この
度、
高濱虚子さん・
柳田國男先生[#ルビの「やなぎだくにをせんせい」はママ]と
御一しょに、この
一部の
書物を
作ることになりました。その
高濱さんの
御領分の
俳句と
同樣に、
短歌といふものは、ほんとうに、
日本國民自身が
生み
出したもので、とりわけ、きはめて
古い
時代に、
出來上つてゐたものであります。さうして、それが
偶然、
私の
先生でもあり、またあなた
方のこの
文庫におけるおなじみでもある、
柳田國男先生[#ルビの「やなぎだくにをせんせい」はママ]がお
書きの
諺の
成り
立ちとも、
原因が
竝行してゐるのは、
不思議な
御縁だとおもひます。
短歌は、
唯今では
一般に、
うたといつてゐます。けれども
大昔には、
うたと
名づくべきものが
多かつたので、そのうち、
一番後に
出來て、
一番完全になつたものが、
うたといふ
名を
專らにしたのであります。
かういふと、
不思議に
思ふ
方があるかも
知れません。あなた
方の
御覽の
書物には、たいてい
短歌の
起りを、
神代の
すさのをの
尊のお
作からとしてゐるでせう。もちろんこれは、
古くからのいひ
傳へで、あなた
方が、
古代と
考へてゐられる
奈良朝よりも、もつと/\
以前から、さう
信じてゐたのです。だからその
點において、そのお
歌が、
第一番のものでなくとも、
何も
失望する
必要はありません。
短歌の
出來るまでには、いろんな
形をとほつて
來てゐます。
第一に、
世間の
人は、
短い
單純なものが
初めで、それが
擴がつて、
長い
複雜なものとなるといふ
考へ
方の、
癖を
持つてゐます。ところが、
物質の
進化の
方面と、
精神上のことゝは
反對で、
複雜なものをだんだん
整頓して、
簡單にして
行く
能力の
出來て
來ることが、
文明の
進んでゆくありさまであります。
短歌などもそれで、
日本の
初めの
歌から、
非常な
整頓が
行はれ/\して、かういふ
簡單で、
思ひの
深い
詩の
形が、
出來て
來たのであります。
今の
人の、
考へることの
出來ないほど
古い、
遠い
祖先の
時代には、
稱へ
言といふものがありました。それが、も
少し
進むと、
ものがたりといふものになつて
來ました。さうして、この
二つながら、
竝んで
行はれてゐました。その
稱へ
言が、
今日でも、
社々の
神主さんたちの
稱へる、
祝詞なのであります。この
二つの
言葉は、
元、
日本古代の
神樣のおつしやつた
言葉として、
信じられてゐたのですが、そのうち、だん/\その
言葉のうちにもつと、
押しつめた
短い
部分を、
神樣の
言葉と
考へ、その
外の
言葉を、
輕く
考へて
來る
傾きが
出來て
來ました。だから
稱へ
言のうちにも、
神のお
言葉があり、
ものがたりのうちにも、
神のお
言葉が
挿まれてゐるもの、と
考へ
出したのであります。この
稱へ
言のうちのある
部分が、
諺となり、
ものがたりの
肝腎な
部分が、
歌となつたのであります。
神樣と
申し
上げる
方は、
尊くもありまた、
恐ろしくもある
方で、われ/\の
祖先におつしやつた
言葉は、
祖先の
人たちが
恐れ
愼しんで
承り、
實行しなければならない
命令でありました。ですから、
稱へ
言全體が、
元は
命令の
意味を
持つてゐました。その
長い
命令の
言葉のうちに、それを
押しつめたものが
出來て
來たことは、
既に
申しました。これが、たいてい
古くは、
大體二つの
句に、
纏まるものだつたようです。ところが、その
稱へ
言から
變つた、
ものがたりのうちの
うたも、その
理くつをいへば、
意味がはつきりして
來るとおもひます。つまり、
神樣の
仰せに
對する、お
答へであります。いひ
換へて
見ると
自分の
心がわかつて
頂くように、
説明をし、お
願ひをし、お
詑びをするもので、
根本の
精神においては、このとほり、
私どもは
服從申してをります、といふ
誓ひの
意味になります。
ですから
諺は、
命令の
意義から、だん/\
變化して、
社會的の
訓戒あるひは、
人間としての
心がけを
説くといふ
方面に、
意味が
變化して
來ました。それと
共に、
時代が
移ると、
言葉の
意味や、
昔にいひ
習はしたわけが、わからなくなるために、
後世では、なんの
理くつもわからない『いひ
習はし』となつてしまつたのであります。このことは
長く
申さずとも、
柳田先生[#ルビの「やなぎだせんせい」はママ]のお
話でゝも、おわかりになることゝおもひますから、
私の
分擔に、
關係の
深いところばかりでやめておきます。
さて
歌は、どこまでも、
自分の
心を
詳しく、
相手の
心を
牽くようにいひ
出すものであります。そして、
低い
神樣、
或は
位置の
高い
人間から、
神樣に
申し
上げる
言葉が、
次第に、
人間どうしのいひかけいひあはせる、
かけあひの
言葉に、
利用せられて
來ました。さうして、
神樣の
言葉すらも、やはり、
歌で
現されることになりました。それは
大方、
三つの
句の
形になつたものらしく
考へられます。
この
三つの
句の
形の
歌を、
後には、
片歌といつてゐます。これは、
歌の
半分といふことでなく、
完全でない
歌といふことであります。
中には
片歌を、
短歌の
半分といふように
思つてゐる
人もあるが、これが
完全になると、
旋頭歌(せんとうかとは讀みません。習慣で、せどうかといふのです)といふ
形が
出來ます。
片歌は、
三句から
出來てゐて、
一番めの
句が
五音、
二番めの
句が
七音、
第三の
句がまた
七音、といふふうになつてゐるのが
普通で、その
音數には、
多少の
變化があります。これは、
歌ひ
延したり、
縮めたりしたからでせう。
神武天皇が、
大和の
國の
たかさじ野といふところで、
後に
皇后樣になられた、
いすけより媛といふお
方に、
初めてお
會ひなされた
時、お
伴の
おほくめの
命が、
天皇樣の
代理で、お
媛さまのところへ
歩み
寄つて、ものをいひに
行くと、
いすけより媛は、
おほくめの
命の
目のさいてあるのに
氣がつかれて、
歌をうたひかけられました。
目をさくとは、
眦を、
刺のようなもので
割いて、
墨を
入れて、
黥をすることをいふ、
古い
言葉であります。その
文句は、
昔の
大學者たちも、わからないと
申してゐる、むつかしいもので、これから
先、あなた
方のうちから、
説明して
下さる
人が、
出て
來るかも
知れません。
あめつゝちとりましとゝ
何故 黥ける
利目お
前の
目は、なぜそんなに
黥がしてあるのか、といふ
以上に、
確かな
説明の
出來た
人がないのです。
これに
對して、
おほくめの
命は
答へました。
をとめに たゞにあはむと わが
黥ける
利目あなたのような
美しい、
若いお
媛さまに
會ふために、
私が
黥をしておいた、この
眦の
黥です。
なんのために、
黥することが、さうした
目的に
適ふのかわからないが、
歌の
意味はともかく、さうに
違ひありません。
御覽のとほり、
初めの
句が、
四音になつてゐるが、ともかく、5・7・5といふ
三つの
句の
形を、
基礎としてゐます。これが、われ/\で
知れる
限りの、
歌の
古い
形で、このように
五音でなく、
四音であるのと
反對に、
五音・
七音であるところを、
音數多くしたものもあります。
現に、この
歌と
同樣に、
おほくめの
命と
神武天皇とのかけあひに
謠はれたといふ
歌が、それであります。
やまとの たかさじ
野を、なゝ
行く をとめども。たれをしまかむ
(おほくめの命) ×
かつ/″\も、いやさき
立てる
長をしまかむ
(神武天皇)この
大和のたかさじ
野を、
七人通るをとめたち。そのうちの
誰を、お
后になさいますか。
ちっとばかり
先になつてゐる、あの
年長者を、
后にしよう。
この
二つの
歌について
見ると、
片方は、4・6・4・5・7といふへんな
形になつてゐるが、
大體、
短歌の5・7・5・7・7といふのと、
句の
數も
似てゐます。それでは、これが
短歌かといふと、
第一、
片歌の
約束に
叛きます。
片歌は、
片歌どうし
合せるもので、けっして、
短歌と
一組みにはなりません。さうすると、
おほくめの
命の
歌も、
片歌の
音數を
増して、
早く
謠はれたものとおもふ
外はありません。
最初の
一句は、『やまとの
たかさじ野』の
十音から
出來てゐます。
二番めの
句は、『なゝ
行くをとめども』の
九音が、
七音の
句の
長さで
謠はれた、といふことが
考へられます。さうして
見ると、この
時、
二對の
片歌の、かけあひがあつたのです。けれども、うっかり
見ると、そのうちに、
短歌の
古い
形のようなものが、
混つてゐるようにも
見えます。もちろん、かういふ
音數の
多い
片歌も、
三句から
出來てゐるのだといふことを
忘れて、
五句になつたところからも、
短歌は、
出來て
來るのであります。だから、この
長い
片歌は、
短歌の
歴史の
上から、
疎かに
出來ない
材料であります。
おなじような
片歌の
話が、
やまとたけるの
尊にもあります。この
尊東國平定の
時、
甲斐の
國酒折の
宮に
宿られて、
火を
燃してゐた
翁に、いひかけられました。
にひばり つくばを
過ぎて、いく
夜か
寢つる
あの
新治の
近邊の
筑波をとほり
過ぎて、
今夜で
幾晩寢て
來たとおもふ、といはれたのです。
かゝなへて、
夜には こゝの
夜。
晝には とをかを
指折り
屈めて
勘定して、
今晩は、
夜で
申せば、
九晩。
晝で
申せば、
十日を
經過いたしましたことよ。かういふお
答へをしたのです。
これは、
前の
神武天皇樣方の
御歌よりも、もっと
名高く、
傳はつてゐます。それは、この
二つの
片歌を
連歌(れんが)といふものゝ
初めだ、と
信じてゐるからであります。ところが、さういふふうに
考へるのなら、もっと
時代の
古い、
神武天皇頃の
片歌問答の
方が、
連歌の
初まりだ、といつてよいわけではありませんか。まづ、
日本の
歌においては、
長い
形の
ものがたりから、
次第に
變化して、
長歌(ながうた)といふものが
出來て
來た
一方に、そのうち
えきすとも、
えっせんすともいつてよい
片歌が、
二つ
合さつて、
旋頭歌といふものに
發達して
行くと
同時に、
片歌自身が、
短歌を
作り
上げるように、
次第に、
音の
數を
増し、
内容が
複雜になつてゐました。
私の
話は、
短歌のみならず、
日本の
歌の
大凡に
亙つて、
知識をお
附けしたいと
思ふのですから、こんなことから、
初めたわけです。それで
一口だけ、
旋頭歌について
申しませう。この
歌の
形は、つまり、
前の
問答の
歌を
一つとすれば、それなのです。
萬葉集から
例をひいて
見ると、
新室を
蹈み
鎭め
子が
手玉鳴らすも。
玉の
如 照りたる
君を、
内にと まをせ
新築の
家を
蹈んで、
屋敷のわるい
魂を
鎭め
舞ふ
女の
子が、
手に
捲きつけた
玉を、
今鳴らしてゐることよ。その
玉のように、
輝やいていらつしやる
美しいお
客樣を、どうぞ
内らへ、と
御案内申し
上げてくれ。
このとほり、
三番めの
句で、かっきりと
切れて、
四番めの
句から、
新しく、
同じ
形をくり
返してゐます。それで、
頭の
句に
旋る
歌といふ
意味で、
旋頭歌と
名づけられたのでありました。
中には
旋頭歌が、まだ
片歌の
一組であつた
時の
姿を、
殘してゐるものすらあります。やはり
萬葉集の、
水門の
葦の
末葉を
誰か た
折りし。
わが
夫が
振る
手を
見むと われぞ たをりし
川口の、
葦のたくさん
生えてゐる、その
葦の
先の
葉が、みんなとれてゐる。これは、
誰が
折つたのかと
申しますと、それは、
私です。
私の
夫なるあなたの、
私を
見つけてあひずに
振つていらつしやるお
袖を、よく
見ようと
考へて、
私が
折つたのです。
これなどは、
一首のうちに、
自問自答のように、
歌つてあります。
やくもたつ いづもやへがき。つまごめに
八重垣つくる。その
八重垣を
この
名高[#ルビの「なだか」は底本では「ながか」]い、
すさのをの
尊のお
歌は、
實は、よく
意味がわからないのです。でも
普通はかう
説明してゐます。
幾すぢもの
雲が、どん/\と
騰つてゐる。その
現れてゐる
雲の
廻つて
作つた、
幾重の
垣のような
雲。
私の
妻を
中に
入れるために、
幾重もの
垣を
作つてゐる、その
幾重もの
垣よ。これがわれ/\の
結婚を
祝ふ
自然のしるしである。
細かいところになると、
昔から
多少、
別々の
意見はあつても、
大體かういふふうに、
意見が
一致してゐます。ところが、
私にいはせると、
意味が
大ぶん
違つて
來ます。
出雲人の
作つた、
幾重にも
取り
廻す、
屏風・
張の
類よ。われ/\、
新しく
結婚したものを
包むために、
幾重の
圍ひを
作つてあることよ。あゝ、その
幾重の
屏風・
張よ。
この
やくもたつといふ
言葉が、
歌の
上でいふ
枕詞なのです。すなはちこの
場合は、
いづもといふ
言葉を
起すための、
据ゑことばなのです。
枕詞は、
元の
意味のわかるのもあり、わからないのもありますが、わかるのは、
大體に、
新しいものゝようです。この
やくもたつなども、
古い
書物の
説明にさへ、
幾すぢもの
雲が
立ち
圍んだところから、いはれたものとしてゐます。けれども、それはいけないので、ほかに、
いづもといふ
言葉と、
特別の
關係があつたに
違ひありません。
これは
結婚に
先立つて、
新しい
家を
建てる、その
新築の
室の
讃め
言葉で、
同時に、
新婚者の
幸福を
祈る
意味の
言葉なのです。それはともかくとして、この
歌は、あなた
方がお
讀みになつても、
大體わかるほど、
意味がよく
通じます。ところが、このお
歌よりも、
遙かに
新しい
時代のたくさんな
歌が、けっしてあなた
方ばかりでなく、
大人の、しかも
專門の
學者たちにさへも、わからないものが
多いのです。ちょっと
考へても、
時代が
新しくなるほど、
歌がわからなくなるといふような、
不自然な
事實を、あなた
方はまともに、うけ
入れますか。だからこの
歌は、
遙かに
後世、
短歌が
盛んになつて
後、
行はれ
出して、その
作つた
人もわからなくなり、また、
非常に
重々しい
力のあるものと
信じられた
時代に、こんな
歌だから
神代の
神樣で、ことに
出雲に
關係深い、
名高い
方のお
作だ、と
信じられたものに
違ひはなからう、と
考へてゐます。
大昔の
歌には、この
歌に
限らず、
歴史では
傳へてゐても、
作つた
人は
別であり、
時代も
違つてゐると
見ねばならないものが、だん/\あるのです。
私はこのお
歌が、
神武天皇のお
歌だといふ
片歌よりも、
古いものだとは、あるひはもったいないかも
知れないが、
信じるわけにはまゐりません。
短歌の
形といふものは、もっともっと、
遲れて
出來たもので、
すさのをの
尊はもちろん、
神武天皇も、
やまとたけるの
尊も、
御存じにならなかつたに
違ひない、と
考へてゐるのです。
狹葦川よ
雲立ちわたり、うねびやま
木の
葉さやぎぬ。
風吹かむとす
さゐ
川から、
雲がずっと
立ち
續いて、この
畝傍山、その
山の
木の
葉が、
騷いでゐる。
今、
風が
吹かうとしてゐるのだ。
畝傍山 晝は
雲と
居、ゆふされば、
風吹かむとぞ
木の
葉さやげる
畝傍山。それには、
山の
木の
葉が、
晝は、
雲がかゝつてゐるように、ぢっと
靜まつてゐて、
日暮れが
來ると、
風が
吹き
出すといふので、その
木の
葉が
騷いでゐる。
この
二首の
歌は、
疑ひもなく、
景色を
詠んだ
歌であります。
畝傍山附近の、
小さな
範圍の
自然を
歌つた、いはゆる
敍景詩といふものであります。ところが、この
歌を
讀んだゞけで、
別の
氣持ちが
浮びませんか。それはなんだか、この
歌のうちに、
違つた
氣持ちが
隱されてゐる、といふ
氣分の
起ることであります。
歌の
表面は
一種の
譬へで、
何か
別のことがいつてあるのだらうといふ
心持ちが、
起りませんか。きっと
起るとおもひます。それで
昔の
人も、このたゞ
敍景の
歌に
過ぎない、
二種の
歌に
對し、かういふ
傳へを
語つてゐました。
神武天皇がおかくれになつて
後、
先に
申した
いすけより媛が、
自分のお
生みになつた
三人の
皇子たちを、
殺さうとするものゝあることを、むきだしにいふことは
出來ないから、かういふふうに
仄めかして
諭されたのだ、と
古事記といふ
書物にさへ
傳へてゐます。
日本の
古代の
人々は、かういふふうに、
一首の
歌についても、
何か
神の
心あるひは、
諭しが
含まれてゐるのだ、といふ
考へ
癖を
持つてゐました。その
習慣が、
久しく
續いて
來て、ごく
近代に
及んでゐます。だから
偶然起つて
來た、
一つゞきの
歌の
文句にも、たゞ
歌の
表面の
意味以外に、
何か
變つた
内容がありそうな
感じを
持つたのであります。
この
歌は
別ですが、
多くさうしたふうにどこからともなく、
風の
吹き
起るようにはやつて
來る
歌を、
不思議な
氣持ちで、びく/\しながら、
耳を
立てゝ
聞いてゐました。さうしてさういふ
種類の
歌を、
一般に、
わざうたと
申しました。
字では、
童謠とあて
字をします。が、ほんとうの
意味は、
神の
意志の
現れた
歌、といふことらしいのです。たゞ
多く
子どもたちが、さういふ
歌を、
無心で
謠ひ
擴げて
行くところから、あて
字をしたのでありませう。この
二首の
歌も、
恐らく、
いすけより媛のお
歌でも、お
作でもなく、またさうした
惡人が、
騷動を
起さうとしてゐる、
注意をなさい、といつた
意味のものでもありますまい。それにしても、こんなに
古い
時代に、このような
敍景の
歌が、
歌はれるわけはないのです。その
證據は、これから
以後、ずっと
遙かな
後まで、ほんとうに
景色を
詠んだ
歌といふものが、
出て
來ないのであります。いくらか、さうしたものゝ
見えるのは、
或時仁徳天皇が、
吉備の
くろ媛といふ
人を
訪問せられたところが、
青菜を
摘んでゐたのを
見て
作られたといふお
歌であります。
山縣に
蒔ける
青菜も、
吉備びとゝ
共にし
摘めば、たぬしくもあるか
天子の
御料の、
畑のある
山里に
蒔いた
青菜も、そこの
吉備の
國人と、
二人で
摘んでゐると、
氣がはれ/″\とすることよ、といふ
意味のことをいはれたのです。
これなどは、まづ
自然のものに
對して、
緻密に
觀察をしたものゝ、
書物に
出たはじめといつてよからうとおもひます。
山がたといひ
出して、
土地の
樣子からその
性質を
述べて、そこに
青々と
芽を
出した
野菜の
色を、
印象深くつかんで、
示してゐます。それ
以前の
歌は、
皆表面は
景色を
詠んだように
見えても、ほんとうに
味はつて
見ると、たゞのうはっつらだけのところで、
實際景色を
見据ゑたものだ、といふことが
出來ません。
かういふふうに、ごくわづかづゝ、
自然に
對する
見方が
据つて
來ました。そして、ほんとうの
敍景詩といふものが
出來上るのは、
奈良朝に
近くなつてからのことであります。
或は、もっと
精確にいふと、
奈良朝になつてからといはなければならないかも
知れません。それにも
拘らず、
神武天皇の
時分に、ちゃんとあゝいふ
調つた、
景色の
歌があるといふことは、どうしても、
不自然なように
考へられます。だからこの
二首のお
歌も、
實は
後世のもので、なんだか、へんな
暗示を
感じさせるところからして、しぜん、
畝傍山・さゐ
川||さゐ
川は、
いすけより媛のお
屋敷のあつた
所||などいふ
地名から、
歴史上の
事實に
結びつけて、
考へられたものだとおもひます。
それではどうして、
景色を
詠む
歌が
生れて
來たかといふと、それはわれ/\の
祖先が、よく
旅行をしたからです。
或は、
旅行をした
時と
同じ
心持ちで、
歌を
作る
場合があつたからです。
旅行をした
先で、いつも
新しく
小屋がけをして、それに
宿りました。さうしてかならず、その
小屋をほめ
讃へる
歌を
詠んで、
宴會を
開きました。これを、
新室の
宴といひます。その
習慣は、
旅行をしないでも、
一年のうちに、かならず
一回以上は、
自然の
村にゐて
行うたものでした。
毎年、
田の
穫り
入れがすむと、やはり
家を
作りかへ、
或は
屋根を
葺き
替へたりして、おなじく、
新室のうたげを
行ひました。かういふ
場合にはかならず、
建て
物の
内外にある
物を、
目に
觸れるに
從つて
詠み
出して、それが
最後に、
一つの
喜びの
氣持ちに
纏まる、といふふうな
作り
方になつてゐました。
譬へば、
萬葉集にある
皇極天皇のお
歌として、
傳はつてゐるものがそれです。
我が
夫子は
假廬作らす。かやなくば、
小松が
下のかやを
刈らさね
私の
大事の
方は、
假り
小屋を
作つていらつしやる。がどうも、
葺き
草がないので、
困つてゐられるようだ。そんなにかやがないならば、
向うに
見える、あの
小松の
茂つてゐる、その
下のかやをば、お
刈りなさいな。
これなどはいかにも、
旅行中の
新室の
宴らしく、
明るくてゆったりとした、よいお
歌であります。
現在かやが、
向うに
生えてゐる、と
教へてゐられるのではありません。
尠くとも、さうして
落ちついて
宴會を
開く
數時間前までは、
皆で
苦勞して、かやを
刈り
集めてゐたのです。その
勞力を
思ひ
出してのお
歌なのですが、その
席上にゐる
人は、
皆この
經驗をつい
今の
先にしたのですから、このお
歌を、きっと、
自分自身の
氣持ちを
詠んで
貰つたように、
愉快な
氣がしたに
違ひありません。
家のうちにゐて、その
内外の
樣子を
詠むといふところから、
景色の
歌が
生れて
來るのであります。それが
次第に
進んで、
旅行中の
歌にはほんとうに
自然を
詠みこなした
立派なものが、
萬葉集になると、だん/\
出て
來てゐます。
いそのさき
漕ぎ
廻み
行けば、あふみの
海 八十のみなとにたづさはに
鳴く
岩はなをば、
漕ぎ
廻つて
行くごとに、そこに
一つづゝ
展けて
來る、
近江の
湖水のうちのたくさんの
川口。そこに
鶴が
多く
鳴き
立てゝゐる。
八十の
湊といふのは、ひょっとすると、
土地の
名前で、
今の
野洲川の
川口をいつたのかも
知れません。さうすると、
歌の
意味が、しぜん
變つて
來ます。がどちらにしても、いかにも
鶴の
啼いてゐることが、
生き/\と
寫されてゐます。これがまだ、
奈良朝になつたかならない
前の
歌なのです。
高市黒人といふ
人の
作つたものであります。この
人は、
日本の
敍景の
歌の、まづはじめての
名人といつてもさし
支へのない
人で、この
後は
次第に、かうした
方面にすぐれた
人が
出て
來ます。
山部赤人なども、この
黒人に、
似せて
作つたと
思はれるものがあります。
譬へば、
和歌の
浦に
潮みち
來れば、
潟をなみ、
葦べをさして
鶴鳴きわたる
和歌の
浦に
潮がさして
來ると、
遠淺の
海の
干潟がなくなるために、ずっと
海岸近くに
葦の
生えてゐるところをめがけて、
鶴が
鳴いて
渡つて
來る。
これは、
赤人の
名高い
和歌の
浦ですが、
黒人に、
既にそのお
手本があります。
さくら
田へ
鶴鳴き
渡るあゆち
潟。
潮干にけらし。たづ
鳴き
渡る
さくらといふところに、
田の
作つてあるところへ、
鶴が
鳴いて
渡つて
行く。その
手前にあるあゆち
潟。そこは
潮が
退いてゐるに
違ひない。それであゝいふふうに、
鶴が
鳴き
渡つて
行くのだ。
どちらも
今日から
見ると、
少しおもしろみが
勝ち
過ぎました。
趣向を
凝してゐるところが
露骨に
見えるが、
赤人の
方は、よく
讀み
返して
見ると、いかにもごた/\してゐるでせう。
殊に、
二番めの
句、
三番めの
句に、
注意なさい。おなじく
趣向を
凝したところはあつても、さくら
田への
方は、いかにもすっきりと、
頭に
響くように
出來てゐます。これはやはり、
親と
子と、
師匠と
弟子と、
先輩と
後輩といふほどの
違ひが
現れてゐるのであります。でも、この
赤人といふ
人は、かういふ
傾向の
景色を
詠む
歌ひてを
亡くして、だん/\
自分の
進むべき
領分を
見出して
行きました。そしてつひには、
日本の
歌が、
赤人の
風のものになる
時機を、
待ち
屆けたのでありました。そのことをお
話するのには、
今一人、
赤人の
先輩とも、
先生ともいはなければならない、
柿本人麿のことを
申さねばなりません。
今度のお
話では、
短歌と
竝べ
稱せられてゐる
長歌のことは、
省きたいとおもひます。がこれは、
大體第一章のところで
述べてある
物語の
歌から、
變化して
來たものと
見てさし
支へありません。
柿本人麿は、
平安朝の
末になると、
神樣として
祀られる
程の
尊敬をうけるようになりました。それは、
短歌の
上の
成績によつてゞありますが、
人麿が
生きてゐた
時分、
或はその
後、
久しく
人麿の
評判[#ルビの「ひようばん」は底本では「ひようぼん」]の
高かつたのは、この
長歌を
作る
力が
非常にあつた
點でありました。だがそれと
共に、
人麿が
短歌にすぐれてゐたといふことも、
誰も
疑ふものもなく、
更に
私などからいふと、
長歌よりは
寧ろ、
短歌の
方で、
立派なものをたくさん
殘してゐます。がこの
人の
功勞は、それには
限りません。
實のところは、
人麿が
出て、
短歌といふものが、
非常に
盛んになつたのであります。
人麿の
歌を
見ると、なるほど
天才といふものはえらいものだといふ
心持ちが、つく/″\します。あなた
方にも、たゞ
昔からのいひ
傳へだからといふ
以上に、ほんとうに、
人麿のねうちを
知つてほしいと
思ふのです。
實のところ
人麿が
出るまでは、
短歌は、まだ
海のものとも
山のものともきまらないありさまでありました。この
人が
短歌といふ
形を、はじめて
獨立さしたものと
見て、まづさし
支へはないと
考へます。あんまりえらい
人だつたので、
人麿が
死ぬとまもなく、いゝ
歌であれば
人麿の
歌だ、と
考へるようにさへなつて、
今日殘つてゐる
萬葉集の
人麿の
歌といはれてゐるものにも、どこまで、ほんとうに
當人の
作物か、
判斷のつかぬところがあります。それと
共に、
人麿の
歌だと
傳へられてゐないもので、
人のために
代つて
作つた、この
人の
歌も
非常にたくさんあるようにおもひます。こゝには
大體、まづ
人麿に
違ひないと
信じられてゐる
歌について、
少し
申しませう。
あらたへの ふぢえが
浦に
鱸釣る
海人とか
見らむ。
旅行くわれを
あまさかる
鄙の
長道ゆ
戀ひ
來れば、
明石の
門より、
大和しま
見ゆ
外にも、とほつてゐる
舟がある。
自分も
舟に
乘つて、
旅をしてゐる。あゝして、
向うとほつてゐる
舟から
見れば、われ/\をばこの
藤江の
浦で、
鱸釣りをしてゐる
海人の
村人と
見てゐるだらうよ。この
旅行をしてゐる
私であるのに。
こゝの
あらたへのといふのは、やはり
枕詞です。
たへは
着物といふことで、
手觸りの
粗いものが、
あらたへなのです。さうした
着物は、
山の
藤の
纎維で
織つたものが
多かつたので、
藤江の
ふぢを
起すために、
あらたへのといふ
言葉を、
据ゑたのであります。
次ぎの
歌、
われ/\は、
遠い
都を
離れた
地方の
長い
距離をば、
焦れてやつて
來た。そして、
今この
時に
氣がつくと、この
明石の
海峽から
内らに、
畿内の
山々が
見えてゐる。
あまさかるは、やはり
枕詞で、
ひなの
ひといふ
語を
起してゐます。
意味は、
天に
遠くかゝつてゐる
日といふことなんです。それから、
ひなといふ
言葉には、
意味の
上では
無關係で、たゞ
音の
上に、
續けて
來たのであります。
やまとしまといふのは、
天皇の
御領地或は、
自分の
親しい
國のことを、
しまといつた
時代に、やまとの
國或は、
畿内の
國をさして、
やまとしまといつたのです。けっして、
海中の
島をさしたのではありません。
かういつて
來ると、
歌が
非常に、おもしろくなく
聞えるかも
知れませんが、
一度この
意味を
頭に
入れて、その
後度々、
讀み
返して
見て
下さい。さうすると、
自然にわかつて
來るでせう。
譬へば、こんな
歌になると、さうしなければ、けっして
味ひを
知ることが
出來ません。
印南野も
行き
過ぎがてにおもへれば、
心戀しき
加古の
島見ゆ
なんだかはじめての
方には、
外國語でも
聞いてゐる
感じがするかも
知れません。
印南野といふのは、
播州の
海岸に
廣く
亙つた
地名で、
加古川を
中心として、
印南郡、
加古郡に
擴がつてゐます。そして、
歴史上名高いところとなつてゐます。この
歌では、
人麿が
都から
西へ
下つたのか、それとも
遠い
國から
都へ
戻つて
來たのか、その
事情がわかりませんが、この
歌を
考へる
上には、
別にさし
支へはありません。
私はまづ、
遠い
國へ
行く
時のものとして
見ておきませう。
だん/\とほり
過ぎて
行く。どこも
皆なごり
惜しいが、
今とほつてゐる
播州の
海岸の
印南野も、とほりすぎきれないほどになつかしく
思つてゐると、ちょうど
向うの
方に、なんだか、
近よつて
行きたい
心を
起させる、
加古川の
口の、
加古の
島が
見えてゐるといふ
意味です。
この
人の
歌は
名高かつたので、
歌によつて、いろ/\に
文句が
變つて
傳はつてゐます。この
歌にも、
五番めの
句が、『かこのみなと
見ゆ』といふふうに
書いた
本もありました。そしてその
方が、
歌としては
遙かに
勝れてゐると
考へます。
沖を
通つてゐて、
印南野の
草原を、
遙かに
見てゐる。そのうちに、
遠く
加古川の
川口が
見えて
來た。あの
川口は、
知つてゐるんだ。なつかしい
舟泊りのあるところだ。
心細い
氣持ちで
眺めてゐるのです。さぁこれで、も
一度、
讀み
返して
下さい。
こんな
歌をあげて
來ると、
人麿といふ
人は、かなしい
歌ばかり
詠んでゐた
人のようですが、なか/\どうして、どっしりとした
強い
歌を、たくさん
殘してゐます。
寧ろこの
方が
得意であつたのかも
知れません。
おほきみは
神にしませば、あまぐもの
雷が
上にいほりせるかも
この
歌は、
持統天皇のお
伴をして、
雷の
岳||また、
神岳ともいふ
||へ
行幸なされた
時に、
人麿が
奉つたものなのです。
天皇は、
神樣でいらつしやる。それでこの
普通ならば、
空の
雲の
中で
鳴つてゐる
雷、その
雷であるところの
山の
上に、
小屋がけをして、お
泊りになつてゐることよ。えらい
御威勢だ。
かういふふうに、
天皇を
讃美してゐます。この
人の
歌は、
自然物を
寫す
場合にも、
自分の
感情を
述べる
敍情詩といふものゝ
場合にも、
實に
見事に
出來てゐるので、どちらがよいといひ
切ることは
出來ませんが、
世間では、
人麿は
感情をうたふのに
達してゐた
人だ、といふことにしてゐます。
私はさうも
思はないが、
先に
申した
黒人と
較べて
話すのに
便利なため、まづ
普通の
考へを
採用しておきませう。
この
二人の
先輩の
歌を
手本にして、だん/\
自分の
本領を
出して
來たのが、
先に
述べた
山部赤人なのです。この
人の
歌では、
特別に
名高いものとして、
み
吉野の
象山の
際の
木ぬれには、こゝだも さわぐ
鳥のこゑかも
ぬばたまの
夜のふけ
行けば、
楸生ふる
清き
川原に、
千鳥頻鳴く
これなどは、
人も
認めまた
實際に
ねうちもあるものです。
一體文學などいふものは、
一人がよいといひだすと、いつまでもその
批評が
續くもので
誰も
彼も、
前の
人の
言葉から
離れて
考へることの
出來ないものであつて、
存外つまらないものでも、
昔の
人が
讃めたのだからといふので、
安心してよいものだと
思つてゐることがたび/\あります。
赤人で
例を
取つて
見ると、
先の、
和歌の
浦に
潮みち
來れば、
潟をなみ、
葦べをさして
鶴鳴きわたる
のようなもので、これがよいと
思ふようでは、あなた
方の
文學を
味ふ
力が
足りないのだと
反省して
貰はねばなりません。
他人がよいからよいと
思ふのは、
正直でよいことですが、さういふのを
支那の
人はうまくいひました。それは、
耳食といふ
言葉で、
人がおいしいといふのを
聞くとおいしいと
思ふのは、
口で
食べるのではなくて、
耳で
食べるのだ。
見識がないといふ
意味に
使つてゐます。
書物はたくさん
讀まなくても、
耳食の
人にならない
用心が
必要です。
歌を
解釋して
見ると、
吉野川の
傍にある
象山の
山のま、すなはち
空に
接してゐるところの
梢を
見上げると、そこには、ひどくたくさん
集つて
鳴いてゐる
鳥の
聲、それが
聞える。
これなどは、
高い
山の
上を
見つめて
歌つてゐるので、
口から
出放題に
作つたものでは、けっして、かうはうまくゆきません。つぎのは、
ぬばたまのは、
黒いものゝ
枕詞。それで、
夜にも
關係があります。
夜がだん/\
更けて
來ると、
晝見ておいたあのきさゝげの
木のたくさん
生えてゐる、そして、
景色のさっぱりしてゐたあの
川原に、
今この
深夜に、
千鳥がしっきりなく
鳴いてゐる。
これも
夜靜かに
室のうちに
籠つて、
耳を
澄し、
眼には、その
鳥の
鳴いてゐる
場所の
光景を、
明らかに
浮べてゐるのであります。こんな
歌になると、
赤人は、
人麿にも
黒人にも
負けることはありません。ところが、だん/\
變化して
行つたと
見えて、
世間から
騷がれてゐるかういふ
歌を
作つてゐます。
春の
野に すみれ
摘みにと
來し
我ぞ、
野をなつかしみ、
一夜寢にける
あすよりは
春菜摘まむと
標めし
野に、きのふも
今日も
雪は
降りつゝ
かういふ
歌が、
先にいつたとほり、
後世持てはやされて、これを
學ぶ
人が
多かつたのであります。
後の
歌からいひませう。
二三日前に、
私はかういふ
計畫をした。あしたからは、こゝで
春の
若菜を
摘まうと
繩張りをしておいたこの
野に、いよ/\
摘まうと
思つて、
朝出て
見ると、
雪が
降つてゐる。きのふも、
降り/\してゐた。
今日も、
降り/\してゐる。
ちょっとおもしろいとおもふでせう。そのおもしろいと
思ふ
心が、
文學から
縁遠いものなのです。この
歌の
興味は、ごく
際どい
工夫にあるので、
若菜を
摘まうとしてゐた
心に、
自然が
適つてくれないといふことを、
自分勝手に、つごうよく
作り
直したものであります。
或はさういふふうな
趣向で
作れば、
人がおもしるがると
考へて
作つてゐる
痕が、ありありと
見えてゐます。でもこの
歌などは、まだよろしい。はじめの
歌などになると、とてもいけません。
ゆふべ、
實はこの
春の
野へ、れんげ
草を
摘みにと
思つて
來た、その
自分が、あんまり
野のなつかしさに、
家へも
歸らないで、つひ/\、そこで
一晩寢て
暮したといふ
意味です。
この
頃の
すみれは、
今のれんげ
草、もっと
普通に、
げんげといつてゐる
花で、あの
紫のすみれではありません。
そんなことはさておいて、この
歌の
考へてゐるところは、ほんとうのことではありません。あなた
方のうちには、すでに
風流といふ
言葉を
御存じな
方がありませう。かういふのが、
風流な
歌といふのであります。
けれども
實際、われ/\の
生活とは
關係のないことを
歌つてゐるので、
文學者だから、
普通の
人とは
違つた
考へをしなければならないと
思つて
作つたものです。ほんとうにげんげを
摘みに
來て、
野に
寢る
人がありませうか。
狐にでもつまゝれなければ、さういふことをするはずがありません。かういふのがよいと
考へるのは、
實際の
生活から
離れたところに、
文學があるのだとする
考へで、もう
今の
人とは
關係のない、
優美といふ
趣味であります。だからこの
歌は、
全然嘘の
歌だといはねばなりません。かうした
嘘を
重ね/\して
來た
日本の
歌が、だん/\
惡くなつて
來るのは、もちろんのことであります。で
先にいつた
平安朝の
古今集の
一番お
手本になつたのは、
赤人のかういふふうのもので、そのために
歌は、
次第に
空想的になり、
實際を
離れ、それとゝもに
惡くなつて
來ました。
文學といふものは、われ/\の
實際の
生活から
離れたものが、よいのではありません。
萬葉集には、まだ/\
上手な
人が、たくさんにゐます。だが
日本の
歌の
歴史は、とても
私のために
與へられた
紙數では
書き
盡すことは
出來ないので、このへんで
切り
上げて、つぎの
時代に
移ります。
つぎに
名高い
歌の
書物は、
萬葉集が
書物になつて
後、
百年以上經つてから
出た、
古今集といふ
歌集であります。これは
御存じの
醍醐天皇の
御代に
出來たもので、
普通、
天子の
仰せでつくつた
歌集の
第一番のものだといふことになつてゐます。かうした
歌集を
敕撰集といひます。
敕撰集の
第一のものであるために、
古今集の
歌が、それ
以後の
歌の
動かすべからざる
手本となつてしまひました。
この
古今集を
見ると、
不思議なことには、
古今集の
出來た
當時に
生きてゐた
人の
歌は、たいていよくなくて、
死んで
久しくなつて、
名さへ
傳はらない
人の
歌、
或は
宮中でのお
祭りに
傳へられてゐた
歌などが、とびぬけて
勝れてゐます。それは
一たいどういふわけでせうか。つまり
古今集の
時分には、
歌はかういふものだと
小さな
標準をきめてかゝつて、それにあてはまるものを
集めたから、
規模の
小さい、
方向を
誤つたものが、
多く
出たわけであります。
古今集を
撰んだ
人は
四人あるが、そのうちもっとも
名高いのは、あの
紀貫之といふ
人であります。この
人は、さういふ
歌を
詠むことが
上手だつたけれども、
本式の
文學らしいものを
作ることは、ほとんど
出來ませんでした。さうして
見ると、やはり
下手といふより
爲方がありません。
一、
近江より
朝たち
來れば、うねの
野にたづぞ
鳴くなる。
明けぬ。この
夜は
二、まがねふく
吉備の
中山。おびにせる、
細谷川の
音のさやけさ
三、みさぶらひ。み
笠と
申せ。
宮城野の
木の
下露は、
雨にまされり
(一)朝(只今の朝の意味とは少し違つてゐます。まだ夜のあけない時分をいふのです)立つて、近江の國をばやつて來ると、このうねの野に、鶴が鳴いてゐることだ。あゝ明けた。この夜は。
いかにも、
暗い
夜の
朝に
代つた
喜びが、『あけぬこの
夜は』といふ
簡單な
句のうちに、
漲つてゐるではありませんか。そして
暗がりから
明るくなつて
來て、
今まで
歩いてゐた
道のほとりに、
鶴の
寢泊りしてゐた
沼地のようなものゝあつたことに、
氣のついた
樣子が、
明らかに
感ぜられます。ほとんど、なんのやかましい
思想も
強い
感情もないが、
明るい、にこにこした
氣持ちが、われ/\を
心の
底からゆすり
立てるように
感じないでせうか。
(二)まがねふくは、
枕詞。
吉備の
國の
中山||美作にある
||よ。それが
腰のひきまはしにしてゐる、
細谷川の
音の
澄んで
聞えることよ。
あなた
方は、この
歌を
見ると、
内容がからっぽだと
感じるかも
知れません。しかしさういふふうに
早合點してしまふようでは、
日本の
歌はわかりません。
日本の
歌には、
意味や
思想から
離れて、また
特別のねうちを
持つたものさへあるのです。そしてその
代表的なものがこの
歌です。まづ
第一に、
調子の
高いことを
感じるでせう。のびやかで、ひっぱり
上げるような
調子が、ある
點まで
行つて、ぴったりと
落ちつきよく
納まつてゐるではありませんか。
かういつても、あなた
方が
考へて
見てくれなければわからないことだが、
幾度もくり
返して
貰ひたく
思ひます。
意味からいへば、
川の
音がよいといふだけのことです。そして
吉備の
中山が
帶にしてゐるといふようなことは、
別に
珍しくもなんともないのであるにも
拘らず、われ/\はそれに
對して、
朗らかな
氣持ちを
受けずにゐられません。この
歌は、
萬葉集にも
似たものがあつて、
おほぎみの
御笠の
山の
帶にせる、
細谷川の
音のさやけさ
となつてゐます。だが
私は、
前の
方が
好いとおもひます。なぜなれば、『おほぎみの
御笠の
山』といふところに、
人の
頭が、もつれを
感じます。
純粹に
單純にすっきりとはひつて
來ないのです。
まがねふくは、
鐵を
吹きわけるといふ
元の
意味を
忘れてゐて、こゝでは、
單に
吉備を
起すための
枕詞にすぎません。こんな
單純なうちに、われ/\の
心を
豐にする
文學の
味ひが
歌にはあるのです。かういふ
味ひは、
祖先以來與へられてゐる
大事なものだから、それを
失はないようにするのが、われ/\の
務めといふよりも、われ/\の
喜びと
感じなくてはなりません。
三番めになると
大ぶん
複雜で、
(三)お附きの人よ。お笠であると申し上げい。この宮城野の木の上からふり落ちる露は雨以上である。
これは、
自分の
大事に
思つてゐる
人に
對する
篤い
心の
現れで、
何もわざ/\お
附きの
人を
呼んでいつてゐるのではなく、かりにさうしたありさまを、
胸に
浮べたゞけです。
獵に
出かけた
人が、
露に
濡れてお
出でになるだらう。お
附きの
人が、お
笠をさし
上げてくれゝばよいのにと
感じてゐるのを、
直接にいひかけたように、
詠んだのであります。
この
歌になると、あなた
方にもおもしろみはわかりませう。だがなほこの
歌について、
注意せねばならぬのは、
みさぶらひの
み、
みかさの
み、
みやぎのゝ
みが
重なつてゐる
點であります。もっといふと、
みの
音と
關係の
深い
ま行音の、
まをせ、
まされるの
まがあります。これを
頭韻といつて、
日本の
歌では、
豫め
計畫してかういふことをするのは
尠いが、
偶然こんな
形の
出來ることがあります。この
歌の
快い
調子も、
似た
音の
重なつてゐるところから
來てゐるのであります。けれどもこれは、
始終くり
返されると、あき/\するものだといふことを
考へなければなりません。
その
外に、まう
二三首、
古今集から
勝れた
歌やら、
變つた
歌を
附け
加へておきませう。
平安朝のたくさんの
歌人のうち、ことに
名高く、また
實際ねうちもあつた
人の
一人は、
在原業平といふ
人であります。この
人の
歌は、
大人でなければわからない
氣持ちをあまり
詠みすぎてゐるので、
今度は
説明をすることは
出來ないが、
一例をあげると、
自分の
親しくつきあつてゐた
人が、
行くことも
出來ぬところに
隱れてしまつて
後、その
人のゐた
家を
訪問して
一人悲しんだ
名高い
歌があります。
月やあらぬ。
春や
昔の
春ならぬ。わが
身ひとつは、もとの
身にして
ちょっと
見たゞけでは、わかつたようでわからぬ
歌です。
同じような
句が
重なつてゐると、
自然片一方の
方は、
一部分略する
習慣があります。この
一句、
二句は、『
月や
昔の
月にあらぬ。
春や
昔の
春ならぬ』といふのがほんとうなのです。
歌でなく
普通の
文章なら、さう
書かねばとほりません。それをかういふふうにして、
意味を
表す
間に、
外れ
易い
氣分を
保存しようとするのが、
歌の
上の
工夫であります。
工夫でなくとも、
自然にその
作者の
心が
燃え
立つてゐると、かういふふうにつごうのよい
氣分風な
現し
方が、
口をついて
出て
來るのであります。
春は
昔の
春ではないか。
月は
昔の
月ではないか。
月も
春も、
昔のまゝのものである。
自然物はさうして
變らないでゐるに
拘らず、
自分の
身だけは
元のまゝにして、さうして
······ と
後は
誰にも
感ぜられることだから、いひ
盡さなかつたのです。これはわざといひ
盡さなかつたといふより、いひ
盡したゞけでは
滿足出來なかつたので、かういふ
尻切れとんぼのようになつてゐるのですが、かへって
讀む
人の
心に、
深い
印象と
聯想とを
起させるものなのです。つまりこの
後へ
來る
言葉を
補へば、
私の
知りあひの
人は
元の
身ではないといふ
言葉にすぎません。さうした
言葉を
入れるのと
讀む
人の
氣持ちに
任せるのと、どちらが
好いと
思ひますか。
私はこの
歌が
譬へば
百點の
歌だといふ
程には、
讃める
氣にはなりません。が
尠くとも、
平安朝の
短歌のうちでは
勝れたものであるといふことだけはいひたいとおもひます。いかにもねばり
強い、あきらめにくい
悲しみの
心が、ものゝ
纏ひついたように、くね/\した
調子の
現れてゐるのが
感じられませう。かういふ
歌が、この
後また
一つのお
手本となつて
來るのであります。しかしながら、
完全にこの
手本をまねをうせ
或はのり
越したといふものは、さうありませんでした。
ついでに、
秋の
歌のうちから、
二首ぬいておきませう。
蜩の
鳴きつるなべに、
日は
暮れぬ。とおもふは、
山のかげにぞありける
木のまより
漏り
來る
月の かげ
見れば、
心づくしの
秋は
來にけり
これは
二首ながら、よみ
人知らずといつて、
作つた
人のわからない
歌となつてゐます。ところが、
先にもいつたとほり、
古今集のよみ
人知らずの
歌のうち、
勝れたものが
多いので、これなどはどこへ
出しても
恥づかしくない
立派な
歌であります。
蜩が
鳴いたと
共に、
日は
暮れてしまつた、と
自分がふっとさう
考へたのは、
山のかげが、
家の
方へさして
來て、うす
暗くなつたためだつたのだ。
かういふ
歌になると、
先の
話の
調子でいふと、
或は
趣向をもつていつた
歌だとおもふ
方があるかも
知れません。「
日はくれぬとおもふは」などいふところがよくのみこめなければ、さういふふうな
感じがしそうです。けれどもこの
作者の
中心として
詠んでゐるのは、そんなところでなく、
何事もないごく
退くつな
生活をしてゐる
人が、けふもまた
暮れて、
蜩が
鳴いてゐるとかう
思つてゐて、
暫く
經つて
後よく/\
見ると、それはほんとに、
日が
暮れたのでなかつたといふことを、
説明でいつてゐるのでなく、
氣持ちから
讀む
人の
心に
觸れて
行つてゐるのであります。
あなた
方がこの
歌から
受ける
感じは、
確かにさうした
方面が
主なのだと
考へて
貰はねばなりません。
とおもふはなどいふ
調子は、いかにも
日を
暮しかねてゐる
退くつな
人のあくびでもしたいような
氣持ちが
出てゐるとおもひます。
今の
人は、
秋だつて
春だつて、さう
變つた
心持ちを
持ちません。それがほんとうはよろしいので、あなた
方が
特別に、
秋は
悲しいものだといふふうに
感じてゐてはいけないのです。しかしながら
昔の
歌人は、
秋は
悲しいものだと
感じることの
出來るのは、
自分の
歌人としての
大事の
資格だとおもつてゐました。
秋のさびしさ
悲しさのわからぬものは、
文學者でないと
恥ぢてゐたのです。それはかういふ
歌がいくつも
積み
重なつた
結果、
秋は
悲しいものだといふ
約束が
出來てしまつたのです。だがさういふ
不自由な
約束の
出來ない
前の
歌を
見ると、
譬ひ
秋の
悲しくさびしいものだと
詠んでゐても、それが
各個人の
實際の
感じとして
人々の
胸に
強く
觸れるのであります。
強制せられて
爲方なしやつてゐるのと、
自ら
進んでやつてゐるのと
違ふわけであります。
いつも、
秋になるといふと、
心をめちゃくちゃにする、その
秋はまたやつて
來たとおもふ。
木立ちの
間から、
漏れてさして
來る
月の
光が、
色が
變つて
感じられる。それを
見ると、あゝまた
寂しい
秋だ、とかうおもふといふ
歌です。
あなた
方の
若い
心には、かういふ
歌の
興味はわからないかも
知れませんが、
日本の
文學には、かういつた
靜かなかすかな
味ひが、よい
作物にはずっととほつてゐます。それを
物を
單純に
考へる
人は、
悲觀的だ
涙脆い
氣持ちだといつて、いけないものとしてゐるが、
人間はいつもにこ/\
笑つてゐるものばかりのものではありません。さびしく
或は
悲しい
氣持ちになつた
時に、はじめてほんとうの
自分といふものを
考へて
見るものです。だからかういふ
歌も、
強ちに
排斥することは
出來ません。もちろんかういふ
歌をまねたものが
多いからといつて、
日本の
文學は
悲觀的な
文學だなどゝ、よくも
道理を
知らないで、
一概にばかにしてかゝるのはいけない
癖だとおもひます。
外國の
譬へにも、
金持ちが
天國へ
行くのは、
大きな
象に
針の
穴をとほらせるよりもむつかしいといつてゐますが、さういつた
滿足しきつた
氣持ちばかりでゐては、
人間にはしみ/″\と、
自分を
省みる
時が
來ないのであります。
今一つ、
古今集の
名高い
歌をあげて、
評判と
實際とはこれ
程違ふといふことを
證明して
見たいとおもひます。
勅撰集第一番の
古今集の
春のはじめにあるものといへば、そのうちでも
第一番の
歌といふことになるから、
自然人は、それを
重く
見ます。
在原元方といふ
人の
歌で、『
舊年に
春立ちける
日よめる』といふ
題で、
年のうちに、
春は
來にけり。
一年を、こぞとやいはむ。
今年とやいはむ
この
歌、
偶然よいものゝように
考へられてゐます。ところが
明治になつて、
古い
歴史のある
日本の
短歌を
改正して、
新派和歌といふものを
唱へ
出した
一人の
正岡子規といふ
人は
第一にこの
歌を
笑ひました。こんな
歌がよいのならば、またかういふふうに
詠んでも
歌だといふことが
出來るといつて、
日本人と、
西洋人とのあひの
子を、
日本人とやいはむ。
西洋人とやいはむ
といふのでした。
これは
子規が、
説明のわかり
易いように
作つて
見たゞけで、
固より
譬へにすぎません。
子規のは
三十一字のたゞの
文章で、
歌ではありません。いくらまづくともつまらなくとも、『
年のうちに』の
方には、
多少意味以外に
安らかな、そして
子どもらしい
氣持ちになつて
起した
氣分が
出てゐます。その
點はもちろん
考へねばなりませんが、さうかといつて、この
歌がよい
歌だとおもふのは、たいへんいけないことです。
ふる
年といふのは、
新年に
對する
舊年であつて、
昔の
暦では
年の
明けないうちに、
立春の
節といふ
暦の
上の
時期がやつて
來ることもあつたのです。
普通の
考へでは、
春と
正月とが
一致するものとしてあります。これは、
習慣から
出て
來る
心持ちであります。ところが
時とすると、
暦の
上にさういつた
行き
違ひが
出來て
來ます。
年の
變らないうちにもう
春が
來たといふ
氣持ちは、
文學的ではないけれども、
確かに
文學の
生活の
上では、
一種注意をひくことであります。それでこの
歌が
出來たのでありました。
まだ、
年の
變らない
舊年の
間に、あゝ
春がやつて
來たことだ。して
見ると、この
一年が
二つに
分れて、きのふまでを
去年といはうか。
今日から
後を、
今年といはうか。
それも
理くつからはをかしいが、
考へればなんでもないところに、わづかな
興味を
起したにすぎません。だからけっしてよい
歌ではありませんが、
子規のいふような、あひの
子の
歌見たようなものでもありません。しかしながら、かういふ
歌が
後々、だん/\はやつてきて、
數へきれないほどたくさん、
同種類のものが
出來ました。つまり
一種とぼけた
歌といはなければなりません。
古今集の
後、たくさん
勅撰集やらいろんな
歌人のめい/\の
家集といふものが
出てゐるが、
歌のほんとうの
性質といふものは、だいたい、
古今集の
讀み
人知らずの
歌すなはち
先に
解釋したようなものにあるといふふうに
考へ
出されました。
古今集の
歌は、
全體としてはいけない
歌がありますが、
短歌はどんなものかと
考へると、
古今集の
歌がまづ
頭に
浮ぶのであります。その
後二百年あまりの
間に、だん/\
歌といふものゝ、かういふものでなければならないといふ、
漠然とした
氣分が
出來て
來ました。さうして
皆さんも
知つてゐる
鎌倉時代に
近くなると、
京都の
貴族たちの
歌が、
目に
立つて
變つて
來ました。それは、
新古今集といふ
歌集を
見ればよくわかることです。
後鳥羽上皇は、
非常に
御熱心でもあり、ごく
稀なほどの
名人でもいらつしやいました。いはゆる
目の
寄るところに
玉で、この
新古今集の
時ほど、
日本の
歌の
歴史の
上で、
名人・
上手といふべき
人が、たくさん
揃つて
出たことはありません。
唯皆あまり
仲間づきあひが
盛んに
行はれたゝめに、
歌は、お
互ひによい
影響ばかりでなく、わるい
流行を
起すことになりました。
文學の
上によい
人がたくさん
出たから、かならずしもよい
文學が
出來るといふわけのものではないといふ
事實を、この
時ほど、はっきりと
見せたことはありません。つまり
上手どうしが、
皆肝腎の
點よりもごく
枝葉にわたるところに
苦勞をして、それをお
互ひに
誇りあつたゝめに、それが
重なり/\して、いけないことが
起つて
來ました。それでも
中には、よいものがずいぶん
出來てゐます。なんといつてもすぐれた
人の
作つた
文學にはよいものが
出ないではゐないわけなのです。
樗咲く
外面の
木かげ
露おちて、さみだれ
霽るゝ
風わたるなり
(前大納言忠良) 樗は、
普通『せんだん』といつてゐる
木で、
紫がゝつた
花が
夏頃に
咲きます。それが
家の
外側の
木立ちの
中に、
交つてゐるわけであります。それを
作者がさみだれの
頃に
見てゐる
歌で、
樗の
咲いてゐる
家の
外側の
木立ちの
下蔭に、ぽた/\と
露が
落ちる
程に、
風が
吹きとほる。それは、
幾日か
降り
續いてをつた
梅雨が
上る
風である、といふ
意味です。
かういつたところで、
味ひは、あなた
方がめい/\に、
幾度もくり
返し
讀んで
見なければ
起つて
來ないとおもひます。
この
頃の
先輩に、
名高い
西行法師といふ
人があります。
御存じのとほり、
世捨て
人として
一風變つた、
靜かな、さびしい
歌を
作つたといはれてゐます。そしてこの
人の
歌が、
新古今集の
歌の
風に、
非常な
影響を
與へたとも
見られてゐます。だがこの
人の
歌全體に、かならずしも
世間でいふようなものばかりでなく、やはり
當時流行の、はでなこせ/\したものもないではありません。だがこの
人のものでいゝのになると、かういふものがあります。
吉野山。
櫻の
枝に
雪散りて、
花おそげなる
年にもあるかな
雲かゝるとほやまばたの、
秋されば、おもひやるだにかなしきものを
吉野山は、
古くからずいぶん
長く、
坊さんその
外修道者といつて
佛教の
修行をする
人が
籠つてゐたことは、
明らかな
事實でした。その
經驗から、はじめの
歌が
出來たのであります。
吉野山よ。その
吉野山の
櫻の
木の
枝に、
見てゐると、
雪がちら/\
降りかゝつてゐて、これでは、
花がいつ
咲きさうにも
思はれない。
今年は、
花の
咲くことの
晩くおもはれる
年よ、といふのです。
さびしい
修道者の
仲間の
尠い
山家の
暮しのうちにも、
何か
待ち
設ける
心があつて、たのしみになつてゐるものです。もう
春になつてゐながら、せめて
樂しみにしてゐるその
花さへも、とても
咲きそうに
見えない。さういふ
靜かな
人の
物足りない
心持ちを、さびしいとも
悲しいともいはないで、それかといつて、
雪のふりかゝつてゐるのを
怨むでもなく、
自然の
景色をそのまゝに
眺めてゐる
氣持ちがよく
出てゐます。わりあひいゝ
歌の
多い
西行にも、これほどの
歌は、さうたくさんにはありません。
後の
方は、これに
比べるといくらか
露骨に、
西行の
氣持ちを
出しすぎてゐるが、こゝまでつっこんで
歌つた
人がないものですから、
一例としてあげました。
雲かゝる
遠山はたといふのは、
雲のかゝつてゐる
景色が、
見えてゐるのではありますまい。
恐らく
西行の
知つた
人が、
西行と
同じように、
遠山にかすかな
修道の
生活をしてゐる。それが、
秋になつて
來た
時分に
思ひ
出される。その
遠山ばた
||この
はたは、
山の
傍といふことでなく、やはり、
山の
畠でせう
||その
秋の
雲が、
絶えずかゝつてゐるはずの、
遠い
山家の
畠のあるところが、
秋が
來るといふと、たゞ
想像して
考へて
見るだけでも、その
生活が
悲しく、
胸に
感じられる。まして、このさびしい
秋を、
山畠のあたりに
住んでゐる
人は、どんなに
悲しからうといつたものらしいのです。
この
歌の
特徴は、
想像してゐる
景色が、
實際にあり/\と
目に
浮んで
來るようになつてゐるところにあります。これを
文學の
上で
把持力といつて、
自分の
經驗をいつまでも
忘れずに、
握りしめる
力があつて、
機會があると、それを
文章に
現す
能力をいふのであります。
一句・
二句の
景色は、
西行にその
強い
力のあることが
窺はれます。それによつて、その
以下の
思ひやるだに
悲しきものをといふような、むしろありふれた
言葉まで、いき/\と
人の
胸に、なんだか
堪らないように
迫つて
來るのであります。
同じ
新古今集に、
藤原良經といふ
人があつて、
攝政太政大臣にまでなつた
人ですが、よほどの
歌よみでありました。
うちしめり、あやめぞかをる。ほとゝぎす
鳴くやさつきの
雨の
夕ぐれ
この
歌などは、そんなにたくさん
類例のないほどよいものであります。ものゝ
感じ
方が
非常に
鋭敏で、
鼻・
耳・
肌などに
觸れるものを
鋭く
受け
取ることの
出來た
珍しい
文學者であつたことを
見せてゐます。
五月の
雨の
降つてゐる
夕ぐれのことです。どこからともなく、あやめの
咲いた
花のかをりがして
來ます。それが、かをりがするといふ
程でなく、なんとなく
感じられるといふ
程度に
匂つて
來るのです。それを
雨のために、
匂ひが
和らげられて、ほとんど、あるかないかのように、しんみりとしたふうに
香つて
來る、と
述べてゐます。
説明したゞけではなんでもないことですが、この
時代に、これほど
細かく
捉へがたいことを
現した
人はないのです。
『ほとゝぎす
鳴くやさつき』といふのは、
何もその
時ほとゝぎすが
鳴いてゐるのではありません。
さつきといふために、
習慣的にほとゝぎすが
鳴くところのといふ
言葉が
附いて
來たのであります。いはゞ
一種の
枕詞で、かういふ
風に
靜かな
歌では、
少しでもいひすぎたり
内容が
殖えすぎると、
全體の
調和が
破れて
來ます。むしろ、
内容のないものを
入れなければならないのです。それでかういふ
言葉が
利用せられてゐるのです。けれどもどうしてもほとゝぎす
鳴くやといふと、ほとゝぎすが
鳴いてゐる
實際の
樣子が
浮びます。これがこの
歌の
少しの
瑕であります。
この
歌を
作りかへて、
別に
變つた
領分を
開いたものがあります。それは
明治になつて
死んだ
京都の
蓮月といふ
尼の
作で、
朝風にうばらかをりて、ほとゝぎす
鳴くや うづきの
志賀の
山越え
これになると、ほとゝぎすは、
實際に
鳴いてゐるように
詠んでゐます。けっして
枕詞でなく、
四月を
意味するうづきの、
自然の
景色の
一部としてゐます。が、こゝを
中心として
見ると、どうしても
良經の
歌から、
暗示を
得て
作つたに
違ひありません。そして
良經の
歌の
氣分をすっかり
取つて、
一種の
歌に
纏めてゐます。
更に
今少し、さっぱりとした
感じが
出てゐるようです。
四月頃には、
野茨の
花が
咲くものです。この
匂ひがまた
非常によろしい。
風などにつれて
匂つて
來ると、なんだか
新鮮な
氣のするものです。
志賀の
山越えといふのは、
昔から
歌にたび/\
詠まれた、
京都から
近江へ
越えるところです。
この
歌は
恐らく
空想でせうが、この
場所或はさうした
景色は、
蓮月が
始終見てゐたに
違ひありません。だから
空想であつても
事實と
同じであり、むしろ
事實より
力強く
人の
心に
響くのです。
野茨の
匂ひがして
來て、
自分の
行く
道の
傍に、ほとゝぎすの
鳴く
聲のするところの
志賀の
山越えよ、といふのです。かういふ
風な
作りかへが、また
短歌の
上にたびたび
行はれました。けれども、わざ/\
作りかへようといふ
考へを
持つた
時には、たいてい
失敗して、
元の
歌から
獨立したねうちのない、
文學的にはだめなものが
多いのであります。
蓮月尼の
歌などは、
作る
時には
恐らくうちしめりの
歌のあることも
忘れてゐながら、どこかに
記憶が
殘つてゐて、その
調子、その
氣分が、
現れて
來たものでありませう。
後鳥羽上皇のお
歌は、その
現し
方が
非常に
手がこんでゐて、ちょうど
腕のよく
利いた
人の
作つた、
工藝品を
見るようでありますから、あなた
方に、そのおもしろみを
感じて
貰ふのは、むつかしいと
思ひます。こゝにはごく
平凡なものをあげておきませう。
秋ふけぬ。
鳴けや。
霜夜のきり/″\す やゝかげさむし。
蓬原の
月 秋が
深くなつてしまつた。この
霜空の
晩に
鳴いてゐる、
聲かれ/″\のきり/″\すよ。もっと
出來るだけ
鳴け。
空から
照す
光も、
冷く
感じられる。その
蓬原のようになつた
家を
照す
月よ。その
下で、きり/″\すが、ほのかに
鳴いてゐる。
きり/″\すといふのは、こほろぎだといつてゐます。
かういふ
風にくろうとらしい
歌をお
作りになつたので、
歴代の
皇族方の
中では、
文學の
才能から
申して、
第一流にお
据りになる
方です。けれども、
時代が
先に
申したようですから、そのお
作も、
自然おもしろさが
片よつてゐて、
完全なものとは
申し
上げることが
出來ません。
天皇さまをはじめ、
皇族方のうちで、
圓滿な
歌を
作られたお
方を
探して
見ると、それから
時代が
下つて、
南北朝のはじめ
頃の
伏見天皇、それからその
皇后さまの
永福門院といふお
方、このお
二方が、まづとびぬけていらつしやると
思ひます。
勅撰集でいふと、
新古今集が
八番めの
歌集、それから
後六つめすなはち、
古今集から
勘定して
十四番めの
玉葉和歌集、
十七番めの
風雅和歌集、この
二つのものに、
特別に
關係がお
深いのであります。
ゆふぐれの
雲飛びみだれ、
荒れて
吹く
嵐のうちに、
時雨をぞきく
いつはとも
心に
時はわかなくに、をちの
柳の
春になる
色 これが
伏見天皇のお
歌です。
後鳥羽上皇から、も
一つ
進んで、
更にその
一種の
癖を
拔いた
素直なお
歌になつてゐます。
夕方の
空には、
一ぱい
雲が
亂れてゐて、あちらこちらに
早く
飛び
廻つてゐる
時に
吹きおろす
山風が、あら/\しく
吹いてゐる。その
目にも
耳にも、すさまじい
景色。
殊にはげしい
風の
音にも
打ち
消されずに、
靜かな
時雨の
音のしてゐるのを
自分が
聞いてゐる。
これはちょっと
見ると、「
雲飛び
亂れ」、「
荒れて
吹く」などいふ
言葉が、ごた/\してゐるようであるが、
私の
解釋したように
荒れて
吹くから、
別に
考へて
見ると、
空模樣に
更に
加へて、はげしい
風の
樣子が
感じられます。このお
歌は
靜かな
時雨の
音を、さうした
間に
耳を
留めてゐたといふところに、
變つた
興味を
起されたので、かういふ
詠み
方の
歌は、これ
以前にもこれ
以後にも、まづ
類例のない
新しい、さうしていゝものだといふことが
出來ます。
あらしといふのは
山おろしのことで、
暴風ではありません。
今は、
冬か
春か
心の
上で
迷はずにゐられない
時分である。
心ではいつとも
時候の
區別がつかないのに、
目に
見るものは、すでに
尠くとも、
一つだけは
春らしいしるしを
示してゐる。これは
遠方に
立つてゐる
柳の
木の、いかにも
春景色になつて
行く
色あひがそれである。
春になる
色といふのは、まだ
春になり
切つてゐるわけではありません。
春の
樣子が
調つて
行つてゐることをいふのです。
色といはれたのは、
漠然とどこか
春らしい
樣子・
色あひの
見えることを、
氣分式に
示されたのです。をちの
柳といふのも、はっきりと、
何本あるとも、どの
位の
距離にあるともいはれないで、まづほのかな
色あひで、
幾本か
竝んでゐるといふ
感じを
起させるためなのです。
いつはといふのは、
いつといふのとかはりがないと
見ておいてよろしい。
やまもとの
鳥の
聲より
明け
初めて、
花もむら/\
色ぞ
見え
行く
何となき
草の
花咲く
野べの
春。
雲に ひばりの
聲ものどけき
これが
永福門院のお
歌です。
御覽のとほり、
物の
色あひ、
組み
合せが、
非常に
美しく
作られてゐます。
山の
麓の
方に、
鳥の
聲がする。その
鳥の
聲のするあたりから、だん/\
夜が
明けかけて、あちらに
一かたまり、こちらに
一かたまりといふふうに、
山の
櫻の
花も
色が
現れて、だん/\
明らかになつて
行く。
『
花もむら/\
色ぞ
見え
行く』などいふところに
氣のついたのは、やはり
時代がずっと
新しくなり、
人の
心が
自然物に
對して、
敏感に
動くようになつて
來たからです。しかし
普通の
人は、
文學の
上ではやはり
昔のまゝの
型どほりに
作つてゐるに
拘らず、
勝れた
人は、その
時代の
人らしい
眼で、
物を
見、
感じるものであります。さうして
新しいとはいひながら、
柔らかで
穩やかなよい
氣持ちを
破らないで、
上品さを
持ちながら
歌はれてあるのが、この
歌などのよいところです。
殊に
二番めの
歌などになると、ほとんど、
只今の
人が
作つたものか、とうっかり
思はれるようなお
作であります。まづ
普通の
人ならば、
名のない
雜草の
花などは
詠みません。ところがこの
門院樣は、その
雜草の
花に
興味を
持つてゐられます。なんといふことのない
變つた
點もない
草の
花、この
咲いてゐる
野の
春景色、とぱっと
廣い
樣子を
現して
來て、
下の
句で、
自分はどこにをつて、
何をしてゐるかといふことを、はっきりと
現してあります。その
草の
花の
咲いてゐるところに
据りこんで
空を
仰ぐと、
雲が
出てゐる。その
雲のあたりへ
鳴き
上つて
行く
雲雀の
聲に
氣がついて、そして、
今かうしてゐることの
外に、なんの
爲事も
煩はしさも
心がかりもない、
豐かな
氣持ちを
感じてゐることを、のどけきといふ
言葉で
示されてゐます。
この
頃にも、このお
二方を
取りまいて、
名人といつてよい
人々が
大ぶんゐるのですが、そのお
話は、
只今いたしません。こんな
勝れた
歌が、しかも
非常に
貴い
方々のお
作に
出て
來てゐるに
拘らず、
世間の
流行は、
爲方のないもので、だん/\、
惡い
方へ/\と
傾きました。さうして、この
玉葉集、
風雅集などの
歌は、いけないつまらない
歌だ、と
ねうちをきめてしまふようになりました。これは
世間の
評判と、ほんとうの
物の
ねうちとは、たいていの
場合一致してゐないそのもっとも
適當な
例であります。これから
後、
室町時代から
時が
過ぎて
江戸の
時代に
至るまで、そんなに
勝れた
歌人は、
多くは
出てまゐりませんでした。つまり
平凡なお
手本を
敷き
寫しになぞつて
行くものですから、だん/\つまらなく、その
作者の
特徴を
出すことが
出來なくなつたわけであります。
ところが
江戸時代になると、
徳川氏の
政治の
方針がさうであり、また
世の
中が
治つて
來たゝめか、
學問が
盛んになつて
來ました。そして
支那の
學問から
更に
進んで、
日本の
學問日本の
文學の
研究が
行はれ
出して
來ました。さうして
學者も
文學者も、かならずしも
上流社會の
人々ばかりでなく、かへって
低い
位置の
人の
方に
中心が
移つて
來るようになりました。
昔の
文學昔の
短歌を
研究した
結果、
今までやつてゐたのはいけなかつた。
五百年も
千年も
前の
歌の
方が、
自分たちのものより
遙かに
新しく、もつと/\
熱情が
籠つてゐるといふことに、
皆が
心づくようになりました。さういふよい
影響を
與へたのは、
第一に、
萬葉集が
新しく
讀み
返されたことであります。それから
學者・
文學者の
間に、
一足飛びに、よい
歌に
激戟せられて
[#「激戟せられて」はママ]、
新しい
歌を
作る
人々が
殖えて
來ました。
さういふ
人たちは、
數へ
上げることの
出來ない
程たくさんありますから、こゝにはごくわづかの
代表者だけを
出しておきませう。
よくいふ
國學の
四大人のうちで、
一番文學者らしかつたのは
賀茂眞淵であります。そしてそれ
以前にも、だん/\
萬葉ぶりの
歌を
作つた
人があるが、この
人から
一つの
主義として、さういふ
方面に
進む
歌が
出來て
來ました。でもこの
人の
歌は、
評判ほども
勝れたものではありません。だから
一首だけ
引いて
置きませう。
秋の
夜の ほがら/\と、
天の
原照る
月かげに、
雁鳴き
渡る
ほがら/\といふと、
夜明けの
空のあかるさを
示す
言葉です。それを、
月の
照つてゐる
空の
形容に
用ひたので、いかにも
晝のような
明るい
天が
感じられます。
隅から
隅までからりと
明るく、
廣い
空に
照つてゐる
秋の
夜の
光線のさしてゐる
中に、
雁が
鳴き
渡つて
行くといふ
歌です。
感じてゐるところはよろしいが、
上の
三句がごた/\として、
感じた
氣分がすっきりと
現れてゐません。けれどもこの
人は、まづ
大體かういふ
調子に、
一筋に
歌ふのが
得意だつたと
見えます。
おなじような
歌を
竝べて
見ませう。
上田秋成といふ
人は、
眞淵の
孫弟子に
當る
文學者ですが、この
人も、
歌はその
散文ほど
上手ではありませんが、かなり
作れた
人であります。
照る
月に、
雁のまれびと
鳴き
渡る。わが
待つ
友は、こよひ
來なくに
こんな
歌になると、この
人の
方が、
遙かに
勝れた
才能を
持つてゐたことがわかります。
空に
照つてゐる
秋の
夜の
月。その
月光のさしてゐる
空を
遠方からやつて
來た
雁が、
列をなして
鳴きとほつて
行く。こんな
晩には、
一しょに
親しむ
友だちの
訪問が
待たれる。けれども
私の
待つてゐる
仲間は、
今晩はやつて
來ないでゐるのに、さうして
私一人で
明るくほがらかな
天地に
照る
月に
對してゐるのに、その
上を
雁が
鳴き
連れてとほる、といつた
滿足はしてゐながら、ある
點に、
自分の
感じをいつて
聞かせたい
仲間のゐない、もの
足らなさを
述べてゐるのです。
しかしそれも、けっして
理くつらしくは
出てをらずに、このほがらかな
調子に、
玉のように
包まれて、たゞ
月の
光に、
及び
雁の
列に
動かされた
氣分として、
胸に
觸れて
來ます。かういふのが、ほがらかな、たけ
高い
調子といふのであります。
先の
歌に
比べて
見ると、こんな
形の
歌の
出るまでは、それでも
相當に
見えたものが、なんだかつまらなく
感じられるでせう。
まれびとといふのは、お
客さまといふことですが、ごくたまに
來る
珍しい
人といふのが
古い
意味です。
渡り
鳥なる
雁をば、この
珍客に
見立てたのであります。それを
譬へのようにいはないで、
直接にまれびとなる
雁といふふうにいつたところに、
濁りがなくなつてをります。
眞淵の
弟子の
本居宣長、その
弟子の
夏目甕麿、この
人の
子で、
紀州の
醫者の
家の
養子となつた
加納諸平といふ
人があります。
小さな
時から
父の
伴をして、
諸國を
歩いて
攝津の
國へ
來た
時に、
酒飮みの
父親は、
月を
捕へるのだといつて、
歌の
友だちなどが
止めるのもきかずに、
池の
中へをどり
込んで
死にました。それからすぐに
和歌山へ
引き
取られて
行つて、
久しく
國へ
歸ることもしませんでした。
加納家に
住みこんでから、はじめて
遠江の
母のところへ
歸省したことがあります。かういふ
傳記の
一部を
知つて
諸平の
歌を
讀むと、
誠に
思ひ
深いところが
感じられます。
歌や
俳句の
上では、その
形が
短く
小さいだけに、
はしがき||また、
詞書きともいふ
||や、その
歌を
作つた
事情などを
知るといふことが、
外の
文學とは
別で
大事なことであります。つまりその
作物の
背景になつてゐるものをのみこんで、
眞に
歌なり
俳句なりを
味ひ
知るといふことが、どうしても
必要なのです。
旅衣わゝくばかりに
春たけて、うばらが
花ぞ、
香に
匂ふなる
青年が
一人旅をしてゐるといふことを、
頭に
持つて
下さい。
わゝくといふのは、きれや
着物のぼや/\になつて
來ることで、
長旅をしたゝめに、
摺り
切れて
來たりしたところがある
樣子です。
着てゐる
旅行の
着物が、わゝけるほどに
早く
出た
春の
旅も、すでに
春深くなつて、
道傍に
雜草のように
咲いてゐる
野茨の
花が、
匂ひ
立つて
感ぜられる、といふ
意味です。
がそれはもちろん、
實際以上に
歌らしい
味をつけようとしてゐます。
理くつっぽくいへば、
和歌山を
出て
遠江までの
間に、
旅ごろもがわゝけるといふ
程のこともあるまいし、また
早春に
出たのが
晩春になつたといふ
程のこともありますまい。けれどもそれほどのことは、
文學上の
一種の
誇張といふもので、いくらか
輪をかけて
感じ
深くいひ
表すのが、
文學のほんとうの
爲方だと、
今ですらも
考へてゐる
學者・
文學者が
多いのですから、これくらゐのことは、
昔の
歌としてあたりまへだと
見ていゝとおもひます。この
頃の
人はすべて、あまり
自分の
生活が
歌に
現れるといふことを
嫌つたので、さういふふうなのを
無風流だとしりぞけてゐました。この
中にこんなのが
出て
來ると、さすがにちょっと、
胸をうたれる
氣がするのです。
ゆふ
月夜 ほの
見え
初めしあぢさゐの、
花も まどかに
咲きみちにけり
これはちょっと
見ると、いかにも
紫陽花の
花の
樣子を
細やかに
寫してあるように
見えますが、
實は
紫陽花を
見て
作つたのでなく、
見慣れてゐる
花の
模樣を
空想に
浮べて、
美しく
爲立てたに
過ぎません。だから
近頃の
歌や
文學の
上からは、かういふ
態度はよいとはいへないが、それにしても
作つたものが
相當によければ、やはりよいといふより
外はありません。
空想で
作りながらこれまでに
作り
上げたのだから、その
作者に
力の
十分あつたことがわかります。この
人は
學者であり
文學者ですから、
言葉のあやを
十分に
心得て、
少しのむだもしないでゐます。それがかへって、
今では
邪魔になるのです。
譬へばわれ/\の
時代には、
夕づく
夜ならば、ほんとうに
夕方のお
月さまが
出てゐると
感じるだけで
滿足するのに、この
人の
歌では、
昔の
習慣に
從つて、ほの
見え
初めしの
枕詞なる
夕づく
夜といふ
言葉を、まづ
据ゑたのです。もちろんたゞの
枕詞だけでなく、
夕月の
頃にほんのり
見えかけたといふ
意味にはいつてゐるのですが、
學問的にもこの
二つの
句の
連絡をつけてゐるわけなのです。
昔はかういふことの
自由に
出來るのが
名人だと
思はれたのですが、
今ではかへって、
文學を
味ふ
上の
足手纏ひとして、
避けねばならぬことであります。
夕月夜といふのは
夕月の
夜といふことでなく、
月夜は
月のことです。で、
夕月の
頃といふと、
新月の
出た
時分といふことになります。
その
頃にはまだ、ほんのり
見えかけてゐた
紫陽花のその
花も、もう
今では、まどかにまんまるく、
圓滿に
咲いてゐることだ。
紫陽花の
花のだん/\
咲き
調つて
行くありさまが、よく
詠んであります。その
上に、いかにも
紫陽花に
適した
氣分が
出てゐます。たゞそれだけで
滿足せずに、
新月の
頃から
注意してゐたのが、こんなに
大きく
立派に
咲いたといふようなおもしろみを
附けたのは、ほんとうはよくないのです。けれどもそれはあなた
方の
年頃では、
細かに
説いてもむりですから、もっと
長く
歌に
親しんで
貰つて、
自分自身の
批評が
出來るまでは、まづよい
歌だと
考へて
置いて
下さい。その
上この
歌では、まだ/\
言葉の
外にいひ
含めたものがたくさんあります。
あぢさゐの花もと
もの
字を
使つてゐるのは、
空のお
月樣がちょうどまんまるになつてゐる
頃、あぢさゐもまんまるになつた。かういふことを
感じさせようとしてゐるのです。なかなか
昔の
人は
苦勞したものです。がそんなことは、
文學の
上ではむだ
骨折りといふものです。それをまた、おもしろいと
思つてゐてはいけないのです。
この
人には
歌の
上に、まだいろ/\の
試みがあつて、おもしろいことをしてゐるが、その
一例をあげると、
月に
吹く
市の
植ゑ
木の
風高み
塵も
殘らず
霽れし
空かな
月に
聽く
波の
響きも
更けにけり。
誰か うきねの
袖絞るらむ
月にうつ
大城の
鼓しばし
待て。くだちゆく
夜を、
誰か
惜しまぬ
かういふ
一續きの
歌が、まだ/″\あるのですが、これだけにして
置きます。
月の
照つてゐる
所に
咲いてゐる、
町のとほりに
植ゑてある
木に、
當るところの
風の
音の
高さに、なるほどひどい
風だと
思つて
空を
見ると、
吹き
上げられた
塵も、どこへ
行つたかわからぬほど
澄みきつて、
霽れきつてゐる
月の
空よ。
月光の
照す
下に
聞えて
來るその
波の
響きも、
思へば
夜の
更けた
感じのすることだ。かうした
晩に、この
海に
舟旅をして、
船の
中で
目の
覺めてゐる
人もあらう。そして
水の
上に
浮いて
寢てゐる
袖を
絞るほど、
涙で
濡らしてゐるだらう。
月の
輝いてゐる
空に
響くお
城の
太鼓。それは、もう
門限だといふ
知らせなのです。だがまう
暫く、
打つのを
待つてくれと
感じるのは、
現在の
心持ちのなくなるのを
惜しむ
心なのです。それにも
拘らず、
太鼓はどん/\
鳴つてゐます。それに
對して、なるほど
夜はだん/\
更けて
行くが、この
更けて
行く
夜を
惜しまない
人が、
誰一人としてあらうか、とかういふ
心持ちです。
全體月に
何々といふふうに、
頭に
句を
置いてゐるために、
幾分歌が
上調子になつてゐるが、
眞底にはやはりよいものがあります。
市といつても、
今の
市場ではなく、
商人の
店を
列ねてゐる
町通りで、そこには、
今の
街路樹に
似たものを
植ゑたのです。それは
古いことで、この
歌人のゐた
時分のことではないが、
歌の
上ではかういふふうに、
現代を
古いものに
爲立てゝ
作ることもあつたのです。まぁあなた
方にわかり
易いためには、
東京の
銀座その
外、
街路樹の
植つてゐる
商店街の、
夜ふけて
騷いでゐた
人も、
寢靜まつた
後の
月光を
思ひ
浮べて
見ればよからうと
思ひます。
浮き
寢といふのは、
水鳥が、
波の
上で
寢ることから
移つて
來て、
人間にも、
舟旅の
夜泊りの
場合に
用ひます。それにも、
うきねといふ
言葉に
憂きといふ
厭な、
情ない
悲觀すべき
意味の
言葉が、
音から
感じられる
習慣になつてゐます。この
歌も
内容よりは、
調子が
流れすぎてゐるのですが、
作者が
月の
晩に、さびしい
心になつて、
外にもかうした
人があるといふことに
思ひ
及してゐる
心持ちが、この
人をなつかしく
感じさせます。
大城の
鼓といふのは、
和歌山城の『
時』の
太鼓です。
この
歌は
別に
深く
思ひこんでゐるのでもない
樂しみを、ぢっと
續けてゐたといふだけの
物ですから、
調子と
意味とがぴったりとしてゐます。さうしてこれらの
歌は、
皆歌つて
氣持ちの
好いように、
調子が
調つてゐます。
沖さけて
浮ぶ
鳥船。
時のまに
翔りも
行くか。いさな
見ゆらし
熊野の
山めぐりをした
時の
歌ですが、
沖遠く
離れて
浮んでゐる
鳥のような
船、それが
今、そこにをつたかと
思ふと、
瞬間の
目も
及ばない
遠いところにかけつて
行つてゐることよ。それは
鯨が
見えたに
違ひない。
こんな
歌になると、
自由で
浮れるような
調子が、ぴったりと
もりを
衝く
鯨船のすばやい
動作を
表すに
適當してゐるではありませんか。
鳥船といふのは
大昔の
國語で、
船の
名前でもあり、
同時に
舟についていらつしやる
神樣のお
名前でもありました。あなた
方ならば、
船が
早いから
鳥に
見立てたのだと
思つて
置いてさし
支へありません。
熊野の
鯨つきの
歌です。
この
諸平のゐた
時分に、
近世でもっとも
名高い
香川景樹といふ
歌人が
京都にゐました。
非常に
上手の
評判があり、
門人も
多く、その
一門は
榮えて
今までも
續いてゐるほどの
人でありました。
明治天皇のお
師匠番になつた
人も、この
流れのものであります。そのためにたいへん
名人のように
感じられてゐますが、これもまた、
評判と
實際との
價値の
違ふ
生きた
手本で、この
人の
歌にはほとんど
文學として
ねうちのあるものは
見えません。まづ
一例を
取つて
申しませう。
春日野に
若菜を
摘めば、われながら
昔の
人のこゝちこそすれ
これはこの
人のものでもいゝ
部類の
歌です。けれども、
先の
諸平に
似た
歌があるのと
竝べて
見ませう。
曳馬野の
木の
芽はり
原。
入り
亂れ、
春日くらすは、
昔人かも
景樹のは、『
歴史的にいろ/\な
記念のあるこの
春日野で、
自分が
若菜を
摘んでゐると、
昔の
人も、かうして
若菜を
摘んでゐたのだから、うっかりすると、
自分でゐて
昔の
人のような
氣がする』といふのです。おもしろいと
思ふでせうが、これは
説明でおもしろく
見えてゐるので、
歌その
物は、たゞさういふおもしろさを
考へて
見たゞけで、ほんとうに
氣分の
上にまで、
昔の
人になつた
心持ちが
出てゐません。これを
知識の
上の
遊びといひます。それとゝもに、
氣分が
少しも
伴はない
[#「伴はない」は底本では「件はない」]のですから、
散文的な
歌といはねばなりません。
殊にわれながらといふのは、いかにも
常識的で、
自分で
知つてゐて、わざとそんなことをいつたゞけだといふことを
見せてゐます。
それと
比べて
見ると、
諸平のはさすがにもっと
熱情が
出てゐます。
自分が
昔の
人か
知らんとかう
疑つてゐるので、その
疑ひの
起る
導きとして、『
曳馬野||萬葉集などに
見えてゐる
土地で、
濱松から
北へかけての
平野地方||の
木の
芽が
新しく
出てゐる。
||その
はると、はりの
木の
はりとをひっかけて
歌つたもの
||はりの
木原にめちゃくちゃに
入りこんで、この
春の
日を
一日遊んでゐるのは、あの
萬葉集に
出て
來てゐる
人たちなのか
知らん』と
疑つたので、その
一人として、
諸平自身も
含めていつてゐるわけです。
景樹の
歌の
方が、
皆にわかりやすからうと
思ひますが、そこが
散文と
詩との
違ふところで、
意味の
上からおもしろいことが、きっと
詩や
歌の
完全な
ねうちをきめるものだといふわけにはいけないのです。
世間のものを
見ても、
誰にもわかるものが、きっとよい
文學藝術であると
思つてゐる
人もあるが、それは
大へんな
間違ひであるといはねばなりません。
景樹のことはこれでよします。
景樹などが
騷がれてゐたかげに、
評判にならずにゐた
人が、まだ/\ありました。その
一等目につく
人は、
越中富山の
橘曙覽であります。この
人は
明治以後の
新派の
和歌といふものに、
非常な
影響を
與へた
人ですが、それまではあまり
人から
騷がれなかつたのです。
江戸の
末から
明治の
始めにかけて
生きてゐた
人です。いひ
傳へでは、
大へん
貧乏な
暮しをしてゐて、しかも
國學や
歌の
樂しみを
捨てなかつた
人であります。この
人にも、
諸平同樣同じ
句をはじめに
据ゑて
詠んだ
歌があります。
中でも、『
獨樂吟』といふのは、
五十首からもあります。
名高いものだから、そのうち、
六七首竝べておきませう。
樂しみは、
草のいほりの むしろ
敷き、ひとり
心をしづめをる
時樂しみは、すびつのもとにうち
仆れ、ゆすり
起すも知らでねし
時樂しみは、めづらしき
書人に
借り、はじめ
一枚 ひろげたる
時樂しみは、
妻子むつまじくうち
集ひ、
頭竝べてものを
食ふ
時樂しみは、
心に
浮ぶはかなごと
思ひつゞけて、たばこ
吸ふ
時樂しみは、
晝寢めざむる
枕べに、こと/\と
湯の
沸えてある
時樂しみは、
乏しきまゝに
人集め、
酒のめ ものを
食へといふ
時樂しみは、
童墨するかたはらに、
筆の
運びをおもひをる
時樂しみは、
神のみ
國の
民として、
神のをしへを
深くおもふ
時 かういふふうに、
最後の
句を
皆『
時』でをさめてゐます。
恐らく
口から
出任せに、
大して
苦勞なしに
作つたとおもはれますが、それが
皆下品でなく、あっさりとほがらかに
明るい
氣持ちで
詠み
上げられてゐます。この
外、
樂しみの
歌はありますが、
年の
若いあなた
方にはわかりにくいものは
省きました。これらの
歌ならば、あなた
方にも
大體わかりませう。そして
年が
行くと
共に、これらの
歌の
味ひが、
變つて
感じられて
來るのです。だからまづ
暗記しておいてほしいとおもひます。
一番はじめの
歌は、
蓆を
敷いて、そこに
坐りこんで、ぢっとしてゐる
心の
寛ぎを
喜んでゐるのです。
たばこの
歌で、
はかなごとゝいふのは、
考へなくてもよいようななんでもない、
輕いことゝいふことです。これはやはり、
大人でないとわからない
氣持ちです。
第一あなた
方にはたばこを
吸ふ
人の
氣持ちがわかるはずがないのです。
貧乏ながら、こせつかずに
暮してゐたことは
乏しきまゝの
歌を
見て、いかにも
人なつかしい、
善良なこの
歌人の
性質が
思はれます。
やはりあなた
方にはわかり
難い
興味かも
知れませんが、
わらはすみするなどの
歌は、ぢっくりと
落ちついた、そしてなんともいへない
心のはづんでゐるのが
感じられるものです。
最後の
歌は、よく
世の
中の
人の
作りそうな
道徳的な
歌ですが、この
人は
眞底から、さう
考へてゐたゝめに、
人から
頼まれて
作つたといふような
浮いたところを
見せてゐません。ことに、
神のをしへを
深くおもふ
時、などいふ
味ひは、これから
先、あなた
方にだんだんわかつて
來るだらうと
思ひます。
この
人は、また
物の
名前ばかり
集めて、
一首の
歌を
作つてゐます。
木樵り
歌 鳥のさへづり
水の
音 ぬれたる
小草 雲かゝる
松 山中といふ
題です。
山中目に
見、
耳に
聞えるものを
五とほり
竝べて、そしてもの
靜かな
山の
樣子を
考へさせようとしたのです。けれどもこれは、
和歌ではまづ
出來ない
相談で、
恐らくこの
人が、かういふふうな
思想の
表し
方をする
俳句にも、
興味を
持つてゐたから
出來たものなのでせう。どう
考へても、この
五つの
現象が、
一つの
完全な
山のありさまに
組み
立てゝ
感じられては
來ません。こんな
人ですから、
時々おどけた
歌を
作つて、
人を
笑はせようとしました。そしてやはり、
下品すぎるといふ
程でなく
出來てゐるのは、
人格によるのです。
着る
物の
縫ひめ/\に、
子をひりて、
虱の
神代はじまりにけり
わたいりの
縫ひめに
頭さし
入れて、ちゞむ
虱よ。わがおもふどち
やをら
出でゝ、ころもの
首を
這ひ
歩き、
我に
恥ぢ
見する
虱どもかな
昔の
人は、
虱となじみが
深かつたゝめに、なんでもなく、かういふ
歌を
作つてゐます。そして
汚らしいあの
昆蟲を
憎んでばかりもゐません。
最初の
歌は、
少しおどけ
過ぎて、
下の
句などはわるいとおもひます。
二番めのわがおもふどちは、おれの
仲よしだといふくらゐの
意味で、おれだつて
虱とおんなじことだ、とまるで、
綿入りの
着物の
縫ひめに、
頭をつゝこんで
縮かんでゐる
虱ばかりを
笑ふことは
出來ないといふのです。それを
深くおもひ
込んだようにいはずに、
輕く
詠みすてゝゐるのです。
『やをら
出でゝ』といふのは、
少し
説明しすぎてゐますが、
下の
句の
方になると、いかにも
自分の
人からうけた
恥づかしい
經驗を、そのまゝ
輕い
心で
歌つてゐるところが
見えて、わるい
歌ではありません。この
人の
先生は、
加納諸平と
同門の
田中大秀といふ
飛騨の
國の
學者でした。その
師匠を
訪うた
時の
旅行の
歌。
旅衣うべこそさゆれ。
乘る
駒の
鞍の
高ねに、み
雪つもれり
旅裝束をとほして、
寒さが
身に
應へると
思つてゐたが、なるほど
冷やついたはずだ。あの
向うに
見える、
乘るこまの
鞍といふ
名まへの
乘鞍の
高山に、
雪が
積つてゐる。
この
人は、この
山を
甲斐の
國乘鞍山と
書いてゐるが、これはやはり
只今の
飛騨山脈(
日本アルプス)の
中のあの
山でせう。この
歌はどうかすれば、
馬に
乘つて
旅をしてゐて、それをすぐさま
枕詞として、
鞍の
高ねといつたようにも
思はれるが、さう
考へてはいけません。
尚明治より
前の
歌人として、
忘れることの
出來ないのは、
福岡の
人、
大隈言道であります。この
人も
曙覽のように
輕く
明るくあまり
考へないで、
自由に
歌を
作つたらしい
人であります。やゝおもしろさにつり
込まれて、
下品な
歌もないでもありません。けれども、
歌よみとしては
勝れた
人といふことが
出來ます。ことに
子どもらしい
氣持ちを
歌に
自由に
詠みこんだ
人で、そんなのになると、つい/\よいわるいを
忘れて、
同感せずにゐられません。しかし
曙覽の
歌で、さういふ
種類の
歌をあげすぎましたから、こゝでは、まじめなものを
二三首竝べるだけにしておきませう。
うちわたす をち
方人の、
道おそく
行き
果つまじき
野の
景色かな
これも、
歌には
少ない
材料で、
春の
野の
霞んで
果てがなく
感じられる
上に、
皆の
心ののんびりしてゐる
氣持ちが、よく
出てゐて、しかも
非常に
古風に
上品に
出來てゐます。
うちわたすは、
見渡すといふくらゐの
意味。をち
方人といふのは、
向うの
方を
歩いてゐる
人。
道おそくとは、
足がはかどらないでゐる
樣子を
少々變つたいひ
廻しでいつたのです。つまりさうしないと、
平凡に
上すべりがすると
思つたのでせう。だから、
直譯して、
道がはかどらないでと
取つておけばよいでせう。とても
今日一日では
行ききるまい、といふ
氣持ちを、
行き
果つまじき
野の
景色かな、とかういつたのです。
今までの
歌と
違つて、
重くるしいけれども、やはりよい
感じがするでせう。
かへり
來て、
寢たるわらべの
袂より、
頭出だせるつく/\しかな
かへる
雁、かへりて
春もさびしきに、わらはのひろふ
小田のこぼれ
羽 この
人は
子どもがすきだつたゝめに、
同時に、
子どもが
讀んでもわかるような
歌、
或は
自分が
幼い
氣持ちになりきつて
作つたものがたくさん
出來たものらしく
思はれます。
春になると
雁が、
北の
方へ
歸ります。その
後に、
雁の
羽が、
田圃などによく
殘つてゐます。それを
子どもが
拾つておもちゃにして
遊んでゐるのを
作つたので、さういふ
材料をごく
重々しく
爲上げてゐるのです。
春に
歸る
雁が、
歸つてしまつた
後、
花は
咲いても、
子どもは
雁の
姿が
見えないので、『がん/\
竿になれ
棒になれ』といふ
童謠を
謠ふことも
出來ないでゐるその
子どものさびしい
氣持ちを、
春もさびしきといつたので、
大人の
作者自身の
氣持ちを
述べたのではありません。さういふ
場合に、そんな
子どもが、
田におりて
行つて、
雁のこぼして
行つた
羽を
拾つて
喜んでゐるといふ
歌です。それをすっかり、
大人の
側から
見て
作つてゐるのです。
も
一つ、
子どもを
種にしながら、
重い
歌をあげておきませう。
わが
身こそ
何とも
思はね。めこどもの
憂してふなべに、うきこの
世かな
これも、あなた
方にわかりにくい
氣持ちかも
知れません。がお
父さんお
母さんの
年ごろになると、
家の
生活が、よくてもあしくても、なんだか
社會的の
暮しといふものが、
重荷に
感じられて
來るものです。さういふ
年ごろになると、この
歌を
詠んだ
言道の
心持ちがわかるでせう。
言道もやはり、
曙覽同樣の
貧しい
暮しをしてゐました。けれどもそれについて
普通の
人でありませんから、
大して
氣にかけたりあせつたりはしてゐなかつたのです。が
時々、もっとよい
暮しがしたいといふ
氣持ちが
起らなくもありません。それは
多くは
家族のものたちが、
主人に
訴へる
場合、
或はさういふ
心持ちを
顏に
現してゐる
場合に
起つて
來る
氣持ちなのです。
自分はそれはなんとも
思つてゐないが、しかし、
時々悲觀すべき
世間だ、とおもふ
氣がする。
自分の
妻や
子が、
厭だ/\と
世の
中のことをいふにつれて、
厭に
思はれるこの
世よといふのです。
少しもの
足らないところもありますが、
家の
主の
持ちそうな
氣持ちをよくいつてゐます。
なべにといふ
語は、それと
共にと
同時になどいふ
意味ですが、この
頃の
人は、
輕く
ゆゑにといふくらゐの
意味にも
用ひたのです。
以上の
人々で、
江戸時代の
歌人を
代表させたつもりです。