自分が毎日物を書く一と間の前には、老い
いかにも裏町らしい、黒ずんだ土の上には、板塀の下から潜り出たどくだみの四五本が、ちよつぴりと青いものになつてゐるだけである。それも自分が制止しなかつたら、下女がこゝへ越した掃除の際に引き拔いてしまひかけるところであつた。
この小さい、申譯ばかりの庭は、臺所口から、右隣の家との壁の間を身を縮かめて通つて、出這入りするやうになつてゐる。並んだ隣の家の、同じ板塀を前にした小庭との堺には、開き戸の附いた、人の腰までしかない
そのとなりの庭には、開き戸の側に、南天の木の
「まあ綺麗ですこと。」と越して來た日に下女が目つけて羨しさうに言つた。
「こちらには何の花もございませんのに。」と、向うのが一人で生えでもしたやうにいふのであつた。
「その代りこつちには鳥がゐるぢやないか。」と、自分も子供のやうな事を言つて籠の赤い鳥を柱にかけた。
自分は移ると直ぐから、また一心に書く事を急いだ。となりの家にはどういふ人が住んでゐるのか、自分は知らない。同じ一つの表口の
越して來てから四五日の間、毎日じく/″\と雨ばかり降つた。自分は二階を書齋にしてゐるのだけれど、下は下女一人で無用心だから、入院してゐる力子が歸るまでは下にゐる事にして、外の柱に赤い鳥の籠をかけた一と間に、例の乏しい無花果の木と對して書いて行く。
頭が疲れると、障子の根に寢そべつて、餌を食ふ鳥や、毎日じめ/″\降り續く雨を見る。無花果の下の窪みに小さい水溜りが出來て、雨の小止みには板塀の黒いのが仄かにうつる。落ちる形の見えぬ程小さく降りそゝぐ時には、水の面は
自分はそれにも飽きると、首を出してとなりの南天の葉に溜る白い雨の雫を見る。縁側へ出て立てば、ナスタシヤムの一團の色が際立つて綺麗である。
それから再びまた書き續ける。歌ふ事の出來ぬわが鳥は、默つて赤く飛び/\して、時々、餌の粟をじやり/″\と縁側に落す。そのひそやかな鳥と雨の足との外には何の動くものもないやうに靜かである。どうしてとなりの人たちもあんなに靜かなのかと考へる。
かうして續いて書いてゐる内に、昨日は久しぶりで雨上りの一日となつて、黒ずんだ土の上には黄色い柔い日影がさした。自分は、わが鳥を日向に出すために、小庭に下りて、それをたわ/\した、無花果の眞ん中の枝に吊した。さうして寢椅子を縁側に出して長まつて、久しぶりに與へられた日向をなつかしみつゝ目を
何にも忘れて目を閉ぢてゐる時には、自分はいつまでも若い日に生きる事の出來る人間のやうに、何ゆゑともなく、物なつかしい自分を見るのが、わが一つの樂しい癖である。
と、前を見ると、七八つばかりの、髮の黒い西洋人の女の子が、薄赤い着物の肩を覗かせて、開き戸の上からこちらを見つゝ寂しさうに立つてゐる。しめやかな黒い大きな目をして、長い睫をまたゝかせて、戀しい寂しいものを見入るやうに、枝にかけたこちらの鳥を見て立つてゐる。
となりには西洋人がゐるのかと、謎のやうな心持がした自分は、
「え?」と云つて振りかへつて、
「寢てゐなさるのよ、となりの方は。||(ノー、ゼ、ネイバー、イズ、アスリープ)」と小さく云ひながら、向うへ行つて了つた。
自分はすぐに椅子をはなれて、開き戸越しに覗いて見たが、女の子はもう消えるやうに内へ這入つた
併し別に西洋人のゐる家だとも見えない、自分の
自分はそれから引き返して無花果の枝の赤い鳥に指を突つつかせたりなぞして、小さい庭にうろ/\してゐると、となりに下駄の足音がしたので、さり氣なくそちらを見ると、下女が言つてゐたあの女であらう、ネルの單衣を着た女が、洗つて竿にかけたシートの、水のしたゝるのを
さうしてそれを、ナスタシヤムを避けて板塀へかけて、片側を柱の紐に通した。下女だらう。竹の皮のやうに
自分は早くこちらへ返つてゐてよかつたと思ひつゝ、鳥を
「おい、となりには西洋人がゐるんだね。」と
「おや、さうですか、あれは異人さんの子ですか。よくそこの表のところで、箱なぞを持ち出して默つて遊んでゐるのでございますよ。あんまり可愛いお子さんですから西洋人だとは思ひませんでした。」といふ。
今日はまた朝からしと/\雨が降る。自分は柱に鳥をかけてせつせと書く。時々雨の足が絶えると、となりの子が、また窃つと來て鳥を覗いてゐやしないかといふやうな氣がしてならない。やがて窃つと出て見ると、來てはゐないからまた坐つて書く。
書くけれど何だかあの子が氣にかゝる。あの黒い大きな目が||いろんな物哀れな話を淋しく包んだやうな、あの黒い目が氣にかゝる。次には疲れて縁側へ出て、またあの女の子が來てあの目を見せるかと思ひながら向うを見る。雨の日はナスタシヤムにもじめ/″\と雫がたまつてゐる。
(明治四十四年六月)