あゆをうまく食うには、あゆの成長と鮮度が大いに関係する。京阪や東京でいうと、七月がよい。地方によっては、早い遅いがある。子を持つ前の最大なのがよい。子を持ってからは二番目といってよい。見た目に見事なのを喜ぶ者もあるが、これは素人の話、東京でも盛んにあゆを賞味するので、
京都保津川のもよいが、これは土地で生きていてこそいちばんである。東京であゆをうまく食うなどというのは断念した方がよい。多摩川にもいることはいるが、川が適しないためか、さっぱりだめだ。かつて多摩川のあゆでうまいのを口にしたことがない。あゆのよしあしは気候や川の瀬が大いに関係する。日光の大谷川あたりのはちょっとうまいが、これとてもその場で食わなければだめだ。東京へ持って来たので台なしで自慢にはならない。わたしは東京でうまいあゆを食う欲望を昔から捨てている。
あゆのいいのは丹波の
あゆは土地土地で自慢するが、それは獲りたてを口に入れるからで、結局地元がいちばんうまい。すべて小型なほどよい。
岐阜人もなかなか自慢らしいが、瀬が激しくないとみえて身がしまらず、ブヨブヨしていて一流品とはいい難い。瀬が激しければ肉がしまるらしい。岐阜は
しかし、地方人は都会人のように、さまざまのものを体験していないから、勢い我田引水におちいる。あゆにしても、まつたけにしても、いろいろと経験してこれがいいということにならないと、ものの真価をつかむことはできないものだ。井の中の
例をあげると、土佐のかつおのたたきなどは、もっとも世間的に有名なものとしてひとびとの耳に入っているが、実際はたいしたことはない。なぜかといえば、土佐という海に面した国は料理が発達していないし、贅沢を知らないひとが多いからである。このため土地のひとにはかつおのたたきが、実に天にも地にもかけがえのないほど、うまく感じられるのである。
以上のように、何事も視野が狭いとこんなことになってしまう。それを都会の半可通がめくら判をおして、土佐のかつおのたたきとしきりに