太平洋をはじめて汽船が横断したのは||といった問題を、ひと頃しきりに調べたことがあった。といったのでは、
ところが、おかしなもので、はじめはある重要な歴史的関連を明らかにする目的から、||たとえば、この場合では幕末の日本開国を、米国の手で行わせる上に一つの役割をしたのが、横断太平洋汽船航路問題である||ということを明らかにする目的から、太平洋定期航路の発生をしらべはじめてみると、行掛り上その船名や、トン数やといった、いわばどうでもいいようなことがらまで気になってくる。
だが、それでもまだ純粋に好奇的な考証趣味におちこんでしまったとは、かならずしもいえまい。
たとえばある文献に最初の横断太平洋定期就航船は一八六五年(慶応元)で船は米国の太平洋郵船会社の「コスタリカ」、「ニューヨーク」、「オレゴニアン」、「ゴールデン・エージ」のうちのどれかだ、と書いてある。
第二の文献には船名を挙げないで一八六七年にサンフランシスコから横浜に向ったとあり、第三の文献をみると、一八六七年の元旦にサンフランシスコを出て二十二日目に横浜に着いた「コロラド」がそれだとある。
こうなってくると、いったいどれが正しいのか確定したい、ということになってくる。
資料価値の検討、その他々々といろいろ試みるに従って、いつかしら定期航路といわず、およそはじめて太平洋を横断した船は何だ? というふうなことになって困るなと思いながら、そのくせ何とか納得がゆくまではいつまでもへんに頭の隅っこにこびりついてぬけない。いつのまにか問題の出発を忘れて、一見つまらないことに、それ自体のために、せんさくを試み出している。
考証趣味などいうものは、
さて、はじめておよそ太平洋を横断した蒸気船は北太平洋ではなく南太平洋の出来事だ。一八五三年まで、一隻の汽船も太平洋を渡っていない。だがこの年一千トンの推進汽船「モニュメンタル・シティ」号(米国船)がサン・フランシスコからシドニーへ渡った。
その所要日数七十五日は、立派な記録と評判されたが、彼女にこれ以上の記録を出す機会は与えられないでしまった。
というのも、この船は合衆国へ引返さず、シドニー・メルボルン航路に廻わされたのだが、その一カ月後、シドニー、メルボルン間の濠洲海岸で難破してしまったからである。
その年の六月ペリーの「黒船」が
はじめて北太平洋を横断した汽走船||商船といわず軍艦といわず||については残念ながらはっきりしたことがまだ書けない。
北太平洋横断の定期就航汽船の最初のものが一八六二年六月八日にサンフランシスコから横浜に着いたC・W・ブルックス会社の郵便蒸汽船ジョン・T・ライト号(三百七十トン)だったということは、明らかになっているが、それ以前に単独で横断した汽走船としてさしあたって間違いのない記録は、ついこの間まで汽船を見たこともなかった日本の汽走軍艦
咸臨丸はその時(
ボーハタンが太平洋を渡って迎えに来たのかどうか、その前ペリー艦隊中の汽走艦ミシシッピーが、単独で太平洋を渡って帰っていったのでなかったかどうか、これらはまだ調べるための「暇」も機会もありそうにない。
ともかく間違いのない事実として、汽船による北太平洋横断に試練時代に、やっと航海術を習ったばかりの日本人の手で、東から西への無寄港横断が実現されたのである。
その咸臨丸||二百五十トン||は「蒸汽船とはいえ蒸汽は百馬力ヒュルプマシーネと申して港の出入に蒸汽を
二、三年前オランダから買入れ値は小判で二万五千両、······その前安政二年の頃から幕府の人が長崎に行って蘭人に航海術を伝習して、その技術も
この時の航海のことは
ついでながら当時の日本の蒸汽船というのは全部で三艘、すべて幕府の軍艦になっていて、内二隻はオランダから買入れた咸臨丸と
幕府以外の諸侯で最初に汽船を買入れたのはその翌文久元年に薩摩が英人リンゼイから十二万ドルで買った補助機関船「イングランド」だった。
『近代の偉人故
この年日本全体で七艘、総価格五十七万ドルの外船を購入したのが事実である。『偉人伝』には往々この類のでたらめが多い。
話がそれたが、薩藩に「イングランド」を売付けた英人リンゼイの著書『一八一六から一八七四に至る商船史』には、合衆国の太平洋郵船会社の定期汽船がはじめて北太平洋を横断すべく、金門湾を
これがスタンレイ・ロージャースの近刊『太平洋』によると、一八六七年で、船は「コロラド」である。パスク・スミス氏の著書『日本における西夷』では一八六五年として書中当時の右会社就航船として挙げられた「コスタリカ、ニューヨーク、オレゴニアン」以下のなかに「コロラド」なる船名は見当らない。
一体どれが正しいのか、||もとより船名は、維新当時の人名と同じように、勝手に変えることができるし、事実また変えられもしたであろうが||と、長い間へんに気にかかっていたのである。ところがこれも最近『福翁自伝』を読んで偶然はっきりすることができた。
「それから慶応三年(一八六七)になってまた私はアメリカに行った。これで三度目の外国行、慶応三年正月二十三日に横浜を出帆して······この時にはアメリカと日本との間に太平洋の郵便船が始めて開通したその後で、第一着に日本に来たのが、“コロラド”という船で、その船に乗込む。
前年アメリカに行った時には小さな船で(咸臨丸を指す||著者)海上三十七日も掛 ったというのが今度のコロラドは四千トンの飛脚船 、船中の一切万事実に極楽世界で二十二日目にサンフランシスコに着いた」。
まずこれでいい。ところで引続いて、前年アメリカに行った時には小さな船で(咸臨丸を指す||著者)海上三十七日も
「着 たけれども今とは違ってその時分はマダ鉄道のないときで、パナマに廻らなければならぬからサンフランシスコに二週間ばかり逗留 して、そこで太平洋汽船会社の別の船に乗替えてパナマに行って蒸汽車に乗てあの地峡を踰 えて向側に出てまた船に乗 て丁度 三月十九日にニューヨークに着き······」。
私はこれを読みながら、一八五〇年にマルクスが書いた評論のことを思い合わせた。カリフォルニアの黄金狂時代を契機として展開された一連の事情は、「いまやニューヨークおよびサンフランシスコ、サンジュアン・ド・ニカラグア、レオン・チャグレス(パナマ地峡の向側の当時の港)およびパナマ」を新時代の世界商業および交通の重心地帯とするにいたるだろう||と彼は述べた。
この推論中の重要な一要件として世界市場の完成、ことに横断太平洋汽船の開通を前提とするそれが置かれていた。
「数年ならずして英蘭からチャグレスへ、チャグレスおよびサンフランシスコからシドニー、広東 およびシンガポールへ汽船の定期就航を見るに至るだろう」。
おそらくは、カール・マルクスのカの字もマの字も||それとともに、彼が