[#ページの左右中央]みつぎもの 裏関所 丁か半か 室咲 日金颪 神妙候
御曹子 黒影白気 梅柳
[#改ページ] 伊豆のヒガネ
山は日金と書いて、三島峠、
弦巻山、十国峠と峰を重ね、
翠の雲は深からねど、冬は満山の枯尾花、虚空に立ったる
猪見るよう、
蓑毛を乱して
聳えたり。
読本ならば
氷鉄といおう、その頂から伊豆の海へ、小砂利
交りに
牙を飛ばして、
肌を
裂く北風を、日金
颪と
恐をなして、熱海の名物に数えらるる。
冬季にはこの名物、三日
措き五日措きに、殺然として襲い来るが、二日続くことはほとんどない。翌日は例のごとく、嘘のように暖く、公園の梅はほんのりと薫って、
魚見岬には
麗かな
人集合。熱海の土地は気候が
長閑で、寒の
中も、水がぬるみ、池には金魚がひらひらと、
弥生の吉野、小春日の初瀬を写す
俤がある。
さてこの物語の起った年は、師走から春の七草かけて、一たびも日金が
颪さず、十四五年にも覚えぬという
温暖さ、年の内に七分咲で、名所の梅は花盛り、紅梅もちらほら交って、何屋、何楼、娘ある
温泉宿の蔵には、
雛が吉野紙の
被を透かして、あの、ぱっちりした目で、
密と
覗いても見そうな陽気。
時ならぬ
温気のためか、それか、あらぬか、その頃熱海
一町、三人寄れば、
風説をする、不思議な出来事というのがあった。
仔細はない、
崖の総六が背戸の、
日当の
良い畑地に、二月の瓜よりもなお珍とすべき、
茄子の実が
生りました。
総六は、崖の、と呼ぶ、熱海の街を
突切って、
磧のような石原から浪打際へ出ようとする、
傍の
蠣殻屋根、崖の上の一軒家の、年老いた漁師であるが、
真鶴崎へ
鰹の寄るのも、老眼で見えなくなったと、もう
鈎の
棹は持って出ず、昼は人仕事の網の
繕、合間には客を乗せて、
錦の浦遊覧の船を
漕ぐのが
活計。
仇しあだ浪いとまなみ、がらがらと石を
捲いて、空ざまに
駈け上る、崖の
小家の正面に、
胡坐を総六とも名づけつびょう、造りつけた
親仁のように、どっかりと
臀を据え、山から
射す日に
日向ぼっこ、海に向うて朝から晩、暮れると、浪枕、やあ、ころりとせ。
沖から
遠眼鏡で望んだら、
瞬する間も静まらず、
海洋の
蒼き口に、白泡の歯を鳴らして、刻々島根を
喰削らんず、怖しき浪の
頭を
圧えて、
巌窟の中に鎮座まします、世に
頼母しき一体の羅漢の姿に見えるであろう。
総六親仁は、最初、この茄子の種を
齎らして、背戸へこぼして行ったのは、烏に
肖て翼違い、
雉子のようでやや小さく、山鳥かと思うと
嘴の白い、名を知らぬ、一羽の鳥であったという。
かつその鳥は、小春日の朝、空が曇って、大島が
判然と墨で描いたように見えた時、
江浦、吉浜の空を
伸して、遠く小田原の城の森から、雲の上を飛んで来て、ふうわり、
足許へ来て留った、そこから苗が出来たというのであるが、鳥はこの親仁が、名を知らぬものだったかも計られぬ。
小田原よりか、
函嶺からか、それとも三島、日金の方か、たとい家は崖の上でも、十里は見通し得る
筈がない。
惟うに、親仁の
産神は
彼処であるから、かく珍らしい、伊豆紫の若茄子に、
烏帽子を着せ、
狩衣召させて、一粒種のお鶴という、娘の婿にでもする気であろう。
暮に取立ての初穂を、まず新しい
苞入にして、切火を打って、ここから七里ある、小田原なる城の鎮守、親仁が産神に、
謹上。
師走の末の
早朝、
藍の雲、
浅葱の浪、緑の
巌に霜白き、伊豆の山路の
岨づたい、その
苞入の初茄子を、やがて霞の
靉靆きそうな乳の
辺にしっかと守護して、小田原まで使をしたのは、お鶴といって、十六の、明くれば七になる娘。
お鶴は総六の小屋に生れて、そこでこの年まで育ったので、あたかも浪の
打附って様々に砕くるのが、
旭に輝き、
夕陽に燃え、月にあらわれ、時雨にかくるる、
牡丹の花に、雌雄の
獅子の狂う
状を自然に
彫刻んで飾ったような、巌を自然の石垣は、二階屋に住むものの
馴れた
階子段に異ならず。
鞠がはずんで
潮に取られ、羽根が外れて海に落つれば、
切立のその崖を、するすると何の苦もなく、
蟹を捕え、貝を拾い、
斜に飛び、横に伝い、
飜然と
反る身の軽さ。
小児同士が喧嘩して及ばぬ敵の迫る時も、腕白な
悪戯を
薪雑木で追わるる時も、石垣が逃げ場所で、ぴたりとひそんで
縋るとそのまま、
衣服の
裳のそよそよと、潮に近き
唐撫子、手に取る
術はなかったそうな。
泳ぎはもとより、木も
攀ずれば、峰も谷も
駈け
歩行く。
中にも大島を
遥かに望んで、真鶴の浜に
対向う、熱海の海の岸一帯、火山が砕けた巌を飛び飛び、魚見岬に
行く間、
小石にも白波や、貝殻にも潮の花。さらさらと、さらさらと、ちらちらと乱れる上を、真珠に似たる
爪尖で、お鶴は七八ツの時分から、行ったり来たり我が庭同様。
しかも人となるに従うて、天の成せる麗質あり。
手も足も
庇わずに、島の入日に焼かれながら、日金颪を浴びながら、緑の黒髪、煙れる生際、色白く肥えふとりて、小造りなるが愛らしく、その罪のなさ
仇気なさも、
蝴蝶の遊ぶに異ならねど、浪打際に岩飛ぶ風情を、土地の者は
渾名して、千鳥々々というのであった。
娘ならば、竜宮のもうし
児であると
称えても、茄子の
種子を
云々より、恐らく聞くものは疑うまい。その色の白いばかりも、この
辺に類はないから、人々は総六が自讃する、怪しき鳥の
挙動にはさもなくて、湯河原の雲を
攀じ、吉浜の
朝霽や、真鶴の霜毛に
駕して、名だたる函嶺の裏関越え、小田原の神に使した、美しき使者をこそ、皆口々に
讃め
称えつれ。
さて、お鶴がその日の
扮装には、頬に浪打つ黒髪を、
頸に結んで肩にかけ、手織
縞の
筒袖は
曠着も持たねば、不断のなり、
襦袢の襟と帯だけは、
桔梗の花、
女郎花、黄菊白菊の派手模様。これは湯宿の込合う折は、いつでも手伝いに
行く
習。給仕に出た座敷の客の心づけたものであろう、その上に、
白金巾の西洋
前垂。
この前垂は、
去ぬる頃、
旅籠屋の主人たち、三四人が共同で、熱海神社の鳥居前へ、ビイヤホオルを営んだ時、近所から
狩催した、
容眉好き
女の中に
交って、
卓子の
周囲を立働いた
名残であるのを、白きはものの潔く、清らかに見ゆればとて、親仁が指図で礼服なり。
芳紀正に
二八ながら、
男女も
雌雄の浪、権兵衛も七蔵も、頼朝も為朝も、
立烏帽子というものも、そこらの
巌の名と覚えて、崖に生えぬきの色気なし、
形にも
態にも構わばこそ。
父爺の総六が
吩咐けのまま、手織縞の筒袖に、その雪のような西洋前垂、
背へ十字に
綾取って、小さく結んだ菊模様の
友染唐縮緬の帯お太鼓に、腰へ
捌いた緑の下げ髪、
裳短こうふッくりと、白きは
脚絆の色ならず、素足に草履
穿占めた、爪尖の
薄紅。
石高路を物ともせず、独り
早朝の霜を踏む。
山懐のところどころ、一帯に産出する
蜜柑の林に
射入る
旭に、
金色の露暖かなれど、岩の
衝と
突出でた海の上に臨んでは、
路の下を
掻い
潜って、崖の尾花を越す浪に、有明月の影の砕くる、冬の朝まだ七時というのに、早や吉浜を過ぎ、真鶴を越して、江の浦さして行く途中。
灰色の網の中空から斜めに
颯と張ったよう、中だるみに四方
濶と、峰の
開けた処がある。中に
一条、つるくさ交りの
茅萱高く、
生命を
搦むと芭蕉の句の
桟橋というものめきて、奈落へ
落るかと谷底へ、すぐに
前面の峠の松へ、
蔦蔓で釣ったように
攀ずる
故道の、細々と通じているのが、函嶺の裏関所の
旧跡である。
娘はここへ来るまでに、ただその一台を見た、熱海通いの人車鉄道、また人力車など通うにも、上の
新道を行くのであって、この旧道を
突切れば、萩の株に狼の
屎こそ見ゆれ、ものの一里半ばかり近いという、十年の昔といわず、七八年以前までは
駕籠で
辿った路であろう。
もとより恐るる処にあらず。
娘はかねて聞いて来た、近道をするつもりの、峰の松を
目的に、
此方の道の分れ口、一むら
薄立枯れて、
荒野の草の
埋れ井に、
朦朧として
彳むごとき、
双の影ありと見えたるにも、
猶予わず
衝と寄った。
「ほうい、兎かと思った。
吃驚すら。」
「何だ、人間か。」
濁声斉しく、じろりお鶴に
眼を注いだ、霧はなけれど、ぼやけた
奴等。そのむら尾花の蔭に二台、
空腕車を
曳きつけて、
踞んで、畜生道の
狛犬見るよう、仕切った形、
睨み合って身構えた、両人とも背のずんぐり高い、およそ
恰好五十ばかりで骨組の
逞ましい、
巌丈づくりの、彼これ車夫。
お鶴も思いがけなかったか、ぴたりと草履を霜に留めて、透かして
差覗くようにした。尾花は自然の傍示
杭、アノ山越えて来イやんせ、この谷
辿って行かしゃんせ、と二筋道へ枯残る。車夫は新道の葉かげから、
故道の穂ずれに立った、お鶴の姿をきょろきょろと、ためつ、すがめつ。
「よう、合の子だな」
「目が黒い、髪も黒いぞ。」
「フム。」
「
神巫のような娘ッ
児だ。」
一人、
膝頭と向う
脛、
露出した間に
堆い、蜜柑の皮やら実まじりに、
股倉へ押込みながら、苦い
顔色。
「あの
児、あの児、
姉え。」
と呼びかけられ、ぱッちりとした目を

って、
豊な頬を傾けたが、くっきりとした眉のあたり、
心懸りのない風情。
他の一
人がこれをうかがい、
「へへ、べらぼうめ、慌てやがって、蜜柑を
咎めに来たのじゃねえや。」
さては盗んだものそうな。
「なあ、
姉え、
此方にも一ツ
遣ろうか、はは、正直に黙っていら。」
「あの
児、こっちへ来や、ちょっと来ねえ、
好い相談があるが、どうだ。」
「何だ何だ、蜜柑を遣る。かう死んだ
小児でも思い出したか、
詰らねえ後生気を起しやがるな、
打棄っておけというに、やい。」
「うんにゃ、後生気どころじゃねえ、ここ一番という
娑婆ッ気だ、
伝九。」
とすくすくと
鬚の生えた、山猫のような口を突出し、
対手の耳に
囁くと、伝九と呼ばれた一
人は、
歪めて聞いていた
面に、もっての外な、ニヤリと笑む。
「な。」
「そうか、うう、そうか、面白かんべい、へへへへへへ、おい、姉え。」
「待ちねえ待ちねえ、待ちねえよ。」
薄の霜に入残る、有明月の消え行く
状、
覗いている顔が
彼方へ、
茅萱の骨に隠れんとした、お鶴は続けさまに呼び留められ、あえて
危む様子もなく、
「あい、私。」
「お
前だお前だ、お前に限ることだ、なあ、
雲平おじい。」
「まあ、姉え、ちょっと来ねえよ。」
雲平なるもの、
板昆布のような袖口から、
真黒な手を出して、図太く
浚え込む形で手招く。
「何さ。」
と声も気も
軽う、
衝と身を
反して
歩を向けた。胸に当てたる白布には折目正しき角はあれど、さばいた髪のすらすらと、霜枯すすきの葉よりも
柔順。
「よう、妙な
扮装だぜ。」と雲おじい、
更めてつくづく
視める。
「だから
神巫見たようだというのよ。」
「
己らまた、柱暦の絵に
描いた、
倭武尊様かと思った奴さ。」
悠々として、
掻いはだけた、膝の皿に
牛蒡の
肱で、
憎躰な頬杖なり。
雲おじい、
蒼痣かと、
刺青の透いて見える、毛だらけの脇腹を、蜜柑の汁の
黄みついた五本の指で無意味に掻き、
「時に姉え、お
前、どこだ。」
「熱海なの。」
「は、
御花主場だ、あんまり見かけねえ。」
「
車夫さんは小田原?」
と、めりはりが
判然して、人見知りはせず、愛々しい。
伝九
頷き、
「図星々々。」
「その図星だ、一番きゅうと
極めてえもんだ。」
「まず、じらす内が
楽みよ。」と蜜柑の皮を
掴んでは、ほたほたと
地板へ
打附ける。
お鶴は何の気もつかず、
「私は海岸なの、おじさんたちは、お客様を送っちゃ町の
旅籠の方へばかり行くんでしょう、だから知らないんだわ。」
雲おじい頷いて、
「
成程、
可わえ、それじゃ水心ありの方だの、こう、姉え、そしてお前どこへ行く。」
「小田原。」
「何が小田原、」
「相談は
極ってら。」
目を見合わせて
北叟笑みした、伝九、更めて、
面を
捻向け、
「ええ、姉え、ちくとんべい、お前にの。」
「
己達が頼みてえ事があるんだ。」
「素直に
肯かねえじゃ
不可えぞ。」
お鶴は
涼い目を下ぶせに、
真中にすらりと立って、
牛頭馬頭のような
御前立を、心置なく
瞰下しながら、
仇気なく打傾いて、
「頼みッて?」
「おう、姉え、お前の胸にあるものだ。」
「ここへ
打ちまけて見せてくんろ。」
といって伝九郎上目づかい、
「こう姉え、知ってるか、ちょうどお関所にかかるこの道の
岐れる処は、ここン処だ。つい今年の三月、熱海へ奉公に出ておった、お前ぐれえな
新造がの、親里の吉浜へ、雛の節句に帰るッて、晩方通りかかっての、
絞殺された処だぜ、なあ、おじい。」
「そうよ、
恐ねえ
処よの、何でもいうことを
肯かねえじゃあ。」
「へいへいへい、何旦那ちょいとその、
洒落に遣りましたばかりなんで、へい、大した天下を望むような
謀叛を起したではござりやせん。」
雲おじいは
眩ゆそうな顔をして、皿の
兀げた
天窓を掻く。
「全くもちまして、娘ッ
児をどうのこうの、
私等ア御覧なさりやすとおり、いい
年紀でござりやす。」
伝九郎は
揉手でびたびたお辞儀する。
二人の車夫を
屹と見ながら、お鶴を
庇うて立ったのは、洋装した一個中脊の旅客であった。
濃い
藍の鳥打帽、厚い毛皮の
外套を、襟を立てて、顔の半ばから膝の下。鼠のずぼんの
裾が見え、
樺色の靴を
穿き、
同一色の皮手袋、
洋杖を軽くつき、
両個の狼を前にしつつ、自若たるその
風采、あたかも曲馬師の猛獣に対するごとく
綽々として余裕あり。
時に真鶴の山中は、当世風の
扮装した
一のこの旅客を得て、はじめて湯治場へ行く道の、熱海街道となったのである。はじめ、その山、その岩、その霜、蜜柑畑も
枯薄も、娘の姿も車夫の
状も、浮世に遠き趣ならずや。
「洒落にしろ
宜くないな、黙っちゃ通られん洒落じゃないか、乱暴な事をする、可哀相に。」
といいかけて、半ば隠れて顔は見えぬが、
在原業平の目かずらかた
俤で、あとなる娘を顧みた。
薄日は
射したがまだ
融けぬ、道芝に腰を落して、お鶴はくの
字形に手を小石。親まさりの爪尖尋常に
白脛を
搦んだまま
衝と横に投出した、
肩肱の
処々、黒土に汚れたるに、車夫等が乱暴のあとが見えて、鈴かと見える目は
清しく、胸のあたりに
張はあるが、
落胆り疲れた様子である。けれども、さして心を
傷めた趣のあるにもあらず、
茅花々々
土筆、摘草に
草臥れて、
日南に憩っているものと、
大なる違はない。
自分が
手籠めになろうとしたのを、折よく来かかって
扶けてくれた、旅客に顔を見られたが、直ぐにとこうの口も利かず、鬼に
捉られた使の
白鳩、さすがに翼を
悩めたらしゅう、肩のあたり、胸のあたり、黒髪も打揺らぐは、朝風のさそうにあらず、はずんで
呼吸をつくのであった。
「
此奴等、ほんとうに悪い洒落だ。」
また
呟くがごとくいう。
伝九郎苦り切った
面を上げ、
「でもその全く、へい、洒落に違いはござりやせんので、なあ、おじい。」
「此奴が申し上げる通りでござりやす。」
しり込みするのを
右瞻左瞻、
「むむ、まあしかしお前方、素直にそうやって、折れてくれて、お互に幸だ。
朝とはいっても
全然、こうやって、前後に人通りのない
山路だ、風体の悪い
······おい、悪く聞くな。」
「へへへへへ、どういたしやして。」
と雲おじい、膝に手を置いて突出した、
臀へ
頸を
捻じ向けて、
己が風体をじろりじろり。
「大の男が二人
懸りで、この娘さんを
押伏せようとしているのを見ちゃ、旅空の烏だって、黙って見ては通られないから、私も夢中で飛込んだが。
しかしだ、朝ッぱら口あけ仕事の邪魔をする、畳んでしまえ、とか何とかいって、むきになってかかられてみたが
可い。
別にまた武者修行でも来れば
可し、さもなけりゃ私だって、お前たちにゃ一人にも
敵やしない。
一堪りもなく谷底へ
投られるんだ、なあ、おい、そんなもんじゃないか。」
今度は伝九郎が、
「どういたしやして、へへへへへ。」
「処を、清く、恐入ってくれたというもんだから、双方無事で、私も
大に
技倆を上げたが、いってみりゃ、こりゃ、お前方のお
庇だよ。」
上衣の肩の動くまで快げに打笑い、
「
就てはお前達が、洒落だという、その洒落が、ちとどうにか、ものになる相談をしようと思うが、一体何の洒落かね、こう見た処、どうもまんざら、この娘さんを手籠めにしようとしたようでもないな。」
いわれて雲平、
「旦那、綺麗な姉さんにゃ姉さんでござりやすが、から孫みたようなものを
捉えて、色気で、どうこうというわけじゃなかったんで。へい、実は、少々御法度の、へい、手慰みを遣らかしておりましたんで。」
伝九郎もようよう窮屈そうな腰を
伸した。
「ほんの出来心なんでござりやすよ、この節は、人車鉄道が敷けましたに就いて、こちとら、からッきし仕事といってござりやせん。
ところが
昨日珍らしく、箱根から熱海へ廻ろうという二人、江戸の客人がござりやして、このおじいと棒組で、こうやって二台
曳いて
参りやした。
小田原を
昨日八ツ時分に出ましたんで、熱海へ着いて、対孝館へ送り込みましたが、
昨夜、もう
十二時頃。
五両と三両
纏った、
穀の代を頂いたんで、ここで泊込みの、湯上りで
五合極めた日にゃ、
懐中も
腕車も
空にして、
土地へ帰らなけりゃならねえぞ。どうせ戻り腕車はねえんだで、悪くすると、お客をのせて山
越を、えッちら、おッちら、こちとらが分際で、一晩湯治のような寸法になりそうだ。一番このまんまで
引返せと、へい、おじいも気が合って、そこで、もし。
一膳めし屋で腹を
拵えて、夜通し、旦那、がらがら石ころの上を二台、
曳摺って、
夜一夜山越しに遣って来やしてね。明け方ちょうどここン
処まで参りやすと、それ、旦那。」
と谷の方を
瞰下した、雲おじいも
斉しく
其方を。
旅客はかえって、娘をちょいと見たのである。
「お関所でござりやしょう、里心というんじゃねえんだが、妙てこに昔懐しくなりやしてね。」
「へい、
私等、こう見えて、へへ、何も見得なことはござりやせんが、これで昔の雲助でござりやす。息杖で
背後へ反っくり返るのと、
楫棒を握って前のめりに
屈むんじゃ、から、見た処から役割が違いやさ。
ああ、ああ、ここいら、一面に、
己達の巣だったい。東海道は五十三次、この雲助が居ねえじゃ、絵にも
双六にもなるんじゃねえ。いざ、道中となった日にゃ、お大名でも、飛脚でも、品川から忘れねえのは、富士の山と、お関所と、大井川と雲助かい。
女づれの
遊山旅に、桔梗一本折ればといって、駕籠を
舁いだおじさんに渡りをつけねえじゃならなかったに、名物の
外郎は、
偶にゃ覚えた人があろか、清見寺の欄干から、
韮山の
虹を見たって、雲助を思い出す後生
願は一人もねえ。
ものの三十年と
経たねえ内に、変れば変る世の中だ。どうだ伝九、この、お関所あとを見るにつけ、ぼけた金時じゃあるめえし、箱根山を
背後に
背負って、伊豆の海へ
巌端から、ひょぐるばかりが能じゃあるめえ。ちょうど尾花の
背景もある、
牛頭馬頭で
眼張りながら、昔の
式を遣ってみべいと、」
「おじいが言うのは
私の図星。そこで旦那、共喰の手慰み、
鉄拐博奕を切ッつけやした。なんこから狐になって、はたいた方が愚に返って、とうとうね、蜜柑の種を勘定しながら、地体お星様は丁か半か、とあけ方の天井へ、一服吹かしております処へ、ひょッくり、その姉さんが来たんでね。」
おじい
傍から引取って、
「ええ、旦那、つい
串戯に、
一番驚かしてくれようと、おう、姉や、とそれ、雲助声を出しやしたが、
棲折笠に竹の杖、小袖の上へ浴衣を着て、
緋の
褌にもつれながら、花道を出るのと違って、
方なし、おどかしが利きやせん。
権現様の
出開帳に、お寺の門によたれている、
躄ほどにも思わねえか、平気で、私かいッて
傍へ来るだ。」
「雲助の御威光、こうまでに衰えたか、とあんまり
強腹だから、ちと
凄味に、厭だと
吐かしや、と
押被せて、それから、もし、あの胸にかけていやす、その新しい
苞の中をね、開けて見せろッて申しやした。」
守護のように、ちゃんと斜めにかけているのを、旅客はまたこの時
顧たのである。
と同時に、お鶴も
俯向いて
熟と
視めた。
「旦那、これがその申上げた洒落というんで、実は、おじいの思いつきでござりやしてね。」
「へい、」
「
苞からポンと出た
処勝負、ものは何でも構わねえ、身ぐるみ賭けると、おじいが丁で、
私が半。」
「姉や、こう開けてくんねえ、というと旦那、てんづけ
頭をふるんでさ。べらぼうめ、どこだと思う、場所が場所だに
己達だ。
汝、その、胸を開けて、出来立ての
乳首を見せろ、という難題だって、往生しねえじゃならねえわ。
苞に入れたは何だか知らねえ、血で書いた
起請だって、さらけ出さずに済むものか、と
立身上りで、じりじり寄って行きますとね。」
「旦那、
魅込まれたようにあとびっしゃりをしながら、
厭だ、神さまへお初にお目にかけるもんだから、途中で開けることはならないッて申しやす。
親にも見せねえ
膚だって
了簡をするもんか、一体そン中ア何だッて聞きやすとね。
茄子よ、と
吐かすだろうじゃござりやせんか。
人をつけ、いかに陽気が陽気だって師走空に
茄子があろうか、小馬鹿にしやがる。」
「むっとしやした。そこで旦那が、御覧じやした通りの体裁、や、抜けつ
潜りつ、
こやの軽いのにゃ
飽倦ッちゃって、二人とも大汗になって、トド
打掴え、掛けたのを外しにかかると、
俯向けに倒れながら、まだ
抵抗う気だ。二人が手とその娘の手先と、胸で指相撲のような騒ぎの処へ、旦那が割込んで来なすったんでね。」
「なあ、おじい。」
「そうよ。」
といって
頷いたが、
「大したゆきさつじゃございやせんがね、根がそれ、昔の懐しさに、雲助の
式をやッつけた処でござりやすで、いきなり、
曲者とか、何とかいって、旦那がギックリとおいでなさりゃ。
もうかれこれ三十年
以来というもの、もがりも、ねだりも、
勾引も、
引落も何にもしねえ。戸籍
検べのおまわり様にゃ、
這出してお辞儀をして、名前の
傍に
生年月、日までを書いてある親仁だけれど、この山路に対したって、黙っちゃ
引込まれねえんだ。」
「函根の大地獄が火を噴いて、
蘆の
湖が並木にでもなるようなことがあったら、もう一度、
焚火で
秋刀魚の
乾物を
焚いて、往来へ張った網に、一升徳利をぶら下げようと思わねえこともねえんでね。」
「たかが、
今時のお
前さん。」
「医者だか、学者だか知らねえけれど、畳むに
仔細はねえんだが。
(野暮はよせ、
金子にせい。)」
「(金子だ、金子だ。)ッてのッけから、器用に
拵いておくんなすったで、こりゃ、もし。」
からりと笑って、
「
私等の氏神様だ。」
「へへへへ、南無大明神でいらっしゃる。そこで、ひょこひょこ、それかように、」
トひょいと
頭を下げた、小田原無宿の
太々しさ、昔の
状こそしのばるれ。あら、面白の街道や。
「
危いこと! 姉さん、もうちっとで、
賭博の
賽ころになろうとした。」
旅客は娘に引添うて、横から胸を抱くように、
美い手袋で、白い前掛を払いながら、親身の
妹に語るごとく、
「ほんとうに、危いじゃないか。あんな無法な奴等だから、それこそ、谷底へでも
投り出されてみたが可い、丁も半もあったものか。姉さんのこの星のような綺麗な目が、飛出してしまうだろう。
身体が大事だ、どんな家だって、
財だって、自分にかえられるものはない、分ったか。」
「はい。」
といったが小さな声、男の腕に肩をもたせて
伏目に胸に
差俯向く、お鶴はこの時立っていた。
日の光は、あからさまに根の見ゆる、草の中へ淡くさして、枯れてしげれるむら
薄は、
燈火の影ぞと見ゆる、薄くれないに包まれたが、二人が立って
背にした、山の腹は、暖かく照らされて、そこに実った
黄金の枝は、露に蜜柑の
薫を
籠めて、
馥郁として滴る
気勢。
朝晴の
蒼き大空は、軽いが
頭に近いよう、
彼方にごろごろと音がして、黒きかたまりの緩やかに
畝り畝り、遠ざかり行く、車、雲助、その行くあたりちらちらと、白い雲の動いて見ゆるは、
狭間に漏るる
青海原、沖に
静な
鴎の波。
「さ、もう可い、もう可い。」
旅客は
腕車を見送りながら、お鶴の
塵を払ったあとを、
背一つ撫でて離れ、
「怪我はせんか、どこも痛みはしないかな。」
「はい。」
とやや
判然答えて、お鶴はむッくりした清らかな
肱を、頬に押当てる姿して、倒れた時の土を見た。
その時まで、雲助どもの乱暴を、
打腹立って
拗ねたる
状、この救い
人に対してさえ、我ままに甘えて
曲るか、
捗々しく口も利かずにいたのであった。
肱を曲げたまま、瞳をくるりと、花やかに旅客を見向き、
「どこも何ともないのよ。」
「その手は。」
外套の襟の上に、
凜々しい眉を
顰めていった。
「いいえ、痛みはしませんの。私、だって、私、突倒されたんですもの、
口惜いわ。」
急に唇を
屹と結び、笑くぼを刻みながら涙を
堪えて、キリリと
鳴す
皓歯の音。
旅客は
洋杖を持った手を拡げて、案外、と
瞻ったが、露に濡れたら清めてやろう、と心で支度をする
体に、片手を
衣兜に、
手巾を。
やがて、
曇は晴れたのである。
涙の
名残は瞳の
艶、
莞爾と
打微笑み、
「二人とも強いんですもの、乱暴ッちゃありゃしない。」
「いや、お前の方が乱暴だ。道理こそ、
人殺とも、盗人とも、助けてくれとも泣かないで、争っていたっけが、お前、それじゃ、取組み合う気で
懸ったのか。」
「はあ、喧嘩したんです。私、喰いついてやったり、
引掻いたり、一生懸命だったんです。でも負けたわ。」
と勇ましくいいかけたが、フトそのお転婆を
極りの悪そう、お鶴が
面はゆげに見えたのは、案内記には記さぬ不思議。
わざとたしなめる口ぶりで、
「
当前だな、途方もない。」
「でも、そうしないと、無理に、あの、その
苞を。」
その苞は、ここにこの娘の胸に、天女が掛けた
羯鼓に似ていた。
「捕られて、中を見られるんですもの、あんな奴に見せるのは厭。」
「だから、だから今そういって聞かしたではないか。
どんな大事のものだって、
身体と取っかえこにしてなるものかな。
このさきもある事だよ。」
「はい。」
とばかり不承不承、返事も恩人なればこそ、
承けひく気色はちっともない。
旅客は再び、差寄って、
「よ、ほんとうに気を着けなよ。
今の車夫もそういったが、お前何か、それを持って小田原まで行くんだというではないか。
気にかけないものだというと、
瞽女が
背負った三味線箱、たといお前が
藁づつみの短刀を、
引抱えて
歩行いた処で、誰も目をつけはしないもんだが。
そうやって、人に見せまい、必ず手をつけさすまい、と
秘しているだけ、途中何となく気が寄って、まあ、魔がさすとでもいうものか、思いがけない邪魔が入る。
またこの
前、どんな事で、誰が見ようとしないとも限らない、
||その時だ。
今のように、
身体で
庇って、とんだ怪我でもしちゃ
不可ん、気をつけるんだよ、きつと
[#「きつと」はママ]、
可か、分ったかね。」
熱心に教えながら、お鶴の姿を左から、右へぐるりと一
廻。
その
歩行く方へ瞳を動かし、ぱちり音するかと二ツ三ツ瞬いて聞いていた。
「じゃ、あの、見せろッていいましたら、出しても
可くって?
貴下。」
「可かろうとも。」
「神様に見せない前に。」
と口早に附け加えた。
「神様に。」
「ええ。」
その顔を上げた時、はらりと顔にこぼれかかる、
髪の
[#「髪の」はママ]毛を、指に反らして払い、
「
孔雀みたいな、あの、
翡翠みたいな、綺麗な鳥が来て、種をこぼして行きました。
小田原の神様が、おとっさんに、
拵えろッていったんですって。
ですから、あの、これは神様のものなんでしょう。」
見詰めつついう
気構に、
逆わず
打頷き、
「そうか、神様のものか。むむ、そして、
苞の中は
茄子だといったが、まったくかい。」
「は、お初穂を上げに行くんです。あの、これが小さな、紫色の苗になりましてから、
白髪のおとっさんが、あのね。
死んだおっかさんが着ていました、桃色の
切だの、
浅葱の切だの、いろいろ継合わしたちゃんちゃんこを着ちゃ、背戸へ出て、十国峠へ日が昇るの、大島へ月が入るの、幾度見たか知れないの、丹精して出来たんですもの。
おかしくッてねえ。だって鳥の羽みたいな五色のを
被て、おとっさんは、種を持って来た
神使鳥のようじゃなくッて。
それから今度、おつかいに持って行く、私だって
······何なのよ。
過日ッからお精進をしたんです。今朝は、髪を洗って、あけ方お湯を貰ったんです。
すっかり
身体を清めて来ました。」
さらぬだにこの
風采を、まして、世に、かくまで清き
媛やある。
旅客は
恍惚、引入れらるる
状であった。
「それを、それを、あの、だって、大事にして見るんなら、まだ何ですけれども、
賭博の目に、よもうッていうんですもの。
私、殺されても見せないんだわ。」
しばらくして
面正しゅう。
「もっともだ、至極その
筈だ、成程。
昨日通りがかりに、小田原の鎮守の
社へ、
参詣をして来たが、御城の石垣の白いのが、鶴の
巣籠のように見える。
森として、
神寂びた森の中の、小さな鳥居に
階子をかけて、がさり、かさこそと春の支度だろう。
輪飾を掛けていたっけ。
神主のその顔が、
大な猿のように見えて、
水干烏帽子を着ていたのが、何となく
神々しかった。
誠は神に通ずとやらいうから、大方神様の方でも、姉さん、お前の行くのを待っておいでなさるんだろう。けれどもだ。」
日はまたかげって尾花白く、薄雲空に
靉靆く見ゆる。
「小田原の神に、
霊がおあんなさればなおの事、捧げられる供物、お初穂が、その品物のために、若い娘の身に、
過失のあることをお望みはなさりはせん。
な。」
と再び肩に手を。
「こんな可愛い姉さんにするまでに、第一お前のお
父さんの、丹精を思って御覧
······幾歳だ。」
「六。」と
低声である。
「六? 十六か、それまでにゃ、それこそ、その十国峠に日の出るの、大島に月の沈むのを、幾たび見たか知れやしない。
佳い
児だ、いうことを
肯いて、
身体を大事にしなけりゃ
不可よ。まったくだ、はるばる使に来てくれる姉さんを、小田原のお宮でも、どんなに御心配だか知れやしない。」
背掻い
撫でて、もの優しく、
「分ったか。」
「はい。」
旅客は勇んで口軽に、
「
佳い
娘、佳い娘。」
「じゃ
貴下。」
「むむ。」
「もしか、あの、今度のような事がありましたら、出して見せても
可くってね。」
「可いともさ。」
「なに、それでは貴下のおっしゃることは、神様の心とおんなじなの。」
「
同一だとも!」
お鶴は何かいそいそして、
「だから私が
酷いことされようとした時に、助けに来て下すったんだよ。神様ねえ、神様ですねえ、貴下は。」
と、つかつかと擦り寄ると、思わずたじろいで
退ったが、
「ああ、神様だ。」
いった声に力がこもって、ついた
杖の
尖が
幽にふるえた。娘のための方便ながら、勿体なくや思いけむ。と見ると
瞼に色を染めて、
慌しげにいい直した。
「お前にだけは神様です。」
「ではね、途中でまた誰かに
捉まるとね、今度は私、素直に見せてやりましょう。
それでもね、あの、お宮様へ行かない前に、
他所の人に見せるのは
口惜しいんですから、私、貴下にお目にかけるわ。」
とて、直ぐに手を、胸なる
苞の両端へ。
「お待ち、待て待て。」
急におさえたが、黙って、しばらくして、目の色が定まった。
「見せてくれるか、じゃ、見よう。熱海の公園は咲いたろう、小田原でも
莟を見た、この陽気。年内からもう春だ、夢に見てさえ可いというもの、どれ。」
手巾を引出して、
根笹は浅く霜をのせたが、胸に抱いたら暖かそうに、またふッくりと日の当る、
路傍の石
一個、滑らかな
面を払うて、そのまま、はらりと、
此方へとて。
浅葱の
紐は白い
頸から、ふさふさとある髪を
潜って、
苞は両手に外された。既にその
白魚の指のかかった時、雪なす
衣の胸を通して、曇りなき娘の
乳のあたりに、早や描かれて見えるよう。
「可愛らしくッて、綺麗ですよ。」
薄紫の花一輪、
紅の
珊瑚に、深みどりの、海の色添う小さな枝、実は二ツついたりけり。
旅客も
杖をたてかけて、さしむかいに背を
屈め、石を
掻抱くようにして、手をついて実を
視めたが、
眦を返して近々と我を迎うる
皓歯を見た。あわれ、
茄子、二ツ、その前歯に、
鉄漿を含ませたらばとばかり、たとえん
方なく
長けて、初々しく且つ
媚しい、唇を一目見るより、
衝と外套の襟を落した。美丈夫と
艶なる少女は、ふと飛立つように身を起した。
娘の髪にも旅客の肩にも、石の上なる
貢にも、ひらりと
射したは鳥の影。
仰いで空を、
赫として
何にも見えず、お鶴
耳許、まぶちのあたり、日は
紅に燃ゆるよう。
轟々と音がして、
背後の山の傾斜面を、途端に
此方に来るものあり。
罪を鳴らす鼓か、と男は
慌しく
其方を見た。あらず、人車鉄道の、車輪隠れて、窓さえ陰、ただ、
橙色に
列った勾配のない屋根ばかり、ずるずると
曳いて通る。
それが蜜柑の木の
間。しかも会社が何週年かの祝日にやあたりけむ、かかる山路に、ひらめく旗、二
人の
方にそよそよと
靡いて、天
麗かに祝える趣。
と見る見る頂から下り道、真鶴あたりの
樹立の
梢、目の下の森をさして、列車は
颯と
逆落し、風に
綾ある
紅、白、
蒼、いろいろの小旗の滝津瀬、ひらひらと流るる
状して、青海さして見えなくなる。
娘はそれを見送るように、真うしろに
旧来た
方、男に背を向けてぞ立ちたる。
さて旅客は、手ずから包を
旧のようにして、
静に提げてお鶴の
傍へ。
黙って
背後から、
密とその
頸にはめてやると、
苞は揺れつつ、旧の通りにかかったが、娘は身動きもしなかった。
四辺には
誰も居ない。
と
視むれば、その
浅葱の紐が、丈なる髪を、肩のあたりで仕切ったので、乱れた
手絡とは風情異り、何となく里の女が手拭を掛けたよう、品を損ねて見えたので、男は
可惜しく思ったろう。
手袋の一ツをはずして、手を、娘の、
鬢の下に差入れた。おのずから
得ならぬ
薫、襟脚の玉暖かく、
衝と血の湧いた二の腕に、はらはらと冷くかかった、黒髪の末
艶やかに
飜り、遮るものはなくなった。これにも娘は
熟として、
柔順に身をまかせていたのである。
「じゃあ、気をつけて
行くんだよ。」
「
貴下は熱海へいらっしゃるの。」
「ああ、そうさ。」
「今の人車だと訳はありはしませんのねえ。
歩行いて行っては大変ですわ。」
「お前こそ、女の足で随分じゃないか。」
「いいえ、車なんか危なっかしくッて
不可ません。ずんずん
駈け出して行って来るの、何とも思いはしませんよ。」
「私も実は人車はあやまる。屋根は低いのに揺れると来て、この前頭痛で
懲々したから、今度は
歩行くつもりで、今朝小田原からたって来たが、陽気は暖かだし、
海端の景色は
可し、結句
暢気で可い心持だ。しかし私は片道だが、お前は向うで泊るのかい。」
「あの、おつかいをして、直ぐに今日帰るんです。」
「ざっと行きかえり十四五里、しかもこの
山路を、何だか私は、自分の使いにでも遣るようで、気の毒でならんのだ。」
娘は嬉しそうに
······何にもいわず。
「しかし、神ごとだというんだから、今の雲助とは訳が違って、
金銭ずくでは仕方がない、じゃ、これで別れるよ。」
「
············」
男は再び、深く外套の襟を立てた。
「御苦労だな。」
と
支いたる
洋杖、
踵を返した
霜路の素足、
静に入れ
交って、北と南へ。
「おお。」
心着いて旅客はまた、うなだれて
行く娘を呼んだ。
「ちょいとお待ち、大切なことを忘れた。折角、その珍らしい、めで度いものを見せてくれたに、途中だ、礼の仕ようがない。心ゆかしにこれを上げよう、これでもここらに
散ばった落葉朽葉よりいくらか
増、志は松の葉だ。
さあ、手帳がある、それから鉛筆、これはね、お前の胸にかけたものと、
同一紫の色なんだから。」
渡すを、受ける、
熟と手を、そのまま前垂の胸に入れて、つッと行く白い姿、兎が飛ぶかと
故道へ。
此方は仰ぐ熱海の空、
颯と吹く風に飜って、紺の外套の裾が
煽った。
ケケコッコ
||谺に響く
鶏の声、浦の
苫屋か、峠の茶屋か。
「へい、
夫人、
真平御免下さりまし、へい、
唯今は。」
毛は黒いが額は
禿げ、
面長な、目は
円く、頬の肉は窪んだけれども、
口許に
愛嬌ある、熱海の湯宿伊豆屋の帳場に喜兵衛といって、帳面とともに古い番頭。
と
按摩が御用を聴く形、片手を廊下へ、
密と障子。
中は八畳に寝床を二ツ、くくり枕の
傍には、盆の上に薬の瓶、左の隅に
衣桁があって、ここに博多の男帯、黒
縮緬の女羽織、金茶色の
肩掛など、中にも江戸
褄の二枚小袖、藤色に
裳を
曳いて、
襲ねたままの
脇開を、夜目にも燃ゆる
襦袢の袖、
裙にもちらめく紅梅に、ちらりと白足袋が脱いであり。
そのうしろなる
襖の絵の、富士の
遠望に影を
留めて、
藻脱の主は雪の
膚。
空蝉の身をかえてける、
寝着の
衣紋緩やかに、水色縮緬の
扱帯、座蒲団に褄浅う、火鉢は手許に引寄せたが、寝際に炭も
注がなければ、
尉になって寒そうな、銀の
湯沸の五徳を外れて、
斜に口を傾けたるも旅の宿の
侘しさなり。紫紺の紐は胸にあれども、結ばず、
絣の書生羽織を
被ったように
引かけた。
厚衾二組に、座敷の大抵狭められて、廊下の障子に
押つけた、
一閑張の机の上、抜いた
指環、
黄金時計、懐中ものの
袱紗も見え、体温器、
洋杯の類、メエトルグラス、グラムを刻んだ
秤など、
散々になった中に、しなやかに
肱をついて新聞を読む後姿。
やや傾けたる
丸髷の
飾の中差の、
鼈甲の色たらたらと、打向う、
洋燈の光透通って、
顔の月も映ろうばかり。この
美人は、秋山氏、
蔦子という、同姓
保の令夫人。
芳紀の数とやや
斉しい、二十五番の上客である。しがみ着いて
凭りかかった、机の下で、前褄を合せながら、膝を浮して
此方を見向き、
「番頭さん?」
「へい。」
お辞儀、つい目の前に居られたので、向うへ頭を下げるゆとりがなく、
頤を引込めて手を
支いた。
「さあ、お入んなさい。今日はまたどうしたのか、大変に寒いのね。」
と火鉢の上に、白やかな手を
翳した。
「どうもこの、
日金颪が参りますと、熱海は難でござりまする。まあ、夜分になりましてから
可塩梅に風もちと
凪ぎましてござりますが、朝ッからの吹通しで、そこいらへ針がこぼれましたように、ちくちくいたしますでござります、へい。
つきましてでござりますが、ええ、
夫人、唯今はどうも、とんだお騒がしゅう、さぞまあ
吃驚、お驚き遊ばしましてござりましょう。いや、とんだ事で。」とちと渋面。
令夫人、手を
揉みながら
婀娜に肩を震わして、
「まあ、閉めて
此方へお入りなさい。」
「それでは御免を
蒙りまして、や、こりゃ、お火が
足しのうなりました。」
ぽんぽんぽんと手を
拍つ。早や初夜過ぎの
寂として、
四辺へ響いたが返事がない。
「もう
可ござんす、床を取ってしまったから。何ね、炭を継ごう継ごうと思いながら、つい懐手をすると不精になるんです。急に寒いもんだから恐しくいじけてしまって。」と火箸を取って
品よく微笑む。
「さぞお
身体に障りましょう。時に。」
中腰で
四辺を

し、
「旦那様はお風呂でござりますか、お塩梅はいかがでいらっしゃいます。」
「どうもね、こう寒いと
直に障ってなりません。つい今しがた蒸湯へおいでなさいました。大方今夜は一晩でしょう、
咳が
酷くって、寝られないで困りますよ。」
と、しめやかにいうのであった。
「ですが一番
宜しいそうで、旦那様のような御病体は、是非その、蒸湯に限ると申します。しかし地の下の穴蔵のような処でござりますで、なおの事、
吃驚遊ばしたでござりましょう。何しろ、大地震でござりますから、いや、はや。」
「ほんとうに、騒ぎだったのね。」
夫人は落着いたもののいいよう。
喜兵衛番頭、せき心で口早に、
「だッたの、なんのとおっしゃって、熱海中
引くりかえるような
大事、今にも十国峠が、崩れて来るか、湯の海になるかという、
豪い事でござりました。
貴女様、
夫人は。」
「私はどうもしやしなかったよ。」
「何か早や夢のよう、この世のことか、前世のことか、それとも
小児の時のことでござりましょうか。
先刻の今が、まるで五十年昔あった、火事か
大洪水、それとも乱国、戦国時分かと思われますような、
厭な、変な、
凄いような、そうかと申すと、おかしいような、不思議なような、さればといって、また現在目の前にちらついておりますような、妙な心持でござりまして、いや、もう、この大地震は忘れましても、道具の、出たり
引込んだり一件は、
向後いくつになりましても、決して忘れますことではござりません、と申しあげます内も、ぞッといたしまして、どうもこの、」
床の間のあたりが陰気に暗い。
喜番、
据腰に手を突き出し、真顔に天井を仰ぎながら、
「魔のせいでござりましょう、とな、
皆が、内々申合っております次第で、へい。
そこで
夫人。
かねてお聞及びの、あの、崖の総六と申します
親仁が
許の不思議な一条。」
これは聞えていたと見え、
「ああ、あの、お
茄子の事ですか。」
「その儀、その儀にござりますが、へい、何か
見馴れません綺麗な鳥が、種をこぼして行ったと申して、熱海中の
吉瑞、
神業じゃと、
皆が、大抵めでたがりました事でござりますが、さてこうなってみますると、それが早や魔の
業で、種を
啣えて来ましたのは、定めし
怪鳥、
鵺じゃろうかに手前どもが存じまする。
一体当地にこの春大地震があると、口を合わせましたようにいい出しましたのも、根はその総六が
許の
茄子から起りました事。
何しろ、暮の内から御覧の通り、師走の
二十日前後に、公園の梅が七分咲きで、日中綿入を
襲ねますと、ちと汗が出ますくらいでござりました。
それも当熱海の事でござりますから、さまで不思議とも存じません。
畢竟は冬向暖いのを取柄に、湯治にいらっしゃりますわけで、土地の自慢とも存じたでござります。
その内に崖の総六が背戸の畑に、茄子が生えたと申すので、はじめは誰もほんとうにはいたしませなんだが、立派に紫の花が咲いて、
霜除に丹精した、御堂のような
藁束の中に、早や小指ほどなが一体。
茄子殿を一体も、異なものでござりますけれど、親仁が
神事じゃと申すので、位がつきまして、その、一体お
生りなされた、などと見て来たものが申しますで、余り陽気違いじゃが。
一富士二鷹三茄子と申す儀もあり、むかし聖人の
代には冬向き出来たものであろう、めでたい、と申す内に、御初穂を取りまして、お鶴ってその親仁の娘が。
はあ、はあ、旦那様も
夫人も御存じ。あの鳩のような
美い目をした、さよう。手前などへも、手の
入ります時は、ちょいちょいお給仕の手伝いに参りますが、腕白でな。
その癖、熱海一という
別嬪でござりますが、から
野鳥でござりまして、よく御存じでいらっしゃらないで、悪く
御串戯をなさるお客様は、
目潰しの羽ばたきをされてお怒りなさります。またよく御承知の方は恐ろしく
御贔屓で、あの娘の
渾名が通りました、千鳥の一曲、所望じゃなどとおっしゃりまする。
それが、使ではるばる小田原の総鎮守、城の森のお宮まで、暮に持って行ったでござります。十四五里日帰りにいたしまして、へい、何、そのくらいの事は、あの娘にゃわけなしで、手前どもが朝飯を頂きます時分、もう真鶴を越して、お関所にかかりましたという話。
これは帰ってから手前どもへ参った時、ききましたのでござりますが。ええ、首尾よくお宮へ献納いたして、
一、この度、何々して奇特の段神妙候、藤原の
何某、びたりと判の据わった大奉書を
戴いて、崖へ戻りますと、それから、皆様へお目にかけますというので、娘がいつも世話になります、湯宿々々の主人の
許へ、一ツずつ九軒ばかり、ずらりと配りましたのでござります。」
ここで番頭苦笑一番。
「どこの主人も
慾張っておりますから、大層縁起がって、つるりと
鵜呑。地震の卵と知れてからは、何とも申されぬ心持。」
「中には
諺にも申します、一口
茄子に
食てやるは
可惜もの、勿体ないと、神棚へ上げて
燈明の燈心を
殖しまして、ほほう、茄子ほどな
丁子が立った、と大層縁起がっていたのもありまするそうでござりますが、さあ、それが大地震の前兆だとなると、不気味千万。
取棄てようにも、下そうにも、揺れ出しそうで手がつけられませず。そうかといって、そのままにしておけば、それなりに転げ落ちて、そこから大地が
破れるだろうと、愚にもつきませんが気が寄って取越苦労、昇天する
蛇玉でも
祭籠めたように、寝る間も気扱いをしましたそうで。
手前主人などは、その鵜呑みの方でござりましたから、腹の中をくるくる廻って、時々
咽喉へつかえると、
癪持同然。そのたんびに目を白ッ黒いたして悩みましてござりまする。」
「いかなこッても、ほほほほ。」
「へい、いえ、それでも貴女様、
何しろこの騒ぎをいたそうという前兆でござりまするから、
風説をほんとうにしましたぐらいは、何でもござりません。
そうかと思う、
兆を見せて下すった、天道様の
思召じゃ、まんざら、熱海を海になすって、八兵衛
鯛、理右衛門
鰈、鉄蔵
鰒、正助
章魚なんぞに、こちとらを遊ばそうというわけでもあるまい。
してみれば、この茄子は、災難よけのお
守護だ、と細かに刻んで、
家中持っておりました
処もござります。
それがと申すと、はじめは
瑞祥だと申しましたのを、娘が奉納して帰りました時分から、誰いうとなく、この春は大地震がある、大地震があるといい出しまして、手前なんざ、一日に五六たび、違った人の口から聞きましたのがはじまりでございまして。
ええ、最初、やはりあの竹でござりました。番頭さん、この頃に大地震がありますッてね、と帳場へ来て申しますから、何を馬鹿な、と気にも留めませんで、それから二階の六番へ。
ちょうどこの上のお座敷でござります、そこへ機嫌ききに参りますると、六十五になる
御法体の隠居様。番頭どのや、厭な
風説があるの、今湯殿で聞いて来ました。三人が五人、
皆大地震があるといっておられたが、とこうでござりましょう。
へい、いいえ、一向に存じません、さようなことが、と申したものの、ちと変な気になって、下へ下りますと、
暖簾から、内のおかみさんが半分からだを出していなすって、喜兵衛や、湯の熱さにかわりはないかい、大地震があるというから、と屈託そう、ちと血の道
気な処、青ざめておいでなさる。
そこへ勝手口から、魚を仕入れて来た金公と申します板前が、大変な
風説です、地震の前で海があおっと見えまして、この
不漁なこと御覧じやし、
蠣、
鮑、鳥貝、
栄螺、貝ばかりだ、と大
呼吸をついております。
私は
肥満っているから
遁げられぬ、と
鍋釜の前で貧乏ゆすり。
処へ、毎朝海岸まで、お
太陽さまを拝みに行きます、旦那が、出入りの賀の市という
按摩と、連立って帰りました。
門口で分れる時、お互だ、しかし、かえってお前のような
不具が無事に助かるもんだ、とこういって台所へ。
喜兵衛出て見ろ、何と妙な日の色だぜ。
さあ、こうなると、がッがあッと、昼夜に三度ずつ、峠の上まで湯気が渦まいて上ります、総湯の沸きます音が
物凄うなりましたわ。
気のせいか、熱湯を引いてあります土間を踏むと、足の裏が焦げますようなり、魚見岬へ水柱が立ったといえば、誰が乗るともなく、船がずんずん
漕ぎ出して行く、影法師が見えるといいます。
土地の人気にかかわるからと、なりたけはお客様に、かくしておくにゃおきましたものの、七草が過ぎます時分から、もう、ちらほら、そのために、たってお帰りになりますのが、手前どもばかりじゃござりません、あちらに二組、
······こっちに三組。」
「またそうまでにはなさらぬお方も、いざ、という時の御用心に、手廻りのものなんざ、
御寝なります時、
枕許へお引きつけ遊ばしてお置きになります始末。
そうでもござりましょうか、
||先刻の騒動の最中、この家ならびで二軒さきの玉喜屋の表二階で、仁王立になって、ばらばら、ばらばら、大道へ品物を投げ出していた方がござりますそうな。
へい。」といったまま、きょとん。
「だって、地震だって、恐しい騒ぎだけれど、ちっとも揺れもどうもしないんだもの。」
喜番、
呼吸をつめて、ややあって、
「
成程。」
といい、
「でござりますな、そこでござりますな、いかにも揺れはいたしません。また根もない地震に、大地が揺れたり、三階建がぐらついたりしては
堪ったものじゃござりません。
けれども
夫人、貴女様は、ちゃんとここへ、魂が落着いておいでなさりますからで。
どうして手前なぞは、そりゃ地震、と聞いたが最後。
先刻、あの
騒の時は、帳場に坐っておりましたが、
驚破というと、ただかっといたして、もうそれが、
地の底だか、天上だか分りません。
天窓がぐらぐらとすると、目がくらんでしまいまして、揺れるか、揺れんか、考えておりますようなゆとりはないのでござります。
主人は
真先に、
戸外へ、鉄砲玉のように飛出しました。おかみさんも、
刎起きて、
突立ったにゃ突立ちましたが、腰がふらついて
歩行けませんので、大黒柱につかまって、おしッこをするように震えています。手前は、その、
······四這いに這いました。
座敷々々のお客人も
一時に
湧きましてな、一人として
静となすっていらっしゃったお方はないので、手前どもにゃ
僥倖と、怪我をなすった方もござりませんが。
それでも竹、へい、あの
粋がった
年増の女中でござります。あれは貴女、二階の
七番からお
膳を下げまして、ちょうど
表階子の
下口へかかりました処で、ソレ地震でござりましょう。ドンと腰を抜きました拍子に、トントントントンと、一段ずつ俵が転がったように落ちたでござります。どういう拍子か、背中を強く
擦剥きまして、
灸のあとから走るように血が流れたんで、二ツに裂けたという騒動、もっともひきつけてしまいました、へい、何、別条はござりません。
落胆して、お
腹が
空いたと申して、勝手でお茶漬を
掻込んでおるでござりますが、な。
機会と申すは希代なもので、竹がその腰をつきます時に、
投りましたお膳でございますが、窓からぽんと物干の上へ飛び出しまして、何と、小皿も
箸も、お茶碗なんざ
蓋をいたしましたままで、お月様へ供えまする
体、や、どうも。」
「まあ。」
「あとで大笑いいたしたことでござります。まず手前どもでは珍事がその位で済みましてございますが、お向うの伊東屋なぞでは、貴女、御夫婦抱き合って、二階から
戸外へお飛びなすって、大怪我をなさいました方がござります。
何しろ、一時は人の波が沸きましたように、
上下へ
覆しまして、どどどど廊下を
駈けます音、がたびし戸障子の外れる
響、中には泣くやら、
喚くやら、ひどいのはその
顛倒で、
洋燈を
引くらかえして、
小火になりかけた家もござりますなり。
一体何屋の二階から騒ぎ出したとも、どこの内証から、喚きはじめたとも分りません。
一騒ぎ鎮まりましてから、門口では隣ずから、内では部屋々々の御見舞。仲間うち、土地のもの、お客様方に伺いましても、そら、地震だと、
轟となったのが、ちょうど九時半、ちとすぎ、かれこれ十時とも申しまして、この山の
取着きから海岸まで、五百に近い家が、不思議に
同一時刻。
まあまあ、かねて大地震がある、大地震があると申しておりましたので、どこか一軒、神棚から
御神酒徳利でも落ちましたのを、慌てて地震と申したのが、家から家へ、ものの五分間ともたちませぬ内に、熱海中、鳴り渡りました儀かとも存じまするが。」
「そういたしますると、東の
詰で、山に近い対孝館あたりが、右の徳利一件で、地震の源かとも思われまする。
殊にそれ、湯の
噴出します
巌穴が
直き横手にござりますんで、ガタリといえば、ワッと申す、
同一気の
迷なら、
真先がけの道理なのでござりますが、様子を承りますと、何、あすこじゃまた、北隣の大島楼が、さきへ騒いだとか申します。
それじゃ
起因は海の方、なるほど始終、浪が小石を
打ッつけます、特別その音でも聞違えて、それで慌てたかとも存じられますが、またそれにいたしますと、北のはずれの
菱屋では、南隣がさきへ鳴り立ったと申しますな。東も、西も、その
通。何でも申合わせたように、影も形もない大地震が、ぐるぐる渦を巻いて、熱海を
揉みましたので、通り魔のせいでもござりましょうか。
何でもこの騒ぎがなくッちゃ
治りません、因縁事とも相見えまして、町をはなれました、寺も、宮も。鎮守の神主殿は、あの境内の
大樟へかじりついたと申しますなり、妙蓮寺の和尚様は、裏の
竹藪へ
遁込みましたと申します。
あの方たちさえ、その驚き
工合、
御覧じまし、我等風情が、
生命の瀬戸際と
狼狙えましたも、無理ではなかろうかように考えまする、へい。」
「そうですね、あんまり物音が
烈いから、私はまた火事ででもあるのか知らんと思ったよ。」
「ええええ、火事と申せば
洪水のようでもござりまして。中にも
稀有な事でござりましたのは、貴女、万歳楽万歳楽と、屋根にも物干にも物凄う聞えます内、
戸外通りはどうした訳か。
ずらりと、道具衣服の類。
革鞄もござりますれば、貴女、
煙草盆、枕、こりゃ慌てて抱えて出たものがあると見えます。
葛籠、風呂敷包、申上げます迄もござりません。それから夜具、かねて心得た人があると見えまして、
天窓へ
被って、地震の時はと、
瓦の用心でござりましょう。
扱帯がずるずると
曳摺っていたり、羽織がふうわり
廂へかかっておりますな、下駄、
蝙蝠傘、
提灯、
正しく手前方の前なんぞは、何がどう間違ったものでござりますか、
大な洗濯
盥が転がっておりましたわ。
何の事はござりません。右の品々が、山から突抜けに海岸まで、大通りへ、ちりちりばらばら。裏道小町はさもなかったそうでござりますが、
通一筋道は、まるで、諸道具、衣類、調度が押流されました
体裁、足の踏所もござりませなんだ。
こりゃ現に、手前、軒下へ出て見ましたが、降ったか、
湧いたか、流れて来たか、何のことはござりません、
皆翼が生えて飛んで来て、空から
雁が下りたと申す
形体。
唯今は凄いほど、星がきらついて参りましたが、先刻、その時分は、どんよりして、まるで四月なかばの
朧月夜見たような空合、
各自に血が上っておりましたせいか、今日の寒さに、
皆汗を
掻いたでござります。
あとが
哄と笑いになって、陽気に片附けば、まだしもでござりますに、
喚いたものより、転んだもの、転んだものより、落ちたもの、落ちたものよりゃ、また
飛だもの、手まわり持参で駈出したわ、夜具をかぶって
遁げ出したわ、怪我をしたわ、と罪の重いものほど、あんまりその
智慧の無さ、
斬られた夢を見て目をまわしたような外聞でござりますから、誰一
人、
己が騒いだというものはござりません、その二階から飛んだといった、御夫婦のような大怪我は格別。
大概の打傷、擦傷、筋を違えなどは、内分にして、
膏薬も
焼酎も夜があけてから
隠密という
了簡。
ありようは手前なども、少々手負。が、
遁傷でござりまして、女中どもの前もいかが、へい、知らん顔で居りまするようなわけ。
でござりまするから、往来ちりぢりの衣類諸道具、いつの間にやら、半時も
経ちませぬ内に、綺麗に掃いたように無くなりました。誰が取り入れたということもござりませんで。
余りさっぱり。
最初その車に積んだら、大八にざっと四五十台とも覚えましたのが、地震が鎮まりますと
忽然で、盆踊りのあとじゃござりませんから、鼻紙一枚落ちちゃいず、お祭のあとでござりませんから、竹の皮
一片見えなくなってしまったでござりますわ。」
「これ等はごく御用心の
宜い方で。なるほど、揺れません地震でござりましたもの、いくらでも荷は出せますが、しかしその荷物を
投り出していた方が、白い浴衣を着た、見上げるような大入道だったと、申して、例のどんよりした
薄明じゃござりますし、ちょうどその時分、どこからともなく
衣類や
鞄などが降った最中、それを見たものが、魔ものじゃと申します。
また
同一時刻に、降って来る荷物の中、落ちて来る衣類の中を、掻い
潜り掻い潜り、
溜った上を飛び越え飛び越え、浪に乗って行くように、ずッと山の手から、海ッぷちまでを、みだれ髪で、
丈の
小造な、十五六とも見える、女が一人、蝶鳥なんどのように、路を千鳥がけに、しばらく
刎ね廻っておりましたが、ただもう
四辺は陰に
籠って、
烈い物音がきこえますほど、かえって
寂として、駈出したものも軒下に
突伏したり、往来に転んだきりだったり。
通ったはその小娘ばかりで、やがて床屋から
小火が出て、わッという紛れにそれなりけり。
どこへ消えましたやら、見えなくなったと申しますが、いずれな
······魔がな。
何でも熱海を
掻攪して、
一時お遊びになりましたものと見えます。
とその
茄子でござりますで。」
「ああ、それが、」
番頭は
一呼吸つき、
「それが、
根元と申しますのは、地体この地震の
風説は、師走
以来の陽気から起ったのでござりましょう。それとても年内に梅が咲きますくらいは何とも気にはなりませんが、ただ、茄子が
生ったのは、前代未聞じゃ、と申して、それからの事で。
特に、小田原へ使いに参った娘から聞きますと、それをまた、宮で受け取った
神官と申すのが、容易なりません風体。
森々と樹の茂った、お城の森の奥深く、貴女様、高く上りますのでござりますが、またこの石段がこわれごわれで、角の欠けた
工合、
苔の蒸しました
塩梅、まるで、松の
鱗が、蛇の幹を
攀じますようで、上に
御堂、これも大破。
お鶴が石壇にかかりますと、もう
遥か奥に、鏡が一面、きらきらと
蒼い月のように光ります前に、
白丁を着た姿が見えたといいます。
境内は
常磐樹のしとりで水を打ったかと思うばかり、
塵一っ
葉もなしに、
神寂びまして、土の香がプンとする、階段の
許まで参りますと、向うでは、待っていたという形。
希代ではござりませんか。
神職は留守じゃが、身が預る、と申したのが、ぼやっと、
法螺の貝を吹きますような、籠った
音声。鼻から
頤まで、馬づらにだぶだぶした、口の長い、顔の大きな、
脊は四尺にも足りぬ小さな
神官でござりましたそうな。ええ、
夫人。」と陰気になる。
夫人は寂しい顔して、袖を掻合わせて、しばらくして、
「まあ、厭ねえ。」
「でその、廊下から
屈んで乗り出し、下から
跪いて出しました娘の
貢物を受け取つて
[#「受け取つて」はママ]、高く頂き、よたりと
背後むきになりますると、腰を振ってひょこひょこと、棟から
操の糸で釣るされたような足取りで、
煤けた板戸の
罅破れた
形の口へ消えますと、やがて、お三方を据えて、またよたよたと持って出ましたのが、
前申上げました、大奉書で。
件の(神妙候)は、濃い墨で、立派に書いてござりますそうなが、(藤原
何某、)と名
書の下へ、押しました判というのが、これが大変。」
「書き判を、こうの、こうの、こうこう、こう! でもござりませんければ、朱肉を
真四角、べたりでもござりません。薄墨でな、ひょろりと
掌を一ツ
圧しました、これが人間でござりません。
およそ
嬰児の今開けました掌ぐらい、その
痩せましたこと、からびた
木の葉で、
塗りつけました形、まるで鳥で。
そうかと思いますとまた、墨の
染んだあとが、さもさも
獣の毛で、
猿そっくり。
見たものの話でござりますが、これを一目の時、震え上って、すぐに地震、と
転倒いたしましたそうで、ここで誰も大地震の
前触を、
虚言とは思いませんようになりました。
処を日増の暖気で、その心持の悪い事と申したら、今日にも、明日にも、今にもと、帯を解いて寝るものはなかったのでござりまする。
すると、今朝ッからのこの寒気。峠の霜は針の山、熱海はたちまち八寒地獄、日金がおろして来ましたので、烈しい陽気の変りよう、今日が危い、とまた誰いうとなく、湯殿の話、辻の
風説、会うものごとに申し伝えて、時計の針が一つ一つ
生命を削りますようで、皆、
下衣の襟を開けるほど、胸が苦しゅうござりましたわ。
その癖朝の内から
蒼い
玻璃見たような晴天で、
昨日も
一昨日も、総六が崖の上から、十国峠の上に三日続けて見ましたという、つくね芋の形をした重い雲が影もないので、せめてもの心やりにしました処、暮六ツ前から、どんよりいたしましたのが、日が暮れると、あの
朧、
風が
小留んだと思いますと、また少し寒さが戻りまして、変に暖くなる、と気のせいでござりましょうか。厭にあかりが薄暗くなったでござります。
滅入って息が
詰りそうで、ぼんやり、手前などは、畳を見詰めておりました。
その畳の目が貴女様。
むくむくと持上って、
※[#「火+發」、U+243CB、528-18]と消えて、下の
根太板が、
凸凹になったと思うと、きゃッという声がして、がらがら
轟、ぐわッと、早や、耳が
潰れて、
四ン
這いの例の一件。
いや、何とも早や異変なことで。」
調子づいて語り果てた、番頭ふと心着いて、
「へへへへへ。」
何ともつかず笑ったが、大分夜が更けたという
顔色。
「しかし、何事もなくッて
可い
塩梅だったのね。」
夫人は、さして退屈らしくも見えなかった。
「へいへい、お
庇さまで、まずこれで、今夜から枕を高う
寐られまする。へい、ざっと
事済。
こうまた気が揃ったように大地震々々と申しましては、何事かございませんでは、無事に果てますものではないでござります。
ははははは。」
機会もなしにまた笑い、
「まあ、まあ、御安心を遊ばして
御寝なりまし、と申しました処で、
夫人は何も手前どものように、ちっともお驚きなりませんのでござりますから、別に。」
といって、照れ坊主、
禿げた処をまっすぐに指で
圧え、
「ええ、ついその一月ばかりの屈託が抜けました嬉しさで、貴女様はお
馴染の余り、とんだ長話をいたしました。
慌てもの、臆病もの、大寄合のお
伽話。夜分
御徒然の折から、お笑い草にもあいなりますれば、手前とんだその大手柄でござりまする。」
「いえ、まさかとは思っても、こないだ中のような
風説を聞くと、好い心持はしませんよ、私も気になっていたんです。」
火箸に手を
載せ、
艶麗に
打微笑み、
「おめでとう。」
「へいッ。」
と手をつき、
「おめでとう存じまする。」
「ですが地震はただ
可い加減な、当推量じゃあったでしょうが、何なの、崖の総六の娘さんとかが、小田原へ
貢物を持って行って、
怪い神主に、受取を貰って来た、判に
獣のような手のあとが押してあったというのはほんとう?」
喜番この時立ち構えで、腰を廊下へ
退きながら、
「ええも、それは貴女様、ほんとうの事でござりますとも。」
「
真暗な森の中の破れたお堂に、神主は留守だといって、その鼻と口と一所にだぶだぶと突出した大顔の、小さな人
······何だか気味が悪いことね。」
と座敷の三ツの隅を見たら、もっとも座にした片隅だけは、
洋燈を置いて明るかった。
「全く変でござりますよ。」
「内じゃお客様が多いから、離れた処で、
二室借りておくけれど、こんな時はお隣が
空室だと
寂いのね。ほほほほほ、」
但し自からその
怪みを消して笑ったので。
軽からぬ肺病のため、しばらく休養をしているけれども、正に蒸風呂に
籠れり、とあった、秋山氏は、名高き
······県の警部長である。
良人の職掌に対しても、であるけれども、病ゆえには心弱く、夫人は毎夜、更けて
静な湯殿の廊下を、人知れずお百度というもの踏む。
折から身に染む物語。
「大方何ね、その娘に、魔がさしたとでもいうんだろうね。」
「御意、御意にござりまして、へい、娘とは申しません、一体崖の
親仁の
許に魔が
魅しましたのでござりましょう、その相伴をいたしました熱海中がかくの騒動。
彼家も無事なれば
宜しゅうござりますが、
妙齢の娘、ちと器量が
好過ぎますので、心配なものでござります。
などと申しますと、手前岡焼でもいたしますようで、ははははは。」
老功に笑って
退け、
仰向いて障子を
窃と。
「まず、おしずまりなされまし、お座敷へも、とんだお邪魔がさしました。」
しかり、魔か、鬼か、崖の総六が小屋に、魅入ったのは事実であった。
翌日になって一切明白。当時関八州を
横行して、変幻出没、
渚の網に
陽炎の
影も
留めず、名のみ
御曹子万綱と、音に聞えた大盗あり。
鐘も響かぬ
山家にさえ、
寝覚に
跫音轟いたが、
哄と伊豆の国を襲ったので、熱海における大地震は、すなわち
渠等が予言の計略。
文武官、農、工、商、思い思いに姿を変じた、御曹子が配下の賊徒、八面に手分をなし、湯宿々々に
埋伏して、
妖鬼家ごとを圧したが、日金颪に気候の激変、時こそ来たれと
万弩一発、
驚破! 鎌倉の声とともに、十方から呼吸を合はせ
[#「合はせ」はママ]、七転八倒の
騒に紛れて、妻子珍宝
掴次第。
就中、風呂敷にも
袂にも懐にも盗みあまって、
手当次第に家々から、
夥間が大道へ投散らした、
霰のごとき衣類調度は、ひた流しにずるずると、山から海へ掃き出して、ここにあらかじめ
纜った船に、
堆く積み上げた。
宝の山を暗まぎれ、
首領の隠家に泳がそうと、
※[#「さんずい+散」、U+6F75、532-17]のかかる
巌陰に
艪づかを掴んで、
白髪を乱して控えたのは、崖の小屋の総六で、これが明方
名告って出た。
ただ、万綱はじめ、手下の
誰彼幾十人、一人として影を見せず、あとは
通魔の
鳴を鎮めて、日金颪の
凪ぎたるよう。
さればこそ土地のものは、総六に魔が
魅したといった。正直の通った親仁は、やがて、ただ通りがかりの旅の客に、船を一
艘頼まれたとばかり、情を解せざる故をもて、程なく
囚を
免された。
と前後して、崖の小屋に一個の人物。
年紀の頃三十四五の客が出来た。その人、眉秀で、鼻
隆く、
白皙俊秀にして
盲いたり。長唄を歌って美音、尺八を吹き、琴を弾じ、古今の物語をよくして、弁舌
爽かに、世話講談の座敷が勤まる。
就中琵琶に
堪能で、娘に手をひかれながら、宿屋々々に請ぜられて、
安かに、
親娘を過ごすようになった。
ここで諸人横手を
拍って、曰く、はるばる小田原の鎮守に貢した、神妙候奇特につき、総六の
産神が下したもうた婿であると。この何者かは誰にも分らぬ。
単これを知るものは、秋山警部長の夫人蔦子であった。
番頭が
辷り出て、廊下に
跫音の消えたあと、夫人はかねて、しかなさんと期したるごとく、すらりと立った
衣の音、障子に手をかけ、まず、紙を隔てて、桟に

たけた眉を載せた。
やがて、細目に
密とあけると、左は喜兵衛の伝った
方、右は
空室で
燈影もない。そこから
角に折れ曲って、向うへ渡る長廊下。両方壁の
突当は、
梯子壇の上口、新しい
欄干が見えて、
仄に
明がついている。
此方に水に光を帯びた冷い影の映るのは一面の姿見で、向い合って、流しがある。
手桶を、ぼた
||ぼた
||雫の音。
寂として、谷の
筧の趣あり。雲
山岫に
湧くごとく、白気
件の欄干を籠めて、薄くむらむらと
靉靆くのは、そこから下りる地の底なる蒸風呂の、
煉瓦を漏れ
出る湯気である。

して、音なく閉め、一足運びざまに身を
反した、
燈火を背にすると、影になって暗さがました、塗枕の置かれたる、その身の
閨のふちを伝うて、
膨らかな夜具の
裳、羽織の袖が畳に落ちると、片膝を軽くついた。
手を上に載せて、斜めに
差覗くようにして、
「お出な。」
むッくり下から掻い上げ、押出すようにするりと半身、夜具の
紅裏牡丹花の、咲乱れたる
花片に、
裙を包んだ
美女あり。
いかなる
状にや結いにけむ、
手絡の
切も、結んだるあとの
縺もありながら、黒髪はらりと肩に乱れて、狂える獅子の
鬣した、
俯伏なのが起返る。顔には桃の露を帯び、眉に柳の
雫をかけて、しっとりと汗ばんだが、その時ずッと座を開けて、再び
燈を
蔽うて
住った、夫人を見つつ
恍惚と、目を
円らかに
瞻った、胸にぶらりと手帳の
括に、鉛筆の色の紫を、太白の糸で結んで、時計のように掛けたのは、総六の娘お鶴。
「よく、お前、
呼吸を殺していられてね、苦しいだろう、湯か、お
水でも上げようかい。」
膝さし寄せてひそめきいう。
「いいえ、私、沢山、水を飲みました。」
振仰向いて手をついたり。
「お
水を?」
「あの、お床の中で、」
「床の中で?」
「はい、私、海の中で、
水潜りをしますように、一生懸命に、
呼吸をしないでいたんです。
でもしばらくですもの。
もう堪え切れなくッて、
沢山水を飲みました。私、泳げますようになってから、潜っていて、水を飲みましたのは、これでたった二度なんです。ですから、あの、水を飲みましたからこんなですよ。」
とわなわなふるえが
留まらず、髪も
揺いであはれで
[#「あはれで」はママ]あった。
「可哀相ねえ、よく辛抱をおしだった。
でもね、そうしないと、今時分、思いがけない処にお前が居るんだもの、
直に気がつかれて、
怪まれないじゃ済みません。
それにね、何、お鶴さん。」
夫人は一際声を
密め、
「ここの内の番頭がね、ああ見えて、
内証で警察の御用なんか聞くんだから。」
「それが
談話に来たんだもの、私はもうてっきり。お前さんたちのした事が分って、この宿でも紛失ものが知れたから、旦那に相談にでも来た事と思って、何か聞いている内も、はらはらして気が気じゃなかったの。
もう方々でも鎮まって、かれこれ
盗られたものの気の附く時分なんだけれど、騒ぎがあんまり
酷かったから、まだ
皆心が落着かないでいるんだよ。
もう今に知れます。そうすると、
直にまた番頭が遣って来ます、何だか、私は、お前が何だか。」
とみこうみたる目の優しさ。
「可哀相でならないから、
委しく、いろんな話を聞いてみたいけれど、そんな、悠長な間はないんだもの。そうでもない、旦那が蒸湯から、帰っていらっしゃらないとも限りませんから、また逢える事もありましょう。さあ、今の
中。
おお、そうして何かい、その手帳と、鉛筆なの。その人が
呉れたというのは、」
「ええ。」
両手を
支いたまま、がッくりと
頷くと、糸を引いて、ばたりと畳へ、
衾にかくれて取乱した、
衣紋をこぼれてはらりと開く。
これ見てといわぬばかり、
「奥様。」
と
悄れていう。
何心なく取ろうとして、思わず
背後へ手を
退いた。
「まあ、気味の悪いこと。」
お鶴は
屹と顔を上げて、
清い瞳に
怨を籠め、
「ちっとも、あの汚いことはありません、私、いつもこの胸の処に持っております。」と
判然いうのと顔を合わせた。
あわれ、何しに
御身の
膚に
汚るべき。夫人はただかつてそれが、
兇賊の持物であったことを知って、ために不気味に思ったのである。
しばらく
熟と見守ったが、
「ああ、悪かった、雲はかかっても晴れれば月、私のいったのはそうではない。考えれば、旦那の御病気、肺病はうつるもの、うつるといってそれを
厭って、一度お持ちなすったものを、人がもし嫌ったら、私の心はどんなだろう。
たとえ
騙賊でも、
盗賊でも、お前に取っては大事な御主人。
私が悪うござんした。」
としみじみいって、
燈を
躱うた
身体を
傍へずらしながら、その一ペエジを
差覗いて、
「おや。」
「
············」
「紫の鉛筆で、私の座敷の目星いものを取っておいで、と書いたわねえ。」
「あの、その人は、この
家の二階に泊っていたんです。」
「そうだってね。」
「そしてどこよりか、念にかけていたんですって。でも
貴女が、ちっともお騒ぎなさいませんから、
此室で仕事が出来なくッて、それで、あの
尋常の方なら可いけれど、恐いお役人様なんで、手が出せなかったようで
口惜いからッて、これを私に書きましたの。」
「そのために来たのかい。まあ、」
と今更見詰めながら、
「何と思って、ええ、厭だっていわれなかったかい。」
「
············あの、あの方がいったんですから。家来は大勢居ましたけれど、誰も手出しが出来ないんですって。」
「そうねえ。」
あの方だから、というものを、夫人は諭すべき
言もなく、
「大勢居て?」
「はい、十四五人。」
「何、そうして魚見岬の下だって。」
「あの、
大な
巌だの、
小な巌だの、すくすくして、浪の打ちます処に、黒くなって、
皆、あの、目を光らかして、五百羅漢みたように、腰かけているんです。」
「じゃ、お前が、あの方という人はえ?」
「あの方は、一番高い
尖がった巌の上に、
真暗な中に、黒い
外套にくるまって、足を投げ出して、
皆の取って来たものを
指環だの、
黄金時計だの、お
金子だの、一人々々、数をいいますのを、黙って聞いておりました。」
かえって夫人がさしうつむいた、顔を見るだに
哀さに、
傍へそらす目の
遣場、
件の手帳を読むともなく、はらはらと四五枚かえして、
「星があっても暗かったろう。」
「遠くの沖で時々浪が光ります、あのこの鉛筆のような紫色に。
その
他は、
闇だったんです。」
「でも、よく手帳へ書けたのね。」
「
蒼い色に燃えますマッチを
摺るんです。そうすると、
明くなって、
巌に
附着いた、
皆の形が、顔も
衣服も蒼黒くなって、あの、
大な
鮪が、巌に附着いておりますようで、
打着ります浪の
※[#「さんずい+散」、U+6F75、540-5]が白くかかって見えました。
前刻、奥様がお座敷にいらっしゃらない処へ入って、私、よっぽど
盗ったんです。そうして
洋燈を吹消して出ようとして見ますと、あの向うの蒸風呂の壇を上っておいでなすって、どこへも
遁げられませんから、洋燈を消して、壁に附着いて
屈んだんです。
でも、ずんずんいらっしゃって、座敷へ入りそうになりましたから、私、蒼い灯をつけて
威したでしょう。
え、え。
でも、恐がらないで、おや、お前かいッておっしゃいました。
あの時摺ったマッチですわ。
私、ここに持っております。」
と、帯の間に手を入れる。
「可いよ。可いよ、見なくっても大事ないよ。」
余りの事に、さるにても、なお
瞻らるるお鶴の顔。
「でも何、
先刻私を
威したのは、あれはお前が考えたの。」
「いいえ、ここへ来ましょうと、
巌を下ります時に、暗がりから、誰だか教えてくれたんです。」
「何といって、さあ。」
夫人は忍び
音を震わした。
「
対手は
婦人だ、それに、お百度を踏もうという信心者だから、遣損なったら、威すと可い。
遁げるだけは
仔細はないッて、」
「あれ、そんなことまで知っているのかねえ。」
「はい、そしてあの、十二時を過ぎてから、お百度をなさいますから、その
隙にッて、いいましたんです。でも、来て、あの姿見の向うの流しの
硝子戸から
覗きますと、映りましたのは私ばッかりで、奥様はお座敷にも廊下にも見えなさいませんから、この間と思って、飛込んだんでございますわ。」
「であの、そこへ集っただけで
皆?」
「いいえ、仕事をするとすぐに。」
ちりちりばらばら。
「三島へ遁げるのもありますし、峠を越して
函嶺へ行ったのもございますし、湯河原を出て吉浜、もうその時分は、お関所
辺で、ゆっくり
紙幣を勘定しているものもあろうし、峠の
棄石へ腰をかけて、盗んだ時計で、時間を見ているのもあるだろうッて、浪の音の合間々々に、
皆が話していたんです。」
「大概どのくらいな仕事だとか、その人はいっちゃいなかったの。」
「
内端に積りまして一万円ばかりですって。」
「大変なこッたねえ、それから、何、お鶴さん、その人の名は何というの。いいえ、大丈夫、私の命がなくなっても、とお百度を拝んでいる、観音様の御名にかけて、きっと人にはいわないから。」
「万綱っていうんです。」
「ああ、そうでしょう。それからその手下の
衆の名は知らないかい。」
「はい、地震が済むと、私と二人で、そこら
歩行きながら、巌の上へ参りました、しばらく
経ちますと、一人来たり、三人来たり、ぴちゃぴちゃ、潮のふるえる音がしました。
あの方が、
皆揃ったかッていいました。」
「そうすると
······」
「来るだけは
不残来ました。誰々だって、そういいましたら、伊豆の伊八、
四丁艪の甚太夫、
鯰の勘七、縄抜の正太郎、飛乗の音吉、
秋刀魚の竹蔵、むささびの三次、
||あのこの人の声だったんです、私に奥様のことを教えましたのは、」
夫人はお鶴の記憶の可いのと、耳の
敏い、利発さと、そのかくのごとき運命とに、ただ何となく
慄然とした。
「それから、あの、」
小指を折って、
「吹雪の熊太、
韋駄天弥助、書生の源、あの、太い声で、六尺坊の悪右衛門っていったんです。」
蔦屋の二階に仁王だちで、
通へ
礫なげに
贓物をこかしていた。大道に腰を抜いたものの、魔神が荒るると見たというは、この入道の事なりけり。
「お待ち。」
と夫人が声をかける。
裏階子を上る音、ただトントンと聞えて
止む。
耳を澄まして、
「どうも、気がせいてならないけれど、このままでは案じられるねえ。
ああ、何なの、そうしてお前の帰るのを、そこで待っているのかい。」
「あらためて私の
許を、
皆にひきあわせて、おかみさんにするんですって。」
「おかみさんに、お、お前それが
嬉いの。」
「はい。」と
猶予らわず答えたのである。
夫人はやや
言急に、
「じゃあ、お前、
盗賊が
好なの、悪いこととは思わないの。」
「いいえ、
盗賊することも、する人もいけませんけれど、だって、あの方なんですもの。そしてもう、もう私、おかみさんになりました。」
と、身の置所なさそうに、この時ばかりはおろおろして、
「もう
他に、他にお嫁入する処はないんですって。」
「誰が、誰がそういいます。」
「おじいさん。」
「おじいさん、お前には御両親、おとっさんもおっかさんもないのだってね、おじいさんは何なの、その人が
盗賊だってことを知らないのかい。」
「はじめは存じませんでした。はじめての晩、内へ泊りに見えました時は、どこのかお
邸の、若様だとそう思っていたんですって。」
「まあ、泊りに行ったのかねえ、ここに、書いてあるのがそうだね。」
先刻から目に留ったは、それ、ひらがなの走りがき、鉛筆で美しく=晩に=と一行。行を分けて=お前=と書き、=の
許へ=とまた項を別に=泊りに
行くよ=と記してある。
「どこで、こんなことをいわれたの。」
「この二階なの。あの、
山路でこれを貰いましてから、私大事にして首へかけて、お、お乳の下へかくしていたの。
三日の日に、この内が
忙いから、お給仕の手伝に来たんです。
そして二階の八番へ行きました時、その方に逢ったんですわ。
いろいろおもしろい話をして聞かせてねえ。
それから、私、その時も白い
前垂をかけていました。おかしい、およし、今に所帯を持ってから、そしてから掛けて台所へ出るが可い、取っておしまい。
そのかわり、お前にあげようと思って、宿で頼んで、間に合わせに
拵えておいたからッて、
畳紙に入っていたの。私はその方の奥様が着るのかと思ったんです。綺麗な
衣服を出して、
扱帯もありました。
私、おじいさんに見せてから、といいましたけれど、いいえ、着て御覧、ここでッて、それから帯も自分で
〆めてやろう、結びようが下手だって、結んでくれたんです。
袖が長くて、その人の手に巻きつきますから、
袂を肩へかけて廻ったんです。でも、あの、恥かしいから、こうして、襟を
啣えておりました。
でもあの、
襦袢の中から、このねえ、貰った手帳が見えましたもんですから、返せッていいました。」
「
頭をふったの。だって
厭なんですもの。あの時貰ったんですからこれは厭。
衣物はいらないわッて、私ねえ。それでも返せッていうから、泣きそうになったんです。
惜むんじゃないんですって。
つい、気がつかずにいたけれど、この紫色の鉛筆は、粉が目に入ると、目が
潰れて、見えなくなってしまうんですって。
おもちゃに持たしておくと
険呑だから、実は、今夜にも宿で聞いて、私ン
許まで取戻しに
行こうと思っていた処だったッて、そういいます。
きっと削りませんからッて、私強情を張りましたら、それでは、きっと誰にも見せるなよ。そして二人一所に居る時でなくっては、鉛筆を使ってはならない、きっとだぞッていいましてね。
ちょうど二人ばかりだから、とそれじゃ今つかってみよう、お前は、と私に、今夜はこの伊豆屋へ寝るのかとお聞きでしたわ。
泊るつもりだったんです。
そうすると、手帳へ
こんやおまえのとこへとまりにゆくよ、と、あの、これを書きましたから、私
引手繰って、脱いだ筒袖と前垂とを
抱えるか抱えないに、
家へ
駈け出して帰ったんです。
帳場で、どうした鶴坊ッて、番頭さんがいいましたけれど、そんな事は構わない。
おじいさんに、帰ってそういったら、いそがしがって掃除をして、神様棚へお燈明を上げました。
すぐに出かけたの。
私はお米ばかりのお
飯を
磨いだり、
炊いたりしたの。おじいさんは、甘鯛と、
鮪と買って、お酒を提げて戻ったんです。
でも来ないんでしょう。
おじいさんは
肱枕をして寝てみたり、いつにない
夜延をしたり。
私は崖の上へ立って見ていました。夜中にねえ、いい月の
明い道を、大きな外套の裾が風に吹かれながら来たわ。
私もびゅうびゅう海の方へ、袂だの、裾だの吹かれて、高い処に立っていたもんですから、寒かったろうッて、いきなり外套の下へ抱いてくれたの。寒くはなかったんですが、私、嬉しくッて震えたの。
その晩なの、
奥様、おかみさんになったんですって。
おじいさんは、その時は何んにも知らなかったんですけれど、あとで今度の相談をしたとき、泣きましたっけ。私も泣いたわ。
しっかりしろ、
生命と亭主は二ツなしだ。
俺が若い時の、罪障が
報ったっぺ、可いわ、娘の支度と婿殿へ
引出ものをかねて、一番、宝船を
漕いでまかしょ、お正月だ、祝えッて、大酒をのんだんです。
ですから、あの、すっかり船へ積み込んで、人の知らない処につけていますわ。
私が帰って披露を済むと、それからどこかへ漕いで行くんだって待っているんです。」
夫人は黙って聞くうちに、幾たびか目をしばたたいた。
「お鶴さん。」
と声が曇ると、
「
············。」黙ってこれも
打悄れる。
「世間に人もないように、
皆が、
岬の
巌になんぞ集って、もしか
捕ったらどうします。」
と優しくいったが、何となく人をおさうる威が
籠った。
これにはお鶴が事もなげ、
「いいえ、大丈夫、
寅の刻までは
海獺を
極めて、ここに寝ていたって警察なんぞ、と六尺坊主がいったんです。」
「その方は、」
「え。」
「お前のその方は何てったの。」
おのずと
居坐が
更まって、夫人の声は
凜々しかった。
「真鶴へ鮪の寄るのが、番小屋から見えるまでは心配なしだと申しました。」
夫人、
「そう。」
と
頷くはしに、懐に手を差入れ。
衝と一通の書の、字の裏が透いて見えて、いまだ封じないままなるを取って、手に据え、
「お前のおじいさんも何といいました。どういうことか知らないけれど、一粒種の可愛いお前に、
盗賊の婿を
娶ったのは、
少い時の、罪のむくいだというんじゃないか。
悪い事をすればきっとそれだけの罪をうけねばならんのです。
御覧!
この手紙はね、私の旦那が今しがた、蒸風呂の中で、お書きなんだよ。
此家の番頭に持たせて、熱海の警察へ直ぐに届けろッて、いいつかって来たんだがね。
地震は盗賊の
巧だから、早く出口々々へ非常線というものを張って下さい、魚見岬の下あたりには
一団り居るだろう、
手強い奴、と思うから、十分の手当をして、とちゃんとお
認めなすったの。」
わなわなとお鶴は震えた。
「揺れもどうもしないけれど、あんまり騒ぎが
酷かったから、あんな、穴蔵のような中にいらっしゃるんだから、ちょいと見舞に行った時、あの、お前が忍んだ時。」
夫人はこの時一段低い、廊下の向うの、新しい
欄干から
階子段を伝うて下りた。
下り切った風呂の口と、上とに電燈はついているが、段は中程にまた
一個、
燈を要するだけ長い。
ここを下りるは、肺病患者より
他にはなく、病人は、また大抵、風呂に長時間
籠るので、夜は殊にほとんど通うものがない、といっても可いので。
木は新しいが、陰々と、奈落に一足ずつ踏込むような、段階子を
辿る辿る、一段ごとに底の方は、深く、細く、次第に
狭んで、足も心も引入れられそう。
されば、
髪飾、絹の
彩、色ある姿はその折から、風呂の口に吸い込まれて、
裳は湯気に呑まるるのである。
下り立つと浮世が遠い。
燈は
朦朧と夫人の影を薄く倒した。
二足ばかり横へ曲ると、正面に、
蒼く
瘠せたる
躯を納めて、病も重き片扉。
夫も籠れる心細さ。力なく引手に手をかけ、
裳を高く
掻い取って、ドンと
圧すと、我ながら、
蹴出の
褄も、ああ、晴がましや、ただ一面に鼠の霧、湯花の
臭気面を打って、目をも眉をも
打蔽う
土蜘蛛の巣に異ならず。
(蔦か。)
(旦那様、)と答えたが、湯殿は約十畳余、さまで広くもない中に、夫の姿を認めたのは、ややしばらくの
後であった。
今更ながらいかなる
状ぞ。
煉瓦で畳んで四方壁、ただその扉ばかりを板に、ぐるりと廻して二三段、高く低く、飛々に
穿った穴、幾多の
屍を中に
埋めて崩れ残った城の壁の、
弾丸のあとかと
物凄い。その一ツ一ツから、濃厚なる湯の煙、綿を
束ねて
湧き
出でて、末広がりに天井へ、白布を開いて
騰る、湧いてはのぼり、湧いてはのぼって、
十重に
二十重にかさなりつつ、生温い
雫となって、人の
膚をこれぞ蒸風呂。
患者が顔を差寄すれば、綿なす湯気は口に
漲り、頬を
蔽い、肩を包み、背に
拡り、腰に
纏うて、やがて
濛々としてただ白気となる。
足、手、
幽な肉の一塊、霧を束ねて描ける
状よ。さればかく扉を開ける
音信があっても、誰なるかを見る元気はない。たといここに、天津乙女の、
麗しき翼を休めたとて、
縋る力も絶えたのが、三人といわず、五人といわず、濃く薄く湯気の動くに連れて、低くむらむらと影が行交う。
一時、吸い
草臥れて、長々と寝たるもあれば、そのあとへ、
這い寄って、灰色の滑らかな背を
凹に伸ばしながら両手で穴に縋るもあり、ぐッたりと腰を曲げて
臍へ頭をつけるもあり、痩せた膝に、両手を組んでいるのもあり、なえつかれたようになって、
俯伏した女も見えた。中に一人、壁の根に
跪き、もの打念ずる
状して、高く
掌を合わせたものの、白き
頸の
湯煙ほぐれて、黒髪の色と分れた時、夫人の目はやや
馴れて、その良人の口に、一点
煙草の火の燃えつつあるを認め得た。はじめはそれを、
燈の光と見分くることさえ出来ぬのであった。
秋山氏は、
真中に据えた
大なる大理石の
円卓子に
肱をつき、椅子にかかって憩いながら、かりそめに細巻をくゆらしていたので、もっとも
裸体で、
纏えるは
一片の布あるのみ。痩せたる上に色さえ
朧、見る影もない
状ながら、なお床を這い板に
僵るる患者の
中に、独り身を起していた姿、連添う身に、いかばかりの
慰藉なりけむ。
吐いきをしつつ、立寄って、
(お
塩梅はいかがです。)
(こうしていりゃちっとは可い。)
と
打棄ったようにいって、
(何か用か。)
(はい、余りけたたましゅうございましたから、お見舞に上りました。この間から
風説のございました地震なんでございます、とうとうほんものにして騒ぎまして、ただ今ようよう鎮まりましたのでございます。あの、御存じでございませんので。)
(いいや、ここじゃちっとも知らん。また地震だといって、驚きもせん。たとい
地の底に沈んだ処で、まあ、こんなものだろうと思えば、
仔細なしじゃ。)
周囲に
蠢く患者の
光景。
(とても
娑婆じゃないからな、どうだ、まるで白い
鰻の、のたくッている体裁じゃないか、そういう自分は何か。)
ほとんど失望の声を放って、自から
嘲けるがごとくいった、警部長
疾篤矣。
夫人はハッと
首を垂れた。
時に、
(何か、別に誰も、賊難にあったという話は聞かんか。)
夫人は、思いがけないことだったが、
(いいえ。)とありのままを答えたのである。
(まだ分るまい、蔦、巻紙と
硯箱を。)
これへ、と湯殿で命じたので。
(お硯箱、お手紙でも。)
(うむ、もう座敷へ行くのは大儀じゃ、
意気地はない。)
傲然としてしかも寂しく高らかに、
(はは、はは、はははは、)
(
························)
(
疾くせい。)
引返して
扉をあけると、重い湯気は、娑婆へ返すように、どッと夫人を押出した。身の
健かなる夫人は、かえって、かッと上気して
眩暈を感じて、扉を閉めながら
蹌踉いたが、ばらばら脱ぎ散らした上草履乱れた中に、良人のを見て、取って揃えて直しながら、袖にも襟にも、纏いついて消えもやらぬ霧のまま、急いで
旧の欄干口。夫人がこのときの
風采は、罪あるものを救うべく、
疾めるものを
癒すべく、雲に
駕して
往き
還る神々しい姿であった。廊下を出ると、風が冷い。
誂えられたを調えて、再び良人の前に行った時、警部長は、
天窓を
掴むようにして、堅く
卓子に
突伏していた。
耳は
掌で
蔽うたが、
気勢に、たちまち、蒼ざめた、顔を上げて、
(ここへ出せ。)
(は、)
と袖から卓子へ。
まだ持ったままだった
巻莨を、ハタと床に
擲つと、蒸気が宙で吸い消した。
椅子を引き寄せ、筆を取って、さらさらと
認めたのが、ここに夫人の、お鶴にさとした文言であった。
書き果てると、著しく警部長の眉の
顰むが見え、
(ああ、厭じゃ、が、黙っちゃおられん。何も見まい、聞くまいと思うに、この壁を透して、賊どもが、魚見の
巌にかたまりおるのが、月夜の遠距離のように
歴然と見える。)
といった、
眼の光
爛々として、
(蔦、こう神経が過敏になっちゃ、
疾は重いな。)
夫人は再び二階の廊下、思わず映る姿見に、消えも入らんず思う時、座敷の
燈が滅したのであった。
「お鶴さん、分りましたか、旦那のこのお手紙が私の手にある内だったから
可いけれど、もう一足で、番頭に渡るとね、今頃は、
皆が捕まっているかも知れません、もしか、その人が牢へ行ったらどうするの。
お前はきっとそうしたら一所に行くとおいいだろうが、おかみじゃ、牢の中で、
同棲に置いては下さいません。第一お前、今ここで、私がお前を帰さなかったら、どうしてその人に逢えますね。」
思い切って声強く、差寄る膝に手をかけた。お鶴は思わず
取縋って、忍び
音にわっと泣いた。
背に夫人も頬をあて、
堪えず、はらはらと落涙して、
「おお、可哀相に、そんなかい。お前だって、私だって、良人を思うに二つはない。誰が、誰が、お前を帰さないでおくものか、警察へやるものか。
お前、夜中に崖に立って、その人を待った時、寒かろうって、あの、外套の下へ入れて抱いてくれたの。」
とそのまましっかと抱きしめた。
膝なる
俤、
背なる髪、柳と梅としめやかに、濡れつつ、しばし
密とせり。
「さ。」
手を取って、顔を上げさせ、
右手の指環を
凝視ながら、するりと抜いて、胸に垂れたるお鶴の指へ。
「私が祈ってあげるんだよ。
それからね、この手紙を、このままお前にあげるからね、大事にして、持って行って、その人に見せるんですよ。
ああ、構いません。私の落度になっても可いの、そのかわりね、心がおありだったら、どうぞ旦那の病気が直るように、お鶴さん、お前も念じて下さいな。」
お鶴は
頭おもたげに、
首垂れながら
合点々々。
夫人も
斉く
頷いたが、
「まあ、
盗賊の大将に、警部長の病気本復、私も愚痴になったわね。」
莞爾したが、目を
拭い、
「どれ、ちゃんとして、手帳、鉛筆も。こうしていては目につきます。」
と、立たせて、胸に秘めさせた、手紙も持ち添え、しっかりと内懐へ入れさせて、我が前髪の触るるあたり、帯の
皺をのしてやりつつ、
「そしてその人にいうんですよ、これこれのものがいいました。賊でも心があるだろう、お宝は盗んでも、こんな可愛い
娘を盗んではなりませんと、可いかい。
さ、もうおいで、夜が更けた。」
と送り出すように座敷を出たが、
前後に
隈はあれど、
蔽うものなき廊下の
燈。
はらりとかけたり羽織の片袖。
瘠せた夫人は
膨らかに、
児の宿ったる姿して、一所になって渡ったが、姿見の前になると、影が分れて
飜然と出た。
お鶴は胸が躍ったろう、別れの=さらば=いうのも忘れて、そのまま
手水流の
傍の窓。
硝子戸を引きあけると、下は坂の、二階ではないが、斜めに土塀。
一度、顔を出して
覗いて見て、ふり向いて夫人を見た、双の瞳の、露に宿れる星の色。
燦然として星はあれど、涙に曇って暗かったか、ひらりと蒼い火、マッチを擦って、足場をしばし計ると見えし。
「は、」と声かけて、するりと抜けた、土塀の上を
足溜。姿は黒き窓となンぬ。
夫人はしばらく、姿見を
背にして、
熟とそっちを
瞻ったが、
欄干の方に目をやって、
襦袢の袖で眉をかくした。
そのおくれげを掻いた時、壁の中の
俤は、どんなに、美しかったろう、
柔和く気高かったろう。大慈! 大悲! 我心、我力、良人の病を
癒すべく、
頼母しいような気がしたので、急に何となく嬉しそうに、いそいそ座敷へ帰ろうとして、思わず、よろよろと
背後に
退った。
一段高い廊下の端、隣座敷の
空室の前に、
唐銅で
鋳て

の見ゆる、魔神の像のごとく
突立った、
鎧かと見ゆる厚外套、
杖をついて、靴のまま。
大跨に下りて、帽を脱し、はたと夫人の
爪尖に
跪いて、片手を額に加えたが、無言のまま身を起して、
同一窓に
歩行み寄った。深夜に鼠の
気勢もさせず、帽とともに小脇にかかえた
杖よりも身を細く、小さな口から、するりと抜けると、硝子窓は向うから、音もなく、するりとおのずからしまるのが、姿見にありありと映って、夢の
覚際かと見えたのである。
さて、蒸風呂の中で
認めた、警部長の
准逮捕状には、偉大なる反響があった。一旦夫人の
情に因って、八方へ
遁れた、万綱の配下の兇賊、かねて目指された
数をあまさず、府、県、町、村、いうに及ばず、津々浦々にいたるまで、
最寄々々に
名告って出た。
御曹子はしからず。ただ崖の客の
盲いたるは、紫鉛筆の粉のためといい伝えて、いずれも意外の毒に舌を巻くばかり。自らその罪を責めて、甘んじて
享くべき
縲紲を、お鶴のために心弱り、
獄の
暗よりむしろつらい、身を暗黒に葬ったのを、
秘に知るは夫人のみ。
程過ぎてつれづれに、琵琶を、と秋山の命で、座敷に招いた事がある。
盲目は、あかい
手絡をかけた、若い女房に手を
曳かれて来たが、敷居の外で、二人ならんで
恭しく
平伏した。
夫人は一目、ああ、その赤い手絡は見られまい、色の白いのが、さぞ、紫の涙を、とあわれさに顔を背けたが、良人のあるに襟を正した。
けれども、その時の
眼の光は、かつて、蒸風呂の中におけるがごとき、爛々たるものではなかった。警部長は軽快したから。
明治三十八(一九〇五)年一月