スローガン「尊王攘夷」はなにも最初から討幕を内容としたものではなかった。反対に、本来のそれは、幕権のためにする名実ともに「天下副将軍」的なスローガンとして生れたものである。
近世史上の尊王論そのものが、やはりそうで、徳川時代の尊王論の先駆者たち
九代十代にわたるいわゆる田沼時代は、都市の商業および高利貸資本が台所口で武家支配を抑えるようになった背後の時代的転換を||同時に、内地商業の国民的統一への軌道を||告示した時代だったが、京幕融和も
ゆくすえの幕政倒壊を見越して、その場合にも一門だけは残るようにとの東照神君の神謀から水戸だけは堂々尊王の家筋と定められた、などという説は、まっ正直に家康を神様扱いにする筋から出たものというほかはなかろう。実際は幕権大磐石時代に淵源する水戸学の尊王と徳川家祖法の鎖国とが、時局にたいする副将軍的念慮から結合されたにすぎない。ただ斉昭は幕権に基づいて水戸家尊王論を運用する代りに、水戸家尊王論によって幕策を旧軌に戻そうと試みただけである。とまれそのため天保以降彼の手で「京都手入」が創始された。
後年将軍家継嗣問題を挾んで水幕の反目最もはなはだしかった。しかも他方幕閣は和親さえあるに今度は通商の決定を迫られているという安政五年正月に、その直前の水藩建白によって下ったといわれる朝廷からの幕吏への示命書には、はっきりと幕府祖法が真向からふりかざされている。
「当度の儀は寛政以来鎖国の厳制を改革し諸蛮夷通信交易等を始め、各国条約取極められ候ほどの儀につき、皇国内の儀とも違ひ云々」。
そのときの水戸建白書は文政二年打払令(一八二五年)そっくりの口ふんをだが、中期以降の国内経済の統一的傾向に加えて、いまや開国が経済のより高度な国民的統一を必然化したとき、
ところで、幕権に資すべきはずの副将軍的スローガン尊王攘夷は、たちまち、幕政を改革して大藩の権力を伸張せんとする雄藩ブロックの戦略語として襲用された。
斉昭の尊王攘夷唱導は、たまたまその子
水戸の尊王攘夷が雄藩の尊王攘夷となるのは、慶喜擁立ブロックが独自化して雄藩ブロックとなったためである。この転化を助けた契機に協調政治家阿部伊勢守の死による対立候補紀州
それはともかく、井伊内閣による通商条約締結とともに朝廷の攘夷はもはや祈願たることをやめて、まず前出の示命(安政五年正月)となり、ついで条約不許可勅令(三月)、さらに八月八日の水藩以下への「密勅」となった。すでに密勅そのものの範囲が水戸継嗣ブロック以上に出て雄藩おしなべて十三藩にわたり、その内容もたんなる「攘夷」だけでなく「内憂」に言及され、内政改革の手段として「群議評定」「公武合体」が強調されている。これにたいする安政の大獄、翌年大獄始末を終えたか終えぬに
文久二年六月
将軍上洛、諸藩と共に攘夷を議するか
没海五大藩を任じて夷狄 掃攘に当らせるか
慶喜を将軍後見職に越前春岳 を政治総裁に任ずるか
幕府は第三条を奉承したから、一応水戸ブロックの幕政参与は実現したわけだが、その第一の政治は、没海五大藩を任じて
慶喜を将軍後見職に
改良派雄藩に相続された場合のスローガン尊王攘夷は徹頭徹尾改良主義的な性質のものである。攘夷は水戸斉昭の場合旧体制持続を目的とするものであったが、いまは幕府統制から藩を解放するための手段であった。雄藩ブロックの盟主島津三郎一行は使命を果しての帰途
攘夷が大藩主にとって真実の目的となりえないことは、すでに薩藩が久しく琉球を通じての密貿易によりて外国貿易の利は知りすぎるほど知っていたことからも想像されよう。文久三年八月十八日の『横浜新聞紙』(おそらく『ジャパン・ヘラルド』のことだろう)には興味ある記事の一節がある。当時江戸政府は
「予推察するに仙台加賀その他勢盛なる大名はかくの如く糸の運輸故障せられ、彼等の収納減少するを忍びて捨ておくべきに非 ず。また大君(将軍)は已に糸を産せざる南方の大名と不和を起したれば、今また此方の勢ある大名の言を用ひざる事を得ざるべし」(『夷匪入港録』)。
薩藩はなるほど生糸は産しなかったが、南北戦争による米綿途絶のため一八六二(文久二)|六五年の間は年々莫大な木綿輸出国だった。だが外国貿易にたずさわって諸藩が利益を見れば見るほど、それだけ諸藩と幕府の間には不断に増大してゆくヒラキがあった。「日本における排外運動の三原因は、ともかく参覲交代を三年一度に緩めること、在府期間の減少、妻子帰国の許可、江戸諸家臣の減少等々の一大改革は、それによって藩力を養って攘夷にそなえるという名目で実現された。江戸藩邸費に費用の大半を失い、高利貸に依頼してなお不足な部分を藩士の俸給米減制||いわゆる
文久二年といえば貿易開始以来||安政四年の日蘭条約による長崎における自由貿易の開始から数えると六年目、三港貿易の開始から四年目である。武士階級の攘夷運動にもかかわらず、貿易額は年々飛躍的に増大している。長崎横浜両港の貿易総額(2)は||
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│ 年次 │ 輸出 │ 輸入 │ 総計 │
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│ │ ドル│ ドル│ ドル│
│一八五九(安政六)│一、二〇〇、〇〇〇│ 七五〇、〇〇〇│一、九五〇、〇〇〇│
│一八六〇(万延元)│四、五五四、〇〇〇│一、六四五、七〇〇│六、一九九、七〇〇│
│一八六一(文久元)│三、四七二、五〇〇│二、〇八二、〇〇〇│五、五五四、五〇〇│
│一八六三(文久三)│六、〇五九、〇〇〇│二、一九七、〇〇〇│八、二五六、〇〇〇│
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外国貿易が国内経済に及ぼした破壊的作用は、たとえば当時の物価を代表した米価についてみても、万延元年には従前のいかなる年の記録をも破り、文久に入ってのちはもう比較にもならぬ高値に上った。物価高騰はたんに生糸、茶以下の大量的輸出によったばかりでなく、一個の輸入品も介在しない直接の金銅貨輸出||金銅貨と銀との内外比価の差異によって生じた大量の貨幣貿易||にもよった。開港後の内地経済の変化およびそれにたいする諸階級の関係についてここに詳しく分析することはできないが、非生産的な都市俸給生活者としての武士ことに軽格藩士の生活が、いかに脅やかされたかはいうまでもない。実にこの飢えたる寄食者||下層武士身分が、幕末開国による最初のその最大の犠牲であった。│ 年次 │ 輸出 │ 輸入 │ 総計 │
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│ │ ドル│ ドル│ ドル│
│一八五九(安政六)│一、二〇〇、〇〇〇│ 七五〇、〇〇〇│一、九五〇、〇〇〇│
│一八六〇(万延元)│四、五五四、〇〇〇│一、六四五、七〇〇│六、一九九、七〇〇│
│一八六一(文久元)│三、四七二、五〇〇│二、〇八二、〇〇〇│五、五五四、五〇〇│
│一八六三(文久三)│六、〇五九、〇〇〇│二、一九七、〇〇〇│八、二五六、〇〇〇│
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資本主義的世界市場への日本開放は、いかなる途をたどるにせよ、いずれは、封建制のいっさいの織物の破棄を予定した。したがって武士身分の反抗も予定された事実であれば、またその敗北も必然の数である。大小がカノン砲に勝てないかぎり、彼らの排外運動は、規模のうえで成功すればするほどそれだけ惨めな敗北にあう。シナの阿片戦争と日本の攘夷派の分散的な攘夷実践とは、量の差にすぎない、がその量の差が質の差を結果した。日本の封建領主は幕府も藩主も関税の利益を
水戸の祖法護持的な、大藩主の改良主義的なスローガン「尊王攘夷」は、領主の
ところで、開港数年の貿易は藩士生活難を激化したばかりでなく、経済の国民的統一の必然性をも激化した。藩士に奉戴された尊王攘夷のスローガンはそれ自体のうちに最大の矛盾を
それはともかく藩士尊攘派にとっては、時局を藩士のラディカリティの極限からさらに進める場合にのみ、藩論掌握の機会と彼ら自身の進路が見出された。改良主義的大藩主の活動が極限に達した文久二年が、同時にまた討幕スローガンとしての尊王攘夷を明確にする年であった。
文久二年八月以後の討幕派としての長藩登場||
すでに文久元年から二年へかけて、藩士尊攘派の独自的結成は水戸で水長藩士の
かくして、改良派に供奉された勅使におくれることわずか五カ月で、藩士団に供奉された三条、
それまで幕府にたいしてもまた藩内でも非合法的な組織であった藩士尊攘派||いわゆる志士団は、やがて公然と藩士といわず浪士といわず学習院「出仕」を命ぜられ、いわゆる学習院党を形成して、討幕的尊攘策の根源地をなした。文久三年三月、
著名な出来事を列挙しただけでも、攘夷祈願のための
京都では幕府政治総裁松平
姉小路卿暗殺事件に
学習院党では討幕挙兵の準備いっさいが成った。その機会のための大和行幸が八月十二日になって、二十七日
幕末史中攘夷運動が最大に高まったのはこの年文久三年である。これまでのところは国外勢力をただ量のうえで||すなわち年々飛躍的に増大する貿易とその作用のうえから観察すればよかった。しかし、いったん排外的対外戦争の危険が現実化せんとしたこの年以降の幕末史は、もはや欧米列強をその質において||政治的に観察することなしには解かれえない。
方法的にいえばこの種の観察は、幕末史中、最初まず開国問題に関して分析され、つぎにこの年の極東の、および世界の、国際情勢に基づいて分析されねばならない。ここでは簡単なスケッチにとどめる。
日本を開いたのは米国だったが、横浜の外人植民地は「上海をモデルにして」作られ、商業のうえでも武力のうえでも英国が断然リードしていた。一八五九年から六八年までに横浜にできた外国人商館八十五のうち五十一まで英国(アメリカ九、フランス七、プロシャ七)。長崎においても大体同様だった。攘夷事件によって国交の危機が迫った文久三年(一八六三)の輸出入額についてみても、総輸入額の七八%は英国旗の下に(米八%、仏一%)総輸入額では八一%が英商人の手で(米七%、仏二%)行われている。これと、世界そして東洋における英国の勢力とを思い合わすとき、国旗のいかんを弁ぜずいどまれた「攘夷」がいかなる反作用を予想しなければならなかったか、また、英国の対日策がいかに幕末政変の過程に重要な役割を演じなければならなかったかが、容易に想像できるであろう。
駐日英国公使オールコックは本国政府の対日策と日本の実情に基づいた、なかんずく長崎領事館方面から申告される政策との矛盾にくるしんだふうに見える。
元来英国は、文化年間のフェートン号事件以降オランダの反英的忠告も手伝って、開港前すでに幕府に好感はもたれていなかった。巧みに英支事情を捕えて日本開国を先取した米国からも同様な耳こすりがあって、英国はますます幕府から袖にされた。幕府海軍は蘭・米に陸軍は仏に教師は米にといったふうで、明治以前幕府に受容れられた英国の助力としては灯台建設のための沿海測量一件だけ、それも測量船がほかに求められなかったためだった。
加えて、幕府の貿易干渉も、貿易額の八〇%を占める英商から公領事館に訴えられる一番大きな不平だった。幕府の貿易干渉は自由貿易にたいする無理解というよりもむしろ貿易の利益をできるだけ幕府で独占するための努力に出たものである。
文久三年の藩士尊攘派の組織的排外運動とそれに押された幕英間の危機については前に述べたとおりである。英国に内乱干渉の意志があればこのときほどいい機会はなかった。そして現に、長崎英国領事モリソンの名において、明瞭にその意志が公使オールコックに向って申告されているのだ。
英幕の危機が極度に迫っている時期の六月四日および二一日(ただし太陽暦)付の文書では、
従前「教に
オールコックはその翌年召還されて日本を去るに際し、大政維新の近きを本国に報告したというが、このときはモリソンの説を採用しえなかった。本国政府は翌一八六四年になってさえ依然幕府を支持すべしという指令を発しているのだ。尾佐竹氏の『幕末外交物語』によると生麦事件に関して英国議会では開戦は
しかし、その翌年になってめざましく展開されてゆく国外勢力の行動方針は、文久三年中にすでに決定されていたということができる。
一八三四年以来極東における英国のおそるべき商敵となった米国が、一八六一年来の内乱で弱められて、しっかりと幕府に食下った米公使もさすが手の出しようがなくなったころから、今度はフランスが非常な勢で日本問題に進出してきた。一八六三年の日本輸出入総額のわずか二%しか占めてないフランスが英日関係危しとの報によってすぐさま(六三年太陽暦二月)軍艦を日本に向って出動させたのは、焼のまわったボナパルト政権のわるあがきによったのである。ナポレオン三世は政権を維持するためどこかで対外的勝利を獲得しなければならない。アメリカ内乱が起るとすぐさまメキシコに宣戦(一八六二年)したが、その手で日本もみこまれたのである。メキシコも失敗、日本も失敗、そして明治四年に何もかも失敗して、パリ・コンミューンだ。しかし日本では、函館戦争まで頑張ったほどあって、文久三年ジョレス提督の軍艦到着とともに、英幕危機を巧みに利用しつつ、米公使をおしのけてたちまち幕府を掌中にまるめてしまった。ルサンによると、英国の第一回対幕最後通牒||英公使はじつに二度まで最後通牒を延期したのだ!||のとき、もうフランスは仲介に立っている。そして幕府の交渉委員竹本
藩士尊攘派が追われたのちの京都へ、
「豈料 らんや藤原実美 等、鄙野匹夫 の暴説を信用し、宇内 の形勢を察せず国家の危殆 を思はず、朕 が命を矯 て軽率に攘夷の令を布告し、妄 に討幕の師 を興 さんとし、長門宰相の暴臣の如 き、その主を愚弄 し、故なきに夷舶 を砲撃し、幕使を暗殺し、私に実美等を本国に誘引す云々」。
「攘夷」の代りにより穏やかな合法的攘夷||前年末出発した鎖港談判使節の成功が期待されることとなり、改めて政治いっさい幕府に御委任ただし大政大議は奏聞のこと、と定められて、前年の二重政府的情勢もこれで収まるかに見えた。他方八月十八日の変以後元治元年十一月の長州服罪までの一年有余のあいだは、藩士尊攘派にとっては異状な試練期であった。全国「尊攘を励むの士」に広く
この年の国外列強の唯一の行動は
英国対日策の転換は、馬関戦争後におけるオールコック公使の召還と新公使パークスの着任(慶応元年五月)をもって明らかにされた。
安政条約の勅許、下関償金に代えて兵庫・大阪・新潟の海港開市を繰上げることおよび現行関税率の低下の三条を、たんに将軍に要求したのみでなく将軍が京都にいるのを好機として連合艦隊を兵庫に進めて要求したのは、ことごとく新公使パークスの首唱と手腕になるものであった。三年前のモリソン案は修飾されてはいるが、しかしその本質において実現されたのである。
ついでながら、本誌三月号
長藩はこの年正月
薩長同盟の成立は慶応二年正月京都においてできたといわれる。いずれにせよ、連合艦隊兵庫入港(元年九月)、条約勅許(十月)以後のことである。九月初旬の日付のある長崎英領事から長崎家老にあてた手紙には、馬関戦争で、破壊され、条約によって再建を禁じられている砲台の再武装問題について秘密の了解が与えられている。再武装の了解を求めた四国公使宛の文書が長州から英公使に依頼されたのを、他の三国公使宛のものを返してやって、「かかる要求がなされたという事実すら彼等に知らされてはならない。この点、貴侯の利益のために、しかあらんことを望む」(パスク氏前掲)とある。長崎英国領事はこの前後からすでに薩長土三藩の「サムライ」中に「友人」を持っている。
英薩接近はその三年も前、鹿児島戦争直後から緊密になって、慶応二年にはパークスの鹿児島訪問まで行われている。
これらの事実は、もとより、薩長同盟その他が討幕派志士の行動を通じて達成されたという事実を、少しもまげるものではない。しかしながらそれは、慶応元年以後再起した尊攘志士派が、その藩士もしくは浪士としての階級的本質から不可分な運命にあった「攘夷」を、揚棄した秘密を解くためには不可欠の鍵である。さらに、改良派ブロックの盟主であり、寺田屋事件以後は藩士尊攘派にたいしては
ところで、船隊のマヌーヴァーによる条約勅許以下の諸要求は文久四年春以来の朝幕一和に一時暗影を投じたが、まもなく恢復して条約は勅許され、兵庫開港問題だけが勅許を見ないで小波紋を残したが、ともかくこの年をもって国内勢力のあらゆる指導部から、「攘夷」は事実上消滅したのである。
攘夷揚棄とともに再組織された藩士討幕派は、はじめてここに建設者としての資格を獲得した。彼ら討幕派指導部は藩士から出てもはやたんなる藩士ではなかった。もとより彼らは国内ブルジョアジーでもなく、また国外ブルジョアジーことに英国のエージェントでもなく、ひたすらなる勤王の同志であった。しかしながら、彼らのスローガン「尊王攘夷」に鋭く内包された矛盾がいまや揚棄された以上、彼らの勤王行動は封建的分権主義を打倒して、資本主義新日本のための不可欠な前提たる国民的統一国家の建設に向って軌道づけられたのである。
一八六〇|七〇年の時期はあたかも自由競争の最高発展段階に相当した。その資本主義史において当時他国に二十年を先んじていた英国といえども、帝国主義の段階にはまだ入っておらず、一八四〇|六〇年の英国自由主義黄金時代||そのブルジョア政治家が植民政策の敵として立ち植民地の解放をさえ主張した時代をうけており、それにつぐ植民地大奪取戦時代を世界はまだ経験していなかった(レーニン『帝国主義論』参照)。落目になったフランス・ボナパルチズムの日本代表ロッシュと英公使パークスの腕くらべは、後者の局外中立策が立派に公使団をリードした事実をもって審判された。
討幕派に率いられた武力としての藩士大衆は、しょせん封建制の全織物と共に破棄される運命にあったのが、この年以来、用が済み次第破棄される運命として修正されたまでである。
(1)「千八百六十二年第七月より千八百六十三年第七月まで生糸の輸出二万六千苞にしてその価一千万元なり。その内大君の利益は五十万元即 ち一週毎 に一万元許 なり。一週間この利益なしと雖 も御老中その不都合を覚ゆることなきを得べしや」(『夷匡入港録』)。
(2) パスク氏前掲。六二年の長崎の数字が欠除しているため、ここには総額は示せないが、横浜一港では六一年よりも六三年よりも増加しいる。