にせものという言葉は、しかし、蓮月焼のばあいではあたっていないこともある。蓮月の筆致で書きつける蓮月焼は、今日でも、思いがけぬ地方でつくられている。先年も、山形県の
蓮月尼は、幕末維新の京都に知られていたから、そのころの有名人をことごとく尊王派にせずにはおかぬ風潮が、いつか彼女を「尊王歌人」ということにしているらしいが、彼女について最もはやく書かれたものと思われる林
彼女の父は
夫の没後出家して蓮月尼と号したのが、二十歳ごろのことだというから、文化八、九年のことになる。父光古は蓮月尼が四十になる天保初年まで生きている。和歌は
「都辺の陶工これを模造して利を得る者また少なからず||と『大日本人名辞書』は叙している||而 して陶器は模しうれども筆跡は模すべからず、相ともに尼に謁して某 の如何 せば可ならんを問ふ。尼すなはち陶を作らしめて躬 ら歌を題して与ふ。蓋 し尼の製陶を模する者数十名、ために糊口を得るは尼の悦ぶところなり。また国々より上京する者詠歌を乞ふの繁なるを厭 ひて、家居を定めず、遂に西加茂 なる神光院 の茶所に住 へり、故に都人呼んで屋越 の蓮月といへり。」
これで見ると、一目でにせものとわかるみすぼらしい似せ字の蓮月焼は、かえって時代が古く、にせものつくりの陶工たちが、蓮月焼と提携するまえの作品から成っていると思われる。蓮月没後のにせものは、それにしても、にせものつくりたちと提携して、数十名にうつわをつくらせて、歌だけを自分で書きこんでゆく蓮月尼は、どんな契約でそれをつづけたかはわからないが、注文によらない大量生産的商品生産者であって、ただの手工業者でない。女流作家にしても、このわたしにしても、雑誌社の注文原稿を原稿紙にこつこつと書いてゆくありかたは、この民主主義的資本主義日本の昭代における立派な手工業者の範疇にぞくしているのだが、女流作家で風俗雑誌の経営者になったような人々は、天保年間の蓮月尼において立派な先輩を見出すわけである。
明治元年彼女は七十八歳だった勘定になる。西加茂神光院の茶所にずっと住っている。いまはそこで、蓮月尼の絵はがきを買うことが出来る。
明治八年といえば八十五歳になる。まだれいのやりかたで蓮月焼はつくっていたらしい。その八月十八日の『東京
「昨十七日の読売新聞に西京の蓮月尼の宅へ近頃泥坊の這入 った事が書いてありますがこの尼さんの風流好きで歌が上手のうえに、手作の瀬戸細工に名の高い技は新聞にある通り、皆さん御承知の事でございますが、西京の人から本社へ知らせてきました所は少々事実が違っています。どちらがうそかほんとうかその段においては分りませんが、皆さん御見合せのために知らせのままにかき載せます。さてその泥坊が尼さんに金を借してくれよというに、少しも騒がず手箪笥 の中から一包 の金(百円包のよし)を取出し与えますと、泥坊はこれほどまでとは思いもよらず肝 をつぶした様子なりしが、なおも大胆に今度は腹がすいたから茶漬の御馳走になりたいといい出したので、わたしはひとり暮しだから余分の御膳は焚 きませんと、食い残りの御鉢をやるに、泥坊たちまち食い尽 して、これでは少し足らない、なんぞ外 に食いものがありませんかと不足をいうにぞ、昨日とか今日とか貰いし麦粉菓子を出しましたれば、泥坊は食い掛けながら気絶してどっさりその場に倒れたれば、尼さんはこれにびっくりしてうろつき廻り介抱するうち、近所の人も寄集りしに、泥坊は早死に切っておりました。この一件で麦粉菓子の由来を御上からお調べになりました所が、尼さんに金三百円借りている人よりの進物なることが分りました。泥坊もこわいけれども、毒殺はまた一層こわいではございませんか、あまり奇妙なことゆえ御知 せ申すというてよこした」。
この記事の調子には、風流できこえている老蓮月尼を、単に金をためているという一事だけで、三面記事的にあばこうとする人情が見える。それはけっして、新聞記者にかぎるくせではなくて、読者としての日本人にいまでも消え去っていないものの見方でもある。文人は文人、金貸しは金貸しと、何でも一つの範疇に他人をおさめてしまわぬことにはおさまらぬ。そのくせ自分だけは、けっしてしかく割切れてはいないのである。小ブルジョアジーが分解して、大量のプロレタリアートとごく少数のブルジョアジーに自己を形成してゆく。万年雪がとけて流れるように、この分解の行程が、明治のはじめから今日まで、ある時は急に他の時は徐々に、とめどなく進行している。足の底から分解しつつある自己にとってはなにやら無気味で
蓮月尼は、この記事が出てから四月ほどのち、明治八年十二月十日に、八十五で死んでいる。彼女のような経歴のもちぬしによくあるように、たぶん前の日まで、蓮月焼に歌を書きこんでいたのかも知れぬ。彼女の四十年間にわたる大量生産のおかげで、にせものでない蓮月焼の一つが、わたしの手もとにも存在する。瀬戸の手づくりのせん茶の急須で、茶わんはなく、急須一つある。蓋をのぞけば内側にうわぐすりがにぶく光っており、外側も蓋も素焼である。蓋の把手は葉を二枚つけた桃の実で、すべて陶工の作品であろうが、胴いちめんに巧みな配合で書かれている和歌と署名は、まぎれない蓮月尼じしんのものである。
もののふの やしまのうらのゆふしをに ながれもあへぬゆみはりの月 蓮月作
とあって、これを書きこむときにのこったらしい指紋さえ、いくつか歴々とみえるのである。