幕末外交に関する法学的研究には、
安政条約付録による自由貿易が開始されたのは、翌安政六年下半期からであったが、幕末の自由貿易開始の先鞭は、すでにその三年前にオランダによってつけられている。一八五七年(安政四年)八月二十九日に調印された日蘭追加条約は、
一条 長崎、函館 を開く(函館は調印の日より十ヶ月後)
二条 トン税||トン(六石四斗)銀五匁
三条 船数並びに商売銀高ともその限を立つることなし、しかしながら持渡の貨物日本人好 に応ぜず、或 は代り品等差支 る時は、交易を遂げざる儀も之 有るべき事。
これで従前の貿易額制限は撤廃されている。また、従来の「長崎会所」による幕府独占貿易のほかに、三割五分の高さではあるが関税を収めて、直取引も認められた。しかし「但し、会所にて取扱ふ分は、
十三条 軍用品は奉行所以外には売るべからず。
十六条 米、大麦、小麦、大豆、小豆、石炭、美濃紙並びに半紙、書籍並びに地図類、銅器類は会所取引以外は可ならず。
十七条 銅、刀剣類同断、付属の小道具類、甲冑並びに弓、鉄砲、馬具その他の武器、大和錦は商人より売渡方を許さず。
など、諸藩にたいする幕府の優越権は細心に配慮されている。ところで、この記念すべき日本最初の自由貿易条約はその前年安政三年七月二十三日付で長崎商館長がオランダ領事館の資格をもって(日蘭和親条約は米、露についで安政二年十二月に締結されている)提出した追加条約要求書によるもので、興味のあるのは、その要求書中に、幕府がすでにロシアとの和親条約(安政元年十二月)のなかで自由貿易をゆるしたではないかと、突込んでいることだ(大隈重信『開国大勢史』八一五頁)。
「交易航海する強国は、和親を旨とし、日本に右様の緩優交易(自由貿易の意)取り結び候ほか、実 に以 て他事之無く候。外国と緩優交易に付、此後とても拒絶あらば、幸福の日本国、究 て航海する世界数ヶ所の強国、然 も一統と、戦闘に及ぶべく、和蘭 政府確と見究め候。」
とまず抑えておいて「魯西亜 国と日本の条約中、第五ヶ条に、函館並びに下田丈 ケは、既に魯西亜 人緩優交易の発端御取り用ひ相成り候間、和蘭 、亜米利加 、貌利太尼西 国民の儀も、右場所に於て同様交易申し立て出来申すべき儀に候。その故は、右三ヶ国、日本と取極めの条約中に、免許の廉 多き国民之 有り候はば、同様の免許之有るべき旨、御立合の規定之有り候。」
最後の点は最恵国「日本にて役所を定め置き、品物渡し方、並びに魯西亜 人持ち越したる金銀品物も、その所に於て取扱ふべし。魯西亜人市店にて択みたる品は、商人売買値段に応じ、船中持ち渡しの品を以て弁ずべし。役所に於て、日本役人取計ふべし。」
というのだ。その実際については、「廿三日(安政元年十二月)けふ下田にて、異国人の船中欠乏品を売る所へ行みる。蒔絵器磁器等多く出し之有り候。髪を組みて長くして下たるは南京の人也といふ也。日本人に少しも変らず、ヘロヘロといひて、猪口 の直段 を付け居り申し候。その所へ障子をからりと明け候て、ロシヤといひながら大男入り来る。左衛門尉 (川路)与三郎(村垣 )をみて、御機嫌ようといひながら笑ひて冠り物を取りて、うなづくが如く礼をなす。これ大かた魯人の仕方也。かかるところ、長崎といへども曾てなし。胸塞りて、直に立ち出で候」(第三十三巻、一八九頁)。
オランダ領事の緩優貿易の発端というのも、あながち揚足取りではない。しかし「右の内(第五条を指す)には、品物取替の儀、政府に限り候事、取極は之なし、魯西亜 人にて究 て外に品を付け申すべく候」。
「之に依て、今改て表通交易御免之有り、右条約中に之なき租税等、御取極め之有り候方然るべく候」。
公文書というものはこんなふうなものだろう。「之に依て、今改て表通交易御免之有り、右条約中に之なき租税等、御取極め之有り候方然るべく候」。
外国人に書かれた幕末日本紀行中の異色はゴンチャロフのそれであろう。最近、平岡雅英氏のすぐれた訳筆でロシア問題研究所から邦訳が出た。当時の多くの日本紀行が外交官や武官や宣教師の筆になるのにたいして、これはロシア文壇の一派の筆になるもので、『オブローモフ』の作者のきまぐれがわれわれに残してくれた、またとない記念品である。もちろん文士だけの、政治的契機に関する記述はたいしたものはないが、その代り人情風俗についての天才的な観察が各頁にあふれて、ことにその巧みな表現にはすっかり魅惑されてしまう。
安政元年正月の第一回会見の大広間で「誰がよけい馬鹿な顔をなしうるか競争しているようだった」幕府の役人たちも、第二回会見のときは、もはや充分な親しみと敬意と、さらにその外交手腕にたいする相当の驚きの念とをもって叙述されている。なかんずく「老全権」
公式には次席だが事実は主席全権の川路左衛門尉の態度は、微細な点まで彼らの注意に値したらしい。太い
その川路が、プチャーチンにこんなふうにいう。
「娘が成人すれば嫁にやりますが、我が国の貿易はまだ成人しないのです······」
とても通商条約どころではなさそうに思われた。物品の贈答さえ一朝一夕の手続ではなかった。ある日、露艦の水兵がウオトカの空罎を日本人にくれたというので、
「それでどうかしたんですか?」
「罎を取戻すように命じて頂きたいので。でないと貰った者に不幸が起るのです」
「では海の中へ棄てたらいいでしょう」
「いいえ、こちらへ持って来ますから、あなたの方でお棄てになって下さい」
「罎を取戻すように命じて頂きたいので。でないと貰った者に不幸が起るのです」
「では海の中へ棄てたらいいでしょう」
「いいえ、こちらへ持って来ますから、あなたの方でお棄てになって下さい」
こんなふうだったのが、その年の暮になると、長崎といえどもかつてなき「緩優貿易の発端」となっていったのだ。
どうしてもう、娘になっていないどころではなく、安政四年、オランダに自由貿易が許された日から、長崎波止場は急におどろくほど活気づいた。
その数字はわかっていないが、英国の最初の長崎領事ホジソンが長崎港に到着したとき、むろん安政条約による通商はこれからという直前のことだ。日本貨物の積込を待っている港内の商船は十五隻まで数えられた(パスク・スミス氏『日本における徳川時代の西夷』)。