「あれ誰だか、兄さんは知つとるの!」
「知らん!」
「ちよつとそこ覗いて来ると分るわ。」
小学校から帰つて来た兄と妹である。部屋一つ隔てた奥の座敷を、兄の孝一は気味わるさうにそつと覗きに行つた。
「分つた?」
賢こい眼を輝かせて、みよ子は微笑した。
「うゝん。」
孝一は頭を振つた。
「をかしな兄さん、
「··················」
可愛い下り眼の兄の表情がくもつて、返事をしない。
「あんまりびつくりして、眼が廻つたの! 顔色がわるいわ。」
妹の自分にさへ分つてをるのに、兄に分らぬ
「あれ、私たちのお父さんぢやないの、変な兄さんね、もう一遍見てくるといゝわ。」
臆病さうな兄を見上げて、みよ子は自分の嬉しさを一杯に現はしてゐる。
「あれがお父さん? そうかなあ。」
孝一はだん/\と青ざめて来た。
「さうよ、兄さんちつとも覚えてゐないの? 私は少しおぼえてるわ。だけれど、あんまりおぢいさんになつてちよつと分らないわね、頭がずゐぶん白いんだもの············」
「ふゝむ、おら、見たくないなあ、いやだなあ。」
孝一の唇がピリ/\つと痙攣した。
「でも、お父さんに違ひないんだもの、さつきお母あさんがさう云つたのよ、早く見てくるといゝわ。そしたら少し思ひ出せるかも知れないわ。」
「いやだい、おら、いやだい、お父さんが家へ帰つて来たんなら、おら、いやだい、
机の上にぴたつと
「どうして学校へ行かれんの? ねえ、兄さん!」
「おら恥かしうて
兄はたまらないやうにいふのだつた。
「だつて、お父さんが
「おら、いやだ、
頭をかゝへて、孝一は悲しげに呟くのだつた。
「私だつて、兄さんと同じにしよつちゆ友達からバカにされて泣いて来たわ、だけれど、そのお父さんがもう家へ帰つて来てくれたんだから、いゝと思ふわ。」
「さうかい、みよ子はまだ子供だからね、分らないんだよ、おら、いやだなあ、あゝ、どうしようかな。」
ぞく/\と悪寒をかんじてゐるらしい兄を見ると、みよ子も一しよに悲しくなつた。
「英ちやんこそ、まだ子供だから、なんにも分らないで一番いゝわね。」
「うむ、あいつ、なんにも知らんなあ、今に大きくなつて、おやぢの過去を知つたらおつ
梅の木によぢ登つて、青い実をむしつてはたべてゐる六歳の弟を、兄妹は部屋の中から幼ない感傷の眼で、憐れげに眺めた。
「今、奥から私たちを呼びに来たら、兄さん、どうするの?」
「おら、行かんさ。」
「でも、ぜひ来いと云はれたら············」
「行かんよ。」
「さうお、私も行くのいやだわ。」
「二人とも行かんことにしよう。そして、どつかへ隠れてしまはう!」
「それがいゝわ、土蔵へ入つて隠れませうか?」
「うむ、それがいゝ、早く隠れてしまはう!」
こそ/\と兄妹は部屋を出た。土蔵へ通ふ道から、奥の座敷は見えない。ブランコの丸太が立つてゐたり、梅の木、桃の木、杏の木、など果物の大木が何本も茂つてゐるし、それに奥の座敷と、土蔵の入口とは向きが違つてゐる。
今朝早く、まだ空に星がチカ/\残つてゐた
「お父さんぢやぞえ。」
襖のかげに
あれがお父さん······あれが私たちのお父さん! 久しく待つともなく憧れてゐたお父さん! 幼いころの記憶がうすれて、今では丸で他人のやうな気がするお父さん!
彼女はわく/\と胸が
「あんな
長いあひだ見失つてゐた父の幻が記憶の底から、ほんの少しづゝ朦朧と浮んだ。父として甘へたい思慕の情は、自分たちにちつともはつきりしない父の不在の理由から、いつも不純なものに対する絶望的な嫌悪が生れ、それが又我父ゆゑにこそ、悲しくも憐愍の情にもつれては、この年月彼女らの胸に去来してゐたその父である。あゝ、父はなんといふ久しぶりでこの家に戻つて来たのであらうか! それにしても、なぜ母たちは前々から今日のことを子供たちにきかせてはくれなかつたのであらうか? さういへば、「父」といふものについて、自分たちはなんにもきかされてゐない、ふいと父が家にゐなくなつた、その日から今日まで「父」について語ることは全く封じられてゐた。そして幾年かの月日が流れて行つたのである············
兄妹はクスリと忍び笑ひながら土蔵の石段をのぼつて行つた。土蔵は今朝から開けられて、そのまゝ網戸の扉がしまつてゐた。孝一は急いで梯子段をかけあがつた。
「そんなに急がんでもいゝのに、をかしい兄さんだわ。」
「おら、もうどうしてもいやな気がして
「私にだつて、ちよつとお父さんとはよべんわ、でもやつぱりお父さんにちがひないと云はれたらどうするの? 兄さん!」
「誰がお父さんだなんて呼ぶもんけえ、いやだい、長いこと、どこへ
菅笠を真深にかぶり、手錠をはめられて、とぼ/\と刑事のあとから尾いて行く囚徒の姿を、嘗て途上で見たことがあつた。あの浅ましくも情ない囚徒の姿を、どうして自分の父と結びつけて想像することが出来よう! だが、父はたしかにつながれて行つたに違ひないのだ。あゝ、そして、
みよ子はみよ子で、兄と同じに過去の出来ごとやこの家の不祥事が、影絵のやうな不得要領さで網膜に浮んで来た。それは雪の降る寒い/\冬のさなかのことであつた。突然一人の役人が来て父を
家代々の稼業である、この土地独特の漁業を嫌つて、父は中学を卒へるとすぐに東京へ出て、三年ほど私立大学に籍をおき、法律の勉強をしたが、二十五六になつて田舎へ帰つてくると、街の有名な弁護士の書生になつたりして、自然苦情沙汰の手伝ひをはじめた。それからだん/\と慾が出て一攫千金の夢に
「物好きな男ぢやな、あんな商売はもう好い加減に止めてくれんと弱るぞ······」
始終裁判所などへ出入りするやうな仕事に携はつてゐることを、家の者はみんなで嫌つた。だが、父はなか/\止めるどころではなかつた。
「家の身代も結局はあのおやぢたちのために、摺りへらしてしまふことぢやらうな。」
身贔屓に、我子の上ばかり案じてゐるうちに、一くせありげな怪しい人物が家へ出入りするやうになつたり、父の言動が鮮明を欠いたりして、いつか祖母だちが深い憂悶に
事件はどんな風に絡んでゐたか、父はその夜遅くなつても帰つて来なかつた。しいんと静まり帰つた家の中にすゝり泣きの声がもれ、祖父母と母と三人が二階の一室に籠つて、密談をしてゐる様子が、たゞごとならぬ不祥な直感を子供たちに与へたのである。夜も深けたころ、二階から下りて来た母たちが、ミシリ、ミシリと椽側を踏んで行く跫音が、寝てゐるみよ子たちの枕元に聞えた。ぼんやりした
夜半の土蔵に
「みんな、この部屋にかたまつてゐるんだ、勝手に出ちやいかんぞ!」
横柄に云つて、家族は全部女中にいたるまで、一室に閉ぢこめられ、一人の役人が入口に立つた。それから母に案内されて、二三人はぞろ/\と土蔵に行つた。短かい冬の日はぢき午後になり、暮れ方になると、土蔵の中へ提灯がいくつも運ばれた。
餓ゑと寒さにふるへたみよ子たちは、夕方になつてやつと解放された。土蔵の石段の前に、一人の役人が雪をかぶつてのつそりと突つ立ち、網戸をもれて提灯の火が高く、或は低く床を這ふ光景を、みよ子は内廊下に忍びよつて、こつそり見てゐた。提灯の灯影が雪をとほして、
「一体、お父さんといふ人はいつごろから家にをらんやうになつたのかなあ」
夜具などの入つてゐる長持に腰かけて、窓の方を向いた孝一は、紺がすりの
「私にもはつきり分らんけど、もう
「うむ、おらも忘れてしまうた、第一、お父さんのことなんて、近頃思ひ出したこともないからなあ。」
発育盛りの子供たちにとつて、父の記憶は全く淡いものだつた。
「ほんとうにさうだわ、だけれど、私はたつた一つ、お父さんのことについて覚えとることがあるの、少しいやな気持になることだけれどね············」
「どういふことだい、それは?」
「幼さいときね、皆でお父さんにつれられて、お盆に河原へ水花火を見に行つたの、そのときのことだけれど、兄さんはなんにも覚えとらんの?」
「うむ、覚えとらんなあ、どういふことぢやつたかなあ······お父さんがどうかしたんかね?」
「えゝ。ちよつと簡単にはいへんけれどね。」
みよ子はさつと顔をくもらした。それは彼女が五つか六つ
木戸銭をとると、その代りに変な
「一枚足らんねえ、旦那あん、あんた、一枚足らんねえ。」
突然下品な男が叫んだ。
「························」
「もし旦那あん、一枚足らんねえ。」
「何、そんなことはない············」
怒つてふりむいたのは父であつた。
「でも足らんねえ、この通り六枚よかありませんもん······七人づれぢやに······」
男は穢ならしい紙片を扇のやうに太い指のさきにひろげて、口を尖らせ、白い歯をむき出して、鬼のような顔をしてゐた。
「失敬なことをいふな············」
「貴様こそ、かたりぢやな············」
「何?」
父は非常に怒つて、木戸番の方へつかつかと進んで行つた。
「なんといふことぢやらう、まあ、みつともない、
父にそんな悪癖があるのを、かねて知つてゞもゐたやうに、母は泣声になつて、足りないといふ一人分の銭を、すぐに木戸番の男に渡し、彼の憤りをしづめようとした。だが、父はすつかり意固地になつて、それを拒んだ。
「お前たちは早く帰れ!」
父は手真似で指図した。母は恥かしい父を子供たちに見せたくないやうに、
「お父さんは、一人分をちよろろ[#「ちよろろ」はママ]まかしたかな?」
六つかそこらの純真な
みよ子は今のこのやうにおぞましく思ひ浮んだ過去の印象を、それも判然と分つたわけでもない疑惑を、兄に話してよいものかどうか、と迷つた。
「どういふことがあつたの?」
孝一は怖いものでも探る調子で訊ねた。みよ子は今更になつてそんな悲しく恥かしい父を、兄に紹介しない方がよからうと思つた。
「ちよつとをかしいことがあつたんだけれどね、思ひ出すと話すのいやになつて来たわ、兄さんはそんなこときかん方がいゝわ、きつと気持わるうなるからね············」
「ふゝむ。そんならきかんことにしよう············」
どうせろくなことではあるまい······といふ風に、孝一は
「どこへ行つたのかと思ふて探してをれば、まあ、二人ともそこにをるのかい?」
土蔵へ入つて来た母のお政は、梯子段の中ほどから首を出して、二人に声をかけた。母の頬は異常な興奮でぽつと桜色に匂つてゐた。三十三歳の女盛りである。兄弟は黙つて顔を見合した。
「ちよつと用があるに、早くお
母は我子に対してさへ気兼さうに云つた。あんなやくざな父を持たせたことを、お前だちもどうか堪忍しておくれ! さう心に詫びてゐる風だつた。長いあひだ世間を狭め、恥を忍び、あたら女盛りの身を空閨に泣いて明した、その怨恨も、悲哀も、憤怒も、今日の目出度い父の放免によつて、結ばれた母の心がすつかり朗かに晴れ渡つたやうだつた。
「ありや、誰だい、お母あん」
孝一はつけ/\と白ばくれて、
「お父さんぢやないか、早う来て、ちよつくらおじきをするのぢや。」
「おら、いやだい。」
「みよ子はどうしてぢつとしてをるのぢや、早う
「兄さんが行かんのなら、私も行くのいやだもん·········」
「さあ、孝一、早う来てくれんと、お母あんが弱るぢやないか、どうか、頼むよつて来ておくれ!」
「おらあ、いやだあ············」
「何をいふのぢや、幼さいとき、どんなに可愛がつて貰うたか知れんお父さんぢやに、さあさ、そんな悪態を云はんで、早う来ておくれ!」
「いやだい!」
「これはまあどうしたといふのぢや、一番さきに出んならん長男のお前ではないか、さあ、ともかく早う来ておくれ!」
母は
「さあ、早う、早う来ておくれ」
「ぢや、兄さん、行きませうよ! どうせ行かなきやならんのなら············」
みよ子は立つて孝一の手をとつた。兄の手はふるへてゐた。
「さうとも、さうとも、逢はずにをられるもんぢやない······さあ、早う来ておくれ! どうしたどうした云うて、さつきからお父さんが待つてなさる············」
母は涙の眼をふき/\、梯子段を下りていつた。
「さあ、兄さん、行きませう!」
「なんと云うて、おじぎするんだい?」
孝一は意体の知れぬ怒りに肩を
「黙つておじきして、すぐ逃げて来りやいゝやね。」
「うむ、さうしよう、おら、お父さんなんかにちつとも逢ひたうないんだからなあ。」
二人が土蔵を出ると、向ふから祖母が腰をまげて、
「お前たちは何をもた/\しとるのぢや、さつきからお父さんが待つとるにな、さあ/\早う来ることぢや············」
とげ/\しく叱りつけて、祖母はいきなりみよ子の手をぐいと
祖母は二人の孫を座敷へ引き入れた。弟の英二はそこにちよこんとかしこまり、
「こつちへお出で、大きうなつたな。」
父の声はふるへた。二人はニコリともせず、形式的におじきを一つして、気味わるげに父の傍にもぢ/\と坐つた。父は餓ゑた犬みたいに、いきなりみよ子のおかつぱ頭を愛撫したが、年老つた両親や、女房が見てゐる前をも忘れて、うおーと男泣きに泣いた。芝居のやうな愁歎が不自然なく演じられた。
「みよ子は学校がよう出来るさうで、
父は眼をこすり/\お世辞を云つた。そのお世辞に対して、なんとか甘へてみようと、みよ子は恥かしく紅くなつて微笑した。
「孝一は大変
幼ないころは
「もう、あつちへ行つてもいゝ?」
兄の心を察したみよ子は、隅の方でお茶を入れてゐる母の方へ目配せした。母はもうしばらく辛抱してといふ暗示を、目配せで返してよこした。それから
「では、こつちがいゝか?」
母は別の『石ごろも』を箸にはさんで、長男の機嫌をとつた。頼むからどうか取つておくれ! この場の空気を
母の潤んだ
「オゝ、さうぢやつたな、孝一は甘いもんをあんまり好かんのぢやつたな、これは忘れてをつた。では、あとで葡萄がよからう!」
息づまるこの場の重い空気を動揺させまいとして、母は一人で芝居をしてゐる、泣き笑ひの引つるやうな歪んだ表情で、母は晴れ/\しげに笑つて見せるのだ。それを眺める祖父の眼も、父の眼も、笑ひを忘れたものゝやうに陰鬱である。
突然孝一はついと立つた、とバタ/\と足音を荒く逃げるやうにして座敷を出て行つた。不意を打たれて誰も彼をとめるひまがなかつた。
「まあ、あの子はどうしたといふのぢやらう?」
立たうとする母を押しのけて、みよ子はすぐに兄のあとを追つた。
「あんなに乱暴なことして、兄さんはずゐ分お父さんに悪いわ。」
みよ子の言葉もきゝ入れず、孝一は青い顔をして机の前にころがつてゐた。
「いやだい、いやだい! おら、もう何もかもいやだい!」
畳を蹴り頭をかゝへて彼は泣いてゐるのだ。
「なんだつて兄さんは、そんなにあばれるのよう! 兄さん」
「いゝよ、いゝよ、ほつといてくれ、もう学校へもどこへも行かれん、いやだい、いやだい、みよ子は今日の新聞見たかい?」
「うゝん、新聞に何か出てをるの?」
「うむ、早くこれを見るがいゝや!」
孝一は本箱の上から、一枚の新聞をとつて、忌はしげにみよ子の前に投げ出した。
「その下のところを見てみい!」
広告欄の隅つこを指さした。
············小生儀××事件に関連して、久しく囹圄の身と相成居候処、本日無事放免と相成候間、此段辱知諸君に謹告候也
松島慶吉
「なんだい、手柄でもして来たやうに、そんなこと、なんだつて麗々と新聞に出す必要があるんだい? 自分から恥を世間にさらしとるやうなもんぢやないか?」狭い町の取沙汰が思ひやられ、少年は眼の色かへて
「こんなもんが新聞に出てをるので、それで兄さんはさつきから、あんなにいやな顔してをつたの?」
「あゝ、さうだよ、おら、もうちやんと見てしまうたのだ、あゝいやだな。恥かしい············恥かしい············」
机に
「そんなこと云うても、どこへも行くとこないもんね、それとも、東京の叔母さんとこへでも行くの?」
東京には母の姉がゐる、田舎で肩身のせまい思ひをしてゐるよりも、東京へ来て暮す方法がないか、と叔母はときどき母に云つてよこした。東京こそみよ子にとつても
「うむ、いつそ東京へ行つた方がいゝよ、でも、どこへ行つたつて、あのお父さんの子であることに間違ひはないんだ、それが辛いんだ、あゝん············あゝん············」
孝一は頻りに泣くのであつた。なんの親しみもない父、さむ/″\とした
小さな反逆心が極端に少年の神経を刺戟するのだつた。
「お父さんがあんなにしほ/\と弱つてをるのだし、もう堪忍してやつたらいゝぢやないの! お父さんは自分が悪かつたことをきつと
みよ子は兄の肩を揺り動かしたが、彼は立たうとしなかつた。
「お父さんがどんな人だつて、私たちさへ立派な人間になれば、それでいゝぢやないの、二人とも東京へ出してもらうて勉強して、
みよ子自身、もはや父に対してなんの反感もなかつた、寧ろこれからこそ父に甘へて行きたい
そのとき、うしろの襖が静かにあいて、長いこと、父とも呼べなかつた、子とも呼べなかつた堪へに堪へて来た溢れるやうな愛情と、今日のよろこびにわなゝいだ父の顔が、のつそりと現はれた············だが、我子の前に父としての権威をすつかり失つた憐れな男の顔だ!
「あゝ。」
父はくな/\と膝を折り、幾年の監禁に
みよ子は今、年をとり、遠い過去の夢を追ひながら、そのころの誰も彼もみな懐かしく、静かに少女の日を思ひおこすのだつた。だが、今はその懐かしい祖父母も父母も、兄も弟も一人もこの世にゐないのであつた。