夜明けであった。隅田川以東に散在する材木堀の間に挟まれた小さな町々の家並みは、やがて
姉の静子は医者を呼んだその足で隣町の若い叔母の多可子を呼びに廻った。かかりつけの医者が人力車に乗って駈けつけた。父親の寛三は血を吹く政枝の左手首を手拭いの上から握りしめていた。
「政枝、先生に手当をして
父親は涙にうるんだ両眼を娘のそむけた横顔に近づけながら、おろおろ声で頼むように言い続けた。だが政枝は寝床の上に坐ったまま、歯を喰いしばり、身をかがめ、
「まあ、政枝さん、どうしたというの。しっかりしなくちゃ駄目じゃないの」
隣町の婚家先から駈けつけて来た多可子は二階に昇るなり政枝の右肩を
「さあ、早く先生のお手当を受けるんです」
とせき立てた。
政枝の舌はもつれて硬ばっていた。
「どうせ
政枝はやっとこれだけ云うとまたしても父親の手から自分の左手首を引き離そうともがき始めた。多可子は政枝が自分の病気を死病だと思い決めている以上、それに逆らって説き伏せることは無理だと覚った。そして別な言葉でするどく叱った。
「たとえ癒らない病気に
不断、無口でおとなしかった政枝は
「何故、生きなければならないの。そのわけを云って||。それが判るまで手当受けません」
多可子はぐっと言葉に詰まった。でも、ぐずぐずしているうちに政枝の手首から多量の血が流れ出て
「ええ、理由がありますとも。でも、今はあんたが亢奮し過ぎてるから、あとで落ち着いたとき、ゆっくり話す、ね。だから手当だけを受けなさい」
政枝はまだ不承知らしい顔をしていたが、「きっとですか」と多可子を
看護婦がゴム管で政枝の腕を
喘ぎながら多可子は、
医師の手当は進んで行った。朝はいつの間にか明け切って白銀色の光が家並みを一時に浮き出させると、人々は
父の寛三は医師を送ってから急いで台所へ行って手や着物の汚れを洗い、洗面器を持って二階へ上って来た。そして雨戸を繰って風を入れながら畳の上の血を拭き始めた。不遇ななかから
着物を父親に着換えさせられてからも政枝は軽く眼を閉じて、いつまでも放心状態を続けた。その側に多可子は
そのとき政枝は澄んで淋しげな眼を開いて、じっと多可子の顔を見た。
「出直して来るからね。じっとしていらっしゃい」
多可子は一時逃れを云った。家へ帰って落ち着いた上、政枝のことや、彼女に対する自分の態度というようなことに就いて充分考えてみたかった。どうせ神経質で老成している政枝が自分にこの上追及して来ないとは思えなかった。
「おばさん生きなければならない理由を話して下さい」
父親は呆れた顔で政枝の傍へ寄って来た。
「お前は死にはしないんだから。
多可子も寛三の言葉について云った。
「本当よ。あんたのような若いひとが死ぬんなら、それより前に私なんかが死んでしまうわ」
多可子は捨身の説明をした。
「そいじゃ、私が死ぬようなときは叔母さんも死ぬんですか」
「ええ、あんた死なせるもんですか。でもね、きっと癒りますから、安心して元気になりなさい」
政枝は生きなくちゃならない理由といって別に深い理論を訊き出そうとするのではなかった。二度も続いて起った喀血で、死の恐怖に縮み上ってしまった政枝はどうせ死ぬことに決った自分なら、肺患者として長く病床に居て誰にも彼にも嫌われて惨めな最後に死んで行くよりいっそ今直ぐに自分から死のうと決心したのであった。自分の脈打つ手首の動脈を切って、そっと死んでしまおうといよいよ政枝が決心したのは二三日前からである。その自殺も失敗に終ってしまうと、急にまた誰かに取り
政枝は日当りの良い八畳の二階に寝ていた。顔は高熱に上気して桃色に燃えていたが、眼の縁、口の周り、頬の辺りなど、いつのまにか淡墨色のくまどりが現われて、大人の女の古びやつれたような表情に見えていた。用を失って
政枝にはいろんな事が気になった。今日も裏の材木堀の向うに在る製板所の
「早く戸や障子を締めて下さい」
と叫ぶので多可子は急いで戸と障子をしめてから政枝の傍へ戻って来て坐ると、政枝はまだ耳を
「あの音を聞くと私の胸の中の悪いところがきまって痛み出すんです。こんな家にいることは堪りませんわ。何処かへ移して貰えないでしょうか」
政枝は情なくて堪らぬという感じを
父親の寛三が医師を案内して二階へ上って来た。
「さあ、政枝、お待ち兼ねの華岡先生がいらっしたよ」
寛三は娘の顔と華岡医師の顔とを等分に見た。寛三はこの頃政枝がしきりに若い医師に無理にまつわりつくような様子が見え出したのに、今日も気兼ねをしていた。
「だって、先生は
と
そして政枝の態度に対する華岡の応待が妙に多可子は気になった。
「いや、今日は少し長くいるよ」
華岡はすねた政枝の肩に手をかけて自分の方へ振り向かせ、笑いながら体温を計り始めた。政枝はちらっと華岡の顔を覗いた後、直ぐ眼を伏せて云った。
「ゆうべ先生の夢を見たわ」
「どんな夢だった」
華岡は診察も忘れて相手になっている。
「とてもいい先生だったわ。一日中私のそばにいて呉れましたもの」
本当とも皮肉とも判らぬ政枝の話に華岡は返事の仕様もなく、多可子や寛三の方を見た。多可子はまさに死んで行こうとする少女が、漸く
華岡はやっと診察に取りかかった。そして診察を済ますと、そこにいる誰にとはなく、「もう少しでよくなるだろう」と告げながら、さっと立ち上ってしまった。そうだったのか||先刻からのこの医師の政枝に対するあしらいも矢張り死病の患者への気安めのあしらいだったのか。
「先生、やっぱり直ぐ帰ってしまうのね。私が訊くことにお返事が出来ないからでしょう」
政枝は今度は今までとは違った意味で華岡医師に帰られるのを辛がった。彼女の病気に就いての詰問も日毎に
「先生、もう少しお話してやって下さい。段々よくなってますね」
「ええ、もう二三ヶ月じっとしておれば、起きられるようになりましょう」
政枝は眼をしばたたきながら、
「でもちっとも今だってこの間じゅうにくらべて
多可子は政枝のそういう言葉の底には、華岡医師から、「もうこの位快くなっている」と詳しく説明して呉れるのを期待する魂胆があるのを知っている。多可子はこの政枝の言葉の裏を華岡が了解して、成るべく沢山の気休めを云って呉れればよいと思った。だが華岡の口を切る前に傍にいた寛三が割り込んでしまった。
「政や、この先生はね、大学で新らしい学問をしていらっした方だからね。この先生に
お座なりの見当違いの説明に、必死の望みを外された政枝は、見る見る

「さあ、もう先生をお帰し申すのだよ。先生は他にまだ沢山苦しんでいるご病人をお持ちだからね」
「他の病人なんか華岡先生じゃなくて、他のお医者様を頼めばいいわ」
政枝はヒステリー女のように憎々しげな口調で云い放った。
「おばさん一緒に死んで呉れると云ったわね」
と夫のある自分をいくら少女でも十四にもなった政枝が思いやりもなく責めるのも、可愛相より時には怖しく聞く多可子は、その病的な利己心にそら怖ろしい気がするのであった。
華岡は当惑して暫らく傍観していたが、「明日来て、よく話すからね」と云い残して、素早く立ち上って階下に下りて行った。多可子はその後を追って玄関まで見送ると、華岡は振り返って、先程の寛三の言葉に対する弁明とも思われるようなことを云った。
「いろいろ薬も変えてみていますが、どうもよくならないのです。年が若いだけいけないですね」
政枝の手首の傷が殆ど癒着して、しかし胸の病の熱の方は、日増しに度を増して来た時分、戦争が始まった。日に二三度も号外がけたたましい鈴の音を表戸にうち当てて配達された。
その頃から不思議に政枝の気分は健康になり、時には明るい興奮さえ頬に登るようになった。
町の人は町角で||政枝は床に起き直って家の女手に向って頼みに来る千人針を二針三針縫った。
政枝はラジオ戦勝ニュースを聴くのを楽しみにした。
戦況はどんどん進んで行った。
夏から秋になった。
病少女はもはや
「万歳! 万歳!」という勇ましい出征兵士を送る町の声々が病少女の凍って行く胸に響いた。すぐ近くのものと川向うらしいのと強弱のペーソスが混った。
政枝の薄板のようになった下腹に、ひとりでに少し力が入った。
政枝は自分でも知らずに「くすん」と微笑んだ。思いがけない表情に両親と姉の静子はこれを見て患者が最期に頭がどうかなるのだと思った。母親は慄えて念仏を唱えている。みな思わずにじり寄って政枝の顔を見詰めた。多可子は絶体絶命の気持ちで袖を掻き合わせ、眼を
「歓呼の声に送られて
今ぞ
勝たずば生きて還らじと」
若く太い合唱の声が空気を揺がせて過ぎる。その時政枝の暗く消え散る意識の中に一筋鋭く残った知覚が、こんなことを感じていた||みんな勇ましく行く、そしてそれは勝つためにだ。自分も||
政枝の唇が青紫に色あせつつぴたぴた
「||||
今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば」||||微かに唄っているようだ······。
多可子の胸へ
「政ちゃん、安心して行って下さい。||あたしあんたと二人分生きる苦るしみと戦い||戦い||戦い||」
あとは泣き声で言葉にまとまりがなかった。