山というほどの山ではないが、山中での朝夕
自慢ではないが、ソレッというと、すべてに超スピードで活動するために、周辺の助け舟は目のまわるようなテンテコ舞いをさせられるが、小生から見るとすべてが
小生のように自由を好むものには、グループに加わることはとうていできるものではない。共同画業、共同芸業などまったく縁遠い。
日常の食物についても、多くの人は家畜同然、おあてがいの食物で栄養を摂っているように私には見える。妻女の作ったおあてがいの料理、料理人の作ったおあてがいの献立料理、これでことを足して、すましているのが大部分の人間である。
小生はこれを見て、食の世界については、まったく無知な人間のいかに多いかに驚くのである。自分の真から好む食物というものに自覚がないのである。
山鳥のように、野獣のように自分の好むものばかりを次から次へとあさって、充分な栄養を摂る人間の自由を知らないのである。いつの時代からの慣習かは知らないが、この点家畜となんら異なるところがないようである。
小生の考えからすると、おあてがいの食物では、その人その人に当てはまる完全な栄養は摂れるものでないと判断している。美食生活七十年、自分が心底から好む食物をもって、健康を作る栄養としている小生とは大分かけ離れているようだ。食品の高い安いとか、名目とかには決して
これでこそ、自己に完全なる栄養は摂れ、健全が保たれるのだと確信している。その証拠に、
早寝、遅起き、昼寝好き、八時間以上十二時間は寝る。眼が覚めたとなれば常人の幾倍かの仕事をする。毎日自家の湯に第一番に入る。湯から出れば間髪を入れずビールの小
もちろん、親なく、子なく、妻もない孤独生活である。これも世間には類がないかも知れない。小生に勝手
ヤセ浪人では家族全部が好むところに従うわけにもゆくまい。自分ばかり好むままの生活、好むままの食事にひたりきることもできまい。
そこへゆくと、野獣、
山鳥のように素直でありたい。太陽が上がって目覚め、日が沈んで眠る山鳥のように······。