小さいときから自分を育てゝ來たお
自分は宿屋の拂ひをして、一二の用事に


「どうだ。掃除は片づいたか?」と言ひつゝ上ると、
「まあ隨分まごつきましたのい。いくら探してもこの

お千がその外に何を言ひたいかといふ事もそれで別つてゐる。自分は何だか、自分の外には誰一人自分に同情するものがゐない事を見せつけられるやうな、冷い孤獨を感じずにはゐられなかつた。さう考へるせゐか、下女が自分のために氣の毒さうな顏をしてゐる容子までが、反對に自分をさげすみでもしてゐるやうに小惡らしい。
けれども、そんな拙らない事がいつまでも自分の氣分を支配するわけもない。自分は考へると直ぐにそれは忘れて、表の一と間の襖を
そこにはお千たちの手提袋や、いろんな持物が散らかつてゐた。目の見え
「もうこれが落ち附けば世話はないぞのい。」と安心したやうにいふ。
「どこかこの邊が
自分は風呂敷を解いてその日の新聞を出して、硝子の落ちたところを塞ぐために寸を合はせて切つた。それから下女を、差配の
「隨分ひどい
「まあね、あそこの押入れの中に、竹の皮や反古や古手拭なんかゞ、かうやつて抱へる程、突つゝき込んであつたのですのい。板の間に這入ると蜘蛛の巣が顏にかゝつて。||御覽なさい、これ。」
まだ髮にかゝつてゐるのを探つて、顏をしかめて指先で取つて見せる。
自分はその容子が可笑しいのでくす/\笑ひながら、買つて來た机を
「のい、あなた、私たちはどうでもよいけれど、こんなところへ樫田さんの奧さんでも入らつしたらどうしませう。」と、お千はよう子さんのために借りた家かなぞのやうな下らない事をいふ。自分はわざと默つてゐた。
机の位置が面白くない。もつと壁の方へ寄せるといゝが、それだとこの疊の破れたところが外へ出る。かうすれば丁度机の下に隱れる。坐つて周圍を見ると、壁の落書や襖のぼろ/″\に煤けたのが目障りだけれど、その内には馴れて來よう。||
このやうな事を考へて少らく茫んやりと坐つてゐると、
「のい、あなた。」とまた始める。
「炭屋と米屋とへは來がけにさう言つて下さつたのでせうのい。もうそろ/\御飯の仕度をしなければ。」と、お千は疲れたやうに、足を崩して坐つてゐる。下女も暗い中の
「あなたは私たちの頼んだ事は何でもあれですけ。」と下らない事に直きつんとするお千は、
「ぢや、私が探してさう言つて來ます。外に、千葉から荷物が來るまでに買つて置くものがありますけ。つね、一緒にお出でよお前も。」と、浮かぬ顏をして仕度をして出て行つた。
「この下駄にしようか。こんなものを履いて出ては可笑しいだらうか? 買はなければよかつたぞのい。」などゝ、戸口でひそ/\言つてゐる。
祖母はいつの間にか膝掛を被つたまゝ臺所の方をうろ/\してゐる。
「あなたには見えもしないのに。」
「ふゝゝそれでも少しは見えるもの。そこに青いものがあるぞのい。土手があるのかい。」
「あれは麥の畑です。蠶豆の花がぐるりにさいてゐます。」
祖母は四疊の竹格子の下に坐つて、見えぬ目で透して見つゝ、千葉はどちらに當るか、國許はどの方角か、今度は月給はいくら貰ふのか、なぞと聞く。自分はいゝ加減な事を言つて安心させた。それから矢つぱり話の相手をしながら、ぽつ/\蒲團や行李を解いて着物を出して着換へたりした。
畠を隔てた裏向うの家で三味線をひく。どんな人がゐるのか、一寸氣の利いた構への
「こんなところだと思つて馬鹿にしてゐたらそこまで出ると何でもありますぞのい。」と、つまらない事を感心してゐる。それから第一に包みを解いて、甘くもなさ相なパン菓子を取り出して祖母に持つて行つた。それから手提袋に納めて大切に持つて來た厨子を取り出して、型ばかりの置床の上に、私の父の位牌とならべて祀つて、今のパン菓子を供へようとする。
「御免だよ、お千。佛さんなんかそんなところへ置いては目障りでいけない。僕は位牌も厭だ。そんな不愉快なものを。」と顏をしかめると、お千はむきになつて、
「そんな出任せな事を仰しやると罰が當りますぞい。」といふ。
「だつて僕は位牌といふものを好かないのだもの。陰氣でいけない。人の死骸を見るやうな氣がして氣味が惡いから、そこへ置くのは怺へておくれでないか。」
「何とでも仰しやい。」と、例のつんとした膨れ
「ではどこへ置くんです?」
「どこへなりと置くさ。」
こんな事を言つて半ばは


「厭な位牌を床の上に並べてくれたりするやうな深切なお千よりか、つねの方が氣が
それから歸りに、近くにゐる知人のところで油を賣つて、日暮時分にのそ/\歸つて來ると、
「つね。」と呼んで見たが返事がない。と、お千が裏口から小暗く出て來た。
「お歸りなさい。私うつかりしてゐて洋燈を買ふのに氣がつかなんだものですけ、今つねをやりましたのい。暗くても一寸の間我慢してゐて下さいな。」と、流しもとで手を洗つて上つて、
「私のい、あんまりお歸りが遲いけ、あなた
「何を?」
「まあそんならよかつた。私は今裏へ胡瓜を蒔いて置きましたのい。見てゝ御覽なさい。今に芽が出て、だん/″\に延びて行きますけ。去年千葉で澤山
「家で出來た胡瓜なぞが食へるかね。」
「あれ、あんな事を仰しやる。毎朝漬け物に召し上つたぢやありませんか。あれを忘れなしたのかい。||||を毎日書いてゐなす時分でしたらうがの。あの時には立派な
「今度は何といふのをお書きなさるの? また毎日癇癪が起きる事でせうぞのい。あゝ/\||||の時は私は作るあなたよりも
「嘘を。」
「嘘ぢやありません。おや、それを
「無くなるもんか。後で拾へばいゝよ。」
「あの、のい、それはさうと、今日私買物の歸りに好い貸家を見て來ましたい。家賃が十八圓でのい、二階も離れも湯殿も附いてゐますぞい。中々洒落れてゐますいの、十八圓にしては。」
「さうかい。おや胡瓜の種つて、吹けば飛びさうな薄いものだね。ほう、澤山ある。まだあら。」と拾ひ上げながら、自分は、下女が歸るまでの暗がりに寢そべつて、お千がいろんな贅澤な御託を並べるのを聞いてゐた。それから胡瓜の種といふものを噛んで見た。
お千が蒔いた種がまた胡瓜を生むまでには、これから三月もかゝる。今日は五月の十日である。
「十日だつたねお千。」
私は再び苦しい創作にかゝらなければならない。
(明治四十四年五月)