わが車は、とある村に入りぬ。
軒ごとに吊りほせるかけ菜の、あるかなきかの風にゆらめきて、鶏のこゑ、長閑にきこゆ。
轍におこる塵かろく舞ひ、藪ぎはの緋桃の花、ほろり/\散る。高安の春、いま闌なり。
いつしか、村をはなれつ。から/\と軋り行く

見れば、わが行く手にあたりて、常緑樹の森あり。音は、其方より聞え来るなり。
此音を耳にして、われは、ゆくりなくも、旧き記憶をよびおこして、回想の忘れ路をたどりぬ。
山鳩の、梢に羽ぶく音だに聞ゆる淋しき山路を、「あゝ正成よ」など、高らかにうたひつゝ登る。
この道は、
もみぢにはまだしけれど、聞きおよぶ竜田へは二里をこえずと、よべ乳母の語れるに、いでさらばと志しゝなりき。
行けど/\山かさなりて、峠なほ遥かなるに、日はゝや大阪の海に傾きかゝり、大空は、いよゝ青ずみて、行きかふ雲だになし。
夕べの山路には、人かどふ神の出るものよと聞けりしかば、暮れはてぬ程にともと来し道をひたくだりに走せくだる。
山の尾をいくめぐり、谷にそひ、谷をわたり、森のかげ路のをぐらきには、落葉ふむ跫音にもおびえつゝ、やゝ里近くなりたる処に、山畠の
ひそ/\と忍びよりて障子の穴よりうかゞふに、さだすぎたる女の、頬にみだれかゝる髪かきもあげで、泣きてはうたひ、唄ひては泣き、何になくらむ、かなしげにうたへるなりき。
様は遠州浜名の橋よ、いまはとだえて音もせぬ。
さては此女、柿一目見るより、われは背戸のふし垣ふみこえて、走り出でぬ。
後につゞく音するに、顧れば、さをなる顔にほつれ毛うちみだし、細き目に涙たゝへたる柿主の女の追ひ来しなりき。
われは立ちすくみぬ。
女は近よりて、やにはにわが手をぐと
握られたる手には、女のはげしき呼吸にうち震ふ肩のをのゝきの、伝ふならずや。
若子、今うち落しゝ物、かへし給へ。
こはき顔して見入るに、われは噤みぬ。かへし給はずや。
いな/\、われは柿はとらじを。
と云ふに、女の肩いよゝをのゝき、把られたるわが手、亦、いたくふるひぬ。いな/\、われは柿はとらじを。
よし/\、かへし給はずば、明日にも若子が家人に告げん。
と云ふに、捕へられたる手うちはらひて遁れんとする袂より、紅の珠二つ三つ、ころ/\と転び出でぬ。それ見給へ。
と女は冷かに笑みて、わが顔を覗きこみぬ。われはえ堪へず、声あげて泣きぬ。頬を伝ふ涙はらふ/\、逃げ下りつ。
裾曲を流るゝ里の小川の板橋に立ちて、ふりかへりぬ。
見上ぐれば、靄こめたる山畠の小家には、早や灯きらめきぬ。
かすかにきこゆるは筬うつ音。
家にかへれば、乳母は、わがかへりおそきを案じわびて、門にたゝずみ居たりき。
ありし事は、小さき胸一つに秘めて、其夜は早く寝床にまろび入りぬ。
其夜の夢は、
夢さめて、われは、かの女は塚の神ならざりしかなど思ひて、暗き寝床の内に、ひたと乳母の身により添ひぬ。
明くる日、柿うりの女、入り来ぬ。
われも欲しければとて、門へ出でんとせしも、其女の声を聞きて、たちすくみぬ。
乳母は、幾度かわが名をよびつ。されど、われは、はなれ家にかくれて、いらへもせざりき。
やゝして柿売りのかへりし頃、母屋に来て、堆く、くづるゝばかりうみたる、赤く大いなるが盆に盛られたるを見し時、其は斎瓮の埴の赤珠にあらずや、とたづねて、
若子は、ねおびれたりや。
と嗤はれぬ。たとひ其時には、昨日の恐しかりしをも忘れて、貪り喰ひつれど。されど、われは今もなほ、其斎瓮にあらざりしかを疑ふなり。
ふと心づけば、車は若江の邑の畷にかゝれり。
道のかたへなる石ぶみにぬかづきて、重成の霊に、十年ぶりの今日のあひをよろこぶ。
また車に上る。恩智川の堤は、見え初めぬ。かのかげろひ立てる堤をこゆれば、わがめざしたれつつ、十年の月日を過しゝ、里親の家も見ゆるなるべし。山畠の機おり女は、今も、まさきくありや。
前路遠くして、わが行く道、なほ