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父の帰宅

小寺菊子





「あれ誰だか、兄さんは知つとるの!」

「知らん!」

「ちよつとそこ覗いて来ると分るわ。」

 小学校から帰つて来た兄と妹である。部屋一つ隔てた奥の座敷を、兄の孝一は気味わるさうにそつと覗きに行つた。

「分つた?」

 賢こい眼を輝かせて、みよ子は微笑した。

「うゝん。」

 孝一は頭を振つた。

「をかしな兄さん、とぼけとるのね、」

··················

 可愛い下り眼の兄の表情がくもつて、返事をしない。

「あんまりびつくりして、眼が廻つたの! 顔色がわるいわ。」

 妹の自分にさへ分つてをるのに、兄に分らぬはずがあらうか······とみよ子はなほも微笑ほゝゑみをつゞけてゐる。この四五日のざわ/\とした家の様子で、兄妹ともひそかに「父の帰宅」を感づいてゐたのだが、しかし、誰も子供たちにそれを話してくれなかつたのである。

「あれ、私たちのお父さんぢやないの、変な兄さんね、もう一遍見てくるといゝわ。」

 臆病さうな兄を見上げて、みよ子は自分の嬉しさを一杯に現はしてゐる。

「あれがお父さん? そうかなあ。」

 孝一はだん/\と青ざめて来た。

「さうよ、兄さんちつとも覚えてゐないの? 私は少しおぼえてるわ。だけれど、あんまりおぢいさんになつてちよつと分らないわね、頭がずゐぶん白いんだもの············

「ふゝむ、おら、見たくないなあ、いやだなあ。」

 孝一の唇がピリ/\つと痙攣した。

「でも、お父さんに違ひないんだもの、さつきお母あさんがさう云つたのよ、早く見てくるといゝわ。そしたら少し思ひ出せるかも知れないわ。」

「いやだい、おら、いやだい、お父さんが家へ帰つて来たんなら、おら、いやだい、明日あしたから学校へ行かれん、あゝ、いやだ/\。」

 机の上にぴたつとひたひをつけた。

「どうして学校へ行かれんの? ねえ、兄さん!」

「おら恥かしうてとても学校へ行かれん、お父さんなんか、うちにゐてくれん方がずつといゝんだ、明日あした学校へ行つてみい、みんなに顔ながめられたり、くしや/\云はれたりするんだもの、あゝ、いやだ/\。」

 兄はたまらないやうにいふのだつた。

「だつて、お父さんがうちにをらんのより、をつた方がいゝんぢやないの? もううちへ帰つて来てくれたんだからいゝぢやないの?」

「おら、いやだ、明日あした学校へ行かうもんなら、今まで忘れてゐたことを思ひ出して、みんなに私語さゝやかれるんだ、それがたまるけえ、おら、もう学校へ行かん、行かん!」

 頭をかゝへて、孝一は悲しげに呟くのだつた。

「私だつて、兄さんと同じにしよつちゆ友達からバカにされて泣いて来たわ、だけれど、そのお父さんがもう家へ帰つて来てくれたんだから、いゝと思ふわ。」

「さうかい、みよ子はまだ子供だからね、分らないんだよ、おら、いやだなあ、あゝ、どうしようかな。」

 ぞく/\と悪寒をかんじてゐるらしい兄を見ると、みよ子も一しよに悲しくなつた。

「英ちやんこそ、まだ子供だから、なんにも分らないで一番いゝわね。」

「うむ、あいつ、なんにも知らんなあ、今に大きくなつて、おやぢの過去を知つたらおつたまげるだらう············

 梅の木によぢ登つて、青い実をむしつてはたべてゐる六歳の弟を、兄妹は部屋の中から幼ない感傷の眼で、憐れげに眺めた。

「今、奥から私たちを呼びに来たら、兄さん、どうするの?」

「おら、行かんさ。」

「でも、ぜひ来いと云はれたら············

「行かんよ。」

「さうお、私も行くのいやだわ。」

「二人とも行かんことにしよう。そして、どつかへ隠れてしまはう!」

「それがいゝわ、土蔵へ入つて隠れませうか?」

「うむ、それがいゝ、早く隠れてしまはう!」

 こそ/\と兄妹は部屋を出た。土蔵へ通ふ道から、奥の座敷は見えない。ブランコの丸太が立つてゐたり、梅の木、桃の木、杏の木、など果物の大木が何本も茂つてゐるし、それに奥の座敷と、土蔵の入口とは向きが違つてゐる。

 今朝早く、まだ空に星がチカ/\残つてゐた暁方あけかたのこと、母が宵から支度してあつた男の着物一切を||シヤツから褌から、じゆばん、角帯、羽織、帽子、足袋、下駄、手拭、鼻紙にいたるまで、何から何まで揃へて、丸で裸体はだかの人でも引取りに行くやうに、大風呂敷に包み、年老いた祖母と二人で、こつそり人目を忍び、家を出て行つたのである。夜がすつかり明け渡つて、子供たちも起きて、やがて兄弟は小学校へ行き、ひるすぎ帰つてくると、常盤木ときわぎに囲まれた薄暗い奥の座敷に、見慣れぬ一人の男が端然と坐り、痛ましくやつれた頬をしてゐる気むづかしい祖父の前に、両手をついておじきをしてゐる姿を、みよ子はちらと見たのである。

「お父さんぢやぞえ。」

 襖のかげにたゝずんで、袖口で眼をふいてゐた母が、思ひ迫つたやうにみよ子に囁いた。みよ子はなぜかぞつとしてふるへた。

 あれがお父さん······あれが私たちのお父さん! 久しく待つともなく憧れてゐたお父さん! 幼いころの記憶がうすれて、今では丸で他人のやうな気がするお父さん!

 彼女はわく/\と胸がをどつた。恥かしい、きまりが悪い、懐かしいやうでもあり疎ましくもあり、自分たちとはなんのかゝはりもないよそのおぢさんのやうでもある||そんな見慣れぬ親しみのない客からは、なるだけ遠ざかつてゐたい。············

「あんな白毛しらがのおやぢがお父さんだなんて、いやだな。」

 長いあひだ見失つてゐた父の幻が記憶の底から、ほんの少しづゝ朦朧と浮んだ。父として甘へたい思慕の情は、自分たちにちつともはつきりしない父の不在の理由から、いつも不純なものに対する絶望的な嫌悪が生れ、それが又我父ゆゑにこそ、悲しくも憐愍の情にもつれては、この年月彼女らの胸に去来してゐたその父である。あゝ、父はなんといふ久しぶりでこの家に戻つて来たのであらうか! それにしても、なぜ母たちは前々から今日のことを子供たちにきかせてはくれなかつたのであらうか? さういへば、「父」といふものについて、自分たちはなんにもきかされてゐない、ふいと父が家にゐなくなつた、その日から今日まで「父」について語ることは全く封じられてゐた。そして幾年かの月日が流れて行つたのである············



 兄妹はクスリと忍び笑ひながら土蔵の石段をのぼつて行つた。土蔵は今朝から開けられて、そのまゝ網戸の扉がしまつてゐた。孝一は急いで梯子段をかけあがつた。

「そんなに急がんでもいゝのに、をかしい兄さんだわ。」

「おら、もうどうしてもいやな気がして為様しやうがないんだ、あれがお父さんかと思ふと、実に変な気がして、ほんとにならんのだもん!」

「私にだつて、ちよつとお父さんとはよべんわ、でもやつぱりお父さんにちがひないと云はれたらどうするの? 兄さん!」

「誰がお父さんだなんて呼ぶもんけえ、いやだい、長いこと、どこへつたのか分らんやうな、そんなお父さんてあるもんけえ、そのあひだ、おら、街を歩くにも小さくなつて歩いたし、学校へ行つても友達もよう出来んし、みんなに耳こすりばかりされてをつたんだもん、あゝ、おら、もうこの家にをるのいやになつた、あんないやないやなおやぢがこれから家にをるのなら、おらもうこの家にをりやせん!」

 菅笠を真深にかぶり、手錠をはめられて、とぼ/\と刑事のあとから尾いて行く囚徒の姿を、嘗て途上で見たことがあつた。あの浅ましくも情ない囚徒の姿を、どうして自分の父と結びつけて想像することが出来よう! だが、父はたしかにつながれて行つたに違ひないのだ。あゝ、そして、をさなごゝろにも二度と帰宅かへつてくれなくてもよい、とさへ思つた父! われ/\少年時代の幸福の全部を引浚ひきさらつて行つてしまつた父! その父のためにこそわれ/\兄妹はどんなに悲しいいぢけた生活をして来たことか?

 みよ子はみよ子で、兄と同じに過去の出来ごとやこの家の不祥事が、影絵のやうな不得要領さで網膜に浮んで来た。それは雪の降る寒い/\冬のさなかのことであつた。突然一人の役人が来て父を引張ひつぱつて行つたのである。

 家代々の稼業である、この土地独特の漁業を嫌つて、父は中学を卒へるとすぐに東京へ出て、三年ほど私立大学に籍をおき、法律の勉強をしたが、二十五六になつて田舎へ帰つてくると、街の有名な弁護士の書生になつたりして、自然苦情沙汰の手伝ひをはじめた。それからだん/\と慾が出て一攫千金の夢にまどはされ、彼是と投機事業に手を伸したりして、悉く失敗した。結局やつぱり自分の学んだ道に最も親しむことになり、近在の百姓おやぢたちの泣言に同情しては地主との仲に立つて、一文にもならぬ仕事に持前の侠気を出しすぎてしまつた。······そんな話をよく耳にした。

「物好きな男ぢやな、あんな商売はもう好い加減に止めてくれんと弱るぞ······

 始終裁判所などへ出入りするやうな仕事に携はつてゐることを、家の者はみんなで嫌つた。だが、父はなか/\止めるどころではなかつた。

「家の身代も結局はあのおやぢたちのために、摺りへらしてしまふことぢやらうな。」

 身贔屓に、我子の上ばかり案じてゐるうちに、一くせありげな怪しい人物が家へ出入りするやうになつたり、父の言動が鮮明を欠いたりして、いつか祖母だちが深い憂悶にとざされるやうになつていつた。

 事件はどんな風に絡んでゐたか、父はその夜遅くなつても帰つて来なかつた。しいんと静まり帰つた家の中にすゝり泣きの声がもれ、祖父母と母と三人が二階の一室に籠つて、密談をしてゐる様子が、たゞごとならぬ不祥な直感を子供たちに与へたのである。夜も深けたころ、二階から下りて来た母たちが、ミシリ、ミシリと椽側を踏んで行く跫音が、寝てゐるみよ子たちの枕元に聞えた。ぼんやりした提灯ちやうちん灯影ほかげが障子の中ほどを、大きな蛍のやうに仄して、三つの黒い影がゆら/\とゆらめいた。三人は突き当りの板戸を押し、すうつとそこを脱けると、土蔵に通ふ内廊下へおりていつた。

 夜半の土蔵に這入はいつた三人はほの/″\とした提灯の火に照らされて、低い天井の下に突立つたが、何が嫌疑にかゝる書類もがなと、用箪笥の抽斗や、縛りつけた行李の中などを調べはじめた。さうして、暁方あけかたやつと三人は赤い眼をして土蔵から出て来た。その日も昨日きのふと同じに雪が降りつづき、銀世界と化した街に、この家ばかりはじめ/\と後暗うしろぐらい雰囲気にぢ込められ、底知れぬ恐れと不安に充たされてゐた。勿論誰もろくに口を利くものもなく、砂をかむやうな朝の食事をしてゐるところへ、どや/\と人声がして、数人の役人が這入はいつて来たのである。

「みんな、この部屋にかたまつてゐるんだ、勝手に出ちやいかんぞ!」

 横柄に云つて、家族は全部女中にいたるまで、一室に閉ぢこめられ、一人の役人が入口に立つた。それから母に案内されて、二三人はぞろ/\と土蔵に行つた。短かい冬の日はぢき午後になり、暮れ方になると、土蔵の中へ提灯がいくつも運ばれた。

 餓ゑと寒さにふるへたみよ子たちは、夕方になつてやつと解放された。土蔵の石段の前に、一人の役人が雪をかぶつてのつそりと突つ立ち、網戸をもれて提灯の火が高く、或は低く床を這ふ光景を、みよ子は内廊下に忍びよつて、こつそり見てゐた。提灯の灯影が雪をとほして、瑪瑙めのうのやうに美しく、ぽう、ぽう、とかすんで見えた。



「一体、お父さんといふ人はいつごろから家にをらんやうになつたのかなあ」

 夜具などの入つてゐる長持に腰かけて、窓の方を向いた孝一は、紺がすりのつゝつぽの袂をピンとはねて、可憐な眉をひそめた。

「私にもはつきり分らんけど、もう大分だいぶ長いこと留守だつたやうに思ふわ、お正月を三度もお父さんがおらんのだもん、もう顔も何も忘れてしまうた············

「うむ、おらも忘れてしまうた、第一、お父さんのことなんて、近頃思ひ出したこともないからなあ。」

 発育盛りの子供たちにとつて、父の記憶は全く淡いものだつた。

「ほんとうにさうだわ、だけれど、私はたつた一つ、お父さんのことについて覚えとることがあるの、少しいやな気持になることだけれどね············

「どういふことだい、それは?」

「幼さいときね、皆でお父さんにつれられて、お盆に河原へ水花火を見に行つたの、そのときのことだけれど、兄さんはなんにも覚えとらんの?」

「うむ、覚えとらんなあ、どういふことぢやつたかなあ······お父さんがどうかしたんかね?」

「えゝ。ちよつと簡単にはいへんけれどね。」

 みよ子はさつと顔をくもらした。それは彼女が五つか六つくらゐのときであつたらうか、父は母や子供たちや女中までつれて、盆の十六日の晩に河原へ水花火を見物に出かけた。河原へ突き出された葦簾張よしずばりの仮小屋の入口に、下品な男が息んだ銅魔声を絞つて、暑さうに胸をはだけながらぞろ/\とくり込む群集から、大人五銭、小人二銭の木戸銭をとつてゐた。

 木戸銭をとると、その代りに変な紙片かみきれを頭数によつて何枚か引かへに渡された。それを父が受取つた。水花火はしゆ、しゆ、と青や赤の火の玉を暗い夜空にあげて、美しく見事にばらりと散つた。みよ子たちは初めて水花火といふものを見て、不思議にも空中に跳躍する五彩の光りの美しさに驚き、声をあげて悦んだ。一時間も見てゐると、入口にひしめき合ふ群集と入れ代らねばならない、みよ子たちは否応なしに木戸口へ押し出された。その瞬間、

「一枚足らんねえ、旦那あん、あんた、一枚足らんねえ。」

 突然下品な男が叫んだ。

························

「もし旦那あん、一枚足らんねえ。」

「何、そんなことはない············

 怒つてふりむいたのは父であつた。

「でも足らんねえ、この通り六枚よかありませんもん······七人づれぢやに······

 男は穢ならしい紙片を扇のやうに太い指のさきにひろげて、口を尖らせ、白い歯をむき出して、鬼のような顔をしてゐた。

「失敬なことをいふな············

「貴様こそ、かたりぢやな············

「何?」

 父は非常に怒つて、木戸番の方へつかつかと進んで行つた。

「なんといふことぢやらう、まあ、みつともない、悪戯わるさもいゝ加減にしてもらはんと、みんなが弱つてしまふに············

 父にそんな悪癖があるのを、かねて知つてゞもゐたやうに、母は泣声になつて、足りないといふ一人分の銭を、すぐに木戸番の男に渡し、彼の憤りをしづめようとした。だが、父はすつかり意固地になつて、それを拒んだ。

「お前たちは早く帰れ!」

 父は手真似で指図した。母は恥かしい父を子供たちに見せたくないやうに、呆気あつけにとられてゐる皆を促して、泣き泣き家へ帰つた。帰つてから部屋の隅で母はいつまでも泣嗚咽なきじやくつてゐた。

「お父さんは、一人分をちよろ[#「ちよろろ」はママ]まかしたかな?」

 六つかそこらの純真な頭脳あたまにそれが直感され、疑ひが長く尾を引いて残つた。母は極力、木戸番の男の性質の悪いことを語り、子供たちに与へるであらう悪影響を防がうとつとめた。母は気の毒なほどしほれてゐた。そんなことがあつて以来、みよ子は妙に父が疎ましくなつた。兄妹三人のうち一番自分を可愛がつてくれる、その父への親愛も、思慕も、さむ/″\と薄らいでゆくやうな果敢はかない肌触りを感じた。

 みよ子は今のこのやうにおぞましく思ひ浮んだ過去の印象を、それも判然と分つたわけでもない疑惑を、兄に話してよいものかどうか、と迷つた。

「どういふことがあつたの?」

 孝一は怖いものでも探る調子で訊ねた。みよ子は今更になつてそんな悲しく恥かしい父を、兄に紹介しない方がよからうと思つた。とうに解消すべきであつたらう父へのその小さな疑惑が、然し、その後になつて、囚はれの身となつた父を知るに及んで、なんと大きく裏書きされ、いひやうのない絶望の底に突き落されたことか············それを思ふと、彼女は今だにぞつと恥が骨身にしみ込んでくるのだつた。

「ちよつとをかしいことがあつたんだけれどね、思ひ出すと話すのいやになつて来たわ、兄さんはそんなこときかん方がいゝわ、きつと気持わるうなるからね············

「ふゝむ。そんならきかんことにしよう············

 どうせろくなことではあるまい······といふ風に、孝一は外方そつぽをむいてしまつた。



「どこへ行つたのかと思ふて探してをれば、まあ、二人ともそこにをるのかい?」

 土蔵へ入つて来た母のお政は、梯子段の中ほどから首を出して、二人に声をかけた。母の頬は異常な興奮でぽつと桜色に匂つてゐた。三十三歳の女盛りである。兄弟は黙つて顔を見合した。

「ちよつと用があるに、早くおいででないか?」

 母は我子に対してさへ気兼さうに云つた。あんなやくざな父を持たせたことを、お前だちもどうか堪忍しておくれ! さう心に詫びてゐる風だつた。長いあひだ世間を狭め、恥を忍び、あたら女盛りの身を空閨に泣いて明した、その怨恨も、悲哀も、憤怒も、今日の目出度い父の放免によつて、結ばれた母の心がすつかり朗かに晴れ渡つたやうだつた。

「ありや、誰だい、お母あん」

 孝一はつけ/\と白ばくれて、かたきのやうに母を睨んだ。そんなこときかんでもよう知つとるくせに、これはなんちう意地の悪い子ぢや|といふ風に、母は目尻をきゆつとつり上げた。

「お父さんぢやないか、早う来て、ちよつくらおじきをするのぢや。」

「おら、いやだい。」

 ねる子を見ると、母の唇がつんとひん曲つた。

「みよ子はどうしてぢつとしてをるのぢや、早うりて来んと、又お祖母ばああんに叱られるぢやないか?」

「兄さんが行かんのなら、私も行くのいやだもん·········

「さあ、孝一、早う来てくれんと、お母あんが弱るぢやないか、どうか、頼むよつて来ておくれ!」

「おらあ、いやだあ············

「何をいふのぢや、幼さいとき、どんなに可愛がつて貰うたか知れんお父さんぢやに、さあさ、そんな悪態を云はんで、早う来ておくれ!」

「いやだい!」

「これはまあどうしたといふのぢや、一番さきに出んならん長男のお前ではないか、さあ、ともかく早う来ておくれ!」

 母はむせぶやうに声をのんだ。心の弱い孝一は母の涙含なみだぐんだ眼を見ると、うろ/\とした。

「さあ、早う、早う来ておくれ」

「ぢや、兄さん、行きませうよ! どうせ行かなきやならんのなら············

 みよ子は立つて孝一の手をとつた。兄の手はふるへてゐた。

「さうとも、さうとも、逢はずにをられるもんぢやない······さあ、早う来ておくれ! どうしたどうした云うて、さつきからお父さんが待つてなさる············

 母は涙の眼をふき/\、梯子段を下りていつた。

「さあ、兄さん、行きませう!」

「なんと云うて、おじぎするんだい?」

 孝一は意体の知れぬ怒りに肩をそびやかせて、しぶ/\と段を下りた。

「黙つておじきして、すぐ逃げて来りやいゝやね。」

「うむ、さうしよう、おら、お父さんなんかにちつとも逢ひたうないんだからなあ。」

 二人が土蔵を出ると、向ふから祖母が腰をまげて、枇杷びわの木の下をせか/\と此方こつちへ小走りに走つてくるのが見えた。久しぶりに可愛いせがれを見た嬉しさに、今日は朝から気狂ひみたいになつて騒いでる祖母だつた。

「お前たちは何をもた/\しとるのぢや、さつきからお父さんが待つとるにな、さあ/\早う来ることぢや············

 とげ/\しく叱りつけて、祖母はいきなりみよ子の手をぐいと引張ひつぱつた。その凄まじい権幕にのまれて、兄妹はおとなしく祖母のあとについた。

 祖母は二人の孫を座敷へ引き入れた。弟の英二はそこにちよこんとかしこまり、此方こつちをふりむいた。四十そこ/\でもう大分白髪しらがになつた父は、陰影の濃い穴のやうな眼を二人の懐かしい我子にぢつとそゝいだ。

「こつちへお出で、大きうなつたな。」

 父の声はふるへた。二人はニコリともせず、形式的におじきを一つして、気味わるげに父の傍にもぢ/\と坐つた。父は餓ゑた犬みたいに、いきなりみよ子のおかつぱ頭を愛撫したが、年老つた両親や、女房が見てゐる前をも忘れて、うおーと男泣きに泣いた。芝居のやうな愁歎が不自然なく演じられた。

「みよ子は学校がよう出来るさうで、えらいな。」

 父は眼をこすり/\お世辞を云つた。そのお世辞に対して、なんとか甘へてみようと、みよ子は恥かしく紅くなつて微笑した。

「孝一は大変健康ぢやうぶさうになつたな、うむ、確りしたいゝ体になつた。」

 幼ないころは脆弱ひよわであつた長男をしみ/″\と眺めて、みよ子と同じに孝一の頭を撫ではじめたが、孝一は堅くなり、無愛想な表情で下を向いた。小さな反感と憎悪が孝一の胸に湧いてゐるのだつた。

「もう、あつちへ行つてもいゝ?」

 兄の心を察したみよ子は、隅の方でお茶を入れてゐる母の方へ目配せした。母はもうしばらく辛抱してといふ暗示を、目配せで返してよこした。それからみんなの前にお茶をすゝめ、お菓子を分けた。英二もみよ子も、今日の祝ひにわざ/\加賀から取り寄せられた『森八』の紅い蒸菓子むしぐわしをつまんだが、孝一だけはつゝつぽの肩をそびやかし、唇を結んだまゝ、頑として手を出そうとしない。

「では、こつちがいゝか?」

 母は別の『石ごろも』を箸にはさんで、長男の機嫌をとつた。頼むからどうか取つておくれ! この場の空気をなごやかなものにしておくれ! 長いこと、ほんにこのやうに親子夫婦睦まじう揃うて、お茶を入れる日もなかつたではないか? どうか、今日の目出度い日を一しよに祝うておくれ! 過ぎ去つたことは何もかも水に流して、頼むからもう堪忍しておくれ! これからこそお父さんはお前たちのためによいお父さんになつて、一生懸命に働いて下さるのだからね。

 母の潤んだひとみが、子供たちに向つてさう哀願してゐる。だが、長男は棒のやうに突張つゝぱつたきりだつた。

「オゝ、さうぢやつたな、孝一は甘いもんをあんまり好かんのぢやつたな、これは忘れてをつた。では、あとで葡萄がよからう!」

 息づまるこの場の重い空気を動揺させまいとして、母は一人で芝居をしてゐる、泣き笑ひの引つるやうな歪んだ表情で、母は晴れ/\しげに笑つて見せるのだ。それを眺める祖父の眼も、父の眼も、笑ひを忘れたものゝやうに陰鬱である。

 突然孝一はついと立つた、とバタ/\と足音を荒く逃げるやうにして座敷を出て行つた。不意を打たれて誰も彼をとめるひまがなかつた。みんな呆気あつけにとられて、この小さなね者の後姿を見送るだけだつた。

「まあ、あの子はどうしたといふのぢやらう?」

 立たうとする母を押しのけて、みよ子はすぐに兄のあとを追つた。



「あんなに乱暴なことして、兄さんはずゐ分お父さんに悪いわ。」

 みよ子の言葉もきゝ入れず、孝一は青い顔をして机の前にころがつてゐた。

「いやだい、いやだい! おら、もう何もかもいやだい!」

 畳を蹴り頭をかゝへて彼は泣いてゐるのだ。

「なんだつて兄さんは、そんなにあばれるのよう! 兄さん」

「いゝよ、いゝよ、ほつといてくれ、もう学校へもどこへも行かれん、いやだい、いやだい、みよ子は今日の新聞見たかい?」

「うゝん、新聞に何か出てをるの?」

「うむ、早くこれを見るがいゝや!」

 孝一は本箱の上から、一枚の新聞をとつて、忌はしげにみよ子の前に投げ出した。

「その下のところを見てみい!」

 広告欄の隅つこを指さした。

············小生儀××事件に関連して、久しく囹圄の身と相成居候処、本日無事放免と相成候間、此段辱知諸君に謹告候也

松島慶吉

「なんだい、手柄でもして来たやうに、そんなこと、なんだつて麗々と新聞に出す必要があるんだい? 自分から恥を世間にさらしとるやうなもんぢやないか?」

 狭い町の取沙汰が思ひやられ、少年は眼の色かへていきどうつてゐるのだつた。

「こんなもんが新聞に出てをるので、それで兄さんはさつきから、あんなにいやな顔してをつたの?」

「あゝ、さうだよ、おら、もうちやんと見てしまうたのだ、あゝいやだな。恥かしい············恥かしい············

 机にかぢりついて、彼は嗚咽するのだ。

「そんなこと云うても、どこへも行くとこないもんね、それとも、東京の叔母さんとこへでも行くの?」

 東京には母の姉がゐる、田舎で肩身のせまい思ひをしてゐるよりも、東京へ来て暮す方法がないか、と叔母はときどき母に云つてよこした。東京こそみよ子にとつても憧憬あこがれの地であるのだ。

「うむ、いつそ東京へ行つた方がいゝよ、でも、どこへ行つたつて、あのお父さんの子であることに間違ひはないんだ、それが辛いんだ、あゝん············あゝん············

 孝一は頻りに泣くのであつた。なんの親しみもない父、さむ/″\とした附穂つきほなげな父! 今ごろひよつこり現はれて、嘗ては世にも恐ろしい驚愕と悲哀を与へて、少年の心を極度に傷つけていつた父! そのために正しい父を持つた友達を羨み、しほれきつて暮した自分たちを、あらたに思ひ出させるあの怨み深い父! あの無気味な男が、あのいやなおやぢが、これから「父の王座」に坐つて、自分たちを叱つたりするのか?

 小さな反逆心が極端に少年の神経を刺戟するのだつた。

「お父さんがあんなにしほ/\と弱つてをるのだし、もう堪忍してやつたらいゝぢやないの! お父さんは自分が悪かつたことをきつと後悔こうかいしてゐるに違ひないんだから||さあ、兄さん、そんなにかんを上げると病気になつてしまふから、少し畠へ出て遊んで来ませう!」

 みよ子は兄の肩を揺り動かしたが、彼は立たうとしなかつた。

「お父さんがどんな人だつて、私たちさへ立派な人間になれば、それでいゝぢやないの、二人とも東京へ出してもらうて勉強して、えらいもんになつて、今まで私たちをバカにした人をうんと見返してやればいゝわ、ねえ兄さん、さうすればいゝぢやないの? 兄さんはさう思はないの?」

 みよ子自身、もはや父に対してなんの反感もなかつた、寧ろこれからこそ父に甘へて行きたい幼心おさなこごろ[#ルビの「おさなこごろ」はママ]で一杯だつた。彼女はなんとかして兄をなだめたかつた、優しい素直な心の兄に返つてもらひたかつた。みよ子は兄と一しよになつてさめ/″\と泣いた。

 そのとき、うしろの襖が静かにあいて、長いこと、父とも呼べなかつた、子とも呼べなかつた堪へに堪へて来た溢れるやうな愛情と、今日のよろこびにわなゝいだ父の顔が、のつそりと現はれた············だが、我子の前に父としての権威をすつかり失つた憐れな男の顔だ!

「あゝ。」

 咄嗟とつさに、孝一は刎ね起きた。と、両手で頭をかゝへて、腰をまげ、猫のやうに素早く外へ飛び出してしまつた。

 父はくな/\と膝を折り、幾年の監禁にめつけられた痛々しい頬に、ニヤリと佗しげな微笑ほゝゑみをのせて、しよんぼりとみよ子の前に坐つた。


 みよ子は今、年をとり、遠い過去の夢を追ひながら、そのころの誰も彼もみな懐かしく、静かに少女の日を思ひおこすのだつた。だが、今はその懐かしい祖父母も父母も、兄も弟も一人もこの世にゐないのであつた。






底本:「ふるさと文学館 第二〇巻 【富山】」ぎょうせい

   1994(平成6)年8月15日初版発行

初出:「文章世界」

   1910(明治43)年4月号

入力:林 幸雄

校正:富田倫生

2011年4月4日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





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