにつきだしている、離れ座敷だったのです。
しかも、その離れ座敷こそは、百七十年のむかしには左近将監が、書見につかっていたあの居間······もっとくわしくいえば、小金吾を殺したあとに左近将監が急に引きこもって、若党の佐平治にいいつけて、二度も三度も左官屋をよんで、壁のぬりかえをさせたあの離れ座敷だったのです。
そして、その座敷をはりわすれたことが、やがて博士にとっては、とりかえしのつかぬ、重大な手おちになったということは、あとになって思いしられたことでした。
ともかくその晩は、ザクザクと落葉をふんで家のまわりをあるいている、げんきのいい若者たちの足音を、夢うつつのうちにききながら、博士たちはひさしぶりで安心してグッスリと床につきましたが、さすがに変幻出没きわまりない怪猫の怨霊も、この威勢のよい若者たちには、おそれをなしたものとみえて、その晩は、なにごともなく夜があけました。
若者たちは、なんにもでないのに張りあいぬけがしたらしく、いずれも手持無沙汰の態でしたが、さて夜があけると、さっそくこんな家はでてしまうために、引越しのしたくをはじめなければなりません。
そしてひとまず、吉浦のお義兄さまのところへでも、身をよせなければなりませんが、こまったことに博士の医院は、博士自身ももてあまされるほど繁昌していましたから、なんにも知らぬ患者たちは、朝早くからもうワイワイと、待合室につめかけているのです。
ことにきのうは、吉浦にいくため一日るすをされたものですから、きょうは患者がふだんの日よりいっそうよけいに、おしかけてきているのです。その患者たちに、こんどつごうによってこの医院をおとじになって、先生は吉浦へおひっこしになりますからと、看護婦の平松や笠井たちは、いちいちことわっていましたが、なぜ先生さまは、吉浦さ引越しなさるでやす? せっかくよい先生さきてくださって、ワシら大よろこびでいやしたのに! と患者たちががっかりしているのをみると、まさかこの家にはおばけがでるからともいえません。
せっかく遠いところをきた人たちだからと、気のどくになって、ではきょう一日だけは診てあげようかと、根がしんせつな博士は、最後の診察のつもりで、聴診器をあてたり処方を書いたり······そしておもい患者には、これからどこそこのお医者さんへおかかりなさい、こちらからそのひきつぎをしてあげますからと、いちいちねんごろに閉鎖後のしまつまでつけていられるのですから、午後の二時になっても三時になっても、つめかけている患者の半分のしまつがつかなかったのも、むりはありませんでしたでしょう。
こうして博士はもちろん、看護婦たちも、食事もとらずに診察室で、いそがしく立ちはたらいていましたが、そのあいだにおびただしい家財家具類は、吉蔵や吉浦から手つだいにきた例の三人の若者たちによって、縄をかけられて、だんだんトラックにつみあげられていました。奥のほうは、まるで戦場のような混雑ぶりだったのです。
そしてきょうあすと、トラックを吉浦へかよわせれば、あすの晩までにはもうこの家も、ひっこすことができるだろうと思われましたが、このすさまじい事件のおこったのは、ちょうど家のなかがそういう、大混雑のまっさいちゅうではなかったかと思われます。
しかもいまになって考えれば、この執念深い怪猫の怨霊は、すでに博士一家の退散のけはいを感づいて、いちはやく夫人の頼子の上へ、そのくらい手をさしのべていたのかもしれませんが、ともかく午後の四時ごろだったのです。看護婦の笠井が、患者の治療をしていられる博士のところへ、あわただしくとんできました。
「先生! おもとさんやみんなが、もうこまりきってるんですけど······ちょっといらしてみていただけませんでしょうか」
「どうしたんだ?」
と、博士は平松に手つだわせて、患者の患部へ
「あの······奥さまが······なんだか妙なことをなさいまして······」
「なに頼子が?」
と博士は、患者をおいてつかつかと、診察室の戸口のところまで出てこられました。
「どうしたんだ、頼子が?······はやくいわないか? 笠井くん!」
「奥さまが、さっきあの西のお離れへおはいりになりましたっきり、でていらっしゃらないって、もうおもとさんたちがこまっているんです」
西の離れというのは、昨夜博士が貼りのこされた、例の将監の居間だったのです。
「あんなところへいく用がないじゃないか」
「でも······もう三十分もまえに、あの部屋へおはいりになったっきり、でていらっしゃらないってみんなさわいでいますんです。おはいりになるときも妙なことをおっしゃって、わたしたいせつな用があってよばれてるから、あの部屋までいって話をしてくるけれど、あとからおまえたちついてきたらきかないよ! って怖いお顔をなさって、おもとさんをおにらみになったっていうんです。そしておはいりになったら、ごじぶんであの離れの戸をなかからおしめになって······いつまでたってもでていらっしゃらないもんですから、みんないまさわいでいますんです」
「もう半時間も、あの部屋へはいっている? なぜもっと早くにわたしにしらせてこないんだ? たいせつな話によばれたと? いったいだれによばれたんだ?」
と、博士も眉をひそめながら、患者をおいてそのまま、長い廊下を、その離れ座敷のまえまできてみられましたが、なるほど、丈夫な戸のまえでは、おもとや吉蔵たちがオロオロととほうにくれて、たたずんでいるのです。
「だんなさま! 奥さまが変なことをおっしゃいまして······なかから鍵をかけておしまいになりまして······」
「なぜ、よんでみないんだ······?」
「いくらおよびしても、ご返事をなさいませんのです」
「おい頼子! 頼子」
と、博士は、大声をだされました。
ドンドンドンドンと、戸をたたいてみられましたが、戸のなかはしーんとして、なんの答えもありません。
「だれもいやしないじゃないか」
「いいえ、たしかにおはいりになって、なかから戸をおしめになりましたんです······もう三、四十分もまえに、こわい顔をなさいまして」
「おい頼子! おーい頼子······」
いくら戸をたたいても、あいかわらずなかからはなんの返事もありません。人がいるのかいないのか、ただしーんとしずまりかえっているばかりです。なるほど中から厳重に鍵がかけてあるとみえて、おしても突いても丈夫な戸は、ビクともするものではありません。
「なるほど鍵がかかっている······ハテおかしいな、これは」
とたんにはじめて、いままで気にもとめなかった例の護符を、ここへだけ貼りのこしたことが、思いだされました。そしてその瞬間、サッと博士の顔色がかわりました。
「これはいかんぞ! おい、おもと! みんなをよんでこい!」
ウウム、ウウムと、あらんかぎりの力をだして、もういちど戸に手をかけてみましたが、戸は金輪際うごくものではありません。
「ようし、吉蔵! やぶってしまえ! どうせこわす家だ、かまわんから戸をたたきやぶってしまえ! みんなも吉蔵に手をかしてやってくれ」
もうそのときには、吉浦からきた八蔵も山吉も与助も、みんなこの部屋のまえにあつまっておりました。吉蔵に手をかして、この三人の男が戸へ手をかけているのですが、それでも丈夫な戸は、やぶれそうもありません。
「いけねえ八! げんのうをもってこう!」
吉蔵のふりあげたげんのうの一打ちで、戸はメリメリと音だててやぶれはじめました。そしてやぶれた隙間へ手をかけて、八蔵が戸板をひっぱずす。つづいて与助がまた一枚をひっぱずす。山吉がそのとなりの板を! そして長年しめられてあったうすぐらい座敷のなかへ、サッと陽の光がさしこんだとたん、たちまち耳をつんざくような絶叫を、吉蔵があげました。
「あっいけねえ、先生、奥さまが!」
「何! 頼子が? ど、どうした?」
夢中でとびこんだ博士の目に、そのときうつったものは、なんというむごたらしい、あさましい頼子の最期だったでしょう。そしてなんという奇怪なこの離れ座敷だったでしょう。
あのうつくしい顔といわず手といわず足といわず、全身にするどい引っかき傷をうけて血まみれになった頼子のすがたがそこにのけぞって、しかもそのからだの上に天井がおちたとみえて、その辺一面にふるい板切れが散乱して、天井にはポッカリと大穴があいているのです。その大穴のところから、のけぞった頼子の上へおおいかぶさんばかりにまでたれさがった、大きな、まっくろい怪物は!
「あっ!」
と、みんなで声をのんで立ちすくんだ、その横手の壁をごらんなさい!
ああ屍体がわからなかったのも道理! 今復讐がなごりなくとげられて、これで安心して目がつぶれるのでしょうか? その頼子ののけぞった横手の壁が、パックリとくずれおちて、おおそのなかに、百七十年間のあいだぬりこめられていた小金吾の死体! スックと壁のなかにつったちながらもはや半分ミイラと化して、やぶれたきものに色褪せたはかま······痩せほそった顔に目をとじた、竜胆寺小金吾のすがた······。
あまりにも凄惨な、あまりにも陰惨なこの場の光景に、ワァッ! とさけんだきり、博士も吉蔵も山吉も、八蔵も与助もおもとも、なみいる一同は顔をおおうたなり、その場につっぷしてしまいました。
わたしの物語はこれでおしまいです。が、なぜこんな陰惨な物語を、ながいあいだ、書きつづけてきましたか、いまこの長い物語をおわるにあたってすこしそれをつけくわえておくことにいたしましょう。
いまの世に、こんな奇怪な、こんな凄惨なことが、じっさいにあったのだろうか? とみなさまは、お疑いになられるかもしれません。
が、たしかに、じっさいにあったことですから、なんとしてもふしぎにたえやらず、わたくしはこうして、書きつづけてまいりました。もはや、なんのかくすところもありませんから、ハッキリと申しあげることにいたしましょう。
このむごたらしい死を遂げた、博士夫人の頼子こそは、わたくしの血をわけた従妹、そして博士はこの従妹の夫なのですと申しあげましたならば、なぜわたくしが、こういう物語を長いあいだ書きつづけてきたかということが、どなたにも、おわかりになりますでしょう。
わたくしは、この従妹の、すさまじい奇怪な死のしらせをうけとりましたとき、なんとしても、これを信じることができませんでした。おさないときからそして東京にいたじぶんから仲のよかったこの従妹の死に、かぎりない涙をながして悲しみにうちひしがれながらも、なんとしてもこの死の原因だけは、信じることができませんでした。
しかし、九州へとんでいって、その死をしたしく目撃した車夫の吉蔵や、漁師の山吉、与助などから、くわしくこの話をきき、またあやしい老婆や五郎丸の変死をも知っている、看護婦の平松さんにもあって、つぶさにその死の真相をきいてからは、あっけにとられて茫然とはしながらも、もはや、この事実を信ぜぬわけにはいかなくなりました。
いくら、そんなバカなことが! と思ってみても、事実ならば、なんともしかたがないではありませんか! それ以来わたくしは、まだまだこの世のなかには、文明の力でも解決することのできない、ふしぎな神秘が存在するということを、うたがうことができなくなったのです。
すなわち、さまざまな怪奇をあらわす、人のいまわの際の一念があるということを、心から信ぜずにはいられなくなったのです。
ごらんください。この事件以来わたくしの従妹の夫は||すなわち博士は、この事件によるはげしい衝撃がまだ癒えなかったのでしょう、気欝症同様いまなお気のどくにも病院の一室で、ウツラウツラと半病人の日をおくっています。
そして、話がひとたび当時のことにふれると、たちまち昂奮して病状が悪化しますので、主治医からも当時の話はしないようにと、やかましく口どめされているのです。ですからもはや、その当時の話にはふれることもできませんが、医学博士ともあろう学者を、これほどまでにもなやませた事件······それをもってもこの事件が、けっしてウソでもなければいつわりでもない、正真正銘この世にあったことだということが、おわかりになりますでしょう。
いまこの物語の筆をおくにあたり、わたくしは心から不幸なりし従妹の霊安かれと念じ、あわせて不幸なる夫博士の心の傷手の一日も早く癒えんことを、祈ってやまないのであります。
「従妹が離れ座敷へはいっていたあいだに、天井がおちたり壁がくずれたのならば、なぜその物音があなたにはきこえなかったのだろう?」
と、わたくしがなじりましたところ、
「いいえじぶんは三十分ちかくも、奥さまがでておいでになるのをお部屋のそとでお待ちしていましたが、けっしてけっしてそのとき物音などは、カタともドンともきこえませんでした」
と、女中のおもとは涙にむせびながら、いくたびもいくたびも頭をふってこたえておりました。
なんというおそろしいことだろうと、わたくしはあらためてまた、身ぶるいせずにはいられませんでしたが、いまそれを、しみじみと思いだすのです。