ある晩私は桂三郎といっしょに、その海岸の山の手の方を少し散歩してみた。
そこは大阪と神戸とのあいだにある美しい海岸の別荘地で、白砂青松といった明るい新開の別荘地であった。私はしばらく大阪の町の
大阪の町でも、私は最初来たときの驚異が、しばらく見ている間に、いつとなしにしだいに裏切られてゆくのを感じた。経済的には
この海岸も、煤煙の都が必然
桂三郎は、私の兄の養子であったが、三四年健康がすぐれないので、勤めていた会社を退いて、若い細君とともにここに静養していることは、彼らとは思いのほか
どこを見ても白チョークでも塗ったような静かな道を、私は
「ここは山の手ですか」私は話題がないので、そんなことを訊いてみた。もちろん私一箇としては話題がありあまるほどたくさんあった。二人の生活の
しかしそのことはもう取り決められてしまった。桂三郎と妻の雪江との間には、次ぎ次ぎに二人の立派な男の子さえ産まれていた。そして兄たち夫婦の
もちろん老夫婦と若夫婦は、ひととおりは幸福であった。桂三郎は実子より以上にも、兄たち夫婦に愛せられていた。兄には多少の不満もあったが、それは親の愛情から出た温かい深い配慮から出たものであった。義姉はというと、彼女は口を極めて桂三郎を賞めていた。で、また彼女の称讃に値いするだけのいい素質を彼がもっていることも事実であった。
とにかく彼らは幸福であった。雪江が私の机の側へ来て、雑誌などを読んでいるときに、それとなく話しかける
「私の学校友だちは、みんないいところへ片づいていやはります」彼女はそんなことを考えながらも、叔母が
「ここの経済は、それでもこのごろは桂さんの収入でやっていけるのかね」私はきいた。
「まあそうや」雪江は口のうちで答えていた。
「お父さんを楽させてあげんならんのやけれどな、そこまではいきませんのや」彼女はまた寂しい表情をした。
「どのくらい収入があるのかね」
「いくらもありゃしませんけれどな、お金なぞたんと要らん思う。私はこれで
もっと快活な女であったように、私は想像していた。もちろん
桂三郎は静かな落ち着いた青年であった。その気質にはかなり意地の強いところもあるらしく見えたが、それも相互にまだ深い親しみのない私に対する一種の見えと羞恥とから来ているものらしく思われた。彼は
私はこの海辺の町についての桂三郎の説明を聞きつつも、六甲おろしの寒い夜風を幾分気にしながら歩いていた。
「いいえ、ここはまだ山手というほどではありません」桂三郎はのっしりのっしりした持前の口調で私の問いに答えた。
「これからあなた、山手まではずいぶん距離があります」
広い寂しい道路へ私たちは出ていた。松原を切り
「立派な道路ですな」
「それああなた、道路はもう、町を形づくるに何よりも大切な問題ですがな」彼はちょっと
「もっともこの
「いいえ、作物もようできますぜ。これからあんた先へ行くと、畑地がたくさんありますがな」
「この辺の土地はなかなか高いだろう」
「なかなか高いです」
道路の側の
「こちらへ行ってみましょう」桂三郎は暗い松原蔭の道へと入っていった。そしてそこにも、まだ
私たちは白い河原のほとりへ出てきた。そこからは青い松原をすかして、二三分ごとに出てゆく電車が、美しい電燈に飾られて、間断なしに通ってゆくのが望まれた。
「ここの村長は||今は替わりましたけれど、先の人がいろいろこの村のために計画して、広い道路をいたるところに作ったり、堤防を築いたり、土地を売って村を富ましたりしたものです。で、計画はなかなか大仕掛けなのです。叔父さんもひと夏子供さんをおつれになって、ここで過ごされたらどうです。それや体にはいいですよ」
「そうね、来てみれば来たいような気もするね。ただあまり広すぎて、取り止めがないじゃないか」
「それああなた、まだ家が建てこまんからそうですけれど······」
「何にしろ広い土地が、まだいたるところにたくさんあるんだね。もちろん東京とちがって、大阪は町がぎっしりだからね。その割にしては郊外の発展はまだ遅々としているよ」
「それああなた、人口が少ないですがな」
「しかし少し癪にさわるね。そうは思わんかね」などと私は笑った。
「初めここへ来たころは、私もそうでした。みんな広大な土地をそれからそれへと買い取って、立派な家を建てますからな。けれど、このごろは何とも思いません。そうやきもきしてもしかたがありませんよって。私たちは今基礎工事中です。金をちびちびためようとは思いません。できるのは一時です」彼はいくらか興奮したような声で言った。
私たちは河原ぞいの道路をあるいていた。河原も道路も蒼白い月影を浴びて、真白に輝いていた。対岸の黒い松原蔭に、灯影がちらほら見えた。道路の傍には松の
「これから夏になると、それあ月がいいですぜ」桂三郎はそう言って叢のなかへ入って
で、私も青草の中へ踏みこんで、株に腰をおろした。淡い月影が、白々と二人の額を照していた。どこにも人影がみえなかった。対岸のどの家もしんとしていた。犬の声さえ聞こえなかった。もちろん
「わたしはこの草の中から、月を見ているのが好きですよ」彼は彼自身のもっている唯一の詩的興趣を
「もっと暑くなると、この草が長く伸びましょう。その中に
私は何かしら寂しい物足りなさを感じながら、何か
私はY氏に桂三郎を紹介することを、兄に約しておいたが、桂三郎自身の口から、その問題は一度も出なかった。彼が私の力を仮りることを
「雪江はどうです」私はそんなことを訊ねてみた。
「雪江ですか」彼は微笑をたたえたらしかった。
「気立のいい女のようだが······」
「それあそうですが、しかしあれでもそういいとこばかりでもありませんね」
「何かいけないところがある?」
「いいえ、別にいけないということもありませんが······」と、彼はそれをどういうふうに言い現わしていいか解らないという調子であった。
が、とにかく彼らは条件なしの
私は軽い焦燥を感じたが、同時に雪江に対する
「雪江さんも可哀そうだと思うね。どうかまあよくしてやってもらわなければ。もちろん財産もないので、これからはあなたも骨がおれるかもしれないけれど」私は言った。
「それあもう何です······」彼は草の葉をむしっていた。
話題が少し切迫してきたので、二人は深い触れ合いを避けでもするように、ふと身を起こした。
「海岸へ出てみましょうか」桂三郎は言った。
「そうだね」私は応えた。
ひろびろとした道路が、そこにも開けていた。
「ここはこの間釣りに来たところと、また違うね」私は浜辺へ来たときあたりを見まわしながら言った。
沼地などの多い、土地の低い部分を埋めるために、その辺一帯の砂がところどころ
「この辺でも海の荒れることがあるのかね」
「それあありますとも。年に決まって一回か二回はね。そしてその時に、刳り取られたこの砂地が
海岸には、人の影が少しは見えた。
「叔父さんは海は嫌いですか」
「いや、そうでもない。以前は山の方がよかったけれども、今は海が
「そうですか。私は海辺に育ちましたから浪を見るのが大好きですよ。海が荒れると、見にくるのが楽しみです」
「あすこが大阪かね」私は左手の
「ちがいますがな。大阪はもっともっと先に、微かに火のちらちらしている
「あれが
「
「あれが
私は十八年も前に、この温和な海を渡って、九州の温泉へ行ったときのことを思いだした。私は何かにつけてケアレスな青年であったから、そのころのことは主要な印象のほかは、すべて煙のごとく忘れてしまったけれど、その小さい航海のことは唯今のことのように思われていた。その時分私は
私はどこへ行っても寂しかった。そして病後の体を抱いて、この辺をむだに放浪していた、そのころの痩せこけた寂しい姿が痛ましく目に浮かんできた。今の桂三郎のような温良な気分は、どこにも見出せなかった。彼のような幸福な人間では、けっしてなかった。
私はその温泉場で長いあいだ世話になっていた人たちのことを想い起こした。
「おきぬさんも、今ならどんなにでもして、あげるよって芳ちゃんにそう言うてあげておくれやすと、そないに言うてやった。一度行ってみてはどうや」義姉はこの間もそんなことを言った。
私はそのおきぬさんの家の庭の泉石を隔てたお
「せめて
「は、叔父さんがお仕事がおすみでしたら······」桂三郎は応えた。
私たちは月見草などの
雪江との約束を果たすべく、私は一日須磨明石の方へ遊びにいった。もちろんこの辺の名所にはすべて厭な臭味がついているようで、それ以上見たいとは思わなかったし、妻や子供たちの病後も気にかかっていたので、帰りが急がれてはいたが······。
で、わたしは
その日も桂三郎は大阪の方へ出勤するはずであったが、私は彼をも誘った。
「二人いっしょでなくちゃ困るぜ。桂さんもぜひおいで」私は言った。
「じゃ私も行きます」桂三郎も素直に応じた。
「だが会社の方へ悪いようだったら」
「それは叔父さん、いいんです」
私は支度を急がせた。
雪江は鏡台に向かって顔を作っていたが、やがて派手な晴衣を引っぴろげたまま、隣の家へ留守を頼みに行ったりした。ちょうど女中が見つかったところだったが、まだ来ていなかった。
「叔父さんのお蔭で、二人いっしょに遊びに出られますのえ。今日が新婚旅行のようなもんだっせ」雪江はいそいそしながら、帯をしめていた。顔にはほんのり
「ほう、
「そんな着物はいっこう似あわん」桂三郎はちょっと顔を紅くしながら呟いた。
「いくらおめかしをしてもあかん体や」彼はそうも言った。
私たちはすぐに電車のなかにいた。そして少し話に耽っているうちに、神戸へ来ていた。山と海と
終点へ来たとき、私たちは別の電車を取るべく停留所へ入った。
「神戸は
「汚いことありゃしませんが」桂三郎は言った。
「神戸も初め?」私は雪江にきいた。
「そうですがな」雪江は暗い目をした。
私は女は誰もそうだという気がした。東京に子供たちを見ている妻も、やっぱりそうであった。
「今度来るとき、おばさんを連れておいんなはれ。おばさんが来られんようでしたら、秀夫さんをおよこしやす。どないにも私が面倒みてあげますよって」彼女はそんなことを言っていた。
「彼らは彼らで、大きくなったら好きなところへ行くだろうよ」
「それあそうや。私も東京へ一度行きます」
私たちはちょっとのことで、気分のまるで変わった電車のなかに並んで腰かけた。
私たちは間もなく須磨の浜辺へおり立っていた。
「この辺は私もじつはあまり案内者の資格がないようです」桂三郎はそんなことを言いながら、
美しい砂浜には、玉のような石が敷かれてあった。水がびちょびちょと、それらの小石や砂を洗っていた。青い
「綺麗ですね」などと桂三郎は讃美の声をたてた。
「けどここはまだそんなに綺麗じゃないですよ。舞子が一番綺麗だそうです」
波に打上げられた
「そら叔父さん
私たちはまた電車で舞子の浜まで行ってみた。
ここの浜も美しかったが、降りてみるほどのことはなかった。
「せっかく来たのやよって、淡路へ渡ってみるといいのや」雪江はパラソルに日をさえながら、飽かず煙波にかすんでみえる島影を眺めていた。
時間や何かのことが、三人のあいだに評議された。
「とにかく
私たちは松の老木が枝を
「ここは顕官の泊るところです。有名な家です」桂三郎は縁側の
「あれが
やがて女中が
するうち料理が運ばれた。
「へえ、こんなところで
「それああんた、あんたは天麩羅は東京ばかりだと思うておいでなさるからいけません」桂三郎は
雪江はおいしそうに、静かに
紅い血のしたたるような
私たちはそこを出てから、さらに明石の方へ向かったが、そこは前の二つに比べて一番汚なかった。淡路へわたる船を捜したけれど、なかった。私たちは明石の町をそっちこっち歩いた。
「あすこの御馳走が一番ようおましゃろ」雪江は言っていた。
私たちは海の色が
私はその晩、彼らの家を辞した。二人は乗場まで送ってきた。蒼白い月の下で、私は彼ら夫婦に別れた。白いこの海岸の町を、私はおそらくふたたび見舞うこともないであろう。