キリスト教の信条をそのままに素朴に、そして厳格に守るために軍の召集に応じることを拒んだために憲兵隊にあげられた青年の話を私が聞いたのは戦争中の、それも終戦近くだった。聞かせてくれたのは、たしか新聞関係の人だった。
その話から私は強いショックを受けた。それまで、戦争前から戦争中へかけて、自分が戦争というものに就いて考えたり感じたりしたいろいろの事に、一気に焼きゴテを当てられて血が吹きだして来たような気がした。私はその青年に会いたくなった。その由を、その新聞記者に話したが、憲兵隊では外部の人に面会はさせまいと言う。そのうちに東京空襲が激しくなり、私の身辺も忙しくなって、その青年に会うことなど到底不可能な状態になった。そして、やがて終戦。
······その間、始終その青年のことが頭へ来た。どんな男だろうと思う。平凡な、普通の青年のようにも思えるし、何か恐ろしく異様な、狂人じみた男のようにも思える。ハッキリと思い描くことは出来ない。空襲最中の一瞬後には自分が粉みじんになるかもしれないと思うセツナの中に、キラッとその青年の目が見えたり、終戦前後の食糧難の中でサツマ芋の葉を煮て、その変な味のするやつをゴソゴソと噛んでいる自分の前に、モーロウとその青年の姿が立ったり
······けわしい、つらい、やりきれない事が後から後からと突っかけて来たあの時期の、いろいろの事態と気分の中に、その青年のイメージが度々あらわれた。
時によってそれは実に美しい姿に見えた。しかし又時によって耐えきれないように醜悪に見えた。時によって私はこの青年を心から愛した。又時によって歯を鳴らすように憎んだ。時によってまるで自分の兄弟
||というよりも自分自身
||のように親しいものに感じられることがあるかと思うと、時によって他の遊星の生物のように遠々しく無縁のものに感じられることもあった。そのいずれにしても、この青年のイメージは私の心にへばり附いてしまって切り離すことが出来なくなってしまった。
そしてヒョイと気がついてみると、私は現実にその青年にまだ会っていなかったのである。私は私の中の青年
||私が永い期間にわたって自分の中で結晶させた青年
||を見ていたのである。それで、もう一度、実際のその青年を捜し出して会ってみようかと思い立った。すると妙なことに、私はその青年に会うのが怖くなっている自分に気づいたのだ。
怖いという気持の中には実にさまざまの複雑な深い要素が含まれている。それはいくら説明しても、説明したりない。結局は「怖い」という一言でしか表現できない。私はこの青年をシンから愛している。同時に、それと同じ強さで憎んでいるのである。それはちょうど私が自分自身を愛しているのと同じ強さで憎んでいる事と全く似ている。そして、私が自分自身を全く憎まず、ただ愛するだけになり得るかどうか(そうなりたいのだが)わからないと同様に、この青年を全く憎まず、ただ愛することが出来るようになれるかどうか(実にそうなりたいのだが)まだ私にはわからない。このような場合に、私に出来ることといえば、その事を作品に書いてみる事しか無いのである。それでこの作品を書いた。