(一)
私は日頃の心がけとして、後悔になるようなことは決してせんつもりでいるが、事実は、どうしてどうして大いに後悔することが次から次へ湧いて出て当惑することが少なくない。
例えば先年前山久吉さんを激怒せしめたなどはその例のゆゆしき一つである。それが場所もあろうに三越の四階、私の作陶展覧会場でである。従って多勢の人ごみの中でだ。相手は耳順、私は知天命に近からんとする者、この二人が勢いづいてついに馬鹿野郎を相互連発したのだから私として後悔せざらんとしてもしないわけにはゆかない。
事の起こりは製陶上の問題であって、見解の相違からなのだった。
当時前山さんが鎌倉の自邸に製陶窯を築かんとされたとき、私が余計なおせっかいをいってやったものだ。実をいうと大した懇意でもないくせに、窯を築くのはおよしなさい、自作するなら別のこと、指図で職工に作らすようでは所詮なにも出来るものではない。仮に自作するにしても······ずぶの素人が片手間に
これにはさすがの前山さんもちょっと思慮を欠かれて真っ赤になって怒ったらしく、魯自身はとうに陶窯を築き、楽しみもし研究も続けながら、俺が窯を築きかけるといけないという。なんという失敬なことだ。実にけしからん。手前勝手な奴だ。······
考えてみると私も、いい方だってあったろうに猫の飯食う茶碗だって出来るものかなどと、
しかし、私に余計なからかい気分の邪魔があったに違いないとしても、私が忠告の真意は誠実であって、私は心から、鑑賞家として聞こえある前山さんに築窯と製陶を止めさしたかったのである。これには今もって毛頭の偽りもなければ
なぜかといえば、いうまでもなく前山さんに轆轤を廻すつもりがないことも、廻せる可能の有無も私には分りきっていたからである。
自分が造らなければ誰が造る。いわずと知れた職人が造るまでではないか。それでは前山久吉翁作ではなくて、久吉翁指図、職人某々作とならざるを得ない。これをお庭焼といってもよいが、職工がたった一人のさびしいお庭焼は取るにも足らんではないか、さらでだにお庭焼と称する物にさしたる名品が生まれていないことは前山さんとてとくと御存じである。これが私の忠言となって彼にとっては不服な刺激をもって迫ることになったゆえんだ。
翁にいわすれば······否、現に前山さんが私に三越楼上で放言した一節を紹介すると······君遠州だっていちいち自分で
一、前山さんの第一の錯覚は一代の小堀遠州宗甫と御自分を同等に扱われたこと。
一、職人は職人でも遠州時代の職人と今日この頃、しかもそこばくのことでいいなりになってくれる職人とはその質が違う、腕が違う、心が違うという点に不注意であったこと。
そしてその前山さんが陶製上の予備知識を絶無とはいわないが殆どというも過言ではないほどこれらが私をして前山さんに製陶計画抑止の勧告を余儀なくせしめたゆえんなのであった。
これだけでは、
(二)
なぜ素人は窯を築いてはいけないのか、······これが答えはいうまでもなく、それは所詮出来ない相談であるからだと、私はいつもの憎まれ口をききたいのである。とはいってもその人の、望みの大きさ次第では一概にいって
これについて私は余計なことをと、他の
住友さんについてはどんな望みをもって製陶に臨まれたか、私はよく
住友氏からして岩崎、前山、伊賀、頼母木の諸氏などからして、自邸に陶製し楽しまんと決意せられたまでの趣味性は私も覚えがあるが、まったく大した奮発の挙句なのである。
しかるにかかわらずいずれもたちまち一場の夢と化しおわって無念にも
前山翁が最初仁清ふうを作らんとされた時も、京都のKという陶家をひっぱってきて、これに望みの夢をかけられたらしいのである。美校の画学生を
うるさいことをスッパ抜く奴と思われることを必定として、ここにもう一ぺん念のため語らざるを得ないのはなんとしても翁の驚くべき勘違いである。なるほど、前山さんは茶道に縁あって以来というもの中国陶磁に朝鮮陶器に日本ものに、ありとあらゆる名器を幾度となく、繰り返して
聡明そのもののような趣味人たる諸氏がなぜかくも揃って軽挙されるのであろう。そうして不甲斐なくも
私にいわしむるならば、それは別段とくに不思議な因縁があったわけではない。思いもよらざる事柄が飛び出して
焼物師には出来ないが俺が俺の家で指導したら、工夫したら、聡明な考え方をもってしたら、染付、赤絵、九谷、瀬戸、唐津、朝鮮、中国、なにほどのことやあらん。俺だ······俺だ······俺の頭だ、俺の知識だ、俺は鬼だ、金棒さえ振りゃなんだって出来得ないことがあるか、金棒というのは焼物師のことだ、焼物師、俺につけ······こんなふうに諸氏は方法で物が生まれると早計に考えられたのである。なるほど、現在の五条坂や帝展物はある程度の方法によって出来得ることは私とて保証の一人に立つ者であるが、もともと諸氏が希望するような芸術的作品は······名陶は······さようゆるがせない方法のみでは出来ないのであることを断言したい。試みに考えてみらるるがよい。陶器なるが故に聡明な諸氏もうかうかしていられるが、これを画に移して、ある方法のもとに名画が生まれ
察するに諸氏はその昔宗和が仁清を造ったなどという俗説をうかうか信じ、宗和再生を夢見られたかも知れない······が、宗和は生まれていなくとも仁清は立派に仁清であったと私は断言する。宗和によってボンクラな仁清が一大天才に変わったと解する者があったとしたら、それは度すべからざる痴漢だと私はいう。況や宗和でなき者の力が、況や仁清に比すべき天才を見出さざる者が、千の辛も万の苦も経験せず、問疑答離の経験もなく万巻の書もとより
(三)
素人が窯を造る場合、その目的が大量製産の利潤にあるか、少量優品製作にあるかはあえてわざわざ問うまでもあるまい。しからば少量の優品を作り出して優雅逸楽に
これを住友氏の場合に照合するとき京都のI氏監督、それに属する無名の工人二、三となる。また前山氏の実例をもってすると最初が京都系、次が瀬戸系工人、それがいつも一人か二人である。次の頼母木氏の場合は少しく事情複雑であって、坊間伝うるところによると、これは必ずしも頼母木氏一建立の御道楽になったものにあらず、加賀
かような事情になる諸家の素人窯から優秀なる名陶が生まれ出でようはずのないことは別段ここに氷炭冷熱をいわずともみずから明らかではないか。それはいうまでもなく当たるに足るしかるべき作家を各自が有さないからである。名作はいかような場合にも天から雨のように降るものではない。誰かが製作するところのものである。ここにおいて作家なくして名品の製出を夢見る各家はいかなる常識をもって起案し、いかなる算用をもって結果を望んでいられるか私は実にこればかりはただただ不思議に堪えないで困っている。
私は先にもいったことであるが、おそらく各家は自己の指導力によって往古に見るがごとき名作を成し得られると大雑把に考えられたことと察せざるを得ないが、もし果たしてしかりとするならば、これを画の製作に考えを移して、各自の指導力が雲舟、牧谿でなくても三楽を生むか
前山翁はまったく罪のないことをいう人で、窯の仕事などというものは自己の経験からいうとき、一代二代の研究で出来るものではないと、まるで科学の発明でもあるかのように譬えて、自窯の不成功を
翁は志野の
況や、名人に二代なしは昔から伝うるところである。光悦の後に光悦なくのんこうの後にのんこうはない。のんこうの先にものんこうはない。仁清の先にも仁清なく、仁清の後にも仁清はない。翁が苦心? の志野もまた志野以前に志野はないのである。初期志野時代以後にも志野はないのである。前山氏が僅々二、三年の経験をもって、その不如意を弁ずるに当たって一代二代の研究のよくするところでないなどと公言されるのは、私はあまりにも罪がなさ過ぎるとするものである。実業家としての前山翁は一部に俊敏の聞こえ高い名士であるがごと、窯業芸術となってははなはだ解し難い腕前を有する人といわざるを得ない。
しかも、ものは分ったから出来るとはかぎらない。否分ったからとて出来るものではないのである。分るということと出来るということは別問題であるといってもよいくらいのものである。
如上の各家が勘違いをされたのは、とりもなおさずこの一点に存すると考えられないことはないのである。譬えるまでもなく、仮に墨跡が分る具眼者であるとしても自己に能書ありとはかぎらない。牧谿が分る、
前山翁の場合のように自己が仁清に理解あるつもりだからとて、ただ単に工人を自家に呼んだだけで仁清が再現するものではない。自己そのものの天分が仁清と同じであって、しかして自己がみずから製作せざるかぎり仁清は再び生まれ出づるものではないのである。況や製陶上の概念知識さえも有しないズブの素人に
価値ある芸術とは優れた天分ある人格者の識見からと、その練熟の腕前とから生ずるものであるのである。すなわち優れたる作者あっての優れた作品である。決してあかの他人のおせっかいや小さな権力から生まれ出づるものではないことを得心して欲しい。
ここにおいてあかの他人に当たる各家は製作上の真理に
この一事をもって考えるとしても、翁たる者進んで廃窯の道を採るの挙がいかに賢明であり、いかに人物を大きくすることか分らない。人間は我もある程度に必要である······が、土俵割るも未だ負けを承服しないという田舎角力であってはならない。勝ちは勝ち、負けは負けと水の流れるごとく素直でなくてはよくあるまい。勝ち必ずしも名誉とはかぎらない。負け必ずしも不面目とはかぎらない。や、これはこれは失礼、うかうか、釈迦に説法······脱線の儀は平に平に謝し奉る。
(四)
またしても前山久吉翁の製陶遊戯を引例して恐縮に堪えないと思っている。これはことによると、誤解の生ずる
さて、前山翁最初の製陶目的は
私はこれを知って翁のために同情もすれば、苦笑もした。翁は仁清という大天才をなんと解していられるのかは知らないのだが、仁清ほどの特異な実在を再び造り出さんと自負する大望の翁が、一美校生を招きそれに仁清ふうの絵付けを託し、もって目的を達せんとせられたのはなんとしても認識を
それには美校の生徒をもってすれば、職工と違い指導次第では理解も出来、卑しからざる絵が出来よう、本歌を見せて語れば成功疑いなし、と······こう考えられ自分ながら妙案明知が創見されたごとくホクソ笑まれたらしい。果たしてそうであるならば私らの見るところとして、この場合の翁の処置妙案? は申しようもない、恐ろしい矛盾と錯覚からなる、非常識な創見を発揮したものとみなさざるを得ない。
いやしくも日本陶芸史上ゆゆしき陶芸作家として日本の誇りとし日本の国宝とする仁清は、憚り多いことをいうようだが、翁のように今の今まで陶磁製作上無関心者であって、その気まぐれ、ちょっとしたはずみの出来心から名工仁清が浮かび出ようはずのないことは火を見るより明らかであるとせねばならぬ。況やたかが美校学生の画力で彼の仁清を再現しようなどとは思いもよらぬ妄想である。
仁清というものそんなにたやすいものであるならば、さほどあり難いものではないという結論が当然と生まれはしないだろうか。それならば、わざわざそれが再現を期すべく努力を払う行為はこれまた矛盾の誹りを免がれないであろう。
僭越ながら私の経験から語れば、今日現存の轆轤工に仁清を解するものないこと、工作する者のなきことは誰に憚るところもなく断言し得られる。絵付けにおいてもまたそれと同じ意味を繰り返し決して不可ないと考えられるのである。一美校の学生はもとより、これが教授であろうが、他の大家達であろうが、それらの人たちの筆からは、仁清が生まれようはずのないことはあまりにも保証される。それはすべての現代新画が、如実に内容貧弱を物語っていることで分る。このうち、強いて適者? として
しかし、さすがのがんばり翁もその自家窯何回かの失敗に教えらるところあり、最初の空想は事実上不首尾におわったことを自覚し、これが幻滅を感じられたらしく、仁清再現の企図だけは計画いくばくもなくして
この時······この際、翁にして製陶事容易にあらずとし、
さるにしても、今後はまた、さらに登る一層の楼なる見識をもって······製作年代を
前山さんは元来物語を単純に考える人と見え、この際も瀬戸陶工わずかに一人の力でもって、古来著名なる志野、黄瀬戸、織部時代とされている芸術的古陶を、無分別にも一挙生み出さんと夢見られたらしい。私は約二年ほど前益田
「君、前山が来て近い中にきっと志野を焼いて持って来るって大
私はとっぴな話を聞かされていささか驚いた。そして思わず不用意にも、これに即答した。
「それは出来ませんなあ······。いかに前山さんだってまた誰だって、それは出来ません。今は、そんなものを作れる人がありませんから······ときにあるいは様子だけが志野みたいな······黄瀬戸みたいなものが出来ないともかぎりませんでしょうが、ともかく、生命力は皆無なものに違いありませんから、一見似ているにしても実際の価値上、なんの美術価値もないものにきまっております。従って問題になるものではありますまい。私は前山さんを評するわけではありませんが、もし直評を許されるならば、前山さんの今の製陶認識では失礼ながら
鈍翁は呵々大笑して······。
「そりゃそうだろうね、そうたやすくは出来るもんじゃなかろうね。時代が許さないだろうし、君の言のごとく作者がないだろう。しかし前山は大変な
と、大笑いされた。まったく前山という人、ことを一途に単純に考えられる人らしい。
しかし、この時の前山さんの自負する胸中を知るものは、もしかすると私一人かも知れなかった。当時翁は志野の本場
翁は最初志野陶土発見を某工人の口から知ったとき、矢も楯もたまらなくただ陶土さえ入手せば即刻にも志野は焼成するものと早合点し、
しかも、これが星岡窯のAにも私らにも積極的にことが運ばれたのであった。それはなんのためかはいうまでもなく、最初の行きがかり上、極秘中に策を練って志野、黄瀬戸を作り上げ、某々に目に物見せてくれんとする翁の稚気に外ならなかったのである。
しかしながら芸術の成功は是が非でも主観の信念からなる実際行為であらねばならぬに反し、翁はそもそもの最初から、その製陶態度がぜんぜん客観的であった。「指導で他人に拵えさす」これが第一客観である。「志野陶土があれば志野が再現するかに考える」これが客観である。これらは実に翁の目的をいかにしても成就せしめないゆえんであって、私らから打ち眺めるとき、ただただはがゆさを感ぜざるを得ないのである。ただし前山翁一人がその例でないことを追言する。
(五)
素人たるもの、ふとした趣味の軽はずみから、妙に矢も楯もたまらなくなり、資材に任せて無我夢中に築窯し、作陶の成果を空しくいたずらに楽しみ、自己に成就の用意があるなしを省みるいとまもなく窯に火を入れるなどは、有知のなすべきでないことわりを前四回にわたって僭越とは知りながらいささか説くところであったつもりである。
しかし、その引例が主として前山久吉翁の現業窯におよんだことは、現在、窯に火を入れている唯一の人として止むを得ざる次第であったが、それにしてもはなはだ御迷惑をかけた点は重々お断りする。
そうはいってもずいぶんクドかったじゃないかとの誹りはあるだろう。だがそれは小生が毎度のこと魯山人はアクが強いといわれる点で、これまた今分のところ止むを得ない次第である。
さだめし読者も前山翁も分った分った、もう分った分った、もう分ったよう······を繰り返されていたことだろう。
魯山人のいうところ、要するに好きで窯を造る以上、自分ですべてを作ること、自作することによって意義があるというのだろう。分った。
自家窯といえども雇傭の工人に作らしたのではお庭焼を出でないというのだね。つまり芸術にならないインチキ芸術だというのだ。分った。
それから自作にかかるまでには鑑賞が達していなければならぬ。書が出来、画が非凡にまで進んでいなくちゃいかんというんだろ。分った。それだから
しかも天才的な神技が入用だというんだね。分った。······
土で出来るんじゃない、釉で出来るんじゃない、学校程度の窯業知識で出来るんじゃない、絵描き程度の画では絵付けがものをいわない。
現在の図案家程度では図案にならない、帝展の工芸じゃしようがないというんだろ。分った分った······。
しかしそうなると作陶資格ある者は満天下魯山人一人ということになるじゃないか、おい······冗談じゃないぜ。てな程度にまででも製陶認識を進めて貰いたいというのが私の
必ずしも素人、窯を築くなと一概的にいうのではない。