松本から信濃鉄道に乗って北へ向かうこと一時間六分、西に鹿島槍の連峰、東には東山の山々を持つ大町は安曇高原の中心として昔から静かに、ちんまりと栄えて来た町である。もちろん信州でも北方に位するので、雪は落葉松の葉がまだ黄金色に燃えているころからチラチラと降り始めるが、昨年(昭和二年)は概していうと雪の来ることがおそかった。が、来るべきものは来ずにはおかぬ。十二月二十三日の晩から本式に降り出して翌日も終日雪。その翌日、即ち二十五日の朝、信濃鉄道の電車は十一人の元気な若者たちを「信濃大町」の駅へ吐き出した。いずれもキリッとしたスキーの服装に、丈夫なスキーを携え、カンジキを打った
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対山館のあがりかまちに積まれた荷物の質と量とは、山に慣れた大町の人々をも驚かすほどであった。食糧、防寒具、薬品、修繕具その他······すべて過去における大沢小屋こもりと針ノ木付近の山岳のスキー登山とから来た尊い経験が、ともすれば危険を軽視しようとする年ごろの彼らをして、あらゆる点に綿密な注意を払わしめた。人間は自己の体力と知力とのみをたよりに、凶暴なる自然のエレメントと対抗しようとする時、その凖備についてのみでも、ある種の感激を持たずにはいられない。この感激が人を崇高にし、清白にする。この朝大町に着いた若い十一人は、かくの如き感激を胸に秘めた幸福な人々であったのである。
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対山館の宿帳には左の如く記された。
近藤 正 二十四
渡辺 公平 二十一
河津 静重 二十一
山田 二郎 二十三
江口 新造 二十二
富田 英男 二十三
家村 貞治 二十三
上原 武夫 二十
有田祥太郎 二十一
関 七郎 二十三
山本 勘二 二十二
この宿帳に早大山岳部員の名前が十一人そろったのはこれが最後である。年がかわって、宿帳に書き込まれた名も激増したが、そのどのページをくっても、家村、上原、関、山本四氏の名は見あたらない!渡辺 公平 二十一
河津 静重 二十一
山田 二郎 二十三
江口 新造 二十二
富田 英男 二十三
家村 貞治 二十三
上原 武夫 二十
有田祥太郎 二十一
関 七郎 二十三
山本 勘二 二十二
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荷物を置いて身軽になった一行は、八日丁の通りを東へ、東山の中腹にある大町公園へスキーの練習に出かけた。狭いけれども雪の質は申しぶんない。一同は心ゆくまですべるのであった。テレマーク、クリスチャニヤ、ジャムプ・ストップ······近藤リーダアは時おり注意を与えた。もっと右に体重をかけて! 腰はこういうふうに曲げるんだよ! 長い二本のスキーが、まるでからだの一部分みたいにいうことを聞いて、公園の処女雪には何百本のみごとなスプールが残された。
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大町の盆地をへだてた向こうには籠川入りがふぶきの中で大きな口を黒くあけて待っていた。川に沿って
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その晩には信鉄沿線の有明村から案内者大和由松が来て一行に加わった。大和はスキーが出来るので、大沢の小屋で一同の用事をすることになっていたのである。
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二十六日の朝九時ごろ、ガッチリと荷物を背負った一行は、例のトボガンをひっぱって、大町を立った。大和を入れた十二名に大町の案内者黒岩直吉ほか三人が加わり(この四人は畠山の小屋まで荷物を持って送って行ったのである)バラバラと降る雪の中を一列になって歩いて行った。見送る町の人々は彼らが一月十日ごろ、まっ黒になって帰って来る姿を想像しながらも、年越しの支度に心は落ち着かなかった。
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十一人を送り出した大町は、またもとの静けさに帰った。
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二人は叫んだ、二人は戸をたたいた。「百瀬さん、百瀬さん、起きて下さい」||何度叫んだことであろう、何度たたいたことであろう。夜明け前の、氷点下何度という風は、雪にまみれた二人を更に白くした。「百瀬さん、百瀬さん!」
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ふとんの中で百瀬慎太郎氏は目をさました。深いねむりに落ちていたのであるが、声を聞くと同時に何事かハッと胸を打つものがあったという。とび起きて大戸のくぐりを引きあけると、まろび込んだのが大和由松、「どうした?」というまもなく近藤氏が入って来た。
「どうした?」「やられた!」
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遭難当時の状況は早大山岳部が詳細にわたって発表した。要するに大沢小屋に滞在して蓮華、針ノ木、スバリ等の山々に登る予定であったが、雪が降り続くので登山の見込みがつかず、わずかに小屋の外で練習をするにとどまった。しかるに三十日は、雪こそ多少降っていたが大した荒れではないので、すこし遠くへ出かけようと思って針ノ木の本谷を電光形に登って行った。そして十一時ごろ赤石沢の落ち口の下で(通称「ノド」という狭いところ、小屋から十町ばかり上)第五回目かのキック・ターンをしようとしている時(渡辺氏はすでにターンを終わり右に向かっていた)リーダアの近藤氏が風のような音を聞いた。なだれだな! と直感して、「来たぞ!」と叫ぶまもなく、もうからだは雪につつまれていた。
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近藤氏の「来たぞ!」を聞いて最も敏感になだれを感じたのはおそらく山田氏であろう。反射運動的にしゃがんでスキーの
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何秒か何分かの時がたって、スバリ岳方面から二十町ばかりを落ちて来たらしいなだれは、落ちつく所で落ちついた。十一人全部埋まったのであるが、河津、有田両氏は自分で出られるほどの深さであったのでただちに起き上がり、手や帽子の出ているのを目あてに、夢中で雪を掘って友人を救い出した。近藤氏は片手が雪面上に出ていたから自分で顔だけ出した所へ二人が来たので、おれはかまわないからほかの人を早く掘れといった。そこで山田氏を掘り出す。近藤氏は山田氏に早く大和を呼んで来いといった。山田氏は凍傷を恐れ、ゲートルを両手に巻きつけて、雪の上をはって小屋まで行った。
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(なだれたばかりの雪の上は、とうてい歩けるものではない。四つばいにならざるを得ない。自然両手は凍傷を起こす。山田氏がこの際それに気がついて、ゲートルをはずして手に巻いたとは、なんという沈着であろう。また、顔は出ているとはいえ、刻一刻としめつけ、凍りついて行く雪にからだの大部分を埋められながら「ほかの人からさきに掘れ」といった近藤氏のリーダアとしての責任感は、なんと荘厳なものであろう。私はこの話を聞いて涙を流した。)
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小屋では大和がゴンゾ(わら靴)をはいて薪を割っていたが、山田氏の話を聞いて非常にびっくりし、ゴンゾのままでとび出しかけて気がつき、ただちにスキーにはきかえ、スコップを持って現場にかけつけた。そこでは山田氏を除く六人が狂人のように友人をさがしていたが、なにせ最初に出た河津氏と、最後にスキーの両杖の革ひもによった[#「よった」はママ]発掘された江口氏(人事不省になっていた)との間は三町余もあり、なだれの幅も四十間というのでとうてい見当がつかない。一同は二時半ごろひとまず現場を引き上げて小屋に帰った。
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(この日の午後、更に赤石沢からなだれが来て、スバリの方から落ちて来たやつの上にかさなったという。これに加うるに雪は降り続く。死体捜査の困難さも察し得よう。)
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とにかく一刻も早く急を大町に報ぜねばならぬ。そこで近藤氏と大和とは残っていたスキーをはいて三時半ごろ小屋を出た。夜半には大町に着く予定であったが、思いのほかに雪が深く、斜面に来てもスキーをはいたまま膝の上までズブズブと埋まってしまうという始末。二人は無言のままラッセルしあいながら、おぼろな雪あかりをたよりに午前三時半ごろ野口着、駐在所に届けて大町へ、警察署に立ちよってから対山館へ着いたのが四時過ぎであった。
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時刻が時刻だから、火の気というものは更にない。百瀬氏はとりあえず二人を食堂に招き入れて、ドンドンとストーヴに石炭を投げ込んだ。話を聞くと小屋に残して来た生存者六名中、江口氏は凍傷がひどいので心配だが、他の人々は大丈夫だ。埋ずまった四人はとても助かるまい。が、掘り出すのは容易だろう。とにかく人夫を二十人至急に送ろうということになった。
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大町は電気で打たれたように驚いた。八千五百に余る老幼男女が、ひたすらに雪に埋ずまった四名を救い出すことのみを思いつめた。こうなれば暮れもない。正月もない。人は黎明の雪を踏んで右に左に飛びかった。警察署長は野口に捜査本部をうつし自ら出張、指揮をとった。署長の命で小笠原森林部長、丸山、遠藤両巡査が現場に向かって出発した。対山館で集めた人夫十一人と、警察から出した二人とが先発した。慎太郎氏の弟、百瀬孝男氏は、その朝関から来た森田、二出川両氏とともに凍傷の薬、六人分の手袋、雪めがね等(いずれも近藤氏の注意によって)をルックサックに納めてスキーで出発。三十一日に大沢に入るはずの早大第二隊の森氏は大町に残り、近藤、百瀬両氏とともに百方に救援の電報を打つのであった。
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スキーで出た三人は四時半畠山着。あとから来る人夫たちの指揮を孝男氏に託し、両氏はひた走りに走って八時半大沢小屋に到着した。その時のありさまは想像にかたくない。同時に警察側の三氏、野口村の消防組六名も大沢に着いた。
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孝男氏は畠山小屋で待っていたが大町の人夫が来たので八時出発、十一時に大沢小屋に着いた。非常な努力である。
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一方大町には各方面から関係者が続々と集まって来た。長野県を代表して学務課長と保安課の人とが来る。深い哀愁にとざされて関氏の遺族が到着する。松本から島々を経て穂高岳に行く途中の鈴木、長谷川、四谷の三先輩は、急を聞いて三十一日晩大町にかけつけ、ただちに現場に向かったがその夜は野口一泊。翌日大沢小屋に着いた。
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あくれば昭和三年一月元旦である。空はうららかに晴れ渡り、餓鬼から白馬にいたる山々はその秀麗な姿を現わした。町の人々は、しかし、正月を祝うことも忘れていた。
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朝の空気をふるわせて、けたたましい自動車の号笛が聞こえた。松本から貸切りでとんで来た大島山岳部長の自動車である。対山館には「早大山岳部」なる札がはられた。いよいよ対山館が組織的に本部となったのである。
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山では五十余名の人夫がスコップをふるって雪を掘った。なだれの最下部から三十間の幅で五尺掘るのであるが、凍りついた雪のこととて磐石の如く堅い。作業は思い通りに行かぬ。平村の消防組が三部協力してやったのである。大町の人夫は糧食その他の運搬や、炊事等につとめた。
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対山館では大島部長を中心に、遺族の人々がいろいろと発掘方法を考えた。鉄板を持って行って、その上で焚火をしたら雪がとけるだろうとの案も出た。ポンプで水をかけたらよかろうと考えた遺族もある。山の人々は同情の涙にむせびながら、それらの方法の全然不可なるを説いた。雪はとけよう。だが、とけた雪は即刻凍ってしまう。現に、さぐりを入れるために数十本作って現場に送った、長さ二間の鉄のボートが、なんの役にもたたぬというではないか。やっとのことで一尺ばかり雪の中に入れたと思うと、今度はもう抜き出すことが出来ぬという始末ではないか······。
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一日はかくて暮れ、晩には関で練習中のスキー部の連中が大町にかけつけた。二日からは大雪、それを冒して大町警察署長の一行が現場に向かった。山本氏の令兄も行を同じくせられ、自らスコップを握って堅氷を掘ってみられたが、なんの甲斐もなかった。
発掘方法も相談の上変更し、深さ七尺ずつを三尺おきにみぞみたいに掘ってみたのである。しかし掘る一方雪が降り積む。スキーの先端、靴のひもだに現われなかった。
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二日には近藤氏を除く六人の生存者が、無理に······まったく追い立てられるようにして、大沢の小屋を離れた。なき四人の体駆を[#「体駆を」はママ]自ら発見せねば、なんの
いかなる困難に出会うとも、四人のなきがらをリカヴァーせねばおかぬとの志は火と燃えたが、たたきつけ、押しつけ、凍りついた雪は頑強にその抵抗を継続した。遺族の人々も現場に赴いて、まったく手の下しようのないことを知った。かくて三日、作業を中止するに至ったのである。後ろ髪ひかれる思いとはこのことであろう。大沢から畠山、岩茸岩、野口と、長蛇の列はえんえんと続いた。そのあゆみはおそかった。
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三日の晩、遭難者中の四人がまず帰京した。その状況は当時の新聞紙に詳しい。
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四日、関氏の遺族八名は籠川をさかのぼって岩茸岩付近の川原まで行き、ここで山に向かって
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五日朝、ドンヨリと曇った雪空の下を、関氏遺族一同は大町を引き上げた。停車場まで送ったもの、百瀬孝男氏を初め、大和由松、大町の案内者玉作、茂一、直吉等。
続いて大島山岳部長が帰京。晩の七時三十分の電車では近藤、山田、富田三氏及び他の部員全部が引き上げた。ピーッという発車の笛は、人々の胸を打った。針ノ木峠の下、大沢小屋の付近に埋ずもれている四人の胸にも、この笛の音は響いたことであろう。
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大町はもとの静けさにかえった。人々はこたつにもぐりこんで、あれやこれやと早稲田の人々を惜しんだ。八日、九日、みごとに晴れ渡った山々を仰いでは、あの美しい、あの気高い山が、なぜこんなむごいことをしたのだろうと、いぶかり合うのであった。