町立病院の
庭の
内、
牛蒡、
蕁草、
野麻などの
簇り
茂ってる
辺に、
小やかなる
別室の一
棟がある。
屋根のブリキ
板は
錆びて、
烟突は
半破れ、
玄関の
階段は
紛堊が
剥がれて、
朽ちて、
雑草さえのびのびと。
正面は
本院に
向い、
後方は
茫広とした
野良に
臨んで、
釘を
立てた
鼠色の
塀が
取繞されている。この
尖端を
上に
向けている
釘と、
塀、さてはまたこの
別室、こは
露西亜において、ただ
病院と、
監獄とにのみ
見る、
儚き、
哀な、
寂しい
建物。
蕁草に
掩われたる
細道を
行けば
直ぐ
別室の
入口の
戸で、
戸を
開けば
玄関である。
壁際や、
暖炉の
周辺には
病院のさまざまの
雑具、
古寐台、
汚れた
病院服、ぼろぼろの
股引下、
青い
縞の
洗浚しのシャツ、
破れた
古靴と
云ったような
物が、
ごたくさと、
山のように
積み
重ねられて、
悪臭を
放っている。
この
積上げられたる
雑具の
上に、いつでも
烟管を
噛えて
寐辷っているのは、
年を
取った
兵隊上りの、
色の
褪めた
徽章の
附いてる
軍服を
始終着ているニキタと
云う
小使。
眼に
掩い
被さってる
眉は
山羊のようで、
赤い
鼻の
仏頂面、
背は
高くはないが
瘠せて
節塊立って、どこにかこう一
癖ありそうな
男。
彼は
極めて
頑で、
何よりも
秩序と
云うことを
大切に
思っていて、
自分の
職務を
遣り
終せるには、
何でもその
鉄拳を
以て、
相手の
顔だろうが、
頭だろうが、
胸だろうが、
手当放題に
殴打らなければならぬものと
信じている、
所謂思慮の
廻わらぬ
人間。
玄関の
先はこの
別室全体を
占めている
広い
間、これが六
号室である。
浅黄色のペンキ
塗の
壁は
汚れて、
天井は
燻っている。
冬に
暖炉が
烟って
炭気に
罩められたものと
見える。
窓は
内側から
見悪く
鉄格子を
嵌められ、
床は
白ちゃけて、そそくれ
立っている。
漬けた
玉菜や、ランプの
燻や、
南京虫や、アンモニヤの
臭が
混じて、
入った
初めの一
分時は、
動物園にでも
行ったかのような
感覚を
惹起すので。
室内には
螺旋で
床に
止められた
寐台が
数脚。その
上には
青い
病院服を
着て、
昔風に
頭巾を
被っている
患者等が
坐ったり、
寐たりして、これは
皆瘋癲患者なのである。
患者の
数は五
人、その
中にて
一人だけは
身分のある
者であるが
他は
皆卑しい
身分の
者ばかり。
戸口から
第一の
者は、
瘠せて
脊の
高い、
栗色に
光る
鬚の、
眼を
始終泣腫らしている
発狂の
中風患者、
頭を
支えてじっと
坐って、一つ
所を
瞶めながら、
昼夜も
別かず
泣き
悲んで、
頭を
振り
太息を
洩し、
時には
苦笑をしたりして。
周辺の
話には
稀に
立入るのみで、
質問をされたら
决して
返答をしたことの
無い、
食う
物も、
飲む
物も、
与えらるるままに、
時々苦しそうな
咳をする。その
頬の
紅色や、
瘠方で
察するに
彼にはもう
肺病の
初期が
萌ざしているのであろう。
それに
続いては
小体な、
元気な、
頤鬚の
尖った、
髪の
黒いネグル
人のように
縮れた、すこしも
落着かぬ
老人。
彼は
昼には
室内を
窓から
窓に
往来し、
或はトルコ
風に
寐台に
趺を
坐いて、
山雀のように
止め
度もなく
囀り、
小声で
歌い、ヒヒヒと
頓興に
笑い
出したりしているが、
夜に
祈祷をする
時でも、やはり
元気で、
子供のように
愉快そうにぴんぴんしている。
拳で
胸を
打って
祈るかと
思えば、
直に
指で
戸の
穴を
穿ったりしている。これは
猶太人のモイセイカと
云う
者で、二十
年ばかり
前、
自分が
所有の
帽子製造場が
焼けた
時に、
発狂したのであった。
六
号室の
中でこのモイセイカばかりは、
庭にでも
町にでも
自由に
外出のを
許されていた。それは
彼が
古くから
病院にいる
為か、
町で
子供等や、
犬に
囲まれていても、
决して
他に
何等の
害をも
加えぬと
云うことを
町の
人に
知られている
為か、とにかく、
彼は
町の
名物男として、
一人この
特権を
得ていたのである。
彼は
町を
廻るに
病院服のまま、
妙な
頭巾を
被り、
上靴を
穿いてる
時もあり、
或は
跣足でズボン
下も
穿かずに
歩いている
時もある。そうして
人の
門や、
店前に
立っては一
銭ずつを
請う。
或家ではクワスを
飲ませ、
或所ではパンを
食わしてくれる。で、
彼はいつも
満腹で、
金持になって、六
号室に
帰って
来る。が、その
携え
帰る
所の
物は、
玄関でニキタに
皆奪われてしまう。
兵隊上りの
小使のニキタは
乱暴にも、
隠を
一々転覆えして、すっかり
取返えしてしまうのであった。
またモイセイカは
同室の
者にも
至って
親切で、
水を
持って
来て
遣り、
寐る
時には
布団を
掛けて
遣りして、
町から一
銭ずつ
貰って
来て
遣るとか、
各に
新しい
帽子を
縫って
遣るとかと
云う。
左の
方の
中風患者には
始終匙でもって
食事をさせる。
彼がかくするのは、
別段同情からでもなく、と
云って、
或る
情誼からするのでもなく、ただ
右の
隣にいるグロモフと
云う
人に
習って、
自然その
真似をするのであった。
イワン、デミトリチ、グロモフは三十三
歳で、
彼はこの
室での
身分のいいもの、
元来は
裁判所の
警吏、また
県庁の
書記をも
務めたので。
彼は
人が
自分を
窘逐すると
云うことを
苦にしている
瘋癲患者、
常に
寐台の
上に
丸くなって
寐ていたり、
或は
運動の
為かのように、
室を
隅から
隅へと
歩いて
見たり、
坐っていることは
殆ど
稀で、
始終興奮して、
燥気して、
瞹眛なある
待つことで
気が
張っている
様子。
玄関の
方で
微な
音でもするか、
庭で
声でも
聞こえるかすると、
直ぐに
頭を
持上げて
耳を
欹てる。
誰か
自分の
所に
来たのでは
無いか、
自分を
尋ねているのでは
無いかと
思って、
顔には
謂うべからざる
不安の
色が
顕われる。さなきだに
彼の
憔悴した
顔は
不幸なる
内心の
煩悶と、
長日月の
恐怖とにて、
苛責まれ
抜いた
心を、
鏡に
写したように
現わしているのに。その
広い
骨張った
顔の
動きは、
如何にも
変で
病的であって。しかし
心の
苦痛にて
彼の
[#「彼の」は底本では「後の」]顔に
印せられた
緻密な
徴候は、一
見して
智慧ありそうな、
教育ありそうな
風に
思わしめた。そうしてその
眼には
暖な
健全な
輝がある、
彼はニキタを
除くの
外は、
誰に
対しても
親切で、
同情があって、
謙遜であった。
同室で
誰かが
釦鈕を
落したとか
匙を
落したとか
云う
場合には、
彼がまず
寝台から
起上って、
取って
遣る。
毎朝起ると
同室の
者等にお
早うと
云い、
晩にはまたお
休息なさいと
挨拶もする。
彼の
発狂者らしい
所は、
始終気の
張った
様子と、
変な
眼付とをするの
外に、
時折、
晩になると、
着ている
病院服の
前を
神経的に
掻合わせると
思うと、
歯の
根も
合わぬまでに
全身を
顫わし、
隅から
隅へと
急いで
歩み
初める、
丁度激しい
熱病にでも
俄に
襲われたよう。と、やがて
立留って
室内の
人々を

して
昂然として
今にも
何か
重大なことを
云わんとするような
身構えをする。が、また
直に
自分の
云うことを
聴く
者は
無い、その
云うことが
解るものは
無いとでも
考え
直したかのように
燥立って、
頭を
振りながらまた
歩き
出す。しかるに
言おうと
云う
望は、
終に
消えず
忽にして
総の
考を
圧去って、こんどは
思う
存分、
熱切に、
夢中の
有様で、
言が
迸り
出る。
言う
所は
勿論、
秩序なく、
寐言のようで、
周章て
見たり、
途切れて
見たり、
何だか
意味の
解らぬことを
言うのであるが、どこかにまた
善良なる
性質が
微に
聞える、その
言の
中か、
声の
中かに、そうして
彼の
瘋癲者たる
所も、
彼の
人格もまた
見える。その
意味の
繋がらぬ、
辻妻の
合わぬ
話は、
所詮筆にすることは
出来ぬのであるが、
彼の
云う
所を
撮んで
云えば、
人間の
卑劣なること、
圧制に
依りて
正義の
蹂躙されていること、
後世地上に
来るべき
善美なる
生活のこと、
自分をして一
分毎にも
圧制者の
残忍、
愚鈍を
憤らしむる
所の、
窓の
鉄格子のことなどである。
云わば
彼は
昔も
今も
全く
歌い
尽されぬ
歌を、
不順序に、
不調和に
組立るのである。
今から
大凡十三四
年以前、この
町の一
番の
大通に、
自分の
家を
所有っていたグロモフと
云う、
容貌の
立派な、
金満の
官吏があって、
家にはセルゲイ
及びイワンと
云う
二人の
息子もある。
所が、
長子のセルゲイは
丁度大学の四
年級になってから、
急性の
肺病に
罹り
死亡してしまう。これよりグロモフの
家には、
不幸が
引続いて
来てセルゲイの
葬式の
終んだ一
週間目、
父のグロモフは
詐欺と、
浪費との
件を
以て
裁判に
渡され、
間もなく
監獄の
病院でチブスに
罹って
死亡してしまった。で、その
家と
総の
什具とは、
棄売に
払われて、イワン、デミトリチとその
母親とは
遂に
無一
物の
身となった。
父の
存命中には、イワン、デミトリチは
大学修業の
為にペテルブルグに
住んで、
月々六七十
円ずつも
仕送され、
何不自由なく
暮していたものが、
忽にして
生活は一
変し、
朝から
晩まで、
安値の
報酬で
学科を
教授するとか、
筆耕をするとかと、
奔走をしたが、それでも
食うや
食わずの
儚なき
境涯。
僅な
収入は
母の
給養にも
供せねばならず、
彼は
遂にこの
生活には
堪え
切れず、
断然大学を
去って、
古郷に
帰った。そうして
程なく
或人の
世話で
郡立学校の
教師となったが、それも
暫時、
同僚とは
折合わず、
生徒とは
親眤まず、ここをもまた
辞してしまう。その
中に
母親は
死ぬ。
彼は
半年も
無職で
徘徊してただパンと、
水とで
生命を
繋いでいたのであるが、その
後裁判所の
警吏となり、
病を
以て
後にこの
職を
辞するまでは、ここに
務を
取っていたのであった。
彼は
学生時代の
壮年の
頃でも、
生得余り
壮健な
身体では
無かった。
顔色は
蒼白く、
姿は
瘠せて、しょっちゅう
風邪を
引き
易い、
少食で
落々眠られぬ
質、一
杯の
酒にも
眼が
廻り、ままヒステリーが
起るのである。
人と
交際することは
彼は
至って
好んでいたが、その
神経質な、
刺激され
易い
性質なるが
故に、
自ら
務めて
誰とも
交際せず、
随てまた
親友をも
持たぬ。
町の
人々のことは
彼はいつも
軽蔑して、
無教育の
徒、
禽獣的生活と
罵って、テノルの
高声で
燥立っている。
彼が
物を
言うのは
憤懣の
色を
以てせざれば、
欣喜の
色を
以て、
何事も
熱心に
言うのである。で、その
言う
所は
終に一つことに
帰してしまう。
町で
生活するのは
好ましく
無い。
社会には
高尚なる
興味が
無い。
社会は
瞹眛な、
無意味な
生活を
為している。
圧制、
偽善、
醜行を
逞うして、
以ってこれを
紛らしている。ここにおいてか
奸物共は
衣食に
飽き、
正義の
人は
衣食に
窮する。
廉直なる
方針を
取る
地方の
新聞紙、
芝居、
学校、
公会演説、
教育ある
人間の
団結、これらは
皆必要欠ぐ
可からざるものである。また
社会自ら
悟って
驚くようにしなければならぬとかなどとのことで。
彼はその
眼中に
社会の
人々をただ二
種に
区別している、
義者と、
不義者と、そうして
婦人のこと、
恋愛のことに
就いては、いつも
自ら
深く
感じ
入って
説くのであるが、さて
自身にはいまだ一
度も
恋愛ちょうものを
味うたことは
無いので。
彼はかくも
神経質で、その
議論は
過激であったが、
町の
人々はそれにも
拘らず
彼を
愛して、ワアニア、と
愛嬌を
以て
呼んでいた。
彼が
天性の
柔しいのと、
人に
親切なのと、
礼儀のあるのと、
品行の
方正なのと、
着古したフロックコート、
病人らしい
様子、
家庭の
不遇、これらは
皆総て
人々に
温き
同情を
引起さしめたのであった。また一
面には
彼は
立派な
教育を
受け、
博学多識で、
何んでも
知っていると
町の
人は
言うている
位。で、
彼はこの
町の
活きた
字引とせられていた。
彼は
非常に
読書を
好んで、しばしば
倶楽部に
行っては、
神経的に
髭を
捻りながら、
雑誌や
書物を
手当次第に
剥いでいる、
読んでいるのではなく
咀み
間合わぬので
鵜呑にしていると
云うような
塩梅。
読書は
彼の
病的の
習慣で、
何んでも
凡そ
手に
触れた
所の
物は、それがよし
去年の
古新聞であろうが、
暦であろうが、一
様に
饑えたる
者のように、きっと
手に
取って
見るのである。
家にいる
時もいつも
横になっては、やはり、
書見に
耽けっている。
ある
秋の
朝のこと、イワン、デミトリチは
外套の
襟を
立てて
泥濘っている
路を、
横町、
路次と
経て、
或る
町人の
家に
書付を
持って
金を
取りに
行ったのであるが、やはり
毎朝のようにこの
朝も
気が
引立たず、
沈んだ
調子で
或る
横町に
差掛ると、
折から
向より
二人の
囚人と四
人の
銃を
負うて
附添うて
来る
兵卒とに、
ぱったりと
出会す。
彼は
何時が
日も
囚人に
出会せば、
同情と
不愉快の
感に
打たれるのであるが、その
日はまたどう
云うものか、
何とも
云われぬ一
種のいやな
感覚が、
常にもあらず
むらむらと
湧いて、
自分もかく
枷を
箝められて、
同じ
姿に
泥濘の
中を
引かれて、
獄に
入られはせぬかと、
遽に
思われて
慄然とした。それから
町人の
家よりの
帰途、
郵便局の
側で、
予て
懇意な
一人の
警部に
出遇ったが
警部は
彼に
握手して
数歩ばかり
共に
歩いた。すると、
何だかこれがまた
彼には
只事でなく
怪しく
思われて、
家に
帰ってからも一
日中、
彼の
頭から
囚人の
姿、
銃を
負うてる
兵卒の
顔などが
離れずに、
眼前に
閃付いている、この
理由の
解らぬ
煩悶が
怪しくも
絶えず
彼の
心を
攪乱して、
書物を
読むにも、
考うるにも、
邪魔をする。
彼は
夜になっても
灯をも
点けず、
夜すがら
眠らず、
今にも
自分が
捕縛され、
獄に
繋がれはせぬかとただそればかりを
思い
悩んでいるのであった。
しかし
無論、
彼は
自身に
何の
罪もなきこと、また
将来においても
殺人、
窃盗、
放火などの
犯罪は
断じてせぬとは
知っているが、また
独つくづくとこうも
思うたのであった。
故意ならず
犯罪を
為すことが
無いとも
云われぬ、
人の
讒言、
裁判の
間違などはあり
得べからざることだとは
云われぬ、そもそも
裁判の
間違は、
今日の
裁判の
状態にては、
最もあり
得べきことなので、
総じて
他人の
艱難に
対しては、
事務上、
職務上の
関係をもっている
人々、
例えば
裁判官、
警官、
医師、とかと
云うものは、
年月の
経過すると
共に、
習慣に
依って
遂にはその
相手の
被告、
或は
患者に
対して、
単に
形式以上の
関係をもたぬように
望んでも
出来ぬように、この
習慣と
云う
奴がさせてしまう、
早く
言えば
彼等は
恰も、
庭に
立って
羊や、
牛を
屠り、その
血には
気が
着かぬ
所の
劣等の
人間と
少しも
選ぶ
所は
無いのだ。
翌朝イワン、デミトリチは
額に
冷汗を
びっしょりと
掻いて、
床から
吃驚して
跳起た。もう
今にも
自分が
捕縛されると
思われて。そうして
自らまた
深く
考えた。かくまでも
昨日の
奇しき
懊悩が
自分から
離れぬとして
見れば、
何か
訳があるのである、さなくてこの
忌わしい
考がこんなに
執念く
自分に
着纒うている
訳は
無いと。
『や、
巡査が
徐々と
窓の
傍を
通って
行った、
怪しいぞ、やや、また
誰か
二人家の
前に
立留っている、
何故黙っているのだろうか?』
これよりしてイワン、デミトリチは
日夜をただ
煩悶に
明し
続ける、
窓の
傍を
通る
者、
庭に
入る
者は
皆探偵かと
思われる。
正午になると
毎日警察署長が、
町尽頭の
自分の
邸から
警察へ
行くので、この
家の
前を二
頭馬車で
通る、するとイワン、デミトリチはその
度毎、
馬車が
余り
早く
通り
過ぎたようだとか、
署長の
顔付が
別であったとか
思って、
何んでもこれは
町に
重大な
犯罪が
露顕われたのでそれを
至急報告するのであろうなどと
極めて、
頻りにそれが
気になってならぬ。
家主の
女主人の
処に
見知らぬ
人が
来さえすればそれも
苦になる。
門の
呼鈴が
鳴る
度に
惴々しては
顫上る。
巡査や、
憲兵に
遇いでもすると
故と
平気を
粧うとして、
微笑して
見たり、
口笛を
吹いて
見たりする。
如何なる
晩でも
彼は
拘引されるのを
待ち
構えていぬ
時とては
無い。それが
為に
終夜眠られぬ。が、もしこんなことを
女主人にでも
嗅付けられたら、
何か
良心に
咎められることがあると
思われよう、そんな
疑でも
起されたら
大変と、
彼はそう
思って
無理に
毎晩眠た
振をして、
大鼾をさえ
発いている。しかしこんな
心遣は
事実においても、
普通の
論理においても
考えて
見れば
実に
愚々しい
次第で、
拘引されるだの、
獄舎に
繋がれるなど
云うことは
良心にさえ
疚しい
所が
無いならば
少しも
恐怖るに
足らぬこと、こんなことを
恐れるのは
精神病に
相違なきこと、と、
彼も
自ら
思うてここに
至らぬのでも
無いが、さてまた
考えれば
考うる
程迷って、
心中はいよいよ
苦悶と、
恐怖とに
圧しられる。で、
彼ももう
思慮えることの
無益なのを
悟り、すっかり
失望と、
恐怖との
淵に
沈んでしまったのである。
彼はそれより
独居して
人を
避け
初めた。
職務を
取るのは
前にもいやであったが、
今はなお一
層いやで
堪らぬ、と
云うのは、
人が
何時自分を
欺して、
隠にでもそっと
賄賂を
突込みはせぬか、それを
訴えられでもせぬか、
或は
公書の
如きものに
詐欺同様の
間違でもしはせぬか、
他人の
銭でも
無くしたりしはせぬか。と、
無暗に
恐くてならぬので。
春になって
雪も
次第に
解けた
或日、
墓場の
側の
崖の
辺に、
腐爛した二つの
死骸が
見付かった。それは
老婆と、
男の
子とで、
故殺の
形跡さえあるのであった。
町ではもう
到る
所、この
死骸のことと、
下手人の
噂ばかり、イワン、デミトリチは
自分が
殺したと
思われはせぬかと、またしても
気が
気ではなく、
通を
歩きながらもそう
思われまいと
微笑しながら
行ったり、
知人に
遇いでもすると、
青くなり、
赤くなりして、あんな
弱者共を
殺すなどと、これ
程憎むべき
罪悪は
無いなど、
云っている。が、それもこれも
直に
彼を
疲労らしてしまう。
彼はそこで
ふと思い
着いた、
自分の
位置の
安全を
計るには、
女主人の
穴蔵に
隠れているのが
上策と。そうして
彼は一
日中、また
一晩中、
穴蔵の
中に
立尽し、その
翌日もやはり
出ぬ。で、
身体が
甚く
凍えてしまったので、
詮方なく、
夕方になるのを
待って、
こッそりと
自分の
室には
忍び
出て
来たものの、
夜明まで
身動もせず、
室の
真中に
立っていた。すると
明方、まだ
日の
出ぬ
中、
女主人の
方へ
暖炉造の
職人が
来た。イワン、デミトリチは
彼等が
厨房の
暖炉を
直しに
来たのであるのは
知っていたのであるが、
急に
何だかそうでは
無いように
思われて
来て、これはきっと
警官が
故と
暖炉職人の
風体をして
来たのであろうと、
心は
不覚、
気は
動顛して、いきなり、
室を
飛出したが、
帽も
被らず、フロックコートも
着ずに、
恐怖に
駆られたまま、
大通を
真一
文字に
走るのであった。一
匹の
犬は
吠えながら
彼を
追う。
後の
方では
農夫が
叫ぶ。イワン、デミトリチは
両耳がガンとして、
世界中のあらゆる
圧制が、
今彼の
直ぐ
背後に
迫って、
自分を
追駈けて
来たかのように
思われた。
彼は
捕えられて
家に
引返されたが、
女主人は
医師を
招びに
遣られ、ドクトル、アンドレイ、エヒミチは
来て
彼を
診察したのであった。
そうして
頭を
冷す
薬と、
桂梅水とを
服用するようにと
云って、いやそうに
頭を
振って、
立帰り
際に、もう二
度とは
来ぬ、
人の
気の
狂う
邪魔をするにも
当らないからとそう
云った。
かくてイワン、デミトリチは
宿を
借ることも、
療治することも、
銭の
無いので
出来兼ぬる
所から、
幾干もなくして
町立病院に
入れられ、
梅毒病患者と
同室することとなった。しかるに
彼は
毎晩眠らずして、
我儘を
云っては
他の
患者等の
邪魔をするので、
院長のアンドレイ、エヒミチは
彼を六
号室の
別室へ
移したのであった。
一
年を
経て、
町ではもうイワン、デミトリチのことは
忘れてしまった。
彼の
書物は
女主人が
橇の
中に
積重ねて、
軒下に
置いたのであるが、どこからともなく、
子供等が
寄って
来ては、一
冊持ち
行き、二
冊取去り、
段々に
皆何れへか
消えてしまった。
イワン、デミトリチの
左の
方の
隣は、
猶太人のモイセイカであるが、
右の
方にいる
者は、まるきり
意味の
無い
顔をしている、
油切って、
真円い
農夫、
疾うから、
思慮も、
感覚も
皆無になって、
動きもせぬ
大食いな、
不汚極る
動物で、
始終鼻を
突くような、
胸の
悪くなる
臭気を
放っている。
彼の
身の
周りを
掃除するニキタは、その
度に
例の
鉄拳を
振っては、
力の
限り
彼を
打つのであるが、この
鈍き
動物は、
音をも
立てず、
動きをもせず、
眼の
色にも
何の
感じをも
現わさぬ。ただ
重い
樽のように、
少し
蹌踉るのは
見るのも
気味が
悪い
位。
六
号室の
第五
番目は、
元来郵便局とやらに
勤めた
男で、
気の
善いような、
少し
狡猾いような、
脊の
低い、
瘠せたブロンジンの、
利発らしい
瞭然とした
愉快な
眼付、ちょっと
見るとまるで
正気のようである。
彼は
何か
大切な
秘密な
物をもっていると
云うような
風をしている。
枕の
下や、
寐台のどこかに、
何かを
そッと隠して
置く、それは
盗まれるとか、
奪われるとか、
云う
気遣の
為めではなく
人に
見られるのが
恥かしいのでそうして
隠して
置く
物がある。
時々同室の
者等に
脊を
向けて、
独窓の
所に
立って、
何かを
胸に
着けて、
頭を
屈めて
熟視っている
様子。
誰かもし
近着でもすれば、
極悪そうに
急いで
胸から
何かを
取って
隠してしまう。しかしその
秘密は
直に
解るのである。
『
私をお
祝いなすって
下さい。』
と、
彼は
時々イワン、デミトリチに
云うことがある。
『
私は
第二
等のスタニスラウの
勲章を
貰いました。この
第二
等の
勲章は、
全体なら
外国人でなければ
貰えないのですが、
私にはその、
特別を
以てね、
例外と
見えます。』
と、
彼は
訝かるようにちょっと
眉を
寄せて
微笑する。
『
実を
申しますと、これはちと
意外でしたので。』
『
私はどうもそう
云うものに
就いては、まるで
解らんのです。』
と、イワン、デミトリチは
愁わしそうに
答える。
『しかし
私が
早晩手に
入れようと
思いますのは、
何だか
知っておいでになりますか。』
先の
郵便局員は、さも
狡猾そうに
眼を
細めて
云う。
『
私はきっとこんどは
瑞典の
北極星の
勲章を
貰おうと
思っておるです、その
勲章こそは
骨を
折る
甲斐のあるものです。
白い十
字架に、
黒リボンの
附いた、それは
立派です。』
この六
号室程単調な
生活は、どこを
尋ねても
無いであろう。
朝には
患者等は、
中風患者と、
油切った
農夫との
外は
皆玄関に
行って、一つ
大盥で
顔を
洗い、
病院服の
裾で
拭き、ニキタが
本院から
運んで
来る、一
杯に
定められたる
茶を
錫の
器で
啜るのである。
正午には
酢く
漬けた
玉菜の
牛肉汁と、
飯とで
食事をする。
晩には
昼食の
余りの
飯を
食べるので。その
間は
横になるとも、
睡るとも、
空を
眺めるとも、
室の
隅から
隅へ
歩くとも、こうして
毎日を
送っている。
新しい
人の
顔は六
号室では
絶えて
見ぬ。
院長アンドレイ、エヒミチは
新な
瘋癲患者はもう
疾くより
入院せしめぬから。また
誰とてこんな
瘋癲者の
室に
参観に
来る
者も
無いから。ただ二ヶ
月に一
度だけ、
理髪師のセミョン、ラザリチばかりここへ
来る、その
男はいつも
酔ってニコニコしながら
遣って
来て、ニキタに
手伝わせて
髪を
刈る、
彼が
見えると
患者等は
囂々と
云って
騒ぎ
出す。
かく
患者等は
理髪師の
外には、ただニキタ
一人、それより
外には
誰に
遇うことも、
誰を
見ることも
叶わぬ
運命に
定められていた。
しかるに
近頃に
至って
不思議な
評判が
院内に
伝わった。
院長が六
号室に
足繁く
訪問し
出したとの
風評。
不思議な
風評である。
ドクトル、アンドレイ、エヒミチ、ラアギンは
風変りな
人間で、
青年の
頃には
甚敬虔で、
身を
宗教上に
立てようと、千八百六十三
年に
中学を
卒業すると
直ぐ、
神学大学に
入ろうと
决した。しかるに
医学博士にして、
外科専門家なる
彼が
父は、
断乎として
彼が
志望を
拒み、もし
彼にして
司祭となった
暁は、
我が
子とは
認めぬとまで
云張った。が、アンドレイ、エヒミチは
父の
言ではあるが、
自分はこれまで
医学に
対して、また一
般の
専門学科に
対して、
使命を
感じたことは
無かったと
自白している。
とにかく、
彼は
医科大学を
卒業して
司祭の
職には
就かなかった。そうして
医者として
身を
立つる
初めにおいても、なお
今日の
如く
別段宗教家らしい
所は
少なかった。
彼の
容貌は
ぎすぎすして、どこか
百姓染みて、
頤鬚から、べッそりした
髪、
ぎごちない不態な
恰好は、まるで
大食の、
呑抜の、
頑固な
街道端の
料理屋なんどの
主人のようで、
素気無い
顔には
青筋が
顕れ、
眼は
小さく、
鼻は
赤く、
肩幅広く、
脊高く、
手足が
図抜けて
大きい、その
手で
捉まえられようものなら
呼吸も
止まりそうな。それでいて
足音は
極く
静で、
歩く
様子は
注意深い
忍足のようである。
狭い
廊下で
人に
出遇うと、まず
道を
除けて
立留り、『
失敬』と、さも
太い
声で
云いそうだが、
細いテノルでそう
挨拶する。
彼の
頸には
小さい
腫物が
出来ているので、
常に
糊付シャツは
着ないで、
柔らかな
麻布か、
更紗のシャツを
着ているので。そうしてその
服装は
少しも
医者らしい
所は
無く、一つフロックコートを十
年も
着続けている。
稀に
猶太人の
店で
新しい
服を
買って
来ても、
彼が
着るとやはり
皺だらけな
古着のように
見えるので。一つフロックコートで
患者も
受け、
食事もし、
客にも
行く。しかしそれは
彼が
吝嗇なるのではなく、
扮装などには
全く
無頓着なのに
由るのである。
アンドレイ、エヒミチが
新に
院長としてこの
町に
来た
時は、この
病院の
乱脈は
名状すべからざるもので。
室内と
云わず、
廊下と
云わず、
庭と
云わず、
何とも
云われぬ
臭気が
鼻を
衝いて、
呼吸をするさえ
苦しい
程。
病院の
小使、
看護婦、その
子供等などは
皆患者の
病室に一
所に
起臥して、
外科室には
丹毒が
絶えたことは
無い。
患者等は
油虫、
南京虫、
鼠の
族に
責め
立てられて、
住んでいることも
出来ぬと
苦情を
云う。
器械や、
道具などは
何もなく
外科用の
刄物が二つあるだけで
体温器すら
無いのである。
浴盤には
馬鈴薯が
投込んであるような
始末、
代診、
会計、
洗濯女は、
患者を
掠めて
何とも
思わぬ。
話には
前の
院長はまま
病院のアルコールを
密売し、
看護婦、
婦人患者を
手当次第妾としていたと
云う。で、
町では
病院のこんな
有様を
知らぬのでは
無く、一
層棒大にして
乱次の
無いことを
評判していたが、これに
対しては
人々は
至って
冷淡なもので、
寧ろ
病院の
弁護をしていた
位。
病院などに
入るものは、
皆病人や
百姓共だから、その
位な
不自由は
何でも
無いことである、
自家にいたならば、なおさら
不自由をせねばなるまいとか、
地方自治体の
補助もなくて、
町独立で
立派な
病院の
維持されようは
無いとか、とにかく
悪いながらも
病院のあるのは
無いよりも
増であるとかと。
アンドレイ、エヒミチは
院長としてその
職に
就いた
後かかる
乱脈に
対して、
果してこれを
如何様に
所置したろう、
敏捷と
院内の
秩序を
改革したろうか。
彼はこの
不順序に
対しては、さのみ
気を
留めた
様子はなく、ただ
看護婦などの
病室に
寐ることを
禁じ、
機械を
入れる
戸棚を
二個備付けたばかりで、
代診も、
会計も、
洗濯婦も、
元のままにして
置いた。
アンドレイ、エヒミチは
知識と
廉直とを
頗る
好みかつ
愛していたのであるが、さて
彼は
自分の
周囲にはそう
云う
生活を
設けることは
到底出来ぬのであった。それは
気力と、
権力における
自信とが
足りぬので。
命令、
主張、
禁止、こう
云うことは
凡て
彼には
出来ぬ。
丁度声を
高めて
命令などは
决して
致さぬと、
誰にか
誓でも
立てたかのように、くれとか、
持って
来いとかとはどうしても
言えぬ。で、
物が
食べたくなった
時には、
何時も
躊躇しながら
咳払して、そうして
下女に、
茶でも
呑みたいものだとか、
飯にしたいものだとか
云うのが
常である、それ
故に
会計係に
向っても、
盗んではならぬなどとは
到底云われぬ。
無論放逐することなどは
為し
得ぬので。
人が
彼を
欺いたり、
或は
諂ったり、
或は
不正の
勘定書に
署名をすることを
願いでもされると、
彼は
蝦のように
真赤になってひたすらに
自分の
悪いことを
感じはする。が、やはり
勘定書には
署名をして
遣ると
云うような
質。
初にアンドレイ、エヒミチは
熱心にその
職を
励み、
毎日朝から
晩まで、
診察をしたり、
手術をしたり、
時には
産婆をもしたのである、
婦人等は
皆彼を
非常に
褒めて
名医である、
殊に
小児科、
婦人科に
妙を
得ていると
言囃していた。が、
彼は
年月の
経つと
共に、この
事業の
単調なのと、
明瞭に
益の
無いのとを
認めるに
従って、
段々と
厭きて
来た。
彼は
思うたのである。
今日は三十
人の
患者を
受ければ、
明日は三十五
人来る、
明後日は四十
人に
成って
行く、かく
毎日、
毎月同事を
繰返し、
打続けては
行くものの、
市中の
死亡者の
数は
决して
減じぬ。また
患者の
足も
依然として
門には
絶えぬ。
朝から
午まで
来る四十
人の
患者に、どうして
確実な
扶助を
与えることが
出来よう、
故意ならずとも
虚偽を
為しつつあるのだ。一
統計年度において、一万二千
人の
患者を
受けたとすれば、
即ち一万二千
人は
欺かれたのである。
重い
患者を
病院に
入院させて、それを
学問の
規則に
従って
治療することは
出来ぬ。
如何なれば
規則はあっても、ここに
学問は
無いのである。
哲学を
捨てしまって、
他の
医師等のように
規則に
従って
遣ろうとするのには、
第一に
清潔法と、
空気の
流通法とが
欠くべからざる
物である。しかるにこんな
不潔な
有様では
駄目だ。また
滋養物が
肝心である。しかるにこんな
臭い
玉菜の
牛肉汁などでは
駄目だ、また
善い
補助者が
必要である、しかるにこんな
盗人ばかりでは
駄目だ。
そうして
死が
各人の
正当な
終であるとするなれば、
何の
為に
人々の
死の
邪魔をするのか。
仮にある
商人とか、ある
官吏とかが、五
年十
年余計に
生延びたとして
見た
所で、それが
何になるか。もしまた
医学の
目的が
薬を
以て、
苦痛を
薄らげるものと
為すなれば、
自然ここに一つの
疑問が
生じて
来る。
苦痛を
薄らげるのは
何の
為か?
苦痛は
人を
完全に
向わしむるものと
云うでは
無いか、また
人類が
果して
丸薬や、
水薬で、その
苦痛が
薄らぐものなら、
宗教や、
哲学は
必要が
無くなったと
棄るに
至ろう。プシキンは
死に
先って
非常に
苦痛を
感じ、
不幸なるハイネは
数年間中風に
罹って
臥していた。して
見れば
原始虫の
如き
我々に、せめて
苦難ちょうものが
無かったならば、
全く
含蓄の
無い
生活となってしまう。からして
我々は
病気するのは
寧ろ
当然では
無いか。
かかる
議論にまるで
心を
圧しられたアンドレイ、エヒミチは
遂に
匙を
投げて、
病院にも
毎日は
通わなくなるに
至った。
彼の
生活はかくの
如くにして
過ぎ
行いた。
朝は八
時に
起き、
服を
着換えて
茶を
呑み、それから
書斎に
入るか、
或は
病院に
行くかである。
病院では
外来患者がもう
診察を
待構えて、
狭い
廊下に
多人数詰掛けている。その
側を
小使や、
看護婦が
靴で
煉瓦の
床を
音高く
踏鳴して
往来し、
病院服を
着ている
瘠せた
患者等が
通ったり、
死人も
舁ぎ
出す、
不潔物を
入れた
器をも
持って
通る。
子供は
泣き
叫ぶ、
通風はする。アンドレイ、エヒミチはこう
云う
病院の
有様では、
熱病患者、
肺病患者には
最もよくないと、
始終思い
思いするのであるが、それをまたどうすることも
出来ぬのであった。
代診のセルゲイ、セルゲイチは、いつも
控所に
院長の
出て
来るのを
待っている。この
代診は
脊の
小さい、
丸く
肥った
男、
頬髯を
綺麗に
剃って、
丸い
顔はいつもよく
洗われていて、その
気取った
様子で、
新しい
ゆっとりした
衣服を
着け、
白の
襟飾をした
所は、まるで
代診のようではなく、
元老議員とでも
言いたいようである。
彼は
町に
沢山の
病家の
顧主を
持っている。で、
彼は
自分を
心窃に
院長より
遙に
実際において、
経験に
積んでいるものと
認めていた。
何となれば
院長には
町に
顧主の
病家などは
少しも
無いのであるから。
控所は、
壁に
大きい
額縁に
填った
聖像が
懸っていて、
重い
灯明が
下げてある。
傍には
白い
布を
被せた
読経台が
置かれ、一
方には
大主教の
額が
懸けてある、またスウャトコルスキイ
修道院の
額と、
枯れた
花環とが
懸けてある。この
聖像は
代診自ら
買ってここに
懸けたもので、
毎日曜日、
彼の
命令で、
誰か
患者の
一人が、
立って、
声を
上げて、
祈祷文を
読む、それから
彼は
自身で、
各病室を、
香炉を
提げて
振りながら
廻る。
患者は
多いのに
時間は
少ない、で、いつも
極く
簡単な
質問と、
塗薬か、
※麻子油位[#「箆」の「竹かんむり」に代えて「くさかんむり」、42-上-12]の
薬を
渡して
遣るのに
留まっている。
院長は
片手で
頬杖を
突きながら
考込んで、ただ
機械的に
質問を
掛けるのみである。
代診のセルゲイ、セルゲイチが
時々手を
擦り
擦り
口を
入れる。『この
世には
皆人が
病気になります、
入用なものがありません、
何となれば、これ
皆親切な
神様に
不熱心でありますから。』
診察の
時に
院長はもう
疾うより
手術をすることは
止めていた。
彼は
血を
見るさえ
不愉快に
感じていたからで。また
子供の
咽喉を
見るので
口を
開かせたりする
時に、
子供が
泣叫び、
小さい
手を
突張ったりすると、
彼はその
声で
耳がガンとしてしまって、
眼が
廻って
涙が
滴れる。で、
急いで
薬の
処方を
云って、
子供を
早く
連れて
行ってくれと
手を
振る。
診察の
時、
患者の
臆病、
訳の
解らぬこと、
代診の
傍にいること、
壁に
懸ってる
画像、二十
年以上も
相変らずに
掛けている
質問、これらは
院長をして
少からず
退屈せしめて、
彼は五六
人の
患者を
診察し
終ると、ふいと
診察所から
出て
行ってしまう。で、
後の
患者は
代診が
彼に
代って
診察するのであった。
院長アンドレイ、エヒミチは
疾から
町の
病家をもたぬのを、
却っていい
幸に、
誰も
自分の
邪魔をするものは
無いと
云う
考で、
家に
帰ると
直ぐ
書斎に
入り、
読む
書物の
沢山あるので、この
上なき
満足を
以て
書見に
耽るのである、
彼は
月給を
受取ると
直ぐ
半分は
書物を
買うのに
費やす、その六
間借りている
室の三つには、
書物と
古雑誌とで
殆埋っている。
彼が
最も
好む
所の
書物は、
歴史、
哲学で、
医学上の
書物は、ただ『
医者』と
云う一
雑誌を
取っているのに
過ぎぬ。
読書し
初めるといつも
数時間は
続様に
読むのであるが、
少しもそれで
疲労ぬ。
彼の
書見は、イワン、デミトリチのように
神経的に、
迅速に
読むのではなく、
徐に
眼を
通して、
気に
入った
所、
了解し
得ぬ
所は、
留り
留りしながら
読んで
行く。
書物の
側にはいつもウォッカの
壜を
置いて、
塩漬の
胡瓜や、
林檎が、デスクの
羅紗の
布の
上に
置いてある。
半時間毎位に
彼は
書物から
眼を
離さずに、ウォッカを一
杯注いでは
呑乾し、そうして
矢張見ずに
胡瓜を
手探で
食い
欠ぐ。
三
時になると
彼は
徐に
厨房の
戸に
近づいて
咳払いをして
云う。
『ダリュシカ、
昼食でも
遣りたいものだな。』
不味そうに
取揃えられた
昼食を
為し
終えると、
彼は
両手を
胸に
組んで
考えながら
室内を
歩き
初める。その
中に四
時が
鳴る。五
時が
鳴る、なお
彼は
考えながら
歩いている。すると、
時々厨房の
戸が
開いて、ダリュシカの
赤い
寐惚顔が
顕われる。
『
旦那様、もうビールを
召上ります
時分では
御座りませんか。』
と、
彼女は
気を
揉んで
問う。
『いやまだ
······もう
少し
待とう
······もう
少し
······。』
と、
彼は
云う。
晩にはいつも
郵便局長のミハイル、アウエリヤヌイチが
遊びに
来る。アンドレイ、エヒミチに
取ってはこの
人間ばかりが、
町中で
一人気の
置けぬ
親友なので。ミハイル、アウエリヤヌイチは
元は
富んでいた
大地主、
騎兵隊に
属していた
者、しかるに
漸々身代を
耗ってしまって、
貧乏し、
老年に
成ってから、
遂にこの
郵便局に
入ったので。
至って
元気な、
壮健な、
立派な
白い
頬鬚の、
快活な
大声の、しかも
気の
善い、
感情の
深い
人間である。しかしまた
極く
腹立易い
男で、
誰か
郵便局に
来た
者で、
反対でもするとか、
同意でもせぬとか、
理屈でも
並べようものなら、
真赤になって、
全身を
顫わして
怒立ち、
雷のような
声で、
黙れ! と一
喝する。それ
故に
郵便局に
行くのは
怖いと
云うは一
般の
評判。が、
彼は
町の
者をかく
部下のように
遇うにも
拘らず、
院長アンドレイ、エヒミチばかりは、
教育があり、かつ
高尚な
心をもっていると、
敬いかつ
愛していた。
『やあ、
私です。』
と、ミハイル、アウエリヤヌイチはいつものようにこう
云いながら、アンドレイ、エヒミチの
家に
入って
来た。
二人は
書斎の
長椅子に
腰を
掛けて、
暫時莨を
吹かしている。
『ダリュシカ、ビールでも
欲しいな。』
と、アンドレイ、エヒミチは
云う。
初めの
壜は
二人共無言の
行で
呑乾してしまう。
院長は
考込んでいる、ミハイル、アウエリヤヌイチは
何か
面白い
話をしようとして、
愉快そうになっている。
話はいつも
院長から、
初まるので。
『
何と
残念なことじゃ
無いですかなあ。』
と、アンドレイ、エヒミチは
頭を
振りながら、
相手の
眼を
見ずに
徐々と
話出す。
彼は
話をする
時に
人の
眼を
見ぬのが
癖。
『
我々の
町に
話の
面白い、
知識のある
人間の
皆無なのは、
実に
遺憾なことじゃありませんか。これは
我々に
取って
大なる
不幸です。
上流社会でも
卑劣なこと
以上にはその
教育の
程度は
上らんのですから、
全く
下等社会と
少しも
異らんのです。』
『それは
真実です。』と、
郵便局長は
云う。
『
君も
知っていられる
通り。』
と、
院長は
静な
声で、また
話続けるのであった。
『この
世の
中には
人間の
知識の
高尚な
現象の
外には、
一として
意味のある、
興味のあるものは
無いのです。
人智なるものが、
動物と、
人間との
間に、
大なる
限界をなしておって、
人間の
霊性を
示し、
或る
程度まで、
実際に
無い
所の
不死の
換りを
為しているのです。これに
由って
人智は、
人間の
唯一の
快楽の
泉となつている。しかるに
我々は
自分の
周囲に、
些も
知識を
見ず、
聞かずで、
我々はまるで
快楽を
奪われているようなものです。
勿論我々には
書物がある。しかしこれは
活きた
話とか、
交際とかと
云うものとはまた
別で、
余り
適切な
例ではありませんが、
例えば
書物はノタで、
談話は
唱歌でしょう。』
『それは
真実です。』と、
郵便局長は
云う。
二人は
黙る。
厨房からダリュシカが
鈍い
浮かぬ
顔で
出て
来て、
片手で
頬杖をして、
話を
聞こうと
戸口に
立留っている。
『ああ
君は
今の
人間から
知識をお
望みになるのですか?』
と、ミハイル、アウエリヤヌイチは
嘆息して
云うた。そうして
彼は
昔の
生活が
健全で、
愉快で、
興味のあったこと、その
頃の
上流社会には
知識があったとか、またその
社会では
廉直、
友誼を
非常に
重んじていたとか、
証文なしで
銭を
貸したとか、
貧窮な
友人に
扶助を
与えぬのを
恥としていたとか、
愉快な
行軍や、
戦争などのあったこと、
面白い
人間、
面白い
婦人のあったこと、また
高加索と
云う
所は
実にいい
土地で、
或る
騎兵大隊長の
夫人に
変者があって、いつでも
身に
士官の
服を
着けて、
夜になると
一人で、カフカズの
山中を
案内者もなく
騎馬で
行く。
話に
聞くと、
何でも
韃靼人の
村に、その
夫人と、
土地の
某公爵との
間に
小説があったとのことだ、とかと。
『へへえ。』
と、ダリュシカは
感心して
聞いている。
『そうしてよく
呑み、よく
食ったものだ。また
非常な
自由主義の
人間などもあったッけ。』
アンドレイ、エヒミチは
聞いてはいたが、
耳にも
留らぬ
風で、
何かを
考えながら、ビールをチビリチビリと
呑んでいる。
『
私はどうかすると
知識のある
秀才と
話をしていることを
夢に
見ることがあります。』
と、
院長は
突然にミハイル、アウエリヤヌイチの
言を
遮って
言うた。
『
私の
父は
私に
立派な
教育を
与えたです、しかし六十
年代の
思想の
影響で、
私を
医者としてしまったが、
私がもしその
時に
父の
言う
通りにならなかったなら、
今頃は
現代思潮の
中心となっていたであろうと
思われます。その
時にはきっと
大学の
分科の
教授にでもなっていたのでしょう。
無論知識なるものは、
永久のものでは
無く、
変遷して
行くものですが、しかし
生活と
云うものは、
忌々しい
輪索です。
思想の
人間が
成熟の
期に
達して、その
思想が
発展される
時になると、その
人間は
自然自分がもうすでにこの
輪索に
掛っている
遁れる
路の
無くなっているのを
感じます。
実際人間は
自分の
意旨に
反して、
或は
偶然なことの
為に、
無から
生活に
喚出されたものであるのです
······。』
『それは
真実です。』
と、ミハイル、アウエリヤヌイチは
云う。
アンドレイ、エヒミチはやはり
相手の
顔を
見ずに、
知識ある
者の
話ばかりを
続ける、ミハイル、アウエリヤヌイチは
注意して
聴いていながら『それは
真実です。』と、そればかりを
繰返していた。
『しかし
君は
霊魂の
不死を
信じなさらんのですか?』
と、
俄にミハイル、アウエリヤヌイチは
問う。
『いや、ミハイル、アウエリヤヌイチ、
信じません、
信じる
理由が
無いのです。』と、
院長は
云う。
『
実を
申すと
私も
疑っているのです。しかしもっとも、
私は
或時は
死なん
者のような
感もするですがな。それは
時時こう
思うことがあるです。
こんな
老朽な
体は
死んでもいい
時分だ、とそう
思うと、
忽ちまた
何やら
心の
底で
声がする、
気遣うな、
死ぬことは
無いと
云っているような。』
九
時少し
過ぎ、ミハイル、アウエリヤヌイチは
帰らんとて
立上り、
玄関で
毛皮の
外套を
引掛けながら
溜息して
云うた。
『しかし
我々は
随分酷い
田舎に
引込んだものさ、
残念なのは、こんな
処で
往生をするのかと
思うと、ああ
······。』
親友を
送出して、アンドレイ、エヒミチはまた
読書を
初めるのであった。
夜は
静で
何の
音もせぬ。
時は
留って
院長と
共に
書物の
上に
途絶えてしまったかのよう。この
書物と、
青い
傘を
掛けたランプとの
外には、
世にまた
何物もあらぬかと
思わるる
静けさ。
院長の
可畏き、
無人相の
顔は、
人智の
開発に
感ずるに
従って、
段々と
和ぎ、
微笑をさえ
浮べて
来た。
『ああ、どうして、
人は
不死の
者では
無いか。』
と、
彼は
考えている。『
脳髄や、
視官、
言語、
自覚、
天才などは、
終には
皆土中に
入ってしまって、やがて
地殻と
共に
冷却し、
何百万年と
云う
長い
間、
地球と一
所に
意味もなく、
目的も
無く
廻り
行くようになるとなれば、
何の
為にこんな
物があるのか
······。』
冷却して
後、
飛散するとすれば、
高尚なる
殆ど
神の
如き
智力を
備えたる
人間を、
虚無より
造出すの
必要はない。そうして
恰も
嘲るが
如くに、また
人を
粘土に
化する
必要は
無い。ああ
物質の
新陳代謝よ。しかしながら
不死の
代替を
以て、
自分を
慰むると
云うことは
臆病ではなかろうか。
自然において
起る
所の
無意識なる
作用は、
人間の
無智にも
劣っている。
何となれば、
無智には
幾分か、
意識と
意旨とがある。が、
作用には
何もない。
死に
対して
恐怖を
抱く
臆病者は、
左のことを
以て
自分を
慰めることが
出来る。
即ち
彼の
体を
将来、
草、
石、
蟇の
中に
入って、
生活すると
云うことを
以て
慰むることが
出来る。
『それとも
物質の
変換······物質の
変換を
認めて、
直に
人間の
不死と
為すと
云うのは、
恰も
高価なヴァイオリンが
破れた
後で、その
明箱が
換って
立派な
物となると
同じように、
誠に
訳の
解らぬことである。』
時計が
鳴る。アンドレイ、エヒミチは
椅子の
倚掛に
身を
投げて、
眼を
閉じて
考える。そうして
今読んだ
書物の
中の
面白い
影響で、
自分の
過去と、
現在とに
思を
及すのであった。
『
過去は
思出すのもいやだ、と
云って、
現在もまた
過去と
同様ではないか。』
と、
彼はそれから
患者等のこと、
不潔な
病室の
中に
苦しんでいること、などを
思い
起す。『まだ
眠らないで
南京虫と
戦っている
者もあろう、
或は
強く
繃帯を
締められて
悩んで
呻っている
者もあろう、また
或る
患者等は
看護婦を
相手に
骨牌遊をしている
者もあろう、
或はヴォッカを
呑んでいる
者もあろう、
病院の
事業は
総て二十
年前と
少しも
変らぬ。
窃盗、
姦淫、
詐欺の
上に
立てられているのだ。であるから、
病院は
依然として、
町の
住民の
健康には
有害で、かつ
不徳義なものである。』
と、
彼は
思い
来り、
更にまた
彼の六
号室の
鉄格子の
中で、ニキタが
患者等を
打殴っていること、モイセイカが
町に
行っては、
施を
請うている
姿などを
思い
出す。
それよりまた
彼は
医学のこの
近き二十五
年間において、
如何に
長足の
進歩を
為したかと
云うことを
考え
初める。
『
自分が
大学にいた
時分は、
医学もやはり、
錬金術や、
形而上学などと
同じ
運命に
至るものと
思うていたが、
実に
驚く
可き
進歩である。
大革命とも
名けられる
位だ、
防腐法の
発明によって、
大家のピロウゴフさえも、
到底出来得べからざることを
認ていた
手術が、
容易く
遣られるようにはなった。
今では
腹部截開の百
度の
中、
死を
見ることは一
度位なものである。
梅毒も
根治される、その
他遺伝論、
催眠術、パステルや、コッホなどの
発見、
衛生学、
統計学などはどうであろう
······。』
我々ロシヤの
地方団体の
医術はどうであろうか、まず
精神病に
就いて
云うならば、
現今の
病気の
類別法、
診断、
治療の
方法、
共に
皆これを
過去の
精神病学と
比較するならば、その
差はエリボルスの
山の
如き
高大なるものである。
現今では
精神病者の
治療に
冷水を
注がぬ、
蒸暑きシャツを
被せぬ、そうして
人間的に
彼等を
取扱う、
即ち
新聞に
記載する
通り、
彼等の
為に、
演劇、
舞蹈を
催す。
彼はまたかく
思考えた。
現時の
見解及び
趣味を
見るに、六
号室の
如きは、
誠に
見るに
忍びざる、
厭悪に
堪えざるものである。かかる
病室は、
鉄道を
去ること、二百
露里のこの
小都会においてのみ
見るのである。
即ちここの
市長並に
町会議員は
皆生物知りの
町人である、であるから
医師を
見ることは
神官の
如く、その
言う
所を
批評せずして
信じている。
例えば、
溶解せる
鉛を
口に
入るるとも、
少しも
不思議には
思わぬであろう。が、もしこれが
他の
所においてはどうであろうか、
公衆と、
新聞紙とは
必ずかくの
如き
監獄は、とうに
寸断にしてしまったであろう。
『しかしそれがどうである。』
と、
彼はパッと
眼を
開いて
自ら
問うた。
『
防腐法だとか、コッホだとか、パステルだとか
云ったって、
実際においては
世の
中は
少しもこれまでと
変らないでは
無いか、
病気の
数も、
死亡の
数も、
瘋癲患者の
為だと
云って、
舞踏会やら、
演芸会やらが
催されるが、しかし
彼等をして
全く
開放することは
出来ないでは
無いか。して
見れば、
何でも
皆空しいことだ、ヴィンナの
完全な
大学病院でも、
我々のこの
病院と
少しも
差別は
無いのだ。
しかし
俺は
有害なことに
務めてると
云うものだ、
自分の
欺いている
人間から
給料を
貪っている、
不正直だ、けれども
俺その
者は
至って
微々たるもので、
社会の
必然の
悪の一
分子に
過ぎぬ、
総て
町や、
郡の
官吏共でも
皆詰り
無用の
長物だ。ただ
給料を
貪っているに
過ぎん
······そうして
見れば
不正直の
罪は、
敢て
自分ばかりじゃ
無い、
時勢にあるのだ、もう二百
年も
晩く
自分が
生れたなら、まるで
別の
人間であったかも
知れぬ。』
三
時が
鳴る、
彼はランプを
消して
寐室に
行った。が、どうしても
睡眠に
就くことは
出来ぬのであった。
二
年このかた、
地方自治体はようよう
饒になったので、その
管下に
病院の
設立られるまで、
年々三百
円ずつをこの
町立病院に
補助金として
出すこととなり、
病院ではそれが
為に
医員を
一人増すことと
定められた。で、アンドレイ、エヒミチの
補助手として、
軍医のエウゲニイ、フェオドロイチ、ハバトフというが、この
町に
聘せられた。その
人はまだ三十
歳に
足らぬ
若い
男で、
頬骨の
広い、
眼の
小さい、ブルネト、その
祖先は
外国人であったかのようにも
見える、
彼が
町に
来た
時は、
銭と
云ったら一
文もなく、
小さい
鞄只一個と、
下女と
徇れていた
醜女ばかりを
伴うて
来たので、そうしてこの
女には
乳呑児があった。
彼は
常に
廂の
附いた
丸帽を
被って、
深い
長靴を
穿き
冬には
毛皮の
外套を
着て
外を
歩く。
病院に
来てより
間もなく、
代診のセルゲイ、セルゲイチとも、
会計とも、
直ぐに
親密になったのである。
下宿には
書物はただ一
冊『千八百八十一
年度ヴィンナ
大学病院最近処方』と
題するもので、
彼は
患者の
所へ
行く
時には
必ずそれを
携える。
晩になると
倶楽部に
行っては
玉突をして
遊ぶ、
骨牌は
余り
好まぬ
方、そうして
何時もお
極りの
文句をよく
云う
人間。
病院には一
週に二
度ずつ
通って、
外来患者を
診察したり、
各病室を
廻ったりしていたが、
防腐法のここでは
全く
行われぬこと、
呼血器のことなどに
就いて、
彼は
頗る
異議をもっていたが、それと
打付けて
云うのも、
院長に
恥を
掻かせるようなものと、
何とも
云わずにはいたが、
同僚の
院長アンドレイ、エヒミチを
心秘に、
老込の
怠惰者として、
奴、
金ばかり
溜込んでいると
羨んでいた。そうしてその
後任を
自分で
引受けたく
思うていた。
三
月の
末つ
方、
消えがてなりし
雪も、
次第に
跡なく
融けた
或夜、
病院の
庭には
椋鳥が
切りに
鳴いてた
折しも、
院長は
親友の
郵便局長の
立帰えるのを、
門まで
見送らんと
室を
出た。
丁度その
時、
庭に
入って
来たのは、
今しも
町を
漁って
来た
猶太人のモイセイカ、
帽も
被らず、
跣足に
浅い
上靴を
突掛けたまま、
手には
施の
小さい
袋を
提げて。
『一
銭おくんなさい!』
と、モイセイカは
寒さに
顫えながら、
院長を
見て
微笑する。
辞することの
出来ぬ
院長は、
隠から十
銭を
出して
彼に
遣る。
『これはよくない』と、
院長はモイセイカの
瘠せた
赤い
跣足の
踝を
見て
思うた。
『
路は
泥濘っていると
云うのに。』
院長は
不覚に
哀れにも、また
不気味にも
感じて、
猶太人の
後に
尾いて、その
禿頭だの、
足の
踝などを

しながら、
別室まで
行った。
小使のニキタは
相も
変らず、
雑具の
塚の
上に
転っていたのであるが、
院長の
入って
来たのに
吃驚して
跳起きた。
『ニキタ、
今日は。』
と、
院長は
柔しく
彼に
挨拶して。
『この
猶太人に
靴でも
与えたらどうだ、そうでもせんと
風邪を
引く。』
『はッ、
拝承まりまして
御坐りまする。
直に
会計にそう
申しまして。』
『そうして
下さい、お
前は
会計に
私がそう
云ったと
云ってくれ。』
玄関から
病室へ
通う
戸は
開かれていた。イワン、デミトリチは
寐台の
上に
横になって、
肘を
突いて、さも
心配そうに、
人声がするので
此方を
見て
耳を
欹てている。と、
急に
来た
人の
院長だと
解ったので、
彼は
全身を
怒に
顫わして、
寐床から
飛上り、
真赤になって、
激怒して、
病室の
真中に
走り
出て
突立った。
『やあ、
院長が
来たぞ!』
イワン、デミトリチは
高く
※[#「口+斗」、U+544C、47-上-10]んで、
笑い
出す。
『
来た
来た!
諸君お
目出とう、
院長閣下が
我々を
訪問せられた! こン
畜生め!』
と、
彼は
声を
甲走らして、
地鞴踏んで、
同室の
者等のいまだかつて
見ぬ
騒方。
『こん
畜生! やい
殴殺してしまえ!
殺しても
足るものか、
便所にでも
敲込め!』
院長のアンドレイ、エヒミチは
玄関の
間から
病室の
内を
覗込んで、
物柔らかに
問うのであった。
『
何故ですね?』
『
何故だと。』と、イワン、デミトリチは
嚇すような
気味で、
院長の
方に
近寄り、
顫う
手に
病院服の
前を
合せながら。
『
何故かも
無いものだ! この
盗人め!』
彼は
悪々しそうに
唾でも
吐っ
掛けるような
口付きをして。
『この
山師!
人殺!』
『まあ、
落着きなさい。』
と、アンドレイ、エヒミチは
悪るかったと
云うような
顔付で
云う。
『よくお
聴きなさい、
私はまだ
何にも
盗んだこともなし、
貴方に
何も
致したことは
無いのです。
貴方は
何か
間違ってお
出なのでしょう、
酷く
私を
怒っていなさるようだが、まあ
落着いて、
静かに、そうして
何を
立腹していなさるのか、
有仰ったらいいでしょう。』
『だが
何の
為に
貴下は
私をこんなところに
入れて
置くのです?』
『それは
貴君が
病人だからです。』
『はあ、
病人、しかし
何百
人と
云う
狂人が
自由にそこら
辺を
歩いているではないですか、それは
貴方々の
無学なるに
由って、
狂人と、
健康なる
者との
区別が
出来んのです。
何の
為に
私だの、そらここにいるこの
不幸な
人達ばかりが
恰も
献祭の
山羊の
如くに、
衆の
為にここに
入れられていねばならんのか。
貴方を
初め、
代診、
会計、それから、
総てこの
貴方の
病院にいる
奴等は、
実に
怪しからん、
徳義上においては
我々共より
遙に
劣等だ、
何の
為に
我々ばかりがここに
入れられておって、
貴方々はそうで
無いのか、どこにそんな
論理があります?』
『
徳義上だとか、
論理だとか、そんなことは
何もありません。ただ
場合です。
即ちここに
入れられた
者は
入っているのであるし、
入れられん
者は
自由に
出歩いている、それだけのことです。
私が
医者で、
貴方が
精神病者であると
云うことにおいて、
徳義も
無ければ、
論理も
無いのです。
詰り
偶然の
場合のみです。』
『そんな
屁理窟は
解らん。』
と、イワン、デミトリチは
小声で
云って、
自分の
寐台の
上に
坐り
込む。
モイセイカは
今日は
院長のいる
為に、ニキタが
遠慮して
何も
取返さぬので、
貰って
来た
雑物を、
自分の
寝台の
上に
洗い
浚い
広げて、一つ一つ
並べ
初める。パンの
破片、
紙屑、
牛の
骨など、そうして
寒に
顫えながら、
猶太語で、
早言に
歌うように
喋り
出す、
大方開店でもした
気取で
何かを
吹聴しているのであろう。
『
私をここから
出して
下さい。』と、イワン、デミトリチは
声を
顫わして
云う。
『それは
出来ません。』
『どう
云う
訳で。それを
聞きましょう。』
『それは
私の
権内に
無いことなのです。まあ、
考えて
御覧なさい、
私が
仮に
貴方をここから
出たとして、どんな
利益がありますか。まず
出て
御覧なさい、
町の
者か、
警察かがまた
貴方を
捉えて
連れて
参りましょう。』
『
左様さ
左様さそれはそうだ。』と、イワン、デミトリチは
額の
汗を
拭く、『それはそうだ、しかし
私はどうしたらよかろう。』
アンドレイ、エヒミチはイワン、デミトリチの
顔付、
眼色などを
酷く
気に
入って、どうかしてこの
若者を
手懐けて、
落着かせようと
思うたので、その
寐台の
上に
腰を
下し、ちょっと
考えて、さて
言出す。
『
貴方はどうしたらよかろうと
有仰るが。
貴方の
位置をよくするのには、ここから
逃出す一
方です。しかしそれは
残念ながら
無益に
帰するので、
貴方は
到底捉えられずにはおらんです。
社会が
犯罪人や、
精神病者や、
総て
自分等に
都合の
悪い
人間に
対して、
自衛を
為すのには、どうしたって
勝つことは
出来ません。で、
貴方の
為すべき
所は一つです。
即ちここにいることが
必要であると
考えて、
安心をしているのみです。』
『いや、
誰にもここは
必要じゃありません。』
『しかしすでに
監獄だとか、
瘋癲病院だとかの
存在する
以上は、
誰かその
中に
入っていねばなりません、
貴方でなければ、
私、でなければ、
他の
者が。まあお
待ちなさい、
左様今に
遙か
遠き
未来に、
監獄だの、
瘋癲病院の
全廃された
暁には、
即ちこの
窓の
鉄格子も、この
病院服も、
全く
無用になってしまいましょう、
無論、そう
云う
時は
早晩来ましょう。』
イワン、デミトリチはニヤリと
冷笑った。
『そうでしょう。』と、
彼は
眼を
細めて
云うた。『
貴方だの、
貴方の
補助者のニキタなどのような、そう
云う
人間には、
未来などは
何の
要も
無い
訳です。で、
貴方はよい
時代が
来ようと
済してもいられるでしょうが、いや、
私の
言うことは
卑いかも
知れません、
笑止しければお
笑い
下さい。しかしです、
新生活の
暁は
輝いて、
正義が
勝を
制するようになれば、
我々の
町でも
大に
祭をして
喜び
祝いましょう。が、
私はそれまでは
待たれません、その
時分にはもう
死んでしまいます。
誰かの
子か
孫かは、
遂にその
時代に
遇いましょう。
私は
誠心を
以て
彼等を
祝します、
彼等の
為に
喜びます!
進め!
我が
同胞!
神は
君等に
助を
給わん!』と、イワン、デミトリチは
眼を
輝かして
立上り、
窓の
方に
手を
伸して
云うた。
『この
格子の
中より
君等を
祝福せん、
正義万歳!
正義万歳!』
『
何をそんなに
喜ぶのか
私には
訳が
分りません。』と、
院長はイワン、デミトリチの
様子がまるで
芝居のようだと
思いながら、またその
風が
酷く
気に
入って
云うた。
『
成程、
時が
来れば
監獄や、
瘋癲病院は
廃されて、
正義は
貴方の
有仰る
通り
勝を
占めるでしょう、しかし
生活の
実際がそれで
変るものではありません。
自然の
法則は
依然として
元のままです、
人々はやはり
今日の
如く
病み、
老い、
死するのでしょう、どんな
立派な
生活の
暁が
顕われたとしても、つまり
人間は
棺桶に
打込まれて、
穴の
中に
投じられてしまうのです。』
『では
来世は。』
『
何、
来世。
戯談を
云っちゃいけません。』
『
貴方は
信じなさらんと
見えるが
私は
信じてます。ドストエフスキイの
中か、ウォルテルの
中かに、
小説中の
人物が
云ってることがあります、もし
神が
無かったとしたら、その
時は
人が
神を
考え
出そう。で、
私は
堅く
信じています。もし
来世が
無いとしたならば、その
時は
大いなる
人間の
智慧なるものが、
早晩これを
発明しましょう。』
『フウム、
旨く
言った。』
と、アンドレイ、エヒミチはいと
満足気に
微笑して。
『
貴方はそう
信じていなさるから
結構だ。そう
云う
信仰がありさえすれば、たとい
壁の
中に
塗込まれたって、
歌を
歌いながら
生活して
行かれます。
貴方は
失礼ながらどこで
教育をお
受けになったか?』
『
私は
大学でです、しかし
卒業せずに
終いました。』
『
貴方は
思想家で
考深い
方です。
貴方のような
人はどんな
場所にいても、
自身において
安心を
求めることが
出来ます。
人生の
解悟に
向っておる
自由なる
深き
思想と、この
世の
愚なる
騒に
対する
全然の
軽蔑、これ
即ち
人間のこれ
以上のものをいまだかつて
知らぬ
最大幸福です。そうして
貴方はたとい三
重の
鉄格子の
内に
住んでいようが、この
幸福をもっているのでありますから。ジオゲンを
御覧なさい、
彼は
樽の
中に
住んでいました、けれども
地上の
諸王より
幸福であったのです。』
『
貴方の
云うジオゲンは
白痴だ。』と、イワン、デミトリチは
憂悶して
云うた。『
貴方は
何だって
私に
解悟だとか、
何だとかと
云うのです。』と、
俄に
怫然になって
立上った。『
私は
人並の
生活を
好みます、
実に、
私はこう
云う
窘逐狂に
罹っていて、
始終苦しい
恐怖に
襲われていますが、
或時は
生活の
渇望に
心を
燃やされるです、
非常に
人並の
生活を
望みます、
非常に、それは
非常に。』
彼は
室内を
歩き
初めたが、やがて
小声でまた
言出す。
『
私は
時折種々なことを
妄想しますが、
往々幻想を
見るのです、
或人が
来たり、また
人の
声を
聞いたり、
音楽が
聞えたり、また
林や、
海岸を
散歩しているように
思われる
時もあります。どうぞ
私に
世の
中の
生活を
話して
下さい、
何か
珍らしいことでも
無いですか。』
『
町のことをですか、それとも一
般のことに
就いてですか?』
『まず
町のことからして
伺いましょう。それから一
般のことを。』
『
町では
実にもう
退屈です。
誰を
相手に
話するものもなし。
話を
聞く
者もなし。
新しい
人間はなし。しかしこの
頃ハバトフと
云う
若い
医者が
町には
来たですが。』
『どんな
人間が。』
『いや、
極く
非文明的な、どう
云うものかこの
町に
来る
所の
者は、
皆、
見るのも
胸の
悪いような
人間ばかり、
不幸な
町です。』
『
左様さ、
不幸な
町です。』と、イワン、デミトリチは
溜息して
笑う。『しかし一
般にはどうです、
新聞や、
雑誌はどう
云うことが
書いてありますか?』
病室の
中はもう
暗くなったので、
院長は
静に
立上る。そうして
立ちながら、
外国や、
露西亜の
新聞雑誌に
書いてある
珍らしいこと、
現今はこう
云う
思想の
潮流が
認められるとかと
話を
進めたが、イワン、デミトリチは
頗る
注意して
聞いていた。が
忽ち、
何か
恐しいことでも
急に
思い
出したかのように、
彼は
頭を
抱えるなり、
院長の
方へくるりと
背を
向けて、
寐台の
上に
横になった。
『どうかしましたか?』と、
院長は問う。
『もう
貴方には一
言だって
口は
開きません。』
イワン、デミトリチは
素気なく
云う。『
私に
管わんで
下さい!』
『どうしたのです?』
『
管わんで
下さいと
云ったら
管わんで
下さい、チョッ、
誰がそんな
者と
口を
開くものか。』
院長は
肩を
縮めて
溜息をしながら
出て
行く、そうして
玄関の
間を
通りながら、ニキタに
向って
云うた。
『ここ
辺を
少し
掃除したいものだな、ニキタ。
酷い
臭だ。』
『
拝承まりました。』と、ニキタは
答える。
『
何と
面白い
人間だろう。』と、
院長は
自分の
室の
方へ
帰りながら
思うた。『ここへ
来てから
何年振かで、こう
云う
共に
語られる
人間に
初めて
出会した。
議論も
遣る、
興味を
感ずべきことに、
興味をも
感じている
人間だ。』
彼はその
後読書を
為す
中にも、
睡眠に
就いてからも、イワン、デミトリチのことが
頭から
去らず、
翌朝眼を
覚しても、
昨日の
智慧ある
人間に
遇ったことを
忘れることが
出来なかった、
便宜もあらばもう一
度彼を
是非尋ねようと
思うていた。
イワン、デミトリチは
昨日と
同じ
位置に、
両手で
頭を
抱えて、
両足を
縮めたまま、
横に
為っていて、
顔は
見えぬ。
『や、
御機嫌よう、
今日は。』
院長は六
号室へ
入って
云うた。『
君は
眠っているのですか?』
『いや
私は
貴方の
朋友じゃ
無いです。』と、イワン、デミトリチは
枕の
中へ
顔をいよいよ
埋めて
云うた。『またどんなに
貴方は
尽力しようが
駄目です、もう一
言だって
私に
口を
開かせることは
出来ません。』
『
変だ。』と、アンドレイ、エヒミチは
気を
揉む。『
昨日我々はあんなに
話したのですが、
何を
俄に
御立腹で、
絶交すると
有仰るのです、
何かそれとも
気に
障ることでも
申しましたか、
或は
貴方の
意見と
合わん
考を
云い
出したので?』
『いや、そんなら
貴方に
云いましょう。』と、イワン、デミトリチは
身を
起して、
心配そうにまた
冷笑的に、ドクトルを
見るのであった。『
何も
貴方は
探偵したり、
質問をしたり、ここへ
来てするには
当らんです。どこへでも
他へ
行ってした
方がよいです。
私はもう
昨日貴方が
何の
為に
来たのかが
解りましたぞ。』
『これは
奇妙な
妄想をしたものだ。』と、
院長は
思わず
微笑する。『では
貴方は
私を
探偵だと
想像されたのですな。』
『
左様。いや
探偵にしろ、また
私に
窃に
警察から
廻わされた
医者にしろ、どちらだって
同様です。』
『いや
貴方は。
困ったな、まあお
聞きなさい。』と、
院長は
寐台の
傍の
腰掛に
掛けて
責るがように
首を
振る。
『しかし
仮りに
貴方の
云う
所が
真実として、
私が
警察から
廻された
者で、
何か
貴方の
言を
抑えようとしているものと
仮定しましょう。で、
貴方がその
為に
拘引されて、
裁判に
渡され、
監獄に
入れられ、
或は
懲役にされるとして
見て、それがどうです、この六
号室にいるのよりも
悪いでしょうか。ここに
入れられているよりも
貴方に
取ってどうでしょうか?
私はここより
悪い
所は
無いと
思います。もしそうならば
何を
貴方はそんなに
恐れなさるのか?』
この
言にイワン、デミトリチは
大に
感動されたと
見えて、
彼は
落着いて
腰を
掛けた。
時は
丁度四
時過ぎ。いつもなら
院長は
自分の
室から
室へと
歩いていると、ダリュシカが、
麦酒は
旦那様如何ですか、と
問う
刻限。
戸外は
静に
晴渡った
天気である。
『
私は
中食後散歩に
出掛けましたので、ちょっと
立寄りましたのです。もうまるで
春です。』
『
今は
何月です、三
月でしょうか?』
『
左様、三
月も
末です。』
『
戸外は
泥濘っておりましょう。』
『そんなでもありません、
庭にはもう
小径が
出来ています。』
『
今頃は
馬車にでも
乗って、
郊外へ
行ったらさぞいいでしょう。』と、イワン、デミトリチは
赤い
眼を
擦りながら
云う。『そうしてそれから
家の
暖い
閑静な
書斎に
帰って
······名医に
恃って
頭痛の
療治でもして
貰らったら、
久しい
間私はもうこの
人間らしい
生活をしないが、それにしてもここは
実にいやな
所だ。
実に
堪えられんいやな
所だ。』
昨日の
興奮の
為にか、
彼は
疲れて
脱然して、いやいやながら
言っている。
彼の
指は
顫えている。その
顔を
見ても
頭が
酷く
痛んでいると
云うのが
解る。
『
暖い
閑静な
書斎と、この
病室との
間に、
何の
差も
無いのです。』と、アンドレイ、エヒミチは
云うた。『
人間の
安心と、
満足とは
身外に
在るのではなく、
自身の
中に
在るのです。』
『どう
云う
訳で。』
『
通常の
人間は、いいことも、
悪いことも
皆身外から
求めます。
即ち
馬車だとか、
書斎だとかと、しかし
思想家は
自身に
求めるのです。』
『
貴方はそんな
哲学は、
暖な
杏の
花の
香のする
希臘に
行ってお
伝えなさい、ここではそんな
哲学は
気候に
合いません。いやそうと、
私は
誰かとジオゲンの
話をしましたっけ、
貴方とでしたろうか?』
『
左様昨日私と。』
『ジオゲンは
勿論書斎だとか、
暖い
住居だとかには
頓着しませんでした。これは
彼の
地が
暖いからです。
樽の
中に
寐転って
蜜柑や、
橄欖を
食べていればそれで
過される。しかし
彼をして
露西亜に
住わしめたならば、
彼必ず十二
月所ではない、三
月の
陽気に
成っても、
室の
内に
籠っていたがるでしょう。
寒気の
為に
体も
何も
屈曲ってしまうでしょう。』
『いや
寒気だとか、
疼痛だとかは
感じないことが
出来るです。マルク、アウレリイが
云ったことがありましょう。「
疼痛とは
疼痛の
活きた
思想である、この
思想を
変ぜしむるが
為には
意旨の
力を
奮い、しかしてこれを
棄てて
以て、
訴うることを
止めよ、しからば
疼痛は
消滅すべし。」と、これはよく
言った
語です、
智者、
哲人、もしくは
思想家たるものの、
他人に
異る
所の
点は、
即ちここに
在るのでしょう、
苦痛を
軽んずると
云うことに。ここにおいてか
彼等は
常に
満足で、
何事にもまた
驚かぬのです。』
『では
私などは
徒に
苦み、
不満を
鳴し、
人間の
卑劣に
驚いたりばかりしていますから、
白痴だと
有仰るのでしょう。』
『そうじゃ
無いです。
貴方もいよいよ
深く
考慮るように
成ったならば、
我々の
心を
動す
所の、
総ての
身外の
些細なることは
苦にもならぬとお
解りになる
時がありましょう、
人は
解悟に
向わなければなりません。これが
真実の
幸福です。』
『
解悟······。』イワン、デミトリチは
顔を
顰める。『
外部だとか、
内部だとか
······。いや
私にはそう
云うことは
少しも
解らんです。
私の
知っていることはただこれだけです。』と、
彼は
立上り、
怒った
眼で
院長を
睨み
付ける。『
私の
知っているのは、
神が
人を
熱血と、
神経とより
造ったと
云うことだけです! また
有機的組織は、もしそれが
生活力をもっているとすれば、
総ての
刺戟に
反応を
起すべきものである。それで
私は
反応しています。
即疼痛に
対しては、
絶※[#「口+斗」、U+544C、51-下-12]と、
涙とを
以て
答え、
虚偽に
対しては
憤懣を
以て、
陋劣に
対しては
厭悪の
情を
以て
答えているです。
私の
考ではこれがそもそも
生活と
名づくべきものだろうと。また
有機体が
下等に
成れば
成るだけ、より
少く
物を
感ずるのであろうと、それ
故により
弱く
刺戟に
答えるのである。で、
高等に
成れば
随てより
強き
勢力を
以て、
実際に
反応するのです。
貴方は
医者でおいでて、どうしてこんな
訳がお
解りにならんです。
苦を
軽んずるとか、
何にでも
満足しているとか、どんなことにも
驚かんと
云うようになるのには、あれです、ああ
云う
状態になってしまわんければ。』と、イワン、デミトリチは
隣の
油切った
彼の
動物を
差してそう
云うた。『
或はまた
苦痛を
以て
自分を
鍛練して、それに
対しての
感覚をまるで
失ってしまう、
言を
換えて
言えば、
生活を
止めてしまうようなことに
至らしめなければならぬのです。
私は
無論哲人でも、
哲学者でも
無いのですから。』と、
更に
激して。『ですから、こんなことに
就いては
何にも
解らんのです。
議論する
力が
無いのです。』
『どうしてなかなか、
貴方は
立派に
議論なさるです。』
『
貴方が
例証に
引きなすったストア
派の
哲学者等は
立派な
人達です。しかしながら
彼等の
学説はすでに二千
年以前に
廃れてしまいました、もう一
歩も
進まんのです、これから
先、また
進歩することは
無い。
如何となればこれは
現実的でない、
活動的で
無いからである。こう
云う
学説は、ただ
種々の
学説を
集めて
研究したり、
比較したりして、これを
自分の
生涯の
目的としている、
極めて
少数の
人ばかりに
行われて、
他の
多数の
者はそれを
了解しなかったのです。
苦痛を
軽蔑すると
云うことは、
多数の
人に
取ったならば、
即ち
生活その
物を
軽蔑すると
云うことになる。
如何となれば、
人間全体は、
餓だとか、
寒だとか、
凌辱めだとか、
損失だとか、
死に
対するハムレット
的の
恐怖などの
感覚から
成立っているのです。この
感覚の
中において
人生全体が
含まっているのです。これを
苦にすること、
悪むことは
出来ます。が、これを
軽蔑することは
出来んです。であるから、ストア
派の
哲学者は
未来をもつことが
出来んのです。
御覧なさい、
世界の
始から、
今日に
至るまで、ますます
進歩して
行くものは
生存競争、
疼痛の
感覚、
刺戟に
対する
反応の
力などでしょう。』と、イワン、デミトリチは
俄に
思想の
連絡を
失って、
残念そうに
額を
擦った。
『
何か
肝心なことを
云おうと
思って
出なくなった。』
と、
彼は
続ける。『それじゃ
基督でも
例に
引きましょう、
基督は
泣いたり、
微笑したり、
悲んだり、
怒ったり、
憂に
沈んだりして、
現実に
対して
反応していたのです。
彼は
微笑を
以て
苦に
対わなかった、
死を
軽蔑しませんでした、
却って「この
杯を
我より
去らしめよ」と
云うて、ゲフシマニヤの
園で
祈祷しました。』
イワン、デミトリチはかく
云って
笑出しながら
坐る。
『で
仮りに
人間の
満足と
安心とが、その
身外に
在るに
非らずして、
自身の
内に
在るとして、また
仮りに
苦痛を
軽蔑して、
何事にも
驚かぬようにしなければならぬとして、
見て、
第一
貴方自身は
何に
基いて、こんなことを
主張なさるのか、
貴方は一
体哲人ですか、
哲学者ですか?』
『いや
私は
哲学者でも
何でも
無い。が、これを
主張するのは、
大に
各人の
義務だろうと
思うのです、これは
道理のあることで。』
『いや
私の
知ろうと
思うのは、
何の
為に
貴方が
解悟だの、
苦痛だの、それに
対する
軽蔑だの、その
他のことに
就いて
自ら
精通家と
認めてお
出なのですか。
貴方は
何時にか
苦んだことでもあるのですか、
苦しみと
云うことの
理解をもってお
出でですか、
或は
失礼ながら
貴方はお
幼少時分、
打擲でもなされましたことがおありなのですか?』
『
否、
私の
両親は、
身体上の
処刑は
非常に
嫌っていたのです。』
『
私は
父には
酷く
仕置をされました。
私の
父は
極く
苛酷な
官員であったのです。が、
貴方のことを
申して
見ましょうかな。
貴方は一
生涯誰にも
苛責されたことは
無く、
健康なること
牛の
如く、
厳父の
保護の
下に
生長し、それで
学問させられ、それからして
割のよい
役に
取付き、二十
年以上の
間も、
暖炉も
焚いてあり、
灯も
明るき
無料の
官宅に、
奴婢をさえ
使って
住んで、その
上、
仕事は
自分の
思うまま、してもしないでも
済んでいると
云う
位置。で、
生来貴方は
怠惰者で、
厳格で
無い
人間、それ
故貴方は
何んでも
自分に
面倒でないよう、
働かなくとも
済むようとばかり
心掛けている、
事業は
代診や、その
他の
やくざものに
任せ
切り、そうして
自分は
暖い
静な
処に
坐して、
金を
溜め、
書物を
読み、
種々な
屁理窟を
考え、また
酒を(
彼は
院長の
赤い
鼻を
見て)
呑んだりして、
楽隠居のような
真似をしている。一
言で
云えば、
貴方は
生活と
云うものを
見ないのです、それを
全く
知らんのです。そうして
実際と
云うことをただ
理論の
上からばかり
推している。だから
苦痛を
軽蔑したり、
何事にも
驚かんなどと
云っていられる。それは
甚だ
単純な
原因に
由るのです。「
空の
空」だとか、
内部だとか、
外部だとか、
苦痛や、
死に
対する
軽蔑だとか、
真正なる
幸福だとか、とこんな
言草は、
皆ロシヤの
怠惰者に
適当している
哲学です。で、
貴方はこうなのだ、まず
歯が
痛むと
云う
農婦が
来る
······と、それがどうしたのだ。
疼痛は
疼痛のことの
思想である。かつまた、
病気が
無くてはこの
世に
生きて
行く
訳には
行かぬものだ。
早く
帰るべし。
俺の
思想とヴォッカを
呑む
邪魔をするな。とこう
云うでしょう。また
或若者が
来てどう
云う
風に
生活をしたらいいかと
相談を
掛けられる、と、
他人はまず一
番考える
所であろうが、
貴方にはその
答はもうちゃんと
出来ている。
解悟に
向いなさい、
真正の
幸福に
向いなさい。とこう
云うです。
我々をこんな
格子の
内に
監禁して
置いて
苦しめて、そうしてこれは
立派なことだ、
理窟のあることだ、いかんとなればこの
病室と、
暖なる
書斎との
間に
何の
差別もない。と、
誠に
都合のいい
哲学です。そうして
自分を
哲人と
感じている
······いや
貴方これはです、
哲学でもなければ、
思想でもなし、
見解の
敢て
広いのでも
無い、
怠惰です。
自滅です。
睡魔です!
左様!』と、イワン、デミトリチは
昂然として『
貴方は
苦痛を
軽蔑なさるが、
試に
貴方の
指一
本でも
戸に
挟んで
御覧なさい、そうしたら
声限り
※[#「口+斗」、U+544C、53-上-13]ぶでしょう。』
『
或は
※[#「口+斗」、U+544C、53-上-15]ばんかも
知れません。』と、アンドレイ、エヒミチは
言う。
『そんなことは
無い、
例えば
御覧なさい、
貴方が
中風にでも
罹ったとか、
或は
仮に
愚者が
自分の
位置を
利用して
貴方を
公然辱しめて
置いて、それが
後に
何の
報も
無しに
済んでしまったのを
知ったならば、その
時貴方は
他の
人に、
解悟に
向いなさいとか、
真正の
幸福に
向いなさいとか
云うことの
効力が
果して、
何程と
云うことが
解りましょう。』
『これは
奇抜だ。』と
院長は
満足の
余り
微笑しながら、
両手を
擦り
擦り
云う。『
私は
貴方が
総てを
綜合する
傾向をもっているのを、
面白く
感じかつ
敬服致したのです、また
貴方が
今述べられた
私の
人物評は、ただ
感心する
外はありません。
実は
私は
貴方との
談話において、この
上も
無い
満足を
得ましたのです。で、
私は
貴方のお
話を
不残伺いましたから、こんどはどうぞ
私の
話をもお
聞き
下さい。』
かくて
後、なお
二人の
話は一
時間も
続いたが、それより
院長は
深く
感動して、
毎日、
毎晩のように六
号室に
行くのであった。
二人は
話込んでいる
中に
日も
暮れてしまうことがままある
位。イワン、デミトリチは
初めの
中は
院長が
野心でもあるのでは
無いかと
疑って、
彼にとかく
遠ざかって、
不愛想にしていたが、
段々慣れて、
遂には
全く
素振を
変えたのであった。
しかるに
病院の
中では
院長アンドレイ、エヒミチが六
号室に
切に
通い
出したのを
怪んで、その
評判が
高くなり、
代診も、
看護婦も、一
様に
何の
為に
行くのか、
何で
数時間余もあんな
処にいるのか、どんな
話をするのであろうか、
彼処へ
行っても
処方書を
示さぬでは
無いかと、
彼方でも、
此方でも、
彼が
近頃の
奇なる
挙動の
評判で
持切っている
始末。ミハイル、アウエリヤヌイチはこの
頃では
始終彼の
留守にばかり
行く。ダリュシカは
旦那が
近頃は
定刻に
麦酒を
呑まず、
中食までも
晩れることが
度々なので
困却っている。
或時六
月の
末、ドクトル、ハバトフは、
院長に
用事があって、その
室に
行った
所、おらぬので
庭へと
探しに
出た。するとそこで
院長は六
号室であると
聞き、
庭から
直に
別室に
入り、
玄関の
間に
立留ると、
丁度こう
云う
話声が
聞えたので。
『
我々は
到底合奏は
出来ません、
私を
貴方の
信仰に
帰せしむる
訳には
行きませんから。』
と、イワン、デミトリチの
声。
『
現実と
云うことは
全く
貴方には
解らんのです、
貴方はいまだかつて
苦んだことは
無いのですから。しかし
私は
生れたその
日より
今日まで、
絶えず
苦痛を
嘗めているのです、それ
故私は
自分を
貴方よりも
高いもの、
万事において、より
多く
精通しているものと
認めておるです。ですから
貴方が
私に
教えると
云う
場合で
無いのです。』
『
私は
何も
貴方を
自分の
信仰に
向わせようと
云う
権利を
主張はせんのです。』
院長は
自分を
解ってくれ
人の
無いので、さも
残念と
云うように。『そう
云う
訳では
無いのです、それは
貴方が
苦痛を
嘗めて、
私が
嘗めないということではないのです。
詮ずる
所、
苦痛も
快楽も
移り
行くもので、そんなことはどうでもいいのです。で、
私が
言おうと
思うのは、
貴方と
私とが
思想するもの、
相共に
思想したり、
議論をしたりする
力があるものと
認めているということです。たとい
我々の
意見が
何の
位違っても、ここに
我々の一
致する
所があるのです。
貴方がもし
私が一
般の
無智や、
無能や、
愚鈍を
何れ
程に
厭うておるかと
知って
下すったならば、また
如何なる
喜を
以て、こうして
貴方と
話をしているかと
云うことを
知って
下すったならば!
貴方は
知識のある
人です。』
ハバトフはこの
時少ばかり
戸を
開けて
室内を
覗いた。イワン、デミトリチは
頭巾を
被って、
妙な
眼付をしたり、
顫上ったり、
神経的に
病院服の
前を
合わしたりしている。
院長はその
側に
腰を
掛けて、
頭を
垂れて、じっとして
心細いような、
悲しいような
様子で
顔を
赤くしている。ハバトフは
肩を
縮めて
冷笑し、ニキタと
見合う。ニキタも
同じく
肩を
縮める。
翌日ハバトフは
代診を
伴れて
別室に
来て、
玄関の
間でまたも
立聞。
『
院長殿、とうとう
発狂と
御坐ったわい。』と、ハバトフは
別室を
出ながらの
話。
『
主憐よ、
主憐よ、
主憐よ!』と、
敬虔なるセルゲイ、セルゲイチは
云いながら。ピカピカと
磨上げた
靴を
汚すまいと、
庭の
水溜を
避け
避け
溜息をする。
『
打明けて
申しますとな、エウゲニイ、フェオドロイチもう
私は
疾うからこんなことになりはせんかと
思っていましたのさ。』
その
後院長アンドレイ、エヒミチは
自分の
周囲の
者の
様子の、ガラリと
変ったことを
漸く
認めた。
小使、
看護婦、
患者等は、
彼に
往遇う
度に、
何をか
問うものの
如き
眼付で
見る、
行き
過ぎてからは
私語く。
折々庭で
遇う
会計係の
小娘の、
彼が
愛していた
所のマアシャは、この
節は
彼が
微笑して
頭でも
撫でようとすると、
急いで
遁出す。
郵便局長のミハイル、アウエリヤヌイチは、
彼の
所に
来て、
彼の
話を
聞いてはいるが、
先のようにそれは
真実ですとはもう
云わぬ。
何となく
心配そうな
顔で、
左様々々、
左様、と、
打湿って
云ってるかと
思うと、やれヴォッカを
止せの、
麦酒を
止めろのと
勧初める。また
医員のハバトフも
時々来ては、
何故かアルコール
分子の
入っている
飲物を
止せ。ブローミウム
加里を
服めと
勧めて
行くので。
八
月にアンドレイ、エヒミチは
市役所から、
少し
相談があるに
由って、
出頭を
願うと
云う
招状があった、で、
定刻に
市役所に
行って
見ると、もう
地方軍令部長を
初め、
郡立学校視学官市役所員、それにドクトル、ハバトフ、またも
一人の
見知らぬブロンジンの
男、
ずらりと
並んで
控えている。
傍にいた
者は
直ぐに
院長にこの
人間を
紹介した、やはりドクトルで、
何だとかと
云うポーランドの
云い
悪い
名、この
町から三十ヴェルスタばかり
隔っている、
或る
育馬所にいる
者、
今日この
町を
何かの
用でちょっと
通掛ったので、この
場所へ
立寄ったとのことで。
『ええ
只今、
足下に
御関係のある
事柄で、
申上げたいと
思うのですが。』と、
市役所員は
居並ぶ
人々の
挨拶が
済むとこう
切り
出した。『あ、エウゲニイ、フェオドロイチの
有仰るには、
本院の
薬局が
狭隘ので、これを
別室の一つに
移転してはどうかと
云うのです。
勿論これは
雑作も
無いことですが、それには
別室の
修繕を
要すると
云うそのことです。』
『
左様、
修繕を
致さなければならんでしょう。』と、
院長は
考えながら
云う。『
例えば
隅の
別室を
薬局に
当てようと
云うには、
私の
考では、
極く
少額に
見積っても五百
円は
入りましょう、しかし
余り
不生産的な
費用です。』
皆はすこし
黙している。
院長は
静にまた
続ける。
『
私はもう十
年も
前から、そう
申上げていたのですが、
全体この
病院の
設立られたのは、四十
年代の
頃でしたが、その
時分は
今日のような
資力では
無かったもので。しかし
今日の
所では
病院は、
確に
市の
資力以上の
贅沢に
為っているので、
余計な
建物、
余計な
役などで
随分費用も
多く
費っているのです。
私の
思うには、これだけの
銭を
費うのなら、
遣り
方をさえ
換えれば、ここに二つの
模範的の
病院を
維持することが
出来ると
思います。』
『では一つ
遣り
方を
換えて
御覧になったら
如何です。』
と、
市役所員は
活発に
云う。
『
私は
前にも
申上ました
通り、
医学上の
事務を
地方自治体の
方へ、お
渡しになってはどうでしょう?』
『
地方自治に
銭を
渡したら、それこそ
彼等は
皆盗んでしまいましょう。』と、ブロンジンのドクトルは
笑い
出す。
『そりゃ
極ってます。』と、
市役所員も
同意して
笑う。
院長は
茫然とブロンジンのドクトルを
見たが。『しかし
公平に
考えなければなりません。』と
云うた。
皆はまたしばし
黙してしまう。その
中に
茶が
出る。ドクトル、ハバトフは
皆との一
般の
話の
中も、
院長の
言に
注意をして
聞いていたが
突然に。『アンドレイ、エヒミチ
今日は
何日です?』それから
続いて、ハバトフとブロンジンのドクトルとは
下手なのを
感じている
試験官と
云ったような
調子で、
今日は
何曜日だとか、一
年の
中には
何日あるとか、六
号室には
面白い
予言者がいるそうなとかと、
交々尋問ねるのであった。
院長は
終の
問には
赤面して。『いや、あれは
病人です、しかし
面白い
若者で。』と
答えた。
もう
誰も
何とも
質問をせぬのである。
院長は
玄関の
間で
外套を
着、
市役所の
門を
出たが、これは
自分の
才能を
試験する
所の
委員会であったと
初めて
悟り、
自分に
懸けられた
質問を
思い
出し、
一人自ら
赤面し、一
生の
中今初めて、
医学なるものを、つくづくと
情無い
者に
感じたのである。
その
晩、
郵便局長のミハイル、アウエリヤヌイチは
彼の
所に
来たが、
挨拶もせずにいきなり
彼の
両手を
握って、
声を
顫わして
云うた。
『おお
君、ねえ、
君は
僕の
切なる
意中を
信じて、
僕を
親友と
認めてくれることを
証して
下さるでしょうね
······え、
君!』
彼は
院長の
云わんとするのを
遮って、
何かそわそわして
続けて
云う。『
私は
貴方の
教育と、
高尚なる
心とを
甚だ
敬愛しておるです。どうぞ
君、
私の
云うことを
聞いて
下さい。
医学の
原則は、
医者等をして
貴方に
実を
云わしめたのです。しかしながら
私は
軍人風に
真向に
切出します。
貴方に
打明けて
云います、
即ち
貴方は
病気なのです。これはもう
周囲の
者の
疾うより
認めている
所で、
只今もドクトル、エウゲニイ、フェオドロイチが
云うのには、
貴方の
健康の
為には、
須く
気晴をして、
保養を
専一とせんければならんと。これは
実際です。
所が、
丁度私もこの
節、
暇を
貰って、
異った
空気を
吸いに
出掛けようと
思っている
矢先、どうでしょう、一
所に
付合っては
下さらんか、そうして
旧事を
皆忘れてしまいましょうじゃありませんか。』
『しかし
私は
少しも
身体に
異状は
無いです、
壮健です。
無暗に
出掛けることは
出来ません、どうぞ
私の
友情を
他のことで
何とか
証させて
下さい。』
アンドレイ、エヒミチは
初の一
分時は、
何の
意味もなく
書物と
離れ、ダリュシカと
麦酒とに
別れて、二十
年来定まったその
生活の
順序を
破ると
云うことは
出来なく
思うたが、また
深く
思えば、
市役所でありしこと、その
自ら
感じた
不愉快のこと、
愚な
人々が
自分を
狂人視しているこんな
町から、
少しでも
出て
見たらば、とも
思うのであった。
『しかし
貴方は一
体どこへお
出掛けになろうと
云うのです?』
院長は
問うた。
『モスクワへも、ペテルブルグへも、ワルシャワへも
······ワルシャワは
実によい
所です、
私が
幸福の五
年間は
彼処で
送ったのでした、それはいい
町です、
是非行きましょう、ねえ
君。』
一
週間を
経てアンドレイ、エヒミチは、
病院から
辞職の
勧告を
受けたが、
彼はそれに
対しては
至って
平気であった。かくてまた一
週間を
過ぎ、
遂にミハイル、アウエリヤヌイチと
共に
郵便の
旅馬車に
打乗り、
近き
鉄道のステーションを
差して、
旅行にと
出掛けたのである。
空は
爽に
晴れて、
遠く
木立の
空に
接する
辺も
見渡される
凉しい
日和。ステーションまでの二百ヴェルスタの
道を二
昼夜で
過ぎたが、その
間馬の
継場々々で、ミハイル、アウエリヤヌイチは、やれ、
茶の
杯の
洗いようがどうだとか、
馬を
附けるのに
手間が
取れるとかと
力んで、
上句には、
何も
黙れとか、
彼れこれ
云うな、とかと
真赤になって
騒を
返す。
道々も一
分の
絶間もなく
喋り
続けて、カフカズ、ポーランドを
旅行したことなどを
話す。そうして
大声で
眼を
剥出し、
夢中になってドクトルの
顔へはふッはふッと
息を
吐掛ける、
耳許で
高笑する。ドクトルはそれが
為に
考に
耽ることもならず、
思に
沈むことも
出来ぬ。
汽車は
経済の
為に三
等で、
喫烟をせぬ
客車で
行った。
車室の
中はさのみ
不潔の
人間ばかりではなかったが、ミハイル、アウエリヤヌイチは
直に
人々と
懇意になって
誰にでも
話を
仕掛け、
腰掛から
腰掛へ
廻り
歩いて、
大声で、こんな
不都合極る
汽車は
無いとか、
皆盗人のような
奴等ばかりだとか、
乗馬で
行けば一
日に百ヴェルスタも
飛ばせて、その
上愉快に
感じられるとか、
我々の
地方の
不作なのはピン
沼などを
枯してしまったからだ、
非常な
乱暴をしたものだとか、などと
云って、
殆ど
他には
口も
開かせぬ、そうしてその
相間には
高笑と、
仰山な
身振。
『
私等二人の
中、
何れが
瘋癲者だろうか。』と、ドクトルは
腹立しくなって
思うた。『
少しも
乗客を
煩わさんように
務めている
俺か、それともこんなに
一人で
大騒をしていた、
誰にも
休息もさせぬこの
利己主義男か?』
モスクワへ
行ってから、ミハイル、アウエリヤヌイチは
肩章の
無い
軍服に、
赤線の
入ったズボンを
穿いて
町を
歩くにも、
軍帽を
被り、
軍人の
外套を
着た。
兵卒は
彼を
見て
敬礼をする。アンドレイ、エヒミチは
今初めて
気が
着いたが、ミハイル、アウエリヤヌイチは
前に
大地主であった
時の、
余り
感心せぬ
風ばかりが
今も
残っていると
云うことを。
机の
前にマッチはあって、
彼はそれを
見ていながら、その
癖、
大声を
上げて
小使を
呼んでマッチを
持って
来いなどと
云い、
女中のいる
前でも
平気で
下着一つで
歩いている、
下僕や、
小使を
捉えては、
年を
寄ったものでも
何でも
構わず、
貴様々々と
頭砕。その
上に
腹を
立つと
直ぐに、この
野郎、この
大馬鹿と
悪体が
初まるので、これらは
大地主の
癖であるが、
余り
感心した
風では
無い、とドクトルも
思うたのであった。
モスクワ
見物の
第一
着に、ミハイル、アウエリヤヌイチはその
友をまずイウエルスカヤ
小聖堂に
伴れ
行き、そこで
彼は
熱心に
伏拝して
涙を
流して
祈祷する、そうして
立上り、
深く
溜息して
云うには。
『たとい
信じなくとも、
祈祷をすると、
何とも
云われん
位、
心が
安まる、
君、
接吻し
給え。』
アンドレイ、エヒミチは
体裁悪く
思いながら、
聖像に
接吻した。ミハイル、アウエリヤヌイチは
唇を
突出して、
頭を
振りながら、またも
小声で
祈祷して
涙を
流している。それから
二人はそこを
出て、クレムリに
行き、
大砲王(
巨大な砲)と
大鐘王(
巨大な鐘、モスクワの二大名物)とを
見物し、
指で
触って
見たりした。それよりモスクワ
川向の
町の
景色などを
見渡しながら、
救世主の
聖堂や、ルミャンツセフの
美術館なんどを
廻って
見た。
中食はテストフ
亭と
云う
料理店に
入ったが、ここでもミハイル、アウエリヤヌイチは、
頬鬚を
撫でながら、ややしばらく、
品書を
拈転って、
料理店を
我が
家のように
挙動う
愛食家風の
調子で。
『
今日はどんな
御馳走で
我々を
食わしてくれるか。』と、
無暗と
幅を
利かせたがる。
ドクトルは
見物もし、
歩いても
見、
食っても
飲んでも
見たのであるが、ただもう
毎日ミハイル、アウエリヤヌイチの
挙動に
弱らされ、それが
鼻に
着いて、
嫌で、
嫌でならぬので、どうかして一
日でも、一
時でも、
彼から
離れて
見たく
思うのであったが、
友は
自分より
彼を一
歩でも
離すことはなく、
何でも
彼の
気晴をするが
義務と、
見物に
出ぬ
時は
饒舌り
続けて
慰めようと、
附纒い
通しの
有様。二
日と
云うものアンドレイ、エヒミチは
堪え
堪えて、
我慢をしていたのであるが、三
日目にはもうどうにも
堪え
切れず。
少し
身体の
工合が
悪いから、
今日だけ
宿に
残っていると、
遂に
思切って
友に
云うたのであった、しかるにミハイル、アウエリヤヌイチは、それじゃ
自分も
家にいることにしよう、
少しは
休息もしなければ
足も
続かぬからと
云う
挨拶。アンドレイ、エヒミチは
うんざりして、
長椅子の
上に
横になり、
倚掛の
方へ
突と
顔を
向けたまま、
歯を
切って、
友の
喋喋語るのを
詮方なく
聞いている。さりとも
知らぬミハイル、アウエリヤヌイチは、
大得意で、
仏蘭西は
早晩独逸を
破ってしまうだろうとか、モスクワには
攫客が
多いとか、
馬は
見掛ばかりでは、その
真価は
解らぬものであるとか。と、それからそれへと
話を
続けて
息の
継ぐ
暇も
無い、ドクトルは
耳をガンとして、
心臓の
鼓動さえ
烈しくなって
来る。と
云って、
出て
行ってくれ、
黙っていてくれとは
彼には
言われぬので、じっと
辛抱している
辛さは一
倍である。
所が
仕合にもミハイル、アウエリヤヌイチの
方が、こんどは
宿に
引込んでいるのが、とうとう
退屈になって
来て、
中食後には
散歩にと
出掛けて
行った。
アンドレイ、エヒミチは
やっと一人になって、
長椅子の
上に
のろのろと
落着いて
横になる。
室内に
自分ただ
一人、と
意識するのは
如何に
愉快であったろう。
真実の
幸福は
実に
一人でなければ
得べからざるものであると、つくづく
思うた。そうして
彼は
此頃見たり、
聞いたりしたことを
考えようと
思うたが、どうしたものかやはり、ミハイル、アウエリヤヌイチが
頭から
離れぬのであった。
その
後は
彼は
少しも
外出せず、
宿にばかり
引込んでいた。
友はわざわざ
休暇を
取って、かく
自分と
共に
出発したのでは
無いか。
深き
友情によってでは
無いか、
親切なのでは
無いか。しかし
実にこれ
程有難迷惑のことがまたとあろうか。
降参だ、
真平だ。とは
云え、
彼に
悪意があるのでは
無い。と、ドクトルは
更にまたしみじみと
思うたのであった。
ペテルブルグに
行ってからもドクトルはやはり
同様、
宿にのみ
引籠って
外へは
出ず、一
日長椅子の
上に
横になり、
麦酒を
呑む
時にだけ
起る。
ミハイル、アウエリヤヌイチは、
始終ワルシャワへ
早く
行こうとばかり
云うている。
『しかし
君、
私は
何もワルシャワへ
行く
必要は
無いのだから、
君一人で
行き
給え、そうして
私をどうぞ
先に
故郷に
帰して
下さい。』アンドレイ、エヒミチは
哀願するように
云うた。
『
飛だことさ。』と、ミハイル、アウエリヤヌイチは
聴入れぬ。『ワルシャワこそ
君に
見せにゃならん、
僕が五
年の
幸福な
生涯を
送った
所だ。』
アンドレイ、エヒミチは
例の
気質で、それでもとは
云い
兼ね、
遂にまた
嫌々ながらワルシャワにも
行った。そこでも
彼は
宿から
出ずに、
終日相変らず
長椅子の
上に
転がり、
相変らず
友の
挙動に
愛想を
尽かしている。ミハイル、アウエリヤヌイチは
一人して
元気よく、
朝から
晩まで
町を
遊び
歩き、
旧友を
尋ね
廻り、
宿には
数度も
帰らぬ
夜があった
位。と、
或朝早く
非常に
興奮した
様子で、
真赤な
顔をし、
髪も
茫々として
宿に
帰って
来た。そうして
何か
独語しながら、
室内を
隅から
隅へと
急いで
歩く。
『
名誉は
大事だ。』
『そうだ
名誉が
大切だ。
全体こんな
町に
足を
踏込んだのが
間違いだった。』と、
彼は
更にドクトルに
向って
云うた。『
実は
私は
負けたのです。で、どうでしょう、
銭を五百
円貸しては
下さらんか?』
アンドレイ、エヒミチは
銭を
勘定して、五百
円を
無言で
友に
渡したのである。ミハイル、アウエリヤヌイチはまだ
真赤になって、
面目無いような、
怒ったような
風で。『きっと
返却します、きっと。』などと
誓いながら、また
帽を
取るなり
出て
行った。が、
大約二
時間を
経ってから
帰って
来た。
『お
蔭で
名誉は
助かった。もう
出発しましょう。こんな
不徳義極る
所に一
分だって
留っていられるものか。
掏摸ども
奴、
墺探ども
奴。』
二人が
旅行を
終えて
帰って
来たのは十一
月、
町にはもう
深雪が
真白に
積っていた。アンドレイ、エヒミチは
帰って
見れば
自分の
位置は
今はドクトル、ハバトフの
手に
渡って、
病院の
官宅を
早く
明渡すのをハバトフは
待っているというとのこと、またその
下女と
名づけていた
醜婦は、この
間から、
別室の
内の
或る
処に
移転した。
町には、
病院の
新院長に
就いての
種々な
噂が
立てられていた。
下女と
云う
醜婦が
会計と
喧嘩をしたとか、
会計はその
女の
前に
膝を
折って
謝罪したとか、と。
アンドレイ、エヒミチは
帰来早々まずその
住居を
尋ねねばならぬ。
『
不遠慮な
御質問ですがなあ
君。』と
郵便局長はアンドレイ、エヒミチに
向って
云うた。
『
貴方は
何位財産をお
所有ちですか?』
問われて、アンドレイ、エヒミチは
黙したまま、
財嚢の
銭を
数え
見て。『八十六
円。』
『
否、そうじゃないのです。』ミハイル、アウエリヤヌイチは
更に
云直す。『その、
君の
財産は
総計で
何位と
云うのを
伺うのさ。』
『だから
総計八十六
円と
申しているのです。それ
切り
私は一
文も
所有っちゃおらんので。』
ミハイル、アウエリヤヌイチはドクトルの
廉潔で、
正直であるのは
予ても
知っていたが、しかしそれにしても、二万
円位は
確に
所有ていることとのみ
思うていたのに、かくと
聞いては、ドクトルがまるで
乞食にも
等しき
境遇と、
思わず
涙を
落して、ドクトルを
抱き
締め、
声を
上げて
泣くのであった。
ドクトル、アンドレイ、エヒミチはベローワと
云う
婦の
小汚ない
家の一
間を
借りることになった。
彼は
前のように八
時に
起きて、
茶の
後は
直に
書物を
楽しんで
読んでいたが、この
頃は
新しい
書物も
買えぬので、
古本ばかり
読んでいる
為か、
以前程には
興味を
感ぜぬ。
或時徒然なるに
任せて、
書物の
明細な
目録を
編成し、
書物の
背には
札を一々
貼付けたが、こんな
機械的な
単調な
仕事が、
却って
何故か
奇妙に
彼の
思想を
弄して、
興味をさえ
添えしめていた。
彼はその
後病院に二
度イワン、デミトリチを
尋ねたのであるがイワン、デミトリチは二
度ながら
非常に
興奮して、
激昂していた
様子で、
饒舌ることはもう
飽きたと
云って
彼を
拒絶する。
彼は
詮方なくお
眠みなさい、とか、
左様なら、とか
云って
出て
来ようとすれば、『
勝手にしやがれ。』と
怒鳴り
付ける
権幕。ドクトルもそれからは
行くのを
見合わせてはいるものの、やはり
行きたく
思うていた。
前には
彼は
中食後は、きっと
室の
隅から
隅へと
歩いて
考えに
沈んでいるのが
常であったが、この
頃は
中食から
晩の
茶の
時までは、
長椅子の
上に
横になる。と、いつも
妙な一つ
思想が
胸に
浮ぶ。それは
自分が二十
年以上も
勤務をしていたのに、それに
対して
養老金も、一
時金もくれぬことで、
彼はそれを
思うと
残念であった。
勿論余り
正直には
務めなかったが、
年金など
云うものは、たとい、
正直であろうが、
無かろうが、
凡て
務めた
者は
受けべきである。
勲章だとか、
養老金だとか
云うものは、
徳義上の
資格や、
才能などに
報酬されるのではなく、一
般に
勤務その
物に
対して
報酬されるのである。しからば
何で
自分ばかり
報酬をされぬのであろう。また
今更考えれば
旅行に
由りて、
無惨々々と
惜ら千
円を
費い
棄てたのはいかにも
残念。
酒店には
麦酒の
払が三十二
円も
滞る、
家賃とてもその
通り、ダリュシカは
密に
古服やら、
書物などを
売っている。
此際彼の千
円でもあったなら、どんなに
役に
立つことかと。
彼はまたかかる
位置になってからも、
人が
自分を
抛棄っては
置いてくれぬのが、
却って
迷惑で
残念であった。ハバトフは
折々病気の
同僚を
訪問するのは、
自分の
義務であるかのように、
彼の
所に
蒼蠅く
来る。
彼はハバトフが
嫌でならぬ。その
満足な
顔、
人を
見下るような
様子、
彼を
呼んで
同僚と
云う
言、
深い
長靴、
此等は
皆気障でならなかったが、
殊に
癪に
障るのは、
彼を
治療することを
自分の
務として、
真面目に
治療をしている
意なのが。で、ハバトフは
訪問をする
度に、きっとブローミウム
加里の
入った
壜と、
大黄の
丸薬とを
持って
来る。
ミハイル、アウエリヤヌイチもやはり、しょっちゅう、アンドレイ、エヒミチを
訪問ねて
来て、
気晴をさせることが
自分の
義務と
心得ている。で、
来ると、まるで
空々しい
無理な
元気を
出して、
強いて
高笑をして
見たり、
今日は
非常に
顔色がいいとか、
何とか、ワルシャワの
借金を
払わぬので、
内心の
苦しくあるのと、
恥しくある
所から、
余計に
強いて
気を
張って、
大声で
笑い、
高調子で
饒舌るのであるが、
彼の
話にはもう
倦厭りしているアンドレイ、エヒミチは、
聞くのもなかなかに
大儀で、
彼が
来ると
何時もくるりと
顔を
壁に
向けて、
長椅子の
上に
横になった
切り、そうして
歯を
切っているのであるが、それが
段々度重なれば
重る
程、
堪らなく、
終には
咽喉の
辺りまでがむずむずして
来るような
感じがして
来た。
或日郵便局長ミハイル、アウエリヤヌイチは、
中食後にアンドレイ、エヒミチの
所を
訪問した。アンドレイ、エヒミチはやはり
例の
長椅子の
上。すると
丁度ハバトフもブローミウム
加里の
壜を
携えて
遣って
来た。アンドレイ、エヒミチは
重そうに、
辛そうに
身を
起して
腰を
掛け、
長椅子の
上に
両手を
突張る。
『いや
今日は、おお
君は
今日は
顔色が
昨日よりもまたずッといいですよ。まず
結構だ。』と、ミハイル、アウエリヤヌイチは
挨拶する。
『もう
全快してもいいでしょう。』とハバトフは
欠をしながら
言を
添える、
『
平癒りますとも、そうしてもう百
年も
生きまさあ。』と、
郵便局長は
愉快気に
云う。
『百
年てそうも
行かんでしょうが、二十
年やそこらは
生き
延びますよ。』ハバトフは
慰め
顔。『
何んでもありませんさ、なあ
同僚。
悲観ももう
大抵になさるがいいですぞ。』
『
我々はまだ
隠居するには
早いです。ハハハそうでしょうドクトル、まだ
隠居するのには。』
郵便局長は
云う。
『
来年辺はカフカズへ
出掛けようじゃありませんか、
乗馬で
以てからにあちこちを
駆廻りましょう。そうしてカフカズから
帰ったら、こんどは
結婚の
祝宴でも
挙げるようになりましょう。』と
片眼をパチパチして。『
是非一つ
君を
結婚させよう
······ねえ、
結婚を。』
アンドレイ、エヒミチは
むかッとして
立上った。
『
失敬な!』と、
一言※[#「口+斗」、U+544C、60-上-5]ぶなりドクトルは
窓の
方に
身を
退け。『
全体貴方々はこんな
失敬なことを
言っていて、
自分では
気が
着かんのですか。』
柔かに
言う
意であったが、
意に
反して
荒々しく
拳をも
固めて
頭上に
振翳した。
『
余計な
世話は
焼かんでもいい。』ますます
荒々しくなる。
『
二人ながら
帰って
下さい、さあ、
出て
行きなさい。』
自分の
声では
無い
声で
顫えながら
※[#「口+斗」、U+544C、60-上-11]ぶ。
ミハイル、アウエリヤヌイチとハバトフとは
呆気に
取られて
瞶めていた。
『
二人とも、さあ
出てお
行でなさい。さあ。』アンドレイ、エヒミチはまだ
※[#「口+斗」、U+544C、60-上-15]び
続けている。『
鈍痴漢の、
薄鈍な
奴等、
薬も
糸瓜もあるものか、
馬鹿な、
軽挙な!』ハバトフと
郵便局長とは、この
権幕に
辟易して
戸口の
方に
狼狽出て
行く。ドクトルはその
後を
睨めていたが、ゆきなりブローミウム
加里の
壜を
取るより
早く、
発矢とばかりそこに
投付る、
壜は
微塵に
粉砕してしまう。
『
畜生!
行け! さッさと
行け!』と
彼は
玄関まで
駈出して、
泣声を
上げて
怒鳴る。『
畜生!』
客等が
立去ってからも、
彼は
一人でまだしばらく
悪体を
吻いている。しかし
段々と
落着くに
随って、さすがにミハイル、アウエリヤヌイチに
対しては
気の
毒で、
定めし
恥入っていることだろうと
思えば。ああ
思慮、
知識、
解悟、
哲学者の
自若、それ
将た
安にか
在ると、
彼はひたすらに
思うて、
慙じて、
自ら
赤面する。
その
夜は
慙恨の
情に
駆られて、一
睡だもせず、
翌朝遂に
意を
决して、
局長の
所へと
詑に
出掛る。
『いやもう
過去は
忘れましょう。』と、ミハイル、アウエリヤヌイチは
固く
彼の
手を
握って
云うた。『
過去のことを
思い
出すものは、
両眼を
抉ってしまいましょう。リュバフキン!』と、
彼は
大声で
誰かを
呼ぶ。
郵便局の
役員も、
来合わしていた
人々も、一
斉に
吃驚する。『
椅子を
持って
来い。
貴様は
待っておれ。』と、
彼は
格子越に
書留の
手紙を
彼に
差出している
農婦に
怒鳴り
付る。『
俺の
用のあるのが
見えんのか。いや
過去は
思い
出しますまい。』と
彼は
調子を一
段と
柔しくしてアンドレイ、エヒミチに
向って
云う。『さあ
君、
掛け
給え、さあどうか。』
一
分間黙して
両手で
膝を
擦っていた
郵便局長はまた
云出した。
『
私は
决して
君に
対して
立腹は
致さんので、
病気なれば
拠無いのです、お
察し
申すですよ。
昨日も
君が
逆上られた
後、
私はハバトフと
長いこと、
君のことを
相談しましたがね、いや
君もこんどは
本気になって、
病気の
療治を
遣り
給わんといかんです。
私は
友人として
何も
彼も
打明けます。』と、
彼は
更に
続けて。『
全体君は
不自由な
生活をされているので、
家と
云えば
清潔でなし、
君の
世話をする
者は
無し、
療治をするには
銭は
無し。ねえ
君、で
我々は
切に
君に
勧めるのだ。どうぞ
是非一つ
聴いて
頂きたい、と
云うのは、
実はそう
云う
訳であるから、
寧君は
病院に
入られた
方が
得策であろうと
考えたのです。ねえ
君、
病院はまだ
比較的、
食物はよし、
看護婦はいる、エウゲニイ、フェオドロイチもいる。それは
勿論、これは
我々だけの
話だが、
彼は
余り
尊敬をすべき
人格の
男では
無いが、
術に
掛けてはまたなかなか
侮られんと
思う。で
願くはだ、
君、どうぞ一つ
充分に
彼を
信じて、
療治を
専一にして
頂きたい。
彼も
私にきっと
君を
引受けると
云っていたよ。』
アンドレイ、エヒミチはこの
切なる
同情の
言と、その
上涙をさえ
頬に
滴らしている
郵便局長の
顔とを
見て、
酷く
感動して
徐に
口を
開いた。
『
君は
彼等を
信じなさるな。
嘘なのです。
私の
病気と
云うのはそもそもこうなのです。二十
年来、
私はこの
町にいてただ
一人の
智者に
遇った。
所がそれは
狂人であると
云う、これだけの
事実です。で
私も
狂人にされてしまったのです。しかしなあに
私はどうでもいいので、からしてつまり
何にでも
同意を
致しましょう。』
『
病院へお
入りなさい、ねえ
君。』
『
左様、どうでもいいです、よしんば
穴の
中に
入るのでも。』
『で、
君は
万事エウゲニイ、フェオドロイチの
言に
従うように、ねえ
君、
頼むから。』
『
宜しい、
私は
今は
実以て
二ちも
三ちも
行かん
輪索に
陥没ってしまったのです。もう
万事休矣です
覚悟はしています。』
『いやきっと
平癒ですよ。』
格子の
外には
公衆が
次第に
群って
来る。アンドレイ、エヒミチは、ミハイル、アウエリヤヌイチの
公務の
邪魔をするのを
恐れて、
話はそれだけにして
立上り、
彼と
別れて
郵便局を
出た。
丁度その
日の
夕方、ドクトル、ハバトフは
例の
毛皮の
外套に、
深い
長靴、
昨日は
何事も
無かったような
顔で、アンドレイ、エヒミチをその
宿に
訪問ねた。
『
貴方に
少々お
願があって
出たのですが、どうぞ
貴方は
私と一つ
立合診察をしては
下さらんか、
如何でしょう。』と、さり
気なくハバトフは
云う。
アンドレイ、エヒミチはハバトフが
自分を
散歩に
誘って
気晴をさせようと
云うのか、
或はまた
自分にそんな
仕事を
授けようと
云う
意なのかと
考えて、とにかく
服を
着換えて
共に
通に
出たのである。
彼はハバトフが
昨日のことは
噫にも
出さず、かつ
気にも
掛けていぬような
様子を
見て、
心中一方ならず
感謝した。こんな
非文明的な
人間から、かかる
思遣りを
受けようとは、
全く
意外であったので。
『
貴方の
有仰る
病人はどこなのです?、』アンドレイ、エヒミチは
問うた。
『
病院です、もう
疾うから
貴方にも
見て
頂きたいと
思っていましたのですが
······妙な
病人なのです。』
やがて
病院の
庭に
入り、
本院を
一周して
瘋癲病者の
入れられたる
別室に
向って
行った。ハバトフはその
間何故か
黙したまま、
さッさと六
号室へ
這入って
行ったが、ニキタは
例の
通り
雑具の
塚の
上から
起上って、
彼等に
礼をする。
『
肺の
方から
来た
病人なのですがな。』とハバトフは
小声で
云うた。『や、
私は
聴診器を
忘れて
来た、
直ぐ
取って
来ますから、ちょっと
貴方はここでお
待ち
下さい。』
と
彼はアンドレイ、エヒミチをここに
一人残して
立去った。
日はすでに
没した。イワン、デミトリチは
顔を
枕に
埋めて
寐台の
上に
横になっている。
中風患者は
何か
悲しそうに
静に
泣きながら、
唇を
動かしている。
肥った
農夫と、
郵便局員とは
眠っていて、六
号室の
内は

として
静かであった。
アンドレイ、エヒミチは、イワン、デミトリチの
寐台の
上に
腰を
掛けて、
大約半時間も
待っていると、
室の
戸は
開いて、
入って
来たのはハバトフならぬ
小使のニキタ。
病院服、
下着、
上靴など、
小腋に
抱えて。
『どうぞ
閣下これをお
召し
下さい。』と、ニキタは
前院長の
前に
立って
丁寧に
云うた。『あれが
閣下のお
寐台で。』と、
彼は
更に
新しく
置れた
寐台の
方を
指して。『
何でもありませんです。
必ず
直に
御全快になられます。』
アンドレイ、エヒミチはここに
至って
初めて
読めた。一
言も
言わずに
彼はニキタの
示した
寐台に
移り、ニキタが
立って
待っているので、
直ぐに
着ていた
服を
すッぽりと
脱ぎ
棄て、
病院服に
着換えてしまった。シャツは
長し、ズボン
下は
短かし、
上着は
魚の
焼いた
臭がする。『きっと
間もなくお
直りでしょう。』と、ニキタはまた
云うてアンドレイ、エヒミチの
脱捨た
服を
一纏めにして、
小腋に
抱えたまま、
戸を
閉てて
行く。
『どうでもいい
······。』と、アンドレイ、エヒミチは
体裁悪そうに
病院服の
前を
掻合わせて、さも
囚人のようだと
思いながら、『どうでもいいわ
······燕尾服だろうが、
軍服だろうが、この
病院服だろうが、
同じことだ。』
『しかし
時計はどうしたろう、それからポッケットに
入れて
置いた
手帳も、
巻莨も、や、ニキタはもう
着物を
悉皆持って
行った。いや
入らん、もう
死ぬまで、ズボンや、チョッキ、
長靴には
用が
無いのかも
知れん。しかし
奇妙な
成行さ。』と、アンドレイ、エヒミチは
今もなおこの六
号室と、ベローワの
家と
何の
異りも
無いと
思うていたが、どう
云うものか、
手足は
冷えて、
顫えてイワン、デミトリチが
今にも
起きて
自分のこの
姿を
見て、
何とか
思うだろうと
恐しいような
気もして、
立ったり、いたり、また
立ったり、
歩いたり、ようやく
半時間、一
時間ばかりも
坐っていて
見たが、
悲しい
程退屈になって
来て、どうしてこんな
処に一
週間といられよう、まして一
年、二
年など
到底辛棒をされるものでないと
思い
付いた。そう
思えばますます
居堪らず、
衝と
立って
隅から
隅へと
歩いて
見る。『そうしてからどうする、ああ
到底居堪らぬ、こんな
風で一
生!』
彼はどっかり
坐った、
横になったがまた
起直る。そうして
袖で
額に
流れる
冷汗を
拭いたが
顔中焼魚の
腥
い
臭がして
来た。
彼はまた
歩き
出す。『
何かの
間違いだろう
······話合って
見にゃ
解らん、きっと
誤解があるのだ。』
イワン、デミトリチはふと
眼を
覚し、
脱然とした
様子で
両の
拳を
頬に
突く。
唾を
吐く。
初めちょっと
彼には
前院長に
気が
付かぬようであったがやがてそれと
見て、その
寐惚顔には
忽ち
冷笑が
浮んだので。
『ああ
貴方もここへ
入れられましたのですか。』と
彼は
嗄れた
声で
片眼を
細くして
云うた。『いや
結構、
散々人の
血をこうして
吸ったから、こんどは
御自分の
吸われる
番だ、
結構々々。』
『
何かの
多分間違です。』とアンドレイ、エヒミチは
肩を
縮めて
云う。『
間違に
相違ないです。』
イワン、デミトリチはまたも
床に
唾を
吐いて、
横になり、そうして
呟いた。『ええ、
生甲斐の
無い
生活だ、
如何にも
残念なことだ、この
苦痛な
生活がオペラにあるような、アポテオズで
終るのではなく、これがああ
死で
終るのだ。
非人が
来て、
死者の
手や、
足を
捉えて
穴の
中に
引込んでしまうのだ、うッふ! だが
何でもない
······その
換り
俺は
彼の
世から
化けて
来て、ここらの
奴等を
片端から
嚇してくれる、
皆白髪にしてしまって
遣る。』
折しもモイセイカは
外から
帰り
来り、そこに
前院長のいるのを
見て、
直に
手を
延し、
『一
銭お
呉なさい!』
アンドレイ、エヒミチは
窓の
所に
立って
外を
眺むれば、
日はもう
とッぷりと
暮れ
果てて、むこうの
野広い
畑は
暗かったが、
左の
方の
地平線上より、
今しも
冷たい
金色の
月が
上る
所、
病院の
塀から百
歩ばかりの
処に、
石の
牆の
繞らされた
高い、
白い
家が
見える。これは
監獄である。
『これが
現実と
云うものか。』アンドレイ、エヒミチは
思わず
慄然とした。
凄然たる
月、
塀の
上の
釘、
監獄、
骨焼場の
遠い
焔、アンドレイ、エヒミチはさすがに
薄気味悪い
感に
打たれて、
しょんぼりと
立っている。と
直後に、
吐とばかり
溜息の
声がする。
振返れば
胸に
光る
徽章やら、
勲章やらを
下げた
男が、ニヤリとばかり
片眼をパチパチと、
自分を
見て
笑う。
アンドレイ、エヒミチは
強いて
心を
落着けて、
何の、
月も、
監獄もそれがどうなのだ、
壮健な
者も
勲章を
着けているではないか。と、そう
思返したものの、やはり
失望は
彼の
心にいよいよ
募って、
彼は
思わず
両の
手に
格子を
捉え、
力儘せに
揺動ったが、
堅固な
格子はミチリとの
音もせぬ。
荒凉の
気に
打たれた
彼は、
何かなして
心を
紛らさんと、イワン、デミトリチの
寐台の
所に
行って
腰を
掛る。
『
私はもう
落胆してしまいましたよ、
君。』と、
彼は
顫声して、
冷汗を
拭きながら。『
全く
落胆してしまいました。』
『では一つ
哲学の
議論でもお
遣んなさい。』と、イワン、デミトリチは
冷笑する。
『ああ
絶体絶命······そうだ。
何時か
貴方は
露西亜には
哲学は
無い、しかし
誰も、
彼も、
丁斑魚でさえも
哲学をすると
有仰ったっけ。しかし
丁斑魚が
哲学をすればって、
誰にも
害は
無いのでしょう。』アンドレイ、エヒミチはいかにも
情無いと
云うような
声をして。『どうして
君、そんなにいい
気味だと
云うような
笑様をされるのです。
幾ら
丁斑魚でも
満足を
得られんなら、
哲学をせずにはおられんでしょう。いやしくも
智慧ある、
教育ある、
自尊ある、
自由を
愛する、
即ち
神の
像たる
人間が。ただに
医者として、
辺鄙なる、
蒙昧なる
片田舎に一
生、
壜や、
蛭や、
芥子粉だのを
弄っているより
外に、
何の
為すことも
無いのでしょうか、
詐欺、
愚鈍、
卑劣漢、と一
所になって、いやもう!』
『
下らんことを
貴方は
零していなさる。
医者がいやなら
大臣にでもなったらいいでしょう。』
『いや、どこへ
行くのも、
何を
遣るのも
望まんです。
考えれば
意気地が
無いものさ。これまでは
虚心平気で、
健全に
論じていたが、一
朝生活の
逆流に
触るるや、
直に
気は
挫けて
落胆に
沈んでしまった
······意気地が
無い
······人間は
意気地が
無いものです、
貴方とてもやはりそうでしょう、
貴方などは、
才智は
勝れ、
高潔ではあり、
母の
乳と
共に
高尚な
感情を
吸込まれた
方ですが、
実際の
生活に
入るや
否、
直に
疲れて
病気になってしまわれたです。
実に
人は
微弱なものだ。』
彼には
悲愴の
感の
外に、まだ一
種の
心細き
感じが、
殊に
日暮よりかけて、
しんみりと
身に
泌みて
覚えた。これは
麦酒と、
莨とが、
欲しいのであったと
彼も
終に
心着く。
『
私はここから
出て
行きますよ、
君。』と、
彼はイワン、デミトリチにこう
云うた。『ここへ
灯を
持って
来るように
言付けますから
······どうしてこんな
真暗な
所にいられましょう
······我慢し
切れません。』
アンドレイ、エヒミチは
戸口の
所に
進んで、
戸を
開けた。するとニキタが
躍上て
来て、その
前に
立塞る。
『どちらへ! いけません、いけません!』と、
彼は
※[#「口+斗」、U+544C、63-下-12]ぶ。『もう
眠る
時ですぞ!』
『いやちと
庭を
歩いて
来るのだ。』と、アンドレイ、エヒミチは
怖々する。
『いけません、いけません! そんなことをさせてもいいとは
誰からも
言付かりません。
御存じでしょう。』
云うなりニキタは
戸を
ぱたり。そうして
背を
閉めた
戸に
当ててやはりそこに
仁王立。
『しかし
俺が
出たってそれが
為に
誰が
何と
云う。』アンドレイ、エヒミチは
肩を
縮る。『
訳が
分らん、おいニキタ
俺は
出なければならんのだ!』
彼の
声は
顫える。『
用があるのだ!』
『
規律を
乱すことは
出来ません、いけません!』とニキタは
諭すような
調子。
『
何だと
畜生!』と、この
時イワン、デミトリチは
急に
むッくりと
起上る。『
何で
彼奴が
出さんと
云う
法がある、
我々をここに
閉込めて
置く
訳は
無い。
法律に
照しても
明白だ、
何人と
雖、
裁判もなくして
無暗に
人の
自由を
奪うことが
出来るものか!
不埒だ!
圧制だ!』
『
勿論不埒ですとも。』アンドレイ、エヒミチはイワン、デミトリチの
加勢にとみに
力を
得て、
気が
強くなり。『
俺は
用があるのだ!
出るのだ!
貴様に
何の
権利がある!
出せと
云ったら
出せ!』
『
解ったか
馬鹿野郎!』と、イワン、デミトリチは
※[#「口+斗」、U+544C、64-上-6]んで、
拳を
固めて
戸を
敲く。『やい
開けろ!
開けろ!
開けんか! 開けんなら
戸を
打破すぞ!
人非人!
野獣!』
『
開けろ!』アンドレイ、エヒミチは
全身を
ぶるぶると
顫わして。『
俺が
命ずるのだッ!』
『もう一
度言って
見ろ!』
戸のむこうでニキタの
声。『もう一
度言って
見ろ!』
『じゃ、エウゲニイ、フェオドロイチでもここへ
呼んで
来い、ちょっと
俺が
来てくれッて
云っているとそう
云え
······ちょっとでいいからッて!』
『
明日になればお
出でになります。』
『
何日になったって
我々を
决して
出すものか。』イワン、デミトリチは
云う、『
我々をここで
腐らしてしまう
料簡だろう!
来世に
地獄がなくて
為るものか、こんな
人非人共がどうして
許される、そんなことで
正義はどこにある、えい、
開けろ、
畜生!』
彼は
嗄れた
声を
絞って、
戸に
身を
投掛け。『いいか、
貴様の
頭を
敲き
破るぞ!
人殺奴!』
ニキタはぱッと
戸を
開けるより、
阿修羅王の
荒れたる
如く、
両手と
膝でアンドレイ、エヒミチを
突飛し、
骨も
砕けよとその
鉄拳を
真向に、
健か
彼の
顔を
敲き
据えた。アンドレイ、エヒミチはアッと
云ったまま、
緑色の
大浪が
頭から
打被さったように
感じて、
寐台の
上に
引いて
行かれたような
心地。
口の
中には
塩気を
覚えた、
大方歯からの
出血であろう。
彼は
泳がんとするもののように
両手を
動かして、
誰やらの
寐台にようよう
取縋った。とまたもこの
時振下したニキタの
第二の
鉄拳、
背骨も
歪むかと
悶ゆる
暇もなく
打続て、またまた三
度目の
鉄拳。
イワン、デミトリチはこの
時高く
※声[#「口+斗」、U+544C、64-下-3]。
彼も
打たれたのであろう。
それよりは
室内また
音もなく、
ひッそりと
静り
返った。
折から
淡々しい
月の
光、
鉄窓を
洩れて、
床の
上に
網に
似たる
如き
墨画を
夢のように
浮出したのは、
謂うようなく、
凄絶また
惨絶の
極であった、アンドレイ、エヒミチは
横たわったまま、まだ
息を
殺して、
身を
縮めて、もう一
度打たれはせぬかと
待構えている。と、
忽ち
覚ゆる
胸の
苦痛、
膓の
疼痛、
誰か
鋭き
鎌を
以て、
刳るにはあらぬかと
思わるる
程、
彼は
枕に
強攫み
着き、
きりりと
歯をば
切る。
今ぞ
初めて
彼は
知る。その
有耶無耶になった
脳裡に、なお
朧朦気に
見た、
月の
光に
輝し
出されたる、
黒い
影のようなこの
室の
人々こそ、
何年と
云うことは
無く、かかる
憂目に
遭わされつつありしかと、
堪え
難き
恐しさは
電の
如く
心の
中に
閃き
渡って、二十
有余年の
間、どうして
自分はこれを
知らざりしか、
知らんとはせざりしか。と
空恐しく
思うのであったが、また
剛情我慢なるその
良心は、とは
云え
自らはいまだかつて
疼痛の
考えにだにも
知らぬのであった、しからば
自分が
悪いのでは
無いのであると
囁いて、さながら
襟下から
冷水を
浴びせられたように
感じた。
彼は
起上って
声限りに
※[#「口+斗」、U+544C、64-下-18]び、そうしてここより
抜出でて、ニキタを
真先に、ハバトフ、
会計、
代診を
鏖殺にして、
自分も
続いて
自殺して
終おうと
思うた。が、どうしたのか
声は
咽喉から
出でず、
足もまた
意の
如く
動かぬ、
息さえ
塞ってしまいそうに
覚ゆる
甲斐なさ。
彼は
苦しさに
胸の
辺を
掻き
毟り、
病院服も、シャツも、ぴりぴりと
引裂くのであったが、やがてそのまま
気絶して
寐台の
上に
倒れてしまった。
翌朝彼は
激しき
頭痛を
覚えて、
両耳は
鳴り、
全身には
只ならぬ
悩を
感じた。そうして
昨日の
身に
受けた
出来事を
思い
出しても、
恥しくも
何とも
感ぜぬ。
昨日の
小胆であったことも、
月さえも
気味悪く
見たことも、
以前には
思いもしなかった
感情や、
思想を
有のままに
吐露したこと、
即ち
哲学をしている
丁斑魚の
不満足のことを
云うたことなども、
今は
彼に
取って
何でもなかった。
彼は
食わず、
飲まず、
動きもせず、
横になって
黙していた。
『ああもう
何も
彼もない、
誰にも
返答などするものか
······もうどうでもいい。』と、
彼は
考えていた。
中食後ミハイル、アウエリヤヌイチは
茶を四
半斤と、マルメラドを一
斤持参って、
彼の
所に
見舞に
来た。
続いてダリュシカも
来、
何とも
云えぬ
悲しそうな
顔をして、一
時間も
旦那の
寐台の
傍にじっと
立たままで、それからハバトフもブローミウム
加里の
壜を
持って、やはり
見舞に
来たのである。そうして
室内に
何か
香を
薫ゆらすようにとニキタに
命じて
立去った。
その
夕方、
俄然アンドレイ、エヒミチは
脳充血を
起して
死去してしまった。
初め
彼は
寒気を
身に
覚え、
吐気を
催して、
異様な
心地悪しさが
指先にまで
染渡ると、
何か
胃から
頭に
突上げて
来る、そうして
眼や
耳に
掩い
被さるような
気がする。
青い
光が
眼に
閃付く。
彼は
今すでにその
身の
死期に
迫ったのを
知って、イワン、デミトリチや、ミハイル、アウエリヤヌイチや、また
多数の
人の
霊魂不死を
信じているのを
思い
出し、もしそんなことがあったらばと
考えたが、
霊魂の
不死は、
何やら
彼には
望ましくなかった。そうしてその
考えはただ一
瞬間にして
消えた。
昨日読んだ
書中の
美しい
鹿の
群が、
自分の
側を
通って
行ったように
彼には
見えた。こんどは
農婦が
手に
書留の
郵便を
持って、それを
自分に
突出した。
何かミハイル、アウエリヤヌイチが
云うたのであるが、
直に
皆掻消えてしまった。かくてアンドレイ、エヒミチは
永刧覚めぬ
眠には
就いた。
下男共は
来て、
彼の
手足を
捉り、
小聖堂に
運び
去ったが、
彼が
眼いまだ
瞑せずして、
死骸は
台の
上に
横臥っている。
夜に
入って
月は
影暗く
彼を
輝した。
翌朝セルゲイ、セルゲイチはここに
来て、
熱心に十
字架に
向って
祈祷を
捧げ、
自分等が
前の
院長たりし
人の
眼を
合わしたのであった。
一
日を
経て、アンドレイ、エヒミチは
埋葬された。その
祈祷式に
預ったのは、ただミハイル、アウエリヤヌイチと、ダリュシカとで。