法學博士 尾佐竹 猛
古來名判官といへば大岡越前守にとゞめをさすが、その事蹟といへば講談物や芝居で喧傳せられて居るのに過ぎないので、眞の事蹟としては反つて傳はつて居るものは少いのである。
所謂大岡裁判なるものは、徳川時代中期の無名の大衆作家の手に成り、民衆に依つて漸次精練大成せられて、動かすべからざる根據を植付けられたのであるから、その生命は最も永いのである。我國に於ける大衆文藝として最も優れたるものゝ一つである。
その何が故にかゝる聲譽を得たかといへば、これは我國の文藝に乏しき探偵趣味のあるのが、その主たる原因である。
古い處では青砥藤綱はあるが、これはあまりに古く、また事柄も少いから、一般人士の耳には入りがたい、さりとて本朝櫻陰比事の類はあるが、これは支那種でもあり、少し堅過ぎる。大岡物はこの間にありて異彩を放つて民衆向である。中には支那種の飜案物もあるが巧みに其種を知らしめざる程日本化して居る。それに當時の民衆の最も敵としまた最も非難多き奉行の處置振りに慊らざるものは理想的の大岡物を讀んで、密に溜飮を下げたといふのも、大岡物を謳歌する一理由ともなつたであらう。
しかし嚴格にいふときは大岡裁判は探偵趣味といふよりは、寧ろ裁判趣味といつた方が適當である。巧妙なる探偵術に依つて犯人を搜査するといふよりも、法廷に曳かれて白状せざる奸兇の徒を如何にして白状させたかといふことに、興味がかゝつて居るのである。勿論その白状さす爲めには種々の探偵術を用ひて居るが、物語の骨子は證據はあつても白状せぬ被告人を白状させる處に、大岡越前守の手腕を見るのである。
これは徳川中期の産物であるから、かゝる作品が出來たのである。犯罪の搜査も裁判も町奉行の職權であるから、與力同心さては目明し岡ツ引輩の探偵の巧妙だけでは町奉行は光らない。否その巧妙な探偵もこれは奉行の指※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、2-5]から出るのが原則であるから、町奉行の手柄としては白状させることに重きを置かなくてはならぬ。
それに當時は拷問を用ふることは當然とされて居つたが、それも漸次進んで、今日の言葉でいへば、拷問は訴訟手續であつて、證據方法では無いのである。即ち證據を得る爲めに拷問するのでは無くて、證據が十分あつても白状せぬものを白状させる爲め、換言すれば如何に證據十分でも本人が白状せぬ以上は裁判することは出來ぬから、その手續を完結する爲め、拷問を用ふるといふのが、當時の法制の原則であつた。
そこで奉行は證據を集めつゝ、その證據に基いて白状せしむるといふのが、大岡裁判物の狙ひ所である。
また一面、當時の裁判の實相といへば、奉行の實權は與力に、與力は同心に、同心は目明し岡ツ引の徒に、漸次權力は下推し、奉行は單に形式的に裁判し、盲判を押すに過ぎなかつたから、こゝに明斷察智の超人的奉行を主人公とし、その縱横の材幹に由り、疑獄を裁斷するといふことが時流に投じたのである。
古くは最明寺時頼の廻國物語、近くは水戸黄門の廻國記の如き、密に諸國の人情風俗、政治の良否を知り、是非を裁斷するといふ英雄崇拜の片影ともいふべき物語が、民衆の頭に成長しつゝあつた處へ、わざ/\廻國はせなくても、一大理想的奉行があつて、淨玻璃の鏡に照すが如く、如何なる疑獄難獄も解決するといふ物語の出現したのであるから、大向ふの喝采するのも尤である。それに實際大岡越前守は事務に練達湛能の能吏であつたから、これを理想的に祭り上げ何んでも箇でも持つて行つて、名判官一手專賣としたのも、自然の勢である。
こゝに於てか、大岡越前守は理想的名判官として民衆の間に活きて居るのである。
そこで、所謂大岡裁判なるものに付て述べんに、大岡裁判を書いたものは板本に「大川仁政録」があり、寫本には「板岡實録」「大岡板倉二君政要録」「大岡政要實録」など數種あり、また一事件毎に單行本として傳はつて居るものがある。講談の種本は概ね此單行本である、或は講談物を單行本としたかと思はるゝものもある、また「大岡政談」「大川政談」として殘つて居るものもあるが、これは右の單行本を纒めたものらしい。大岡政談といへる始めからの一册本が後に數種の單行本と分れたものと見るよりも、寧ろ單行本を纒めたのが大岡政談といふ方が正しいやうである。謂はゞなんでも名裁判物語を書き立てゝ、これを大岡越前守に持つて行くから、一層これを纒めて一册にしたならばといふのが大岡政談らしい、後には件數に依り「大岡十八政談」といつたものもある。こんな工合であるから「大岡政談」といつても各事件毎に文體筆勢が異り、記述の態樣も區々であるが。多年無名の民衆に依つて作り上げられたる眞の大衆向のものであるから、幾多の大岡物の内からこの「大岡政談」を採録したのである。
斯く大岡物にも幾多の種類があるから、その事件の數も各書に依つて異同がある。内田魯庵氏が
大岡政談が越前守以前の「櫻陰秘事」更に又以前に遡つた傳説野乘の作り換へであるのは誰も氣が附く、其の中にソロモン傳説が混入して居るのは必ずしも伴天連僧の持つて來たもので無く、或は亞剌比亞や波斯を經由して支那から傳はつたものであるかも知れぬが、切支丹僧が多くの傳説や神話を授けたのは爭はれない。(日本文學講座第十八卷「日本の文學に及ぼしたる歐洲文學の影響」)
の所謂ソロモン傳説たる、二人の女親と稱する女に子供の兩手を引張らせて眞僞を判じた事件はこの政談の中に入つて居ないから割愛するが、通常「大岡政談」に收められてあるものは、
天一坊、白子屋お熊、烟草屋喜八、村井長庵、直助權兵衞、越後傳吉、傾城瀬川、畔倉重四郎、小間物屋彦兵衞、後藤半四郎、松田お花、嘉川主税、小西屋、雲切仁左衞門、津の國屋お菊、水呑村九助
の十六件である。
この内最初の天一坊一件は大岡裁判の中最も有名で、この事件の爲め大岡越前守が立身した如く喧傳せられて居るが、その實大岡越前守に關係はないのである。尤もこの事件と相似たものに、關東郡代伊奈半左衞門の手で審理せられたるのがあるから、これを大岡越前守に持つて來たとも見られるから、その事件の概略を述ぶれば
天一坊惡事露顯の端緒は享保十四年三月五日の事とかや浪人本多儀左衞門、關東御郡代伊奈半左衞門の屋敷に來り、當御支配内の儀に付御用役衆へ御意得たくと申出、半左衞門用人遠山郡太夫面會の處、儀左衛門申樣、下品川宿秋葉山伏赤川大膳方に居られ候源氏坊天一と申すは、當上樣の御落胤にて、大納言樣御兄の由、内内に日光御門主まで仔細申上られ、既に上聞にも達し、御内々一萬俵つゝ御合力米下し置かるゝ由申弘め、浪人共多分御抱入に付、我等も目見いたし奉公相望候てはと申勸るものあり、右源氏坊は全く左樣の御方にて候や、御支配内の儀に付此段内々御樣子承度との儀なり、郡太夫聞て大に驚き、そは怪しからぬ次第なり、支配内に左樣の疑しきもの罷在事是まで少くも存ぜず候、貴殿御咄にて初めて承り候、最早其儘には捨置がたく早速吟味を遂ぐべく、御迷惑ながら其許を勸めたるものも其許も掛合にて候間、名前書出すべく左樣御心得あるべしと申すに儀左衛門仰天なして早々歸りたり。郡太夫は直に此事を主人半左衛門へ申聞、早速品川宿名主年寄を呼出して吟味に及びし處、成程去年以來大膳方に富貴なる山伏居候へども、大納言樣御兄とか又は浪人召抱の沙汰は更に承はらず、其故御話も申上ず候との答なり。郡太夫、其山伏事御用の仔細あり、取逃しては相成らず、直樣立歸り逃げざる樣心付べしと申渡し、自分も組子引連、後より品川宿へ出張なし、山伏常樂院方に赴き、源氏坊天一と云へるもの住居致すやと尋ねければ、手前屋敷の裏に住居罷在と答へたり、即ち常樂院を案内に天一居宅に至り見れば、中々に構造も美を盡し、室内に裝置せし諸道具類は皆花葵の蒔繪紋散しにして、座敷の上手には一段高く上げ疊をなし、何樣將軍家の御由緒にてもあるべく思はれたり。程なく天一、白紗綾の小袖に白無垢を重ね、着用して出でけり。郡太夫慇懃に口上を演べ、主人半左衛門儀御尋ね申度仔細あり御同道致すべき樣に申付候、其儘御越し成さるべくと申すに、天一聊か躊躇の氣色もなく、畏り候と傍なる大小刀をも渡したり。郡太夫天一を駕籠に乘せ、常樂院をも共々召連て屋敷へ歸りければ、半左衛門早速對面なせしが、最初の程は將軍家御落胤の虚實も分明ならざりし故、待遇言葉遣も丁寧になし、一室にて密々の取調なり、常樂院をはじめ關係の諸浪人共をも召出して一應訊問に及びし處、全く詐欺なりとの見込ありて、遂に評定所一座吟味となり、夫々取糺せし所、此天一の母は紀州田邊の者にて名をよしと稱し、紀州侯家中某方に奉公中、主人の寵を受けて妊娠なし、若干の手當金を貰ひ郷里に歸りし後、男の子を生み落したり。是則ち天一にて幼名を半之助と稱し、四歳の時母諸共叔父の徳隱といへるもの、江戸橋場總泉寺末某寺の住職たりしを手寄りて出府なし、其世話にて母子共に淺草藏前町人半兵衛方へ縁付しが、天一十歳の時母病死なし、其砌養父半兵衛も身代取續がたき事ありて家をたゝみ、天一は徳隱の弟子となし、自分は何處ともなく廻國六部と成て出たり。母の存生中常に天一への物語に、其方は元來下賤の身の上ならず、歴々由緒あるものゝ胤なれば、何卒して武家に取立たくと申聞け、由緒書もありて叔父徳隱の預り居たりしが、享保六年火災に逢うて燒失せり。其由緒書の内に源氏とありしより、徳隱取て源氏坊天一と名乘らしめしとぞ。然るに徳隱は享保十二年病死せし故、天一傳手を求めて修驗堯仙院の弟子となりたり、天一幼年の時より酒を嗜なみ酒僻ありし故、叔父徳隱存生中は堅く戒めて飮せざりしに、死去の後は頭の押へ手なきより常に大酒を飮み、我が由緒の歴々なるを誇り散らして亂妨に及ぶこと度々なりければ、堯仙院も幾んど持餘し、寺社奉行へ召連出て懲戒を請ひたりしが、酒狂の上なれば能々意見を加へよとまでにて差たる咎もなかりけるより、天一彌

増長なし、畢竟我が身分の歴々なる故公儀にても御咎なしと猶も大言を吐て更に愼む樣子なければ、堯仙院も捨置がたく、孫弟子の品川常樂院に仔細を云ひて預けたりしが、此常樂院中々の横着者にて、天一が紀州にて生れ由緒ありと云ふを奇貨として惡計を廻らし、終に將軍吉宗公紀州潜邸の時の御落胤なりと僞り、内々は日光御門主より上聞に達せられ、既に一萬俵づつの御合力米をも下され、追付表向の御對面、御披露もありて御三家同樣の大名にも御取立成さるべき御内意ありたり。抔と觸廻りて金銀を借入又は諸浪人どもを抱へて、夫々の役向をも定めたり。即ち常樂院は自ら家老となり赤川大膳と稱し、其他南部權太夫、本多源右衛門の兩人を用人となし或は番頭、旗奉行、槍大將又は大目附、町奉行、勘定奉行、小納戸役、近習、使番抔種々役々を申付しもの數十人に及び、次第に世間へも聞え、終に浪人本多儀左衛門の口より洩れて惡事露顯に及び一同逮捕せられて刑に處せられたり。
四月二十一日於評定所申渡之覺
天一坊改行
酉三十一
僞の儀どもを申立浪人共を集め公儀を不憚不屆に付死罪の上獄門に行ふもの也
常樂院
改行申旨に任せ浪人共集候儀其分に仕改行宿を仕所の役人へも不屆重々不屆に付遠島申付るもの也
本多源左衛門[#「本多源左衛門」はママ]
南部權太夫
矢島主計
改行慥成儀も不糺身非一人無筋儀を申觸し浪人大勢引付公儀を不憚仕方不屆に付遠島申付るもの也
これが天一坊事件の梗概である。
次に「白子屋阿熊一件」これは實際大岡越前守の取扱つた事件である。芝居でする「お駒才三」である。
お熊が引廻しの際、上に黄八丈の大格子、下着は白無垢、髮は島田に結ひ上げ薄化粧さへ施し、手には水晶の
[#「水晶の」は底本では「水昌の」]珠數をかけ馬上に荒繩で結られて行く凄艷なる有樣は好箇の劇的場面であつた。本文に
此時お熊の着たるより世の婦女子、黄八丈は不義の縞なりとて嫌ひしは云々
とあるのは眞實である。
「煙草屋喜八一件」は『耳袋』にある。「煙草屋長八」の事件に似て居る。長八一件ならば大岡越前守より後の依田豐前守正次の江戸町奉行在勤中の事柄にて勿論大岡越前守に關係が無い。
「村井長庵一件」これは架空の物語である
「直助權兵衛一件」これは實在の事件である。
本書に
近き頃まで、諸所の關所に直助が人相書有りしを知る人に便りて見たる事あり、云々
とあるは眞實で、有名な事件であつた爲め、芝居の「四谷怪談」に「直助權兵衞」といふ一人物あるは、此事件からの思ひ付きである。
「越後傳吉一件」は大岡に關係なく、津村宗庵の「譚海」中にある物語である。これが後には「鹽原多助」の粉本にもなつて居る。
「傾城瀬川一件」は吉原耽美の風潮に迎合した小説である、本文に
遊女が鑑と稱られ夫が爲め花街も繁昌せし由來を尋るに云々
とあるのが作者の本音であらう。
「畔倉重四郎一件
[#「畔倉重四郎一件」は底本では「畦倉重四郎一件」]」これは伊奈半左衞門の取扱つた事件と傳へられ居り、そのことも多少疑問はあるが、兎に角大岡には關係の無い事件である。
「小間物屋彦兵衞一件」は支那種の飜案である。
「後藤半四郎」「松田お花」「嘉川主税」はいづれも文士の筆の先で出來た物語に過ぎぬ。
「小西屋一件」これは支那種で、同種の飜案に「會談與晤門人雅話」がある。
「雲切仁左衞門」「津の國屋お菊」はいづれも小説、「水呑村九助一件」は支那種に近世的探偵趣味を多分に盛つてある。特にその首と屍のことは「棠陰比事」の『從事函首』から出て居ることは明白である。
「大岡政談」の正味を一々檢討すれば以上に述べた如くである。
しかしなにしろ、多年大衆向きとして、講談に芝居に叩き上げられたことなれば、益

精練せられて今では殆んど確定的の事實として、大岡越前守の名奉行振りを稱へられて居る。謂はゞ大衆向きの作品としてこれ程大なる價値を有するものは無い。
さればとて、大岡政談が悉く事實でないから大岡越前守は凡庸の町奉行に過ぎなかつたかといへば、さうでは無い、町奉行二十年寺社奉行十六年といふ勤續である。この多年の經驗だけでも他に比肩するものは無い。啻に奉行といはず他の如何なる職でも、これ程永く勤續したものは無い。これ丈けでも立派な模範官吏である。しかも太平の世の中に何等の武勳無くして、六百石の旗本から一萬石の大名に陞進したのである。徳川時代としては空前絶後の出身といつても可なる程目醒しい昇進振りである、如何に事務に練達湛能であつたかを知るべきである。
その一生の事蹟を仔細に研究すれば、行政上の治蹟が著名であつて、反つて司法上の事蹟に付てはさまで顯揚して居らぬのは、世評と正反對の奇なる現象である。これは一體に行政事務は華やかで、司法事務はヂミなのが常であることは今日でも同じである。大岡の江戸町奉行に就任した際は、市政も未だ整つて居らなかつたときであつたから、充分腕を振ふ餘地もあり、從つて其事業も華々しかつたのである。司法に關しては法典編纂の一人として、「科條類典」即ち徳川初期よりの法令並に先例判決例を蒐集したもので、徳川氏最初の立法事業に干與して居る。それから個々の裁判例に付ても幾多の法律問題に苦心したことの見るべきものが多い。司法事務本來の性質としてヂミな骨の折れる職務に數十年從事したといふこと丈けでも充分立派な明判官たる資格があるのである。所謂大過なくして永年勤務したといふこと夫れ自身が非凡なる人材である。
世人は往々にして大岡時代は法律の適用解釋が自由であつたから、理想的の裁判が出來たといふものがあるが、遵據すべき正確なる條文無き時代に事相に適する裁判を爲すことは反つて骨が折れるのである。立派な條文が完備して居れば寧ろ裁判には樂であるともいひ得られるのである。況んや法律の解釋適用は自由なりとはいひながら、故例格式の八釜しかつた幕府時代に於ては、その無意味の桎梏の力強くこれを打破するに足る法理の無かつたことは、或は觀方に依つては法律の解釋適用は
[#「解釋適用は」は底本では「解釋遖用は」]今日よりも不自由であつたともいひ得らるゝのである。然るにも拘はらず永く名判官の名聲を維持して、昇進したのは偉材といはねばならぬ。
本書の首卷に「大岡越前守出世の事」の一卷がある、これは何等かの隨筆物などの一節で、この記事が大岡越前守の事蹟の全體若くは逸事であつたものが、後に他の幾多の物語が出來た爲め、茲に首卷として採録したものらしい。その始めに
當世奉行役人百姓を夜中にてもかまはず呼出し、腰かけに苦勞させ、おのれら我意に任せて退出後にゆる/\休息し、酒盛などして夜に入て評定し又もなかれて歸すなど云々
とありて、時の裁判振りを慨する徒輩が、大岡裁判に假託して時事を諷したとも見らるゝが、この首卷の中の事柄は眞實の事らしい。猶ほ官歴のことも書いてあるが、十分でないから、左にその大要を掲げんに
延寶五年江戸に生る、大岡美濃守忠高の四男、幼名求馬
貞享三年十二月 大岡忠右衞門忠眞の養子となる、十歳
貞享四年 通稱を市十郎と改め、忠相と稱す、十一歳
元祿十三年七月、養父病死、家督を相續し、養家歴代の通稱忠右衞門と改む。六百石寄合旗本無役、二十四歳
元祿十五年五月、御書院番士 二十六歳
寶永元年十月 御徒頭 二十八歳
同 年十二月 布衣
同 四年八月 御使番 三十一歳
同 五年七月 御目附 三十二歳
正徳二年正月 伊勢國山田奉行
同年三月 從五位下 能登守
この時山田に赴任し、有名なる紀州領と松坂の住民との訴訟を裁判し、後年江戸町奉行に榮轉の素地を爲したのである。しかしこゝに注意すべきは山田奉行といふからには、田舍の區裁判所判事の如く思ひ、從つて江戸町奉行の轉任は未曾有の拔擢の如く考へるものがあるが、山田奉行の地位は伊勢神宮所在地なるが爲め、重要なる地位である。故に從五位下能登守と叙爵したので、謂はゞ指定地の勅任所長ともいふべきで、それが、東京地方裁判所長に轉任したのであるから、榮轉は榮轉であるが、未曾有の榮轉といふ程でもない、即ち能登守が越前守に轉じた叙爵の形式から見ても想像がつく、
享保元年二月 御普請奉行 歸府 四十歳
同 二年二月 江戸町奉行、越前守 四十一歳
同 十年九月 二千石加賜、遺領と併せて三千七百二十石 四十九歳
元文元年八月 寺社奉行 二千石加賜 猶ほ廩米四千二百八十俵を足高とし、一萬石の高となし、大名の格式となる、六十歳
同年十二月 雁の間席並
寛延元年閏十月 奏者番 寺社奉行故の如し、從前の足高廩米を廢し更に四千二百八十石加賜、全く一萬石藩列に入る、七十二歳、三河國額田郡西太平を居所とす。
寶暦元年十一月病の爲め職を辭す、寺社奉行を免じ奏者番を許されず
此年十二月十六日薨ず、享年七十五歳、法名松運院殿興譽仁山崇義大居士
墓は神奈川縣高座郡小出淨見寺にあり、裏面には「御奏者番寺社奉行俗名大岡越前守藤原忠相行年七十五歳」と刻してある。また別に、芝區三田聖坂功運寺にも墓がある、これは後年追墓合葬したもので、數多の戒名があり、右より五番目に「松運院殿前越州刺史
[#「刺史」は底本では「剌史」]興譽仁山崇義大居士、寶暦元年辛未十二月十六日」と刻してある。功運寺は其後、府下野方町に移轉し、淨見寺は大正十二年の大震災にて大破したから、有志に於てこれが修繕の擧ありと聞く。
淨見寺の東南、土地高濶遙かに富士山を望み要害の地がある、これは大岡氏の陣屋址で、二代目忠政の時こゝに土着したが、後江戸に移住したのである。
大岡越前守は曩に從四位を贈られたが、これは主として民政上の功に依る。とのことである、司法官としての功績に付ては未しであるのは遺憾である。
大正四年十一月四日 穗積陳重博士淨見寺の墓に詣でて
問ひてましかたりてましをあまた世を
へたてゝけりな道の友垣
と詠ぜられ、穗積八束博士また參詣せられた、この二大法曹の參詣を受けては地下の大岡越前守も定めて滿足したであらう。
||解題終||
[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]大岡政談[#ルビの「おほをかせいだん」は底本では「おほをかせいだい」]首卷 大聖孔子の
曰訟へを
聞事
我猶人の如くかならずうつたへなからしむとかや今いふ
公事訴訟願ひ事になりたとへば
孔子聖人には
公事訟訴出來たる時は
諺にちゑなきとの事
我猶人の如くと也さりながら孔子聖人
奉行となつて
其訴へ
自然と世の中にたえるやう天下ををさめ
仁義をもつて
民百姓をしたがへ道に
落たるをひろはず戸さゝぬ御代とせんとなりまことに
舜といへども
聖人の御代には
庭上に
皷を出し
置舜帝みつから
其罪を
糺しあらためあしき
御政事當時は何時にても
此皷を
打て
奏聞するに
帝たとへば
御食事の時にても
皷の
音を聞給ひたちまち出させ給ひ
萬民の
訴を聞給ふとなりまことにありがたき事なり然るに
當世奉行役人は町人百姓を
夜中にてもかまはず
呼出し
腰かけに
苦勞をさせおのれら
我意に
任せて
退出後にゆる/\
休足し
酒盛などして夜に入て
評定し又もなかれて
歸すなとよく/\
舜帝の御心を
恐れながらかんがへ
學ぶへき事なり然るに舜帝のつゝみ
[#「つゝみ」はママ]世こぞつて
諫鼓のつゝみと
[#「つゝみと」はママ]云其後程なく天下よく
此君にしたがひ
徳になつきければ
其皷自然とほこりたまり
苔を
生し
諸鳥も來りて
羽を
休めけるとなん此事を
諫皷苔ふかうして
鳥おどろかずと申あへりいまもつぱら
江戸大傳馬町より
山王御祭禮に
皷の
作りもの出し祭禮の第一番に
朝鮮馬場において
上覽是あるなり
往古常憲院さま御代までは南傳馬町の
猿のへいをもちし
作りものゝ出でしを第一番に
渡し
諫皷は二番に
渡しけるが
或時の
祭禮に
彼猿の出し
作ふひまに先へ
拔たり此時よりして鳥の出し一番に
渡るとの
嚴命にて
長く一番とはなりにけり是天下太平の
功なり
此猿の面は南傳馬町名主の又右衞門といふもの作りて主計が猿といふよし今以て彼方にあるよしなり
然りといへども
繁華の日夜に
増けるゆゑ少々つゞの
[#「少々つゞの」はママ]訴へはふん/\として
更にやむことなしさればこそ
奉行は是をえらむべきの第一也三代
將軍の
御代より
大猷公嚴有公の兩君にまたがりて
板倉伊賀守同
周防守同
内膳正は
誠に
知仁の
奉行なりと
萬民こぞつて今に
其徳をしたふか板倉のひえ
炬燵とは少しも
火がないといふ事なり
非と火と
同音なればなり夫より
後世の
奉行いつれも
堅理なりといへども日を同じく
語るべからず然るに
享保の
初大岡越前守
忠相といふ人町奉行となつて
年久しく吉宗公に
勤仕しける此人あつぱれ
大丈夫にして其智萬人にすぐれ
遠き板倉の
輩に同じされば
奉行勤仕勤功同越前守よく/\上をうやまひ下を
憐みてすたれたるをおこしたへたるをつくろひ給ふ事
誠に
賢なりといふべし
扨大岡忠右衞門とて三百石にて
御書院番勤し
其後二百石
加増あつて五百石と成を越前守
家督を
繼て
御小姓組と
成勤仕の
功を
顯し
有章公の御代に
御徒頭となり其後伊勢山田
奉行仰付られ初て
芙蓉の
間御役人の
列に入りけるなり
諺にいはく千里の
道を
走る馬
常にあるといへども是を
知る
伯樂もなく
其智者にあへはなしとかや
人間も又同じ
忠信義信の人
多くあつても
其君のこゝろくらくして是を用ゆる事なくんばむなしく
泥中玉をうづめんが如くに
成りて過るなしすべての人の君たる人はよく/\これ
察すべきことなり
舜も人なり
我も人なり智に
臥龍(孔明の事なり)勇に
關羽の如きもの
當世の人になからんや
爰に有章院殿の御代
大岡越前守伊勢山田
奉行となりてかしこに至り
諸人公事に
彼地にて多く
裁許あり先年より
勢州路紀州領の
境論の
公事ありてやむ事なし山田奉行
替りのたび事にねがひ出るといへども今もつて
落着せず是は先來
紀州殿非分なりといへども御三家の
領分を
相手なれば御大身をおそれ時の奉行も
捌きかねてあつかひを入て
濟すといへども
扱ひ
崩れ
訴へ出る事たび/\なり然るにこの度大岡越前守
山田奉行と成て來りしかば
百姓ども又々
境論を願ひ出づるを
忠相段々
聞れける所
紀州殿方
甚非分なりとてあきらかに
取捌けり只今までの
奉行いかなれば
穩便にいたし置けるにや幸ひに越前守
相糺すべきなりとて
紀州の方まけと成て勢州山田方
理運甚だしかりき
爰において
年頃のうつぷんを
散じ大いに
悦び越前守の
智をかんじける
誠正直理非全ふして
糸筋の別れたるが如くなりしとかや其後
正徳六年四月
晦日將軍家繼公御多界まし/\
[#「御多界まし/\」はママ]則有章院殿と號し奉る御
繼子無是によつて御三家より
御養子なり
東照宮に御
血脉近きによつて御三家の内にても
尾州公紀州公御兩家
御帶座にて則ち紀州公
上座に
直り給ふ此君
仁義兼徳にまし/\
吉宗公と申
將軍となり給ふ
其後諸侯の心を
考へ給ふ處におよそ奉行たる者は
正路にあらざれば
片時も
立難し
其正直にて
仁義のもの
當世に少し然るに大岡越前守伊勢山田
奉行として先年の
境論ありし時いづれの奉行も
我武威をおそれ我方
非分と知りながら是を
捌く事
遠慮する所
彼越前守は
奉行となつてたちまち一時に
是非を
糺し
我領分をまけになしたる
段あつぱれ
器量は
格別にして
智仁勇三
徳兼備の
大丈夫なり
彼を
我手取に
呼下し天下の
政事を
統しなば萬民のためならんとの
上意にて則ち大岡殿を江戸へ
召寄られける夫より越前守
早速はせ下り吉宗公の御前へ出けるにぞ則ち
忠相を以て江戸町奉行仰付られけり
誠君君たれば
臣臣たるとは此事にて有るべき
享保の
初の
頃將軍吉宗公
町奉行大岡越前守と
御評議あつて或は
農工商罪なるものに仰付けられ
追放遠島の
替りに金銀を以て
罪をつぐのひ給ふ事初り今是
過料金といふなり大に
益ある
御仁政然るに
賢君の御心をしらず
忠臣の奉行をしらざる
輩は
此過料金の御
政事を
難していはく人の
罪を金銀を以てゆうめんする事上たる人の有ましき事なり第一
欲にふけり以の外いやしき
掟てなり然らば金銀あるものは
態と
惡事なしむつかしき時にはわづか金銀を出せば
濟事也と
抔高をくゝり
惡事をなさん是
却て
罪人多くならん
媒也とあざけりし人多しとかや
是非學者の
論なりといにしへより
我朝の
掟にぞかゝる事なけれども利の
當然なり
新法を立らるゝ事
天晴器量といひ其上
唐土にも
周の文王
民百姓の
罪あるものを金銀を出させて
其罪をつぐなうとあれば
聖人の
掟にも有事なり然らば
惡き
御政事にてはなきと决せり又
非學者の
難じて
曰く文王は
有徳な百姓町人の
罪死けいに
非るものを
過料を
出させて其金銀を以て
道路にたゝずみ
暑寒をしのぐ事あたはざるもの
飢
に
[#「飢
に」はママ]うれふるものには其金銀を與へてくるしみを
除き給ひしが
當時のありさまを見るにさしてこゝ一日人を
救ひ給ふ事もなし
皆公儀の
用意なるはいかにと
言是又上の
御賢慮奉行の
良智をしらざるゆゑなりその者よびとひて聞せん今江戸
其外所々より出す
過料金銀は
公儀に御入用
抔には
決して
用給ず
唯橋道等の
御修復金と成る多くは
橋の
普請のみ入用に成事なり是にて
飢ゑ
凍ゑる人を
救道利にてみな此内にこもる
聖君の
御賢慮御いさをし也
橋功徳經[#ルビの「くとくきやう」はママ]にいはく
渡りに
船を
得たるが如く
暗夜にともし火を
得たるが如なり
將經文の心を
得たるが如く也此
經文の心にて見ればうゑたるもの
食を得たるか
旅人のこめなればひとへに
裸なる者
衣類を得たるか如くにてあれはこゝえる人に
衣を下さるをなさけに同じ事なりうゑたるもの食を得たるが如くとあれば
御憐愍の御政事
爰を以て知るべし
有る
時常憲院
樣五十の
賀の時何をもつて
功徳の
長と成べきと
智化の上人へ
桂昌院樣一位樣
御尋ね遊ばされしに
僧侶答て申上げるは
凡君たる人の御
功徳には
橋なき所へ橋をかけ
旅人のわづらひを止め給ふ事
肝要ならんと申ければ
則兩國橋と
永代との間へ
新大橋を
懸られ諸人の
爲に仰付られけるとかや右
過料の
御政事※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、6-13]に當りて
誠諸人の爲と成て可なりしとかや江戸
池の
端本門寺は紀州の
御菩提所なれば吉宗公と
御簾中本門寺御葬送を被遊て
源徳院殿と號し奉るなりよつて
去頃家重將軍是へ爲成候に付御成まへ
俄にあたら敷
御成門として出來ければ
淨土宗のともがら是をねたみ御成門へ
夜の内に大文
字にて
祐天風の
南無阿彌陀佛と
書たり
誰とも知れざれども
不屆の
仕方なりよつて御
成門を又々
改め
新に
立直し
奉行所へ申上て
昨夜御成門へ
徒仕りしが
南無阿彌陀佛と書しは
淨土宗のともがらねたみしと
相見え申候如何計申べしや
何卒公儀御
威光を以て
徒ら者これなきやう仰付られ下し置れ度願ひ奉るとぞ
訴へおけるが大岡越前守是を聞給ひもつともの願ひなり御成門の
儀は大切にかきりなし夫をわきまへずして
大膽の者ども
不屆千萬言語同斷の致し方なり然しながら御門の事なれば其方ともにも
嚴敷取計も
成難し
斯せよとて大岡殿
白紙へ一首の
狂歌をなされ是を御門へ
張べしとなり
其狂歌にいはく
西方のあるじと聞し
阿彌陀佛 今は
法花の
門番となる
斯の如く遊されて
本門寺へ渡し是を御門へ
張置べしと
仰渡されけり
依て右の
狂歌を
張置ければ是に
恥て
重ねてさやうないたづらをばせざりしとかや
大岡政談首卷
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]天一坊一件 下野國日光山に
鎭座まします
東照大神より第八代の
將軍有徳院吉宗公と
稱し
奉つるは
東照神君の十一
男[#ルビの「なん」は底本では「たん」]紀伊國和歌山の
城主高五十五萬石を
領する
從二
位大納言光貞卿の三
男にて
幼名を
徳太郎信房と
稱し
後に
吉宗と
改たむ
御母は
九條前關白太政大臣第四の
姫君お
高の
方にて
御本腹なり
假令三家方にても奧方は江戸に在べき筈なり紀州にての御誕生を本腹なりとは大納言光貞卿紀州和歌山にて大病につき奧方國元へ入せられ直に看病遊ばされたきよし度々の願ひ先例にはなく共格別の家柄ゆゑ聞濟に成り國許へ登らせられ御看病遊ばし平癒の後懷姙なる故和歌山にて御誕生ありしなり
扨[#「扨」は底本では「扱」]奧方ある夜の
夢に
[#「夢に」は底本では「夜に」]日輪月輪を
兩手に
握ると
見給ひ是より
御懷姙の
御身とはなり給ふ
夢は五臟のわづらひといひ傳ふれども正夢にして賢人聖人或は名僧知識の人を産むは天竺唐土我朝ともにその例し少なからず已に玄奘法師は[#「玄奘法師は」は底本では「玄裝法師は」]夢を四ツにわけ一に現夢二に虚夢三に靈夢四に心夢とす現夢とはうつゝまぼろしのごとく見ゆるをいふ虚夢とは心魂の勞れよりして種々樣々の事を見るをいふ靈夢とは神靈佛菩薩の御告をかうむるをいふ心夢とは常平生こゝろに思ふ事を見るをいふなりこの時奧方の見給ふは靈夢にして天下の主將に成べき兆を後々思ひしられたり
奧方にはあまりふしぎなる夢なれば
迚大納言光貞卿に
告給へば光貞卿
深く
悦びこの度
懷姙の子
男子ならば
器量勝れ世に名を
上る程のものならんと
仰ありしことなり
頃は
貞享元
甲子正月廿日
卯の
刻玉の如くなる
御男子誕生まし/\ければ大納言光貞卿をはじめ
一家中萬歳を
祝し奉つれり奧方
看病のため
國元へいらせられ
若君誕生にては
公儀へ對し
憚りありとて
内々にて
養育のおぼし
召なりまた大納言光貞卿は
當年四十一歳にあたり
若君誕生なれば四十二の二ツ子なり
何なる事にや
昔しより
忌きらふ事ゆゑ光貞卿にも
心掛りに
思召ある日
家老加納將監をめし
其方の
妻女近き頃
安産いたせしと聞及ぶ
然るに間もなく
其兒相果しよし其方は
男子の事なれば
左程にも思ふまじけれども
妻女は定めて
懷さびしくも思ふべし
幸ひこの度
出生せし徳太郎は
予が爲には四十二の二ツ子なり
依て
我手元にて
養育致し難し
不便には思へども
捨子にいたさんと思ふなりその
方取上げ妻女の乳を以て
養ひくれよ
成長の後其方に
男子出産せば予が方へ
返せ
若又男子なくばその方の
家名相續いたさすべしと
仰ありければ
將監謹んで
忝けなくも
御本腹の若君を
御厄年の御子なりとて某に
御養育を命ぜらるゝ儀有がたく
存じ奉つる
然しながら上意のおもふき
愚妻へ申聞かせ其上にて
御請仕つりたし
小兒養育の儀は
偏に女の手に
寄處にて私しの一存に
行屆申さずとて
急ぎ御前を
退き宿へ歸りて
女房に
御内命の
趣きを申し聞せければ妻女
大に
悦びさりながら
御本腹の
若君を我々が手に下されん事は
勿體なし
御幼年の内は
御預り申
上御成長遊し候後は
太守樣の御元へ
御返し申上
何方へなりとも然るべき方へ
御養子に入らせらるゝ樣に
御取計ひ有て
宜しかるべし
當家相續などとは思ひも寄らず私し今日より
御乳を奉つりて
御養育を申上んといふにぞ
將監も
道理なりと同心し
早速御前へ出て
妻が申せし
趣きを言上に及ぶに光貞卿
深く
悦び然らば
暫らくの内其方へ
預け
置べしとて城内二の丸の
堀端に
大木の松の木あり其下へ
葵紋ぢらしの
蒔繪の
廣葢に若君を
錦につゝみ女中一人
外に
附の女中三人
添の
捨子とし給ふ加納將監は
乘物を
舁せ行き
直樣拾ひ上
乘物にて
我家へ歸り女房に
渡して
養ひ奉つりぬ加納將監は
本高六百石なるが
此度二百五十石を
里扶持として下し
置れ
都合八百五十石と
成いよ/\
忠勤を
盡けり
爰に
徳太郎君は日を
追て
成長まし/\
器量拔群[#ルビの「ばつくん」はママ]に
勝れ
發明なれば加納將監
夫婦は
偏に實子の如く
寵くしみ
育ける
扨或日徳太郎君に
附の女中みな
集り
四方山の
咄などしけるが若君には
御運拙なき
御生れなりと申すに徳太郎君
御不審に
思めし女中に向ひ其方ども予が事を
不運なりとは何故ぞと仰せければ女中ども
若君には
實は
太守光貞卿の御子にておはし候へ共四十二の
御厄年の御子なりとて
御捨遊ばされしを將監
御拾ひ申上將監の子と
成せ玉ひしは御
可憐き御事なり
御殿にて御成長
遊ばし候へば我々とても
肩身ひろく
御奉公も
勤むべきに
殘念の事なりと四人ともども申上しを聞しめし
然らば予は太守光貞卿の子とやと
仰せありしが
夫よりは將監が申事も
御用ゐなく
殊の
外我儘氣隨に成せ給へりある日
書院の
[#「書院の」は底本では「書院院の」]上段に
着座[#「に着座」は底本では「に着座」]まし/\て將監
々々[#ルビの「/\/\」はママ]と
呼せ給ふ
聲きこえければ將監大いに
驚ろき何者なるや
萬一太守の御出にもと
不審ながら
襖を少し
明けるにこは
何に徳太郎君には
悠然と上段に
控へ給ふ將監この
形勢を見て大いに
驚ろき其方は
狂氣せしか父に向ひて
無禮の
振舞何と心得居るやと申ければ徳太郎君
仰けるはいかに
隱すとも予は太守
光貞の子なり然れば其方は
家來なるぞ以後はさやう
心得よと仰ありて
是迄は將監を
實の
親の如く
敬ひ給ひしが其後は將監々々と
御呼なさるゝ
故加納將監も是よりして徳太郎君を
主人の如くに
敬まひ
侍づき
養育なし奉つりける
扨徳太郎君は
和歌山の
城下は申すに
及[#ルビの「およば」は底本では「およぼ」]ず
近在なる
山谷原野の
隔なく
駈廻りて
殺生し
高野根來等の
靈山後には
伊勢神領まであらさるゝ
故百姓共
迷惑に思ひしが
詮方なく
其儘に
捨置けり
爰に勢州
阿漕が
浦といふは
往古より
殺生禁斷の場なるを徳太郎君
此處へも到り
夜々網を
卸されける此事早くも
山田奉行大岡忠右衞門
聞て手附の
與力に申付
召捕には
及ず只々
嚴重に
追拂ふべしと申
含ければ
與力兩人その意を得て
早速阿漕が
浦へ
[#「阿漕が浦へ」は底本では「阿漕の浦へ」]到り見れば
案に
違はず
網を
卸す者あり與力
聲をかけ何者なれば
禁斷の場所に於て
殺生いたすや
召捕べしと聲を掛くれば
彼者自若として予は大納言殿の三
男徳太郎
信房なり
慮外すな
此提灯の
葵の
紋は其方どもの目に見えぬかと
悠然たる
形容に與力は
手荒にすべからずと
云付られたれば
詮方なく立歸り
奉行大岡忠右衞門に
此趣きを
達すれば
殺生禁斷の
場所へ
網を
卸せしと見ながら
其儘に
差置難し此度は
自身參べしとて
與力二人を
召連れ阿漕が浦に
到れば其夜も徳太郎君
例の如く
網を
卸して居られし
故忠右衞門
大聲にて
當所は
往古より
殺生禁斷の場所なれば
殺生する者あれば
搦捕るなりと呼はるを徳太郎君
聞給ひ先夜も申聞すごとく予は
紀伊大納言殿の三男徳太郎
信房だぞ
無禮致すな
提灯の
紋は目に見えぬか
慮外せば
赦さぬぞと
宣まふ大岡
大音あげ紀伊家の若君が
御辨へなく
殺生禁斷の場所へ
網を入させ給ふべき
這は全く徳太郎君の御名を
騙る
曲者それ
召捕と
烈しき聲に與力ども心得たりと左右より
組付難なく
繩をぞ
掛たりける徳太郎君
當然の理に申
譯なければ
是非なく山田奉行の
役宅へ引れ給へり
扨其夜は
明家へ入れ
番人を付て
翌朝白洲へ引出し大岡忠右衞門は
次上下に
威儀を
正し若ものを
發たと
白眼汝れ何者なれば
殺生禁斷の場所を
穢し
剩さへ徳川徳太郎などと御名を
騙不屆者屹度罪科に
行べきなれども
此度は
格別の
慈悲を以て免し
遣す以後
見當候はゞ決して
赦さゞるなり
屹度相愼み心を
改むべしと申渡して
繩を
解てぞ
放しける徳太郎君は何となるべきと案じ
煩ひ給ひしに
斯赦され
蘇生せし心地し
這々の
體にて和歌山へ
立歸り此後は
大人くぞなり給ひけるとなん
斯て徳太郎君
追々成長まし/\早くも十八歳になり給へり
此年加納將監
江戸在勤を
仰付られけるにぞ徳太郎君をも
江戸見物の爲に
同道なし麹町なる
上屋敷に
住着たり徳太郎君は役儀もなければ
平生閑に任せ
草履取一人を
連て
兩國淺草等又は所々の
縁日熱閙場へ日毎に
出歩行給ひければ
自然と
下情に通ず
萬端如才なく成給へり程なく一ヶ年も
過將監も
江戸在勤の年限
果ければ又も徳太郎君を
伴ひ紀州へこそは歸りけれ
爰に伊豫國
新居郡西條の
城主高三萬石松平左京太夫
此程病氣の所ろいまだ
嫡子なし此は紀伊家の
分家ゆゑ
家督評議として紀州の
家老水野筑後守久野但馬守三
浦彈正菅沼重兵衞渡邊
對馬守熊谷次郎
南部喜太夫等の
面々打より
跡目の評議に及びける
時水野筑後守
進出て申けるは各々の
御了簡は
如何か存ぜざれ共左京太夫
殿お
家督の儀は
御國許加納將監方に
御預け置れ候徳太郎君を
然るべく存ずると申出たり一同
此儀然るべしと評議一
決しければ
急ぎ
此趣き和歌山
表へ
早飛脚を以て申送れば
國許にても
家老衆早々登城の上
評議に及ぶ面々は安藤
帶刀同く
市正水野
石見守宮城丹波川俣彈正登坂式部松平
監物細井
※書等[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、15-1]なり江戸表よりの
書状を
披見に及べば此度松平左京太夫殿
御病死の所御
世繼これ無に付ては加納將監方へ
[#「加納將監方へ」は底本では「加藤將監方へ」]お
預け
遊し候徳太郎君御
跡目しかるべしとの事なり
此儀尤もの事なりとて
早速加納將監へ
[#「加納將監へ」は底本では「加藤將監へ」]其段申渡しければ將監かしこまり急ぎ
立戻りて
其趣きを徳太郎君に申上
出立の用意に及び
近々江戸表
御下りとは
相成ける。
爰に又和歌山の
城下より五十町
道一里半ほど
在に平澤村といふ
小村あり此處へ
先年信州者にて夫婦に
娘一人を
連し千ヶ
寺參の平左衞門と申者來りぬ
名主甚兵衞は至て
世話好にて遂に此三人を世話して足を
止め甚兵衞は
己が隱居所を
貸遣し
置り其後平左衞門病死し
後は妻のお三と
娘なりお三は
近村の
産婆を渡世としお
三婆々と
呼れたり娘も
追々成長して
容貌も可なりなるにはや年頃に
成ば手元に
置も爲によからじ
何方へ成とも
奉公に
出さんと口入の
榎本屋三藏を頼み和歌山の家中加納將監方へ
奉公住込たりこゝにて名を澤の井と
呼腰元[#ルビの「こしもと」は底本では「ごしもと」]をぞ
勤ける此女へ
何時しか徳太郎君の御手が
付人しれず
馴染を
重ね
終に澤の井
懷姙してはや
五月帶を結ぶ時とぞ
成にき澤の井
密に徳太郎君に
向ひかね/\君の
御情を蒙り
嬉しくもまた
悲しくいつか
御胤をやどり
最はや
五月に
相なり候と申上げれば徳太郎君
聞し
召甚だ
當惑の
體なりしが
稍有て仰けるは予は知る如き
部屋住の
身分箇樣の事が聞えては將監が
手前も
面目なし予もまた
近々に江戸表へ下り左京太夫殿の
[#「左京太夫殿の」は底本では「左京大夫殿の」]家督を
相續する
筈なれば
首尾よく右等の事の
相濟し上は
呼迎へて妾となすべし
夫迄は其方の
了簡にて深く
愼み
猥に
口外致すべからず
併五
月にも
相成る上は
奉公も太儀なるべし其方は
病氣と
披露し一先宿へ
下り母の
許にて予が
出世を相待ち
懷姙の子を
大切に致すべしとて
御手元金百兩を
澤の
井へ
遣はされたり澤の井は
押戴き
有難よしを
御禮申上左樣なれば
仰に隨がひ
私儀は病氣の
積りにて母の
許へ參るべし
併ながら
御胤を
宿し奉りし上は
何卒御出生の
御子を世に
立度存じ奉れば
後來迄も御見捨なき爲に
御證據の品を
下し置れ度と願ければ徳太郎君も道理に
思し召て
御墨付に
御短刀を
添て下されけり澤の井は
押戴き
御短刀を能々
拜見して
偖申やう此御短刀は私し
望御座なく候何卒君の
常々御
手馴し方を
戴き度
旨願ひければ君も
御祕藏の短刀を
遣はさるゝは
御迷惑の體なりしが
據處なく下されて
仰けるは
此品は東照神君より
傳はれるにて父君にも
深く
御祕藏の物なるを
先年自分に下されしなり大切の品なれども
其方の
願も
點止し難ければ
遣はすなりと
御墨付を添て
件の短刀をぞ
賜はりける其お
墨付には
其方
懷姙のよし我等
血筋に
相違是なし
若男子出生に於ては
時節を以て
呼出すべし女子たらば其方の
勝手に致すべし
後日證據の爲我等身に
添大切に致候
短刀相添遣はし置者也
依而如件寛永二申年
[#「寛永二申年」はママ]十月
徳太郎信房
澤の井女へ
と成され印を
据し一書を下し
置れ短刀は
淺黄綾の
葵の
御紋染拔の
服紗に
包て下されたり。
扨又徳太郎君には道中も
滯ほりなく同年
霜月加納將監
御供にて江戸麹町
紀州家上屋敷へ
到着と相成り夫より左京太夫殿
家督相續萬端首尾よく相濟せられたり。
然に澤の井は其後漸く
月重り今は
包に包まれず
或時母に向ひ
恥かしながら徳太郎
君の
御胤を
宿しまゐらせ
御内意を受け御
手當金百兩と
御墨附御短刀まで
後の
證據に
迚下されしこと
逐一
物語ればお三
婆は大いに
悦び其後は
只管男子の
誕生あらんことをぞ
祈りたるが已に
月滿て
寛永三年
[#「寛永三年」はママ]三月十五日の
子の
上刻に玉の如くなる
男子を誕生し澤の井
母子の悦び
大方ならず天へも
昇る
心地して
此若君の
生長を待つより外は
無るべし
然にお三
婆母子は
若君誕生ありしに
始めて
安堵の思ひをなせしが
老少不定の世の
習ひ喜こぶ
甲斐もあら
悲しや
誕生の若君は
其夜の七ツ時頃
虫の氣にて
終に
空くなり給ひぬ
母澤の井斯と聞より力を
落し忽ち
産後の
血上り是も其夜の
明方に
相果ければ
跡に
殘しお三婆は
兩人の
死骸に取付天を
仰ぎ地に
俯し
泣悲しむより外なきは見るも
哀れの次第なり
近邊の者ども
婆が
泣聲を聞つけ
尋ね來り見れば娘の澤の井と
嬰孩の
死骸に取付樣々の
謔言を
言立狂氣の如き有樣なれば
種々賺し
宥め
兩人の
死骸を
光照寺といふ一
向宗の寺へ
葬むりしがお三婆は
狂氣なし
種々の事を
叫び歩くにぞ
名主の甚兵衞も
持あまし其
隱居所を
追出しけり
然ばお三婆は
住家を失なひ所々方々と
浮れ
彷徨しを
隣村平野村の
名主甚左衞門は平澤村の
[#「平澤村の」は底本では「平野村の」]甚兵衞名主の
弟なるがこれも至つて
慈悲深者にてお三
婆の
迷ひ
歩行を氣の毒に思ひ
何時まで
狂氣でも有まじ其内には
正氣に成べしとて
己が
明家に
住せ此處にあること
半年程にて漸やく
正氣に成しかば以前の如く
産婦の
世話を
業として
寡婦暮しに世を渡りける。
爰に寶永三年四月
紀伊大納言光貞卿
[#「光貞卿」は底本では「貞光卿」]御大病の處
醫療叶はず六十三歳にて
逝去まし/\ける此時松平
主税頭信房卿は御同家
青山百人町なる松平
左京太夫の
養子となり青山の
屋敷に
在せり
扨また大納言光貞卿の
惣領綱教卿は幼年より
病身と雖も
御惣領なれば
強て
家督に立給しが綱教卿も同年九月九日御年廿六
歳にて
逝去なり然るに
次男頼職卿も
早世なるに
依紀伊家は
殆ど
世繼絶たるが如し三
男信房卿同家へ
養子と
成せられて
間は
無れ共外に御
血筋なき故まづ左京太夫
頼純の四男
宗通の次男を左京太夫
頼淳と號して從四位
少將に任じて
家督とし
主税頭信房卿は是より本家
相續に
相成り紀州和歌山にて五十五萬五千石の
主とは
成玉へり
舍兄綱教卿は
忌服十二月
朔日に明け
翌二日從三位
中納言に任ぜられ給ひけり。
扨寶永は七年
續きて八年目の五月七日に正徳元年と
改元あり正徳は五年
續き六年目の三月
朔日に享保元年と
改元ある然るに正徳三年の九月六代の將軍
家宣公御他界あり御幼年の
鍋松君當年八歳にならせ給ふを七代の將軍と
崇め
家繼公とぞ申したてまつる此君御
不運にまし/\
間もなく
御他界にて
有章院殿と號したてまつる是に依て此度は將軍家に御
繼子なく
殿中闇夜に
燈火を失ひたる如くなれば將軍家
御家督の
御評定として
大城へ
出仕の面々には三家十八國主
四溜老中には
阿部豐後守政高。久世
大和守重之。戸田
山城守忠實。井上
河内守正峯。
御側御用人
間部越前守
詮房。本多
中務大輔正辰。若年寄には大久保
長門守正廣。大久保佐渡守
常春。森川
出羽守俊胤。
寺社奉行には松平
對馬守近貞。土井伊豫守
利道。井上
遠江守正長大目付には横田
備中守重春。松平
安房守乘宗。中川
淡路守重高等なり此時
井伊掃部頭發言により松平陸奧守
綱村卿進み
出て申されけるに天下の
御繼子の儀は東照神君
御血筋近き方より
繼せ玉はす事こそ
順當なるべし然れば紀州公は神君の
御彦に當らせ給へり紀州公こそ
然べからんとぞ申されける諸侯其
儀道理然るべしと
異口同音に
賛成なれば
彌々紀伊家より御
相續と
相極まる是に因て同年八月
吉宗公と御
改名あり
正二位右大臣右近衞大將[#ルビの「うこんゑのたいしやう」は底本では「こんゑのたいしやう」]征夷大將軍淳和奬學兩院別當源氏長者
右の通り
御轉任にて八代將軍吉宗公と申上奉つる時に三十三歳なり
寶永四年
紀州家御相續より
十月目にて將軍に任じ給ふ
御運目出度君にぞありける
是に
依て江戸町々は申すに
及ず東は
津輕外が
濱西は
鎭西薩摩潟まで
皆萬歳をぞ
祝し奉つる別して紀州にては
村々在々まで
殊の外に喜び
祝しけるとぞ。
扨も平野村甚左衞門方に
世話に成居るお三婆は此事を
聞より
大に
歎き
悲み先年
御誕生の若君の
今迄も御存命に
在まさば將軍の
御落胤なれば
何樣なる立身をもすべきに御不運にて
御早世なりしは返す/″\も
殘念なりと
獨り
泣悲しむも
理りとこそ
聞けれ扨も八代將軍には或時
御側御用取次に
御尋ね有やうは
先年勢州山田奉行を
勤し大岡忠右衞門と申者は
目今何役を致し居るやと
御尋に
御側衆申上げる
樣大岡忠右衞門儀
未だ山田奉行
勤役にて
罷在る旨を申上ければ吉宗公
上意に忠右衞門は
政事に
私なく
天晴器量ある者なり
早々呼出すべしとの事故に
台命の
趣を御老中に申
達しける是に依て
御月番より
御召出の
御奉書勢州山田へ
飛脚を以て
遣さる大岡忠右衞門には御奉書
到來し
熟々考ふるに先年徳太郎君まだ紀州表に御入の
節阿漕が
浦にて
召捕吟味せし事あり此度
計ずも將軍に
成せられたれば此度の
召状は
必定返報の
御咎にて
切腹でも仰付らるゝか又は
知行御取上かさらずば
御役御免なるべしと
覺悟し用意も
々に
途中を急ぎ程なく江戸表へ
着しければ
早速御月番御老中へ
到着の
御屆に及び此段
上聞に達しければ早々忠右衞門に
御目見仰せ付らるべきの
趣きなれば大岡忠右衞門
早速御前へ
罷出て
平伏しける時に將軍の
上意に忠右衞門其方は予が
面體に
見覺え
有かとの御尋なり此時忠右衞門
畏まり奉る上意の通り私し儀山田奉行
勤役中先年阿漕が浦なる
殺生禁斷の場所へ
夜々網を入れ殺生する
曲者ありとの
訴へに付私し
出役仕つり引き捕へ
吟味仕り候處に
彼曲者は紀伊家の徳太郎
信房卿の御名前を
僞はる曲者ゆゑ
篤と吟味に及び候
恐れ乍ら右曲者の
面體君の
御容貌によく
似申す樣に存じ奉るとぞ
御答申上ければ將軍家には
深く
其忠節を御感心遊ばされ忠右衞門宜くも申たりとて
御譽の御言葉を下され
直に江戸町奉行をぞ
仰付られける。
是に
因て越前守と
任官し大岡越前守
藤原忠相と末代までも
名奉行の名を
轟かしたるは此人の事なり將軍家には其後も越前は末代の名奉行なりと度々
上意ありしとかや
爰に
長門國阿武郡萩は江戸より
路程[#ルビの「みちのり」は底本では「のちのり」]二百七十里三十六萬五千
石毛利家の城下にて
殊に
賑はしき土地なり
其傍らに
淵瀬といふ處あり
昔此處に
萩の長者といふありしが
幾世をか
經て
衰破斷滅し其屋敷
跡は
畑となりて
殘れり其中に少しの
丘ありて
時々錢又は
其外種々の
器物など
掘出す事ある由を昔より
云傳たりまた里人の
茶話にも
朝に出る日
夕に入る日も
輝き渡る山の
端は黄金千兩錢千
貫漆千
樽朱砂千
斤埋ありとは云へど
誰ありて其
在處を知る者なし然ども時として鷄の聲などの
聞ゆる事ありて此は
金氣の埋れ
有故なりと評するのみ又誰も其他を
定に知るもの
無りける然るに其屋敷の下に毛利家の藩中にて五十石三人
扶持をとる
原田兵助と云者あり常々
田畑[#ルビの「でんばた」は底本では「だんばた」]を
耕作する事を好みしが或時兵助山の
岨畑へ出て耕作しけるに一つの
壺瓶を
掘出たり
密に我家へ持ち歸り彼壺を開き見るに
古金許多あり兵助大いに喜び
縁者又は
親き者へも深く
隱し
置けるが如何して此事の
漏たりけん
隣家の
山口六
郎右衞門が或日原田兵助方へ來り
稍時候の
挨拶も
終りて
四方山の
咄に
移りし時六郎右衞門兵助に
向て貴殿には
先達て古金の
入し
瓶を
掘出されし由を
慥に
承まはり
及たり
扨々浦山敷事なり何卒其古金の内を少々
拙者へ
配分致し賜れと云ふに兵助は
發と思へど
然有ぬ
風情にて貴殿には
然ことを何者にか聞れし一向
蹤跡なき事なり拙者
毛頭左樣の事存じ申さずと
虚嘯き
何にも
不束なる挨拶なるにぞ六郎右衞門は
勃とし
彼奴多分の金子を掘り出しながら
少の配分をも
拒み夫のみならず我に
對して不束の挨拶こそ心得ぬよし/\
其儀なら
爲ようこそあれと
急ぎ我家へ
立歸り
直樣役所へ赴むき訴へける樣は原田兵助事此度畑より金瓶を
掘出し候
處上へも御屆申上げず
密に自分方へ
仕舞置候旨をば訴へに及びたり役人中此由を聞き吟味の上兵助を役所へ
呼寄其方事此度
畑より古金の
瓶を掘出し
其段早速役所へ屆け出づべきに
然は
無して自分方に
隱置其方一
個の得分に致さんとの
心底侍にも似合ず
後闇き致し方にて重々不屆に
思召さる
依て相當の
御咎をも仰せ付らるべきを此度は格別の御
慈悲を以て永の
御暇下し
置る早々屋敷を引拂ひ何方へなりとも
立退べし尤も掘出せし器物は
其儘に
上へ上納すべき旨申渡されける原田兵助は驚ながらも
御請致し是全く六郎右衞門が
訴人せしに
相違なしとは思へど
今更詮方なければ掘出せし
金瓶は役所へ差出し
家財は
賣拂ひ一人の老母を
引連て
泪乍らに
住馴し
[#「住馴し」は底本では「住馳し」]萩を旅立て
播州加古川に
少の
知音のあれば播州さしてぞ
立去ける老母を
倶せし旅なれば急ぐとすれど
捗行ず
漸々の事にて加古川に
着たれば
知音を
尋ね事の
始末を
委く
咄し萬事を頼みければ
異議なく承知し
暫くの内は此處の
食客となりしが兵助は
外に覺えし家業も無ければ彼の知音の
世話にて加古川の
船守となり
手馴ぬ
業の
水標棹もその
艱難云ん方なし
然ど原田兵助は至て
孝心深き者なれば患難を事ともせず
日々加古川の
渡守して
貧しき中にも母に孝養怠らざりし其内老母は風の心地とて
臥ければ兵助は
家業を
休み母の
傍らを
離ず藥用も手を
盡したれど
定業は
逃れ難く母は
空敷なりにけり兵助の
愁傷大方ならず
然ど
歎て
甲斐無事なれば泣々も野邊の送りより七々四十九日の
法なみもいと
懇ろに
弔[#ルビの「とふら」は底本では「やむら」]ひける。扨又山口六郎右衞門も此度訴人の罪に依て是亦
永の
暇となりて
浪人の身となり
姿を
虚無僧に
替て所々を
徘徊せしがフト心付き原田は播州へ
行しとの事なり今我
斯樣に浪々の身となり艱難するも
元は兵助が事より起れりと自身の惡事には氣も付かず
只管兵助を
怨みいざや播州へ赴き兵助に
巡逢此無念を
晴さんと夫より播州
指てぞ
急ぎける所々方々と尋ぬれど
行衞は更に
知ざりしが或日
途中にて兵助に
出會しも六郎右衞門は
天蓋を
冠りし故兵助は夫とも
知ず
行過んとせしに一陣の
風吹來り天蓋を
吹落しければ思はず兩人は
顏見合ける此時兵助聲をかけ汝は山口六郎右衞門ならずや
我斯零落せしも皆汝が
仕業ぞと
傍にある
竿竹を
把て突て掛る六郎右衞門も
心得たりと身を
飄し汝此地に來りしと
聞渺々尋ねし
甲斐有て
祝着なり無念を
晴す時
到れり
覺悟せよと
云さま替の
筒脇差にて切かゝり互ひに
劣らず
切結びしが六郎右衞門が
苛つて
打込脇差にて
竿竹を手元五尺
許り
斜かけに
切落せり兵助は心得たりと
飛込其斜かけに
切れし棹竹にて六郎右衞門が
脇腹目掛て
突込だり六郎右衞門は
堪得ず其處に
倒とぞ
倒れたり兵助
立寄[#ルビの「たちより」は底本では「たりより」]六郎右衞門が
持し脇差にて
最期刀をさし無念は
晴したれど今は此地に住居は
成じと
直樣此處を
立去り是よりは名を
嘉傳次と
改め大坂へ出夫より九州へ赴き所々を
徘徊し
廻り/\て
和歌山の平野村と云へる所に
到りける此平野村に
當山派の
修驗感應院といふ
山伏ありしが此人甚だ
世話好にて嘉傳次を世話しければ嘉傳次は此感應院の食客とぞ成り感應院或時嘉傳次に
向ひ申けるは和歌山の城下に
片町といふあり其處に夫婦に娘一人あり親子
三人暮しの醫師なりしが近頃兩親共に
熱病にて死去し娘
計りぞ
殘れり
貴公其所へ養子に行て
手習の
指南でもせば
宜からんといふ嘉傳次是を
聞成程何時迄當院の
厄介に
成ても居られず何分にも宜しくと頼みければ感應院も承知なして
早速彼片町の醫師方へ
往右の
咄をなし
若御承知なら御世話せんといふに此時娘も
兩親に
離れ一人の事なれば早速承知し萬事頼むとの事故
相談頓に
取極りて感應院は
日柄を
撰み首尾よく
祝言をぞ
取結ばせける夫より夫婦
間も
睦しく暮しけるが
幾程もなく妻は
懷妊なし嘉傳次は
外に
家業もなき事なれば
手跡の指南なし
傍ら
膏藥など
煉て
賣ける月日早くも
押移り
十月滿て頃は寶永二年
戌[#「寶永二年戌」はママ]三月十五日の
夜子の
刻に
安産し玉の如き男子
出生しける嘉傳次夫婦が
悦び大方ならず
程なく
七夜にも成りければ名をば
玉之助と
號け
掌中の玉と
慈しみ
養てける
然に妻は産後の
肥立惡く
荏苒と
煩ひしが秋の末に至りては追々
疲勞し
終に
泉下の客とはなりけり嘉傳次の
悲歎は更なり
幼きものを殘し
置力に思ふ妻に別れし事なれば
餘所の
見目も
可哀しく哀れと云ふも餘りあり斯くて
有べき事ならねばそれ
相應に
野邊の送りを
營み
七日々々の
追善供養も心の及ぶだけは
勤めしが何分男の手一ツで
幼き者の
養育に
當惑し
晝は漸く
近所隣に
貰ひ
乳などし
夜は
摺粉を與へ
孤子なればとて
只管不便に思ひ
養ひけり扨て玉之助も年月の
立に從ひ
成長しければ
最早牛馬にも
踏じと嘉傳次も少しく
安堵し
益々成長の末を
祈りし親の心ぞ
切なけれ其夏の事とか嘉傳次は
傷寒を
煩ひ心の
限り藥用はすれども更に
其驗なく次第々々に病氣の
重るのみなれば或日嘉傳次は感應院を
病床に
招き重き
枕を
上て
偖申けるは
抑々私しが當國に
杖を止めしより尊院の
御厚情に
預りし其恩を
謝し奉つらずして此度の病氣
迚も
全快は
覺束なし何卒此上とも我なき
跡の玉之助が事
偏に頼み
參らすると
泪ながらに
述にける感應院は
逐一に承知し玉之助の事は必ず氣に
懸られな
萬一の事あらば拙者が方へ
引取て
世話し
遣すべし左樣の事は
案じず
少も早く全快せられよ夫れには藥用こそ第一なれなど
勸ければ嘉傳次は感應院を
伏拜み世にも
嬉げに見えにけるが
其夜嘉傳次は
獨の玉之助を跡に殘し
後れ
先立習ひとは云ひながら
夕の
露と
消行しは哀れ
墓なかりける次第なり感應院夫と聞き早速來り嘉傳次の
死骸をば
例の如く
菩提寺へ
葬り
僅かなる
家財調度は
賣代なし夫婦が追善の
料として菩提寺へ
納め
何呉となく
取賄ひ
最信實に世話しけり
然ば村の人々も嘉傳次が
死を哀み感應院の
篤き
情を
感じけるとかや
光陰は矢よりも早く流るゝ水に
宛似たり正徳元年
辛卯年と
成れり玉之助も今年七歳になり嘉傳次が病死の後は感應院方へ
引取れ弟子となり名をば
寶澤と改めける感應院は元より妻も子もなく
獨身の事なる故に寶澤を
實子の如く
慈みて
育けるが此寶澤は
生ながらにして
才智人に
勝れ
發明の性質なれば
讀經は
云に
及ず其他何くれと
教るに一を示して十を
覺るの
敏才あれば
師匠の感應院も
末頼母しく思ひ
別て大事に教へ
養ひけるされば寶澤は十一歳の頃は他人の十六七歳程の
智慧有て手習は
勿論素讀にも達し何をさせても役に立ける此感應院は兼てよりお
三婆とは
懇意にしけるが或時寶澤を
呼て申けるは
其方の
行衣其外とも
垢付し物を
持お三婆の方へ參り
洗濯を頼み參るべしと云付られ元來寶澤は
人懷のよき生れなれば諸人
皆可愛がる内にもお三婆は
取分寶澤を
孤子也とて
愛しみ
味き食物
等の有ば常に殘し置て
遣はしなどしける此日師匠の用事にて來りける
折から冬の事にて婆は
圍爐裡に
煖りゐけるが寶澤の來るを見て有あふ菓子などを與へて
此寒いに
御苦勞なり
此爐の火の
温ければ
暫く
煖まりて
行給へと
云に寶澤は喜びさらば
少時間あたりて行んと
頓て
圍爐裡端へ寄て
四方山の
噺せし
序で婆のいふやうは
今年幾歳なるやと問ふに寶澤は
肌を
寛ろげ
掛し
守り袋取出してお三婆に示せば是を見るに寶永二年
[#「寶永二年」はママ]三月十五日の夜
子の
刻出生と
印し
有ければ
指折算へ見るに當年
恰十一歳なり
忘れもせぬ三月十五日の夜なるがお三婆は
頻に
落涙しテモ御身は
仕合物なりとて寶澤が
顏を打守りしみ/\
悲歎の有樣なれば寶澤は婆に向ひ私し程世に不仕合の者はなきに
夫を仕合とは何事ぞや
抑も
當歳にて
産の母に
死別れ
七歳の年には父にさへ
死れ師匠の
惠に
養育せられ漸く成長はしたるなり
斯墓なき身を仕合とは又何故にお前は其樣に
歎き給ふぞと
尋けるお三婆は
落る涙を
押拭ひ成程お身の云ふ通り早く兩親に
別れ
師匠樣の
養育にて人と
成ば不仕合の樣なれ共併しさう
達者で成長せしは何よりの仕合なり
譯と
云ば此婆が娘の
産し御子樣當年まで
御存命ならば
恰どお身と同じ
齡にて寶永三
戌年[#「寶永三戌年」はママ]然も三月十五日子の刻の御出生なりしと
語り又も
泪に暮る
體は
合點のゆかぬ
惇言と思へば扨はお前のお娘の
産し
孫ありて幼年に
果られしや

は又如何なる人の子にて
有しぞと
問に婆は
彌々涙にくれ
乍らも語り出る
樣私に
澤の
井といふ娘あり御城下の加納將監樣といふへ奉公に參らせしが其頃
將監樣に徳太郎樣と申す
太守樣の若君が
御預りにて
渡らせ給へり其若君が
早晩澤の井に御手を付け給ひ
御胤を
宿したれど人に知らせず婆が
許へ
呼取しも太守樣の若君樣が
御胤なれば
竊かに御男子が御出生あれと
朝夕神佛へ
祈る
甲斐にや安産せしは前にも云へる如く御身と年月
刻限まで同じ寶永二年の
[#「寶永二年の」はママ]三月十五日
夜の
子刻なりき
取揚見ば玉の如き男子なれば娘やばゝが
悦びは天へも
上る心地なりしが悦ぶ甲斐もあら
情なや
御誕生の若君は其夜の
明方無慘や
敢なく
御果成れしにぞ澤の井は是を
聞と
齊しく産後の血上り是も
續きて
翌朝其若君の御跡
慕ひ終に
空しく
相果たり
獨り殘りしばゝが
悲み何に
譬へん樣もなく扨も其後徳太郎樣には
御運目出度ましまし今の
公方樣とは
成せ給ひたり
然ば娘の
持奉りて若君の今迄御無事に
在まさば夫こそ天下樣の
落胤成ば此ばゝも
綾錦を身に
纒ひ
何樣なる出世もなる
筈を娘に別れ孫を失ひ
寄邊渚の
捨小舟のかゝる島さへ
無身ぞと
叫と
計りに
泣沈めり寶澤は
默然と此長物語を
聞畢り
實に女は
氏なくて玉の
輿と
運が
有ば
思の外の事もあるものと心の内に思ふ色を
面には
顯さず夫は氣の毒にも
惜き事なり
併し夫には
證據でも有ての事か
覺束なし孫君の將軍の
落胤でも
輙く出世は出來まじ
過去し事は
諦め玉へと
賺し
宥ればばゝは此
言葉を
聞宜くも申されたり
實に
幼くして
兩親に
離るゝ者は
格別に發明なりとか婆も今は浮世に
望みの
綱も
切たれば只其日々々を送り暮せど
計ずも
孫君と同年と
聞思はず
愚痴を
翻したり
偖も
干支のよく
揃ひ生れとて今まで人に
示ざりしが
證據といふ品見すべしと婆は
傍への
古葛籠を
明け
彼二品を取出せば寶澤は手に
取上先お
短刀を
熟々見るに其
結構なる
拵へは
紛ふ方なき高貴の御品次に御
墨付おし
披き
拜見するに
如樣徳太郎君の
御直筆とは見えける
諺に云へる事あり
蛇は一寸にして人を
噛の氣あり
虎は生れながらにして
牛を
喰ふの勢ひ
有とか寶澤は心中に
偖々此
婆めが
善貨物を持て居ることよ此二品を手に入て我こそ天下の
落胤と
名乘て出なば分地でも
御三
家位萬一極運に
適ふ時はと
漸と當年十一の
兒が
爰に
惡念を
起しけるは
怖ろしとも又
類ひなし寶澤は此事を心中に深く
祕し其時は
然氣なく感應院へぞ歸りける
偖翌年は寶澤十二歳なり。其夏の事なりし
師匠感應院の
供して和歌山の城下なる
藥種屋市右衞門方へ參りけるに感應院は
奧にて祈祷の内寶澤は
店に來り
番頭若者も
皆心安ければ
種々の
咄などして居たり
然るに此日は藥種屋にて土藏の
蟲干なりければ寶澤も
藏の
二階へ上りて見物せしが
遂に見も
慣ざる品を
數々並べたる
傍には半兵衞と云ふ番頭が番をして居たり寶澤
側へ
寄て色々藥種の名を
聞ば半兵衞も
懇篤に教へける中に
遙か
離して一段高き所に
壺三ツ
并べたり寶澤
指さし彼壺は何といふ藥種の入ありやと
尋ければ半兵衞のいふ
樣彼こそ
斑猫と
砒霜石と云ふ物なるが
大毒藥なれば心して斯は
遠くに離したりと
聞て
膽太き寶澤は
態と顏を
皺めテも左樣の毒藥にて候かと恐れし色をぞ
示したり
折節下より午飯の
案内に半兵衞は
暫し頼みまする
緩々見物せられよと寶澤を
殘し己は
飯喰にぞ下りけり跡には寶澤
只一人
熟々思ひ
廻らせば
今此の二品を
盜み
置かば用ゆる時節はこれ
斯と心の中に
點頭つゝ
頓て
懷中紙を口に
啣へ毒藥の
壺取卸し彼中なる二品を一
塊づつ紙に
包て
盜取跡は
故の如くにして何知らぬ體にて半兵衞が歸るを
待居たり半兵衞は
頓て歸り來り
偖々御太儀なりしお小僧にも
臺所へ行て食事仕玉へと云ひければ寶澤は
嬉し
氣に
下行食事も
畢ける頃感應院も
祈祷を仕舞ひければ寶澤も
供して歸りぬ
彼盜取し毒藥は
竊に臺所の
縁の下の
土中へ深く
埋め折を
待て用ひんと
工む心ぞ
怖しけれ
頃は
享保三
丙申年
霜月十六日の事なりし此日は
宵より
大雪降て殊の外に
寒き日なりし
修驗者感應院には或人より
酒二升を
貰ひしに感應院は
元より酒を
少しも用ひねば此酒は
近所の
懇意の者に
分與へける
寶澤師匠に向ひ申やうは
何卒那酒を少し私しへ下さるべしと
乞けるに感應院
其方飮ならば
勝手に呑べしと云ふ
否々私しは
爭でか酒は用ひ申べきお
三婆は常々私しを
可愛がり
呉れ候へば少し
戴きて
渠に呑せたしといふ感應院これを聞て
能こそ心付たれ我は
婆の事に心付ざりし
隨分澤山に
遣はせと有ければ寶澤は大いに
悦び
早速酒を徳利へ
移し
肴をば竹の皮に
包み
降積もりたる
大雪を
踏分々々彼お三婆の
方へ
到りぬ今日は
怪からぬ大雪にて
戸口へも出られずさぞ寒からんと存じ
師匠樣より
貰ひし酒を
寒凌ぎにもと少しなれど
持來りしとて
件の
徳利と
竹皮包を
差出せばお三婆は
圍爐裡の
端に火を
焚居たりしが是を
聞て大きに悦び
能も/\此大雪を
厭ず
深切にも持來り給へりと
麁朶折くべて寶澤をも
爐端へ坐らせ元より
好の酒なれば
直に
燗をなし
茶碗に
汲て
舌[#ルビの「した」は底本では「ひた」]打鳴し呑ける程に
胸に一物ある寶澤は
酌など致し種々と
勸めける婆は
好物の酒なれば勸めに隨ひ
辭儀もせず呑ければ
漸次に
醉出て今は
正體無醉臥たり寶澤熟々
此體を見て心中に
點頭時分は
宜と獨り
微笑み
傍を見廻せば
壁に一筋の
細引を掛て有に是
屈竟と
取卸し前後も知らず
寢入しばゝが首に
纒ひ難なく
縊り殺し
豫て
認置し二品を
奪ひ
取首に纒ひし
細引を
外し元の如く
壁にかけ
圍爐裡の
邊りには
茶碗又は
肴を少々
取並べ
置死したるお三婆が
體を
圍爐裡の火の中へ
押込み如何にも酒に
醉潰れ
轉げ込で
燒死たる樣に
拵へたれば
知者更になし寶澤は
然あらぬ
體にて感應院へ
歸り師匠へもばゝが
厚く
禮を申せしと其場を
取繕ひ
何喰ぬ顏して有しに其日の
夕暮に何とやらん
怪しき
匂ひのするに
近所の人々
寄集りて何の
匂やらん雪の中にて場所も分らず
種々評議に及び
斯る時には
何時も第一番にお三ばゝが
出來り
世話をやくに
今日は如何せしや
出來ぬは不思議
成とて
囁きける
爰に
名主甚左衞門の
悴がフト心付お三ばゞの方へ
到り戸を
押明て見れば
此は
抑如何にお三ばゝは
圍爐裡の中へ
頭を
差込死し居たり
匂ひの此處より
發りしなれば大いに
驚ろき一同へ
告げ
親甚左衞門へも此事を
通じけるに名主も
駈來り
四邊近所の者も
追々に
集り改め見れば
何樣酒に
醉倒れ
轉込死したるに
相違なき
體なりと評議一決し
翌日此趣きを
郡奉行へ
屆ければ
早速檢使の役人も來り
改め見しに間違もなき
動靜成ば名主始め
村中は
口書を
取れ大酒に
醉伏燒死たるに相違なき由にて其場は
相濟たり是に依て村中
評議の上にてお三ばゝの
死骸は近所の者共
請取菩提寺へぞ
葬りける
隣家のお
清婆と云は常々お三ばゝと
懇意なりければ
横死を聞て
殊更に
悲歎の思ひをなし
昨日の大雪にて一度も
尋ざりしゆゑ此事を
知ざりしぞ
不便なれとて
歎きけるとぞ是より日々
墓へ
參詣して
香花を
手向ける扨も寶澤はお三ばゝを
縊殺し
彼二
品を
奪ひ
取旨々と
打點頭此後は
我成長して此品々を
證據とし
公方樣の
落胤と申上なば御三家同樣
夫程迄ならぬも
會津家ぐらゐの大名には成べし
併ながら將軍の
落胤なりと
欺く時は如何なる者をも
欺き
負すべけれども
爰に一ツの
難儀といふは
師匠の口から彼者は
幼年の内
斯樣々々にて某し
養育せし者なりと云るゝ時は
折角の
巧も急ち
破るゝに相違なし七歳より十二歳まで六ヶ年が
其間養育の恩は
須彌よりも高く
滄海よりも深しと雖ども
我大望には
替難し此上は是非に及ばず
不便ながらも師匠の感應院を
殺し
誰知ぬ樣になし
成人の後に
名乘出べしと心
太くも十二歳の時
始て
起す
大望の志ざしこそ
怖ろしけれ既に其歳も
暮て十二月十九日と
成ければ感應院には
今日は天氣も
宜れば
煤拂ひをせんものと
未明より
下男善助
相手とし寶澤にも
院内を
掃除させけるが
稍片付て暮方になり
早殘る方なく
掃除を
仕舞ければ善助は
食事の
支度をなし寶澤は神前の
油道具を掃除しけるが
下男の善助は
最早膳部も出來たれば寶澤に申ける
御膳も出來候へばお師匠樣へ差上給へといへば寶澤は此時なりと
兼て
巧みし事なれば今われ
給仕しては後々の
障りに成んと思ひければ善助に
向ひ我は
油手なれば其方
給仕して上られよと
頼むに何心なき善助は承知して
今水一
荷を
汲て後に
御膳を差上べしといひ
表の方へ出行たり
跡に寶澤は手早く
此夏中縁の下へ
埋置し
二品の
毒藥を取出し平と
汁の中へ
附木にて
匕ひ
込何知ぬ
體にて元の處へ來り
油掃除して居たりけり善助は
爭で斯る事と知るべき水を
汲終り神ならぬ身の
是非もなや感應院の前へ
彼膳部を持出し給仕をぞなし居たり感應院が
食事仕果し頃を計り寶澤も
油掃除を
成果て
臺所へ入來り
下男倶々食事をぞなしぬ
胸に一物ある寶澤が
院主の方を
密かに
窺ふに何事もなし
扨不審とは心に思へど色にも
顯さず
已に其夜も五ツ時と思ふころ
毒藥の
効總身に廻り感應院は
俄に七
轉八
倒して
苦み出せば寶澤はさも
驚きたる體にて
泣ながら
先近所の者へ知せける
土地の者共
驚き
慌て
早速名主へ知せければ名主も
駈付醫者よ
藥と
騷しに全く
食滯ならんなど云
儘寶澤は心には
可笑けれど樣々
介抱なしゐしが
夥だしく
血を
吐て
遂に其夜の九ツ時に感應院は
淺ましき
最期をこそ
遂たりける名主を始め
種々詮議すれば
煤掃の
膳部より外に何にも
喰ずとの事なり
依て膳部を
調れども更に
怪しき事なければ
彌々食滯と決し感應院の
死骸は村中より
集り形の如く
野邊の
送りを取行ひける
扨此平野村には感應院より
餘に
修驗もなきことゆゑ村中に何事の出來るとも甚だ
差支へなりと名主甚左衞門は
[#「名主甚左衞門は」は底本では「名主善右衞門は」]感應院へ村中の者を
集め
扨相談に及ぶは
此度不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、27-16]も感應院の
横死せしが
子迚も無ればあと
目相續さすべき者なし
然とて
何時迄も當院を
無住にも
爲て置れず我思ふには年こそ
行ねど寶澤は七歳の時より感應院が
手元にて
修行せし者なり
殊には外の子供と
違ひ
發明なる
性質にて
法印の
眞似事は
最早差支なし我等始め村中が
世話してやらば
相續として
差支へなし
然すれば
先住感應院に於ても
嘸かし
草葉の
蔭より喜び申すべし此儀如何と
述ければ
名主どのゝ云るゝ事なり寶澤は七歳の時から感應院の
手元で
育ち殊には
利發で
愛敬者なり誰か
違背すべき
孰も其儀然るべしと
相談爰に決したり
斯て名主甚左衞門は寶澤を
招き申渡しける樣は
扨も
先達て師匠の
死去せしより當村に
山伏なし
且又感應院には子もなければ
相續すべき者なし依て今日村中を
呼寄相談に及びしは其方は
幼年なれども感應院の
手許にて
教導を受し事なれば可なりに
修驗の
眞似は出來べし我々始め村中より
世話をすれば師匠感應院の
後住にせんと村中相談一
決したり左樣に
心得べしと申渡せば
寶澤は
謹んで承はり答へけるは師匠感應院の
跡目相續致し候樣と
貴殿を始め村中の
厚き思し
召の程は
有難く幼年の
私しの身に取ては此上もなき
仕合に存じ奉つり
早速御受すべき處なれど
師匠が
存命中申聞せ候には
凡山伏と云者は日本國中の
靈山靈場を
廻り
難行苦行をなし或は
野に
伏し山に
伏し修行をする故に
山伏とは申なり
扨亦山伏の
宗派といツパ則ち三
派は
分れたり三派と云は
天台宗にて
聖護院宮を以て本寺となし
當三
派は
眞言宗にて
醍醐三
寶院の宮を本山とす
出羽國羽黒山派は
天台宗[#ルビの「てんだいしう」は底本では「ていだいしう」]にて
東叡山一
品親王を以て本山と仰ぎ奉る故に山伏とは
諸山修行の
修學の名にて
難行苦行をして野に伏し山に
宿し
戒行を
勵ゆゑに山伏といふ又
修驗といツパ
其修行終り修行
滿たる後の
本學とあれば難行苦行をなし
修行終て後の
本名なり
故に十
界輪宗の
嘲言に
徹すれば
厭ふべき
肉食なし
兩部不二の法水を
嘗れば
嫌ふべき
淫慾なしと立る
法なり三寶院は
聖護大僧正を
宗祖とし聖護院は
坊譽大僧正を
宗祖とするなり然ども
何も
開山と申は三派ともに
役の
小角が開き給ひしなり
扨亦山伏が
補任の
次第小阿闍梨 大々法印 金蘭院 律師 大越家 一山大先達 内議僧 院號 坊號笈籠 權大僧都
七道具左之
通篠掛 摺袴 磨紫金 兜巾 貝 貝詰 護摩刀評に曰此
護摩刀のことは
柴刀とも申よし
是は聖護院三寶院の
宮樣山入の
節諸國の
修驗先供の節
柴を
切拂て
護摩の
場所を
拵へる故に是を
柴刀とも云なり
斯の如く山伏には
六かしき事の御座候よし兼て
師匠より聞及び候に私事は未だ
若年にて師匠の
跡目相續の儀は
過分の儀なれば修驗の
法を一向に
辨へずして感應院
後住の儀は存じも
寄ず爰にされば
一の御願ひあり何卒
當年より五ヶ年の間諸國修行致し
諸寺諸山の
靈場を
踏難行苦行を致し
誠の修驗と相成て後當村へ
歸り其時にこそ
師匠感應院の院を
續度存ずるなり
哀れ此儀を
御許し下され度
夫迄の内は感應院へは
宜き代りを御
入置下され度凡五ヶ年も
過候はゞ私し事
屹度相戻りますれば何卒
相替らず
御世話下されたし尤とも此事は師匠
存命の内にも度々
相願しかども師匠は
私しを
慈しむの餘り
片時も
側を離すを
嫌ひて幼年なれば今四五年も
相待べしと
止め候故
本意なくは思へども師匠の仰せ
默止難く是迄は
打過候なり此度こそ
幸ひに日頃の
宿願を
果すべき時なり何卒
此儀をお
許し下されと幼年に
似合ず思ひ入たる
有樣に聞居る名主を
初め
村中の者は
只管感心するより外なく皆々口を
閉て控へたり此時
名主甚左衞門進出て申す樣只今願の
趣き
委細承知致したり扨々驚き入たる
心底幼年には勝りし
發明天晴の心立なり斯迄
思込し事をむざ/\
押止んも如何なれば願ひに任すべしさらば五ヶ年
過て歸り來る
迄は感應院へは
留守居を置べし
相違なく五ヶ年の
修行を
遂げ是非とも歸り來り
師匠の跡目を
繼給へとて名主を
初め村中も
倶々勸めて止ざりけり
偖も寶澤は願ひの如き身となり
旅の
用意[#ルビの「ようい」は底本では「ちうい」]もそこ/\に
營なみければ村中より
餞別として百文二百文分に
應じて
贈られしに
塵も
積りて山の
譬へ集りし金は都合八兩貳
歩とぞ成にける其外には
濱村ざしの
風呂敷或は
柳庫裏笈笠蜘の
巣絞の
襦袢など思々の
餞別に支度は十分なれば寶澤はさも有難げに
押戴き幼年よりの
好誼と此程の
淺からぬ餞別
重々有難き
仕合せと恩を
謝しいよ/\明日の
早天に
出立致す故御
暇乞に參り候なりと村中へ暇乞に
廻れり此時寶澤は
漸く十四歳の少年なり頃は
享保三
戌年二月二日成し
幼年より
住馴し土地を
離るゝは
悲けれど是も
修行なれば決して
御案じ下さるなとて
空々敷も
辭儀をなし一先感應院へ歸り
下男善助に向ひ
明朝早く出立すれば何卒
握飯を三ツ許り
拵へ呉よと頼み置き
床房へ入て
休ける其夜
丑滿の頃に
起出て彼の握り飯を
懷中なし兼て
奪取し二品を
所持し最早夜明に
程近し
緩々と行べしと下男善助に
[#「善助に」は底本では「善介に」]暇乞し感應院をぞ
立出たり
馴路とて
闇をも
厭はずたどり行に漸々と紀州
加田浦に
到る頃は夜はほの/″\と
明掛りたり寶澤は
一休せんと傍の石に
腰を
打掛暫く休みながら
向を見れば白き
犬一
疋臥居たり寶澤は
近付彼の
握飯を取出し
與へければ犬は尾を
振悦び
喰居るを
首筋を
掴んで
曳やつて
[#「曳やつて」はママ]投つけ起しも
立ず用意の
小刀を取出し
急所をグサと
刺通せば犬は敢なく
斃れたり寶澤は
謀計成りと犬の血を
己が手に
塗付て
笈笠へ手の跡を
幾許となく
捺り付又餞別に
貰ひし
襦袢風呂敷へも血を塗て
着たる
衣服の所々を
切裂これへも血を
夥多に
塗付誰が見ても
盜賊に切殺れたる
體に
拵へ扨犬の
死骸は
壓を付て海へ
沈め其身は用意の
伊勢參宮の
姿に改め彼二
品を
莚包として
背負ひ
柄杓を持て其場を
足早に立去しは
恐しくもまた
巧みなる
企てなり稍五ツ時頃に
獵師の傳九郎といふが
見付取散せし
笈摺并に
菅笠を見れば血に
塗れたる樣子は全たく
人殺しにて
骸は海へ
投込れしなるべしと
早速土地の名主へ
屆けゝれば
年寄等が來り
改めしに
死骸は見えねども人殺しに
相違なければ
等閑ならぬ大事なりと
此段奉行所へも
屆出しにぞ其事平野村へ聞えければ同村の者共
馳來れり此品々を見れば一々寶澤へ
餞別に
遣はしたる品に
相違なし依て平野村の者より右の次第を濱奉行に
訴へ私し共
見覺ある次第を
述村方感應院と申す
山伏が昨今
病死し其
弟子當十四歳なる者五ヶ年間
諸國修行の願にて昨日出立につき村中よりせん
別に
遣したる金子は八兩貳
歩あり此品々も
跡々より
贈し
物なり幼年にて
多分の金子を
所持し候を見付られ
斯の
仕合全く
賊の爲に
切害せられ候なるべしと申上ければ
濱奉行も是を
聞如何樣
盜賊の
所爲なるべし此品々は其方共へ
戻す
譯には參らず
欠所藏へ入置るゝなり何分にも
不便の至りなりとて其場は
相濟たり
偖も寶澤は加田浦にて
盜賊に殺され不便の者なりとて
師匠感應院の
石塔の
側に
形ばかりの
墓を立てられ村中
替々香花を
手向跡念頃に
弔らひけるとなん
寶澤は
盜賊に
殺害されし
體に
拵らへ事十分
調ひぬと身は
伊勢參宮の
姿に
窶一先九州へ下り
何所にても足を止め
幼顏を
失ひて後に
名乘出んものと心は早くも定めたり
先大坂へ
出夫より
便船を求めて九州へ
赴かんと大坂にて兩三日
逗留し所々を
見物し
藝州迄の
便船あるを
聞出て此を頼み乘しが
順風なれば日ならずして廣島の地に
着せしかば先廣島を一
見せんと
上陸をぞなしにける
抑々此廣島は大坂より
海上百里餘にて
當所嚴島大明神と申は
推古天皇の五年に
出現ましませし神なり
社領千石あり毎月六日十六日
祭禮なり其外三
女神の傳あり
七濱七夷等を
廻り夫より所々を
見物しける内一
疋の
鹿を
追駈しが鹿の
迯るに寶澤は
何地迄もと思あとを
慕しも
終に鹿は見失ひ
四方を
見廻らせば
遠近の山の
櫻今を
盛りと
咲亂れえも云れぬ
景色に寶澤は
茫然と暫し
木蔭に
休らひて
詠め居たり此時
遙の
向より年頃四十
許の男
身に
編綴といふを
纏ひ
歩行來りしが
怪しやと思ひけん寶澤に向ひて名を
問ふ寶澤
答て我は徳川
無名丸と申す者なり
繼母の
讒言により斯は
獨旅を致す者なり又其
許は何人にやと
尋ね
返せば
彼者芝原へ手を
突へ申けるは徳川と
名乘せ給ふには
定めて
仔細ある御方なるべし
某事は信濃國
諏訪の者にて
遠州屋彌次六と
[#「遠州屋彌次六と」は底本では「遠州屋彌六次と」]申し
鵞湖散人また
南齋とも名乘候
下諏訪に
旅籠屋渡世仕つれり若も
信州邊へ御下りに成ば
見苦くとも御立寄あるべし御宿仕らんと云にぞ寶澤は
打點頭扨は左樣の人なるか
某も此度
據なき事にて九州へ下るなれ共此用向の
濟次第に是非とも
關東へ下向の心得なれば
其節は立寄申べしと
契約し其場は
別たり
扨寶澤は九州
路を
徊歴し
肥後國熊本の
城下に到りぬ
爰は名に
負五十四萬石なる
細川家の城下なれば他所とは
替り
繁昌の地なり寶澤は既に
路用を
遣ひ盡しはや一錢も
無なりいと
空腹に成しに
折節餠屋の
店先なりしが
彳みて手の内を乞と
暫縁の
下に
休ひぬ
餠屋の店には
亭主と思しき男の居たりしかば寶澤其男に
向申けるは私しは
腹痛致し甚だ
難澁致せば
藥を
飮たし御
面倒樣ながら
素湯一ツ下されと
乞けるにぞ其男は
家内に云付心よく
茶碗へ湯を
汲て與へたり寶澤は
押戴き
懷中より何やらん取出して
飮眞似せり此時以前の
男寶澤に向ひ尋けるは其方は年も
行ぬに
伊勢參宮と見受たり
奇特の事なり
何の國の
生なるやと問ふ
思慮深き寶澤は紀州と名乘ば
後々の
障なるべしと早くも心付
態と
僞りて私しは信州の
生れにて候と云
亭主此を聞て
眉を
顰め信州と此熊本とは
道程四五百里も
隔りぬらんに
伊勢參宮より何ゆゑ
當國迄は參りしやと
不審を
打れ
敏速の寶澤は
空泣して
扨も私しの
親父は
養子にて母は私しが二ツの年
病死し夫より
祖母の
養育に
成長しが十一歳の年に
親父[#ルビの「ちち」は底本では「ぢぢ」]は
故郷の熊本へ行とて
祖母に私しを
預け置て
立出しが其後一向に歸り來らず然に昨年
祖母も
病死し殘るは私し一人と成り
切ては今一度
對面し度と存ず夫故に伊勢參宮より
故郷を
跡にして
遙々と父の故郷は
熊本と聞
海山越て此處迄は參り候へ共
何程尋ても未だ父の
在所が
知申さず
何成過去の
惡縁にて斯は兩親に
縁薄く
孤子とは成候かと
潸然々々と
泣沈めば
餠屋の亭主も
貰ひ
泣し
偖々幼少にて氣の毒な
不仕合者かなと
頻に
不便彌増偖云やう其方の父は熊本と
計りでは當所も
廣き
城下なれば分るまじ父の名は何と申し又
商賣は
何渡世なるやと尋ねられ寶澤は
泣々父は源兵衞と申し
餠屋商賣なりと口より
出任に
答ければ亭主は是を
聞き
實事と思ひ然らば我等と
同職なれば
委く尋る程ならば
譬へ廣き御
城下でも知ぬ事は有まじ
今夜は
此方に
泊り明日
未明より餠屋
仲間を一々尋ね見るべし我も
仲間帳面を
調べ
遣んとて臺所へ上て
休息させける
扨其日も
暮に及び
夕飯など與へられ夜に入て亭主は
仲間帳面を取出し源兵衞といふ餠屋や有と
繰返し改めしに
茗荷屋源兵衞と云があり是は近頃
遠國より歸し人と
聞及ぶ
定めて
此成んと寶澤にも是由を云聞せ
明朝は其家に至り尋ぬべしと云れたり
翌朝夫婦共に彼是と
世話し
件の
茗荷屋源兵衞の町所を
委く
書認めて渡されしにぞ寶澤は
態と
嬉げに書付を
持茗荷屋へと
出行たり其
夕暮寶澤には歸り來りいと
白々しく
今朝茗荷屋源兵衞樣方へ參り尋ねたれど私の
親父にては是なきゆゑ夫より又々
所々尋ねたれ共相知申さずと
悄々として述ければ餠屋夫婦も
氣の
毒に思ひ其夜も
泊て
遣し又
翌朝も尋に出したれ共
元來知る
筈はなし其夜寶澤は亭主に
向申けるは
扨々是迄
淺からぬお
情にて御
城下は
荒まし尋ねたれども何分父の
居所は
相知申さず
何時迄も
仇に月日を送らんも
勿體なし明日よりは
餠を
背負てお屋敷や又は
町中を賣ながら父を尋ね度
存ずるなり此上のお
情に此儀を
御許し
下されなば有難しと
餘儀なげに頼むに夫は
宜思付なり明日より
左樣いたし
心任せに父の
在所を尋ぬべしとて翌日より餠を
背負て出せしに元より
發明の
生なれば
屋敷方へ到りても
人氣を計り口に
合やうに
如才なく
商ふゆゑに何時も一ツも
殘さず
皆賣て
夕刻には歸り來り夫から又
勝手を
手傳などするにぞ夫婦は大に
悦び
餠類は毎日々々
賣切て歸れば今は
店にて賣より寶澤が
外にて
商ふ方が多き程になり夫婦は
宜者を
得つと名も吉之助と呼び
實子の如く
寵愛しけり或夜夫婦は
寢物語に吉之助は年に
似氣なき
利口者にて何一ツ
不足なき生れ付
器量といひ人品迄よくも
揃し者なり我々に子
無れば年頃
神佛に
祈りし
誠心を神佛の
感應まし/\天よりして
養子にせよと授け給ひし者成べし此家を
繼せん者
末頼母しと
語合を吉之助
潜に聞て心の内に
冷笑へど時節を
待には
屈強の
腰掛なりと心中に
點頭これよりは
別して萬事に氣をつけ何事も
失費なき樣にして
聊かでも利分をつけ
晝夜となく
駈廻り
働く程に夫婦は又なき者と
慈しみける扨も
此餠屋と云は
國主細川家の御買物方の御
用達にて御城下に
隱もなき
加納屋利兵衞とて
巨萬の身代なる大家に數年來
實體に奉公を
勤め
近年此餠屋の出店を
出て
貰ひ夫婦とも
稼暮す者なりフト吉之助の來てより
家業も
忙がしく大いに
身代を仕出たり
光陰矢の如く
享保も七年とは成ぬ吉之助も
當年は十八歳と成けり夫婦
相談して當年の内には吉之助へも
云聞せ
良辰を撰みて
元服させ表向
養子の
披露もせんとて色々其
用意などしける處に或時
本店の加納屋より
急使來り同道にて參るべしとの事故
餠屋の
亭主は大いに驚き何事の出來せしやと
取物も取敢ず
急ぎ本店へ
赴きけるに利兵衞は餠屋を
奧の一間へ呼入れ
時候の
挨拶終り扨云やう今日其方を
招しは別儀にも非ず此兩三年はお
屋敷の御用も殊の外
鬧敷相成ど店の者
無人にて何時も御用の間を
缺甚困り入が承まはれば其方に
召仕ふ吉之助とやらんは殊の外
發明者の由なり
拙者方へ
召使たしとの事なるが何共
迷惑に思ども主人の
頼なれば
否とも云れず
據なく承知なし早々我家へ歸り
女房にも此事を
相談しければ妻も致し方なく
頓て吉之助を
呼び今日
本店よりの使は斯々にて
本店無人に付
暫くの内其方を
借たしとの事なり未だ其方に
話は致さねども
當年の内には
元服させ養子にせんと思しも本店へ
引取れては我が
所存も
空しく
殘念なれども外々ならば如何樣にも
斷わり申すべきが本店の事なれば
是非に及ばず明日よりは
彼處へ參り一
入出精し奉公致し
呉べしと申渡しければ吉之助は心中に
悦び是ぞ
運の
向處なり
我大家に入込まば一仕事が成べしと思ふ心を色にも
見せず
態と
悄々として是迄の
厚き
御高恩を報じもせずして
他家に奉公致す事は
誠に
迷惑なれども御本店の事なれば
致し方なしと誠に
餘儀なき
體に
挨拶をぞなしにける
然程に吉之助は
其翌日彼加納屋利兵衞方へ
引移り元服して名をば吉兵衞と改め
出精して奉公しける程に
利發者なれば物の用に立事
古參の者に
増りければ程なく
番頭三人の中にて
吉兵衞には一番
上席となり毎日々々
細川家の
御館へ參り御用を
達しける萬事
利發の
取廻しゆゑ
重役衆には其樣に
計ひ下役人へは
賄賂を
贈り
萬事拔目なきゆゑ上下
擧つて吉兵衞を
贔屓し御用も追々多くなり今は
利兵衞方にても吉兵衞なくては
叶はぬ樣に相成けり
然共吉兵衞は少も
高ぶらず
傍輩中も
睦しく
古參の者へは
別して
親みける故
内外共に
評判よく利兵衞が
喜び大方ならず
無二者と思ひけり
然に吉兵衞は
熟々思案するに
最早紀州を
立退き
夥多の年を
過したれば
我幼顏も變り
果見知る者無るべし
然ば兩三年の内には是非々々
大望の
企てに
取掛るべし夫に付ては
金子なくては事
成就し
難し率や是よりは金子の
調達に掛らん物をと
筆先十露盤玉にて
掠め始めしが主人は
巨萬の身代なれば少しの金には
氣も付ず
僅に二年の内に
金子六十兩餘を
掠め
取り今は熊本に
長居は
益なし近々に此土地を
立去んと心に思ひ
定めける頃しも
享保十
巳年十二月二十六日の事なりし加納屋方にて金四十七兩二分
細川家の役所より
[#「役所より」は底本では「役所なり」]請取べき事あり右の
書付を
認め吉兵衞に其方此書付に
裏印形を申請
御金會所にて金子受取參るべしと
云遣けるにぞ吉兵衞は
彼書付を
懷中なし
爰に
彌々決心し兼て
勝手を知し事なれば
御勘定の
部屋に到り右の
書付を差出ければ役人は是を
改め見るに金四十七兩二歩とあり
頓て
調印をなし
渡されたり
此部屋に勘定役四五人
有て夫々に
拂方を改ため
相違なければ役所にて金子
何程錢何貫文書付に引合せて
渡さるべしと
裏印なし其書を
金方の役所へ
廻し金方にて
拂を渡す事なり
今吉兵衞が差出たる
書付も役人が
改め
添書に右の通り
認め
調印して
渡ける此勘定部屋と
金方役所とは其間三町を
隔ちたり吉兵衞は御勘定部屋より金方の役所へ
行道[#ルビの「ゆくみち」は底本では「みちゆく」]にて
件の書付を出し見るに
〆高金四十七兩二分と有しかば
竊に
腰より
矢立を取出し人なきを
窺ひ四十の四の
字の上へ
一畫を
引て百十七兩二歩と
直し金方の役所へ到り差出し加納屋利兵衞
御拂を
下さるべしといふ
役人請取改むるに
勘定方の
添書印形も相違なければ
頓て百十七兩二分の金子を吉兵衞に
渡されたり吉兵衞は
悠々と金子を改め一
禮述て
懷中し
歸宅の上主人利兵衞へは四十七兩二歩を
渡し
殘六十兩は
己が
物とし是迄に
掠取し金と合せ見るに今は七百兩餘に成ければ
最早長居は成難しと或日
役所にて
態と
聊かの
不調法を仕出し主人へ申譯
立難しとて
書置を
認め
途中より加納屋へ
屆け其身は
直に熊本を
立退先西濱
指て急ぎ
行り此西濱と云は
湊にて九州第一の
大湊なり四國中國
上方筋への大船は
何も此西濱より出すとなり
然に加納屋利兵衞方にて
此度天神丸と名付し大船を
造り
極月廿八日は吉日なりとて西濱にて
新艘卸しをなし大坂へ
廻して
一商賣せん
積りなりし此事は
兼て吉兵衞も
承知の事なれば心に思ふ樣是より
西濱に到り
船頭を
欺き天神丸の
上乘して
[#「上乘して」は底本では「上飛して」]上方筋へ
赴かんと
胸に
巧み足を早めて西濱に
到ければ天神丸ははや
乘出さん時なり吉兵衞は
大音上オヽイ/\と船を
招けば
船頭杢右衞門が聞つけ何事ならんと
端舟を
卸して
漕寄見れば當時
本店にて日の出の
番頭吉兵衞なれば
杢右衞門は
慇懃に是は/\番頭樣には
何御用にて御
出成れしやと尋ければ吉兵衞
答て
御前方も兼て知らるゝ如く此吉兵衞は是迄
精心を
盡して奉公せし故
御主人方にても此兩三年は餘程の
利分を得られたれば
此度旦那の
仰に
別家でも出し
遣すべきか幸ひ天神丸の
新艘卸なれば其方
上乘して大坂へなり又は江戸へなり
勝手な所で一
旗揚べしとて手元金として七百兩を
下されたり若も
商賣の
都合で不足なれば何程でも
助力して
遣さんと御主人の
厚きお心入
辭退も成ず夫故
斯火急の出立にて參りしなり今日より天神丸の
上乘方と成り一まづ
上方へ參る
積なりと申ければ
船頭杢右衞門は是を
聞て大きに
悦び是迄何事に
依ず御
運強き吉兵衞樣の
商賣初といひ天神丸の
新艘卸し
傍々以て
御商賣は
御利運に疑ひなしお
目出度/\と
祝ひつゝ吉兵衞を
端舟に
乘て天神丸へぞ
乘移しけり
扨杢右衞門は十八人の
水主を
呼出し一人一人に吉兵衞に
引合せ此度は
番頭吉兵衞樣御商賣のお
手初め
新艘の天神丸の
上乘成るゝとの事なり
萬事御利發のお方なり正月三日の
[#「正月三日の」は底本では「正月三月の」]お
祝は
番頭樣の
奢り成ぞ皆々悦び候へと語りければ
水主等は皆々手を
突て
挨拶をぞなしたり其夜吉兵衞には
酒肴を
取寄せ
船頭はじめ
水主十八人を
[#「十八人を」は底本では「十八八を」]饗應し
酒宴を
催しける明れば
極月廿九日此日は早天より
晴渡り其上
追手の風なれば船頭杢右衞門は
水主共に
出帆の
用意をさせ
然ばとて西濱の港より
友綱を
解順風に
眞帆十分に
引上走らせけるにぞ矢を
射る如く早くも中國四國の
内海を
打過ぎ晝夜の
差別なく
走て
晦日の夜の
亥の
刻頃とは成れり
船頭杢右衞門は
漸く
日和を見て
水主等に此處は
何所の
沖なるやと尋けるに水主等は
確とは分らねど
多分は
兵庫の
沖なるべしと答けるにぞ
杢右衞門は吉兵衞に
向番頭樣
貴所の御運の
能ゆゑに
僅た二日二夜で
數百
里の
海路を走り早
攝州兵庫の
港に參たり
明朝は元日の事なれば爰にて三ヶ日の
御規式を取行ひ四日には兵庫の
港なり共大阪の
川尻なり共思し召に
任せ
着船すべしと云ふ吉兵衞
熟々考ふるに今大阪へ
上りても兵庫へ
着ても
船頭が熊本へ歸り
斯樣々々と
咄さば加納屋利兵衞方より
追手を掛んも
計難し然ば一先
遠く
江戸表へ
赴きて事を
計ふに如ずと思案し
杢右衞門に向申けるは我
種々と
思案せしが當時大阪よりは
江戸表の
方繁昌にて諸事
便利なれば一先江戸を
廻りて
商賣を仕たく思ふなり
太儀ながら天氣を
見定め遠く
江戸廻りして
貰たしといふ杢右衞門は
頭をかき是迄の
海上の
深淺は
能存じたれば
水差も入らざりしが是から江戸への
海上は
當所にて水差を
頼までは叶ふまじといへば吉兵衞は
夫は兎も角も
船頭任なれば
宜樣に
計ひ給へとて其議に決し
此所にて水差を
頼み江戸
廻りとぞ定めける
享保十
巳年も
暮明れば
同き十一
午年の
[#「十一午年の」は底本では「十一酉年の」]元日
天神丸には吉兵衞
始め船頭
杢右衞門水主十八人
水差一人
都合二十一人にて元日の
規式を取行ひ三が日の
間は
酒宴に日を暮し
己が樣々の
藝盡して
興をぞ
催しけるが三日も
暮はや四日と
成にける此日は
早天より
長閑にて四方
晴渡り海上
青疊を敷たる如く
青めき
渡ければ吉兵衞も
船頭も
船表へ出て四方を
詠め
波靜なる有樣を見て吉兵衞は杢右衞門に向ひ
兵庫の
沖を今日
出帆せんは如何といふ杢右衞門は
最早三が日の
規式も
相濟殊に
長閑なる
空なれば
御道理なりとて
水差を呼て只今
番頭樣より今日は
殊によき
日和ゆゑ
出帆すべしとの事なり我等も
左樣に存ずれば
急ぎ
出帆の用意有べしといふ
水差是を聞て如何にも今日は
晴天にて
長閑にはあれど得て
斯樣なる日は
雨下しといふ事あり能々天氣を
見定て
出帆然るべしといふ吉兵衞
始め
[#「始め」は底本では「初め」]皆々今日のごとき
晴天によも
雨下しなどの
難は有べからずと思へば杢右衞門又々
水差に向ひ成程
足下の云るゝ處も一理なきにも有ねど
餘り
好天氣なればよも
難風など有まじく思ふなり
強て
出帆すべく存ずると云に
水差も然ばとて承知し兵庫の
沖をぞ出帆したり
追々風も少し
吹出し
眞帆を七分に上て
走せハヤ四國の
灘を廻り
凡船路にて四五十里も
走しと思ふ頃吉兵衞は
船の
舳へ出て四方を
詠め居たりしが
遙向に山一ツ見えけるにぞ吉兵衞は
水差に向ひ
彼高き山は
何國の山なりや
畫に
描し駿河の
富士山に
能も似たりと問ふ
水差答へて
那山こそ名高き四國の
新富士なりと答ふる
折から
此は
抑何に此山の
絶頂より
刷毛にて引し如き
黒雲の出しに水差は
仰天しすはや程なく
雨下しの來るぞや早く
用心して帆を
下よ
錨をといふ間も
有ばこそ一
陣の
風飄と
落し來るに常の
風とは
事變り
潮波を吹出て
空は
忽ち墨を
流せし如く
眞闇やみとなり
魔風ます/\
吹募り
瞬時間に
激浪は山の如く
打上打下し
新艘の天神丸も今や
覆へらん
形勢なり日頃
大膽の吉兵衞始め
船頭杢右衞門十八人の
水主水差都合二十一人の者共
肝を
消し
魂を
飛し更に
生たる心地もなく
互[#ルビの「たがひ」は底本では「たがし」]に
顏を見合せ思ひ/\に
神佛を
祈り
溜息を
吐ばかりなり風は益々
強く船を
搖上げ
搖下し
此方へ
漂ひ彼方へ
搖れ正月四日の
朝巳の
刻より翌五日の
申の
刻まで風は少しも
止ず
吹通しければ二十一人の者共は
食事もせす
二日二夜を風に
揉れて暮したり
漸く五日の
申の
下刻に及び少し風も
靜まり浪も
稍穩かに成ければ
僅かに
蘇生の心地して
悦びしが間もなく其夜の
初更に再び
震動雷電し
颶風頻りに
吹起り以前に
倍して
強ければ
船は
搖上げ
搖下され今にも
逆卷浪に引れ
那落に
沈まん計りなれば八
寒八
熱の
地獄の樣も
斯やとばかり
怖ろしなんども
愚かなり
看々山の如き
大浪は天神丸の
胴腹へ打付たれば
哀やさしも
堅固に
營らへし天神丸も
忽地巖石に打付られ
微塵に
成て
碎け失たり
氣早き吉兵衞は此時早くも
身構へして所持の品は身に付ゐたるが天神丸の巖石に
打付られし
機會に
遙の岩の上へ打上られ
暫は
正氣も有ざりける
稍時過て心付
拂と一
息吐夢の覺し如く
然にても船は如何せしやと
幽かに
照す
宵月の光りに
透し見ば廿人の者共は如何にせしや一人も
影だになし
無漸や
鯨魚の
餌食と成しか其か中にても
我獨辛も
命助かりしは
能々運に
叶ひし事かな
然ど二日二夜海上に
漂ひし事なれば
身心勞れ
流石の吉兵衞岩の上に
倒れ
伏歎息の外は無りしが
衣類は殘らず
潮に
濡惣身よりは
雫滴り未だ
初春の事なれば
餘寒は五體に
染渡り
針にて
刺れる如くなるを
堪て吉兵衞
漸々起上り大事を
抱へし身の爰にて
空しく
[#「空しく」は底本では「空して」]凍死んも
殘念なりと氣を
勵まし四方を
見廻せば
蔦葛下りて
有を見付是ぞ天の
與へなりと二
品の包みを
脊負纒ふ葛を
力草漸々と山へ
這上りて見ば此は
何に山上は
大雪にて一面の
銀世界なり
方角はます/\見分がたく
衣類には
氷柱下り
汐に
濡し上を寒風に
吹晒され
髮まで氷りて
針金の如くなれば
進退茲に極まりて兎にも角にも此處で
相果る事かと思ふ
計りなり時に吉兵衞
倩々思に
我江戸表へ名のり出て事
露顯に及時は三尺
高き木の
上に
命を捨る
覺悟なれども今
爰て
阿容々々凍死んは殘念なり
人家は無事かと
凍えし足を
曳ながら
遙か向ふの方に人家らしき
處の有を
見付たれば吉兵衞是に力を
得て
艱苦を
忍び其處を目當に
雪を
踏分々々たどり
行て見れば人家にはあらで
一簇の
樹茂りなれば
甚く望みを失ひはや
神佛にも
見放され此處にて一命の
果る事かと
只管歎き
悲みながら猶も向を
詠やれば
遙向ふに
燈火の光のちら/\と見えしに吉兵衞
漸やく
生たる
心地し是ぞ
紛ひなき人家ならんと又も
彼火の
光を
目當に
雪を
踏分々々たどり行て見ば殊の外なる大家なり吉兵衞は
衣類も
氷柱[#ルビの「つらゝ」は底本では「つゝら」]垂れ其上二日二夜海上に
漂ひ
食事もせざれば
身體疲れ
果聲も
震へ/\戸の
外より案内を
乞しに内よりは大音にて
何者なるや内へ
這入べしといふ吉兵衞大いに
悦び内へ入りて申やう私し儀は
肥後國熊本の者なるが今日の
大雪に
道踏迷ひ
難澁いたす者なり
何卒御
情にて一
宿一
飯の
御惠を願奉ると
叮嚀に述ければ
圍爐裡の
端に年頃卅六七とも見ゆる男の
半面に
青髭生骨柄は
然のみ
賤しからざるが火に
煖りて居たりしが夫は
定めし
難澁ならん
疾々此方へ
上り給へ併し
空腹とあれば
直に火に
煖は
宜からず先々
臺所へ行て
食事いたし其
後火の
邊へ
依玉へと
最慇懃に申けるに吉兵衞は
地獄で
佛に
逢たる心地なし世にも
情あるお
詞かなと悦び
臺所へ到りて
空腹の事ゆゑ急ぎ
食事せんものと見れば
何れも五升も入べき
飯櫃五ツ
竝べたり
飯も
焚立なりければ吉兵衞は大きに
不審し
此樣子では
大勢の暮しと見えたれども此程の大家に男は
留守にもせよ女の五人や三人は
居べきに夫と見えぬは
最不審如何なる者の
住家ならんと思ひながら
飢たる
儘に獨り
食事し終り再び
圍爐裡の
端へ來りて
彼男に
厚く禮を
述ければ先々
緩りと
安座して火に
煖り給へといふ吉兵衞は世にも
有難く思ひ火に
煖れば今まで氷たる
衣類の雪も
解て
髮よりは
雫滴り衣服は
絞るが如くなれば
彼男もこれを見て氣の
毒にや思ひけん
其衣類では
嘸かし
難儀なるべし
麁末なれども此方の
衣服を
貸申さん其衣類は
明朝まで
竿にでも掛て
乾玉へと
殘る方なき心切なる
言葉に吉兵衞はます/\
悦び衣類を
借て
着替濡し
着類は
竿に掛け再び
圍爐裡の
端へ來りて
煖れば二日二夜の
苦しみに
心身共に
勞れし上今十分に
食事を成して火に
煖まりし事なれば
自然と
眠氣を
催しける
然ど始めて宿り心も知れざる家なれば吉兵衞は氣を
張居れども我
知ず
頻りに
居眠りけるを彼男は
見兼たりけん客人には餘程
草臥しと見えたり
遠慮なく
勝手に休み給へ今に家内の者共が
大勢歸り來るが
態々起て
挨拶には及ばず明朝まで
緩りと
寢れよ
夜具は
押入に
澤山ありどれでも勝手に着玉へ
枕は
鴨居の上に
幾許もありいざ/\と進めながら
奧座敷は
差支へ有れば是へは
猥りに
這入給ふな此儀は
屹度斷わりたりと云ふに吉兵衞
委細承知し然らば御
言葉に
隨ひ
御免蒙るべしとて次の間へ
到り押入を
明て見るに
絹布木綿の
夜具夥多く
積上てあり
鴨居の上には枕の
數凡そ四十
許りも有んと思はれます/\
不審な
住家なりと吉兵衞は
怪みながらも
押入より夜具取出して次の間へこそ
臥たりける
扨も吉兵衞が
宿たる家の主人を
何者成と尋るに
水戸中納言殿の
御家老職に藤井
紋太夫と云ふあり彼柳澤が
謀叛に
組して既に
公邊の大事にも及べき處を
黄門光圀卿の
明察に
見露し玉ひお手討に
相成ける然るに紋太夫に一人の
悴あり名を
大膳と呼べり親紋太夫の氣を
受繼てや
生得不敵の
曲者成ば一家中に是を憎まぬ者なし紋太夫が惡事
露顯の
節に
扶持高も住宅をも
召上られ大膳は門前
拂となり
據ころなく水戸を立去り
美濃國[#ルビの「みのゝくに」は底本では「みのゝくみ」]各務郡谷汲の
郷長洞村の日蓮宗にて百八十三箇寺の本寺なる常樂院の
當住天忠上人と聞えしは藤井紋太夫が
弟にて大膳が爲には
實の
伯父坊なれば大膳は此長洞村へ尋ね來り
暫く此寺の
食客となり居たりしが元より不敵の者なれば
夜々往還へ出て旅人を
刧し
路用を
奪て己が酒色の
料にぞ
遣ひ
捨けり初の程は何者の
仕業[#ルビの「しわざ」は底本では「しわさ」]とも知る者
無りしが遂に誰云ふとなく
旅人を
剥の惡黨は此頃常樂院の食客大膳と云ふ者の仕業なりとをさ/\
評判高くなり
何と無く
影護くなり此寺にも
居惡く餘儀なく此處を
立退一先江戸へ出ん物と關東を心ざし
東海道をば下りけり
懷ろ
淋しければ道中にても旅人を
害し金銀を
奪ひ酒色に
酖り
急がぬ道も
日數經て
漸やく江戸へ近づき神奈川宿の
龜屋徳右衞門といふ
旅籠屋へ泊り
隣座敷を
窺へば女の
化粧する
動靜なり何心なく
覗き
込ば年の頃は十八九の娘の
容色も
勝て
美麗きが
服紗より一ツの
金包を取出し中より四五
兩分て紙に包み跡をば包て
床の下へ入し
嵩は百兩ほどなり
強慾の大膳は
此體を見るより
粟々と喜び
乍らも女の身として
斯る大金を所持し一人
旅行するは心得がたしと
先宿の下女を
招き
密に樣子を
尋ねければ
口惡善なき下女の
習慣那こそ近在の
大盡の
娘御なるが江戸のさる
大店へ
嫁入なされしが
聟樣を
嫌ひ鎌倉の
尼寺へ夜通の
積りにて行れるなり出入の
駕籠舁善六と
[#「駕籠舁善六と」は底本では「籠駕舁善六と」]いふが
強ての頼み今夜は
茲に泊られしなりと聞かぬ事まで
喋々と話すを大膳は
聞濟し夫は近頃
不了簡の女なりなど
云程なく
枕には
着たり已に其夜も
追々に
更わたり
丑滿頃となりければ大膳は
密かに
起出間の
襖を
忍明ぬき足に彼女を
窺へば
晝の
疲かすや/\と
休み
寢入居り夜具の上より
床も
徹れと氷の
刄情なくも只一
突女は
苦痛の聲も得立ず
敢なくも
息絶たれば
仕濟したりと
床の下より
件の
服紗包を取出し大膽にも己が座敷へ
立戻り
何氣なき
體にて明方近くまで一寢入し
俄に下女を
呼起し急用なれば八ツ半には出立の
積り
成しが大に
寢忘たり
直に出立すれば何も入ず
茶漬を出し
呉よと
逆立てられ下女は
慌て
膳拵すれば大膳は食事を仕舞ひ用意も
底々に龜屋をこそは出立せり
最前の如く江戸の方へは
行ず
引返して足に
任せて
又上の方へと赴きける主人の徳右衞門は表の戸を
明しに驚き
偵が
旅宿屋の主人だけ
宵に
斷りもなき客の
急に出立せしは
何にも
不審なりとて彼の座敷を
改めしに
變る事も
無れば
隔座敷を
窺ふに
[#「窺ふに」は底本では「窺がふに」]是も
靜なれど
昨日駕籠屋善六に頼まれし
若き女なればと
案じて座敷へ入り見れば
無慚や
朱に
染て死しゐたり扨こそ
彼侍が女を殺して
立退しと
俄かに上を下へと
騷動し
追人を
掛んもハヤ
時刻が
延たり併し當人を
取迯しては
假令訴へ出るとも此身の
科は
免かれ難し
殊には
一人旅は
泊ぬ
御大法なり女は善六の頼みなれば
云譯も
立べけれど
侍ひの方は此方の
落度は
遁れ難し
所詮此事は
蔽すに
如じと家内の者共に
殘ず
口留して
邊の血も
灑拭ひ死骸は幸ひ此頃
植し庭の梅の木を
引拔深く掘りて
密に其下へ
埋ける爰に
駕籠舁の善六と
云は神奈川宿にて
正直の名を
取し者なり昨日龜屋へ一宿を頼みし女中は今日は
通駕籠にて
鎌倉迄行べき約束ゆゑ善六は朝早く龜屋へ來り亭主に
斯と言入れ
約束の
駕が
迎ひに參りたりと
云せたり徳右衞門は
南無三と思ふ色を
隱し
何氣なき體にて彼女中の客人は
今朝餘程早く
立れたり貴樣の方へは
行ずやと
云善六
頭を
振左樣の
筈はなし
其譯は
昨日途中にて駕籠へ
乘時駕籠蒲團許りでは
薄しとて小袖を下に
布しが今日も
乘るゝ約束
成ば小袖は
其儘我等が
預り置て只今持て參りたり
然ば一應の
咄も
無て出立すべき筈は
無と
云ば徳右衞門
押返しいや決して
僞り
成ず
實に
昨夜女中よりの咄には
明日鎌倉の尼寺まで
通駕籠で參る約束はしたれ共
那駕籠屋は何とやらん
心元なし明朝迎ひに參らば程能
斷り
呉よと頼まれたり
若僞りと思はゞ
家探しなり共致さるべし何とて
詮なき僞り申すべきやと云ひけるに善六は此を
聞不審とは思へ共
兎にも
角にも
爭そふも
詮方なし
勿論昨日の
駕籠賃はまだ
受取ず今日一所に
貰ふ筈なりしが早立しとなれば
是非もなし
過分なれど此小袖は昨日の駕籠賃の
質に預り
置べしと善六は駕籠を
舁げて出行たり
跡は徳右衞門を
始め家内の者もホツト
溜息を
吐計なり
斯て善六は神奈川
臺へ行て
駕籠を
下し
棒組と
咄しけるは只今龜屋方の
挨拶に
昨夜の女客の今朝早く出立せしとは
不審なり殊に亭主の
顏色といひ何共
合點の
行ぬ事なりと
咄居る處へ江戸の方より十人
計の男の
羽織股引にて旅人とも見えず
然とて又近所の者には
非ずと見ゆるが
息を
切て來りつゝ居合はせし善六に向ひ
尋ぬる樣に昨日
年頃十八九の女の
黒縮緬に八丈の小袖を
襲着せしが
若や
此道筋を通りしを
見懸られざりしや
後の宿にて
慥に昨日の
晝頃に通りしと
聞り
若見當り玉はゞ
教玉はれといふに善六は
件の小袖を取出し
[#「取出し」は底本では「出取し」]其尋ぬる人は此小袖の主にや此は
斯々にて
今朝迎ひに參りしが龜屋の亭主に
傳言して先刻お立なされしとの事なり
此小袖は昨日の
賃錢に私が預りたり私へ
沙汰なしに立れしは
合點行ずと今も
咄てをる所なり
不審に思はれなば
精くは龜屋にて尋ね給へといふにぞ中にも
年倍の男が
進出尋ぬるは此人に
相違なし
扨も駕籠の
衆種々とお
世話忝けなしと一
禮述實は我々
仔細有て其女中を
尋る者なり何共
御太儀ながら今一
應其旅籠屋まで案内して
呉まじきやと
云にぞ夫れは易き事なりと善六は
先に
立件の人々を
伴なひて龜屋徳右衞門方へ到り人々を亭主に引合はせぬ徳右衞門は一大事と
尚も
然氣なく善六に答へし如く此者どもにも
咄たり
然ばとて十人の内より三人を鎌倉の
尼寺へ
遣はし殘り七人は
其儘龜屋に
宿りて鎌倉の
安否を
相待ける其日の夕暮に及び尼寺へ
行し人々は
立歸けるが女中にはまだ彼寺へは來らざる由なれば
皆々只驚く
計りなり
就ては龜屋徳右衞門に
不審が掛り
追々疑はしきこともあれば此事
終に代官所の
沙汰となり
吟味強くなりて龜屋徳右衞門の家内は
殘らず
呼出され跡へ役人來りて
家搜せしに庭の梅の木の
下の土の
新しければ
怪しとて
掘發すに果して女の
死骸の
埋め
有しとぞ龜屋徳右衞門は
其儘牢舍せられ度々の
吟味に始めて前の次第を
逐一に
白状には
及ぬ
然ば殺害せしと思ふ當人を
取逃し殊に御
法度の
一人旅を
泊し
落度の申譯立ちがたく罪は徳右衞門一人に
歸し長き
牢舍のうち
憐むべし
渠は
牢死をぞなしたり一
旦の
不覺悟にて終に一家の
滅亡を來せしは哀れなりける
災難なり
爰に大膳は神奈川の
旅店にて婦人を
切害し思ひ
懸ぬ大金を
奪取たれば江戸は
面倒なるべし
如ず此より上方に取て
返し中國より九州へ
渡んにはと
遂に四國に
立越しが伊豫國なる
藤が
原と云ふ山中に來り爰に
一個の
隱家を得て
赤川大膳と姓名を
變じ山賊を
業として暫く此山中に住居しが次第々々に
同氣相求とむる手下の
出來しかば今は三十一人の
山賊の
張本となり
浮雲の
富に其日を送りける然るに
一年上方に住し
折柄兄弟の
約を
結し
藤井左京と云者あり此頃藤が原へ尋ね來り暫く食客と
成て居たりしが時は享保十一
午年正月五日の
[#「正月五日の」は底本では「此月十五日の」]事なりし朝より
大雪の
降出しが藤井左京は大膳に向ひ
某し
去冬より
此山寨へ參り未だ
寸功もなく
空く
暮すも
殘念なり我も貴殿の門下となりし手始めに今日の雪を幸ひ
麓の往來へ
罷出一當あてんと
存ずるなり就ては御手下を我等に
暫時貸給へ
一手柄顯はし申さんと云ふ大膳
斯と聞て左京殿に我手を
貸はいと易けれど此大雪では
旅人も
尾羽を
束ね通行する者あるべからず
折角寒氣を
犯し行かれしとて思ふ如き鳥も
罹るまじ
先今日は
罷に致し玉へ手柄は何時でも
成る事と
押止めけれど思ひ
込たる左京は更に聞き入れず思立しが吉日なり是非とも參りたしと
強ての
懇望なれば
然程に思はれなば兎も角もと手下の
小賊を
貸與たれば左京は
欣然と支度を
調へ
麓を
指て出で行きし跡に大膳は一人つぶやき左京めが己れが
意地を立んとて此大雪に出で行きたれ
共何の
甲斐やあらん
骨折損の
草臥所得今に
空手で歸り
來んアラ
笑止の事やと
獨り
言留守してこそは居たりけり
却て
説吉兵衞は
宿りし
山家の樣子何かに付て
疑はしき事のみなれば
枕には就けど
寢もやらず
越方行末のことを案じながらも
先刻主人の言葉に奧の一間を見るなと
固く
制せしは如何なる
譯かと
頻りに其奧の間の見ま
欲くて
密と
起上り忍び足して
彼座敷の
襖を
押明見れば此はそも如何に金銀を
鏤ばめ
言語に
絶せし
結構の座敷にて
先唐紙は金銀の
箔張付にて中央には
雲間縁の二
疊臺を
[#「二疊臺を」は底本では「二壘臺を」]設け其上に
紺純子の布團を二ツ
重ね
傍らに同じ夜具が一ツ
唐紗羅紗の
掻卷一ツあり
疊の左右には
朱塗の
燭臺を立床の間には三
幅對の掛物
香爐を臺に
戴てあり不完全物ながら
結構づくめの品のみなり
内ぞ
床しき
違棚には小さ口の
花生へ山茶花を古風に

たり
袋棚の戸二三寸明し中より
脇差の
鐺の見ゆれば吉兵衞は
立寄て見れば
鮫鞘の大脇差なり手に
取上鞘を拂て見るに只今人を
殺めしが如くまだ
生々しき
膏の
浮て見ゆれば
偵に吉兵衞は
愕然として扨ても山賊の住家なり
斯る所へ泊りしこそ
不覺なれと
後悔すれど今は
網裡の魚
函中の
獸また
詮方ぞ
無りければ如何はせんと再び
枕に
就ながらも次の間の
動靜を如何ぞと
耳振立て
窺へば
折節人の歸り來りて語る樣は
棟梁の
仰の
通今日は大雪なれば旅人は
尾羽を
縮案の如く
徒足なりしとつぶやきながら臺所へ
上る其跡に
動々と藤井左京を初め立戻り皆々
爐の
端へ集まりぬ此時左京は大膳に向ひ貴殿の
御異見に
隨はず
我意に
募て參りしか此雪で往來には
半人の
旅客もなし夫ゆゑ
諸方を
駈廻り漸く一人の
旅人を見つけ
溌さりやつて見れば一文なしの
殼欠無益の
殺生に手下の衆を
勞し何とも
氣毒の至りなり
以來此左京は山賊は
止申すと云ふに大膳
呵々と打笑ひ左京どの
沙彌から
長老と申し何事でも左樣
甘くは行ぬ者なり
山賊迚も其通り兎角
辛抱が
肝心なり石の上にも三年と云へば先づ/\
氣長にし給へ其内には
好事も有るべし扨また我は
今宵の留守に
勞せずして小千兩の
鳥を
押へたりと云ふに左京は是を
聞て大いに
訝り我々は大雪を
踏分寒さを
厭はず
麓へ出て
網を
張ても
骨折損して歸へりしに貴殿は内に居て
爐に
煖り乍ら千兩程の大鳥を
掛られしとは更に
合點の參らぬ事なり此は貴殿の
異見をも
聞ず
徒骨折しを
嘲弄さるゝと思はれたりと云へば大膳は
莞爾と
打笑否とよ此大膳
何しに
僞を申べき
仔細を知らねば
疑はるゝも
道理なりいで
其譯は斯々なり宵に御身たちが
出行し跡へ年の頃廿歳
許の
容顏麗しき若者來れり
何れにも九
州邊の
大盡の
子息ならずば
大家に
仕はるゝ者なるべし此大雪に
道を
踏迷ひ此處へ來りて一
宿を
乞し故
快よく
泊置て衣類は
濡たれば此方のを
貸遣したるが
着替る時に
一寸と見し
懷中の金は七八百兩と
白眼だ大膳が
眼力はよも
違ふまじ
明朝まで
休息させ明日は
道案内に途中まで
連出して
別れ
際に只一刀
大まいの金は手を
濡さずと語る聲を次の間に
寢入し
風の吉兵衞は
委く聞取り扨こそ案に
違はざりし山賊の
張本なりけり
斯深々と
穽の内に落し身の
今更迯とも
迯さんや去乍ら大望のある身をむざ/\と山賊どもの手に
懸り
相果るも殘念なりと
頻りに
思案を
廻らしける此時藤井左京は大膳に向ひ某し近頃此地へ參り貴殿の門弟とは相成たれど
未だ
寸功も立てざれば
切て
今宵舞込し仕事は何卒
拙者に
料理方を
讓り給はるべし手始めの功とも致したく
明朝とも云ず今宵の中に
結果申すべしと云ふに大膳のいふ樣貴殿が手始めの功にしたしと有るからは仕事を讓り申べしと
聞て左京は大に
悦び
然ば早々
埓明んと立上るを大膳は
暫しと
押止め先々待たれよ今宵の仕事は
袋の物を取り出すよりも
易し
先々一
盃呑だ上の事とて是より
酒宴を
催しける次の間なる吉兵衞は色々と思案し只此上は
我膽力を
渠等に知らせ
首尾よく
謀らば毒藥も
却て藥になる時あらん此者共を
刧やかし味方に付る時は
江戸表へ
名乘出るに必ず
便利なるべしと不敵にも思案を定め彼奧座敷に至り
燭臺に
灯りを
點し
茵の
[#「茵の」は底本では「菌の」]上に
欣然と座を
占め
胴卷の金子は
脇の臺に
差置き所持の二品を
恭々敷正面の
床に
飾り
悠々として
控へたり大膳左京の兩人は
斯こととは
爭で知るべき盃の數も
重なりて早十分に
醉を發し今は
好時分なり
率や
醉醒の仕事に掛らんと兩人は
剛刀を
携へ次の間へ至りて見れば彼若者は居ず大膳
不審に思ひ
然にても
慥に
此處へ
臥せしに
何方へも
行氣遣ひなしと此所彼所と
探して奧座敷へ至れば此は
抑如何に若者は二
疊臺の上に
威儀堂々と
恐れ
氣も
無控へたれば兩人は
肝を
潰し互ひに顏を見合せて
少時し
言葉も
無りしが大膳は吉兵衞に向ひ我こそは赤川大膳とて
則ち山賊の
棟梁なりまた
此なるは藤井左京とて近頃此山中に來りて兄弟の
縁を
結びし者なり
汝當所へ
泊りしは
運命の
盡る處なり
先刻見置し金子はや/\拙者どもへ差出せよと
荒々しげに申ける吉兵衞は少しも
惡びれたる
氣色もなく
此方に向ひ兩人ども必ず
慮外の
振舞を致す事なかれ
無禮は許す
傍近く參るべし我は
忝けなくも當將軍家
吉宗公の
御落胤なり當山中に赤川大膳といふ
器量勝れの浪人の有るよしを聞及びしゆゑ家來に
召抱へたく
遙々此處まで參りしなり
聊かの金子などに心を
掛る事なく
予に
隨身なすべし
追ては五萬石以上に取立て大名にし
遣はすべし
迷を
取ず
聢と
返答致すべしとさも
横柄に
述けるに兩人再び驚きしが大膳は聲を
勵し汝天下の
御落胤などとあられもなき
僞りを述べ我々を
欺むき此場を
遁れんとする共
我何ぞ左樣の
舌頭に
欺むかれんや併し夫には何か
證據でも有て左樣には申すか
若も
當座の出たらめなれば思ひ
知すと
睨付れば吉兵衞
莞爾と打笑ひ其方共の
疑ひも理なきにあらず先づ是を見て
疑念を散ずべしと彼二品を
差示せば大膳は此品々を受取
先御墨附を拜見するに
正しく徳太郎君の御名乘に
御書判をさへ
据られたり又
御短刀を拜見し暫く
見惚て有りしが大膳
急に座を
飛退り
低頭平身して
敬ひ私儀は赤川大膳とて
元水戸家の藩中なれば紀伊家に此御短刀の傳はりし事は
能々知れり斯る證據のある上は將軍の
御落胤に相違なし斯る
高貴の御方とも存じ申さず無禮の段恐れ入り奉りぬ
幾重にも
御免しを
蒙り度此上は我々共御家來の
末に召し出さるれば身命を
抛つて
守護仕[#ルビの「しゆごつかまつ」は底本では「しゆごつかま」]るべし御心安く思し召さるべし然れども我々は
是迄惡逆をなせし者なり江戸表へ御供致せば
惡事露顯いたすべし
然れば
忽ち
罪科に行はれんが此儀は如何あらんと云ふに吉兵衞は答へて予が守護を致し江戸表へ參り
親子對面する上は是迄の
舊惡は殘らず
赦し
遣すべしとの言葉に大膳は有難く
拜伏し茲に
主從の約をなし左京をも
進めて
此も主家來の
盃盞をさせにける此時吉兵衞は
布團の上より
下り兩人に向ひ申けるは
我將軍の
落胤とは全く僞りにて實は紀州名草郡平野村の
修驗者感應院の弟子寶澤といふ者なるが平野村にお三婆と云ふ者あり其娘こそ誠にお
胤を
孕し
此御墨附と御短刀を戴きしが其若君は御
誕生の日にお
果なされ其娘も空しくなり此二品は婆の
持腐にしたるを我十二歳の時婆を殺し此品々を
奪取江戸へ名乘出んとは思しが
師匠感應院の口より
泄んも計りがたければ師匠は我十三歳の時に
毒殺したり尚も
幼顏を
亡さん爲に九州へ下り熊本にて年月を經り大望を
企つるには
金子なくては
叶ふまじと此度金七百兩を
掠め取り
出奔なし船頭
杢右衞門を
誑りて天神丸の
上乘し
不慮の難に
遇て此處まで來れる事の
一伍一什を
虚實を
交へて語りければさしもの兩人も舌を
卷き恐れ其不敵なるを感じ世に
類ひなき
惡者も有れば有る者とます/\心を
傾けて兩人とも一味なして寶澤が
運を開き西丸へ
乘込の節は兩人とも五萬石の大名に取立らるゝ
約束にて
血判誓詞にぞ及びける
扨も赤川藤井の兩人は寶澤の吉兵衞に一味なしけるが
此時大膳は兩人に向ひて我手下は今三十一人
有ども下郎は口の
善惡なき者なり萬一此一大事の手下の口より
漏んも計り難し我に一の
謀計こそ
有後の
災ひを
避んには皆殺しにするより
外なし夫には斯々と
密に酒の中へ
曼多羅華といふ草を
入惣手下の者へ酒一
樽與へければ
爭でか斯る
工のありとは思はんや
夢にも知ず大に
歡び
頓て酒宴を開きけるに皆々
漸次に
酩酊して前後を
失ふ
[#「失ふ」は底本では「失なふ」]程に
五體俄に
痿痺出せしも只醉の廻りしと思ひて
正體もなきに大膳等は
此體を見て時分は
宜と風上より我家に火をば
懸たりける
折節山風
烈くして
炎は所々へ
燃移れば三十一人の小賊共スハ
大變なりと
慌騷ぐも
毒酒に五體の
利ざれば
[#「利ざれば」は底本では「利ざれは」]憐れむべし
一人も殘らず
燒燗て
死亡に及ぶを
強惡の三人は是を見て大に悦びまづ是にて
災の
根は
斷たれば更に
心殘りなし大望
成就は
疑ひなし今は此地に用はなし
急ぎ他國へ
立越ん幸ひ
濃州谷汲の長
洞村法華山常樂院長洞寺の天忠日信と云は
親藤井紋太夫の弟にて我爲には實の
伯父なるが
斯る事の相談には
屈強の
軍略人にて過つる
頃大
恩を受し師匠の天道と云を
縊殺し
僞筆の
讓状にて常樂院の後住と成り
謀計に富たる人なりと云ば寶澤は
打點頭そは又
妙なりとて則ち赤川大膳が
案内にて
享保十一
丙午年正月七日の夜に
伊豫國藤が原の
賊寨を立去三人道を急ぎ同月下
旬美濃國なる常樂院へ
着し案内を
乞拙者は伊豫國藤が原の者にて赤川大膳と申す者なり
參りし
趣き取次玉はるべしといふ取次の
小侍は早速此事を
奧へ通じたれば天忠聞て大膳と
有ば
我甥なり遠慮に及ばず直に
居間へ通すべしとの事なれば取次の侍案内に及べば大膳は
吉兵衞左京の兩人を次の間へ
控させ己れ
獨り居間へ通り
久々の
對面に
互ひに無事を
賀し
暫し四方山の話に時をぞ
移しける時に天忠は大膳に
向ひ
先達ての手紙にて伊豫の藤が原とかに
住居たる由は
承知したり彼地にて
家業は何を致し候や定めて
忙しき事ならんとの
尋に大膳は
然氣なく
御意の如し藤が原に
浪宅を
營み候へ
共彼地は至て
邊鄙なれば家業も
隙なり
夫故此度同所を
引拂ひ少々御
内談も致度事これありて
伯父上の
御許へ
態々[#ルビの「わざ/\」は底本では「わさ/\」]遠路を
厭ず參りしと云ば天忠聞て其は又何事ぞや夫には何ぞ
面白き事でも有やと申けるに大膳
答て
參候
隨分面白からぬにも此なし
萬よく
仕課せなば五萬石
位の大名には成るゝ事なれ共夫には我々の
短才では
行屆き申さず依て
伯父御の
智慧を
拜借仕つり度是迄
推參候といふに
強慾無道の天忠和尚
滿面に
笑を
含み夫は
重疊の事なり
扨其
譯は如何にと尋ぬるに大膳は
膝を
進め聲を
低くし申けるは此度藤が原より召連れ候者あり
只今御次に
控させたり其中一人の
若人吉兵衞と申す者實は
生國は
紀州名草郡平野村なる
感應院と申す
修驗者の
弟子にて寶澤と申す者なりしが今より十餘年前此平野村にお三婆といふ
産婆ありその
娘の
澤の井と云が紀州家の
家老職加納將監方へ奉公せし折將軍家は其
頃徳太郎君と申し御部屋
住にて將監方に
在しけるが彼澤の井に御手を付させられ
懷姙し母お三婆の
許へ歸る
砌御手づから御
墨付と御
短刀を
添て下し置れしが御懷姙の
若君は御
誕生の夜
空しく
逝去遊ばせしを見より澤の井も
産後の
嘆きに血上りて此も其夜の
中に死去したり
依てお三婆は右の二品を所持なせど
更に人には
語る事も無りしが寶澤は別して
入魂の上に未だ
少年の事なれば心も
許して右の次第を
物語りしかば寶澤が十二歳の時
彼婆を
縊殺[#ルビの「しめころ」は底本では「くめころ」]し其二品を
奪ひ取
大望の
妨げなればとて師匠感應院をも
毒殺し其身は
諸國修行と
僞り平野村を
發足し其翌日
加田浦にて白犬を
殺し其血にて自分は
盜賊に
切殺されし
體に
取拵へ夫より九州へ下り
肥後の
熊本にて
加納屋利兵衞といふ大家に奉公し七百兩餘の金子を
掠め夫を
手當として江戸表へ
名乘出んとせし船中にて
難風に出合
船頭も
水主も
皆々海底の
木屑となりしが
果報めで
度吉兵衞
一人は
辛ふじて
助かり藤が原なる拙者の
隱れ家へ來り右の次第を物語れり
證據の品も
慥なれば我々も
隨從して將軍の御
落胤なりと名乘出ん所存なり
萬々首尾よく
仕課せなば寶澤の吉兵衞には西の
丸へ
乘込か左
無とも三家の
順格位は手の内なれば
此度同道仕つりしと
詳らかに物語れば天忠は
始終を聞て思ず
太息を
吐驚き入たる
大膽の
振舞[#「振舞」は底本では「振動」]其性根ならんには
首尾よく
成就なすべしと
偵の天忠も
密に
舌をば
卷て先兎も角も
對面せんと
大膳に
案内[#ルビの「あんない」は底本では「あいない」]させければ吉兵衞左京の兩人は天忠和尚に對面にぞ及びたり此天忠の弟子に天一と云ふ
美僧あり年は
廿歳許なり三人へ
茶の
給事などして天忠の
傍らに
控へける此時天忠は天一に向ひ用事
有ば
呼べし
夫迄臺所へ參り居よと
云ば天一は
勝手へと
退きける
強慾の天忠は兩人に向ひ
委細の事は只今大膳より
聞及び承知したり
併し
箇樣の
大望は中々
浮たる事にては
成就覺束なし
先根本より申合せて
巧まねば
萬一[#「萬一」は底本では「萬 」]中折して
半途に
露顯に及ぶ時は
千辛萬苦も水の
泡[#ルビの「あわ」は底本では「あか」]と
成計か其身の一大事に及ぶべし先
名乘出る時は必ず其生れ所と
育し所を
糺さるべし其答が
胡亂にては成ず即ち紀州名草郡平野村にて
誕生と申立る時は
差向紀州を
調べられんには
忽ち
化の皮の
顯るゝなり此儀は
既に
疾差支なく
整のひ居るにやと問に大膳始め吉兵衞
左京も未だ其
邊の
密議に及ばねば
礑と
返答に
當惑なしぬ時に大膳は
了簡有氣に其儀は
先達てより心付き
種々工夫は仕つれど未だ然るべき
考へも付ず
願くは伯父上の御工夫をといふを聞て天忠
暫し兩手を
組て
默然たりしが
稍有て三人に
向ひ
拙僧少し所存あり夫は只今此所へ茶を
汲て
參りし者は當時は拙者弟子なれども元は
師匠天道が
[#「天道が」は底本では「道天が」]弟子にて
渠は師匠が未だ
佐渡の
淨覺院の持主たりし時門前に
捨て有しを
拾上げ
養育して弟子と
成ける者なり天道
遷化の後は拙僧が弟子となして永年
召使ふ者なれば
何にも
不便には存ずれど大功は
細瑾を
顧みずと依て
彼を
殺し其後吉兵衞殿に
剃髮させ
面ざしの似たるを
幸ひ天一坊と名乘せ御出生の後佐州相川郡
尾島村の淨覺院の門前に御墨付と御短刀を
添て捨て有しを天忠が拾上げ養育なし
奉つり其後
當所美濃國常樂院へ
轉住の頃も
伴なひ奉つりたれば御
成長は
美濃國と申立なば
誰有て知者あらじ然すれば紀州の
調べも平野村の
糺も無して事の
破る
氣遣なし此儀如何にと申ければ三人は
感じ入
誠に古今の
妙計と一同是に同じける此時常樂院また申けるは今天一を殺は
易けれど
爰に一ツの
難儀といふは
小姓次助佐助の兩人にて
渠は天一とは
幼年より一所に
育し者なれば天一を殺せば兩人の口より
密計の
露顯に及は
必定なり
然ば兩人とも
生し置難し
無益の
殺生に
似たれど
是非に及ばず
[#「及ばず」は底本では「及ばす」]此兩人をも
殺害すべし
扨彼兩人を片付る手段といふは明日各々方に山見物させ其
案内に兩人を
差遣はすべし山中に
地獄谷と云處あり
此所にて兩人を
谷底に
突落して殺し給へ必ず
仕損ずる事あるまじ其
留守には
老僧天一を片付申すべし年は
老たれどもまだ一人や二人の者を殺すは
苦もなし拙僧の儀は
御氣遣有べからず
呉々小姓共は仕損じ給ふな
[#「給ふな」は底本では「給なふ」]と
約束し夫より酒宴を
催し四方山の
雜談に時を移し早
子の
刻も
過たれば皆々
臥房へ入にける天忠は
翌朝は何時より早く
起出小姓の次助佐助兩人に今日は
御客人が山
見物にお出なれば其方共御案内致すべし別して地獄谷の
邊は他國の人には
珍らしく思はるべければ
能々御案内申せよと
言付られ神ならぬ身の小姓兩人は
畏まりしと
支度して三人を
伴ひ
立出たり
去程に
常樂院の小姓次助佐助の
[#「小姓次助佐助の」は底本では「小性次助佐助の」]兩人は
己が命の
危きをば知よしなく
山案内として大膳吉兵衞左京の三人を
伴ひ山中さして
至る事凡一
里許なり
爰は名に
負地獄谷とて
巖石恰も劔の如きは劔の山に
髣髴たり樹木生茂りて
底も見え分ぬ數千丈の谷は
無間地獄とも云なるべし何心なき二人の
小姓は
師匠の
詞に從がひ爰こそ名に高き地獄谷なり能々
御覽あれと
巖尖に進て差示せば三人は
時分は
宜ぞと竊に
目配すれば赤川大膳藤井左京
直と寄て次助佐助が後に
立寄突落せば
哀れや兩人は
數千
丈の
谷底に
眞逆樣に落入て
微塵に碎けて死失たりまた常樂院は五人の者を出し
遣し後に天一を
呼近づけ今日は次助佐助は
客人の山案内に
遣し留主なれば太儀ながら
靈具は其方仕つるべしと云に天一
畏まり品々の靈具を
取揃へ先住の
塚へ供にと
行跡より天忠は
殊勝氣に
法衣を
着し内心は
惡鬼羅刹の如く
懷ろに短刀を用意し何氣なき
體にて
徐々と歩行寄けり天一は
[#「天一は」は底本では「天 は」]斯る惡心ありとは
夢にも知ず靈具を
供畢り立上らんとする處を天忠は
隱し持たる短刀を
拔手も見ず
柄も
徹れと突立れば哀むべし天一は
其儘其處へ倒れ伏ぬ天忠は
仕遂たりと法衣を
脱捨裾をからげ
萬毒の木の根を
掘て天一が
死骸を埋め何知ぬ體に居間へ
立戻り居る所へ三人も歸來り
首尾よく地獄谷へ突落せし體を
告囁けば天忠は
點頭て拙僧も各々の留主に斯樣々々に
計ひたれば最早
心懸りはなし
然ばとて
大望の
密談をなし已に其議も調のひければ急に
本堂の
脇なる座敷に上段を
營へ前に
簾を
下し赤川大膳藤井左京の兩人は
繼上下にて其前に
控へ傍らに天忠
和尚紫の衣を着し座す其
形勢いと
嚴重にして先本堂には
紫縮緬に
白く十六の
菊を
染出せし
幕を張り渡し表門には
木綿地に白と
紺との三
筋を染出したる幕を
張惣門の内には
箱番所を置き番人は
麻上下の者と下役は
黒羽織を着し者を
詰させ
檀家の者たりとも表門の
通行を
禁じ
裏門より出入させ墓場への
參詣をば許せども
本堂への參詣は
堅く相成ざる由を
箱番所の者共より
制させける是則ち天一坊
樣の御座所と
唱へて斯の如く
嚴重に
構へしなり又天忠は兩人の下男に云付る樣は天一坊御事は是迄は世を
忍び
拙僧が弟子と
披露し置候へ共
實は當將軍家の御
落胤たるゆゑ近々江戸表へ御乘出し
遊ばされ
公方樣と
御親子の
御對顏あれば
多分西の丸へ入らせ給ふべしさすれば再び御目通りは
叶はざる樣なり依て
近々御出立前に
格別の儀を以て當寺の
檀家一同へ御目見を仰付らるべし此旨
村中へ申達すべしとの事なり
下男共何事も知らざれば是を聞て
肝を
潰し此頃迄
臺所で一つに
食事をせし天一樣は將軍樣の
若君樣なりしか
然ばこそ急に
簾の中へ入せられ御
住持樣も
[#「御住持樣も」は底本では「御住侍樣も」]打て
替り御主人の樣に何事も
兩手を
突て
平伏なさると下男共は此等の事を村内へ
觸歩行しゆゑ村中一
統此頃の寺の
動靜扨は然る事にて天一樣は將軍家の御落胤にて
今度江戸へ御出立に
成ば二度御目通り成ねば
當前然ば今の内に
御目見を仰付らるゝは有難い事
迚村中の者共老若男女殘りなく常樂院へ
集來り天忠に
就て取次を
頼めば和尚は大膳に向ひ
拙寺檀家の者共天一坊樣
御暇乞に
御尊顏拜し奉り度由
哀れ御聞屆
願はんと申上れば是迄の
知因に御
對面仰付らるゝとて御座の間の
簾を
卷上れば
二疊臺に
雲間縁の
疊の上に天一坊
威儀を
正して
着座なし大膳が名前を披露に及べば天一坊は
言葉少なに
孰も神妙と
計り大樣の
一聲に皆々
低頭平身誰一人
面を上て顏を見る者なかりしと
爰に
浪人體の
侍の身には
粗服を
纏ひ二月の
餘寒烈きに
羊羹色の
絽の羽織を着て麻の
袴を
穿柄の
解れし大小を
帶せし者
常樂院の表門へ進み
入んとせしが寺内の
嚴重なる
形勢を
見て少し
不審の體にて箱番所の前を
行過んとすれば箱番所に控へし番人は聲をかけ
貴殿には何人にて
何へ通り給ふや
當時本堂は
將軍の
若君天一坊樣の
御座所と相成り我々晝夜相詰
罷ありと
咎れば浪人は
拙者は當院の
住職天忠和尚の許へ相通る者なりと答ふ然ば
暫時此處に
御休息あるべし
其段拙者共より
方丈へ申通じ
伺ひし上にて
御案内せんといふに彼浪人も夫は
尤もの事なりと
自分も番所へ上れば番人は浪人の
姓名を問に只先生が參りしと申給へと云ば番人は
顏見合せ先生と許では
何先生なるや分り申さず
御名前を
承まはりたしといふ左樣ならば方丈へ山内先生が
參りしと申し給へとの事なれば
早速其趣きを
通じければ山内先生の御出とならば自身に
出迎べしと何か
下心のある天忠が
出來る
行粧は
徒士二人を先立自身は
紫きの
法衣に
古金襴の
袈裟を
掛頭には
帽子を戴き右の手に
中啓を持左の手に
水晶の
念珠爪ぐり
沓を
踏しめ徐々と出來る跡には
役僧二人付そひ常に
替し
行粧なり
頓て門まで來り浪人に
向ひ
恭々しく是は/\山内先生には宜こそ
御入來成たり
率御案内と先に
進ば
浪人は
臆する色なく
引續いて隨ひ行ぬ扨此浪人の山内先生とは如何なる者といふに
元は
九條前關白殿下の御家來にて
山内伊賀亮と
稱せし者なり近年
病身を
云立九條家を
退ぞき
浪人して近頃美濃國の山中に
隱れ住ければ
折節この常樂院へ來り近しく
交はる人なり此人
奇世の
豪傑にて
大器量あれば常樂院の天忠和尚も此山内伊賀亮を
敬まふ事大方ならず
[#「大方ならず」は底本では「 方ならず」]今日
計ずも伊賀亮の
來訪に
預かれば自身に出迎ひて
座敷へ
請じ久々にての對面を喜び種々
饗應して
四方山の
物語りには及べり天忠言葉を改め山内先生には今日
幸ひの處へ御入來なりし
拙僧も
大慶に存ずる
仔細は拙僧が
甥なる赤川大膳と申者此度將軍家の
御落胤なる天一坊樣のお供致し
拙寺へ御入にて
御逗留中なり近々江戸表へ
御名乘出にて御親子御對顏遊ばす
筈ならば時宜に依ては
西の
丸へ
居らせらるゝか左無とも
御三家順格には受合なり然時は
拙僧も立身の
小口に先生も
御隨身の思召あらば
拙僧御吹擧に
及ぶべしといふ伊賀亮は是を
聞暫し思案して申ける樣和尚は何と
思はるゝや
拙者大言を
吐に似たれども伊賀亮
程の大才ある者久しく山中に
隱れて
在は
黄金を土中に
埋むるに均し今貴僧の
咄さるゝ天一坊殿にも此伊賀亮の如き者一人
召抱に相成ば此上もなき御仕合と申もの也我も立身に
望なきにあらず
老僧宜く取計ひ給へと申ける常樂院大に喜こび
早速大膳にも
相談[#ルビの「さうだん」は底本では「さんだん」]に及びし所ろ
大望を
企つるには一人も器量勝れし者を味方にせねば
成就し
難し
夫は
屈強の者なりといふにぞ天忠は打悦び天一坊へ申けるは今日
拙寺へ參る所の
客人は
舊京都九條家の御家來にて當時は浪人し山内伊賀亮と申す
大器量人なり上は
天文地理を
悟り
下は
神儒佛の三道に
亘り
和學軍學に至るまで
何一ツ知ずといふ事なき文武兼備の
秀才士なり此人を
御家來と
成れなば
何なる
謀計も成就せん事疑ひなしと
稱譽して
薦ければ天一坊は大に
悦喜し左樣の
軍師を得る事大望成就の
吉瑞なりと云ば天忠は早々御對面ありて主從の
契約あるべしと
相談茲に一決し天忠は
次へ
退ぞき伊賀亮に申樣只今先生の事を申上しに天一坊樣にも先生の
大才を
御稱美ありて早速
御召抱へ成るべくとの由なれば
直樣御對面あらるべし
就ては先生の
御衣服は
餘り
見苦し此段をも申上たれば
小袖一重と
羽織一ツとを
下置れたり率御着用有りて然るべしと
述ければ伊賀亮
呵々と
笑ひ
貴僧の
御芳志は
忝けなけれど未だ御對面もなき中に
時服頂戴する
謂れなし又拙者が
粗服で御對面
成れ難くば夫迄の事なり
押て拙者より奉公は願ひ申さずと
斷然言放し立上る
勢ひに常樂院は
慌て押止め然ば其段
今一應申上べしまづ/\御待下されと待せ置て
奧へ行き
暫時にして出來り然らば
其儘にて
對面有べしとの事なりと告れば伊賀亮は
然も有べしと
頓て
粗服のまゝ天忠に引れて本堂の
座敷へ到れば
遙の
末座に着座させられぬ
此時上段の
簾の前には
赤川大膳藤井左京の兩人
繼上下にて左右に居並び常樂院
天忠和尚が
披露につれ大膳が簾を
卷ば
雲間縁の
疊の上に
錦の
褥を
敷天一坊安座し身には
法衣を着し
中啓を手に持て
欣然として
控へたり
頓て言葉を發して九條家の浪人山内
伊賀亮とやらん其方の儀は常樂院より
具に
承知したり此度予に
仕んとの
志ざし
神妙に思なり以後
精勤を盡すべし
率主從の
契約盃盞遣さんと云ばこの時
兼て用意の
三寶に
土器を
載藤井左京持出て天一坊の前に
差置ば土器取あげ一
獻を
飮干て伊賀亮へ
遣す時に伊賀亮は
頭を
上つく/\と天一坊の
面貌を見て土器を取上ず
呵々と
打笑ひ將軍の
御落胤とは大の
僞り者餘人は知らず此伊賀亮
斯の如き
淺はかなる
僞坊主の
謀計に
欺むかれんや
片腹痛き
工かなと急に
立退んとするを見て赤川大膳は心中に驚き
見透されては一大事と氣を
勵まし
何に
山内狂氣せしか上に
對し奉つり無禮の
過言いで
切捨んと立よりて刀の
柄に
手を掛るを伊賀亮ます/\わらひ
茲な
刀架め其方如き者の刄が伊賀亮の身に立べき切ば見事に切て見よと
立掛るを左京と常樂院の兩人は中へ分入
押止めければ天一坊は疊の上より
飛下伊賀亮に向如何に伊賀亮
予を
僞者との過言其意を得ず何か
證據が有て左樣には申すや返答聞んと
詰寄ば伊賀亮
動ずる色なく
慥に證據なくして
麁忽の言を出さんや其
證據を聞んとならば
禮を
厚して問るべし
先第一に天一坊の
面部に
顯はれし
相は存外の事を
企つる相にて人を僞るの氣
慥なり又眼中に
殺伐の氣あり是は他人を切害せし證據
假初にも將軍家の御落胤に有べからざる
凶相なり
僞物と申せしがよも
誤りで
厶るかと席を
叩て申ける天一坊始め皆々口を
閉て
茫然たりしが大膳
堪へ兼
御墨付と御
短刀を持出し伊賀亮どの
貴殿只今の
失言聞惡し則ち御
落胤に
相違なき證據は是にあり
篤と
拜見あるべしと出し示せば伊賀亮
苦笑しながら
然ば拜見せんと手に取上これは
紛なき
當將軍家の
御直筆なり又御短刀を
拔て
詠むるに是も亦違もなき天下
三品の短刀なりと拜見し
畢りて大膳に
戻し成程御證據の二品は慥なれ共天一坊殿に於ては
僞物に相違なしといふ
此時天忠席を進み
遖れなる山内先生の御
眼力恐入たり左樣に
星を
指て仰らるゝ上は
包み
隱すに
益なし此上は
有體に申べし實に
斯樣なりと
大望を企てし一
部始終落なく物
語り此上は
何卒先生の
知略を以て此證據の品に
基づき事
成就致すやう
深慮の程こそ願はしと
述ければ伊賀亮は
欣然と打笑ひ左こそ有べし事を分て
頼むとあれば義を見て
爲ざるは
勇なしとか惡とは
知ども
一工夫仕まつて見申べしと
稍暫く
思慮に及びけるが人々に向ひ
先天一殿の面部は當將軍家の
幼稚の
御相恰に
能似しのみか
音聲迄も其儘なれば十が九ツ
此企て成就せんと云に皆々打
悦び茲に
主從の約をぞ
結び五人
頭を差寄て
密談數刻に及びける伊賀亮申す
樣斯樣なる大望を企てるには金子
乏しくては大事成就
覺束なし第一に金子の
才覺こそ
肝要なれ其上にて
計らふ
旨こそあれ各々の
深慮は如何と申ければ天一坊
進出て其金子の事にて思ひ出せし事あり
某[#ルビの「それがし」は底本では「れれがし」]先年九州へ下りし
砌り
藝州宮島にて
出會し者あり
信州下諏訪の
旅籠屋遠藤屋彌次六と云ふ者にて彼は
相應の身代の者のよし
語ひ
置し事も有ば此者を
手引とし
金子才覺致させんには
調達すべき事もあらんと云に
任せ
遂に其儀に
決し
密々用意して天一坊と大膳の兩人は
長洞村を出立し信州下諏訪へと
赴たり
漸く遠藤屋彌次六方へ
着し
案内を
乞先年の事を語れば彌次六は先年の事を思出し
早速出
迎へ能こそ御
尋ね下されしと夫より
種々の
饗應に手を
盡しける天一坊は大膳を彌次六に
引合せ
種々と
内談に及びぬ爰に諏訪明神の
社人に
諏訪右門とて
年齡未十三歳なれど
器量拔群[#ルビの「ばつくん」はママ]に
勝れし者有り此度遠藤屋へ
珍客の見えしと聞より
早速彌次六方へ來り
委細を
聞遂に彌次六の
紹介にて天一坊に
對面を
遂げ是も主從の
約をぞ
結びける是より彌次六は
只管天一坊を世に
出さんものと
深く思ひ
込兎角して金子を
調達せんと右門にも
内談をなすに右門の申
樣は
我等同職の
中にて
有徳なるは
肥前なり此者を
引入なば金子の
調達も致すべし此儀如何
有んと申ければ彌次六も大いに
悦び
早々夫となく
彼肥前を
招き
樣々饗應ゐる内天一坊には
白綾の
小袖に
紫純子の
丸蔕を
緊め
態と
庭へ出て
小鳥を
詠め居る
體にもてなし肥前が目に
留りて心中に
怪しと思はせん者と
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、55-15]るとは
毫知らざれば肥前は
亭主の彌次六に向ひ
只今庭へ出給ふ御方は
如何なる客人にや
當人とは思はれずと云に彌次六は
仕濟たりと聲をひそめ
彼御方の儀に付ては
一朝一夕に
述がたし
先は
斯樣々々の御身分の御方なりとて
終に天一坊と赤川
大膳に引合せ
則ち御
墨付と御短刀をも拜見させらるれば元より肥前は
篤實の者故
甚く
恐れ
敬ひぬ彌次六右門の兩人は爰ぞと
何れにも天一坊樣を御世に出したし夫には少し入用もあり
何卒貴殿の
周旋にて金子の御
口入相成まじきやと
餘儀もなく
頼みければ肥前は
然る
儀なれば
拙者には多分の儀は出來
兼れど少々は
工夫せんと聞て兩人は大に
悦びいよ/\金子御
調達下さるれば天一坊樣江戸表にて御
親子御
對顏相濟なば當明神を御
祈願所と御定め一ヶ年米三百
俵づつ
永代御
寄附ある樣に我々
取計ひ申べし然すれば永く社頭の
譽れにも相成候事なり
精々御
働き下されと事十分なる
頼みの
言葉に肥前の申樣は御入用の金子は
何程か
存せねど
拙者に於ては三百兩を御
用立申べし其上は
自力に及び
難しといふ彌次六申やう御入用高は未だ
篤と
相伺はねば
先貴殿方の御
都合もあれば夫だけ御用立下さるべしと云に肥前は
委細承知なして
歸宅せしが
早速右の金子三百兩
持參しければ此
旨天一坊大膳へ申し談じ則ち天一樣御出世の上は永代米三百俵づつ
毎年御
奉納有べしと
認めし
證文と
引替にし金子をば受取一先
美濃國へ立歸らんと天一坊は大膳
右門遠藤屋彌次六との三人を同道して
常樂院へ歸り來りて右の
首尾を物語れば常樂院もさらば
拙僧も一
目論して見よと
庚申待を
催し
講中の内にて
紺屋五郎兵衞
蒔繪師三右衞門米屋六兵衞
呉服屋又兵衞の四
人を跡へ止め
別段に
酒肴を調のへ一間へ
招きて酒も
餘程廻りし
頃常樂院申けるは各々方も御承知の如く是迄は拙僧の弟子と致し世を
忍び給ひし天一坊樣は實は
佐州相川郡
尾島村の
淨覺院の門前に
捨られ給ひしを
師匠天道和尚の
拾ひし上
弟子に
致置れしが
全くは當將軍家の御
部屋住の内の御
落胤なり此度御
還俗遊ばし我々御
供にて江戸
表へ御
上り遊ばすなり御
親子御
對顏の上は御三家同樣の御大名にならせらるゝは
必定なり夫に付ては
差向金子御入用なるが只今御用金とし金百兩差上る者には
則ち三百石の
御高を下され五十兩には百五十石三百兩ならば千石其餘は是に
准じて
宛行はるゝ思召なり
然れば
各々方も今の内に御用金を差上られなば御
直參に御取立に成樣
師檀の
好みを以て拙僧
宜く御取持せん思し
召もあらば
承まはらんと
説法口の
辯に任せて思ふ樣に
欺りければ四人の者共は
先頃よりの寺の
動靜如何樣
斯有んと思へど誰も
貯へは無れど
永代の家の
株と無理にも金子
調達仕つらんそれには御
實情の處も
伺ひたしといふに心得たりと常樂院は
奧へ
赴ぶき此由を
咄し
直に四人を
伴なひて
客殿の
末座に待せ置き其身も
席へ
列なりける四人は
遙か向ふを見れば上段の
簾の前に
頭は
半白にして
威有て
猛からぬ一人の
侍ひ
堂々として控へたり是ぞ山内
伊賀亮なり次は未
壯年にして
骨柄賤しからぬ
形相の侍ひ二人是ぞ赤川
大膳と藤井
左京にて何れも大家の家老職と云とも
恥かしからざる
人品にて
威儀を正して控へたれば其威風に恐れ四人の者は只々頭を下る計なり
扨も常樂院は
紺屋五郎兵衞を初め四人の者共に威を示し
甘々と用金を出させんと先
本堂の客殿に
請じ
例の正面の
簾を卷上れば天一坊は
威有て
猛からざる
容體に着座す其出立には
鼠色琥珀の
小袖の上に
顯紋紗の
十徳を着
法眼袴を
穿たり後の方には
黒七子の小袖に同じ羽織
茶宇の
袴を
穿紫縮緬の
服紗にて
小脇差を持たる
剪髮の美少年の
面體雪を
欺くが如きは是なん諏訪右門なり其
傍らに
黒羽二重の小袖に
煤竹色の
道服を着したるは遠藤屋彌次六一號
鵞湖山人なり
孰も
整々として控たれば四人の者は思はず
發と計りに
平伏す時に天一坊
聲清爽に其方共此度予に
隨身せんとの願ひ
神妙に存ずるなり
依父上より
賜はりし
證據の御品拜見さし許し主從の
盃取らすべしとの
詞の下藤井左京は彼二品を三寶へ戴て
恭々敷持出し四人の者へ拜見致させたり四人は此二品を拜見して驚き入り
何卒御
家來に御召
抱下され度と詞を
盡して願ひける是に依て四人より金子四百兩を
才覺して差出し御
判物を戴き
帶刀苗字をゆるされしかば夫々に
改名して家來分となりにける
先紺屋五郎兵衞は
本多源右衞門[#ルビの「ほんだげんゑもん」は底本では「ほんだげんゑももん」]呉服屋又兵衞は
南部權兵衞蒔畫師の三右衞門は遠藤森右衞門米屋六兵衞は
藤代要人と各々改名に及びたり中にも呉服屋又兵衞は武州
入間郡川越に
有徳の
親類あれば
彼方か御同道下さらば金千兩位は
出來すべしといふにより山内伊賀亮は呉服屋又兵衞を案内として武州川越
在の百姓市右衞門方へ到着し是又以前の
手續にて
辯に
任して諸人を欺き櫻井村にて
右膳權内馬場内にて源三郎七右衞門川越の町にて大坂屋七兵衞
和久井五兵衞千
塚六郎兵衞
大圓寺自性寺其外寺院にて七ヶ寺都合廿七人金高二千八百兩
出來せり
偖千塚六郎兵衞は
帳本にて金子は常樂院へ持參の上證文と
引替る
約束にて伊賀亮に
附從ひ川越を發足せしが此六郎兵衞は
相州浦賀に有徳の親類有ばとて案内し伊賀亮又兵衞と三人にて浦賀へ
立越六郎兵衞の
勸に因て江戸屋七左衞門
叶屋八右衞門
美作屋權七といふ三人の者より金子八百兩を差出して天一坊樣御
出府の
節は
途中迄御出
迎仕つらんとぞ約束をなし是より伊賀亮等の三人は
美濃へ立
戻り川越浦賀の兩所にて金子は三千兩餘
出來せしと物語れば皆々大に
悦び
先六郎兵衞に夫々の
判物を
渡せしかば六郎兵衞は是を
請取川越の地へ歸りけり
跡に皆々此※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、58-5]を
外さず近々に江戸表へ
下らんと用意にこそは
掛ける先呉服物
一式は南部權兵衞是を
請込染物は本多源右衞門
塗物の類は遠藤森右衞門が引請夜を日に
繼で支度に
掛ば二月の末には
萬々用意は
整のひたり爰に皆々を
呼集め
評定に及ぶ樣は
直さま江戸へ下るべきや又は大坂表へ出て
動靜を
窺はんやと評議
區々にて更に
決着せざりしにぞ山内伊賀亮
進み出て申樣は
直に江戸表へ
罷下らん事先以て
麁忽に似て然べからず其
仔細は先年駿河大納言殿の御
子息長七郎君も先大坂へ御出の
吉例も
有ば此先例に
任せ一先大坂へ出張ゆる/\
關東の
動靜を見定め
變に
應じて事を
計らはんこそ十全の
策と云べしと
理を
盡して申ければ皆一同に此議に同ず
道理の事とて評議は此に決定したり
然ば
急ぎ大坂へ
旅館を
構へ是へ御
引移有べしとて此旅館の
借受方には伊賀亮が
内意を受則ち常樂院が出立する事にぞ
定まりぬ頃は
享保十一
午年[#「十一午年」は底本では「十一酉年」]三月
朔日常樂院は美濃國
長洞村を出立し道を急ぎ大坂
渡邊橋
紅屋庄藏方へぞ着しける此紅屋といふ
旅人宿は
金比羅參りの
定宿にて常樂院は其夜
主人の庄藏を呼近づけ申樣は此度
聖護院の
宮御
配下天一坊樣當表へ御出張に付御旅館
取調べの爲に拙寺が
罷越候なり不案内の事ゆえ
萬端其
許をお
頼申なりとて手箱の
中より用意の金子を取出しこれは
些少ながら御
骨折料なりと差出しければ庄藏は大いに
悦び
委細畏こまり候と
翌日
未明より大坂中を
欠廻り
遂に渡邊橋向ふの
大和屋三郎兵衞の控家こそ然るべしと
借入のことを三郎兵衞方へ申入れしに早速
承知しければ庄藏は我家へ歸り其
趣きを常樂院へ物語れば常樂院は
偏に足下の
働らきなりしと
賞賛し庄藏を案内として大和屋三郎兵衞方に
赴き
辯を
飾りて申樣此度拙寺が本山天一坊樣大坂へ出張に付旅館として
足下の
控家を
借用の儀を
頼入しに早速の承知
忝けなしと
述終り此は
輕少ながら
樽代なりと金子を
贈り借用證文を入れ則ち借主は常樂院請人は紅屋庄藏として
調印し
宿老へも相屆け
萬端事も相濟たれば常樂院は
尚も紅屋方に
逗留し翌日より大工
泥工の
諸職人を雇ひ
破損の處は
修復を加へ
新規に
建添などし失費も
厭はず人歩を
増て急ぎければ
僅の日數にて
荒増成就したれば然ば
迚一先歸國すべしと旅館へは召し連下男一人を
留守に
殘しいよ/\天一坊樣御出張の
節は斯樣々々と紅屋庄藏大和屋三郎兵衞の兩人に萬端頼み置き常樂院には大坂を發足し道を急ぎ長洞村へ歸り大坂の
首尾斯樣々々の場所へ
普請出來の事まで申
述ければ常樂院が留守中に
此方も出立の用意
調ひ居れば
然あらば發足有べしとて其
手配りに及びける頃は享保十一年四月五日いよ/\常樂院の
許を一同出立には及びたり其
行列には第一番の
油箪掛し長持十三
棹何れも
宰領二人づつ
附添その跡より
萠黄純子の油箪白く
葵の御
紋を染出せしを掛し
長持二棹
露拂二人宰領二人づつなり
引續きて
徒士二人長棒の乘物にて
駕籠脇四人
鎗挾箱草履取長柄持
合羽籠兩掛都合十五人の一列は赤川大膳にて是は
先供御長持
預りの役なり次に天一坊の行列は先徒士九人
網代の乘物駕籠脇の
侍ひは南部權兵衞本多源右衞門遠藤森右衞門
諏訪右門遠藤彌次六藤代
要人等なり先箱二ツは
手代とも四人打物手代とも二人跡箱二ツ手代とも四人
傘持草履取合羽籠兩掛
茶辨當等なり引續いて常樂院天忠
和尚藤井左京山内伊賀亮等
孰も長棒の乘物にて大膳が供立に同じ
惣同勢二百餘人其
體美々しく長洞村を出立し大坂
指て
赴き日ならず渡邊橋向の
設けの旅館へぞ
着したり伊賀亮が
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、59-14]にて旅館の
玄關に
紫縮緬に
葵の御紋を染出せし
幕を
張渡し
檜の大板の
表札には
筆太に徳川天一坊旅館の七字を書付て門前に
押立玄關には取次の役人繼上下にて控へ
何にも
嚴重の有樣なり是等は夜中にせし事なれば紅屋大和屋も
一向に知ざる處ろ
翌朝に至り市中の者共は是を見付て只
膽を
潰すばかりにて誰云となく
大評判となり紅屋は
不審晴ず
兎も
角もと大和屋三郎兵衞方へ
到り前の段を物語り
後難も
恐ろしければ何に致せ表札と幕をば一先
外させ申べしとて兩人は急に
袴羽織にて彼旅館へ
赴き中の口に案内を
乞ば此時取次の役人は藤代要人成しが如何にも
横柄に何用にやと問ば庄藏三郎兵衞の兩人は手を
突私共は紅屋庄藏大和屋三郎兵衞と申て當町の者なり何卒
急速に常樂院樣に御目
通り願ひ相
伺ひ度儀ありて
推參仕れり此段御取次下さるべしと
慇懃に相
述れば藤代要人は承知し中の口に控させ此趣きを常樂院へ申し
通じければ天忠和尚は
偖は紅屋等が何か六かしき事を申
越たかと伊賀亮へ此由を談ずれば伊賀亮
打點頭夫こそ
表札幕などの事にて來りしならん
返答の次第は
斯々と
委細に常樂院へ
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、60-5]したりける
斯て常樂院は
伊賀亮の内意を
請徐々と
[#「徐々と」は底本では「除々と」]出で來り
彼庄藏三郎兵衞の兩人に
對面するに兩人は口を
揃て申す樣
何とも
恐入り候事ながら
貴院先達て仰聞られ候には
聖護院宮樣の
御配下にて天一坊樣の御
旅館とばかり故庄藏御
世話申三郎兵衞の
明店御用立差上候ひしに只今
御玄關を拜見仕つるに徳川天一坊樣
御旅館との
御表札あり又
御玄關には
葵御紋の
御幕を張せられしが右樣の儀ならば
前以て
私共へお
話の有べき
筈なり若し此事
町奉行所より
御沙汰あらば
貸主三郎兵衞は
勿論世話人の庄藏までの
難儀なり
何卒右の
表札と御玄關なる
御紋付のお幕はお
取外しを願ひ候といふに常樂院は兩人の
言葉を聞て
打笑乍ら申けるは成程
仔細を
知ねば
驚くも無理ならず
然ども
御表札と
御紋付の幕を
暫時なりとも
取外す儀は
叶ひ難し其故は聖護院
宮樣御配下天一坊樣御身分は當將軍
吉宗公の未だ紀州公
御部屋住の時分女中に
御儲けの若君にて
此度江戸表へ
御下向あり
御親子御對顏の上は
大方は西の丸へ
直らせらるべし左樣に
輕からぬ
御身分にて徳川は
御苗字なり
又葵は
御定紋なり其方
輩が少しも
案じるには及ばず若も
町奉行より彼是を申出ば此方へ役人を
遣はすべし
屹度申渡すべき
筋も
有其方共も
落度には
毛頭相成ず
氣遣ひ無用なり何分
無禮の
無樣に致すべしと
云渡しければ兩人は是を
聞て
肝を
潰し將軍の
御落胤との事なれば少こし
安堵しけれども後々の
咎を
恐れ
早速名主組合へ右の
段を
屆け夫より町奉行の
御月番松平日向守殿
御役宅へ此段を
訴へける是に
依て
東町奉行鈴木
飛騨守殿へも
御相談となり是より
御城代堀田相模守殿へ
御屆に相成ば御城代は
玉造口の
御加番植村土佐守殿京橋口の御加番戸田
大隅守殿へも御相談となりしが先年
松平長七郎殿の
例もあり
迂濶には
取計ひ難し先々町奉行所へ
呼寄篤と
相調べ申べしと
相談一
決し御月番なれば西町奉行松平
日向守殿は
組與力堀十左衞門片岡逸平の兩人を
渡邊橋の天一坊の
旅館へ
遣はさる兩人は
玄關より
案内に及べば取次は
遠藤東次右衞門なり出て
挨拶に及ぶに兩人の
與力[#ルビの「よりき」は底本では「よりぎ」]の申には我々は
西町奉行松平日向守
組與力なるが天一坊殿に
御重役御意得たし少々
御伺ひ申度儀ありと
述ぶ
取次の遠藤東次右衞門は
早速奧へ
斯と通ぜんと
先兩人を
使者の間へ
請じ暫く
御待有べしと
控へさせける
間毎々々の
立派に兩人も
密かに
肝を
潰し居しが
頓て年頃は三十八九にて
色白く
丈高く
中肉にて
人品宜しき男の
黒羽二重の
小袖に
葵の
御紋を
付下には
淺黄無垢を
着し
茶宇の
袴を
靜々と
鳴して出來るは是なん
赤川大膳なり
頓て座に就て申樣
拙者は徳川天一坊殿
家來赤川大膳と申者なり何等の
御用向にて參られしと
尋ければ
與力等は
平伏して私し共は
當月番[#「當月番」は底本では「當日番」]町奉行松平日向守
組與力堀十左衞門片岡逸平なり奉行日向守申付には天一坊樣へ日向守
御目通り致し
直に
御伺ひ申度儀御座候得ば明日御
役宅迄天一坊樣に
御入來ある樣との
趣きなりと
述ければ大膳は
篤と
聞濟し其段は一
應伺ひの上
御返事に及び申べしと座を立て奧へ入しが
暫く
有て出來り兩人に
向ひ御口上の
趣き上へ
伺ひしに
御意には町奉行の役宅は
非人科人の出入致し
穢はしき場所の
由左樣の
不淨なる屋敷へは予は參る身ならず
用事と
有ば日向守殿に此方へ來られよとの
御意なれば
此段日向守殿へ
御達し下されと
言捨て奧へぞ入たり兩人は
手持無沙汰據ころなく
立歸り右の次第を日向守へ申
聞れば
此は
等閑ならぬ事なりとて又も
御城代堀田
相摸守殿へ申上らるれば
左樣の儀ならば
是非なし御城代
屋敷へ
呼寄對面せんと再び堀片岡の兩人を以て
御城代堀田相摸守殿
屋敷へ明日天一坊殿
入せられ候樣にと申入ける
此度は
異儀なく承知の
趣きの
返答あり依て日向守殿には
與力同心へ申付る
樣天一樣
定めし明日は
乘物なるべし
然ど御城代の
御門前にて
下乘致さすべし若も
下乘なき時は
屹度制止に及ぶべしと
嚴重にこそ申渡し
翌を
遲しと
待れける頃は
享保十一
丙午年四月十一日天一坊は
供揃ひして御城代の
屋敷へ
赴むく
其行列には先に
白木の
長持二
棹萌黄純子に
葵御紋付の
油箪を掛け
宰領二人づつ
跡より
麻上下にて
股立取たる
侍ひ一人是は
御長持預りの役なり
續いて
金御紋の
先箱二ツ
黒羽織の
徒士八人
煤竹羅紗の
袋に白く
葵の御紋を
切貫し
打物を持せ
陸尺十人
駕籠の左右に
諏訪右門本多源右衞門
高間大膳同じく
權内藤代要人遠藤東次右衞門等また
金御紋の
跡箱二ツ
簑箱一ツ
爪折傘には
黒天鵞絨に
紫の
化粧紐を
懸銀拵への
茶辨當合羽籠兩掛三
箇跡より
徒士四人
朱網代の
駕籠侍ひ四人
打物を持せ常樂院
天忠和尚引續いて
同じ
供立にて
黒叩き十文字の
鎗を持せしは
山内伊賀亮なり其次にも同じ供立に
鳥毛の
鎗を持せしは藤井
左京なり少し
離れて
白黒の
摘毛の鎗を
眞先に
押立麻上下にて馬上なるは赤川大膳にて今日の
御供頭たり右の同勢
堂々として渡邊橋の旅館を
立出下に/\と制しをなし御城代の
屋敷を
指て來りければ
道筋は
見物山をなして
夥だしく既に御城代屋敷へ到り
乘物を
玄關へ
横付にせん
氣色を見るより今日
出役の
與力駈來る是ぞ島秀之助といふ者なり
大音上て
下乘々々と制せしが更に
聞ぬ風して
尚も門内へ
舁込んとす
此時島秀之助
駈寄天一坊の乘物の
棒鼻へ手を
掛て
押戻し
假令何樣なる御身分たりとも此所にて御下乘あるべし未だ
公儀より
御達し
無うちは御城代の
御門内打乘決して相成申さず
是非御下乘と
制して
止ざれば然ばとて
餘儀なく門外にて下乘し
玄關へこそは
打通りぬ
島秀之助が今日の振舞後に關東へ聞え器量格別の者なりとて元文三年三月京都町奉行を仰付られ島長門守と言しは此人なりし同五年江戸町奉行となり延享三年寅年免ぜらる
此時天一坊の
裝束には
鼠琥珀に
紅裏付たる
袷小袖の下には
白無垢を
重ねて
山吹色の
素絹を
着し
紫斜子の
指貫を
帶き
蜀紅錦の
袈裟を掛け
金作り
鳥頭の太刀を
帶し手には金地の
中啓を
握り
爪折傘を
差掛させ
沓しと/\と
踏鳴し靜々とぞ
歩行ける
附從がふ
小姓の面々には
麻上下の
股立を取て左右を
守護しける
引續いて常樂院
天忠和尚は
紫の衣に白地の
袈裟を掛け
殊勝げに手に
念珠を
携へて
相隨ひ山内伊賀亮には
黒羽二重の
袷小袖に
柿染の
長上下その外赤川大膳藤井
左京皆々麻上下にて
續て隨ひ來る
其行粧は
威風堂々として四邊を
拂ひ
目覺しくも又
勇々敷ぞ見えたりける
斯て玄關に到れば取次の
役人兩人
下座敷まで
出迎へ案内して
廣書院へ通せしを見るに上段には
簾を
下し中には二
疊臺の上に
錦の
褥を敷て座を
設けたり引れて
此處へ
着座すれば左右には常樂院
天忠山内赤川藤井等の
[#「常樂院天忠山内赤川藤井等の」は底本では「常樂院天忠山内伊賀藤井等の」]面々
威儀を
正して座を
占たり
大坂
御城代堀田相摸守殿の屋敷へ天一坊を
請し書院上段の
下段に御城代相摸守殿を
初として
加番には戸田
大隅守殿同植村土佐守殿
町奉行には松平
日向守殿鈴木
飛騨守殿
大番頭松平
采女正殿
設樂河内守殿
御目附御番
衆列座し
縁側には與力
[#「與力」は底本では「興力」]十人同心二十人
出役致しいと
嚴重に
構へたり時に上段の
簾をきり/\と
卷上れば御城代堀田相摸守殿
平伏致され少し
頭を上て恐れ乍ら今般
如何なる事ゆゑ
御上坂町奉行へ
御屆もなく
理不盡に
御紋付の御幕を
御旅館へ張せられ
町家には
御旅宿相成候や
剩さへ
御苗字の表札を
建させ給ふ事
不審に存じ奉る此段
伺ひ申さん爲今日
御招き申したり御身分の
義明かに
仰聞せられたしとぞ
相述らる時に天一坊
言葉を
柔げ相摸殿よく
承はられよ徳川は
予が
本性ゆゑ名乘申す
又葵も予が
定紋なる故用ゆる
迄なり何の
不審か有べきとの
詞を聞より相摸守殿は
恐ながら左樣の
仰聞らるゝ計にては
會得も
仕つり難し右には
其御因縁も候はんが其を
委敷仰聞られ
下されたしといふ
其時伊賀亮少しく
席を
進み相摸守殿に向ひ相摸守には
上の
御身分を
不審せらるゝ
御樣子是は尤も千萬なり
御筋目の儀は委敷
此伊賀より
御聽せ申べし
抑々天一樣御身分と申せば
當上樣未だ
御弱年にて紀州表御
家老加納將監方に御
部屋住にて
渡らせ給ひ徳太郎
信房君と申上し
折柄將監妻が
腰元の澤の井と申女中に
御不愍掛させられ澤の井殿
御胤を
宿し奉つり
御形見等を
頂戴し將監方を
暇を取生國は
佐渡なれば則ち佐州へ
老母諸共に立歸りしが
其後澤の井殿には
若君を
生奉つり
産後肥立兼相果られ其後は
老母の手にて
御養育申せしが右の老母
病死の
砌り若君をば同國
相川郡尾島村
淨覺院と申す寺の門前に御
證據の品を
相添捨子として有しを是なる天忠淨覺院
住職の
砌り
拾ひ上て御養育申
上し處間もなく天忠には
美濃國
各務郡谷汲郷長洞村常樂院へ
轉住致し候に付若君をも
伴ひ奉つれり依て
御生長の土地は美濃國にて候
此度受戒得道なし奉つり常樂院の
後住にも
直し申べくと存じ候得ども
正しく當將軍の
御落胤たるを知つゝ
出家になし奉らんは
勿體なき儀に付今度我々
守護し奉つり江戸
表へ御供仕つるに
就ては一度江戸表へ御下りの
上は二度
京坂の
御見物も思召に
任せられざるべしと依て只今の
内京坂御遊覽の爲
當表へは御
出遊されしなり
委細は斯の如し相摸殿にも是にて
疑念有べからずと
辯舌滔々として水の
流るゝ如に
述たり是を
聞居る
諸役人御城代を
始めとし
各々顏を見合せ
誰有て一
言申出る者なく
如何にも
尤もの事と思ふ
氣色なり此時
御城代相摸守殿申さるゝ樣は
成程段々の御申立
委細承知せり併し夫には
慥に
御落胤たるの御
證據を
拜見願ひたしと申さる依て伊賀亮は天一坊に
向ひ御城代相摸守より
御證據拜見の願ひあり
如何仕まつらんと云に天一坊は願の
趣き
聞屆けたり拜見致させよとの事なり
則ち赤川大膳御
長持を
明て内より
白木の
箱と
黒塗の箱とを取出し伊賀亮が
前へ差出す時に伊賀亮は天一坊に
默禮し
恭しく
件の
箱の
紐を
解中より
御墨附と御
短刀とを取出し相摸殿
率拜見と差付れば御城代
初め町奉行に至る迄
各々再拜し一人々々に
拜見相濟む
是紛もなき
正眞の御
直筆と御短刀なれば一同に
驚き入る是に於て
疑心晴相摸守殿には伊賀亮に
向ひ
斯確なる
御證據の御座ある上は將軍の
御落胤に相違なく
渡らせ給へり此段
早速江戸表へ申
達し
御老中の
返事を得し上
此方より申上べし
先夫れ迄は
當表に
御逗留緩々御遊覽有べき樣
言上せらるべし
御證據の品々は
先御納下さるべしと伊賀亮へ
返しぬ是より種々
饗應に及び其日の八つ
過に
御歸館を
觸ぬ此度は相摸守殿には
玄關式臺迄御見送り町奉行は下座敷へ
罷出で
表門を一文字に
推開けば天一坊は
悠然と乘物の
儘門を出るや否や下に/\の
制止の
聲々滯ほりなく渡邊橋の
旅館にこそ歸りける今は
誰憚る者はなく幕は
玄關へ
閃き表札は雲にも
屆くべく恰も
旭の
昇るが如き
勢ひなれば
町役人どもは晝夜
相詰いと
嚴重の
待なり
扨御城代には
御墨附の
寫し并びに
御短刀の
寸法拵へ迄
委敷認め
委細を御月番の御老中へ
宛急飛を差立らる
爰に又天一坊の
旅館には山内伊賀亮常樂院赤川大膳藤井左京等
尚も
密談に及び大坂は
餘程に
富地なり此處にて
用金を
集めんと
評議に及び即ち
紅屋庄藏大和屋三郎兵衞の兩人を
招き帶刀を
許し
扨申談ずる樣は天一坊樣
此度御城代の
御面會も相濟たれば近々江戸表よりの
御下知次第
江府へ御下り有て將軍へ
御對顏相濟ば西の御丸へ
直られ
給に相違なし依て兩人より金三百兩づつ
御用金を差出すに於ては
返金は申に及ばず
御褒美として
知行百石づつ下し置れる樣
拙者どもが
屹度取り計ひ
遣すべし若し御家來に御取立を
望まずば
永代倉元役を
周旋すべし依て千兩は千石の
御墨附と御引替に
下し
置るべしと
語らうに兩人とも昨日の
動靜に
安堵しければこの事を所々へ取持たれば其を
聞傳へて申込者は鹿島屋兵助鴻池善右衞門角屋與兵衞天王寺屋儀兵衞
襖屋三右衞門
播磨屋五兵衞等を
初として我先にと
金子を持參し少しも早く
御用立る者は
知行多く下さるとて毎日々々
紅屋方へ
取次を頼み來る
有徳の町人百姓又は醫師など迄思ひ/\に五百兩千兩と持參する者引も
切ず其金高日ならずして八萬五千兩に及びければ一同は
先是にて
差向の
賄ひ方には不自由無し此上
案じらるゝは
江戸表の
御沙汰ばかり今や/\と
相待ける
扨も大坂御城代の
早打程なく江戸へ
到着し御月番
御老中松平伊豆守殿御役宅へ
書状を差出せば御同役松平
左京太夫殿酒井
讃岐守殿を始め自餘の御役人
列座の席にて伊豆守殿大坂御城代よりの書面の儀を
御相談あり何れも
慥なる
證據と有上は
大切の儀なり宜しく上聞に達し
御覺悟有せらるゝ事成ば
急ぎ當地へ
御下り申し其上
何樣とも思召に
任せ然るべしと
評議一決しけるが此儀を上へ
伺ふには餘人にては
宜からず兼々
御懇命を
蒙る石川近江守然るべしとて近江守を
招かれ
委細申し
含め
御機嫌を見合せ伺ひ申べしとのことにて
先夫迄は大坂の
早打は
留置との趣きなり近江守は甚だ
迷惑の儀なれども
御重役の申付
是非なく御機嫌の
宜き時節を待居たり或日將軍家には
御庭へ成せられ
何氣なく
植木など
御覽遊ばし
御機嫌の
麗く見ゆれば近江守は
御小姓衆へ
目配せし其座を
退ぞけ獨り
御側へ
進寄聲を
潜て大坂より
早打の次第を
伺ひたれば甚だ
御赤面の體にて
知ぬ/\との
上意なれば推返して伺ひけるに
成程少し心當りはあり書付を遣はせし事ありとの上意なれば近江守は
御答の趣き早速松平伊豆守殿へ申通じければ又々御役人方
御評議となり御連名にて
返翰を遣されたり其文は
先達て
仰越れ候天一坊殿の儀石川近江守を以て御内意伺ひし處
上樣には御覺悟有せらるゝとの仰なり隨分
粗略なく御取計ひ有べく候
尚御機嫌を見合せ追て申達すべしとの
返翰なり斯樣に江戸表より粗略にすべからずとの
儀なれば
御城代の下知として
俄に天一坊の
旅官を前後左右に
竹矢來を結び前後に
箱番所を取建四方の
道筋へは與力同心等晝夜出役して
往來の旅人
馬駕籠は
乘打を禁じ
頭巾頬冠りをも制し嚴重に警固せり天一坊方にては此樣子を見て先々江戸表の
首尾も宜しき事と見えたりとて
各々悦び勇み居たりけり
去程に
御城代より天一坊の旅館を斯く嚴重に
警固有ければ天一坊伊賀亮大膳左京常樂院等の五人は一室に打寄事大方は
成就せりと悦び
然ば此上は近々の
内當所を引上出立し京都に赴き諸司代にも
威勢を示し其より江戸表へ下る
可と
相談一決せしが未だ御家來不足なり大坂にて
召抱んと夫々へ申付此度
新規に抱たる者共には米屋甚助事
石黒善太夫筆屋三右衞門事
福島彌右衞門町方
住居の手習師匠
矢島主計辰巳屋石右衞門番頭三次事
木下新助伊丹屋十藏事
澤邊十藏酒屋長右衞門事
松倉長右衞門町
醫師高岡玄純酒屋新右衞門事
上國三九郎
鎗術指南の浪人
近松源八上總屋五郎兵衞事
相良傳九郎と各々
改名させ都合十人の者を
召抱へ先是にて
可なり
間に合べし然らば
片時も早く京都へ立越べしと此旨を御城代へ
屆ける使者は赤川大膳是を
勤む其節の口上には近々天一坊京都御見物の思召あれば
御上京遊ばすに付當表の御
旅館御
引拂ひ成べくに付此段お達しに及ぶとの
趣きなり夫と聞より大坂の
役人中は
疫病神を追拂ふが如くに悦び片時も早く
立退かせんと
内々囁やきけるとなり斯て天一坊の方にては
先京都の御旅館の
見立役として赤川大膳は五六日先へ立て上京し
京中の
明家を相尋ねしに三
條通りの錢屋四
郎右衞門[#「錢屋四郎右衞門」は底本では「錢屋四郎左衞門」]方に
屈竟の明店
有を聞出し
早速同人方へ到り掛合樣此度
聖護院の
宮御配下天一坊樣御上京に
付拙者御旅館
展檢の
爲上京し所々聞合せしに
貴所方明店然るべしと申事なり
何卒御上京
御逗留中借用致し度との旨なりしが四郎右衞門は異儀なく
承知しければ同人の
口入にて直樣金銀を
吝まず
大工泥工を雇ひ俄に
假玄關を拵らへ晝夜の別なく急ぎ
修復を加へ
障子唐紙疊まで出來に及べば
此旨飛脚を以て大坂へ申
越ば然ば急々上京すべし尤とも
此度は大坂表へ
繰込の
節より
一際目立樣にすべしと
伊賀亮は萬端に心を配り新規召抱の家來へも夫々
役割申付用意も
荒増に屆きたれば愈々明日の出立と相定め伊賀亮常樂院等の
連名にて大膳方へ
書翰を以て
彌々明十日大坂表御出立明後十一日京都御着の思召なれば
其用意有べしと
認め送れり頃は享保十一丙午年六月十日の
早天に大坂
渡邊橋の旅館を出立す
其行列以前に倍して
行粧善美を
粧ひ道中
滯りなく十一日晝過に京都四條通りの旅館へぞ
着なせり則ち大坂の如くに入口玄關へは
紫き
縮緬の
葵の
紋の幕を
張渡し門前へは大きなる
表札を立置ける
錢屋四郎右衞門は是を見て大に驚き赤川大膳に
對面して仔細を問に天一坊樣は
當將軍の御
落胤なれば徳川の表札御紋付の幕も更に
憚る儀にあらずと
彼紅屋等に語りし如く
空嘯ふいて告ければ四郎右衞門は今更
詮方なく
迷惑が無ればよしと心中に思ふのみ乍ら
捨置ては無念ならんと此段
奉行所へ
町役人同道にて訴へ
出其
趣は此度錢屋四郎右衞門方へ
聖護院宮樣の
御配下天一坊樣御旅舍の儀明家の儀なれば貸申候に
昨夜御到着の
後玄關へは御紋付きの御幕を
張剩さへ徳川天一坊旅館との表札を差出され候故其仔細承はり候に天一坊樣には當將軍家の御落胤にて徳川は御
本姓葵は
御定紋との趣きなり依て此段念の爲御屆申上るとの趣きを
書面にし訴へ
出町奉行所にては是ぞ大坂に
噂の有者
併し
理不盡の振舞なりとて早速役人を出張せしめ速かに
召連參るべし仰せ
畏り候とて
手附の與力兩人を錢屋方へつかはさる兩人の與力は旅館に到り見るに
嚴重なる有樣なれば
粗忽の事もならずと
先玄關に案内を
乞重役に對面の儀を申入取次は斯と奧へ通じければ
頓て山内伊賀亮
繼上下にて
出來り與力に向ひ申す樣各々には
何用の有て參られしやといふに
答て餘の儀に非ず
譬何樣の御身分なりとも町旅館なさるゝ節は當所支配の奉行へ一應御
屆有べき筈なるに其儀もなく
剩さへ徳川の御表札に御紋付の御幕は其意を得ず依て町奉行所へ御
同道申さんため我々兩人
參て候なりと聞て伊賀亮は
態と
氣色を
變へ夫は甚だ心得ざる口上なり各々には
如何樣の
身分にて恐れ多も天一坊樣を奉行所へ
召連奉らん
抔と
上へ對し
容易ならざる
過言無禮とや言ん
緩怠とや言ん言語に絶せし口上かな
忝なくも天一坊樣には當將軍家の御
落胤にて既に大坂城代より江戸表へも上申に相成
御左右次第江戸へ
御下向の
御積其間に京都御
遊覽の爲め
上京此段町奉行にも心得有べき筈
不屆至極の使者今一言申さばと
威丈高に
遣込其上汝知らずや町奉行所は
科人
罪人の出入する
不淨の場所なり左樣なる
穢れし場所へ御成を願ふは
不埓千萬なり伺ひ度儀あらば奉行が自身に
參上すべき筈なり今般の儀は
役儀に免じ御許しあるべし此趣き早々
罷歸り奉行に申達すべしと云捨て伊賀亮はツと
奧へ
入ば兩人は散々に
恥しめられ
凄々と御役宅へ歸り奉行へ此由を申せば其は
捨置難しと
早速諸司代へ到り
牧野丹波守殿へ此段申上るに然ば諸司代屋敷へ相招ぎ吟味を
遂相違無に於ては
當表よりも江戸へ
注進すべしと
評定一決し牧野丹波守殿より使者を以て招がれける
此方は思ふ
壺成ば此度は
異儀無參るべしと返答し諸司代の目を驚かし呉んものと
行列を
粧ひ諸司代屋敷へ
赴むきしかば牧野丹波守殿
對面有て身分より御
證據の品の拜見もありしに全く相違なしと
見屆け京都よりも又此段を江戸表
御月番御老中へ
御屆に相成る先達て御城代堀田相摸守殿よりの
早打上聞に達せしに
御覺悟有せらるゝの上意なれば京都に於ても
麁略無樣計らひ申さるべしとの事
故然ば其儘に
差置れずと
俄に
組與力等出張せしめ
晝夜とも
嚴重に
固めさせける此方にては愈々上首尾と
打悦び又も近邊の有徳なる者どもを進め
用金をば
集めける京都にても五萬五千兩程集まり
京大坂にて都合十五萬兩餘の大金と成ば
最早金子は
不足なし此勢に
乘じて江戸へ
押下りいよ/\大事を計らはんは如何にと
相談有しに山内伊賀亮進出て云やう京坂は
荒増仕濟したれど江戸表には諸役人ども多く
是迄とは
違ひ先老中には
智慧伊豆守あり町奉行には
名代の大岡越前など
有ば容易には事を
爲難し依て
一先江戸表へ
御旅館を
修繕篤と
動靜見計ひ其上にて御下り有て然るべし其
間には江戸表の
御沙汰も相分り申さん
變に
應じて事を計らはざれば
成就の
程計難しといふに然ば江戸表に
旅館を
構ゆる
手續に掛らんとて常樂院の
別懇に
南藏院と
云江戸
芝田町に
修驗者あれば此者方へ
常樂院の
添状を持せ
本多源右衞門に金子を渡し
先江戸表へ下しける源右衞門は道中を急ぎ江戸
芝田町南藏院方へ
着し常樂院の
手紙を
渡し其夜は口上にて
委細咄に及べば南藏院は
篤と承知し
早速懇意なる芝田町二丁目の
阿波屋吉兵衞品川宿の河内屋與兵衞本石町二丁目の
松屋佐四郎
下鎌田村の
長谷川卯兵衞兩國米澤町の
鼈甲屋喜助等の五人を語らひ品川宿近江屋儀右衞門の
地面芝高輪八山に
有を買取て普請にぞ取掛りける表門玄關使者の間
大書院小
書院居間其外諸役所長屋
等迄殘る所なく入用を
厭はず
晝夜を掛て急ぐ程に僅かに五十日許りにて
荒増出來上り
建具屋疊張付諸造作庭廻りまで全く普請は成就して壯嚴美々敷調ひけり
依て本多源右衞門と南藏院の
兩名にて
普請出來せし旨を京都へ申
遣はしければ天一坊は伊賀亮大膳等の五人と
密談を
遂いよ/\江戸の
普請成就の上は片時も早く彼地へ下り變に應じ機に臨み施す
謀計は
幾計もあるべし首尾能
御目見さへ濟ば最早
氣遣ひなし然ば發足有べしと江戸
下向の用意にこそは
掛りける
斯て江戸高輪の
旅館出來の由
書状到來せしかば一同に
評議の上早々江戸下向と決し用意も既に
調ひしかば諸司代
牧野丹波守殿へ使者を以て此段を
相屆ける頃は
享保十一午年九月廿日天一坊が京都出立の
行列は
先供は例の如く赤川大膳と藤井左京の
兩人一日代りの積りにて其供方には
徒士若黨四人づつ
長棒の
駕籠に
陸尺八人
跡箱二人
鎗長柄傘杖草履取兩掛合羽籠等なり其跡は天一坊の同勢にて
眞先なる
白木の長持には
葵の
御紋を
染出したる
萌黄緞子の
[#「萌黄緞子の」は底本では「萌黄純子の」]油箪を掛て二棹宰領四人づつ次に
黒塗に
金紋付
紫きの
化粧紐掛たる先箱二ツ徒士十人次に黒天鵞絨に白く
御紋を切付し
袋の
打物栗色網代の輿物には陸尺十二人近習の侍ひ左右に五人づつ
跡箱二ツ是も同く黒
塗金紋付
紫きの
化粧紐を掛たり
續いて
簑箱一ツ朱の
爪折傘は
天鵞絨の袋に入紫の化粧紐を掛たり
引馬一疋
銀拵への茶辨當には高岡玄純付添ふ其餘は合羽籠兩掛等なり繼いて
朱塗に十六葉の
菊の
紋を付紫の化粧紐を掛たる先箱二ツ徒士五人
打物を先に立朱網代の乘物には常樂院天忠和尚跡は四人の
徒士若黨長棒の駕籠には山内伊賀亮
外に乘物十六
挺駄荷物十七
荷桐棒駕籠五挺都合上下二百六十四人の
同勢にて道中
筋は下に/\と制止聲を懸させ目を
驚かすばかりいと勇ましく出立し既に三
河國岡崎の宿へぞ
着しける此
岡崎の城下は上の
本陣下の本陣迚二軒あり天一坊は
上の本陣へ
旅宿を取表に彼の大表
札に徳川天一坊旅宿と
書しを
押立玄關には
紫き縮緬の幕を
張威儀嚴重に構へたり此時下の本陣には
播州姫路の城主酒井雅樂頭
殿歸國の折柄にて御旅宿なりしが
雅樂頭殿上の本陣に天一坊旅宿の由を聞及び給ひ御家來に
仰らるゝ
樣兼々江戸表にも
噂有し天一坊とやら
此度下向と相見えたり此所にて出會ては
面倒なり何卒
行逢ぬ樣にしたしと思召御
近習を召て其方
密かに彼が旅宿の
邊へ參り密々明日の出立の
時間を聞合せ參るべしと申付らる近習は
頓て上本陣の邊りへ立越
便宜を
窺がへば折節本陣より
侍ひ一人出來りぬれば
進み寄て天一坊樣には明日は
御逗留なるや又は
御發駕に相成やと問けるに彼の侍ひ答て天一坊樣には明日は
當所に御逗留の積なりとぞ答へたり
是は伊賀亮が兼ての
工にて若も酒井家より明日の
出立を聞合せて
參るまじきにも
非ず其時は
逗留と答へよと下々迄申付置しに是は雅樂頭殿に
油斷させ明朝
途中にて
行逢威光を見せんとの
謀計なりしとぞ斯る巧のありとは
夢にも知ず其言葉を
實と思ひ早速
立歸て雅樂頭殿へ
此由を申上れば然ば明朝は
未明彼に先立出立せん其用意致すべしと
觸出されける然ば其夜何れも
寢る者なく
早も用意に及び
寅の
刻にも成ければ出立いたされ
暗きに
靜々と同勢を繰出さる天一坊
方には山内伊賀亮が
計ひにて
忍びを入れ此樣子を承知して
遠見を出し置雅樂頭殿
出門有ば此方も出門に及ぶべしと
悉く夜の内に支度を調へ今や/\と待居たり
只今雅樂頭出門との
知せに直此方も
繰出せり酒井家は
斯あらんとは少しも知ず
行列嚴重に來懸る處此方は
御墨附御
短刀の長持を眞先に進ませ下に/\と
制止を
懸れば雅樂頭殿是を
聞玉ひ驚かれしが
今更跡へ引返さんも如何なり何とかせんと
猶豫の内に最早御墨附の長持と
行逢程に成たり
此に
至つて
[#「至つて」は底本では「至て」]雅樂頭殿は
據ころなく
駕籠より下て
控られ御墨附の通る間雅樂頭殿には
頭を
下て居給へり
元來巧し事なれば天一坊の乘物も此日は此長持に
引添て來り天一坊は駕籠の中より
聲を
懸酒井殿
乘打御免と云捨て
馳拔ければ思はずも雅樂頭殿には天一坊にまで下座をし給ふ此は無念なりと
蹉
なして
怒給ひしが今更
詮方も無りしとぞ
假初にも十五萬石にて播州姫路の城主たる
御身分が
素性もいまだ
慥ならぬ天一坊に下座
有しは
殘念と云も餘りあり天一坊は
流石の
酒井家さへ下座されしと
態と
言觸し其
威勢濤の如くなれば東海道筋にて誰一人爭ふ者はなく
揚々として下りけるは
大膽不敵の振舞と云べし扨も享保十一
午年九月廿日に京都を發足し
威光列風の如く十三日の
道中にて東海道を滯りなく十月
[#「十月」は底本では「十二月」]二日に江戸芝高輪
八山の旅館へ着せり玄關には
例の御紋附の幕を
張徳川天一坊殿旅館と墨黒に書し表札を
押立たれば之を見る者
扨こそ
噂のある
公方樣の御落胤の天一坊樣といふ御方なるぞ無禮せば
咎も有んと恐れざる
者もなく此段早くも
町奉行大岡越前守殿の
耳に入り
彼所は
當奉行支配の地なれば
捨置難しと
密々調べられし
上この段
御老中筆頭松平
伊豆守殿へ御屆に及ばるれば
早速御老中
若年寄御相談の
上先伊豆守殿
御役宅へ
相招き
實否取糺しの上にて御落胤に相違なきに於ては
速かに
上聞に
達し
取計ひ方も有べしと
評議一決し則ち松平伊豆守殿より
公用人を以て
八山なる旅館へ申遣しける
趣きは此度天一坊樣
御下向に
付ては重役の者一
統相伺ひ申
度儀こそ有ば明日五ツ
時伊豆守御役宅へ御出あらせられ
度との
口上を申
入るれば
頓て山内伊賀亮
出會し
再び
出來り
御申
越の
趣き伺ひし處
明日伊豆守殿御屋敷へ
入せられ候儀御承知の御返答なり
其節萬端宜く伊豆殿に頼み入趣きなりとの
挨拶なり扨翌朝になり八山にては行列を
揃へ今日は先供として山内伊賀亮
御墨附の長持を
宰領す供には常樂院大膳左京等皆々附隨がふ
程なく伊豆守殿御役宅に到るに
開門あれば天一坊の乘物は
玄關へ
横付にしたり案内の公用人に
引れ
廣書院へ通り
上段なる設の席に着す常樂院伊賀亮等は
次の
間へ着座す又此方に控へらるゝ
御役人方には
御老中筆頭松平伊豆守殿を始め
松平左近將監
酒井讃岐守
戸田山城守
水野和泉守
若年寄には
水野壹岐守
本多伊豫守
太田備中守松平左京太夫御側御用人には
石川近江守
寺社奉行には
黒田豐前守
小出信濃守
土岐丹後守
井上河内守
大目附には松平相摸守
奧津能登守
上田周防守
有馬出羽守町奉行には大岡越前守
諏訪美濃守
御勘定奉行には
駒木根肥前守
筧播磨守
久松豐前守
稻生下野守御目附には
野々山市十郎
松田勘解由徳山五
兵衞等の
諸御役人輝星の如く
列座せらる此時松平伊豆守殿
進出て申されけるは此度天一坊殿
關東下向に付今日御役人ども
御對面を
願ふとの
趣なり此時隔の
襖を押明れば天一坊威儀を繕ろひ然も
鷹揚に此方を見廻せば一
同平伏ある時に伊豆守殿は伊賀亮に
向はれ申さるゝ樣天一坊殿
御出生の
地并に御成長の所は何の地なるやと
尋らるゝに此時常樂院は
懷中より
書付を取出し御身分の
儀は
委細是に相認め御座候と
差出す伊豆殿
請取て開き見らるゝに
佐州相川郡尾島村淨覺院の門前に御墨附に御短刀相添て
捨是有しを淨覺院
先住天道是を
拾ひ揚て弟子とし參らせし處天道先年
遷化の
後天忠即ち
住職仕つり其
砌に天一坊樣をも
附屬致され後年御世に出し
參らすべしとの
遺言なれば天忠
御養育なし參らせし處其後天忠
美濃國谷汲郷長洞村常樂院へ
轉住せしに付御同道申
上同院にて御成長に御座候と書認めたり伊豆殿
見終り玉ひ御書面にて先
御誕生後御成長迄は分りたれども
未だ
如何なる
御腹に御出生ありしや
不分明なり此儀は如何にと
問れたり
此時山内伊賀亮
座を
進申樣天一坊樣御身分の儀は
只今の書付にて
委しく御承知ならんが御腹の儀御
不審御
尤ともに存候されば拙者より
委細申上べし
抑當將軍樣
紀州和歌山加納將監方に御部屋住にて渡らせ給ふ
節將監妻の
召使ふ
腰元澤の
井と申
婦女の
上樣御情懸させられ御胤を宿し奉りし處
御部屋住の
儀成ば後々召出さるべしとの御約束にて
夫迄は何れへ成とも身を
寄時節を待べしとの上意にて
御墨附御短刀を後の
證據として下し置れしが澤の井儀は
元佐渡出生の者故老母諸共生國佐州へ
歸り間もなく御安産なりしが
産後の
血暈にて
肥立かね澤の井樣には相果られ其後は
老母の手にて
養育申上しが又候老母も病氣にて若君の御
養育相屆かず即はち淨覺院の門前に捨子と致し右老母も
死去致したるなり淨覺院先住天道存命中の
遺言斯の如し依て常樂院初め我々御守護申上
何卒御世に出し奉らんと
渺々御供申上候なりと辯舌水の流るゝ如く
滔々と申述ければ松平伊豆守殿初め
御役人方いづれも
詞は無く
只點頭ばかりなりしが然ば御身分の儀は
委敷相分りたり此上は御
證據の品々拜見致し度と申されければ伊賀亮は天一坊に
向ひ伊豆殿御證據の御
品拜見を相願はれ候
如何計ひ申さんといふに天一坊は
許すと計り言葉少なに言放せば大膳は
鍵取出し二品を取出し
三寶に
載持出伊豆守殿の前に
差置にぞ伊豆守殿初め重役の面々各々
手水して先御墨附を
拜見に及ばる
其文面は例の如く
其方懷妊の由我等血筋に相違是なし
若男子出生に於ては時節を以て呼出すべし女子たらば其方の勝手に致すべし後日證據の爲め
我等身に添大切に致し候
短刀相添遣し置者也依て如件
寛永二申年
[#「寛永二申年」はママ]十月
徳太郎信房
澤の井女へ
とあり
御直筆に相違なければ
面々恐れ入り拜見致されまた御短刀をも一見するに
紛ふ方なき御品なれば御老中
若年寄には愈々將軍の
御落胤に相違なしと
承伏し伊豆守殿
則ち伊賀亮を以て天一坊へ申上られける樣は
先刻より重役ども一同御身の上
委細承知仕り
斯の如く
慥なる御證據ある上は何をか
疑ひ申べき將軍の
若君たるに相違なく存じ奉る此上は
一同篤と
相談仕り近々に御親子
御對顏に相成候樣取計ひ仕るべし
夫迄は
八山御旅館に
御座成れ候樣願ひ奉ると言上に及ばる
是にて
御席相濟伊豆守殿より種々
御饗應有て其後歸館を
相觸らる此度は玄關迄伊豆守殿初め御役人殘らず見送りなればいとゞ
威光は
彌増たり是にて
愈々謀計成就せりと一同
安堵の思ひをなしにけり扨又伊豆守殿
御役宅には天一坊歸館の跡にて御老中には伊豆守殿松平左近將監殿酒井讃岐守殿戸田山城守殿
水野和泉守殿若年寄衆は
水野壹岐守殿本多伊豫守殿太田備中守殿松平左京太夫殿等
御相談の上にて
御側御用御取次を以て申上られけるは
先達て大坂表より御屆に相成りし天一坊樣御事
今般芝八山御旅館へ
御到着に付今日伊豆守御役宅にて諸役人一同恐れ
乍ら御身分の
御調べ申上げ御證據の品々拜見仕りしに御血筋に相違御座なくと存じ奉り候今日は御歸館なさせ奉りしが
何れ近日
吉日を
撰び御親子御對顏の儀計らひ奉るべく就ては御日
限の
儀御沙汰願ひ奉るとの儀なれば將軍吉宗公には是を
聞し
召れ限りなき
御祝着にて
片時も早く
逢度との上意なりし御親子の御
間柄また
別段の御事なり扨も大岡越前守殿には數寄屋橋の御役宅へ歸り
獨熟々勘考有に天一坊の
相貌不審千萬なりと思はるれば
翌朝未明伊豆殿御役宅へ參られ御
逢を願はれしが此日も伊豆殿の御役宅には
御内談有て松平左近將監殿酒井讃岐守殿御出なり其席へ越前守を
招かれける時に越前守
低頭して恐れながら越前守申上候は昨日御逢これ有りし天一坊殿の儀御
評議如何候や
伺ひ
度參上せりと
聞れ伊豆守殿の
仰せに天一坊殿の御身分の儀昨日拙者どもにも御
落胤に相違
無と存ずれば
依て上聞に
達せしに
上にも御
覺悟有らせられ
速かに
逢度との上意なれば近々吉日を
撰び御對顏の
儀取計ひ其上は上の
思召に
[#「思召に」は底本では「思召に」]任すべきに決せりとの事なり此時まで
平伏せられし越前守
頭を
少し上げて伊豆守殿に向ひ御重役方の斯く御評議
御決定に相成候を越前
斯樣に申上候は
甚だ
恐入候へ共少々思付候仔細御座候是を申
述ざるも
不忠と存候此儀私事には候はず天下の
御爲君への
忠義にも御座あるべく依て
包まず言上仕り候越前儀
未熟ながら
幼少の時より
人相を
聊か
相學び候故昨日
間は
隔ち候へ共彼の方を
篤と拜見候處
御面相甚だ
宜しからず第一に目と
頬との
間に
凶相現はる是は存外の
謀計を
企つる相にて
又眼中殺伐の氣あり是は人を
害したる
相貌なり且眼中に赤き
筋ありて
此筋瞳を
貫くは
劔難の相にて三十日
立ざる内に
刃に
掛り
相果るの相なり斯る
不徳の
凶相にして將軍の御子樣とは存じ奉り
難し越前守が
思考には御品は實なれど御當人に於ては
何とも
怪しく存ずるなり
愚案は
御目鏡には
背き候へども
何卒此御身の上は今一
應越前へ
吟味を
相許し下されたし越前篤と相調べ其上にて御親子
御對顏の儀御取計ひ有るとも
遲かるまじくと存ず此段願ひ奉るとの趣きなり伊豆守殿斯と
聞給ふより
忽ち
怒り
面に
顯れ越前守を
白眼へ越前只今の申條
過言なり昨日重役ども並に諸役人一同
相調べし御身分將軍の御落胤に相違なしと
見極め
上聞にも
達したる儀を其方一人是を
拒み
贋者と申立
慥なる證據もなく
再吟味願ひ出るは拙者どもが調べを
不行屆と申にや何分にも重役どもを
蔑しろに致す
仕方不屆至極なりと
叱り玉へば越前守には少しも恐るゝ色なく全く越前自己の
了簡を立んとて御重役を
蔑しろに致すべきや此吟味の儀は御法に
背き候とは
苟くも越前御役をも
相勤る身分なれば
辨へ居候へども只々天下の御爲國家の大事と存じ
聊か忠義と心得候へば
何卒枉て
御身分調の事一
應越前へ御許し下されたしと
押て願ひ申されける此時松平左近將監殿仰せらるには是越前其方は重役共の吟味を
悖き再吟味を願ひ
若將軍の御胤に相違なき時は
其方如何致す所存にやと
仰られければ越前守
愼んで答らるゝ樣
御意に候再吟味願の義は越前が身に
替ての願ひに御座候へは
萬一天一坊殿將軍の御子に相違なき時は越前が三千石の
知行は元より
家名斷絶切腹も覺悟なりと御答に及ばれける此時酒井讃岐守殿の仰には越前其方は
飽まで拙者
共を
蔑しろにし
押て再吟味願ふは其方の爲に宜しからぬぞ
控られよと仰せらるれども
假令身分は
何樣に相成候とも
苦しからず君への御爲天下の爲なり
幾重にも再吟味の儀御許し下され度
偏に願ひ
奉と再三押て願はれければ伊豆殿
散々に
氣色を
損ぜられ其方
左程に再吟味致し度とあれば
勝手にせよと
立腹の體にて座をば
立たまひたり是に
依て御列座も皆々
退參と相成りければ跡に越前守只一人
殘て
手持なき體なりしが外に
詮すべもなくて
凄々として御役宅を立ち去り歸宅せられしが忠義に
凝なる所存を
固め種々に
思案を
廻し
如何にも天一坊
怪敷振舞なれば是非とも再吟味せんものと思へど御重役方は取上られず此上は是非に及ばず
假令此身は
御咎を
蒙るとも
明朝は未明に登城に及び
直々將軍家に願ひ奉るより
外なしと思案を
極め家來を呼び出され
明朝は六時の御
太鼓を
相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、76-2]に登城致す
間其用意いたすべしと云付けられたり
扨も松平伊豆守殿には大岡越前守の
戻られし跡にて
熟々と思案あるに越前
定めし明朝は登城なし天一坊樣御身分再吟味の儀將軍へ
直に願ひ出るも
計り
難し然ば此方も早く登城し越前に先を
越申上
置ざれば
叶ふ可らずと是も明朝
明六時のお太鼓に登城の用意を申付られたり
既にして
翌日御城のお太鼓
六の
刻限鼕々と
鳴響けば松平伊豆守殿には登城門よりハヤ
駕籠をぞ
馳られけり又大岡越前守には
同く六のお太鼓を
相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、76-8]に是も御役宅を立出たり然るに伊豆守殿御役宅は
西丸下なり越前守の御役宅は
數寄屋橋御門内なれば
其道筋も
隔たれば伊豆守殿には越前守より
少しく先に御登城あり
御用取次は未だ登城なく
御側衆の泊番高木伊勢守のみ
相詰たり
乃ち伊豆守殿
芙蓉の
間に於て高木伊勢守を
召れ
突然と尋ねらるゝは
貴所には當時の役人中にて
發明は誰れとの評判と存ぜらるゝやと
尋らるゝに伊勢守は
不思議の尋なりと
當惑ながら暫く思案して答へられけるは御意に候當節御役人の中には
豆州侯其許をこそ
智慧伊豆と
下々にては評判も致し御
筆頭と申し
其許樣に上越す御役人はこれ
有まじとの評判に候と申さるゝに伊豆守殿是を聞かれいやとよ夫は
差置外々の御役人にては誰が
利口發明なる
噂にやと仰せらる其時伊勢守
參候外御役人にては町奉行越前など發明との評判に御座候やに
承まはる旨を答らるゝに伊豆守殿
點頭れ成程
當節は越前を名奉行と人々
噂を致すやに聞及べり
然ど
予は越前は
嫌ひなり兎角に
我意の
振舞多く人を
輕んずる
氣色ありて甚だ
心底に
應ぜぬ者なりと申されける是は只今にも登城に及び
若直願の
取次等を申出るとも取次させまじと
態と
斯は其意を
曉らせし言葉なるべし
扨又大岡越前守には
明六のお太鼓を
相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、77-1]に登城なされしが
早伊豆守殿には登城ありて
芙蓉の
間に
控給ひ伊勢守と何か
物語りの樣子なれば越前守には高木伊勢守を
密に
招き語る樣は此度江戸表へ
御下向有て芝八山の御旅館に
在ます天一坊樣儀は一昨日松平伊豆守殿御役宅にて御身分調べあり御重役方は
御相違なしとて近々
御對顏の儀取計らはるゝ趣き拙者に於ては萬事其意を得ざる事と存ず
其譯と申すは天一坊樣の
御面相を拜するに目と
頬の間に
凶相顯はれ中々以て
高貴の
相貌にあらず拙者の
勘考には御證據の品は實ならんが
御當人は
贋者なりと決したり依て天下の爲再吟味を重役方へ願ひしが
早評議一決の由にて
聞屆られず
由々敷御大事ゆゑ君への御奉公再吟味の儀
御許し下され候樣に
直願仕り度何卒此段御取次下され
度と思ひ込で申ける高木伊勢守も
打聞て
甚く驚きしが
先刻の口上もあれば
迷惑に思はれたり其故は越前守の願ひ言上に及べば御發明の
將軍家御許も
有べし
然すれば伊豆守殿には
不首尾と相なるべし當時此人に
憎まれては
勤役なり難しと思案し
斯は大岡越前守が願ひ取次も
御採用ひなき樣に
言上するより
外なしと思案を
定め伊豆守殿の方へ
向き
目配せしつゝ
越州御願の
趣むき
早速上聞に達し申さんと立て奧の方へ
到り將軍の御前へ出て申
上ける樣は
恐れ乍ら言上仕り候
此度御下向にて芝八山の御旅館に
在ます天一坊樣御事は
先達て伊豆守役宅へ御招き申上御身分
篤と
御調申上しに恐れながら君の御
面部に
其儘加之ならず
御音聲迄も
能似遊ばし
瓜を二ツと申事且つ又御墨附御短刀も相違御座なく
在せらるれば
近々御親子御對顏の御
儀式執計ひ申すべき段上聞に達し候處芝八山は町奉行の掛りなれば越前
再吟味願度由此段伺ひ奉ると言上に及びければ將軍には
聞し
食れ天一は
予に
能似て
居るとや
音聲迄も其儘とな物の種は盜むも人種は
盜[#ルビの「ぬす」は底本では「むす」]まれずと
世俗の
諺さもあり
爭はれぬ者かな
早々天一に
逢度との上意なり世の中の親の心は
闇ならねど子を思ふ道に
迷ふとか云ひて子を
慈しむ親の心は
上將軍より
下非人乞食に至る迄
替る事なき
理りなり其時また上意に芝八山は町奉行の
支配なりとて越前
我意に
募り吟味を願ふとな
既に重役ども取調べ予が子に相違なきに
極りしを一人
彼是と申
拒むは
偏執の致す處か再吟味は天下の法に
背く相成ぬと申せとの事なれば伊勢守は
仰せ
畏まり奉り候
迚頓て芙蓉の間へ
出來り上座に
着越前上意なりと申渡さるゝに越前守には
遙に引下りて
平伏なす此時高木伊勢守申渡す樣は八山御旅館に居らせられ候天一坊身分越前
我意に
募り再吟味願の儀は
已に重役ども
篤と相調べ相違なきを一人彼是申
拒むは重役を
蔑しろに致す
所行殊に再吟味は天下の
大法に
背く
間相成ぬとの上意なりと
嚴重にこそ申渡しける越前守は
發とばかり御受を致され
恐入て
退出せらる跡より大目附土屋六郎兵衞
下馬より
駕籠に
打乘御徒士目附御小人目附警固して越前守を數寄屋橋内の御役宅へ送られ土屋六郎兵衞より
閉門を申渡し表門には
封印し御徒士目附御小人目附ども
晝夜嚴重に番をぞ致しける良藥は口に
苦く
忠言耳に
逆ふの
先言宜なるかな大岡越前守は忠義
一※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、78-7]に
凝固まりて天一坊の身分再吟味の
直願を致されしが
輕からざる上意にて今は
閉門の身となりけれど此事は
中々打捨置難き大事なれば公用人
平石次右衞門
吉田三五郎
池田大助の三人を
招かれ申されけるは予は天一を
贋者と思ひ定め再吟味の儀を重役へ願ひしが
自己の
言状を立んとて取上られず
據ろなく今朝直願に及びしが是又御親子の御
愛情に
惹され給ひ
筋違ひの事重役を
蔑如し大法に背くとの趣きにて重き上意を
蒙り予は
閉門を仰付られしが一同とも
神妙に致し居る樣申付くべしとの言葉に三人は
平伏して御意の趣き
委細承知仕れり
實に月に
浮雲の
障り花に
暴風の
憂ひ天下の御爲忠義を
思召ての再吟味の御願ひ御許しなきのみか
剩さへ閉門を仰付られ候
段は
誠に是非もなき次第なり此上は
何樣の御沙汰
有んも計り難しと
愁傷の
體なれば越前守には此體を見られ
々と
落涙せられ此方はよき家來を持て
滿悦に思ふなり三人の
忠節心體見えて忝けなし去りながら我深き存意も有れば
密かに申聞すべし近ふ/\と三人を
側近くこそ進ませたり
其時越前守は平石次右衞門吉田三五郎池田大助の三人を
膝元へ進ませ申されけるは
其方共家の爲め思ひ
呉る
段忝けなく存るなり
依て越前が
心底を申聞すなり今越前
不慮の儀に及び候へば明日にも御對顏仰せ出さるゝは
必定なり萬一御對顏の
後に
贋者と相分るも
最早取戻しなり難し
然すれば第一天下の
恥辱二ツには君への不忠なり依て越前は
短慮の振舞致さず今宵
計略を以て屋敷を
忍び出んと
思なり
仔細は斯樣々々なり
先次右衞門其方の老母病死なりと申
僞り
不淨門より出て小石川
御館へ
推參し今一應再吟味の儀を願ふ
所存なり萬一小石川
御屋形に於ても
御取用ひなき時は越前が
運命の
盡る
期なり其時予は
含状を出して
切腹すべし
然有時は將軍にも何程御急ぎ遊ばすとも急ぎ
御對顏は
能ふまじ其内には天一坊の
眞僞必ず相分り申べし依て今一應小石川御屋形へ此段を願ひ申さんと思ふなれば
急ぎ其支度を致すべしと申付られける
公用人等は
早速古駕籠一
挺古看板三ツ并びに
帶三筋女の
掛無垢等を用意なし日の
暮をぞ
相待ける扨夜も
初更の頃に
成しかば越前守は
掛無垢を
頭より
冠りて彼古駕籠に身を
潜むれば公用人三人は
中間體に身を
窶し外に入用の品々は駕籠の下へ
敷込二人にて駕籠を
舁き今一人は
湯灌盥に
杖を添て
荷ひ不淨門へ向ひ屆ける
樣は今日用人平石次右衞門
老母儀病死致候依て只今
菩提所へ送り申なり御門御通し下さるべしと
斷りけるに
當番の御小人目附は
錠を明け駕籠を
改め見るに如何さま
女の掛無垢を
冠りしは死人の
體なれば相違なき由にて
通しけるこれより數寄屋橋御門へも此段相斷りそれより御
堀端通りを行
鎌倉河岸まで來りたれば
先此所にて駕籠を
卸し主從四人ほツとばかり
溜息を
吐ながらも先々
首尾よく
僞り出しを
喜び最早
氣遣ひなしと
爰にて越前守には
麻上下を着用なし三人は
何れも
羽織袴に改め駕籠等は
懇意の町人の家に
預置小石川
指て急ぎ行に夜は次第に
更稍四ツ時と
覺しき頃小石川
御館には到りたり
頓て御中の口へ
掛りて案内を
乞に取次出來れば越前守申さるには
夜中甚だ恐入存ずれど天下の一大事に付
越前推參仕つて候何卒中納言樣へ
御目通の儀願上奉る
旨を
述らる取次は此段早速御奧へ申上ければ中納言
綱條卿は
先達てより御病氣なりしが
追々御全快にて今日は中奧に
移らせ給ひ
御酒下されて御酒宴の
最中なり中にも
山野邊主税之助と云ふは年は未だ十七歳なれど
家老職にて
器量人[#ルビの「ひと」は底本では「びと」]に
勝れしかば中納言樣の御意に入りて今夜も
御席に
召れ
御酒頂戴の折から御取次の者右の通申上ければ中納言樣の御意に越前
夜陰の推參何事なるか主税其方
對面致し委細承まはり參るべしとの御意に山野邊主税之助は
表へ
出來り越前守に對面して申けるは拙者は
山野邊主税之助と申する者なり越前殿には中納言樣へ御目通り御願の由然る所中納言樣には
先達てより
御所勞なり夜陰の御
入來何樣の儀なるや御口上承まはる
可との御意なりと
叮嚀に
相述ければ越前守頭を
下扨申されけるは越前
斯夜中をも
省みず
推參候は天下の御大事に付中納言樣へ御願ひ申上度儀
御座有ての儀なり此段御
披露頼み存ずるとぞ
述られたり主税是を聞て
尋常の儀ならんには主税及ばずながら承まはり申べきが
[#「申べきが」は底本では「申べがが」]國家の御大事を
拙者如き若年者の承まはる可事
覺束なし兎も角も中納言樣へ
言上の上御
挨拶すべし暫く御控へ有べしと
會釋して奧へ入り
綱條卿に申上げるは町奉行越前守に對面仕り候處天下の一大事
出來に付夜中をも
憚からず推參仕り候
趣き若年の私承たまはらん事覺束なく存じ此段言上仕り候と申上らる中納言綱條卿
聞し
召深く驚かせ給ひ天下の一大事
出來とは何事ならん夫は
容易ならざる事なるべし越前を
書院へ通すべし
對面せんとの
仰なり是に依て侍ひ中御廣書院へ
案内せらる最早中納言樣には御書院に入せられ御
寢衣の
儘御着座遊ばさる越前守には
敷居際に
平伏せらる時に中納言樣には越前近ふ/\との御
言葉に越前守は少し座を
進み
頭を
下て申上らるゝ
樣御
恐れながら天下の御大事に付夜中をも
省みず
推參候段
恐入奉り候御病中も
厭せ給はず御
目通仰付られ候段有難き仕合に存じ奉ると申上らる此時綱條卿には
御褥を下られ給ひ天下の一大事たる儀を
承たまはるに
略服の段は甚だ
恐れ有と病中の儀越前許し候へとの御意なりしと此時大岡越前守は
恐入て
言上に及ばれけるは定めて御承知も有せらるべきが此度八山御旅館へ御
下向有し天一坊樣儀先達て伊豆守御役宅へ御
招ぎ申し御
身分調申せしに將軍の御
落胤たるに
相違無御證據の品も御座あれば
近々御對面の御
儀式有せらるべき
間取計ひ申べしとの事に候然るに私
聊か
相學を心掛候に付き
間も
隔候へども伊豆守御役宅に於て天一坊樣御面部を
竊に拜し奉りしに御目と
頬の間に
凶相あり
此は
存外なる
工みあるの相にて又
眼中に
赤筋有て
瞳を
貫き候は
劔難の相にて三十日以内に
刄に掛るべき相もあり
旁々斯る
凶惡上將軍の若君たるの理あるべからず如何にも御證據の品は
實なるべきが御當人に於ては
贋者必定と
見究め候依て重役共へ再吟味の儀
度々申立候へども
相許さず
據ろなく
今朝登城仕り高木伊勢守を以て言上に及び再吟味の儀
直願仕りしが御
親子の御
愛情にや越前が願ひは御聞屆なきのみか重役を
蔑しろに
致候
上再吟味は天下の御大法に背くとて重き上意の
趣きにて越前
閉門仰付られ既に切腹とも存じ候へ共
若明日にも御對顏ある上
萬一贋者にてもある時は
取返し相成らず
御威光にも
拘はり
容易ならざる天下の御
恥辱と存じ越前
惜からぬ命を
存らへ御
尤めの身分を
憚からず
押て此段御屋形樣へ
言上仕り候此儀御用ひなき時は是非に及ばず私し儀は
含状を仕つり
其節切腹仕るべき
覺悟に候然らば當年中にはよも御對顏の
運びには相成まじく其内に
眞僞判然も仕らんかと所存を定め候
間今晩は
亡者の
姿にて不淨門の番人を
僞り御屋形へ推參奉りて候とまた餘儀もなく言上に及ばる
綱條卿聞し
食され越前其方が
忠節頼母しく存ずるなり
能も其所へ心付きしぞ予は病中成れども天下の一大事には
替難し明朝登城し將軍家へ
拜謁し如何樣にも計らふべき間其方安心致し此上心付候へとの御意にて又仰せには
明朝予が登城致す迄に
萬一切腹の御沙汰あらんも計り難し
假令上使ありとも必ず
御請を致さず
押返して予が沙汰に及ばざる内は
幾度も御
斷り申立べし是は其方より上意を
背には
非ず
言ば我等が御意を背儀なれば少しも心遣ひなく存じ
居べしと御
懇切なる御意を
蒙り越前守
感涙肝に
銘じ有難く
坐ろに勇み居たりけり
水戸中納言綱條卿は越前守に
打對ひ給ひ其方死人の體にて
不淨門より出たりとの事なれば歸宅むづかしからんとの
御意に越前守平伏して御意の通御役宅を出候には
番人を
僞はり候へども歸の程甚だ
當惑仕まつると申上ければ中納言樣には
主税之助を召れ其方越前を宅迄送屆け申べし此使は大切なるぞ其方より
外に勤る者なし必ず
後れを取候な其刀を遣す程に
若無禮の
振舞致す者あらば
切捨に致せ予が手打も同前なるぞと仰せらる主税之助は
委細畏まり奉つると直に支度を
調へ
侍ひ兩人に提灯持鎗持草履取三人越前守
主從四人
[#「四人」は底本では「三人」]都合十人にて
小石川御屋形を
立出數寄屋橋御門内なる町奉行御役宅を
指て
急ぎ
行早夜も
子の
刻を
過ぎ屋敷に
近付一同に表門へ懸り小石川御館の御
使者山野邊主税之助なり
開門あるべしと呼はれば夜番の御徒士目附
答へて越前守には
閉門中にて開門
叶ひ申さずといふ主税之助越前殿閉門は誰より申付候やと尋ぬるに御徒士目附申やう
土屋六郎兵衞殿の申付なりと
此時主税之助
態と
憤りの聲を振たて何と申され候や
土屋六郎兵衞の
詞が
夫程重きか中納言樣の
御詞を
背くに於ては
仰付られの心得ありと大音に呼はりければ何れも
肝を
潰し時を移さず開門に及べば山野邊主税之助先に
立て門を通らんとする時御徒士目附
[#「御徒士目附」は底本では「御役士目附」]聲を
懸暫らく御
待有べし小石川御
屋形の御使者御供の人數を
調べ申さんと有ゆゑ主税之助答へて
篤と
念入調らるべしと主税之助主從十人と
數へてぞ通しける主税之助は越前守の主從を
無難に屋敷へ
送込奧へ通り呉々も越前守に申
含めけるは明朝早々御屋形御登城有て御取計ひ有べし夫迄は
大切の御身と主人よりも申付て候
何樣の儀候とも小石川御屋形の御意と御申立あるべし其内には
屹度宜しき御沙汰有べしと申
置暇乞して歸りには主從六人にて表門へ出來り小石川御屋形の
御使者只今歸申す開門ありたしと申ければ番人また人數を改め四人
不足なれば主税之助に向ひ
最前の御人數は
侍ひ分六人中間三人主從十人に候
處只今御人數は侍ひ四人不足なり如何の儀に候やと
云主税之助は威丈高になり各々には何と申さるゝや
先刻よりは人數四人不足とや
御手前方は何の爲に閉門の御番をば致さるゝや小石川御館にては閉門の
屋敷へ參り
居殘致す者は一人もなし
狼狽たる申分かな
彼是申さば切て捨んと大言に叱り付られ番衆も
據なく開門して通しける主税之助は
首尾能仕課せ急ぎ小石川へ歸り
御前へ出て右の次第を
委敷言上に及びければ中納言樣には深く
御滿悦遊ばし汝ならでは
然樣の働きは成まじとの御賞美の御意なりまた御意には越前はさぞ
夜明が
待遠成べし明朝は六ツ時登城すべし
然樣に計ひ申す可との御意なれば夫々の役々へ御登城の御
觸出しに及びける夫よりは御
寢所へも入せられず
直樣御月代を遊ばされんとの
趣きなれば主税之助初め
御病中御月代の儀は御
延引遊ばし然るべしと申上らる中納言樣には
長髮にて登城し將軍の御前へ出るは
失敬なり我將軍を
敬はずんば誰か將軍を重ずべき病中とて
苦からず
月代せよとの御意なれば掛りの
役人も是非なく
御櫛を
取上ける夫より
御行水相濟頃はハヤ御本丸の六ツの御太鼓遠く聞えれば
御供揃にて直に御登城遊ばせしが時刻早ければ未だ御役人
方は一人も登城なく御
側衆泊番
太田[#ルビの「おほた」は底本では「おばた」]主計頭のみなり
主計頭を召れ天下の一大事に付將軍へ
御逢の
爲登城に及べり
此段取次申せとの仰なれば主計頭其趣きを言上に
及ばれける將軍家聞し食させ大に
驚かせ給ひ早速
御裝束を改めさせられ御對面あるに
此時將軍家の仰に中納言殿には天下の
一大事の
由何事なるやと御尋あれば中納言
綱條卿には
衣紋を正し天下の一大事と申候は
餘の
儀にも候はず
先伺ひ度は町奉行越前を
名奉行と宣ひしは抑も誰にて候やとの御
尋なり是は先年松平左近將監殿へ御意に大岡越前は
名奉行なりと仰せられし事を中納言家には御存じゆゑ
斯樣に仰上られしものなるべし
此時將軍には御不審の體にて
御在ますにぞ又申上らるゝ樣は
斯綸言は
汗の如しまた
武士に二言なしとか君のお
目鏡にて名奉行と仰せられ候越前天下の御
爲を存じ君へ忠節を盡す心底より天一坊殿
御身分再吟味願候に越前へ閉門仰付られしと
承まはる町奉行たるものが支配内の事を
吟味致すに
筋違とは如何なる儀にや此段承まはりたしと御
老人の
苦り切たる有樣なれば將軍にも御
當惑の體にて
偵が名君の
理に
伏し見え給ひ
殆ど御
困の御樣子にて太田主計頭を召し上意には其方
只今より越前宅へ
罷越呼參れとの上意なれば主計頭は御受に及び
直樣馬を
飛せ
鞭を加へて一散に數寄屋橋の御役宅へ來り
御上使々々々と呼はりければ大岡の屋敷にては上下是を
聞付スハ切腹の御上使と一家中色を失なひ
噪ける表門には御上使と
有に
開門しければ主計頭には急ぎ玄關へ通り越前守に
對面ありて上意の趣きを相述べ急ぎ登城あるべしとの事なり越前守
委細承知し則ち馬を急し家來に申付
火急の御用なり駕籠は跡より
廻せと申付
麻上下に服を改め主計頭と同道にて登城にこそは及ばれたり跡には
皆々打寄只今御上使と御同道にて御登城有しは迚も御
存命覺束なし是は將軍の御手打か又は
詰腹か兎に角大岡の御家は今日限り
斷絶成べし行末如何成
事やらんと主の身の上より我
行末迄も案じやり歎に沈まぬ者もなし扨も
將軍家には中納言綱條卿と御
對座にて
御座まし越前が登城今や/\と
待給ふ時しも太田主計頭が案内にて越前守
恐る/\御前へ
出遙か末座に平伏す時に主計頭座を進み只今越前
召連て候と申上るにぞ將軍の上意に芝八山に
旅館の天一坊身分再吟味の儀越前其方が心に
任申
付るぞと仰なれば越前守には發と計り御
請申上らる將軍は又も中納言樣に向はせ給ひ水戸家只今
聞せらるゝ通り越前へ右の如く申
付たり御安心これ有たしと宣ふに綱條卿には
實に御名將の
思召潔よく御座候と申上られ是より中納言樣には御老中御
列座の御席へ渡らせ給ひ越前守をも此席へ召れて中納言樣の
仰に芝八山に旅宿致さるゝ天一
身分再吟味の
儀今日より越前に
任すとの上意なれば一同左樣に心得られよ
取分予が申渡すは天一身分吟味中越前が申す事は予が
言葉と心得られよ越前も又
左樣相心得心を用ゆべし越前には少身の由萬端行屆まじお
手前達に於て宜く心付致さるべしとの
御意なれば越前守は願の通り再吟味の
台命を蒙り悦こび身に餘り
勇み進んで下城にこそは及ばれたり
下馬先には迎の駕籠廻り居て夫に
乘徐々と歸宅せられたり
頓て屋敷近くなりし
頃押へが一人
駈拔て表門よりお歸り/\と呼はれば此を
聞て家來の男女はまた驚き
恙なき歸りをば悦び且疑ふばかりなり
扨も大岡越前守には三人の
公用人を呼出され今日より天一坊吟味の儀越前が
心任せとの
台命を蒙り又天一坊吟味中越前が申
詞は小石川御館樣の御
言葉と心得よとの御意なり
然ば次右衞門其方は只今より八山へ到り
明日辰の
上刻天一坊に越前が役宅へ參り候樣申參べし必ず町奉行の威光を落すなと申
付られ又吉田三五郎には
[#「吉田三五郎には」は底本では「吉田五三郎には」]天一坊の
召捕方を
[#「召捕方を」は底本では「名捕方を」]池田大助には
召捕手配方を申付られたり是に
依て吉田三五郎は江戸三箇所の出口へ
人數を
配り先千住板橋新宿の三口へは人數若干を遣し
固めさせ外九口へは是又人數
若干を配り
海手は深川新地の鼻より品川の沖迄御船手にて
取切備船は
沖間へ出し間々は
鯨船にて
取固め
然も嚴重に構へたり扨又平石次右衞門は
桐棒の駕籠に打乘若黨長柄草履取を
召倶し數寄屋橋の御役宅を
出芝八山へと急ぎ行次右衞門道々考へけるは天一坊家來に
九條殿の浪人にて大器量人と
噂ある山内伊賀亮には
逢度なし
然ば赤川大膳を
名差にて對面せんと思案し頓て芝八山なる天一坊が
旅館の門前に來りける
箱番所には
絹羽織菖蒲皮の
袴を
穿控居し番人大音に御使者と
呼上れば次右衞門は中の口に案内を
乞けるに此時戸村次右衞門と
云者次上下にて
取次に出來れば次右衞門は懷中より手札取出し
拙者は町奉行大岡越前守公用方平石次右衞門と
申者なり天一坊樣御重役赤川殿へ
御意得て越前守が口上の趣きを申
述度存ず何卒此段御取次下さる
可と云に戸村は承知して大膳に斯と申通ずれば大膳は聞て
眉を
顰め町奉行大岡越前守より使者の來る筈は無しと
不審に思へば伊賀亮が居間に到り只今町奉行大岡越前守公用人平石次右衞門と申す
者來り某しに面會し主人越前が
口上を
述たしとの事なれど町奉行より使者の來る
譯はなき筈ぢやが如何の者かと聞ければ伊賀亮
成程越前より使者を遣はす
筋無れど貴殿名差とあれば何用とも計れず兎角御逢めさる方
然るべし併し目の寄る所へ玉とか申し越前守は
大器量人なり
然ば使者の平石とやらんも一
癖あるべし貴殿應對は氣遣ひなりと
小首を傾けられて大膳は
氣後れし然らば拙者は病氣と
披露して貴殿面會し給はれと云ふに伊賀亮夫は何より
易けれども平石次右衞門と手札を出し大膳殿へ
御意得たしと申せし時に大膳儀は不快ゆゑ同役山内伊賀亮御目に
懸るべしと申せば宜に今となりて大膳儀
病氣なれば伊賀亮御目に掛ると申す時に赤川は
取に
足ざる者ゆゑ
出會ぬと見えたりと貴殿の腹を
見透さるゝ樣な物なり夫共事成就の上此伊賀亮は五萬石の
大名に御取立になり貴殿は三千石の
御旗本位是が御承知ならば伊賀亮
何樣にも計ひ對面すべしと云に
強慾無道の大膳是を
聞夫なれば某し對面し口上を承まはらん
併し返答に何と致して宜しかる
可やと云に伊賀亮打笑ひ未だ對面もせぬ先に返答の
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、85-18]は出來ず夫こそ
臨機應變と云者なり向ふの口上に因て
即答あるべきなり口上を聞もせぬ内其挨拶が成べなやと
云ば大膳は益々氣後せし樣子に伊賀亮も
見兼て大膳殿左程に案じ給ふならば
極意を
教べし先平石の口上を聞て返答に
差詰りし時は暫く控へさせ上へ
伺ひ申して後返答致すべしとて
奧へ來り給へ其口上に依て返答の致し方は
種々ありと教ければ然らば對面致すべしと取次の者を
呼で次右衞門を使者の間へ通すべしと申渡せば
戸村は中の口へ來り平石に向ひ
率御案内申すべしと先に
立使者の間の次へ來る時戸村は御使者には
御帶劔を御預り申さんといふ平石次右衞門
脇差を渡さんと思ひしが
待暫し主人が八山へ參り町奉行の
威光を落すなと仰られしは
爰なりと平石は態と
聲高に拙者は
何方に參るも帶劔を致す身分なればお
預申事は相成がたしと云に戸村は町奉行
公用人衆は外々の公用方と御身分違候や
何の公用方でも此處にて帶劔は御預り申候
御老中方公用人の御身分は
何なる物にやと問ければ御老中方の公用方は御目附代ゆゑ御直參同樣に候と
答へけるまた御城代公用方の御身分は如何と
問に是は中國四國九州の探題の公用方なれば
矢張御直參同樣に候と答へける戸村
然ば御城代諸司代御老中と夫々の公用人何れも帶劔を御渡し
成るゝに町奉行の公用人のみ御渡し成れぬは御身分でも
違ひ候やと言ければ平石は町奉行の公用人とて
別段身分は違はず併し
乍ら赤川大膳殿には
何程の御身分にて帶劔の
儘お目に懸れぬや又此處は天一坊樣の
御座の
間近ければ帶劔のならざるや
又大膳殿には御座の
間近くより外へは御出席なされぬや拙者は只赤川殿に
御目に懸り主人越前守の口上を
述候へば夫にて使者の役目は
相濟事なれば
假令御廊下の端御玄關の
隅にても
苦からず帶劔の出來る所にて御目に懸り度
存候なり此段御伺ひ下されと申けるにぞ戸村も此
詞に
閉口し大膳に右の次第を委しく
咄せば大膳はいよいよ驚き
迚も平石に對面は致し難しと又々伊賀亮の
居間に來り貴殿の
眼力の通り越前守が使者と申奴は頗る
秀才の者と見えたり其譯は今戸村が使者の
間へ案内し帶劔を
預らんと申せしに
斯樣々々の挨拶の由拙者對面しなば後々の
障碍と成べし伊賀亮殿御太儀ながら御
逢下さるべしと又餘儀もなく頼むにぞ伊賀亮も承知なし成程目の
寄所へ
玉とは能も申たり越前守は
能家來を
持羨ましと譽めながら戸村を
呼彼使者に大膳殿は今日御上御
連歌の御相手にて
御座の間より
外へ出席
成難し同役山内伊賀亮
非番なれば代りて御目に懸らんと御使者の間へ通すべしと
言付られて此趣きを平石へ申通じける平石は伊賀亮と聞て
迷惑に思へども今更詮方なく控へ居る
頓て山内伊賀亮は
黒羽二重の小袖に
繼上下を
着出來り申けるは町奉行大岡越前守公用人平石次右衞門と申は
其方なるか拙者は天一坊樣
重役山内伊賀亮なり未だ大岡には對面せねど
勤役中太儀と然も
横柄の言葉なり平石次右衞門は平伏し御意の
通り大岡が使者平石次右衞門に候天一坊樣
益々御機嫌能く恐悦に存じ奉つり候大岡
參上し以て申上べき處當八山は奉行支配場にて參上仕り
兼候間使者を以て申
上奉つり候明日
辰の
上刻天一坊樣大岡役宅へ入せられ候樣申上奉つるとの
口上なり山内聞いて町奉行宅は
罪人科人の出入する穢の場所なり左樣な
不淨の處へ天一坊樣には
入せられまじ假令御入成るとの御意ありとも此の山内に於て
屹度御止め申なり此
段立歸り大岡殿へ申されよと
云にぞ平石は案に相違しけれど
此儘にては天一坊には御役宅へ來らじと
言葉を
改め申けるは此度天一坊樣御身分
調の儀に付ては越前守申す事は小石川
御屋形の御言葉と心得よとの儀にて大岡が言葉を
背かるゝは則ち上意を背くも同然の事なりと
云ふにぞ山内も
上意とあれば
輕からざる儀なり先づ一應伺ひの上
返答致すべし暫く
控へられよとて
奧へ入り
良ありて再び出で來り次右衞門に
向ひ町奉行大岡越前守より申上の趣き伺ひし處大岡の申す條なれども
公方樣の上意とあれば
如何にも其の
刻限に御出あるべしとの上意なり明日は山内にも御供を
仰付られたれば何れ大岡殿に對面致すべし宜しく申し傳へ給はるべしと
謂捨て奧へは入たり次右衞門はホツと
溜息を吐き門前より駕籠を急がせお役宅さして歸りける
扨も平石次右衞門はお
役宅へ歸り來り早速主人のまへにいづれば
大岡の曰く次右衞門其方に申付べき事をツヒ
失念したり天一坊の家來に山内伊賀亮といふ器量人あり渠に逢ては
惡かりしが何人に逢しやと
尋らるゝにぞ次右衞門いふ私しも左樣に心づき候ゆゑ名差にて御
重役赤川大膳殿へお目に
懸りたしと申入しに赤川殿は
御連歌のお相手にて御座の間より外へ出席なり
難故非番の山内伊賀亮が
對面致すとて面談せしに明日
刻限通り參らるべしとの儀なりと述ければ越前守大きに悦び明日は
大器量人の山内伊賀を越前が一言の
下に恐れ
入せんものとぞ思はれける爰に八山には次右衞門の
歸りしあとにて山内は役人を招ぎ御上には
天文お稽古中なれば天文臺へ入せらるゝなり其
用意すべしと申付るにぞ役人は早速其用意をなし
先天文臺へは五
色の天幕を張廻し長廊下より天文臺まで
猩々緋を
布續ける山内は天文臺へ天文教導の役なればとて先に立ち
續いて天一坊常樂院天忠和尚赤川大膳藤井左京の五人にて
進み
行けり
扨臺上へのぼりて山内は四人に
向ひ町奉行越前宅より使者を以て明日我々を
呼寄るは多分召捕了簡と見えたりと述ければ大膳は
肝を
潰し果して大事の露顯なす上は是非に及ず皆々
切腹なさんといふ山内また云やう未だ二度に
切拔る事も有べし
早計玉ふな明日大膳殿には
先驅なれば某しが
警戒べき事あり其は越前守の
役宅にて必ず
無禮を働くべし決して
怒を
發し刀などに手を
掛給ふな町奉行の役宅にて
劍※[#「卓+戈」、U+39B8、88-10]の沙汰に及べば
不屆者と召捕て繩を掛ん呉々も怒を愼み給へと云含め猶種々と
密談に及びし内既に
黄昏になりしかば山内は四方を
屹と見渡し大いに驚き大膳殿品川宿の方に當り火の
光見るが
那を何とか思るゝやと問へば大膳是を見て
那こそは
縁日抔の商人の
燈火ならんといふに山内
首を
打振否々然に非ず
夫等の
火光は
人氣和融なれば
自然とそらへ丸く
映るべきに今彼光は棒の如く
尖りて映れり彼
人氣勇烈を含むの氣にて火氣と云ひ
旁々我々を召捕んとて出口々々を固めたる人數の
篝火なるべし此人數は凡そ千人餘ならんと
又一方を見渡し深川新地の端より品川沖まで
燈火の見るは何舟なりやと問ふ大膳
那こそ
白魚を
漁る舟なりと云ば伊賀亮大に打笑ひ那燈火も矢張我々を召捕ん
爲舟手にて
固めたる火光にして其間に
丸く
見る火光こそ全くの漁船なり
海陸とも斯の如く手配せしは越前が我々を召捕べき
手筈と見えたりと聞て四人は色を失ひ各々顏を見合て
然ば今宵の内に皆々自殺なさんと云ば伊賀亮
推止め未だ驚くには及ばず明日こそは器量人の越前を此伊賀が
閉口させて見すべければ呉々も大膳殿
明日は怒を發し給ふなと戒め夫より
翌日の支度にぞ掛りける
早其夜も明て卯の上刻となれば赤川大膳
先驅として徒士四人先箱二ツ
鳥毛[#ルビの「とりげ」は底本では「とりけ」]の一本道具を駕籠の先へ
推立長棒の駕籠に
陸尺八人侍ひ六人
跡箱二ツ引馬一疋長柄草履取合羽等にて數寄屋橋内町奉行の
役宅へ來り門前にて駕籠を
下表門へ
掛る此時大膳は
熨斗目麻上下なり
既にして若黨
潜門へ廻り徳川天一坊樣の先驅赤川大膳なり
開門せられよと云に門番は
坐睡し乍ら
何赤川大膳ぢやと天一坊は越前守が
吟味を受る身分なり其家來に開門は成ぬ潜より這入べし
彼是[#「彼是」は底本では「是彼」]云ば
繩目に及ぞと云に大膳
斯と聞て伊賀亮が戒めしは爰なりと思ひ大膳一人潜より入り家來は
殘ず門外に殘し
置玄關へかゝれば取次として平石次右衞門
[#「平石次右衞門」は底本では「平石次衞門」]出來りて大膳を伴うて
間毎々々を
經庭へ
下り向の物置部屋へ案内したり爰には數十人の
與力同心番をなし言語同斷の無禮を働くにぞ大膳は元來
短氣の性質なれば
無念骨髓に
徹すれども伊賀亮が戒めしは
此所なりと
憤怒を
堪へ居たりける斯て八山の天一坊が行列には眞先に葵の紋を染出せし
萌黄純子の
油箪を掛たる長持二
棹黒羽織の
警固八人
長持預り役は熨斗目麻上下の侍ひ一人其跡は
金葵の
紋付たる
栗色の先箱には紫の化粧紐を掛雁行に并べ絹羽織の
徒士十人
宛三人に并び黒天鵞絨へ金葵の紋を
縫出せし袋を掛たる長柄は金の葵
唐草の
高蒔繪にて紫縮緬の服紗にて熨斗目麻上下の侍ひ持行同じ出立の
手代[#ルビの「てがはり」は底本では「てかはり」]一人
引添たり又麻上下にて
股立取たる侍ひ十人宛二行に並ぶ次に
縮ら熨斗目に
紅裏の小袖麻上下にて股立取たるは
何阿彌とかいふ
同朋なりさて天一坊は飴色網代の
蹴出付黒棒の乘物にて駕籠脇十四人熨斗目麻上下にて股立とり
跡より
沓臺持一人黒塗に金紋付の跡箱紫きの化粧紐を
掛乘物の上下には
朱の
爪折傘二本を
指掛簑箱一ツ虎皮の鞍覆たる引馬一疋
豹の皮の鞍覆たる馬一疋
黒天鵞絨に白く葵の紋を切付たる鞍覆馬一疋
供鎗三十本其餘兩掛合羽駕籠茶瓶等なり
續て常樂院天忠和尚四人徒士にて金十六
菊の紋を附たる先箱二ツ打物を持せ朱網代の乘物にて
陸尺六人駕籠脇の侍ひ四人
跡箱貳ツ何も紫きの化粧紐を
掛たり黒羅紗の袋を掛たる爪折傘に草履取合羽籠等なり
引續て藤井左京も四人徒士にて長棒の駕籠に
乘若黨四人黒叩き十
文字鎗を持せ長柄傘草履取合羽駕籠等なり少し
後て山内伊賀亮は
白摘毛の鎗を眞先に
押立大縮ら熨斗目麻上下にて馬上なり尤も若黨四人長柄草履取合羽駕籠等
相添へ右の同勢にて八山を
出下に/\と呼り數寄屋橋を指て
練來るしかるに往來の横々は木戸を
〆切町内の自身番屋には鳶の者火事裝束にて
相詰たり程なく
惣人數は數寄屋橋御門へ來しに見附は常よりも
警固の人數多く既に天一坊の
同勢見附へ
這入ば門を
〆切夫を相※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、90-4]に外廓の見附は何も
〆切たり斯て越前守の役宅へ近付ければ
只今天一坊樣
入せられたり開門せよと呼れば此日は
池田大助門番を勤め何天一坊が
參しとや天一坊は越前守が吟味を受る
身分開門は
相成ず潜りより這入れと云に徒士等之を聞て
膽を
潰し其旨供頭の伊賀亮へ告ければ伊賀亮は天一坊の
乘物の側へ來り奉行越前は將軍の
御名代なれば開門致さぬとの事潜より御通り
然るべく存じ候と申ければ天一坊は父君の名代と
有ば是非に及ばず潜りより通る可と云ひて乘物を
下沓を
穿て立出ける其衣服は葵の紋を織出したる
白綾の小袖を着用し其下に
柿色綾の小袖五ツを重ね紫きの
丸帶を
締古金襴の法眼袴を穿ち上には
顯文紗十徳を着用し手に金の
中啓を持頭は
惣髮の
撫附にて
威風近傍を拂つて
徐々と進み行く續いて
常樂院天忠和尚は紫きの
直綴[#ルビの「ぢきとぢ」は底本では「ぢきてつ」]を纏ひ
蜀紅錦の袈裟を掛けて手に水晶の念珠を
爪繰たり其の跡は藤井左京麻上下にて續いて山内伊賀亮は上下なり四人の者潛りより入りて玄關式臺の眞中を
悠然として
歩み
行く門内には與力同心の數人スハと云へば
搦め
捕んと控へたり
既にして天一坊玄關へ來ければ
取次案内として平石次右衞門
出迎へ平伏し先に立て案内す天一坊は
沓の儘にて次右衞門に
伴られ
行に常樂院は天一坊の
未だ沓を脱ざるを見て其の前へ走寄り沓へ手を
掛ければ天一坊は常樂院を見るに
早沓を脱たりまた後を振返り伊賀亮左京をも
見に何も
履物を穿ざれば天一坊も沓を
拔捨ける夫より案内に從ひ行き遙か向を見れば一段高き
床を設け其上に越前守
忠相丸に向ふ矢車の定紋を
付繼上下にて控へ左右に召捕手の役人
數多並び居るにぞ如何なれば大坂
御城代を始京都所司代御老中の役宅にても
自分を上座に据ゑしに越前守のみは自ら高き處に
着座なすやと不審に思ひつゝ立止れば此時越前守には先達て伊豆守殿
役宅にては間も隔し
故若見違もやせんと思ひしが今天一坊の
面貌熟々視るに聊か相違なければ彌々僞物に紛なしと見
究しも未だ確なる證據なき故
召捕ること叶はず如何にせんと思ひしが屹度して大音に天一坊下に居れ
此賣主坊主餘人は欺くとも此越前を欺かんとは
不屆至極なりと
叱付れば天一坊は
莞爾と打笑ひ越前は
逆上せしと見えたり此頃まで三百俵の知行なりしが三千石の
高祿になり當時町奉行を勤め人々
尊敬すればとて慢心増長なせしか
若予が答を爲ば不便や其方切腹せねば成まじ
唯聞流にして遣さんに篤と
勘考すべしとて悠然と控へければ
頓て常樂院を始め皆々着座なす時に常樂院天忠
和尚進出越前守殿には只今上に對し賣主坊主
僞物なりとの過言を出さるゝは何故なるぞ
大坂京都及び老中の役宅に於て
將軍の落胤に相違なしと
確認の附しを足下のみ左樣に云るゝは
如何なりと云に越前守
假令大坂御城代
并に御老中迄將軍の落胤なりと申さるも此越前が
[#「此越前が」は底本では「此越前か」]目には僞物に
相違なしと思はるゝといふ常樂院
又云ふやう夫は越前守殿の上を委く承知なされぬ故なり
兎角に知ぬ事は疑心の發るもの然ば
拙僧が
詳細認めて御目に掛んと筆を
取出し佐州相川郡尾島村淨覺院門前に
捨子に成せられしを此天忠拾ひ上參らせ
御養育なし奉りしが其後天忠美濃國各務郡谷汲郷長洞山常樂院法華寺へ
轉住すれば御成長の地は美濃國なりと認め差出すに越前守は是を
受取再三見終り如何にも斯樣に委しき證據あれば
概略は知たりと云つゝ又熟々思案するに斯る事に
繋り居ては面倒なり山内めを
呼出し渠を恐入らせんとて大音に御城代所司代
[#「所司代」は底本では「司所代」]并に御老中の役宅にて
喋々と
饒舌し者は此席に
居や
罷出よ吟味の筋ありと呼はれば山内は最前より
餘人に尋んより我に問ば我一言の
下に越前を
屈服させんと
待處なれば今此言を聞て進み出京都大坂并に
老中の役宅にて
取切て應答せしは拙者なりと云にぞ越前守は
其方なるか然ば手札を出すべしと云ふに山内
懷中より手札を差出す越前守は手に
取克々見て其方の名前は山内伊賀亮かと
尋ねられしに如何にも左樣なりと答ふ越前守
推返して伊賀亮なりやと問ひ扨改めて伊賀亮といふ
文字は其方心得て附たるや又心得ずして附たるやと
尋ねらるゝに山内その儀如何にも心得あつて
附し文字なりと答ふ越前守また心得有て附たりと有ば尋る仔細あり
此亮と
云文字は則ち守といふ字にて取も
直さず其方の名前は山内伊賀守なり天一坊の
家來にて何を以て守を
名乘るやと咎むれば山内答へて越前守殿よく聞かれよ此の山内の身分は浪人は
愚か如何に
零落するとも正四位上中將の官は身に備りたりと云ふにぞ越前守は大音聲に
默れ山内其方以前は九
條家の家來と
有ば正四位上中將の官爵も有べけれど退身すれば官位は
指おかねば成ぬ筈なり然るを今天一坊の
家來也とて正四位上中將の
官位にて山内伊賀亮と名乘は不屆なりと叱り付れば山内から/\と
打笑ひ越前守殿には承知なき故疑ひ有も
道理なり此伊賀亮の身分に正四位上中將の
備りある次第を咄さん拙者は九條家の家來なり一體公家方は官位高く
祿卑きもの故に聊か役に
立者有ば諸家方より臨時お雇ひに預る事あり拙者九條家に
在勤中は北の
御門へ
御笏代りに雇れ參りし事折々なり此
北の
御門とは四親王の家柄にて有栖川宮
桂宮閑院宮伏見宮を四親王と稱す當時は伏見宮を
除き三親王なり此伏見宮を稱して北の
御門と云其譯は天子に御世繼の
太子在さぬ時は北の御門御夫婦
禁庭へ入る宮樣御降誕あれば復たび北の御門へ御歸りあるなり扨御門の御笏代を
勤る事は正四位上中將の官ならでは
能はず其時には假官をなし大納言と爲るなり扨御笏代りとは北の御門參殿の
節笏にて
禁中の間毎々々に垂ある
簾を揚て通行在せらることにて恐れ多くも
龍顏を拜し玉ふ時は此笏を
持事の叶はぬ故御笏代りとて
御裾の後に笏を持ち控居て
餘所乍ら
玉體を拜するを
得者なり拙者先年多病にて勤仕なり難きゆゑ九條家を退身の
節北の御門へ
奏聞を
遂しに御門は
御略體にてお目通りへ召れ山内其の方は予が
笏代りをも勤め龍顏をも拜せし者なれば
縱令九條家を退身し
何國の果へ行も存命中は正四位上中將の官より下らず死後の
贈官正二位大納言たる
可との尊命を蒙むれば山内此末非人
乞食と成果るも官位は身に備れば
[#「備れば」は底本では「備れは」]伊賀亮の亮の字も心得て用ひ候
也と
辯舌滔々と水の流る如くに
述ければ流石の越前守も言葉なく
暫時控られしが
稍有て山内に向かひ其方の身分委く聞ば尤もなり併し天一は
似物に相違なければ召捕
可といふに
伊賀亮容を改め越前守殿何故に天一樣を
似者と云るゝやと尋ければ越前守
然ば似者に相違なきは此度將軍へ伺ひしに
毫も
覺なしとの御事なれば天一は似者に紛なしと云ふなりと山内是を
聞將軍には覺なしとの御意合點參ず正く徳太郎信房公お
直筆と墨附
[#「墨附」は底本では「黒面」]及びお證據のお
短刀あり又天一樣には將軍の御落胤に相違なきは其御
面部の
瓜を
割たるが如きのみか御
音聲迄も其儘なり
是御親子に相違なき證據ならずや今一應將軍へ御
伺ひ下されたし
克々御
勘考遊ばされなば屹度御覺有べしと
[#「御覺有べしと」は底本では「御覽存べしと」]述れば越前守は大音に伊賀亮
默れ天一坊の面體よく將軍御
幼年の御面部に似しのみならず音聲まで其の儘とは
僞り者め其方紀州家の浪人ならばいざ知ず九條家の
浪人にて將軍の御音聲を知べき筈なしと
咎められしに山内は
嘲笑御面部また御音聲まで
似奉[#ルビの「にたてまつ」は底本では「にせたてまつ」]る事お咄し申さんに紀州大納言光貞公の御
簾中は九條前關白太政大臣の
姫君にてお高の方と申し其お腹に
誕生まし/\しは則ち當時將軍吉宗公なり御幼名を徳太郎信房君と申せし
砌拙者は虎伏山竹垣城へ九條殿下の
使者にて參りお
手習和學の御教導をも爲し故御面部は勿論御音聲までも
能承知致せばこそ將軍の公達に相違なしとは云しなり如何に越前守
殿お疑ひは晴しやと
言詰るに越前守は亦た
言葉なく何を以て此の山内を言ひ伏んやと暫し工夫を
凝して居られける
扨も大岡越前守は
再度まで山内に言ひ伏られ無念に思へども詮方なく
暫時思案ありけるが屹度天一坊の乘物に心付き
心中に悦こび此度こそは
閉口させんと山内に打對ひ天一坊は將軍の
公達ならば官位は何程なるやと問ふに山内
最初の官なれば宰相が當然なりと答ふ越前守又
宰相は東叡山の
[#「東叡山の」は底本では「當叡山の」]宮樣と何程の相違ありやと
問ふに山内宮樣は一
品親王なり夫一品の御位は官外にして日本國中三人ならではなし
先天子の御隱居遊されしを
仙洞御所[#ルビの「せんどうごしよ」はママ]と稱し一品親王なり又天子御
世繼の太子を
東宮と
云是又一品親王なり又東叡山の宮樣は一
品准后にして准后とは天子の
后に
准ずる故に准后の宮樣とは云なり然ば宮樣の
御沓を取者の
位さへ左大臣右大臣ならでは
取事叶ざれば御登城には御沓取なくお
乘物を玄關へ
横付にせられ
西湖の間にて將軍に御
對顏あらばお沓はお用ひなし
故に宮樣と宰相とは
主從の如くなれど今少し官位の
相違有んかと答へらる越前守是を
聞れ然らば天一坊を
召捕といふ山内また何故に天一坊を召捕と
云はるゝやと云せもあへず越前守大音に
飴色網代蹴出黒棒は勿體なくも日本
廣しと雖も東叡山御門主に限るなり然程に官位の相違する天一坊が
宮樣に
齊き乘物に乘しは不屆なれば召捕と
云しなり此の時山内から/\と打笑ひ越前守殿左樣に
知るゝなら尋ぬるには及ばず又知ざれば尋ねらるゝ事もなき
筈なり今ま山内が
此所にて飴色網代のお
咄申さんに先將軍の官職より
解出さゞれば
解し難し抑々將軍に三の官ありしは
征夷大將軍とて二百十餘の大名へ官職を
取次給ふの官なり尤も小石川御館のみは
直に京都より官職を受るなり二は
淳和院とて日本國中の武家を支配する官なり三は
奬學院とて
總公家を支配する官職なり然れど江戸にて
斯京都の公家を支配する
譯は天子若關東を
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、94-9]せらるゝ
事有ては徳川の天下永く續き難き故東照神君の
深慮を以て比叡山を江戸へ移し鬼門除に致したしと
奏聞ありしが許されず二代の將軍秀忠公へ此事を
遺言せられしに秀忠公も亦深慮を
廻され京都へ御縁組遊ばし其上にて事を
計はんと姫君お福の方を
後水尾院の皇后に奉つらる之を
東福門院と稱し奉つり此御腹に二方の太子御降誕まし/\ける
其末の太子を關東へ申降し給ひ比叡山
延暦寺を關東へ移し東叡山寛永寺を建立す
是宮樣の始めにて一品准后の宮と稱し奉つり天子御
東伐ある時は宮樣を天子として
御綸旨を受る爲なり然ども天子には
三種の神器あり此中何れにても
闕れば御綸旨を出す事能はざるなり故に三代將軍家光公武運長久を
祈る爲と奏聞有て
草薙の
寶劔を
降借せられ其後返上なく東叡山に納たり
夫寶は一所に在ては寶成ず故に慈眼大師の
御遷座と唱へ毎月
晦日に三十六院を廻るは即ち此寶劔の事なり尤も大切の
寶物ゆゑ闇の夜ならでは
持歩行事ならず依て月の晦日は闇なれば
假令晝にても燈火照して御遷座あるは此譯
也斯く如く宮樣の
御身分は今にも天子に成せ給ふや
又御一生御門主にて在せらるゝや定めなき御身の上なればお
乘物の中を
朱塗になし其上に
黒漆を掛るは是日輪の光りに簇雲の覆し容を
表したるにて是を飴色網代蹴出黄棒の乘物といふ
今天一坊樣の御身も
御親子御對顏[#ルビの「ごたいがん」は底本では「ごたいめん」]の上は西丸へ直らせらるゝや又御三
家格なるや
將會津家越前家同樣なるや抑々御譜代並の大名に
成せ給ふや定めなき御身分ゆゑ
朱塗の上に黒漆を掛て飴色網代に
仕立しは此伊賀亮が計ひなり如何に越前守此儀
惡かるべきやと
問詰れば越前守は言葉なく無念に
思へども理の當然なれば齒を
切齒りて控へられしが
稍ありて然ば證據の御品拜見せんと云ふに山内は天一坊に
向ひ奉行越前御證據の
御品拜見願ひ奉つると
云ひければ天一坊は奉行越前へ拜見
許すと云ふ
頓て藤井左京長持の錠を開て二
品を取出し越前守の前に出す越前守は
覆面もせず先墨附を拜見するに將軍の直筆に相違なく亦短刀を拜見するに
疑ひもなき天下三品の短刀にて
縁頭は
赤銅斜子に金葵の紋散し目貫は金無垢の三疋の
狂獅子作は後藤
祐乘にて鍔は金の食出し鞘に金梨子地に葵の紋散し中身は一尺七寸銘は志津三郎
兼氏なり是は東照神君が
久能山に於て御十一男紀州大納言常陸介頼宣卿へ下されし物なり又同じ
拵へにて備前三郎
信國の短刀は御十男尾張大納言義直卿へ
又同じ拵へにて左兵衞左文字御
短刀は御十二男水戸中納言左衞門尉頼房卿に
下されたり是を天下三品の御短刀と稱す斯て越前守は
拜見し終りて
故へ收め俄に高き床より飛下低頭平身して
斯の如き御證據ある上は疑ひもなく將軍の
御息男に相違有ましく越前
役儀とは
申乍ら上へ對し無禮過言を働き恐れ入り奉つる何卒
彼方へ入らせらるゝ樣にと
襖を明れば上段に錦の
褥を敷前には簾を垂て天一坊が座を設たり
頓て赤川大膳をも
呼來り簾の左右には伊賀亮常樂院其
次には大膳藤井左京等並居る此時越前守は
遙か末座に
跪づきてお取次を以て
申上奉つる役儀とは申乍ら上へ對し無禮過言の段恐れ入り奉つる是に依て越前
差控へ餘人を以て吉日
良辰を撰み御親子御對顏の御式を取計ひ申べくと云ければ伊賀亮此
由披露に及ぶ簾の中より天一坊は越前目通り
許すとの言にて簾をきり/\と
卷上天一坊堂々と越前守に
向ひ越前予に對し無禮過言せしは
父上の御爲を思ひてなれば
差控へには及ばず越前とても予が家來なり是迄の
無禮は許すといひ又越前
片時も疾く父上に對面の
儀取計ふべしと有ば越前守は
恐れ入て有難き上意を蒙り
冥加に存し奉つる近々御對顏の儀取計ひ申べければ
夫れまでは八山御旅館に
御休息ある樣願ひ奉つると云へば山内も越前殿呉々も
取急ぎて御親子御對顔の儀
頼み入と云に越前守には何れにも
近々の内取計らひ申べしと
返答に及れける是より
歸館を
觸出して天一坊は直樣敷臺より
乘物にて立出れば越前守は
徒跣にて
門際まで出て平伏す
駕籠脇少し戸を引ば天一坊は越前
居かと云に越前守ハツと御
請を致されたり斯て天一坊の
威光熾盛に下に/\と呼りつゝ芝八山の
旅館を指て歸りける此時大岡越前守には八山の方を
睨付て
云と計り氣絶せしかば公用人を
始め家來等驚いて打寄氣付藥を口へ吹込顏に水を
灌ぎなどしければ漸々にして我に
復りホツと
息を
吐乍ら今日こそは伊賀亮を閉口させんと思ひしに
渠が器量の
勝れしに却つて予が閉口したれば餘り殘念さに
氣絶したりと切齒をなして
憤られしも
道理なる次第なり
去程に大岡越前守は今日
社は山内伊賀亮を恐入せ天一坊始め
殘らず
召捕んものをと手當にまで及びしが思ひの
外越前守は言伏られ返答にさへ
差閊へたれば一先恐入て天一坊に
油斷させ自ら病氣と
披露し其内に紀州表を
調んものと池田大助を呼で御月番の御老中へ
病氣の御屆けを差出させ
又平石次右衞門を呼で八山へ使者に遣しける八山にては天一坊を
始め常樂院藤井左京等打寄て越前を恐入せし上は外に
氣遣ふ物なし近々の内には大岡の
取計ひにて御對顏あるに相違なし事大方
成就せりと悦びけるが山内は少しも悦ぶ色なく鬱々とせし
有樣なれば大膳は山内に打ち向ひ今日町奉行越前を
恐入せしからは近日事の成就せんと皆々悦ぶ其中に
貴殿一人
愁ひ給ふは如何成仔細に候やと
尋ねければ山内は
成程各々方には今日越前が恐入しを見て實に
閉口屈伏したりと思はるゝならんが此伊賀亮が
思ふには今日大岡が恐れ入りしは
僞りにて多分病氣を申立引籠るべし其内に紀州表を
調ぶるは
必定越前が恐入しは此伊賀亮が爲に一
苦勞なりと云に大膳始め皆々
驚愕然ば大岡が恐入しは僞りなるか此後は如何して
宜らん
抔案じけるに山内笑ひて大岡手を變へて事を
成ば我又其
裏をかく
詮方ありと皆々に物語る處へ取次
戸村馳來り只今町奉行方より平石次右衞門
使者に參り口上の趣きには天一坊樣御歸り後大岡
氣脱致し候や
癪氣さし起り候に付今日より
引籠候との由なりと云ふに山内是を聞て
扨こそ只今申通り我々を召捕了簡と相
見たりと云へば皆々山内が
明察を感じて
止ざりしと扨も越前守は若黨草履取を
供に連紀州の上屋敷へ到り
門番所にて尋ねらるゝ樣此節加納將監殿には江戸御
在勤なるやといふに門番答へて加納將監樣には三年前
死去せられ只今は御子息大隅守殿御家督に候と云ければ一
禮を
述加納大隅守殿の長屋を
聞合せ直樣宿所へ趣き案内を
乞大隅守殿へ御目通り仕つり度儀御座候に付町奉行越前守
推參仕まつり候御取次下さるべしと云に
取次の者此由を
通じければ大隅守殿早速對面あり此時越前守には
率爾ながら早速伺ひ申度は今より廿三年以前の御
召使ひに
澤の
井と申女中の御座候ひしやと
聞に大隅守殿申さるゝは親將監三年以前に
病死致し私し家督仕つり候へども當年廿五歳なれば廿三年
跡の事は一
向辨へ申さずと答へらる越前守
推返して然らば御
母公には御
存命に御座候やと申さるに大隅守殿
拙者儀は妾腹にて養母は存命いたし候へども當年八十五歳にて
御逢なされ候とも物の役には立申さずと
言るゝに越前守御老體御
迷惑とは存候へども御目通り願ひ度候と
言るゝに大隅守殿は據ころなく奧へ行き養母
正榮尼に向ひ只今奉行大岡越前守殿參られ御目通り
願ひ候が定めて御政事の事なるべし母上には御
當病と仰られて逢なされぬ方宜からんと云に
正榮尼いやとよ奉行越前守が
折角來り給ふを對面せぬも無禮なり
逢申べし大隅
心遣ひ無用なり假令何事を申す共八十五歳の
老人後々の
障になることは申すまじよし申にもせよ
老耄致し前後の
辨へ無と申さば少も其方の
邪魔には成申すまじ
氣遣ひ無此方に案内致す可と申さるゝ
故大隅守殿には越前守殿を案内せられ
老母の居間へ來らる越前守殿正榮尼に初ての對面より
時候の
挨拶を
述次に御
六か
敷とも御母公へ伺ひ度儀あり此廿二三
年以前に御召使ひの女中に澤の井と申者候ひしやと
尋らるゝに母公答て私し共紀州表に
住居致し候節召使の女も五六人
宛置候が澤の井
瀧津皐月と申す名は私し家の
通名にて候故何の女なりしや一
向に分り兼候と
云越前守然らば其中にて御家に御奉公長く
勤め候女中御座候やとあるに母公
然ば和歌山在西家村の神職伊勢が
娘の菊と申者私し方に十五年
相勤候此外に長く居し者なく其菊と申すは當時伊勢の妻に成しと
承まはり候と云るゝに越前守
更に手懸なく然ば廿二三年
跡の澤の井が證文御座候やと
聞けるに正榮尼申けるは奉公人の證文は一
通も御座
無斯樣に
計り申ては何か御不審も有べけれど
紀州の國法にて男女共に主人方にては奉公人の
宿は存じ申さず其譯は和歌山御城下に奉公人口入所二
軒あり男の奉公人は大黒屋源左衞門世話致し
女は榎本屋三藏
世話にて此二軒より主人方へ證文差出し
抱へ候にて主人方にては一
向奉公人の宿を存申さず
親元よりは口入人の方へ證文を出し候由
承まはり候然ば奉公人の
宿を御尋成り候には紀州表にて口入人を御
調なされずは
相分り申まじと云に越前守委しく承まはり
左樣ならば紀州表へ參らずば相分り申まじ然らば御暇申べしと一
禮述急御役宅へ立歸り
公用人平石次右衞門吉田三五郎を呼出し其方兩人は是より
直樣紀州表和歌山へ赴き大黒屋源左衞門
榎本屋三藏の
兩人を調べ澤の井が宿を尋ね天一坊の身分を糺し參べし
萬一澤の井の宿榎本屋三藏方にて
分り
兼候はゞ和歌山在西家村の神職伊勢の娘菊と申す者加納將監
方に十四五年も
相勤め居候由成ば此者を
呼出しなば手懸にも相成べし此旨心得置べし此度の儀は
國家の一大事家の
安危なるぞ急げ/\途中は金銀を
吝むな喩にも黄金
乏ければ交り
薄しと云へり
女子と小人は養ひ難しとの
聖言を守るなと
委細に申付られしかば次右衞門三五郎の兩人は
主命畏り奉つると早速
先觸を出し直樣桐棒駕籠に
打乘白布にて鉢卷と腹卷をなし品川
宿より道中駕籠一挺に人足廿三人を
付添酒代も澤山に遣す程に急げ/\と急立ける御定法の
早飛脚は江戸より京都
迄二日二
夜半なれども此度は大岡の家改易に成か又立かの途中なれば金銀を
散財して急がせける程に百五十里の
行程を二日二夜半にて紀州和歌山へ着しける此時和歌山の町奉行鈴木重兵衞
出迎へ彼奉行所本町
東の本陣に旅館致させけるに次右衞門三五郎の兩人は
休息もせず鈴木重兵衞へ申達し大黒屋源左衞門榎本屋三藏の兩人を
呼出し澤の井の
宿所を尋ねしに大黒屋源左衞門は
男のみ世話する故女の奉公人の
儀は存じ申さずとの事なれば
然ばとて榎本屋三藏に澤の井が宿所を
糺けるに
親三藏は近年
病死致し私しは當年廿五歳なれば廿二三年
跡の事は一向覺えなしと云にぞ然らば廿二三年
前の奉公人の
宿帳を
調べしと申付るに三年以前に
隣家より
出火致し古帳は殘らず
燒失致し候と云故少も手懸り
無れば次右衞門三五郎は三藏に
向ひ和歌山に西家村と云處
有やと云へば是より一里許り
在に候と答へけるにぞ寺社奉行へ達し西家村の
神職伊勢同人妻菊同道にて東の本陣へ
罷り出べき
旨差紙を遣はしける神職伊勢は
差紙を見て大いに驚き女房に
向ひ申けるは何事にや有らん是は定めて
其方和歌山加納樣方に奉公致し
居候節の事なるべし御本陣へ參りて御
役人より何事を尋ねらるゝ共一
向覺え申さずと云ふべし
憖ひに
知顏なさば
懸合となりて甚だ面倒なりと能々申合ければ菊女も
委細承知なし少しも案じ給ふ事なかれ何事も
知らずと申すべしとて夫れより夫婦支度をなし急ぎ本陣へ赴きけり
神職伊勢は女房
菊同道にて東の本陣へ到り此
由通じければ早速兩人を呼出さる吉田三五郎は伊勢に
向ひ西家村の神職伊勢同人
妻菊と申すは
其方なるかと云に
漣で御座ると答へける又取返して伊勢の妻菊と申すは
其方なるかと尋るに只々漣で御座ると
答へ一向に分り兼れば平石次右衞門心付き伊勢には
舞太夫を致さるゝやと尋ねけるに
御意の通り舞太夫を仕つり候と
答へければ然ば妻女の名前を
漣太夫と申さるゝやと聞に
如何左樣に候と答ける此時次右衞門漣太夫に尋る儀あり其方事は加納將監方に
數年奉公したりと
聞實以て左樣なるやと尋ければ菊は一
向存申さずと云に
押返して將監方に
奉公致たるに相違有まいなと尋るに
更に
存申さずと答へければ否々廿二三年
跡其方奉公中傍輩に澤の井と申す
女中有しと存じ居べしと尋ねけれ共一
向存申さずと云に次右衞門は
是は伊勢より女房に
口留したるに相違なしと心付たれば
懷中より小判十枚取出し紙に
包みて差出し
漣どの此金子は
將軍樣より其方へ
下さるゝ金子なれば有難く
頂戴致されよとて渡し
更めて申けるは當將軍樣には加納將監方にて御成長遊ばし
御幼名を徳太郎君と申し其方には
厚く世話になり玉ひし
由依て此金子を遣はせとの
上意なり又澤の井をも召出し御褒美下さるゝとの儀にて我々澤の井の
宿を調べに參りし
也其方存じ
居ば教へ申
可と
和かに諭ければ菊は十兩の金を見て心
打解成程考へ候へば加納將監樣の
呉服の間に澤の井と申て甚だ不器量の女中御座候やに存じ候
去乍宿の儀は存じ申さずと
面なげに云を次右衞門は聞て
然ば澤の井の宿を存じたる者は
無やと尋ぬるに菊は暫く考へ成程其節小買物を致
惣助と申者澤の井に頼れ手紙を持て
折々宿へ參りし事有と云に其惣助と申す者は當時
何方に
居や申聞すべしといへば只今は
御普請奉行小林軍次郎樣方に中間奉公致し居候と申にぞ
然ばとて早速使を
仕立御差紙を以て小林軍次郎
召使惣助同道にて早々本陣へ罷り
越べき旨申達せしに軍次郎は大に
驚き惣助を腰繩にて
召連來れば直に惣助を呼出し其方事加納將監方に奉公中澤の井と云女中に
頼まれ手紙使に折々宿へ參りし
由定めて澤の井の宿を存じ
居べし何方に候やと尋けるに一向に
覺え御座なく候と答へける吉田三五郎
懷中より又金子十兩を取出し菊へ渡して此金子を
其方より惣助へ遣はし澤の井の宿を
尋呉よと言ければ菊は惣助に向ひ此金子は
徳太郎樣より其方に下さるゝとの御事にて澤の井樣をも
召出し
御褒美下さるゝ筈なれ共今は宿を
知たる者なしお前は頼まれて度々お宿へ參りし事あれば
能々考へて御役人樣へ申上られよと
聞き惣助も十兩の金子を見て肝を潰し頻りに金の
欲さに樣々と考へ
成程澤の井さんに頼まれて折々手紙を持參りしが
其頃澤の井さんの申には
糸切村の茶屋迄持て行ば
宿へは直に
屆くと申されしゆゑ茶屋迄は
度々持參りしと云にぞ
能こそ
知したりとて彼十兩は惣助へ
遣し然らば惣助を案内として其糸切村へ參らんと支度をなし神職夫妻には
暇を
遣次右衞門三五郎寺社奉行
差添小林軍次郎奉行遠藤喜助同道にて夜四ツ時過より
淡島道五十町一里半を
揉に
揉で
丑滿の頃漸々にて糸切村に着し彼の茶見世を御用々々と
叩き起せば
此家の亭主何事にやと
起出るに
先惣助亭主に向ひ廿二三年
跡に澤の井樣より手紙を頼まれ
毎度頼み置し事有しが
其手紙は何方へ屆けしやと尋ねけるに
亭主答へて私し方は
道端の見世故在々へ頼まれる手紙は日々二三十
本程も有ば一々に覺え申さず
殊に二十二三年跡の事なれば
猶更存じ申さずと
答へけるにいよ/\澤の井の
宿所の
手懸なく是に依て次右衞門三五郎の兩人は
色を失なひ
斯迄千辛萬苦して
調ぶるも手懸りを得ず此上は是非に及ばじ
此旨江戸へ申
送り我等は
紀州にて
自殺致より外なしと覺悟を極めしが三五郎フト心付き
懷中より又金十兩取出し
亭主に向ひ其方澤の井の
手紙を頼まれ
宿へ參らず
共村名位は覺の有さうな物なり今十兩
遣はす程に
能々考へて思ひ出せと申にぞ亭主は
金を見て思ひも寄ず十兩に
有付事と兩手を
組で樣々と
思案をし
稍暫く有て思出しけん申樣澤の井殿の
宿の村名は私しの
弟の名の字を上へ付候樣に
覺え申候と云に其方の
弟の名を何と申すやと尋ぬるに弟は
平五郎と申し候と
答へけるに
郡奉行へ
談じ急ぎ平の字の付たる村々を
調べさせけるに十三ヶ村有れば是を始より一々
亭主へ
讀聞すに
平澤村と云に到りて亭主
礑と手を
拍其村で御座候といふに然らば是より平澤村へ
立越んと
爰にて大勢
支度をし
先平澤村へ
先觸を出し其
跡より百五十人餘の同勢にて平澤村
指て
急ける
扨此平澤村と云は
高二十八石
家數僅二十二
軒にて
困窮の村なり澤の井の事に付ては是迄度々尋ね有しか
共懸り合を
恐村中
相談なし何時も知ぬ旨趣を申立通したりとか
然ば平澤村には
先觸來れば又
例の澤の井の
調べなるべし
是迄の通り村中
少しも存じ申さずと
言放し懸り合に成ぬ樣に致事第一なりと申合せ
役人の來るを
待しに此度は是迄とは
變り
凡百五十人餘りの大勢にて名主甚兵衞方へ着し
直に
村中へ觸を
出して十五歳以上の
男子を殘らず
呼集め次右衞門三五郎正座に
直り
座傍には
寺社奉行并びに遠藤喜助小林軍次郎等
列座にて一人々々に
呼出し澤の井の宿を
吟味に及ぶも名主を
始め村中
殘ず存じ申さずとの
答へなれば少しも
手懸りはなきに次右衞門の思ふ樣是は村中
申合せ掛り合を恐れて
斯樣に申立るならんと
席を
改ため
威儀を
正して申けるは是名主甚兵衞其外の百姓共
能承たまはれ將軍の上意なれば
輕からざる事なり
然るに當村中一同に申合せ
知ぬ/\と
強情を申
募るに於ては是非に及ばず此
大勢にて半年又は一年
懸りても澤の井の
出所を
調ねばならぬぞ
左樣に心得よと
威猛高になりて
威すにぞ村中の者
肝を
潰し此大勢にて十日も
逗留されては村中の
惣潰れと成るべし
如何はせんと十方に
呉誰有て一言
半句を出す者なし此時
末座より一人の
老人進み出で
憚りながら御役人樣方へ申上ます私しは當村の
草分百姓にて善兵衞と申す者なるが
當時此村は高廿八石にて百
姓二十二軒ある
甚だ
困窮の村方なれば
斯御大勢長く
御逗留有ては必死と
難澁に及ぶべし澤の井の一
條さへ相分り申せば
早速當村を御引取下され候やと
恐る/\申すにぞ次右衞門
答へて澤の井の一
條さへ相分り候へば何故に
逗留すべき
直我々は
出立致すなり其方存じ居るやと尋ねければ善兵衞は
然ばにて候澤の井が身の上は村中に
覺え居候者は
有間敷只だ私し一人
委細心得
罷り在候間申上
可當村の名主甚兵衞と申は至つて
世話好にて先年
信州者にて夫婦に
娘一人を
連同行三人にて
千ヶ
寺參り
旁々當地へ參りしを
彼甚兵衞
世話致し自分の
隱居所を
貸遣はし世話致し候ひしに兩三年
過右當人平右衞門
死去致し跡には
女房お三と申
婆と娘の兩人に
相成しがお三婆は
産の
取揚を
家業とし娘を
育てしが追々
成長するに
隨ひ
針仕事を教へ居し内
年頃にて相成候へば
何處ぞへ
奉公に出し度由お三婆より私へ頼みに付私し右娘を
同道致し城下へ參り
榎本屋三藏に頼み
加納將監樣へ
御針奉公に出し
遣し候に其
後病氣なりとて
宿へ下り母の
許に居候が何者の
胤なるか
懷姙致し居候故
村中取り/″\
噂を致し候に
翌年三月
安産せしが其夜の中に
小兒は
相果娘も
血氣上りて是も其夜の
曉に死去致し候に付き
近邊の者共
寄集り相談するも
遠國者故
菩提所も
無依て私しの寺へ頼み
葬むり遣し候其後お三婆は
狂氣致し
若君樣を失なひて
殘念なりと
罵詈狂ひ歩行候ゆゑ甚兵衞も
迷惑に存じ
隱居所を追出せしにお三婆は
宿なしと
相なりしを
隣村の名主甚左衞門といふ者當村の
名主甚兵衞が
弟にて
慈悲深人にて是を
憐み
何時迄狂氣でも有まじ其内には
正氣に成るべしとて
連歸り是も
隱居所へ入置
遣はせしに
追々正氣に
相成ければ又々以前の如く
産婦の
取揚を致し候が十年程以前
病死致し候由に御座候
是にて澤の井の一
條は
御得心に相成候やと云に次右衞門三五郎は是を
聞何にも
概略は
相分りたり其若君と澤の井を
葬ぶりし寺は當村なりやと
尋ぬるに向ふに見え候山の
麓にて
宗旨は一
向宗光照寺と申し候と
聞て然らば其
節の
住持は未だ
存命致し居やと有に
參候其節の住持
祐然と申すは未だ
壯健に候と答へける
吉田三五郎
然ば光照寺
住持祐然を
爰へ
呼參る
可との事なれば
早速村の
小使を
走せ江戸表より
御着の役人方より御用の由早々
名主宅迄御出なさるべしと
云すれば祐然は聞て
驚き何事やらんと
支度なし急ぎ甚兵衞方へ
赴きけり
光照寺
祐然は江戸表より御役人
到着にて
召呼るゝと聞き何事やらんと
驚きながら役人の
前へ出ければ次右衞門三五郎の
兩人祐然に
對ひ廿二三年以前
當村に
住居致し候お三が
娘澤の井
并に若君とかを其方
寺へ
葬りし趣きなるが右は
當時無縁なるか又は
印の
石塔にても
建ありやと尋けるに此祐然
素より
頓智才辨の者故參候
若君澤の井の
石塔は御座候も
香花を
手向候者一人も是なし
併し
拙僧宗旨の儀は
親鸞上人よりの申
傳にて
無縁に相成候
塚へは
命日
忌日には
自坊より
香花を
手向佛前に於て
回向仕つり候なりと元より
墓標も
無を
取繕ひ申にぞ次右衞門三五郎口を
揃へて然らば其
石塔へ
參詣致し度
貴僧には先へ歸られ其
用意をなし置給へと云に祐然
畏まり候と急ぎ立歸りて
無縁の五
輪の
塔を二ツ取出し
程能所へ
据置左右へは新らしき
樒の花を
香爐臺に香を
薫し前には
莚を
敷て今や/\と
相待ける所へ三五郎次右衞門
寺社奉行郡奉行同道にて來りしかば祐然は
出迎へ
直に
墓所へ案内するに此時三五郎は我々は
野服なれば御
燒香を致すは
恐あり
貴僧代香を頼み入と云に祐然則ち
承たまはり
代香をなし夫より皆々
本堂へ來り
過去帳を取出させ
委細を
調べける
寶永二酉年
[#「寶永二酉年」はママ]三月十五日寂 釋妙幸信女 施主 三
寶永二酉年
[#「寶永二酉年」はママ]三月十五日寂 釋春泡童子 同人
右の如くに
記し
有しかば
住持祐然に
書寫させ其
奧へ右之通り
相違御座なく候に
付即ち
調印仕り候以上月日
寺社奉行
何某殿と
奧書を
認めさせ次右衞門是を
受取ば三五郎
懷中より金二十兩を
取出し祐然に
與へ是は
輕少ながら我々より
當座の
回向料なり
尚又江戸表へ立歸らば
宜く
披露致し御
沙汰有之候
樣取計ひ申すべしと
挨拶に及び夫より祐然に
暇を告げ
光照寺をば
立出ける是にて平澤村の方は
調べ
埓明しかば直樣
隣村平野村へ
立越名主甚左衞門方へ
落付村中殘らず
呼集次右衞門三五郎の兩人は名主甚左衞門に
向ひ其方に
尋ねたき
仔細あり今より廿二三年以前に平澤村のお三と申す
婆當村へ參りしと
承まはるが其者は
未だ
存命なるやまた
何方へか參りしやと
尋けるに甚左衞門
仰の通り
慥に
寶永二酉年
[#「寶永二酉年」はママ]三月頃と
覺え候が右お三
儀は其
娘澤の井と申者
相果候より
狂氣なし平澤村を追出され
所々を
流浪致し
居不便に存候故
途中より
連歸り私し
明家へ住居させ候に追々
狂氣も
治り
正氣に立歸り以前の如く
渡世致し居候内
享保元申年十一月廿八日かと覺え候が其日は
大雪にて人通りも
稀なるにお三には酒に
醉ひ
圍爐裏へ
轉び
落相果申候と聞て次右衞門三五郎は
役柄なれば早くも心付其
死骸を見付し者は何者なるやと
尋けるに甚左衞門
彼の
死骸を
最初に見出し候者は
私し
悴甚之助に御座候
其仔細は同日の
夕刻雪も
降止候に何となく
怪き
臭致せば近所の者共表へ
出で
穿鑿致し候に
何時何事にても人先に出て
世話致し候お三
婆のみ一人相見え申さざれば私し
悴甚之助
不審に存じ
渠が家の戸を
明初て見出し申候と云に次右衞門は
悴甚之助は其頃
何歳なりしやと
尋るに
然ばに候悴儀は寶永元年の生れにて十三歳の
時に御座候と
答へけるに然らば其甚之助は
只今以て
存命なるやと尋ねるに甚左衞門
參候
親の口より我子を
譽候は
恐入候へ共
幼年より
發明なれば
末頼母敷存居しに生長に
隨ひ惡事を
好み親の目に餘り候事度々なれば十八歳の時
御帳に
附勘當仕つり候其後一向に
行衞相知申さず村の者共
渠が
噂を申し甚之助には
能方へ
赴けば
鎗一
筋の
主共成るべきが
惡方へ趣けば馬の上にて
鎗を
跡へ
持せる身に成るべしと專ら取沙汰致候程の者なれども
親の心には
折々思出し
不便に存じ候と
涙ながらに申立しにそ此時次右衞門三五郎は
顏を見合せ
互に心中は
今江戸表八山に居る天一坊は
多分此甚之助に相違あるまじくと思ひしが然あらぬ
體にて其方の
悴甚之助は
生れ
付體面如何有しやと尋ぬるに甚左衞門私し悴は
疱瘡重く候故其
痕面體に
殘り
甚だ
醜く候と云に
扨は
人違ならんと又問けるは其方の悴に同年か又一二年
違の男子が
當村に
居しやと尋ぬるに甚左衞門は即ち
人別帳を
調べ
寶澤と申す者有しが夫は
盜賊に
殺されしと云に
其仔細は如何にと
尋ぬれば甚左衞門は
答へて右寶澤と申すは九州
浪人原田何某の
悴にて幼年の頃
兩親に別れ夫より
修驗者感應院の弟子と成りしが十三歳の
暮感應院には
横死いたし候に付
右寶澤へ
跡を
繼候樣
村中相談の上申聞候に
渠は
幼年ながら
發明にて我々へ申候には
山伏は
艱行苦行する者にて幼年の私し未だ
右等の
修行も致さず候へば
暫く
他國致し
苦行を修め候上
立戻り
師匠の
跡を
繼申度と
強て申聞候故
村中より
餞別に
取集め
遣はし候金子八兩二分を所持致し出立せしが
右金子を所持せし故にや
加田の
浦にて
切害され
死骸は海中へ
入申候しか相見え申さず
此浦には
鰐鮫住候故大方は
鮫の
餌食と相成候事と存られ候
衣類并に
笠は血に染り濱邊に
打上是有候故濱奉行へ御屆に相成候
且村中
不便に存じ
師匠感應院の
墓の
側へ
塚標を相立
懇篤に
弔ひ遣し候と云に
兩士は是を聞より其
寶澤の身の上こそ
不審なりと思ひ其寶澤と云は
常々お三
婆の所へ
往復致せしかと尋るに如何にも寶澤は
常にお三婆の所へ參り
既に相果候
跡にて
承はり候へば其日寶澤は
師匠より
酒肴を
貰持參せし由其酒にて
醉伏相果候事と存じられ候と聞より
彌々不審思ひ次右衞門申樣右寶澤の
顏立下唇に
小き
黒痣一ツ又左の耳の下に大なる
黒痣有しやと聞に如何にも有候と
答るにぞ然ば天一坊は其寶澤に
相違なしと兩士は郡奉行遠藤喜助に
對ひ其寶澤の
衣類等御座候はゞ
證據にも相成るべく存じ候へば申受度と云に
喜助申樣夫は先年某濱奉行
勤役中にて
笈摺笠衣類は
缺所藏の二階の
隅へ上置候へば
當時の濱奉行
淺山權九郎へ申談じ差上申べしと
其旨濱奉行へ
申達し右の品々を
取寄兩人の前に差出せば次右衞門三五郎は改めて見に
笠衣類笈摺等一々
疵付有共其
疵口の不審さに
流石は
公儀の役人是は
盜賊の
所爲ならず寶澤人に殺されし
體に自身に
疵付し者ならんと
血に
染たる所を見れば
年限隔りて
黒染みの
[#「黒染みの」はママ]樣なれば人間の血の
染たるとは大に
異なりしかば寶澤こそ天一坊に相違なしと三五郎は
名主甚左衞門に向ひ
山伏感應院の死去せしは
病氣なりしやと
尋ねけるに甚左衞門病氣は
食滯と
承はり候と云然らば其時は
醫師に見せ候やと聞に
參候當村に清兵衞と申す醫師有て
夫に見せ候と答ふ然らば其
醫師を是へ呼べしとの事に
早速人を
走らせ清兵衞を
呼寄ける三五郎清兵衞に向ひ其
方醫道は
確と心得ありやと
尋けるに少しは心得
罷居候と云に又
押返して確と
醫道を心得居るやといふに今度は
確と心得候と
答へける然らば感應院
病死の
節は其方
病症をば
慥に
見留たるやと申すに清兵衞答て感應院の病症は
大食滯に候去ながら
私し事は
病症見屆けの醫には候はず病氣を
治す醫師なれば
食滯と申し其座を
立退候病症見屆の醫師に候はゞ
大食滯を申立其場は立去申まじと答ければ感應院の
死去は全く
毒殺と
社知られけり
抑々此清兵衞と云は
元紀伊大納言
光貞卿御意に入の醫師にて高橋
意伯とて
博學の者なりしが光貞卿の御
愛妾お
作の方といふに
密通なし大納言殿の御眼に
觸れ其方
深山幽谷に住居すべし
家督は
悴へ申付
捨扶持として五人扶持を
遣はすとの御意にて
暇になり又た
作の方も
直に
永の暇となり意伯と夫婦に成べしとの御意にて是も五人扶持
下し置れしかば
意伯はお作の方と
熊野の
山奧に
蟄居し十七年目にて御目通りなし又増扶持として五人扶持下し置れ
都合十五人扶持にて
平野村に住居し名を清兵衞と
改めしなり斯る
醫道に
精き人なれば今此
返答には及しなり
然ば天一坊は寶澤に相違なしと郡奉行の
荷物を持來し善助と云ふ者元感應院に
數年奉公せし故
能存じ居ると云を郡奉行へ相談の上
見知人の爲江戸表へ
連行事と定めけれど
老人なれば
途中覺束なしと甚左衞門をも
見知人に出府致す樣申渡し直に
先觸を出し
東海道は
廻遠し
難所にても山越に御
下向有べしとて
勢州田丸街道へ先觸を出し
桐棒駕籠[#「桐棒駕籠」は底本では「桐棒籠駕」]二
挺には次右衞門三五郎
打乘宿駕籠[#「宿駕籠」は底本では「宿籠駕」]二挺には見知人甚左衞門善助の兩人
打乘笈摺衣類の
證據に成べき品々は
駕籠の上に付紀州和歌山を
出立なし
田丸越をぞ急ぎける
此時江戸表には八代將軍
吉宗公近習を
召れ上意には奉行越前守は未だ
病氣全快は致さぬか芝
八山に居る天一坊は
如何せしやと
發と御
溜息を
吐せ給ひながら是は内々なり必ず
沙汰す
可らずと
仰られたるが
斯吉宗公が
溜息を
吐せ給ふは
抑々天一坊の身の上を
思し
召ての事なり世の親の子を思ふ事
貴賤上下の
差別はなきものにて
俚諺にも
燒野の
雉子夜の
鶴といひて
鳥類さへ親子の
恩愛には
變なし
忝なくも將軍家には天一坊は
實の御
愛息と
思召ばこそ
斯御心を
惱せられし成るべし此は
容易ならざる事成と御
側御用
御取次より御老中
筆頭松平伊豆守殿へ此
由を
申達せらるゝに伊豆守殿も
捨置れずと御
評議の上小石川
御館へ此段申上られける
此時中納言綱條卿
思召るゝ樣奉行越前
病氣屆致せしは自ら紀州表へ
取調に參し者か
但は家來を遣はしたるか何にも今暫らく日數も
掛べし
然ながら
捨置がたしと伊豆守殿へ
仰けるは越前守
役宅へ
上意の
趣き申遣はすべしとの事なれば
早速伊豆守殿より
使者を以て越前守方へ
此度將軍の
上意に越前守には未だ
病氣全快致さぬか
芝八山に居る天一坊は
如何せしやとの御事なれば
明朝は
早速に
登城致し
御返答申上らるゝか
今宵の内に
御役御免を願ふか兩樣の内
何共決心致さるべしとの
趣きを申
遣はしたるに
此方は越前守は
公用人次右衞門三五郎の紀州表へ
出立せし其日より
夜終行衣を着し
新菰の上にて
水垢離を
取諸天善神に
祈誓を
懸用人無事に紀州表の
取調べ
行屆候樣
丹誠を
凝し晝は一間に
閉籠りて
佛菩薩を
祈念し別しては紀州の
豐川稻荷大明神を
遙拜し晝夜の
信心少しも
餘念なかりしに
斯る處へ伊豆守殿より
使者を受け口上の
趣きを聞き
茫然と天を
仰ぎて
歎息なし
指屈て
數ればハヤ兩人
出立なしてより今日は
七日目なり
行路三日歸り路三日紀州表の
調べ
早して三日なり然ば
九日ならでは歸り難し然るを
今宵の中に御役御免を
願ば
今宵か明日は御親子
御對顏あるに
相違なし然すれば是迄
盡せし
千辛萬苦も水の
泡となり諸天善神へ
祈誓を
懸し甲斐もなく
嗚呼是非もなし
明朝六ツの時計を
相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、107-15]に
悴忠右衞門を
刺殺し我自ら
含状を致して
切腹なすべし然らば當年の内はよも
御對顏は有まじく其内には紀州へ
遣はせし兩人も
調べ行屆て
歸るべし
斯れば
我果しとて
後忠義の程
顯るべしと
覺悟を定め當年十一歳なる
悴忠右衞門を
呼出し
委細に
言含め又家中一同を呼出して今宵は
通夜を致し
明朝六ツの時計を
相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、107-18]に
予は
切腹致すなりと申渡されけるに家中の面々大に
驚き
今宵こそは
殿樣への
御暇乞なりとて
不覺に涙を
流し各々座敷へ
相詰ける越前守は家中一同を
屹度[#「屹度」は底本では「吃度」]見て池田
大助を
側近く
呼て申樣汝に
遺言する事あり明朝は忠右衞門も予と共に
切腹致せば予がなき
跡は三日を
待ず其方
并びに次右衞門三五郎は
當御役宅へ奉公すべし必らず
忠臣二君に
仕へずとの
聖言を守るなよ
此三人は予が
眼鏡に止りし者なれば
屹度御役に立者なり必ず/\此一言を
忘るゝな次右衞門三五郎等
歸府なさば
此遺言を申し聞すべしと言又家中一同の者へ其方共予がなき
跡は三日を
待ず
夫々へ奉公すべし
兩刀を
帶する者は皆々
天子の家來なるぞ必ず忠臣二君に仕へずとの
言葉を用ゆるな
浪人を致して居て越前の
行末かと
後指を
指るゝな立派な出世致すべし
斯てこそ予に
對し
忠義なるぞと申聞られ
一人々々に
盃盞を下され夫より夜の
明るを
待ける此時越前守の
奧方には奧御用人を以て明朝
君には
御切腹悴忠右衞門も自害致し
死出三途の
露拂ひ
仕つるとの事武士の妻が
御切腹の事兼て
覺悟には御座候へども君に
御別れ申其上
愛子に
先立れ何を
樂みに此世に
存命べきや
何卒妾しへも
自害仰付られ度と願はれければ越前守是を
聞道理の願なり
許し遣はす
座隔たれば
遲速あり親子三人
一間に於て
切腹すべければ此所へ參れとの御言葉に用人は
畏こまり
此旨奧方へ申上げれば奧方には
早速白裝束に
改められ此方の一間へ來り給ひ
涙も
溢さず
良人の
傍に
座て三人時刻を
待は
風前の
燈火の如く
哀れ
墓無有樣なり皆々は目を
數瞬き
念佛を
唱へ夜の明るを
怨に
長き夜も
早晩更行き
早明六ツに間も有じとて切腹の用意に
掛らるゝに明六ツの
時計鳴渡れば越前守は
奧方に向ひ
悴忠右衞門切腹致さば其方
介錯致せ其方
自害せば予が
直に
介錯すべし予が切腹せば
介錯には大助致すべしと
言付て又忠右衞門に向ひ
最早時刻なるぞ
後れを取なと
言るゝに忠右衞門
殊勝にも然らば
父上御免を
蒙り御先へ切腹仕つり
黄泉の
露拂ひ致さんと
潔よくも
短刀を兩手に
持左の
脇腹へ既に
突立んとする
折柄廊下をばた/\と
馳來人音に越前守
悴暫しと
押止め何者なるやと尋ぬれば紀州よりの
先觸と呼はりける越前守是を聞き
先觸を
此處へと申にぞ
其儘に差出せば
急ぎ
封押開見て是は三五郎の
手跡なり此
文體にては紀州表の
調方
行屆たりと相見え
勇たる文段なり
然ながら兩人の
着は
是非晝過ならん夫迄は
猶豫成難し
餘念ながら是非に及ばず
悴忠右衞門
後を取な
早々用意を致せと
云言葉に隨て然ば御先へと又
短刀を
持直しあはや只今
突立んとする時亦々
廊下に
物音凄じく聞えければ越前守何事やらん
今暫くと忠右衞門を止めて待るゝに次右衞門三五郎の兩士
亂髮の上を
白布にて
卷野服の
儘にて
刀を
杖に越前守殿の前に
駈來り立乍ら
大音上天一坊は
贋者にて
山伏感應院の
弟子寶澤と
云者なり若君には
寶永二酉年
[#「寶永二酉年」はママ]三月十五日
御早世に相違なし
委細は是に候とて
書留の
控へ差出し兩人は
撥と
平伏なし私共天一坊
贋者の儀を早々申上
御安堵させ奉つらんと一※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、109-5]に存じ
込君臣の
禮を失ひ候段恐入奉つり候
依て兩人は是より
差控仕つる可と座を
退かんとするを越前守
大音上次右衞門三五郎
暫待と
呼止れども兩士は
強て
退座せんとするに兩人參らずんば越前守直に夫へ出向ぞと言に兩人は
是非なく
立戻り越前守が
前に出て
平伏す是時越前守には次右衞門三五郎の手を
取られ兩人の
丹精忝けなく思ふなり
予が
家來とは思はぬぞや
迚夫より伊豆守殿より
使者に
預り
捨置難ければ
親子三人
覺悟なし只今既に忠右衞門
切腹するの所ろ兩人の
歸着こそ
神佛の
加護とはいへ全たく
誠忠の致す所なりと
物語られ
悴忠右衞門一代は兩人をば
伯父々々と
呼べしと言ければ兩人は
有難涙に
暮厚く
御禮申上召連し見知人甚左衞門善助は名主部屋へ入置
休息致させける是に依て越前守には池田
大助に命じ
全快屆の書面を
認めさせ
公儀へこそは差出されける
扨も越前守には紀州より兩臣
歸着にて
逐一穿鑿行屆たれば
直樣沐浴なし登城の
觸出し有て御
供揃に及び
御役宅を出で松平伊豆守殿御役屋敷を
指て
急がせられ
既に伊豆守殿
御屋敷御玄關へ懸て
奉行越前守伊豆守殿へ
御内々御目通り致度と申入るに取次の者
此趣きを申上ければ伊豆守殿
不審に思はれ奉行越前は
昨夜の内に
御役御免を願ふ
筈なるに今日
全快屆[#ルビの「ぜんくわいとゞけ」は底本では「せんくわいとゞけ」]を出し予に内々
逢たしとは何事ならんと
早速對面ありしに越前守申さるゝには
少々御密談申上度儀候へば御
人拂ひ願ひたしとの事故
公用人一人
殘し餘は
皆退けらる越前守は
再び公用人をも
御退け下さるべしと言るゝに伊豆守殿
顏色を
變是れ越前其方は
役柄をも
相勤候へば
斯程の事は
辨へ居るべし
老中の公用人は
目付代りなり
役屋敷に於て
密談致す事は元より
御法度なりと申さるゝを
越前守[#ルビの「ゑちぜんのかみ」は底本では「ゑつぜんのかみ」]少しも
臆せず左樣に候はゞ是非に及ばず天一坊儀に
付少々御密談申上度存じ
態々推參仕つり候
御聞屆無に於ては致し方なし然れば
御暇仕つらんと
立懸るに伊豆守殿天一坊の事と
聞て何事やらんと
心懸りなれば
言葉を
和らげられ越前天一坊儀と
有ば伊豆守も
承はらねばならぬ事
也とて
頓て公用人をも
退けられ今は
全く二人
差向ひに成れける
此時越前守申さるゝ樣は
私し先達てより天一坊の身分
再吟味の役を
蒙り候處
病氣に付御屆申上
引籠り罷在其内に家來を以て
紀州表へ調方に
遣はし候ひしが今朝
漸く
歸府仕つり逐一
相糺し候處當時八山に
旅宿致し居天一坊といふは
元九州
浪人原田嘉傳次と申者の
悴にて
幼名を玉之助といひ幼年にて父母に別れ
紀州名草郡平野村の
山伏感應院の弟子となり名を
寶澤と改め十二歳の時お
三婆を
縊殺し御墨附短刀を
奪ひ取十三歳にして
師匠感應院を
毒殺し十四歳の時村中を
僞り諸國修行と
號し平野村を立出其夜加田の浦にて
盜賊に殺されし體に
拵へ夫より
同類を
語らひて將軍の
落胤なりと
名乘出候に相違有間敷候此度見知人も是有
彼地より兩人同道にて
連參候なりと
委敷申述けるに伊豆守殿
斯と聞て
仰天し暫々
言葉も無りしが
稍有て
仰けるは越前は
能も心付たり定めて
御褒美として五萬石は
御加増有べし夫に
引替此伊豆守は
半知と成て御役御免に相成可しと
悄々として言ければ越前守
打點頭私し儀
御加増を
望立身を
心懸候
心底には候はず左樣の存じ
寄あらば何とて今日御役宅へ
御密談に參り可申や
配下の身として
御重役の
不首尾を悦ぶ
所謂なし只今申上候御密談と申は
外の儀に候はず伊豆守殿には
拙者より先へ
御登城なされ將軍家へ天一坊儀は
重役共より
先達て
身分相調べ候處全く將軍の
御子樣に
相違なく存じ奉つり此段
言上仕り候へ共
退いて
能々勘考仕つり候へば
不審の
廉々も御座候
故奉行越前心付し
體に仕り内々
吟味致させ候に天一坊儀は全く
贋者にて山伏感應院の
弟子寶澤と申す
賣僧に御座候と
仰上られなば伊豆守殿の御落度にも相成まじ又私しよりも伊豆守殿の
御心付にて
御内密仰含められ候に依て内々にて吟味仕り候處
贋者に
紛れ御座なく候と
言上仕り候らはゞ
双方の
言葉符合致すべしと云に伊豆守殿には
聞て大に悦び給ひ然らば越前其方が申通り伊豆守より
言上致すべし其方も
相違なく
左樣に言上致され候や其節に及び
双方の申立
相違致ては伊豆守が
身分にも
相懸候儀なれば
能々承知有たし只今の口上に
異變なきやと再應
仰らるゝにぞ越前守
顏を
正し私しより申上候儀なれば
毛頭相違は御座なく候と
答へらるゝに然らば越前
同道にて
登城可致と
御供觸を出され御同道にて
御登城に及ばれ伊豆守殿には御用御取次を召て
仰けるは伊豆守越前守
倶に
言上の儀有之候に付御
目見得下し置れ候樣御取次
有べしとの事なれば御用御取次は此段
早速言上に及ばれける將軍家にも奉行越前
病氣全快と聞し召れ
御悦氣にて
早速召出され御目見
仰付らる此時伊豆守殿には天一坊儀
上樣の
御落胤に相違なしと存じ奉つり
先達て此段上聞に
達し候へ共
退きて
倩々考へ候へば
聊か
不審の事も御座候故御
證據は
慥の御品ながら當人は
若紛らはしき者にやと心付候へ共
重役共一同申上候儀を變じ候も如何と存じ奉つり越前へ
内意仕つり同人心付候
由にて
吟味致させ申候處
果して天一坊儀は贋者に
相違御座なく候と
委敷言上に及ばれければ將軍には
能々聞し召れ越前守に
向はせ給ひ予は全く越前が心付しと存ぜしが
實は伊豆が心付て
内意有たるに相違なきや越前
如何ぢやとの上意に越前守發と
平伏なし只今伊豆守より
言上仕り候通り
毛頭相違御座なく候
委細は此書面に
認めしとて書付を出さるれば
御用御取次是を受取將軍家へ
差上る御
直に
御覽あるに當時天一坊と名乘候者は
元九州
浪人原田
嘉傳次の悴にて
幼名玉之助と
呼幼年にて兩親に別れ平野村の
山伏感應院の弟子となり
寶澤と
改名し十二歳にしてお三婆を
縊殺御墨附御短刀を
奪ひ取十三歳にて師匠を
毒殺し十四歳の
春紀州加田の浦にて
盜賊に殺されし
體に取
拵へ夫より所々を
徘徊なし同類を
語らひ此度將軍家の御
落胤と
名乘出候に相違御座
無確と記し有を
御覽遊ばし殊の
外御顏色變らせ給ひ
憎き
坊主めが
擧動なり
[#「擧動なり」は底本では「振動なり」]仕置の儀は越前が心に
任すべし此段
兩人同道にて
水戸家へ參り左樣に申べしとの
上意に
直樣伊豆守殿越前守同道にて小石川の
御館さして
急行ける小石川にては
綱條卿今朝奉行越前病氣
全快屆けを出せし由
定めて屋形へも越前參るべしと思召
遠見を出すべしとの
御意にて則ち遠見の者を
出されけるに此者
下馬先にて越前守伊豆守殿と
同道にて小石川御屋形の方を
指て來るを見るより急ぎ
馳歸りて只今松平伊豆守殿
大岡越前守御同道にて
御館を指て
參られ候なりと申上るに
中納言綱條卿斯と御聞とり
遊し伊豆守同道とは何事ならんと御
待有けるに
間もなく兩人御館へ參られ伊豆守越前守同道
參上仕り御目見を
願ひ
奉つると取次を以て申上るに中納言
綱條卿は如何
思召けん伊豆守は
控させよ越前守ばかり書院へ通せとの御意にて越前守を
御廣書院へ通し伊豆守殿をば
使者の間へ
控へさせられたり間もなく綱條卿には
御廣書院へ入らせられ越前守に
御目見仰付らる此時越前守
少しく
頭を上申上らるゝ樣は
先達て私し心付候由にて天一坊
身分再吟味の儀願ひ奉つり
則ち御免を
蒙り候へ共是は私しの心付には御座なく全く
伊豆守心付なり
然共先達て將軍の御
落胤に相違なしと
上聞に達し其後の心付なりとて
一旦重役共申出し儀を相違
仕つり候ては御役儀も
輕く
相成候故私しの内意仕つり候に付私再吟味御免を
蒙り其後病氣と
披露仕つり
引籠り
中家來を以て紀州表
相調べ候に天一坊儀は
贋者に相違是なく
委細は此書面に
御座候と差上らるゝに綱條卿是を
御手に
取せ玉ひ
御覽有るに全くの
若君には寶永三酉年
[#「寶永三酉年」はママ]三月十五日
御誕生にて
直御早世澤の井も其
明方に同じく
相果平澤村光照寺へ
葬り右
法名共に
寫し有て且天一坊は原田嘉傳次が子にして
幼名を玉之助といひ七歳にて兩親に
捨られ
山伏感應院の弟子となり十二歳の時お三婆を
縊殺し十三歳の
冬師匠感應院を
毒殺し十四歳の
年諸國修行と
僞り加田の浦にて盜賊に
殺されたる
體にし夫より諸國を
經廻り
同類を語らひ
今般將軍の
御落胤なりと名乘出候に
相違御座なく候と
認めたれば扨々
憎き
惡僧なり如何に越前
此調は伊豆守の
内意を受て紀州表を
吟味致したりと申せ
共全くは左樣には
非ざるべし其方が心付しに
相違有まいな其方
重役の身を思ひ
功を他に
讓る心なるべし予が
眼力によも相違は有るまじと
再三
仰らるゝに越前守
恐れながら
言葉を返へし奉つるに
似候へ共私存じ仕候樣に申上しは
僞言にて實は伊豆守よりの
内意を受候に相違御座なく候と申上げるに
綱條卿の御意に越前
予に
對して
詞を返へし候段は
忘れて遣すとの
御意なりしか
此時
中納言綱條卿の御意には伊豆守を是へ
呼出すべしとの事なれば伊豆守殿には
案内に
連て恐々出來り平伏ある中納言綱條卿には
芝八山に
旅宿致居る天一坊の身分
調方伊豆其方が心付にて
内意致し奉行越前が心附し
體に
計ひ再吟味を願ひ紀州表を
相調べ
穿鑿方行屆候由只今越前より
左樣に申せしが伊豆が
内意致せしに相違なきやとの
御意なれば伊豆守殿には
恐入越前より言上仕り候
通り
相違御座なく候と申上げれば綱條卿には伊豆守は
能配下を
持て
仕合者なりとの
仰せに伊豆守殿は
胸中を
見透され
針の
莚に坐する如く
冷汗流して
控へらる此時綱條卿には越前天一坊の
仕置の儀は其方が勝手に致べし
予が
免ぞ越前は
小身者なれば天一坊
召捕方の手當等はむづかしからん伊豆
其方より
萬端助力致遣はし早々其
用意を致べしとて御
暇を下し置かる是に依て伊豆守殿には
發と
息を
吐漸く
蘇生したる心地して
退出なし
役宅へこそ歸られける
扨越前守は
跡へ
殘り御
懇意の御
言葉を蒙り御
暇を給はり
面目を施して
勇進んで御
役宅へ歸り
早速公用人二人を
呼出し次右衞門に
言付けるは其方是より芝八山へ參り
明る
巳の
刻越前役宅へ天一坊參候樣申聞べし必ず
悟られるなと心付られ又三五郎を
呼て其方は天一坊
召捕方手配を致べしと仰付られ池田大助には天一坊
召取方を申付らる是に
依て三五郎は以前の如く江戸出口十三ヶ所へ
人數を
配り
先品川新宿板橋千住の
大出口四ヶ所へは人數千人
宛固させ其外九ヶ所の
出口へは人數五百人
宛を守らせ
沖の方は
船手へ申付深川
新地より品川
沖迄御
船手にて
[#「御船手にて」は底本では「御船手には」]取切御
備の御船は
沖中へ押出し其外
鯨船數艘を用意し
嚴重に
社備ける然ば次右衞門は
桐棒の
駕籠に打乘
若徒兩人
長柄[#ルビの「ながえ」は底本では「なかえ」]草履取を
召連數寄屋橋御門内御
役宅を出芝八山を
指て急ぎ
行しが道々
思案するには先達て赤川大膳を
名指にせしが此度も又
大膳[#ルビの「だいぜん」は底本では「だいせん」]に
對面なさんか
否々若し山内伊賀亮が
側より聞て
悟らば一大事なり
然ば此度は伊賀亮を
名指にて
渠に對面して
欺き
課せん者をと
工夫を
凝し
頓て八山の
旅館に到り案内を
乞ふに中村市之丞
取次として出來れば次右衞門申やう
町奉行大岡越前守
使者平石次右衞門天一坊樣御
重役山内伊賀亮樣に御
目通り致し申上度儀御座候此段御取次下さるべしと有に市之丞
此旨伊賀亮へ申
通じけるに伊賀亮
熟々思案するに奉行越前
病氣と
披露し自分に紀州表へ
調べに參りしに
相違なし然ば
往三日半歸り三日半
調べに三日
懸るべし越前
病氣引籠りより
[#「病氣引籠りより」は底本では「病氣引籠より」]今日は
丁度八日目なり十日
過ての使者なれば
彌々役宅へ
呼寄て
召捕工風なるべけれど四五日早く
使者の來る處を見れば
謀事成就せしと相見えたり
迚次右衞門を使者の間へ通し
頓て伊賀亮
對面に及びたる
此時次右衞門申けるは越前
先日以來病氣に候處
少しく
快き
方にて御座候故今日
押て出勤致し候一
體越前守參り以て申上べきの處なれど未だ
聢と
全快も仕つらず候故私しを以て此段申上奉り候明日は吉日に付御
親子御
對顏の御
規式を御取計ひ仕り候
尤も
重役伊豆守越前役宅
迄參られ天一坊樣へ御
元服を奉り夫より御
登城の御案内には伊豆守は
勿論西の御丸へ
直らせられ候節は酒井
左衞門尉より御
鎗一筋
獻上仕り候事
吉例に候へ共左衞門尉は
在國出羽鶴が岡に
罷り在候に付
名代として伊豆守より
猿毛の御
鎗一
筋獻上仕り候上樣よりは御
祝儀として御
先箱一ツ御
打物一ト
振右は雨天に候節は
御紋唐草の
蒔繪の
柄晴天に候へば
青貝柄の打物に候大手迄は御
譜代在江戸の大名方
出迎へ御
中尺迄は尾州紀州水戸の御
三方の御
出迎にて御
玄關より御通り遊ばし
御白書院に於て
公方樣御
對顏夫より御
黒書院に於て
御臺樣御對顏
再び
西湖の間に於て御三方樣御
盃事あり夫より西の丸へ入せられ候御事にて御
高の儀は
吉例四國なれば
上野國にて廿萬石下總國にて十萬石甲斐三河で廿萬石
都合五十萬石上野國
佐位郡厩橋の
城主格[#ルビの「じやうしゆかく」は底本では「じやうしゆかくた」]に御座候と
辯舌爽に申述
猶申殘しの儀は明日成せられ候
節越前
直々に言上仕つり候と申
演終れば伊賀亮是を聞て
扨は事
成就せりと心中に悦びける是餘人成ば
城中の事
委くは知ざれば
疑しく
思べけれ共伊賀亮は城中の事を
能心得居る故今次右衞門のいふ處一々
理に當れば
偵の伊賀亮も心を
弛し
此計略には
乘られたるなり
扨伊賀亮は奧へ來り
皆々に
此趣を申聞せ伊賀亮
所持の
金作の
刀を持出て次右衞門に向ひ越前守より申
越れし段上樣へ申上候處御
滿足に
思召し明日
巳の刻に越前役宅へ參るべしとの
上意なり是は余が
所持の品
如何敷候へども其方へ
遣はすとて一
刀を差出せば次右衞門は
此刀を申請
厚く禮を
述暇を告て門前迄
出先々仕濟したりと
發と一
息吐て飛が如くに役宅へ歸り
此趣きを越前守へ申上
彌々召捕手筈をなしにける斯て八山には
皆々打寄實に明日こそ御親子御
對顏に相成に付
最早事成就せりと次右衞門が
計略に乘りしとは
知らず大いに悦び
斯樣なる悦しき事は一夜を
待明すなりとて伊賀亮が
計ひとして
金春太夫觀世太夫を呼で
能舞臺に於て御悦びの御
能を
催しける然るに其夜
亥の
刻とも
覺敷頃風もなくして
燭臺の
燈火ふツと
消えければ伊賀亮
不審に思ひ
天文臺へ
登りて
四邊[#「四邊」は底本では「四邊」]を
見渡すに總て
海邊は數百
艘の船にて
取圍み
篝を
焚品川灣を初め江戸の
出口十三ヶ所へ
人數を
配固めたる
有樣なれば伊賀亮驚き
最早事
露顯せしと見たり今は是非に及ばず名も
無者に
召捕るゝは
末代迄の
恥辱なり名奉行と呼るゝ越前守が手に掛らば
本望なり大坂
御城代京都諸司代御老中迄も
欺きし上は思殘す事更になしと
自分の部屋へ來りて
鏡を取出し見れば
最早顏に
劔難の
相顯れたれば然ば明日は病氣と
僞り供を除き
捕手の向はぬ内に
切腹すべしと
覺悟を極め大膳の
許へ
使を立伊賀亮事
俄に
癪氣差起り明日の所
全快覺束なく候間
萬端宜敷御頼み申也と云
送り
部屋へ
引籠り居たりける
扨其夜も
明辰の
上刻と成ば天一坊には八山を立出で
行列以前よりも
華美に
粧ひて藤井左京赤川
大膳供頭となりて來る程に
途中の横町々々は大戸を〆切
町内々々の
自身番屋には
鳶の者共火事
裝束にて
詰[#ルビの「つめ」は底本では「いめ」]家主抔も
替り/″\相詰たり數寄屋橋御
見附へ
這入ば常よりも人數
夥多しく天一坊の供
殘ず
繰込を待て御門を
礑と〆切たり越前守
御役宅へ到れば大門を開き
敷臺迄駕籠を
横着になし平石次右衞門池田大助
下座敷に
平伏す時に越前守には
繼上下にて敷臺迄
出迎へ上段の間へ
案内し是にて暫く
御休息遊すべし其内には伊豆守參上仕つるべし
迚退かる
簾の前には常樂院赤川大膳藤井左京
諏訪右門各々
威儀を正して
居竝たり越前守は
見知人の甚左衞門善助を御
近習に
仕立寶澤に相違なくは
余が
袂を引べし夫を相※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、115-17]に召捕べしと申渡し彼紀州より
持來りし
笈摺には紀州名草郡平野村
感應院の弟子寶澤十四歳と記し所々
血汐に
染し品々を
壁に
懸置最早手筈は宜と越前守
簾の間へ來りて
控居る然る所へ伊豆守殿の
使者來り申述けるは今日伊豆守
當御役宅へ參りて
元服奉るべきの所今日佐竹
左京太夫殿江戸着にて伊豆守
上使に參り今日は
御規式の御間に
合兼候由何共
恐れ入奉り候へ共明日巳の刻に越前
役宅へ入せられ候樣願上奉ると有ければ越前守には大膳に
向ひ
只今御聞の通り伊豆守方より斯樣に申參り候へば
迚も今日の
儀には參り申さず
恐れながら明日又々
入せられ候樣願ひ奉ると申に大膳も
此趣きを天一坊へ申傳へるに伊豆守役儀と有ば是非に及ばず又明日參るべしとの事にて
頓て
歸館々々と
觸出しければ天一坊は
上段の間より
靜々と下り立ちけるに引續いて常樂院大膳左京右門の
輩ら
玄關指て
歩行けり
天一坊初め一味の
輩町奉行御役宅の
玄關指て
出けるに豫て越前守が見知人として
近習に仕立召
連し彼甚左衞門善助は此時ぞと天一坊を
能々見れば
紛れもなき寶澤なれば越前守に
目配せなし
密かに
袂を引たりける此時は天一坊は既に玄關迄來りしが向の
壁に懸し
笈摺を見て
偵大膽不敵の天一坊なれど
慄然と身の毛よだち思はず二足三足跡へ
退くを見て取越前守大音に寶澤待と聲を懸けければ此方は
彌々愕然し急に
顏色蒼醒後の方を振返るに
夫召捕と云間も有ず數十人の捕手
襖の
影より走り出
難無高手小手に
繩をば懸たりける
斯と
視るより大膳は
事顯はれしと思ければ刀引拔勢ひ
猛く
縱横十文字に切て廻り切死せんと
働くを大勢にて
取籠めつゝ
階子を以て
取押へ漸く繩をぞ懸たりける
此間に常樂院藤井左京諏訪右門等各々召捕れ其餘一人も殘ず召捕たり越前守は豫て
手配せし事なれば急ぎ八山へ
捕方を遣はせしに山内伊賀亮は早くも
覺悟し自分の
部屋へ火を懸て
燒立其中にて切腹し果たれば死骸は更に
分ずとなん惡徒とは云へ
天晴の器量人と稱すべし斯て越前守には御目附
野山市十郎
松田勘解由等立合にて一同呼出し先天一坊を
吟味に及ばれけるが只々
伊賀亮萬事を取計ひしゆゑ
委細は存じ申さずと云に然らばとて常樂院其餘の者を
吟味するに是も同斷の答へゆゑ入牢の上嚴重に
拷問を懸られたれば終に殘らず白状に及びける是に依て
伺ひ
相濟享保十一
丙午年の十一月廿一日町奉行所に於て大岡越前守御勘定奉行駒木根肥後守
筧播磨守[#「筧播磨守」は底本では「筧播摩守」]野山市十郎松田勘解由立合にて大岡越前守左の通り申渡されける
元長州浪人原田嘉傳次悴
玉之助
當山派修驗感應院弟子
となり其後改寶澤當時
獄門 天一坊
其方儀感應院の
師恩を
辨へず西國修行に罷り出度由申立
欺きて諸國を
遍歴し
徒黨を集め百姓町人より金銀を
掠取り
衣食住に
侈奢をなしたる
段上を恐ざる
致方重々不屆至極に付獄門申付る
天一坊家來
死罪 赤川大膳
右大膳儀先年
神奈川旅籠屋徳右衞門方に於て旅人を殺害し金子を
奪取其後天一坊に一
味致
謀計虚言を以て百姓町人を
欺き金銀を
掠取り衣食住に
侈奢身の程をも
辨へず
上を
蔑しろに致たる
段重々不屆に付死罪申付る
天一坊家來
死罪 藤井左京
其方儀天一坊へ
一味致し
謀計虚言を以て百姓町人を
欺き金銀を掠取り衣食住に
侈奢身の程をも
辨へず上を
蔑しろに致たる段重々不屆に付死罪申付る
美濃國各務郡谷汲郷
長洞村日蓮宗
遠島 常樂院天忠[#「常樂院天忠」は底本では「平樂院天忠」]
其方儀天一坊
身分聢と
相糺さず百姓町人を欺き金銀を
掠取り候段
上を
蔑しろに致し
[#「致し」は底本では「至し」]重々不屆に
付遠島[#「付遠島」は底本では「付遠島」]申付る(八丈島)
芝田町
重追放 山伏南藏院
其方儀天一坊身分
聢と存ぜずとは申ながら常樂院に
頼まれ
假住居の世話申候段
不埓に付重追放申付る
品川宿地面賣主
過料五貫文 儀右衞門
其方儀天一坊身分
聢と
相糺ず
地面賣遣はし候段不埓に付
過料五貫文申付る
品川宿名主
身分取上 茂太夫
其方儀天一坊身分
聢と相糺さず
萬事華麗の
體たらく有しを
如何相心得居申候や
訴へもせず
役儀をも
勤ながら心付ざる段不屆に付退役申付る
天一坊家來
本多源右衞門
南部權兵衞
遠藤森右衞門
中追放 藤代要人
諏訪右門
浮木立平
高間左膳
右七
人の
者共天一坊
身分聢と
相糺さず
主從の
盟約を致し候
段不屆の致し
方に付中追放申付る
天一坊家來
高間權内
石黒善太夫
輕追放 福島彌右衞門
矢島主計
右四人の者同斷に付
輕追放申付る
天一坊家來
木下新助
澤邊十藏
松倉長右衞門
高岡玄純
門前拂 上國三九郎
近松源八
相良傳九郎
森川玄蕃
右八人の者共
同斷に付
門前拂申付る
天一坊家來
作右衞門
權助
石平
傳藏
專藏
無構 八助
半五郎
六左衞門
源七
八内
右十人の者共は
請人へ
引渡し可申事
時に享保十一
丙午年十一月廿一日右の通り
裁許相濟其外金子差出候者共は呼出しの上夫々相當の
過料申付らる
斯て天一坊一
件善惡邪正明白に
決斷相濟み
落着となりければ
此段上聽に
達しける將軍家の上意に
若越前無ば彼惡僧に
誑られん者と深く
御稱美有て三州
額田郡西大平に於て一萬石加増仰付られ越前守是迄の
心勞一方ならざりしも
其甲斐ありて
愁眉を
開かれける
扨又
平石次右衞門吉田三五郎の兩人より越前守へ
言上彼若君澤の井の
死骸を
葬りし光照寺へ
永代佛供料として十八石の
御朱印を下し置れける是
偏に
住持祐然が
發明頓才の一言に依て
末代寺號を
輝かせり且又見知人として出府せし甚左衞門善助の兩人へは越前守より
目録其外の品々を
賜り目出度
歸國致ける然ば
曲れる者は
折易く
直なる者は
伸易しとか山内伊賀亮程の
器量ある者も惡事に組し末代の今に到る
迄其
汚名を
殘しけるが越前守には明智を以て
斯る惡事を
見顯し忠功を
立後世迄も
美名を
海内に
輝かし子孫の
繁榮を
遺すは
最有難き事共なり
天一坊一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]白子屋阿熊一件 賢にして
財多ければ則ち
其志を
損じ
愚にして
財多ければ則ち
其過ちを
益且夫富貴は
衆の
怨なりと此言や
宜なるかな享保の
頃麹町二丁目に
加賀屋四郎右衞門とて
間口十八
間餘番頭手代丁稚五十餘人其外下女下男二十人夫婦に
子供都合七十人餘の
暮しにして地面四五ヶ所を
持呉服物を
商ひ
日々繁昌なすに
近頃其向へ
見世開きをなして
小切太物を
鬻ぐ
駿河屋三郎兵衞と云者ありしが
此方は
新規の
小見世と
云向ふは所に久しき大店なれば
客足も
自然向ふへのみ
行勝なれども加賀屋よりも
折にふれては
代呂物の
融通等もなし
出入邸の
商ひをして
取續き
居たれども
或年三月
節句前金二十兩不足にて
勘定立ざれば是非なく向ふの加賀屋へ
到り
亭主に
逢て此節句前二十兩不足ゆゑ
問屋の
拂ひ
行屆ざるに付何卒節句過まで金子借用致し
度旨只管頼みければ此四郎右衞門は
情有者にて夫は
嘸御難儀ならん
向前と
云類商賣の事なれば此度に限らず御都合次第何時にても御遠慮なく仰越れよと
快よく
貸ければ三郎兵衞大いに
悦び
書付を入れんと云に四郎右衞門書付には及び申さず御同商賣の事故
互ひに
融通は致す
筈なりと眞實面に顯れければ三郎兵衞は
誠に
忝けなしと厚く禮を述て歸らんとするを四郎右衞門
先々と
引止下女に云付
酒肴を出し
懇切に
饗應て三郎兵衞を歸しけり其後三月十日に三郎兵衞二十兩加賀屋へ
持參し
先達ての禮を述て返濟なし其節も馳走に成しが其後五月
節句前又三十兩不足に付借用致し度と云ければ四郎右衞門は以前の如く
快よく
貸しを夫も五月十日に返濟なし七月
盆前に五十兩借是又同廿日に返し九月節句前にも八十兩借同月
晦日に返濟せしが
扨今度は十二月となり年の
暮なれば誰も金を
貸ぬ時分なるに此四郎右衞門は如何にも
眞實者なれば
困ると聞て利も取らず
極月金百兩
貸たり斯の如く
鰻登りに借る事三郎兵衞
素より心に一物あれば此百兩の金を十二月
大晦日に持行けるが四郎右衞門其日は殊の外勘定に
取込居三郎兵衞の來りても
碌々挨拶もせず
帳合を
爲居たりし所へ三郎兵衞右の金百兩を返濟しければ
其儘硯筥の上に置て下女に申付
酒肴を出させ三郎兵衞を
饗應ながら猶帳合をなし居ける
中邸方より
六ヶ
敷拂ひ殘りの
掛合などありて四郎右衞門も
忙敷居たり立たりせし
紛れに三郎兵衞は
掛硯筥の上に置たる彼の百兩を
竊と取て懷中へ入たるを誰も知る者なかりしが其後三郎兵衞は
姑く
話をなして歸りける
跡にて四郎右衞門彼の百兩を
仕廻んとするに見えざれば
萬一忙敷紛れ外の金子の中へ這入りはせぬかと種々尋ぬると雖も一向知れず
大晦日の事ゆゑ
邸方より二百兩三百兩づつ度々來るに付入帳には付けたれども百兩不足に受取しや
合點行ずと種々考ふれども帳合
合ず然るを下女の中にて三郎兵衞を少し
疑ふ者ありしが夫は證據なき事とて是非なく
今年の
厄落しと
斷念め帳面を
〆切しが是を
不幸の始として只一人の娘に
聟を
撰み
跡をも
繼せんと思居たりしに其年五月大病にて
死亡しにぞ其力落しより間もなく妻も病死なし僅か一年の中に妻子に別れ夫より手代なども引負して掛先の
損多く斯程の身代も一
瞬の間に不手廻になり四郎右衞門も大病を
煩ひ漸く全快はなしたれども
足腰弱り
歩行事叶はず日々身代に苦勞なすと雖
種々物入嵩み五年程に地面も
賣拂ひ是非なく身上を仕
舞て今は麹町加賀屋茂兵衞と云る者の方に
掛人にぞなりたりける此茂兵衞と云は四郎右衞門に
數年勤めし者なりしが
資本金を與へ
暖簾を
分加賀屋茂兵衞とて同六丁目にて
小切類を
商ひ居ると雖も
元來細き身代なれば漸々其日を送るのみ四郎右衞門は此中へ掛り人となる程なれば
其零落思ひ遣られしなり然るに
駿河屋三郎兵衞は彼の百兩を取てより其金を
資本として是より見世の者へ云付
代物に色を付
景物に
手拭等を添て
商ひ或は金一分以上の
買人には
袖口か
半襟などを
負て
賣ければ是より人の思ひ付よく
追々繁昌なすに隨ひ見世をも廣げ
手代丁稚も
大勢抱へ今は一
廉の身代となり向ふの加賀屋
衰へるに
引變彌々繁昌なしけるが加賀屋四郎右衞門は茂兵衞方へ引
取れし
後其身病勝の
上老衰して漸々近所を
歩行位なれば四郎右衞門
倩々考ふるに
斯爲事もなく茂兵衞方に居れども
渠も
貧窮の身ゆゑ
何卒少しにても茂兵衞の
資本を助け遣り
度と或時駿河屋三郎兵衞方へ到り
御亭主へ御目に
懸り
度と云を番頭は四郎右衞門が
見苦敷姿を見て
古へを思へば氣の
毒に心得奧へ通しけるに三郎兵衞は若い者を大いに
叱り四郎右衞門來たらば
留守と云て歸せと申に若い者お
宿に居らるゝ旨申せしかば今更然樣には申されずと云故三郎兵衞
不承々々に面會なし何用有て來られしやと申ければ四郎右衞門
段々との
不仕合を
物語り
昔其許に金子を用立し事も有により昔を忘れ給はずは斯の如く難儀せし間少しの
合力に
預り
度と
詞を
卑ふして頼けるに三郎兵衞は
碌々耳にも入ず合力は一向なり申さず
勿論昔は借用致したれども夫は殘らず返濟したり
然すれば何も申分有べからずとの返答に四郎右衞門
成程其金は受取たれども
仕舞の百兩は
大晦日の事にて
帳へは付ながら金は見え申さず不思議の事と思へども
最早夫は
昔の事我等が
厄落しと存じ思切て
濟したり夫を申立るには非ず當時茂兵衞が身代
惡く我等へ
扶助も難儀の樣子なり其上
斯病身に相成
手助もなし
難きにより
切て
聊かなりとも
資本[#ルビの「もとで」は底本では「もとど」]を
助け度存ずるに付昔し
貸たる利分と思ひ少々の金を
貸給へと云けれども三郎兵衞更に承知せず外の話に
紛して取合ざれば四郎右衞門も大いに
腹を
立此ほど事を
譯て頼むに恩を知ぬ人非人なりと
罵りけるに三郎兵衞大いに怒り人非人とは
不禮千萬と
云樣銀煙管を以て四郎右衞門の
頭を
打ければ
額より
血流れけるに四郎右衞門今は
堪忍成難しと思へども其身
病勞て居るゆゑ
何共詮方なく無念を堪へ
寥々とこそ歸りけれ
其後又湯屋にて
出會し
時三郎兵衞は四郎右衞門を
捕へ
此乞食めと
人中にて
散々罵り
恥しめければ今は四郎右衞門も
腹に
居兼大いに
憤ほりけれどもとても
腕づくにては
叶ひ
難しと思ひ其日も
堪て歸りしが
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、127-15]心付我が
日來信心なす
金毘羅へ
祈誓を
寵呪ひ
呉んと三郎兵衞の
人形を
拵へ是へ
釘を
打て或夜三郎兵衞が
裏口より
忍び入り
居間の
縁の下に
埋め置是で
遺恨を
晴さんと思ひしは
貧苦に
迫りし老人の
愚なり
折節臺所の男共
小用に
起しが
裏口の明てありしを
不審建んとなす時
迯出す人あるにより
夫盜人[#ルビの「ぬすびと」は底本では「るすびと」]よ
出逢々々と大聲に呼はりけるに大勢
馳來りて見れば加賀屋四郎右衞門なり皆々是は
人違ひ
成んと云に三郎兵衞之を見て
否々人違ひに非ず盜賊は此者に相違なく此程我に無心を
云掛けしを聞ざる
故盜に入しならん
直樣訴へ申べしと云を町内の人々來り我等に
預け給へとて無理に四郎右衞門を
連歸り
元は此所の
分限者なりしを盜賊に落さんも氣の毒に思ひ家主の
宅へ寄合ひ四郎右衞門に
譯を尋ぬるに前々の始末を殘らず話し
又此頃湯屋にて
惡口されし事如何にも殘念に存て斯々は
爲ど盜みに入りしには非ずと申ければ是を聞て
皆々三郎兵衞は人に非ずと
憎み四郎右衞門を
憫然に思ひて町内申
合無盡を
取立金子十兩
拵らへて
[#「拵らへて」は底本では「抱らへて」]與へければ大いに悦び茂兵衞も
倶々禮を云て悦びけり然るに三郎兵衞は四郎右衞門を盜賊に
陷し
殺さんとせしに皆々に止められしが
猶所々を
改め見るに我が
居間の
縁の下より怪き
箱を
探し出し
蓋を
明けるに
己を
呪ふ
人形[#ルビの「ひとがた」は底本では「ひとかた」]なれば大いに怒り夫より
呪咀の
始末を
書記し町奉行大岡越前守殿へ訴へ出しかば則ち駿河屋三郎兵衞加賀屋四郎右衞門
并に
茂兵衞町内の者共一同呼出され
吟味有しに皆々四郎右衞門が申せし通りを申立ければ
大岡殿三郎兵衞を
呼れ其方前々四郎右衞門より金子借用せしに
相違なきやと
尋問られしに三郎兵衞
御意の如く十ヶ年以前三月
節句前に金廿兩五月三十兩七月五十兩九月八十兩十二月百兩借候へども
其節々殘らず
皆濟仕つり其後四郎右衞門
不勝手に相成私し方へ無心に參り候處ろ取合申さず右を
遺恨に存じ
呪咀致せしに
相違なく
何卒御吟味願ひ奉つると申立ければ大岡殿吟味有しに四郎右衞門
呪咀致せしに相違なし
然れども末に百兩返濟の時其金見えず
既に
其節三郎兵衞を疑ひし者も御座りしかど
證據なき事故
厄落しと心得相濟し候夫を
今更申には御座なく候へども
貧窮の餘り無心申せしより
斯の仕合せと申に付大岡殿コリヤ三郎兵衞彼百兩は
彌々返濟なせし
哉暮の事に
取紛れ萬一忘却致したるにはあらずや
篤と
考へ見よ
僞り
包むに於ては
屹度糺問致すぞ
其方鰻登りに金を借る程の者なれば
油斷ならざる男なりと言れし時三郎兵衞はギヨツとせし
樣子を見られしが又四郎右衞門は
身代の
果程有て
困つた事をなし
不便の至りなり勿論
呪咀の
科は
屹度申付るぞ
然ど三郎兵衞は其百兩の
金彌々返濟したるや
否や明白に返答致すべしと有ば三郎兵衞ハツと云のみ何とも
返答なし大岡殿又三郎兵衞に向はれ其方は
左右物忘れ致すと見えたり忘れし事を思ひ出すには
閑靜なる所がよきものなり因て
見張を
附るにより
明長屋へ
到り
篤と考へ見よとて同心に
遠見を致させ
裏手の
明長屋へ入られ
凡そ
二時餘り過て又
白洲へ呼出されいまだ考へ出ずば又明日出よ尤も其方の
宅は終日客も入來り
騷々しからんにより日々奉行所へ
出明長屋にて思ひ出す
迄考ふべしと申
渡され一同
下られしかば三郎兵衞は我が家に歸り
熟々考けるに
若返濟せぬならば明日又々明長屋へ入れらるべし如何致したれば宜しからんと
困り居るを家内の者ども
皆々三郎兵衞に向ひ是は全く
忘れ居たりとて
差出す方宜しからん只今の身上にて百兩の金は
然のみ難儀にも成るまじと申けるにぞ三郎兵衞も
詮方なく
翌日百兩持參して出しに大岡殿如何に三郎兵衞いまだ思ひ出さずや
然らば又々長屋に行て
考へ
見よと申されければ三郎兵衞
否其金の
儀は全く
失念致し居りしに
相違是なく候と云により
然ば未だ返さぬのかと
念を
押れしに三郎兵衞
然樣なりと申しける故
彌々其方四郎右衞門より借用致したるに
相違なくは右百兩の金に十年の
利分を
算ふれば廿五兩一分の利にして百二十兩となる
依て元利合せて二百二十兩四郎右衞門へ
返すべし
早速宿元より
取寄べしと申渡さる
誠に
理の
當然なれば三郎兵衞は是非なく
畏るとは申ものゝ
只今二百二十兩の金子
々以て
出來兼候により何分
御勘辨下さるべしと申を大岡殿大いに
叱られ其方二百二十兩出す事難儀なりと申せども其方が借し金を
忘却せし爲め四郎右衞門如何程か難儀致したらん然れども出來るに於ては
只今百五十兩出すべし是を
出さずんば
牢舍申付んと申されける故是非なく三郎兵衞
家より五十兩
取寄合せて百五十兩出しければ大岡殿元利百五十兩四郎右衞門に
請取せ
殘金七十兩は三十五ヶ
年賦に
致し
遣せ如何に三郎兵衞殘金は毎年金二兩宛四郎右衞門方へ
屹度渡すべし
右七十兩
相濟次第四郎右衞門は相當の
御仕置仰付らるべし町役人共四郎右衞門は殘金
相濟まで其方共へ
預置なり
然樣心得よと申渡されしは
天晴頓智の
裁許にして正直を助け惡を
懲さるゝ事
萬事斯の
如しとかや
此四郎右衞門は
當年六十五歳の
老人なり夫を是より三十五年の
間殘金の
勘定に
懸らば
是何歳に至るぞや
大岡殿の
仁心思ふべし
茲に上州より
太物を
商ふて
毎年江戸へ
出る
商人に
井筒屋茂兵衞
金屋利兵衞と云者あり
平生兄弟の如く
親類よりも
中睦しかりしが兩人の
妻とも此頃
懷姙なし居たり
或時江戸より歸る
道々の
咄に利兵衞は茂兵衞に
向ひ
私は
今年四十になり始めて子と
云者を持ちたり
貴殿は二十歳ばかりの
子息あれば
今度生れたりとも
私し程には思ふまじと云に
井筒屋は
首を
振我成人の
悴は有れども
貴殿も知ての通り五年以前
出家して
諸國へ
行脚に出たれば我が子でも我子に
非ず
末の役には立難し夫に
付一ツの
相談あり今兩人の
妻同月の
産なれば
生れし子が
男女ならば
夫婦にすべし又
男子ばかりか女子ばかりならば
兄弟として
成人の後まで一家となすは如何にと云ふに
金屋も
至極望む所なりと兩人
未前の
約束をなし夫より
國許へ歸れば間もなく
兩人の妻
安産なし金屋の
方は女子にて名をお
菊と呼び
井筒屋の
方は男子にて吉三郎と
名付互ひの
悦び大方ならず
豫て
約束の如く
夫婦にせんと末を
約して各々妻にも
其趣きを
云聞せ是より兩家
別して
睦しく
交際けり然るに兩人の
子供も
丈夫に
成長なす
中疾吉三郎十三歳と成し時
父の茂兵衞
大病を
煩ひ
種々療養を加へけれども
驗しなきゆゑ茂兵衞の
枕元へ金屋利兵衞を
始め家内
殘らず
呼集め
我此度の
病氣全快覺束なし因て江戸の
得意を利兵衞殿へ
預け申なり
悴吉三郎
成人迄何卒我が
得意先を宜敷
御廻り下さるべし是のみ
心懸り故
縁者同樣の
貴殿なれば此事頼み置なり
又妻子のことも
宜くお
世話下されよと
遺言なし夫より
悴吉三郎に向ひ利兵衞殿
娘お菊は
其方と
胎内より
云號せしに付利兵衞殿を父と思ひ
大切にせよ
必ず何事も同人の意に
背く
事勿れと
能々教訓して五十三歳を一
期となし
終に
空しくなりしかば是より利兵衞は毎年
江戸の
得意井筒屋の
分迄も
一人にて廻りける故
俄に
商ひ多く
忽ち多分の
金子を
儲け二人前
稼けるにぞ五六年の中に
餘程の金を
貯へしが後には
江戸へも
見世を出さんと
通り
油町へ
間口十間
奧行は
新道迄二十間餘の地を
買土藏もあり
立派なる
大身代となり
番頭若い者
都合廿餘人に及びける
事偏に井筒屋茂兵衞が多分の
善得意を
己が得意と一ツにし一手にて
商ひせし故なり然るに又
上州の吉三郎
并に母のお
稻兩人は利兵衞が
江戸へ店を出さば
早速迎ひに來る約束なるに三四年立ども一向に
沙汰もなければ
餘儀なく吉三郎は人の
周旋にて
小商ひなどして
親子漸く其日を
送り江戸より
迎ひの來るを今か/\と
樂み居たれど
案に
相違して其後一
向手紙も來らず
此方よりは
度々文通すれども一度の
返事もなきにより今は吉三郎の母のお
稻も大に
立腹し
夫茂兵衞が
[#「茂兵衞が」は底本では「利兵衞が」]臨終に
那程迄に頼みしを
忘れはせまじ餘り
情なき
仕方なりと利兵衞を
恨みけるが吉三郎は
素より
孝心深ければ母を
慰め利兵衞殿斯の如く
約束を
變じ
音信をせざればとて
此方に於て如何共
爲術なく樣子も
分らざれば若や
病死にても致されしや
假令夫にしてもお
蔦殿お菊共
約束あり
此方の得意まで
任せ置し者なれば
是非とも
迎ひは參るべし深く
案事られ
病氣にても
出ぬやうなし給へと
云紛らせども母は我が子の
窶然き
形容を見て
憫然に思ひ
少も早くお菊と
娶せ昔の井筒屋を
取立させ
度神佛を
祈居る中又半年も待けれども
音沙汰なければ或時母は吉三郎に申
樣二人して江戸へ
出先達てより
噂の如く
江戸通り油町なれば尋ね
行き利兵衞殿に
會て
談判我々親子を
引取や否や
其心底を
探り若し引取ずんば其時は何を
爲てなりとも
繁華の江戸ゆゑ親子二人
渡世のならぬ事は有まじ
若運よく
立身いたしなは今の
難儀せし
面を
見返さん何は兎もあれ
一先江戸へ出べしとて夫より
世帶を
仕舞家財を
賣て
路銀となし
母子二人江戸へ立出
馬喰町の
定宿武藏屋清兵衞方へ宿を取り
翌日吉三郎一人油町へ
行て見るに人の
噂に
違はず金屋の
店は
立派なれば勝手より入て
私しは
上州より參りしが利兵衞樣に御目に
懸り度と云入けるに利兵衞是を
聞上州より
誰も來る
筈なし
偖は吉三郎
尋ね來りしならん
此方へ
通せとて吉三郎に
對面し其方は
何用有りて來りしやと云に吉三郎は
叮寧に
挨拶をなし餘り久々
御疎遠なれば
御機嫌も
伺ひ度又此方の
御樣子如何と存じ母を同道して
出馬喰町武藏屋清兵衞方に
罷在候と申けるに利兵衞の心は
疾より
變り
持參金のある
聟を
取所存なれば今吉三郎が來りしを
忌々敷思ひ何卒して
田舍へ
追歸さんと心に
巧み夫は
態々尋ね來りしかど
此方に
變る事なければ今
母公に
對面するには及ばず
早々國へ歸りて母を
大切に致せよと
云捨て奧へ行んと爲るを吉三郎最早
堪兼利兵衞が
裾を
捕へ何故
然樣の事を申され候や此身になりても
御無心に參りしには非ず
貴殿には我が父より
御頼み申せしことを忘れ給ひしやと
詞を
放ちて申けるに利兵衞は何共
返答なく
其儘振切て奧へ入ければ吉三郎は
惘れ
果て
頼切たる利兵衞が斯の如くの
所存なれば
所詮又逢たりとも取上べき樣なし我が身一人ならば
此處にて
自殺をも爲べけれども母を
連て
遙々來りしなればと
燃立胸を
摩り何事も
勘辨して
寥々[#ルビの「すご/\」は底本では「そこ/\」]金屋の家を立出で二三
町來りけるに
跡より申し/\と
呼掛る者有故
振返るに
田舍にて
見覺えあるお
竹と云し女なり此女は
金屋井筒屋へ出入なす
織物屋の娘にて利兵衞が江戸へ
店を開きし時分お竹は母に
別れ父と
倶に利兵衞方へ
尋ね來りしを父は番頭となし娘のお竹はお菊と
相應の
年恰好なれば
腰元にして
召仕ひけるが此者子供の時より吉三郎とも
心安くお菊と
云號のことも知り居けるにぞ吉三郎が
臺所より來りけるを
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、132-10]見付てお菊に
斯と
告ければ母お
蔦も
聞付て
呼度思へども利兵衞が
得心せざる故
據ころなく
打捨置けるを
娘お菊は吉三郎に
逢度思ひながら父利兵衞に
叱られんことを
恐れ
密に
腰元お竹に頼みしかば吉三郎が
後を
追駈來りしなり
扨お竹は吉三郎に
對ひお菊樣が
貴郎に是非お
逢成れ度との事成ば先々
此方へ來り給へと手を取
引戻すゆゑ吉三郎
偖は娘の心は變らず我を
云號と思ひ居る事の
嬉敷は思へども利兵衞殿の
心底變りなければお菊に
逢まじと云をお竹は
無理に吉三郎を
連來り今度は
新道へ廻り
庭口の切戸を
明てお菊の部屋へ
誘引しに吉三郎はお菊に向ひ利兵衞殿
昔の
約束を變じ外に
聟を取んとの心と見え我を
追返さんと成されしを何故に
呼返し給ふやと云れけばお菊は
太息を
吐夫に付て
種々談話度事あるにより御迎へ申したり今は
間合も惡ければ
何卒翌の夜此處まで忍び來り給へ
緩々とお
話申さんと
呉々も吉三郎に
約束なして歸しける
偖翌日の夜吉三郎は彼の
板塀の處へ來りしに内よりお竹
出迎へて吉三郎が手を
把お菊の部屋へ
誘引たり然るに此お菊は
幼年より吉三郎と
云號と聞居たりしが
今年十七歳に
成始めて吉三郎を見るに
衣裳は
見苦しけれども色白くして
人品能く
鄙に
稀なる美男なれば
心嬉敷閨に
伴ひつゝ終に
新枕を
交せし故是より吉三郎もお菊を
惡からず思ひ
毎夜此處へ
通ひお竹が手引にて
逢せしが
此隣に兩替屋の伊勢屋三郎兵衞と云者有り或夜
子刻頃に表の戸を叩きて
旅僧なるが一夜の宿を
貸給へと云ふを
番頭目を
覺し旅人を
泊る處は是より
少々行ば馬喰町と云處に
旅籠屋多くあれば夫へ到りて
泊り給へと
挨拶なすに彼の僧は如何にも
苦し
氣なる聲にて我は
腹痛み
歩行事叶はず願はくは
板縁にても一夜を明させ給へ
且藥も
飮たく何卒湯一ツ賜れと云ども番頭は
盜賊ならんと
疑ひて戸を
締切一向に答もせざれば
僧は
詮方なく此表に
大八
車のありしを幸ひ
其蔭に
風呂敷を敷て其上に
坐し
頭陀袋より
藥を取出して
飮暫時其處に休み居ける中段々夜も
更行四邊も
寂としける此時
手拭に深く
面てを
包みし男二人伊勢屋の
門に
彳み内の樣子を聞居たりしが
頓て一人の男は
相手の肩に
登りて難なく
塀の中へ忍び入り
又肩へ乘たる男は
塀の外に待居けるに程なく忍び入たる男出來りて何か
密々と
囁きしが其の男は西の方をさして立去たり
跡に殘りし男は
猶内の樣子を
窺ひ居る故
旅僧は見付られなば殺されもやせんと
息を
堪へて車の
蔭に
屈み居る中此方の
板塀の戸を開きて金屋の庭先より吉三郎は
今宵もお菊の部屋に忍び來り
積る
談話の中
旅籠屋に
永逗留して大分入用が
嵩み其の上母は
病氣にて藥の
代に
貯へも
遣ひ果したる由
委細に物語りけるをお菊は
甚く氣の毒に思ひ我故に
斯成行給ふなれば何卒
見繼度
[#「見繼度」は底本では「要繼度」]思へども親に
養はるゝ此身なる
故何事も心に
任せず是は僅なれども私しが
手道具なれば大事なし
賣てなりとも
旅籠の入用母御の藥の
代に
爲給へと
鼈甲の
櫛と
琴柱に
花菱の
紋付たる
後差二本是は
價に構はず
調へし品なりとて吉三郎に渡しければ大いに悦び
其芳志を
聞上は假令夫婦になられずとも本望なり
然ば此品
暫時借用申すと
受納め立歸らんとするにお菊は
涙を
浮め此程より申せし通り
父御は御身を入ず
外より金を持參の
聟を取らんと云るゝこと
最心苦しけれど必ず母樣と
倶に父御を
宥め申べきにより時節を待ちたまへ我が身に於ては
外に男を
持心なしと堅く
誓ひて別れければ
腰元お竹は
毎度の通り吉三郎を送り
開戸を明て出し
遣り
跡を
鎖ける吉三郎は母の
病氣を
案事けれどもお菊が
情に
惹されて毎夜々々通ひはなすものゝ何時も
泊る事なく
夜更て歸りけるが今夜も
最早丑刻過頃馬喰町へぞ歸りける然るに
先刻より樣子を
窺ひ居たりし彼の
曲者今吉三郎が歸り行く
體を見て扨は
渠等色事ならん
究竟の事なりと彼の
開戸の處へ
行外よりほと/\
叩きけるに中にはお
竹庭に
下立何かお忘れ物に候やと
小聲に
言ひながら何心なく戸を開くに吉三郎にはあらで一人の男
拔打に
切掛しかばお竹はあなやと驚き奧の方へ
迯入ながら
泥棒と聲を立てるを
半分言せず
後より只一刀に切殺し此方へ
入來るにぞお菊はお竹が聲に
驚き
迯出さんとするに
間合なければ
屏風の
蔭へ隱れ
戰慄居たりし中
曲者は手
近に在しお菊が
道具を見付
手當り次第に
掻浚ひ
元來し道より出行けりお菊は
盜賊の立去るを見て
頓て家内を起せしかば
利兵衞始め走來りて庭にお竹が殺され居るを見て大いに驚き盜人は何所へ
行しやらんと家の
隅々まで
探しけれども
最早遁れ行しと見えて
庭の
切戸の明て有しかば若い者共表へ走り出
其所よ
此處よと
尋けるに
又隣の伊勢屋三郎兵衞方にても盜賊入たりとて大いに
騷立ち男共大勢立出見るに
板塀の上を
越て
迯行しと見え
足跡の付てあれば
追駈よと
犇き合ふに
以前の旅僧未だ車の
蔭に居たりしが
此騷ぎを聞我此所に居るならば
盜賊の
疑ひ
掛りて
捕へられんも
量り
難し早く
此處を立去べしと立上りしを
伊勢屋の男共は見付
扨こそ盜人は此坊主ならんと大勢にて
難なく旅僧を捕へたり三郎
兵衞は家内を改め見るに金五百兩
有ねば金は何所へ隱せしぞと彼の旅僧を
種々詮議しけれども
素より
覺えなき事なれば云ふべき樣なく然れども宵に表を叩き宿を
貸呉よと云ひしは此僧に
違ひなし爰にて
詮議爲んよりは奉行所へ
訴へ可と願書を認め
大岡殿へ
訴へ
出たり又隣りの金屋利兵衞方よりも
盜賊入下女を
殺害に及びし
段訴へければ役人來りてお竹が
死骸を
檢査是は宅へ
迯込所を後より
切たる者ならん又盜まれし品々は書付を以て訴ゆべしとて役人は歸へけり
[#「歸へけり」はママ]此家の番頭はお竹が父親なりしかば大いに悲みお竹の
亡骸を
取納めける扨利兵衞は
娘お
菊を呼て其方盜賊の
面體恰好を見たるやと問ふに娘は
勿々怕敷見る事叶はざれば如何樣の者なるや一
向覺え申さずと
答ふるにぞ利兵衞
而又お竹は
何故夜更に庭へ出たるやと云けるにお
菊は
只差俯向て詞なし利兵衞は
暫時考へ此盜人我少し心當りの者あり然れども是と云證據なきゆゑ訴へ
出難しとて夫より盜れし娘が
手道具の
中紛失の品々を書付になし大岡殿へ訴へ出でにけり
扨も吉三郎は彼の菊より
貰ひし櫛と
簪しとを持歸り
亭主に見せ申しけるは是にて
藥を
調へ度存候是は
我母の若き時に差たる品なりとて頼ければ亭主は氣の毒に思ながら出入の
小間物屋與兵衞と
云者へ彼二品を見せ
亭主保證人になりて是を二
兩二
分に賣渡しければ
吉三郎大いに
悦び是にて藥など
調へ醫師をも
替て其身も
側を放れず
看病怠りなかりける
扨又此與兵衞は
平生金屋へも心易く出入なすにより彼の吉三郎より
調へたる二品を
持行見せければ利兵衞の妻は見覺えのあるお
菊が
簪しなる
故大に
驚き夫利兵衞に
斯と
告げしに利兵衞も是を見て此品は一昨夜我等方へ
盜賊忍入て
盜まれし娘が
簪しなり如何して手に入しやと問ければ與兵衞大に肝を潰し彼旅籠屋の
客人より
買たりと答ふるに利兵衞
礑と
横手を打我が
推察に違ず此盜賊は吉三郎なり
其譯は
先達て我が方へ
尋ね來りし時我樣子を見るに如何にも
見苦敷體にて店の者へ對し我も
恥入處なり
斯働きのなき者は
聟に
爲難しと思ひ
未だ約束の
驗を
取交さぬを
幸ひ
強面して彼が
心を
勵したるに
夫を
憤ほり我が家へ
忍び入て
種々盜み
迯んと
爲折お竹に
見付られし故殺したる
成ん
疾より
然は思ひけれども是ぞと云ふ
見定めたる事
無れば
今迄控たり最早證據あれば
渠が
天命遁れぬ處なるにより
早速願書を
認[#ルビの「したゝ」は底本では「したゞ」]め吉三郎盜賊人殺しに
相違なき
旨訴へんとて番頭へも
其趣き申
聞ければ妻のお
蔦は
夫を
諫め吉三郎は
勿々然樣の事を致すべき者に
非ず是には何か
譯の有べき事なり
若吉三郎盜みしにもせよ
娘菊が
云號なれば此方の
聟なり是を訴へんは
此方の
恥ならずや
枉て容し給へと
述けるを利兵衞少しも聞き入ず何を
汝が
知るべきやと
叱り
付直樣奉行所へ訴へけり是は利兵衞が
内心には幸ひ吉三郎を科に落し外より
持參金澤山ある
聟を取る
存意なりしとぞ大岡殿金屋利兵衞が
願書を一
覽有て
則ち吉三郎を召捕べしと役人へ申付られけり却て
説彼の吉三郎は母の
病ひ二三日
別して樣子
惡ければ
側を
放れず
附添種々心配なして勞はり居しが母は
暫時睡眠し
[#「睡眠し」は底本では「睡眼し」]中醫師の方へ
藥を取に行んと立出る所を役人兩三人上意と
聲掛縛められしかば何故斯る
憂目に
逢事やら合點行ず
素より惡事の
覺えなきゆゑ我が身に於て
辯解は
立つべけれども
我居ざれば母の
看病を
誰も爲る
者有るまじと思ひ
頻に
悲しく心は後へ
引れながら既に
奉行所へ來り
白洲へ
引居られたり此日伊勢屋三郎兵衞方にては彼旅僧を連て訴へしが番頭は進み出私しは油町伊勢屋三郎兵衞名代喜兵衞と申
者に
御座候
主人店先へ一昨夜九ツ
時過此法師來り戸を叩きて一夜の宿を
貸呉候
樣申に付
旅籠屋に
非ずと
斷りし
處其後は音も
仕つらず候故何方へか參りしやと存じ
休み候に
夜丑刻過頃忍び入金子五百兩盜み
迯出る時家内の者目を
覺し
追駈候へども此僧足早に
迯去り候を
漸々捕押へ申候
依て
御吟味を
願ひ奉つり候と
願書を差出したり
此時大岡殿先吉三郎に向はれ如何に
其方[#ルビの「そのはう」は底本では「このはう」]上州より
遙々來りて利兵衞方へ
忍び
入り
盜賊をなし其上腰元竹を殺したる事大膽不敵の
擧動なり伊勢屋方より
訴へたる旅僧も同夜の事なれば是は
汝が
同類成べし
殊更其方は金屋にて盜みし櫛を
小間物屋與兵衞に
賣たる
由渠金屋へ持行しより此事顯れ則ち利兵衞與兵衞兩人
訴たり
斯る
確なる
證據有上は少しも包む事なく
白状致せと
申れければ吉三郎思ひも
寄ぬ事の
糺問に
惘れ
果けるが
屹度思案するに
是必ずものゝ
間違ひならんと
謹んで
首を
上私し事は上州より
毎年江戸へ
太物商賣に
參る
井筒屋茂兵衞の
悴吉三郎と申者にて候是なる利兵衞は私し
親茂兵衞と
兄弟同樣に
交り其上利兵衞の娘菊事私し
胎内よりの
云號なり然るに私し十二歳の
際父茂兵衞病氣に付
枕元へ利兵衞を呼江戸の
得意を
殘らず預け私し
成人の後娘に
娶せんとの
遺言を利兵衞も
承知に付父茂兵衞は
安心いたし
頓て
相果申候夫より利兵衞は江戸へ
出店をも開し由四五年を
過し候へ
共一
向音信なく
因て母と
相談の
上世帶を仕舞江戸へ出でて利兵衞を
相尋ね先々の
話致しける處に何時か
心變り
致し
居以前の約束を
違て私し母子を寄付申さず母は其不實を怒ると雖
詮方なく頼み切たる
利兵衞斯の如き
心底なれば
當惑致したれども
斯繁昌の御當地に付如何樣にも
口過は
相成申べくと
存じ
其後は一
度も
相尋ね申さず
扨て
彼の
櫛簪の
儀は利兵衞娘菊より
内々貰ひ
母の病氣にて
貯へ
盡候故
與兵衞に賣て母の病氣
救ひ候なり
決して
盜しには候はず
何卒此段御賢察下され御免を
蒙り母の
看病仕つり
度と涙ながらに申けるを大岡殿聞れ汝が申
條道理には聞ゆれ
共又胡亂なる處あり
其の
譯は
其方遙々利兵衞を
頼みに思ひて來りしに
渠約束を變じ
寄つけねば其後一度も
行ずと申一
度も
行ぬ者が
如何して娘菊に
逢ひ
彼の
品を
貰ひしやと
尋問られしかば吉三郎はつと
當惑の體にて
密通致し
貰ひしとは大勢の中
故云兼只差俯向て
詞なし大岡殿
重ねて
此二品の
出處知れざれば盜賊の
名遁れ
難し其方
竊に通じて娘に
貰ひしやと
正鵠をさゝれしにぞ
吉三郎は
彌々顏を赤うして
差俯向居たり
大岡殿大概是を
悟られ
夫より彼の
旅僧に
對はれ
其方出家の身として盜みせし
段大膽なり早々白状せよと申されければ旅僧は吉三郎が
吟味中頻りと首を
傾け居たりしが
今問るゝに
隨ひ
私し
事上州の
産にて
名を
雲源と申十五
歳の
時出家仕つり候へども
幼少より
盜み
心あり
成人なすに
付尚々相募り
既に一
昨夜伊勢屋へ
忍び
入て金五百兩
盜み取其隣の
金屋とやらんへも
忍入て
盜み
致し出る處を女に見付られ據ころなく切捨申候然れば
天命遁れず
斯繩目に及ぶ
事素より覺悟なり然るに
那なる若者を
盜賊なりと
疑ひ掛り候
由何共見兼申候私し
委細白状仕つりし上は
科なき若者を御助け下され
母の
看病致させ度候と
臆したる
形容もなく申立れば是を聞れ其方が申
處不分明なり伊勢屋方にて五百
兩盜み又金屋へも入りて
種々盜み女を殺したりと
白状致せども
盜みたる金も見えず又女を殺したる
刄物もなしと
有るに旅僧頭を上げ其
節盜みし
金子も
刄物も
迯候
節取落し身一つになり候處を捕へられ候と申せば
大岡殿伊勢屋の番頭に
對はれ此者を捕ゆる時何ぞ
所持の
品はなきかと
尋ねられ番頭喜兵衞
外には何も候はず
只網代笠一
蓋と
頭陀袋一つ之ありしと申に大岡殿其
頭陀袋[#ルビの「づだぶくろ」は底本では「づたぶくろ」]是へと申されるにより
差出しければ中を
檢査て書付など
讀れ何か心に
合點仔細有ば
追々吟味に及ぶとて一同下られ
小間物屋は
町内預け吉三郎旅僧は入牢申付られけり
偖翌日大岡殿吉三郎を呼出し其の方
彌々菊と
密通致して
櫛簪を
貰ひしや
恥しとて
隱すべからずと
懇切に
尋ねられければ吉三郎
赤面しながら
仰の如く
相違之なく候
猶又菊を御呼出しの
上御尋ね下さるべしと申に大岡殿
頓て同心を馬喰町
旅籠屋清兵衞方へ
遣はされ吉三郎が母を
隨分[#ルビの「ずゐぶん」は底本では「すゐぶん」]勞り申すべし一兩日中には吉三郎を無事に返し
遣さん
夫迄は
能々看病を
大切に
取扱かふべしと申
付られ
其後差紙にて
金屋利兵衞娘菊伊勢屋三郎兵衞小
間物屋與兵衞旅籠屋
清兵衞雲源等殘らず呼出されしにお菊は
贈りし二
品故に
無實の
罪にて吉三郎
牢舍と聞あるにも
在れず
歎き
悲しむと
雖も此事云にも云れず然とて云ねば吉三郎が身の上を
思ひ
竊に
母へ
委敷事を語りければ
母も
驚き今度の
御呼出しは吉三郎と
對決させんとの事
成べければ
種々御尋有ならんが
其時委細を申さば父の
越度となり
又云ずば吉三郎は殺さるべし兩方
全きやうには何事も
行ざれども
能々考へて
心靜かに
双方無事に
成やうの
御答を申べしと云ばお
菊も
得心して出たりけり
扨大岡殿利兵衞に
對ひ如何に利兵衞
其方櫛簪を
證據として與兵衞
供々吉三郎を
盜賊人殺しなりと
訴へけれども吉三郎事は
豫て其方
娘菊と
密通致し
居娘より
貰ひて
與兵衞に
賣たりと云故
其段明白に
吟味せん
爲娘を呼出したり
其方此事を知らざるやと申されければ利兵衞
答て夫は
跡形もなき
僞りにて是全く
罪を
遁れん爲吉三郎が
拵へ事にて候如何に菊吉三郎と
密通致候
覺えなきならば
其通り早く申上よと
急立けるにお菊は生れしより
始めて
奉行所へ呼出され大勢の中にて吉三郎が
縛められ
窶たるを見て涙を
浮めしが
大岡殿是を
御覽じ
大概察しられ
如何に
菊此越前守媒酌となり
頓て吉三郎に
添せ
遣はすべし
隨分安堵して
居よと
和らかに言れければ吉三郎も
傍よりお
菊殿何故に明白に
云給[#ルビの「いひたまは」は底本では「いひたま」]ぬ
御身まで
匿されては
我等何時か
御免を
請んや其中は母の
看病藥何呉と
定めて
不自由成んと此事のみ心に
懸り
牢舍したる我心を少しは
汲譯早く
現在に申上て
此苦みを
助けられよと申を聞お
菊は
尚々悲しく
白地に云んと思へども母の
教の通り父の
科を
訴へるも同前云ねば吉三郎は殺されんと心を
千々に
傷め
居る
體を大岡殿
敏くも
察しられ
其方は吉三郎を
牢舍さするや
父利兵衞を
牢舍さするやと尋ねられければお菊は
何卒父利兵衞吉三郎ともに
御免し下され其代りに私しを
牢へ
御入下さるゝ
樣にと涙ながらに申立るを聞れ
大岡殿大に感じられ
是にて何もかも
相分りたり決して吉三郎は
盜賊に
非ず
追付免して其方と
夫婦に
致し
遣すべしと申され
扨又利兵衞を呼ばれ
其方以前の
約束を
變じ
茂兵衞悴吉三郎を
追返し不實の
上科なき者を盜賊人殺と
麁忽の
訴へをなす
事甚だ以て
不屆なり
屹度曲事に申付べき所なれども娘菊が
孝貞に免じ汝が
越度を
差免すなり
落着の後は娘菊を吉三郎に
娶せ其身は
隱居致すべし然れども二
人の
盜賊未だ
知れず
因て
盜賊の
知る
迄は
控居よと申渡され
偖又小間物屋は
町内預け伊勢屋も呼出す
迄控申べし吉三郎は
當時旅籠屋へ
預け町内の者氣を付母の看病致させよ又諸入用は
金屋利兵衞必ず
是を
送るべし
且旅籠屋清兵衞は
入用何程懸りても
金屋利兵衞方より
請取れ又利兵衞
儀は吉三郎の母は病中の事ゆゑ
夜具布團其外に心付け
食事等宜敷見繼べし
此段屹度申付たるぞ
若麁末成事も
有ば
曲事たるべしと申
渡され皆々下られけり
偖旅僧一人を
殘し
置一同下りし
後其方何故僞りを申すやと有しかば
雲源全く
僞りは申上ず私し
盜賊に
紛れ之なく候
御仕置仰付らるべしと云に
大岡殿否彼の吉三郎は其方と兄弟に
非ずや
人相恰好音聲までもよく似たり
汝弟を
救はん爲に
故意と
罪に
陷りしならん何ぞ是を知らずして殺さんや其方は
井筒屋茂兵衞が
惣領ならんと申されければ
雲源驚き感じ今は何をか包申べき
御賢察の通り
茂兵衞が
悴なれども十五
歳の
時仔細有て出家
仕つり
諸國修行の身に
御座候
其後弟出生の
事仄に
承まはりし
儘此程國許へ
參り
尋ね候所
弟吉三郎金屋利兵衞方に
譯有りて國許を
立出江戸へ參り候由に付
後追來り
何卒今一
度母や弟に
對面致し
度江戸中を
探し
歩行し
中斯の
仕合故弟が無實の
罪に
陷る事の
悼しく
殊更母は旅籠屋にて病氣の由
承はりしにより
何卒弟を助け母に
孝行を
盡させ
度私しは
出家遁世の
身故母や弟を
助け候事なれば
身命を
捨候ても
救はんと
存じ其盜賊なりと申
僞り候其夜全くの盜賊は
迯去たり
其譯は私事
母や弟を
尋んと所々方々を
歩行し
中先夜伊勢屋の前へ
參り
懸し時
腹痛にて
難儀仕つり夜更なれども
詮方なく伊勢屋の戸を
叩き湯を
貰はんと
存じ候處一
向に戸を明申さず
是非に其の所に車の
御座候
蔭に
姑く
相休み
居候處夜も
丑刻頃兩人の曲者來り一人は
伊勢屋の家に忍び入り
暫時過て出けるが外に
待居たる者と何か
囁き其の者は西の方へ
馳行殘りし一人は
其後金屋の
切戸より人の出行し
跡へ
這入しに女の
叫ぶ
聲してほどなく彼の男何やら
風呂敷に包みたるを
背負て立出是も西の方へ行しが
頓て伊勢屋の
家内騷ぎ立し
故私し
此處に
居らば盜賊の
連累に成んと是を
怕れて迯出せし
機斯は
捕はれて候なりと申せしかば大岡殿是を聞れ
然らば
必定外に
盜賊あるべきにより
早々詮鑿すべし
窮屈ながら今少し
辛抱せよと
勞られ又々
牢屋へ下げられけり
茲に新材木町なる
白子屋庄三郎一家の
騷動を
委曲尋ぬるに
享保の始めの事なりしが
此白子屋の地面間口十二間奧行は
新道の方へ廿五間
即ち
券面千三百兩の地を一
軒にて
住居なし
此近邊の
大身代なり主は
入聟にて
庄三郎と云
今年六十
歳妻は此家の
娘にて名をお
常と
呼び四十
歳なれども
生得派手なる事を
好み
甚だ
婬婦なりしが娘お
熊は
容顏衆人に
勝れて
美麗く見る
者心を
動さぬものなく二八の
春秋も
過て年頃に及びければ
引手數多の身なれども
我下紐は
許さじと
清少納言の
教へも今は
伊達なる母を
見慣ひて
平生はすはに
育しは其の父母の
教訓の
至らざる所なり
取譯母は
心邪まにて
欲深く亭主庄三郎は
商賣の道は知りても
世事に
疎く
世帶は妻に
任せ
置ゆゑ妻は
好事にして
夫を
尻に
敷き身上
向を己が
儘に
掻
し
我儘氣儘に
振舞居たりしが何時しか町内廻りの
髮結清三郎と
密通をなし
内外の目を忍びて物見遊山に
浪費を
厭はず
出歩行のみか
娘お
熊にも
衣類の流行物
櫛笄贅澤づくめに
着餝らせ
上野淺草隅田の
花兩國川の
夕涼み或は
芝居の
替り
目と上なき
奢をなしければ
心有人は
皆爪彈きして
笑ふ者多く此妻の
渾名一ツ
印籠のお
常と云て
世間に誰知らぬ者も無りしとかや
然れば女の子は
父親より母の
教方にて
志操も
美しかるべきに
斯る
母故幼少より
育ちも
卑しく
風俗は
芝居の
俳優を見る如く
淨瑠璃三絃の外は
正敷事を一ツも
教へず
殊に女の爲べき
裁縫の道は少しも
知らず
自然とうは/\しき
事にのみ心を
傾けしこと
淺猿けれ
茲に白子屋の
商賣に
係りて
庄三郎が名代をも勤め此家の
番頭と
呼れたる
忠八と云者
何時の程にかお熊と
人知らぬ中となりけるが母のお常は是を知ると雖も其身も
密夫有故に
渠を
制する事出來ず
却て取持しは人外と
謂つべし是より家内の
男女色欲に
耽りお
常は何時も
本夫庄三郎には少しの
小遣ひを
與がひて
遊びに
追遣り
跡には娘お
熊番頭忠八
髮結清三郎ともに
[#「髮結清三郎ともに」は底本では「結髮清三郎ともに」]入込下女のお
久お菊もお
常に
仕込れ日毎に
酒宴の
相手をなし
居たりしが或日お
常は
金二
分出して
下男に
云付酒肴を
取寄芝居者淨瑠璃語り
三絃彈など
入込せ
皆々得意の藝を
顯し
戯れ
興じけり茲に
又杉森の
新道孫右衞門店に
横山玄柳と
云按摩あり是は
別て白子屋へ
入浸り
何樣白子屋一
軒を
定得意となし居る身の上なればお
常は
勿論忠八が云事にても
背く事なく主人の如くに
仕へ
毎日お
常の
肩など
揉て
機嫌をとり
居たり
斯日々奢りに
長じければさしもの
身代漸々に
衰へ
享保八
年十月
夷子講前には
金二百
兩不足に
付妻のお
常は
番頭忠八と申
合せ亭主
庄三郎に
斯と申ける故
庄三郎
甚だ
困り
入と雖も
親類一家は
素より
妻が
奢りを見るに
付誰あつて
用立物なきにより
庄三郎
日頃懇意なる
加賀屋長兵衞方へ
[#「加賀屋長兵衞方へ」は底本では「加賀屋兵衞方へ」]行右の
概略を
話しければ長兵衞は氣の
毒に思ひ
材木屋仲間の
中山形屋箱根屋[#ルビの「はこねや」は底本では「はこつや」]加賀屋其外十人の者を
頼みて
無盡を取立一人前
掛金二十
兩づつとなし
尤も長兵衞
世話人故庄三郎の
分まで
都合四十
兩出し二百
兩集めて
庄三郎に
渡し
集りし人々をも
厚く
饗應し
歸されける
因て
庄三郎は
大いに
悦び
右の二百兩を
夷子棚に
上置其夜は長兵衞方へ
禮に
行たりしが
此加賀屋長兵衞と
云は
元同町の加賀屋
彌兵衞方へ十
歳の時
奉公に來りて十年の
年季を
勤め
尚禮奉公十五年を
勤め
上都合廿五
年の
間見世の事に心を
盡しければ
則ち加賀屋の
暖簾を
貰ひ同所へ
材木店を出せしが
漸次に
繁昌して此春より將軍家
桶御用の
株を
讓られ
猶々榮え
消光けるも
必竟長兵衞の
心懸よき故なり
斯て白子屋
庄三郎は長兵衞方へ
厚く
禮を
述我が家へ立歸りしに
其夜の中に
夷子棚へ
上置し二百兩の
金見えざればお
常忠八も
狼狽たる
體にて主人へ
斯と申けるにぞ
庄三郎は大いに
驚き
周章其分には
捨置難しと
直樣加賀屋長兵衞方へ
行右の
譯を
話し是は
是非々々訴へねば
成ぬと
急込を長兵衞
先々とて樣子を
篤と
聞何樣是は外より入たる
盜人にては有まじ然れども
今是を訴へる時には
我々は
兎も
角も
仲間の
衆へ二十兩出させた
上又々
番所へ引出しては何分
氣の
毒にて
我等濟難きにより
先内々詮鑿致されよとは云ものゝ
明日の
拂ひに
困らるべければ
我等二百
兩用立んにより
夫にて
此節季は
濟さるべし
尤も此金は
利分に及ばず
御都合宜敷折返濟成るべしと金子二百兩を
出して
渡しければ
庄三郎
押戴きて
段々と
御深切の上
又斯る
災難まで
貴公の
御苦勞に
預り
御禮は申
盡し
難しとて涙を
流し
打歡びてぞ
歸りけり又お
常忠八は
[#「忠八は」は底本では「忠七は」]まんまと
夷子棚の二百兩を
欺き
取仕合よしと
微笑合是を
斯してあゝしてと
奢る事
而已談合けり
偖其年も
暮明れば
享保九年春も三月と
成しに
江戸中大火に付此白子屋も
諸侯方を
始め
多分の
用を
達屋敷方の
普請計りにても二千兩
餘の
儲けありしとなり
然れども彼の
加賀屋長兵衞より
借請し二百兩の事は
忠八が
算盤を
奇變庄三郎に
僞りて
今に
辨濟せざれども長兵衞は
催促もなさず彼是する
中又其の
年も
過翌年と
成身代左り前にて
難儀なる
由忠八より申せしかば庄三郎も
不審に思ひ何とて
其樣に
成しぞと云に忠八
御屋敷の
普請存じの
外積り
違ひにて一
箱餘も
損金になり
其外彼是にて二千兩餘の
損に爲たりと
口から
出任せに
僞るをお
常も
側から
種々口車の
楫を取しかば
又々加賀屋へ
到り
段々の
仔細を話けるに長兵衞は
左右氣の
毒に思ひ
付或時庄三郎に
對ひ
時節とは云
乍ら
古き御家の
斯迄不如意になり
給ふ事
是非なき
次第なり
夫に
付少々御相談あり
其譯はお娘子お
熊殿へ
持參金のある
聟を
入給ひては
如何や
尤も外に男の子も
御在ぬ事
故お
熊殿年の
長ぬうちに
聟養子をなし
持參の
金子を以て
山方問屋の
借を
償却暮し方も
氣を付て
身上を
立直す
樣に相
談して
見給へと
深切の
言葉に庄三郎大に喜び何から
何迄段々の
御世話忝けなく是に
過たる事はなし然れ
共我々方へ
參る
養子の
有可や
能々御聞糺下さるゝ
樣偏に
御頼申なりと云けるにぞ
然ば先方へ申
聞べき
間御家内へも
此段能々御相談成るべし我等方は
明日聢と
致たる
返事を
承まはりし
上又々御話申べくとて庄三郎を
歸しけり
夫より長兵衞は
大傳馬町家主平右衞門方へ
行先達て
御話の
聟殿白子屋庄三郎方にて
貰ひ
度由故御世話下さるべし白子屋事は
材木町にて千三百
兩の
地面も
持居御屋敷方の出入
澤山有て
株敷は三千兩
程なり然れば五百
兩位は
持參ありても
宜しかるべし
殊更娘お熊は當年廿二歳にて
容貌もよく
承はれば
聟殿は四十に
近しとか
隨分相應の
縁組なれば
能々御世話頼入[#ルビの「おせわたのみいる」は底本では「おすわたのみいる」]と申を
平右衞門聞て
夫は
相應の
相談なり當人といふは
我等が
同町の
地主彌太郎方に勤居らるゝ又七と申者なり
隨分辛抱人にて
主人彌太郎事は
最早六十にもなれど一人も子なく金ばかり澤山ありて
地面は十三ヶ所も
持居此人
親分となる
積りなれば何事も
氣遣ひなし
先方へ
能々話せし上明日
御返事致すべしとて長兵衞を
歸し
其後平右衞門の
口入にて
相方相談調ひ
吉日を
撰みて五百
兩持參金をなし又七を彼の
白子屋の
聟養子とぞなしたりけり此事は
素よりお熊の
不承知なるを
種々説勸め
跡は
右も
左も
先當分其五百兩を取りて
又樂むべし
其の
上此方の
仕向により
聟の方より出て
行時は
金を
返さずに
濟仕方は如何
程も有べしとお
常忠八の
惡巧にて
種々に言なし
終に又七を入けれどもお熊は
祝言の夜より
癪氣發難儀なりとて
母の
側へ
寢かしお
熊は
忠八母は
清三郎と毎夜
枕を
双て一ツ
寢をなす
事人外の仕方なり
然ども又七は是を一
向知らず
最早一年餘に及べどもお熊と一
度も
添寢をせず
加之聟に來りてより
家内中の
突掛者となり
優き
詞を
懸る者一人もなけれど
下男長助と云者のみ又七を
大切になし彼の四人の者
共を
憎みけるが或時
給金三兩を
田舍へ
遣はさんとて
手紙に
封じ
瀬戸物町の島屋へ
持行し
途中橋向ふにて
晝
盜に
奪はれ
忙然として
立歸りしが
那の
金を取れては
又一年
餘の
奉公を爲ねばならぬと力を
落し
顏色蒼然て居ける處へ又七は
立出何故其樣に
鬱ぎ居るや
心地にても
惡きかと
問ひけるに長助は
有りの
儘に
譯を話し涙を
流しけるを又七は
憫然に思ひ
我等其金を
與んとて懷中より三
兩出し長助へ渡しけるに長助は
大地に
鰭伏此御恩は
忘れまじとて
悦びけり是よりは
別して
此長助
而已毎度お
常始めの
惡巧みを
内通して又七を
救しなり
或時彼の四人
打寄て
耳語やう又七
事是迄種々非道になすと雖も此家を
出行景色なし
此上は如何せんと
相談しけるにお
常は
膝を
進め是は
毒藥を
飮せるに
如なけれども急に殺しては
顯るゝ故一ヶ月ばかりも
過て死ぬ樣に
藥を
調合して用るが
宜しからん此事は
先新道の
玄柳方へ行て
相談致すべしと四人
打連立て出行たり
偖彼の長助は
毒藥と云
聲の
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、143-15]聞えければ又々四人の者共が
惡事ならん何れ
又七
樣の事なるべしとお
常の部屋の
傍に
寄立聞をなしけるが新道の
玄柳方にて
調合なし
貰はんと
出行體故素知らぬ
面に
臺所へ
立戻りたり又彼の
玄柳は毒藥のことを
請合[#「請合」は底本では「調合」]けれども
針醫の事なれば
毒藥を
求めんこと
難しと思へば
風藥二
服を四十
文にて
買炮烙にて是を
煎金紙[#ルビの「きんがみ」は底本では「さんがみ」]に包み
鄭重らしくしてお
常に密と
渡しければお常は
喜び
金子を玄柳に
遣しお
熊倶々厚く禮を述たりけり此時玄柳は
僅か四十
文の風藥にてお常より三兩忠八より五兩お熊より一兩都合九兩の金にあり付しは藥九層倍所か是藥百倍と云べしと喜びけり夫より此藥を下女に云付又七が
飯汁茶などへ
入れて毎日々々
用ひしとぞ彼の長助も此事を
聞しかば又七へも密かに
告置己も
隨分心を付ると雖も
大勢にて爲る事なれば
何時の間に入けるや知らざれども
或時鮃の
切身を
煮て
皿に
盛彼の藥をお熊が手より入れて又七の前へ
持來り是は
母樣よりお前に上んとて新場より
取寄し
魚成ばお
喰り
成さるべしと一年餘の
間に
始めてお熊の口より又七へ
物云ければ又七は喜び
直樣飯を
取寄是を
喰んと爲るを長助は
目配せをなし
止る
體故扨はと思ひ何か
紛らして是を
喰ず夫より又七は
新道の湯に行けるに長助も
後より同く
湯へ
來り彼の
毒藥をお熊が入たる事を
竊に話し
私しにも
昨日一
服遣して
貴君樣の食事に入れて
呉よと
頼み候と彼藥を見せければ
又七
委細を聞て
驚き我は
加賀屋長兵衞方へ參る
間其方後より
參るべしとて
其足にて又七は長兵衞方へ
到り
是迄の事を物語り
勘辨なり
[#「勘辨なり」は底本では「堪辨なり」]難しと
立腹致ければ長兵衞も
以の外に
驚きける處へ長助も來り三人
額を集めて
相談しける中長兵衞
心付き彼の
藥を猫に
喰せて
試しけるに何の事もなければ是には何か
樣子有べし我又
致方有ば
隨分油斷有べからずとて又七を
宥め一
先歸しけり其後二三日
過て長兵衞は白子屋庄三郎并に
妻お
常を呼び
段々と
内證の
都合迄も聞何共氣の
毒なる事なり
然らば
聟又七
殿お熊殿との中
宜しくば家を
渡し
世帶を若夫婦に
任せ番頭
忠八には
暇を
遣し小手前にして
家内取廻善きが
肝要なり
而御兩人は氣樂に
御隱居有ば
又宜敷事も有べしと事を分て
段々遠廻にお
常へ
異見をなしけるに
庄三郎は大に
悦び何かと
厚き思召の
程忝けなく
承知致したりと申しけるにお
常は
甚だ
不承知の面にて長兵衞に
向ひ又七に
世帶を渡せと
仰らるれども
追々渠が
擧動を見るに一として
商賣の道に
適ず其上
未だ出入
場等の勝手も
覺えず今忠八に
暇を出しては
猶々都合惡く
手代多くの中にも忠八は發明にて
萬事心得
居者なり又七は
素よりお熊と
中睦しからす
持參金を鼻に
懸て我々を見下し不孝の事のみ多く其上下女などに
不義を
仕懸何一ツ是ぞと云
取處なく
斯樣の者に家を渡す事は
勿論忠八に
暇を
遣せなどとは
憚りながら
餘りなる
御差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、144-18]なり我々
隱居致すよりは又七を
離縁致方が
却て家の
都合なりと申ければ長兵衞是を聞夫は何分聞こえぬ
論なり下女に
手を
付るなどとは
必竟お熊殿の
取扱ひ惡き
故起る事なり何は
兎もあれ
兎角家の丸く
治まるが
宜れば何事も
堪忍有て
隱居有べしと
勸めけるにお常は大いに
立腹して一々云
爭ひ氣に入ぬ
聟なれば
地面を賣てなりとも
持參金を
戻し
不縁致すべしと
罵りけるを長兵衞
種々と
諫めれども一
向に
承知せず疊を
蹴立此樣な
話は聞ずと
直樣御歸りあれと
夫庄三郎を引立てぞ歸りける夫よりお
常は庄三郎に
少しの
金を
與へ
講釋の
寄席へ
追遣り
跡は忠八お
熊清三郎を招き例の如く
酒宴を始め長兵衞が云し事どもを
委細話して此上は
金子五百兩
拵へ又七に
添て
離縁するに如なし
然すれば長兵衞彼れ
是云れぬ
筋なり又七を出す事ゆゑ忠八
此金算段せられよと申ければ忠八は
打悦び其金子
必ず
調達致すべし
私[#ルビの「わたく」は底本では「わたへ」]し一ツの
工夫有とて清三郎に
耳語頼み
其夜油町新道伊勢屋三郎兵衞方へ
忍び入て金五百兩を
盜み取清三郎は
其隣の金屋利兵衞方へ入りて彼の
腰元竹を
切殺し娘の
手道具を
奪ひ取り來りしが忠八にも是を話し我も
只歸るは
殘念ゆゑ是程の
働きをせしと取たる
品々を
改め見るに
蝦夷錦の
楊枝指一
角の
箸其外
笄簪の
類何れも
金目の物多く
有ければ兩人
是は
儲ものなりと
悦びけり然れども
此品賣拂はゞ
顯るべしとて
暫時の
間彼の玄柳方へ
預け
置けるが
此品々より終に二人が
天罰報い來とは知ざりけり
扨も白子屋にては又七が事は
地面を
賣てなりとも
持參金を
返し
離縁致べしとお
常長兵衞に云し
詞有ば
終に
離縁の事を申
込たり
扨もお常は忠八を
頼み金五百兩
才覺致させけれ共又候
夫庄三郎を
僞り又七を
離縁なす金にさし
支へる間
地面を
書入にて金五百兩
借出すべしと
勸めけるに庄三郎
是非なく又々長兵衞方へ行き
金子にさし
支る
趣きを
話せしかば長兵衞も是はお常の
仕業ならんにより
捨置べしとは思ひけれども庄三郎が
達ての頼みを
聞ざるも
氣の
毒と思ひ長兵衞申は
何卒身代を
持直し給へ
殊に先祖代々の
地面を
人手に
渡さるゝ事
嘸かし
殘念なるべし然らば我等其五百兩は
用達申べし
然れども
今度は
金子出來次第百兩にても五十兩にても
御返濟成れよ利分は取り申さず金子
相濟次第に證文は
返却致すべけれども
先證文は
預り
置申べし其地面
人手に
渡さるゝが氣の毒に
存ずる故なりお常殿にも
此話をなされ
請人共御三人
御印形御持參有べしと申ければ庄三郎大いに
悦び
立歸りてお常忠八に長兵衞が申せし
通り
咄しけるにお常は
是を
聞夫は長兵衞事
此地面を自分が
欲しければ
體よく
然樣申
成べし何は兎もあれ五百兩
借候はんとてお常が
合口なる
親類を
連て三
人印形を持ち長兵衞方へ
行五百兩
借て歸りけるがお常は
此金手に
入しより又々
放すが
惜くなりし事
誠に白子屋
滅亡の
基とこそは知られけれ
偖何をがな又七が
落度を
見付云立なば金は
返すに及ぶまじと思ひ居けるに或日庄三郎は又七を
呼松平相摸守殿の屋敷へ金子六十兩
請取に參るべしと申付けしかば忠八是を
聞てお常に
斯と知らせ
彼の清三郎を
招き三人
何か
竊に
耳語きけるが
程なく清三郎は
出行たり是は
途中にて
惡者に喧嘩を
仕掛させ屋敷より
請取來る六十兩を
奪ひ又七は此金を
受取て
遊女通ひに
遣ひ
込しと
云立夫を
科に離縁せんとの
巧みなり
斯とも知らず又七は
下男長助を
倶に
連て
出行屋敷より金子を
請取夫より呉服橋へ掛り四日市へと
來懸るに
當時は今と
違ひ晝も四日市
邊は
淋しく
人通り
稀なれば清三郎は
惡僕二人と共に此處に
待伏なし居たり又七は金を持ちたる故
隨分用心はすれども
白晝の事なれば何心なく
歩行來りし所
手拭にて顏を
包みたる大の男三人
現はれ
出突然又七に
組付故又七は驚きながら
振放さんと
爲る所を一人の男
手を
指込み
懷中の金子を
奪んとなすにぞ又七は長助に
聲を掛け
盜人々々と
呼はりければ長助は
先刻より
外一人の男と
組合居たるが此聲を聞て金を
取れては
大變と
振放し又七の
懷中へ手を
入たる男の
横面を
充分に
打叩きければ彼の男
横に

と
倒されしにぞ
其間に又七と共に殘り二人の
惡者を
散々に打叩きける故
皆叶はじと
散々に
迯行けり
然ば金は取られず
先無事に其場を
立去たり此長助は
力量勝れし男故
幸ひに
打勝しとは雖も何共
合點の行かぬ者なり
正しく是も四人の者の
巧み
成べしと
話合ながら長助は
道々お常は清三郎と
譯有る事お
熊は
忠八と
不義の事など
落もなく
語りければ又七は始めてお熊は忠八と
譯有し事を聞き扨は
日頃の
仕方思ひ當りたりと
夫より二人
我が
家に歸り庄三郎に金子を
渡しけるにお常忠八
等は是を見て清三郎に
頼みし事
手筈違ひたりと思ひ又々
玄柳方へ行きて
相談すべしと
其翌日三人玄柳方へぞ
到りける
斯て又清三郎は四日市にて長助に
十分打れ
面に
疵を
受ければ我が家に
引込み居たりしに玄柳方より呼びに來りしかば
早速走り行き四人
打寄又々惡事の相談をなすにお常は聲を
潜め我一ツ思ひ
付たる
手段あり
其譯は下女の菊は
生得愚成者なれば是に
云付又七が
閨へ忍ばせ
剃刀にて又七へ少しにても疵を付け
情死せんとて又七に
誑され
口惜ければ
是非とも又七を
殺して我も死ぬ
覺悟なりと
呼はらせ其處へ我々
駈込種々詮議して菊が口より
云々と
云せんは如何にやと申ければ三人是を聞き
其謀計奇妙々々誠に
當時の
智者なりと
譽稱へ夫より白子屋へ歸り
年増の下女お久を
竊に呼びお熊の小袖三ツと金一兩を出し菊に
斯々言含め
呉よと頼みければお久承知して
我部屋へお菊を呼び
始終の
事共委曲話し又七樣へ
疵を付け其身も
咽喉を
少し
疵付情死と云ひて
泣べしと
教頼み居たるを長助は
物影より是を
聞て大いに驚きながら
猶息を
詰て
聞居たり斯くとも知らず
元來お菊は
愚なれば小袖金子を見て
忽ち
心迷ひ何の
思慮もなく承知をぞなしたりける又長助は
篤と樣子を
聞濟し早々又七に右の
事故を話し
御油斷有べからずと云ふにより又七
點頭今宵若菊が來たらば
我直に取て
押へ
繩を掛くべし其時其方は
早々加賀屋長兵衞を
呼來るべしと
竊かに
示合せて
別れけり菊は只金と小袖の
欲さに
其夜丑の
刻も
過る頃又七が
寢間へ忍び入り
剃刀を
逆手に
持又七が
夜着の上より
刺貫しけるに又七は居ず
夜具ばかりなれば南無三と
傍邊を見る間に又七はお菊を
蹴倒し
難なく繩を
掛又七は
大音揚長助
々々と
呼聲に家内の者共目を
覺し何事にやと庄三郎お常お熊忠八も此所へ來り
彼是なす
間に長助は加賀屋へ
駈行又七樣
只今急に
御逢成れ
度との事出來しにより私し
御供仕つるべき
間御入下されよと申ければ長兵衞驚き
直樣同道にて入り來るにお常は長兵衞に
向ひ又七事お熊を
指置下女の菊と
不義をなし
終に
情死とまでの
[#「情死とまでの」は底本では「情死まとでの」]騷ぎなり
夫故平常お熊と
中惡く
家内治らずと云ひければ又七是を聞き是は思ひもよらぬ事を仰せらるゝもの哉
今宵菊が何故か
刄物を持て我が
寢所へ來りし故
怪敷思ひ
片蔭に
隱れて
窺ひしに
夜着の上より我を
刺候樣子に付き
取押へて繩を
掛しなり
此儀公邊へ
訴へ此者を
吟味致さんと云ひけるを長兵衞は
先々事穩便に世間へ
聞えぬ
中濟す方が宜しからんお常殿もお熊殿も
能御思案有べし
縱令又七殿がお菊に通じたるにもせよお常殿より又七殿に
篤と
御異見有てお菊に
暇を
出せば濟む事
也是を又七殿訴へなば
大亂となり白子屋の
家名立難しお常殿は女の事故
其處へ氣も
付れざるは
道理の事なれども
能々勘辨ありて
隨分又七殿を
宥め
家内和合致さるゝ
樣成るべし
不如意の事は及ばずながら
[#「及ばずながら」は底本では「及ばずならが」]此長兵衞
見繼申さんと
利解を
述けれどもお常は一
向得心せず又七事菊と
忍合情死爲んとせしを見付けしに
相違なければ
公邊へ訴へ
何處迄も黒白を分け申べしと
片意地張て持參金を
返濟せぬ
工夫をなすに忠八も
側より日頃又七樣下女に手を
付られし事私共存居り候と云ひければ又清三郎も
傍邊より
進み
出御兩人の仰せ
御道理也又七樣御持參金を
鼻に掛け我々迄も見下げ給ふ事
甚だしと云ふを長兵衞は
見遣汝は
廻りの
髮結ならずや何故此所へ來り入らざる
差出口過言なり長助
那の者を
擲出せと云ひければ長助は
立掛り清三郎が
首筋を
掴みて
表へ
突出し
門口の
材木を
投付しにぞ清三郎は
怒り
汝れ此間も四日市にて我を
擲き今又
斯投付る事
此返報[#ルビの「このへんぱう」は底本では「このへんばう」]覺え居よと
罵りけるに扨は四日市の
盜人は
汝かと云はれてハツと思ひしかば
後をも見ずして
逃歸りけり扨又長兵衞はお常に
對ひ此事訴へなば
怪我人も多く出來る故
何分穩便に
取扱ひ白子屋の家名に
瑾の付かぬ
樣我々が
異見に
隨ひ給へと云へどもお常は少しも承知せざれば長兵衞も今は
是非なく又七を連れて我が
家へ立歸りたり
其間に夜も
明ければ長兵衞は傳馬町なる平右衞門方へ
到り右の次第を
物語りければ平右衞門は大に
立腹し白子屋の者共如何にも不屆なる仕方なれば
早々地主へ申
聞せんと夫より彌太郎方へ行き右の
仔細話し居る處へ番頭忠八髮結清三郎の兩人
入來り
彌々訴へ
出るにより又七を
預りし
手形を出せと
店先にて
談事ければ彌太郎も今は
堪忍成難く
其方よりの
訴訟を
待ず此方より訴へんと
云時又々下男長助又七を
尋ね來り
夜前清三郎が云ひし四日市のことを
話しけるにぞ
尚々遺恨を
重ね右の
趣きまで願書に
認め居たるに加賀屋長兵衞入り來り我等
何分にも取扱ひ候間
今少し御待ち下さるべし白子屋方へ
能々異見を加へ
内濟致すべしと
云置夫より又白子屋へ行き此事訴へられては
此方の
家名を
失ふ
基成べきにより
内濟にし給へと
種々に
説勸めると雖もお常は一
向承知せず
却つて長兵衞迄も
散々に
罵りける故長兵衞も今は
是非なく
打捨ければ
終に彌太郎の方より訴訟にこそ及びけれ
然ば大岡殿是を聞かれ此訴訟の
趣きにては大いなる
罪人八
逆の者多し是を
糺すは誠に
歎は
敷事なりと
種々利解有て
下られけれども
双方得心なければ是非なく
吟味とぞなりにける
頃は
享保十二年十月
双方惣呼出しの人々には白子屋庄三郎
並に
妻常娘熊番頭忠八
下男長助下女久同
菊聟又七
大傳馬町居付地主彌太郎
加賀屋長兵衞等なり
此砌髮結清三郎は
出奔して
行方知れず大岡殿彌太郎に向はれ其方願書の趣き
相違なきやと
尋問らるゝに彌太郎
御意の
通少しも
相違之なく候と
答へしかば
頓て庄三郎と呼ばれ其方妻常娘熊番頭忠八斯の如き
惡事をなす事
存て
差置しや又知らざるやと申されしに庄三郎其等の儀は
實以て存じ申さずと云ひければ又大岡殿お常に
對はれ其方
聟又七に
毒殺の
覺え
之有やと
尋問らるゝにお常は
首を
上如何にも驚きたる
體をなし
其は
決して覺え之なく又七事妻を
差置下女に不義を
仕掛不屆に
付離縁致さんと存じ候處
斯の訴へに及びし迄にて候
何卒御慈悲を以て又七儀
離縁仕つる樣願ひ上奉つると申立るを
聞て又七恐れながらと
進み
出其の
毒藥の儀相違之なく則ち
稻荷新道横山玄柳と申す醫師に
藥を
貰ひし
節の證文等もあり候
御呼出の上御吟味
下さるべしと申ける故
早速右玄柳を呼出されて尋ねられし所玄柳申立るはお常の頼みに候へ共毒藥は
容易成ざるに付
調合せず
斯々致し
風邪藥[#ルビの「かぜぐすり」は底本では「かざぐすり」]にて間を合せ候と
答るにぞ大岡殿次に下女お菊を
呼れ其方主人の
閨へ
刄物を
持忍び入る事
大膽不敵なり但し汝が一存か又は人に頼まれしか
正直に申さずんば一命に及ぶべしと
云れけるにお菊は
生たる
心地なく恐れ入りてお常
始め四人の者に頼まれし
段白地に白状しければ大岡殿ソレ
縛れと下知を
傳へお菊に
繩をうたせ又娘お熊手代忠八兩人に
向はれ其方共
日來密通いたし
居聟の又七を殺さんとせし段
不屆なり
有體に申立よと
有て
直に繩を掛させられしかばお常是を見てハツと
仰天し
今更後悔の
體に
差俯向しを大岡殿
發打と
白眼れ其方養子又七に
疵付候樣下女菊に申付たる段不屆なり
有體に申せと
云れしかば
隱すこと
能はずお常お熊
[#「お常お熊」は底本では「おお常熊」]共に白状にぞ及びける又庄三郎は家内の者の
斯如き不屆を存ぜざる段
不埓なり
猶外に何ぞ心當りの事は
之無やと申されければ庄三郎何も是と申す程の儀御座なく候へども
髮結清三郎と申す者
常々入浸り居しは心得難く候と申立るに大岡殿
同心を
呼れ白子屋家内を
檢査清三郎を
捕へ來れと下知せられしかば同心
馳行て
檢査しに清三郎は
逐電せし樣子なれど
道具中斯樣の品
有しと其品々を
持來りし中に
蝦夷錦の
箸入花菱の紋付たる一角の
箸鼈甲の
簪などありしかば大岡殿是を見給ひ
即時に
金屋利兵衞を
呼出され此品其方
覺え有るやと尋ねられければ
正しく覺え之あり私
娘の
手道具なるよし申立てしにぞ
猶又お常お熊兩人へ
嚴敷尋ねられしかば忠八清三郎兩人より
貰ひしまゝ何事も存ぜずと申により忠八を
糺問有ければ
終に白状致しけり
因て金屋の
盜賊も相知れ夫より清三郎へ
追手を
掛られたり扨牢内より彼の
旅僧雲源を
呼出され又伊勢屋三郎兵衞をも呼れて五百兩の
盜賊相知れしにより
人違ひにて是迄雲源を
苦め候
間其代り雲源を
宜敷扶持致すべしと申渡され雲源は
出牢となり利兵衞は得意を吉三郎に返さゞる
段不屆なれば身代を半分にして吉三郎に菊を
娶せ養子となし利兵衞
夫婦は
隱居致す可し且つ彌太郎方へは又七を
取戻せと申渡されけり
享保十二年十二月大岡殿
白洲に於て申
渡し左之通り
新材木町
白子屋庄三郎養子
又七 妻
くま
二十二歳
其方儀手代忠八と
密通致し
不屆至極に
付町中引廻しの
上淺草に
於て
獄門申
付くる
白子屋庄三郎手代
忠八
二十八歳
其方儀
主人庄三郎養子又七
妻熊と密通致し
其上通り
油町伊勢屋三郎兵衞方にて
夜盜相働き金五百兩
盜み取り候段
重々不屆に
付町中引廻しの上
淺草に於て
獄門申付くる
白子屋庄三郎下女
きく
十八歳
其方儀
主人妻何程申付候共又七も主人の
儀に
付致方も
有之べき處主人又七に
疵を
付剩さへ
不義の申
掛を致さんとせし段
不屆至極に付
死罪申
付る
白子屋庄三郎[#「白子屋庄三郎」は底本では「白子屋庄三郎」]妻
つね
四十歳
其方儀
養子又七に
疵付剩さへ不義の申
掛致候樣下女きくに申
付る段人に
母たるの
行ひに
非ず
不埓至極に
付遠島申
付る
杉森新道孫右衞門店
針醫
横山玄柳[#ルビの「よこやまげんりう」は底本では「よくやまげんりう」]
其方儀白子屋庄三郎
妻常始めの
惡事に
荷擔致し候段不屆に付
追放申
付る
新材木町家持
白子屋庄三郎
六十歳
其方儀
養子又七に
疵付候
節篤と樣子も見屆ず其上
妻常娘熊手代忠八不屆の儀を存ぜぬ段
不埓に付
江戸構申
付る
同人手代
清兵衞
彦八
長助
伊助
其方共儀
不埓の
筋も之なくに
付構ひなし
但當時下女久は
病死に
依て
名前之なし
彼の
時髮結清三郎は
上總へ
迯行し所
天網遁れ
難く
終に
召捕れ
拷問の上殘らず惡事を白状に及びければ
是亦引廻しの上
獄門申付られけり
偖亦お熊は引廻しの
節上には
黄八
丈下には
白無垢二ツを
着し
本繩に掛り
襟には
水晶の
珠數を掛け馬に
騎りて口に
法華經普門品を唱へながら引かれしとぞ此時お熊の
着たるより世の
婦女子黄八
丈は
[#「黄八丈は」は底本では「黄八丈は」]不義の
縞なりとて
嫌ひしは
戯れ事の樣なれども
其は
貞操の
意とも
云べし然るを
近來其事を知る者も
稀なりと雖も
又不開化などといふ者もあらんか
嗟愼しむべしと
云口も
又愼しむべし
當時の狂歌に
實に
誠名は
畜生の
熊なれや
不義に
曇りし
胸の
月の
輪白子屋を
下から
讀ばおやころし
聟を
殺さん
心怖ろし
身も
婦人心も
不仁欲は
常實に
理不盡の
巧みなりけり
白子屋阿熊一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]煙草屋喜八一件 茲に享保年間
下總國古河の城下に
穀物屋吉右衞門と
云者あり所に
双びなき
豪家にて
江戸表にも
出店十三
軒ありて何れも
地面土藏共十三ヶ所を所持なし
出店親類又は番頭若い者に至る迄大勢召仕ひ
豐に世を
送りけるが一人の
悴吉之助とて
今年十九歳
人品能生れにて父母の
寵愛限りなく
然れども
田舍の事なれば
遊藝を
習はせんと思へども然るべき
師匠なきにより江戸
兩國横山町三丁目
角にて
折廻し間口奧行拾三間づつ
穀物乾物類を
商ひ則ち古河の吉右衞門が出店なるを番頭
傳兵衞と
云る者
預り
支配なし居たるが此處に吉之助を
遣して
諸藝の師を
撰み金銀に
拘らず
習はするに日々
生花茶の
湯其外遊藝彼是と是を己が役にして居る所に兩國米澤町の花の師匠にて相弟子の六之助と云ふは
同所廣小路の虎屋の
息子なるが何事も
如才なく
平生吉之助とは
交り
厚かりしが
或時吉之助を
引誘納涼に出し歸り
懸船中より
直に吉原の
燈籠を見物せんと
勸めけるに吉之助は
御當地始めての事なれば吉原は
別して
不案内ゆゑ
堅く
辭退此日は
漸々宿へ歸り番頭傳兵衞に此事を
話ければ傳兵衞
首を
傾け六之助殿は
江戸産の事にて何事も如才なきにより此事
御斷り
切にもなるまじ
若明日にも
又誘引給はゞ彼の地に行六之助殿に
負られてはお
顏の
汚れることなれば金銀は
隨分奇麗に御遣ひ
成れ斯樣々々になし給へと
委細を
教けるにぞ吉之助承知して
其後又々
涼船花火見物の時六之助
同道にて吉原へ行き
蓬莱屋と云ふ六之助が
馴染の茶屋へ上りけるに吉之助は傳兵衞が
教へは
爰なりと
女房[#ルビの「にようばう」は底本では「によくばう」]娘を始め若い者女子迄七八人
近付に
成んと
惣纒頭を
打江戸町一丁目
玉屋内初瀬留と云ふ
娼妓を
揚程なく
妓樓へ
伴はれ
陽氣に
酒宴も
濟み
床へ入りしが六之助は夫より
前初瀬留を
密に
招き吉之助は
古河一番の
大盡の
息子にて江戸の
店へ
遊藝稽古の爲に參られ此處へは始めての事なれば
隨分宜敷計らひ
呉よ此後も度々
連參らんと内證を
吹込ける故初瀬留も
男振は
好し大盡の息子と聞き
眞實を
盡して
待遇けるにぞ吉之助は
斯る遊びの初めて
成ば
魂魄は
天外に
飛只現の如くに
浮れ是よりして雨の夜雪の日の
厭ひなく
通ひしかば初瀬留も
憎からず思ひ吉之助ならではと今は
互に
深く
云交し一
日逢ねば千秋の思ひをなすにぞ番頭傳兵衞は
最初己が
教へし事の
却て
毒と成しかば大いに
困り度々
異見を加へ
少しの事は
苦しからざれども
最早二箱近く
御遣ひ成されし故
御國許の旦那へ
聞えては此傳兵衞申
譯なしとて
猶種々に異見致しけれども一
向に用ゆる
氣色もなく
終に
翌享保九年七月迄に金二千七八百兩
餘遣ひ
捨たれば今は傳兵衞も
惘れ
果是非なく
國許へ此由知らせしにより父吉右衞門是を
聞て
以の
外に驚き
憎き
悴が
行状言語同斷なりとて
直樣出府なし吉之助を呼びて
着類を
脱せ
古袷一枚
錢三百文與へて
何國へなりと
出行べしと
勘當なしければ番頭若い者等
種々詫言すると雖も吉右衞門承知せず
其儘古河へ歸りけり依て吉之助は
今更途方に
昏此體にては
所詮初瀬留にも
逢れず死ぬより外に
詮術なしと
覺悟を
究め其夜兩國橋へ行き
既に身を
投んと
爲たりし
際小提灯を持ちたる男
馳寄てヤレ
待れよと吉之助を
抱き
止めるに
否々是非死なねばならぬ事あり
此所放してと云ふを
其はお
若い
衆不了簡死ぬは
何時でも易い事
先々此方へ
來られよと云ふ
面見れば吉原の
幇間五八なれば吉之助は
尚々面目なく又もや身を
投んとせしを五八も驚き
確かと
抱き
止め
是は若旦那にて
有しか私し事は多く
御恩に
預り何かと
御贔屓下されし者なれば
先々譯は
後の事手前の
宿へ御供を致し
左に
右宜敷計らひ候はん初瀬留樣にも
此程は日毎に
御噂ばかりなりと
無理に手を取り
其邊りなる茶屋へ
伴ひ
酒肴など
出させて種々
馳走をなし
而又宵の事がらは如何なる
譯と
問懸るに吉之助は
面目無氣に
答ふる樣此程父吉右衞門
國元より來り我等二千七八百兩の
穴を
明しを大いに
怒り終に
勘當を
請たれば
最早初瀬留には
逢事もならず所詮生て
恥をかゝんよりはと
覺悟極めし事なりと
一伍一什を物語れば五八は是を聞き
終り
夫は
父公樣の
御腹立も
御道理なれど若い中には
有習ひ又其中には
御詫の
成れ方も御座らう程に
先此度は初瀬留樣と
諸供御勘氣の
免さるまで此五八が
御匿ひ申
上んと力を
付夫より五八が宅へ
連歸り女房にも
[#「女房にも」は底本では「女房にて」]仔細を
話し初瀬留が方へも此事を
知せけるにそ初瀬留は
打驚き
早速來りて吉之助に
逢ひ私し故に
御勘當の御身となられし由
嘸かし
憎き者と
思召れんが此上は私し何事も
御見繼申さんにより
何處へも行き給はず五八の方に居給へとて夫より
呉服屋へ言ひ付吉之助が
衣類其外何不自由なく
送りければ是ぞ誠に
鷄卵に四
角の
眞實と
仕送らるゝ身は思ふなるべし或日五八は吉之助を
連れ淺草の觀音へ
參詣しけるに地内にて吉之助を
呼掛る者あり誰ぞと
振返り見れば古河に
在し
際召使ひし喜八と云ふ者にて吉之助が
側に來り
貴君樣には何時御當地へ
御出有しや
途中ながら
御容子伺ひ
度と申けるに此所は
人立繁ければとて
傍邊の茶屋に
伴ひ吉之助は
諸藝稽古の爲め横山町の
出店へ來りしより多くの金を
遣ひ
込父の勘當を
請け身を
投んとせし時に是なる五八に
助けられ今は五八方に居て初瀬留に
見繼を受け不自由なくは
消光居れど
何卒勘當の
詫をせん爲に觀音へ
參詣の處思はず其方に
逢しなりと
委細の事を話せしに喜八は大に驚きしが
先以て五八殿とやらん
御深切の
段忝けなし
然ながら親旦那も只一人の若旦那を
僅か二千や三千の金位に
御勘當とは餘りなり當分の
見懲なるべきまゝ今にも私し參り
御詫仕つらんなれども吉原に
御在られて女郎の世話になり給ふと有りては御詫の
妨げ今より
直に私し方へ御供申さんと云ふにぞ五八も
其理に
伏し
如何樣私し方に
御出有ては
却て御詫の妨げ此由初瀬留樣へも申べし
自然御用もあらば御文は私し方へ
遣はされよ御取次申べしと
茲に於て五八は吉之助を喜八に
渡し別れてこそは歸りけれ
偖此喜八は古河吉右衞門が方に十年の
年季を
首尾能く
勤め
上吉右衞門より金五十兩
貰ひて
穀物店を江戸へ出しけるが二年の
間に三度
類燒なし
資本を
失ひしかば是非なく今は
麻布原町に
刻煙草の小店を出し
其身は日々
糶賣をして女房に店は
任せ
漸々其日を送りけるが此喜八
素より
實體なる者故に
困ればとて人に無心
合力などは
決して云し事なく
幽な
渡世にても己れが
果福なりと
斷念其日を送りける
然ば喜八は吉之助を
連歸りしかど我が家は
貧窮にして九尺
間口の
煙草店故別に此方へと
言所もなく
夫婦諸共吉之助を
勞ると雖も
夜の物さへ
三布蒲團一を漸くに二人
着て
寢し事なれば吉之助に
着せる物なく其夜は
右の三布蒲團を吉之助に着せ夫婦は
夜中辻番を
抱て夜を
明しけれども是にては主人を
暖に
寢かす事ならず
豫て金二分に
質入せし
抱卷蒲團有ども其日を送る事さへ心に
任せねば
質を出す金は
猶更なく其上吉之助一人口が
殖難儀の事故夫婦は
膝を
突合せ相談なすに妻のお梅は漸く二十三歳にて
縹緻もよく
志操優しき者なるが
夫の
難儀を
見兼何事も
御主人樣のお爲なれば此身を一年の
間何方へ
成とも
水仕奉公に遣られ其給金にて夜具蒲團を
質請して御主人を
暖かに
休ませられよ
外に思案は有まじと
貞節を盡して申を聞き喜八も涙を流して
其志操を
感じ
僅二分か三分の金故妻を奉公に出さん事も
口惜けれども外に
工面の致し方なく此上は一人の口を
減すより外なしと
近所の口入を頼みけるに
早速能き口ありて
麻布我善坊谷火附盜賊改め
組與力笠原粂之進と云ふ方へ
中働きに
住込ける是にてお梅の給金三兩の
中取替金二兩
借り内金一兩二分はお梅素より何一ツなければ夜具其外支度に掛殘りの二分は質物に入れたる夜具蒲團を
請出し吉之助樣に
着進らせられよとお梅は
頓て奉公にこそ出でたりけれ
然程に喜八は妻のお梅を奉公に
出し
取替として金二兩
借り内一兩二分は
支度に
遣ひ殘り二分を
持て同町の
質屋源右衞門方へ行き
當夏入置し夜具蒲團を
請出しけるに此質屋
此邊にての
善身代故多く
下質を取りけるが今外より下質の金八十兩
請取亭主は
財布に入れけるを喜八
熟と見て居たりしが心の中に
偖々有處には
澤山に有るもの哉我は只二分の金にさし
支へ妻を奉公に出せしに八十兩と云ふ金を
石か
瓦の如く取扱ふ事
偖々世の
渡世の
貧福は是非もなし我に八十兩の金あれば主人に不自由もさせず一ツには
勘當の
詫の
種にもなり二ツには妻に
辛き奉公はさせまじと
倩々思ひ
運す
程世の
無端を
詫ち
爰の身代にて八十兩位は我が百文の錢程にも思ふまじ何事も御主人の爲と思ひ
那金八十兩を
盜取んと喜八が
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、160-17]胸に
浮みしは
是災難の
基なり夫より喜八は質物を
我家へ
持歸りて吉之助を
寢かし
置其夜丑の
刻とも思しき頃
豫て
研澄したる
出刄庖丁を
懷中なし
頬冠りして忍び
出頓て質屋の前へ行き
四邊を見るに
折節土藏の
普請にて
足代の掛り居たれば
是僥倖と其足代より
登りしが
流石我ながらに
怖ろしく
戰々慄々を漸くに
踏しめ
勝手の
屋根へ
到らんとする
機思ひも寄らぬ
近傍の
窓より大の男ぬつくと出ければ喜八はハツと驚き既に足を
踏外さんとするに彼の男は是を見て汝は何者なるや
我今宵此質屋へ忍び入り思ひの
儘に
盜まんと
今引窓より
這入たるに屋根にて
足音する故
不思議に
思ひ
出來りたり汝聲を立てなば一
討と
氷の如き
刄を
突付る故喜八は
増々驚き齒の
根も合ざりしが漸くに
息を
呑こみ私しことは
此家へ
盜賊に
這入らん爲に只今屋根へ
登りしなり
見遁したまへと申ければ彼男は
微笑ナニ盜賊に這入らんとする者が其樣に
震へては
所詮盜む事出來ず
偖は
貧に
迫りし出來心の
新まい
盜人かと云ふに喜八仰せの
通り何をか
隱し申すべき私しは此谷町に
[#「谷町に」はママ]住喜八とて
幽に
暮す者なるが昨日主人の若旦那を私し方へ
預り候處夫婦の
着たる
三布蒲團一ツの
外はなく金の
才覺は
尚出來ず是非なく妻を奉公に
出し
取換の二分にて
質に
入置し夜具を
請に
先刻此家へ參りし處八十兩の金を
掛硯の引出しへ
入置處を見たるに付
何卒是を
盜み御主人の不自由を
救ひ勘當の
詫の種にも
爲又妻をも
取戻して
消光度無ては
叶はぬ金子故
主の爲には親をも
捨る
習ひ後日に我が首を
切るゝ如きは
容易と思ひ道ならぬ事
乍ら
盜みに參りしと
有の
儘に語りければ彼の男是を聞き汝が見たる八十兩は是なるやと
懷中より取出して見せければ如何にも是にて候と云に彼の男喜八の
體を見て其方其如く
慄へては此金を取らん事思ひも
寄らず今云事の
僞りにも
有まじ
主の爲の出來心にて盜みに來りしと
正直に云ふ事の
憫然なれば此金を汝に與へん間
主人の
難儀を
救ひ妻をも
取戻せと
財布の
儘喜八に渡しけるにぞ喜八は
押戴き
偖々世の中に
其許の如き盜賊は
稀なるべし命を
的に掛て取りたる金を我に與へ給ふは誠に
有難し然らば申受んと涙を流し
此御恩は死すとも
忘れ申さず
何卒其許の御名を
聞せ給はるべしと云ひければ彼の男
點頭我は
田子の
伊兵衞と云ひて一
通の盜賊に非ず百兩や二百兩の金は
然のみ大金とも思はず
今迄火附人殺し
夜盜等の數自分ながらも何程か知れず明日にも
召捕られ
其罪科に
行はれなば汝今の
情を思ひ我が
亡跡を
弔ひ
呉よ此外に頼み
置事なし汝に
逢ひしも
因縁ならん
疾々見付られぬ
中歸るべし/\我は
未だ
仕殘したる事ありと云ひつゝ
又引窓よりずる/\と
這入り
質物二十餘品を
盜み出し
其上臺所へ火を付
何處共なく
迯失けり
折節風烈く忽ち
燃上しかば
驚破火事よと近邊大に騷ぎければ喜八はまご/\して居たりしが
狼狽漸々屋根よりは
下たれ共
足縮て
歩行れず殊に金子と
庖丁を
懷中に入れし事なれば若し
見咎られては
大變と早々
迯出す向ふより火附盜賊改め役
奧田主膳殿組の與力同心を二三十人連て此處へ來らるゝ故喜八は夫と見るより一
趁に
駈拔んとしけるを奧田が
組下山田軍平と云者喜八が
形を見て
怪み
曲者待と聲を掛ながら既に
捕へんと喜八の袖を
押へしにぞ喜八は一
生懸命と彼の出刄庖丁にて軍平が捕へたる
片袖を
切て早くも
人込の中へ
迯込だり軍平も
後より
追駈けれども終に
見失ひ切たる片袖は軍平が手に
殘りければ奧田が前へ
持出て只今火附を捕へんとせし處斯の如く袖を切りて
迯行候と申けるに奧田殿
扨々夫は
惜き事なり然らば切たる袖は後の證據とならん是へとて右の袖を見らるゝに
辨慶縞の
單物古きを茶に
染返したる
布子なり是は
取置と申付られ
頓て火も
鎭りしかば皆々火事場を
引れけり扨又喜八は
危くも袖を切て其の場を
遁れ
漸々我家へ歸りて
胸撫下し誠に神佛の
御蔭にて
助りたりと心の内に
伏拜み吉之助には火事にて驚きたりと
僞り彼の八十兩の金は
戸棚の
隅に重箱有りける故其中へ
入置既に
休まんとする時表の戸を
叩く
者有偖は役人後を追來りしかど更に心も
落付ず返事さへ
碌にせざれば表には
又々叩早く此處をお
開下されと云ふを聞けば女の聲なる故
不思議に思ひ
少し
戸を
明其許は何用有て此の
夜更に來られしや云ふに彼女私しは吉原より參りし者なり吉之助樣にお目に
懸たしと云ふ聲初瀬留
成ば吉之助は奧より
走出大いに驚き如何して
夜中遙々の處を來りしや
先此方へ
這入られよと云ふに初瀬留は
御免成れと戸口を入り
漸々に
胸撫下し餘りの
御懷しさに
今宵廓を
逃亡して此處へ來りしと
物語りなど彼是なす中程なく夜も
明るにぞ喜八は
起出引窓を明け
釜元を
焚付け扨々
昨夜は危き事かなと一人
云つゝ吉之助初瀬留をも
起さんとしける
折昨夜喜八を
捕へたる山田軍平は
朝湯の歸り掛け
煙草を
買んと喜八の
店に
立寄しが未だ
表は
締り居る故
煙草を
呉と聲を
掛しかば喜八ハイと答へて
揚戸を
上る
時袂の
斜に
引裂てあるゆゑ軍平は
眼を
留て見るに
縞柄も昨夜の
布子に
相違なければ
直に召捕んとせしが
取迯しては一大事と
然有ぬ
體にて煙草を買ひて歸りがけ
直に
笠原粂之進の
方へ行き
夜前の火付は原町の煙草屋喜八と云ふ者なり
今朝私し煙草を
買候時
渠が布子の
縞能く
似たれば心を付て見るに
袂の切れてあり
然すれば昨夜の火付は
渠の
業に相違なく
早々召捕給へと申するに粂之進
然らば
取迯さぬ樣
支度せよとて
手配にぞかゝりける喜八は如何に
周章しや昨夜の布子を
着替もせず居たりしは
拙き運と知られけり茲に原町の家主に
平兵衞と云ふ者あり
近邊にて評判の
如才なき男にて至つて
慈悲深く人を
憐みけるが
平生喜八の正直なる心を
感じ何時も
憫然を
掛ける處に町内の
自身番屋へ火附盜賊改役
[#「火附盜賊改役」は底本では「火附賊盜改役」]奧田主膳殿組下與力笠原粂之進は同心を
引連來りて平兵衞を呼び
其方店子煙草屋喜八事御用の
筋有に
依案内致せとて平兵衞を先に立て同心二人喜八が
宅へ來り御用の聲と
諸共に
高手小手に喜八を
縛め
引立行にぞ吉之助初瀬留は大いに驚き是は如何にと
呆れ
果たるばかりなり斯くて粂之進は彼の切れたる袖と喜八が
着たる布子を合せ見るにしつくりと
合ければ扨は此者に
相違なしとて家内を
檢査しに戸棚の
隅の重箱に
財布に入りたる金八十兩有りければ
彌々盜賊火附に
極りしと
此趣きを
添状にて町奉行大岡殿へ
引渡し吉之助初瀬留の兩人は
家主へ
預けられたり
偖喜八儀は火附盜賊に相違なしとて送りに
成しかば
直樣入牢申付られしに付き家主平兵衞は喜八を
片蔭へ
招き
段々の樣子を
聞に喜八は
主の
爲妻を奉公に出し其給金にて
質を
請出し八十兩の金を見て
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、163-13]出來心より其夜忍び入りて伊兵衞と云へる盜賊に右の八十兩を
貰ひし
迄現のまゝ
具に
語りけるにぞ家主は始めて是を
聞憫然に思ひ如何にもして
御慈悲を願ひて見るべしと夫より平兵衞は
宅へ歸り吉之助初瀬留に
對ひ
偖々喜八は
憫然にも是々の事により
最早近々御所刑に
成べし偖々是非もなき事なりと語りしかば吉之助大いに驚き扨は喜八事我が爲の出來心にて
盜に入り既に御所刑にならんとか
然すれば我が手で殺すも同じ事なり同人を殺し
汚面々々と
我而已生て
勘當免さるゝとも何の
悦びか
有ん我も
冥土の
途連せんとて既に首を
縊べき
體なれば初瀬留も是を聞き其元の
起りは皆私し故なれば
倶々死んと同じく
細帶を
梁へ
掛るにぞ家主は
慌て
狼狽漸々と兩人を
止め今二人とも此處にて死なれては我一人の難儀なり
何分此儀は我等に
任せ給へよしや無事に
行ず共
切ては喜八が
御慈悲願ひを致して見ん夫に就て
急々古河へ
相談なし
度ものなれども外の人を
遣しては事の
分るまじければ
詮方なし我古河へ行きて吉右衞門殿に
面談を
遂げ其上喜八が
命乞首尾能く
濟し申べし
其間必ず/\御兩人とも
短見給ふなと
異見をなし妻にも
能々云付置長屋の者を頼みて平兵衞は
早々調度をなし
下總の古河へぞ
赴きける
偖も家主平兵衞は古河をさして道を
急ぎ程なく穀物屋吉右衞門方へ
尋ね
到り
某しは江戸麻布原町家主平兵衞と申者なるが
此方の
御子息吉之助殿の事に付て
少々御相談申度儀之あり
故意々々參りたり吉右衞門殿
御在宿かと申
入けるに番頭其事を主人に
告しかば奧より吉右衞門立ち出來り
互ひに一禮
終りて平兵衞を奧へ
伴ひけるに平兵衞
状を
改め
拙者店子の喜八と申者元は其許樣の方に
勤めしとの事なるが
此度不慮の
災難にて火附盜賊に
陷り
召捕れたり
其原の起りは
御子息吉之助殿故なり
其譯は斯樣々々の事なりと
淺草にて吉之助に
逢しより喜八方へ引取り
勘當の
詫をせんと妻を奉公に
出し夫より
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、164-12]出來心にて
質屋へ
夜盜に入りし事
顯れ既に
御仕置にも極まる由夫故
御慈悲願ひをせんと存ずる處に又吉原より女郎初瀬留吉之助殿を
慕ひ
逃亡して來りし處喜八が右の一件に付兩人共生ては居られぬ
其原の起りは吉之助殿初瀬留が故なりとて
既に
縊んとするを
漸々宥め
賺し
置何卒喜八が罪を助けたく
態々是迄參りたりと
具に話しければ吉右衞門夫婦は大いに驚き偖々夫は
御深切忝けなし
悴を
勘當致せしも當分の
見懲と存ぜしなり五八とやらは
幇間などに
似合ぬ深切なる者又初瀬留事も
誠に
惜き
心底其樣な女ならば
傾城にても
苦しからず
身請致し夫婦に致さんと存ずるが
何卒御世話下されまじきやと母の頼みなれば吉右衞門も平兵衞に
對ひ何卒此上は
貴殿へ御任せ申間宜敷
御取計ひ下され候樣にと申にぞ家主平兵衞夫は何より
易き事吉之助殿
并に初瀬留の事は我等
預り
置し
儘案事給ふに及ばず兎角目前に喜八が
難儀を
救ひ
度存ずるなり因ては我等と
倶に江戸へ
出府有べしと申にぞ吉右衞門も
委細承知なし金子は
何程入りても苦しからず
何分宜しく頼み申と夫より吉右衞門平兵衞の兩人は
駕籠にて
晝夜を急がせ江戸へ出しが是迄老中松平右近將監殿へ度々用金を
指出せし
縁も
有ばとて吉右衞門は屋敷へ
到り喜八の一件を
歎願せしに
最早罪科極り
御所刑付へ老中方の判も
据りたり今少し早くば致方も
有べきに今更是非なしとの事なれば吉右衞門平兵衞共に
途方に
暮れ
寥々と歸りしが吉右衞門は
如何程金子入用にても何卒喜八を助けんとて
種々と平兵衞に相談する
機から思ひも寄らず喜八が妻のお梅
主家を
遁れ歸りけるが此主人は
先達て喜八を
捕へ出したる盜賊改め奧田主膳殿組與力笠原粂之進にて
則ち此家へお梅奉公致しけるが此粂之進
獨身ゆゑ此お梅の
縹緻宜に
戀慕し
種々と
口説と雖も此お梅
貞節の女なれば決して
從はざるにより
彌々粂之進思ひを
増種々に手を
變云寄ゆゑ
夫喜八と申者
在中は御心に從ひては女の道
立申さずと一
寸遁れに
云拔けるを或時粂之進
茶を
汲せ
持來る其手を
捕らへ是程までに其方を
執心し種々
口説ども
夫ある故從ひ難しと申が夫なくんば我が心に從ふやと云ふにお梅は
差俯向しまゝ答へをなさざれば其方
夫有ると思ふかや
夫は
疾亡身なり因て我に
隨ふべしと云ひければお梅は
不審何故夫なしと云ひ給ふと
問に粂之進は
微笑其方が夫喜八は火附盜賊をなし町奉行所へ送られたれば
近々御所刑に
成べし其妻の其方なれば
同罪なれども我其方を
深く
隱し是まで
恙なく
置しは
全く我が恩なり因て我に從ひ申すべし
所詮喜八が命は
助からぬなりと云ひければお梅は大いに驚きしが是は粂之進我を手に入れんが爲の
僞りならんと思ひ夫は何故火附盜賊をば致せしやと云ふに粂之進は喜八が火附盜賊に
陷りし
始末も殘らず話しければお梅はハツとばかりに
胸閉がり
暫し
詞もなかりしが偖々
情なしと思ひ粂之進に
對ひ何卒私しに御暇下さるべし
夫と共に
御所刑に
成申べし
科人の女房を
御免成れて御役目の
障に
成べしと申けるを粂之進
首を
振我其方に心を
懸ればこそ
沙汰なしに致し
置たり其恩を思はゞ
我方に居よ
暇は出すまじと
無體に
引寄るをお梅は
突退耳にも入れず
若御暇下されずは
逃亡しても
宿へ參らんと云へば粂之進大いに
憤ほり
斯程迄に心を
盡したる
甲斐もなく
辛かりし事思ひ知らせん
隨へばよし
隨はすは
斯の
通りと刀を
拔て胸先に
押當れどもお梅は
夫の事のみ心に
懸り
勿々怖るゝ
容子もなく
殺さば殺し給へ決して隨ふまじと
罵る
故粂之進は刀を
拔は拔たれども
素より殺す心なければ
納め
方に
困り居るを
中間七助と云ふ者
先刻より此樣子を見て
心可笑く走り出で主人を
止め
先々御待下さるべし只今彼方にて承まはりしが
御立腹は
御道理なり然しながら女を手に入れんと
思召ば
欺すに
如なし是は私しに御任せ有るべしお梅に
篤と申
聞せ御心に隨ふ樣
得心致させ申べし先々
御刀は
御納め下されよと云ふを
幸ひに粂之進は刀を納め
彌々其方取持呉んとならば任する程に
能々仕課せ手に入れよ是は當座の
褒美なりと金三兩
投出せしかば七助有難しと
押戴くを又不承知なれば其金を
取返すぞ
然樣心得よと云ふ處へ
御廻り御出と
觸來るにぞ則ち粂之進も
支度をして廻り場へ
出行けり
跡には七助お梅に
對ひ
所詮其方も旦那は
嫌なるべし
我取持せん事も
骨折損出來ぬ時は
却つて
首尾惡し然らば其方には少しも早く此處を
逃亡致されよ我も
辯解なければ是より宿へ歸る
可三十六
計走るに
如じ我が
宿は
牛込改代町芋屋六兵衞と
云者なり用事有らば
云越給へと兩人
云合せ早々に
支度して七助は牛込お梅は平兵衞方へ
迯歸りしなり
然ば委細の
譯を物語るにぞ平兵衞は
聞終り是は喜八を助くる
手段も出來たりと云へば吉右衞門
夫は何故ぞと云ふ平兵衞は
膝を
進め喜八が
科なき次第を女房に
呑込せ
斯樣訴状に
認め喜八を助け申さん何事も我に任せ給へと
頓てお梅に
駈込訴訟の仕樣を
教へ願書を認め是を以て
奉行所の門を入り右の方の訴へ所へ行き
斯々致すべし
然れど主人を
相手取公事なれば
白地には訴へ難し
唯何となく樣子あり
氣に
暇を
呉候樣に御願ひ申すとばかり認め是をお梅に
持せ平兵衞同道にて奉行所の
屋敷近邊まで
附添行那の門より
這入と教へて立歸りしかばお梅は
素足に成りて奉行所の門より
訴訟所へ行き御願ひ申上ますと云ふに役人是を
聞町役人を以て願へと雖も
聞入ず
叫びける故
頓て
門外へ送り出すにぞお梅は
腰掛にて
暫時休息し又々訴訟所へどつさり
坐り以前の如く申故又々送り出され
最早夜に入り門も
鎖りければ是非
無腰掛に夜を明し居るに其夜平兵衞
竊に
辨當を持來りて與へ明日御奉行樣御登城掛を待ち受け
御駕籠に付て願ふべし御駕籠の
中より何事ぞと
尋ねらるゝ
時夫の
難儀御救ひの御慈悲を願ひ
上ますと云ふべし
御奉行樣今は
登城前なり
後迄腰掛に
控へよと有らば其時
又茲へ來りて
休息せよ
晝時分呼込ある時駕籠の訴への
女罷出よと有らば御門へ入り左の方より
白洲の
溜りへ行て
控へ
居御呼出にて御白洲へ
出此訴状を出すべし御奉行樣の
傍に居る
目安方の御役人是を
讀上げ
此書付は何者が認めたるやと
御尋ねの時
我書たりと云ひては
惡し因て昨日御門へ
這入兼て御門前を
胡亂々々致候處へ
御武家樣御通り掛り成れ候て其方は
駈込訴訟かと
御聞成れ候間
然樣なれども如何して
宜敷やと承まはり候へば
斯樣々々致せと御教へ
成れ其上訴状は
持來りしかと
御尋故之なくと申ければ
然らば認め
遣すべしとて
記て下され候と申べし
夫さへ云へば
後は此方の物
向ふが大岡樣なれば何事も
察し
有べしと教へ平兵衞は我が家に歸りけるにお梅は
悦びつゝ夜の
明るをも
待詫居たるに
姑くして夜も
明放れ
辰刻過頃大岡殿登城の樣子にて
供廻嚴重に立出られしかば平兵衞の
教への如くお梅は
駕籠訴に及びしに腰掛に控へよと申
付られ
頓て呼び込に
相成白洲に於て訴状の
趣き御尋ね有りしかば是又教へられし
通申
立目安方之を讀上る時大岡殿お梅に
向はれ其方主人へ
暇を願へども
出さず
其上度々不義申
掛しを
夫有身なれば隨はざるにより刄を以て
威すゆゑ願ふと
有共今此處へ粂之進を
呼出し此事を
問んに然樣の事覺えなし又不義仕掛たる事も候はずと
云時は互ひに
水掛論にて證據なければ主人を
相手に
公事をなすのみ
成ず奉公人の方より主人へ
無理暇を
乞ふ事不屆なり此儀は其方は何んぞ證據ありやと
問るればお梅は
謹んで
答る樣其儀は牛込改代町十郎兵衞
店六兵衞方の
[#「六兵衞方の」は底本では「六衞方の」]同居七助と申者證據人に御座候と申立るにより然からば其七助を
呼出すべしと
差紙に付町役人七助を
召連罷出ければ大岡殿
何歟思さるゝ事ありて此日は
吟味もなく
追て
呼出すまで七助梅は家主へ
預けると申付られけり
茲に
又田子の伊兵衞は
質屋の
火付盜賊[#ルビの「ひつけたうぞく」は底本では「ひしけたうぞく」]召捕れ
近々引廻にでる
由噂を
聞偖は
[#「偖は」は底本では「偖て」]我八十
兩を
遣したる喜八とやらん
捕れたるや又外に
有事成かと
不審に思ひ
能聞けば
其人は全く彼の
喜八に
相違なく火付盜賊に
陷いり
近々に
火罪との事なりしかば
田子の
伊兵衞思ふは
科なき者を
無實に殺させん事
不便なりとて我と
名乘て
奉行所へ
出火付十三ヶ
所人殺七
人夜盜
數知れず
其中麻布原町質屋へ
這入り
金子八十
兩代物二十五
品盜候
由白状に及びしかば
大岡殿喜八を
牢より
呼出し
兩人對決の時大岡殿
喜八に
對はれ其方
質屋の
火附盜賊なりと申せども
其科人外より出たり
此者が
則ち其盜賊伊兵衞なりとて
自訴に
及びしと申されければ
喜八は彼の
伊兵衞を見て
驚きたる
體なりしが其盜賊は
全く
私しなり
那の者は
御助け下さるべしと申けるを
聞伊兵衞は
喜八に
對ひ汝は我が
先達の
寸志を
報んとて命を
捨て我を
助んと
云心底は
嬉しけれども
其は
無益の事なり我は
其外にも
科多ければとても
遁れぬ
身なるにより
尋常に
科を
蒙らんと申にぞ喜八は
差俯向て
詞なし大岡殿暫時
兩人の
詞を
聞て
甚だ
感じられ
伊兵衞事八十兩
喜八に
遣した
儀相違なきや
然らば
追て
詮議すべし
今日は
先下れとて
兩人倶に
牢へ
下られしが
其後程過て
兩人并に彼の
笠原粂之進[#ルビの「かさはらくめのしん」は底本では「かさはちくめのしん」]も呼出され其外
家主平兵衞お
梅白洲へ
罷出るに
大岡殿粂之進に
對はれ此梅と
云女其方に
奉公致せし
哉と
尋ねらるゝに
粂之進然樣にて候と
答るを大岡殿
夫の
難儀とあつて
暇を
願ふに何故
暇を出されずやと
有ば
粂之進則ち
暇を
遣して候と云をお
梅否々暇は一
向出し申さず候と申に家主平兵衞も進み
出先達て
梅事私しへ
御預けの
間委細承まはり候
處粂之進殿暇を
遣はされず候に
付據ころなく御願ひ申
上し
旨梅申聞候といふにぞ大岡殿
粂之進に
對はれ
斯樣に
難儀致す者を
止置候事
心得ずと申されしかば
粂之進冷笑ひ
都て
奉公人主人に
暇を
願ふには
人代りを以て
願ふべき
筈なり
夫に
然樣の事もなく
夫故暇は出し申さずと
云放しければ大岡殿
某は何を云るゝや
只今暇は
遣したりと申せし
口の下より
人代りなき中は
出さずとは
前後揃はぬ申
條殊更夫の
難儀と
有に
人代りを出す
隙の有べきや其方は
情なき
爲方なり是には何か
樣子あらんと
云れしかば
粂之進心中憤ほり
小身なりとも
某しも上の
御扶持を
頂戴し
殊に人の
理非を
糺す役目なり
奉行には
依怙贔屓ありて
某しばかり
片落しに
爲給ふならんと言せも
果ず
大岡殿發打と
白眼れ
依怙贔屓とは
慮外千萬なり此梅を
抱る
時請人は何者が
致たるやと
有に
粂之進夫は
則ち
夫喜八に候と云大岡殿
重ねて
其喜八は火付盜賊に
相違なしとて
某し方へ
添状を以て
此程送られたる
其許が
何故科人の妻を
役をも
勤むる
身分として
其儘に
召仕ひ
置たるぞや
假令當人より申出ずとも
其方より
暇を出すべき
筈なり此故に何か
樣子有んと申せしなり
定て
不義を申
掛たる
成んと申されしかば
粂之進グツとさし
閊へしがナニ
不義など申
掛たる
覺え
曾て之なしと云に
大岡殿牛込
改代町の
者呼出せと申されしかば
發と
答へて彼の
中間七
助を
白洲へ
連來るを
粂之進は見てハツと思へども
態と何氣なく
那の者は
拙者方にて
取迯致候者と
云乍ら七
助に
向ひ
偖は其方
梅と
密通致し
我が
金子を
奪ひ
迯亡させつるか
憎き
奴今茲に於て
何事をか
云詞を出さば
手は
見せぬぞと
眼を
瞋しけるを
大岡殿粂之進に
對はれ
渠は
拙者が
尋る
仔細有て呼出せしなり
決して
構ふまじ
如何に七
助有樣に申せと云れければ七
助は夫見ろと
云面色にて
粂之進を見ながら
如何に
私し事
下部は
致し候へども
取迯など
仕つりし
覺え
御座なく是
迄多く
粂之進方へ女中の
奉公人來り候へども一ヶ月とは
勤めず
何れも
早々に暇を
取り
下り候
故不審に
存じ候
處此度も又梅事
暇を
願ひ候
間容子を
窺ひしに
不義を申
掛られ
承知せぬとて
刄物三昧致しゝに
付其
節私し中へ入て
取鎭め候へば金三兩呉られ候て
取持候
樣申付られ候へども梅事は
貞節の
女ゆゑとても
叶はぬ事と
存じ私しは申
譯なきにより
宿へ
迯歸り
[#「迯歸り」は底本では「迯歸へり」]候と
具に申
立る
廉々粂之進は
面目青くなり
赤くなりしが
差俯向て
控へ
居るを
大岡殿粂之進を
白眼れ其方
只今公邊の
祿を
頂戴し御役を
勤め人の
理非をも
糺す身の上と云ながら
誠の火付盜賊は是なる伊兵衞を
差置科なき喜八を
捕へ
熟と
吟味もなく
送り
状を
添て此方へ
送られ
拙者迄に
落度をさせ
重々の
不調法斯樣の
不埓にて御役が
勤まるべきや
不屆き
至極なり
揚屋入申付ると
有りしかば同心
飛かゝり
粂之進の
肩衣を
刎たちまち
繩をぞ
掛たりける
斯て七
助とお
梅は家主へ
預け
粂之進揚屋入喜八
伊兵衞は
牢へ
戻されけり
偖翌日大岡殿
登城有て月番の
御老中松平右近將監殿へ
御逢を
願はれ
何卒私し
儀御役
御免下さるべしと
云れしかば何故
退役を
願はるゝやと申さるゝに大岡殿
此度煙草屋喜八
裁許違ひ
科なき者を
科人に
陷し
既に上へ言上に及び
各々樣御判も
据り候
處外より盜賊出しかば
全く
越前守越度に付御役
御免願ひ奉つる
此段宜敷御披露下さるべしと申
述られしかば
右近將監殿大いに
驚かれ
先々輕擧給ふな
篤と
同列とも談じ
合言上に及んとて
御老中方評議の上
言上に及ばれしかば
將軍吉宗公以ての
外驚かせ
給ひ
直に大岡殿を御前へ
召れ汝必ず
輕擧る事
勿れ
未だ其者
刑罰に行はざれば
再應取調べ此後
迚も
出精相勤むべしと上意有しかば大岡殿
御仁惠の御
沙汰畏まり
奉つると
感涙を流され御前を
退出せられけり時に
享保十年八月廿四日
双方呼出しの
面々は
笠原粂之進[#ルビの「かさはらくめのしん」は底本では「かさはらくめのじん」]煙草屋喜八家主
平兵衞田子の伊兵衞
中間七助等なり大岡殿
大音にて
粂之進[#ルビの「くめのしん」は底本では「くめのいん」]儀刑法役をも
勤め候身分にて
盜賊の
人違ひ
罪無喜八を
科に
陷いれる
而已ならず其妻に
不義を申し掛し
段不屆の至なり
依て二百五十
俵召上られ
重き
刑罪にも
處せらるべき處
格別の
御慈悲を以
打首次に七助事主人を
欺き私しに
宿へ下り候は
不埓なり
然りと雖も
御公儀を
僞らざる
故過料金三兩
次に盜賊伊兵衞
儀重罪なれども
神妙に
名乘出其上喜八を
助け候
段奇特に付
御慈悲を以て多くの
罪を
宥し伊豆大島へ
遠島次に煙草屋喜八は
構ひなし
妻梅
構ひなし
家主平兵衞此度の
働き町人には
奇特の
儀に付
譽置右の通申
渡され
双方一
件落着せり
偖穀物屋吉右衞門は女郎
初瀬留を八百兩にて
請出し
嫁となし
吉之助が
勘當をも免し
目出度夫婦として喜八夫婦には
横山町角屋敷穀物店に三百兩
附て
與へ家主
平兵衞へは
右横山町地面間口十
間奧行十八
間の
怙劵に
種々音物を
添悴夫婦并に喜八が是まで
厚く
世話に
成し
禮として
遣はし
又吉原の
男藝者五八は
心實なる者故
吉右衞門[#「吉右衞門」は底本では「吉衞衞門」]悦びの餘り
悴が
命の親なりと
號し
禮金三百兩を
贈り
又初瀬留よりも
衣類其外
目録にして
委細の文を
添種々禮物を
贈りけるゆゑ五八は
俄分限となり何れも
其家々繁昌なせし事實に
心實程大切なるものはなしと皆々感じけるとなん
煙草屋喜八一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]村井長庵一件 積善の家には
餘慶あり
積惡の家には
餘殃ありと
宜なる
哉此篇に
載る所の村井長庵の如き
表は
醫術を
業とし内は
佞邪奸惡を
恣まゝにして
己が
榮利を
盡さんと
欲す然れども
天網爭で此
惡漢を通さん其
咎めを
蒙るに及んでは僞りて
遁るゝ
道なく
飾つて
覆べきの理なく
然ば大岡越前守殿の
裁許に
預りし者
其善惡邪正別たざるなし
實に
賢奉行とや
謂[#ルビの「いつ」はママ]つべし
仰々村井長庵といふは
麹町三丁目に
町醫と成つて世を
送り
舍弟十兵衞を
芝札の
辻にて
殺害し同人の娘を賣りし身の
代金五十兩を奪ひ
取其妻を三次と云る
同氣相求むる
惡漢に
委ね淺草の
中田圃にて殺害させ其上伊勢屋五兵衞の
養子千太郎に
小夜衣を
他に身請する人ありと
僞りて五十兩の金を
騙り
取種々[#ルビの「しゆ/″\」は底本では「 ゆ/″\」]の
惡計を
働し其
根元を
尋るに國は三
州藤川の
近在岩井村の百姓に
作十と云者あり夫婦の
中に子供兩人有て
兄を作藏
舍弟を十兵衞と云しが兄作藏は
性質善らぬ者にて村方にても
種々樣々の惡事を
働し故親の作十も
持餘し
終に
勘當に及びしが弟十兵衞は兄と
違ひ
正路の者にて
隣村迄も
評判の
善きにつき是を
家督とし近村よりお
安といふ
嫁を
貰ひ
親子夫婦の
間もよく
最睦じく
稼ぎけり斯て
兄作藏は勘當の身と成しを
後悔をもせず江戸へ出で少しの
知己を
便りて奉公の口を尋ねる
内幸はひ小川町にて其頃評判の御
殿醫武田長生院方に人の入用ありと
聞口入の者に頼みて
此處に住込ける此長生院と申は
老年と
云殊に名醫の
聞えあれば
大流行にて毎日々々
公私の使ひ引も切らず藥取の者其外門前に
市をなし
節句前毎に
藥禮の
目録其他の
進物など
雨の
降如く成れば作藏は是を見て世の中に
能物は
醫者なり何程の
療治は
出來ずとも流行出せば
斯の如し我も故郷は勘當され此江戸へ來りて
所々方々と
彷徨ばかりにて未だ何の
仕出したる事もなく
此ぞと云
身過の思ひ付もなき
機なれば此上は
何卒して我も
醫師となり
長棒の
駕籠にて往來なし一身の
出世を
計らんものと思ひ
込けるは
殊勝成ども一心に醫學を學び其
術を以て
立身出世を望むに有ねば元より
切磋琢磨の功を
積修行せんなどとは更に思はず
大切の
人命を預る
醫業なるに只金銀を
貪ぼることのみを思ひ
假令藥違ひにて人を殺したりとて
匙さへ持ば
解死人には取れず
斯る
家業は又となし只醫者らしく見せ
懸るのと
詞遣ひさへ腹に
這入ば別に
修行が
入ものぞと
藥種の名など
些づつ
覺え醫者にならんと思ひ
込奸才邪知の
曲者にて後年
己が
罪惡の
顯はれし時申
陳じて人に
塗付天下
未曾有の
名奉行をも
欺き
課せんとする程の
大膽不敵なれば間もなく
見樣見眞似にて
風藥の葛根湯位は
易々と
調合する樣に成ける程に武田長生院も
下男にも
珍しき
奴なれど
扨心の
寛せぬ勤め振と
流石に老醫常々
親戚の者へ語られしとぞ作藏の
僅か三年
越の奉公中に
醫の道を少しく
覺え殊に遊ぶ
隙なければ給金其他
病家へ
代脈の
供などに行し時
貰ひたる金を少しく
溜りたるより武田に
暇を
貰ひ
直に
天窓を
剃て
坊主となり麹町三丁目の
裏店を借て
世帶をもち醫師
渡世を初めしに
運の一
度向ひし所にや
元來藪醫者と云ふ程も醫術は知ぬ作藏が
名字を村井と
唱へ自ら名を長庵と改めて
朝から
晩まで
當は無れど
忙し
振に
歩行廻りければ相應に
病家も出來たるにぞ長庵今は己れ
名醫にでも成し心にて
辯舌奸計を以て
富家より金を引出し終に
表店へ出て
可なりに暮し一度は
流行爲しけれども元より
己に覺えなき
業なれば終には此處の
内儀が藥違ひにて殺されたの彼所の
息子が
見立違ひにて苦しみ
死をしたの又
渠は
無學文盲の何も知らぬ山師醫者の
元締なりなど
湯屋の二
階髮結床などにて長庵の
惡評を
聞も
夏蠅ばかりなれば果は
命の入ぬのか又は
死たく思ふ人は長庵の
藥を
飮め命が大事と思はば村井が門も通るなと
雜言にも
言ひ
觸しける程に
追々に
全治病人迄も皆
轉藥をなし
誰一人
脉を取する者も無なりしにぞ長庵今は
朝暮の
煙も
立兼るより
所々方々手の屆く丈
借盡して返すことをせざれば酒屋米屋
薪屋を始め
何商賣をするものも長庵の
宅の前は
忍んで通る樣になりければ
引かけ
上手の長庵も百
方術盡き
爲事なく
困り果てぞ居たりける爰に又長庵が
故郷岩井村にては
親の作十も
病死し
弟十兵衞の代と成けるが或時
近邊より出火して
家屋をはじめ
家財雜具迄殘り
少なに燒失ひ其のみならず
引續きて
水旱の
難に
罹り難儀の
重なりて年々
殖る
年貢の
未進に當年こそは是非ともに未進の
皆納なすべしと
村役人より
促され素より
篤實一
遍の者なれば十兵衞夫婦は
膝摺寄如何なる
前世の
宿業にや追々續く
災難にて
斯迄困窮の身となりしぞ
斯る事の
無らん爲
鋤鍬の
勞を
厭はず朝はしらむを待て起き
霧に
簑着て
山稼ぎ人は
戻れど
黄昏過月の
無夜は
星影を見ねば戻らぬ樣に
稼ぎ
畑一
枚荒さずに
骨體碎いて
働きても
火災の難に
水旱の難儀が
終始付て
廻り
追々嵩む
年貢の
未進今年は何でも
納むべしと
村役人衆より度々の
催促其處で
色々工面も仕たが外に仕方の有ざれば
所詮我内には居られぬなり此上は我四五年の
間何國へなりとも身を
潜め奉公なりともして
稼がなば又兎も角も成べしと思ひ定めし事なれば
和女は
跡に殘り居て二人の娘を
頼むぞよ
斯云ば
邪見と思はんが我さへ居ねば年貢の未進も何とか
村役人衆が
仕法を
付宜樣にして
呉られんと
男泣に泣ながら氣の
毒さうに言けるにぞ
女房のお
安は
恨めしげに
夫十兵衞の顏を見つゝ餘りの事に
涙も
飜さず
唯俯向て居たりける茲に十兵衞夫婦が
間に二人の娘あり
姉をお
文といひ
妹をお
富と云るが
姉妹共に
心操優しく何處となく
品よき
生質なれば如何なる
貴人の娘といふとも
恥しからず
斯る在所には珍しき者にて殊に
兩人とも
親思ひの
孝行者なれば
今父十兵衞が
年貢の金に
差詰り身を
隱さんと云るを
聞共に涙に
暮居たりしが
軈てお文は
父母の前に
來たり兩手を
突只今お
兩方樣のお
咄しを承まはり候に父樣は
何方へかお身を
隱され給ふ
由然樣にては
跡々の
仕樣も御座なく
母樣御一人にてお
困り成るゝは申迄もなく元は
妾姉妹二人を斯樣に
御育下され候よりお
物入多く夫ゆゑ御難儀にも相成し事なれば
數ならねども私しを
浮川竹とやらへお
沈め下され
聊かにてもお金に
換らるゝ物ならば此身は
何樣の
艱難を致し候も
更々厭ひ申さねば何卒此身を
遊女に御
賣成れ其お金にて御
年貢の
納め方を
成るべしと
最忠實に申けるにぞ
父母は
其切なる心に感じ眼を
屡叩き
然程迄我が身を捨ても親を
救はんとは我が子ながらも見上たり
忝けなしとお文の
脊中を
摩りながら其
志ざしは
嬉しけれど
如何に年貢の金に
差閊へたり
[#「差閊へたり」は底本では「左閊へたり」]とて
其方達を
浮川竹に
沈めんとは思ひも
寄ずと十兵衞は妻お安の
泣居るを
勵まし餘り
苦心をすると
能工夫の付ぬ物なりと
自在鍵より
鑵子を外し
素湯を呑
良あつて十兵衞は
膝立直し
兎も
角も我さへ居ずば
妻や子に然まで難儀は
掛るまじ思ひ定めし事成ば何樣あつても己は居られぬ
留守を
其方達守つて
呉といふ
袖袂へ
取縋り此身を賣てとかき
口説親子の
恩愛孝と
慈と
暫時は
果も無りけり
漸々にして
妻お安は
落る
泪を
押拭ひ
夫程迄に親を思ひ
傾城遊女と成とても今の難儀を
救はんとの其孝心が天に
通じ神や
佛の
冥助にて
賣代なしたる
曉には如何なる
貴人有福の人に愛され請出され却つて
結構の身ともなり
結句我手に
育ちしより末の
幸福見る樣に
成まじき者にも非ず
能覺悟をしたりしと
空頼みに心を
慰さめ終に娘お文が孝心を立る事に
兩親とも得心なせばお文は
悦び一
先安堵はしたものゝ元より
堅氣一
遍の十兵衞なれば子を
賣術など知らざる上に
都は知らず
在方では身の
賣買は
法度にて誰に
頼まん樣もなく
當惑なして居たりしが十兵衞
鐺と
膝を
打兄作藏は
當時江戸麹町三丁目にて村井長庵と
言て
立派なる
醫者に成て居るとの由
故出府して兄の長庵に
委細を
噺し
頼まんものと
委敷手紙に
認めて長庵方へ
送りける其
文面に
[#「文面に」は底本では「方面に」]曰く
以手紙申上候
貴兄樣
彌々御
安全御
醫業被成目出度存じ奉つり候然れば
此方八年
前近邊よりの
出火にて家財道具を燒失ひ其上
旱損昨年は
水難にて
段々年貢未進に相成候處當年は
是非皆納致し候樣村役人衆より
嚴敷沙汰に候得共
種々打續ての
災難故當惑致し居候處娘文事孝心により身を賣其金子にて
年貢の
不足を
皆納いたし候樣申呉候間甚はだ以て
不便の至りには候へ共
外に致し方も
無之據ころなく
文事
賣申度存じ候之に依て近日
召連出府致し候間
何れへ成共御
世話被下度此段御
相談申上奉つり候
猶委細は
拜顏之上申上
可候
早々以上
江戸麹町三丁目村井長庵樣
是は長庵
近來再び
無頼の行ひになりし事を知ざればなり
扨又長庵は追々
己が心がらにて
困窮に及び
何哉能仕事の
有かしと思ひ居ける所故是を見るより
先々金の
蔓に取付たりと
竊かに悦び直に
返事を
認め
遣はしける其
文に曰く
去二日
出之書状到來いたし
委細拜見致し候
偖々其方にても段々
不如意との
趣き
蔭乍ら
案事申候
右に付御申
越の
娘儀出府致されべく候吉原町にも病家も有
レ之候間
宜しき先を
見立奉公に
差遣はし可申
何れ出府の上御相談に及ぶべく候委細は
筆紙に
盡し難く
早々以上
三州藤川在岩井村 十兵衞殿
と
有ける
返事屆きければ十兵衞夫婦は
歎きの中にも先々兄の世話にてお江戸の吉原町とやらへ
行上は娘が難儀にも相成まじと心に悦び
直に
娘文に其由を語りて
支度をさせ
同道して江戸表へ出んと其身も
支度に及びける母は
豫て
覺悟とは言ながら
頻りに泪にかき
昏て娘の文を近く
招き
今更云迄もなけれど
惡き病を請ぬ樣に心を付て奉公せよ一日も早く
能お客に請出され斯々云所へ
片付しと
云越して悦ばせよ
呉々も
機嫌よく奉公し
傍輩達と
仲能して
苛酷られぬ樣にせよはしたなき事をして
田舍者と笑はれなと心の有たけかき
口説また夫十兵衞に打向ひ
隨分道中を用心して
濕氣に當り給はぬ樣娘の事は呉々も
能やうに
計らひ給へと
懇切に言
慰さめ互ひに
名殘を
惜めども
斯てあるべきにあらざれば既に
袂を
別ちしが跡には女房と
妹との二人夫と
姉の後ろ
影を我が
門口へ立出て
伸上り/\
見送るを
此方も同じ思ひにて十兵衞お文の兩人も
妻と妹を
見返り/\
稍影さへも
見ざれば
後ろ
髮をや引れけん一
足行ば二足も
戻る心地の氣を
勵まし三河の岩井を
後になし江戸をさしてぞ急ぎ
行實に人間の一生は
敢果なき事
草葉に
置る
露よりも
猶脆しとかや如何に
貧苦に
責られても親子
諸共苦しまば又
能事も有べきに別れ/\に
楢の
葉や子の
手柏を
引連て
誘引ばさそふ秋風に
末は
散行我が身ぞと知ぬ
旅路ぞ
哀れなる
然程に村井長庵は
兎に
角に
金儲けの
蔓に有付たりと心に悦び十兵衞の
出府を一日千
秋の思ひにて
待程に此方は十兵衞娘文を
連て岩井村を出立し
道中にても心を
付足を
痛めな
草臥なと
種々言
慰めつゝ日を
經て
漸々江戸に
着麹町三丁目なる長庵が
宅に到りければ長庵は大に悦び
偖々能出府には及ばれたり
久敷便りもせざりし故
田舍の樣子も
如何有し事と思ひ出さぬ日とてはなく豫々
容子を
尋ねたく思ひしかども何を
言にも人の
命を
預る
渡世寸暇の
無れば中々
田舍へ尋ね行事などは思ひも
寄ず心に
掛る計りにて今迄
疎遠に
打過したり夫に付ても此間の手紙に
細々と言越たるには
追々不時の災難や水難
旱損の打續きて思はぬ
入費の有しゆゑ親の
讓りの身上も
都合惡
敷成し由
實に當時の世の中は田舍も江戸も
詰り
勝併し
呉々返事に
言遣はしたる通り親は
泣寄とさへ申せと
惡敷樣には計らはぬこと
最懇切に申ければ十兵衞親子は大いに
歡び何分宜しくお頼み申すと
言ば長庵は
打點き今夜は我が
内も同じ事なれば安心して
休息せよ併し
草臥て居るならん
洗足の湯を
沸して
遣はす
筈なれど夫よりは近所ゆゑ湯に入て
來るがよいお文も父と共に
行べしと
辯舌利口を以て
口車に乘せ金の
蔓と思ふ
姪のお文は如何なる
容貌かとお文が
仰向顏を見て其
嬋妍さにほく/\悦び
在郷育ちの娘なれば
漸々宿場の
飯盛か吉原ならば
小格子の
僅か二十か三十の金を得るのが
關の山と
陰踏をして置たるが少しばかり手を
入れば
日向臭い
匂ひは
拔やう
此奴は
運が向て來たと
草鞋を
解せて
門へ立出あれに見ゆるが
洗湯なれば親子で
緩々と
這入て來なと
心切めかして長庵が深くも計る
待遇振に
欺さるゝとは夢にも知ず
斯迄に長庵が心の
優しく成しのは
嬉しき事と十兵衞は娘お文にも安心させいそ/\として
出行しが
暫くして
湯より
戻り
珍しくは候はねど
遠路を持て來し
國土産と心も
厚き
紙袋蕎麥粉饂飩粉取揃へ長庵の前へ差出せば然も
嬉しげに禮を
演湯の中に
誂へ
置し
酒肴を
居間へ
並べサア
寛々と久し
振にて何は無とも一
献汲んと弟十兵衞を
饗應けり十兵衞は長庵に向ひ
御馳走中申上るも如何なれど
豫て手紙にて申上たる次第につき娘文を同道せり何卒
御忙敷も御都合なされ娘を
能所へ
早々御世話下されと
泪を
拭つゝ
咄しかくれば長庵は
態と目を
拭ひ涙に聲を
曇らせて
貧の病は是非もなし世の
成行と
斷念めよ我とては
貯へ金は有ざれども
融通さへ成事なら
用立て
遣度と手紙を見たる其時より
懇意の者へ頼んで置たが何分にも急場の事故
貸て
呉人も
一寸なく殊に此程は何や斯や
不時の物入續き
勝にて夫に
豫ての心願にて人の
嫌がる
貧家の病人
療治は
勿論施藥をなし中には
稼ぎ人が
煩ひて
喰や喰ずの
極貧者には持合せの金を
何程か與へ
慈善の道を好むのも
掛替の無き兩親に不幸を成し
罪滅しと自分の身には
榮耀は止め人に
施す事
而已爲す故受取金も多けれども夫故
困る我が
身上現在弟が外成ぬ年貢の金に差支へ
手風も
厭うて
育てし娘を苦界へ沈める急場の難儀を
助ける事も
出來ぬとは兄と
言るゝ甲斐も
無悔し涙が
飜るゝと手を
拱ぬけば弟の十兵衞は
眞實ぞと思へばいとゞ氣の
毒さに
兄樣然までに御心配下されますな御心切を忘れはせぬ
然乍ら娘も覺悟の上なれば兎も角も
何れへ成とて
好方へ奉公させて下されと
只管頼めば長庵は然ば是非なし
明日にも吉原の病家へ
見舞がてら
行程に
能口を尋ね見ん先
今晩は
休まれよと兩人を枕に付せけるが翌日長庵は早々支度を
爲し麹町を立出吉原さして
急けり爰に吉原江戸町二丁目の
丁字屋半藏と云る
遊女屋は其頃での
繁昌の家にて
貴賤の
客人引も
切ず
然ば此丁字屋方へ
賣込んと
傳手をもとめて
懸合に及びけるに幸ひ此丁字屋にても追々
子供も
年明の
近寄ければ
何卒して
能子供を
抱んと思ふ
折柄故其娘を今日にも見たきとの事なれば長庵は急ぎ宅へ歸り
弟十兵衞にもお文にも此由を云
聞せ
直己が隣家の女房を頼み
賣物には花を
飾れとやら何分宜敷御頼み申すと
髮形から
化粧迄其頃の風俗に
作り立
損料着物を借請
衣裳附まで長庵が
拔目なく差※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、179-13]をなしお文を
連て丁字屋へ出かけしが先兩三日は
目見えに
差置く樣にとの事なれば其まゝに差置て長庵は歸りける丁字屋にてはお文が
容子誰有て
田舍娘と見る者なく
傍輩娼妓も
恥るばかりなれば
流石に長庵が
骨折の
顯はれし所にて在所に在し其時とは親の十兵衞さへも
見違へる程なれば主人半藏方にても十分氣に
入お文へ何故に身を
賣やと容子を尋ねけるに親十兵衞が
云々にて年貢のお金に
差支へ
據ころなく身を
賣時宜なれば何卒お
抱へ下されたく
如何樣の
憂ひ
悲しひ事成とも御主人大事御
客樣を
大切に勤めますと云其言葉に
田舍訛り有けれど
容貌のよさに
主人もはずみ少し高くは思へども
終に年一
杯廿七年の
夏四月までの
證文にて五十兩に
買んとの挨拶に十兵衞は大いに悦び五十兩の金の有ならば年貢の未進は殘らず
納め所々の
買懸り其外の
借錢まで殘らず一時に
片を
付其上にて
稼ぎなば娘を請出す
時節も有なん
然はなくとも其内娘が
能客ありて身請をさるる事もや有んとお文にも言聞せ
直に證文を取極め
判人へ禮金三兩當人の
身附金五兩を引去四十二兩の金を請取て長庵諸共麹町へこそ歸りけれ
偖十兵衞兄長庵に打向ひ
段々の御
世話にてお文こと思ひの
外能所へ住込有難く存じます
就ては
多分の御禮も致す
筈なれども何を申すも此始末なれば是は
誠に心ばかりの御挨拶御
受納下されと金子三兩を紙に包みて
差出しければ長庵は
押戻し
否々夫は思ひも寄ぬ事なり
豫て我が言たる通り
工面さへ出來る事なれば何であの
孝行な娘の身を
浮川竹に沈むる
周旋を我しやう他人がましき事をせな
聊か有ても調法なは金なり心が
濟ずば其金にて
妹お富へ何なりと江戸
土産など
買て行れよ然すれば我が請たも同樣
必ず/\
心配しやるなと手にだも取ず
押戻し
肉身分たる
舍弟十兵衞を
飽まで
欺く長庵が
佞辯奸智極惡は
譬るに物なしと後にぞ思ひ知られけり十兵衞は
兄長庵が
巧みのありとは少しも知らず
然樣ならば
頂戴ますと
己れが出たる三兩を再び
胴卷の金と一
緒に
仕舞込を長庵は
横目でジロリと
眺め
空嘯けば十兵衞は何れ
歸村を致せし上御禮の仕樣もありぬべしと
親しき中にも
禮義を知る弟が心ぞしほらしき
偖も弟十兵衞は長庵に向ひ
嘸かし
在所にても妻や娘の私しが歸るを待兼て居る成らん因て明
朝は是非とも出立致し度と言けるに長庵
否々此通り雨も
降て居ることゆえ
明日は一日見合せて
明後日出立爲べしと
留めけれ共十兵衞は是を聞ず
否々兄樣降ばとて一日二日の
旅ではなし
天氣の
好日を見て立ても道にて
大雨に逢まじき者にも非ずと
在所を案じる一
筋に十兵衞が一日も早く
妻や子に安心させんと思ひ
詰頻りに
翌朝は出立せんとて何と
云ても止まらねば然らば
翌は出立して在所の者に少しも早く安心させるも
能かるべし
然樣決心をした上は
嘸かし
氣勞れも
有う程に
今宵は早く
休むがよい
己も今夜は
早寢にせんと云ば十兵衞は
然樣ならお先へ
臥ります
御免成れと挨拶し
臥戸へこそは入にけれ跡に長庵
工夫を
凝し彼の五十兩の金を
取んには
刺殺して物にせんか
縊殺して
呉んかと立たり居たりして見ても
流石に自分の
居宅にて
荒仕事を
働かば後の
始末が
面倒ならん
寧そ
翌日は
暗きに
立せん
然じや/\と
打點頭獨り
笑つゝ取出す
傘は
日外同町に
住居する
藤崎道十郎が忘れて行しを幸ひなりと
隱し
置夜の
更るを待内に
愈々雨は
小止なく
早耳先へ
響くのは市ヶ谷八
幡の
丑時の
鐘時刻はよしと長庵はむつくと起て弟の十兵衞を
搖起し是十兵衞
最早今のは
寅刻の
鐘殊に此鐘は何時も少し
遲き故夜の明るに間も有まい眼を
覺して支度せよ
鐵瓶の湯も
温んで有と聞て十兵衞は起上り
顏を
洗はず支度をなし幸ひ雨も
小降になりぬ翌日は天氣になりなんと
心急るゝ十兵衞は
死出の
旅路と知ぬ身の兄長庵に禮を
述用意の
雨具甲掛脚絆旅拵へもそこ/\に
暇乞して
門へ立出
菅笠さへも
阿彌陀に
冠るは
後より
追るゝ
無常の
吹降桐油の
裾へ提灯の
灯を
消まじと
馴もせぬ江戸の夜道は野山より
結句淋しく思はれて進まぬ足を
蹈しめ/\
黒白も
分ぬ
眞の
闇辿りながらも思ふ樣
貧しき中にも
手風も當ず是迄
育てし娘お文を浮川竹に身を
沈め
憂ひ
勤めをさせるのは親の本意と思はねど身に
替難き
年貢の
金子ゆゑ子に
救はるゝのも
因果なり娘の
勤めは如何ならん
嘸や
故郷の事を思ひ出
憂が
積りて
若や又
煩ひもせば何とせん思へば
貧しく
生れ來て何にも知ぬ我が子に迄
倦ぬ別れをさするかやと
男涙に
足元も
踉々蹌々に定め
兼子故に迷ふ
闇の夜に麹町をば後になし歸ると聞し
虎の
門も歸らぬ旅に
行空の西の久保より
赤羽の川は三
途としら
壁の
有馬長家も打過て六堂ならねど
札の
辻脇目も
振ず急ぎしか此程
高輪よりの出火にて愛宕下通り
新し橋邊まで一圓に
燒原となり
四邊曠々として
物凄く雨は次第に
降募り目先も知ぬ
眞の
闇漸々にして
歩行ける折しも
響[#ルビの「ひゞ」は底本では「ひぐ」]く
鐘の
音は
明六ツならんと
心嬉しく
算へて見れば
然はなくして
芝切通しの七ツなれば
偖は兄の長庵殿が我が出立を急ぎしゆゑ少しも早くと思ふ
念より八ツを七ツと
聞違へて我を
起し
呉しならんまだ
勿か/\に夜は明まじ
偖蝋燭の
無ならば
困つたものと立止り
灯影に中を
差覗きしと/\とまた
歩行出折柄ばた/\
駈來る
足音に夫と見る間も有ばこそ聲をば
懸ず
拔打に
振向笠の
眞向より
頬の
外れを
切下られあつと玉ぎる一聲と共に落せし提灯の
發と
燃立其
明りに見れば兄なる長庵が
[#「長庵が」は底本では「長庵がが」]坊主天窓へ
頬冠り
浴衣の
尻を
引からげ顏を
背けて其場に
彳み持たる
脇差取直し
再度斯よと
飛蒐るをヱヽと驚く十兵衞がヤアお前は兄の長庵殿何故あつて此の
私を
切殺すとはサヽ
扨ては娘を賣つた此の金が
初手から
欲さに
深切を
表に
飾つて我を欺むき八ツを七ツの鐘なりと進めて出立させて置殺して取とはなにごとぞ
恨めしや長庵どのとひよろ/\立を
蹴轉ばし
愚※々々[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、182-6]云はずと
默つて
亡ばれこの世の
暇を
取せて
遣んと又切付れば七
轉八倒空を
掴んで十兵衞が其の儘息は
絶にけり長庵刀の血を
拭ひて
鞘に納め
懷中の
胴卷を取だし四十二兩は
福の
神弟の身には
死神と
己れが
胴にしつかり
括り雨も
止ぬに
傘をと一
思案して其場へ
捨置是が後日の
狂言だ
斯して置ば大丈夫と彼藤崎道十郎が
忘れて行し傘を
死骸の
脇へ
投捨て
跡白浪と我が家なる麹町へぞ急ぎける爰に武州なる品川宿といふは山を
後ろにし海を前にして遠く
房總の山々を
望み南は
羽田の
岬海上に
突出し北は
芝浦より淺草の
堂塔迄遙かに見渡し凡そ
妓樓の
在地にして此
絶景を
占しは江戸四宿の内只此品川のみ然れば
遊客も
隨つて多く彼の吉原にもをさ/\
劣らず
殊更此地は海に
臨みて
曉きの
他所よりも早けれど
客人は
後朝[#ルビの「きぬ/″\」は底本では「きね/\」]をかこち
昨夜も
四日市邊なる三人の若い者
此處の
妓樓某に
遊興て夜を
深し
宿るに間もなく夜は
白みたりと若い者に起され
今朝しもぶつ/\と
呟きながら
妓樓を立出
道すがら
昨夜の相方は
斯々なりなどと
雜談を云つゝ一本の
傘に三人が
小雨を
凌ぎながら品川を後にして
高輪より
札の
辻の方へ
差掛りける處に夜の引明なれば未だ
往來は
人影もなく向ふを見るに三ツ
股の
辻の
此方に人の
寢て居る樣子ゆゑ何心なく通りけるに
這は其も如何に一人の
旅客の
朱に
染切倒されて居たりしかば三人共に大いに驚きながらも一人は死人の向ふを通り
拔後をも見ずに
迯行しが殘りし二人は顏見合せ
怖い者見たしの
譬の如く
何樣な人やら
能見んと思へば何分
恐しく小一町
手前に
彳みしが
連の男は聲を
懸寧その事田町
通りを歸らんと言ば一人の男申樣何にもせよ
此趣を
自身番へ知らせて
遣ば
早々人や出來らん其時一
緒に見ながら通らん是は如何にと
言ければ如何にも夫は
面白しと二人は
直に
番屋に至り大聲揚て告けるは御町内に人殺あり早く
往て見らるべしとの知らせに自身番の
宿直の人は大いに驚き
定番の者を四方へ走らせて
斯と告るに町内の
行事其外
家主中名主書役に至る迄
忽ちに
寄集ひしかば知らせし兩人も一
緒に行て死骸を
怕々ながら後より
覗き見て
各々方は
御苦勞成と云つゝ兩人は通り過んとする處を町役人等
押止めて御二人とも御知らせ下されたる上からは御
掛り合は
遁れぬなり先々
御檢使の御出まで御待候へと
有ければ兩人は大きに打驚き何も私し共が
爲たる事には候はず全く通り
掛りて見付しゆゑ御知せ申せし迄なり其者が掛り合とは甚だ
迷惑と云をも
更に聞き入ず否々
和主達が殺したりと云には非ず御知らせ有しは少しの
災難手續きなれば
止を得ず夫とも
達て止まるを
否とならば
繩を打ても
差止置ねば町法が立ざるなりと
烈しき言葉に
彌々恐れ
昨夜は昨夜女郎にふられ今朝は今朝とて此災難斯まで
運の
惡くなる者か夫に付ても
吉の
野郎は昨夜も一人
持囃され今朝も先へ拔て歸り
仕合者よと
呟き
[#「呟き」は底本では「咳き」]/\自身番屋へ上り
込檢使の
出張を
待うちも若や如何なるお
調べに成もやせんかと兩人共
安き心は無りけり
去程に
札の
辻の自身番より月番の町奉行中山出雲守殿へ右の次第を
訴へに及びければ檢使の役人兩人
非番の町奉行より一人
出張に相成立合の上死骸を
篤と改められし處歳の頃四十三四百
姓體の男にて身の内に
疵三ヶ處
頭上より
頬へ掛て切付し
疵一ヶ所
脊より
腹へ
突通せし疵二ヶ所其
脇に
傘さ一
本捨これ有其
傘に
澤瀉に岩と云字の印し付是あり懷中には
鼻紙入に
藥包み一ツ
外に手紙一通あり其
上書は「三州藤川在岩井村十兵衞殿返事江戸麹町三丁目村井長庵」右の通りの
上書にて中の
文言は「去二日出の書状
到着委細拜見致し候扨々其方にても屡々
不如意との趣き
蔭乍ら
案事申候右に付御申
越の娘
出府致されべく候吉原町にも
病家も有
レ之候間宜しき處を見立奉公に
差遣はし可申候
何れ出府の上相談可申候委細は筆紙に
盡し難し
早々以上
八月九日 村井長庵 藤川在岩井村十兵衞殿」
右の
文體也ければ
直ちに麹町三丁目町醫師村井長庵
呼出しの
差紙を札の辻の町役人へ渡されければ
非番の家主
即時に麹町の名主の玄關へ持參なし
順序を經て長庵の家主の手に渡すに何事やらんと驚きつゝ家主は長庵方へ到りける
斯あらんと
豫て覺悟の長庵は
鉢卷して
藥土瓶なぞ
取散し
大夜具を
冠りて
打臥たり家主は枕元に
居りて長庵殿
芝札の辻の自身番より急の御
差紙を以て村井長庵を
召連只今
直に
罷り
出よとの事なり
見請れば
鉢卷などして
如何成れしや
直に出行るゝやと尋ねけるに長庵は
重た
氣に枕を持上偖々昨夜より
大熱にて頭痛甚しく夜通し苦しみたり
誠に/\病氣の時の
悲しさは獨身者は藥
一服煎じて呉る人もなく實以て
困り候而て其札の辻よりの御差紙とは
何等の御用筋にやと
空嘯いて申けるにぞ家主は氣の毒さうに
扨々病中と云とんだ
難儀の事なり又聞の
咄しなれば
確とは分らねども何か札の辻にて昨夜人殺しが有りしとか云ふこと其の
切られたる者の
懷中に
貴殿の手紙が有りしよし
檢使の場へも呼出しに成るとの事といへば長庵は
然も驚きし樣子にて
床の上に起き上り其殺されし人は如何なる
出立の人に候やと
聞に家主は
然ばなり四十三四の年頃にて百姓體の男の由と
咄せば長庵は
顏色變へ扨は弟十兵衞が金子を
持て早立せし故
萬一もの事でも有りしかと立たり居たりする體は
實心とこそ
見にけれ
稍有て申けるは病中にて難儀には候へども
捨置れねば
直に
押ても
罷り出んと
支度を
早々にして立出れば家主も夫は/\氣の毒千萬と心配しながら諸共に芝札の辻を
指て急ぎ
行に
頓て檢使の前へ
呼出され長庵に一通り尋ね
有て彼の十兵衞の死骸を見せられけるに長庵は一
目見より死骸に取付扨は十兵衞にて
[#「十兵衞にて」は底本では「十兵衞はて」]有けるか
斯る事の有るべきと
虫が知らせし物にや
頻りに
夜明て出立致させ
度我が止めしをも
聞入ず出立
成たる
夫故に斯る
憂目を見る事ぞ病氣でさへなき物ならば此邊迄も
見送り
遣んに
無念の事を仕てけりと
前後不覺に泣沈み
正體更に
有ざれば其有樣を見る人は如何にも其身が仕なしたる事とは更に知らざりけり此時檢使の役人は
彌々其方が弟に
相違無や
如何なる
譯有て
大雨の折から
深更に
發足致せしやと尋ね有りければ長庵袖に涙を
拭ひ私し弟十兵衞事は三州藤川在岩井村の百姓にて
豫々正直者に候へ共不事の物
入打續き年貢の
未進多分に出來上納方に
差支へ如何
共詮術なき儘文と申
姉娘を吉原江戸町二丁目なる丁字屋半藏方へ身賣致し其
身代金を所持致し
今朝未明に私し方を出立致し候を
存知居候者の
仕業かと恐れながら存じられ候と身を
震はして申立てけるに其時檢使は彼場所に傘捨有りし傘を
出され其方此傘に覺え有りやと見せらるれば長庵涙を
拂ひて
倩々と
打詠め暫く
有て小膝を
叩き是こそ私し同町に
住居致居候浪人藤崎道十郎と申者の
所持の
傘に有之此
傘にて思ひ當りし事あり同人義昨日も私し方へ參り
居候是は
當今同人事病氣にて
拙者より藥を
遣はし置候事故昨日も
例の藥取に參りしなり其節弟十兵衞
朝未明より出立致し候とて右の金子を取出し改めて
懷中へ入候事ども
羨まし
氣に見て歸り候間
若や彼の道十郎が
困窮に
迫りて如何の
了簡をも出しは致す
間敷候やと
然も
誠しやかに申立ければ役人
中も長庵が申
立を
實にもと思はれ其道十郎を取
迯さぬ樣
手當せよとて手先
并に町役人へ
内達にぞ及ばれける
扨も檢使には
掛り合の者一同
召連て北の番所へ(
幕府の頃は町奉行兩人有て
南北と二ヶ所に
役宅あり)
歸りしかば中山出雲守殿へ檢使の次第を
言上且夫々の口書を
差出しけるに出雲守殿も長庵が
佞辯を
是として
彌々道十郎の仕業なりと疑がひ掛り
直に麹町へ
召捕方を
差向られ十兵衞事死骸は兄長庵へ御引渡しに相成ければ長庵は
仕濟したりと内心に悦び
直に十兵衞の死骸を
引取ける爰に彼の浪人藤崎道十郎といへるは
故有て主家を
退身爲し
流浪の身と成りしが二君に仕へるは
武士の
廉恥所成れ共座して
喰へば山も
空し何れへか
仕官に
就んと思ひしに不幸にも永の
煩ひに夫も成らず
困苦に困苦を
重ねしも女房お光が
忠實敷賃裁縫やら
洗濯等なし
細くも
朝夕の
烟を
立啻夫の病氣
全快成さしめ給へと神佛へ
祈念を
掛貧しき中にも
幼少なる道之助の
養育を
樂み居たりしに
或日表裏の
門口より
上意々々との
聲聞ゆるにぞ何事やらんと道十郎は
枕を
揚る
折こそあれ
召捕の役人どや/\と
押込御用なり
尋常に
繩に掛れと
勢猛て
罵るにぞ道十郎は驚きて
居り
直し拙者に於ては御召捕に相成べき
謂れ無し其は
人違ひにては候はずやと
言せも果ず役人共
言譯有ば
白洲にて申べしと
病痿けたる道十郎を高手小手に
警めて
妻子の
泣をも
構はゞこそ四方を
嚴く
取圍み北の番所へ引出しが頓て中山出雲守殿の御白洲へ
情なくも引出しけり
然ば出雲守殿一通り
調べに
[#「調べに」は底本では「謂べに」]掛られしに道十郎は思ひも
寄ぬ事成れば大いに
驚怖何者が
訴人せしや
知ざれども
右樣の
儀決して覺え
是無候と申に出雲守然らば
此傘は其方覺え無きやとの尋ねなれば道十郎是は私しの所持の
傘に御座候と云ふに出雲守殿
然ば
如何してか此傘が右
人殺しの場所に
捨有しなり其方惡事を
働き其場所に取落し置たるに
相違有まじ尋常に白状せよ
特に長庵が申立に其方事前日長庵方へ
藥取に參り合せ十兵衞が娘を吉原町へ
賣其金を持て歸りし時の
容子を
認め其方
惡意を
發せしもの成らんと云へり然もあるべし如何樣に申
陳ずる共
既に證據と成るべき
傘あれば申
譯立難しと申さるゝに道十郎は如何にも
迷惑し
這は驚き入たる仰せかな長庵事何と申上候か存申さず候得ども私し事は
先月中より
永々の病氣にて
臥居中々長庵方などへ參り候事是無く勿論先月中一兩度も近所の事故藥取に參り候が其時の事にて有りしが
雨晴候故
不思傘を長庵の玄關
先に
失念致して歸り候により其後兩三度も取りに
遣はし候得ども之無き
趣きにて返して
呉ざる故其儘に致し置候ひしが其節の傘に
相違無御座候然るに長庵
右樣の儀を申立る事何分にも其意を得ざるまゝ
何卒長庵と
對決の御調べ
偏へに願ひ奉つり候と申
上ければ然らば此傘は其方長庵方に
忘れ
置しと申か長庵は其方が十兵衞の金子を持て歸る事を
存じ
居旁々怪しき段申立る何れ長庵と
突合せ
猶吟味を
遂べし併しながら其方所持の
傘其場所に
捨在し上は其方こそ疑ひ
無に非ず依て吟味中
入牢申付るなりと終に道十郎は入牢の身とこそは成にけれ翌日村井長庵呼出しにて
段々取調べ有りしに長庵は前に申上し通り傘を私しの宅へ
忘れ置き候などとは道十郎が
僞言決して右樣の事是なく候右は長庵に
罪を
塗付べしとの
巧みにて申上候事やと存じ奉つり候と
態と
驚怖たる
容子に申立
双方の
眞僞判然ざるより道十郎と
突合せ吟味に相成し處
佞奸邪智の長庵が
辯舌に
云昏められ道十郎も
種々言開くと雖も申口相分らず長庵は只町役人へ預けにて
下り道十郎は病中の處猶又
歸牢に相成
心氣疲れ心程言葉の
廻らざるより
自然と
對決も屆かず吟味詰にも相成ずして居たりし
中寶永七年九月廿七日
憐むべし道十郎
牢内にて死去に及びけるは
不運と云ふも餘りあり妻お光は此由を聞て
狂氣の如く
悲みしかども又
詮方も非ざれば無念ながらも
甲斐なき日をぞ送りける其長庵は心の内の悦び大方ならず
猶種々と辯舌を以て申立て終に死人に
口無の
喩への通り彼札の辻の人殺しは道十郎に事
極まり殘骸は取捨に相成
家財は妻子に下し置れ
店請人なる赤坂の六右衞門方へ妻子の者は
泣々引取れ長庵は何の御
咎めもなく
落着せしかば
爰に於て三州藤川在岩井村へは此由を長庵より知らせやりしに十兵衞の妻お
安妹娘お富は
地摺足摺して
歎けども
詮方なく終に兩人ながら出府して長庵方へ引取れけり其内に長庵は又一ツの
惡計を考へ出し妹娘のお富も幸ひ十二
相揃ひし
容貌なれば
欺して是をも金にせんと己れが惡事仲間の
早乘の三次と云ふ者を
語合又近所の
後家にて
惡婆のお定と云ふ女をも手なづけ置き
頓て
[#「頓て」は底本では「頓が」]母の御安にはお富を
能屋敷方へ御奉公に差上るなりと
云勸め
彼惡婆のお定を三次が出入の御屋敷の老女と爲し御
取替金などと僞りて
僅かの金子をお安に與へ妹娘のお富を
連出しけるがお富には姉と共に奉公せよと
種々に
云慰め
欺し
賺して終に吉原江戸町二丁目なる丁字屋半藏方へ身の
代金三十兩にて
賣代なし右の金子の内を三次へ五兩お定へ一兩
遣し殘りの金廿四兩を
悉皆く己れが
榮耀に遣ひけりお安は
旨々と長庵に欺かされ妹のお富迄も
浮川竹の
流れの身と成りし事を
毫知ざれども其後更に二人の娘より一度の
便りも無ければ
案事煩ひ或日長庵に向ひて申樣何卒姉娘のお文にも一度
逢して下されと頼みければ
流石の長庵も
當惑爲し
挨拶に
困じ
果口から
出放題の事を
言て慰めける内又々妹お富が參りたる御
邸は何と申ところにやお富にも何卒
逢して下されと朝夕となく
頻りにお安に
責らるれば長庵は
愈々困じ
果妹お富が行きし所は
堅い
御邸成ば
然輕々敷は
逢難し其内都合を見て
逢せんと一日
遁れの挨拶も
煎じ
詰つて長庵が
匙加減にさへ廻り兼姉のお文に逢せなば必ずお富が居る事故出て來るは
必定外の内へ賣れば
能りしに
近來になき
失策を致したりと
後悔すれども詮方なく今はお安も
側を
放れず二人の娘に逢して
呉と
髮もおどろに
振亂し狂氣の如き
形容に長庵
殆どあぐみ
果捨置時は此女から
古疵が
發らんも知れぬなり
毒喰ば皿とやら可愛さうだがお安めも殺して
仕舞ふ
外は無いが如何なる手段で殺して
呉ん内で殺さば
始末が惡し何でも娘兩人に逢して
遣と
誘引出し人里遠き所にて
拂放すより思案は無し夫にしても自分でするは
些小面倒の仕事なり
彼奴を頼んで片付んと
獨思案の其折から入來る兩人は
別人ならず日頃
入魂の後家のお定に彼の
早乘の三次成れば長庵
忽地笑を
含み何にも
無が一ツ飮ふと
戸棚より取出す
世帶の貧乏徳利
干上る財布のしま干物
獻つ
押へつ三人が
遠慮もなしに
呑掛たりお安は娘に逢度さを引しぼる程
苦勞が
彌増今迄兄の長庵へ娘二人に
逢してと
逼りて居たる
折柄成ば此酒盛に
立交りて居るも物
憂思ふ物から其場を外して二階に上れば折こそ
宜と長庵は二人が耳に口を寄せ何か
祕々囁きければ二人はハツと驚きしが三次は
暫し小首を
傾け
茶碗の酒をぐつと
呑干先生皆迄
宣ふな我々が身に
係る事委細承知と早乘が答へに長庵力を得て惡婆のお定と
鼎に
成其巧みにぞ及びけり
三人
寄ど
文珠さへ授けぬ
奸智の
智慧袋はたいた
底の
破れかぶれ
爲術盡し
荒仕事娘に
逢すと悦ばせて
誘引出すは斯々と忽ち
極る惡計に
獻つ
酬れつ飮みながらとは云ふものゝ
此の
幕は餘り
感心せぬ事成れば
姉御と己と
鬮にせんと
紙縷捻つて差出せばお定は引て
莞爾笑ひ
矢張兄貴が當り鬮と云はれて三次は
天窓[#ルビの「あたま」は底本では「あまた」]を
掻然ば三次が
引請んと其夜は戻りて二三日
過眞面目に成て尋ね來れば長庵はお安を
打招きお富を奉公に世話を下されしは此お人なればお頼み申てお富に
逢て來るが
能と聞てお安は今が今迄
兎や
角と
案じ暮して居た事ゆゑ忽ち
笑を
含みつゝ三次の
側へさし寄て今より何卒御一所にお
連成れて下されと云へば三次は
默禮し
然程迄にも
逢度ば今夜
直にも同道せんと聞てお安は
飛立思ひそれは/\有難し先樣でさへ
夜分にても
能事成ば私しは
一刻も
疾く
逢度と悦ぶ
風情に長庵は仕濟したりと心の
目算頓て三次に打向ひ御
苦勞ながら
世話序に
今晩逢せて下されと云へば三次は
苦笑ひ如何にも承知と
挨拶するうち殺さるゝとは
夢にも知らずお安は急ぎ
帶引締サアと
促す
詞と共に三次は
態と親切らしくお安を連て立ち出しは既に
時刻を計りし事故
黄昏近き折なれば僅かの内に日は
暮切宵闇なれば辻番にて三次は用意の
提灯へ
灯りを
點て先へ立コレお安殿何も案じる事は
無お富さんも御屋敷へ行てから
度々母樣へお
案事成らぬ樣宜しく云て下されとお
言傳も有りました特には先の御屋敷でも御意に
適つて
益々全盛と云はんとせしが口を
押へ少し
辛抱して居らるゝと
屹度出世も出來まする其御邸と申のは至つて
風儀も
能との事
傍輩衆も大勢有て御
奇麗好の方々ゆゑ毎日朝から
化粧が御奉公安心なる物なりと口から
出次第喋舌立るを誠と思ふ
田舍堅氣お安は
唯莞爾々々と打悦びお前樣には色々と御世話に相成娘も
嘸や悦んでがな居ませう又今晩は
夜道をもお
厭ひ無くて
態々と娘の
勤め先までも御連れ下さる御心切御
禮の申上樣も御座らぬ迄に有難う存じますると云ふを
聞三次はかぶりを
振りながら何の御禮に及びませうぞ
夫其處は
水溜り此處には石が
轉げ有りと
飽迄お安に安心させ
何處へ
連行殺さんかと心の内に目算しつゝ麹町をも
疾過て初夜の
鐘をも
算へつゝ
巧みも深き御
堀端此處ぞと
猶豫一番町たやすく人は殺せぬ物と
田安御門も
何時か過ぎ心も
暗き
牛ヶ
淵を右に
望みて
星明り九段坂をも下り來て飯田町なる
堀留より過るも早き
[#「早き」は底本では「早さ」]小川町水道橋を渡り
越水戸樣前を左りになし
壹岐殿坂を打上り本郷通りを横に見て
行ども先の
目的なき
目盲長屋をたどり
過人の心に
尖ぞ有る
殼枳寺や
切道し切るゝ身とは知らずとも
頓て命は仲町と三次は
四邊見廻すに
忍ばずと云ふ名は有りと
池の
端こそ
窟竟の所と思へどまだ夜も
淺ければ人の
往來も
絶ざる故山下通り打過て
漸々思ひ金杉と心の
坂本通り
越大恩寺前へ曲り込ば此處は名に
負中田圃右も左りも
畔道にて
人跡さへも
途絶たる向ふは
曲輪の
裏二
階眼隱し板の
透間より
仄かに見ゆる
家毎の
燈しお安は
不審三次に向ひ爰は何と申所にやまた
那賑かのは何所なりと
訪れて三次は
振返り
那か
那がお江戸の吉原さお文さんは
那内に居られるのだ
而お富さんの居るお屋敷もたんとは
離れて居らぬ故二人に今夜は
逢せて
進んと
言れてお安は
草臥も
頓に
忘れて
莞爾々々と今殺さるゝ其人を力と頼みて夜道をも子故の
闇にたどりつゝ三次が後に
引添歸らぬ旅路へ赴むくと虫が知らすか
畔傳ひつたはる因果の
[#「因果の」は底本では「困果の」]耳元近く淺草寺の鐘の音も
無常を告る
後夜の聲かねて覺悟の早乘三次
長脇差を
小脇に
隱しぶら提燈をお安に渡し是から道も
廣ければ先へ立てと入替り最お屋敷も
終其處だと二足三足
遣り
過す折柄聞ゆる
曲輪の
絲竹彼の芳兵衞の長吉殺し
野中の井戸にあらねども此處は名に
負ふ
反圃中三次は
裾を引からげ
堪忍しろと
後から
浴せ掛たる
氷の
刄肩先[#ルビの「かたさき」は底本では「かたやき」]深く切込れアツとたまきる聲の下ヤア情けなや三次どの何で
妾を殺すぞや妾は何の
咎有て娘に
逢すと連出し
此樣な
淋しい所へ來て
欺し殺しは何故ぞアヽ
恨めしや三次殿
四邊に人はなき事か
何卒[#ルビの「どうぞ」は底本では「ぞうぞ」]助けて下されと
切れし
肩を兩手で
押へ
迯んとするを
引捕へ三次は
其邊見廻しつゝ
己は元より
怨みもなけりや殺す心はなけれ共頼まれたのが
互ひの不運
斯なる上は
觀念爲ろと又も一太刀
切倒され立んとしても
最う
立れずばツたり其處へ打倒れ流るゝ
血汐を押へしまゝ七轉八倒のた打廻るに流石の三次も
心弱りヱヽ氣の毒な不便だが殺さにや成らぬ事が有る是と云ふのもお前の因果長庵と云ふ惡者を兄に持たが
不仕合せ必ず
私を恨まれな
無慈悲なことと思へども頼まれてする
荒手業呉々私が爲るではなし長庵殿の
計ひなりと云にお安は
聲震はし扨は兄さん長庵殿がお前を頼んで殺すのか聞えぬぞへ長庵殿私を殺す
譯あらば娘に
逢した上なれば十兵衞殿への
土産も有るにお前もお前頼まるゝ事にも
差別の
有ものを罪も
恨みも
無私を殺す心の
其方さんも
情け
無ぞや恨めしやと
勃然と立てば三次は驚きヤア/\
姉御此私を決して恨んでたもるまい此場に
臨んで
左右と
言譯するも
大人氣なし永き苦しみさせるのも
[#「苦しみさせるのも」は底本では「苦しみせさるのも」]猶々不便が
彌増ばと
再度大刀振上ていざ/\覺悟と切付る
刄の下に
鰭伏て兩手を合せ
幾度か助てたべと歎くにぞ三次も
心後れてか
鬼の
眼にさへ涙とやら不便の者やと思ひしゆゑ彼の長庵が惡事の
段々苦痛なしゐるお安に聞せ夫故お前を殺す
時機因果づくだが
斷念めて
成佛しやれお安殿と又切付れば手を合せ
何でも私を殺すのか二人の娘に
逢までは
死とも
無ぞや/\と刄に
縋るを
引機會に兩手の
指は
破羅々々と落て流るゝ
血雫に
畔の千草の
韓紅折から見ゆる人影に刄を
逆手に取直し胸の
邊りへ押當て
柄も
徹れと
刺貫き止めの一刀引拔ば爰に命は
消果ぬ
實に世に不運の者も有者哉夫十兵衞は兄長庵の爲に命を落し娘兩人は苦界へ
沈み夫のみ成らで其身まで此世の
縁し淺草なる此
中田圃の露と共に
消て行身の
哀れさは
譬ふるものぞなかりける
斯て早乘三次はお安の死骸を田圃の
溝へ投込み其儘にして道を急ぎ麹町へ歸り來て長庵の
門をほと/\
叩けば待まうけたる長庵は忽ち立て戸を引明
上首尾成と聞て悦び酒の用意もして有りと
廣蓋代りの
夜食膳へ何やら肴を并べたて大きに骨が折れたで有らう
最早是にてお互ひに心に掛る雲も
無と
飮戲るゝ有樣は大膽不敵の
振舞なり
人盛成時は天に勝の道理にて
暫時の内は長庵も安樂に世を送りけるが彼の十兵衞の娘お富お文は
揃ひも揃ひし
容貌にて殊に姉のお文は
小町西施も
恥らうばかりの
嬋妍もの
加之田舍育ちには
似氣もなく
絲竹の道は更なり
讀書も
拙からず
最愛しき性質成れば
傍輩女郎も
勞はりて何から何まで
深切を盡くして呉ける故
僅の
間に
曲輪の風も何時か
見習ひ
樓主の悦び大方成らず依て丁字屋の
板頭名前丁山とこそ名付たれ
抑突出しの初めより通ひ
廓の
遊客は云ふも更なり仲の町の茶屋々々迄も
譽ものとせし位なれば日成らずして其の頃
屈指の全盛と成りし事
全く
孝行の
徳にして神佛も
其赤心を
守護給ふ物成らんと又妹お富も長庵に
欺かれて此丁字屋へ
賣れ來しかば
姉妹手と手を
取換し如何成れば姉妹二人斯る苦界に沈みしぞ
父樣には私の身の
代金の爲に人手に掛り果て給ひ母樣には麹町にお
在るとの事成れどなどか
逢には來給はぬぞ手紙を
上ても
片便り若しや
生別れにも成らんかと夫のみ心に
懸れりと袖に涙の
玉霰案事暮すぞ
道理なり偖妹のお富は名を
小夜衣と改めしか是も
突出し其日より評判
最とも
宜りければ日夜の客
絶間なく
全盛一方ならざりけり茲に神田三河町に
質兩替渡世をする伊勢屋五兵衞とて
有徳なる者の養子に千太郎と云ふ若者あり
實家は富澤町の
古着渡世甲州屋吉兵衞と云ふ者なりしか此千太郎或時
仲間の
參會崩れより
大一座にて晝遊びに此丁字屋へ
登樓お富の小夜衣を
偶娼にせしが
惚合にて二度が三度と深くなり互ひに思ひ思はれて
割なき中とは成りにけり偖此伊勢屋五兵衞と云ふは
例なき
吝嗇者にて
不斷の
口癖にて我程
仕合者は有るまじ世の中に子を持程の
損はなし夫故我は妻をも持ず
世繼には人が
骨を
折て
養育した子を
貰へば
持參金も何程か
附なり
縱令放蕩を仕たればとて無した金は持參金より
引去離縁さへすれば
跡腹を
病ずに濟ぞかし我も
追々取年にて近頃大きに弱りし故養子を一人
貰ひ
度望みと云ふは他ならず何事も
拔目なく實家の立派なる持參金の
澤山有養子なりなどと云ひ又奉公人が
風邪でも引て
寢ると人と
入物は有次第なり米が
入なくて
能などと
戲談にも云ふ程の
吝嗇成れば養子の
周旋をする者も
無れど誰しも欲の世の中なれば身上の太きに
愛て
言込者も又多かり然共持參金の不足より
毎も相談
整のはず爰に出入の者の内に
古着渡世の者有りしが彼が
周旋にて富澤町に甲州屋吉兵衞と云ふ古着渡世の者の
次男に千太郎と呼て當年二十歳に
成器量と云ひ
算筆と云ひ殊に古着渡世なれば質屋にも
因み有て申分
無若者成れば御當家の御
養子にせられては如何にやと
相談有りけるに五兵衞は彼の持參金の
無より
縁談を
斷りければ當家に
幼年の頃より奉公して番頭と迄
出世をなし忠義
無類世間にて伊勢屋の
白鼠と云ひ
囃し誰知らぬ者も無き評判の久八は日頃より主人の
吝嗇なるを心に悲しみ居けるが御
儉約成るゝは
結構の事なれ共御相續の御養子は御家を御
繼せ成さる大事の御方なり其大切なる御養子持參金を御望み有るは大きな御
了簡違ひと申ものなりと思ひ切て忠義一
途の心より主人五兵衞を
種々樣々と申
諫め當家御相續の御養子に候へば持參金の儀は御止りありて
只其人をこそ御
撰みあるが然るべしと道理を
盡して
諫言に及びければ
流石強慾の五兵衞も初めて
道理と思ひ終に持參金の
念を
斷たる樣子なれば久八は此
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、192-18]を
外さず話しなば必ず
縁談整のはんと彼の富澤町なる甲州屋吉兵衞の次男千太郎の
身持を
篤と
探りしに
何所で
訪ても
能若者なりと
賛成ざる者の無かりしかば其趣きを
取敢ず五兵衞に話しけるに忽ち
縁談整のひたれば久八の
悦喜一方成ず
然共物入を
厭ひの
聟入の
祝言も
表向にせず
客分に
貰ひ
請たるが
素より吝嗇の五兵衞なれば養父子の
情愛至て
薄く髮も丁稚小僧同樣に一ヶ月六十四文にて
留置湯も
洗湯へは容易に出さず内へ一日
置て立る程なれば一事が萬事にても
辛抱が出來兼る故千太郎は如何はせんと思案の體を久八は
疾に
察し何事も
心切を盡し内々にて
小遣錢迄も與へ
陰になり
日向になり心配して
呉けるゆゑ久八が
忠々敷心に
愛て千太郎は奉公に來し心にて
辛抱をして居たりけり然るに
正徳三年
癸巳の三月四日例年の事とて
兩替并びに
質古着渡世の仲間の
參會有皆々兩國の萬八樓へ集まりけるが伊勢屋五兵衞も
仲間内とて
月行事より其の趣きの
回状のありし
折節五兵衞は店に手の
拔られぬ帳合有りとて
悴千太郎を
呼我等が名代に萬八へ行き仲間の者にも
知己に成るべしと云ふに千太郎は
畏まり候と
頓て支度に掛りしに持參の衣類は
商人には立派過ると養父の
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、193-9]に
毎もの
松坂縞の布子に
御納戸木綿の
羽織何所から見ても大家の養子とは受取兼る樣子なり其時養父五兵衞は千太郎に云ひける樣今日の
馳走は總て
割合勘定なれば
遠慮には及ばぬなり殘して歸るは
損故是へ包んで
持歸れと古びたる
油紙と
重箱を
風呂敷に包んで渡し今日は別段の事なれば金の入事の有るも知れねば用意に持參せよと
澁々金一分を千太郎に渡し參會が
濟次第人には
構はず先へ歸つて來れよと
宛然丁稚小僧を
宿入に出すが如き
仕成にて名代に
遣はしけるに彼の仲間の若者は萬八の
崩れより
向島の花見と云ひなしその
實花街の櫻の景氣を見んと言ひ立ち伊勢五の養子をも
連れ行かんと
誘引ければ千太郎は
恭しく兩手をつき
據ころなき用事も
有ば勝手が間敷は候得共今日は
御免有れと云ひければ大勢は
酒機嫌にて聞入ず殊に五兵衞の
吝嗇を
平生憎みける故
態と千太郎を歸さず是非お
附合なされよと無理に
引留まだ日も高ければ
夕刻迄には
寛々としても歸らるゝなり決して
御迷惑は掛ませぬと
厭がる千太郎の
手引袖引萬八の
棧橋に
繋合たる家根船へ
漸々にして
乘込せり是ぞ千太郎と久八が
大難の
基ゐとこそは成りにけれ
然ば彼伊勢屋千太郎は養子の身なれば仲間一同へ
程能申
譯を爲し
逃歸らんとなせども養父五兵衞が平生仲間
交際を
更になさず
類ひ無き
吝嗇者なれば養子千太郎を
連行て伊勢五の
親爺に氣を
揉せ呉んと一同にて
仕組しことゆゑ千太郎の云ふ事を少しも
聞入ず御養父が
若分らぬ
叱言を言れなば仲間一同にて
引受貴樣に
御迷惑は
懸まじ一年に
唯一度の參會故夫を
外し給ふとは
卑怯なりと手引袖引萬八樓の
棧橋より家根船に
乘込せしが折節
揚汐といひ南風なれば忽ち吾妻橋をも打越え
眞乳沈んで
梢乘込と
彼端唄に
謠れたる山谷堀より一同船を上り十間の
白扇子に
麗らかなる春の日を
翳し
片身替りの
夕時雨に
濡にし昔の
相傘を思ひ出せし者も有るべし土手八町もうち越して五十
間より大門口に來て見れば折しも
仲の町の
櫻今を
盛りと
咲亂れ晝と雖も
花明りまばゆきまでの
別世界兩側の引手茶屋も
水道尻まで
花染の
暖簾提灯軒を揃へて
掛列ね萬客の出入袖を
摺合茶屋々々の二階には糸竹の調べ
皷太皷の
音絶る事なく
幇間の
對羽織に
色増君の全盛を
顯はし其
繁榮目を驚せし
浮生は夢の如く
白駒の
隙あるを忘る
實に
蓬莱の
仙境も斯る
賑ひはよも非じと云ふべき
景況なれば萬八樓より
翦たる一同は
大門内山口巴と云引手茶屋へ
躍り
込ば是は皆々樣御
揃ひで能うこそお
出在れしぞ先々二階へ
入つしやいと家内の者共
喋々しき世事の中にも
親切らしく
其所よ
其所よと
妓樓を
算へ丁字屋ならば
娼妓も
澤山有故宜らんと山口巴の案内にて江戸町二丁目丁字屋方へ一同どや/\
登樓り千太郎には
頃日出たばかりなる小夜衣が
丁度似合の相方と
見立てられしが互ひの
縁し如何につき合なればとてまだ日も
暮ぬきぬ/\に心殘せど一座の手前其の日はどつと
陽氣に騷ぎ
手輕く
遊で立出つゝ別れ/\に歸りけり偖も小夜衣は
今日※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、194-15]らずも千太郎の相方に出しより何となく其人の
慕はるゝまゝ如何にもして彼の
客人を今一度なりとも呼度思ひ其夜は外の
客へも
染々勤めざる程なれば其心の
此方にも
通じけん千太郎も小夜衣の事を
憎からず思ひ
其の
移り
香の
忘れ難しと雖も養父の手前一日二日は耐へしが
何分物事手に付ず
實家へ參ると
僞りて我が家を立出小夜衣が
許へ
到りしに夫と見るより小夜衣は
飛で
出直樣我が
部屋へ
伴ひ何くれとなく
勤めを
離れし
待遇に互ひの心を打明つゝ
變るまいぞや變らじと
末の約束までなせしかば千太郎は
養家を大事と思ふ心も何時しか忘れて小夜衣の顏を見ぬ夜は千
秋の
懷ひにて
種々樣々と
[#「樣々と」は底本では「種々と」]事にかこつけ晝夜の
別ちも
無通ひける實に若き者の
溺れ安きは此道にして如何なる
才子も忽ち身を
亡ぼし
家産を破る
殊に世間見ずの千太郎と又相手は遊女とは云へまだ
生娘も同樣なる小夜衣のことなれば
後先の
考へも無く千太郎を招き
田舍に
在ては見る事も成らぬ
斯る御人と
連理の
契りを
結ぶ嬉しさは身を捨てこそ有なれと思ふも
果敢なき
小女氣なり彼の一
生の
苦勞は他人に
寄一
雙の玉手千人
枕し一
點の
唇萬客に
嘗らるゝと云ふ
愁い
勤めの其中の心の底を打明て語るお方は唯一人と小夜衣が
誠を
盡せば千太郎は
彌々夢中になり
契情遊女に
咎はなく通ふ客人に
咎有りとは我が事なり
願は
明鏡となつて君が
俤げを
分し願は
輕羅と成て君が
細腰に
[#「細腰に」は底本では「結腰に」]まつはりたしなどと
凝塊り養父五兵衞が病氣にて見世へ
出ぬを幸ひに若い者等を
欺しては
日毎夜毎に通ひ
詰邂逅宅に
寢夜には外を商ふ
物賣の聲も
花街の
夜商人丁稚の
寢言も
禿と聞え犬の
遠吼按摩針の聲迄も
都て
廓中の事を思ひ出す程にして何も
斯して居られぬと又飛出しては夜泊り日泊り家には尻の据らねば終に
病中ながら養父五兵衞の耳に
入り
直に離縁と
憤ほるを番頭久八は大いに驚き主人五兵衞へ
段々に
詫言に及び千太郎には厚く
異見を加へ
彼方此方と
執成しければ五兵衞も
漸々怒りを治め此後を
急度愼むならばと一ト
先勘辨にぞ及びける
仍て久八より
猶又千太郎に堅く異見をなし
呉々も
愼み給へとて
蔭に
成日向になり忠義を
盡しければ千太郎も
太だ後悔に及び
暫く吉原通ひを
止りしと雖も小夜衣の事を思ひ
切しに非ず
只々便りをせざるのみにて我此家の相續をなさば是非とも
渠を
早々身請なし
手活の花と
詠めんものをと心に
誓ひて
表面は
[#「表面は」は底本では「裏面は」]辛抱したりし故久八は悦び
勇み
猶々心を用ひ
大切にぞ
勤務ける
時に
彼町醫師村井長庵は既に十兵衞を
殺害し奪ひ取たる五十兩又
妹お富をも
賣代爲して
掠め取たる金までも
悉皆く
遣ひ
捨今は早一文なしの
素の
形相と成りければ又候
奸智を
巡らし
段々聞ば丁山小夜衣の兩人共に
追々全盛に成て
朝夕に通ひ來る客も
絶間なく吉原にても今は一二と呼るゝとの
噂さを
聞此兩人の
許に立越て小遣ひ取つて呉んものと或日丁山小夜衣の
許に到り殺して仕舞た母のお安が病氣にて寢て居るゆゑと
白々敷も入用の
次第を
咄し如何にも
差迫りたる體に見せければ兩人とも
流石は
伯父のことゆゑ
兩親とも此
叔父に
殺害されしとは夢にも知らず特に母が病氣ときゝ
姉妹二人にて心一
杯出來る
程合力に及びければ
強慾非道の長庵は能き事に思ひ毎日々々の樣に無心に行ける程に
果は丁山小夜衣も
持餘して
斷りを云ひければ
折に
觸ては無理なる
難題をも
云掛などして
殆ど
困り入りしとかや又
有時長庵來りて
毎時の通り
種々無心を申しけれども丁山も餘り
度々のことなれば
然々は
工面も出來ず併し母樣が御病氣ならば主人へ願ひ兩人で
引取何の樣にも
看病致さん
何うぞ
然して給はれと
言れて長庵
驚愕せしがお安も
追々快方なれば近き内に連て來て兩人に
逢して遣りませう金が出來ずば夫でよしとはいひしかど又小夜衣に
向ひ少しにてもと言ければ小夜衣も同じ
返事をなしけるにいやさ
其方は
仕合せ者
能客が有ると
云噂は
疾より知て居る尾張屋の客は
何した此の頃は御出がないか
而半四郎
近江から御出の人はと口から
出任せに引手茶屋の名前を
並べ
立てる内にアノ山口巴から來る若旦那かへと小夜衣は
空然長庵の口に
乘られ
然ばなりその三河町の若旦那は
頓と
鼬の
道を切たとやら云ふ樣に
少共御出の有らぬのは何した事かと思ふ故御茶屋へ
度び/\
文を出し
待ども一度の
返事もなし
何處に
何うして居なさるやらとても
逢れぬ者ならば
寧そ死んだが
勝ならめと打しほれしが
顏ふり
上伯父樣
何ぞ三河町とやらへ
往て樣子を尋ねて下されと
頼めば長庵
小首を
傾け
直にも樣子を
探つて見樣が必ず
短氣な事などしまひ先の返事は
翌日する程に少し成りとも小遣ひをと
云れて小夜衣は千太郎が樣子を
聞度思ひしより金子
少し渡しければ長庵は夫より
直に三河町をさして立歸り
頓て近所の
湯屋の二階へ上りて夫となく樣子を
聞糺し夫より
近邊の
割烹店へ上り
竊かに千太郎を呼び出し初めて
面會に及び
段々の挨拶も終りければ彼小夜衣よりの
言傳を
落もなく物語りを
爲すにぞ千太郎は小夜衣の
伯父と云ふに心
寛み私し儀
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、197-4]した事より貴殿の
姪小夜衣に
馴染を
重ね夫婦の語らひ迄約せし上は貴殿とても一方ならぬ御中なりと
詞の
端に長庵が
曲輪の樣子
具さに
噺し又此程は絶て遠ざかられし故小夜衣は
明暮思ひ
煩ひて
歎息恨みし事などを口から
出任せ永々と物語り何卒御宅の御
首尾を
御繕ひ有て
能程に御尋ね
遣はされなば私し迄も忝けなしと云ひつゝ小夜衣より
預りたる文を差出しけるにぞ千太郎は
取手も
遲しと
押披き一
下り
讀では笑を
含み二下り讀では
莞爾々々と
彷彿嬉し
氣なる
面持の樣子を
篤と見留て長庵は心に
點頭つゝ
頓て返書を請取千太郎よりも
小遣ひとて金百
疋を
貰ひ請其儘我が家へ
戻り翌日返書は小夜衣へ
屆けしが此機に
就て何か一
仕事有さうな物と心の内に又もや奸智を
運らして
急度一ツの
謀略を思ひ付き一兩日過て又々彼三河町に
到り千太郎に
面會し扨若旦那折入て御相談が御座りますゆゑ
態々用を
差繰て參りしは外の事にても御座りませぬ
彼花街の小夜衣が事
木場の客人よりだら/\急に身受の
相談然る處小夜衣は
如何にもして若旦那の御側へ參り
度夫のみを樂しみに苦界を
勤め居たるに思はぬ人に思はれて
藪から
棒の身受の相
談其所で彼めも
途方に
暮此相談を止にして若旦那の方へ
遣て
呉と
泣付れ
愚老も不便と存ずれば
何がなして
遣り
度は思へども何を云ふにも金銀づく外へ
根引をさるゝ時はとても
生ては居られぬと小夜衣が一
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、197-14]の心
夫や是やを心配の餘りまた
御部屋住の若旦那へ御咄し申すも
如何とは存じたなれども
急場の事にて
十方に暮參りまして
何うにか
御工風は御座りますまいかと
誠しやかに
述るにぞ世間知らずの千太郎聞くより大いに
仰天し心の内は
狂氣のごとく
溜息つきつゝ居たりしが如何なしたら
能らんと
言ふ
尾に付て長庵は
然ばにて候外々よりの身受と有れば二百兩や三百兩の金にては
勿々六かしく候へ共親の病氣と申
遣はし
詐りて身請に及ぶ時は
僅か元の
賣金五十兩にて相談になり申すなり
何卒若旦那の御
工風にて其五十兩の金さへ御座れば拙者が萬端
取計らひ身受をなして
某しが宅へ
密そりさし置きなば何時貴君が御出でも
名代床の不都合なく御
泊り成るも御勝手次第
幾日居續し給ひても誰に
遠慮も内證も入らず
然なる時は小夜衣が
命の親とも存じます
何卒五十兩の御
工風をと聞て千太郎は
夢中になり小夜衣を
何時かは女房に
持んと思ひ居たる處なれば外の客に身受されんこといかにも口惜しく思ひける故長庵に打向ひ成程云はるゝ通り五十兩の金子は
私が
工風爲ましやうとは言ふものゝ五十兩の大金
如何して
拵へん
何うして
調達せん者と兎角
當惑しながらもまた小夜衣を受け出し長庵方に
差置て折々通ひ
樂しまば此上もなき安心成りと思ふも
若氣の
無分別迷ふ心の
置所露の命と氣も付かず
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、198-7]惡心や發しけん
竊かに
店の有金の内を
幾干か
掴み出し身受の金にせんものと
急度思案を定めつゝ
再度長庵に打向ひ云はるゝ通り
相違なくは如何にもして五十兩
調達せん宜しく御
頼み申しますと聞て長庵大いに悦び
聊か相違は仕つらず
然らば
何頃受取に參るべきやと申にぞ千太郎は
明後日來り給ひねと約束
固めて別れを
告其日は我が家へ立戻り
覺悟の如く用意なし
頓て約束の日になりしかば長庵の來るのを
待て彼五十兩を渡しけるに長庵は是を
懷中して
彌々明後日迄には小夜衣を身受なし
愚老が
宅へ
連歸れば四五日内に御
出有れとて金子を
預りしと云ふ一
札迄渡し
置き其儘別れて歸りける心の内に長庵は
仕濟したりと大いに悦び彼五十兩の其金は
己れが
榮耀酒肴遊女狂ひに
遣ひける然るに伊勢屋千太郎は
斯る事とは夢にも知らず心の中に今日は小夜衣が麹町へ來たか
翌は來るかと
指屈算へ日の
暮るのを樂しみに
漸々と四五日を送りしが
密に
支度を
調へて見世を
拔出し麹町三丁目へ到り
其所か
[#「其所か」は底本では「此所か」]此所かと尋ぬるうちに
門札に村井と
表名の有りければ
心嬉しく爰が長庵の
宅にて小夜衣は
嘸待詫つらんと
玄關形ちの
履脱へ立入て案内を乞ふに内にては
大聲あげどうれと云て立出る長庵を見るよりはやく千太郎是は/\
伯父樣此間は御出下され
段々の御世話忝けなし偖御約束の通り今日
參上致せしと云ふに長庵
最不審しげに
小首を
傾け是は/\
何方より御越にや何處の御方樣にて候ひしか御病人なるや又御
見舞に上りますのでござるかと思ひも寄らぬ挨拶に千太郎は長庵が
戲むれにやと思ひけれども
猶も
叮嚀によもやお見忘れは
成るまじ私しは伊勢屋五兵衞の
養子千太郎にて候なり段々と小夜衣がとこに付いてはお
骨折何とも有難く
存じ奉つる夫れ付き今日は參上致し候小夜衣も參り居候や御
逢せ下されたしと云ひければ長庵
彌々驚怖たる
面色にて不思議の仰せを承まはり候者
哉小夜衣とは何のことにて候や夫は
全たく
門違ひにて有るべし然樣のことは夢にも覺え候はず何か御心得
違ひ成るべし
拙者は町醫村井長庵と申す者にて候と聞より然れば
戲むれにてもなきかと千太郎は大いに
驚怖先日私し
近邊の料理茶屋の二階にて御目に懸り
眼前に貴殿へお渡し申したる五十兩の金子を以て
貴殿の
姪小夜衣を身請して御當家へ
置とのお約束ゆゑ
[#「お約束ゆゑ」は底本では「おゆゑ約束」]金子をばお渡し申せしに
何故然樣のことを仰せられ候やと申に長庵大いに
怒り
這は
怪からぬことを
云ふ
人かな
失禮ながら貴殿は未だ
御若年で有りながら御見請申せば
餘程の
逆上今の間に御療治なければ
行末御案事申なりと取ても付ぬ
挨拶に千太郎は身を
震はしアノ
白々しいと
言時長庵は
顏色かへて五十兩には何事ぞや拙者は
更に
覺えなき大金を拙者に渡したなどとは
途方も
無事を云はるゝ
人哉恐ろしや又五十兩と有れば
容易成ざる大金なり夫には何ぞ證據にても有りさうな物と
言ば其時千太郎如何にも御自分が
認められし
受取證文是見られよと云ひつゝ一
札を
懷中より取出し長庵が前へ
摺寄開きて見れば
這は如何に
文字は
消て
跡形無くたゞ
情なき
白紙なり是は長庵が惡計にて跡の證據に成らざる
樣最初より
工んで置きたる
大惡無道恐しかりける事共なり
評に曰く證文の文字の消失しは長庵が計略により烏賊の墨にて認めし故成んか古今に其例し有りとかや
古語に曰く君子は
欺くべし
罔べからずとは
宜なる
哉都て
奸佞の者に欺かるゝは
己が心の
正直より欺かさるゝものなり
實に其人にして
爲而已其の
欺く者は論ず
可らず其
才不才に依るにあらざるか爰に伊勢屋五兵衞の養子千太郎は父の病中を幸ひに
店の有金の内五十兩
養父の
目を
掠め彼小夜衣を
根引爲し
圍ひ置て自儘に我が家内にもせん者と思ひ居たる心より村井長庵の
惡計に
罹り
夫而已ならず金と引替に長庵より受取置たる證文を開いて見れば不思議にも
文字は
消えて
唯の白紙ゆゑ這は如何せし事成かと千太郎は
暫時惘れ
果茫然として居たりしが我と我が心を
勵まし餘りと
云ば長庵殿
眼前此程料理屋の二階にて
貴殿の
頼みに任せ手渡し爲したる五十兩を覺え無とは何故ぞ受取證書が白紙に成て居るのも
不審の一ツと云ば長庵は大いに笑ひ
戲氣と云も程こそあれ
覺え
違ひも事による證據の書附有などと其の
白紙が何に
成然して見ればお若いが
正氣では御座るまい
診察して藥を進ぜん
外々の儀と事變り金子の事故
驚怖たりあたら
膽を
潰す所と
空嘯ひて
莨をくゆらし
白々敷も千太郎を世間知らずの
息子と見
掠め
先寛々と氣を落付思ひ定めて歸らるべしヤヨ氣の
毒なる病氣ぞと長庵更に
取合ねば千太郎は其儘に
戻るにも戻られず
進退爰ぞと覺悟を
極め
猶長庵に打向ひ是は
怪からぬ御
言葉哉假令證文は白紙に變りし共
最初小夜衣が使ひに參られ我を
喚出し三四度御
自分樣と
引合たる家も有り殊に御自分の云はるゝには小夜衣は我が
姪なれば
行末共に
懇ろに私に
頼むと小夜衣が文を持參成れし成ずや夫等の事
柄よもお忘れも仕給ふまじ夫より後も參られて
姪の小夜衣が
木場の客へ
俄かに受出さるゝことに成夫に付
親許身受にすれば
元金五十兩にて苦界を出らるゝ故其五十兩の金子を何とかして
才覺なし呉よ其金さへ有ば木場の客を出し
拔て小夜衣を身受なし貴宅へ置とのお話し故貴殿の
言るゝ其意に
任せ五十兩の金とても
勿々に出來兼たれど
延引して居る時は外へ身受に成との事故道ならぬ事とは知りながら
養父の金を
引出し命がけにて其金を約束通り
貴殿に渡し今日は
寛々小夜衣に
逢て行んと來りしに
仁術家業の身を以て
現在姪の小夜衣をも知ぬ抔とは何故なりや然すれば我を
店者と最初よりして
見侮り
那の小夜衣を
餌ばとなし我を欺き五十兩の金をば
騙り取
巧みと云を
打聞長庵は兩眼を
濶とむき出し
目眦逆立形相を改め這は聞
憎き今の一言此長庵を
騙りなどとは何事ぞや我等は
仁術を
基とする醫業なり
最初よりして欺いて五十兩の金を
騙り取たとは
不埓の一言今一
言聞て見よ其分には置まじと
煙管追取身構へなし
威猛高に
罵るにぞ
彌々驚怖千太郎
悔し涙にかき
暮て
最是迄と大聲あげ長庵殿そりや聞えぬぞへ今更に然樣にばかり言るゝからは
矢張騙りに相違なしと
半分云せず長庵は汝若年者故に何事も
勘辨して言はして置ば付上り
跡形も無き
惡口雜言最此上は
聞捨成ぬ眼に物見せて
呉んずと千太郎が
襟髮をぐさと
掴んで
疊へ
引据ゑ打やら
擲くやら
煙管を取て續け
樣に
腕に任せて打ける程に髮は散々おとろに亂れ
面體にも聊か疵を受けぬれば千太郎は最早百年目と思ひきり
口惜や汝ぢ其金を
騙り取しに相違無し
言譯なさに此
打擲騙りめ/\
奸賊めと大音
聲に
罵れば長庵
増々怒りを發し其金の五十兩とは何所から出したる金
成ぞ夫程迄に
兎や
角と云事ならば其方が養父の宅へ
引摺行て金の出所
糺して呉ん已に
屹度穿鑿に及びし上にて
黒白の
分ちを付んと一
刀を
腰に
佩み此
青壯年いざ行やれと
罵りつゝ
泣臥し居たる千太郎を
引立々々行んとすれば
此方は
胸に
釘打思ひ
眼前養父の
預り金をば
偸み出したる五十兩
宅へ行れて
彼是と其の事
露顯に及びなば第一養父は
豫ての
氣性如何成
騷ぎに成やら知れずと思へば是も我が身の
難儀と
屹度思案を胸に定め
先待たまへ長庵殿
最早委細は分つたり然ば外には
言分なし勘辨なして下されと
[#「下されと」は底本では「下なれと」]千太郎は
悔しくも兩手を
突て
詫ければ長庵
呵々と
冷笑ひ夫みられよ
最初より某しが言通り其方が
騙りをば
却つて我等に
塗付んと
當途もなき
事言散し
[#「事言散し」は底本では「事言散し」]若年ながらも
不屆至極重ねて口を
愼み給へ若き時より氣を付て惡き
了簡出さるゝな
親々達に氣を
揉せ
不幸の上に
大不幸と
異見らしくも言散しサア
何處へなり勝手に行と
表の方へ
突出し
泣倒れたる千太郎を
尻目に
掛打笑ひまだ行ぬかと大音に
叱り
付られ
口惜乍ら詮方なく
凄然々々我が家へ
立戻りぬ跡に長庵
箒を
採玄關の
敷臺掃出しながら如何に相手が
青年でも
餘日がない故とぼけるにも餘程
骨が
折たはへ
併し五十兩の
仕業だからアノ位なる
狂言はせにや
[#「狂言はせにや」は底本では「狂言せはにや」]成舞と長庵は
獨微笑みつゝ居たりけり
偖千太郎は
何所を何うか我が家へ歸り
悔し涙にかき
暮ながら二階の
小座敷へ
竊と
這入り心中に思ふ
樣如何にしても口惜きは長庵なり
眼前渡して其金を知らぬと
言さへ
恐しきに
己が惡事を覆はん
爲此我をよく
那の樣に
踏だり
蹴たり思へば/\
殘念至極是と言のも我が身を
誤り不幸の天
罰報い來て我と苦しむ
自業自得然は然ながら此儘に知らぬ
面には過されず今にも
店の
勘定せば
眼前知れる五十兩
償ひ方は
實家へ赴き何とか兄に
咄しなば何うにか
成んと思へども彼の小夜衣の事につき
欺して取れた金などとは何の顏さげて人に
言れん然れば其時
死ぬるより外に
方便も無き身なれば
遲かれ早かれ死ぬ此身とても死ぬなら今日只今長庵方へ押掛
行命を
渠に取るゝ共
時宜に
寄ば長庵めを恨みの一
刀浴せ
掛我も其場で
潔よく自殺を
爲て
怨みを
晴んオヽ
然じや/\と覺悟を極め
豫て其の身が
嗜みの
脇差密[#ルビの「そつと」は底本では「そと」]取出して
四邊を見廻し
拔放し
元末倩々打
詠め是ぞ此身の
消えて
行く
露の
白刄と成けるが
義理[#「義理」は底本では「能理」]有養父や
忠々敷那の久八を始めとして富澤町の
實父にも兄にも
先立不幸の罪お
許し
成れて下されよ是皆前世の定業と
斷念られて
逆樣ながら只一
遍の御回向を願ふと云ふも
忍び
泣殊に他人に有ながら當家へ
養子に來た日より
厚く
深切盡くして呉し支配人なる久八へ
鳥渡成とも
書置せんと
有あふ
硯引寄せて涙ながらに
摺流す
墨さへ
薄き
縁にしぞと
筆の
命毛短かくも
漸々認め
終りつゝ
封じる
粘より
法の
道心ながら
締直す帶の
博多の一本
獨鈷眞言成ねど
祕密の爲
細腕成ども我一心長庵如き何の其
岩をも
徹す
桑の
弓張裂胸を
押鎭め打果さでや置べきかと
裾短かに
支度を爲し既に一刀
佩さんて
出行んとする其の
折柄後ろの
襖を
押開き立出たるは別人成ず彼の
番頭の久八なれば千太郎は大いに
怖き
書置手早く
後ろへ
隱し
素知らぬ
振して居る側へ久八は
膝摺寄せ是申し
若旦那暫時お
待下さるべし如何にも御無念は御道理然共
爰は
急時ならず
曩より私し
失禮ながら主人の御
容子唯事ならずと
心配なして
襖の彼方に殘らず
始終を承まはり何にも知ぬ私しさへ
悔しく
存ずる程なれば
嘸御無念にも思し召んが他所から出來た事ではなし
矢張お身から
求めた事故人をお恨み
成るゝな此久八めが申すこと今一通り御聞下され此間より
度々に御
異見申上たる通り
願ふ事では御座りませんが今にも
萬一大旦那がお
目出度成れたなら其時こそは
此大まいの御
身上悉皆若旦那の物となる
假令然樣に成すとも
僅かの事には
眼を掛ず
惡い
夢だと
斷念て御
辛抱を成されなば大旦那にも
安心致され
家督を御
讓り有れんと思ひ
運らすことも有ば何は
扨置御家督を御讓り受の有
樣に御辛抱こそ
肝要なれ然樣さへ成ば何事も御心任せに成事と
心身に
掛たる久八が
親兄弟も及ばぬ異見に千太郎は
只茫然として居たりしかば久八は
猶も
詞を改ためて若旦那只今は何をお
認め成れしやと
四邊を見れば一通の
書置有是書置は何事ぞと
封押切て
讀下し這は
抑御
狂氣成れしか
養家實家の
親御達其お
歎きは如何成ん夫を不孝とは
覺さずやと
撓まぬ異見に千太郎も今は思ひを
止まりて
嗚呼誤てり/\更に心を
入替て義理有親の御安心
遊ばす樣に是からは
屹度辛抱する程に
其方も
安心して呉と
天窓を下げて
詫るにぞ久八は其手を
取勿體無い何事ぞや
失禮なるも
顧みず御意見なせしお
叱りも
無のみ成ず
速かに御志ざしを御改め下さらんとは
有難く夫にて安心仕つりぬと
悦び云ば千太郎は
猶手を
拱きて
居たりしがとは
云物の五十兩
容易の金に有ぬ故
如何して
穴を
償はん實家へ何とか
方便云て時借なりとせんものか外に
手段は
更に無しと
胸に思へども久八にも夫のみは云出し
兼て居たりしを久八
敏くも
悟り得て又改めて申すやう其長庵とかに
騙られし五十兩の
金子の
穴其外
是迄遣はれし金の
仕埋は私しが御
引受申ます必ず/\御
心配遊されなと何事も
忠義面に
顯れたる久八が意見に千太郎は
伏拜み
返す/″\も
辱けなし此恩必ず
忘却はせじと
主從兩人寄擧り
暫し涙に
沈みけり
武家に在ては國家の
柱石商家で申さば
白鼠なる番頭久八は
頃日千太郎の
容子不審しと
心意を付て居たりし折から
顏色も
常成ず
息せきと
立戻り
突然二階の小座敷へ
這入りし
容子啻事成らずと久八が
裏階子より忍び上り
襖の
陰に
彳みて
窺ひ居るとは夢にも知らず千太郎は
腕拱ぬき長庵に欺かれて五十兩
騙り取れし殘念さよと覺悟を極めし獨言を
委細に聞て其場へ立出
樣々諫め
賺かせし末
畢竟花街の小夜衣とか云
娼妓も長庵とは
伯父姪とかの中成なれば一ツ
穴の
貉ならん然すれば勿々
油斷は
成ず
旁々以て小夜衣が事は
判然思ひ
切再度廓へ
行れぬ樣此久八が願ひなりと
猶眞實に
委曲との
意見を聞て千太郎は漸々
心落居つゝ久八の言通り金子の工夫は又有べし何にもせよ今度の事にて小夜衣に
愛想もこそも
盡果たり他人に心
恕すなとは
能も
言たる者
哉と
後悔表に
顯れければ久八は打喜び
禍ひが却つて
僥倖なり
斷念給へとて長庵の方へは其後何の
懸合もせざりし程に長庵は五十兩の金を
騙り
徳と彌々
喜悦居たりける然るに養父五兵衞は
例の
吝嗇者なれば病中にも
店の事
而已心配
爲して居たりしが
此程追々快氣に
隨ひ
店の
惣勘定をなさんとの事に久八千太郎は人知らぬ胸を
痛めけるが早くも年月
推移りて正徳四年と成ければ
當春は
是非店卸しを爲んとて
頓て
諸帳面類を
悉皆く調べ段々惣勘定と立けるに
店の有金五十兩不足しければ猶又勘定
立直し
種々取調べしかども同く
帳合立難く如何に
穿鑿なすと雖も番頭久八が
引負とは
流石吝嗇なる五兵衞も心付ず
只々不審に思ひ
外々の番頭若者に至る迄
疑ひを
懸平日百か二百の
端足錢さへ
勘定合ざれば
狂氣の如くに騷ぎ立る五兵衞なれば五十兩の事故
鬼神の如く
憤ほり居たる所へ番頭久八進み出て私し儀
幼少の時よりの御
恩澤を只今となり
仇にて
報じ候は何とも申譯なき事ながら此程計らずも遊び
過し五十兩の不足金は
全く私し儀
引負仕つりし故
何卒御
慈悲の御沙汰
偏へに願ひ上ますと彼の千太郎が
欺かれし五十兩を既に我が身に引請んとするを
暫時と引留千太郎進み
寄否々久八にては御座らぬと言んとするを
押留め
尻目に
懸て夫と
無知らする忠義の
赤心を水の
泡にさせるも本意なし如何はせんと千太郎が
胡亂々々爲すを久八は我が身の後ろへ
引廻し私しが
引負に相違なく
餘の者の
仕業では御座りませぬと聞より五兵衞大いに怒り
汝れ久八め今迄伊勢五の
白鼠忠義者よと
世間でも評判
請し身ならずや此五兵衞迄
然樣に思ひしは大いなる
見違ひなり扨も/\五十兩と言ふ大金を
遣ひ
捨しとは何ごとぞや十兩からは
大金成ぞ夫を何ぞや
遣ひ
込知らぬ顏して主人の
眼を
拔く
大膽者めと
有合十露盤おつ取て久八を
散々に
打擲爲すを側に見て居る千太郎は我が
骨節を打るゝ思ひ
寧そ
有體打明てと思ふ樣子を久八は頻りに後へ引止め五兵衞に向ひ何とも御
詫の致し樣も御座なく御
打擲は
扨置御
討殺し
成れる共少しも御
恨みは申ません御十分に
成れよと兩手をつかへ
頭をさげ詫入る處を猶も又めつた打ちに打ち
敲き
頓て
蹴飛し
蹴返して直に請人石町甚藏店の六右衞門を
呼に
遣けるに六右衞門は何事やらんと打
驚怖直に其使ひと
倶に來て見れば
豈※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、205-2]らん久八が主人に
折檻請る有樣に
暫時惘れて言葉もなし五兵衞は
皺枯聲をふり立て如何に請人六右衞門此久八の
盜賊めが五十兩と言大金を
汝が
奢りに遣ひ捨て
引負成たる上からは
直に當人久八を引取
行五十兩の金子を
償ひたる上本金をも殘らず
納めよと言渡されて
仰天なし本金とは何事ぞ如何に
不埓が有ればとて廿餘年の
勤功にて既に支配も
任されたる此久八を
丁稚小僧か何ぞの樣に
打擲さるゝのみならずと思へど久八を一先内へ
連歸り
篤と
容子を正した上又
詫言の仕樣も有んと
言度事をじつと
堪へ六右衞門は主人五兵衞に打向ひ
扨段々の御
立腹御
詫の致し方も之無く候
就ては五十兩の
引負金何分直には
償ひ難く暫時御
猶豫下され
度且又御給金の儀は
半は
頂戴仕つり
半分は御預け置候故日
割御勘定の程御願ひ申上候當人身分の儀は
直樣引取一札をも
差上申すべく又當人久八に御用の
節は何時にても同道申べくと事を分て申せども
聊か
聞入景況も無く五兵衞は
却つて
憤ほり然樣な勝手は相成ず直に勘定して
行れよと
怒りけるを猶
種々詫言なし漸々にして追々に償ふ事を
免されしかば
直樣引取の一
札を
指出し久八を連歸りけるは
無慈悲なりける有樣なり久八は
子供の時より主人を大切と我が身の
苦患を
厭はず
勤め一人として
譽ざる者も
無者成るに伊勢五の
店を
引負して請人方へ引渡されしは
[#「引渡されしは」は底本では「引渡されしば」]何か
譯の有事成んと云も有ば久八は
白鼠所か
溷鼠で有たなどと後指をさす者も有しとかや六右衞門は久八を
連歸りて百日の
説法屁一ツとは
汝が事なり此六右衞門は人の世話も多く
仕たが
斯る事を
言れし事なし五十兩と云大金を何に
遣つたこんな
馬鹿とは知らずして
汝が事を人樣に
辛抱人と
譽たのが今となりては
面目ない二階へなりと
往きくされ
面を
見のも
忌々しいと口では言ど心では何か
容子の有事やと手を
拱いて居たりけり翌日伊勢屋の養子千太郎は我が爲に久八が
昨日の
始末と夜の目も
合ず少しも早く六右衞門に
逢て實を
明さんと
何う
首尾せしか
宅を出でて本石町なる六右衞門の宅へ
到り久八に
逢度由を云ひ入ければ夫と見るより六右衞門は
飛で
出偖々若旦那能くこそ御出なされしぞ千太郎を
奧へ通し久八に引合せければ千太郎は男泣に
泣ながら
段々の禮を
述何と云べき詞もなく我身に
代りて惡事を
引受アノ一
徹なる親父
殿に罪なき
足下が
打擲れ廿餘年の奉公を
贅事にして
暇を引され夫を堪へし
昨日の始末
嘸や
嘸六右衞門殿には
不審しく思はれけん久八は私の爲には命の
親共
言べき樣なる
恩人なり是非
足下の身の立樣にする程に
暫しの内
勘辨して何ぞ
耐へて下されと久八が前に
鰭伏ば久八は涙を流し何事も是皆前世の
因縁づくと
斷念居ば必ず御心配は下さるまじ併しながら
時節來りて若旦那の御
家督と成れなば其時には此久八を御
呼戻し下されたし
夫のみ願ひ上まする夫に
就ても
呉々も御辛抱こそ
肝要なれと猶も
撓まぬ忠義の久八六右衞門も
一伍一什を聞居たりしか久八に向ひ其方が五十兩の大金を
遊び
過して
遣ひ
捨しとは
合點行ねど其方が
打叩かれても一言の
言譯さへもせざりしゆゑ
如何成天魔が
魅りしかと今が今迄思ひ居たるに全く若旦那の引負を其身に
引受ての事成か能も
斯は計らひしぞ其方ならでは出來ぬ事と六右衞門は
感心なし千太郎に
打向ひ初めて承まはりし今度の始末如來樣
家來と
成主人と
成し上からは忠義の爲には些いの奉公決して御
心配に及びませぬ
假令何の樣なる
難儀苦勞を致せばとて御主人樣の御爲なら少しも
厭ひは致しませぬと久八と云六右衞門と云
揃ひも揃ひし忠義な
男義千太郎は猶々
穴へも入たき思ひ六右衞門に打向ひ兩手を合せて伏し
拜み氣の
毒共何共申分の
仕樣も無しと言を六右衞門是はしたりと其手を取只此上は御心得
違ひのなき樣に久八が申通り
呉々御
辛抱成れましと申時千太郎は
豫て用意をしたりけん
懷中より
書付一通取出し扨此書付は久八殿が
拙者の
引負引受て
[#「引受て」は底本では「引受けて」]呉られし後日の
證據に渡し
置と
言ひながら兩人の前にさし置きける其文は
一金五十兩也
右は
我等養父の金子引負致し候所其
許[#ルビの「もと」は底本では「とも」]自分に引負金と申立
引受呉夫が爲養父五兵衞
[#「五兵衞」は底本では「五衞門」]より其許
暇に相成候段
生々世々の
高恩以來とも
忘却仕つる間敷候
依之我代に相成り候節は急度呼戻し此度の大恩を報ずべく候
爲後日一札仍而如件斯の如く
認めたる
[#「認めたる」は底本では「認めにる」]一通なれば六右衞門は
押戴き若旦那の御心遣ひ有り難く存じ上ます然らば此一通は私し方慥かに御
預り申さんとて久八へ渡しける時に千太郎又々
懷中より金子一と
包み取出し
追々見繼も致す心なれども是は當座の
凌ぎの爲實父の方より
借受し金子なり之を遣ひ居て下されよと出すを久八はおし返し
達て
辭退をなしけれども千太郎は
猶ほ
種々に言ひなし
漸々金子を
差置つゝ我が家へこそは歸りけれ
扨また六右衞門は久八に
向ひ如何にも
貴殿が
心底には
勿々引負など致す樣
成者では無と思ひしに
豈※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、207-10]らんや
昨日の
始末と思ひの
外打て
變りし今日の
時宜異見をせしも
面目なし決して心配致すに及ばず伊勢屋の引負金も一
工夫して
濟しもせん
其方は此若旦那樣よりの御
心添の金子にて
何成とも商賣を初める樣にと六右衞門が始終を思ひし深切に久八も大に
喜悦何商ひを初めたら
宜しからうと工夫を
爲ども元より大家の支配人の果なれば
小商ひの道を知ず
右左損毛多く夫
而已ならず久八は生れ付ての
慈悲心深く
貧しき者を見る時は不便心が
彌増し
施こすことの
好なる故
儲けの無も
道理なり依て六右衞門も心配なし
寧そ我弟が
渡世の
先買となり
恥を忍びて
紙屑買には成ぬかと聞て久八
暫く考へ却つて夫こそ
面白からんと紙屑買にぞなりにけり
嗚呼榮枯盛衰單へに天なり命なり昨日迄は兎も角も大店の番頭支配人とも言はれし身が
千種木綿の
股引は
葱の
枯葉のごとくにて木綿
布子に
紋皮の
頭巾見る影も無き
形相は商賣向の
身拵へ
天秤棒に紙屑
籠鐵砲笊を横にのせ日がな一日買ひ
歩行戻れば夜を
掛撰わけて千住品川問屋先賣代なして
聊かの利益を得ては
幽々に其日々々を
送りけり然ども是を
苦にもせず
稼ぎ
溜れば少しでも伊勢五の
穴を埋めて行心の正直
律儀者昔しも今も町家には
例し少なき忠義なり是皆村井長庵が
惡業の爲所にして西も東も知らぬ若者の千太郎を
欺き多くの人に難儀を掛ること
人面獸心の
曲者なり長庵が惡事を
算るに第一札の辻にて弟十兵衞を
殺害し罪を
浪人藤崎道十郎に負せ二ツにはお富を賣り三ツにはお安を三次に
頼み
中反圃にて殺させ今又伊勢屋千太郎を欺きて五十兩の金子を騙り取久八をも
斯苦しめる事是皆
露顯の小口となり
彼道十郎の後家お光が
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、208-6]らず
訴へ出る樣に成けるは
天命の然らしめたる所なり
天の
作せる
禍ひは猶去可し自から
作せる禍ひは
避可からずとは雖も爰に
寶永七年九月廿一日北の町奉行中山
出雲守殿の掛りにて
奸賊村井長庵が惡計に
陷入り遂には
寃横難に罹り
入牢し果は
牢死に及びぬる彼道十郎は
舊吉良家の
藩士なる
岩瀬舍人とて御近習へ出仕し天晴武文も心懸有し者なりしが不※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、208-10]した事の
譯柄にて今は浪人と
成名を藤崎道十郎と更めて居たりしが妻お光は當年三歳に成し
悴の道之助を
懷ろにして店請人赤坂傳馬町治郎兵衞店に
小切商ひを
爲清右衞門方へ御
引渡しと成けるにぞ返す/″\も
夫道十郎が
芝札の辻に於て十兵衞を殺害に及びしなどとは
夢にも知らぬ
無實の難にて入牢なし其事故の
分明に
別らぬ内に
情無くも牢死に及びける故遂に死人に口なしとて
悉皆く長庵の
佞辯により
種々言廻され
夫道十郎の
罪科とは定まりし事無念
骨髓に
徹り女ながらも
再度願ひを
上夫の
惡名を
雪ぎ度とは思へども清右衞門は
段々意見をなし兎に角に
假令再度御調べを願ふとも是と云
證據も有ねば
公儀に於ても
詮方なし先々夫迄の天命なりと
諦め道十郎殿の
紀念に殘せし道之助を一日も早く
成長させて藤崎の家を
再興せらるゝが佛へ
對し何よりの
追善なりと
言諭されて
悔し涙に暮ながら唯此上は
悴道之助が一日も早く成長なし
札の
辻にて十兵衞とやらを殺害なしたる本人を尋ね出して
夫道十郎殿の惡名を
雪がせん者をと夫より心を定め
赤坂傳馬町へと引取られ同町にて
表ながらも
最狹き
孫店を
借受爰に
雨露を
凌ぎつゝ親子が涙の
乾く間もなく
僅かの
本資に
水菓子や一本菓子など
并べ
置小商ひの其の
隙にはそゝぎ
洗濯賃仕事氷る
油の
燈りを
掻立つゝ
漸々にして取續き女心の一ト
筋に
神佛をぞ頼みける然るに
光陰は
懸河の流るゝ如く早八ヶ年を
送りしに
夫の
忌日もいつしか八年跡の
空とぞ
過行ける道之助
今年十歳に成けるに親は無とも子は
育つとやら母の手一ツに
育て
揚たる子ながらも
生れ付ての
發明者殊に
幼稚き心にも母が
心盡しの程をや
察しけん
孝心怠り
無夏秋は
枝豆を
賣歩行き或ひは母が
手業の
助けと成又は使ひに
雇[#ルビの「やと」は底本では「やとは」]はれて其
賃錢を
貰ひ
請朝な
夕なの
孝行は見る人聞人感じける然るに
有日道之助は
例日の通り
枝豆を
肩に
掛門口へ出る所へ獨りの
男木綿の
羽織に
千種の
股引風呂しき
包みを
脊負し人立止りて思はずも
店に
並べし水菓子の
價を聞ながら
其所に居たりし道之助を
熟々見て
最不審氣にお前は
若や藤崎道十郎殿の御
子息の道之助殿では御座らぬかと
云聲聞て後家のお光は心
嬉しく夫の名を言ふ其人は
床し
懷し何人ぞやと
出合頭に
顏打詠め見れば
此方の彼男はお前こそは道十郎殿の御
内儀お光殿にて有しよな
珍らしき所にて
絶て久しき
面會なり
拙者事は
瀬戸物屋忠兵衞と言れてお光は
面打まもり扨は忠兵衞殿にて在せしかと
往昔馴染の何とやら
懷しきまゝ
詞を改め斯樣に
穢苦しき
住居なれども
此方へ御通り下されと最丁寧なる
挨拶に瀬戸物屋の忠兵衞は
莞爾として立入けり此瀬戸物屋忠兵衞と云ふは至つて女
好にて殊にお光は後家なりと思ふ者から見れば
貧苦の
容子故一
肌脱で世話をなし恩を
着せ置思ひを遂んと心の中に
目算なし忽ち
發る
煩惱の
犬よりも
猶眼尻を下げお光殿にも
可愛さうに
若い身そらで後家になられ
年増盛りを
惜い物と
戯氣乍ら御子息道之助殿を
能も女の手一ツにて
斯樣に御
育養有れしぞ
併し其後は御
亭主も定めてお出來
成れたで
有うに今日は
何れへかお出かけにやと言へばお光は
形を
改ためそは
怪からぬ忠兵衞殿の
仰せかな
御冗談でも御座りませうが
夫道十郎が牢死の後にせめて
紀念の此子をば
成長させ一日も早く夫の惡名を
雪ぎ
度夫而已樂しみに
暮し居と云ふを
打消し忠兵衞は
否然では有ますまい
隱す
程顯はるゝと申如く
尚々怪しき事にこそ
然ながら今迄
全く
後家暮しにて居られしならば少しは何かの
御相談相手に
昔馴染の
甲斐丈は
失禮乍らお世話も致し御不自由の事も有なれば御
遠慮なしに言れよと
情仕掛の忠兵衞が
持た病に
据り込彼方と
話せしが
暫く有て懷中より金子一分取出し道之助に
頼み
近邊にて
酒肴を
買求め
酒宴をこそは初めけれ
扨又お光は忠兵衞が酒の相手をなすを
五月蠅思ひ
種々に
斷りても忠兵衞は耳にも入れず
追々醉の
廻るに
隨ひお光に向ひ
婬りがましき
戯れ事を云出しければお光は大いに
驚怖て是は/\忠兵衞樣
夫道十郎
不慮のことにて
死去致してより八ヶ年の
其間悴の脊
丈の
伸るのを
唯樂みに此世を送り人に
後指を
指れぬ私し
勿々以て
然樣成事思ひ
寄ずお
許し成されて下されと云
紛すを忠兵衞は
尚種々に
言ひ
寄つゝ
頓て言葉を
和らげて言ひ出しけるは
然云御前の
心底を
破らするのも氣の毒千萬私しも今迄
決して
他言は致す
間敷とは思ひしがお前が私の言葉を
一寸なりとも
聞るゝなら私もお前に云事ありお前の
連合道十郎殿
那な
事柄に
成れしは全く誰も
知る者なし實はあの
折十兵衞を
殺した奴は外に
有夫を知て居らるゝかと聞よりお光は
飛立思ひ其十兵衞を殺した人は別に有とは
誰人にや
其許樣が御
存知ならば
何卒教へて下されと言ば忠兵衞
莞爾と
笑ひ
然樣いはるゝならば教へもせんが然れども
其處が
肝要め
魚心有ば水心と
味な
詞にお光はほゝ
笑み
強面なさば
隱さんときつと
思案を
仕直して夫さへ
聞して下さらば如何なる事でも
貴方次第と聞て忠兵衞
夢中になりお前の
夫道十郎殿に
寃の
難を
着たる奴はお前も知ての
那の
藪醫者長庵
坊主に
相違無し
斯うばかりでは
譯らぬが
算へて見れば八年
跡八月廿八日に
寅刻起して三日ゆゑ
例の通り平川の
天神樣へ參詣に
出掛た處か
早過て
往來の人はなし
雨は
頻りに
強く
降困つたなれど
信心參り少しも
厭はず參詣なし
裏門を出て
戻る頃漸々東が
白み出し雨も
小降に成たる故
浮羅々々戻る
向より
尻つぺた迄
引端打古手拭で
頬冠り
傘をも指ずに
濡しよぼ
垂小脇差をば後ろへ廻し
薄氣味惡き
坊主奴が來るのを見れば長庵故
傘をもさゝず
先生には
何れへお出と
迂濶り言葉を掛たら彼方はおどろき
急病人の
診察の
戻りと答へし
形容の
不審く殊に
衣類へ
生血のしたゝり懸つて有故其の血
汐は如何の
譯やと
再度問へば長庵愈々
驚怖周章嗚呼殺生はせぬ者なり
益なきことを致したり
霞ヶ
關の坂下にて
惡い
犬めが
吼付故據所なく
拔討に犬を斬しが其血が
刎衣類を
如斯に
汚せしなりと云つゝ
吐息を
吐體が
何も
怪しく思はれたり夫のみならず第一に
病家へ行に
傘をもさゝず
濡萎たれて
跣とは其の意を得ずと思ひしに跡にて
聞ば
弟なる十兵衞とやら云者が札の辻にて人手にかゝり其
曉きに長庵は病氣なりとて十兵衞が出立するを
見送りも爲ざりし由
檢使場でも御奉行樣のお前でも申立たる赴きゆゑはてなと思うて居るものゝ人の事にて兎や角と
言爭そはんも
益なき事
殊に私しの女房の云には
滅多にそんな事を口出しなさば
懸り
合然樣なる時は
大變なれば決して
口外なさるゝなと言ける故に今迄は人にも決して言ざりしがお前にばかり
話すなり夫ゆゑお前の御
亭主の
敵と言ふは長庵に
相違なしさなサア/\/\
咄した上はお光さん私が事も聞て呉れとお光に
突然抱き
附を其手を取て
突除けつゝ
見相變て忠兵衞さん扨は其朝長庵が傘をもさゝず天神樣の
裏門前にて
逢れし時口
利れたは
確乎な
證據夫程證據の有事をなどて今日迄
包まれしや情なき忠兵衞殿
無念々々と
齒噛をなし忽まち
眼も
血走りつゝ髮も
逆立形容にて斯る證人有上は此趣きを
直樣に御奉行樣へ
駈込で彼の長庵を御調べ願ひ夫の
惡名雪ぐべし忠兵衞殿には何處迄も
證據と成て下されと
直にも
駈出すお光が氣色此有樣に忠兵衞は
如何なことをば言ひ出してひよな
騷ぎに成たりと酒も
何處へか
醒て
行色も
戀路も
消果てこはそも如何にと
惘れ果十方に暮て居たりしが忠兵衞は
迯もされねば
是待給へお光殿御番所へ
駈込でも
外事成ぬ大事の一
條人の命に關る事先々
篤と
勘考てと
言紛らすをお光は聞ず兎にも角にも御奉行所へ
訴へ出て御
調べを願うた時は必ず
證據人と成て給はれ忠兵衞殿と
念を
押ども忠兵衞は
茫然として
答もなく我が家へこそは立歸りぬお光は
悴道之助にも其次第を
言聞せ其儘
直に支度して
店請人の清右衞門に相談せんと
出行ける
口を
守る事
瓢の如くと又口は
禍ひの
門舌は禍ひの
根と言る事
金言成かな瀬戸物屋忠兵衞
計らず八ヶ年
過去たる事をお光が
色情にほだされ
迂濶と
口走り掛り合に成て當惑に及びしも口の禍ひなり
然ながら天に口なし人を以て
言しめ給ふ事長庵が多年の
積惡露顯の
時節にや有ぬべし然ばお光は忠兵衞が歸りしより
早々支度を爲し
直樣店請人の清右衞門方へ到り
云々の
譯柄なれば
速かに此趣きを訴へて夫の
汚名を
雪ぎ
度由一心込て相談に及びければ清右衞門
倩々聞心の内に一
旦中山出雲守樣の御
白洲にて
落着に成し一件なれば
假令聊か證人の有ばとて
容易に御取上には
成まじ
毛を
吹て
疵を
求めなば却つてお光の爲ならずと
思案を
極めてお光に向ひ夫は
道理なる次第なれども一
朝一
夕の事ならず假令
證據人の有ればとて
周章て
願ふ事
柄ならず殊に北の御番所にて
先年裁許濟に成し事故今更兎や角申立るとも
入費倒れにて
贅事に成も知れず云ば證文の出し
後れなり夫より
最早夫道十郎殿の事は前世よりの
因縁と
斷念られ
紀念の道之助殿の成長を
樂しみに
暮し給へと
種々に
宥めつ
透しつ
諫ると雖もお光は更に思ひ止るべき
所存無れば猶押
返して頼みけるに清右衞門一
圓取用ひ呉ざれば
詮術なさに
凄々と我が屋へ
社は
立戻れど
熟々思へば
懷ふ程無念悔しさ
止難ければ
店請人清右衞門をさし置てお光は
家主長助方へ赴き
貴君樣に
折入て
密々御願ひ申度一大事の出來候まゝ
態々參りしなり併し乍ら
人樣の前にては申し上難きことなれば
何卒内々にて
御相談願ひ上度と
言[#ルビの「いふ」は底本では「いひ」]により長助は如何にも承知なりとて
早速自身の家内に向ひ其方は
何方なりとも少しの
間だ
行てをれと云れて
女房は
頬膨らし女房が何で
邪魔に
成お光殿もお光殿此
晝日中馬鹿々々しいと口には
言ねどつん/\するを長助夫と見て取つて其方が氣を
揉事に非ず早々
何處へか行きて居れと
叱り付いざお光殿是へ御座れと
奧の一間へ
喚込ば女房は
彌々角も
生べき
景色にて
密男は七兩二分
密女に相場は
無と
呟きながら
格子戸をがたびし
明て
出行けり跡には長助お光兩人
差向ひなればお光は
四方を見廻して
徐かに云けるに内々にて御願ひと申すは外のことには候はず私し
夫道十郎事八ヶ年
以前寃の
難にて
斯樣々々と有し次第を
具さに物語り彼忠兵衞を證據人と
爲し私し
駈込願ひ致し度と涙を
浮めて頼みける
容子に
貞心顯れければ長助は感心なし今度忠兵衞が
計らずお前方に
過去たる一
件を
口走りしはお光殿の
貞心を天道樣が
感應在まして忠兵衞に
云はせし者ならん如何にも此長助が
一肌脱でお世話致さん
然ながら一
旦中山樣にて
落着の付し事を
訴へるわけゆゑ
言は
裁許破毀の願ひなれば一ト通りの
運[#ルビの「はこ」は底本では「よこ」]びにては
貫徹事
六ヶ
敷からんされば長庵とやらが
大雨の
降に
傘をもさゝず
曉方に平川天神の裏門通りにて
行逢たりと云忠兵衞とかの方へ
赴き證據人に必ず立と云處を
突留其上
玄關へ
委細を申し立
若取上て
呉ぬ時は
駈込願ひを
爲すべし又
幾度駈込願ひを
爲しても御取上に成ぬ時は月番の御老中へ
駕訴をすると覺悟を仕て
掛るべしと身に引受し長助が
最懇切に
言聞せければお光は飛立ばかりに喜び
早々長助
同道にて忠兵衞方へ赴きける
僥倖なる
哉例令お光が女の身にて何樣に思ふとも外の家主ならんには
勿々引請て
呉る
事柄には有らね共此長助と云家主は當時此
廣き大江戸にても三人と言るゝ
指折の
公事好[#ルビの「くじずき」は底本では「ぐじずき」]と名を取し男にて其頃の噂にも
朝起出て
神棚に向ひ先我が
身安泰家内安全町内
大變と
祈りしと云ふ程の心底故か御番所の
腰掛にて
喰辨當は何が
無ても
別段甘しと言しとかや何故に町内
大變々々と言かと思ふに支配内に變が
無れば家主は何にも面白く
無と言位の人物にて
麻布に三次郎
芝に勘左衞門赤坂に此長助と三人の公事
好家主なり此長助には
望む所の出入なりと
直樣お光が力となりしはお光か
貞心[#ルビの「ていしん」は底本では「しんてい」]の
貫ぬく運と言も
畢竟天より定りて人を
制するの
時節到來したりし者か此時彼瀬戸物屋忠兵衞は
益も
無事を引出したりと
色蒼ざめて我家へ歸來り女房のお富に向ひ
突然と證據人に
立て
呉と道十郎の後家のお光に言れ何と云
紛らしても
漸と聞入れず
漸々と
[#「聞入れず漸々と」は底本では「聞入れ漸々ずと」]迯歸りては
[#「迯歸りては」は底本では「迯歸りては」]來れ共お光が
駈込願ひにても及ぶ時は必ず我が名を申立べし如何して
能らんやと
大息吐て言けるにぞ女房は聞て大いに
驚怖長庵に
逢た話しは
容易成ざる事故決して
口外はなさるなと
豫々おまへに言置しに何故
然樣なる一大事を云れし事哉と
聞て忠兵衞は女房の手前ながらも面目なく
後悔顏にあらはるれば女房は益々
聲荒らげ
畢竟お光さんは後家なる故何か思ふ仔細が有て上り込み者
成んさも無くば
久し
振で
逢たお光さんに是迄
噺さぬ一大事を
噺さう
譯がない
屹度お光さんの
色香に迷ひ私があれ程に言て置た事をも打忘れて
自分から
迷惑を
釀へ私に相談も無い者だ夫と云も日頃から身の
嗜みの
惡い故と
早やきかけし女房は
可笑くも又
道理なり
人の
憂ひをうれひ人の
樂みをたのしむと是は又一
己の
豪傑なり
偖も家主長助は道十郎後家のお光を同道にて忠兵衞の
宅に到り私しは赤坂表町家主長助と申す者なりと
初對面の挨拶も
濟扨段々と此お光より
承まはりしに
御自分事八ヶ年以前八月廿八日
未明に平川天神御參詣の
折節麹町三丁目
町醫師村井長庵にお
逢なされしとの事道十郎殿
寃の罪に
墮りしも長庵は其
朝不快にて
臥り居り弟の
見送にさへ出る事
能はざりしなどと申立し由なれ共右樣
確固なる證據人の
有上からはお光殿年來の
本意をも達し家主の身に取ても
然樣なることの
知し上は
打捨ては役儀も
濟ざること故夫々に
手配なし御番所へ願ひ出るにより此時の證據人に
相違無く御
立下されよとお光
倶々退引させぬ
理詰の
談じに忠兵衞は
暫時物をも言はざりしが
漸々にして答るやう如何にも
御噺申せし通り平川天神の
裏門前にて其日の
曉長庵に
逢しに相違これ無ことに付其所は
何處迄も證據人に相立申べし
去ながら
札の
辻の人殺しが長庵と言ふことの證據人には
相立難しと言へば長助
點頭夫は如何にも
承知致しぬ只平川にて其朝まだき長庵に
逢たると言ふことを
發輝と申立て給はらば夫にて宜しと家主長助は忠兵衞を
聢と談じ其の
趣むきの一札を取置
去ばお光殿立歸りて訴訟の
支度に及ばんなれども忠兵衞殿には
御迷惑なる事に候はんと
厚く禮を
演長助お光の兩人は是で
此方に
拔目はないと
小躍をして立戻り長助は
直ちに訴訟書をぞ
認めける
總て公事は訴状面に
依て
善惡邪正を分つは勿論の事なれども其中にも成ると
成ざるとは大いに
違ひあることなり
譬へば町内に
捨物の有りし時
拔身の
白刄なりとも
鞘無き
脇差[#「脇差」は底本では「脂差」]何處其處に
捨これ有候と
認めて訴へれば
穩かに聞ゆるなり
依て此訟訴書の無事に御取上に成る樣にとて長助は
種々に心を配り願書をぞ
認めける其文に
乍恐書附を以て
奉願上候一赤坂傳馬町長助店道十郎後家光奉申上候
去る寶永七年八月廿八日
拂曉芝札の
辻に於て麹町三丁目
町醫村井長庵弟十兵衞
國元へ出立仕候
節人手に
罹り相果候
其場に私し
夫道十郎所持
印付の
傘捨有之候より道十郎へ
御疑念相掛り候哉其節の御月番中山出雲守樣御奉行所へ夫道十郎儀
病中御召捕に相成
入牢仰せ付けられ候處御吟味中牢死仕つり死骸の儀は御
取捨に相成家財は私し
母子へ下し置れ候間其後私し儀は
店請人清右衞門方へ
悴倶々引取り同人の世話にて當時の所へ
借宅仕つり幼少の悴道之助兩人にて八ヶ年來
住居罷り
在年來夫道十郎事
非業の死をなし候儀
無念止時なく右人殺しの本人
搜索出し夫の惡名
相雪ぎ申度心
懸居候處私し
元住居麹町に於て懇意に仕つり候忠兵衞と申者
頃日不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、215-8]私し方へ
罷り
越種々話しの手續きより忠兵衞申
聞せ
呉候には先年
[#「先年」は底本では「先月」]札の辻の人殺しは村井長庵こそ
怪しけれと
口走り候まゝ
猶其の
實情を承まはり候に右同日の
未明には長庵儀前日より病氣にて弟十兵衞の
出立をも見送らざる旨
御檢使場に於て申立候趣きに候得ども忠兵衞儀同日同刻麹町平川天神へ
參詣し歸り同所裏門前に於て
行逢言葉を
替し候由尤も其節長庵が
體裁甚だ以て
如何敷趣きに有之候旨に御座候之に依て右忠兵衞證據人に
相立此段御訴訟申上奉つり候
何卒格別の御慈悲を以つて右忠兵衞儀御
呼出し御糺しの上長庵
召出され御吟味成し下し
置れ夫道十郎の惡名
相雪ぎ候樣
偏へに願上度之れに
依て
此段奉歎願候以上赤坂傳馬町二丁目後家願人みつ 差添清右衞門 家主長助 享保二年三月 南御奉行樣 右の通り
訴状認め長助猶も
倩々勘考へけるに此事件は一旦中山樣御
白洲にて
御裁許濟に成りし事なれば次第に
寄と訴状を
却下さるゝやも計り難く先年は北の御月番なりしかば此度は南の御番所へ
出訴せん然すれば御役所も
違ひ殊には此頃勢州山田奉行から江戸町奉行へ御見出しに
相成たる大岡越前守樣へ持出しなば
御新役だけ御力の入られ樣も違はん又
聞所に
寄ば大岡樣は
往昔の
青砥左衞門にも
優れる御奉行也との評判なれば
屹度御吟味も下さらんと家主長助
諸ともお光は南の役所へ
駈込訴に及びしかば越前守殿
落手致され一通り
糺問の上追て沙汰に及ぶ
旨申わたされ其日は一同
下りけり
好こそ物の
上手なれと
譬への通り
飽迄も
公事向に手
馴し長助が思ひ通りの訴状御取上に成りしかばお光の
喜び一方ならず然るに三四日過て御
呼出しに相成越前守殿願ひ人お光清右衞門長助の三人へ申渡されけるは此訴訟の
趣きにては先年同役たる中山出雲守の係りにて
裁許相濟たる
事件を再び申立る樣に聞ゆるなり然ば
裁許を戻すと云ふ者にて
輕からざる儀なり併しながら其
始末に依ては再び吟味爲まじき者にも非ず達て願ひ立ると有れば取上て一通り調べもいたし
遣[#ルビの「つか」は底本では「しか」]はさんが何れとも其
覺悟にて願ひ立べしと申されけるに願ひ人のお光は
恐る/\
頭を上げ此事に付
假令如何樣の儀仰せ付らるゝ共
聊か
相違の儀申上ざるにより御取調べの程
偏へに願ひ上奉つる尤も證據人忠兵衞を
召出され御尋ね下されなば委細に相分り候
趣き申立るに越前守殿然らば其忠兵衞に
相尋ぬる時は長庵が
始末柄相分る趣なれども先其方より一應申立べしとの事によりお光
再度首を上八ヶ年以前夫道十郎儀芝札の辻に於て十兵衞と申者人手に
罹り
相果候處其場に道十郎の
印し付に
傘捨之有しに付御疑ひ罹りしと雖も其傘は長庵方へ忘れ置たる品に
相違なく候
然るに夫道十郎浪人の
貧に
逼り十兵衞が四十兩餘の金子を持たる事を知る故
後を付來りて十兵衞を
殺害なし其金を奪ひ取りしに相違なしと御
檢使へ長庵より申立たるに依て夫道十郎
召捕れ御吟味中牢死仕つりし
也長庵儀は其朝は前夜より
不快にて弟十兵衞の出立を見送りも致さゞる趣むき是又御檢使の場にて申上再應御調べの節も同じ樣に申立長庵へは御
咎めもなく
相濟たる所此間忠兵衞
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、216-15]私し方へ參り申聞せ候には寶永七年八月廿八日
未明に麹町平川天神の
裏門前にて忠兵衞
參詣の歸りがけ村井長庵を見請たるに其節は
大雨降り居候へ共長庵は
傘をもさゝず濡ながら來りしに付
何方へ參られ候哉と忠兵衞相尋ね候處
霞ヶ
關邊の病家へ參り候
趣き
勿論其節衣類に
血汐の
夥多敷付有候に付き是又忠兵衞より如何致され候やと相尋ね候處大いに
驚怖候樣子にて申けるにはアヽ
殺生は致さぬもの今犬めが餘り
吼付し故
遂拔討に
斬殺しけるが其血汐の付たる者ならんと云ひて
周章しく其
儘に別れ候ひし由尤も病氣にて弟の
見送りもいたさぬ長庵が
然樣の
始末甚だ以て
怪しく存じ候まゝ
何卒忠兵衞へ御尋ねの上長庵を御調べの程
偏へに御願ひ申上ますと申立ければ越前守殿
否とよ願ひ人光其は
容易成ざる
事件なれば
胡亂なる儀は取上には成らぬぞ
篤と
了簡して申立よ
差添店請人清右衞門其方儀は八ヶ年以前右の
事柄心得居るや又如何なる
縁にて
母子共世話致し居りしやと
尋問有しかば
[#「有しかば」は底本では「有しかば餘」]清右衞門
愼んで
恐れ
乍ら道十郎は私し店受人致し候以前より
別段の
入懇に付
店受人に相成候所右
不慮の
儀出來仕つり
餘儀[#「餘儀」は底本では「儀」]無く其儘受人の
好みにて引取世話
仕り
罷り在候八箇年以前
御檢使[#ルビの「ごけんし」は底本では「ごけんひ」]の場は存じ申さず候へ共其後右道十郎お
召捕に相成御
調べの度毎に私し儀も召出され委細心得罷り在候御調べ筋は右十兵衞事
横死致し候場所に道十郎所持の
印し付の傘有之候に付申
譯相立難く
兩度程長庵と
突合せ御調べに相成候へ共道十郎は其前より久々
不快故申開きも心に
任せず
遂に牢死に及び候に付
彌々長庵が
辯舌にて道十郎の
罪科に相定まり死骸は御
取捨家財は妻子へ下し置れ候
旨其節仰せ渡され候と申立ければ越前守殿御聞有て成程其調べの儀は此越前守が取調べても
其通りなり然るに忠兵衞と申者八箇年
打過ぎ
只今と成て右樣の儀申出ると言ふは何ぞ忠兵衞が右長庵に
遺恨にても是ある事には
非ざるか何とも
怪しき證據人なり八箇年以前同役が
調べの
節上に
然樣の不吟味は是なき
筈なり
然ながら證據人と有る上は右忠兵衞を召出したる上にて
追々吟味に及ぶなりと
概まし御
尋問有りし
儘家主長助へも其旨申渡され今日は
先引取べしと有りける故に
皆々我が家へ歸りけり翌日直に麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞を御
呼出しに相成
白洲に於て越前守殿其人物を御覽あるに人の
惡を
揚意趣遺恨などを
含み又有りもせぬ
事柄を申懸る樣成者に非ざる事を早くも見て取られ如何に忠兵衞其方八箇年以前寶永七年八月廿八日の
明曉長庵を麹町平川天神裏門前にて見受たる由
其砌りの
始末包まず
逐一申立べしと云はれければ忠兵衞はハツと
答へしまゝ
齒の
根も
合ぬばかりにて
漸々に申立けるは願ひ人光より申上たる通り
相違御座なくとばかりなれば越前守殿
汝れ忠兵衞
右樣の儀を承知して居ながら
其節確と申上べきの處
只今迄打捨置し段
不埓の至りなり
追々呼出し長庵と
對決申付るなりと一
先歸宅[#ルビの「きたく」は底本では「きれたく」]させられたり偖て越前守殿此一件は
容易ならずと内々にて
探索有りし所
隱るゝより
顯はるゝはなしとの
古語の如く彼の札の辻の人殺しは
全く長庵の
仕業に相違なきこと世上の
取沙汰もあるにより大岡殿は
新役の
手際を
顯はさんと思はれ一度の吟味もなく
直に麹町名主矢部與兵衞へ
内通有つて村井長庵が
在宿を
篤と見屆させ置召捕方の與力同心を
遣されしかば
捕方の者共長庵が宅の
表裏より一度に込入たる然るに長庵は
諺ざに
曰臭い者の
見知ずとやら斯かる事とは
夢にも知らず是は何事ぞと驚く
機會に上意々々と
呼はるを長庵は身を
退り人違ひにも候べし此長庵に於て御
召捕に
相成覺え更になしと
大膽にも
言拔んとするを
捕方の人々聲をかけ覺えの
有無は云ふに及ばず
尋常に
繩に掛れと大勢
折重なりて取押へ遂に繩をぞ掛たりける
頓て引立られし長庵が心の内には
驚怖ども
奸惡長し
曲者なれば何の調べか知ねども我がした惡事は
皆無證據何樣に吟味筋が有るにもせよ此長庵が
舌頭にて左りを
糺せば右へ
拔右を問はゞ左りへ
綾なし越前とやら
名奉行でも何の
恐るゝ事やあらんと
高手小手は
縛めの繩の
縷さへ戻す氣で引れ行くこそ
不敵なれ。
偖又大岡越前守殿
役宅の白洲には
召捕來りし村井長庵高手小手に
縛められ
砂利に居づくまる時に越前守殿
出座ありて村井長庵と
呼るゝ時長庵ハツと答へければ越前守殿
尋問らるゝ樣其方儀
去る寶永七年八月廿八日の
未明に芝札の辻にて其方弟十兵衞
横死の
節北の役所へ差出したる口書の儀何と
認めたるや覺え
有ば申立べしとの事により長庵は驚きしが少しも其色を見せず
空涙を流して只今御尋ねに付思ひ出し候ても
歎かは
敷は私し事其前夜より病氣にて立起も自由
成ずして
當朝弟十兵衞
出立の見送りも致さず
獨り立せしゆゑ
闇々と人手に掛り相果候事殘念今に忘れ申さず候と
泣々く申立ければ越前守殿是を
聞れ其節其方が病氣と
有ば見送りの出來ぬは
道理なり
併しながら大金を
所持せし者を
夜更に
出立致させたるは
不審き事なり何故夜明て後出立致させぬそと有りけるに長庵
然ばにて候私儀
呉々弟に夜が明て後
出立致し候樣に申聞せ候へ共
在所に殘し置たる妻や娘に一
刻も早く
安堵させ度
旅は朝こそ
敢果取れば
最早寅刻も
過たるゆゑ少し
歩行ば夜も
明なんと止むるを聞で
出懸しまゝ私しも病氣ながら
起上り止る
桐油の
袖振切首途を
爲つゝ賊難に
罹りたるは如何なる前世の
宿業にやと
諦め候より外に致し方
無之と申立ければ越前守殿
假令弟十兵衞が何と申共一日や二日で
歸村の成る
可所にも非らざれば
強ても止むべきが兄たる者の
情ならずや其方が
仕成方甚だ以つて其意を得ずと申されければ長庵は
病中故心に任せず
今更後悔仕つり候併し先年中山出雲守樣の御
裁許濟に相成候事と申す時越前守殿
礑たと
白眼れ如何に長庵其方病中にて見送りさへ致し得ぬと申しながら何として其廿八日の
未明に平川天神の裏門通りを
傘をもさゝず
歩行致したるやと
大聲に
尋問られしかば
流石の長庵内心に
驚怖と雖も
然有ぬ
體にて這は思ひも寄らぬ御尋問を蒙る者
哉然樣の儀は更に
覺え
無御座候と何の氣色も無く申し立ければ大岡殿
覺え無しと云はさぬぞと言はるゝをも待ず長庵其人殺しは浪人道十郎と
定まり御
吟味濟に相成たる儀を何故今更に疑ひを以て私しへ仰せ
聞らるゝやと申立るを越前守殿
聞れ
默れ長庵其
砌りは
確然とした證據人の
無りし故なり此度は其
節の證據人と對決申し付る間其時
有無を
答ゆべしと申さるれども長庵は
空嘯き一旦御吟味濟に相成たる
事件を
再應の御調べ
直しは何とやらん御奉行所の御裁許は
兩つ
有樣に存じ奉つると
公儀の裁判所をも恐れず
傍若無人の
言立なれば
越州殿にも不敵の
奸賊なりと目を
着られしかども一旦中山殿奉行所にて
裁許の有りし
事件なれば何と無く
斟酌有て
暫時考へ居られしが又猶申さるゝは其折道十郎なる者吟味
詰に相成りし
譯には之なく
牢死爲したる故其儘に成り
居しなり
存生ならば外に吟味の致し方も有りしならん
然るに只今の一言奉行所の
不行屆の樣に上の御
政度を
批判に及びし條
彌々以て不屆き至極
也右樣の儀を
口走り
後悔するなと云はるゝに長庵は猶も
減らず
面に御吟味の
行屆ざると申たる譯には御座無く全く御
裁許相濟たればこそ道十郎が死骸は取捨仰せ付けられ又た
家財は妻子へ
下し
置れしと申立る時越前守殿一
層聲を
張揚默れ長庵
夫等の儀を
汝に問に非ず道十郎は此儀ばかりに
關はらず
別に仔細有て死骸は取捨申付られたるなり
餘事の答へには及ばず其方其夜は病中にて
他行致したる覺え
無と言へ
共其證據有りや如何にと
尋問らるゝ長庵
冷笑ひ別に證據と申ては御座無候へ共町役人一同其
曉き私し
打臥居り候所へ參り候間皆
能々存じ居候と云へば越前守殿夫は證據に
成難し
仍て此度
再應調べに及ぶなり奉行所には證據人有るぞよ夫にては其方に
明白の申開き
有やと申さるれば長庵私し病氣故弟十兵衞が夜中の出立を見送る事も出來ぬ身を以て
如何ぞ
他行などの出來申べきや其
邊篤と御
賢察下され度と
誠しやかに
陳ずる
形容越前守殿見られて
態と
面を
和らげられ其方は
強情者なり追て證據人を呼び出し對決申付る其節
閉口致すな依て吟味中
入牢申付ると
後の一聲高く申渡さるゝに
兩人の同心
立懸り長庵を引立て傳馬町へと送られしは
心地能こそ見えたりけり
嗚呼天なる
哉命なる
哉村井長庵弟十兵衞を
殺害せし寶永七年
[#「寶永七年」は底本では「寶永六年」]八月廿八日の事成るに八ヶ年の
星霜を
經し今日
露顯に及ばんとする事
衆怨の歸する所にして
就中道十郎が
無念の
魂魄とお光が
貞心を神佛の助け給ふ所ならん恐るべし
愼むべし。
偖翌日大岡殿には願ひ人長助光并びに
證據人麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞
相手方村井長庵とを呼出しになり越前守殿
出座有て一同
呼上る時大岡殿忠兵衞へ向はれ其方事今日は長庵と
對決申
付る間天神の裏門前にて同人に
逢たる趣き
發輝と申立よと申渡され次に長庵其方の弟十兵衞出立の
朝は病中にて有りしと申が平川天神裏門通りを其朝まだきに傘をも持ず歩行せし時其方に
行逢ひし者あるよし然る上は其節病中との申立は
僞りならんと有りければ長庵
不審さうなる
面色して決して他行は
勿論門へも出申さず候と
誠しやかに申立てけるにぞ然る上は證據人をと申さるゝ時麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞
直ちに白洲へ
呼込と相成長庵の
側らに
蹲踞る是を見て
流石の長庵
少しく
顏色變りしかば越前守殿
最徐かにいざ長庵夫に
居る忠兵衞こそ彼の日の
曉きに其方に
逢し趣きなりと云はれしに長庵は忠兵衞を
尻目に
掛恐れ
乍ら申上候何者が
斯る事を
言上に及び御疑ひを
蒙り情け無くも
仁術を
旨と仕つり
平生慈善を心懸候某を御召捕に相成し哉と存じ居候所扨は此忠兵衞が
仕業成か夫にて漸々相分り申候此忠兵衞事私しへ對し
遺恨の儀御座候に付
斯は
計らひ私しを
亡者にせんとの
巧みに相違御座なく候と申立るに大岡殿
而其方忠兵衞より請たる
遺恨と云ふは如何の
譯成ぞと云はれければ長庵此儀は
些私しの口よりは申上難く候とて
恥入たる
容體に見えける故越前守殿兎も角も其方忠兵衞に遺恨を請し次第を
審らかに申立よと有りしかば長庵然らば
言上仕つり候
實は私し事忠兵衞の
妻富と久しく
密通致し居候處
煩腦の
犬追ども去らず
終に先月の
半頃忠兵衞に
見顯はされ面目も無き次第故私しも覺悟を致し
斯成上は
重置かれ
眞二ツにせらるゝとも致し方無く思ひ
切て云ひけれど忠兵衞儀は妻に
未練の有る處より私しばかり殺す
譯にも
相成ず其場をも見遁し
呉候間此大恩は忘れまじと其以後は
急度愼しみ
罷り
在候然るに私しを
生置ては妻の事心元無く思ひてや
謂る犬の
糞にて敵きと申如く
有もせぬ事を申上長庵を
罪科に
陷し
入己が女房をば其儘に致し置べき忠兵衞が
巧みと心得候
見顯はされし其
砌り助け
呉しは却つて
仇にて情け
無了簡に候と涙を流して申立しかば越前守殿
倩々聞れ
扨々珍らしき事を
聞者哉其趣きならば汝は立派な
好男子也併しながら忠兵衞妻は
餘程好者なりと
戯ふれられしかば長庵
眞顏にて
否さ世には
相縁奇縁と申事も御座候と申けるは如何にも
不敵々々しき曲者なり越前守殿如何に忠兵衞長庵の申立
而已にては
胡亂なり先月
中旬の
頃其方が
妻富儀長庵と
密通の場を其方露顯はせし事のありやと
尋問られしに忠兵衞は
然樣の儀は一切御座なく候恐れながら私し
家内に限り右樣密通など仕つる者にては御座無く候と申立ける時大岡殿
然ば其方が妻富を明日
召連べく旨忠兵衞并に
差添の町役人へ申渡され
白洲は引けければ忠兵衞は心も空に立戻り
云々なりと長庵が
言掛し事を
咄すにぞ女房お富は
惘れ
果暫時言葉もなかりしが夫と云ふも皆お前が
埓も無き事を云ひ出してこんな
騷ぎに成りしなり初めから私し
呉々口止をして
置たるを後家のお光に
迷ひし故口走りたる
事成んと立たり居たり
狂氣の如く
悋氣交りに
騷ぐにぞ忠兵衞は更に
生たる心地もなく
何う
成事やと夜の目も
合さず
早翌日にも成りければ
止事を得ず夫婦
連立町役人に
誘引れ奉行所さして
出行けり
頓て白洲へ
呼込れけるに長庵は
那の忠兵衞めが
入ざる事を
喋りて
斯る
時宜に及ばせたれば今日こそは目に物見せんと覺悟を
極めて
引居ゑられたる其
折柄越前守殿一通り忠兵衞が妻のお富へ尋ねの有りし
上相方の申立
方相違に依て對決申渡す長庵も
毛頭他出は致さぬとの
趣きなり忠兵衞に於ては胡亂なる儀申立ては
相濟んぞ心を
鎭めて對決に及ぶべしと申渡されける依て三人は
顏を見合せ居たりしが忠兵衞
頓て長庵に向ひ長庵殿如何に
貴殿に
恨み有などと云ふ事は思ひも
寄ず
然ども八ヶ年以前八月廿八日の
[#「八月廿八日の」は底本では「八年廿八日の」]曉き
方平川天神へ私し
朝參りの
戻り
掛同所裏門前にて貴殿に
逢し時
衣類の血を見て貴殿に尋ねしかば犬を
切しと云れたる事のお覺え有らんと云ふ顏を長庵はつたとねめ
付汝れ忠兵衞
貴樣も
餘程愚痴なる奴かな如何に女房に
未練が有ればとて餘りに
憎き
仕方なり此長庵が
生て居て心配なるとか又近所で
安心成ぬと思ふなら
何所へ
成共引越なば
仔細は有るまじ
勿論燒ぼつくいには火の
付安き
譬へも有れば不安心に思ふも
道理なり然し一
旦勘辨した事を又別段に手を
替て此長庵を
暗き所へ
迄入たるは餘りの
口惜き次第なり
最初斯の如きの
了簡ならなぜ男らしくせざるぞや貴樣に
日外申せし通り
重ねて置て二ツに
成と四ツに成と
勝手にすべき者をと云ひければ忠兵衞は
頭をあげ長庵殿には
取逆上しか貴殿の云ふ事少しも分からず申せば長庵聞て譯らぬとは
麁言なり貴樣こそ
取逆上せしと
見たり
密夫仕たりと我口より云て居る此長庵を殺さば殺せ覺悟なりと己れが
舊惡の
顯はれ口を
横道へ
引摺込で
防がんと猶も
奸智を
運らしけるに忠兵衞の妻お富は長庵が
云事を
始終默して聞居たりしが
眞赤に成たる顏を
上げ若し長庵殿
言事にも程が有る
近所には居らるれどもお前とは
染々物言換した事も無いに私しと
密通を仕て居るなどと根も葉も
無事を
何程言ても
此方が知らぬ事なれば
構いは無けれど御
上の
御前夫の手前私しは
面目ないぞへと云へば長庵
大聲揚此女め今と成て御上の前夫の手前の
憚るも
能出來た
連て
迯て
呉ろの一
緒に殺して呉ろのと言た事を忘れたかと
誠しやかに
罵しればお富は
惘れて涙も出ず
暫時默して居る
容子に大岡殿は長庵が
言掛なりと思はるれど
態と
詞を
弛められ
双方無證據の
爭ひなれば猶吟味を
遂んと申されるを
聞忠兵衞は
堪り
兼長庵事私し妻と
密通を年來致し居候由
何の頃よりの事なるや又其
都度々々の事
合宿は
何處成や長庵へ御
尋問の程願ひ
上ますと申立ければ越前守殿
微笑ながら如何にも
道理なる
尋なり
如何に長庵
何頃より
通じ
合幾日何方にて出合しや
有體に申立よと
有にぞ長庵
然ばにて候一兩年以前より
度々密通に及び候間日月の儀は
失念致し候場所はいつも私宅にて出會候處忠兵衞に先月の中旬頃見付られ候と申ければお富は大いに
怒りまだそんな
有もせぬ事を云ふ人哉第一先月の
頃は
子宮病にて醫者に
懸り
勿々そんな事はとお富の答へを大岡殿打聞れ斯ては長庵其方の
僞りに相違なし
子宮病と有ばよも
奸通は致されまじ然る上は其方先月
密會の
折忠兵衞に見顯はされしと言ひしは
跡形も
無事ならんと言はれるを長庵ぬからず成程先月頃は病氣にて
密通致さねども
唯寢て居し處を
見顯はされしと云ひ
直さんとするを越前守殿大音
揚汝れ長庵初めは密通に及びし處を見付られたりと云ひ只今富が申立に
泥みてたゞ寢て居た處などと云ひ
紛らせし段
重々不屆至極なり假令此上如何樣に
陳ずる共決して申譯は相立ずと
天眼通の一言に流石の長庵
否夫はと云たばかりで答へもなく
差俯向て居たりしかば大岡殿長庵を見られ依て一事が萬事なり十兵衞を
殺害せしも其方が
業に
相違有まじ然るを道十郎に
寃の罪を負せ公儀を
僞はる段重々
不埓の奴なり
斯成上は有體に申立よと
諭さるれども一言の答へもせざれば其日は
みつ并に忠兵衞
夫婦を下られ其後段々長庵を吟味の上願ひ人光并に
店請人清右衞門をも呼出され
傘の一條其外種々取調べと相成り長庵の惡事
顯然なりと雖も當人は曾て知らざる旨申
張何分白状に及ばざれば是非無く
拷問にかけ石を七枚迄
抱せると雖も一言も云はざる故
暫く拷問を止めし
中追々長庵が惡事數ヶ條
綻びけるは天の
容さざる
[#「容さざる」は底本では「容さざさる」]所と云ふべきのみ
爰に彼長庵が惡事の
手先を
働らき十兵衞の女房お安を吉原の
中反圃にて殺害に及びし
小手塚の三次
舊名は
早乘小僧の三次其頃火附盜賊改め石原清右衞門殿へ召捕に成りしに
舊惡追々
露顯しとても助からずと覺悟を極め彼長庵に
頼まれて先年淺草中反圃にて十兵衞の女房お安を
殺害なしたる一條逐一白状に及びしかば町奉行所へ引渡に相成其年の
舊記を御調べ有りけるに「正徳三年十二月十八日 百姓
體の女の
死骸年三十七八歳位
衣類木綿手織縞布子木綿じゆばん
半纒を着し身の
疵所脊より腹へかけ
切疵一ヶ所脊より
突貫したる疵一ヶ所
咽へ
突込し疵一ヶ所兩手の
指不殘切落しあり右之通り心當の者是有候はゞ月番松野壹岐守役所へ申出べく候事十二月」右は
其節見知りの人も之れなく御取
片付と相なりしに三次の申立により十兵衞の妻お安なる事相分り彌々長庵の重罪
相顯れしかば越前守猶長庵を取調べられ三次が白状の
趣きを申聞らるゝに長庵心中に是はと
仰天なせしかども
急度腹を
居ゑ
是とても更に知らずとの申立によりて又もや三次を
呼出し
突合せの上吟味有りけるに長庵三次に向ひ
拙者は村井長庵と申町醫なり貴樣には何と
云人成や見し事も無き御方なりと
素知ぬ顏して云ひけるを三次聞て大いに笑ひ何と云はるゝや長庵
老牢屋の
苦しみにて眼も
暗みしや
確乎し給へ小手塚の三次なりと云ひければ何ぞ
牢内の苦しみが
強ければとて
知己の人を
忘れんや更に貴樣は知らぬ人なりと
再度云へば三次は
呆れ
果嗚呼讀たり長庵
老お安の一件を
己が白状せし故其惡事を
隱さんが爲にとぼけらるゝか其所らは貴殿より此方が
苦勞人最早何も斯も御上へ知れて居る己が白状しねへとてお
互ひに
[#「お互ひに」は底本では「お互に」]助からぬ命
也意地不潔く
愚※々々[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、224-15]せずと
奇麗に白状して
惡徒は又惡徒だけ男らしく云て仕舞と云へば長庵は彌々
空嘯き三次とやらん何を
云己には少しも
譯らぬ
繰言然乍ら弟十兵衞の女房お安も拙者の方へ來て居たが思出せば七年あと
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、224-16]家出して歸らぬ
故如何なしたる事ならんと思ひ出た日を
命日に佛事を
營み居たりしが
偖は貴樣が殺したるかと然も驚きたる樣子をなせば三次は最早やつきとなりとぼけなさんな長庵老屋敷へ出すとお安を
欺むき妹娘を
苦界に
沈め
浮む
瀬も
無罪科を虫が知たかお安めが二人の娘に
逢して
呉れと晝夜を
分たず
口説立逢して遣ればお富をも
賣た惡事が
露顯なし内から火事を出す
都合可愛想だがお安をば
何處かへ
連出し人知ず殺して
呉ろと頼んだことをよもや
今更忘れもしめへと云ふと長庵
落付はらひ夫は
其方が殺した話し此長庵は知らぬ事御奉行樣宜敷御
推察願ひますと申立れば越前守殿
兼て目を
着られし如く是又長庵が惡事なりと思はるれ共本人の口より
白状させんと猶も
詞を
和らげ三次が
斯迄申ても
覺え
無やと言はるれば長庵
然ばにて候此上
骨身をひしがるゝとも
覺え
無事は申上難く候と言ひ
募るにぞ然ば猶後日の調べと
再度一
同下られ長庵三次の兩人は又も
獄屋へ引れける
爰に又伊勢屋五兵衞の
養子千太郎は
舊の番頭久八が
情にて
己の
引負の金迄も久八が自分に
引請終に是が爲に久八は
年來勤め
白鼠と云れし功も水の
泡となし永の
暇と成し事其身を
捨て
養子千太郎の
離縁を
繋ぎ
留しは
最初其身が主人五兵衞を
説勸めて養子となせし千太郎なれば殊更忠義を
盡せしゆゑ千太郎の代とも成るならば舊の支配人に
召使はんと
堅く約束なし千太郎より
書面迄も久八へ渡し置千太郎も久八が忠義の
異見骨身に
染渡り一旦迷ひし小夜衣も長庵の
姪なれば五十兩の
騙りも
[#「騙りも」は底本では「驅りも」]同腹にて
爲たる事ならんと思ふ故
愛想もこそもつき果しかば其後は
絶て
廓へ足向もせず
辛抱して居たりし程に見聞
人毎に久八の忠義により伊勢五の養子も人に成たりと
譽ければ久八も
蔭ながら
悦びつゝ
己れが今の
姿も打忘れてぞ居たりける然るに丁字屋の小夜衣は
伯父長庵が
惡計に罹りて戀しき人の
憂目に逢し事よりして
愛想を盡されしとは
露程も知らざれば
外に
増花の出來もやせしか
若御煩ひでも成れはせぬかと山口巴の
[#「山口巴の」は底本では「出口巴の」]若い者や
女中に樣子を
尋ねてもお
店へ
直には參れねどお文は
都度々々中宿迄御屆け申て置ましたが
其處へも
絶て御出の
無よし
尤も其後お變りなく御
辛抱との事ゆゑにいづれお出で有ませうと取り留もなき挨拶に
詮方盡て小夜衣は
只明暮に
神頼み
神鬮辻占疊算夫さへ
驗の有ざれば二
階廻しの吉六を
一寸と云て
小蔭へ
招き今日は
何樣[#ルビの「どう」は底本では「どい」]とも
都合[#ルビの「つがふ」は底本では「つのふ」]なし是非若旦那へ此文を手渡しにして今夜にも必ず御出の有やうに
其言傳は
斯々と
幾干か
小遣ひ
握らせれば事に
馴たる吉六ゆゑ委細承知と
請込つゝ三河町へと
急ぎ
行湯屋の二階で
容子を
索搜密々呼出し千太郎に小夜衣よりの
言傳を
委しく語りおいらんは明ても
暮ても若旦那の事のみ云れて此頃は
泣てばつかり居らるゝを
何程御店がお大事でも
絶てお
足の
向ぬとは餘まり
氣強き罪造り
何樣かお都合なされし上
一寸なりともお顏をみせてと云を打
消千太郎は是さ吉六殿お前迄が
馬鹿にして此千太郎を
欺す氣か
那の小夜衣の
狐阿魔面に
似合ぬ
薄情者お前は知らぬか知らねども
彼奴は
伯父の長庵と
腹を合せて
先々月己から金を五十兩
騙り取たは是々の
始末で己の命をも
既に
捨んとせし程の
騷ぎを
爲て置ながら又今となり
逢たいとは如何に
欺すが
商賣でも餘りに
壓が
強過ると取ても付ぬ挨拶に吉六
暫時呆れしが夫は長庵が一
存の
惡功みせし事ならん小夜衣さんに
限つては
其樣な御人じや御座りません
早速歸つておいらんへ其御話しを致しませうと吉六
息切立戻り一
伍一
什を小夜衣へ話せば小夜衣
仰天し
那の伯父さんの
惡巧み大事の/\若旦那を
愛想盡しをさせるとは思へば/\
恨めしと
齒噛をなせしが其
儘にウンとばかりに
反返れば姉丁山も
駈來り
漸々にして氣は付共前後正體なく
伏居を丁山吉六
力を付
最一度文を認めさせ又吉六を三河町へ急がし
立て遣ければ猶千太郎を
呼出し小夜衣よりの
言傳と有し
樣子を
物語り文も
爰にとさし出せど手にだに
取ず千太郎は
袖振拂ひ立歸るを
暫時と止め
種々に
請勸めし
故澁々に
文取上て
封押切讀に
隨ひ小夜衣は少しも知らぬ
眞心見え伯父長庵が惡事を
歎き我身を
悔ち
悲しむ
體如何にも
不便と思ふより
忽に
狂ふ心の
駒良引止ん樣もなく
然樣なら
今宵一
走りと彼の久八の
異見も
忘れ何れ返事は
逢ての上と言ば吉六
〆たりと
雀躍なして立歸りぬ
夫より千太郎は
店の
都合を
言拵へ我が家を出ると小夜衣が
許へ其
儘到りしかば
絶て久しき
逢瀬かと
外の客をば
皆斷り其宵ば部屋に
差向ひ伯父長庵が
惡巧み何と御
詫の仕樣もなく私しまで
嘸や
憎しと思すらん然は
然ながら
夢にだも知らぬ此身の事なれば
只堪忍をと
歎かれて
終に心も
打解つゝ再び
迷ふ千太郎忠義一※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、227-1]の久八が
異見の
釘を
寛し事嗚呼是非もなき次第なり。
天命は
是耶非耶と
言るは
伯夷傳の
要文なるべし
爰に忠義に
凝たる彼の久八は
辛き
光陰は
送れども只千太郎の代に成て
呼戻さるゝを
樂しみに
古主の
容子を聞居しが此頃人の
噂さには伊勢五の養子千太郎は
再度小夜衣の
許へ
通ひ初めしと聞えしかば以ての
外に
驚けども是は全く人の
惡口成ん千太郎樣にはよもや我が
異見を
忘れはしまじと
打過けるに或日朝まだきに吉原土手を千住へ赴かんと
鐵砲笊を
肩にかけて
行過る
折柄向ふより御
納戸縮緬の
頭巾を
冠り
唐棧揃ひの拵へにて
疊つきの
駒下駄を
穿身奇麗なる若い者
此方をさして
來掛るを
近寄見れば
紛ふ方なき千太郎成ければ是はと思ひし久八よりも千太郎は
殊更に
驚怖きしが
頭巾を
取何喰ぬ顏にて是は久八殿何所へ
行るゝや私しは千住の天王樣へ朝參りの歸りなりと云ふ久八
熟々打詠め
涙をはら/\と流し
這は
情けなき
御心哉假令何と
云紛らさるゝとも朝歸りは知れてある未だ御身持を
直し給はぬか今の我が身が
辛いとて御
異見申では御座りませぬ
皆御身の爲なれば少しは以前の御難儀を思し召されて御
辛抱を成さる事は出來ぬかや
此後は
屹度愼むと
堅き
誓ひの御
言葉をよもや忘れは成るまじとかき
口説れて千太郎は何と答へも
面目なく
消も入たき
風情なり
稍有て久八に向ひ段々の
異見我が
骨身に
徹へ今更
詫んも樣なし以後は心を
入替て
急度辛抱する程にと
泣ぬばかりに
詫ければ久八も
漸々面を
和らげ
猶種々と異見に及び御歸りの
遲く相成てはと別れて猶も後見送りしが千太郎は
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、227-15]らずも久八に
行逢面目なきまゝ兩三日は
辛抱なせしが
程過るに
隨ひ又もや夜
毎に通ひ居たりしに其後朝歸りの
道すがら向ふより來るは又々久八なれば夫と見るより千太郎は土手下へ
駈下り
畔傳ひに
後をも見ずに
迯さりけり斯ることの早兩三度に及びし故
流石の久八も
憤ほり我が忠義の
仇と
成事如何にも/\
口惜しや今一度
逢て異見せん者をと其後吉原土手の
邊りへ毎朝早くより久八は
出行蘆簀茶屋の
蔭に
潜みて待つとも知らず三四日
過て
飮馴ぬ酒の二日
醉に
重き
額を押ながら二本
堤を急ぎ足に歸る
姿を
遣り過し久八は千太郎が
後ろより若旦那お早うと云ふ聲聞て千太郎は
迯んとするを久八が
隙さず
袂に取
縋り此程もあれほど御
諫申せしにお通ひ成るは何事ぞ其後も度々御見かけ申せど此久八に
隱れ
廻り少しも御身の落付ぬは如何なる
天魔が
魅入りしやと涙を流し
足摺しつゝ千太郎が
胸づくしを
聢と
捕へて異見やら又
呟くやら我が
正直なる心より
狂氣の如く身を
震はしこなたへ御座つて篤くりと此久八が言事を御
聞成つて下されとまだ朝まだきで人通りの無を幸ひ
中反圃の地藏の影へ
引摺行猶段々と異見をなすに千太郎も我が身ながら
餘りとや思ひけん一言も言ず
只々許したまへとばかりにて
兎角するうち久八が忠義一※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、228-8]に手先迄
凝固りて千太郎が
咽喉の
呼吸を思はずも
締たるものか千太郎はアツと
仰向に
倒るゝにぞ久八大いに
驚怖周章是は
如何して
能からんと
田溝の水を
手拭に
浸して口に
含ますれど全く息の絶たる樣子に久八今は
途方に
暮天を
仰ぎ地に
伏て
悲しみ歎き我が身程世に
因果なる者はなし主人の養子が
引負を身に引受てかく
恥も若旦那樣を
眞人間にして上たさに
厭はゞこそ
猶御異見を申氣の如何に
凝とて此手先と我と我が手に
喰付しが覺悟を極め此
趣きを御番所へ自ら
訴へ
公けの御
法通りに御仕置を受るが
切ての罪
滅ぼし
[#「罪滅ぼし」は底本では「罪減ぼし」]然樣じや/\と
獨り
言頓て千太郎の
亡骸に打向ひ
餘りあなた樣の御身の上の御爲を思ひ
込斯の
始末に及びし事御
詫は程なく
黄泉にて申上てと
伏拜み夫より一
散に南の町奉行所へ
駈込私しは主殺しの
大罪人御定法の御
仕置願奉つると申たてければ役人共は一時
發狂人と思ひしが
容易ならざる
訴へなれば
直に一通り
調べ有て
繩を
懸られ越前守殿の
白洲へ
呼込と成しかば久八有し次第を逐一に申立し時既に其場所よりも
横死人の
屆け出けるにより先久八は
入牢申付られ
檢死を其場所へ
遣はし取調べに相成けるに年頃廿二三歳身のうちに
疵所是なく
咽を
縊りし
體にて伊勢屋五兵衞の養子千太郎に相違
無趣きは久八より申立にて知られし事なれば
直に三河町の伊勢屋五兵衞を
呼出しに相成五兵衞より
親里の
富澤町甲州屋吉兵衞方へ知らす夫より
同道にて
彼土手下檢使の場へ
罷り出吉兵衞二男にて五兵衞方へ
養子に
遣はせし千太郎なる
旨口書になり右に付
死骸は五兵衞吉兵衞の兩人へ引渡しに成たりける元より久八が
縊り
殺したる
趣き
自訴せしかば翌日甲州屋吉兵衞伊勢屋五兵衞久八の
伯父六右衞門一同等御
呼出しにて調べとこそは成りにけれ。
然程に大岡殿には
翌日
直樣吉原
土手下の人殺し一
條調べとなり其人々には
駈込訴人石町二丁目甚兵衞
店六右衞門方同居久八右久八
伯父六右衞門久八元主人神田三河町伊勢屋五兵衞代金七富澤町甲州屋吉兵衞等なり越前守殿久八を見られ昨日
相尋ねし通り
其方舊主人養子千太郎を
締殺せし
段最も
重罪なり然ながら
後悔致し
自訴に及びし段
神妙に
似たり其
始末は何故何樣の
所業に及びしや
仔細有る事ならん
眞直に申立よと有ければ久八
首を
垂私し事
計らずも千太郎を
締殺し候別段に
仔細と申は是無全く
誤[#ルビの「あやま」は底本では「あやつ」]つて殺せしに
相違御座なく候と申立るに大岡殿否々
只誤つて殺せしと云ふこと有まじ
何成とも事
柄を
包まず申立よ又六右衞門其方事何等の
縁合を以て此久八をば世話致し
居や
且此度の義に付心當りも
是有ば申立よと申されし時六右衞門
愼んで
頭を上げ私事は生國三州藤川宿に御座候藤川
近在に
罷り
在候兄の久右衞門儀先年
捨子を
貰ひ
請慈しみ養育なし廿箇年以前私し方へ
連參り
何方へ成共奉公致させ呉候樣にとの事に付私し世話致し
則ち三河町伊勢屋五兵衞方へ奉公
住致させ候處一事の
誤りも無奉公を大切に勤めし故主人の氣に
適ひ店の
支配をも任せられ私し儀も
安堵致し居候に昨年
不慮の儀にて永の
暇に相成廿餘年の
勤功を水の
泡となし其上此度の大罪私しに於ても
何故に右樣
所業致し候
哉更々分明申さず候と申立る依て一同へも
段々の
手續尋問に相成翌日又々久八六右衞門兩人を呼出して
猶又調べの處六右衞門申立る樣昨日も申上候通り久八儀誤りにもせよ主人を
害し候など申儀は私しに於ても一圓
合點參り申さす候
此度の一條何分にも其意を
得難きことに候
當時賤き
渡世を致し居候ても
正直一三
昧に
出精致し居候と申上ければ越前守殿久八に申さるゝは其方事昨日も
尋問る通り千太郎を
害したるには
別に仔細の有事
成ん其仔細も
有ば包まず
有體に申立よと有りければ六右衞門久八に向ひ御奉行樣の
仰せなり其次第を包まず委細に申立よ千太郎殿の事に付ては
取分影に
成日向に成て心を
盡し又大旦那五兵衞殿へ廿年來
律義に勤て主思ひの聞えも取たる其方成らずや何とて千太郎殿を
締殺したるや我にも更に仔細が
譯らず
一伍一什を御奉行樣へ申上よと六右衞門の言葉に久八涙を流し只今
伯父六右衞門申上たる通り二十箇年以前五兵衞方へ奉公住仕つり居り候處
據ころなき
譯合にて私し五十兩の
遣ひ込に相成終に
永の
暇を受候儀に御座候又千太郎儀を誤つて
殺害せしも
畢竟は其と
云懸しが口
籠り何事も皆前世の約束と
斷念め居候得ば一日も早く御
仕置を願ひ上候又伯父樣にも是迄の事と思し
召下されよ
兎角不屆者と
御憎しみも候はん殊に長々の世話に預りたる御恩をも報じ申さず
未來永々の不孝此上なく是ばかりが
殘念に候なり何卒此段御
勘辨下されよと
首を
砂利に摺付
暫らく
泣伏居たりける越前守殿
否是には何か深き仔細ありと見て取られ
押返して如何に久八其方事御
所刑の儀は願はずとも
遁るゝ事に非ず
然ながら
公儀に於ては
事實の
分明ならざる上は假にも御
所刑には爲給はず其方唯今申たるには千太郎を
締殺したるも
必竟はと言しが五十兩の金子の事ならん其五十兩の
引負金と云は如何の譯にて何に
遣ひ
捨しや
有體に申立よとの事に至り久八は元より千太郎の引負金を我身に
引請たる事
情を今さら云出せば主人千太郎を
締殺したる
而已ならず同人の
惡名迄も
顯はすこと本意なしと思ひける故今迄は
聊かも
[#「聊かも」は底本では「聊も」]云ひ出さず
包み
隱して居たりしが
段々嚴重の
尋問に
公儀を
僞はらんも
恐れありと思ひ定めて
漸々顏を上げ追々事を
譯ての御尋問に付此上は包まず申上るなり
舊主人伊勢屋五兵衞事世
嗣の男子これなく
相應の養子も
有ばと
探索るうち千太郎事を申込候者これ有しに五兵衞
持參金が
無ては
不承知なる由を承まはり私しより段々と五兵衞へ申進め終に千太郎を養子に致し候儀に御座候然るに千太郎
若氣の
誤りにて新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏抱へ遊女小夜衣に
馴染し處同人伯父麹町三丁目町醫師村井長庵に小夜衣が身受金也と
欺むかれ五十兩
騙り取れ候由其
節千太郎の
容子怪敷見受候まゝ私し異見を爲し樣子を承まはり候へば
云々なりと申に付千太郎の一時
店より
持出せし五十兩を私し
引負金と
爲て永の
暇になりし節千太郎へ
呉々異見を申以後
急度愼み候筈に付私し儀も
嬉しく存じ五十兩の金子は今以て私しより少しづつ
返濟致し居候然るに先日私し事千住の
紙屑問屋[#ルビの「かみくづくどひや」は底本では「かみくづくとんや」]へ參りし
途中吉原
堤にて千太郎が朝歸りの體を見受候まゝ其の
節も
厚く異見仕つり必ず遊女通ひ相止候
積りの處兩三日
過又々土手にて見受候得ども私しの
姿を見るや
否直樣横町に
隱れ候事三度に及び候故餘り殘念に存じ其翌日より千太郎の
戻り道に待受
居漸々面會致し候間土手下より中反圃まで
胸ぐらを取て
連行悔しいやら
悲しいやらにて
夢中に成
萬一手を
弛めなば
迯出さんとなす故我知らず
強く
押へしに
過りて
咽の
呼吸を止めしにや息の
絶えたるに
驚きつゝ
種々介抱成けれ共
蘇生る
容子も
無暫時に
冷たくなり候まゝ當御奉行所へ御訴へ申上候儀に御座候と申立ければ
慈仁無類の大岡殿ゆゑ
忽ち久八の
廉直なるを
悟られ然も有べし/\とて其日は
白洲を
閉られけり。
偖も享保二年四月十八日越前守殿には今日村井長庵が
罪科悉皆く
調べ上んとや思はれけん此度の一件に
掛り合の者どもを
悉皆呼出され村井長庵は
兩度の
拷問にても
白状せざる事故
身體勞れ
果かゝる
惡人なりと
雖も
天定りて人を
制するの
時節到來なし目も
當られぬ有樣にて
繩つきの儘
白洲の
中央へ
引据られたり次に久八並びに小手塚三次又神田三河町二丁目
家持質兩替渡世伊勢屋五兵衞富澤町の
古着渡世甲州屋吉兵衞新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏代文七右半藏
抱へ
遊女文事丁山
同人妹富こと小夜衣石町二丁目甚藏店六右衞門麹町三丁目
瀬戸物渡世忠兵衞ならびに同人妻富右町役人共一同
御呼出しと相成り右一件願ひ人赤坂傳馬町二丁目長助店道十郎後家みつ
悴道之助右光
店請人同所清右衞門右家主長助
都て
掛り合の者
殘らずにて廿有餘人呼出しに相成
偖大岡越前守殿千太郎父吉兵衞養父五兵衞兩人の名を
呼れ
其方共千太郎の
死骸引取候
節差出したる
口書の通り相違はこれ無やと
尋問らるゝに兩人如何にも仰せの通り相違御座なく候と申立ければ大岡殿又六右衞門其方
儀久八の申立に付何ぞ
證據ありやと云るゝ時六右衞門は千太郎より久八へ
渡し置たる一
札を
目安方へ差出しけるに越前守殿
熟覽有て長庵に向はれ其方事
豫々惡事の段々
露顯に及びたり未だ三次に
頼んでお安を
殺させたる一條並びに
札の
辻に於て弟十兵衞を
殺したる儀とも
明白なるに何とて
白状に及ばざるやと申されるを聞て長庵は猶も
恐れず
勿々以て左樣の事ども
更に
覺え御座無候程に
白状などとは思ひも寄ぬ事なりと
大膽不敵にも白状せざれば越前守殿は
丁字屋半藏
代人文七と
呼れ其方
尋問る次第
巨細に
答へ成るやと有に文七
徐かに頭を上げ私し事半藏の家事を
取扱ひ居候得ば
遊女に付候事は委細に辨へ居候と申にぞ大岡殿
然らば
抱へ
遊女文事丁山富事小夜衣の兩人は何人の
周旋にて何れより
抱へたるや
請人等巨細に申立よと
尋問らるゝに文七丁山事は三河國藤川
在岩井村百姓十兵衞と申
實親の
判にて麹町三丁目
醫師長庵儀は右十兵衞の兄なる由にて受人に
相立召抱へ候又妹小夜衣事は十兵衞
死後成故に右長庵
賣主にて小手塚三次と
言者受人に御座候と申立ける時越前守殿如何に長庵姉は十兵衞に
相頼まれ賣しならん
妹の小夜衣は誰に頼まれて
賣渡せしや長庵答へて弟十兵衞
横死の後金子は
紛失致し彌々
身體立行難く十兵衞の妻安に頼まれ賣渡しの節三次を受人に相頼み申候と
聊か
憚る
色なく申立ければ越前守殿
莞爾と笑はれ
其りやこそ長庵
汝の口より追々
尻を
割ではないか
有體に申せよと如何なる
惡人とても成
丈吟味の上にも吟味致さるゝこそ有り難けれ
越前守殿には又丁山小夜衣に
向はれ此長庵は其方共の爲に伯父とは云
乍ら兩親の
敵なり
遠慮に及ばす心得有事は
有體に申立よ猶も妹小夜衣には
別に尋ぬる
仔細有其方が身の代金は
母存生の内母の手にわたしたるやよも母安へは渡すまじ
萬一包み
隱す時は汝等が身の爲に
相成ぬぞと有ける時小夜衣は女ながらも心
男々しき
生質なれば大岡殿の
詞に
隨がひ私し苦界へ
沈し事は父が人手に掛り其上姉の身の代金も
奪はれしとの事を國元にて聞しより母には氣の違はぬばかりにて國元の家を
仕廻私を
連て麹町の伯父の所へ來て居し中姉に
逢してやると此三次と云人と伯父が申のに
欺され丁字屋へ
連られ行し
儘終に身を賣られ是非なく
勤め
居しに其後母は
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、233-4]家出せしまゝ
行衞が知れぬと伯父が話せし程ゆゑ私の身の代金は母の手へは
請取申まじと申立れば越前守殿然も
有らんコリヤ長庵小夜衣が申立は
斯の通り
成ぞ
然すれば小夜衣が
身賣の事を
後家安より其方へ頼むべき
所謂なきにより金子は
勿論安に渡す
譯なし全く小夜衣が申立る通り其方と三次と申合せ姉に
逢して
遣ると
僞りて連出し身を
沈めしうへ身の代金の三十兩は兩人にて
遣ひ
捨たるに
相違有まじ夫故にこそ三次に頼み後の
憂ひを除かん爲又お安をも連出して中田圃に於て殺害に及ばせし成らん右は既に三次が申立にて
聢と相分り居る處なり如何に三次其方事追々申立たる通り相違なきやとの
糺問に三次首を上げ此程申上ました通り十兵衞の後家お安へは妹娘は
或屋敷へ奉公に
上たと
僞り私しと長庵
兩人で丁字屋へ三十兩に
賣代なし其内私しは長庵より
僅かに五兩
貰ひ候處お安も其後妹娘の
行先が
變だと思ふたやら兩人の娘に
逢して
呉れ/\と長庵に
晝夜を
分たず
迫るより逢せて遣れば
化の皮が
顯はるゝにより娘に逢すとお安を
欺むき人なき所へ連出し殺して
呉ろと長庵に頼まれたるが
因果づく中反圃にて殺した
始末思ひ出しても
凄とする是等の話しを
爲事も兩人の娘へ
懺悔也と今
眼の前に見る如く
云々是々斯樣ぞとお安が苦痛の死をなしたる其有樣を申立長庵に向ひ此通りだ
未練らしくとぼけずと
立派に
白状しねへかと三次が
話を聞よりも思はず知らず聲を
揚わつとばかりに
泣沈む
[#「泣沈む」は底本では「泣死む」]母の
横死の有樣が
眼に見る樣に思はれて
姉妹二人が心の
内哀れと言も餘りあり又長庵は是を聞是三次何を云夫は
幾度云ても
汝が殺した話し夫を又此長庵に白状せよと言て
仕舞へのとは何事ぞ某しに於ては何も
言ことはない如何樣人間の命を取ほど有て
不屆きの奴なり此長庵は人を
助くる
仁術に此世を送る家業故
機に
觸ては
定業にて病ひの爲に死す人を見てゐるさへも不便なるにまして
非業の死を遂る有樣は
嘸々恐ろしき事ならん
拙者のやうに氣の
弱き者などは見たばかりでも氣を失なふぞ如何にも貴樣は
肝の
太き男なり是兩人の娘問ず語りの此三次は二人が母の
敵なるぞ
能々御奉行樣へ御願ひ申敵を
討て
貰ふが
能と
懇切さうに申
聞又
居直りて御奉行樣私よりも願ひ上ます妹の安は此三次めが殺せしと承まはる上からは
直にも
打果すべき
奴なるに
現在妹の敵と
名乘に
側に居ながら手も出されぬ我が身は如何に
口惜しと
齒がみをなすを
熟々見られ越前守殿心中に
何程佞奸無類の
曲者にても
斯迄強惡なる
奴は他に有まじと
歎息されしが其方は惡人に
似合[#ルビの「にあは」は底本では「にあひ」]ぬ
未練千萬
成奴なり安女は小手塚三次が殺したるにもせよその三次をば
誰が
頼んで
殺させたるや
汝れ三次に頼んで
殺させたれば己れが手を下して殺せしより
猶以て
不屆なり又最前三次と突合せの節三次をば知らぬ者なりと申せしが其後に至り三次は
知己の趣きに申立る等
前後不都合なり且此程より
追々取調べる通り八ヶ年以前に弟十兵衞を
芝札の
辻に於て
殺害に及び
姪の文を賣たる金子を奪ひ取夫
而已ならず浪人道十郎へ右の罪科を
悉皆く
塗付終に公儀を
欺き
寃に
陷れたる段證據人忠兵衞が申立の通り
聊か相違なく聞ゆ然るに忠兵衞は恨み有者故右樣の事を申立候などと無體の儀を申
掛再度忠兵衞夫婦に
罪科を負せんと致したれ共既に其方の申口相違致したるに付
流石に
申論ずる事能はず
恐れ入たるには非ずや然る上からは一事が萬事を知るべし此上にも申
爭ふに於ては
猶追々嚴重取調べに及ばねば相成ず重ね/″\の憎しみを蒙り
自身も
種々の辛き目に
逢んより事十分に
顯れたる上は惡徒は
惡徒だけの
肝魂の有者なれば
未練と人に笑はれんよりも
流石に潔よき長庵と云るゝやうに白状致して仕舞へと段々理非を譯たる名言を飽まで欺く長庵は
眞面に成り是は新しき仰せ哉成程忠兵衞が妻富と密通を仕つりしと申上しは私し此度
寃の
難題を申し掛られ餘りと申さば
無念さに私とても申掛致し候なり其外の儀は恐れ入べき箇條更々之なく何事も仰せの
趣きは
存じ候はずと事もなげに陳じける時越前守殿コリヤ長庵然らば其方に
猶新しき事を
尋問箇條有汝ぢ三河町二丁目の伊勢屋五兵衞養子千太郎を
欺き五十兩の金を
騙り取たる段相違なきや此儀は證據人の久八
眼の前に
有如何々々と
糺問有しに長庵は
然も
仰天せし
顏色して是は/\又しても御奉行樣の御
難題ばかり私し曾て伊勢屋千太郎などと云名前も知らずましてや五十兩の金子を
騙り取たなどとは
存じも寄ぬ事にて候又久八とやらん何故に右樣の儀を申立たるや其意更々
合點參らす候
嗚呼長庵が
重なる不運の時節成か斯迄人々に
憎しみを受る事醫は人を助ける
仁術の
渡世にて
陰徳有ば
陽報ありとの古語も當に成ず口惜く候と
獨り
言を云を越前守殿
汝れ此上は眼に物見せんと少しく
怒りの色を
顯されしかば一同の者は顏を見合せ如何なる
拷問に掛らるゝやと長庵を
憎しみてぞ居たりけり
又越前守殿は久八の方を見られ如何に久八五十兩の金子を千太郎が是なる長庵に
騙り
取れたる
始末此所にて逐一に申立べしと有ければ久八は愼んで
頭を上げ私
舊主人千太郎事
先般も申上たる通り
若氣の誤りより新吉原江戸町丁字屋半藏の
抱へ遊女小夜衣の
方へ通ひ詰候處右の長庵事は小夜衣と伯父
姪の中に候由にて千太郎と
知己に相成其後千太郎方へ長庵參り申聞候には小夜衣事
木場邊の客人に身受致さるゝにやう相成候得共小夜衣は千太郎の方へ
何卒參り度由長庵へ呉々相談なせしと雖も金づくの事ゆゑ何共致し方御座無候間金子五十兩
何卒才覺致しなば親元身受けに成して木場の客の方は相斷わり長庵宅へ小夜衣を受出し置其上夫婦になすべしと
僞言を千太郎は
現在の伯父の申事故
實情と心得店の有金の内五十兩取出し長庵へ相渡し兩三日過て千太郎は長庵
宅へ
參り小夜衣の事を申せしに長庵儀右樣の金子預りし覺え無之
殊に
逢しことも
無人なりとて更に取合申さず餘りのことに
[#「餘りのことに」は底本では「餘りのにこと」]千太郎段々と掛合に及び候處
却つて長庵大いに
立腹なし
跡形も無事を言
掛候段不屆き者なりとて
散々に
打擲に及び候由右の始末
據ころなく千太郎は立歸りしかど如何にも
殘念に存じ居候より
再度長庵方へ
罷り越長庵を
刺殺し其身も自害仕つらんと
覺悟の
機から私し樣子を見受け候まゝ取敢す引止其事柄を段々承まはり種々異見仕つり候處
全くは小夜衣に心を
取れしより
斯る
巧みに
罹りし事故
已來は
急度小夜衣の事は思ひ切と千太郎申候に付長庵に
騙り
取れし五十兩は其儘
取れ切に致し其五十兩の金子は則ち私しの
引負金に引受候儀に御座候事と
委細に申立ければ越前守殿小夜衣の方を見られ小夜衣其方事も久八が申立たる事ども
覺え有やと
尋問らるゝに小夜衣は長庵が五十兩の金子千太郎より
騙り取し事は千太郎
存生の
節私し方へ參られし折柄委細に聞及びし故甚だ
悔しく思ひ居候と
有體に申立ける程に越前守殿
點頭かれ引合の者共
悉皆く申立により長庵が
惡事箇條明白に
了解たり因つては猶長庵に問ふ事あり
既に久八の申立る通りにて
相違有まじきに猶又小夜衣が申立の趣き
彌々以て相違有まじ此上にも
陳じ
僞はるやと
膝を
進めて申されけり
古語に
謂有其以てする所を
觀其由ふ所を
觀其安んずる所を察す人
焉んぞ

ん哉人
焉んぞ

ん哉爰に
僞り
飾る者有り然れ共其者の
眸瞳の
動靜を
察る時は必ず其
眞僞現るゝと
宜なる哉然れ共
萬一庸人の奉行となりて
強情奸曲の者を調べるに於てをや或るひは
面體惡氣に心は
善良成るも
有或ひに
面體柔和にして
胸中大膽不敵なる者有
所謂外面如菩薩内心如夜刄と
佛も説給ひし如し然れば
[#「然れば」は底本では「然れけ」]其
面體柔和にして
形容も
柔和やかなる者の言事は自然と直なる樣に聞ゆれども其事は
邪心を
含み
工める
奸賊も有り面體
見惡き者の申立る事は言葉續き
荒らかにして
詐り
飾り
有る
樣に聞え品に因ては
裁許の
過りなしとも云難し然れば鎌倉七世の
執權北條時宗を
輔佐して
問注所の總裁職を
勤め美名を後世に
傳へし
青砥左衞門尉
藤綱は
公事訴訟等を聞るゝときは必ず眼を
閉塞て調べられしとこそ聞えたれ
抑々越前守殿此長庵を一目見るより
此奴は
容易ならざる不敵の者なれば
尋常の
糺問にては
事實を
吐まじと思はれしにより
斯は
氣長に
諭しながら
糺問されしなり
然りと
雖も長庵は何事も曾て存ぜずと
而已申立口を
閉て居ければ此上は
詞を以て諭さん樣もなく
拷問に及ぶより外はなしと思はれしなり然れども
猶徐かに長庵を見られ如何に長庵
札の
辻人殺しの
罪を道十郎に
負せし事は
既に忠兵衞と
言證人あり又千太郎を
欺きて五十兩の金子を
騙り取其上千太郎を罵り
打擲に及びし事は久八並びに其方
姪小夜衣が申立と
符合して
明かなり又弟十兵衞の女房
安を
殺させし事は
眼前に汝が頼みし
無宿三次より
疾白状に及びしことなれば如何に其方
鷺を
烏と
爭ふとも
遁るゝことは
叶はず
速やかに白状せよと
諭されければ大膽無類の長庵も
最早叶はじとや思ひけん見る中に
髮髯逆立兩眼に
血を
注ぎ
惡鬼羅刹の如き
面を
振上げ一同の者を
礑と
白眼し其
形容に居並び居たる
面々何れも身の毛も
彌立ばかりに思ひ
斯る惡人なれば如何成事をや言出すらんと
皆々手に
汗を
握りて
控へたる其中にも彼丁山小夜衣の兩人はアツといひて
砂利に
鰭伏戰慄き居たりけり長庵は
齒をぎり/\と
噛締汝等一同
確乎に聞け
汝等は揃ひも揃ひし
鈍愚なるに其の
智慧の
足ざるを思はず
能も我が事を
訴人せし者成かな然ながら今日只今迄は
假令骨々を
斷割れ
鉛の
熱湯は
愚か
水責火責海老責に成とも白状なすまじと覺悟せしが御奉行樣の
御明諭により今ぞ我が
作せし惡事の
段々不殘白状せんと長庵が其決心は殊勝にも又
憎體なり
偖も越前守殿に於ては
夫々確固なる
證據人の有事を
言ざる
奸惡無類の大賊に
似氣無卑怯者成と
思されしに長庵が今ぞ殘らず
白状なさんとの一言に
流石惡徒は惡徒
丈に
了簡を
改ためし者かと言葉を
和らげられ白状するとは
神妙の至りなりと申さるゝに長庵
眼を
見開き御奉行越前守殿に
益も無く
御骨を
折すも
恐れ入ば今こそ殘らず白状爲すなり
仍つて此長庵が身は
刑罰に
成べけれども
魂魄は此土に
止り己れ等一同に思ひ知らするぞ其中にも忠兵衞は第一の
大恩人なり
能も/\八ヶ年以前のことを
事新らしく今更に道十郎が後家に
告口なし此長庵が
命を
縮めさせたるは忝け
無共嬉しいとも
禮が
言盡されぬ故今は
括られた身の
自由成ねば
孰れ
黄泉から
汝も直に取殺し共に
冥土へ
連て
行禮を云から待てゐよ必ず忘るゝ事
勿れと
憤怒の
目眥逆立つて
礑たと
白眼兩の手をひし/\と
握りつめ
齒を
喰しばりし
恐怖しさに忠兵衞夫婦は
白洲をも
打忘れアツと云樣立上り
迯んとするを忽ちに
警固の者に
引据られ
悶絶なさぬ計りなり
稍有つて
泣聲出し是申長庵殿
御死なされし其後にて私し
宅へ
禮などに
御出成るには及びませぬ私しとても
御前には何の
恨みも
無れども八ヶ年の其
昔し天神樣の裏門前で
逢[#ルビの「あひ」は底本では「あつ」]たる事を
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、238-3]らずもお光殿より尋ねられ
迂濶り口が
辷りしを
是非證人に
立べしとお光殿をば同道なし
其處に
居らるゝ長助殿に
談じ付られ
仕方もなく
斯樣のことに成たる
譯何樣ぞ勘辨して下されと兩手を
合せて
泪を流し
詫入[#ルビの「わびいる」は底本では「わいびる」]體こそ
笑止けれ長庵は忠兵衞を
尻目にかけ
默れ忠兵衞
入ざる
汝が
噪々より我が
舊疵を
再發させ
科人の身と成し事思ひ知れやと
言ひながら
奉行の方に打向ひ
割るばかりの
大音揚是迄
爲したる我が惡事を
逐一並べて御
聞せ申さん
然は
然ながら自分でも
忘るゝ程の
數々なればお忘れなき樣お
聞下され此長庵は在所なる
岩井村に在し頃
博奕崩れの
喧嘩より同村に
住勘次郎を殺す氣もなく打殺し夫より村方を
逐轉して此大江戸へ出てより
所々方々の
小稼ぎは言はずと知れし
小盜人盜みし金や
神農も
嘗殘したる
質種を
資本に初めし
醫者家業傷寒論は
讀ねども
醫は
位なりとて
衣服で
驚かし馬鹿にて付る藥
迄舌三寸の
匙加減でやつて
退たる御醫者樣も
斯う成ては
長棒の
駕より
命をしまい
肩ばつた/\と何にもかも
夕べの夢の過たる惡事先第一は
現在の弟を殺して
此所に居る
姪のお文の身の
代金を
奪ひ取たる
後腹は道十郎の
傘で
廣がる惡事を
骨さへ折ず中山殿を
欺むいて道十郎へ
疊み
付又小夜衣を
賣代爲し身の代金は
博奕と酒と女郎買ひに
遣ひ
失し其上に又小夜衣の
手紙を
種に伊勢屋の
養子千太郎を
旨くも
欺き五十兩と云大金を
騙り取其外二十や三十の
小さな
仕事は
數知れず
兎角惡錢身に付ず忽ち元の
木阿彌と
貧乏陶りも
干上る時弟の女房のお安めが娘に
逢せろ/\と
毎日々々迫るのも惡事を
働く
邪魔なるゆゑ子分の三次に申付殺させたるに
相違なし
餘り惡事の
身代が
能過るゆゑに年月の過たる事は
白状するも
面倒なりと申立ければ越前守殿
呵々と打
笑はれ
汝れ長庵
永々強情に申陳じ居たりしが只今と成て能も自分の惡事に相違なしなどと白状せし者哉
併しながら先は
神妙のことなりと言れ
次に久八に向はれ
不便なるは其方なり
如何程千太郎の
惡敷とも主人と名の
付し者を
假令過りにもせよ
締殺したる上からは
五逆の罪は
遁るゝ道無し然れ共其方の身元は元來
捨子なる由
最初よりの事ども
篤と相尋ね度事なり依て
伯父六右衞門に
尋問ん其方
日外一寸申上しが猶委細に久八が人と成の始末申立よと有ければ六右衞門
愼んで
首を
上仰せの如く此久八は元三州藤川宿の町外れに
捨置れし身に御座候(
是より久八の
履歴は六右衞門が申立の
讀續きなれども
人情の
貫徹ざる所も有により
讀本の
口調に
換れば
諸君怪給勿れ)
抑々久八は
去元祿の
頃京都丸山通りに
安養寺と云大寺有り其門前町に住て
寺社巨商等へ出入を爲す
割烹人吉兵衞と云者いまだ
獨身ゆゑ
妻を
勸むる者の多かりしが
軈て
良縁有てお久と
呼る女を
娶りけるが
容貌人に
優れ
殊に
裁縫を
能し
讀書も
拙なからず料理人の女房に
成置は
勿體無きなどと見る人
毎に
言合る程成ば吉兵衞は一方成ず思ひ
偕老同穴の
契り
淺からず
暫時連添内姙娠なし元祿二年四月廿八日
玉の如く
成男子を
儲け夫婦の
喜悦假令るに
物無く
蝶よ花よと
慈しみ
育る
中に間も無
妻のお久時の
流行風邪を
引たるが初めにて一兩日
過る
中に
發熱甚だしく次第に
病ひ
重りて更に
醫藥の
効しも無く
重症に
赴きしかば吉兵衞は易き心も
無殊に病ひの
爲に
乳は少しも出ず成りければ妻の
看病をしつゝ
情け
有家へ
乳貰ひに
赴き
漸々にして
育つれ共
乳の
足ざれば泣
沈む子よりも
猶悲しく思ひ最う此上は
神佛の
加護に
預かるより他事無しと吉兵衞は
祇園清水其外
靈場へ
祈誓を
掛精神を
摧きて我が妻の
疾平癒成さしめ給へと祈りしかば定まり
有命數にや
日増に
勞れ
衰へて今は頼み少なき有樣に吉兵衞は妻の
枕邊に
膝さし
寄彼是と力をつけ
言慰めつゝ何か
食べよ
藥を
飮ねといと
信實に
看病なせども今ははや
臨終の近く見えければ
夫婦親子の別れの
悲しさ同じ涙にふし
芝の
起る日もなき
燒野の
雉子孤子になる
稚兒より
捨て
行身の
親心重き
枕を
揚兼る妻のお久は
熟々と
夫の顏を
打詠め物ごしさへも
絶々に此子を頼む此子をと
云一
言が此世の
餘波涙に
濕る
枕邊は雨に
亂れし
糸萩の
流れに
沈むばかりなり然ば
男乍らも吉兵衞は
狂氣の如く
歎きつゝ
斯まで妻の
顏痩て昔に
變る
哀れさよと
落る涙を
堰敢ず
空しき死骸に
抱き付のう我が妻よ今一度此世に
戻りて給はれや
言事有と
臥轉び
如何成ばこそ
此如く
果敢無縁にしに有りしやと
呼び
叫べど答へさへ
泣ゐる我子を
抱上げ今日より後は如何にせん
果報拙なき
乳呑子やと聲を
放つて
悲しむを近所の人々聞知りて
追々集まり入來り
悔み
言つゝ吉兵衞に力を付て一同に通夜迄もなし
翌朝は
泣々野邊の
送りさへ
最懇に取行なひ妻の
紀念と
孤子を
漸々男の手一ツに
育てゝ月日を送りけり
偖も吉兵衞は
素より
富る身ならねば
乳母を
抱ゆべき
金力も
無情け有家へ
便り
腰を
屈めて晝夜を
分たず少し
宛の
貰ひ
乳を
成又は
乳の粉や
甘酒と一日々々を送る
體側眼で見てさへ
不便成に子の
可愛さの一筋に小半年
程過せしが妻のお久が病中より更に家業も成ぬ上
死後の
物入何や
斯やに家財雜具を
賣喰なし
迂濶々々活計して居たりしが吉兵衞
倩々思ふ樣獨身成ば又元の出入の家々へ頼みても
庖丁さへ手に
持ならば少しも
困らぬ我が身なれど此兒の有故
家業も出來ず此上居喰にする時は山をも
空しく
失なす
道理子供を
何處へか
遣り
度も
些は金子を付ざれば
貰うて呉る人もなし又
貰ひ
乳に行度にも初めの程は
機嫌能呑せて呉し家にても今日は用事で
他行せり
今朝から
風邪の
心地にて
乳の出樣も少なく成
宅の子にさへ飮足らねば御氣の毒だと
斷りを言れて戻る
其つらさ
斯ては終に親子共
餓死より外に
目的なし如何成ばこそ斯迄に
哀れの身とは成けるぞや
思ひ
廻せば
運す程妻のお久に
別れしが此身の
不運不幸ぞと思案に暮て居たりしが所詮斯樣の姿にて
故郷に
恥を
晒さんより
寧そ江戸の淺草にて水茶屋渡世の甚兵衞は
從弟の
縁もある事故彼を
便りて行ならば又
能手段も有べきやと心の内に思ひを定め賣殘したる
家財を集め金に
換つゝ當歳の子を
懷に住馴し京都の我が家を立出て心細くも
東路へ志ざしてぞ下りけり元より
馴ぬ旅と云殊に男の懷ろに當歳の子を抱きての
驛路なれば其
辛さは云も更なり漸々にして大津の宿を
辿り
過打出の濱を打越て
堅石部や草津宿
草枯時も今日と
暮明日の空も定め無き老の身ならねど坂の下五十三次半ば迄
懷ろの兒に
添乳を貰ひ當なき人の乳を當に行先々の氣配りに
難儀艱難辛苦とも
云ん方なき事どもなり漸々にして三州岡崎迄は
來ども
素より
手薄の其上に旅の日數も重なれば手當の
金子をも
遣込殘り少なに成ける程に心は
彌猛に思へども
猶如何に共
爲術なく
必竟斯る
難澁に及ぶと云も兒の有故身の
振方も成ぬなり此上
親子餓死に成行事の
悲しさよ
寧そ此子も妻諸共に死んで
呉なば此樣に今の
困苦はせざりし者と
泣々頼む
貰ひ乳の足ぬ
勝なる
養育に
繋ぐ我が子の玉の
緒の
細くも五
體痩ながら
蟲氣も有ぬ
健かさ
縁有ればこそ親子と成何知らぬ兒に此
憂苦を見するも
過世の
因縁成か不便の者をと
嘆ちしが我から心を鬼になし
道途に迷ふ親の身を
助かる
手便は此
乳子を捨るより外に思案なしと我が子の
寢顏を打
詠め涙ながらに心を定め其處よ
彼處と思へ共
竟に其日は捨兼て同じ宿なる
棒端の
境屋と云
旅籠屋に一宿なして明の朝此所の
旅店を立出て人の
往來の無中に
疾く
捨なんと
右つ
左つ其場所がらを
見歩行折から早藤川にさし掛り夜も
良白む頃なれば
宿外れなる或家の
軒端の下に寢たる子をそつとさし置たち出しが又立もどり
熟眠せし其顏
熟々打ながめ
偶々此世で親と子に成し
縁しも斯ばかり
薄き
契りぞ情なし然ど
汝を抱へては親子が
畢に
餓ゑ死に外に
爲術なきまゝに
可愛我が子を捨るぞや
強面親と
怨なせぞ
只此上は
善人に拾ひ上られ成長せば其人樣を父母と思ひて
孝行盡すべしと
暫時涙に
昏たりしが
斯る姿を他の人に
見咎められなば一大事と二足三足
去掛しが又振返りさし
覗き
嗚呼我ながら
未練なりと心で心を
勵ましつゝ思ひ極めて立去けり
夫
生とし生る物子を愛せざるはなし
燒野の
雉子夜の
鶴皆子を思ふが故に其身の
危きをも
顧みず
況んや萬物の
靈たる
人間界に於てをや然るに情け無くも吉兵衞は妻の死去せしより身代をば
仕舞住馴し
京都を
後になし
孤子を
抱へて
遙々東の
空へ
赴く
途中三州迄は來たれども
殆ど
困窮に
迫り餘儀なく我が子を藤川宿の町外れに
捨たるは是非もなき次第なり
嗚呼勿體なくも一
天萬乘の
皇帝も世の中
下樣の
人情を知ろしめされ賜うて
後水尾帝の
御製に「あはれさよ
夜半に
捨子の
泣やむは母にそへ
乳の
夢や見つらん」とは
夜更て
外面の方に
赤子の
泣聲の聞えしは捨子にやあらんと最と
哀れに聞えたりしが兎角するうちに彼
泣聲の止たりしかば如何せしやらんと思ひぬるうち又もや泣出しける
程に
扨は
今暫し
泣止しは
捨られし子の
夢心に我が母に
添乳せられし所をや見し成んと
一入哀れのいやませしと言つる心の御製なり
又芭蕉翁の
句にも「
猿さへ
捨子は
如何に
秋の
暮」是や
人情の赴く處なるらん
扨又藤川宿にては夜明て
後所の
人々此捨子を見付村役人に屆けなどする中一人の
旅僧鼠の
衣に
麻の
袈裟を身に
纒ひ
水晶の
珠數を
片手に
持藜の
杖を突て通りかゝりけるが此捨子を見て
杖を止め
頓て立寄りつゝ彼
小兒の
袖を
廣げ
腰なる矢立を取出して
筆清らかに
認められしは「
汝父に
疎まれしに非らず母に
疎まれしに
非ず父母
捨るに非ず自分の
薄命なり元祿二年九月
貧暦」と書付て其
儘に
行過ける
兎角する内に村方の役人其外大勢の人
集りて
地頭代官所へ訴へ出ければ役人方
見分の上捨子の儀は村方へ養育申付られ小兒は村方預りと成たるに同村の百姓久左衞門と云者有しが妻
出産の
後間も無く其子病死なし
最本意無く思ひける所乳のあるより村役人に頼まれて此の捨子を
預り
養育せしに追々
馴染につれ
愛も
優りしかば
寧そ此子を
貰ひ受んと夫婦相談の上村役人に申入しにぞ
早速其筋へ屆け
濟の上米三俵を
添て彼捨子を久左衞門へ
遣しける依て名をも久八と附て夫婦の
寵愛淺らず養育しけるに一日々々と
智慧付に
隨ひ
他所の兒に
優りて
利發なるにより
末頼母敷小兒なりと
慈しみける中月立年暮て早くも七歳の春を
迎へ
手習に
通はせけるに
讀書とも一を聞て十を知り
兩親の
言葉を
背く事無孝行を
盡す故夫婦の
歡び一方ならず久八も
手習より歸れば何時も近所の子供と遊びけるが
折に
觸ては少しの
爭ひより
友達子供等が久八の捨子々々と云ければ何とて我が事を捨子々々と云やらんと
泣顏にて我が家へ歸へり久左衞門夫婦に向ひて
友達衆が
喧嘩がてらに私しの事を捨子々々と毎度
言罵しるは何故にやと
不審氣に
尋ねられ久左衞門夫婦は顏見合せ
暫時默して居たりしが
涙を
流し
何故にも
道理なる尋ねなり今日まで云ざりしが
實は其方事七年前藤川宿の
町外れに
棄て有しなり其時其方の
袂に
書付て有しは是なりと彼の
僧の
落書まで殘り無物語に及びければ久八は子供心に我が身の上を初めて知り
棄子と云るゝを深く
恥たりけん其後は手習を我が家にてなし遊びにも外へ
出行ことなく
柔和やかに母の手傳ひをして我が家の内に遊び居るを養父母も其の樣子を見て取
頻りに其心根を不便に思ひ夫婦相談の上江戸表へ
連行て奉公にてもさするならば
立派な人に成もやせん
幸ひ弟六右衞門が江戸本石町二丁目に渡世して有ければ是へ往て頼み何れへ成とも奉公に
出さんものをと忽ち心一
決爲し久左衞門は
[#「久左衞門は」は底本では「久左右衞門は」]軈て江戸へと久八を連て下り弟六右衞門に
逢て事の仔細を
委敷話し頼み置つゝ歸りけり
因て六右衞門
所々を聞合せけるに神田三河町二丁目にて
彼質兩替
渡世伊勢屋五兵衞方にて子供を
抱へたきよしを聞込早々頼み入れ吉日を
撰んで奉公にぞ
遣はしける
然るに此伊勢屋五兵衞と云は
古今稀なる
吝嗇人にて其
吝き事譬ふるに物なく
所謂爪に火を
燈すとの
例への如くなれば
召使ふ下女下男に至る迄一人として永く
勤むる事なく一
季半季にて出代る者多き中に久八
而已幼年成と雖も發明者にて殊には親に棄られたる其身の不幸を心に
忘れず何事も主人五兵衞の心に
恊ふ樣に萬事に心を
配り曾て
外々の者とは事變り其辛抱は
餘所目にも見ゆる程なれば近所近邊の者に至る
迄伊勢五の
忠義者
々々と評判高く一年々々と
年重なりて終に二十年を送りける故
吝嗇無類の五兵衞さへ萬端久八に任せ主人に代りて
取扱ふ樣に成りけるに
彌々人々
賞美して伊勢五の
白鼠と云れて店向の取締りをも爲すこととなりたりけり因て右捨子の次第を具さに六右衞門より申立ければ大岡殿
熟々と聞れ再び
尋問られんとせし時白洲の
端に
控へし彼富澤町の
古着渡世甲州屋吉兵衞は
先刻より久八六右衞門兩人の申立を
聞度毎に
膝を進めて
驚怖ながら久八の
顏をじろ/\と
打詠め居たりしが今六右衞門が
詞の
切たるを見て
恐れながら申上ますと正面へ進み出
頓て越前守殿に向ひ久八事私し二男千太郎を
締殺せしと
自訴仕つりしと雖も
全く
殺したるに非ず千太郎事一
體幼少の頃より持病に
癲癇有之候故其場にて右の病ひ
差發り候儀と存じられ候且つ又千太郎儀は久八の恩義を格別に受居しこと成れば
勿々以て
意趣意恨など有べき樣御座なく候により私しに於て
更々恨みとは存じ申さず候
就ては格別の御
慈悲を以て久八
助命仰せ付られ下し置れ候樣
偏へに願ひ上奉つり候と頻りに繰返し/\願ひ立ける程に有合一同の者共昨日迄何とも言ざりし吉兵衞が
俄かに
遮つて助命を願ふ事
最不審くぞ思ひける扨も此甲州屋吉兵衞と云は其已前京都丸山
安養寺門前に住居せし彼の料理人吉兵衞にして東都へ
下る
砌り藤川宿の
外れへ小兒を棄其後江戸表へ出て
從弟の甚兵衞を頼み所々方々の料理の手間取をして居たる中上野の山内へ出入となり四軒寺町
本覺院の住寺の
贔屓に
預りたり此寺の和尚と云は彼の藤川宿にて先年
棄子の
袖へ
落書なしたる
僧成しが或日吉兵衞へ
行脚せし頃の物語りより彼の藤川宿に於て
棄子の
袖へ
落書なしたる事を話けるに吉兵衞心に
驚き夫は
何時頃の事なるやと
尋問ければ和尚は
指折算へ元祿二年九月の事なりと聞より吉兵衞は涙を
浮べ其子を棄たるは則ち私しなり
其事情は
云々斯樣々々の
貧苦に
迫り
現在我が子を棄たりと我が身の罪をも
打忘れて
懺悔なすにより和尚も
奇異の
事に思ひ夫より別して吉兵衞を
贔屓になし富澤町古着渡世甲州屋とて
身代も
可成なる家へ
入夫の世話致されたり其後吉兵衞夫婦の中に男子二人を儲け兄を吉之助と名付弟を千太郎と呼
昨日に
變る身代となり我が身の安心なせしに付ても其
昔[#ルビの「むか」は底本では「むかし」]し京都にて妻のお久の
不仕合せ又藤川の宿
外れへ
棄し我が子は其後如何になりしや
情ある人に拾はれ
育ちしかと
種々手を
盡し
探索しかど更に樣子のしれざりしに今六右衞門の物語りにて久八
社は彼の時に
棄たる我が子に
相違なしと心の中に
分明し
故頻りに
不便彌増して
只管命を助け度思ふ心の
迫來ば訴へ事も
後や
先揃はぬ詞も
道理なり
却説甲州屋吉兵衞は廿
有餘年の其昔し東海道の藤川宿へ
貧苦に
迫つて
棄たる我が子に場所も
有うに
白洲にて
再會せんとは思ひきや夢かとばかりに思はれて後先も無く
突然と
助命は願へど
流石にも久八
事は私しの
悴なりとも云出し兼
然とても又
棄置時は五逆の大罪遁るゝ道なし此身を棄ても
歎願せねば第一
死だ母親の
位牌の前へも言譯なし久左衞門とか云人の
情によりて
斯迄に
成人りたる者なるか親は無とも子は
育つとの
諺言も今知られけるとは云物の是迄は
苦勞辛苦を爲し
續け
現在弟の千太郎の事を思ひて
紙屑を
買身と迄に
零落ても眞の人に成んと思ひ
赤心の誤よりも
息の根の止たを
直樣に自ら訴へ主殺しの御
所刑願ふ氣なげさよ我が子で有ぞ
可愛やと
抱きも仕度親心
立派な男も三
歳兒の樣に思はるゝのが子を思ふ人の習ひぞ無理ならじ吉兵衞は
嬉しいと
悲しとにて前後
揃はぬ助命願ひには越前守殿は何か此
助命願には
深き
譯の有
事やと英才深智の奉行にも事の
仔細の分り難く
暫時頭を
傾ぶけ居らるゝ
折柄猶も吉兵衞は
聲震はし只今も申上奉つりし通り二男千太郎儀は全く
持病の
癲癇を發したることゝ心得候へば久八の仕業には決して御座なく候殊には
現在千太郎の親たる私しより
斯願ひ上る上からは
聊か以て久八を恨み申べき
存念之なく候よしや
然なく候共千太郎が身持を直さん爲に
異見をなし
誤つて斯樣の時宜に立至りたる事なれば久八に
害心なきは
素よりの儀に御座候依て私しより
助命只管願ひ上奉つり候と申立ければ越前守殿
悉皆く
打聞かれ如何に其方久八が助命の儀を願ふと雖も其は思ひも寄ず
假令平生何樣に忠義を盡せしことの有しにもせよ主人の
悴を
過つて
締殺したるには相違なし然る上は
容易成ざる
罪人なり
嚴重に申付るは天下の
大法公邊の
掟なり餘の儀に付て慈悲の取計らひを願ふこと成ば兎も角も計らひ方有べけれ共
主殺しの大罪を
差免すとは相成ず然るを強て申立ること其方は町人の身故に
公儀の御定法を相
辨へぬ所なり
得手勝手而已申立るなり如何樣汝が願ひに及べばとて天下の御定法には
替難しと申さるゝを吉兵衞
再々應押返し
否々久八ことは主人を殺し候と申譯にては決して御座無候と何時までも同じ事を
繰返し/\何の
憚る色も無く申立ければ居並びたる人々
甚だ氣の
毒に思ひ
這は物に
狂ひしか吉兵衞御奉行樣の御前にて主人の養子千太郎を
締殺したりと自訴に及びし久八を主殺しには之無と云は何事ぞや此上如何なる御
叱りを
蒙りやせんと
皆々安き心も無き所に越前守殿には大いに
不審られ是吉兵衞久八ことは千太郎を
締殺したる趣きを
當人の口より申立之有處に却つて其方一人
遮つて主殺しには之無と申立ること其
謂れ有やと言葉
和らかに
尋ねられければ吉兵衞は先年の始末今更申立るも恥の上の恥とは思へども久八が
命には
代難し
然とて外に申立べきことも
無途方に
暮て居たりけり
扨も吉兵衞は今ぞ大事と思ひ
切愼んで又々申立る樣
素より久八と千太郎とは兄弟に御座候と顏を
赤らめて云ければ越前守殿是を聞れ吉兵衞其方は
狂氣にても致したるや
取留もなきこと
而已申
奴かな然ながら千太郎は久八と兄弟なりとは如何の譯にて右樣の儀を申立るや一圓
合點の行ぬ事なり其
仔細有ば申すべしと云れしかば吉兵衞答ふる樣右の次第は事
長々込入候儀にて
全體私しは
京都下四條の生れにして其後丸山安養寺門前に住居致し候砌り一人の男子を
儲け候處間もなく妻久こと病死致し候に付病中の物入
葬送の
雜費等にて
貧苦に
迫り何分小兒の養育も致し難く御當地に一人の
從弟之有候間彼を便りて國元を
出立致し東海道を罷り下り候へども道中の事故小兒の
乳に
困り
果旅費の
貯へとても
殘り少なに
成漸々三州藤川宿迄で參りし折柄
不便には候得共
餓死せんよりはと存じ同宿の
町外れへ
棄兒に仕つり候然るに只今六右衞門久八兩人よりの申立を承まはり久八は豫て
探索我が子なることを知り
驚き入申候
尤も其時の證據と申は其後御當地上野の御山内四軒寺町本學院の
和尚先年私し藤川宿へ
棄兒せし
跡へ通り掛り棄兒を見て其
袖へ
落書いたし候由其儀は只今兩人の者より申上候通りなり然るを私し不思議にも本學院の
住職より右樣の次第を
承まはり及び候に付
其以來種々手を
替品を
替相尋ね候へども更に行方相分り申さず猶又其後私し事は當時の家へ
入夫仕つり兩人の子供も持即ち兄を吉之助弟を千太郎と名付候儀に御座候右の久八は藤川宿へ私し
棄たる子に候其上本學院殿の
落書且又年月日迄も
符合仕つる上は
紛ふ方無き私し
惣領の
悴に
相違御座無く候夫故久八は千太郎の爲には兄に候間兄弟と申上候右久八の儀は今日只今始めて承知仕つり候
實々私しも驚き入候なりと申立ければ大岡殿
威猛高になられ
汝れ吉兵衞其方は
不埓成ことを申立る
奴かな汝ごときの者何事も
辨へざると
覺えたり
抑棄子を致したりと有ては
容易成ざる罪人なり然るを何ぞや汝が罪をも思はず右樣申立るは
畢竟久八へ千太郎より
恩義を報じさせんとの存意にて右樣の儀を申立久八の助命を願ひしことゝ
覺えり
詐りを
構へ公儀を
欺むかんとする段不屆き至極なり久八は全く主殺しに相違無しと大いに
叱れしは越前守殿の心の中如何思されてのことやらんと吉兵衞も
恐れ入てぞ
控へける
仁智明斷の大岡殿も久八が
助命の儀を甲州屋吉兵衞
俄かに願ひ出たるは如何
成事情有ての儀やと
勘考せられし處今吉兵衞が
長々しき申立を
奇異のことに思はれしが
再度熟考あるに久八が千太郎を
縊殺したるは全く
實意よりなせし
過りにして自ら訴へ出御
仕置を願ふ所にて
恨みも
晴たれば一ト通りの
歎願にてはとても助命
覺束なく思ひ六右衞門の申立たる棄子に事寄吉兵衞が差當りての
作意にて
斯ることをや云ひ出たるものならんかと一時は思はれけれども又
篤と
容子を見らるゝに全く
詐りにもあらぬことを
悟られ
殊に
慈善を第一に天下の爲下民の安全を心掛らるゝことなれば久八が
過つて
縊殺せしと云ひ
無證據のことなるを
自訴せしにて
赤心の
顯はれたれば如何にもして助け遣はし度と心を勞せられし折からなれば
是幸ひと越前守殿工夫有つて重ねて吉兵衞を見られ然らば汝が
言ふ通り久八は全く主殺しとは
治定致すまじ又其方の
棄子にして
實の
悴と云ことは生前の儀なれば更に取上る處なし又千太郎儀五兵衞方へ參り居候とは申ながらいまだ
養子に
遣はしたると云には有まじ
畢竟當人の樣子
柄をも五兵衞方にて見屆け其上にて養子に取極めんと奉公人同樣に
遣はし
置たることならん然すれば久八が爲に千太郎ことは
傍輩にして未だ主人とは申難し其
傍輩の千太郎の身持を直さんとて誤まつて
呼吸を止たると有からは
罪科も大いに相違なり如何に五兵衞其方と千太郎が樣子
柄を見屆ける迄は奉公人
同樣召使ひ置しに非ずやとの仰せに五兵衞はハツとばかりに
平伏なし如何にも仰せの通りに御座候と答へ申けるに依て久八が
主殺しの
廉は越前守殿の
明斷に依て
遁れる
緒にこそ成にける
猶又大岡殿五兵衞へ
尋問らるゝ樣千太郎儀は吉兵衞方より奉公に
遣はし
置たるを
先達てより悴又は
養子などと申立しは
往々養子にも致す
了簡故に右樣申立たる者ならんと有ければ五兵衞は
直さまぬからぬ
顏にて仰せの通り千太郎ことは
矢張奉公人に
召仕ひ居候得共
往々は養子に致し申べく所存に御座候事
故折々養子又は悴などと申上候段
誠に
恐れ入奉つり候と越前守殿の云れし通りを申立けるこそ
笑しけれ扨さしも
種々樣々に
縛れし
公事成りしが今日の一度にて取調べ
濟に相成口書の一
段までに及びけり
嗚呼善惡應報の
著るしきは
索へる
繩の如しと
先哲の
言葉宜なる
哉村井長庵は三州藤川在岩井村に
生立て
幼年の頃より
心底惡く成長するに
隨ひ
惡行増長して友達の勘次郎と云者を
謂れ無く
撲殺し村方を
逐轉して江戸へ出小川町竹田長生院方へ奉公に
住込み奉公中
竊鼠々々物を
盜み
溜其後麹町へ醫業を開き一時
僥倖を得ると雖も
忽ち
病家も無なりしより
惡漢者を
集めて博奕宿をなし
在所より
遙々と
便り來りし弟十兵衞を芝札の辻に於て殺害し
年貢の
未進に血の
涙にて娘文を
苦界へ沈めし身の代金を
奪ひ取て其罪を浪人藤崎道十郎に
巧言を以て
負せ又妹お富を
欺して同じ丁字屋へ賣渡し身の代金を
掠めとり其上に母のお安を三次に
頼みて殺させ
加之千太郎を
欺きて五十兩の大金を
騙り取猶又同人を
打擲なし其數々の惡事一時に
露顯して
言破ること
能はず終に
口書爪印をなすに至る又伊勢屋五兵衞
元召使ひ久八の如き忠義は町人にめづらしき者なれど
過まつて
主殺しの
大罪を犯すに至れること恐るべき次第なり
然ども
天誠を
照し給ふにより大岡越前守殿の如き
賢奉行の
明斷に依て
遁れ難き死刑一等を宥められ
豆州八丈島へ
流罪存命せしも長庵の大罪に處せられけるも
善惡應報の然らしむる所にして
敢て
珍しからず
享保二年六月廿八日一同
申口調べ
上と相成同日長庵始め引合の者共白洲へ
呼込になり越前守殿
高らかに
刑罰申渡されける其次第は「三州藤川在岩井村無宿當時江戸麹町三丁目重兵衞店作藏事町醫師村井長庵五十三歳
其方儀三州藤川在岩井村に
罷り在候
砌り同村に於て百姓
勘次郎を
殺害に及び國元を
脱走爲し當地へ
罷り出小川町
邊武家奉公に身分を
詐りて
住込奉公中所々にて
金銀衣類等を
盜み取右の金を
資本として當時の住所へ
借宅なし醫業を表に種々の惡事を
働き第一弟十兵衞國元に於て
年貢の
未進に
差迫り娘文を其方が世話を以て遊女に賣し身の
代金四十二兩を持て歸國の
節丑刻の
鐘を
寅刻と
詐り出立させ置後より見え
隱れに
忍び行芝札の辻にて同人を
欺し討になし其金を
奪ひ
取夫而已成ず文妹富を
欺きて遊女に賣渡し同人の身の代金三十兩をを
掠め
取其後十兵衞
後家安を己れが惡事
露顯を
覆はん爲三次へ頼みて淺草
中田圃にて殺害に及ばせ又神田三河町二丁目
家持五兵衞
召使ひ千太郎より五十兩の金子を騙り取候
而已成ず同人を
打擲に及び
剩さへ惡事の證人忠兵衞夫婦へ
無實の
難題を申
懸邪舌を以て罪科を
負せんと
工み右の金子は殘らず
酒喰遊興に
遣捨候
段重々不屆至極に付町中
引廻しの上獄門」「武州小手塚村無宿一名早乘事三次三十七歳 其方
儀所々に於て
小盜み致し其上麹町三丁目町醫村井長庵に同意爲し淺草
中田圃に於て三州藤川在岩井村百姓十兵衞
後家安を
殺害致し其外
種々右長庵に
加擔致し惡事
相働き候段不屆
至極に付
獄門」「神田三河町二丁目家持五兵衞元召使三州藤川在岩井村百姓久左衞門悴當時本石町二丁目甚兵衞店六右衞門方同居久八二十九歳 其方儀
[#「二十九歳 其方儀」は底本では「二十九歳其 方儀」]元主人五兵衞
召使ひ千太郎
身持放埓に付其方兄分の
好身を以て千太郎が朝歸りの
折柄新吉原土手にて其方
行逢見るに忍びず
異見を爲すこと
數度に及び千太郎
面目無さに
逃んと爲すを其方
取押へるはずみに
咽喉の
呼吸を
停め
相果たる赴き
畢竟傍輩の心實より爲したる事實と相聞え加ふるに千太郎
實父吉兵衞外一同よりも助命を願ひ出又其方こと
速かに
自訴に及びし段
神妙に付死一等を
許され
豆州八丈島へ
遠島申付る」「新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏代文七 其方儀先年召
抱へ候文こと
[#「候文こと」は底本では「候文と」]丁山儀は
人主請人夫々相違之無候に付
年季勤め上し上は
勝手次第たるべし妹富こと小夜衣儀は同人
伯父村井長庵と
無宿三次と申合せ
母安を
欺き
賣代成せし處
聢と身元請人等相調べず
抱へ置候段行屆かざるに付
過料三貫文申付る尤も小夜衣事は
直に證文
差許し岩井村百姓十兵衞
身寄太郎作へ引渡し
遣すべし」「新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏抱遊女ふみ事丁山
富事小夜衣 其方共主人へ右之通り申渡し
置候間
心得として
聞置」「三州藤川在岩井村百姓十兵衞亡身寄太郎作 其方身寄十兵衞二女富こと
小夜衣儀は新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏より此度其方へ引渡し
遣し候間
世話致し
遣はすべし」「赤坂傳馬町二丁目長助店元麹町三丁目浪人藤崎道十郎後家願人みつ 其方儀願ひ出候
目安を
取調べる處
事實相違無之且永年夫無實の
罪科に
逢しを
歎かは
敷心得
貞節を相守り悴道之助
養育に及び
罷り在候段
神妙の至りに候之に依て夫道十郎儀
罪科悉皆く
差許され候
追善供養勝手次第
爲可且又御
褒美として銀二枚取せ遣はす」「同人悴道之助 其方儀
實父道十郎事
牢死いたし候後母光の養育を請候より
追々成長に及び候處
幼弱の身に之あり
乍ら日頃より母に
孝養を
盡し罷り在其身は母の助けに相成べくと毎日
晴雨を
厭はず
未明より起出て
枝豆其外時の物を
自身賣歩行難澁をも
厭はず孝行盡し候
段幼年には似合ざる孝心
奇特之事に候
依て御
褒美として
鳥目十貫文
取せ
遣はす」「麹町三丁目庄兵衞地借瀬戸物渡世忠兵衞同人妻とみ 其方共
儀八ヶ年以前平川天神
裏門前にて町醫師村井長庵こと
雨中傘も
持ず
立戻り候を見請候はゞ其
節道十郎身分にも
關はり候事故
早速にも申立べくの處其儀無く
打過候段不埓に付屹度申付べきの處此度證人に相立其方が申立に
依て
事實明白に
行屆き候儀も有之に付格別の御
憐愍を以て
無構」「麹町三丁目家主共 其方共 店内に
差置候醫師村井長庵儀は身分
慥かならざる者に之あり候處
存ぜずとは申ながら
永年差置候段不屆に付
叱り置」「神田三河町二丁目家持伊勢屋五兵衞 富澤町家持甲州屋吉兵衞 本石町二丁目甚兵衞店六右衞門 赤坂傳馬町二丁目長助店浪人藤崎道十郎後家
光店受人清右衞門 右みつ家主長助 其方共一同取調べ候處別段不都合の
筋もこれなく候に付何れも
構無」右之通り一同相心得申べく旨申
渡され八ヶ年以前中山出雲守殿
調にて
無實の
横死を
遂し浪人藤崎道十郎が
修羅の
亡執も此處に
浮み出て嬉く思ふなるべし果せる
哉惡事の
報い速かに
巡り來りてさしも申
詐りたる村井長庵が
奸謀も
悉皆く調べ上に相成
初て
貞婦お
光孝子道之助が善報の程は
神佛の
應護にも
預りし物成んと其
頃風聞なせしとぞ
偖其翌年に至りて
公儀に有難き
大赦の行はれけるに御
上にも久八が忠義の程を御
賞感有せられし事成れば
直に此
大赦の
中へ加へられ
終に御免にて
遠き八丈島より歸國にこそは及びけれ依て六右衞門へ
引渡しに相成其後三河町伊勢屋五兵衞にも
追々取年にて
養子千太郎死去に及びたるより家を
讓るべき子もなく居たる所なる
故甲州屋吉兵衞へ
相談の上六右衞門方より吉兵衞方へ久八を
引取り
元主人五兵衞方へ
改めて養子にぞ
遣はしける然ば
昨日迄に遠き八丈の
島守となりし身が今日は此
大家の養子と
成し事實に忠義の
餘慶天より
福ひを
授け
賜ふ所ならん然るに久八は養父五兵衞に
事ふること
昔に
優りて孝行を
盡し
店の者勝手元の下男に至る迄
憐れみを
懸正直實義を以て
遣ひける故に一同
擧つて
出精なし
益々伊勢屋の
暖簾富榮えければ其久八が
赤心に
感じて養父五兵衞も
生れ
變りし如く
慈善の心を
發し昔しの行ひを
恥己れは隱居して久八に
家督を
讓りしとぞ
爰に又丁山と小夜衣の兩人は
程なく
曲輪を出てたり姉の丁山二世と
言替せし
遠山勘十郎と云し人も病死なせしかば其跡を
弔ひ
小夜衣は千太郎が
横死せしは我身より
起りし事と
忘るゝ
隙のなくばかりなれば
在所の
身寄太郎作へ
引渡されしゆゑ所々より嫁に
貰はんと
言込者の
數有ども兩親の
菩提の
爲尼に成らんと
姉妹兩人心を決し
在所の永正寺と云
尼寺へ入
翠の
黒髮を
剃て
念佛三
昧に
生涯を
送りし事こそ
殊勝なれ
然ば長庵を
指て
大膽無敵の
[#「大膽無敵の」はママ]惡賊にして大岡殿
勤役中四五の
裁許なりと世に云
傳ふると雖も長庵が
白状の
際に至り證據人忠兵衞を
怨むこと
卑怯未練の
小賊なり
古語に人の知ること
勿を
欲すれば
爲こと
勿に
若なし人の
聞こと
勿を
欲すれば言こと
勿に
若なしと
宜なる
哉嗚呼謹愼ずんば有べからず。
村井長庵一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]直助權兵衞一件 茲に
播州赤穗の
城主淺野内匠頭殿家臣大石内藏助始め
忠義の
面々元祿十五年十二月十四日
吉良上野介殿邸へ
討入と
極同月十日に大石内藏助は
小山田庄左衞門を
招き
同志の
人々家内を
片付支度致すに付て金銀の入用有べし
太儀ながら諸所へ
行れ金子を與へ給へとて二百五十兩相渡せしかば心得候と
出行を
引留其金にて不足も有ば濱町の堀部彌兵衞片岡源吾右衞門にて廿卅の金は借候べしと申渡し又貴樣の刀は
寸延と見えたり室内の
働きには
不便なれば
是を
進らせんと
則光の二尺五寸
[#「二尺五寸」は底本では「五尺五寸」]有しを與へければ
忝けなしと
押戴き是にて討入の
節思ふまゝに働き申さんと喜びて立出しが如何なる
惡魔に
魅入れしにや
俄然に
欲心萌して此十四日の夜討に入りなば討死
爲か又は切腹なすか二ツの外は
出べからず
幸ひ此二百五十兩を
路金として
立退ばやと思ひしが
毒を
喰はゞ
皿迄とは
爰のことなりと片岡堀部前原なんどを廻り大石殿より
家々片付の
金使ひに命ぜられたれども不足の時は各々より二十三十づつ
借請る
樣にと申されたりと云て
各々より
請取其外衣類夜具迄も所々にて借入
何處共なく
迯亡けり
是福貴なり
共人百年の壽命は保ち難し
瓦となりて
保たんより玉となりて
碎けよとは
宜なる哉大石と
倶に死しなば美名は萬世に殘るべきを
呼呵淺猿きは
人欲なり
偖も同志の人々は小山田庄左衞門が
逐電せしを聞て大いに怒り追掛て
討止んと云しを大石制して其身に惡事有れば夜討の事を
泄す
氣遣なしと止めしが
豫て申合せし四十七人十四日の夜全く本望を
遂翌朝泉岳寺へ引取けるに大勢の見物は
雲霞の如く忽ち四方に評判聞えけり
爰に庄左衞門が
妹は
美麗にして三
味線などよく
彈故品川の駿河屋何某の
許へ縁付けるに庄左衞門が父十兵衞は
古稀に近く
腰は二重に
曲居るを此駿河屋方へ
預け置しが十四日の夜討のことを聞き如何に
本望遂たるや
子息庄左衞門は高名なしたるかと
案事居けるに
浪士泉岳寺へ引取しと聞き二本の
杖に
縋り大勢の見物を
押分るに見物山の如くにて近寄事
叶はず其中に討入の者の名前
書を
賣歩行故買取て見るに寺坂吉右衞門迄名前
有共小山田と云は無し
這は記者の
間違ならんと又賣來るを
買取見るに同じく
漏居ければ十兵衞
不審ながら立歸りしが其夜に至り
子息庄左衞門
逐電せし事を始て聞知り
切齒を爲て怒り歎きしが夜中に
書置を
認め
腹掻切て
亡たりけり是庄左衞門が非道の行ひに
因て老體の
父斯成行しは庄左衞門が不義の手に掛りしも同じ事なり
斯て
後庄左衞門は
姑く
田舍に
潜居て
外科を
習ひ
覺え兩三年立て妻子を
引連深川萬年町に
賣家を
買中島立石と改名して醫業を
營みとせしに
殊の
外繁昌致し下男下女を置き妻と娘一人を相手に
暫時無事に
消光けり
茲に
立石が下男に直助と云ふ者有り
元は信州の生れにして
老實しく働きけるが下女に心を
懸種々に
口説と雖も直助は
片田舍の生れにて此下女は江戸の
出生故直助が云ふ事を聞ず
兎角強面當りしを立石夫婦も知り
折に
觸ては笑ひなどしけるを直助は面目なく
且は
遺恨に思ひ居たるに或夜立石夫婦は酒に
醉て前後も知らず
寢入しを
見濟し其の夜
丑滿の
物凄き折こそ能けれと直助は
寢息を
窺ひ
竊と
起出押入の中に有る
箪笥の
抽斗を開け金を
奪ひ取らんとなせしかど
錠前堅固なれば急に
開る事
叶はず其中に十二歳なる
娘不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、256-15]目を
覺し
母樣那れ直助がと云ふ聲聞き立石が
枕邊にある刀を
引拔無殘にも娘を
刺殺せども猶立石は前後も知らず
醉臥居たるを直助は
直樣上に
跨り
咽喉を
突貫し一ゑぐりに殺して
又箪笥の方へ
行んとせしに女房は
密と續いて來るを
振返り樣三刀四刀に切殺せり其中に下女は
表へ
迯出人殺々々と
呼はりながら
金盥を
叩き立てしかば近隣の人々
馳付る樣子を見て金を
奪ふ
隙もなく
裏口より
驀直に
迯出し
行衞も知れずなりにけり(時に正徳四年
冬十二月義士十三
回忌の時に當り庄左衞門は
下僕の爲に切殺されしは
然も大石より與へられし則光の刀なりと小山田が
不義天奚ぞ
恕し給はんや又直助は御尋ね者となり近き頃まで諸所の關所に直助が
人相書有りしを知る人に
便りて見たることあり
實にや因果は
廻る車の如く直助が身の上も思ひ知られたり)
其後直助は人相書を以て御尋ね者と成し
所一
向行衞知れざりしに享保も四年となりし頃は
最早五六年も立し
故氣遣ひなしとは思へども
肩へ
藍にて
黶の如く
入墨をなし
額にも
腮の
形を
畫き前齒二枚
打缺て名を權兵衞と改め麹町六丁目米屋三左衞門方に
米搗に
住込居たるを
町方の
役人怪しみ早速
召捕て
嚴敷拷問に及びしかど一向白状せざれば
偖は直助にては非ざりしかと此段大岡殿へ申立しにぞ
越前守殿然も有るべしとて呼び出され如何に權兵衞其方は
科もなき者なるを役人
捕違へて是迄
吟味に及びし事氣の毒の至りなり定めし身體も
弱り手足も
利まじ
然れば此儘に歸しては
當分嘸難儀なるべし依て金五兩
取せ遣はす
間是にて能々療治をなし渡世を致せ主人三左衞門も權兵衞を
介抱して
遣はせ誠に
不便のことなりしいざ立てと申さるゝを聞き權兵衞は
嬉しさ何に
譬へん方なく其金を持て
白洲を立ち五六
間行處を大岡殿コリヤ直助と呼び掛けられしに
天命遁れ
難くハイと
振向しを
夫縛れと云るゝを聞き南無三と
潛戸を
迯出さんとなすを同心ばら/\と立懸り忽ち
繩をぞ掛けたりける(
是其身の
科を白状せざる者へ
甘き
詞を掛け
金迄與へられし
故偖は我が惡事知ずして
命助かり金まで
貰ひたりと
嬉し悦び何心なく立ち去んとせし
時思はずも直助と呼び掛けられ
渠に答へをさせられし
秀才頓智實に
等閑の及ぶ處に非ず)之に依て又々
吟味に及ばれし處一
旦荒膽を
挫がれたれば如何に
強膽の者なりとも
勿々隱す事能はず立石が家内三人切殺せし事ども殘らず白状
成ければ
小塚原に於て
終に
磔にこそ
行はれけれ
直助權兵衞一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]越後傳吉一件 古人曰く近きを
計れば
足ざるが如く遠きに渡れば乃ち餘り有りと爲す
我國聽訟を云ふ者
大概青砥藤綱大岡忠相の兩氏が明斷を稱す茲に
説出すは其大岡殿勤役中屈指の裁許にして頃は享保年間に越後の國高田の城下を
距事七八里
寶田村に
工藤傳吉と云ふ百姓あり祖父の代より
田畑數多持ち傳吉が父傳藏の代迄名主役を
勤め父傳藏に至り
水損打續き其上
災害并び至りて田畑殘りなく失ひ
悴傳吉十六歳の
時親傳藏は病死なし母一人殘り
孝行を盡しけるに母も父が七
回忌に
當る
年病死なしければ傳吉の
愁傷大方ならず
且親類は只
當村の
長上臺憑司而已なれ共是は傳吉の不如意を
忌ひ出入をなさず又母は
樽見村の百姓源兵衞の娘にて妹一人あり此妹に家を
繼せ自分は傳吉の家へ
嫁入せしに父源兵衞病死の後は妹お早
身持宜らず
聟を三人迄取りけれ共皆離縁になり其後惡き者と
欠落し母方の
跡は
斷絶せり此外には親類もあらざれば母は
臨終の時傳吉に向ひ我が妹お早は其方の爲に實の
叔母なれども
先年村を
欠落なし今は其の
在家を知らざれ共我が
亡後に
巡り
逢ば其方力になりて
呉よと
遺言して終りてより實に
親はなきよりとは
斯如ならん
夫後傳吉は人に
頼まれ江戸表へ
飛脚に來たり
途中鴻巣宿を通り掛るに道の
傍はらに親子と見ゆるが休み居たり傳吉は何心なく彼女親を見るといと
窶たる
形なれども先年家出せし叔母お早に似たりと思ひしゆゑに
立戻り段々樣子を聞きたるに叔母お早に相違なく且つ先年家出せし後此娘お梅と云るを
設け當時は此宿に足を
止め人に雇はれ
憂年月を送る旨物語るに傳吉も母の
遺言なにくれと話しなどし此上は及ばずながらお力にも
成んと云ふに
親子は
地獄で佛に逢うたる如くに歡びけるが傳吉は
飛脚の事故一先
袂を別ち江戸へ來り用事を
濟せ立ち歸る時に又
叔母のお早を尋ねしに
猶段々と
難儀の
咄しをなす故見捨難く近所へ
厚く
禮を述べ直に越後へ
連歸りぬ扨傳吉は
貧き
暮しの中にて叔母と
從弟[#「從弟」は底本では「從弟」]を
養育[#「養育」は底本では「養育」]事容易に非ず殊に實家さへ
絶せし叔母に斯く孝行を盡す事人々
譽合り扨お梅も當年十八歳傳吉は廿六歳幸ひの縁と心中を
聞合せしに兩人共
得心の樣子故夫婦と成したり斯て傳吉は村の
評判宜しき故親類といひ
捨置れずと名主
上臺憑司も出入を始め
悴昌次郎も時々に
出這入なし居たり
扨て又傳吉は
倩々思ふに我が家世々村長成しが父の代より
家衰へ
田畑も失ひ
剩さへ
從弟上臺憑司に
村長役を
奪はれ今では人々にまで見落さるゝ
口惜さ是も世の有樣と思ひ十六七の時より
何卒再び家を
起さんと志ざし牛馬に
等しき
荒稼ぎして
勵めども元より母は
多病にて
始終名醫にも掛しかど終に
養生叶はず
亡しく成しが其
入費多分有る所へ又叔母を
養ひ妻を
持貧き上に
貧しくならん今の中に江戸に出て五六年も
稼なば能き事も有べしと思ひ或日叔母女房に向ひ此事を
直談に及びければ大いに
驚き是は思ひ
掛なき事を云るゝものかと我が身親子が
飢もせず今日迄
暮しけるは皆此方の
陰なり今更老たる叔母此梅
諸共置去にせんとならば
勿々止はせじ夫ならば
其樣に
白地さまに申給はれと云けるにぞ傳吉大いに
迷惑し是は/\叔母や女房を
置去にせん心なら
最初より諸方を尋ね
歩行鴻の
巣より
態々連ては歸らず私しの江戸へ出るは我が身の利を
計るに非ず五六年も
苦しみなば元の
田畑取戻すことも出來左すれば村長にも成る
家柄故先祖への
孝養と思ひ
兼て心
懸置たる錢十貫文之を
殘し
置ば當時の暮し方は
澤山あらん來年は給金の
半を
分贈り申べし
待は久しき樣なれども只一
筋に
勤め上早々立歸りて元の田地取戻し候はゞ先祖への
面目親への孝行是に
増事なし
能々聞分て給はれと申ければ叔母女房も
得心して
俄に
旅の
用意をなし父母の
墓へ
參詣し夫より村長
上臺憑司方へ行き妻子のことを
頼み置き其日
住馴たる寶田村を立ち出て東の空へぞ
旅立けり時に享保三年九月十日の事なり
足に
任せて行けるに十日の月さし出つゝ
暮て
宿なき一人
旅頻りに急ぎ
歩行し所にぴかりと
光る物あり足にて
踏返せしに女の
櫛なりければ何方の人が
落せしやらんと手に
翳し見れば
鼈甲の
最古びたるにて
齒も三ツ四ツ
缺たり是を拾ひ取り行くほどに一里
塚の
邊りより申々御旅人樣是より先に人里なし
此宿へ御泊り成れと走り來るを見返れば年の頃十三四なる少女なり今日は
勞れたり何所へ泊るも同じ事
案内頼むと
家路を
指て
急ぎけり
斯て傳吉は小娘に
誘引れ
許ある家に入て見れば
柱は
曲りて
倒れ
軒は
傾き屋根
落ていかにも
貧家の有樣なれば傳吉は
跡先見回し今更立ち出んも如何と見合ける中に小娘は
盥へ
温湯を
汲で持ち出で傳吉の足を
洗ひ
行燈提先に立ち座敷へ伴ひ
木枕を出し
些寢轉び給へとて娘は勝手へ立ち行き半時ばかり出で來らず傳吉は
頭を
回し
家内の樣子を
窺ひ見る程に元は
相應の旅籠屋と見えて家の作りやう
由緒ありげに見えけれども彼の小娘の外一人もなきは
山樵か
盜賊の
棲巣ならんと
頻りに怪しくなり
逃道を見て置ばやと
密に見回す
折柄壁の落たる那方にて
最苦し氣なる
咳を
成苦聲の聞ゆるにぞ
壁の
穴よりさし
覗くに年の頃五十ばかりの男
病耄けて
顏色青ざめ餘程長き
煩ひに
勞れたる樣子なり傳吉は此體を見て
密に
元の座へ立ち歸り彼は正しく此所の
主さては娘の父ならん然れば山賊の
隱れ
家にも非ずと
安堵して在る所へ彼娘の勝手より
膳を持ち出で傳吉が前に差し置き
嘸やお
空腹候はん私し一人にて
煮炊致し候ゆゑ
急ぐとすれども
時移りお待ち兼て在りしならん
緩々上りてお
休みなされませと言ふものごしに
愛敬を
含み至つて
賢く見えければ傳吉今更
哀れに思ひ
箸を下に置き小娘に向ひ
斯廣き家に唯一人立ち
働き給ふは
[#「給ふは」は底本では「廣ふは」]昔しの
餘波痛しく思ふなり殊に病人の有る樣子に
見受しが
其方の父なるか母は
在さずや其方名は何んと申す
今宵限りの宿ながら聞まほしと云ひければ娘は
忽ち
涙を
流し有難き今の御言葉身の
悲しさをお話し申さん
彼所に
臥たるは父にて候ふ所其以前は可成なる
旅籠屋なりしが私し五歳の時母は相果たり夫よりは家の
活業衰へ下女下男に暇を取せ其中にお早と申すを父が
後妻とし私が
爲に
繼母なりしも家は段々衰へて父は四年以前より
苟且の病ひにて
打臥たるが家の事
打任せたる彼のお早どのは夫の病氣を
看護もせず其上
家財着類金子迄
掻集め家出なし三年の今日迄
行衞[#「行衞」は底本では「行衞」]知ず母には實の娘一人ありけるが夫を
同伴て此家を出しは我が家の次第に
傾く身代に見切を付て他へ
移り
恩を仇なる畜生めと病の中に父の
腹立此怒りを
寛めんにも
泣より外の事もなく心
細さに
跡や先昔は
恩を
請たる者も今は
見放し
寄付ず身近き親類なければ何語らんも病の親と私しと二人なれば
今迄御定宿の方々も遂に
脇へ皆取られ只一人も客はなし其上
去々年の
山津浪荒たる上に
荒果て
宿借人も猶猶なく親子の者の命の
綱絶果る
[#「命の綱絶果る」は底本では「命の綱絶果る」]身の是非もなく宿の
外れに旅人を一人二人づつ無理にお宿を申ても此有樣に皆樣が門口よりして
逃ゆかれ今日は
貴方をお止め申し
聊か父が藥の
代になさんと存じて御無理にもお宿を願ひあげたる事
赦し給へとて
泣伏したる娘が
體見るも
不便を
覺えけり
然ば傳吉お
專が物語りを聞て
歎息し扨々世の中に
不幸の者我一人にあらずまだ
肩揚[#ルビの「かたあげ」は底本では「たかあげ」]の娘が孝行四年こしなる父の大病を今日迄
看病疎そかならねば
爭で天道
憐まさらん今こそ斯あれ後々は必ず
榮華の身とならんと我が叔母女房の
噂とは夢にも知らずいたりける此ぞ傳吉が叔母お早が事にして此はお早親子も
深く
隱しける故傳吉は知らざりし
偖何かなと
考へしが先に拾ひし
鼈甲の
櫛こそ好けれと取り出し是は我等が
山間にて※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、264-14]らず拾ひし品なる
故之を
賣代なすならば少しばかりの錢にはならん父御の
口に
叶ひし物を
調[#ルビの「とゝの」は底本では「とゝろ」]へてなり
進らせよと
件の
櫛を
與へしかば娘は之を
押戴き
行燈の
灯に
指翳し一目見るより打ち驚き之は
先つ頃私しが道に
遺せし品にして母の
紀念の
櫛なれば家財道具は聊かの物も殘さず賣盡し身に
纏ふべき
衣類さへ今は
綴もあらざれども此品計りは我が母の
恩を忘れぬ心にて
生涯頭に頂かんと思ふが故に賣殘しぬ然るを先日
落して後を
種々と
探し求めて居しなり偖々嬉しき事哉と幾度となく
押戴き
喜悦體を
熟々見て感心なし今の話しには母御の
紀念の此櫛と云はるゝからは片時も忘れ給はぬ
孝心を天道樣も
憐まれ必ず御惠みなるならん能々
父子を大事になされよ我れ又江戸より歸りの時は再び
尋ね
進らせん名を聞ばやと云ければ父は森田屋銀五郎我が身は
專と
呼れつゝ所に久しき
家柄なれども
斯成果しと嘆息の外なかりけり
傳吉は是より江戸表へ着し馬喰町三丁目
信濃屋源右衞門へ旅宿なし或日案内者を頼み
彼方此方と見物なし江戸第一の
靈場淺草の觀音へ
參詣し能き主取りをなさん事を願ひ夫より口入に頼み奉公口を
探しけるに吉原の
廓第一の
妓樓にて京町の三浦屋に
米搗の口有り一ヶ年給金三兩にて
住込日毎に米を
搗を以て身の勤めとはなしにける然るに物
堅き傳吉は
鄭聲音曲洞房花燭の
樂しみを
羨まず
旦より
暮るまで
只管米を
搗一
粒にても
空にせず其勤め方
信切なりければ主人益々悦び多くの米も一向に
搗減なく取扱ひ夫より其年の
給金を請取るに半分は
遣し叔母女房の衣食の
足になし殘る所は主人へ預け
儉約を第一として勤め居たり
然程に
光陰矢の如く傳吉は四五年勤めしが四季の給金
臨時の
貰ひもの等
塵積り山となりて百廿兩程になりし故
宿願既に成就したりと
頻りに古郷が
懷敷主人の機嫌を伺ひ越後へ歸り度旨を願ひけるに今三浦屋の白鼠と云はれし者を
暇をやるは主人も
惜く思ひけれ共
是非に及ばず首尾能く
暇を
遣しければ傳吉大いに
悦び
豫て年頃主人へ預けし金百廿兩餘を
請取頓て
古郷へ急ぎける
斯て山路に掛り小松原を急ぐ程に身には荒布の如き半纏を
纏ひし雲助二人一里
塚の
[#「塚の」は底本では「塚の」]邊より諸共に出て前後より傳吉を
引挾み親方
骨柳が重さうに見えるか今日は朝から
鐚一文にもならず少々
揚取らせて給はれと
骨柳に手を掛るを傳吉其手を
拂ひ中仙道を
足に
懸け年中往來する我等
小揚取らせることはない
串戯を
爲なと
力身で見てもびく共せず二人の雲助
嘲笑ひイヤ強い旅人じや雲助は旅人に
肩を
貸ねば世渡りがならず
酒手欲さに
[#「欲さに」は底本では「欲しさに」]手を出して親にも打れぬ
胸板を
折るばかりに
突かれては今日から
駄賃を取る事出來ずと云ふを
旁より一人が往手の道に立ち
塞り
否なら否で
宜事なり
突れる
咎は少しもなし何でも荷物を
擔せて
貰はにや成らぬとゆすり半分
喧嘩仕懸に傳吉は何とか此場を
遁れなんとせども惡者承知せず彼是
言ふうち其
骨柳渡せと手を掛るに傳吉今は一生懸命右を
拂へば左より又た一人が
腕首を
確かと取て
動かせず
困じ
果たる折柄此處に來たる旅人あり此有樣を見るよりも
衝と
馳掛り一人の雲助を取て
引擔ぎ
斗筋打せ
投付るに今一人も
張倒し
蹴返し
乍に
發打白眼汝等二人は晝日中追落しする不屆者
直樣捕へ宿場へ連れ立ち御法通りにして呉ん首は入らぬか
蠢蟲めと罵りければ惡徒共此勢に恐れけん
尻込して只
眞平御免と
詫るにぞ夫なら今日は
赦して呉んと
言捨て是は我等が連れなり
率々御一所にと
目配せすれば傳吉も夫と
悟りて骨柳を取り打ち連れ立ちて行き
乍ら彼の旅人に打ち對ひ
小腰を
屈め偖々惡者に付られ難儀千萬の處貴君の御救ひにて何事なく
誠に御禮は言葉に盡し
難しと
慇懃に禮を
述べつゝこの旅人を見るに一
癖あるべき
顏形なれば如何にもして此者と立ち別れんと
漸々野尻宿
[#「野尻宿」は底本では「野尼宿」]迄來り近江屋
與惣次と言ふ旅籠屋へ
泊りける
扨旅籠屋にて
年頃十七八ばかり田舍に稀なる女ありと心を
留てみれば何か
見覺え有る樣にて彼の女も傳吉を見て
不審の
顏色なりけるが
連の男は湯に入らんと湯殿の方へ
到りし折節彼の女を傳吉は
引留てお前は何處かで見た樣なれど思ひ出されずと言ば女は傳吉を
倩々見て私も見たお方の樣に思ひしが若しや五年前柏原の森田屋へ
泊り給ひし傳吉樣にては御座なきやといふに此方は
礑と手を打ち森田屋の
娘子お專どのにて在しよなお前が此所に御座るとは
夢聊かも知らざりし我等も江戸へ
赴きて今度古郷へ歸るゆゑ柏原へ立ち寄りお宅を尋ねしが道にて惡き
奴に付られ少しも
油斷ならざるまゝ
早忽々々に通り拔しがいつごろ此所へ來られしやと
問懸られ
[#「問懸られ」は底本では「問懸られ」]お專は忽ち
涙含み父は貴方のお泊りありし其年の
暮に
死亡り遂に我家を
賣代なし此旅籠屋は少しの
縁由も有りけるまゝ下女に雇はれ候ふなり先頃
貴方の御
惠みに預るのみか取り分て下し給ひし一品は
富たる人の千金に
増て忘れぬ御恩なり今夜に
迫る貴方の御難儀
大概御察し申たり今夜は私が何
也とお救ひ申し參らせん御安堵あれと
請合ながらも過さりし親の
病苦や身の
憂事を思ひ出してや
最としく涙に
昏て居たりけり傳吉も
實なる
言葉に
聊か
安堵なしたれば猶も物語らんとする所へ
彼連の者の足音せしゆえ
空寢入して居る程にお專も立て出で行けり偖傳吉は金を
藁苞より
徐と出し
腰に
確かと
結つけ之まで
風を引たりと僞り一ト夜も湯には入らざるのみか夜もろく/\に
目眠まず心を配り在りけるが今夜は
彼のお專に
委細相談せんと思ふ故少し風も
快く候へば湯に入りて來らんと
湯殿の方へ立ち出でければお專は
疾に
縁側へ立ち出で
傍への
座敷へ連れ行て貴方が湯に入り給はんと申さるゝ故
荷物番に御
膳を出し且又
咄しの内に立せ
間敷其爲に
朋輩を頼み置きたりお
咄しあらば心靜かに咄し給へと
最發明なる働に傳吉は其
頓智を感心なし事急ぐなれば
摘んで咄さんが某し江戸表に奉公なし
年頃給金其外とも
溜置し金百五十兩程に成たり依て此度古郷へ立ち歸り家を
興し
亡親達へ
聊か
孝養に
備へんと出立なす
折柄輕井澤の
邊より彼の
曲者と連れに成り
道中ら彼の
振舞に心をつけるに
唯者ならず江戸より付き來りし樣子なり今日も彼者
度々手を出さんとすれ共我も
油斷なく往來の人に交る故其難は
免れたれども
今宵一夜が
絶體絶命明日は古郷へ五里
許りの處なり今夜を
過せば明日は
安堵いたすべし何卒今宵の大難を救ひ給へと
[#「救ひ給へと」は底本では「救へ給へと」]申しければお專は
暫時思案の體にてよしや今宵は
凌ぐ共明日道にて如何成る目に
遭給はんも知れがたし兎角に其金子御身が
所持なし給ひては災ならん私に
預け給へと言ふに傳吉も
豫てより親孝行は知りしうへ且又
發明女故懷中より金子を出して渡せば
確と懷中して則ち頭に
指し
櫛を出し是はお前樣も知る通り我が爲に千金にも
替がたき母の
紀念にして片時も
離さず
祕藏の品
此櫛を證據にお渡し申さん
鼈甲の古びたる上に
齒の三枚
缺て
能證據なれば此度御歸國なし給ひて
假令お前がお出なく共此
櫛さへ持せて
遣はされなば他人にてもお金をお渡し申すべし
確なる證據故能々此櫛を大切に失ひ給ふなと
櫛を傳吉に
渡しお身金子なく共彼の惡者と明日一所に
道連にならんこと危し今夜の八ツの
鐘を
相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、268-4]に立ち給へとて間道を
教へて一人立せける彼金子をお專が
預かり金のこと故主人にも深く
包て置きけるとぞ
偖て傳吉は
脇道より其の日の八ツ時分に寶田村へ立ち歸り無事に
歸國のよしを名主方へ屆け置き我が家へこそは歸りける叔母女房は
門口へ出迎ひ偖々五年ぶりにて無事に歸り給ひしことの
嬉しさよ
當年は歸るとの
手紙成れ共今時分とは思ひよらず
定めて
暮にも成んと存じ居りしに早く歸られて安心なしぬと言ふうちに村中
連立ち大勢來りける故叔母も女房も夫々へ
挨拶して居るに名主の
憑司も來り悦びを
述る
程に傳吉も是迄の艱難を物語り偖五時頃皆々
暇を告て立ち歸る後に叔母は
不思議さうに傳吉に向ひ
先刻より尋ねやうと存じけるが五六年も奉公なし
歸られるに
風呂敷包み
[#「風呂敷包み」はママ]一つも持ぬとは
何の
云譯だと尋ねければ傳吉は道中にありし始末を物語り彼のお
專より預りし
櫛を出し此だに出しなば
誰にても金子は
渡し
呉れる
筈なれば明日は早々參て受取り來らんと思ふ故此
櫛は百五十兩の代の品大切なりと申しければ
叔母は大いに
悦び
偖々夫は
危ひこと
殊に百五十の大金は能々心掛ざれば
貯ることは成り難し如何にも斯る大金を
溜る
辛苦の程察し入る呉々も
歡こばしきことにこそ
而其の
櫛は百五十兩の
形成ば佛前へ
供へて御先祖其外
父御にも悦ばせ給へと叔母女房とも
口を
揃へて申すにぞ傳吉も佛前へ
供へ夫より
夜食も
濟て傳吉は今こそ我家へ立ち歸りし
故心落付き
草臥出しにやこくり/\と
居眠りけるを叔母は見るより傳吉どのも
嘸や
勞れしならんお梅や
床を
敷[#ルビの「しき」は底本では「きし」]て
進らせよと云ひければお梅は夫の
床を
打敷臥戸に伴ひけるに傳吉も
安堵せしにや枕に着くと其の儘に
眠りけるが翌日の
巳刻時分漸々
起出顏を清め佛前へ向ひ
回向し前夜の
櫛を
仕舞はんと
探せど更に見えざるに叔母に向ひ前夜の
櫛は如何成れしやと問ふに叔母もお梅も口を
揃へ一向知らずと申すにぞ傳吉は
仰天して
所々方々と尋ねけるに何分見當らず之れによりて家内大いに
騷ぎたち猶も殘る
隈なく尋ねしに如何にも知れざるゆゑ傳吉も今は
詮方なく
能々思案を
巡らすにお專はいたつて
正直にして
殊に發明の女成ればは
[#「成ればは」はママ]櫛無きも
預り物を
預[#ルビの「あづか」は底本では「あづと」]らぬとは申すまじ是より野尻宿へ到り右の
譯を
咄し金子を受取んと野尻宿へ赴きお專に逢て扨々申分なきことを致したり
前夜歸りて
櫛をば百五十兩の
形なりと佛前へ備へ置きけるが
今朝見れば更になきゆゑ家内中
穿鑿を致すと雖も何分見當らず夫に付き只今參りたり
櫛の代に
何程にても取て金子を
渡し給はれと申しければお專は傳吉の顏を
熟々打ち
詠め
扨御前樣は
盜賊に能々見込れ給ひしものと見えたり
今朝程お前樣よりお頼みのよしにてお
隣家なる彌太八とか云る御人が
櫛を御持參有しに
間違も有まじと思ひ右品
引換に金子御渡し申したりと
櫛を
取り
出して見せければ傳吉は再び
仰天なしたりしが心を
靜め夫は年の頃はいくつ位に候や我が村中に彌太八といふ者なければ我頼みし
覺なし
察する所前日の惡者の仲間を
頼んで
遣したるならん五年の
間千辛萬苦して
貯たる金子もよく/\我に授らぬ金なり
斷念るより外無しと力を落して
茫然として居たりけるお專は如何にも氣の毒に思ひ
種々考へしに之は全く過日の
惡物の
業に非ず同村中の人
成らん
斯申さば何となく人を
誹る樣なれども私しも
係り合ひの事なれば心に思ふ所を申して見んかならずお心に
掛給ふな
實に七人の子はなすとも女に
心許すなとの
譬へもありておまへ樣のお留主に女房さんの
心變りし事もあらんか能々家内に心を用ひ見られよ
然ども先何事もなき
體に歸り
斯樣々々にし給へと
謀計を
教へ傳吉をば歸しける
扨て傳吉は
其夜亥刻過に我が家へ歸りければ女房叔母ともに出で立ち今御歸りなされしや金子は如何にと
尋ぬるに傳吉
然ばお專殿は留守にて分らず歸りを待んと存ぜしが又々金子
不用心ゆゑ明後日參りて受取り來らん先は五ヶ年留守の
中村中の
世話に成り
殊に百五十兩と云ふ大金を
貯て來りし事なれば村中を
明日呼で馳走をなさんと思ふなり其用意致すべしと事もなげに申しける女房叔母も其支度を致し村中へ人を
廻し呼びけるにぞ巳刻時分より五六十人一座にて
馳走をなし一通り
盃盞も廻りければ傳吉はそつと其場をたち表の方へ出れば
垣根の
際に野尻宿のお專
頭巾を
眉深に
冠り立ち居たり傳吉は
密かに宅へ伴ひ
忍ばせて座中を
窺はせたるに此中には其人なしと云ふ故傳吉は又々女房叔母を呼び五ヶ年の
中村中に
強い御世話に相成しは實に有難き
仕合なり別て上臺
憑司親子に
厚き御世話に相成しよし然るに昌次郎いまだみえず
御迎ひにと申す處へ入り來たり直に傳吉の傍らに
着座し馳走にぞ
預かりける傳吉一同へ向ひ私しも江戸表にて
宜き家へ奉公に有り付き金子少々貯はへたれば
古郷の
空もなつかしく罷り歸り候皆々樣へ右の御禮
旁々麁酒を
進らするなり何も御座らぬ
掴み料理澤山お
食りくだされよと亭主の
愛想に人々は大いに悦び
盃盞屡々巡るうち時分を計り傳吉は小用に行く體して叔母女房を立せざる樣になし
密と立ち出でお專に向ひ如何に
盜賊は此中に居たりしやと聞きければお專打ち笑ひ實に
盜人猛々しとは虚言ならず今しも後より入り來られ上より八番目に居りたる年若にて色白く
太織の
紋付の
羽織にて
棧留の着物を着たる人こそ間違ひなく彌太八と名乘て
參りし人なりと云ふを聞て傳吉は
吃驚なし彼は名主殿の子息昌次郎といふ者なり
間違ひ有ては
大變と云ふにお專は
決して/\間違ふ氣遣ひなし若し又あの人兎に角と
爭そはゞ私が出て
白状させん外に又
慥かなる
證據の品もあり然して江戸表にて金百五十兩
貯し事道中
難儀して私に預けし事迄知りし者は外にあるべき樣なし御前樣は彼所へ
行て是迄の事を話し金子を彌太八と申す人に
奪はれし事を殘らず物語られ其上にて
斯樣々々なしたまへと
牒し合せ元の座敷へいで行きけり
却説傳吉は
酒宴の席へ出で扨々
折角御招ぎ申しても何も進ずる物もなし
併し今日の
座興に
歸國なす道中の物語を皆々さま御
退屈乍ら御聞下されと申しければ
何れも夫は一段の事然るべしと聞き居たり傳吉は
席を進みて私し江戸に在りし時は
全盛の
土地柄故主人の
光りにて百五十兩の金子に有り附き古郷へ歸り
舊の
田畑を
受戻し家を起しなば過行し
兩親へ聊さか孝行の
端にもならんかと悦び勇んでくる道すがら
惡者に付かれ是非なく野尻宿の
旅籠やの下女に彼大金は
預けて歸り其盜賊の難は
遁れたれ共又々一ツの
憂ひを
増て件の金子を昨日
騙取られたり
其仔細をおはなし申せば斯樣々々
云々なりと
證據の
櫛の事迄一伍一什を委しく
語りければ皆々
仰天なし夫は又何物が
櫛を以て行しやと
興を失ひければ憑司を始め叔母女房も大いに
驚きたる
體にて
眉を
寄せ夫は何共
合點の行ぬ事と言ひけるを憑司
席を
進み其は旅籠屋の下女が
巧ならん貴樣の方に
櫛はなしと
計りたるに先には
鼈甲の櫛の
幾個もあらんにより
指替の
似寄の品を出して貴樣を
欺き歸せしなるべし其女を
引捕へ
嚴重[#ルビの「きびしく」は底本では「きびしん」]吟味する成れば早速に相分らん
憎き
奴の
仕業かな若しも
僞はる時は領主へ訴へ
吟味を願ふならば忽ちに相分らんと申しけるに傳吉
偖其の盜人は此座中に在りと申しければ皆々夫はと云つて
互ひに
顏を見合せ居たりしがマア
誰ならんと申すに傳吉
然ば私し
隣に
住[#「住」は底本では「住む」]彌太八と云ふ者の
由申し僞り金子を
騙り取りたるはと云ひながら昌次郎の
面を見ればぎよつとせしが
素知らぬ體に
面を
背ける故傳吉は
最早耐難く之れにある昌次郎殿に相違なし
慥かなる
證據もある上は
爭はず金子を返し候へ萬一爭ひ給はゞ
公邊へ訴へ
黒白を分ねば相成ずと言ければ忽ち昌次郎は
眞赤に成て座を直し此は存じもよらぬことを
承まはるものかな我等に
對ひ
盜賊呼はり其分には相濟ず
不屆なる申し分也と
威猛高になつて申しけるにぞ
側より
親憑司も
張肱なしコリヤ悴よ傳吉に
泥棒呼はりを致され萬一申開き相立ざる時は人手は
借ぬ我自らに手討に爲すぞ
惡名を付られては最早男は立ず
急度相糺して
汚名を
雪げよと親も聲を掛る
故夫より
双方爭ひ立ち既に
喧嘩にも成んと人々は手に
汗を
握りもて餘しける處へ奧の方よりお專は
直と立ち出で座に
就て皆々へ
挨拶するに一座の人々
不審晴ず是は何方の女中ぞやとお專が
顏を
打守るに叔母女房も之を見て
打驚ろきて居たる時にお
專は
穩當に昌次郎に向ひ昨日
一寸御目に
掛り金子百五十兩御渡し申せし彌太八樣
最私しか
參りし上は
爭ひ給ふも
益なきこと早々金子を出し給へ此上
猶も爭ひ給はゞ外に致し方これ有りと申しけるに昌次郎は
猶も
空嘯ふき我等は
然樣の
覺えもなく
殊にお前は何處の人か終に
逢たることもなしコリヤ傳吉と申し合せ我等へ
遺趣ても
有かして罪を
塗付んとするならんイヤ
不屆なる女めと
眼付るにお專は少しも
騷がず彌々爭ひ給はゞ外に見せる
物ありと
懷中より一通の文を取り出し是は一昨日お前樣の歸りし
跡に
落てありし
品故何心なく
拾ひしが
不斗此場の役に立つ傳吉殿
讀給へと差出すを傳吉
取上讀下すに
一筆
示し※
[#まいらせそうろう、272-9]偖傳吉事江戸より
今宵立ち歸り申候まゝ此上は夜々の
契りも相成ずと存じ候へば
勿々つかの間も
忍び難く思ひは
彌増※
[#まいらせそうろう、272-10]夫に付き傳吉こと江戸に於て
溜たる金百五十兩
此度持歸り候途中盜賊に付かれ候ゆゑ
野尻宿の近江屋
與惣次と申す宿屋の下女お專へ右の金を預け置き受取候節は此櫛さへ
持參致し候へば
誰にても
引替に金子相渡す由承まはり候まゝ右の
櫛を
御手元へ差上候明朝早々に野尻宿へ御出で下され
金子御受取被成候へば私し事は
何れ近々の中に當所を立ち
退候て何國の
果にても永く夫婦と相成申したくと夫のみ此世の願ひと
祈り居り※
[#まいらせそうろう、272-14]どうぞ/\
御目もじのうへ
山々御もの
語り申し上ぐべく候
あら/\めて度※[#かしく、272-15]
うめ

昌次郎殿へ
と有りけるに座中の人々
彌々驚き偖は其方が野尻宿の近江屋のお
專殿なるか
而又持參の此文はと
惘れ果てたるばかりなりお
專は
猶も座を
進み何と此文は
覺えが有りませう彌太八とやらの歸りし
跡に此文が落てありしは天命ならん然し
左右に爭ひ給はゞ此文を以て御上へ
訴へ御吟味を願ひませう夫とも只今百五十兩出し給ふか如何にぞやと
理を
詰て申しければ昌次郎も一
言の
答へもなく
赤面閉口したりしは
心地能こそ見えにけれ父上臺憑司
堪へ
兼て立ち上り昌次郎の
襟髮掴み
疊へ
摺付け
打据るにお早は娘お梅が
髻を
掴んで引倒し怒の聲を
震はしつゝ茲な恩知ず者め傳吉どのが留守中
何時の間にやら
不義いたづら傳吉殿に此伯母が
何面目のあるべきや思へば
憎き女めと人目
繕らう
僞打擲も是れ又見捨て置れねば又人々は
取押へ彼是れ
騷動大方ならず時に憑司は其座の人々四五人に何か
談して打ち連れ立ち自分の宅へ
戻りしが間もなく入り來りて傳吉殿此人々と立ち合ひにて
悴の
部屋を
改むると此の通り百五十兩
胴卷の
儘仕舞うて有り是にて候やと差出すに傳吉は
篤と見て成程私しの
胴卷なりと云ひつゝ中を改め一錢の
紛失なしと云ふにぞ然らば受取給へ何分にも
親類のことなれば此儀は内分に
濟し呉れよと憑司は一
向誤り入り
悴は只今
勘當すべしと
詫ける故其座の年寄組合など種々扱ひ金子の歸りし上は先々
穩便に濟し給へと申しければ傳吉は
暫し
言葉はなかりしが皆々樣の御
扱かひにて金子は無事に
戻りしゆゑ私しも内分にて
濟し申すべくと直に
硯を引寄て三行半を
書て之は女房梅が
離縁状なり姦夫の
實否を
糺さずして離縁なすは百五十兩の金皆々樣の御
骨折にて我が手に
戻りし
歡こびなれば申し分もこれなきことなりお
早どの
儀は
現在叔母に候あひだ私しが
養育申べし夫共お梅の方へ參りたくは夫程の
手當を差上申べしと云ば伯母お早も
默然として居たりしが此上にも傳吉殿に
養はれ申も氣の毒なり梅方へ參り度と申ければ其儀なら私しが
貯たる金子百五十兩の中を
半分分て伯母御が一生の
養育料にと分ち
與へければ其座の人々大いに
感心なし傳吉どのは五ヶ年の間天下の御
膝元の江戸で
揉れた
故違うた者なり是にて
相濟上からは名主殿も御子息の勘當を御
免しなされ又お梅殿傳吉殿
那程捌けて申さるゝ故嫁御に致されしかるべしと皆々取なせば憑司は一同へ
打向ひ
此度の一條は何と申樣もなき
悴の
不埓我は何樣御扱かひ
有迚も
勘辨なすべき譯ならねど村中の
口添に餘り愛相なき事故に
曲て
差赦せしにより人々は大に
悦び傳吉に昌次郎お梅をば
詫させ其夜の中に事を
濟せ叔母も名主方へぞ參りける是は傳吉が
留守中おはや憑司は
不義なしお梅は昌次郎と
密通に及びて居たるを村中にても
薄々知て居る者あれば幸ひと引取り親子共に夫婦となりける又おせんも
我身の
明りもたち傳吉へ金も
戻りし上は人々に
暇まを告げ
野尻へ立ち歸りぬ
扨
世話好者の多きは常なるに傳吉か宅へ其夜來し人々は翌朝五六人おせんを
野尻宿の與惣次方へ
送り行き前夜の
始末を話し又傳吉が心の廣きこと恨みある伯母に
艱難辛苦して
溜し金の半分を
遣はし其場を
濟せし事迄を落なく語りければ與惣次は大いに
感心なし如何にも今の世には得難き人なり殊に女房叔母ともに
奇麗に向ふへ
遣し
温順き心底なりと傳吉が
徳を
譽稱へて止まざりける此の時村人與惣次に申しけるは人家の
女房は
眞棒なり傳吉殿も今江戸より戻り
大略元の身代に成らんとなす
折柄女房が無ては萬事
不都合ならん夫に付此方のお專殿を傳吉殿の妻に御
遣はしあらば實に幸ひならん此度の事はお
專殿の
働にて不思議に金子手に
戻り
殊に發明なる性なれば何と與惣次殿我々
斯申も
言ば傳吉殿に
牛を
馬に
乘替させ先の者どもへ見せつけて遣んとおもふ心なり其所は其
許の
胸一ツ何卒兩人夫婦にさせては
呉まいかと
無造作に
頼めば
與惣次承知なしお專を
養女に
貰ひ受け傳吉に
添せることに取極め翌日は吉日なればとて
上臺憑司其他の人を
打招き與惣次を
舅入一所にして首尾能く婚姻なしける
偖祝儀も
濟みて與惣次と傳吉お專
而已なればお專傳吉に
打向ひお早どのは私しが
養母にてお梅どのは私しの
姉なり
豫てお
咄し申せし如く私十二歳の時に病氣の
父を
捨て
家財殘らず
掻さらひお梅どのを
連欠落なせしかば私に
逢ては
恥かしく夫ゆゑ參らぬと見えたり
然乍ら是必ず他人に語り給ふなと言はれて傳吉
吃驚なし其方が
咄せしは我が叔母にて有けるや
餘所のことぞと聞てさへ
憎しと思ふに其の人は我が叔母女房にて有けるかと
驚入るぞ道理なりお
專又申樣然らば此度の儀も叔母御は必ず村長の憑司殿と
譯あらん依てお前を
倒し我が子を夫婦となせし上自分も共に
樂まんと
櫛を
盜ませ金を
騙り取らせしならんと云ふに與惣次
打點頭成程お專が言ふ如く毒ある花は人を悦ばせ
針ある魚は
汀に寄る
骨肉なりとて油斷は成じ何とぞ一旦兩人の身を我が
野尻へ退きて
暫時身の
安泰を心掛られよと諫めければ傳吉は是を
道理と歡こびて或日傳吉は憑司方へ到り此度都合により他所へ
引移り商賣を致し度と申しければ憑司は傳吉が此村に居る時は何かに
面伏なるゆゑ是幸ひと早速
承知なしたるに傳吉は立歸り少しの田地は人に預け夫婦諸共に
野尻へ引移りしかば
與惣次も老人故家内の世話は傳吉夫婦に
任せけるに傳吉は正直實義の男なれば
何づれも
深切に取扱ひ
殊にお專は發明ゆゑ與惣次も
安堵なし
茲に二三年を
送りける時に寶田村の上臺憑司親子四人の者は傳吉が
村中に居ざるを
喜悦奢り増長して傳吉が人に預けし田地を書入にして金を
拵へ其上村の
持山を村人に相談もせず金三十兩餘に
賣横領のありければ百姓共は
堪忍成難しと高田の役所へ訴へければ役人
吟味のうへ憑司事重々不屆の儀に付村役
召放され其上小前の百姓へ早々勘定致すべき旨
嚴敷仰付られけるに依て寶田村にては名主の跡役を見付相願はんとて
惣寄合商議せしに傳吉の親迄代々彼は當村の名主の家なり然らば此度は傳吉へ名主
役仰せ付られ下さるやうに願はんと
評議一決なし其段願ひ出しに付
榊原家の役人中早速傳吉を召返し寶田村名主役仰付られければ
爰に於て傳吉は
寶田村の名主になり
昔に歸る古卿の
錦家を求て造作なし夫婦の中も
睦しく樂き光陰を
送けり偖又夫に引替上臺憑司は己が
惡きに心付ず之れ皆傳吉夫婦が有故に
斯る禍ひに逢たりと理も
非も
分ず傳吉に
村役を取られしとて深く
恨み高田の役人へ手を
廻し此
怨を
晴さんと種々工夫を
巡らしけるしかるに高田役所にても先の奉行并びに下役の者ども替り新役になりければ此時ぞと思ひ役人に
賄賂を遣ひ傳吉のことを
惡樣に言なしける傳吉は元正直律義の生れ故
諂ふことをせず用向の外は立入ことなければ當時の役人
供傳吉は行屆ぬ者と思ひしより
遂に憑司の方を贔屓になしけるが然とて傳吉に
落度もなく別に
咎むべき筋もなければ其
儘になし置を憑司は何にしても
先役に立歸らんと色々
賄賂を
遣ひけれども是ばかりは
急のことにも
埓明ず親子商議しけれども金は
容易に
調ひ難く之に依て悴夫婦を江戸表へ稼ぎに出し金子を拵んと旅の用意を
致し
日暮れに寶田村を立出
猿島河原まで來りしが手元の
暗ければ松明を
燈さんとて火打道具を見るに火打
石を
忘れたり是れより昌次郎はお梅を河原に待せ其身は取て返しける時に昌次郎夫婦は出立の
後に
火打が
殘つて有る故急ぎ忘れしと見えたり
屆け
呉んと親の上臺は後より
携て
馳たりしが昌次郎とは
往違ひに成たり偖又
譚替つて此猿島河原は膝丈の水成しが一人の雲助
若き女を
脊負て渡り來りて河原に
動さりおろし女に向ひ今も道々いふ通り今夜の中女郎に賣こかす程に此己を
兄樣とぬかしをれ只た三年の苦みだ
斯己に見付つたが百年目
否でも
應でも賣ずにや置ぬと
威す言葉も
荒ぐれに女は涙の顏を
上何卒免してたべ
妾は源次郎と
言夫のある身金子が入なら夫より必ずお前に
進せん何卒我家へ回してと
泣々詫るを一向聞ず彼の
雲助は眼を
剥だし是程に言ても
聞分ぬ
強情阿魔め然らば此所で打殺し川へ
投込覺悟をしろと
手頃の木の
枝追取て
散々に打けるをお梅は片邊に見居たりしが
迯出さんとする所を
雲助眼早く見咎めて爰にも人が居をつたか今の話しを
聞きたる
奴は
逃しはせぬと
飛掛つて捕る
袂を
振拂ひお梅は聲立人殺し人殺しぞと
呼所へ昌次郎の
後追うて此所へ來かゝる親上臺は女のさけびごゑを
聞其所に居るのはお梅かと言へばお梅はオヽ
父さん
何卒助けて下されと聞くより上臺は
馳寄るに雲助は是を見て
邪魔だてなすなと
棒振上打て掛るを引外し
脇差拔て
切懸るに彼の雲助は逃
乍ら女を
楯に受ると見えしが
無慘や女は一聲きやつと
叫びしまゝに切下げれば
虚空を
掴んでのた
打間に雲助又も
棒追取上臺が
膝を横さまに
拂へば
俯伏に倒るゝ所を雲助は
乘掛りつゝ打のめしたる
折からに昌次郎は歸り來り拔手も見せず雲助が
肩先深く切付ればウンと
倒れるを上臺は
漸々起上り一息ほつとつき親子三人は
顏を見合せ互ひに
無事を
悦びつゝ
頓て四傍を見廻せば
片邊に女の
倒れ居て
朱に
染息も絶たる
樣子なりとて憑司は
礑と手を打是と云も元は傳吉から
起たこと然らば此
死骸へ昌次郎お梅が
着類を
着せ此所へ殘し置き我また別に
能工夫ありとてかの曲者並びに女の
首を
切つて川へ流し二人の
着類を着せ替て昌次郎夫婦は
甲州路より江戸へ
赴かせたり
偖又憑司は其夜昌次郎を立せやり
草履に血の付たるを
持て傳吉宅へ
忍び
込庭の
飛石へ血を付置き夫より高田の役所へ
夜通しに往て
訴へ
捕方を願ひける偖又傳吉方にては
斯ることの有りとは
夢にも知らざれども
所謂物の
前兆ならんとお專が見たる
夢の
惡しければ
夫傳吉に此事を
語り其
吉凶を
猿島川の向ひなる卜ひ者へ出向はれ身の上を
占ひ
貰へ給はれとお專が
勸むるにぞ傳吉も彼方に立出或山路へかゝる所に一人の
侍士に
逢ひ能々見れば先年新吉原の三浦やに
勤し頃同家の
空蝉の
許へ
毎度通ひし細川の家來井戸源次郎にてあり傳吉是はとばかり
立止るを先方にも
貴樣は傳吉ならずやと云ふに
久々にて御目に
懸りたり何の御用にてと
尋ねければ源次郎は大いに
急込たる樣子にて然ば貴樣が三浦やの
暇を取し後
空蝉を
受出し名も千代と
改めて我妻となしけるが
實親は越後に在るとのこと故彼れが
實家を
尋ねんと此地へ來り
今朝馬丁の惡漢が我が妻ちよを
勾引何れへか引込みしが跡より
追懸尋ぬれ共一方
行方知ず
所々方々尋ね居れりと
物語りけるに傳吉聞て偖て
憎き
奴の仕業かな偖々御困りならん何れにか御
商議申上げん程に私し方へお出あれ
然共只今は急ぎの用事して
猿島川まで
罷越せば今晩にも私し方へ入らせられよ寶田村傳吉とお尋ねあれと互ひに
苦勞の折柄右と左りへ
別れける斯て傳吉は
畑村の占ひ者の宅へ急ぎ行き
夢物語りして
吉凶を委細尋ねければ占ひ者暫時
勘考せしが是は
大凶なり其故は斯く/\と傳吉か身に後大難のあることを
判斷なして此上
信心[#ルビの「しんじん」は底本では「しんじつ」]が
肝要なりと申しけるにお專も大いに
心配なし然らば明日より
鹽斷なり
斷食なりして信心を致しお前の身に
凶事なき
樣に致さんと夫婦は
來方行末を思ひ續けて夜は
遲く打臥ける翌朝傳吉は神前に向ひて拜するをお專は見てお
前裾に血が付て居るは如何なされしやと問はれて傳吉は
驚ながら
打返して見れば
裾裏[#ルビの「すそうら」は底本では「よそうら」]所々に血の付て居る故是は
不思議なる事
哉昨夜河原にて物に
躓きけるを偖は人にても
切れて居たるやと見れば
庭の
飛石にも
草履にて血を
踏付たる跡ありけるに
依て草履を返し見れば血の付て居ざるにそ
偖不思議成ことなりとて血を
洗ひ
落さんと夫婦水を
汲きて
庭石を洗はんと
爲所へ上臺憑司が
案内にて關田の
捕方内へつか/\と入くるに傳吉夫婦は何事やらんと
驚くを
後眼に
掛憑司は役人に向ひ御覽の通り飛石は血だらけに候と申す言葉に終ひに役人
上意の
聲と
諸共に
縛めける傳吉大いに驚き私し身に
取犯せる罪は
決してなしと言ひけれども
捕方は耳にも
掛ず申し分あらば
奉行所に於て申すべしと傳吉を引立行くにぞお專は
狂氣の如く是は何故の御捕方と
後[#ルビの「あと」は底本では「おと」]背掛て往きけるが役人傍へも寄せ付ねば詮方泣々我が家に歸り聲を
惜まず
嘆きしが偖ては前夜の夢は此
前兆にて有りけるか然し憑司殿か案内こそ心得ぬ豫て役人を
拵へての
惡巧みか如何せんと
獨り氣を
揉折柄に近邊の人々も驚きて何故傳吉殿は
召捕れしと種々
評議に
及頓て
[#「頓て」はママ]女房おせんを
連組頭百姓代共
打揃ひ高田の役所へ罷り出御
慈悲を願ひけれ共一向取上にならず傳吉は
入牢申付られ女房おせんは村役人へ
預け
遣す旨申渡されける
時に
享保十年九月七日越後高田の
城主榊原家の
郡奉行伊藤伴右衞門公事方吟味役小野寺源兵衞川崎金右衞門其外役所へ
揃ひければ
繩付のまゝ傳吉を
引据訴訟人上臺憑司をも呼出し伊藤は
嚴めしく
白洲を見廻し如何に傳吉汝
猿島河原にて昌次郎夫婦を殺せしは如何なる
仔細なるや
有體に申せと云ひければ傳吉
漸々頭をあげ
恐れながら私し
愚成と雖も村役を
相勤め
御法度は
辨へ
居れば
爭でか人を殺すべきや殊に憑司父子の者は私し
親類に御座候へば何故
意恨等を
含み申さんやと云ふを
默れ汝人を殺さぬ者か
衣類の
裾に
血を付け其の上我が入口の飛石へ血の
跡を
殘すべき此段は憑司が
訴への通りなり何故に汝が衣類に血のつきたるやと
詰れば傳吉は私し
昨夜畑村より
日暮て歸る時河原にて
物に
跌き
不審に存じ候が定めて酒に
醉し人の
寢て居ることゝ存じ
咎められては
面倒と
脇へ
寄て通り
拔しが
眞の
闇ゆゑ死人とは一
向存じ申さず今朝
衣類并びに庭の
敷石等へ血の
着居りしを見出し
驚き申候
然れば昨夜
跌づきしは
全たく
殺害されし者と初めて心づき候因て殺し人は外に御座候はん
恐ながら此儀
御賢慮願ひ奉つるといふをも
待ず小野寺源兵衞席を進み
聲荒くいかに傳吉
汝邪辯を以て役人を
欺く段
不屆千萬なり其の申分甚だ
暗く且又
裾の血而已に有らず庭のとび石に
足痕あるは既に捕手の役人より申立し如く其血を
夫婦にて
洗ひ
落さんと成しゝ
機捕手の者
罷り
越召捕しと申ぞ
是天命逃れざる所なり之にても未だ
陳ずるやと
威猛高になつて申けるに傳吉は恐れながら
裾并びに
敷石に血の
着たるを以て證據と
遊され候事一
應御道理には候へども私し家内の
脇差出刀庖丁の類
刄物御取寄御吟味下され候へば御
疑も
解申べし其上憑司は私しの叔父なり昌次郎は
從弟なり又
妻梅は私の先妻にこれあり叔母は憑司が方に居り
斯の如く
繋る親類ゆゑ
假令一
旦の
恨みあり共親身の者
爭か殺さるべきやと
義理分明に
辯解くを川崎金右衞門聲をあげ
默れ傳吉
威しく言葉を
飾り刄物の吟味を申立るが夫を汝に
習んや
其意趣ある事を言聞さん憑司事先年村持の山を
伐たる
咎に依て村役を
退けたり其
跡役は上の思召にて汝を村長に致したる處御意を
振ふ故村中の者先代憑司が時の
取計らひを
慕ひ汝が村役を上させ先代憑司に仰付られる樣に願ひたるを第一の
意趣に
存じ其上先妻梅事貞實成しをお專とか云ふ宿屋の下女に
馴染の出來しまゝ
無體に
離縁を致し今は梅事昌次郎の妻と成り夫と中
睦まじきを
妬み昌次郎が
柏原へ行て
暮て歸るを
待伏河原にて
切殺し猶知れざるやうにと首を
切つて
隱すなど言語に絶えし
惡業なりコリヤ
首は何處へ隱したるぞ有體に申すべしと云ふを
側から憑司は
額づきて恐れながら申上げん私し親類とは申せども
近頃は一向出入も仕つらず候處傳吉は其の朝に
限り用事もこれなきに私し方へ參り
悴夫婦が
柏原へ行事を
承知いたし歸りたり只今思ひ合すれば樣子を
窺ひに參りしと相見え候と云ふを聞傳吉は憑司に向ひ
思掛なきことを申さるゝものかな我あの朝は
斯樣々々の用事にてと云はんとすれば伊藤は
打消默れ傳吉汝何程
僞りでも
淨玻璃の
鏡に掛て見るが如く
己が罪は知れてあり然らば
拷問に
掛て云はして見せんと
笘を以て百
許り
續け打に打せければ
憐れむべし傳吉は身の
皮破れ
肉裂て血は流れて
身心惱亂し終に
悶絶したるゆゑ今日の
責は是迄にて
入牢となり之より日々に
責られけるが數度の
拷問に肉落て最早
腰も立ず
纔かに息の
通ふのみにて今は命の
終らんとなす有樣なり爰に於て傳吉思ふやう
斯る
無體の拷問は
偏に上臺憑司が役人と
腹を合せてなすと見えたり假令幾度
辯解する共證據なければとても
遁れ難し長く
苦痛せんよりは身に覺えなき罪に
落て死を早くなし苦痛を
逃れんものと
覺悟をぞ極めける或日又々郡奉行伊藤半右衞門は傳吉を呼出し汝が何程
僞はりても惡事は最早知れてあり其夜
暗闇にて昌次郎と
爭ひしを
聞居たる者あつて御領主へ
疾に申上たれば此上
陳ずるとも
無益なりと申しければ傳吉は
熟々と心の中に思ふ樣罪なくして無實の罪に
陷る我が身にまつはる
災厄とは言ひながら
我朝は
神國なるに神も
非禮を請給ふか正實の
頭に
神舍ると世の
諺も
僞りかや
嗟情なきことどもなりと神を
恨み佛を
詫ち
頻りに涙に暮居たり伊藤半右衞門は大いに
急立一言の答へなきは
愈々僞りなるべし白状せぬからは
骨を
割つても言はせて見せんと
大音に
罵しり又もや
拷問に
懸んとす然るに傳吉は
最早覺悟の事なれば
疲れたる聲をして
暫らく拷問は御用捨に
預かりたし實は私し昌次郎に
恨みあるにより彼等が歸り道に
待伏し猿島河原にて二人の者を切殺し首を
落して川へ
投入れたるに相違これなく候
御定法通り
御所刑仰せ付られ下され度と申立てければ伊藤は聞て然らば傳吉の口書を以て
爪印をさせよ又
追て呼出さんと
牢へ送りけり又同年九月廿一日同
白洲へ呼出しに相成上臺憑司
并にお早も
罷出牢よりは傳吉を繩付にて引出たり時に伊藤半右衞門申けるは憑司其方共
訴への趣きにより傳吉を段々
吟味致せし所
彌々兩人を殺したる
趣き白状に及びたり依て罪の
儀は
追て仰付らる
則ち傳吉が口書の趣き承まはれと
讀聞せければ憑司は誠に御役所の御
仁惠を以て悴と嫁の敵を取候事
嘆きの中の喜びにして是
偏に御上の
御威光有難き仕合せに存じ奉ると申し述ける
體誠しやかに見えしかば傳吉は
覺悟のことゆゑ
只頭を下て
嘆息の外なかりけり今日は皆々白洲を下りける爰に傳吉が妻お專は
夫の
入牢なしたる日より種々に心を
痛め如何はせんと野尻の與惣次方へも知らせて
兎も
角も
相談せんと思ひ直に野尻の與惣次方へ
往んと
支度をなしたる處へ
養父與惣次
息繼敢ず
馳來ればお專は
打悦び
挨拶の先にたつのは涙にて左右
詞出ざれば與惣次はお專に向ひ其
嘆きは
道理なり昨日聞きたる傳吉の
災難直參らうと氣は
急といふとも何も
寄る年に心の如く身は
動かず
漸々馳出し參りたり
仔細は何じやと
尋ぬるにおせんは涙の
顏を上げ
譯と申すは
云々ならん彼の
夢の事より衣類并に
庭の石に血の
跡があつた夫が
證據に
入牢せし事迄
落もなく
咄し女心の十方に
暮如何致して
宜らんか今日
貴公のお宅へ出向き御
相談を
願はんと支度をなして居しと語る間も聲を
揚歎き
悲しむ有樣に與惣次は
眉を
顰めて夫は傳吉が人を殺ししたるに非ず殺した
奴は外に有るべし
然し憑司が村長を傳吉に
奪れたりと思ひ違ひ
憤りを
含み居りしに斯る事出來せしかは其罪を幸ひに傳吉に
負せしなるべし我又高田の家中に知る人多し金子の
手當して高田に到り
夫々役向へ金を遣ひ傳吉が
科ならざるを
執なし
貰ひ又お專か村方の組合も出て與惣次
共々種々命乞と
嘆願におよびけれども何分其事
叶はず其中に七日八日
隙取ければ早傳吉は
罪に
陷て昌次郎夫婦を殺せし由
既に白状に及び
最早罪の次第も
定りし上は力及ばずと聞しお專は狂氣の如く又與惣次も力を
落し
互ひに
嘆き
悲しめ共今は
詮方なく種々に心を
痛めたり
人の
憂ひを憂ひ人の
樂みを樂むは
豪傑好義の情なり然ば與惣次は如何にもして此
無實の罪を
解き命を助せんと
種々心を
痛むる
折柄將軍家の
御名代として
禁裏の御用にて當時
御老中酒井讃岐守殿中仙道
筋を上り道中諸願を取上
領主役人などの非義非道なることは
取調ぶるとのことにて明後日は
追分邊お泊りとの
噂を
聞與惣次は大いに喜び然ば御
途中に
待受て直に願はゞ萬一傳吉が助かることもあらんか
且はお專が氣をも
取直させんと其のことをお專に
話し早々御
駕籠へ
直に願はんといふにお專は
甚く
打喜悦び天へも登る心にてそんなら是より
些少もはやくと
直に與惣次と同道なし中仙道の
追分へ出て聞けば明日は
當驛晝御膳なりと言ふゆゑ與惣次お專は
漸々胸落付願ひ書を
認め翌日を
遲しと
待請ける時に享保十年十月十六日
酒井讃岐守殿
先供通り掛らんとする處へ六十ばかりの男と廿三四
歳の女の如何にも
窶れたる状
髮を
亂し打しほれし
有樣にて竹に
差たる
訴訟を以て待居たり酒井樣の
先供之を見て汝等何者にて
願ひの筋は
何成やと云ふ兩人は
大地に手をつき
恐る/\私し共は越後國
高田領の百
姓にて是なる女の
夫無實の罪に
落入遠からず
死罪に決し候へ共未だ存命にて
入牢仕つり居り候何卒
御殿樣の御
慈悲を以つて誠の御
吟味を
仰せ付られ御助け下さる
樣願ひ上げ奉りますと
述れば武士一人
殘りて夫は
不便の事なり今に此所御
通行相成時怖れずと委細に申上よと云ひければ兩人は
歡びて今や
遲しと
待居る處へ宿役人
大勢領主々々の役人先を
拂ひ讃岐守殿
通られける時に
殿の
乘輿來掛る時
先刻殘りし武士手を
着榊原遠江守百姓
愁訴願ひ奉つると高聲に
披露なすにぞおせんは足許も定らぬまでに
悦び漸々
訴状を以て願ひますと差出するに
駕籠脇の
士請取駕籠の中に
差出せば酒井侯中より
彼の女の樣子を
倩々見らるゝに如何にも
痩衰へ
愁ひに沈みし有樣なれば駕籠を
暫立よと止められ其の女是へと呼るゝ故おせんは
乘輿の側へ參り土に手をつき
頭を下るに讃岐守殿
委細尋問有りしかばお專一々申上る時又
後に
控居るは何者ぢやと有るにおせん彼は私
父與惣次と申者の由申上げしに
讃岐守殿近習太田
幸藏を呼ばれ其方は後に止り此者どもを
今晩の
泊に
連參れと申されければ幸藏はおせん與惣次に向ひ願の趣きお取上に
相成たれば今宵お
泊の
御本陣迄罷り出よと
云ひ
置乘輿を追つて走り行くにぞアラ
有難や
嬉しやと
飛立ばかりに
打喜悦泊りの宿へと
急ぎ行きしにお專與惣次を一番に
呼入られ酒井侯には公用人澤田源之進井上喜右衞門兩人に
委細相尋問べき旨仰付られしかばお專與惣次を
糺ける時お專面を
上傳吉が家の
貧窮を
嘆き江戸表へ奉公に出でたることより憑司が
悴昌次郎に金子
騙取られしこと
其他ありし
始末委細申ければ公用人は
篤と聞き終り如何にも
訴への趣き道理の樣には聞ゆれ共
片口にては定め難し何れ主人へも申上べき間
旅宿へ下り明朝
罷り出よとお專與惣次は
宿へ下られける右の
條々酒井侯公用人より一々申述ける酒井侯暫く工夫有りて當節領主の
役人共
非義の
取捌き是有由豫て聞及びあればと申されて
願ひの趣き取上と成り
翌日馬廻の武士岸角之丞御下知書を
持て榊原殿へ
達せよと
早打の
直使を立られ榊原家の
老臣伊奈兵右衞門へ
御用状をぞ渡しける御
用状の
趣き
此度上京に付信州
小田井宿旅宿の處其領分高田村名主傳吉と申者此度無實の
罪にて
死罪に
相決し既に日限り定り候由右傳吉妻專と申者
愁訴有之近年御領奉行代官に
依怙の
取計ひ有て
非義成儀[#ルビの「ひぎなるぎ」は底本では「ひぎなるが」]多き由
上聞に達し此度
道中愁訴あらば取上申べき樣
嚴命を
蒙りしに依て右の訴へ御取上に相成
再應の吟味仰せ付られ傳吉儀御用有之に付私しの
仕置相成ず則ち當月
晦日迄に罪人傳吉
并に相手方
上臺憑司夫婦其外
專養父野尻宿百姓
與惣次江戸表差出大岡越前守役所迄追々
召連可申候且此度
掛の
役人郡奉行伊藤伴右衞門
吟味方川崎金右衞門小野寺源兵衞等江戸へ同道可有之右之段主人
讃岐守より
相達し候之に依て此
旨貴殿迄急度御意得候以上
榊原遠江守殿内 伊奈兵衞門殿
然るに傳吉は昨夜より
牢内に
切繩を入れて彌々明日
死罪と申事故一
念唱名して
豫て
覺悟致しける所ろ
折節牢役人來り傳吉に向ひ
偖々其方は仕合者なり
既に死罪に
決し明日
首を
切るゝ所其方が
妻は酒井樣のお
駕籠に付
願ひたるゆゑ
再御吟味となり明日江戸表へお
差出しに相成と申ことなりと
言ければ傳吉は
夢に夢みし心地にて誠に神佛未だ我れを
見捨給はざるやと樣子を
窺ひいたりける時に酒井樣より其の
朝宿次刻限の急使にて江戸御老中大久保佐渡守樣へ
[#「大久保佐渡守樣へ」は底本では「大保久佐渡守樣へ」]御用状
到達なし則ち
上聞に
達せられける尤も遠國は皆
寺社奉行勘定奉行の掛りの所
此度は讃岐守より
言上の趣きは
餘程入組し
事柄なりと申上られければ將軍家にも
再吟味と有れば越前守が宜しからんと大岡殿へ
人撰にて仰付られける
爰に於て榊原殿より傳吉を
軍鷄駕籠に入れて役人大勢
守護なし并傳吉
妻舅與惣次及び榊原殿郡奉行伊藤
半右衞門公用方下吟味川崎金右衞門小野寺源兵衞訴訟人憑司夫婦皆々江戸表へ出立致させ
榊原より役人百人ばかり
附添享保十午年
[#「享保十午年」はママ]十月廿二日江戸着に相成
其段屆出しかば傳吉は
直取大岡請取られ入牢申付られ郡奉行其外は江戸表屋敷又は町方等へ
下宿致しけり偖又享保十年十月廿九日
願人憑司夫婦を南町奉行所へ召出されし時
越前守殿出席有て
訴訟人越後高田領百姓憑司お早とは其方なるか
并に
差添の者喜兵衞甚右衞門何れも
罷出しやと
仰に一同
罷出る趣き
願あぐれば右
願書を
讀上る
乍
レ恐以
二願書
一奉
二申上
一候越後國
頸城郡寶田村百姓憑司并に妻早奉申上候私し同村傳吉と申者親類にも有之候に付先年傳吉江戸表へ奉公
稼にて罷り出叔母と妻とも國元へ
差置候ゆゑ手前
配下の儀と申殊に親類にも有之候間留守中母子の者
取續き候樣世話いたし置し所傳吉
國元へ立歸り候ては右の
恩を忘れ彼是
難澁を
申懸いたし且又道中にて野尻宿與惣次
召仕の下女專と申者と
密通致し叔母女房留守中
貞節を相守候者を彼是惡名を付
離縁に及び候段重々不屆の至りに御座候其節彼に
異見差加へ候得共
却て私し并昌次郎と傳吉妻と不義なと有之候樣に申掛離縁に及び候に今母子の
身寄處なく
既に道路に
餓死仕つり候仕合に御座候間見るに
忍びず
無據手前方へ引取百姓共
取扱ひにて是非なく
嫁に仕つり候處之を
遺恨に思ひ音信
不通に仕つり其上に昌次郎夫婦を
豫て
狙ひ候と相見え柏原と申す所へ
夫婦罷越候跡より付行日
暮をはかり兩人を共に
殺害し立退候へども
天命逃れ難し庭の
飛石に血の
跡これあり且傳吉衣類の
裾にも血の付居候に付此儀
相顯れ召捕れ右の段
領主の役人方へ
吟味願ひ候處傳吉隱すこと能はず
切害致し候始末白状に及び候然るに
今般召出され御吟味を蒙り候上は何卒御
明察を以御吟味被下置子供二人の
解死人に被仰付被下置候へば
有難仕合に存じ奉つり候偏に御
威光を以此段
御吟味願上候以上
享保十年十月
榊原遠江守領分百姓寶田村 願人 はや[#「願人 はや」はママ]
南御番所奉行所樣
讀上るに越前守殿
憑司を見られ此願書の趣きにては
嘸々無念に思ふなるべし不便の
次第なり妻早其方の一人の娘を
殺され
嘸愁傷ならん併し
屹度傳吉が殺せし共
言難からん
而猿島河原より寶田村へ
道程は何程あるやと申さるゝにお早は憑司が
答へを待たず四十町許是ありと申立れば越前守殿又其日子供は
何時頃宅を出何方へ
罷り
越しぞと
尋らるゝに憑司頭を上げ
柏原と申す所へ用有つて
早朝より罷り出しなりと申立れば越前守殿
疵所は如何なりしやと申さるゝに憑司娘は
肩先より切付られ疵は數ヶ所ござりまして
首は
隱せしや更に見えずと云ふに越前守殿首がなくて我が子と云ふこと如何にして知れしぞと
仰せければ憑司ヘイ
着物で分りますでござりますと云ふに
成程我子ならば
着物に
見覺えあるは
道理なり
偖々不便の事哉近々
呼出す間罷り立てと仰せられけり
時に
享保十年十一月五日
牢内より傳吉公事宿よりは妻
專與惣次等奉行所へ呼出され大岡殿
出座有て傳吉を御
覽ある處に
惣身痩衰へ如何にも
嚴重拷問に掛しと見えて
甚だ
勞れたる樣
體なり其歳は三十五六歳
物柔和なる體なり妻專は之も
痩衰へたる有樣にて其
體哀に見えにけり明智の大岡殿故其と
見らるゝ處や有けん
詞靜かに傳吉汝は如何なる
意趣にて
親屬なる昌次郎を
殺害せしや
憑司夫婦の者より願ひ書のおもむき
只今讀聞せる間
承まはれとありければ
目安方與力其願書を
讀上るに越前守殿又傳吉に向はれ憑司が願ひ書の
趣き
覺えあるやと云るれば傳吉は
漸々に
面を上げ
恐れながら申上ます其儀は私し一向に
覺え御座りません然るに高田の役所に於て
數度の
拷問に
逢ひ
骨々も
碎け苦痛に
堪兼是非なく
無實の罪に
陷入りし所又々
再應の御吟味
誠に有難仕合せに存じ奉ります
訴訟人憑司は
現在私しの伯父ゆゑ如何成前世の
業因かと存じ
斷念無實の
罪に
服せしと申立ければ越前守殿是を
聞れ
汝は然樣に申せ共全く覺えなきものが罪に服するの理有べきや又憑司とても
跡形もなきことは申まじ
然ば其方が申事は
眞とは受取難し
能々明白に申立よと仰らるゝに傳吉は
迷惑なる
面色にて
再應の
御尋問なれども私しは
決して昌次郎夫婦を殺したる
覺えなく且何の
意趣を
含む事も御座なく
殊に五六年の間江戸へ出奉公仕つり金子百五十兩を
貯へ
國元へ歸りし處私し江戸へ出し
跡にて妻梅と憑司悴昌次郎と
密通を致し
居私しが
持歸りし金子百五十兩を其
翌日預け置し所より
欺き取しにより其節之なる二度目の
妻專が
計らひにて憑司方より金子は私しへ
差戻し
呉し故直樣先妻梅は
離縁の上昌次郎へ遣し其後同村の者共取扱ひにて昌次郎と表向夫婦に致ました梅の母早事は私し實の叔母なれば
永く
養ひ置べき心得の所叔母早儀は憑司方へ
強て參り度旨申により
其意に任せ其
節百五十兩の半分を分て
遣せし程のことゆゑ私し心底御
賢察下されたく萬一右等の儀を
遺恨に思ふ程ならば五ヶ年の間た
千辛萬苦して
貯へたる金子をいかに叔母成ばとて分ては
遣はしませぬ是
意旨を
含まぬ證據なりと申せば越前守其金子は
何程にて又江戸表は
何れへ奉公なし金子を
貯たるやと
尋問らるゝに傳吉ハイ江戸は新吉原三浦屋四郎左衞門方に五ヶ年相勤め居其内百五十兩
貯はへし由云ければ大岡殿五ヶ年奉公の内
國元の
伯母と
妻とは如何せしぞと云るゝに傳吉
給金の内半分は國元へ
遣し半分は主人に
預け置し處
首尾能相勤しとて
褒美に主人より十兩
貰ひ又遊女共より
餞別として十兩餘り
貰ひ都合百五十兩餘に相成
持ち
歸り其内七十五兩伯母に
遣したりと云立ければ大岡殿其伯母と云は
當時憑司が妻早の事なるやと云れ
暫時考へられしが成ほど其方が申立の如くならば
如何にも人を
害する程の
遺恨は有まじ然なから
裾に血を
引而已か
飛石に迄
血の付居たるはいかなることぞと
問るゝに傳吉
答へて其夜
畑村へ參り河原にて物に
跌きしが
眞暗にて何か
分りませぬゆゑ早々立歸り
翌朝裾に血がつき居たるを見出し其上何者か
飛石へ
草履にて血の
跡迄付置しか
不思議に存じ私しの
履し
草履を
改ため見たれども血の氣は更に之なく如何して
飛石に血が付しかと女房せんと
諸共に
洗居りし處へ憑司が案内にて
直樣召捕れし上種々
拷問に懸り申分致せ共御聞入相成ず
夫故據なく死る
覺悟致し罪に
伏したる旨申すにぞ大岡殿コリヤ其方は其
專と申す女と
密通致し居るにより
先妻を追出せしと
聞然樣なるか傳吉
否全く然樣の事はござりません先達て道中にて私し
難儀ありし節此專が金子を
預り
呉櫛を形によこしましてと
野尻宿にての
事柄より彌太八と
僞りし者に金子を
欺り取れしこと專が
勸めにより又村中の者を呼び酒宴を
催し梅が不義昌次郎が
騙りの始末
相顯はれ是に因て梅を
離縁致し夫より同村の
懇意の者が中だちにて
專を後妻に
迎へたること迄
委細に申立此儀は寶田村より
差副に來たる者共へ御
尋ね下さるれば相分りますと申ければ大岡殿如何樣に其方が
申處聞處あり猶追々
吟味に及ぶとて其日は一同下られたり其後外々の者一通り
吟味有し所領主家來の者
奸曲の
取計ひも聞ゆるにより評定所へ差出しに相成たり
同年十一月十日
評定所へ御呼出しに付
訴訟人相手共
腰掛迄相詰居し處老中若年寄り及び三奉行を始め立合の役人中今日は
天下の
御評定日にて諸國より訴訟人
夥多しく出張なし居けるに程なく
榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村百姓傳吉一
件這入ませいと呼び込む
聲と
諸ともに訴訟人憑司おはや
相手方傳吉其の外引合共白洲へ出るに傳吉は
繩目の
儘にて
踞る同人妻せん與惣次も
謹で
平伏なし何れも遠國片田舍の者始めて天下の
決斷所へ召出され
青めの
大砂利敷詰て
雨覆を高々とかけ
嚴重なる
白洲の
體左右には夫々の役人居ならび
威を
示しつゝ靜まり返て見えけるに各々
戰慄の止らぬまでに
恐れ入てぞいたりける今日榊原家の郡奉行伊藤半右衞門同人手代川崎金右衞門小野寺源兵衞及び
附副留守居等召出されければ此人々は板縁に
控へたり
暫くありて老中方を始め
若年寄三奉行並に立合の役人席に
着るゝや大岡殿中央に
進まれ大目附
兩脇に附て立合るゝ時大岡殿には榊原家家來伊藤半右衞門と
呼れ其方の
吟味にて傳吉は罪に伏したる由然樣なるかとありければ
伊藤半右衞門
愼んで彼段々と
吟味仕つり候處其罪
明白に伏し候段
相違御座なく然るを同人妻せん何樣成儀申上奉りしや
再たび
御手數相掛候段
不屆き者なりと申けるに越前守殿
成程其方の申所
道理の樣には聞えしが其方も榊原の
家來にて某が役儀にも
准する事故
決斷に
如才はあるまじきも人命の重きは
豫て
承知で有らう罪の
疑はしきは之を問ず
功の
疑はしきは之を
擧よと
衣裳に血を引飛石に
血の付たるにて殺したるは傳吉ならんと
疑はれ
拷問の
嚴敷に
堪兼て罪に伏せしと傳吉並に專より申立しが
此儀如何なるやと云るれば
伊藤は
面を上げ
恐れながら
段々吟味仕つりし所
意旨之あり候て殺したりと
當人白状仕つり既に爪印迄
相濟たる上からは彼が罪は
明白なりと申せしかば越前守殿イヤ夫は
拷問の
苦しみに
堪へ兼ね是非なくも罪に
伏せしと云又昌次郎梅の兩人を
殺し血が
走りて
注らは
裾而已ならず或は
襟又は
袖などへも
注るべきに何ぞ
裾ばかりに引べきや
此儀合點行ずシテ其
猿島川より寶田村迄
道程何程有やと聞るゝに伊藤卅町程の
道程なりと
答ふれば大岡殿
斯道程の有所にて人を
害し
草履の
裏に血が付きしとて三十町
程歩行歸らば必ず地を
踏付て
仕舞ふべきなり
空中を
飛行なさばいざしらず我が庭の飛石に
草履の
形が血にて
明々殘るの
所謂なし
是眞に
疑ふべき一ツなり然すれば傳吉に
意旨を
含し者猿島川
邊にて男女の
害されたるを
見留之幸と傳吉の罪に
落さんと
計りたるも知るべからず殊に其夜は傳吉も同じ河原を
歸りしを
知其者
草履に血を
付[#ルビの「つ」はママ]て飛石に
押たるものならんか右二ヶ條の
趣き
而已にても心付べき
筈なり
是調べし人の
過りにして
勿々罪は斷し
難し且又其夜傳吉が參りし
占ひ者を呼で傳吉の歸りし
刻限を尋ねしや又傳吉が
脇差其他
刄物等をも
改めしや
何ぢやと云るゝに伊藤は今更一言の申上樣もなく
恐れ入候と申すにぞ越前守殿之は
麁忽千萬なり
然らば一方が
訴へばかりを聞て
拷問に掛るは
裁判の法にあらず假令憑司
如何樣に申とも心得有べき筈なり榊原家にても公事
決斷を
預る者は
器量なくて有べきや
斯樣なる事
辨へぬ其方にても有可ざるに事の
此所に及べるは
眞に
疑はしきことどもなり是其方に疑ひの
掛り
糺問せざるを得ざるなりと仰られければ半右衞門忽ち
色蒼然恐れ入て答へなし時に越前守殿コリヤ憑司只今
聞通りにて
裾に血の
引飛石の血ばかりでは其血とも
決し
難し其方
覺あらう
明白に云立ろと云はれしかば憑司は心中ぎよつとして
徐かに頭を
持上たり
大岡殿に向ひ
否昌次郎夫婦を
害せし者傳吉の外には
御座なく其故は昌次郎
女房は元傳吉が妻にて傳吉は
只今の妻專と
密通仕つり母諸共梅は
離別せられ
道路に
餓死仕るべき有樣なるを私し
親戚のことゆゑ二人を引取
世話いたし其後昌次郎が
妻に仕つりしが傳吉これを
却つて
妬み其上村長役を傳吉へ申付られ候
故名主の
權威を以て段々
押領我意等の
振舞候故村中私しへ村長を
相勤め呉れる樣
内談仕つりしを何方にてか
承まはり猶々
妬み
彌増猿島川に待伏居り兩人を殺し私しに氣を
落させ
向後村中より相頼み候共村長役勤め
兼る樣仕つりしに
相違これなく此段何卒
御賢察を
願ひ奉つると申立れば越前守殿傳吉を見られ只今憑司が
申所にては其
方人殺しに
相違なく又
無體に叔母と
女房を追出したる由なるが
如何やと
尋問さるゝに傳吉は憑司を
怨めし氣に
見遣り之は先にも申し上し通り私
爭か人を
殺しうべき又た先妻梅儀を
離縁致せしは昌次郎と
不義顯れし故
離縁状を
遣し又叔母儀も彼より
望みて憑司方へ
相越たるは村中
總寄合の席の事にて相違は御座なく此儀は
總代差副の者へお
尋ね下さらば相分る儀と存じ奉つりますと云に越前守どの其方昌次郎梅兩人不義致せしと云は何か
確なる證據ありや傳吉此儀は
委敷妻せんへお
尋下さるべしと云に大岡殿はコリヤせん其
譯を存て居るやと云へば私し事
未だ傳吉妻と
相成ざる前野尻宿與惣次方に居し時傳吉こと
江戸より國元へ歸り候とて與惣次方へ
泊りしに
途中より
賊に付られ難儀の由私しを見かけ
救ひ
呉候樣申候此時始めて
顏を見候へば五ヶ年以前私し
實家柏原宿の森田屋方へ泊りし
旅人にてと夫より其
節のことども
委しく申立後父銀五郎
病死致せしより其所を
仕舞養父與惣次方へ少しの
縁合を以て居りしに傳吉に
巡り逢ひ同人より
預りし金を昌次郎に
欺られしこと右金子を取戻せし節昌次郎お
梅の不義
相顯れ村中寄合し
席にて傳吉よりお梅に
離縁状を渡したる事迄夫の大事と
思ふ故
云々斯樣々々なりとこと
落もなく申上ければ大岡殿
心中にお專が
才智を
感じられしが
態とおせんに向はれ其方は其前より傳吉と
密通せしと憑司より
申立てしが此儀如何なるやと
問ければおせん少しは
顏を
赤らめイヱ/\五ヶ
年前私し
在所柏原の宿へ一夜
泊りたれども
其節父銀五郎病中にて私しは十二
歳一夜の
旅宿に
爭然樣の
儀を致しませうぞ夫より五ヶ年
過まして與惣次方にて
出會ましたは是れ只一夜
殊に傳吉の身に
深き
心配ありて右樣なる
猥の事の出來
樣譯は
御座りませんと申上けるに大岡殿然ば何で
夫婦に
成しぞと云るればお專ハイ之はお
梅どのを
去ました跡で村中より
勸められ主人の與惣次も
得心の上其の意に
任せ傳吉方へ參りしなり此儀は
與惣次始め村中の
者共に
尋ね下さらば
相別りますとの
答へに大岡殿ヤヨ與惣次今專がまうせし
通りなるやと御
尋ねに與惣次又
進み出其儀少しも相違これなく
其節寶田村百姓與次右衞門喜兵衞
助右衞門八兵衞四人にて
專を
所望に付遣せし事にて
則ち其喜兵衞助右衞門は此度差添に
罷り居ります
故に
尋下さらば相分るべしといふにぞ喜兵衞助右衞門へ
尋ねられし處二人とも
少しも相違これなきむね
申立けるに大岡殿
然らば傳吉は
密通ならず委細相分りぬ又
盜難と申は如何なる
譯ぞ百五十兩と申せば大金なり譯なき女に
預ける事是又
不審なりと
尋らるゝに傳吉は
猶亦答へて私し五ヶ年以前江戸へ出立の時一宿仕つり候が
幼なくして
父銀五郎の病氣
介抱の體如何にも
孝行の者と見屆是ぞ
誠ある女と
存ぜしにより私し江戸より
古郷へ歸り
懸道にて
惡漢に金子を見込れ甚だ
危く心得只今言上せし通り其
志ざしも知りしゆゑ
櫛と取替に金子を預け其夜の
盜難を
遁れたる儀に御座りますと
[#「御座りますと」は底本では「座りますと」]云立ければ大岡殿大聲を
張揚コリヤ憑司只今傳吉夫婦が言立る所は如何にも
明白なり然すれば
其方は公儀を
僞る
罪人茲な
不屆者めと
白眼るゝに憑司はハツと
頭を下げ今更一言の
云譯もなければお早は
耐へず進み出でイエ/\彼等は不義に
相違なしと言へば大岡殿だまれ其方には
問ぬぞそれより
先其方
誰が
媒妁にて憑司の妻となりしぞと云れしかばお
早はグツと
差し
詰りヘイ
誰も
媒妁はございませぬが子供等が
夫婦に成ました故憑司と私しも
夫婦に成ましたとの
答へに白洲の一
同フツと
吹き出せしが大岡殿
笑ひを
堪へ
白痴者め其方が樣子を見るに傳吉が
留守に
不義猥婬を致し居しなるべし傳吉が
叔母と云は父方が身元を
委細申せと言ければ傳吉は
茲に於て
是非なく申立る叔母儀は私の母の
妹にて家の
相續いたせし所
聟を三人まで
追出し淺治郎と申男の
病死後又善九郎と申者と
欠落し行衞知れざりしを先年私し江戸へ
飛脚に赴きし時
鴻の
巣宿より連歸り其後私し儀は梅と
夫婦に成叔母を養ひ置しと申立んとせしが
是迄の
勞に
息切強く云兼るに付此後は
專其方より申上げ呉よと言ければ其時おせんは首を上お早が身の
素性より
實家森田屋銀五郎の方にて
不實を
働きし事まで殘りなく申立るに越前守殿
點頭れコレ早
然すれば汝が不儀の樣子森田屋銀五郎に
大恩を
請ながら其主人宅を
取逃欠落をしたる段
重々不屆至極の
奴なり入牢申付る
縛れと有ければ同心共
立懸り高手小手に
縛めたりける夫より憑司が村長を退きしことを
尋問られしかば憑司はぐつ/\
答ふる
樣私し少し
間違の
儀にて村の
持山を
伐しゆゑ退役いたし其跡にて傳吉儀役人中へ色々
諛び
竟に村長と相成しが傳吉段々
我儘押領等の筋之有るやにて又私しへ村長を
相頼みたしと村中の者私しへ
内談仕つりましたと申上るに越前守傳吉に向はれ其方役人に
賄賂を
遣ひ村長に成又
押領とは何を押領せしと
尋問るゝ傳吉只今憑司が申上しは
皆僞りにて
彼事は村の杉の木を
己が
了簡にて
賣拂ひたるにぞ村方一同
立腹なし村中よりの願ひに依て
退役を仰付られました
其頃私しは渡世の爲野尻の與惣次方に一兩年も
住居いたし居し所村方一同の
願ひとて
役人衆より古郷へ
召返され名主役仰せ付られしが其節も
辭退仕つり憑司儀を
取なし申せど何分村方にて
聞濟呉申さず是とても
差添の者へお
尋ね下さらば相分り申べくと申立けるに大岡殿
又勘右衞門喜兵衞を見られ傳吉は
其頃一兩年村内に居ず松山に在りしや又百姓中
總體の
願ひにて村長に成しと云が然樣なるや
尚又傳吉近頃
押領あるよしにて元の村長憑司に
頼まんと致せしや申立よと
言れければ兩人は成程傳吉は其
節野尻宿與惣次方に居りしを村中の
願ひにて村長に成しなり傳吉が
押領せしと云
廉は如何成
儀を致せしや此喜兵衞は一
向承まはり及び申さず
若や勘右衞門は
承まはりしやと云時勘右衞門は喜兵衞が
存ぜぬ事を
我等承まはる
筈なしと申に大岡殿其方共は村方にて何役を
勤むるやと
尋ねられ喜兵衞は
組頭勘右衞門は百姓
總代の趣き申立つる越前守殿
汝等知らざれば今憑司の申立は
僞りと相見える傳吉は廿年來
行衞知れざる叔母を
連歸り
飢渇を救ひ從弟梅を
妻として其上五ヶ年の奉公に金子を
溜し
實體なる行ひに
感じ村中の者
地頭に願ひ村長にしたるにまた/\憑司へ
歸役を願ふことはよもあるまじ然らば憑司は
疑ひなきにあらじ依て
手錠申付ると有ければ憑司は
戰々慄ひ出し何か云んとする所だまれと一
聲叱られて
蹲踞しぞ
笑止なる又大岡殿は榊原家の
留守居へ向はれ此度の一條
吟味懸り三人の役人は其方へ
屹度預け
追て呼出すべしと
言渡されたり
再び傳吉
并びにお專
與惣次を
評定所へ呼出され大岡
侯如何に傳吉其方は何故
暗き夜に
提灯をも
燈ずして
猿島河原を
通りしやと
尋問せらるゝに傳吉先日申上げ奉つりし如く前夜
專事惡き夢を見し由にて心に
掛る旨申に付
吉凶を
問んと存じ夕七つ時分に
宿を出しに
途中にて先年
懇意になりし細川家の
藩士井戸源次郎に出會し
故如何なる
用向にて此地へ來られしやと
問しに妻を
連信州の
湯治に參りしが右妻儀は五歳の時人に
勾引され江戸へ
參りしに
肌の守り
袋に生國は越後高田領の
由書付有しゆゑ
親に
對面致させんとて來りし所
途中にて妻を
馬丁に
奪れ一向に知れざる由
承まはり氣の
毒に存じ彼是と
談話仕つりし中に
暇取て
遲く參り日
暮にならざる
内歸る心故
提燈の用意も仕らず歸りは夜に入
亥刻頃にも相成りしと言ければ大岡殿其方は
細川の家來と何れにて心
易くなりしや傳吉私し先年新吉原
三浦屋にて心
易く相成りました右
源次郎殿の
妻は三浦やの遊女
空蝉同人が
根引いたし妻となりし
故に存じ居ますと言にぞ其の
者妻を失ひしと申せし後其源次郎に
逢しやと云るれば傳吉其中私し高田御役所へ
召捕れし故源次郎には
逢申さずと云時
傍らより
與惣次進み出其源次郎と言人其後
猿島川より三里ばかり川下にて女の
首を見付則ち自分の妻の
首成とて
殊の外
歎き近所の寺院へ
葬りし趣き私し國元に在し中に專ら
噂を致しました然共七八里
程脇にて
確とぞんじ申さずとのことに大岡殿
其葬りし寺と村の名は知り居るやと
問はるゝに
與惣次其は存じ申さずと云爰に大岡殿其
手續を
大概に
洞察し樣子にて扨ては
怪き事なりその女を
殺し又昌次郎梅等が
着物を着せ置傳吉に
難儀を掛罪に
陷さんと
計りしやも知難し首を
隱す程なれば
着類をも
剥取るべきに夫を
殘し置しは
不審なり追々
吟味に及ぶと言るゝ時下役の者
傍より立ませいと聲を
掛るに各々其日は下りけり
重ねて大岡殿細川越中守の
留守居を經て井戸源次郎を呼出し其
來歴或は
遭難の
始末等逐一尋られたるに傳吉與惣次の口と
符合なしければ尚
尋ねられたるに源次郎夫は
其處より上の方三里
程隔てし所に男女の死體ありとの風聞
其邊の
夫婦の者の由其
頃噂さ仕つりしなり大岡殿其方は其の
邊にて傳吉と云へる者に
逢しと申が傳吉方へ
尋ねたるや源次郎成程傳吉は江戸にて
知己の者故
其邊にて
逢たれども
愚妻を失ひし
折柄ゆゑそこ/\に打
過其後寶田村を
相尋ね候所
何成罪にや傳吉領主へ
召捕れし由其後
逢申さず候と云に大岡殿シテ傳吉は
何云縁にて存じ居るや源次郎然れば新吉原三浦屋にて
其節若い者を致して
居りしなりと言立ければ大岡殿又新吉原三浦屋四郎左衞門を
呼れ
其方が内に先年越後國高田領寶田村傳吉と
云者を若い者に
抱へたる事ありやと
尋問らるゝに成程四ヶ年程以前迄傳吉と言者を
抱へ置しことありと云ふに大岡殿其傳吉は其方
召抱へ中平常の
行状委敷云上よとあるに此者
儀初の程は
米搗に召抱へし所至つて
正路忠實の者故二階の
客の
取扱ひを申付此役を
廓にて
若い者と云私し宅に五ヶ年の間
相勤めます中少しも
後暗きこともなく實に
正直正路の者なりと言ければ大岡殿は其傳吉事
奉公中給金其外にて百五十兩程
貯其元へ預け歸國の節
持返りしと申が然樣成や四郎左衞門如何にも五ヶ年の内に
私しへ百廿兩
預け置歸國の
節其金を渡し又
出精致せし
故私し手元より
褒美十兩
遣し其外遊女共より
餞別を
貰等にて成程百五十兩に
成ましたで御座りませうと云に又大岡殿
尋問るゝ樣先年其の宅の遊女
空蝉年明後井戸源次郎と云者妻に致たる由其事ありしや又同人を
抱へし時の
手續を申べしと有しかば四郎左衞門
成程夫は手前
抱へ遊女
空せみと申者年明後井戸源次郎樣と申御宅へ
縁付しに
相違御座
無又
抱へたる
節は其者の二親は
相果ましたるとの事にて
揚屋町善右衞門
養女の由善右衞門より
年一
杯廿五歳までを六歳の時に廿五兩に
買取しに相違これなき
旨申立しかば源次郎四郎左衞門の兩人へ
追て呼出す事有んと
云渡され其日は
白洲を
閉られけり是に於て大岡殿
豫て目を
着られし通り傳吉は何れにも
正路の者右の河原にて
殺されたる女は空せみ又一人の男は彼を
勾引たる
奴ならんが二ツの
首を川へ
流したるに女の首のみ
柳の
枝に
止たるは則ち
縁も引ものか
左右怪き所なり
必定此公事は願人共の
不筋ならんと
流石明智の
眼力に
洞察れしこそ畏こけれ
同月二十三日
亦々評定所に呼び出さる大岡殿
端近く席を進まれ大目附御目附立合にて留役衆
吟味書を改めて差出さるゝに大岡殿
頓て白洲を見られ願人憑司同人妻早相手傳吉同人妻專舅與惣次村役の者喜兵衞
[#「喜兵衞」は底本では「嘉兵衞」]勘右衞門榊原家來半右衞門同じく
吟味役小野寺源兵衞川崎金右衞門留守居清水十郎左衞門と一々
姓名を呼はれ憑司に
向はれ其方が段々願ひの
趣き
確固なる
證據もなし然らば
急度傳吉が
所行とも相分らず
麁忽の訴へに及びしは不屆に思はる人命
重しとする所只々着類ばかり似たりとて兩人の
子供なりと申すと言ども世には
染色模樣など同樣
成着類
着せし者往々あることなり但し
死體に
實固なる目當ありしやと云るゝに憑司は
御道理のお尋に候悴儀は幼年の内に少々
體へ
彫物致し候のみならず
喧嘩を致し子供同士
鎌で
肩先へ
疵を附られ候悴が今に
殘り居候が何よりの
證據に御座りますと云に越前守樣
成程確固なる證據ありして其
彫物は何なる物ぞ憑司ヘイ
腕に力と申す字を大く
彫て居ました又大岡殿梅が死體の
證據は何じや憑司之は
實とした證據は
存じませぬと云ふにぞ越前守殿早我は娘の事
目的ありやと仰さるれはお早ハイ
現在の一人娘何見違へませう
姿着類と云ひ聊か
相違御座りませんと云へば大岡殿コリヤ早其方が娘の
體に
疵はないかお早一向に御座りませぬと答るに
實固さうかと期を
押れ大岡殿喜兵衞勘右衞門と呼ばれ其方ども其時の事を申立よと
尋ねらるれば兩人
畏まり領主の役人ども
檢視相濟取片付仰付られしまでの
儀を申立けるに大岡殿其方とも
死骸檢視の
節定めて立合たるなるべし其の
死骸に今憑司が申た通り
彫物疵ありしやと尋ねらるゝ兩人ヘイ力と云ふ字が
彫付て有しと云立るに女の方は如何じや此方にも
聞き込し事あれば
僞はりを
言上なせば其方どもゝ入牢申付るぞと仰されければ兩人は少し
戰へながら女の死體は何事も御座りませんが片々の二の
腕に小さく源次郎命と
彫付てありまた片々には
影物に
[#「影物に」はママ]灸を
据たる跡ありと云立れば大岡殿お早に
向はれ其方が娘は元
賣女でも致したか源次郎と云名は先夫のでもなしまた昌次郎でもなし
何れの
人じや
存じたるやと云はるゝに
側より憑司は然樣の
義は存じ申さず候へども
豫て嫁梅の
腕にも何か彫たる趣き承まはりし事もありナフお早其
彫物の事に付ては何とか申せし事ありしがナヽと夫と知らする心の
謎を越前守殿聞だまれ憑司汝は何を申すぞ早は
此の
方で
吟味なすに爰な
出過者め今早が口より梅が體に
疵などは御ざらぬと申立たるに
汝夫を
無理に申させても取上には
相成ぬぞ其源次郎と申はナ細川の
家來にて井戸源次郎と云者新吉原の三浦屋四郎左衞門
抱への
遊女空せみを
年明後に
妻となし越後に
實親ありと
探ね行しに同國猿島河原にて
人手に
掛り其
首をば川下にて
見附たりと申す然すれば其方どもか
奸計にて右の
死骸へ
娘悴の
着物を着せ傳吉を
罪に
陷さんと計りし事
鏡に
懸て寫が如し重々不屆の次第
明白に申立ろと
大音に云るゝを憑司は
恐れず傳吉が申するのみを御取上げあるは片手打の
御捌きと
言も
果ぬに
默れ憑司
汝極惡の
罪人として
公儀の
裁判を
片手打とは何事ぞ其方が悴昌次郎は傳吉が
留守中不義致し居し
段重々不屆なるを傳吉は其れを知り
乍ら夫となしに梅を
速かに
離縁に及び其上叔母へ金子迄を
遣はしたるを
阿容々々と二人ながら引取親子
互ひに妻と致し其上にも
厭足らず傳吉を
謀り罪に
行はんとなしたる
條人畜とは其方共がことなり然るに奉行所の
裁判を片手打
依怙贔屓などと申條不屆者め吟味中憑司は入牢申付る其外双方の者共
猶追々吟味に及ぶと云はれし時
直樣白洲を
閉られたり重ねて同月廿五日新吉原三浦屋并に善右衞門を町奉行所へ
呼出され又井戸源次郎も
罷り出しに越前守
[#「越前守」は底本では「越後守」]出座有て四郎左衞門其方
抱の
空せみと申遊女は善右衞門より
買取しとなコリヤ善右衞門其方は空せみと申女を四郎左衞門に
賣しやと其方が
實の娘か何じや
僞りを申と入牢の上
拷問申付るぞと云れしに善右衞門は
青くなりハイ
彼は私しが實の娘にてはござりません
伯父の
娘なれども兩親相果五歳より
引取養育仕つりしと申立る故夫より伯父の名前を始め
住所まで
調べられしに追々
口籠り終に答へ出來ざれば越前守殿
仰せには其方は
胡亂なる事を申者かな伯父夫婦は
相果て
跡も知れざる由
家主も
確と
覺えず
是疑の一つ又
空せみが實の親なる者越後と申事なり
只今汝に
引合する者ありと井戸源次郎を
呼出され
縁側に控へるを源次郎其方は四郎左衞門抱への
遊女空せみを引取しときあの善右衞門方より
貰ひ
請しやと
尋ねらるゝに源次郎成程善右衞門方より
貰ひ
請たりと云にぞ越前殿三浦屋を呼れ
其方抱の
遊女空せみを井戸源次郎が
貰ひ
請しとき此善右衞門が源次郎へ
我は
空せみの
親なりと申したは
相違無きやコリヤ源次郎も
先達て申立たる通り今一
應申立よとあるに付き源次郎は更に
其の
手續を
告ければ越前守殿是を聞善右衞門汝が
賣渡したる
空せみは五歳の時
勾引され江戸へ來りしと有り夫を
汝は伯父の娘也と
僞りを申立てしも今聞
通りなり
眞直に申立よ此上
包み
祕すに於ては
急度申付るぞと聞て善右衞門ヘイ
明白に申上ます私しは
然樣なる者を
勾引しはいたしませんが彼は友達の松五郎と云が
連來りまして
我姪なりと
段々頼みまする故據ろなく三浦屋は私し名前にして
賣込たる趣きを申にぞ越前殿其松五郎は
何方にありしやとのお
尋ねに右松五郎は
先達て
惡漢八五郎と申者
召捕られし時より何處へか
逃去其後行方分らざるよし申立ければ越前守殿其八五郎とは
先達て八丈島へ
流罪申付たる
泥八が事ならん其
節泥八が申口にて
相尋ねし松五郎なる者
行衞知れず
勿論其節ならば其方を
急度入牢申付る儀なれども
最早年も經し儀故右の松五郎は其方へ
尋ね申付る來る十日迄に尋ね出し召連出よ其方は家主町内組合へ
預申付ると云渡されけり
斯くて同年
極月二日評定所へ又々前々の
通り
役人衆相揃はれ右一件の
者共
總殘らず御呼び出し
追々白洲に呼込に相成
役人衆列座致され時に大岡殿越後國頸城郡寶田村百姓上臺憑司と
呼れ其方儀是迄段々
[#「是迄段々」は底本では「傳吉役々」]吟味に及びし所猿島河原
切れ人
[#「切れ人」は底本では「切 人」]は其方
悴嫁等の趣き申立ると雖も必ず昌次郎梅とは定め難く其
譯は同じ
衣裳を着たる者一
郷の内には往々あるべし
殊に女の
死骸は井戸源次郎妻
空せみが
亡骸と思はる然すれば男の方も
昌次郎にはあるべからず
外に
殺したる者有るを不屆の調べに及び傳吉を
無實の死に至らしめんとなせし
條不埓の至なり自然後にて昌次郎夫婦がこの世に
存命居らば其方は如何致すぞと申されければ憑司は
彌々我が
巧みの
顯はれしかとは思へども猶ぬからぬ
面にて
恐れながら御奉行樣の仰には御座れども
着類帶繻袢に至るまで悴に相違御座りませぬと言張を大岡殿
聞れまだ其樣に
強情を云居るが
既に其日は
柏崎へ昌次郎夫婦して參り夕刻彼所を立歸りしと云にあらずや然らば我が妻を
捨ていまだ一
面識ならぬ他の女と
道連になり人の爲に
殺さるゝ者が有べきやシテ梅は
如何せしぞ汝公儀の役人を
僞る
重惡者めと
叱られしにぞ憑司は今更
大息を
吐頭を
低一言も
物云ず依て越前守は四郎左衞門善右衞門并に
井戸源次郎へ一々聲を
懸られコリや憑司夫に居は四郎左衞門善右衞門
井戸源次郎成ぞ此源次郎が四郎左衞門抱の遊女
空せみと云女を
買馴染其空せみは五歳の時人に
勾引され揚屋町善右衞門口入にて
神田小柳町松五郎が
姪成とて三浦屋へ賣込しが
年季明にて源次郎の妻に致し其主人へ
願湯治の
暇を
貰ひ信州より越後へ
實の
親を
尋ねに參る途中
馬丁に
勾引され源次郎諸方を
尋ねし處猿島河原にて妻が
首を見付たる由コリヤ
源次郎其妻の名は何とか申せしや源次郎私し
妻の
幼名は上臺千代と守り袋に
書付之あり千代平常申には
慥か越後邊の
生れの
由明暮實の親を
慕ひ居りし故私主人へ
暇を
貰ひ信州へ參り越後の方を尋ね候處
不慮の災
難に逢ひ終には猿島河の下にて首を
見付たるは先達て申上候と言にぞ
越前守殿何源次郎其方
妻は右の二の
腕に源次郎命と
彫物をしてをりしならんと云れしかば
然樣なりと言にぞ越前守源次郎
其節川上に
男女の
死體ありし由女の方は其方が妻の千代に相違なし又左りの
腕に
彫物の
痕ある男は
察する所
勾引せし馬丁ならん又彼等を殺せしは憑司昌次郎兩人の
中の
仕業なる故に首を切て知れざる樣に昌次郎
夫婦の着類を
着置傳吉を罪に
陷さんと
巧みしならん源次郎其方が女房の
仇は是なる憑司等と思はる憑司是にても猶云分あるか斯の如く
明白に相分る上は
眞直に申立よ僞ると
拷問に掛骨を挫ぐ共
言するが何じや/\と仰らるゝに憑司是は
御無體の
仰なり然樣なる
覺えは御座らぬと
言張にぞ大岡殿は是より一同
調んとて
榊原の家來伊東半右衞門に
向はれ只今聞通り
彌々猿島川原の男女の
死骸は
推量に
違はず源次郎妻と馬丁の者と相見える其方が
公事決斷は甚だ
粗忽なり言分有りやと云ふ又與惣次其方は高田へ參りて役人を
頼み傳吉が助命
願ひしが
叶はず然ながら
種々に
取繕ひ牢屋まで飯を送りしと先達て申立しが
其節役人へ何を
遣はし頼み入たるや
此義明白に
言上よと云るゝ故與惣次は奉行へ金十兩
其下役人へ十兩
贈りし
[#「十兩贈りし」は底本では「十兩贈りし」]段を
言立[#ルビの「いひたて」は底本では「いたてて」]しかば大岡殿作右衞門へ
[#「作右衞門へ」はママ]尋ねありしに
始めは
左に
右と
陳じしがとても
包み
難しと存ぜしや
寒中見舞として金子を
貰請し旨を申に何か
肴の類ひならば
格別金子を受るは
賄賂に
當る
不屆[#ルビの「ふとゞ」はママ]至極なり下役兩人も受しならんとあれば
金二兩づつ
貰ひし旨言立るに大岡殿下役は奉行を
見習ひ
所業不正なり且賄賂によつて
罪の有樣を私しなすは此上もなき
不屆者伊東半右衞門は
揚屋入申付下役二人は留守居へ
預け
遣す
急度戒め置と言渡され傳吉は出牢の上
手當して宿預け言付
下られけり又
極月十日傳吉お專與惣次
喜兵衞勘右衞門等を奉行所へ呼出され昌次郎
夫婦の者古郷を出でて
何所か
忍び居んと内々
探索のため昌次郎梅二人の
年齡より風俗を大岡殿
逐一
問糺されしに就き一同は昌次郎梅が
風俗を
委敷申立且昌次郎の鼻の下に
黒き
黒子ありと云ければ越前守殿二人
共多分
存命にてあらん其方に
手懸りはなきやとのことなれども一同
更に手懸りなき
旨を申又傳吉より先日
御吟味の節思ひあたりしは源次郎
妻千代事に付て
段々御吟味うかゞひしに上臺憑司が
娘に候はん此
義は私
幼少の
頃高田城下の
祭禮を見に參り其節憑司の娘千代は人に
勾引れ
行衞知ずとのこと憑司も
探索せしが分らざるゆゑ
捨置たるに先頃御吟味の
節苗字は上臺名は千代と申よし彼に
相違なし尤も五ヶ
年の間三浦屋にて一
處に
相勤め居れ共同人とは
夢にも存ぜず彼は江戸出生とばかり
存じをりました
重ねて此義をも御吟味下さる
樣願ひ上奉つると言に大岡殿
横手を
拍れ扨々積惡の
報ふ所は
恐しき物かな我が子と知ず憑司が殺し猿島河原へ
捨たるは己が
實の
娘の首なりしとはハテ
爭はれぬものなり重ねて吟味致さん
追て呼出す
罷り立と傳吉を始め一
同下られけり
其後大岡殿は何れ昌次郎
夫婦の者外へは參るまじ江戸
表ならんと定廻りの與力同心へ急々
索ね申べしと
内命有りしとぞ
先頃越後國
猿島河原より
跡を
闇ましたる昌次郎夫婦の者は
親憑司と
計りて
殺せし男女の
死體へ
己等が
着物を
着夫より信州の
山路にかゝり
忍び/\に江戸へ來りて
奉公口を
尋ねけれ共相應の口もなく
貯への路用を
遣ひ切
詮方なく或人の
世話にて本郷三丁目に
裏店を
借己は庄兵衞と改名しお梅は
豐と改ため庄兵衞
日雇ひとなり
細き
烟りを立つゝ二三ヶ月
暮しけれ共天道惡事を憎み給ふゆゑ
何幸ひのあるべきや
偖又庄兵衞は
傘谷に
桂山道宅と云醫師ありて毎日雇れ居たり此醫者隨分小金を
持たる樣子を見
請奪ひ取んと
爰に
惡念を
發し或日庄兵衞は
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、299-6]道宅家へ參りしは夜の亥刻過なれども同人は
留守にて近所の長家は
皆戸を
閉有道宅の
内は庄兵衞勝手
覺えし事故
四邊に人のなきを幸ひと
水口の半戸を開て這入金子三十兩
着類品々を
奪ひ取り知ぬ顏して居たりける
扨道宅は家へ
歸りて見れば
勝手の
戸明放しありて三十兩の金子と着類三品
紛失なしたるゆゑ大きに
驚き諸方を見るに
路次の方水口より這入し
樣子なり其中に
家主も來り
大騷となりしが
早々翌日此段大岡殿御番所へ
訴へ出るに早速
呼出され段々
尋問となり其日
怪き者來らずやと申さるゝに私し留守故
委しくは存じ仕らず候へども
隣家の者の
噂には日頃雇ひ候庄兵衞と云者參りし樣に存じ候趣き
併ながら人の
咄しと云
確と見屆候義にはこれなくと云ければ大岡殿又々
道澤へ
尋問らるゝは其日雇に參る庄兵衞と
云者は何所にをるものなりやといはれしかば本郷三丁目徳兵衞
店に
住居なし日々雇ひ候者なれども
心底を
確と存じ申さず越後邊の
出生の者と申立しにより大岡殿以後
手懸[#ルビの「てがゝ」は底本では「てがゞ」]りともならんかと
樣子を見せに
遣はされしに役人は
家主徳兵衞を案内に庄兵衞が家を調べんと
至り見しに此節女房は
傷寒にて打臥
床に着しまゝ立居も
出來ぬ體なり斯る所へ家主の案内にて
役人入り來り
家搜しをなすよし女房は屏風を
立廻し床に
掛り
有しが後の方に
骨柳一ツ有しを夫を改めんとなすを
妻は此品は
不正の
物ならずと手を出す役人共
拂ひ退て中を改むるに金子二十兩有て
着類は見えず是は
賣代なせしやと女房を見れば貧家に
似合ず下に
絹物を着込居るゆゑ
脱せて見れば男
小袖なり是はと役人共も思ひ
直さま手配をなして
庄兵衞を召捕奉行所へ引き立に成り入牢仰付られ
其後段々と御吟味になりしが女房
豐は病後夫が
召捕られしよりハツと逆上なし
狂ひ
廻りしかば長家中
皆々番もすれとも
動もすれば
駈出てあらぬことども
罵り廻るにぞ是非なく家主
徳兵衞并に
組合より願ひ出けるに
先達て御召捕に
相成候庄兵衞の妻
豐亂心仕つり町内にて種々と
介抱且養生仕つり候へども
晝夜安心相成ず
難儀至極に付何卒御奉行樣にて入牢仰付られ候へば
町内一同有難仕合
也と申ける是れは
毎度亂心之者有り家業ならざる中は養生
牢とて入牢仰付らるゝ故則ち願書取上となり
翌日本郷三丁目徳兵衞
組合名主付添へ白洲へ罷り出控居るを大岡殿見らるゝに
痩衰へ眼中
血ばしりし
體實に
亂心の樣子なれども傳吉始めより申立し梅の
人相に似たる
故如何にも
言葉を
和らげられ
物靜に庄兵衞妻其方が名は何と云ぞ又國は何れ成やと
問れしかば
豐はげら/\
笑ひ出し御奉行
樣は
私の名は
御存じないか私の夫は越後國寶田村の
昌次郎私は梅と申して上臺の
若夫婦なり夫を知ぬとは
扨々可笑や/\と笑ひ狂ふにぞ越前守殿
然も有べし
當人は如何にも
亂心の
體ゆゑ入牢申付ると
云渡されけり其後又奉行所へ梅を
呼出され
亂心ながら其方
生國は越後高田
在寶田村にて父は憑司母は早
夫は昌次郎なる由云立しが
相違なきかと尚再三
尋問られし上豫て入牢申付られたる庄兵衞を
呼出されしに女房が
亂心なし奉行所へ召連
訴たへと
成しを
少しも知らねば如何なる
筋のお尋かと心に不審く引出されしが其時大岡殿庄兵衞を見られ其方は
何時改名せしぞ其方の名をば
何と申せしと
糺されしかば庄兵衞
心中に驚け共元來
不敵の
曲者故色にも見せず私
儀は四ヶ年
跡に仔細あつて
改名いたし其以前は吉之介と申し候と云に大岡殿
然らば其方
妻名は其以前梅と申せしなるべし夫婦の者改名は四ヶ年
跡にては
無二三ヶ月前に
改名したるならんシテまた其方が
生國は榊原遠江守領分越後高田在寶田村
成ん其
義汝の妻梅が申上しぞと
仰るゝを聞て
庄兵衞は
默然として居たりしが又大岡殿仰らるゝ樣其方
何年
何月
幾日何故古郷を立て
江戸へ來りしぞ
庄兵衞ヘイ二三年
跡身代零落に付き稼ぎの爲めまかり出しと云ふを大岡殿
否二三年では
有るまじ二三ヶ月跡ならん
夫とも
強情を云ならば二三年以前に出て
何所に
住居いたせしぞと
尋問られしかば庄兵衞は何處迄も
云張了見にてハイ國者の所に
居りしと云にその所は何所にて名は何と云やと
尋問られしに淺草
邊なりしが其の淺草は
駒形にて名は兵右衞門と申すとかシテ其の兵右衞門は只だいま以つて其の所ろに住居
致すやと問
詰られしに庄兵衞ヘイ
其者當時は身上を
仕舞國元へ歸り候と申立るに大岡殿は
少し
聲を
張上られコリヤ庄兵衞其方は
種々の事を云奴なり己れは生國越後國頸城郡寶田村上臺憑司が
悴昌次郎三箇月以前
猿島河原に於て親憑司と
謀り人を殺して汝夫婦の着類を
着置其處を立退き今は
改名して庄兵衞と名乘其元の名は
昌次郎
妻とよ事元の名は
梅と云者ならん天命にて其方が
妻亂心なし我が手にあり
加之親憑司早くも
先達て牢舍申附たり同村名主傳吉を
罪に
陷し入んと計り
闇き夜に昌次郎と
兩人にて男女を
殺し悴娘の着類を
着兩人の首を
切て川へ流せし
趣き最早兩人より
白状に及びしを己れ此上にも
僞らんとならば水火の責に
掛て
言する
何じやと
仰せに
流石の庄兵衞も
驚き
色蒼然戰々慄ひ出だし一言の答へもなし大岡殿何じや己れ
罪に
伏せしやと云るゝ時庄兵衞は
猶も
遁るゝだけ
脱れんと思ひ私し
全然樣なる覺えは之なしと申により大岡殿
斯兩人は罪に
伏したれ共此上にも
爭はゞ是非なく
拷問申し附るとこれより庄兵衞の昌次郎は
拷問に
掛り種々
責られ
終に人殺しの一條より國を
立退き江戸へ來り本郷に少しの
知己ある故是に落附候所
天命にて召捕られし段申立しかば則ち石
出帶刀より爪印を取て奉行所へ差出しに
及びけりよつて
享保十一年正月二十三日右一
件につき又々評定所へ前々の通り夫々の役人
列座ある願人憑司并に郡奉行
伊藤半右衞門等は
牢より引出され
且又川崎金左衞門
[#「川崎金左衞門」はママ]及小野寺源兵衞相手方傳吉及與惣次村役差添人尚又引合の
細川家の
家來井戸源次郎三浦屋四郎左衞門善右衞門
皆々白洲へ
罷出ければ目安役與力一々
名前を呼立る時大岡殿
席を進まれ是迄段々吟味を
遂し通り最早其方
罪に伏したるやと云れしかば憑司は
左右恐れぬ
體にて私し悴を殺され
爭か罪に
伏し申さんやと申すに大岡殿其方如何に
爭ふとも河原の
死骸は馬丁と
空せみの兩人にして昌次郎夫婦は
存命いたし居るぞ然るに傳吉を
罪に
陷さんと
巧み
訴訟しは重々不屆きなる
奴かなと云はるゝを憑司
猶押返し恐れ乍ら其死骸が馬丁
並に空せみと申
遊女なりと云
確固なる
證據も御座らずといふに越前守殿馬丁には
慥の證據も非ざれ共女は
腕に源次郎命と
彫物ありし故是なる源次郎の申口にて
委細相譯りしなり又一人は
空せみを
勾引[#ルビの「かどはか」はママ]たる馬丁に相違あるまじ汝
何に
僞るとも天命
爭か惡を
助けんや早く
白状致すべしと一々
證據を示されければ
流石の憑司も
包むに由なく實は傳吉に村長を
奪はれしと存じ
彼れを
亡者となし我また
後役にならんと
惡心増長せし所役人へ遣はす
賄賂の金子に困り悴夫婦を江戸へ
稼に出し給金にて地頭役人を
拵へ先役に
立歸らんと存じ此ことを村中へ知らせず
日暮て立出させし所に
猿島河原迄
到り
火打道具を
失念致したるを心付昌次郎は
取に
立戻る時私しは又
宅にて心付子供等が
後を
追駈昌次郎と途中にて行違ひと成り梅一人河原に
待居たる所雲助
風俗の者女を
勾引し來り打叩くを
傍らにて梅は驚き
迯出す所を又其者梅をも
捕へんとて爭ふ所へ私は
駈付夫と見るより切付しに
過つて彼の女を切殺し又悴は雲助を
打果せしかば如何ならんと
相談致し傳吉を
罪に
落さんと二人か
首を切り川へ流し着類を
着せ
替へ其上傳吉が庭の
飛石に血の
跡を
附置しに我が手に
掛しは
現在娘千代にてありしか彼が事は
行衞知れず
然るに彼は親を
慕ひ夫へ願ひ
態々尋ね來りしを不便の事をしてけりと
強情我慢を言張し憑司夫婦も
恩愛に心の
鬼の
角をれて是まで
巧みし惡事の段々殘らず白状なりたりけり依て大岡殿は外々の
者共へも右の趣きを
言渡され別けて善右衞門には
惡者松五郎
欠落中未だ行衞分らざる由につき
猶尋ね申べきむね
嚴重に仰付られしかば憑司はたゞ恐れ入てぞ居たりける
斯の如く追々調べ相
濟しに付一同
口書爪印仰付られ享保十二年
[#「享保十二年」はママ]二月二日一同呼出しに相成
例の如く役人
衆列席大岡殿夫々
科の次第申渡されたり
榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村百姓 憑司
其方
儀村長役をも
勤ながら傳吉留守中同人叔母早と
密通に及び早を我が家へ引取妻と致し其後村長役を
召放され傳吉へ
後役申付られしを
妬く思ひ加之猿島河原に於て
現在娘千代事
空せみを切害し其罪を傳吉へ
負せん事を榊原遠江守郡奉行伊藤半右衞門
外下役二人の者共と
相謀り傳吉か無實の
汚名を申立彼を亡ひし
後己れ
跡に再勤せんと
巧みし
條不屆至極に付死罪の上越後國猿島河原に於て
獄門申付る
右同斷 同人妻 はや
其方儀
平常身持宜からず
數度夫を
持不貞の行ひありしのみならず森田屋銀五郎方の大恩を
忘れ病人を捨置
欠落致し其上我か
甥傳吉より七十五兩の大金を
遣したる
信義を
忘れ憑司と
密通致し傳吉を
計り殺さんと致し候
條不屆至極に付八丈島へ流罪申付る
憑司悴昌次郎事 庄兵衞
其方儀傳吉先妻梅と
奸通に及びしのみならず傳吉
預け置候金子を
欺り
取加之猿島河原に於て名も知れざる
馬丁を
切害し自分と梅との衣類
着替置其罪を傳吉へ
負せん事を
親倶々相謀り候
條重々不屆至極に付死罪の上猿島河原に於て
獄門申付る
昌次郎事[#「昌次郎事」は底本では「昌次郎」]庄兵衞妻梅事 とよ
其方義夫傳吉の
留守中昌次郎と
奸通致し
剩さへ傳吉
歸國の
節密夫昌次郎に大金を
欺取せ
旁々以て
不埓に付
三宅島へ
遠島申付る
榊原遠江守家來 伊藤半右衞門
其方儀
重き
役儀を
勤ながら
賄賂を
取邪の
捌をなし
不吟味の上傳吉を無體に
拷問に掛無實の罪に
陷し役儀を
失ふ
條不屆に付
繩附の
儘主人遠江守へ下さる
間家法に行ひ候
樣留守居へ申渡す
右同斷 川崎金右衞門
其方儀
奉行の申付とは言ながら
賄賂を取役儀を失ひ
無體に
威權を
弄し
良民を無實の罪に陷し入候條不屆に付
繩附の
儘主人へ下さる
家法に行ひ候樣留守居へ申渡す
右同斷 小野寺源兵衞
右同文言新吉原奉公人口宿 善右衞門
其方儀松五郎
尋ねの所未だ
行衞相知れざる趣き
空せみ事千代
存命も是れ有らば入牢の上
屹度被仰付之處
當人空せみ相果候上は一等を
減じられ
江戸構へ申付る
細川越中守家來 井戸源次郎
其方儀
不正の儀もこれなく
構ひなし
新吉原町一丁目 三浦屋 四郎左衞門
右同文言
榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村名主 傳吉
其方儀不正の
儀無之而已ならず
我が家の
衰頽を
再興せんことを年來心掛
貯はへたる金子を
惜む事なく叔母早へ
分與へたるは
仁なり義なり
憑司昌次郎と
交りを
絶身を退ひたるは智なり又梅を
離縁して昌次郎へ
遣し
見返らざるは
信なり罪なくして牢屋に
繋がれ
薄命を
覺悟して
怨言なきは
禮なり
薄命を
歎じて死を定めしは
勇なり
五常の道に
叶ふ事
斯の如く之に依て其
徳行を
賞して傳吉は領主より
相當の
恩賞あるべき
旨別段遠江守へ仰せ付らるゝ間此旨留守居へ
相心得よと申渡す
傳吉妻 せん
其方儀
貞實信義の
烈女民間には
稀なる者なり汝が
貞心天も
感ずる所にして
斯夫が無實の罪明白に成事
感賞に
勝たりとて厚く御
褒詞有之
信濃國水内郡野尻宿 與惣次
其方
儀專が親と成り傳吉が
無實の罪を助けんと
財を
惜まず
眞實の心より專を助け萬事に
心添致し
遣はし候段
奇特に
思し
召るゝ旨
御賞詞有之
榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村組頭總代 吉兵衞
同 百姓總代 勘右衞門
其方共
是迄傳吉の證人に
相立御吟味の節申口
諛らひなく正直に申上候段
譽置斯の如く
賞罰夫々仰せ付られ其日の
廳は
果にける之より傳吉夫婦は
晴天白日の
[#「晴天白日の」はママ]身となりしのみか
領主より
帶刀を許され代々村長役たるべき旨
仰付られしかば
歡び物に
譬ん方なく三浦屋の主人并びに井戸源次郎を始め其事に
立障りし人々に
厚く禮を述べ與惣次村役人
同道なし目出度越後寶田村
故郷へ立歸りしかば同村の人々は死せし者の
蘇生せし思ひをなし傳吉夫婦此度無實の罪は速に
消え故郷へ歸りし
祝也とて村中の者を
厚く
饗應たり又郡奉行伊藤伴右衞門は
討首川崎金右衞門小野寺源兵衞の二人は
帶刀取上領内
構ひの由夫々領主へ申付られけり
斯て翌年一
週忌に
當る頃は上臺憑司昌次郎
空せみ伊藤伴右衞門と
彼馬丁等と惡人たりとも
刀下の
鬼となりしを深く
憐れみ此人々の爲に
僧を多く
招き同村の寺にて大
法會を
執行なひ村中へは
施行をなし夫れより後傳吉は
倍々其身を
愼み村人を
憐れみければ一村
擧つて其徳を稱し領主よりも
屡々賞詞を
蒙ふりける又
野尻宿の與惣次の實家は
縁類の者を以て養子となし其の身は傳吉方へ引取れ一生
安樂に
過しお專も其後子供幾多
設けければ傳吉が
取計ひにて實家森田やの
家名を
相續なさしめ銀五郎と名乘今に
繁昌なしけるぞお早親子は年立て後上の
大赦に逢ひ島より歸りしが傳吉之れも
憐れみ厚く世話なせしに
惡人のお早親子も傳吉が
徳に
感じ先非を
悔悟すること少なからず終に
尼となり兩人共同村にて人々の
菩提を
弔らひ終しとかや
爰に
不思議なるは先年罪科に所せられたる上臺昌次郎が未だ梅と
姦通せざる以前村中に
深く
契りし娘有りし所遂に
姙娠なしたる儘親元へも
掛合出生の子は男女に
係はらず昌次郎方へ引取
約束なりしが娘は程なく男子を
産たるも産後敢果なく成けるにぞ其親は娘の
遺物と生れし幼兒を昌次郎方へ
遣さず
養育なしたるが此者
商賣の都合に
寄江戸へ出其後
絶て
音信もなさざりしにさすが
古郷のなつかしくや有りけん
計らず此度越後寶田村へ
立戻り住居をなせしに
依此を傳吉は聞及び幸ひ上臺の
家斷絶を
嘆く折柄故其男子に傳吉より
憑司が田地の外に
若干の地を
遣し上臺の家を
相續成しめける眞に傳吉が行ひは
孝道と信義との徳にて無實の罪に
落入たるも死を
迯れ一生を
榮ゆる事天の
惠みとは
云乍ら一ツには大岡越前守殿の
明智英斷に
依るものなりと
專ら
當時人々噂をなせしとぞ
越後傳吉一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]傾城瀬川一件 茲に
江戸新吉原町松葉屋半左衞門抱の
遊女瀬川夫の
敵を
討しより大岡殿の
裁許となり父の
讐迄討孝貞の名を
顯す
而已か
遊女の
鑑と
稱られ
夫が
爲花街も
繁昌せし由來を
尋るに
元大和國南都春日の
社家大森隼人の次男にて
右膳と
云者有しが是を
家督にせんと
思父の隼人は右膳に
行儀作法を
習はせんと京都へ
登せ
堂上方へ
宮仕させしに同家の
女中お竹と云ふに
密通なし
末々の
約束迄して居たりしを
朋友の中にも其女に心を
懸色々と
云寄しが
早晩大森右膳と深き中になり居ると云ふ事を
聞甚だ
妬ましく思ひ
其事柄を主人へ
告ければ
不義は
家の
法度なりとて兩人共
暇となりしかば右膳は女を
親許より
貰ひ
受古郷の奈良へ
連戻りしに父は大いに
立腹なし勘當せしかば
止を
得ず右の女と
夫婦になり
小細工などして
暮せしに
生質器用にて學問も出來其上
醫道の
心懸も有りし
故森通仙と改名し
外科を
專らとして
傍ら賣藥を
鬻ぎ不自由もなく世を送りし中女子一人を
儲け名をお
高とよびて夫婦の
寵愛限りなく
讀書は
勿論絲竹の道より
茶湯活花等に至るまで師を
撰みて習はせしに
取分書を好み
童女に
稀なる
能書なりと人々も
稱譽しけり此お高一
體容貌美麗くして十五六歳に
成し頃は
類なき
艷女なりと見る
人毎に心をぞ
迷しける
[#「迷しける」はママ]中近隣の社人
玉井大學の若黨に源八と
云者ありしが
常々通仙の見世へ來ては
話しなどして出入りしに
此者至て
好色なれば娘お高を
見初兩親の見ぬ時などは
折々手を
捕へ又は
目顏にて知らせけるに兩親は只一人の娘なれば
惡き蟲でも
付てはならずと心を
配り母は娘の
側を
放れぬやうにする故
何分云寄に
便なく源八は
種々心を
盡しけるが
或時下男の與八と
云者に酒を
振舞小遣など與へて喜ばせ聲を
潜めつゝ
其方の主人の娘お高殿に
我等豫々心を
懸る所お高殿も氣のある
容體なれども
御母殿が
猿眼をして居る故
咄も
出來難ければ貴樣に此文を
渡す
間能々人目を忍びお高どのへ渡し
色よき
返事を
貰ひ
呉よ此事首尾よく行かば
禮は何程も
爲んと
云に與八は大いに
悦びお高殿も
最早十六なれば男に
氣の有るは知れた事
殊に
貴樣の男ぶりなれば出來る事は此與八が
請合也と文を
預り歸りしが或日兩親の居ぬ
隙を
考へ右の文を
渡しければお高は
容體を改め
其方は主人の娘に
戀の
執持を
爲事不埓千萬なり
重ねて斯樣なる事をなさば
爲になるまいぞと
嚴敷辱しめて文を
返しけるに與八は
案に相違し大いに
困り
果しが
其儘にも
爲難ければ
早速に源八の方へ
到り日頃は
物柔かなる娘故
譯もなく
出來樣と存ぜしが大きな
間違ひにて斯々の次第
實に御氣の毒千萬と
云ながら文を返しけるに源八は一
向腹をも
立ず
否々未初戀のお高殿一度や二度では
勿々成就すまじ
氣永に頼むとて又々與八へ
酒肴など
振舞手拭雪駄等に至るまで心付或時は
蕎麥など
喰せて頼みしかば與八は又々文をお高へ
渡種々源八が
戀慕ふ樣子を物語りければお高は大に
憤り文を
投付一言も云はず
直に母へ右の事を
話せしにぞ父も此事を
聞然樣の者は
暇を
遣すに
如はなしと與八へは
永の暇を遣はし其後源八が
遊に來りし時皆々
折目高に
待遇ける故源八は
手持無沙汰に
悄々と立歸り是は彼の文の事を兩親の知りし故なりと
深く
遺恨[#ルビの「ゐこん」は底本では「ゐこれ」]に
思ひけり
夫人の性は善なりと雖ども
習慣に因て惡となると
云又衆生は皆惡人なれど
信心の徳に因て
惡趣を
放れ
成佛得度なすとも
云何樣善惡相半すべし偖も源八は彼の與八に暇の
出たるは我故なり今は
云寄手蔓もなく成りしかば通仙夫婦の者に
遺恨を
晴さばやと思ひて
竊に
鹿を一疋殺し通仙が
表へ
建掛[#ルビの「たてかけ」は底本では「たけかけ」]て置きしを夜中の事故一人も
知者なかりけり(南都にては
春日明神の
愛し給ふとて古へより
鹿殺は
科重しと云ふ)
翌朝所の人々見付けて
立騷ぐ聲を聞き通仙の
家内も
起出て見るに鹿の
斃て居る故
早々町役人へ屆け奈良奉行へ
檢視を願ひ出でけるに通仙を
呼出され吟味ありしかど
素より知らざる趣き
明白也然れども外に
心當りの者や
有と
種々尋問らるゝと雖も一
向心當りもなしと申に奉行所に於ても其身が殺して己が家の前に
置筈は無ければ通仙に
非ぬ事は知れながら
本人出ざるゆゑ
所拂ひとなりしかば通仙は
是非なく京都へ
引越苗字を
山脇と改ため以前の如く
外科を業とすれども南都と
違新規の場所故何事も思はしからず漸々に
細き
煙りを立居たるに或日家内の者
愛宕へ參りける
留宅へ
盜人押入賣殘りし少しの道具を
奪取られ彌々
難澁に
迫り又々大坂へ
立越しが
左右困窮に困窮を
重ね終に通仙は病死し跡には母と娘のみ
益々貧窮に迫りしが
當頃鯛屋大和と
云者狂歌に名高く
俳名を
貞柳と云ひしが此者通仙と
入魂なりし故妻子の難儀を見兼ねて世話をなしける處
尼[#ルビの「あま」は底本では「あや」]ヶ
崎の藩中に
小野田幸之進と云人有りしが
勘定頭を
勤め主用にて常々大坂へ
出金談等も取扱ひし故貞柳も
懇意になり山脇が母子の樣子を
話し御家中内に
相應の口も有らば御世話下されよ娘の年は十八にして
容顏は
沈魚落鴈羞月閉花とも
謂つべき美人なりと申ければ幸之進も
獨身者故大きに
好もしく思ひ我等
最早四十歳に近けれども
先にて構ひなくば母子ともに引取妻に致さんと云ふを夫は
重疊何分にも御頼み申とて
引合せしに大いに幸之進が心に
適ひ母子共引取て大坂に
差置不自由なき樣に金銀を送り半年ばかり世話せしに
疾主人の供にて江戸へ
下るに付き母子にも
路金并びに
手形を渡し
後より下り來るべしと申置きし故
頓て支度を
調へ東海道を下り
豫て約束なれば深川の下屋敷へ
到着致しけるに小野田は三年以前に先妻は
相果子供もなく住居も
下邸の事なれば
手廣き暮しに付母娘共大きに
安堵して幸之進を大切に
待遇けり夫より又半年程
經過主用にて又々大坂へ
登り尼ヶ崎へも
立寄べき事有りて金四百五十兩を
預り
急の旅なれば
駕籠より
乘掛が宜しと供人も
纔に
引連てぞ登りける
偖も小野田幸之進は主命に
因て江戸屋敷を出立なし大坂へと
赴く
途中箱根も
打越て江尻へ
泊り急ぎの旅なれば
翌曉寅刻頃に出立しけるが江尻宿を
放れて十町ばかり
野合へ掛る處へ向ふより二人の旅人
通り
掛り幸之進が馬の
脇を行違ふ時
拔手も見せず右の片足をばつさり
切落しければ幸之進はアツト
云ひ
樣馬より落る處を
起しも
立ず突殺す故
馬士は
仰天なし
迯んと爲すを一人の旅人
飛蒐て是をも切殺すに供の男は
周章狼狽後をも見ずして
迯歸りける故
頓て盜賊は
荷繩を
解明荷の中に在りし金四百五十兩并びに幸之進が
胴卷の中にありし二十兩餘りの金と
大小衣類迄も
奪取行衞も知れず
迯去ける依て彼の供人は江尻宿へ
引返し宿役人へ
斷り
置死骸を改め
飛脚を以て江戸表へ
注進なし
猶又其身も立歸りて
委しく申立てければ
大守よりは公儀へ御屆けの上死骸は引取られしが大守は大いに
怒れ武士たる者一太刀も
合せず殺されて用金を
奪ひ取られし事
他聞も宜しからず當家の
恥辱なりとて
改易申付られ尤も
憐愍を以て家財は家内へ與へられたれば通仙が
後家お竹并びに娘お高は
邸を
追拂はれ富澤町に若松屋金七と
云者幸之進と
入魂故此者の方へ
引移り世話になりけるが如何なる
過去の因縁にや漸々小野田が方へ縁付
安堵せしに間もなく又もや思ひの外の
災難にて再び
流浪の身となり親子涙の
乾く
隙なき所に廿日ばかり
立中近所より出火と
云程こそあれ大火となり若松屋金七も
類燒しければ是までの如くは
勿々世話にも
成難く如何はせんと思ひし
折柄竹本君太夫と云ふ
淨瑠璃語り金七が
上方に在りし頃よりの
知己にて火事見舞に來りしを幸ひ小野田が後家の身の上を
頼ければ君太夫も大坂者ゆゑ一しほ思ひ
遣り夫は
嘸御難儀なるべし
片田舍なれども當分
御凌ぎに淺草今戸の町へ
御越あれとて荷物を
運送せ
引移らせけるに
日數立に
隨ひお高は
熟々思ふ樣幸之進殿盜賊の手に
掛り
果給ひしは
嘸御無念に
在すらん
殊更武士に有るまじき事と
諸人に
笑れ給ふ事如何にも
口惜き次第なり我も女には生れたれども
敵を
討取幸之進殿に
手向進らせ
度一ツには
行末永き浪人の身の上母公の養育にもさし
支へるは
眼前なり且敵を
探るに女の身なれば多くの人に
交際るには遊女に
如事なし彼の
節幸之進殿
所持せられし大小印形に
勿論衣類紙入
胴卷は妾が
縫たれば覺えあり是を證據に神佛へ
誓ひを掛け尋ね出し敵を
討で置くべきやと一心を
込て君太夫に
對ひ
其許樣には常々吉原へ
入込給へば私しの身を遊女に
成れ
其の
身の
代金にて母の身の上を御世話下され度
何分宜樣に御取計ひ給はれと頼みければ君太夫
感心は爲すものゝ又
哀れを
催し
實に驚き入たる
御志操なれども夫よりは
貴孃の
御縹緻なれば御縁の口は何程も有るべし我等
豫て
頼置たれば
先待給へと云ふに
否縁付も
氣兼が否なれば
氣樂に遊女奉公を
勤度と
強て望むにより
素より吉原は心安き所故松葉屋半左衞門方へ
相談しけるに
縹緻[#ルビの「きりやう」は底本では「きりうや」]と云ひ
藝と云ひ殊に歳頃も彼の望む處なれば
年一
杯二十八までの
積にて目見しけるに大いに心に
適ひ身代金百五十兩と
取極君太夫が
請人にて母の
爪印も
相濟新吉原松葉屋半左衞門方へぞ
到りける
然程に新吉原松葉屋にては彼のお高を
抱へ樣子を
見に書は
廣澤を
學び
琴は
生田流
花は遠州流茶事より歌
俳諧に至るまで是を知らずと云ふ事なく
殊に
容貌美麗く眼に千金の色を
含み
物事柔和にして名にし負ふ大和詞なれば
人愛ありて
朋輩の中も
睦しく
怜悧ゆゑ
僅かの中に
廓言葉外八文字の
踏樣迄も覺えしかば松葉屋の
喜悦大方ならず近き中に
突出にせんとて名を
選みしに初代の瀬川は大傳馬町の
或大盡に
根引せられ其後名を
繼程の者なければ暫く
絶たれども是迄瀬川に
双ぶ全盛なし
今度抱へしお高は元の瀬川に
勝れるとも
劣るまじとて瀬川と名を付け新造
禿迄を
選び突出しの
仕着より茶屋々々の
暖簾に至る迄も花々敷吉原中
大評判故突出しの日より
晝夜の
客絶る間なく如何なる老人
醜き男にても
麁末に扱はざれば人々皆
先を
爭ひ入り來る故實に松葉屋の
大黒柱金箱と
持はやされ
全盛双ぶ方なく時めきける
中早其年も暮て享保七年四月
中旬上方の客仲の町の
桐屋と云ふ茶屋より松葉屋へ
上りけるに三人連にて
歴々と見え
歌浦八重咲幾世とて何も
晝三の
名題遊女を
上廿日程の中に十四五日續けて來りしに
何も二日づつは居續けに遊びしが或時
遣手若い者を呼て我等は八丁堀に旅宿して
當分上方へは歸らぬ
積り上方より御當地は
勿々面白く來年にならば古郷は親類に
預江戸住居に致さんと思ふなり夫に附て在所へ金五百兩程
取に
遣したり
今茲には少しなれども四百兩有れば五六日御亭主へ預けたし
其仔細は我々江の島鎌倉へ參る間
道中の
邪魔になる故預けて行きたし頼み入と申ければ若い者
遣手詞を
揃へ御茶屋へ御預けなさるゝは
格別此方にては御預かり申まじと云ひけるに
其は大いに
道理なり茶屋へも
話し其の上にて預け申さん御亭主へ
相談して給はれと申故松葉屋にても
如何樣上方の大盡なるべしと茶屋を
呼右の話をなしたるに上方の衆は關東者と
違ひ
念を
入候へば物を
堅くする心ならんとて松葉屋桐屋共に
立出對面に及びしかば大金を
出し五六日預かり給はれと
謂しに桐屋の亭主其御金は
御宿へ御預けなされては如何に候やと云ふに彼の客然れば宿は
懇意の者ゆゑ金銀を
遣ふ事を
異見致せば預ける事
叶ひ難し
其譯は金を遣ひなくしたりと
僞り又々五百兩程
在所へ取りに遣はしたれば此金は見せ難しとの
口上ゆゑ松葉屋桐屋は金を遣はせるが
商賣に付き
然樣に候はゞ御預り申さんと云ふを客は
念の
爲御兩所より一札を申
受我々も念の爲預けたる證文を入れ申さんと
硯を
取寄一札を
記載三人の名の下へ印を
据て預りの一札と
引換になし
素より急がぬ旅なれど
日和を見定め出立致さん夫迄は遊び暮すべしとて
猶賑は
敷ぞ居續ける其日は
夕申刻時分にて瀬川が
晝の客も歸り何か用の有りとて
内證へ行きしに右の一札を女房に
讀聞せ居たるを何心なく
散りと見るに見知りたる
書體と云ひ夫幸之進が印形に
似たる故主人より
借りて
熟々見るに田原源八小笠原佐七後藤平四郎と云ふ名前にて
夫の
印形は平四郎と云ふ名の下に
捺て有り偖は此者こそ
本夫を殺したる者なるべけれと思ひ此人は
何屋より送られし客人なるやと聞けば女房
答へて夫は桐屋からの客人なり金を四百兩預けられしが
何れも
歴々の人ならんと云ふをそこ/\に
聞なし我が
部屋に
到り
身拵へして新造禿を引連兵庫屋へ
行途中桐屋へ
立寄歌浦さんの御客は上方の衆かと
問ば女房
飛で
出御前樣の
御言葉に
能似て
御出なさると云ふを聞き三人ながら
上方ばかりか江戸の衆も一座かと
問に御三人とも
大津とか云ふ所の御方と答ふるを偖は古郷を
隱して大津と僞りしならんと思ひ
若や知つた御方なるか三人の
腰の物を見せてと云ふに女房は何の氣も
付ず出して見せれば平四郎と云ふ者の
脇差は
紛ふ方なき
夫幸之進が
差料なり印形と云ひ
脇差と云ひ敵は平四郎に
極つたりと思ひ其平さんとやらの女郎衆はと
問ば
八重咲樣と云ふを聞き
然あらぬ
體に其所を立出兵庫屋迄行きしが急病と僞り先松葉屋へ立歸りて
心靜に
身拵へなし
密と歌浦が座敷を
覗ふに彼の三人は
有頂天に成りて遊び戯ふれ居しが其中の一人は
豫て知りたる源八なり是は歌浦が客と聞き
素より
心立[#ルビの「こゝろだて」は底本では「こゝろざし」]惡き源八にて兩親の
憂苦勞し給ふも
渠ゆゑとは思へども敵にも有らぬ者を殺しては
濟ず印形と
脇差が證據なれば平四郎こそ幸之進が敵なりと思ひ定めて座敷の
引るを
待居たり
早其夜も
既に
亥刻過皆々
床へ入たる
樣子にて
座敷々々も
寂と成ければ
瀬川は
用意の
短刀を
隱し
持八重咲の座敷へ
行八重咲さん/\と
呼に
八重咲は何の
氣も
付ずアイと
答へて
廊下へ出るを
何か用を
頼み外へ
遣置急立心を
鎭めて
覗見るに
平四郎は
夜具に
凭れて
鼻唄を
唄ひ居るにぞ
能御出なんしたと
屏風の中に
入主に御聞申事が
有と
布團の上へ
上りけれども
何の氣も
付ぬ
處を
夫の
敵覺えたかと
云さま彼の
懷劍を
胴腹へ
突込しかば
平四郎はアツト
聲立仰向に
倒れ七
轉八
倒なす
故隣の
座敷は源八
歌浦なれば
此聲に
驚き
馳來るを
己れも
迯さぬぞと
源八へ
突掛るに源八は
思ひも寄ぬ
事なれば
驚き
周章右の手を
出して
刄物を
挈取んとせし處を
切先深く二の
腕を
突貫されヤアと
躊躇を
隙さず
咽喉へ
突貫さんとしけれども
手先狂ひて
頬より口まで
斬付たり源八
悶ながら顏を見ればお
高なりしにぞ
南無三と
蹴倒して
其所を
飛出し
連の
佐七と
倶に
後をも見ずして
迯行けり然ば
松葉屋の二
階は
天地も
覆へるばかりの
騷ぎになり
主半左衞門を始として
皆々二
階へ
駈來り見るに
平四郎は
朱に
染苦痛の
有樣にのた
打廻り
居る
傍らに
瀬川は
懷劔を
逆手に
持し
儘氣を
失ひて
倒れ
居たりしかば是は
何事ならんと
氣付を
與へて
樣子を
聞に
敵討なりと申
故半左衞門大いに驚き
早々町役人を
招き相談に及ぶ
中若松屋金七
竹本君太夫并に瀬川の母も
駈來り
皆々樣子を聞て
天晴の
手柄なりと
喜びしが
連の二人を
迯したる
事口惜と云に
半左衞門否々事故もなく
殺さば
連の二人が一
座を
遁るゝ
筈なし何か身に
覺え
有ればこそ
姿を
隱せしと
見えたりと
云中疾夜も明渡りしかば
早速町奉行大岡
越前守殿へ
訴へ出けるに
檢使の者來りて
疵を
改め
手負の者に
樣子を聞共一
向言舌分り
兼宿も知れざれば
其儘手當をさせ
置瀬川の
口書を取て
檢使は立歸り
右の
趣き申立しに
大岡殿迯たる
手負は
深手か
淺手かと
尋ねらるれば二の
腕は
深く
顏の
疵は
少ならんと瀬川申候と
云を聞れ
偖々女には
落付たる
答なり
市中廻の者に
下知なし
疵を
證據に
召捕候へと申
渡され
夫より
瀬川并に母お
竹請人君太夫松葉屋桐屋以下呼出され瀬川の
本夫と云は
何者なるやと
尋問らるゝに瀬川は
愼んで
首を
上舊尼ヶ
崎の
藩中小野田幸之進と申者にて
主用有之上方へ
登り候
時江尻宿にて
盜賊の爲に
切害に
逢主人の金四百五十
兩并に其身
用意の
金二十
兩衣類大小まで
奪ひ取られ家も
斷絶仕つりしのみか
盜賊の爲に
殺害致されしは武士の
恥辱とて一家中
幸之進の
噂以ての
外宜からず
如何にも
口惜く
存候まゝ神佛へ
誓を
掛漸く敵を
討て候と申立しかば大岡殿
不審に思はれ其方敵の
面體豫て
見覺え居たるや
覺束なしと有しに
瀬川其事は上方の
客三人半左衞門へ金四百兩
預け候とて
證文を
取替せしに
後藤平四郎と申名の下に
捺たる
印形は幸之進の實印に
相違なく然れども
夫ばかりにて
定め
難しと
存茶屋へ
參り
腰の物を
改め見候に
本夫の
脇差を
所持致し居に付
彌々敵に
相違なしと
存討果して候と
答へるを
大岡殿聞かれ何樣
道理なる申分なり然ど今一人に
斬付たりと
有は是も敵なりやと
尋ねらるゝに
瀬川否其者は
源八と申て
同郷の者にて
私しへ
不義を申掛候
而已ならず
私し親どもへも
甚だ
迷惑を掛一
體志操宜しからぬ者に付同惡と
存殊に
仇討の
節妨げ致し候故
是非なく
疵を付候と申ければして又其方
敵討致さん爲に遊女
奉公を
勤めしや外に
謂れ
有歟と
問るゝに
瀬川其儀は
御覽の通りの
老母一人
有之君太夫とても
永々世話に
相成居も心苦
敷又金七と申者も
火難に
逢氣の
毒に候故
相談の上遊女
奉公仕つり其金を以て母の
養育に當候と少しも
滯ほりなく申立る
體如何にも
誠心に見えければ
大岡殿大いに感じられ其方事女には
稀なる
志操なり
追々取調べ
遣はさんとて一
件相濟迄瀬川は
主人へ
預け申
付られ皆々下られけり夫より
大岡殿源八
佐七が
人相疵等を證據に役人に申付られ
江戸近在迄も
探索あると雖も一
向行方知ざりけり
大岡殿
或時役人を
呼れ
瀬川一
件の盜賊共數日になれども更に
行方知れず
因て其方共
名主へ
掛り江戸中の
外療醫を
吟味して見よ
似寄の者あるべきぞと
指揮ありしに付八方へ分れて
名主へ掛り外療醫者を呼出し
取調べ
有しに一
向右體の
怪我人見當らざる
由を申により又外々の名主へ掛り尋けるに
下谷廣小路に
道達とて表へは
賣藥見世を出し
置外療醫をなす者の申口に當月廿二日の夜
丑滿頃侍ひ體の者二人
戸をこぢ明て入來り一人は
拔身を
持一人は私しを
捕て此
疵を
療治致せ然もなくば
切殺と申候に
付據ろ無
療治致し
膏藥を
遣し候處
本復次第に禮すると云て行方も知れず出行候と申ければ
役人住所は何處とも云ざりしかと問ふに
道達夜中に
押込候
程の者共に候へば一
向名や所は申さずと
答ふるにぞ
大概其者ならんと思へども手
疵は何方なりやと
尋ねるに
頬より
口まで一ヶ所二の
腕四寸ばかり
突疵之あり
兩處ともに
縫候と申ければ夫にて
分明たりとて
其段申
立しかば大岡
殿暫時考へられ
非人小屋又は大寺の
縁の下其
外常々人の
住ぬ
明堂などに心を付よと申
渡されしに付役人は八方に
眼を
配り諸所を
尋ねしに一
向知れざりしが原田平左衞門と云
市中廻の
同心或夜
亥刻過根津の方より
歸り
懸池の
端へ
來懸りしに誰やらん堀を
越垣を乘越て上野の山内へ
入者ありしかば大いに
怪み
田村權右衞門へ申斷り
内密に清水門より入りて見廻けるに夫ぞと思ふ
事もなけれど中堂の
縁の下何となく怪し氣に思はるゝ
故傍邊へ身を
潜めて
窺ひ居たりしに
稍夜の
子刻頃とも覺しき頃
散々と火の
光見えたりしが忽ち
消し故
彌々心を
鎭めて
窺ひたれば
莨の火にや
有けん
折々見えては
消るにぞ是は曲者に
疑ひなしと
直に供の者を使に
遣し奉行所に通じければ
直樣捕方の者
駈來りしが
未夜は明ざるに
付四方へ
手配りをなし山同心をも
借集て取卷せ夜明方に
原田平左衞門始踏込見るに
夜具も
暖かに
着て二人
眠り居る故是程の
騷ぎを知らざるは
餘程の
寢惚なるか腰が拔たるかと同心
上意と聲
懸飛掛つて捕るに驚き
漸々目を
覺しけるを
矢庭に二人とも
生捕引立しは心地よくこそ見えたりけり
依て二人とも入牢申付られしが吉原に
在し
手負の平四郎は四日
目に
相果し故
檢視を
遣し
死骸は小塚原へ
捨べき
旨申渡されけれ共内々
松葉屋より
葬りけるとかや
然程に上野中堂に於て
召捕たる曲者二人を
引出し調べられしに
瀬川が申立し人相并に
疵所等迄相違なき故大岡
殿曲者に
對はれ其方ども
上野中堂の
縁の下に
隱住事何故なるや
有體に申立よと有に兩人共一言の
返答も出來
難き有樣にて
俯伏居るを重ねて其方共夜中
廣小路醫師道達方へ押込刄物を以て
威し
療治致させ上野に
匿れ住は身に
暗き處有故ならずや
白状せず共
此科に
因て首はなきものと心得よ
因ては
南都以來の
舊惡殘らず白状致せ
左もなき時は
嚴敷拷問申付る
苦痛致すは死する身に
損なるべしと申さるゝに
源八佐七の兩人
首を上我々は上方者にて
御當地に知人もなく
止事を得ず御山内に
住居仕つり候と申立るを大岡
殿呵々と笑はれ
白痴め知人なしとて宿屋もあり
汝等が罪は明白に
知れて居るぞ
江尻に於て
小野田幸之進を殺し四百五十兩の金其外金銀衣類大小を奪ひ取たる事
松葉屋の二
階にて平四郎
手負ながら
白状に及び
殊に源八は本人なりと申たりサア
未練らしく
隱すなと申されしかば兩人共一言の
答へもなく居たりしかば大岡
殿詞を
和らげられ
能々承まはれ
只今も申通り其方共の大罪は
知れて有共白状せぬ中は
御仕置申付ざる事法令なり
因て
只今より
拷問申付る夫より
潔よく白状して
最後を
清くせよ
假にも
帶刀せし者は夫丈に名を
潔く致せと云れけるに源八は
覺悟をせし
樣子にて
仰の如く我々白状致すべし先第一は
南都に於て
大森通仙娘お高に
戀慕致し戀の
叶はぬ
意趣に鹿を殺し
通仙の家の前へ
置しにより通仙は
奈良を
追拂はれ京都に
住居の時
留守宅へ忍び入衣類を
奪ひ取
大津へ
立越賭博を
打佐七平四郎と兄弟分になり
上方より
東海道を
稼折々は江戸へも立出候處
尼ヶ
崎家中の
侍士金用にて出立と
馬士の咄を耳に
挾み神奈川より付て參り
江尻に於て其
侍士を切殺し
金銀諸品奪ひ取候と申立ければ
潔よき白状
神妙なり又
幸之進を殺せしは
誰にて
馬士を殺たるは誰なるやと
尋られしに幸之進を殺たるは
私しにて馬士を殺し候は平四郎なりと申故シテ松葉屋へ金を預けんとせしは如何なる故ぞと有に源八
其儀は私し共を
確實に見せ置松葉屋の
案内大方
見定め候間同家の金銀
奪取ん爲故と金子を
預け候と一々白状に及びしかば是にて落着致し五月九日吉原町引合の者并に
尼ヶ崎の城主
松平縫頭殿[#「松平縫頭殿」は底本では「松平縫殿頭」]留守居等殘らず呼出され大岡
殿右留守居に
對はれ先年
江尻宿に於て松平縫殿頭家來
小野田幸之進と申者盜賊に
切害せられ金銀を
奪取れたる由今度其
盜賊取押へし處
右殘金有之と雖も其
節屆出之なきに付
公儀へ御取上に相成間其段心得られよと申渡され留守居は恐入
畏まり奉つると云て立歸る次に
瀬川と呼れ其方
儀夫にて
承まはれとて源八佐七
南都以來の事共今一
應申立よと云れし時兩人
委細白状なせしかば
各々大いに驚き
感じける時に瀬川は
謹んで
膝を
進め扨は源八こそ親夫の敵にて有しを討止さりし事口惜く候と申立るを大岡
殿否々源八を殺せば
事故明白に
解らず源八
存命故に
委細分りしなり
殊に少々にても
疵を付たれば敵を討しも同前知れ
難き惡人共我手に入しは
公儀への
御奉公親の
讐のみならず本夫の敵まで討たるは忠孝貞と
揃ひし
烈婦と云べし吉原町
始りしより
以降斯る遊女有べからずと
賞美ありしかば瀬川は云も
更なり抱へ主松葉屋
迄も面目を
施し其外聞居たる
公事訴訟人迄感ぜぬ者ぞ無りける
扨又源八は
打首の上
獄門佐七は
遠島申渡されしとぞ
此時大岡
殿松葉屋
半左衞門と呼れ其方
存ぜぬ事とは申ながら盜人の金を
預りしは
不屆なり又瀬川事遊女
奉公御免仰付らるゝ同瀬川の身の
代金は
只今より後の
所存たるべし尚又
存寄有やと尋らるゝに半左衞門
謹んで首を上敵討
仕つり候程の孝心なる
瀬川何とて
勤をさせ
置候はんや殊更渠等白状の
趣きにては私し方へ
押入盜み致す
所存の由
盜難を遁れ候も全く瀬川の
働きに候へば然のみ
損も之なく且又私し
抱への遊女敵討
仕つりしと申事外聞も
宜しく
旁々以て一向に申分御座なく候と申により
神妙なりと有て盜賊より
預りし金四百兩は取上の上
富澤町金七
淨瑠璃語君太夫へ渡され其方共
瀬川親子の者を
世話致し候段
奇特なり瀬川事討
難き讐を討其
手筋にて科人相知れ其身の
本望公邊への御奉公
神妙に思召
幸之進取れ候
金子の中四百兩
相殘り候に付瀬川へ下さるゝ間
母諸共
流浪致さぬ樣取計らひ
遣せと申渡され
皆々有難き旨之を申
喜悦勇みて下りけり依て
瀬川が評判江戸中
鳴渡り諸方より
貰はんと云者
數多あれ共
當人は是を
承引かず今迄の
難澁とても世に云
苦勞性なるべし遁世して父と夫の
後を
弔ふこそ誠の
安樂成んとて
幡隨院の弟子となり
剃髮染衣に状を變名を
自貞と改め
淺草今戸に
庵を結び
再法庵と號し母諸共に
行ひ濟し安く浮世を
過せしとかや
庵の壁に
種々の
和歌ありけるが其中に
いけ水に夜な/\影は映れども水もにごらず月もけがさず
其次三代
目の瀬川も名高き
遊女成しが
丁字屋の
雛鶴とは常々心安かりしに身請せられし時の文に
承まはり候へば
此廓の火宅を今日しも
御放れ候て
凉しき方へ
御根引の
花珍敷新枕御羨敷は物かは
殊に殿には
木そもじ樣は
土陰陽を起し
陽は
養にして一
生養ふを云
卦の
表萬
人の
養育萬人にかしづかれ給ふと
御頼母しくも
愛度鳥渡[#「鳥渡」は底本では「鳥」]占ひ
參らせ候あなかしこ
松瀬 より
丁雛樣 御もとへ
其後寛政の頃三代目の瀬川は
或大諸侯の留守居に
身請せられしが其人主人の
金を
遣ひ
過し
閉門申付けられしに
瀬川は隙を見て
遁亡しければ彼の
留守居は瀬川故に
難を受しに瀬川は
我を
捨て遁しこそ
遺恨なれと自殺して
死せしとぞ又瀬川は年頃
云交せし男と
連副しに何時となく
神氣狂ひ左右の
小鬢に角の如き
癌出來し故人々彼の
留守居の
執念にてや有んと云しが
何時しか人の見ぬ間に
井戸へ身を
投空敷なりたりけり
案ずるに鬼女の如き
面體になりしを
恥て死にけるか
但亂心にや一人は
末に名を上一人は
末に名を
穢せりと世に
風聞せしとなん
傾城瀬川一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]畔倉重四郎一件 仁は以て下に
厚く
儉は以て
用るに
足和に
而弛めず
寛に
而能斷ずと
然ば徳川八代將軍吉宗公の御
治世享保年中大岡越前守
忠相殿勤役中
數多の
裁許之ありし
中畔倉重四郎が
事蹟を
尋ぬるに武州
埼玉郡幸手宿に
豪富の聞え高き
穀物問屋にて
穀屋平兵衞と言者あり家内三十餘人の
暮しなるが此平兵衞は
正直律儀の
生質にて
情深き者なれば人を
憐み
助ることの多きゆゑ人
皆其徳を
慕ひ
敬ひける然るに夫婦の中に二人の
子供ありて
長男は平吉とて二十一歳
妹をお
浪と呼て十八歳なるが此お浪は
容貌衆に
勝れて
美麗き上
氣象も
優美ければ
兩親の
愛情も一方ならず
所々方々より
縁談を申入るゝ者多かりしが
今度同宿の
杉戸屋富右衞門が
媒人にて
關宿在坂戸村の名主是も
分限の聞えある
柏木庄左衞門の
悴庄之助に
配偶せんとて
既に
約束整ひ
双方の
結納をも
取交せしかば
兩親の
悦び大方ならず此上は吉日を
撰み一日も早く
婚姻をさせんと
急ぎしが庄左衞門方に當時少々の差合の
儀出來しにより
當暮にと
相談極り
專ら其支度にぞ及びける
爰に又有馬
玄蕃頭殿の浪人畔倉重左衞門と言者あり其悴を重四郎と
呼今年二十五歳にて
美男と
言殊に
手跡も
能其上劔術
早業の名を得し者なるが父重左衞門より
引續き手跡の
指南をして在ける故彼の穀屋平兵衞の悴平吉も此重四郎に
從ひ
專ら
筆道を學びしかば平兵衞
始め家内の者迄重四郎を先生々々と
最叮嚀に
待遇敬ひ居たり或時
店の
若者等打寄彼の先生には
劔術の
早業に
達し給ふと承まはり候が我々も親方の用事ある時は
金子を
持て
野道山路は云も更なり
都合に
因ては
朝は
星を
戴き
暮には月を
踏で
旅行なす事
往々あるにより先生を
頼み劔術を
學びなば道中
爲にも心強く
且賊難を
防ぐ一端共成事なれば此趣きを
旦那へ願ひ見んとて一同より平兵衞へ
斯と
語りしに平兵衞も
道理と思ひ夫は
隨分宜事なれば
左も
右も
其方達の
隨意に致すべしと
許されしにより
若者等は大に悦び
早速重四郎の方へ到り此趣きを
只管頼みしに重四郎も
辭み難く承知せしかば此より畔倉を
師匠として主用の
間には
劔道をぞ
學びける是に因て重四郎も毎度
穀屋へ出入致しける處に主平兵衞は殊の外
圍碁を
好みて相應に打ける
故折々は重四郎を
碁の相手となせしを以て重四郎は猶も
繁々出入なし居しが
偶然娘お浪の
容貌の
美しきを
見初しより
戀慕の
情止難く獨り
胸を
焦せしが
寧そ我が思ひの
情を云送らんと
艷書に認め懷中しつゝ
好機もあらばお浪に渡さんものと來る
度毎に
窺ひ居けれ共其
間のあらざれば
空しく
光陰を
打過し
中或時重四郎又入り來りけるに平兵衞は相手
欲やと思ふ
折柄なれば重四郎殿
能こそ
御入來ありしぞ
率々一石參らんと
碁盤引寄重四郎を
相手に
碁を
圍み
茶菓子などを出して
饗應けれども心
爰に
在ざれば見れども見えずの
道理にて重四郎はお浪にのみ心を
奪はれ居たりし
故打石には
眼も
止らず初めの
碁は
脆く
負けるに平兵衞は大に悦びて
手水に
立しを重四郎は
是幸ひと娘の
部屋を
覗き見れば
折節お浪は
只獨り
裁縫をなし居たるにぞ
頓て
件んの
文を取出しお浪の
袖へ
密と
入何喰ぬ
顏をして元の座に
直り早々歸らんとせし所へ平兵衞來り今一
石と望みけるにより又々一石
打終り
挨拶もそこ/\に
暇を告て立歸り今日こそ我が思ひのたけを
通ぜしからは如何なる
返事をなすやらんと一時千
秋の思ひにて
待居たり却つて
説娘お浪は重四郎が
袖へ入しは
何やらんと出し見れば
豈※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、326-12]らんお浪樣參る御存じよりと認めたる
艷書なりしかば大いに驚き
少間茫然として在けるが
良あつて心を定め
乳母に相談せんものと
密に乳母を呼て彼の
艷書を
封の儘に見せければ乳母は大いに打驚き是は此儘に
捨置難し旦那樣へ御見せ申さんとて立んと
爲るをお浪は
引止否々那重四郎樣は兄樣のお
師匠なれば此事父上の耳に入る時は
元來物固き父上ゆゑ
若や
手荒きことのありもせば兄樣に對し云ひ
譯なし又重四郎樣へも
氣の
毒なり外に思案をしてたもれと言れて
乳母は
實にもと思ひ
暫し工夫に
暮居たり
折柄媒人の富右衞門來りしにより
是幸ひと乳母は彼の艷書を出して富右衞門に見せければ元來
篤實の富右衞門なれば以ての外に驚き是は
等閑に致し難しと言つゝ此事を主人平兵衞に
咄しけるに平兵衞は是を
聞烈火の如く
憤ほり
惡き重四郎が
擧動かな娘と不義せしなどと沙汰ある時は家に
瑾を附るの
道理なり此上は重四郎を
寄附ぬ事こそ
肝要なれと早速番頭を始め皆々へ重四郎は斯樣々々の
譯ある
故足を
遠くする樣此後は店へ來る共
餘り心安く致すべからずと申し付て
後來をぞ
戒め置たりける扨又重四郎は一兩日
過て色よき返事を聞んものと
穀屋へ來り
例の如く店へ上りて
種々咄しなど
爲けれ共小僧を始め一
向構ひつけず茶も一
杯出さずして何か
不興氣の樣子なれば重四郎は
手持惡く平吉殿は
如何成されしやと
奧へ
通らんとするを
番頭押止め今日は主人も平吉も
留守なりと常に
變りし顏色にて重四郎を
眦裂る體を見て重四郎は
奧へも行れねば
其儘そこ/\我が家へ立歸り獨り
倩々考ふるに
毎度に變りし今日の樣子且番頭が我を
眦裂し事合點行ず扨は彼の文を父平兵衞に見せしにや
其等の事より我が足を
遠避んとの事ならん其儀ならば我もまた
仕方ありとて其夜
穀平方の門邊に到り内の樣子を
窺ひ子僧にても出て來りなば
仔細を聞かんと身を忍びて居たる所へ
丁稚音吉が使ひに出しを見て重四郎は心に悦び是を
呼掛何れへ參るや其方に少し尋ね
度段あり先々
此方へ來るべしと酒屋へ連行酒肴などを出させて
振舞つゝ重四郎申けるは某し先刻
其方の店へ到りしに番頭の
挨拶振何共
合點行ざるのみか我を奧へ通さぬは如何なる
譯なるや知つてならば
咄すべしと尋ねければ
流石は
丁稚のことゆゑ
酒肴に
釣れ其事柄は
委き譯を知ね共先生よりお浪さんへ
艷書を
贈られしとやらにて富右衞門殿より大旦那へ見せしゆゑ大旦那より
斯々申付られしに依て
據ころなくお
構ひ申さず夫に付お浪さんも富右衞門殿の世話にて早々
坂戸村へ
縁付るゝ
筈なりと落もなく咄し此事必ず私が申せしと沙汰し給ふなと
云捨て歸りしかば
跡に重四郎はホツと
溜息を
吐扨はお浪め富右衞門に
彼の
艷書を見せたりしか
情なき仕方なり富右衞門も猶以て
遺恨なれ店の者共まで今日の
始末思へば/\
忌々し
寧そ
蹈込んで打放し此恨みを
晴さんと立上りしが
否々
荒立ては事の破れ何にもせよお浪を引さらひ女房にすれば男は立つ
只惡きは富右衞門なりよき
機もあらば
此遺恨を晴さんとて其夜は其儘我が家に歸りしが其後
明暮心懸てぞ居たりける然るに同宿に三五郎と云者あり此三五郎は
侠氣ある者にて
生得博奕を好み平生
賭事のみを業としけるが或時
博奕場より
戻り食事をしながら女房に向ひ今朝
土手際なる
庚申堂の前へ來たら土橋の所で此
煙草入を拾ひしゆゑ中を見たら富右衞門殿へ平兵衞と云手紙が
這入てあり
然すれば
穀平殿より富右衞門殿へ送つた手紙が有からは落し
主は富右衞門殿ならん
其邊を
仕舞たら富右衞門殿の方へ返して來よと云にぞ女房は早々に
膳を
片付そんなら
一寸行て參りましやうと云所へ重四郎は三五郎に何か
咄しありとて來りしが此咄しを聞てなんだ富右衞門殿の
煙草入を拾つたドレ/\見せねへと取上見れば富右衞門の方へ平兵衞より送りし手紙なるゆゑ重四郎
忽ち
惡心を
發し三五郎に向ひなんと此煙草入を我等二分に買ふべしといふに三五郎
打笑ひ
若々先生
新しい時でさへ四五百文位ゐ
最う
老こんで七ツ
過の
代物だ二百がものも
有まいに夫を二分に
買んとは合點の
行ぬ
事なりと云ふを重四郎
成程分らぬ筈よ此品は少し
己が入用が有て
遺恨を
晴す
奴に目にもの見せんとの
思案なり
友達の
好誼に賣て
呉夫即金だとて二分取り出してさし
置ば三五郎は打笑ひ夫程に入用なら
持て行れよ金は入らぬといふをば重四郎そんなら
斯仕ようと彼の二分を女房に
渡し
少だが
單物でも
買れよと
無理に
懷ろへ入れ此事は決して
沙汰なしに
頼むなりと
言捨て立歸りしが途中には穀平の
丁稚音吉に行合けるに重四郎聲を
懸コレサ音吉
殿大分閙しさうだが何所へ行のだと尋ぬれば音吉は
振返り今日は大旦那が
關宿の庄右衞門樣の方へ米の代金を取に參られますゆゑ是から
供をして行ますと云ば重四郎夫では今夜は大かた
泊りであらうと云に音吉
否何に
明日は
仲間の
寄合が有から
遲くとも是非今夜は御歸りで御座りますと
言ながら
閙しさうに走り
行跡見送りて重四郎は大いに悦び獨り心に
點頭甘い/\今夜
利根川堤に
待伏して穀平が歸りをばつさりやらかし此烟草入を
死骸の
側に
捨置き人殺しを富右衞門に
塗付日來の
恨みを
晴さんと
笑を
含んで居たりけり
然程に穀屋平兵衞は穀物の代金を受取んとて一人
供を
連關宿領坂戸村なる庄右衞門の方へ到りけるに庄右衞門は
久々の
御來臨なりと
種々馳走して
饗應にぞ平兵衞も思はず時刻を
移せし中穀物の代金百兩受取歸らんとなすを
主庄右衞門之を
止め
最早夕暮なれば
今宵は御
泊り有て明朝早く歸らるべし殊に大金を
持ての
夜道なれば
無用心なり必ず/\御
泊りあれと
勸むるを平兵衞は
頭を
振其は
忝けなけれども明日は
餘儀なきことのあるゆゑに是非共
今宵返らずば大いに都合
惡かりなん
左に
右御暇申さんと立上れば庄右衞門も
止を得ず然らば途中の御用心こそ
專要なれど心付るを平兵衞は
承知せりと
暇を
告て立出れば早日は山の
端に
傾ぶき
稍暮なんとするに道を急ぎて
辿るうち
最早全く
暮過て
足元さへも
分難ければ
豫て用意の
提灯を取出し火を
點いて丁稚音吉に持せ足を早めて
歩行ども夏の夜の
更易く早
五時過とも成し頃名に聞えたる坂東太郎の
川波音高く
岸邊に
戰ぐ
蘆茅は
人丈よりも高々と
生茂り
最長き
堤を
便りに一
筋道權現堂の村中へ
來懸る
折しも
颯と吹來る川風に
提灯消て眞の
闇となりしかば平兵衞は南無さん
明りが
消ては一
足も歩行れぬとて
腰をさぐり用意の火打を取出し
漸々蝋燭へ
點しければさあ/\音吉
注意て又風に火を取れぬやう急げ/\と
急立れば音吉は見返りつゝ旦那樣
近道に致しませうかと問に平兵衞如何樣
小篠堤の
近道を行ふと音吉を先に立せ平兵衞は
微醉酒も
醒果て心ばかりは
急げ共夜道の
捗行ぬを足に任せて小篠堤に來掛る頃は早
北斗の
劔先尖く光りゴンと
突出す
子刻の
鐘の
響きも身に
染て
最物凄く聞えけり
折柄堤の
蔭なる
竹藪の中より
面を
包み身には
黒裝束を
纏ひし一人の
曲者顯れ
出物をも云ず
拔打に
提灯バツサリ
切落せば音吉はきやツと一聲立たる
儘土手より
動と
轉び
落狼藉者よと
呼はりながら雲を
霞と
駈出すに平兵衞も是はと驚き
逃んとなしたる
後より
大袈裟に切付れば
呀と叫びて倒るゝを起しも立ず
止めの一刀を
刺貫き
懷中へ手を差入れ彼穀代金百兩を仕合よしと
奪ひ取り
何國ともなく
逃失けり斯て穀屋にては音吉の知せに悴平吉を始め家内中驚き
騷ぎ平吉は
親重代の脇差
追取音吉を案内として
駈出すを後に續て番頭手代共各々
提灯得物を
引提我先にと
駈出すにぞ親類縁者其外
日來懇意の人々は此知せを聞て何れも驚き集り來るゆゑ
幸手宿の
騷動大方ならず我も/\と
提灯携へ
駈着たり是より先平吉は一散に其所へ來て見れば無殘や父平兵衞は
肩先より
肋へ掛て八寸程切下られ
咽元には止めの一刀をさし
貫き見るに見られぬ
形状なれば平吉は
動とばかりに
倒れ
伏死骸に取付
狂氣の如く天に叫び地に
轉び
悲歎に
昏て居たりしが
良ありて氣を取直し涙を
拭ひ
倩々と父の
面を打まもり
嘸御無念におはすらん
汝れ敵め其儘にして置べきやと
四邊を見れども
人影無ければ懷中
何にと改め見るに金も見えず彼是する
折柄人々も
駈着此有樣を見るよりも皆々
愁傷大方ならず
然れど如何とも
詮方なきにより早々此趣きを村役人へ
屆けしかば
幸手宿權現堂兩村の役人とも立合
評議なす中夜は程なく
明放れしにぞ早々此段を
郡代衆出張の役所へ訴へ出けるに
伊奈半左衞門殿の手代横田五左衞門深見吉五郎
檢使立合の上改め
相濟一先權現堂村の名主仙右衞門方へ
引取ての調べと相成り横田は平吉に
對ひ其方は平兵衞の
悴成かと
問平吉
發と
平伏しける時横田は又其方の親平兵衞儀日頃何か他に
意趣遺恨を受し覺えはなきやと尋ね有に平吉は
頭を
上親父儀は是迄
喧嘩口論など致せしことも之無く日頃人の爲のみ仕つり村方にても
譽られ候程の儀故
勿々意趣遺恨など受ることは
聊かも御座無く候と申立れば横田如何にも
然こそあるべし
而金子紛失の由なれば定めて
盜賊の
所業に相違有まじ因て
死骸の儀は勝手次第に引取べしと有り又
悴平吉支配人五兵衞村役人差添江戸表へ
罷り出べき由申渡し
置役人は引取けり
却説穀屋にては
燈火の
消たる如く平兵衞の妻并娘お浪の
愁傷大方ならずと雖も
詮方なければ
厚く
野邊の送りを
營みけり扨平吉支配人五兵衞村役人同道にて江戸小傳馬町旅人宿
幸手屋茂八方へ
到着し早速此段郡代屋敷へ屆け出けるに
直樣差紙に付き幸手屋茂八
附添郡代の
白洲へ出でければ正面には伊奈半左衞門殿左方には手附手代
威儀嚴重に控へたり此時伊奈殿
徐かに武州
幸手宿穀屋平兵衞の悴平吉同人方支配人五兵衞と呼れ去月廿七日の夜
小篠堤權現堂に於て平兵衞儀殺害に
逢ひ懷中の金子を
奪ひ取れし趣き尤も盜賊の
所爲ならば老人の事故金子を奪ひ取とも
殺害迄には及ぶまじ
何れ平兵衞に
面體を知れし者と見ゆ殺害致したる上全く
金子は
出來心にて
盜み取し者ならん然れば豫々
意趣有者の
所行と思ふなり
然樣なる心當りも有ば包まず申立よと有に平吉は
恐る/\
頭を
上親共儀は
平生慈悲を第一と心懸村方
困窮の人の爲には心を盡し先年
洪水の
節猿ヶ
股の
堤切し時も夫々に救ひ米并に
金銀等も
差出せし程の儀故村中の者一同
能服し居候間
勿々遺恨など受べき
覺え無御座候と申立るに半左衞門殿
否々然に非ず
假令陰徳を
施し
慈悲善根を第一として人の
害に
成ぬ氣にても金子の
遣取致し
商賣も
手廣き事なれば如何なる所に
遺恨の
有間敷者にも非ず又其外にも
何ぞ手掛りは無きと云るゝに平吉ヘイ其
手掛りと申ては
別に御座らねども爰に
少々心當り是とても右樣の儀を致す人物には之なく日頃より
親類同樣に致し親共も
相談相手に仕つり家内も
相應に
暮し居ります
故是を疑ふ樣も御座なく候と申立るに伊奈殿
否々少しにても心當り有れば申立よ
而て其者は宿内の者か他村かと
有ける時恐れながら申上ますと
支配人の五兵衞
縁先近く
這出て
只今平吉が申立し通り右心當りの儀は
疑はるゝものゝ先も
歴々の身代に候ゆゑ何とも申上兼ると云ければ伊奈殿
何々惡く致すと
歴々でも
油斷は成ぬ而て何者なるか包まず申立よとあるに五兵衞其儀は私しより申上んとて平吉に
會釋なし
扨主人平兵衞儀權現堂小篠堤にて
横死の
節死骸の
近傍に
紙煙草入の
落て有しを後の
手懸りにもと存じ拾ひ
取能々改め見る處同宿にて同商賣を仕つる杉戸屋富右衞門と申者
所持の品にして又其
煙草入の下には主人平兵衞より送りたる手紙が之あり候とて
其節の樣子を
委しく申立しに伊奈殿は夫は
屹度したる
證據なり此方にさし出すべしとの事に付即ち差出しけるに
奧州福島仕立の
紙煙草入にして其中に手紙一通あり
其文に
鳥渡申上候昨日は御
馳走に
預り
忝けなく奉存候
然者先日御相談致し候
穀物の儀江戸表へ
相廻し申候明後日は
關宿庄右衞門殿方へ
穀代金勘定に參り申候
粕壁の代金八十兩也
大豆の
爲替に仕つり候
只今御受取可被下候
先は右の段申上度
如此御座候以上
杉戸屋富右衞門樣
半左衞門殿
是を見られて
此手紙は平兵衞の
手跡に
相違無や
又斯樣に
好手掛りが有ながら
何故先に檢使の
節差出さぬぞ
是甚だ不都合の
次第なりと尋らるゝに五兵衞は
臆せず
然[#ルビの「さ」はママ]ばにて候
若主人平吉儀は若年者ゆゑ
血氣強く且又家内手代共の中には血氣の若者も
大勢之あり候により此手紙を出す時は富右衞門を
敵と心得
仇討呼はりなどいたさば容易ならざる事に
成行申べく一ツには右富右衞門と申者は主人も
平常より
格別懇意に仕つり居極々手堅き人に候へば
勿々今度の儀など
爲出すべき人物に御座なくと存じ
密に私しが
取隱し置たりと云にぞ伊奈殿如何樣夫も
道理の
譯聞屆けたり
追々吟味に及ぶと申され其日は平吉
始め五兵衞其外とも一同下られけり是より伊奈殿には
手代杉山五郎兵衞
馬場與三右衞門の兩人に
幸手宿の杉戸屋富右衞門を
召捕來るべしと申渡されたり
天に不思議の
風雲有り人に不時の
禍ひありとは
宜なる
哉爰に杉戸屋富右衞門は去六月廿六日
晝立にして商用の爲め
栃木町より藤田
古河邊へ到り暫く
逗留なし七月四日晝前に我が家へ歸りければ女房お
峰は出迎ひ先御無事にと
打喜び
而又旦那には村中の大變を御
途中にてお聞ありしやと云に富右衞門
否々何事も聞ざりしがそりや又
何云譯なりやと尋るにお峰は申樣
貴方が御立
成れた其翌日の事なるが穀平の旦那が
關宿の庄右衞門殿の方へ
行れた歸り
懸權現堂の土手にて殺されしと
語るを聞て富右衞門やゝ
何々平兵衞殿がと大に
驚き夫は
大變な事
而て殺した
奴は知しかと問ばお峰
風聞には大方
盜賊の
所行ならんとの事夫れに付ては若旦那は
朔日より江戸の御
郡代屋敷へ御
出成れ
未に御歸り
成らぬが相手が早く
知れば
好と云に富右衞門何さ
天命なれば今に
直知るで
有う
先鞋を
脱ぬうち穀屋へ行て
來やうか扨々
腹が
減たお峰や一寸一杯
喰込で行うと
腰を掛け
居處へ當宿の村役人段右衞門と
岡引吉藏
案内にて八州
廻の役人どや/\と
押來り
上意々々と聲を
掛飛懸つて富右衞門を
押伏忽ち高手小手に
縛し上れば富右衞門は
魂ひ天外に
飛茫然として
惘れしが是は
抑何科有て此
繩目私し身に取て
聊かも御
召捕になるべき
覺え無しと云せも果ず役人は富右衞門を
白睨み付
覺え無しとは
白々しき
詐りなり去月廿七日小篠堤權現堂の
藪蔭に於て穀屋平兵衞を
切殺し金百兩を
奪ひし段
注進の者有て召捕なり申
譯有ば役所に於て一々申すべしといふに富右衞門は
彌々仰天し其は何共
合點の行ざることなり私しは
元來殺生さへも
嫌ひで虫一つ
殺た事も
無きに人殺しなどとは思ひもよらず殊に平生兄弟同樣に
致す所の平兵衞を何の
遺恨で殺しませう是は全く
人違ひにて候と云に女房お峰も役人に
取縋り
夫富右衞門は
勿々人殺しなど仕つる者には御座なく是は
必定人違ひ
何卒御
宥し成れて下さりませと
涙と共に手を合せ
詫るを役人耳にも入ず
白睨付てぞ引立ける富右衞門は女房お
峰に向ひ此
儀素より我が身に
覺えなき
事なれば御
郡代樣の御前にて申譯は致すなり必ず
心配すること
勿と云ども
流石女氣のお峰は又も
取縋り涙と共に
泣詫るを役人共は
突退々々富右衞門を引立つゝ問屋場へと連れ來り
宿駕籠に
[#「宿駕籠に」は底本では「宿駕籠に」]乘て江戸馬喰町四丁目の
郡代屋敷へ引れしは
無殘なることどもなり
斯て杉戸屋富右衞門は
繩目の
儘にて郡代屋敷の
白洲へ
引居られ伊奈半左衞門殿は
吟味に及ばれんと
其席へ立出られ
先何成奴ならんと見らるゝ所に
面體は
柔和にして
篤實らしく見る成れども人は面體に
寄らずと思ひコリヤ幸手宿杉戸屋富右衞門
其方年は
何歳成るやと
尋問られるに富右衞門は
當年五十三歳なりと
答ふ伊奈殿其方は先月廿七日の夜
關宿街道權現堂小篠堤に於て同宿穀屋平兵衞を
殺害に及び
加之金子を
奪ひ取りたるならん
有體に申立よと云れけるにぞ富右衞門は
首を
上私し儀日頃より右平兵衞とは兄弟同樣に仕つる者に候へば
然樣の儀は
毛頭覺え御座なく
殊に其節は私し事
他出いたし八九日外に
逗留仕つり
居歸宅致せし
機其事柄を家内の者より初めて承まはり實に驚き入しゆゑ早速
悔みに參らんと存じ
旅行の
儘草鞋も
解ず
空腹に付食事を致し居り候所へ御
捕方の人々參られ御召捕に相なりし次第にて
勿々人を殺し金子を
盜み取候などと申
儀夢にも存じ申さず
何卒御
慈悲の段偏へに願はしく存じ奉つると申立れば半左衞門殿聲を
張あげ
默れ富右衞門
汝れ其節他出とあるからは
猶以て
怪しきなりシテ他出とは
何れへ
罷り
越たるぞとあるに富右衞門私し
儀は先月二十六日
出立致し
古河の在藤田村の儀左衞門かたへ參り夫より
古河の御城下に
商用御座るゆゑ
逗留仕つり二十七日には
栃木町の油屋徳右衞門方へ晝の八ツ時より泊りに
着居りしにより全く以て
右體の儀は覺え御座なく候と申立ければ伊奈殿
大音に
是富右衞門今汝ぢが
何樣に申譯をしても此方には
聢とした證據があるぞ是其方
所持の
煙草入が其場に落して有しなり夫を見よと
投出されしに富右衞門は是を
視て成程此品は私しの煙草入に相違御座なく候へども是は去月
末に
隣村へ用事有て
朝の内
參りし途中にて落せしにより其節心
付四五町引返して
相尋ねしと雖も一
向見當り申さず
併し餘ほど
持古し候品と申別段用向の書付も入置ませぬゆゑ其
儘に打捨置候處
如何仕つりてか
其邊にと言せも
果ず半左衞門殿コリヤ其煙草入の中には平兵衞より其方へ
遣したる手紙が有之しなり
然すれば定めて
待伏をして殺したに
相違有まじきぞと申さるゝに富右衞門
恐れながら煙草入は私しの品にて又手紙も平兵衞より私し方へ參り候手紙に
相違御座なく候
併しながら私し儀は
豫て平兵衞方へ出入仕つり候て
金子は
勿論内外の世話にも相成候中故平兵衞が娘を
關宿へ縁談の
媒人迄も仕つり候程のことにて兄弟の如く
交り候中に付何とて
渠を殺害など仕つるべきや此儀何分御
賢察下され御
慈悲の程を
偏へに願ひ上奉つると申立れども伊奈殿は
首を
振れ
否々其方が申す所一ツとして申譯は相成ず
欲情に
關りては實の
親子兄弟の中成とも心得
違ひの者
往々有事なれば
彌々陳ずるに於ては
拷問申付るぞ其方が
首に掛し百兩入の
財布は則ち平兵衞を殺し
盜み取たるに相違は有まじ夫にても
猶知らぬと申すかと
白眼らるれども富右衞門は實に
覺えなきことなるにぞ此百兩の金子は
古河の穀屋儀左衞門方より
請取候に相違は御座りませんと少しも
臆せず申立るを半左衞門は大いに
憎く思ひ
否々其口上は
幾度申すも同じ事なり決して申譯には相成ず
猶追々呼出すべしと云るゝ時手代の者立ませいと聲を
懸其日は入牢とぞ相なりける其後松坂町郡代の
牢屋敷に於て
無殘成かな富右衞門は
日々手強き拷問に掛り今は五
體悉々く
弱り
果物も
咽を
下すこと能はず一命既に
朝夕に
迫るに付富右衞門
倩々來方を思ひ
行末を案じけるに今迄一點の罪を
犯せし事もなきに斯る
無實の罪を
請て
刄に
懸り
非業の
最期を
遂げ五體を
野外に
曝し
雨露に
打れて
鳶烏の
餌食と成こと我が恥よりは
先祖の
恥辱なり
返す/″\も
口惜き次第かな女房お
峰も
嘸や
悲[#ルビの「かなし」は底本では「かな」]み
歎くらんと五
臟を
絞る血の涙に前後正體無りける
良有て心を
取直し我が身ながらも
未練の
繰言兎ても
角ても助かり難き我が一命此上は又々
嚴敷責苦を
忍んよりは
寧そのこと平兵衞を殺せしと
僞り白状して此世の
責苦を
遁れん者と
爰に心を定めしは
最も
憐れの次第なり然ば翌日の
調べに右樣白状致せしにより役人は
速かに
口書を
認め富右衞門に
讀聞す
一私し儀穀屋平兵衞と別懇に仕つり候處關宿在坂戸村名主庄右衞門方より穀代金請取歸り候儀前以て手紙にて承知仕つり候故六月廿七日の夜權現堂小篠堤に待受殺害致し金百兩盜み取候に相違無御座候依之此段奉申上候以上
武州幸手宿
此時役人は富右衞門に向ひ
何と
慥かに承知したか
彌々白状の趣きに
相違なくば
口書に
爪印致せと右の口書を富右衞門の前へ
差付るに富右衞門是を見て
殘念至極に思ひ心中
煮返るが如き涙をはら/\と
流し齒を
喰締ながら
爪印も
相濟けるに依て伊奈半左衞門殿より
口書を
添委細を書取にして手代富田善右衞門を
持て月番南町奉行大岡越前守殿へ引渡し相濟ける之に依て大岡殿も一通り吟味の上
口書并びに書取の通り
符合なすに於ては月番老中
衆へ
伺ひの上
附札にて御仕置仰せ付らるゝの
手續[#ルビの「てつゞ」は底本では「てつゞき」]きなる故今富右衞門が命は
風前の
燈火の如し
再調べに引出さるゝ其有樣數日の拷問に
勞れ
果總身痩衰へ
鬢髭は
蓬々とし
淺黄木綿の
浴衣にて
青繩に
縛られ小手を
緩して
砂利の上に
引居られし
體此世の人とは見えざりけり
白洲の正面には大岡越前守殿
着座有左の方には御目附
土屋六郎兵衞殿
縁側には
目安方の
與力下には同心に至る迄
威儀嚴重に
控へたり此時大岡殿は武州幸手宿富右衞門と
呼れ其方歳は
何歳成ぞと
尋問しかば富右衞門ハツと平伏し少し顏を上當年五十三歳に相成候と云たる
體顏色殊の
外痩衰へ
肉落骨顯はれ
聲皺枯て高く
上得ず何樣數日
手強き拷問に掛りし樣子なり大岡殿
此體を
熟々見られしが其方日頃
懇意に致し
恩義にも相成し同宿成る穀屋平兵衞が坂戸村名主庄左衞門より
[#「坂戸村名主庄左衞門より」はママ]金子百兩受取し事を
存じ居て權現堂村小篠堤にて
殺害に及び金子百兩
奪ひ取し
趣き明白に
白状致せしにより
口書も
極り
爪印濟の上伊奈半左衞門より
引渡しと相成たり依て一通り
糺問ぞ
右口書爪印致せしからは
相違無や
何ぢや明白に申立よと
云るゝに富右衞門ははら/\と
涙を
落しながら
漸々に申立る樣は私しこと全く以て平兵衞を殺し金子など取候
覺えは
毛頭御座なく候へども是まで段々
嚴敷拷問の
苦しさに
堪難く御覽の通りの
老體故其苦しみを早く
免かれ
度寧そ
未來へ參りなば此苦しみも有まじと存じ
斷念て罪を身に
引請白状仕つり候なり其實は人を殺し金子を奪ひ取候儀等は
毛頭是なく何卒御
賢察下し置れ候樣偏へに願ひ上奉つると
涙ながら申立ければ大岡殿聞し召れ汝ぢ右樣申立ると雖も半左衞門方よりの
明細書の
趣きにては其方の煙草入が平兵衞の
死骸の
側に落て有しのみならず
加之平兵衞より其方へ
宛たる手紙が中に入有し趣き是等は
何ぢやと申されければ富右衞門其煙草入は去月下旬用向ありて
隣村へ參りて途中に於て
取落せしに
相違なく其上私し儀は六月二十六日
[#「六月二十六日」は底本では「六月二十五日」]出立仕つり古河の
在藤田村儀左衞門方へ一
泊致し二十七日は
栃木町油屋徳右衞門の方に
罷り
在私し在所より十二里餘の場所なる故小篠堤にて平兵衞を
殺害仕つりし儀は一
向覺えも無是候と申けるに大岡殿
然らば半左衞門方にて
他村宿々の泊り
吟味は致したで有うと有し時富右衞門
恐れながら其儀は一向御
取上なく只々煙草入を
外へ落したとは
僞り其
砌り殺害の場へ落としたに相違あるまじとばかり御
吟味が
強さに是非なく身に覺えは御座らねども其罪を引受白状致し候と申立しかば大岡殿
篤と富右衞門の
相恰を見られし所如何樣にも
篤實面に
顯はれ
勿々人を殺し
盜賊をする者にあらず
併し
今強て吟味する時は
裁許を破り殊に郡代の
不詮議と相成事なり
然とて人一人たり共
無實に
害ふは大事なれば
先々能實否を
突止て
後右も
左も取
計らはんと富右衞門は其
儘入牢申渡されける是より大岡殿
組下の同心へ申付られ
在方の樣子を
探られけるに幸手宿
其外の評判には權現堂の人殺しは富右衞門にては有まじとの
風聞故六月廿六日より七月四日迄七日の
間富右衞門が
泊りし所を
詮鑿有に左の通り
一幸手宿富右衞門儀商用に付六月廿七日晝八ツ時頃私し方へ參り一宿仕つり候處商用掛合不相分猶又廿八日も逗留仕つり候廿七日より晝夜共他出不仕私し方に逗留仕居り廿九日巳刻過出立致し候此段相違無御座候依て御受書如斯御座候以上
下野國栃木中町
同所 町役人
中村五兵衞
同所 問人
杉村幸右衞門
一杉戸屋富右衞門儀六月廿六日朝卯刻幸手宿我が家出立致し下總葛飾郡藤田村名主儀左衞門方へ泊り廿七日朝卯刻過出立致し下野都賀郡栃木中町油屋徳右衞門方へ泊り廿八日同所に逗留廿九日晝巳刻過栃木中町を立下總國古河町穀屋儀左衞門方に逗留致し七月四日朝五ツ時出立右の通り泊り/\探索仕つり候處相違無之別紙廿七日泊りの場所栃木中町徳右衞門を上町名主方へ呼寄猶又逐一吟味仕つり書付を取役人共印形取置申候且又古河穀屋儀左衞門方より穀代金百兩富右衞門へ相渡し候趣き是又呼上吟味仕つり書付請取申候右の泊り所相違も無御座候以上
池田大八
右の通り
出役の者
取調べし上書付二通大岡越前守殿へ差出しけるに
依て越州殿には
扨こそ
推量に
違はず外に
惡賊有ことと是より
專ら其本人を
種々詮議されけるとなん
扨も杉戸屋富右衞門に一人の
悴あり幼少の
節疱瘡にて兩眼を
失ひしかば兩親も大に心を痛め種々
治療に手を
盡せ共更に其
効しも無く依て
田舍座頭にせんも不便なりと種々に心配を爲居たる所に其頃江戸
長谷川町に城重と言
座頭有
素幸手出生の者なりしが
偶然此事を聞故郷の者なれば幸ひ我が
養子に
貰はんとて其趣きを相談するに富右衞門も
早速承知なしけるゆゑ此子を養子に貰ひ
請けて城富とぞ名らせけるが
城富の十四歳の時に養父の城重
病死致せし故
養母を大切に孝養して
相應に
暮しける是より
前此城富十二歳の春より
按摩を
業として居たりしが或時
住吉町を通りたる時
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、338-14]竹本政太夫方へ
呼込れ療治をなし居ける
中五六人義太夫を
習ひに來りしに元より城富も好の
道故我を忘れて聞ながら長く
療治をせしが縁と成て其後
毎夜呼込では
揉せけるに
最上手なれば政太夫も
至極に歡び療治をさせける處城富は
稽古を聞感に
妙て居る樣子を政太夫は見てコレ
按摩殿貴樣は
淨瑠璃が好か
何所ぞで稽古でも仕たるかと尋ねけるに城富はハイ
然樣で御座りますが
未だ一
向稽古は致しません
親掛りの身の上ゆゑ
漸々針と按摩を
稽古致すばかりで
淨瑠璃は習ひ度は思ひましても手が
屆きませぬと云にぞ政太夫
成程然し夫程好ならば何んと
稽古をする氣は
無かと言へば城富夫は有がたう存じます
實に私しは
殊の外
好で御座りますれど只今申上る通り親掛りで
居ますれば稽古の
代が思ふ樣には出來ませぬ
只々習ひたいと
存じまして御弟子樣方の御
稽古を少し聞ても聞取り
學問とやら外の御
宅と
違うて此方樣の事成れば一口聞ても多きに
稽古に成りますと言ふ
故扨々不便の事なり然程に
執心成らば私が教へて
遣ませう貴樣の事だから金は
決して取らぬが
其替りに
稽古代と思うて
按摩を安くして
頼みますと言ふに城富ハイ夫は
何寄以て有がたう存じます
何卒お願ひ申ますと是より
口移しに道行の
稽古より始めて段々と
習ひ込んで
生涯の一藝にせんものをとの一心と云其上
拍子の間も
宜殊に古今の
美音なれば太夫も始めは
戲談の樣に教へしが今は
乘氣が來て
此奴は物に成さうだと心を入て教へける故天晴
舊來弟子を
追拔て上達しければ政太夫も大いに
感じ是より三味線をも
習はせんとて相三味線の
鶴澤友次郎へ
咄して此事を
頼みけるに友次郎も
早速承知なし其後は三味線を一
層身に入れて教へけるに
勿々一通り成らぬ
上手と成しかば
稽古は
僅か四年の中成れども生質たる藝なりと友次郎も大いに
感じけるとなん斯て城富は
當年十七歳と成り所々の出入は
養父城重の時より
殖其上に三
味線淨瑠璃にて所々方々へ
招かれ今は家内も
安樂に暮し
養母も實子の如く不便を加へ亦城富も孝行を
盡し居たり時に
享保八年に至り實父富右衞門の
災難のことどもを
實母のお峯が來り
委細に物語りしければ城富は是を聞き大いに
驚き甚だ
悲しみつゝ涙を流し只一心に神佛を
祈りける所に享保八年十月十一日
彌々御
所刑の由幸手宿村役人を以て穀屋平吉へ申
渡され富右衞門妻へも此段申聞られしかば此事を城富は聞より
起つ居つ
心配し
其儘長谷川町の家を
駈け
出し杖を便りに數寄屋橋内の大岡越前守殿の
表門際へ來たり杖を
突立て
彳む故門番は立出汝ぢは道に
迷ひし成ん何方へ行のぢやと言ふに城富は涙に
咽かへりながらハイ/\
南御番所は何れで御座りますと
問ば門番の者南御番所は
此所なるが何用有て來りしぞ
何か願ひ
度事でも有かと聞れ城富はハイ
然樣で御座ります御奉行樣へ
急に御願ひが御座りまして
參つた者で御座ります
何卒御取次を
願ひますと云にぞ門番の者
願ひ
度事
有ば其町内の役人を同道して來り願ふべしと言ふに城富ハイ是は
誠に
差掛りまして早急の儀なれば町役人を
頼む間も
遲なはります
何卒御取次を願ひ上ますとて少しも
動かざれば門番の者も
止を得ず此事を
訴訟所へ
屆け門内へ入置て町所家主の名前等を聞けれども一
向に言ず只
何卒御奉行樣へ御目に
掛り其上にて
委細申上ますとばかりにて
盲人の
根生勿々動かざれば役人も
持て
餘して此段を申
述けるに大岡殿是を聞れ
苦しからず早々
白洲へ
廻すべしとの事により城富を
白洲へ呼入ければ大岡殿見られて汝ぢは如何なる願ひ有るか
予は大岡越前守なるぞ其方の名は何と申又
住居は何處成ぞ申立よと云れしかば城富は喜びたる
體にて私し儀は城富と申者
長谷川町地主嘉兵衞が地面に
居候と申けるに大岡殿
而又其方は如何成ることの願ひ有て奉行所へ
盲人の身にて
駈込訴に及びしや城富ヘイ
御意に御座ります私し儀は武州埼玉郡幸手宿杉戸屋富右衞門と申者の
悴なるが十二歳の
時より江戸長谷川町城重方へ
養子に
參りし者なりと
答ふるに大岡殿
然らば其方は幸手宿富右衞門が
忰成るか當時養父城重といふ者
達者成るや城富ヘイ
養父儀は三四年以前に
病死仕つりました大岡殿
然らば其方は富右衞門が一
件に付願ひ出しか城富
御意に御座ります段々
樣子を
承まはりし所實父富右衞門儀は今日御
仕置に相成るとのこと故其
悲しさは何に
譬ん樣も
無又實母儀も
嘸や
歎き申さんと思へば
在に
在れぬ悲しさの餘り押して御願ひに出たることにて私し
儀は御覽の如く
眼の見えぬ者なれば生きて甲斐なきこと故
何卒實父富右衞門が名代に私しを
如何樣の重き御仕置にても爲下され富右衞門儀は御
免しを偏へに願ひ上奉つると
涙と共に願ふにぞ大岡殿にも
孝心の段
憫然の至りなりと思されけれども今さら
止を得ざれば汝ぢが申所は
道理に
似たりと雖も親の罪を子に
負すると言ふ事には
成ず又罪も罪の次第に
寄る
況や其方は他人の
養子と成りし
身成ずや夫を
差置實父富右衞門の
代りに御仕置に致すことは
相成ず
公儀には
然樣の御規定は
無事なるぞと申さるゝに城富は
至極御
道理の御儀なれども親の
罪科に代りし事古來より
大分御座る樣に承まはり及びますれば
何卒御慈悲を持て父富右衞門儀を
御助け下されて私しめを名代に
御仕置願ひ上奉つると
只管申立て止ざれば大岡殿
成程一通りは
道理の願ひ聞屆けても
遣はさんが
併しながら爰を能承まはれ今其方が申儀は
實父富右衞門には
孝行の樣成れ共養母へ
對し
實母へ對しても孝行には非ずして却て
不孝と云者なり
其方が名代に立と言たりとて親富右衞門がオイ
夫と承知もすまじ殊に天下の
御定法として然樣に自由なることは出來るものに非ず
強て是を願へば
強訴の
罪となり親富右衞門の外に其方が罪は
遁れぬぞ
爰を能々聞き譯よと
理を以て
諭されければ城富は段々との
御利解有難き
仕合せに存じ奉つる
然ながら
押て願へば
不孝なりとの御意は
不才の私しには
解りません親の爲にするは
孝道かと存じますと親富右衞門を
助け
度一心に理も非もなく只々一生懸命に申立けるにぞ
越州殿には
何樣愍然とは思はるれども
故意と聲を
勵まされて成程親の爲に一命を
捨るは
孝道に相違無けれ共能承まはれ其方は一
旦城重方へ養子と
成針治導引の指南を受し上手足を
延して貰ひし
恩義は城重の
蔭で
有うな然れば
師匠なり義理有る養父なり實父よりは猶更
大切に致さねば相成まじ然るを其方今實父富右衞門の
名代となり御仕置になりて相果たらば
何樣富右衞門へ
孝行は立にもせよ養母の養育は誰が
爲ぞ義理有る養母を
捨るは
不孝此上無しよも富右衞門夫婦の者共も是を
悦びは致すまじ
依て不孝と成ぞ
爰の所を
能々辨へて只此上は富右衞門の
亡跡を
弔ひ佛事
供養怠りなく致すが
孝行なりと申さるゝを聞より城富はハツとばかりに
白洲へ
泣倒れ嗚呼實父へ孝を立んとすれば
養母へ不孝となり養母へ
孝を
盡さんと思へば實父は御仕置となり是りや
何したら
宜らうぞと
大聲揚て
號出しければ越前守殿は
彌々憫然と思はれしが是や/\其方
其樣に
嘆き實父に
代らんと申せども
最早富右衞門はお
所刑に相成しぞ
然ば其富右衞門が
蘇生ると云ふ
理は無れども其方の
孝心天へ通じ
其惠にて實父富右衞門がまた
蘇生なす間じきものにあらず因て其方は
此後能々實母へ孝行を
盡すべしと
厚く
諭されし上早速其所の地主嘉兵衞と其
家主を呼寄られ城富を
引渡しとなり
隨分心付けつかはすべき由申付けられけり
扨も
鍼醫の城富は我が願ひ
叶はず地主嘉兵衞に
引渡されしかば止を得ず嘉兵衞に
伴はれ我が家へ立歸り
悲歎に
暮て居たりしが
良ありて思ふ樣父の死は是非もなきこと共なり
切ては父の
亡骸を
葬りて
修羅の
妄執を
晴し申さんとて千住
小塚原の御仕置場へ到り
非人の小屋へ
立寄些御頼み申度ことありて
參りたり昨日御仕置になりたる武州幸手宿富右衞門の
首を
何卒私しに下さります
樣御頼み申上ますと云へば非人共是を聞て
其儀は
勿々相ならず假令御仕置者なりとも首又は死骸など
謂無く渡して
遣事は成ぬなり夫共御奉行所よりの御差※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、342-5]ならば
知ぬこと
何して/\出來ぬことなり早く歸られよと
取合氣色もあらざれば城富は力もぬけ
杖に
縋りて
茫然と涙に
哽び居たりける是を見て非人共は
耳語合何と彼の
座頭は幸手の富右衞門とやらの
由縁の人と見えるが
何だ少しでも
酒代を
貰つて
首を
遣うではないかと相談なしモシ/\
御座頭さん高くは云れねへが首を
極内證でお前に
進ませうと云ふを城富聞より大いに
喜悦夫は/\
誠に有がたう御座ると云ば非人共
而酒手は
何程位置て行のだへ
全體遣てはならぬことだが
己輩の
寸志で内證で
進るだから其ことを
能思ひなせへと云を城富聞てハイ酒代は
何程でも上ますから
首は何卒私しへ下さりませと申に
非人共夫ならば
大負にして金二分も
置つしやい城富ハイ夫は御安いこと若し/\然樣ならば何卒富右衞門の
首を御渡し
成れて下されましと
金子二分を渡しけるに非人共は受取千人
溜の方へ
行是れ/\傳助や彼の富右衞門とやらの
首を知て
居るかと聞て
馬鹿を云ねへ今日は三人昨日五人と
何が
何だか分る者か何でも
宜は金さへ取ば仔細なしだ
生首一ツ渡して
遣うと云は
脇から一人の非人が夫でも
親の
首だと云から向うにも
見知が
有う
外の首では承知しまいと云ば一人の非人
然ばさ何だと云て
相手は座頭の
坊だから
見分が有物か首さへ
遣ば
宜然樣して直に下屋敷へ葬むるで有らうから
宜はさと云に
皆々成程々々と云
乍ら首一ツ
持出してサア/\御座頭さんと渡しければ城富
是は/\
有難う御座りますと
押戴きわつとばかりに
泣出せしが變り果たる此有樣
嘸や御無念で御座りませう
然ながら
前世の
因縁と
思召し假令私の眼が見えねばとて長い
中には人間の一
念眞事の人殺しを
搜索出して
修羅の
靈魂を
慰さめん南無阿彌陀佛/\と
首を
抱きしめ
暫く涙に
暮れ居たり夫より
回向院の下屋敷を聞しに直に
側なる故尋ね
行て金子二分取出し葬り呉よと頼みけるに回向院の
[#「回向院の」は底本では「同向院の」]庵主承知して
奇特なることなりと是を葬り
香華を
手向經文を讀て供養致しければ城富は
燒香をして立出
漸々其夜の
子刻過長谷川町の我が家へ歸り養母并に實母のお
峯も此節在所より來り
逗留して居ける故右の樣子を
咄せしにぞ兩人も涙を流して
悲みけるが
愁ひの中にも城富の
孝心を感じ悦び夜と共に物語りして
休みける城富も
晝の
勞れによく
寢入し夢の中に身の
丈六尺ばかりの大の
男兩眼大きく
髮髭蓬々と亂れ
最怪し氣なる有樣にて
悠々と
枕邊へ來る故夢心に城富は
吃驚しける處に彼の男城富に向ひて若し/\
御座頭樣何の
由縁もない私しを今日は御葬り下され御
回向に
預りしことの有難く御
蔭にて
未來を助かりますにより
憚かりながら是より其
報恩に御前樣の
蔭身に添て何卒御
立身出世を成るゝ樣私が永く守り上る程に然樣思召し下さるべし
返々も
嬉しや
忝けなしと云かと思へばコレ城富や/\と兩人の母に
起されにけるにぞ城富は
漸くに
眼を
覺し然すれば今のは夢にてありしやと
大汗を
拭ひながら
頓て
委細の譯を物語り扨も
不思議や今日のことを
斯夢に見ると云は
是正しく
父富右衞門殿が
夢の中に御座られたので
有うと涙と
倶に
咄し合けるが此後富右衞門の
女房は一七日
過て幸手宿へ立歸り
親類中を呼集めて後々の
相談彼是として其年もはや何時しか
暮に及びたり
明れば享保九年正月三日
竹本政太夫の方にては例年の通り
淨瑠璃の
語り
初なりとて
門弟中打集まり一
入賑々しく
人出入も多かりける其頃西の丸の老中
安藤對馬守殿の家來に
味岡勇右衞門と云ふ
仁ありしが政太夫を
贔屓になし今日も忍びにて語り
初を
聽んと參られけるが此人より土産として金千
疋三味線彈の友次郎へも金五百
疋又政太夫の
女房へは
縞縮緬一疋を
贈られ今日の第一番客なり
扨夕申刻頃より
[#「申刻頃より」は底本では「刻申頃より」]して
立代り入代り語り
初をなす
淨瑠璃の
數々門弟は今日を
晴と見臺に向ひて
大汗を
流し
素人連中にも
上手の人々は我も/\と
聲自慢もあれば又
節自慢もあり最も
賑はふ其が中に今宵城富は
國姓爺合戰鴫と
蛤の
段を語りけるに
生得美音の事なれば
座中鳴を鎭めて
聽居たりしが
今語り
終りし時一同に
咄と
譽る聲
家内に
響て聞えけり此折しも第一の客なる彼の味岡勇右衞門は
如何致しけんウンと云て
持病の
癪氣に
差込れ齒を
噛しめしかば上を下へとの大騷ぎとなり
幸ひ城富は
鍼治に
妙を得たる故
直樣療治を致させしに
胸先より
小腹の邊りへ一二
鍼打や
否や立所に全快致しけり勇右衞門は
持病ゆゑ
寒暖に付て
發る時は急に
治まらぬ症なるに城富の
鍼治にて早速
快氣なりける故大いに喜び紙に
包て金二百疋をさし出し城富に遣はして此後折々我が
屋敷へも參るべしとて
厚く
禮を
述ければ是よりして
味岡の方へも出入をなせしが
鍼術に於ては大いに
妙を得しとて
彼方此方に
重寶がられ其後味岡の
手引にて所々方々と出入も
殖たりしが味岡は大岡殿と
内縁あれば或日味岡勇右衞門は大岡殿へ出でし所越前守殿
顏色宜しからず持病の
癪氣の由申されければ勇右衞門
然らば
其には誠に奇妙なる
鍼醫師是あり私し儀も至つて
癪持にて難儀仕つりし處
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、344-10]渠が
鍼治にて全快いたし其後
暫時發り申さず實に上手なる由申述ける故越前守殿
此由を
聞れ夫は
近頃忝けなし早速に
呼寄せ療治すべし其者は何所に居やと尋ねらるゝに勇右衞門
其者儀は長谷川町に
罷り
在名は城富と申して至つて
鍼に
功者に候と申けるにぞ越前守殿早々用人の
山本新左衞門を
召れ城富を呼寄せ
療治致させ
度由申されければ新左衞門は
畏まりて次へ下り早々
手紙を認めて
中間に持せ遣しける斯くて使ひの者は長谷川町なる城富の
宅へ
行て
状箱を差出し南町奉行所の大岡越前守方より
來りし由を申入けるにぞ城富は大いに
驚き
養母に見せ何事ならんか
家主へも屆けんと思ひつれ
共今日は
留守の由ゆゑ如何はせんと
先養母に
状箱を
披かせ見れば手紙一通有り養母も
不審とは思へ共城富の
名宛故披き見ても宜しかるべしと
封を
押開きて見るに
以手紙申入候未だ
不得御意候得共
其許之鍼術聞及候に付申入候此度
旦那儀癪氣にて甚だ難儀
被致候に付療治請られ
度候間
乍御苦勞[#「乍御苦勞」は底本では「乍御苦勞」]今日中に御出被下度
尤も
拙者宅迄御入來に預り度候
餘者其
節萬端可申述候以上
大岡越前守内
城富殿
右の通り
認めて有りければ城富も
老母も
先々安心なりとて委細畏まり奉つり候と
返事を養母に認め
貰ひて使の者を返しける
扨も城富は
手引の者を連て其日
晝過に大岡殿の
邸へ參り山本新左衞門の
宅へ參上の由申入ければ新左衞門同道して
奧へ
罷り出しに大岡殿はナニ城富か
近う/\
早く來りしよとのことに城富は
平伏して
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、345-8]らず御召に預り有り難き仕合なり
然ながら御前樣には
如何遊され候やと申ければ越前殿
然ば
癪氣にて四花の邊より
小腹へかけきり/\と
差込で食事も進まず兎角に
鬱でならぬが其方の
噂を味岡勇右衞門の
咄しに依て承知致し呼に遣したり
太儀ながら
療治を
頼むと云るゝにぞ城富
不調法の私し御召に預りまして有難く候と云つゝ
側へ
摺寄療治に掛りしに
素より鍼術に妙を得しことゆゑ
癪氣も速かに
治りければ大岡殿には悦ばれ成程
妙に
好心持に成しと申されるに城富は先々御
休息を
遊ばされよと申て自分も
休み居たりけるに大岡殿は
寢返りて此方を見られコレ城富
幸手の
實母は
息才で居かとの尋ねに城富はハツと
首を下げ有難き仕合せ何も替りましたる儀も御座りませんと
答れば大岡殿其方が
親父富右衞門は扨て/\
不便なることぢやが汝ぢが
孝行では富右衞門も
頓て
蘇生するで
有うぞと申されしに城富は
不思議のことを云るゝとは思へども一
向其意を得ざれば夫は
有難う御座りますが今は
早相果ました親父が再び生ますと申す道理が御座いませうかと云つゝ涙を
泣然と
落せしにぞ大岡殿
然ば死したる者の
蘇生する所以は
無れ共是城富
其方は彼の
生田源内の物語りと云ふ草紙が有が聞たことは
無か城富一向に承まはりしことは御座りませぬ大岡殿其
生田源内と云ふ者は
無實の罪を受て
攝州大坂にて御仕置に行はれしが此源内の娘に
豐と云ふ大孝行の者が有て
父源内が入牢せし中
讃州の
金毘羅權現へ
誓ひを
立我が一命を
神へ
捧げて父の無實の罪に
代らんことを一
心不亂に
祈りしに今日は
早源内の罪
極り御仕置と聞し故娘の豐は其日
父の引れ
行し御仕置場へ行て見るに終に
仇し
野の
露と
消果しゆゑ
泣々も其所を立去り我が家へ歸り
神へ
祈りしことも
贅とも成しとて夫より
只管菩提を
吊らはんと
[#「吊らはんと」はママ]思ひ
樒を供へ香を
燒て只々一途に後生を願うて
居所に其夜
丑刻頃と思ふ折しも表の戸をとん/\と
叩く故是は何者なるやと
門の戸を明て見るに今迄も
慕ひ
悲しみ居たる父源内立歸りければ娘の豐は
夢現つかと思ひながらも大いに悦びことの
仔細を尋ぬるに源内は先内に入り我御仕置場にて首を切れしときハツと
思ひしばかりにて
其後は何も知ず
頓て氣が付て其
邊を見廻しけるに首は
落ず何事も無
健全息災なり依て我が家へ立歸りしぞと
物語りしかば娘は
嬉く是全く
金毘羅樣の御
利益ならんと早々
嗽ひ
手水にて身を
清めて金毘羅の掛物を取出し
伏拜みけるに金毘羅の
金の一字は切放れて
血汐滴り有ければ親子の者は一同にハツとひれ
伏有難し/\とて
感涙を流しけるが其中に罪人の本人が出て源内は長壽を
保ちしと云事あり是等は即ち
理外の物語りにて
天地の間に不思議の有しことは
擧て
算へ難し切れて助かる道理は無しと雖も世界の不思議
神佛の利益は無にも非ず
然れば其方の父富右衞門も
蘇生いたす
間じき者でも無い
隨分神佛を
頼み奉つりて
信心を致すべしとの物語り有りければ城富は有難う
存じ奉つりますと
正直者故に萬一大岡殿の申さるゝ通り親が
蘇生でもすることかと思うて心の中に
樂み神佛を信心して
養母を大切に致し
暮しける是よりは猶
鍼の療治も日々に
繁昌して諸家へも
呼れ大岡殿へも時々療治に上りけるに其度々々に越前守殿にも
力を
添て下され有難き
詞を掛られけるとぞ此元は皆全く師の竹本政太夫のお
蔭なりとて
猶更是をも大切にして兩人の
母へ孝行を
盡しけるこそ
殊勝なれ
却て
説畔倉重四郎は
小篠堤にて穀屋平兵衞を
殺害し百兩の金子を奪ひ取り其上富右衞門に罪を負せ事
落着して富右衞門は御
仕置に
行はれけるにぞ我が
奸計の
好機と行しを
悦び三五郎へも百兩の中三十兩を
分て遣はし
何喰ぬ顏をして居たりける
爰に
又慈恩寺村にて
大博奕の
土場が出來鴻の巣なる鎌倉屋金兵衞と云ふ
名稱の
博奕打が來りて大いに
卻含金兵衞は五百兩ばかり
勝し折柄自分の村方に
急用出來せしにより
急ぎ
歸村せよと飛脚の來りける故
仲間に
斯と
告て
振舞などをなしつゝ急ぎの用なればとて一
同へ
暇を告て子分なる水戸
浪人八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人に
跡を
取片付させ自分は
急ぎのこと
故一足先へ出立して
後より
追つくべしと申聞け日の暮頃
慈恩寺村を立出けるが時しも
享保八年七月十六日にて
盂蘭盆のことなれば村々にては
酒宴を催せしもあり又
男女打交りて
踊るもあり
最賑しけれども金兵衞は
急ぎの用なれば
却て之を面倒に思ひつゝ足に
任せて
歩行ける此金兵衞の
行裝は
辨慶縞の越後縮の
帷子に
銀拵への大脇差し落し差に差て
菅笠深く
打冠り鷲の宮迄來りける
爰に畔倉重四郎は此頃
續く不仕合に
勝負の資本薄ければ
忽然惡心發し鴻の巣の金兵衞が大いに
勝て
在所へ立歸るを幸ひ
奴を殺し
彼者が勝し五百兩の金を奪ひ取んと心
懸先へ廻つて
鷲の宮の
杉林に身を
隱し金兵衞の來るを今や
遲しと待懸たり金兵衞は
斯るべしとは
夢にも知ず
慈恩寺村にて打勝し五百兩を
懷中し
小歌を
唄ひながら
悠々と
大宮村へと行ける
折から畔倉は少し
遣過しつゝ
窺ひ
寄て後より
大袈裟掛に切付れば
流石の金兵衞も
手練の一刀に
堪り得ずアツと一
聲叫びし
儘二ツに成て
果たりけり重四郎は
呵々と打笑ひ仕て
遣たりと云ながら刀の
血を金兵衞の
帷子にて
押拭ひ
胴卷の五百兩を何の手も無く奪ひ取り懷中せんとする
折から
後より
人聲がする故に重四郎は
振返り彼は定めし
子分の
奴等何も恐るゝにはあらねども
水戸浪人奴は
些手強き
奴見付られては
面倒也早々此場を立去んとて雲を霞と駈出しける扨又金兵衞の子分八田
掃部練馬藤兵衞
三加尻茂助の三人は
跡を片付大宮にて親分に追付んと鷲の宮なる杉林へ
來懸りしが
死骸に
躓づき是は何者なるやと能々見るに
親分金兵衞の死骸なれば藤兵衞は大いに驚き先生々々
爰に親分が
切れてと
聞より掃部も
駈寄て能見れば正敷金兵衞の死骸なり
南無さん何者の
仕業ならんと三人は
切齒をなして
憤ほれ共如何とも
詮方なければ
頓て懷中を改め
見に是は如何に五百兩の
金は無く
偖は
盜賊の
所業ならんと
近傍を見れば扇子一本
落てあり藤兵衞手に取あげ
能々見るに
鐵扇にて親骨に
杉田三五郎と
彫付有りし故掃部大いに
怒り然らば是は
幸手の三五郎が
所業に
違無し今西の方へ
駈出して
行人影を見しが
慥に三五郎奴成らんと三人
等しく此方の
土手へ
駈よりて見れば二三町
隔て西の村を
差て
迯行者あり掃部は彌々
彼奴に相違無し
是々藤兵衞
飛脚を立て
家へ此ことを知らせて
遣れ己は
直に茂助と共に三五郎を討取んと云ふに藤兵衞
聞て先生私しも一所に
行んと申を
否々夫では親分の死骸を
無宿にされては成らぬ是非々々
手前は此場の
始末をして呉れろと
云棄て
追駈行く此掃部と云ふ者は
素より
武邊の達者殊に早足なれば一目散に
追行所に重四郎は一里餘りも
退たりしが
後より
駈來人音有り定めて子分の奴等が來る成らんと
深江村の入口に
千手院と云ふ小寺有り
住持は六十餘歳の老僧にて佛前に於て
讀經をして居る
故重四郎は是幸ひと聲を掛けモシ/\
和尚樣私しは只今
災難に
逢て追人の懸る者何卒御
慈悲を以て御
隱匿下さるべしと頼みければ老僧は是を聞て扨々夫は
嘸難儀成べし出家のことなれば何かして
救うて遣はすべし此
天井の上に
不動明王を
觀請して在り
彼れ/\見るべし彼の天井の
隅の所なりと其所へ
這入には爰の本堂より
位牌壇の後の方から這入がよいそして踏掛る所が
有夫から又天井に
切拔た
穴が有るから其所より
這入べしと最と
深切に教へけり重四郎は追詰られし事故心中如何はせんと思ふ所に
斯の如く
住持の
情け深く教へて
呉ける故大いに悦び拜々有難う御座りますと
云つゝ彼の位牌壇より
壁に有る
足溜りへ足を
踏掛け漸々として
終に天井へ昇り其跡を
板にて元の如く
差塞ぎ先是では
氣遣ひ無しと大いに
安堵なし息を
壓して隱れ居たり斯る惡人なれども未だ
命數の
盡ざる所にや僧の
情に依て危き命を助かりし事ぞ
不思議なる
扨も八田掃部は
騫直に
追懸來りしが三五郎めは
慥に此寺に
迯込だるに相違無しと御寺へ駈入眼を
配りながら住持に向ひ若し/\御
寺樣只今人を殺して
立退し者が此寺へ
駈込しを慥に見屆たり何所に居り候やお
出し下さる可しと
尋ければ住持は
聞て
其は以ての外のことながら
然樣な者は參らず定めて
門違ひに候はんと云ひつゝ
見向もせず
般若心經を
讀で居けるに
否々是へ追込しを見屆て參つたり
然れども御出家の儀なれば人を
隱まうは
道理の事なるが私し共の爲には親分の
仇敵なれば
何卒出して御渡し下さるべしと
押返して申けれども住持は
頭を左右に
振否々此方へは參り申さず來らぬ者を
匿藏べき筋も
無とさらに取合ねば掃部は
焦立某慥に見屆たることなれば斯は申なり夫にても參らぬとならば我等が
念晴しに此御寺を
家搜索致さんが此儀は御承知なりやと云ひければ
和尚は
微笑夫は御勝手次第に
家搜しでも何でも致されよと一
向平氣なり掃部然らばとて本堂を始め
位牌堂より其下の
戸棚迄がらり/\と
明放して見るに中には
古びたる
提灯や
香奠[#ルビの「かうでん」は底本では「かうでれ」]の臺など有り夫よりして
臺所部屋々々座敷の廻り次の間
茶の間
納戸雪隱は申に及ばず床下迄も殘る
隈無く尋ぬる處へ茂助も
息を切て
駈付來り兩人にて又々
彼方此方と尋ね廻り地内の鎭守稻荷堂或ひは
薪部屋物置等殘らず
搜しけれ共
影だに見えざれば掃部は
不審最此上は和尚を
捕へて詮議すべしと又々本堂へ立歸りコリヤ
和尚匿したるに相違あるまじサア早く出せ
但し又何れへ落したるや
明白に云へば
宜し云はぬに於ては此方にも
了簡が有るぞと
詰寄けれども住持は
猶自
若として只今申せし通り少しも知らぬことなり然るを
未疑ひ有らば
勝手に致さるべしと申ければ掃部は大いに
怒つてコレ坊主我等は
慥なる所を見屆て申すなり
彌々言ぬに於ては
斯すると
首筋掴んで引摺出し力に
任せて
板縁へ
摺付々々サア何だ坊主め白状しろ
何處へ
隱せしぞ但しは落したかと茂助も
諸ともに聲を
荒らげて打
据ると雖も知らぬとばかりゆゑ掃部は茂助に
繩を取て
來れと言に茂助は臺所より
荒繩を
持來りければ和尚を
高手小手に
縛り
梁へ
釣上げ
薪を以て
散々打てば和尚は眼を開きコリヤ/\
假令隱したりとて出家の
境界今更其を
明すべきや
然而一向知らぬこと此身體は素より
假の世なり殺さば殺せ勝手にしろと云を兩人は聞イヤハヤ
此奴硬情坊主めと云樣力に任せて一打
肋を打けるにウンと言て其
儘悶絶なせしかば茂助は驚き
先生苛酷ことをされたり夫では爰には居ぬに
違ひも有めへ
敵は
幸手の三五郎と知れて
居からは先々親分の死骸を葬り相手に油斷をさせ置て
不意に幸手へ
押掛三五郎を
討取工夫は
幾等も有うと言ふに掃部も成程敵は知て居上ならばマア
急事もねへが彼が兄弟分の重四郎と云ふ
奴は少し
手強ひ奴なり然し
侠氣も有奴だから親分の敵を
討と
云聞せ何か助太刀をして呉ろと頼んで
見樣若し承知すれば此方の味方
否と言ふならば
先重四郎を先へ殺して
遣うと二人相談をなし
頓て此寺を立出けり其時畔倉重四郎は彼等が相談せし樣子を天井に
潜伏て
逐一聞屆け時分は
好と天井を
飛降り和尚を見に
釣し上られた
儘死したる體ゆゑ重四郎も
流石氣の毒に思ひハヽア僧主は僧主
丈正直な者然し
打殺さるゝ迄云ぬと言ふは武士にも
優た丈夫な
精神天晴々々感心した然し彼の掃部めは三五郎が殺したと心得しは
鐵扇を三五郎から
借て來て死人の
側へ
落した故彼等が三五郎と思ひしなり是で
好々と
獨り言を云つゝ臺所へ到りアヽ
腹が
減た何ぞないかと
其所らを
探し何か戸棚より取出して
飯櫃を
引寄十分に
食終り夫より
悠然と幸手宿へ立歸り此由を三五郎に
咄し密かに
喋し合せ彼等の子分が金兵衞の
敵と
狙ひ來る時は
斯樣々々と
手配を成して用心
堅固に居たりけり
時に
文月廿八日の
入相頃金兵衞の子分八田掃部三加尻茂助練馬藤兵衞等三人
打連立て畔倉重四郎が
宅へ入來り先生は御宅かと聲を
懸れば重四郎はイヤ來たなとは思へども
何喰ぬ顏にて是は/\
珍らしく御揃ひで
能こそ御入來
忝けなしと
挨拶なすに
頓て掃部は聲を
潜め早速ながら先生へ
折入て御頼み申度事あつて參上致したりと云ば重四郎
其はまた何事かは知らねども
改まりし其御詞
日來よりの懇意と申し貴殿も武士我等も武士の
端くれ見掛て御頼みと
有ば否とは申さぬシテ何事で御座ると問に掃部イヤ外の事でも御座らぬが我々の
親分鎌倉屋金兵衞事
桶川宿鷲の宮に於て殺され其上に五百兩と云ふ
金子を
取れしと云も
終ぬに重四郎
成程金兵衞親方が殺されたと云
噂は聞たれ共人の云事
故實正とも思はざりしが夫なら
彌々人手に
罹られしか
而敵は知しかと聞に掃部
然ば其事に付貴殿へ
助太刀を御頼み申
度何分御
加勢下さるべしと
云にぞ重四郎然らば我等を男一
疋と
見込で御頼みと有ことなれば何の
否とは申まじ
而々其敵と
言は何者なるやと申せば掃部はまだ
危ぶみイヤ其事なり
先の相手に
依ては御
差合も御座らうと
存ずるゆゑ
確乎した御詞を承知致さぬ
中は
些と敵の名前は申されぬ
善惡共御承知下されたる言御
挨拶の上御話申べしと
言に重四郎成程御
道理の儀武士たる者は義を見て
爲ざるは
勇無きなりと云詞を
尊ぶ
拙者を見込で御頼みとあれば
假令親兄弟たりとも義に依ては
急度助太刀致すべしと言へば掃部は聞て
偖々頼母しき御
心底感じ入たり
然樣御座らば何を隱し申べきや其敵と
言は貴殿の兄弟同樣に
成るゝ三五郎なりと聞重四郎驚きし
體にて
而其三五郎を敵と申さるゝは何ぞ
慥な證據有ての儀で御座るかと
問に掃部
然ばとよ
日外慈恩寺村へ金兵衞が出し所在所より
急に歸るべしとの
使が來り其時我々は
跡へ
殘り何や
彼や
取片付親分は先へ
戻りし其
晩鷲の宮にて切殺されたる其跡へ我等三人參り合せて見る處に
死骸の
近傍に落て有しは是なり此
鐵扇を取上て見れば
牡丹の繪に
裏には詩を
書て有り又此通り
親骨に杉田三五郎と記してあれば全く敵は三五郎に
相違無し是に
依て先生に助太刀を御頼み申て討取度存ぜし所なり何卒御頼み申と云へば重四郎如何さま
然樣のことに御座れば全く三五郎の
所爲成ん併しながら是迄
別懇に致せし三五郎なれ共一旦頼まれし上からは
跡へは引ぬ重四郎如何にも承知致したりと申に掃部は
打喜び
斯有んと見込で我々が御頼み申せし上からは
早急ながら是より
直樣三五郎の宅へ御同道下さるべしと立上るを重四郎
先暫らくと
押止め必ず早まり給ふな親分の
敵は三五郎と知たる上其は
宜敷時刻を計つて
討洩さぬ樣に致すが
肝要なり殊に
今宵三五郎は宅に
居ず
然れば
仕懸て
行共其詮無しと云ふにぞ掃部是を聞て然らば
何れへ參りしや其
行先を御存じなるか重四郎
然ば
今晩は
元栗橋の
燒場隱亡彌十の處に於て長半が出來ると云により
夕申刻頃から行べしと
拙者をも
誘ひしか共少し外に用事も有し故三五郎ばかり先へ
遣はし置たり然れば是
得難き
時節なりと云ふに三人の者是を聞て大に
歡び何卒
能手段を以て三五郎を
討取樣偏へに御頼み申なりと重四郎の意に
隨ひければ
然ば是より案内致すべし
彼隱亡彌十が方へ到りて三五郎を
呼出し置て其時
拙者も助太刀致し
首尾能敵を討せ申べしと重四郎は
眞實しやかに言ければ掃部を始め茂助藤兵衞等
頻りと打悦び
何分宜敷御頼み申なりとて是より
皆々食事など致し十分其支度に掛りける
扨又三五郎は
豫て重四郎よりの
談話もあれば金兵衞が子分等
扇子を證據となし
敵と
覘ふは必定なりと思ひ日頃より用心
堅固にして身を
戒愼居たりしが此日重四郎に
用事有て
隣家迄
來掛りし所重四郎が
宅にて
囂々と人聲なすゆゑ何事やらんと
竊かに身を
潜め内の樣子を
窺ひけるに金兵衞が子分共三五郎を敵と
覘ひて元栗橋へ出掛る相談なりしかば三五郎
扨は重四郎が彼三人の
奴等を引出し
利根川通りにて殺す
了簡なりと
悟り獨り
點頭つゝ
好々先へ
廻りて助太刀をして
遣んと
尻引縛げ
強刀物を落し
差になし
頬冠り深く顏を
隱し
利根川堤を
指て
急ぎけり
然程に畔倉重四郎は鎌倉屋金兵衞の
子分八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人を
伴ひ我が
家を出て
元栗橋へと急ぎ行く程なく
來掛る利根川堤
早瀬の
波は
水柵に打寄せ
蛇籠を洗ふ
水音滔々として其の夜は
殊に一
天俄かに
掻曇り
宛然墨を
流すに似て
礫の如き
雨はばら/\と降來る
折柄三更を
報る
遠寺の
鐘ガウ/\と
響き渡り
最凄然く思はるればさしも
強氣の者共も
小氣味惡々足に
任せて
歩行中青き火の光り見えければ
彼こそ
燒場の
火影ならんと掃部は先に立て行程に
早隱亡小屋に
近接折柄道の
此方なる
小笹の
冠りし
石塔の
蔭より一刀
閃りと引拔
稻妻の如く掃部が向う
脛をずんと
切落せば掃部は
堪らず
尻居に
動と
倒れつゝヤア
殘念や
恨めしや
欺し討とは
卑怯未練是重四郎殿何者か我が
足を切りたるぞ
疾く
捕へ給はれと云ふ間あらせず重四郎は心得たりと一
刀閃りと拔より早く
練馬藤兵衞を
後背よりばつさり
袈裟掛に切放しければ是を見るより三加尻茂助は
飛退り
汝れ重四郎助太刀の
案内すると
僞りて此所へ我々を引出し
欺し
討は
卑怯至極なり其儀ならばと一刀引拔討て掛るを重四郎心得たりと身を
反し二
打三
打打合しが
隙を見合せ一
聲叫んで肩先より乳の下まで一刀に切放せば茂助はウンとばかりに
其儘死たる處へ以前の
曲者石塔の
蔭より
現れ出るを掃部は
倒れながら下より
横に
拂ふにさしつたりと
飛違ひ掃部の
利腕切落し二の太刀を
脾腹へ
突込ぐつと一
剌りゑぐりし時重四郎は
荼比所の
火影に
顏見逢せヤア三五郎か重四郎殿
好機參つて
重疊々々扨此樣子は
先刻用事有て貴殿の宅へ參りし所何か人聲がする故樣子有んと
窺へば金兵衞が
子分共我を
敵と
覘ひ
討んとて先生と
同道なし
元栗橋へ
行んとの
相談最中は全く
其奴等三人を
土手迄引出し
殺して仕舞ふ
計略ならんと悟りし故助太刀せんと先へ
廻り此處にて待伏したればこそ
此始末と
語るを聞て重四郎
成程々々好氣味なり然し此
儘斯しても置れまいと兩人
呟き居る折から此物音に驚きて
隱亡彌十
髭蓬々と
髮振亂し手には
鴈投火箸を以て出で來れば重四郎は見て其所へ
來るのは彌十か是は重四郎樣と云ふ時
手招ぎして畔倉
聲を
密めコレ彌十今手に掛けし此奴等は
皆宿無しなれど
此死骸が有ては兎角後が
面倒なり何と
此奴等を
燒き
引導を渡して
呉ろと云ふに彌十聞て
日來の
懇意に
任せ承知はしましたが
燒代は
何してと言を重四郎知れたこと夫三兩と投出せば彌十は其
金請取つゝ大いに
喜び
然ればすつぽり
燒ませうと申にぞ兩人は夫なら彌十頼んだぞ彌十
御案事なされますなと三人の
死骸を
集めて火屋へ
入火を
懸ければ重四郎は三五郎を
同道して立歸り此ほど
奪ひ取し金子の中百兩を三五郎に
分配て
遣殘りの四百兩を
懷中なし是迄の所に居るは
心惡し一先上方へ
立越て何處へか身を
落付んと思ひ
近處近傍へは古郷なる
筑後久留米へ赴くと
云なしてぞ立出ける
扨も重四郎は
幸手を立出で一先江戸表へ來りて
處々を
見物なさんと十五六日も
逗留して上野淺草吉原兩國芝増上寺
其外處々を
見歩行或日
[#「或日」は底本では「政日」]又本町通りを
彼方此方と見物して來かゝる處に
髮結床の前にて往來の人が
立噺しをなし居たるを何ごころなく聞に一人の男コレ彌兵衞さん然樣ならば今日は御立で御座るかと云ば彌兵衞ハイ
此度は私しが
立番で御座い升
最早今夜
子刻には出立なれど
丑刻頃には成ませうと言に
彼の
男夫は/\御苦勞
若々彌兵衞さん此節は道中で
油斷を
成るゝな
跡月も遠州屋と山田屋の
飛脚が
切れたと申すこと
御如才は有まじけれど
隨分御用心が
肝要で御座ると心付れば彌兵衞ハイ
有難う御座い升私し
共などは
誠に
御方便と只今迄は何事にも
出會ませんと申を彼の男
夫は
結構なこと
隨分御達者で御歸り
成れましハイ
然樣ならばと
別れ
行を重四郎は
振返り見れば
胸當をして
股引脚絆腰には三度
笠を附
大莨袋を
提げたるは如何にも金飛脚と見えけるゆゑ
後より見え
隱れに附け行て
見屆たるに瀬戸物町十七屋孫兵衞と云ふ
飛脚屋へ
這入けるが今日が
立日にて
店先に手代共
居双び帳面など認めし
此方には大勢の若い者
荷拵へを成し馬は外に
繋いで有る樣子なり重四郎是を見て此者が
金飛脚にて今夜
子刻過丑刻頃には立つと云ふ
噺しなれば
曉寅刻過には鈴ヶ森へ懸るは必定なり
毒を
喰はゞ
皿迄と云ば今宵彼を
殺害して金を奪ひ取り
行掛の
駄賃にして
呉んと獨り
笑壺に
入相の
鐘諸ともに江戸を
立出で品川宿の相摸屋へ上り
飮や
唄へとざんざめきしが
一寸と
床に入り
子刻の
鐘を
相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、354-13]に相摸屋を立ち出で
半醉機嫌に
鮫洲濱の
繩手道を
辿り/\て鈴ヶ森に來り
並木の
陰に身を忍ばせ彼の飛脚の
來を
疾や
遲しと待居たり然るに
曉寅刻頃とも思ふ頃
遙かに聞ゆる
驛路の
鈴の
音馬士唄の
聲高々と來掛る
挑灯を
透し見れば彼の
十七屋の
[#「十七屋の」は底本では「十七家の」]の飛脚に相違なし
因て重四郎は得たりと
尻引からげて待つほどに
定飛脚と
書たりし小田原挑灯を
荷物の
小口へ
縊付け三度
笠を
冠りて馬に
乘つゝ是々
馬士どの今夜は何だか
淋い樣だ
何日は
最う
[#「最う」は底本では「最も」]寅刻頃には
徐々人の
往來も有のに鮫洲から
爰迄來中に一人も逢ぬ
扨々淋しいことだぜ
馬士アイサ此節は人通りが
少無なつて否はや一
向に
不景氣なことさ品川歸りも通らねえ
隨分氣を附て道中を
成れましと
噺しながらに行所を
此所の
松陰より
忽然と出たる畔倉重四郎ものをも云ず
馬の
上なる飛脚の
片足をばつさりと
切付たり飛脚はアツと馬より
轉げ落るを二の
刀にて
苦もなく
切殺しけるにぞ
馬士は大きに驚き
仰天して人殺し/\と
云ながら一目散に
迯出すを重四郎
汝れ
遁しては後日の
妨げと
飛掛つて
後背より
眞二ツに
切下れば
馬士は
撞と
倒るゝ處を
止めの一刀を
刺貫し
脆い奴だと重四郎は彼の
荷物を
斷落して
荷の
中より四五百兩の金子を奪ひ取つゝ
其儘此所を
悠然と立去り
頓て
旅支度をして相摸路より甲州へ
到り是より所々方々と
遊歴なし
種々樣々樂しみ居たりける
扨も翌日所の
者共此
體を見出し大いに驚きて
飛脚と
馬士の殺されたる
趣きを早々鈴ヶ森の
村役人へ屆けければ村役人は其段訴へ出で
早速檢使の役人出張ありて改め等
相濟み飛脚の
死骸は十七屋孫兵衞方へ
引渡しと相成けるとぞ其の
昔し
延文康安の頃伊勢の
國司長野の城主
仁木右京大夫義長は
己れが
擅横に太神宮の
御神領迄を
押領しければ神主等大いに怒りて此段を訴へ其上
尚も義長を
恨みて神罰を
蒙らせんものをと思ひ居たり然るに義長は我が
儘増長し
五十鈴川を
止て魚類を取り又は
神路山に
分入て
鷹を
放し
遊興は日頃に十
倍仕たりける是に依て
神主共五百餘人
集會榊の枝に四手を切
掛て種々と義長の
惡逆を申立て彼を
蹴殺し給ふべしと
呪咀しけるに七日目の
明方十歳ばかりの
童子に
神乘遷り給ひ
聲荒らげ我が
本覺眞如の都を出で
和光同塵の
跡を垂しより
已來本尊現化の秋の月は
照さずと云所も無く
眷屬結縁の春の
花薫ずと云ふ袖も
無し
方便の
門には罪有る者を
罰し
難く
抑々義長の
品行を
汝等天に訴へ祈り
呪咀すること
道理なれども彼が三世の
其以前は義長こと法師にて五部の大藏經を
書寫し此國を治めたり
其の
善根今生に
報い來て當國を知行することを得る因て
暫く其罪を
宥し置者なりと御
詫宣有けるとかや
然ば此畔倉重四郎も則ち是等の
道理に有んか前世の
因縁も有しことなるか
併しながら是も
只暫の
中斯る大惡不道も天の
免しを蒙りて
其身安泰なれ共何ぞ其罪の
報はざらんや
後々を見て恐るべし/\
扨も畔倉重四郎は
十七屋の飛脚を殺して大金を
奪ひ取り夫より所々を遊歴なし
東海道藤澤宿の松屋文右衞門と云ふ
旅籠屋へ來り二三日
逗留しけるが
退屈の由にて或日藝妓二三人に松屋の若者又は近所の
者共などを多く
引連て江の島へ
參詣し其歸りに島の茶屋にて
酒宴を始めけるが又
隣座敷に是も江の島へ
參詣と見えて藝妓二三人を
引連陽氣に酒を
呑居たるに重四郎が
同道したる者皆々
心安き
體にて彼是聲など懸合ふ
故樣子を聞ば藤澤第一番の
旅籠屋にて大津屋の
後家お
勇と云者なりとのことに重四郎は彼お勇を
能々見ば
歳は
三十歳を二ツ三ツ
越中脊中肉にして
色白く
眼鼻立揃ひし美人ながら髮の毛の少し
薄きは
商賣上りの者と
見つ
然れ
共本甲の
櫛笄を
差銀の
簪に付たる
珊瑚珠等いづれも金目の物なり衣類は
藍微塵の
結城を二枚
重ね
唐繻子の
丸帶をしどけなく
結び
白縮緬の
長繻袢を着せし
姿天晴富豪の
後家と見えければ重四郎
亦々惡心を生じ幸い後家と有からは
何卒手に
入れて
暫時足休めに致したしと思ひ夫より言葉を掛け
頓て一座と成て
酒宴の
中後家に心有り
氣なる
面白可笑き
盃盞ことに後家のお勇も
如才なき
人物故重四郎が樣子を
熟々見るに年はまだ三十歳を
越ぬと見え
丈高く
面體柔和にて
眉毛濃く
鼻筋通りて
齒並び
揃ひ
否みなき天晴の美男にして
婦人の
好風俗なり衣類は
黒七子の小袖に
橘の
紋所を
付同じ
羽折を
着持物等に至る迄
風雅でも
無意氣でも
[#「意氣でも」は底本では「意氣何でも」]無く
何やら金の有さうな
浪人とお
勇は大いに重四郎に
惚込しが翌日は上の宮へ
參詣なし
額堂にて重四郎はお勇と
只兩人
差向ひの
折柄お勇は
煙草を
吸付差出しながらモシ重さん
此程は
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、356-14]した御縁で御心安く成ましたところ明日は
妾しも
宿へ
戻りますが御前さんは是から
何邊へ御
越成れますと云ば重四郎笑ひながら
然ば
何所の誰や我を待らんとか申せば
何れへ落
付かば我ながらも知ぬ
浮世定めなき浪人の風に
任せて居る
身體で御座ると云を聞きお勇
否々夫は
眞實とも存じませんが若御
詞のやうなら
却つて御
羨ましく存じます女の身にては見たき處が有ても見られもせず
然ながら御
前樣には
最早三十に近き御
年頃に見上ますが御住居をお定め成れたなら
憚ながら
宜敷御座りませうと云に重四郎
然ばで御座る
世間を渡り
歩行も
倦果たれども差當り未だ
有縁の地もないと見えて
斯歩行ます
何卒五十か七十の
敷金でも致して
何樣な所でも身を
固め
度思ひますから
好入夫の口でも有ましたなら御世話を御頼み申ますと云にぞお勇は
否最お
前さんの樣な御人柄と云
殊に金の五六十兩御持參と有ば世間に
欲がる所は
降程御座ります
併し定めて
器量の御望み
小野の
小町か
衣通姫の
[#「衣通姫の」は底本では「通衣姫の」]樣な手
入ずの娘をお
持成らうと云
思召し成んと云ければ重四郎は
否々その樣にお
嬲り成るゝな我等如き
浪人者誰が
聟に取ませう
何樣な所でも先で
入てさへ
呉れば夫に
厭は御座らぬと云にお勇
然樣成ば女は
何でも
宜と仰しやいますか夫成ば只今一
軒御座ります其家は
間口十三間
奧行二十五間田地は十石三
斗の
御年貢を
納てその
跡が八十四五
俵程も取入ます
大凡家邸五百兩諸道具が三百兩餘り
抱への遊女が十四五人是を
捨賣にしても六七百兩
位都合千五百兩餘の身代で御座りますと
聞て重四郎夫は
大層なこと
勿々然樣な處では先が不承知でと半分云はずお勇は
否々縁と云者は
然樣致した者では御座りません然し
御内儀さんに
成んと云ふ人が
歳を取ても卅二歳
少々婆々過ますけれども其代り
姑も
厄介も子供も
無内は其女獨りにて若
御内儀さんに成ならば其こそ/\
貞女で
御亭主を大切に致して
至極宜敷御ざいますと申ければ重四郎
夫は
餘りと申せば
能過ます私し
風情と云にお勇
否々然樣では御座りません御承知なれば
御世話致しませう先でも金子の望みは
無れ共
旅の御方は
尻が
輕いに
依て
其故で
先方は
氣遣に思ひますから金子を掛て
振舞でも致すやうに
爲たく夫に付金の五六十兩も持參で御
出成るなら
速かに御相談が出來ますと云ひながら
目顏で夫れと知らする
體を
故意と重四郎は氣の付ぬ
體にて夫は願つても無い
僥倖然いふ口なら金の百兩
位は
何ともして
才覺致します
何と御世話を御頼み申すと云にぞお勇は
彌々機にのり
然樣ならば
先方へ
咄してウンと云時は御
變替は
成ません
其所を御承知で御座りますかと
念を
押ば重四郎何が扨武士に二
言は御座りませんと云ふにぞお勇は
然を
聞てオヽ
嬉しや申し重四郎樣と云ながら
直と身を
寄其縁談は
彼の大津屋段右衞門の
後家にて
縁女はお
恥しながらと
口籠り顏を赤らめしが思ひ切て
妾で御座ります
然樣御
聞成れたら
嘸御
否で御座りませうと云つゝ
邪視に見やりたる其
艷色さにナニ夫が
眞實なら
何して/\此重四郎が身に取ては實に
本望なりと云ふ
時人來りければ二人は
素知らぬ
體にて
左右へ
分れ其
後藤澤へ歸りてより
猶お勇と
相談の
上小松屋文右衞門は幸いに
縁家なれば親分に頼んでも定めて
否とは云ふまじと爰に於て
内談極りければ重四郎は小松屋文右衞門を親分にして
後家お勇の方へ
入夫に
這入名を大津屋段右衞門と改めて
先暫くは落付けり
斯て又
幸手宿なる杉田三五郎は重四郎と共に金兵衞の
子分八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人を
利根川邊にて殺し重四郎が幸手宿を
立退金兵衞より奪ひ取りし金の
中百兩を
分前を
貰ひしが
惡金身に付ずとの
諺の如く其金は
皆博奕に取られて
仕舞今は
寢酒だにも
呑事ならず此頃は
猶打續く
不仕合せにて
[#「不仕合せにて」は底本では「不仕合にせて」]一錢の
資本にも
差支へしかば胸に手を置て考へしが忽ちに一
計を思ひ付
獨り心の
中に
喜悦つゝ彼の畔倉重四郎は今藤澤宿にて
大津屋と云ふ
旅籠屋へ
入夫に
成改名して段右衞門と申す由を
聞し事あれば
先彼の方へ
行て金を
無心する時は
舊惡を知たる我ゆゑ
退引成ず四五十兩位の金を
貸に
違ひ無しと
目的をつけ夫より藤澤宿を
指て立ち出でたり然るに重四郎の段右衞門は
暫くの
足休めと思ひの
外見世の
繁昌大分ならず何不足も無き身分と成しかば一
生涯此家にて我は終らんと其後は惡事も
成ず暮しけるが或日
表の方より來りて旦那は御家にかと
問者あるを聞て段右衞門は是を
見に
幸手宿の三五郎なりしかば是は
珍らしや
先此方へとて奧の座敷へ通し女房お勇にも我等が
浪人致し居し頃
種々世話に成し人なりと
僞り
酒肴等を
前揃へて
[#「取揃へて」は底本では「前揃へて」]三五郎を
厚く
饗應ける然るに三五郎は家の樣子を
能々見るに殊の
外大掛りなりしかば心中大に悦び段右衞門に向かひて我等此節は
不仕合せにて諸事に
運惡く
資本まで
負失ひたり因て此藤澤宿迄
故意無心に來しなり又我等が
仕合好ば
返濟すべき
間暫時の
中金子五十兩
貸給はれと申ければ段右衞門も大事を知たる三五郎のことゆゑ
否とも
云れず
早速五十兩の金子を取出して
返濟には及ばずと渡し
先々寛りと
滯留致されよ我等も此家の入夫に
這入しより
以來堅氣と
成しが其前幸手を立退て江戸に
滯留中鈴が森にて
十七屋の金飛脚を殺し金子五百兩
奪ひ取しが惡事の
仕納めなりと咄しければ三五郎聞て
眉をひそめ夫は
博奕打や盜賊を殺して
取金は同じ罪でも罪は
輕し唯の者を殺したるは
眞の
大罪なり因て始終は其身
刀の
刄くずに懸らん
貴殿も
堅氣の
商人に
成れし上は此後必ず惡事を
爲給ふことなかれと云ながら金を受取歸りしが是を無心の始めとして其後度々來りては無心を
云掛る故段右衞門も今は
呆れ
果てぞ居たりける
扨も幸手宿の三五郎は藤澤宿の大津屋方へ
度々金の無心に來りし故に
此節は段右衞門も
厭倦果て居たりしが又或時三五郎來り
我等此節不仕合打續き
殊の
外困るにより金子三十兩
貸呉よと頼みけるに段右衞門も
當惑の體にて我此家へ入夫に參りて
漸く一年ばかりなれば
勿々然樣に金子を自由には
取扱ひ難く殊に
只今手元には一兩の金も是無しと云と雖も三五郎は
遙々是迄來りしゆゑ何卒
貸し
呉よと申に段右衞門
我等今は
別に
金儲けも無れば是非もなしと
斷るを三五郎は
否々何にしても此度は
是非共貸くれよ
翌日にも
仕合が
好れば返すべしとて何分承知せざれば段右衞門も心中に思ふやう
彼奴我が身に惡事のあるを
付込度々無心に來れども
貸ぬ時は
事面倒に成べしと
思案を
爲して三五郎に向ひ
然までに
云るゝなれば
我今より品川迄用事あつて
行間先方にて
才覺致し遣すべしと
頓て
身拵へをなし
覺えの一刀差込で三五郎
諸共に我が家を出けるが川崎手前にて日の
暮るやうに
量り
道々戯れ
言など言て
手間どり名にし
逢鈴ヶ森に差掛りし頃は
稍戌過ぎにもなりければ重四郎は前後を見返りしに人影もなく
丁度往來も
途絶えしかばその邊にて殺さんと思へども
此奴も
勿々の曲者なれば
容易は
亡ひ難し
然れども幸ひ今宵は
闇にて
暗さはくらし
何にも
遣過してと思ひ
故意と腰を
屈めて
歩行ながら三五郎に向ひ我等近頃
※癪[#「やまいだれ+仙」、U+2C3E3、360-1]にて折々
難澁致すなりと申ければ三五郎聞て夫は彼の大津屋へ
入夫に
參つてより金が
溜りし故に
腰が
冷るの
成んなんど
[#ルビの「な」はママ]戯談つゝ先へ行を十分に
遣過し
後の方より物をも云ず切掛しに三五郎も
豪氣なれば
飛退さまに拔合せ汝れ重四郎め
汝ぢや惡事を知たる我なれば
欺して殺さんとは
卑怯未練の仕方なり其儀ならば是より直に
公儀に訴へ穀屋平兵衞を殺して金子百兩を
奪取り
夫而已ならず
慈恩寺村にて鎌倉屋金兵衞をも
殺害して金を取たること
迄逐一訴へ呉ん
邪魔せずと
其所を
開いて通しをれと
罵るを段右衞門は
怒り
汝れ
生して置ば我が身の仇なり覺悟をせよと切付るを三五郎は心得たりと
受流し暫時が程は戰ひしが如何で重四郎に敵するを得んや
追々太刀筋亂れ
四度路になる所を終に
眞向より
梨子割に割付られ其儘動と
倒れ二言と云ず死たりけり此時
近傍の非人小屋に
乞食共
莚を
被[#ルビの「かぶ」は底本では「かげ」]り寢て居たるが兩人の爭ふ聲を聞て恐れをなし莚を首に
纒ひ
隙より
密と戰ひを
覗き居たりしが終に一人の切殺さるゝを見て其まゝ
莚を
被り
震ひ/\居たりける段右衞門は此體を見しも一
向にことゝも
爲ず
悠然として我が家へ歸りけるが
扨此所の非人共
斯と村名主方へ達しければ村役人立合にて
檢使を願ひ
出改め見るに
何者の殺したると云ふ事一
向に知ず非人共を
呼出して
委細を尋ねし所三五郎が戰ひながらに申たる事又段右衞門が云たる事迄
逐一申立しかば其趣きを
一打書にして大岡殿の
奉行所へ差出しければ大岡殿は殺されたる者の
懷中の紙入を取寄て
其中を改められけるに
死人の宿所は幸手宿と云ふ事
知ければ
早速其所へ人を遣はし尋ねられける所三五郎と
知しにより三五郎の女房を
呼出しに相成しかば村役人ども并に三五郎妻お
文諸ともに江戸表大岡殿御
役宅へ
罷り出し
旨屆けしにより
頓て越前守殿の白洲へ
呼入られ三五郎
妻お文を見られて其方
夫三五郎は
何所へ
參ると申して何日頃宅を出しやと
尋問らるゝにお文は恐る/\
首を上げ夫三五郎儀一昨日藤澤の大津屋段右衞門
方へ參り候とて宅を
立出候と申立るに大岡殿は彼の非人が申立たる口書を
讀聞せられければ女房お
文は大いに驚き然らば夫三五郎を殺せしは大津屋段右衞門に相違御座なく候と申立る
故大岡殿は何を
證據に大津屋段右衞門と申立るや
不審至極なりとありければお文は恐れながら申
上ます
右藤澤宿大津屋段右衞門と申者は
前名畔倉重四郎と名乘
筑前の浪人にて私しの村方へ
先年中より參りて幸手宿に住居いたし
夫三五郎とは
博奕の
仲間にて
日來心安く
妾し方へも
日々立入居り候所心立宜しからぬ者にて先頃同宿の穀屋平兵衞と申す者を殺害致して
金子百兩を
[#「百両」は底本では「五百兩を」]奪取り其後又慈恩寺村にて
博奕御座候節
鴻の
巣宿の鎌倉屋金兵衞と申す者を殺して金子五百兩を
奪ひ取り候を
妾しの
夫三五郎
能存じ
居候事故其
譯を以て大津屋方へ
無心に參り候所より段右衞門も又
夫三五郎は
渠が
舊惡を存じ候故後日に
露顯ん事を恐れ殺し候儀と思はれ候
然ば甚だ
憎き
仕方なりと重四郎の段右衞門が惡事を
委細申立ければ大岡殿
篤と
聞請られ早速に
組下の同心に申付られ藤澤宿大津屋段右衞門方へ
罷り
越右段右衞門を
召捕來るべしと遣はされたり
扨又重四郎の大津屋段右衞門は
鈴ヶ
森にて三五郎を
殺害して
最早禍ひの根を
除きしと大きに悦び藤澤宿なる我が家へ歸り
何喰ぬ顏にて居たりける所に
役人中は重四郎を
召捕んと藤澤宿の
村役人を案内させ常宿内の
捕吏三次并びに子分十四五人を引連て大津屋方の表裏の口より上意々々と呼はりて
込入や
否や
双方より組付たり段右衞門は
惡事露顯と思ふものから心得たりと
筋斗打せて投つくれども
捕方の者は大勢にて取圍み殊に不意を
踏込し故に終には
折重なりて段右衞門を
高手小手に
縛め家内の者は宿役人に預けられ段右衞門は江戸表大岡殿の
白洲へぞ引れける斯くて大岡殿は重四郎の段右衞門を
引出させ大津屋段右衞門事
前名畔倉重四郎と
呼れ其方は
當月二日の
夜鈴ヶ
森にて幸手宿の三五郎と申す者を
殺害せし趣き
包まず白状致せと申されければ段右衞門
面を
正し私し儀三五郎と申す者を殺害
致したる
覺え一
向に御座なく候と申立ければ大岡殿
否々覺えの無とは
[#「無とは」は底本では「無ことは」]云せぬぞ
公儀に於て
證據のなきことを
糺さるべきやと申さるゝに段右衞門
假令如何樣の證據御座候共其儀は一向に覺え
無之候と
云張にぞ然らば汝ぢ其三五郎と申者
知人にては無やと有に段右衞門
其者は私し儀以前幸手宿に住居の
砌り
知己人には御座れ共別に
恨みもなき事ゆゑ殺すべき
謂れ更に御座なく候と申立るにより大岡殿
重ねて其三五郎
妻の
文と申者を呼出して
相尋ねし所其方儀
先達て同宿なる穀屋平兵衞と申者を
權現堂村小篠堤に於て殺害に及び金子百兩を
奪取り其後にまた慈恩寺村にて
博奕之有處に
鴻の
巣宿の鎌倉屋金兵衞と申者をば
鷲の宮にて殺害に及び金子五百兩を
奪ひ取し
趣きなり
尋常に白状致すべしと有ければ段右衞門は少しも恐るゝ
景色なく是は
重々思ひもよらぬことを御
糺問に成るもの
哉私し儀穀屋平兵衞を殺せしとの仰せなれども右平兵衞儀は
豫々世話にも
相なり
居しことゆゑ私し儀
恩をこそ報い申べきに何の
遺恨ありて
切害致さんや
[#「致さんや」は底本では「致きんや」]又鎌倉屋金兵衞とやらを切害致したる儀是以て一
向覺え御座なく候何卒私し儀
罪無きの
次第御
賢察願ひ奉つり候と申立るに越前守殿
否其儀は
猶追々吟味に及ぶ汝ぢ鈴ヶ森にて三五郎を殺せし
砌り非人共見屆たるを
彼是と
陳ずる條不屆きなり吟味中入牢申付ると
終に其日は
夫成牢内へ下られ其後越前守殿三五郎の妻を
呼出され其方
先達て申すには段右衞門儀幸手宿の
[#「幸手宿の」は底本では「幸宿手の」]穀屋平兵衞
鴻の
巣宿の鎌倉屋金兵衞を
殺害せし
趣き申立しに依て段右衞門を
召捕相糺す所一向に存ぜざる由申せり
確乎段右衞門が
仕業に
相違無やと
猶又糺問有ければ其儀少も相違御座なく
希くは
妾し事段右衞門に對面
仰せ付けられ
下さる樣にと願ひければ大岡殿其趣きなれば段右衞門儀
其方と近日
對決申付けん
先今日は引取べしと申渡されけり
去程に大岡殿
例の如く
出座有て段右衞門を見られ
其方儀今日三五郎
妻文と對決申付るに依り有
體に申立よ又三五郎妻文儀も
[#「三五郎妻文儀も」は底本では「三五妻文儀も」]同樣相心得
先達て申立し通り幸手宿穀屋平兵衞鴻の巣宿鎌倉屋金兵衞及び
飛脚彌兵衞を殺せしは段右衞門
元の名は重四郎が
仕業に相違無や
愈々相違なきに於ては
其段を段右衞門に申
聞よと有ければお文は
發と
平伏なし
頓て段右衞門に向ひ
貴殿は
夫三五郎とは
兄弟同樣にして何事に
依ず善惡共に相談相手なれば
其方の惡事も
隱して
遣何かにつけ夫は心配して居る程のことなるに
如何なる
遺恨が有て
無情くも夫を殺せしや
餘りと言へば恩知らず
憎き
仕方なりサア
尋常に
白状されよと云ひければ段右衞門
輾々と
打笑ひ
汝ぢ女の
分際として何を
知べきや三五郎を殺したなどとは
無法な
云掛然樣の覺えは更になし實に汝ぢは
見下果たる奴なり
公儀の前をも
憚らず有事
無事を
饒舌り立
己がことを種々と申上げたな
全體汝れは何と心得居るや汝等夫婦は
貧窮に
迫りて
困苦するを
愍然に思ひ是迄此段右衞門が
樣々と
見繼で
遣た其恩義を忘れし爰な恩知ずの
大膽者とは
汝れがことなり然るを
己が人殺しなどとは能も/\云をつたな是迄恩を掛しが却つて仇と成たかと云をお文は
打消オヤマア夫は
何程口が在と云ても
左樣自由なことをいはれたものかソレ
貴殿が幸手の町へ來たときは
尾羽打枯した
素浪人喰や
食ずの身を
可愛相だと云て穀平では
始終世話を成れ
親同前に大恩を
請た其平兵衞さんさへ殺す程の大惡人兄弟
分位の
妾しの夫を殺し
兼る者かと云ば段右衞門何穀平を殺したと
馬鹿を云へ彼の穀平を殺せし者は
杉戸屋富右衞門とて既に御仕置に成たり
然るに
汝れ今さら何を
吐す
恍けをるか
此女めと
叱り付るをお文コレ段右衞門マア
強情も
宜加減にお
仕な
夫三五郎が
庚申堂の畑際で
拾つて來た
烟草入其中に穀平から杉戸屋の富右衞門さんの所へ
遣た手紙が
這入て居から杉戸屋の烟草入だと
言事が知れ然も其時
妾が
直に持て行うとする所へ
貴殿が來て其烟草入を金二分に賣て
呉ろと
小聲で相談し貴殿が
仕組だ所業だはね
最早夫を殺されたからは
隱さず云が其
仕事は權現堂の
土手で穀屋平兵衞を殺し金迄取て其翌日
妾しの方へ來てお前は
狼狽廻り幸手宿を
立退うと云ふを夫三五郎が止めて烟草入を
證據に富右衞門に
負せる上は
立退に及ばぬ急に
立去ば却つて
疑惑が
懸ると云れてお前は氣が付
身躰を
[#「身躰を」は底本では「身體を」]居たでは無か其時に三十兩と云ふ金を
配分して
侠客づくで
呑込で居て
遣たのに金を何で
貴殿が
貢だなどとは
不埓云樣だと
泣聲を出して云ひ
募るを段右衞門聲高に
噪しい女め
如何樣にべら/\
喋舌とも
然樣なことは夢にも覺えは
無汝れはまア
恐しい
阿魔だ女に
似合ぬ
誣言事扨は三五郎の
敵と思ひ違へての
惡口成ん七人の子を
成とも女に心を
寛すなとは此ことなりと
空嘯いて居たりけるお文は
切齒をなしヱヽ
忌々しい段右衞門
未々其後も慈恩寺村にて
能張半が出來たと云つて
夫三五郎を
誘引に來たれども夫は
用向もあれば
行れぬと
斷りしに其時
貴殿は
扇子を落して來たから
貸て
呉ろと云ふ故
鐵の
扇を
貸て
遣つた其日鴻の巣の金兵衞が金五百兩
勝しを見て
汝れは先へ廻り金兵衞が歸りを
待伏して
切害し死骸の
傍へ
貸て
遣た扇子を落して
置其
鐵扇に杉田三五郎と名前が
彫刻付て有しゆゑ夫に
嫌疑の
懸るを三五郎も承知して
暫時の
中金兵衞を殺したに
成て居たが是は
鐵扇の
代だと百兩の金を
汝れが
配分仕たのを今さら忘れもしまいと一々其
節の
手續を云立るに段右衞門ヱヽ
夏蠅女め
種々なことを
拵へて
己を
無實の罪に
落さんと
仕居る然し是は汝ればかりでは有まい
誰か
腰押の者が有らう扨々
恐敷阿魔めと云せも果ずお文は
彌々やつきとなり
未々其上に藤澤の大津屋へ入夫に
行前のこと鈴ヶ森にて
十七屋の三度飛脚を殺して金を盜み取しことを三五郎へ
咄した時に三五郎が異見をして博奕打や盜人の金を
取又は殺したり共同じ罪でも
罪科は輕い
素人を殺すことは古今の
強惡なり始終は
白刄の
錆と成べし
必定々々此後は
屹度止られよと云たることも三五郎から聞たるぞ今では汝れも
大造な
身代に成たに付昔しの
縁で三五郎も一年越の
不仕合故度々無心には行しが
都合惣計金八十三兩
貸たに相違は無しサア/\
此方からして
盜人の
上前を取たと迄
逐一
白状仕たならば
汝れも早く申上て
仕舞がイヽアノ
此な
大盜人めと
砂利を
叩いて
舊惡を
算へ
立れど段右衞門は
落付はらい
否々博奕は
打ても人を殺し金を
盜んだ覺えは
無ぞと云をお
文是サ何ぼ
妾が女でも
然樣お
前等に云ひ
込られては是まで人に
姉公々々と立られた面に
濟ない人を殺し金を取たに相違
無から其通り申上よと云ふのだ男らしくもないと
猛り立我を忘れて云ひ
募りけるを段右衞門は
猶冷笑ひイヤ/\此
阿魔め
幾何八
面大王鬼に成ても此身に覺えの無事は
然樣だなどゝは
[#「などゝは」は底本では「などどは」]云れぬ者よフヽンと
鼻であしらうを聞いてお文は
益々怒りコレサ/\段右衞門
夫なら
愈々爾ぢは穀平を殺さぬと
云張かハテ知たことよ身に覺えのなきことは
何處迄も此の段右衞門は覺えなしサと
云にお文は夫なら是程
慥な
證據が有ても
知ぬと云か段右衞門アヽ
騷々しい女
如きが口で云ふ事は
證據に成者か
爾れは取
逆上亂心して居るな
但は
熱の
上言か
未練な
僞りを
言掛居るぞと聞よりお文はワツと泣出し
掴み掛らん有樣なれば大岡殿
大音聲に
默止爾等は此所を何處と心得る
然も天下の
決斷處なるぞコレ/\段右衞門其方は文を女と
輕侮申し伏んとすれども
假令婦人なりとも
逐一申立己れが罪迄も明白に
白状するを
爾ぢは只今知ぬ/\と
而已強情に言張んと
爲は不屆至極なり如何程
爾ぢは
陳ずるとも大方知たる罪なるぞ
眞直に白状致せと申されけるを段右衞門是は聞えぬ仰せなり御
奉行樣には女の方を
贔屓成るゝかと言しかば越前守殿大いに
怒られナニ
婦人を贔屓するとは不屆の一言
天地自然の
淨玻璃の
鏡を
立邪正を
糺し
業の
秤を以て
分厘も
違ず善惡を裁斷する天下の役人を
暗まさんとなす
強情者古今稀なる
此な大惡人め穀屋平兵衞を殺せしに
相違有まじサア申立よと
問詰られしかども段右衞門
然あらぬ
體にて平兵衞を殺し
金を取し
盜賊は
先達て穀屋方より願ひに依て杉戸屋富右衞門が
既に
御仕置に成しと
承知る然らば又候
外に平兵衞を殺した者出る時は御奉行を始め御役人の
落度成んか
而覺えも無き拙者を
強られ
無實の罪に
落る時は富右衞門は何故に罪の
正からざるを御
仕置に成れしやと
空嘯いて申けるこそ
大膽不敵の曲者なり時に大岡殿
呵々と笑はれ
爾ぢ
舌長くも申者
哉然らば一應申附すべし穀平を殺したるは富右衞門にて
裁斷濟たりと雖も富右衞門は
無罪なり
爾ぢは大罪人なり若
今富右衞門が
存命ならば爾ぢは
科人と成やと有しかば段右衞門
冷笑ひ一旦御仕置に成し富右衞門が只今此處へ出候はゞ其時は
急度白状致すべしと言ければ大岡殿
然ばとて與力に申付られ豫て
養ひ
置し富右衞門を只今是へ呼出すべしと有しに
與力は
畏まり候と
其儘立て行ければ此場に
居合せし者共は互ひに顏を
見合死ける富右衞門が
再度爰へ出べき樣もなし
扨々御奉行樣は
奇妙なことを仰せられると皆々不思議に思ひて居たりける然る所へ
與力同心付添杉戸屋富右衞門を
白洲へ
召連出しかは大岡殿大音聲に如何に段右衞門
承はれ先年富右衞門
所持の
煙草入を以て穀屋平兵衞を殺し其場に落し
置しを
種として富右衞門に罪を
塗付しに相違あるまじ
其節富右衞門を段々吟味せしに全く平兵衞を殺さざる由其上に彼の富右衞門其日は
宿所に居ず全く
人殺しは別に
有ことゝ思ひし
故其時は外の
科人の首を以て
曝し既に今年迄三ヶ年の
間富右衞門を隱し置たり
爾ぢ是を知ずやと仰せ有ければ
流石不敵の段右衞門も
只茫然として
暫時物をも言ず
俯向て居たりしが何思ひけんぬつくと顏を
上今迄包み隱せし我が
惡行成程穀屋平兵衞を殺害し金子百兩を奪ひ取りしは
拙者に相違
之なく
併しながら其鎌倉屋金兵衞を殺せし覺えは決して御座無く候と猶々強情に申居たりける
螻蟻の一念は天へも
通ずとの
俚諺又
宜なるかな大岡殿
此度幸手宿三五郎
妻文の申立を
聽れ武州
鴻の
巣鎌倉屋金兵衞方へ
差紙を
遣はされし處
悴忠助は
稍々今年十一歳なる
故伯父長兵衞は
名代として江戸へ
赴かんと
調度を
成金兵衞方に幼少より
召使ひし直八と云者
萬事に
怜悧なるに付き之れを
召連鴻の巣を
立出江戸馬喰町熊谷屋利八方へ
泊り
込しが
日永の頃なれば
退屈なりとて直八は兩國淺草又は
上野山下邊など見物なし
廣小路へ出で五條の天神
前へ來りし所に
天道干の
道具屋に二尺五寸程の
脇差ありしが何やら見覺えのある品
故直八は
立止まり此脇差を手に
取上能々見ば鞘は
黒塗鐺は
銀鍔は丸く
瓢箪の
透しあり
頭は
角縁は
赤銅にて
鶴の高彫目貫は龍の純金なりしかば直八は心に
合點モシ/\道具屋さん此
脇差は
何程で御座りますハイ
其は無名なれども
關物と見えます
直價の所は一兩三分に致しませうと
云ふを聞直八
其は
高價私は百姓のことだから身には
少も
構ひは無い見てくれさへ
宜れば
好眞の御
祝儀差だ
最些と負て下さい道具屋
否々此品は
堅い
代物なれば夫よりは少しも
引やせんと是より
暫時直段の
押引をなし漸く金一兩一分と
極り直八は道具屋に向ひ
直は付たが金子の
持合せは
少々不足だが
漸して是を手付として置て行ませうと金一
分取出し
翌日の
朝殘りの金を持て私が取に
來る
然し事に
寄と
來れぬ時は御
前の内へ
直樣取に
遣から一寸請取を
書て
下さいと云ふにぞ道具屋は
書付を
認め
判迄捺て出しければ直八手に
取揚て
讀けるに
一
脇差 壹
腰右代金壹兩壹分也
内金壹分請取
但し
拵へ
付貳尺四寸
餘無名物縁赤銅鶴の
彫頭角目貫
龍の
純金丸
鍔瓢箪の
透し
彫鞘黒塗鐺銀下谷町貳丁目
と
書認め有ける故夫なら
翌日又是を
持せて取に上ますが
田舍者は
兎角迷路易き故下谷と云ても
分らぬことが有つて
間取から大屋さんの名を
書て
下されましと言に道具屋ハイ/\
家主は
廣次郎と申ますと
肩書にして渡しければ直八是で宜と其儘
馬喰町の
旅宿へ歸りて長兵衞
并に
村名主源左衞門に向ひ下谷
山下にて
見當りし
脇差の事を話し是は親方の
小刀なり先年
行方知ずとなりし三人の
中練馬藤兵衞へ
確と私が手から
貸て
遣した
代物故行先を
能吟味したら三人の
死生の程も知れ親方の
敵の手筋も
分りさうな者だと
聞て長兵衞
夫は
捨て置れぬことなりと源左衞門并に
熊谷屋の亭主へも
相談なし早速
其筋へ
訴訟べしとて
願書を認め右道具屋の請取を
添へ町奉行所へ差出たり之に依て翌日同心
原田大右衞門下谷の
自身番へ出張し
家主廣次郎を呼寄られ其方
店に道具屋治助と申者
是有る由直樣
召連來るべしと申渡せしかば廣次郎
畏まり候とて直に治助を同道して來りしに原田治助に向ひ汝ぢは道具
渡世をなす治助なるか
御意に御座りますと答るにコレ此請取に覺えあるかと尋ねければ治助は是を見て此請取は
昨日廣小路の店にて
商ひを致し
手付を請取し時さし出したるなりと云に
聢と夫に相違
無やと申せば
然樣に御座りますと云時原田シテ其
脇差は何所から
買た其賣口は知て
居樣なと云れ治助は甚だ氣味
惡く思ひながら
其品は稻荷町の十兵衞と申者の
宿に於て
去月の
市に
買取たり然し其節は二十品ばかりの
買物にて賣主は
誰やら
聢とは申立
兼れども右十兵衞の
帳面に記して御座りますと申せば原田然ば其十兵衞を
呼出すべし尤も
跡月よりの
賣上帳を
持參せよと家主へ達しけるにより家主仁兵衞
早速十兵衞へ此由を
云聞せければ十兵衞は又
間違の品が出たかとて家主同道にて下谷の自身番へ來りしかば早速
呼出し原田は十兵衞に向ひ
去月中[#ルビの「きよげつぢう」は底本では「きよげいぢう」]爾ぢが宿にて此治助が脇差を
買たと申が
然樣に相違無やと尋ぬるに十兵衞脇差を見てヘイ
然樣では御座れども
大勢の事故
別段變りし品は覺も御座りますが
斯樣な品は其日の買取人が參りまして
直に引取ます故
聢と見覺は御座りませんと申に
然ば
賣帳が
有うと
云れ十兵衞は帳面を出し治助どん去月の
幾日頃だの治助中市と思ひました
桃林寺門前の
佐印か三間町の
虎公か
何れ此兩人の中だと思はれますと
云ば十兵衞
成程々々斯つと十日は治助どんは
燒物獅子の
香爐新渡の
皿が五枚松竹梅三
幅對の
掛物火入が
一個八寸
菊蒔繪重箱無銘拵へ付脇差二尺五寸
瓢箪の
透しの
鍔目貫龍の丸は頭
角縁は鶴の
彫と聞より治助大に
悦び
宜々夫だぞ賣人は
誰だ/\十兵衞
待なせへよ三間町の
虎松に相違は無いとて
原田の前に
出彼の脇差は淺草三間町の虎松と申す者より買入しに
相違御座りませぬと
云ば原田
然らば御用は
無引取と申渡すに十兵衞は
有難しと家主
諸共引取ける斯て原田大右衞門コレ
幸藏此治助を
連先へ東町の自身番へ
行て淺草三間町の虎松を
呼で
置己は坂本へ
鳥渡廻つて
行からと申付て立出れば
手先の
幸藏は脇差を
風呂敷に
包み治助を同道して東町の
自身番へ來り
虎松を呼寄けるに
家主巳之助
差添て
罷り
出原田の來るを
待居たり
暫時有て原田大右衞門は
自身番へ來りければ家主巳之助
這出て私し儀は三間町の家主巳之助と申者なるが
何か御用の
筋之有る由に付虎松を
召連候と申に原田は是を聞其方が虎松なるか
此脇差を去月十一日
[#「去月十一日」は底本では「去年十一月」]稻荷町の十兵衞
方に於て
此治助に
賣たるかとの
尋ねに虎松
然樣なりと答ふれば原田
而て
此品は
何所から
買出たか其買先を申立よと
問れ虎松是は
面倒の品と思ひながら
此脇差は
去年十一月
田舍へ
買出に參つたる
節杉戸宿の
林藏と申者の
手より
買取たるに
相違なしと申立れば
愈々然樣ならばもはや御用は相濟だ
引取べしとのことゆゑ治助はホツト
溜息を
吐家主廣次郎
同道にて我が家にこそは
歸りけれ
扨夫より原田は虎松に向ひ其方明日杉戸へ
案内を致せ
因て今日は
家主巳之助
其方へ虎松を
預るぞと
殘る處無く
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、369-1]有て原田大右衞門歸宅致しける
依て
公儀の
御詮議は
行屆きしものなりと人々感心したりけり
去程に
同心原田大右衞門
松野文之助の兩人
何れも
旅裝束にて淺草三間町の自身番へ來りければ虎松も
豫々申付られしこと故
支度をして
相待居しに付
直樣案内として六月廿日に
淺草寺の
明卯刻[#ルビの「あけむつ」は底本では「あけむゝつ」]の
鐘と共に
立出炎天をも
厭はず急ぎ
武州埼玉郡杉戸宿名主太郎左衞門方へ
着し
早速に道具屋渡世林藏を呼出せし所
他行の
趣きにて
女房を同道せしと云に原田はアヽ女房では分るまいが
折角來たものなら
先是へ呼寄せとて林藏の妻を呼出し今日林藏は
何所へ參りしぞと
問れしかば女房何事か
出來したかと驚き今日は
商賣用にて
栗橋[#ルビの「くりはし」は底本では「りりばし」]まで參りました故
申刻過には
大方戻りませう
併し御役人樣へ申上ます
妾しの
良人は當年六十に相成りますが
近所でも
佛林藏と申て何も惡事は
是迄少しも致しましたことは御座りませんが
些少なことは
御免成れて下さりませと申ければ原田
否何も林藏に惡事が
有と云では
無是へ
來さへすれば分ることゆゑ
格別に
案じるに及ばずと云に女房ハイ
其は
有難う
存じます
併し
日頃から
妾しが
異見を致すは
爰のこと林藏は
能歳を
仕て
殊の
外女
好夫故大方
然樣な一
件でも御座りませうが
主有者に手を出すの
密夫などは致ませんが
只々錢を
持さへ致すと
女郎買にばかり行きます是が誠に
玉に
瑾と申ので
困りきりますと
頻りに
譯もなきことを申立るにぞ原田
始め一同笑ひに
堪兼最宜々林藏が
戻り次第に
早々知せろコリヤ
家主嘉右衞門林藏が歸りしならば
早速に
同道せよと申付られ
引取所へ林藏は
立戻りし故に
家主嘉右衞門は林藏に
斯と申
聞ければ林藏は
何事やらんと
怖々ながら
其所へ出れば
町方役人村役人二人共
附添手先の者は
立働き一
同居並んで居る故只
肝を
冷して
戰ひ居たり此
時原田は三間町の虎松に向ひ其
脇差は
那の林藏より
買取しに相違
無やと有に虎松ハイ
仰せの通り
右林藏の手より
買取しに相違御座りません原田
是や林藏
今虎松が申す通り相違
無や
而其脇差は
何方から
買取た
眞直に申立よ
僞ると汝ぢが
爲に成ぬぞと
威され林藏は
恐る/\手に取上て
能々視畢り成程此脇差は
慥かに見覺えました
品是は幸手宿の者より
否々粕壁の
市で
買ましたと云に原田始め役人共
其は何か取留ぬ申口たり林藏
確と申せ
胡亂なことを申と
直樣縛るぞと有けるにぞ
元來臆病者のこと
故林藏はがた/\
戰ひ
齒の根も
合ず居たりしかば家主嘉右衞門は
傍より是々林藏
確乎とした
御答を申上よ
大事な儀ぢやぞと申に林藏
何と
致まして
嘘を申立ませうアノ
夫々是は去年の春の事とて
栗橋の
燒場のアノ
隱亡の名は
慥彌十とか申者より
錢一貫二百五十文に
買受ましたに相違は御座りませんと申
立るにぞ原田は是を
聞コリヤ林藏
愈々然樣に相違
無か
若間違うては
濟ぬぞと
堅く申
渡され林藏ハイ/\決して間違ひは申上ませんと云
故役人共
然れば其方
早々栗橋へ
案内致せと
直樣申刻過頃より
出立なし三間町の虎松は是より御
用濟なりと申渡し役人は林藏を
先に立せて栗橋
宿の名主
代右衞門方へ
到り
無常院なる
隱亡の彌十を呼び出せしに彌十は庭の
莚の
上に
襦袢一枚にて
控へ居たりしを役人共コリヤ彌十
爾ぢは是なる林藏へ
脇差を
賣たることが
有か
其脇差は爾ぢの
品か又は
何國から
持て來たか
明白に申立よと云れ彌十は
少し
口籠りしがイヱ此脇差は私しの家に
持傳へし
重代の品なりと云に役人コレ彌十
爾ぢが重代の品などは不屆き
至極なり夫
縛れと
下知しければ
手先の者
立懸り
忽然高手小手に
縛り上るに彌十は
恐れし
體にて何を隱しませう
其品は
葬禮の時の
納め物なれども
然樣申上なば御
疑ひが
懸らうかと存じ
重代の品と申上しかど
實は
死人の
納め物なりと申ければ役人
扨々爾ぢは不屆き者なり此脇差は
中仙道鴻の巣の鎌倉屋金兵衞と云者の
所持の品にて其子分なる
練馬藤兵衞と云者に
貸遣したる脇差なり然る所其
後右藤兵衞
等外二人の
行衞は今に於て
相知ず然る所
今藤兵衞が
差て居たる脇差の有からは其方が
掃部茂助藤兵衞
等三人の
在家を存じて
居に相違は
有舞サア
眞直に
白状せよと
意外に
出られ彌十は南無三
寶仕舞たりと思へども
然有ぬ
體にて
否々全く脇差は
納め物に相違御座りませぬと云ば役人は
左右汝ぢは
不都合なる事を申ぞ脇差を
葬禮の納め物となすならば寺へこそ
納める
筈なれ何ぞ
燒場へ納めると云
法の
有んやサア
尋常に白状致せ不屆者め
夫責よと言葉の下より
手先の者共
笞を
揚て左右より彌十の
股を肉の
破る程に打
敲ければ彌十は是に
堪兼アツと
叫んで泣出しアヽ御
免し
下されよ何事も
皆包まず申上ます/\と詫けるに然らば白状すべしと
責を
止め猶強情に
陳ずれば
餘計に
痛いめをするぞ
而て藤兵衞が
所持の脇差を如何の譯で汝ぢが手に
入たるぞサア/\
其譯白状すべしと
問詰られて彌十は
苦痛に
堪兼迚も免れぬ處と覺悟をなし
然樣ならば申
上ます
此脇差は一昨々年の七月廿八日の夜の事成しが
死人に火を掛内に
這入て
伏み居し
折柄燒場の
外面の方に
大喧嘩が始りし樣子故何事かと存じ
密と出て
窺ひしに
闇き夜なれば一
向に
分らず
暫時樣子を見合居し處幸手宿の
畔倉重四郎と三五郎と申者の聲ゆゑ
徐々立寄しに相手の者三人は
皆切殺され是は
浪人の八田掃部と
并に練馬藤兵衞三加尻茂助と申せし者共なり其時重四郎の申には
何卒此死人を
火葬に爲て呉ろと
頻りに頼みしかども私しは
後々の
[#「後々の」は底本では「後々の」]事を
恐敷と申して斷りしに重四郎は承知せず
貴樣に難儀を
懸ぬ樣に
取計ひ方も有から是非々々頼むと申を
兎角に
後難が
恐しさに否だと申て
立去んと致せし時
斯大事を見られた上は
生して置れぬ言ことを
聞ずば
命を呉ろと既に切殺さんと致すゆゑ私しも
詮方無く後の難儀は
辨へながら其場の
難には換難く存じ
據ころなく申に
任せ三人共
火葬に致し骨は殘らず川中へ
捨て
仕舞しと白状に及びければ役人其
時汝ぢは
必定金子を
貰ひし成んと申に彌十ヘイ一人
前一兩
宛貰ひ是非なく
燒て
遣しましたと
悉敷申
立けるにぞ原田は進み
出而此脇差は爾ぢが取たのか彌十ヘイ
納め
物同樣に存じましてと言を原田は
白眼付那の
爰な
横着ものめ定めし汝は脇差ばかりでは
有まじ外々の品も
盜み取て
賣たで
有うと問詰ければ
外に二本の脇差は
騷ぎの
中故火中へ入て御座りしを氣が
附ず燒て仕舞ましたら
何時か
眞赤に成まして役には立ず一本の方は
洗箒の樣に成て致し方なければ川へ
捨ましたと申立けるに原田は
點頭然らば
愈々相違無かと
有ければ彌十少しも
僞りは御座りませぬと申すに
依道具屋林藏は御
用濟たり勝手に
引取べし
太儀なりと申渡され
家主嘉右衞門は林藏
同道にて歸りける夫より
隱亡彌十は
高手小手に
縛められしまゝ
宿籠に
乘江戸表を
差て送らせける其後
種々樣々吟味有けるに先の申
立と相違も無きこと故
是より大惡の
本人たる重四郎の段右衞門と
愈々突合せ吟味とこそは
極りけれ
時に
享保十一年七月五日重四郎の段右衞門一
件の者共を
悉皆く
白洲へ呼出し
軈て大岡殿彌十に向はれ
何に彌十汝ぢは
元栗橋にて重四郎三五郎の兩人が掃部茂助藤兵衞の三人を殺せし時
手傳ひて
共々殺したで有うなと
故意と疑ひの
詞を
設けられしかば彌十は
面を
正し
否々私し儀は其節
喧嘩の聲を
聞付見には出ましたが
怖さは怖し
遠方に
窺つて居しのみにて漸く少し
鎭まりし時三五郎重四郎兩人の聲が致すゆゑ
傍に
立寄夫より
右死骸は
據ころなく頼まれて
火葬に致しましたれど
勿々以て
手傳などは決して致しません
尤も其節の
手續は
斯々云々なりと
委細申立ければ大岡殿段右衞門を
見遣コレ段右衞門
爾ぢは三五郎と申
合せ元栗橋にて掃部茂助藤兵衞を殺せしは我が
推量に相違無し然れば鎌倉屋金兵衞を殺したるも汝ならん
眞直に白状せよともうされければ段右衞門は
漸々に
眼を
開き此間
中より申上し通り穀屋平兵衞を殺し又鈴ヶ森にて三五郎を殺し候は
全く私しに相違なけれども金兵衞を殺したる
覺えは
毛頭之なしと
飽迄も言
張にぞ大岡殿
詞靜かに
是段右衞門能く
承まはれ
爾ぢはよく/\
迷つた奴と見える
假令一人たりとも人殺しの
科極る
上は
獄門に
曝さるゝは知てあるに
今猶強情に申
募るとも一
命の
助かる譯は無ぞサア/\
尋常に白状せと言れ
夫とも彌十
爾ぢが申立たるとは
僞りなるかと申さるゝに彌十は段右衞門に向ひ
是々重四郎ではない段右衞門殿
夫な譯の
分らぬ
強情は
止にしろ今
奉行樣の
仰しやる通りだ
幾等其方が
隱して白状
爲ねばとて
命の
繋がる事は
金輪ざい
有ア
爲ねへ
夫迚も三五郎と申合したかは知ねヱが今と
成ては
未練な男だ
誠に
苦しみ
惜みの
人間だなア掃部や藤兵衞茂助の二人を殺した時
其方が
利根川へ死骸を
打込ふと
[#「打込ふと」は底本では「打込ぬと」]言たら三五郎が言には川へ流しては
後日が
面倒だ幸ひ此彌十に頼んで
火葬に
爲て
貰へば
死骸も殘さず三人の影も
形も無なるゆゑ金兵衞を殺したことも
却つて彼等三人に
疑ひが
懸る道理だと三五郎の
計略にて
已に火葬を頼んだ其時に
若もと
己は不
承知を言たら
汝れが
懷中から金を三兩出て
博奕友達の
好みだと言て
平に頼む故
己も
詮方無く
燒て仕舞て
骨は利根川へ流したに相違は無いぜ
是サ段右衞門今此彌十に顏を
合しては百年めと
言者サア
何も彼も
決然と男らしく言て
仕舞と
言にぞ段右衞門コレ汝ぢは
跡方も
無拵へ事を言
掛我に
罪を
負せんと
爲る此
乞食めと
大音に
白眼付ると彌十大いに
怒りて
何だ乞食だと知たことだ
隱亡は人間と
非人との
間だは是も
渡世だ
然ながら此彌十は酒も
呑長半も人並には打
殊に
喧嘩もするが
今迄人に
疵とても付たことも無し
錢三文でも
盜んだ覺えは無そ
能聞よ
汝れはな
幸手の穀屋平兵衞を殺して金百兩を
奪ひ
取り其上にて
關宿の藤五郎の
博奕場で四人と言者を切て又
堺[#「又堺」は底本では「又堺」]の町でも
鷹助に手疵を
負せしこと
寶珠屋大坂屋のことからしてオヽそれ/\其前のことだ栗橋の
土手で
眞田商人を殺した事も
皆々汝ぢだと疑つて
居ぞ此
盜人野郎め
乞食に近い此彌十よりは遙か
劣りし
人非人めサア言
譯が有なら
返答仕ろと
大聲に言
込けるに
流石不敵の段右衞門も更に
無言となり此時に至つて大いに
赤面爲たる有樣なれども未だ白状は
爲ざりけり
此時越前守殿
高聲にコレ段右衞門
左右に
汝れが
罪を
隱し
鷺を
烏と
言黒[#ルビの「いひくろ」は底本では「いとくろ」]めんとするは扨々不屆き者なりと
白眼付られ夫より
同心に豫て申
付置たる品川宿の
馬士を
只今是へ
出すべしと言れけば同心は
畏まり候と立て行けるが頓て身には
半※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、373-14]を
着て
眞向より
頬へ掛て
切下られし
疵痕あり
丈は
低く
髭は
蓬々として如何にもみすぼらし
氣なる者を
連出せしかば大岡殿コレ品川宿の
馬士其方は
去年十七屋の飛脚を
乘鈴ヶ森に於て切られし所
汝ぢは
運好も
命助かりしが其時の
盜人は爰に居る段右衞門と
言者ならん
能々顏を見よ
其節の盜人で
有うがなと申さるゝに
馬士はヘイ御意に御座ります
未だ
夜明前とは申ながら
挑灯も御座りました故
隨分慥かに見覺えて
居ます成程此者に相違は御座りませんと
聞より
流石の段右衞門も
愕然と
仕て大いに驚きヤア然らば其時の
馬士めで有たか
扨々運の
強き奴かな頭から
梨割にして其上に後日の
爲と思ひ
留め迄
刺たるに助かると言は
汝ぢは餘程
高運な者なりと
呆れ果てぞ居たりける時に越前守殿
如何に段右衞門
金飛脚の彌兵衞
并に馬士爲八を殺したに相違は
有舞なと
問詰られしかば段右衞門はハツと首を
下げ
御意の通り鈴ヶ森に於て三度飛脚の彌兵衞を殺し金子を
奪ひ取しに聊か相違なしと申立しにぞ大岡殿は
馬士に向はれ其方は
最早用事の
相濟たり引取れと
言れしかば其儘
馬士は白洲を立て
行跡に越州殿
呵々と笑はれコレ段右衞門汝ぢは
是迄強情に申
張て一向白状に及ばぬ故
向う
疵の
有馬士を尋ね出し
彼に申付て汝ぢを
謀り白状させしなり其
節の
馬士は
何として
命の
助かるべきや然るを我が
計略に
陷りしも
是天命なり今さら包み
隱さずとも
尋常に惡事を殘らず
白状すべしと
鋭どく
問糺されしかば段右衞門は
此時初めてハツト
言て
歎息なし
寔に
天命は恐ろしきものなり然ば白状
仕つらんと居
直り扨も
權現堂の
堤に於て穀屋平兵衞を殺し金子百兩奪ひ
取其
後鷲の宮に於て鎌倉屋金兵衞を手に
掛て金五百兩を盜み
取猶又三五郎と申合せ
元栗橋に於て三人の者を
殺害せしより鈴ヶ森にて十七屋の
飛脚を殺し
金子五百兩
奪取り其後藤澤宿の大津屋と申
旅籠屋へ入夫と
相成し處三五郎
度々無心に來りしが
我惡事を皆
悉く
知りたる三五郎なる故
後日の
妨害と存じ
欺きて鈴ヶ森まで
連出し終に三五郎をも
殺害せしに少しも相違御座なく候と殘らず申立ければ大岡殿
聞れ
神妙々々と言れし時段右衞門は大岡殿に向ひ恐れながら
斯る明奉行の御
糺問を
蒙り御吟味
明かなる
而已ならず御
仁慈の程
誠に以て恐れ入奉つる何さま世間の
噂に相違も之無き
賢明の御奉行なり其
御裁許に
預ること此身の
本望と申すべし
返す/″\も私しの惡行今更後悔仕つり候然る上は三五郎
女房文元栗橋の
隱亡彌十等私しへ
係り合の者共の儀は私し故に
罪科も蒙り候ことゝ存じ奉つるに付
私し身分は
何樣の御
成敗を仰せ付らるゝとも
自業自得の儀に候へば
聊かも
恨むる所なし係り合の者共は
何卒御
慈悲の御
成敗願はしく存じ奉つり候とて己れが舊惡を
悉皆く白状に及びしかば
夫より
口書を
認め重四郎の段右衞門の
爪印を
押せ
追て沙汰に及ぶと申渡され
一同下られけり
然程に大岡越前守殿には段右衞門
前名畔倉重四郎一
件に付
享保十一年十二月
右係り合の者共一
同白洲へ
呼出され
夫々に其
罪科を申渡されける
相摸國高座郡藤澤宿
大津屋段右衞門事
前名 畔倉重四郎
其方儀權現堂小篠堤に於て幸手宿穀屋平兵衞を
殺害し
金子百兩奪ひ
取其後中仙道鷲の宮にて
鴻の
巣宿鎌倉屋金兵衞を殺し金子五百兩
盜み取し上剩さへ三五郎と申合せ右金兵衞の子
分掃部茂助藤兵衞等三人の者をも
元栗橋燒場前にて切殺し
死骸は
隱亡彌十に頼み
火葬に致し其後鈴ヶ森にて十七屋の三度
飛脚を殺し
金子五百兩
奪ひ取其
後猶又
同所にて三五郎をも
殺害致し候段
重々不屆至極に付
町中引廻しの
上千住小塚原に於て
獄門に
行なふ
武藏國埼玉郡元栗橋宿
隱亡 彌十
其方儀
平生身持宜からず
博奕喧嘩を
好み其後重四郎
并に三五郎より頼まれ候とは
雖も掃部茂助藤兵衞三人の死骸を
燒棄其上
右骨は
利根川へ流し候段
重々不屆の所
格別の御
仁惠を以て
遠島申付る
同國同郡幸手宿
三五郎妻 ふみ
其方
夫三五郎儀
平生身持宜からず重四郎と申合せ金兵衞の子分
等三人を元栗橋燒場前に於て
殺害し右死骸を
隱亡彌十に頼み
燒棄させ候段不屆に付
存命致し
居候はゞ
重き御
仕置にも
仰せ付らる
可の
所鈴ヶ森に於て
殺害致されしにより其
罪を
諮ず右は重四郎の
仕業と
相分り重四郎儀は
町中引廻しの
上獄門仰せ付られ候上は有難く存すべし
相摸國高座郡藤澤宿旅人宿渡世
小松屋文右衞門
其方儀重四郎を同宿大津屋ゆう方へ入夫致させ候
節身元をも
糺さず世話致し候段
不行屆きに付
過料として
錢三貫文申付る
長谷川町家主嘉兵衞店針醫師
盲人 城富
其方儀
平生養母に孝行を盡し其上に先年
實父富右衞門御
所刑に相成候
節自分
身代りの儀願ひ
出候段是又實父
母へ孝心の至りに
思召され候之に依て御
褒美として
白銀三枚取せ
遣はす
有難く存ず可し
武藏國埼玉郡幸手宿穀物渡世
杉戸屋富右衞門
其方儀
永々入牢仰せ付られ
罷り
在處此度右一件
本人相分り御
死刑仰せ付られ候に付
出牢仰せ付らる有難く存ずべし
右の
通り重四郎一件
落着と成しは
誠に天道正直の
道を
照し給ふ所なり然れども
其人其罪無して杉戸屋富右衞門は
如何なる其身の
業報にや
煙草入を落せしより
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、376-17]らずも
無實の罪に
陷入一
旦入牢仰せ付られけるが
上に
聖賢の
公存ませば下に
忠良の臣あつて
能國家を
補翼す故に今
斯明白に
善惡邪正をたゞされしかば富右衞門の
女房お
峰其子城富は申に及ばず
親族に至る迄
皆大岡殿の
仁智を感じ
喜悦斜ならず
殊さらに實子城富は見えぬ
眼に
涙を
流し先頃大岡殿の申されしに父富右衞門は
蘇生せまじきものにもあらずとは此事なりと
喜悦こと限り無く
只々偏へに
名御奉行大岡樣の御
仁慈なりと奉行所の方に向ひ
伏拜み/\
感涙止めあへざりしも
道理なり
扨爰に亦穀屋平兵衞の
悴平吉は
段々吟味の末杉戸屋富右衞門は全く
無實の罪なること明白に
顯れ其節の
盜賊は畔倉重四郎なる由を聞及びしかば大いに
驚き扨々我等が
不明故に罪無き杉戸屋富右衞門殿を
永々入牢致させ
苦めしこと何とも申譯なき
誤り成りと思ひ平吉は
早速杉戸屋富右衞門方へ到つて
種々樣々に是迄の
始末を
詫言なし是は
聊かながら
出牢の
歡び
旁々土産なりとて
懷中より紙に包み
目録として金子百兩を差出しければ富右衞門
是を見て
扨々誠に以て御
芳志の段有難き仕合なり然れども此度の
災難かく
成行も
宿世の
業因なれば誰を
恨み彼を恨みんとは存じ申さず
煙草入を落せしことが我が
誤りなり
斯る大金を御
惠み下さるべき
謂れ無しと
達て
辭退に及ぶゆゑ平吉は何卒して我々が誤りを
詫言なす
印に渡し度と思ひ是非々々是は御
受納成さるべし又此上何成共
相應の儀も候はゞ御
相談下されよ私し力に
叶ふ儀なれば如何樣にも御
助勢申たしと言つゝ
無理遣に差置て早々歸宅致しければ富右衞門は此金を
持て又々穀平方へ
到り御
芳志の段
忝けなし
然ながら斯る大金を申
請べき
譯は
更に無しとて
種々に
斷りけるを平吉夫にては手前の心に
濟ず平に御受納下されよとて受取ざれば
是非無く富右衞門も右の百兩を
貰ひ受夫より我が
旦那寺へ
到りて是を
納め惡人ながらも
不便なりとて畔倉重四郎を始め彼三五郎鴻の巣なる鎌倉屋金兵衞其
外野州浪人八田掃部三加尻茂助練馬藤兵衞などの
菩提を
弔ひ又元栗橋の
隱亡彌十などの
安穩に歸島致す樣
祈祷を頼み其
後先祖の
菩提の爲とて
旦那寺に於て
大施餓鬼を取行ひ杉戸屋富右衞門世話人
頭と
成て
修行致しけり
扨富右衞門は
隱居なし
家督は
親類より
相應なる者を呼入て杉戸屋の家名を
繼せ其身は
只明暮念佛の門に入て
名號を
唱ふる
外他事無りしとぞ依て
追々佛果を得富右衞門は
長命にて
終に年齡八十一歳に至り
眠るが如く
大往生を遂げしとぞ
畔倉重四郎一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]小間物屋彦兵衞一件 いつはりなき
世なりせばいかばかり人の
言の
葉うれしからまじとは
朗詠集文詞の
部にも
出てよく人情に
適ひたる歌なれども
左右人世の欲情は免かれ
難くして
僞り
飾る事のなきにもあらず
然ば元祿の頃
大坂天滿橋の邊に與市と云者あり未だ若年にして
陽には
侠客風俗を好むと雖も
其質狡猾く
毎々新町を始め惡所場を
騷し諸處に於て
強請騙りなどせしが或時
喧嘩にて人を
過め
[#ルビの「あや」は底本では「なや」]遂に召捕れし
上久敷入牢して居たれども相手方
命に
恙なく御慈悲を願ひける
故遠島にも成べきを三ヶの
津構にて事落着に及びたり
元來船乘の事なれば夫より
堺へ
行船頭となりしが
左右に
博奕を好み身持惡きゆゑ人に
嫌れつゝ三十歳ばかりに成し
頃船中にて
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、381-8]人の
荷物を奪ひ取しより面白く思ひ追々
效を
積に
隨ひ同類を集め四國西國邊迄も
海賊を
稼ぎ十餘年を
消光けるが
其働き飛鳥の如く船より船へ
飛移り目にも見えざる
程故八
艘飛の與市と
渾名を取しなり或時
腕首に
大疵を
請其後働く事
叶はず彼是する中四十歳餘りにもなりしかば元祿の頃大坂を
追拂はれてより十五六年も過たる
故最早氣遣ひも有まじと思ひ
勘兵衞と名を
變東堀に
住居をなし表向は船乘内證は博奕を渡世として子分も
出來しにより妻を向へしに
渠が
連子の太七と云ふを實子の如くに
不便を加へ月日を送り居たりけり其頃大坂堂島に
彦兵衞と云者
小間物を渡世となし夫婦さし向ひにて
金持と云にはあらねども不自由もなく
暮しけるが
彼の勘兵衞の
甥彌七と云者を人の世話にて
先頃若い者に
召抱へ
荷擔にも連れ使ひにも出せしに至極實體に
勤る故或時新町の出入先より
誂への金銀物を
持せ使ひに
遣しに
夫切一向歸り來らず依て心配なし使ひ先を聞合すれども此方へは來らずとの事故
然すれば
取迯に
相違なし出入場へ申
譯濟ずとて早速宿に掛合しに勘兵衞大きに驚き扨々
不屆なる
奴四五日御待下さらば
尋ね出し御返し申さんと申に我等が品にあらず
出入先の
誂へ物故
一入難儀致すに付早速に御頼み申と
云置彦兵衞は新町へも右の段を申入れ八方を尋ぬるに彌七の
行方更に知れず
神鬮判斷などゝ心配する中新町よりは
度々催促に
預り殊の
外難儀なすに
依又々東堀へ
行勘兵衞へ
懸合處未だ一
向手掛りも無き由を申せしかば彦兵衞は
彌々困り
果當人が出ぬ時は新町へ
立替ねばならず依ては氣の毒ながら
右代物[#「右代物」は底本では「右代物」]丈の
品才覺有べしと申を勘兵衞聞入ず
勿々急には金子の
調達出來兼る
間先旦那の方にて御才覺下さるべし彌七
引負は追々御勘定申さんと云を彦兵衞
其は又餘り
勝手過る
話しなり
其爲貴樣請人に非ずや殊に此節我等も金子
不手廻りにて
問屋の
勘定滯ほり不自由なせば一兩日の
中に勘定致さるべし
然もなき時は向うより出入にされては
迷惑致すにより貴樣を相手に御願ひ申さぬ時は
誂へ
主へ相濟ず
爰を能々
勘辨し給へと段々事を
分て
云聞けれども勘兵衞は承知せず三十兩と
云金はとても
出來難き
故縱令公邊沙汰に成さるゝ共
御日延を願ふより外に
分別なし
誂へ
主への
云譯に
公邊沙汰になさるべし如何にも
受申さんとの挨拶なれば
是非なく勘兵衞を家主へ
預け
誂へ
主の方へも此段を申して日を
延し
直に西の御番所稻葉淡路守殿へ
願書を
差出したり
是に
依て享保三年五月十八日
双方共呼出され淡路守殿彦兵衞に向はれ其方儀彌七は
何時召抱たるやと尋ねらるゝに彦兵衞
謹んで
去年師走に召抱候と申を
能勘辨致せ未だ氣心も知れぬ者に
金高の品を取扱ひさせる事は
些少無念なるべし此以後は
隨分氣を
注よと申渡されコリヤ勘兵衞其品は彦兵衞
出入場より
誂へなれば
早速辨償ねばならず奉公人彌七
行方知れる迄は右の
品々彦兵衞に聞合せ
殘らず
辨償て
遣せと申さるゝに勘兵衞私し儀も
所々相尋しか
共行方知れず右品々とても高金なれば
勿々調達出來難し依ては彌七行方相知るゝ迄彦兵衞
不肖仕つる樣
仰付られ下さるべしと申立るを稻葉殿
能聞證文の
通其方甥とある上は
當人出しとて其品なき時は
辨償ずばなるまじ
殊に彦兵衞が所持の
代呂物に非ず出入場より預りし品なれば少しも
猶豫成難し三日の中に右の品
辨償よ
若調達出來ぬとあれば申付方が有るぞと
嚴敷申渡され右彦兵衞
聞通り勘兵衞へ申渡せし上は右の品
請取と云はれ兩人并に町役人共下られける斯樣に嚴敷申渡されしは
何故と云ふに勘兵衞は
大兵にして色黒く
眼大きく
額より口へ掛て
大疵の
痕一ヶ所又
小鬢の
外れより目尻に
疵痕二ヶ所有り至つて
惡相なれば奉公人の
欠落合點行ずと思はれ斯は申されしなり夫より勘兵衞は
早速彦兵衞方へ
行勿々三日の中に三十兩の品は出來申さず
何卒右の品
其許にて御求め下され借用の一札を
入利足は
何程にても出し申さんと云へば彦兵衞も氣の毒に思ひ我等も問屋の方
塞り
不都合なれども
此譯を話しなば
得心も致す可きかなれども其品は今十五兩と廿兩見せねば出來難きゆゑ貴殿十五兩
才覺し給へ夫にて
誂へ主の方は
片付べしと云ふに勘兵衞
此節は三兩とても出來難しとて
請付ねば彦兵衞も餘りの事に思ひ夫にては是非に及ばず御公儀次第と挨拶にぞ及びける茲に勘兵衞の妻お貞は
元男勝りの女なりしが先の
本夫に別れしより勘兵衞に六年程
連添居て此度の一件を
聞家内中の
衣類を
質入し又は諸處ヘ無心もなし其上に
博奕の
堂敷を取らば十兩は出來申さん夫を彦兵衞へ渡して頼み給へ御番所へ
度々出て
若も
舊惡が知れなば爲に成るまじと云へども
運命盡たる勘兵衞故其事は少しも氣遣ひなし
何して/\身代が大切大金を
出してなるものかと
云中に早三日立て呼出の日と成り
双方罷出しに勘兵衞其方は何故金子調達致さぬぞ今日中に彦兵衞へ渡せと有りし時
仰の
如く
樣々才覺仕つれども急に
整ひ候はず何卒
日延の儀を願ひ奉つると云ふを稻葉殿以ての外
叱られ其方
船持と彦兵衞が口上に有り船を賣りても差出すべきに不屆なりと申さるれば勘兵衞私し病氣に付き
不自由にて
船乘も出來難く其故
別して
難澁仕つり候間
兎角出來兼ね恐入候と申を汝出來ぬと言て彦兵衞は
如何して其品を持主へ
返すべきや
此上入牢と
成ても出さぬ
所存かと申さるゝに勘兵衞恐れ入り
御慈悲を願ひ奉つると
平伏して居るゆゑ淡路守殿如何に彦兵衞其方へ申
込だる事でも有るかと尋ねられしかば彦兵衞
這出勘兵衞儀
不如意に
付金子出來兼當分の内問屋より右の品
借受追て
返濟致さんと申し候に付私し儀問屋に
借金も是あり
切て當金の十五兩も
遣さねば出來難き
旨申
斷り候と申立るを聞かれ夫は
奇特なる申
分夫さへ
得心せぬは
合點の
行ぬ奴なり
手錠申付明日より三日の内に三十兩調達致せと
猶々嚴敷申渡されけり是
偏に淡路守殿勘兵衞を
怪敷思はれし故なりとぞ
其頃海賊二人召捕れ
詮議有しに是等は八
艘飛の
與市と云ふ者の子分にて海賊となりし由申ける故其與市は
何方に
住居致すやと
糺されしに海賊共七八年以前
泉州堺又は
安藝の
宮島阿州尼子の
浦に
相住海中にて西國大名の荷物船へ
飛乘賊を
働き候が向うに
手利の
侍士あり疵を
請夫より働き不自由に相成候とて海賊を
廢し故今は
何方に
住居仕つるや
存申さずと
答により其與市の疵は如何樣の大疵にて働き不自由になりたるぞと
云るれば海賊共
額より口へかけ一ヶ所
小鬢先より
目尻迄二ヶ所左の
腕より
臂を切られ右の小指一本之なく候と云を聞かれ與市は
何方の生れ又年は
何歳位の男なるや彼の者共
考へて歳は四十六
元大坂生れと承まはり候と申故夫にて
宜早速勘兵衞を
召捕れと同心を
東堀へ
向られける勘兵衞は
斯る事の
有とは知らず明日御番所へ
出未だ金は出來ぬと
云ば入牢となるに疑ひなしと思ひ彦兵衞方へ
掛合十兩渡す
對談に致せし所
俄に
捕方踏込で勘兵衞を
本繩に
掛奉行所へ
連行るゝゆゑ
[#「連行るゝゆゑ」は底本では「連行るゝゑゆ」]當人は云ふに及ばず家内の者大いに驚き此度の一件に付て召捕るゝ
筈なしと
怪しみ居たるに勘兵衞は
頓て白洲へ
引出され彼の海賊共と
押竝べての
吟味に
付双方顏を見合せて驚きし樣子を稻葉殿には見て
取れ如何に海賊共與市は手に
入たり此者に
相違有まじと云はれし時
詞を
揃へ與市に
違ひなき由申ければ淡路守殿如何に勘兵衞其方儀
豫て
怪敷廉も
之有により
取調に及びし處海賊の與市に違ひなし
眞直に舊惡を申立よとありしに勘兵衞是は南無三と思ひしが
隱せるだけ隱さんと私し事與市と
云ひたる
覺え之なし
元來勘兵衞と申候と
陳ずるを稻葉殿イヤ
汝隱すとも茲に居る海賊共は汝が
手下同類なりと申し汝先年船中にて
働きし時手疵を
負右の
小指なきは
確なる證據なり與市白状致せと申さるゝに勘兵衞は
空嘯き如何樣に御尋ねあるとも私し
儀與市と申たる儀御座なく候と白状なさねば
猶海賊共に
尋らるゝに與市に相違之なくと申にぞ淡路守殿勘兵衞に
對れ其方
面體の疵は
何人に
切れたるや有體に申せと
睨み付らるゝに勘兵衞も命の
際なれば何分白状なさず因て先入牢申付られ
劇敷拷問に及びしかば終に
舊惡悉皆く白状しける故右海賊共と一處に
引廻の
上獄門に行はれたり
然ば勘兵衞の妻は
今更詮方なく
漸々に
首を
貰て
念頃に
弔ひしとかや
因て勘兵衞の妻お貞は
倩々考ふるに彼の彌七が
取迯の事より出入となりて
夫勘兵衞殿御
仕置となられしなり彌七が事さへなければ
舊惡露顯もなすまじきものを如何にも
口惜き
事哉此上は彌七を見當り
次第討取つて夫に
手向んと思ひ
悴太七を
呼勘兵衞殿は其方の
爲に
實の親には有ねども六ヶ年の
間世話になりたれば親に違ひなし彌七を見付次第
討取て佛へ
手向ずば人と云はぬぞと申渡すに太七は此時十八歳に
成ども餘り
義心少き
生れなれば一向其心なし然れども母の
命を
背き難く
委細承知せしと
云て夫より
種々に心を付て諸方を尋ね
常々新町へも
入込居たりしに彌七は勘兵衞が
御仕置となりたる事を
聞最早[#ルビの「もはや」は底本では「きはや」]恐るゝ者なしと四五日以前に大坂へ
立戻り久々にて一
晩遊んと其年七月十五日の夜新町の茶屋へ
這入所を太七は見付早々立歸つて母に斯と
咄すに母は大いに
悦び勘兵衞が
脇差を太七に
指せ其身は
出刄庖丁を
隱し夜半頃新町橋に
到て
待受たり彌七は斯る事とは
夢にも知ず其夜は大いにざんざめき
翌朝夜明方に新町の茶屋を立出橋へ掛る處を母親お貞は
斯と見るより
夫切よ
夫押よと
云に太七は
慄へ居て役に立ざれば母親は
衝と進みより
通り
違に太七が
帶したる脇差を
引拔彌七の
眉間より眼へ
掛て切付たれば彌七はヤレ人殺し/\とて
迯んとするを
疊かけて右の腕を
切落すに
慟と
倒るゝ處を太七は
慄へながら取て押へる中町内より人々立出樣子を
聞母子諸共先番屋へ
引上勘兵衞が後家の家主を
呼段々掛合の上屆に及びしかば
檢使出張にて勘兵衞
後家并に太七が
口書を取直に稻葉淡路守殿吟味に及ばれし處後家は
謹んで
夫勘兵衞舊惡の事は私し共一向
存申さず六年以前夫婦と
相成し以來
更に
惡事も之なく人の
世話も致し
信心を第一と
心掛私くし共に目を掛
勞り
呉候間惡人とは
少も心得ず又彌七儀は私しには少し
身寄の者故勘兵衞儀奉公の
受人と相成候處
渠が
取迯より
事發りて終に御仕置に相成候得ば
御公儀樣には
御道理の御仕置にも有べきが私しどもの身には彌七は
本夫の
敵故討取り候に違ひなく如何樣の御仕置に
仰付られ候とも
御恨とは存じ奉つらずと思ひ
込んで申を
聞れ淡路守殿大いに
感じられ彌七事金高の品を
持迯致し主人彦兵衞に
難儀を
掛夫が爲勘兵衞事番所へ出たる故
舊惡露顯して御仕置と相成事
畢竟彌七より事
起りたれば同人儀は
召捕次第仕置にも行ふ者なる故其方共へ
咎め申付るに及ばず
偖々女には
珍敷者なりと大いに
賞美致されける是より後お貞は
女伊達となり大の男の中へ
立交りて口を
利に物事能分別し太七を
船乘にして船を
補理へ名を勘兵衞と
改めさせ
其頃名高き女にありしとかや
偖又
堂島の小間物屋彦兵衞は彌七の
請人勘兵衞事御仕置に
成しかば大いに驚きしが是非なく三十兩の品を
辨償へ出入先は
濟せしかども此一件より勘兵衞の
舊惡顯れし事
甚だ
不便に思ひ居たるに彌七も又殺されしと
聞何となく世間も
狹き心になり
其上借金も多く
面白からねば一先江戸へ
下り何をして
成とも金の
蔓に取付かんと
工夫をなし女房にも
相談の上
仕合能ば其方共の
迎ひに來るべしと
云含め留守の入用にと金二十兩を渡し十二歳と九歳の男子を女房に
預け
尚又江戸表より一年に五六兩づつは送る
約束にて其身は三十兩
懷中し享保三年の
冬東の
空へ下りたり彦兵衞が女房は至つて
縫物に
妙を得たる故諸處より頼まれ
相應に
縫錢をも
取其上彦兵衞より
請取し金もあれば不自由なく
消光に
付本夫の
開運をぞ祈りける偖彦兵衞は江戸の
知己を
便りて橋本町一丁目の
裏店を
借元來覺えたる小間物を
商ひ未だ東西も知らぬ土地なれども
櫛笄簪の
荷を
脊負歩行に名に
負大都會なれば日本一の
貧き人もあれば
又双びなき
金滿家もありて大名も
棒手振も
押並んで
歩行を
構はぬ
繁昌の地故出入場はなけれども少しづつの
錢儲は
有により己一人身と
云元來大坂生れの事なれば
儉約して
消光中段々得意場も出來
始め廿兩ばかりの
代呂物も四年目には五六十兩の
代呂物を仕込大坂へ年に十五六兩も送りて
手許に十廿の金も有る故
彌々面白く
稼ぎしが
今年は代呂物も百兩程
仕込金も百兩位はある樣に成しかば大坂へ
歸らんと思ひしに昨日今日と
暮す
中早五年の月日を
送ける或日兩國邊より
歸る
途中俄に
夕立降來り
雷夥多敷鳴渡れども
雨具なければ馬喰町の馬場の
脇に
出格子の有る家を幸ひに
軒下に
立停り我が
宅も早二三町なれども歸ること
叶ず
雨に
濡て居るを格子の中より六十餘の
人品能老女聲を
懸其許庇の下に居るとも
濡れ給ふべし此方へ
入て雨を
凌がれよと
念頃に申せしかば彦兵衞大いに
悦び
然ば仰せに
隨ひ
暫時雨舍りを願はんと家へ
這入ば
下婢は
茶煙草盆などを持出て
挨拶なし
斯雷の
鳴に女ばかりにて
淋き
折柄故晴るまで
咄給へと
取卷しかば彦兵衞は元來
辯舌能上方の名所又は女郎屋の
體等面白く
咄により老女も
興に入り
其許には何方に
住宅致され候やと尋ねけるに私しは御近處橋本町
願人坊主の
隣に
罷在て小間物
商賣致し候と云ふを聞て幸ひ
銀の松葉の
小き
耳掻が
欲しと有る故
直段も安く
賣彼是する中に雨も
止しかば
暇乞して
歸りけり
偖小間物屋彦兵衞は
翌日手土産を
持馬喰町馬場の
脇なる彼の女
隱居の
許へ
行昨日雨舍りの禮を
言ひて
直に
商賣に出しが是より心安くなり
宵の内など
咄に
行近處へ出入場の世話をして貰ひけるが或時
貴君の御本宅は
何方に候やと
聞ば老女私は馬喰町二丁目
[#「馬喰町二丁目」は底本では「馬喰町二丁自」]米屋市郎左衞門と云ふ
旅籠屋の
隱居なれども
甥が居る所は家内も
大勢殊に客の有る時は百人も
押込故逆上りて血の道も
起す程の
騷ぎ
成ば私ばかり
物靜に
消光度と別宅致せしなりとの
咄を
聞御本宅へも御出入を
仰付られ下さるべしと申故米屋へも出入となり
其上急に出物などにて金子に
差支る節其は二三十兩又は五十兩と
時借も致し尤も
其都度々々速かに
返濟なす故隱居も彦兵衞が
堅き事を知て何時にても
用達て呉るのみならず諸處ヘ
引付出入場も多く出來るに付
明暮立入隱居の用事とあれば
渡世を
休みても致し居たり或時
雨天にて彦兵衞は
商ひを
休み隱居の
方へ遊びに參りしに
難波戰記の
本有を彦兵衞元來
本好故取上[#「元來本好故取上」は底本では「元來本好故取上」]見れば
鴫野今福の合戰なり是は
古郷のことに付土地の
方角も
委しければ面白く
覺え口の内にて
讀居たるを見て隱居少し
讀で
聞せられよと申しければ心得たりと聲を
上て
讀に
辯舌も
能支へると云ふ事なく佐竹家の
侍士大將
澁江内膳梅津半右衞門
外村十太夫等先陣に進み一の
柵二の柵を
打破り井上五郎左衞門
飯田左馬助等を
討取猶三の柵片原町なる
大學が
持場迄此勢ひに
崩れんとする處へ本城より
加勢として
木村長門守重成後藤又兵衞
基次秀頼公の
仰に隨ひ
繰出したりと
讀て彦兵衞
莞爾と
笑ひながら是よりは佐竹樣
大負と成て
御家老衆討死致され佐竹左中將
義宣公も危い處へ佐竹六郎殿
駈付て討死致されたればこそ佐竹樣危き命を
助り給ひしと
咄しければ隱居は今迄面白く
聞居たりしが彦兵衞が
咄を耳にも
入ず勝手へ
立て何やらん外の用事をして居るゆゑ彦兵衞も
本を
止煙草を
呑で色々咄を仕掛るに隱居は
兎角不機嫌故手持不沙汰に其日は
立歸りしが彦兵衞は
如才なき男なれば偖佐竹樣の
勝た所を
悦び
負た所を
嫌がるは何か
謂れ有るべしと思ひ
翌日は馬喰町の米屋へ
立寄小間物を
取廣げ少しの
商ひを
爲ながら市郎左衞門の女房に
對ひ御隱居樣には御年は
寄給へど
御人柄勝れ常の御方とは見え申さず如何なる
御由緒に候やと
尋ねしに女房笑ひながら
此方に居給へば御不自由はなけれど佐竹樣の
御年寄を廿年
勤られ只今以て三人
扶持づつ參る故
徐に
消光のが望みなりとて馬喰町馬場に隱居して居給ふと
委細咄しけるを聞て彦兵衞大いに
後悔なし
道理こそ佐竹家の
敗軍心に
適はず仕方こそ有るべしと夫より本屋を尋ね
天安記と
云る書物を
借出し隱居の方へ行て咄をするに一向機嫌の
直らぬ樣子なれば彦兵衞も
金庫をなくしてはならずと
種々に機嫌を
取面白い本を
御覽に入申さんと
存て持參致したり少し
讀申べし御聞なされよと佐竹殿小田山より
落し
掛天安が
籠りたる小田の城を一時に
攻落したる佐竹家の
武功を辯に
任せ讀上ると隱居は大いに機嫌直り
豫て小田天安を
討亡し給ふと云事は聞たれども本を見たる事なきに
能こそ
珍敷事を
聞せられしと打悦び詞の
和らぐを見て大坂
鴫野の合戰は上杉樣
負軍になる處を佐竹樣御歳六十になり給ひながら
薙刀を以て向ふ敵に
渡り
合八九人
薙伏られしかば諸軍此勢ひに乘て
追討したる故木村も後藤も遂に
叶ず柵の中へ
迯込しが共大坂の者には夫にては面白からぬに付木村が十分に
勝し樣に
書たると思はれ候と辯を
震ひて
云直しければ年は取ても女の事故
殊の
外機嫌能緩々彦兵衞に馳走なし前々の通り
懇意に出入をさせたりける或時彦兵衞隱居の方へ來り淺草觀音地内の小間物屋に
品物有る故仲間内の
直踏には十五兩から九十兩まで
付上たれども
能々見るに百兩に買ても二十兩位は利の有る
代物なれば私し百兩と
入札致落札になりたる故十兩
手附を
遣し
置し處明日九十兩持參致し
代物を
請取直に賣ても十四五兩は
儲有り
徐々賣ば三十兩は
屹度利の有る品何卒九十兩御貸下さるべし直に御入用に候はゞ
糶拂ひにして
指上申べし
少々手間取ても苦しからずば代物を御預け申て段々
御勘定致さんと申に隱居は是を
聞偖々
困た
事哉先月なれば早速用立申さんに當月は
霜月ゆゑ
何分貸難く氣の毒なりと申を夫は何故なりやと尋るに然れば
豫て
御門跡樣へ百兩
上たいと思ひ御屋敷より
頂戴の
御目録又は入ぬ物を
賣拂漸々百兩
整へし故此
御講の
内に上る願ひ是を見給へと百兩包を
箪笥の
抽斗しより取出して見せけるを彦兵衞大いに
感じ偖々御信心なる事
尋常の者には
勿々出來難き御事なるを
能こそ心掛給ひしと
甚く
賞美なし外々にて才覺致候はんと申ければ隱居は暫く考へ
脊負葛籠[#ルビの「せおひつゞら」は底本では「せおひつぶら」]一ツ取出し中より
猩々緋虎の
皮古渡りの
錦金襴八
反掛茶入又は
秋廣の短刀五
本骨の
扇の三
處拵への
香箱に
名香品々其外金銀の小道具を見せ是を質に入れたれば小百兩は
貸さうなものなりといひければ彦兵衞大いに
悦び當分御入用なくば御貸下さるべし用辨次第早速御返し申さんと
日暮過に右の品々を
借請我家へ立歸り家主八右衞門に頼み右の品を
質物に入れ五十兩
借請其身も二十兩程は
貯へたれば少しの事は如何樣にも
成べし
明なば小間物を
引請一
儲けせんと樂み夜の明るを
待居たり扨又米屋の見世にては
田舍より大勢客が
泊り
込手が
廻らぬ故隱居所の下女を
借て
働かせしが其の夜は
遲く
成しかば翌朝
歸しけるに
早辰刻頃なるに隱居所の
裏口締り居て未だ起ざる樣子なれば大いに
怪み
何時も早く目を
覺し給ふに
合點行ずと無理にこぢ
明て
這入見れば
這は如何に隱居は
無慚にも夜具の中に
突殺され
朱に
染て死したればアツとばかりに打驚き
惘れ果てぞ居たりける
斯りし程に下女は
慌狼狽近所の人々に聞ども
誰知る者もなく
早速米屋へも知らせければ市郎左衞門は云に及ばず我も/\と
駈付朱に
染たる死骸を見て
皆々茫然として言葉もなかりしが市郎左衞門
涙を拂ひ何ぞ
紛失の物はなきやと
吟味に及ぶ
所豫々大切にせし
脊負葛籠の無は盜まれたりと覺えしと云時夫は昨日夕方に彦兵衞殿參られ
御隱居樣に願ひお金の代りに四五日
拜借して
行れしと下女が
詞に
其は又如何の
譯成と問ば昨日彦兵衞殿金子の無心を申せし時百兩包を出して見せられ此お
講中に
門跡樣へ納る
故貸事叶ひ難し其代りに是を
貸んとてお
葛籠を貸給ひしが其お金は如何やと申故
箪笥の引出を明て見るに
其金なければ
偖は
盜賊の
業に違なし然れ共其金の
在所を知る人はなき筈なり夫とも
誰ぞ
金子を見たらしき者はなきやと聞に下女は
考へ夫も彦兵衞殿より外に見た者は無と申
故偖は下女の留守を知て
奪ひ取たるに
疑ひなし
左右此儘には指置難しとて
早々其段
訴へ出檢使を願ひしかば程なく
檢使の
役人入來りて
疵所を改め家内の
口書をとり何ぞ心當りはなきやと
尋ねの時右彦兵衞が事を
委細に申立しにぞ
是又町所を
書記し南町奉行所へ立歸り大岡殿へ申立ければ
早速召捕べき旨申渡されしにより同心二人
直に橋本町へ
立越し
所彦兵衞は
他行致し淺草へ
罷越たる由ゆゑ途中に待受しを知らず彦兵衞は金の
蔓に有り付たりと
悦び勇み望みの荷物を
請取是を
那して
斯してと心に
悦び我が
家を指て
立歸り淺草御門迄來懸る處を上意と
聲掛忽ち召捕れしかば彦兵衞ハツと驚きしが偖は買付たる小間物は
盜物なりしかと思ひ馬喰町の
番屋へ上られ早々橋本町へ申遣しければ
家主始め長屋の者共駈付彼是の世話をなし又は
下帶鼻紙等迄心付氣を丈夫に
持給へ大方物の間違ならんにより
頓て清き身體になるべしと力を付などする
中彦兵衞は奉行所へこそ引れけれ
偖も小間物屋彦兵衞は
其身罪なくして
享保八年
霜月十八日
入牢となりしが同廿一日馬喰町市郎左衞門并に下女留
隱居所の
隣家の者町役人等迄呼出有りて大岡殿市郎左衞門と
呼上られ其方
伯母は何歳に相成やと
尋らるゝに市郎左衞門
平伏して六十五歳に相成候と申立ければ
夫程の老人と云殊に女の身なるに
何故一
人指置しやとあるに市郎左衞門其儀は同居仕つるやうに申候へ共私し店の儀は
大勢の
泊り
客入込騷が
敷を
嫌ひ向島か根岸邊へ
隱居致度由望み候へども
漸々勸め近所へ差置下女一人付置候
處其日野州邊より男女の旅人五六十人着し
其外泊り
客大勢之あり凡百人ばかり
故勿々手廻り兼るに付隱居所の下女を借て
手傳はせしに
夜も
更し
儘其夜は下女事私し方へ泊り
翌朝客の
給仕などを仕舞て立歸り候處右の
騷動故大いに驚き候由を申立しかば大岡殿
下女留に向はれ只今市郎左衞門が申
立通りなりや又彦兵衞が
隱居を殺し金子を
奪ひ取し者とは
如何して知りたるやと問れしにぞ留は
恐る/\顏を
上彦兵衞事常々隱居所へ立入り金銀を
隱居より
借請し事も御座りし處去る十七日右彦兵衞參り
小間物の
拂ひを買候に百
兩程入用故九十兩ばかり一
兩日借度由を申せしに隱居は
暫時考へ正直なる彦兵衞なれば用立度は思へ
共豫て心願にて
御門跡樣へ百兩
上度と
漸々調へ此お
講の中に指上るに付今は出來難き由を
斷り
箪笥の
抽斗より右の百兩を出して見せしに彦兵衞も
隱居の信心を
譽外々にて
才覺致さんと申
時隱居脊負葛籠を取出し是を質に置れなば五六十兩は
貸申べしと云し時夫は
忝なしと持て歸り候
面體殊の
外怪敷存じ候と申ければ大岡殿市郎左衞門は
如何存ずるやと尋られしに市郎左衞門其儀は日頃彦兵衞
柔和なる男には候へども
舊大坂生れゆゑ關東者と違ひ
心根怖敷十が九ツ彦兵衞に
違ひ之なしと申立るを
能々勘考見よ
質物を貸て遣す程の
懇意成をまさかに忍び
込殺害は致すまじと思はるれど夫共彦兵衞に
相違なきやと念を押るゝに市郎左衞門は
一途に彦兵衞と思ひ
込其の
邊も
段々内吟味仕つりしに右百兩は
隱居儀竊に
貯へ置しを十七日朝の
内封金に
拵へ候へば外に見たる人は決して御座なく彦兵衞にばかり見せたる事に付
何分怪しく彦兵衞儀を
御吟味遊ばされ
伯母の
敵御取下され候樣にと申ければ大岡殿も
道理に思はれ其後彦兵衞を
呼出されし上
其方常に立入て
懇意に致し
金銀迄借受る程の
隱居を
何故殺害に及び
剩さへ百兩の金を奪ひ取りしぞ
不屆至極なり
眞直に申せと
問糺されしかば彦兵衞は意外の事に思ひ私し
儀日頃恩を
請候隱居を何とて手に掛け申べきや
其儀は一
向覺え之なくと申に大岡殿
然共隱居が
貯へたる百兩の金を見たる事有や
但知らぬかと申されければ其百兩は存じ居候私し
儀淺草に於て小間物の拂ひ
入札仕つり私し札に落候故十兩手附を
遣し外に廿兩
持合せ有れども七十兩
足申さず候間五六日の處七八十兩借用申度と
隱居へ申込候處當金百兩有れども
門跡樣へ納る
故用立難しと是非なく
相斷り候に付外にて手段せんと
暇乞致せし時質物を
貸呉候
間隱居の
志操を感じ
入背負葛籠を預り家主を相頼み五十兩の質物に入れ外にて金三十兩
借請淺草へ參り荷を
引取歸り候途中にて召捕れ
其節彼の隱居人手に懸りし事も承まはり重ね/″\大いに驚き申候と言立るを大岡殿
怪敷思はれ右百兩は十七日の
朝包金に
拵へ夕方
[#「夕方」は底本では「方方」]其方に見せ
隱居は
血の道にて宵から寢たと有れば外に右の金を知る者なし依ては
人殺盜賊の
段有體に白状致せと
嚴敷申されけれども決して右體の
惡事致たる事なしと申
切故是非なく
拷問に
掛日夜牢問嚴しければ
苦痛に
堪兼寧無實の罪を引受此苦みを免れんと
覺悟をなし如何にも
隱居を殺し百兩奪ひ取候に相違之なくと
白状に及び
口書爪印をなせしにより終に死罪の上
獄門とぞ成にける(此彦兵衞
牢内に居て
煩ひ
暫時の中に
面體腫脹上り忽ち相容變りて元の
體は少しもなかりしとぞ)
却て説淺草福井町に
駕籠舁を渡世として一人は權三といひ一人は助十とよび二人同長屋に居て
貧しき
暮しなれども正直ものといはれ妻子をもよく
養育しけるが米屋市郎左衞門が
伯母の殺されたる
霜月十七日の夜麻布邊へ
客を
乘行大いに
遲くなりて
丑刻ごろ福井町の我が家へ歸り來るに誰やらん
天水桶にて物を
洗ふ樣子なれども
暗き夜なれば確とも知れず
寒さは
寒し足早に路次口へ來て戸を
叩くに家主勘兵衞は
口小言たら/\
立出今夜は常よりも遲かりしぞ以後は
少早く歸る樣に致されよと
睨付て木戸を開ける故兩人は
渡世の事なれば那の
樣に云ずとも宜さうなものと思ひながらも
商賣柄[#ルビの「しやうばいがら」は底本では「しやうばらがら」]なれば
御不肖あれ以來御世話になるも
御氣の
毒に
付鍵を
御借申
置家内の者に
開閉をさせ申さんと云所へ
相長屋の勘太郎立歸り路次の開しを幸ひに直と入るを見て家主勘兵衞は
莞爾々々と笑ひかけ勘太郎殿何所へ行れしやなどと何の咎もなく
機嫌能咄ながら
家に入るを見て權三助十の兩人の大いに
腹を
立此方は
貧乏しても
明白手堅の
駕籠舁勘太郎は商賣なし
年中博奕に
騙りなどを渡世に暮せど大屋へ
鼻藥を
遣故何をしても小言を言ず此町内にて評判の
根生惡の家主勘兵衞め
退役でもせよかしと
呟きながら
[#「呟きながら」は底本では「咳きながら」]家に入
今宵は幸ひ旦那を
乘て六百文ヅツに有付たりと一
盃酒の
樂みに快よく
打臥けるが早夜も明し故助十は權三を
起し今朝は
寒ければ早く起て
朝湯へ
行暖まらんと呼覺す聲を聞權三も
反起打連立て表へ
出昨夜此所にて何か洗し樣子なるが夜中と
云合點行ずと見れば
天水桶の
側は血に
染中の水も
淡紅になりて居る故不思議に思ひ我々が歸ると勘太郎も
直に
續て
這入しが
慥に勘太郎なるべし喧嘩の戻りか
但追落でもしたか
生得惡黨なれば
夜稼をなすも知れずと
噂しながら
錢湯へ行しに朝湯も冬は
込合淨瑠璃念佛漫遊唄中に一段へ足を
踏掛ながら
昨夜馬喰町に人殺の沙汰有しが聞かれしやと尋るに一人の男其事は
今朝見舞に參りしが米屋の
女隱居が殺され百兩盜まれたり此事追付御檢視の御出なるべしと云傍より又一人の男夫は何時頃の事なるやと
問に
然れば
子刻時分に隱居小用に起たるを隣の女房が見たと云ば
其後の事ならんとの
噂を聞權三助十は目を見合せ心に
合點つゝ程なく我家へ歸り
昨夜の
咄は勘太郎に
極つたり是から錢の遣ひ方に氣を付ろと兩人は人にも語らず心を付居たりしに十日ばかり立と
博奕に廿兩
勝たりとて家の造作を始しが
押入勝手元迄總槻になし
總銅壺も
光輝かせしかば偖こそ
彼奴に違ひなしと思ふ
中小間物屋彦兵衞と
云者隱居を殺し金百兩奪ひ取りしとて
御所刑に成しとの噂を聞權三助十の兩人は
怪敷思ひ橋本町八右衞門
店にも
駕籠屋仲間有る故彦兵衞が樣子を聞に
平常正直にて
々[#「
々」は底本では「勿論」]人殺しなどなす者に非ず全く
拷問強く苦き
儘に白状なし
獄門に成たりと云ふ
評判にて大屋殿も三貫文の
過料を
取れし由併し大屋殿は惡くない人故地主を呼れ
退役には及ばぬと
仰渡され一件相濟たれども彦兵衞は
愍然さうな事をなしたりと
咄を權三助十は
聞彌々勘太郎を怪く思ふ中勘太郎は
家主始め長家中へも少しづつの金を
貸與へし故皆々勘太郎を
尊敬すれども權三助十ばかりは
渠に一向物をも言ず居たりけり
茲に又彦兵衞の妻子は大坂に殘り居ても江戸表より折々三兩五兩づつの金を
送り
商ひ
向も追々都合よき
旨便り有に付
頓て金銀を
貯へ歸り來らんと
樂み待居たる
折柄店請の方より今度彦兵衞の一件を
委細知らせ來りしかば妻子は大いに
歎き
哀みしが如何にも其知らせを
不審人の心は
旦夕に變るものとは云ども彦兵衞殿は
平常餘り
正直過ぎて人と物言など致されし事もなきお人なれば盜みは
勿論人を殺す樣なる事のあるべき筈なし
何共合點の行ぬ儀なりと云を子息彦三郎は漸く十五歳なれども
發明にして
孝心深き故母の言葉を
倩々聞落る涙を押へ
是迄父樣の歸り給ふを待居たる
甲斐もなく
罪有る人となつて
御仕置と聞ふる時は此大坂中に
評判を受るも
口惜と父樣はとても
浮まれまじきにより私し
事早々江戸へ參り實否を
承まはり自然此書中の如くに候へば
骨を拾ひ
御跡を
弔ひ申さんと云を
傍邊より弟彦四郎是も漸く十二歳なるが
進出私も參り兄と一所に
委細を
聞糺し母樣の御心を
慰めんと申せば母は兄弟の
孝心を喜び父樣が世に
在て此事を
聞給はゞ
嘸な
歡び給ふべし
暫し
涙に
昏けるが否々年も行ぬ
其方們先々[#ルビの「まづ/\」は底本では「まつ/″\」]見合[#ルビの「みあはせ」は底本では「めあはせ」]呉と云を兄弟は聞ず
敵討に出ると云にも非ず父樣の樣子を
聞爲參るに何の
怖敷事の有らんやと強て申故母も止め
兼夫程に思はゞ兄は
支度次第江戸へ赴くべし弟彦四郎は此地に止まり我が心を
慰めよと有に是非共兄樣と一所に
出立せんと申を兄彦三郎は押止め今兩人江戸へ赴く時は
母人甚淋しく思され猶も
苦勞を
増給はんにより其方は母樣の
傍に止りて
慰め
進らせよと
漸々宥め
賺し正月廿一日いまだ
幼弱の身を以て親と思ふの
孝心一
途に
潔よく母に
暇乞なし五兩の金を路用にと懷中して其夜は十三
里淀川の船に
打乘一日も早くと江戸へぞ
下りける
然程に彦三郎は
習ぬ
旅なれども
孝心深きを天も
憐み給ふにや風雨の
憂も
無十日餘りも
立[#ルビの「たち」は底本では「たて」]川崎宿へ着て
御所刑場是より
何程あるやと
尋しに品川の手前に鈴ヶ森と云所こそ天下の
御仕置場なり尤も二ヶ所あり江戸より西南の國にて生れし者は
鈴ヶ
森又東北の國の生れなれば
淺草小塚原に於て御仕置に行はるゝと云由を聞
然すれば我父は
大坂生なれば鈴ヶ森にて
獄門に掛られたる
事疑ひなしと夫より六郷の
渡場を
越故意と
途中を
手間取大森の邊りに來りし頃は
早夜も
亥の
刻なれば
御所刑場の
邊りは
往來の者も有まじと
思ひ
徐々來懸りしに
夜更と云殊に右の方は
安房上總の
浦々迄も
渺々たる
海原にして岸邊を洗ふ
波音高く左りは
草木生茂りし鈴ヶ森の御仕置場にして
物凄き事云ふばかりなし然れども
孝行の一心より
何卒父の骨を
探し求め
故郷へ持歸りて母に見せんと
御所刑場の中へ
分入那方此方を見廻すに
闇の夜なれども
星明りに
透せば白き骨の多くありて何れが父の
骨共知れず
暫時躊躇居たりしが
骨肉の者の骨には
血の
染ると聞し事あれば我が
血を
絞り掛て見んと
指を
噛て
血を
絞り掛け/\て
試みしに何れも血は流れて骨に入ず
斯る所へ
挑灯の
光見えしかば人目に掛り疑ひを受ては如何と
早々木立の
中へ身をぞ
潜めける
斯て彦三郎は
木蔭に
隱れ居る處に
夜駕籠の
戻りと見えて一人は
挑灯を持一人は
駕籠を
舁ぎ小便を爲ながら何と助十
去年此所へ
獄門に懸つた小間物屋彦兵衞那れは大きな
間違ひ隱居を殺したは勘太郎に
違ひないと思つては居れど彦兵衞の
親類でも有るならば
格別滅多な人には
咄も出來ず
可愛さうに彦兵衞は
浮みも
遣らず
冥途に
迷つて居るならんと彦三郎が此所に居るとも知らず
噂して
行過るを
篤と聞彦三郎は大いに
悦び
是偏に神佛の
引合に依て斯る噂を聞者なるべしと思ひ
竊と木蔭より
立出此人々に
尾て
行尋る者ならば明白に分るべしと後より
咄しを聞ながら行に
行共々々果しなく
誠に始て江戸へ來る事なれば何と云處なるか
町の名も知れざれども
其夜丑刻時分に或町内の路次を
開き二人ながら内に入るを
見濟し直に入ては
疑ひも有るならん明朝參つて樣子を
尋問ん一人の名を助十と聞ば知れるに
違ひなしと其夜は河岸に
石材木積置し處へ
行寄凭りて少し
睡まんとするに知らぬ江戸と
云此所は如何なる處やらん
若咎められなば何と答んと心を苦しめ夜の明るを
待事千
秋を
過るが如く
漸く東の
方白み人も通る故やれ
嬉しやと
立出往來の人に茲は何と申所なるやと
尋ねければ淺草御門なりと答る
故夫より東の
方廣き
往來へ出て又町の名を
聞に兩國也と云により
空腹なれば食事をなし
辰刻時分になり彼の
駕籠舁の入し路次のある町へ到り所の名を
聞に福井町なりと云にぞ豫て
見置たる權三助十が
長屋へ入り一通長屋を
見廻すに四ツ
手駕籠を前に置たる家ある
故是にて聞ば知れるならんと
小腰を
屈め助十樣と申は
此方に候やと
尋ければ
女房立出何の御用に候や
駕籠の
御入用にもあらば助十と申は此方の
相棒ゆゑ
仰聞られよと申にぞ
然樣ならば
昨夜駕籠に
御出なされしは助十樣
御一
處に候かと聞に如何にも
毎夜一
處に
駕籠を
舁ぎ
渡世致すなり何ぞ御用ならば上り給へと申を
幸ひに
草鞋を
脱で
上るに未だ
寢て居たる權三を
起し右の事を
話せば
早速起出て
顏を
洗ひ見るに十四五の
若衆旅裝束なれば
駕籠の
相談と心得て
挨拶をなすにぞ彦三郎差つけながら内々にて
御尋申
度事有つて
參上仕つりしなり助十樣の御名は
承まはり候へども
貴君の御名は未だ
承まはり申さず何と申され候やと問ば私は助十が
棒組權三と申者御用も御座らば
仰聞られよと申に若年ながら彦三郎は發明故見れば
見苦敷如何にも
貧窮の樣子なれば
金子一分を
取出し始て
參上仕つり内々御聞申度事御座るに付是にて
酒と
肴を
御買下さるべし
輕少ながら
御土産なりと申故權三も一向に
樣子了解ねば
辭退するを
得心せず
少しなれども
御請納下されねば申
難しと
達て
差出す故然ば仰に隨はんと
受納め扨御用の
筋はと
尋ねしに彦三郎
御二
階にて
内々御聞申
度人の耳へ入れては宜からずと申に付子供と
云怪み
乍ら助十を
呼二
階へ上り三人
膝を
突合せしに彦三郎は
聲を
潜め御家内樣御聞下されても
相成申さずと
直と
壁の
際へ寄り私は
大坂堂島の彦三郎と申者なるが
昨夜御當地へ
到着致し
未宿も取らず夜の明るを
待早速參上仕つる其譯は
舊冬御仕置に相成し彦兵衞が
事御存に候はゞ
委細御話下されよと申に兩人は思ひも寄ぬ
尋ねゆゑ私し共一向に其
彦兵衞殿と申御人は
御知己にもあらねば存じ申さずと答しかば彦三郎
涙を
流し
斯突然に
御尋問申せば
御不審も
御道理なれど私しは彦兵衞が
悴にて
當年十五歳に相成一人の
母御座候
處彦兵衞
御仕置に成しと聞て
打驚き
素より正直なる父彦兵衞人を殺し
盜などする者に非ず何か謂れの有さうな事と
明暮悲み
歎き一
向食事も致さぬ
故我等母を
諫江戸へ參り樣子を承まはり申さんと云て大坂を立出昨日六
郷の渡しを
越宵に
鈴ヶ
森迄參りしが
切て父彦兵衞の
骨なりとも拾はんと存じ
尋たれども更に知れ申さず然る處へ
各々方通り掛り給ひ彦兵衞が
噂致されし
故不思議に思ひ
直に鈴ヶ森を出て
御後を
尾て是迄は參りしなれども
夜中と
云御知己にも有らねば
河岸にある
材木薪などの
蔭にて夜を
明し
兩國へ
到りて食事をなし
好時分と存じ
只今參上仕つりしなり昨夜鈴ヶ森にて助十と
御呼成れたる
故夫を
心當に助十樣と
御尋ね申せしと
始終りを物語りけるに兩人は思はず涙を流し
偖々未だ年も行ぬ身を以て百餘里の
道を
下り
親公の
骨を拾はんとは如何にも
孝心の
段感入たり殊に鈴ヶ森の
凄き所へ夜中能も一人にて入給ひし者哉
然ながら
死骸を
貰ふには
非人小屋へ手を入れねば
勿々知れ
難しと申に
否夫よりは親彦兵衞が人を殺たるには非ず外に在との御話しゆゑとても死たる彦兵衞が事は是非に及ばず
切て外に本人があらば
其の
科人を出し父彦兵衞が
惡名を
雪ぎ申度其本人を知らせ給れと
渠が
志操を
具に申ければ權三は一
體涙脆き男なるが助十に
對ひ何と
此御若衆が鈴ヶ森に居たる時に
我々通掛るも
不思議又鈴ヶ
森にて小便を
爲時彦兵衞殿の
咄をしたも
是神佛の
御引合にて
其孝心を
愍み給ふ故ならん
爰は一番二人が力を
盡して
働らかにやならぬ
其方何と思ふと問けるに助十も
素より
正直者にて勘太とは
大の不和なれば
云にや及ぶ力を
盡して
進ぜんと申にぞ彦三郎は大に
悦びしが江戸不案内の事故如何して
宜からんか何分にも
頼むとあれば助十は
考へ彦兵衞殿の居られた
家主八右衞門殿は
此邊にての
口利ゆゑ是へ行て
相談有べしと云を彦三郎御長屋中に
怪敷人有との事なれば此御家主へ相談は
如何に候はんと
尋ぬるに權三
打笑ひ爰の
家主は店子の中に
依怙贔屓多く下の者を
叱る事は持前なれども表へ出ては口の
利る大屋に非ず
殊に寄たら當人へ
泄して
迯すも知れざれば彦兵衞殿の家主八右衞門殿を
尋て
能々相談なし給へと
勸めるに付彦三郎は
御深切の
御詞忝けなしと
打悦び
内外の
事共諜合せ橋本町へぞ急ぎける
偖彦三郎は橋本町一丁目家主八右衞門と
尋しに
[#「尋しに」は底本では「尋ねしに」]早速知れければ八右衞門の家に行き
對面致せしに八右衞門は彦兵衞の
悴彦三郎と
聞胸塞り
姑言葉も出ざりしが漸々に
首を上げ能こそ尋ね參られたり彦兵衞殿は
不慮の事にて
相果られ
嘸々力落し
成べしと云に彦三郎は涙を流し父事御仕置になりしは是非に
及ず
然ながら其人殺盜賊は彦兵衞に之なく外にあるにより此段御公儀へ訴へ父が
汚名を
雪ぎ申度何卒
御執計ひを願度依て推參致せりとの言葉の
端々未十五歳の
若年者には
怪敷思へども又名奉行大岡樣の御吟味に
間違のあるべき樣なし
由無事を訴へ
其許迄御咎を
蒙るは
笑止千萬但證據有やと尋ぬるに然れば福井町に
住權三助十と云ふ
駕籠舁二人證人なりと申せば八右衞門
首を
傾け
其許何時江戸へ參られしやと
問に彦三郎は
今朝福井町へ
着し
直に承まはり
糺し只今
爰許へ參りしと申ゆゑ
彌々合點行ず段々樣子を聞くに昨夜の
事柄より權三助十が話し
等委細に
物語りしかば八右衞門は彦三郎の孝心を大に
感じ早速權三助十を呼に
遣り
猶譯を
聞に去年十一月十七日の夜中に歸る
機天水桶にて血刀を
洗ひ居る者あるに付
能々見るに同長屋の勘太郎と申者なれば
怪敷思ひながら
空知ぬ
振に罷在し所右の勘太郎
急に二三十兩掛て
造作を致し道具を
買妻子の
身形も立派になり二十兩勝た三十兩勝たと
博奕に勝た
咄をする樣子何分
合點行ず常には
負た事ばかり云ひて勝た事を
云ざるに全く金の出處を
疑はれぬ樣に勝し事を
吹聽するに疑ひなし其上長屋中へ
錢金用立家主へも金を
貸故勘太郎を二
無者の樣におもひ我々如き
後生大事と渡世する者は
貧乏を嫌ひ一向に構ひ付ず
睾丸も釣方とやら私し共でも得心せぬ故長屋の
泥工の
棟梁は年頃と
云人も
尊敬する者なれば此者を以て勘太郎は
店立を致されよ往々は家主の爲にもなるまじと申入たれば大に
憤り
却て我々を
追立んと
爲故泥工の
棟梁家主に異見して
相濟し程の事もあれば馬喰町の隱居殺したるは勘太郎に
違なしと申を八右衞門
聞てなる程勘太郎とやらん
疑は
敷者なれども
屹度隱居を殺したりとも
定難し併し御吟味を願はゞ何か惡事有る者ならんが
各々證人にならるゝとも此事を以て
訴訟にはなり難し何か
工夫の
有さうな事と
姑く考へしが我等一ツの手段あり彦兵衞
悴彦三郎と申者私し方へ參り
正直無類の彦兵衞
勿々盜など
爲者に非ず何故
辯解をして助け
呉ざるや夫にて家主が
勤るかと惡口致すにより我々
御慈悲願を致したれども公儀にて御吟味の上
御所刑に行はれたる事ゆゑ我々が
力に
及ずと申せしかば何分
聞入ず私し共を
切殺親に
手向ん是則ち敵討なりと
立騷ぎ候に付皆々打寄異見仕つれども聞入申さず
據ころなく
召連[#ルビの「めしつれ」は底本では「ふしつれ」]て御訴へ申上ると彦三郎を連て皆々南御番所へ罷出申べし其時
御尋有らば彦三郎殿
委細の
事故を申上られよ其上
各々方御差紙を以て召呼れ御吟味有るならば必定夫にて彼の勘太郎なるや彦兵衞殿なるや
明白に分るべしと申故三人も八右衞門が
才智を感じ夫より長家の者二三人へ
話彦三郎をぐる/\
卷に
縛上名主へも
屆置召連訴へにぞ及びける(誠に感ずべきは
人智又恐る
可も人智なり
正雪は
治りし天下を
押領せんと
巧智慧の深き事
量べからずと雖も英智の
贋物にして
悉皆く
邪智奸智と云ふべし大石内藏助は其身
放蕩と見せて君の
讎を討ちしは忠士の
智嚢を振ひ功名を萬世に殘せし正智なり夫程には
有ねども八右衞門が
才智感ぜずんば
有べからず
其謂は訴へに及ぶには先彦三郎は
宿を取家主を頼み名主の玄關へ
掛り
勿々手間取て
埓明まじ殊に十五歳の彦三郎江戸
不案内と
云公邊には
馴ず又證人の權三助十共明白に口の
利る者に非ず品に
寄と皆々入牢にもなり
理有て罪に
陷る事も
有べしと
思慮し因て斯く計ふ時は彦三郎無法にもせよ
親孝心にして僅か十五歳の者が大坂より
遙々來りて
騷ぐ
共憎むべき事に非ず
又駕籠舁二人勘太郎事を申立たりとも
夜中血刀を天水桶に洗ひしは何か謂れあり彦兵衞一件に
關係無共兩人申上る言葉も
御咎有まじ又勘太郎彌々馬喰町の人殺なれば彦三郎が
念願も
成就する故前後を考へたる事にして八右衞門が
分別等閑の及ぶ處に非ずといふべし)
却説八右衞門は彦三郎へ申
含置たる通り名主の玄關にて
強情申
張故是非無召連訴へと相成則ち
口上書[#ルビの「こうじやうがき」は底本では「こうじやがき」]を差出せり
乍恐以書付奉願上候
一橋本町一丁目家主八右衞門申上奉つり候去冬御所刑に相成候彦兵衞悴彦三郎と申者父彦兵衞無罪にして御所刑に相成候事私し申上方宜からざる故也因ては父の敵に候へば討果彦兵衞に手向度由申候に付公儀の御成敗は我々力に及ばずと申聞候へ共一向得心仕つらず殊に若年と申大坂より一人罷下り候儀亂心の樣に相見え旅宿承まはり候處必至の覺悟に御座候間宿も取申さず直樣私し方へ參り候由にて惡口仕り候に付諸人異見を差加へ候へども物狂敷體にて引渡候處も之なく候間據ころなく當人召連御訴へ申上奉つり候何卒御慈悲を以て彦三郎へ御利解仰聞[#ルビの「おほせつけ」はママ]られ大坂表へ罷歸り候樣御取計ひ偏に願ひ上奉つり候以上
橋本町一丁目家主
八右衞門
と
之有に
依早速彦三郎を呼出されしに
細引にて
縛し
儘白洲へ
引据たり時に越前守殿
此體を見られ是は何か
仔細有と
敏くも察せられしかば
徐かに詞を
發し如何に彦三郎其方が父彦兵衞事去冬人を殺し金子を
盜取し
科に因て
御所刑と相成し事八右衞門の
存たる事に非ず若年の事なれば父の敵と思ふも
道理なれども
今更是非に及ばず早々大坂へ立歸るべしと申さるゝに彦三郎涙を流し私儀十歳の時父彦兵衞儀江戸へ下りしゆゑ
指折算へて歸るを待居りし中に御所刑となりしかば母は
明暮歎き悲み病氣も出べきやに存じ候まゝ私し儀江戸へ下り
骨を
拾ひ
持歸らんと母を
諫め此度江戸表へ參りし
途中鈴が森と承まはりしまゝ何卒父の骨を拾ひ得て持歸らんと存じ夜に入て
種々尋探せ共
何れが父の骨なるや相知れ申さず然る處其夜
亥刻時過にも候はん二人の駕籠舁通掛り去年此所にて彦兵衞御仕置になりしが
那の人殺しは彦兵衞に
非ず惡人は
外に
有由話しながら
行過候故後を付て參りし所淺草福井町とやら申町迄
到り其所の
路次へ入候は
最早丑刻頃とも
覺敷候に付其夜は外にて夜を
明し翌朝右の駕籠屋へ參り段々
相尋委細の
事故を承まはりしに馬喰町人殺は
別人なる由全く彦兵衞の
所業に非ず然るを家主八右衞門
熟々糺も仕つらず御所刑と致候段
殘念に
存小腕ながらも敵討を仕つる所存なりと申立ければ大岡殿
夫は其方若年ゆゑに
心得違ひなり然ど其人殺は外に
有と申たるは福井町にて何と申者なるぞ名前を申せと
云れければ福井町勘兵衞
店權三助十と申者
委細存罷在候間此者より
御聞取下され候樣にと
願けるにぞ偖々
其方は
孝行者なり吟味中八右衞門へ
預ると申渡されしかば其日は彦三郎を
伴ひ橋本町へぞ歸りける
大岡殿より
差紙を以て勘兵衞
店權三助十の兩人尋ねの儀
有之に
付召連罷出べき
旨達されければ家主勘兵衞は兩人を
呼貴樣達は何ぞ
惡い客人を
乘て物でも取たか
但し客人の
錢金を
騙でも爲せしか御奉行所へ明日召連罷り出る樣にと御
差紙を
到來し誠に我等
迷惑至極なり然れば
夜駕籠など
舁者を店へは
置れぬと申を
聞權三は大に
腹を
立賤き渡世は致せども然樣な惡事は少しも
爲ず善か惡かは明日出て
聞給へと平氣の挨拶なれば勘兵衞
是非なく
受書を差出し翌日同道にて南奉行所へぞ出でたりける權三助十の兩人は彦三郎が八右衞門方へ
御預と
聞豫ての都合と覺悟をなし
白洲へ罷出けるに大岡殿出座有て如何に其方共
先達て御仕置に仰付られたる彦兵衞
悴彦三郎と申者は
何方に於て
面會致したるやと尋ねられしかば兩人ハツと
平伏なし私しども先夜大森まで客を
乘亥刻過頃鈴ヶ森迄歸り來り候處
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、402-3]彦兵衞の事を
思出し去年此所で御所刑に成りし彦兵衞は
正直者ゆゑ
勿々人殺夜盜等は致すまじ此盜人は外に
有んと申事を誰も
聞人は
有まじと存じ
噂仕つりし處
御所刑場の
蔭に右彦三郎が居て其事を聞きたるにより私しどもの
後に付て參り
住居を
見置翌朝尋ね來りて彦兵衞悴なる由を申
聞鈴ヶ森にて私し共の話を承りしにより父彦兵衞の
外に人殺有らば
教へて
呉る樣にと涙を流して頼むに
付何故人も
怖るゝ鈴ヶ森に夜中居たるやと尋ね候へば
父の
骨を
拾念頃に
弔ひ
度存尋ね候と申ゆゑ
數多の骨の中にて
爭か是が親の骨と分かるべきやと申候に彦三郎
血を
絞り骨へ
掛る時は
他人の骨へは
染込事なく父の骨なれば染込候
故指を
噛切血を掛て見候とて
噛切たる指を見せしに
付私しどもゝ其孝心を感じて思はず
落涙仕り如何にも彦兵衞には
有之まじ外に人殺ありと申たるに
相違御座なく候と申ければ大岡殿聞給ひ
然ば馬喰町米屋市郎左衞門
伯母を
殺金を
取たる者外に有るやと
尋問らるゝに兩人ヘイ其人殺しと申は私ども同長屋に罷在る勘太郎と申者ならんと
存候
旨申立けるを家主勘兵衞恐れながら
進出其勘太郎は
實體にして
渡世向出精[#ルビの「しゆつせい」は底本では「しゆつせし」]仕つる者に
付勿々右體非道の働きを致す者に候はずと云ふゆゑ大岡殿權三助十と
呼れ
今聞通り家主は
實體者なりと云ふが何ぞ證據有るやと
糺さるゝに兩人其儀は去年十一月十七日麻布迄客を
乘行[#ルビの「のせゆき」は底本では「のせきゆ」]夜丑刻過に歸り候處町内の天水桶にて
刄物を
洗ふ者あり
其形容勘太郎に
髣髴たりとは存じながら私し
共見屆けるにも及ばざる事ゆゑ路次を家主に開いて
貰ひ内へ
入し時勘太郎も
續て
後より
這入しに付偖は刄物を洗ひしは勘太郎に相違なしと存じ其夜は
寢翌朝天水桶を見て候へば
淡紅色になり桶にも血の付き有る故勘太郎は
何方にて人を
斬しやと存ずる處
昨夜馬喰町米屋の女
隱居を殺し金百兩盜みたる者ある由噂仕つるにより扨は勘太郎が
仕業なるか
但外に
喧嘩でも致したるかと思ふに
中裁の沙汰もなく
博奕打の喧嘩なれば是非沙汰の
有筈なるに一向何の
咄もないは
彌々以て女隱居を殺害したるに違ひなしと思ひし
中家の造作家内の
身形も立派になり皆々
不思議に存じたる所博奕に廿兩勝た三十兩勝たと
吹聽致せども是は盜賊の名を
隱す心と存ぜしなりと委細申立るに此時大岡殿與力を
呼れ
[#「呼れ」は底本では「嘴れ」]何やらん申渡され又家主勘兵衞と
呼出さるゝに勘兵衞は二人を
睨ながら進み出づればコレ勘兵衞右勘太郎の
商賣は何を致すと尋ねられしに勘兵衞ハツと
云し
切暫時く
返答出來ざりしが
漸く
季節の物を商ひ候由申ければ權三助十
否々と
云ながら
傍邊より進み出で勘太郎渡世と申ては外に之なく
年中博奕のみ致居候間
怪敷存じ
店中に差置ては家主の爲に
成まじくと思ひ
泥工の
棟梁權九郎と申者を以て勘太郎
店立申入候へば勘兵衞
以の外に
憤り却て私し共に店立申付候程の事にて何故か勘太郎を
贔屓仕つり候と申せしかば
茲に於て大岡殿大聲に其方家主をも
勤ながら
右體の者は訴へ出べきに
僞りを以て申立る條勘太郎
同意と思はれる因て
手錠申付ると勘兵衞に手錠を掛られ
追て呼出すとて皆々白洲を下られけり
然ば勘兵衞は兩人を
恨けるを權三助十は
冷笑ひ其許は商賣出精爲者には店立を申付博奕を
打夜盜などする者を大切に致さるゝ上は覺悟の前なりと今迄
惡樣に取扱はれたる
意趣晴しの心にて存分に
云散してぞ立歸りける勘兵衞は早々勘太郎へ右の
咄をせんと長屋へ行きて見るに
疾勘太郎は
召捕れたりと聞きて
呆れ果てたるばかりなり
偖も福井町勘兵衞
店勘太郎
召捕れ入牢申付られしが其後大岡殿
呼出の上去年
霜月十七日の夜中馬喰町馬場の
傍らに住居罷在る米屋市郎左衞門
隱居の老女を殺し金百兩
奪ひ取りたる事
明白なれば
陳ずるとも
遁れ難し
眞直に白状せよと有りければ一向然樣の儀
覺え之なく候と申を然らば汝は何を渡世致すやと
問るゝに勘太郎
拔らぬ
面にて
其季節の物を
商ひ仕つり候と申立るを大岡殿季節の商賣と云ふは何を
賣て渡世に致候やと申されしかば夏は
瓜西瓜桃の
實の
類秋は
梨子柿の類など商賣仕つると申せども
自然言語濁故イヤ其方家内を
檢査處賣歩行荷物一ツもなくして家内にはめくり札
賽は
數多ありしなり此返答は
何ぢやと
問詰られしに勘太郎一言の返答も出來兼ねたり越前守殿コレ勘太郎汝は
惡黨と云ふ事
疾に知れて有るぞ又々吟味せば舊惡有るべし
苦痛せぬ
中白状致せと申さるれども人殺夜盜の覺えなしと
云故入牢させ
置嚴敷拷問に及びしかど白状せぬにより妻子を
呼出され勘太郎如何致して去年十一月より家内造作諸道具等を立派に致し内々金子を
貯へしや
眞直に申せと
糺さるゝに女房は
慄へ出し私し女の事故一向存じ申さずと云ふ時大岡殿其儀勘太郎申には去年十一月十七日の夜に馬喰町米屋の女
隱居を殺し金を盜みしと白状致したり
殊に
其譯は其方へ
咄内々博奕に
勝た
積に
云觸したる由其方隱す共勘太郎白状なれば
最早遁れず
達て隱せば汝も女ながら
怪き
奴ゆゑ入牢の上拷問申付けるぞと
威されしかば
面色蒼然私しは馬喰町にて人を殺したる事は存ぜねども去年
霜月十七日博奕より
遲く歸りし時如何なる故か
面色宜からず衣類に血が
付居し故樣子を尋ね候に
途中にて喧嘩を致し
切付たれば其者
迯行しが跡に
落せし物あるにより
拾上て見れば百兩の金を
紙に
包水引を掛け上書に奉納と
書記し有りし事を承まはり候と申立ければ夫にて
宜と女房は
其儘歸されたり偖大岡殿
智略を以て勘太郎が妻を
問糺されしに委細申立たる故勘太郎が
爲し
業と知れ拷問嚴敷詮議あれども何分白状なさず因て
猶又大岡殿白洲へ呼出され其方は一通りならぬ
惡黨なれ共
斯程の
責に
合て白状致さぬは又大丈夫なり
然ながら汝が妻の詞に百兩の金
紙に
包奉納と
書水引にて
結び有しと申立て有る上は白状せずとも
差免と云ふ事なし日々苦痛するは却て
未練と云ふ者なり妻子も
倶に仕置に行ふべきなれども今白状いたさば
慈悲を以て妻子は
助遣さん夫とも
強情を申
居らば見る前にて妻子も
倶に入牢申付る惡黨は未練を
殘さぬ者なり此越前が
睨んだ
眼に
違はないぞと申されければ勘太郎も
所詮助かり難しと
斷念然らば白状仕つらんとて
居直り米屋の隱居とは存ぜざれども
夜中忍込み切害の上金百兩
奪ひ
取たるに相違之なくと白状に及びければ
神妙なりと申され其金百兩有りし事如何して知りたるやと
糺されしに勘太郎其日小間物屋彦兵衞金子無心を致して居る樣子を
格子の
外にて承まはりしが
黄昏頃故竊と
覗きし所百兩包を取出し御門跡へ納める金なりと云ひ又
箪笥の引出へ
入たる處を見ると
欲心萌し年寄たる女一人
怖べきに
非ずと思ひ其夜
忍入て殺害なし金子奪ひ取り候と其手續きを一々白状に及びしかば茲に於て
口書爪印相濟又々牢内へ送られける因て彦三郎
始め呼出されしに馬喰町米屋市郎左衞門は
程經たる事ゆゑ大に
怪みながら
請書をだし又福井町勘兵衞并に助十權三皆々廿五日南奉行所へ罷出
腰掛に
相詰呼込を
待けるに大岡殿
午後未刻過退出ありて
直樣橋本町八右衞門一件と
呼聲に
連れ各々白洲へぞ出にける
偖享保九年二月二十五日橋本町八右衞門一件一同呼出に
付皆々白洲へ
居竝ぶ時馬喰町市郎左衞門と
呼上られ昨冬霜月十七日の夜其方
伯母儀切害の上金百兩盜まれし段訴へ
出右盜賊は小間物屋彦兵衞なりと申故我等
利解を下し
勘辨致す樣に申渡たれど彦兵衞に相違なし
伯母の敵なりとて
頻に吟味を相願ふ故彦兵衞を
糺明に及びし處白状により御所刑に申付られたる事存じの通りなり然るに彦兵衞
悴彦三郎と申者今度大坂より來り彦兵衞事
右等の
惡事致す者に非ずと願出るに付段々再吟味に及ぶ處彦三郎が
孝心の致す處其方伯母を殺したる者手に
入たり只今其者白状の趣き夫にて承まはれと申渡され又勘太郎に
向はれ其方米屋の女
隱居を殺し金百兩奪ひ取たる
手續委曲申せと云はれしかば勘太郎其儀は私し事
夕方馬喰町馬場の
脇を通り候
機出格子の中にて
金談の聲致すにより何事やらんと承まはりしに彦兵衞事
無心の處
折惡く百兩は御門跡に奉納の願ひにて
御講中に差上る
積是見給へとて彼女隱居は紙に包みし金子を出して見せたる故
羨敷思ひ我今百兩有らば安樂なるべし役に立ぬ寺への奉納と存じ
何方へ仕舞置やと
竊に
覗しに
重箪笥の引出へ入れたるを
能々見置其夜丑刻頃忍び込み右の金を取らんとする時女隱居目を
覺し何者と聲を立る故是非なく殺し候と申に大岡殿何と市郎左衞門只今
聞通り本人は勘太郎と云ふ者にて彦兵衞には非ず
疑ひの心より
遮つて申立罪なき者の命を取し事
不埓千萬云解有るやと申されしかば市郎左衞門は
今更惘果何共申譯之なく大いに
後悔なし恐れ入り奉つると平伏してぞ居たりける又彦三郎と呼れ其方若年にして
孝心深き段天に通じ父の惡名を
雪ぐ事感ずるに餘りあり又橋本町家主八右衞門并に
駕籠舁權三助十其方共彦三郎が孝心を感じ證人となりて
惡黨を訴へに
及し事
輕き身分には
奇特の心底なり只今
聞通り人殺夜盜は勘太郎に相違之なし然樣心得よと云はれしかば彦三郎は云ふに及ばず八右衞門權三助十等
皆有難き仕合なりと喜びけり時に大岡殿福井町家主勘兵衞と
呼上られ其方家主の身を以て
然程の惡黨を存ぜず差置き
剩さへ
格別懇意に致す事如何の心得なるや恐入たるかと
叱られしかば勘兵衞一言もなく
平蜘の如くになり居たり此時權三助十
恐ながらと進み出で此儀市郎左衞門
何樣に願上候とも罪もなき者を御仕置に仰付られ候事
明白の御沙汰とも存ぜず然ども市郎左衞門申立より彦兵衞
御所刑と
有ば下より申上候儀は何事も御取上に相成候や
伺ひ奉つると申出しに彦三郎涙を流し父彦兵衞罪なき事明白に相分り有難く存じ奉つるにより此上の
御慈悲に父彦兵衞が
死骸を
下し
置れ候樣に願ひ奉つると申
傍より又八右衞門も
進出彦三郎儀罪なき父を殺し候
恨みなりとて私しを敵と申候儀
道理に存候
然すれば天下の御奉行樣にも罪なき者を
御仕置に仰付られしは同樣ならんか併し
尊き御方故
其儘に相濟候事や私しどもが
然樣道に
缺たる事あらば重き
御咎を
蒙るべし願くは彦兵衞を
御返下され候樣に願ひ奉つると申ければ大岡殿
無言にて居られし故權三助十は大岡殿を一番
言込閉口させんと思ひ天下に於て
御器量第一と云ふ御奉行樣にも
弘法も筆の
過失定て
惡口と思召すならんが罪なく死したる彦兵衞が身は如何遊ばさるゝやと口々に申故大岡殿皆々
默止と
仰られしを權三助十
默止ますまい此一件彦三郎申分相立候樣に
御慈悲を願ひ奉つると云ふに八右衞門彦三郎も
進出權三助十
諸共喧すしくこそ申けれ
扨も越前守殿には
暫時默して居られしが
頓て一同控へ居よと
云れコリヤ彦三郎其方共に
彼是云込られ此越前一言もなし之に因て彦三郎へ
褒美を
遣す夫にて皆々
不肖致せと白洲の外に控へ居たる一人の男を
呼出されしに久しく日の目を見ざりしと見え
顏色は
惡けれ共
能肥太りたりイザ此者を遣すぞ皆々
對面せよと申されしかば
各々不思議に思ひ其人を見れば
是は如何に去冬御仕置になりし彦兵衞なり彦兵衞は彦三郎を見るや
否や白洲をも
顧みず涙を流し汝は彦三郎なるかと手を
取悦び
縋りしかば皆一同に
惘果たるばかりなり時に大岡殿申さるゝは此彦兵衞儀白状は致せしかど其
口振と云ひ
人體と申し
疑は
敷思ひ外に罪有る者牢死せしを
身代の
獄門になし彦兵衞は
助命させ置たり然るに果して勘太郎と云ふ本人出しは我も
悦ぶぞ
是偏に彦三郎が孝心に因る處一ツは八右衞門が
取計ひ權三助十の
正直より起る處又某に對して惡口せしは惡口に似て惡口に非ず其方どもが如き者
町方に有るは我も悦びの一ツなり彦兵衞は渡し遣はす又々追て呼出すとて
下られしかば皆々悦び
勇む事
限りなく大岡殿の
深慮を感伏したりけり此外に
出會せし
公事訴訟人迄も涙も流し感ぜぬ者は
無りしとぞ扨又大岡殿は市郎左衞門に
對はれ罪を
償ふには
首代と云ふ事あり
先達て其方伯母より借たる
雜物は富松町質屋六兵衞方にて五十兩
借請其金を以て小間物荷を
買調へたる故其小間物は一
旦取上物と成しが今度彦兵衞へ下さるゝなり
然上は右五十兩并に
利息を六兵衞方へ遣はさねば相成るまじ彦兵衞事病氣と云ひ大坂へ立歸る
路金にも
差閊るならんにより右五十兩の金は其方より六兵衞方へ
勘定致して遣はせ
若難澁申に於ては此方に
存寄ありと申渡されしかば
委細畏まり奉つると返答に及びたり又質屋六兵衞其方儀は彦兵衞が
預け置たる
質物一
旦盜物となり取上し所今明白に相分り不正の品に之なき上は右五十兩
元利共彦兵衞より勘定致すべき
筈なれども只今承まはる通り故米屋市郎左衞門より受取と申渡されけり
斯て又勘太郎儀は獄門同人妻子は
追放家財取上となり家主勘兵衞は役柄不相應殊に惡黨の勘太郎より金を
借請正直成者を追立候儀勘太郎同類に
等く
重くも仰付られべく處格別の御慈悲を以て家財取上追放申付られ家主家財勘太郎家財とも權三助十へ下さるゝ間
双方申
合然るべく
住居致せと申渡され又勘太郎
有金六十兩は彦三郎并に權三助十へ廿兩宛下し置れ權三は勘兵衞
跡役となり町の事なれば
當分心添を八右衞門に申付る又名主儀は
日頃行屆ざる故家主の善惡も
辨へざる段
不束なり以來
屹度心付候樣致すべき旨申渡され一件落着とぞなりける是先に一旦彦兵衞
獄門と成りしは大岡殿申されし通り獄中にて病死の者の首を
切彦兵衞重罪なればとて
面の皮を
剥[#ルビの「むき」は底本では「きむ」]て獄門に
梟られしかば皆々彦兵衞は全く御所刑に成りし事と心得居たるを
此度斯明白に善惡を
糺されし故世の人彦兵衞は
無實の罪に死なざりし事を知り
後世に
皮剥獄門とて
裁許の
名譽を
殘されたり
小間物屋彦兵衞一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]後藤半四郎一件 仁は以て
下に
厚く
儉は以て
用るに
足和にして
弛めず
寛にして
能斷ずと
眞なる
哉徳川八代將軍吉宗公の御代名譽の
官吏多しと雖も
就中大岡越前守
忠相殿は享保二年より元文元年まで二十年の
間市尹勤役中裁許の件々其明斷を稱する事世の人の知る所にして天一坊越後傳吉村井長庵又は小間物屋彦兵衞の
皮剥獄門煙草屋喜八其他種々樣々の
裁斷有しが茲に
説出す
後藤半四郎と云者は
元土民の子なれども
生質正直にして能五常を守り
爾も天然の大力ありと雖も是を
平常に顯さず仁義を專らになし強きを
挫き弱きを助け金銀を
惜まず人の
難儀を救ふ此故に大岡殿の
吹擧に預りて將軍家の
御旗本となり領地五百石を賜り其子孫徳川氏の末まで
連綿と
繁昌せり或人の歌に
人多き人の中にも人ぞなき人になせ人人になれ人
と詠じし心に
協ひしは實に此半四郎のこと成べし茲に
其素性を尋るに
元讃州丸龜在高野村の百姓半左衞門と云者二人の
悴を
持り兄を半作と
號弟を半四郎と云此兄の半作は至つて
穩當の
生質なれば是所謂
惣領の甚六とか云が如し然れども惣領の
甚六
々々と世間にては
馬鹿者の樣に云ども
勿々然にあらず既に諸侯にては御嫡子と稱し町人ならば家の
跡取又在家農家などにては
遺跡樣と
云惣領は
遺跡と
云が
道理なり
是を
説明せば
惣領に
生るゝは
格別に
果報ある事なれば
貴賤に
限らず
惣領は
其家の
相續人なり
因て
自然の
徳を
備へて
生れ
得しに
相違なく
既に
右大將頼朝公にも
源家の
御惣領なりしが一
旦清盛公の
爲に
世を
狹められて
蛭ヶ小島へ
流罪と成せられたれども終には石橋山に義兵を
揚られし處其軍利なくして
伏木の穴に
匿れ給ひしを梶原が二心より危き御身を助り夫より御運を開かれ其後自身に
戰場へ向はれし事なく
木曽義仲公追討の
刻は御舍弟範頼義經兩
公達に命ぜられ宇治瀬田の二道より進で一戰に木曽氏を
討亡ぼし續いて兩御舍弟を大將となし一ノ谷の戰ひに平家の十萬騎を
討平げ
猶又進んで
屋島壇の
浦の戰ひに平家を
悉皆く討亡ばして源氏一統の御代となし御自分は
鎌倉に
居ながら日本
草創武家の天下として武將の元祖と
仰がれ給ふ事是頼朝公は惣領の甚六なれ
共自然と大徳の
備られし事斯の如くなり又其御舍弟の兩人は現在其功を
顯はされしかば人々大いに是を
稱へ
兎角利口發明の樣に思はるゝなり則ち義經卿近くは
眞田幸村又平家にても知盛卿など皆其類にして漢の高祖の
所謂獵師と
獵犬の功に違ひ有が如し然りと雖も百姓半左衞門の
悴半作より弟半四郎の方は生れ
質働きもあり又大力無双なれども
温順にして兄弟共至つて親に孝行を
[#「孝行を」は底本では「行孝を」]盡し
兄弟の
中睦ましく兄は弟を思ひ弟は兄を
尊敬日々農業耕作油斷なく
精を出し
隙ある時は山に入て
薪を
樵或ひは
日雇走り使ひ等に雇はれ兩人とも晝夜を分たず
稼ぎて親半左衞門を大切に
養育なし殊に半四郎は至て正直律儀なる者故近所隣村の者ども半四郎々々とて何事に
寄ず
頼み使ひて
贔屓せしが人にはなくて
七癖と言如く半四郎事
極酒好にて
古しへの
酒呑童子も三舍を
避る程の大酒なり
然ども喧嘩口論は勿論何程に
酩酊なすとも夢中に成て
倒れ或ひは家業を
怠惰しと云事なく只酒を飮を
樂みとして
稼兄を助ける故人々
心隔なく半四郎を用ひしとぞ右半四郎の親類に
佐次右衞門と云者あり是は相應の百姓にて田地百五十石を所持なし居たりしが
或時此佐次右衞門
伊豫國松山の親類へ
金子五十兩送るべき事ありしに大金の事故
飛脚を雇ふより
年若なれ共半四郎の方が
慥ならんとて右五十兩の金に手紙を添て
渡せしかば半四郎は是を請取て
懷中し急用なれば
直に
旅支度して
出立せんとするを見て親半右衞門
[#「半右衞門」はママ]兄半作ともに是を
氣遣ひ如何に急用なればとて大金を
持ながら夜道を
行は不用心なり
早今日も
申刻下りゆえ
翌の朝早く出立して參るべしと種々に
止めけれ共半四郎は殊に大力と云
氣象も
勝れたれば一向承知せず必らず御案事あるな
萬一途中にて
追剥など
出逢事あらば打倒して仕舞ふ分なり少しも
構はず
出行たり元より足も達者にて一日に四十里づつ
歩行珍しき若者なれば程なく松の尾と
云宿迄來懸りしに最早
疾日は暮て
戌刻頃とも思ひしゆゑ夜道をするに空腹なる時は途中にて
困るならんと
只ある杉酒屋へ入て酒を五合
熱燗に
誂へ何ぞ
肴はなきやと問に最早
皆賣切鰹の
鹽辛ばかりなりと答へけるを
夫は何よりの品なりとて五合の酒を鹽辛にて忽ち
飮干し又五合つけて
下されと云に亭主は
肝を
潰し
未年も
行ぬ若者なれど
怖しき酒飮もあるものと思ひお前さん其樣に飮れますかと
聞ければ半四郎は
微笑ナニ一升や二升は朝飯前に
飮ますと云に亭主は
惘れ
果又五合出せしに是をも
直に
呑て飯を
喰勘定をする
機から表の方より雲助ども五六人どや/\と
這入來り
最仕舞れしかモシ
面倒ながら一
杯飮ませて下せいと云つゝ
鉢にありし
鹽漬の
唐辛子を
肴に何れも五郎八
茶碗にて
冷酒をぐびり/\と飮居たりしが今半四郎が
胴卷より錢を出し酒飯の
代を勘定する處をじろりと見るに胴卷には彼の
頼まれたる金子五十兩
蛇が
蛙を
呑し樣に成て有ければ雲助共
眼配せをしながら
片隅へより何か
密々咄し
合直と半四郎の
側へより是もし
息子さん御前は是から何處へ行つしやると云に半四郎は何心なく
私しは是から夜通しに松山迄參りますと云つゝ
胴卷を
仕舞居るに雲助共それなら夜道は
物騷ゆゑ
駕籠に乘て
御呉なせへ夫に今見れば
率爾ながら胴卷には大分御金を持て御出なさる樣子是から先は松原で
寂寞道だ見れば
未御年も行ぬ御若衆御一人にては不用心
何か
駕籠に乘て御出なせへと云に半四郎は大に
困り夫は/\御前方御深切にさう云て
下さるゝが私しは
何も駕籠が
嫌ひなり
然れども
生質仕合に足が達者で日に廿里三十里は
樂に
歩行ますから先駕籠は
止に仕ませうと
草鞋の
紐を
締直し支度をして行んとする故
彼方に居る雲助共は
大聲[#ルビの「おほごゑ」は底本では「かほごゑ」]揚ヤイ/\
能[#「能」は底本では「熊」]そんな事で
行る者か何でも乘て
貰へ/\今時
生若い者が大金を持て夜通しに松山迄
行と云は怪い奴だ飛脚と云ではなし大方若いのが主人の金を
盜出したに
違ひはあるめへ
若達て乘ずば
酒代を
貰へ/\そんな奴に此街道を
只通られて
詰るものかオイ若衆酒代を
貰ひやしやうと
云機しも又表より雲助共三四人どや/\と入來りて大勢
徒黨して
騙り懸しが中にも酒機嫌の者は
面倒なり
叩き倒せ
打偃して胴卷の金を取れと
騷ぎ立オヽさうだ違ひねへ
何で主人の金をせしめたのだ
何處からも
尻の
來氣遣はねへ
〆ろ/\と一同に飛懸らんずる
樣子ゆゑ半四郎は心の中に
扨は此奴等我は
年端も
行ぬ若者と
侮り
訝な處へ氣を廻し酒代を
騙りに懸りしは不屆千萬とは思へ共
故意と言葉を
和げもし/\御前方はマアとんだ事を
言つしやる我はそんな不屆な者ではなく
丸龜在高野村の百姓半左衞門が
悴半四郎と云者親類から頼まれたる
飛脚にて松山の親類へ
行に相違なく急用故に夜道をするが怪い者には決してござらぬと云に雲助共は
更に
聞入ずそんなら
酒代を置て
行只通してなるものかと半四郎一人を
取卷ける故半四郎も今は是非なく
覺悟を
極め
猶内懷にて胴卷を
確かと結び帶をも手早く
〆直し三十六計逃るに
如じと
隙を見合せひよいと身を
躍せて奴等が
股を
潜り
脱表の方へ駈出すにヤレ逃すなと
追駈るを表に待たる仲間の雲助共おつと兄イさう
甘く
行ものかと捕へしを半四郎は振拂ひ
行んとすれば雲助共は
追取卷どつこい
遁して成ものか
此小童めどうするか見ろ
命惜くば
酒代を置て行と
懷へ手を入れければ
最勘忍はならずと半四郎は其腕を取て
逆に
捻上向うの方へ突飛すに大力のはずみなれば
蜻蛉返りを打て四五間先へ倒れたり是を見て雲助共は少し
後逡をなせしがイヤ恐しい
奴平氣な
面をして居をる
夫惣蒐りにて叩き倒せと手に/\
息杖を振り上打て
蒐るに半四郎も酒屋の
軒下にありし
縁臺を押取觀念しろと云ながら
片端よりばらり/\と打拂ひければ
瞬間に八九人の雲助共殘らず
擲き倒され
這々の
體にて散々に逃行ける故半四郎は其儘
打捨足を早めて此所を立去りつゝやれ/\危き目に
遭ものかな何さま親父殿や
兄貴は夜道は
浮雲なき故朝立にせよと言れしは今こそ思ひ當りたれと
後悔なして急ぎけり
偖又雲助共は再び一所に
集合己れは
脛を拂はれ
汝は腰を打れたりと皆々
疵所を
摩り又は
手拭など
裂て卷くもあり是では渡世が六ヶ敷と
詢言々々八九人の雲助共怪我をせぬ者なかりしかば如何にも殘念なり此意趣晴を
仕度けれ共彼奴は
勿々一通りの奴にあらず怖しい
手利ゆゑ五人や十人では
迚も
叶ひ難し仲間の者を大勢
談合早々追駈三里の松原にて
待伏なし彼奴を打殺し胴卷の金を取て
頭割にせんとて彼是二十人ばかり呼集め何でも奴は恐い
早足だと云ひおつたから
最餘程行し時分なれ共
未々三里の松原までは懸る氣遣ひなし本海道を
追駈るより
裏道を
駈拔んとて皆々駈出し
頓て三里の松原に出で大勢の雲助共今や來ると
彼方此方に
潜み手ぐすね引て待伏たり半四郎は
神ならぬ身の夢にも知ずたどり/\て
道芝の
露踏分つゝ程なくも三里の松原へ差懸るに木の間の月は
晃々とさし
昇り最早夜の
亥刻時分共思ふ頃
良原中まで來りしに最前より待設けたる雲助共松の
蔭より前後左右に
破落々々と
現れ出でヤイ/\
小童子待先刻松の尾の酒屋では
能も/\我等を打倒し居ツたな
其意趣晴しに
汝を
擲き殺して金も衣類も
剥取なり覺悟
爲をれと詰寄するに流石の半四郎も仰天し
南無三
方斯大勢に見込れては我が
命はとても
無ものなり
好々叶はぬ迄も
爭で手込になされんや命の限り腕かぎり
叩き散して
遣らんものと
傍らの松の木を
楯に取サア
來い汝等片端より
捻り殺して呉んずと身構たれ
共手振にて何の
得物のなきを付込惡者共は聲々に人の來ぬ間に打殺せと先に進みし一人が
振揚かゝる
息杖を飛違へ
樣もぎ取て手早く
腋腹を
突ければウンと計りに倒れたり續て懸るを
引外し空を打せて
踉蹌所を
直と飛込で
襟元掴み遙か向へ
投退れば其餘の者共追取卷ソレ打殺せと云まゝに十五六人四方より
滅多やたらに打懸るに半四郎は只一生懸命奪ひ取たる
息杖にて多勢を相手に
薙立々々四角八面に打合折柄半四郎が持たる
杖は忽ち中より折れたりけり
因て
是は
堪らじと
逃出せば雲助共はソレ逃すなと一同に追駈來るを半四郎は
遁るゝだけは
逃延んと一
驂走りに二三町
息をも
吐ず逃たりしが惡者共は何所迄もと猶も
間近逐來る故に半四郎は如何にもして逃行んとする
機幸ひ
脇道の有しかば身を
飜へして逃込を惡者共は七八人
裏手へ廻り立
挾み前後より追迫るにぞ半四郎は
彌々絶體絶命畑の
縁なる
榛の木をヤツと聲かけ
根限になしサア來れと身構へたり之を見るより雲助ども十七八人
破落々々と追取卷て
打蒐るを事共なさず半四郎は力に任せて
打合ども死生知らずの雲助ども十七八人
群がり立此方は助る味方も
[#「味方も」は底本では「味も方」]なく只一人の事なれば大力無双の身なれども
先刻よりの打合に今は
勢根も
盡果たれば
傍邊の
畔を
踏外し
※[#「足へん+韆のつくり」の「価のつくり」に代えて「襾」、U+8E9A、415-18]く所を雲助共夫れ/\
占たぞ今一
息叩き殺して
剥取と折重なつて打倒すに半四郎も
最早叶はずと一生懸命の聲を
揚人殺し/\助て呉れ/\と呼はれ共
良夜も
更し原中なれば人影とては更になく松吹風の音のみゆゑ雲助共は
増々氣を
得手取足取引倒し已に
斯よと見えたる折柄一人の
武士此松原を通り懸り其樣子を
窺ふに一人の若者を大勢にて追取卷
組づ
解れつ戰ふ有樣善か惡かは分らね共若者の
働き
凡人ならず天晴の手練かなと感じ
乍らに見て居たるに今
大勢の雲助に
叩き
伏られ已に一命も危く見ゆる
故彼武士は立上り何は
兎あれ惜き若者見殺しにするも
情なし
率助けて呉んと
鍛え上たる
鐵の
禪杖を追取松の
蔭より
躍り出で
茲な欲心衆生の
惡漢共命が惜くば逃去べしコレ若衆氣を
慥に持れよ我等助けて
進らせんと聲を懸けるに雲助共は振返りヤア
茲な入らざる入道め
汝も
倶に成佛させんと打て蒐るを武士は
閃りと體を
引外し
然らば目に物見せんずぞ彼禪杖にて片端よりばらり/\と討倒せば雲助共は大に驚き
是は恐ろしき入道かな
命有ての
物種なり逃ろ/\と聲を
懸後をも見ずに逃出すを猶武士は
鐵杖にて
中るを幸ひ
打据たり因て雲助共は
頭を打れ
脊も
痛め或は向う
脛を
薙られて皆々半死半生になり散々にこそ逃去けれ武士は是を見て
呵々と打笑ひ扨も
能氣味哉惡漢共は
逃失たりと云つゝ半四郎の
側に立寄是々氣を
確かに持れよと
抱起して懷中の氣付を與へ清水を
掬びて口に
注ぎなどして
厚く
介抱なしけるに半四郎は未だ口は
利ざれども眼を開き追々に
息も入たる樣子を見て
先々強き
怪我もなかりしや
而其許は何國の者ぞ又如何成る用事有て夜中只一人此原中を通り懸りしやと
問ふに半四郎は漸々に氣を
落付是は/\何方樣かは存ぜね共危き命を御助け下されし事
實に有難く此御恩生々世々忘れ申まじ私しは
讃州丸龜在高野村の百姓半左衞門の次男半四郎と申者に候が
親類より
頼れし急用にて
伊豫の松山迄參る途中先刻松の尾と申宿にて夜食の
機から雲助ども理不盡に酒代を
搖りかけ候
故據ころなく大勢を打散して
逃參りし所に早くも
惡漢共大勢
徒黨して此の如く危き目に
出遭し
也夫と申も實は親類より金子五十兩を預り居候故此金を目懸惡漢共に付込れし所
僥倖に
貴公樣の
御庇蔭を以て一命を無難に助かり候事呉々有難く候と涙を流して
語りければ旅の武士は
始終樣子を
聞其は
不屆なる
奴輩なり
其許若年にして今の働き
勿々凡人の業とは思はれず天晴農民の
悴には
珍しき者なり某しは豐後府内の浪人にて
後藤五左衞門
秀盛入道と
號無刀流の劔術を心懸け諸國武者修行なす者なれば決して
氣遣ひにするに及ばず尤も猶途中不用心ゆゑ是より
其許を松山迄送り
遣はすべし又其許に折り入て
咄し
度事も有により
徐々と
歩行れよと申に元來正直なる半四郎ゆゑ少しも是を疑はず
誠に御深切の段有難く存じ奉つる然らば仰に隨ひ申べしと立上り夜の
更しをも
厭ひなく是より兩人打連れ立ち松山
指てたどりけり
實に後藤秀盛の仁勇
天晴の武士と謂つべし扨又五左衞門は道すがら種々の物語りをなし半四郎の樣子を
試し見るに
應答の言葉遣ひ
温順にて自然其中に勇氣を
含み又父兄を大切になす
孝悌の
備はり殊に力量早業は目前に見し事ゆゑ心の中に思ふ
樣都て
藝道を習ひて
覺ゆるを人と云習はずして其業に妙を得るを神と云
然ば今此若者百姓にて
耕作を
業とし居ながら自然劔法の
妙を得たる手練あり先刻大勢を相手に
討合有樣勿々凡人ならず加ふるに大力
無双にして正直正路に見え
父兄に
孝悌を盡す樣子
是天晴の若者なり此者を
貰ひ受て我養子となし無刀流の劔法を
傳授せば
虎の
翼を
添るが如く古今無双の名人と成べし我が
流儀を後世に殘すは是に増たる事あらじ幸ひ兄は親の
家督を
繼と申せば此者を是非とも
貰ひ受て老の樂みにせんと思案を
極め道々半四郎に此趣きを
咄しけるに半四郎は大いに悦び誠に有難き
思し召なり命の親なる
貴公樣の事なれば何として
否むべき樣は御座なく候
間親元さへ承知仕つらば私しは何れとも思し召次第隨ひ奉つらんと申ける
故後藤は
甚く悦び我等未だ一人も子と云者なきを天も
憐み斯る孝子を
授け給ふならんと心の中にて天地を拜し半四郎と
倶に
頓て伊豫の松山に到り則ち半四郎は頼まれし五十兩の金を
親類へ渡し夫より又後藤と同道して
讃州へぞ立歸りける
然るに半四郎は
後藤秀盛と同道して
讃州高野村へ立歸り我家に到りて
父半左衞門へ
途中の
次第を落もなく物語りければ半左衞門は
且驚き
且喜び
早速秀盛を
請じ我子を助けられし
恩人なりと
厚く禮を述て種々
饗應けるに後藤も
恙なき歡びを云て
暫時酒宴交せしが
頓て半四郎を養子に
貰ひ
度由物語りしに半左衞門も大いに悦び
迅速に承知なしければ此に於て萬事の
咄し
調ひ五左衞門は
直に半四郎を
貰ひ
受我養子となしたりけり是に因て後藤秀盛は丸龜の城下へ
無刀流劔術の道場を出せしが此道場日々に
繁昌して殊の外弟子も多く何一ツ
不自由なく
暮しけるに
付後藤は
我目矩を以て
貰ひ
請し半四郎ゆゑ己れが實子の如くに
愛し半四郎も
又能孝養を盡しけるが其中無刀流の劔術を一
入心を盡して
教授なすに元より
神妙を得たる半四郎なれば上達する事一を聞き十を知るの
才智にして忽ち其奧儀をも極め
古今無双の達人となりし所に早くも八ヶ年の
星霜を送りける
中今は門弟中も大先生より小先生の教へ方が
宜等とて皆小先生々々々と半四郎を
尊敬なすの餘り大先生は
最老込れ
迚も小先生には及ぶまじと云を却つて父の五左衞門は我が
奧儀を
傳授したる
甲斐ありと悦ぶ事限りなく爰に於て
丸龜の道場は養子半四郎に
任せんと五左衞門は我名の一字を
讓つて後藤半四郎
秀國と
名乘せ
門弟中へも右の
趣きを
吹聽なし五左衞門は是より
猶我が
流名を國々へ
弘めんとて又々諸國
武者修行を
志ざし
旅立せんと云に半四郎は是を
止め最早御老年の御事此上の御修行にも
及ぶまじければ是までの如く
當所に
在して以後は
月雪花の
詠を
友となし老を養ひ給ふべし私し
儀當時は
斯の如く劔道指南仕つり候樣に相成諸人の
尊敬を受る事皆御父上の
御高恩なれば
切て此上の御恩報じには
朝夕御側に在て
御介抱申上
度聊かも御不自由はさせ申
間敷何卒御止まり下さるゝ樣にと
只管に
諫めけれども父秀盛は更に聞入ず成程其方が申す
志ざしは
忝けなけれども未だ/\我等とても全く
老朽たるといふ身にもあらず諸國を見物ながら我が
流儀をも弘めんと思ふなり然りと雖も
某がし萬一病氣の時は
何國に
居とも早速飛脚を以て知する間其節は
迅速に來りて
呉よ是のみ我等が
頼みなりと申ければ半四郎は是を
聞如何さま此儀を
強て止むる時はもはや
老朽たりと云に
似て
却つて不孝になるべしと思ひ夫は仰せまでもなく
何時にても御用の節は
早速に參り候はん其儀は少しも
御氣遣ひあるべからずと申ければ五左衞門も安心なし
然ば
近日出立におよばんと是より
旅の用意に及び
跡の道場は半四郎に
任せ
置門弟中へも夫々に別れを
告後藤五左衞門秀盛入道は此時五十五歳にて
先關八州を
志ざし再び武者修行にぞ
立出ける扨又後に殘りし後藤半四郎
秀國は丸龜の道場を
預り
猶追々に門弟
殖ければ殊の外に
繁昌なし居たるに此程半四郎の實父半左衞門は
不計風の
心地にて
煩ひ付しかば種々
醫療に手を
盡しけれども終に
養生叶はず
相果けり因て
兄半作は勿論半四郎も
元より孝心深き者ゆゑ
其愁傷大方ならずと雖も
斯て有べきにあらざれば
泣々野邊の送りをなし七日々々の
追善供養も
最念頃に
弔ひ兄弟
喪にぞ
籠りける然るに半四郎は
豫ての孝心ゆゑ親の
亡後は兄の半作を親の如くに
尊敬假にも其意に
背く事なく五節句其外何事によらず自分が門弟中より申受たる金子有時は兄半作へ
遣はして
田地田畑を
買求めさせ兄半作の身代を助け孝順なる事誠に
稀なる深切にして自分は一向に
姿態にも
構はず
着ば着たなり又門弟中より申うけたる金なども何程あるやら勘定もせず少しも
欲心のなき人なれば門弟
中の中
重立たる者が
夫是の
取始末をなし
賄ひの世話を致し居る
位の事にて一向世帶には
構はぬ人なり又酒は元より大酒故
日毎に一二升づつ飮ぬ日とてはなく然れども今は何一ツ
不自由なく
暮し居けるが
兎角に
他の
世話好にて丸龜の城下は勿論
近隣の村々まで
困窮の者へは米錢を惜まず施し病人へは
醫師を頼んで
藥を
飮せなどして貧民を救ふ事を常の樂みとなしければ
丸龜近在にては後藤半四郎を
神佛よりも有難く思ひ皆々が
生神々々と云ひて尊敬なしたりけり扨又後藤五左衞門秀盛入道は
讃州丸龜を出立なし夫より東國を廻り諸所にて無刀流の
名譽を
顯し上州
大間々迄到りしが此所に道場を開き多くの門弟も出來て
繁昌なし居たりしが兩三年を
過秀盛入道は
不斗煩ひ付し處
大傷寒となり殊の外大病ゆゑ門弟中大いに心配なし種々
治療に手を
盡したれ共更に
効しなく今は一
命旦夕に
迫り頼みの
綱も切果たる體なれば五左衞門
重き
枕を
上漸々と言葉
短かに手紙を
認め丸龜なる養子半四郎方へ急ぎ飛脚を遣はしたり
偖又半四郎は養父の
安否を
案事居たるに
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、419-17]上州
大間々よりの飛脚到來せしかば何事やらん急ぎ
書状を
披見するに養父秀盛の
直筆にて我等此度の病氣殊の外大切と有ける故大いに驚き
先返事を
遣はさんと早速參上致すべき
旨相認めて飛脚を歸し半四郎は豫て
約定の通り
駈着んと取物も取敢ず旅の調度を
整へ
直樣出立に及ばんとしければ門弟中は
肝を
潰し先生には何を
急遽く旅の用意を成れて
何方へ御出成れ候やと問けるに半四郎は
早草鞋を
履ながら然は各々方も御存知の通り
養父秀盛は當時上州大間々に
罷在候處此程大病にて一
命旦夕に
迫り候由の飛脚到來せし故今より關東へ
罷り下るなりと有しかば門弟中聞て夫は
御道理なれども先生餘り
御性急かと存じ候
而て又後々の儀は如何なされ候やと申すに半四郎
然ば其事なり後の道場は
其許方に任せ置により能樣に計らひ給はるべし何れにも師父の大病と聞ては
片時も
安閑として居る場合にあらざれば
兎も
角も
高弟衆が
代稽古をして間を合せられよ某し儀格別日數の懸る事もあるまじ何分頼み置と云つゝ
直樣出立なしたりけり元より
早足の半四郎ゆゑ
晝夜となく道を急ぎたれ共名に
負四國の丸龜より上州大間々迄の
道程百九十餘里の所なれば如何に急ぐとも道中に
隙取しかば其中に養父五左衞門は病死なし
最早門弟中の世話にて
弔ひも出せし
跡へ半四郎着しける故師父の
死目に
合ざるを如何にも殘念に思ひ
足摺して
歎き
悲みけれども今さら
詮術なければ養父の所持したる品々を
賣拂ひ諸入用の勘定等をなし又門弟の
中世話になりたる者へは夫々に
紀念分を
遣し殘りの金子は
葬りし寺へ
祠堂金に寄進なし其外跡々の事共殘る方なく
取片付暇乞して出立に及ばんとするに門弟中一同に
名殘を
惜み
暫時當所に足を止められ
劔道御指南下され候樣にと
強て申けるゆゑ半四郎も
據ろなく然らば四十九日の立迄は
滯留せんとて此所に止まり養父の門弟に
稽古を致し
遣しけるに門人は大に
悦び大先生よりは
却て教へ方も
宜業前も一段上ならんなどと評し
彌々勵みけれども半四郎は
喪中の事故餘り多勢の入來るを
厭ひ
加之田舍は
物固くして四十九日立ざる中は
大精進にて
魚類を食する事能はず
然ども半四郎は元來大酒にして又
肴は魚類を好む
故精進には甚だ
困り
果自然力も拔る樣に思ひしかば或日門弟中に向ひ扨々是迄は
不思議の
縁にて御世話に相成千萬
忝けなく猶又各々方の引止めに因て
滯留致したなれ共某し國元にも
道場是ある事なれば
何時迄も長く
逗留も相成難く且歸國がけ江戸表も見物致し
度存ずれば
名殘は
盡ねども最早御暇申さんと云に門人共も甚だ
名殘は
惜めども今は止むる言葉もなく然らば
御心任せになされよと
各自餞別など
贈りければ遂に別れを告て出立なし江戸表へぞ到りける
偖又爰に
武州熊谷堤の
外れに
寶珠花屋八五郎と云居酒屋あり亭主八五郎は此邊の
口利にて
喧嘩或ひは出入等之ある時は
毎も
扱ひに
這入ては
其騷動を
鎭めけるに
渠が云事は皆是を用ひるゆゑ人々にも立られ至つて
侠氣有者なり此八五郎が女房は去年病死して跡には女子一人有けれ共最早三歳にもなりければ
乳も入らず
少づつ食事を
與へて
育ひけるゆゑ近所の者後妻を
勸めけれども夫は
面倒なりとて只一人子の
育つを
樂みに
小女一人若者二人遣ひて
居酒屋渡世をなし居たり然るに其年十月
中旬頃年の頃二十四五歳色白にして
鼻筋通りし男と又元服は致し居れども未だ十八九共云べき
最美麗なる器量の女を
連たる
浪人體の者夫婦
連とも言べき樣子にて男の衣類は黒羽二重の
紋付に下には
縞縮緬の小袖を着し
紺博多の帶を
締大小なども相應なるを帶して
更紗の風呂敷包み二つ
眞田の
紐にて中を
縛り是を肩に
引掛若き女は上に
浴衣を
覆ひたれども下には
博多縮緬の小袖を二枚着し
小柳に
縫模樣ある帶を
締兩褄を
取揚緋の
蹴出を
顯はし
肉刺にても
蹈出せしと見えて竹の
杖を
突ながら足を
引摩々々來るは如何にも
旅馴ぬ樣子なりしが夫婦
連の者
此寶珠花屋八五郎の見世に
腰を打懸やれ/\
草臥たりと云て
息を
繼休む故亭主八五郎は茶など
運せて
挨拶なしけるに若き夫婦は御世話ながらお酒を
[#「お酒を」は底本では「お酒屋」]]一
合御膳を二人前出し下されと云ければ亭主は承知なし
御肴は何んぞ見つくろひましよと云つゝ
煮染に飯と酒を添て持來りければ是は御世話と云ながら夫婦は
頓て一合の酒を
飮飯も
食終て身支度をし
乍ら御亭主是から江戸迄何里あるやと問ひけるに亭主は是を聞江戸迄は此所より十六里餘
也と
答るに又夫婦の者
最早何時なるやと云ければ
頓てもう七ツ
下りならんと申を
聞夫婦の者
然すれば今より江戸までは
迚も
行れまじ
切て
鴻の
巣とやら迄も行れべきやと云に亭主は兩人の樣子を見て
失禮ながら
足弱の御女中を
御連なされて是から四里八町は
餘程夜に入ります殊に此
熊谷土手は四里八町と申ても餘程丁數が
延五里の餘は必ず御座り升夫に惡ひ土手にて
機々旅人が切られたりあるひは
追剥に
出會強いめに逢事ありて
誠に
物騷ゆゑ何れにも今晩は此熊谷宿へ
御宿りあつて明朝はやく御出立なさるが宜しからん入らざることゝ
思し
召も有べけれどもまづ/\御用心なさるゝが大丈夫と
深切に
咄し居る
機から
近來此邊を立廻る
駕籠舁の
惡漢共門邊を通りかゝりしが兩人の樣子を見て此所へ
這入來りしかば八五郎は
惡い
奴が來りしとは思へども
報をさるゝも
嫌さに
默止居れば
駕籠舁共は夫婦に向ひもし旦那
戻駕籠ゆゑ
御安直參りやす
何卒お
乘なされといひけるに浪人夫婦は是を
聞今より鴻の巣迄行くには
刻限も
遲しと申事なれば此宿に
泊る積り殊に是からの四里八町は餘程
延て居るとの事ゆゑ夜にもかゝるし其上又大いに
物騷だとかいふ事なれば先々見合せに致さうと云けるを駕籠舁どもは大いに
笑ひコレ
旦那何した事をいひなさる此道中は初めてと見えるゆゑ夫リヤア
大方此宿の者が御客を
釣つもりの話しを御聞なされたのだらう四里八町
所か
此堤は
僅か二里半しかありません今から急いで
行ば必らず
灯りのつく時分には
鴻の
巣宿へ參りやす
我等どもはほんの
酒代丈にて何にも
構はず二里半三百文で
行ませう其代り少しも
立ずに急ぐから
何卒御乘なすつて下せい三百文なら
跡で
彼是と
酒代などは
御誣頼申しは致しやせんと
駕籠舁どもは口から
出任せに
欺き
勸め四里八町の道を二里半なりと云に浪人夫婦の者道中は始めてといひ江戸表へ急ぐ身なれば終に
甘々欺かれ夫なら急いで頼みますと云つゝ此家を立出て
連の女を駕籠に
乘男は
後に
附添乍ら
堤をさして急ぎけり
偖又寶珠花屋八五郎は浪人夫婦の後を見送りアヽ今の若夫婦は
惡い
駕籠舁共に
引罹りとんだ目に
逢ならん我等があれ
程氣を付て
遣るに若い
人達と云ふものは仕方がない後先の
勘辨もなく
困りしものなりと申けるに下男の
彌助も氣の
毒面に
然やうさ惡い奴に
引罹りましたが夫ならとて知らせる
譯には參らず實に氣の毒な事で御座ると申を八五郎は聞て
然共々々奴等の
邪魔をして見ろ後で
何樣な
意恨を
報されるも知れず
此な
間の惡ひ日には
又何な惡ひ奴が來るか計られねば早く見世を
仕廻つて休むが
好といふに下男彌助何さま
然樣致さんと早々に見世を
片つけ
今戸を
建んとする處へ
見上る如き大兵の武士
鐵の
禪杖を引さげつか/\と
這入來り是々若いもの酒を一升かんをして
呉れ
然うして
何ぞ
肴を出し呉よと云ながら
縁臺にどつかと
腰を
打掛やれ/\日の
短かひ事だ十月の中の十日に心なしの者を
遣ふなとは
能云しものだコレ/\若い者大急ぎだ早く酒と肴を出し呉よと云に
下男彌助は此體を見て大いに驚きハツと思ひながら
猶もよく/\見るに身の
毛も
彌立ばかりに恐ろしき
長大小を帶し
月代は
森のごとくに
生て
色赤黒く
眼尖どく
晃々と光りし顏色にて殊に衣類は
羊羹色なる黒のもん付の小袖に
古き小倉の
帶をしめ
長刀形になりたる
草鞋を
穿ながら
臑にて
尻を
端折また
傍邊の
杖を見れば
鐵の
延べ
金[#ルビの「がね」は底本では「がな」]にて四尺ばかりも有んかと思はれ
然も
握り
太なる禪杖なり因て下男彌助は
戰々[#ルビの「ぶる/\」は底本では「ぶるびる」]慄ながら心のうちには是は何でも盜賊の
頭に相違なし
慥かに今の
駕籠舁どもの仲間ならん飛だ奴が
這入こんだと思ひ
怖々ながら
腰を
屈め折角の御入來なれども
眞實に御氣のどく千萬
生憎只今肴[#ルビの「さかな」は底本では「さかた」]は賣切しゆゑ見世を
仕まはんと存じし處なれば最早御肴は少しも御ざらぬと申に
彼の
武士然らば酒ばかりにて
宜しといひければ彌助
否其酒も賣切たりと云ばヤレ/\夫は是非もなし
大方飯は
有べきにより出して
呉よと云へば彌助は
首を
振ナニ/\
飯も
皆賣切炊たのは少しも御座らぬといひつゝ武士の方をじろ/\
眺め居るゆゑ
武士は
眞實に
當惑なし然らばいつその事此家に
泊るべし見れば
障子に
御泊り
宿と
記しあり夫に
最はや
申刻[#ルビの「なゝつ」は底本では「こゝつ」]過にもなるべし餘り
草臥たれば
泊りて行んにより飯も
寛りと
炊てもらうべし酒も取寄てもらはん
此所へ
泊るとすれば
仔細なしと
草鞋を
徐々脱かけ座敷へ上らんとするに下男の彌助心の
内彌々迷惑に思ひ
奴に何とか云て何れにも
泊らぬやう追出して
仕廻んともじ/\手を
揉ながら
今晩は何分
御泊申こと出來難く其譯は今夜村の寄合にて
後刻は大勢集まり候間御氣のどくながら
御宿は
御斷り申上ると云けるに武士は
其の
樣子を
篤と見て大いに立腹なし貴さまは
亭主か若いものかコレ
先ほどより能々見るに
那流しの
桶に魚もあるに
汝はよく
虚を申なはてさて
解りしなり某しの
體裁を見て盜賊か又は
食倒しなるべしと思ひて何を聞ても無い/\と計り云は奇怪なり
大方酒もあるに相違あるまじと云つゝ
武士はづか/\と
立寄て
酒樽の
呑口へ
升を
宛がひヤツと一ト
捻り捻りければ酒はどく/\出しゆゑ
汝是ほど澤山酒もあるものを
只無々とばかり云ひをつて
汝今に
誤まるか
辛目見せて呉んと云ながら一升
桝[#ルビの「ます」は底本では「す」]へ
波々と一ぱい
酌酒代は
幾干でも勘定するぞよく見てをれと
冷酒の
桝の
角より一
息にのみ
干最一
杯といひつゝ又々
呑口をねぢり一升桝へ再びなみ/\と
酌是をも一
息に飮終りてコレ若いもの
狼藉に
飮逃などは致さぬぞ某がしが
身形の惡きゆゑ大方
其所ら
邊りの
狡猾ものか盜賊とでも見込だであらう代錢は殘らず
拂ひ遣はすぞコレ
路用の金は此通り澤山所持して居ると
懷中の
胴卷を取出し夫見よ酒も肴も
幾許でも出せ喰倒しをするやうな
卑劣の武士と思ふか
茲な
盲目めと云ながら百兩餘りもあらんと思はるゝ
胴卷を
投出したるに彌助は再び驚き
彌々奴盜賊に相違なし
那れは何でも何所ぞの
家尻を切て盜みし金ならん
那な
身形りをして大金を持て居るは
愈々推量の通りならん
此な奴に
商ひをなさば
又關り合に成て難儀をするかも知れぬ何れにも
斷るより外はなしと彌助は思案を極め成ほど
御客さまの云るゝ通り實は酒も肴も御座れ共是は今申通り
今晩村の
寄合に
使ふ仕込の
肴夫ゆゑ御斷り申せしなり此上は
何卒御免下さるべしと
詫入るを武士は一向聞入ず
汝又僞りを申ぞと云ながら
榮螺のごとき
拳を
振上飛かゝつて彌助を打倒さんとするにぞ彌助は大に驚ろき逃出さんとして
入口の
障子に
衝中り

と倒れしかば此物音に驚き亭主八五郎は
奧より
馳出來り先々御客さま
御勘辨下されよ實は
渠が申通り今晩村の寄合御座候につき魚は
餘分に仕入置しにより私し
儀是に居て
伺ひ候はゞ
御好通り早速御酒も肴もさし上げ申べけれども何を云にも下男彌助めは
近來奉公に參りし者ゆゑ其邊の
差略は勿論御客樣の見分も一向に出來申さず夫が爲御氣に
障る事を申上しならんが其段は
偏へに私しに御免じ下され
御勘辨を願ひ奉つる因ては何なりとも有合の
御肴[#ルビの「おさかな」は底本では「おさかた」]をさし上候はんと
只管に
詫入ければ武士は忽ち顏色を
和らげ是は/\御亭主の
挨拶却つて
痛み
入惣じて
其方の如く理を分て云るれば某し元より事を
好まざるにより
強てと申譯もなしと云ふに亭主は大いに
悦びて
早々彌助をよび我等より
御客さまへ
御詫も申上たるに早速御勘辨下されたり然れども是に
懲て
以來よく/\氣を付よ
其方は餘り
正直過るゆゑなり早々御酒のかんを付
鯰の
燒乾しを
煮付にして上よと申付るに彌助は
諾々と云ながら酒のかんを付肴を
拵へて出しければ武士は大いに
機嫌を
直し
最愉快氣に酒を飮ながら
偖々御亭主店先を
騷がせ氣の
毒千萬
某がしは
業より生れ付て
容體に一
向構はぬゆゑ是までも
兎角人に見下られ殊に見らるゝ如く大いなる
木太刀を二本さして
歩行けれども
夫を武者修行と思ふ者一人もなく却て
長脇ざしの親方か
但し追いはぎ盜賊などの
惡漢が
扮し
姿と見違へ甚だ
迷惑致す事ありと云ひければ亭主は聞て
否々失禮ながら人は見かけに寄ぬものにて
韓信とか申人も元は
洗濯婆々の所に
食客に成り居りしとか又人の
股を
潜りしとか申程に
賤しく見えし
由然すれば
貴公樣などは御
體は見惡ふ
入せられても
泥中の
蓮華とやらで御人品は
自然から
瓦と玉程に違ふを
見分ざれば
目鼻のある人とは申さずと云ふに武士は大いに笑ひ
夫は餘り
譽過るなりと云つゝ
最早酒も
頓て三升ばかり
飮たる故ほろ/\
機嫌になりコレ亭主貴樣は
田舍に
似合ず
漢土の事など
引事にして云は
感心々々談せる男だイヤ面白し/\と
暫時興にぞ入りたりける
説又亭主八五郎は彼武士に向ひ
失禮ながら御客樣の御國は
讃州邊と存じ候が
何れの御方に御座候やと云ければ半四郎は
不審に思ひ貴樣は
如何して某しの生國を知りたるやと
問に八五郎は
微笑先刻より
伺ふに御言葉遣ひは讃州のおん
言葉に候
間若やと存じお尋ね申上しなりと申せしかば武士は甚だ感じつゝ
御亭主貴樣は
記憶といひ
心懸といひ天晴の男なり察しの通り某しは讃州丸龜に住居して無刀流劔術の
指南を致し後藤半四郎秀國と申ものなりと云に八五郎は是を聞て大いに驚き扨は御客樣が後藤先生にて
在せしか
御縁と云ものは
眞實に不思議なものなり知ぬ事とは申ながら
先刻より大いに
失禮仕つりし
段眞平御免下さるべし
只今上州大間々に御道場を御出し成れたる後藤秀盛先生が
毎度貴方樣の
御噂を成れ拙者は
未熟なれども
悴の半四郎は古今の達人なりと
御噺有しが其半四郎先生に今日
御目に
懸らんとは
夢さら存ぜざりしなり又其
御身形は如何なされし事やと
問ひければ半四郎
聞て今も云通り某しは
生質容體には一向
頓着せず人は
容體より只心なり何國へ行にも此通り少しも
構はず只々
蕩樂は酒を飮ばかり外には
樂しみと云者なし
而て又々亭主には某しが
師父を如何して存じ居らるゝやと申に亭主は
猶膝を進め
然ば秀盛先生はこの
近邊にも御弟子これ有よしにて時々御指南に
御出なされて
滯留の
節は
毎度私方にて
御宿を申上夫ゆゑ大先生の
御咄しに貴方樣の
御噂を
伺ひしなり
併しながら當冬に相成ては未だ一度も御出なく
此秋中迄は毎月
缺さず御出ありしが
如何なされしにやと申ければ半四郎は
始終を
聞夫は不思議の
縁なり某し此度此所を通行なすは
大間々なる我が師父大病の
趣き國元へ飛脚到來せしゆゑ
丸龜より急いで上州大間々まで參りし處に何と云ても二百里
近くの
道程ゆゑ死目の間に合ず
遙々遠路を來りし
甲斐もなく甚だ殘念に存するのみ既に師父の
葬送は門弟中
厚く世話致し呉し由ゆゑ道場の
跡片付など
濟して
漸々今日此所まで
戻りしなりと此程の
事故を涙ながらに物語りしかば八五郎は大いに驚き夫は
嘸々御愁傷の御事と御察し申上る
道理こそ
當冬は御出之なきと存ぜしなり然らば未だ當所の
御門弟中は知らざる事ならんにより
私しより
早速申
繼御墓參りも致させんと云けるに半四郎は
亭主の
厚き
志ざしを
感じ何分宜しく頼むなりと申せし
時又八五郎は半四郎に向ひ先生
先程は一
旦申上たれども其實
今晩村の
寄合と申せしは僞りに候
間今宵は
寛々お
泊り下さるゝ樣にと申ければ半四郎は
莞爾と笑ひ夫は
幸ひもはや
時刻も
遲くなりし
上某しも大いに飮過たるにより御亭主の言葉に隨ひ今夜は
世話に成べし
然らば今一升
燗を頼むと言に八五郎は
誠に
珍らしき大酒なりと思ひ
先々御寛りと上られよと言つゝコレ/\と彌助を呼び先生樣に
最一升お
燗をつけて上よシテ
又徐々御膳のお支度をと云ければ彌助は
畏まり候と又一升をさし出し夫より
四邊を
立働く
隙に
傍らに立掛ありし鐵の
延棒を
故意と足にて
蹴倒し見るに少しも
動かず因て彌助は目方を引見んと思ひ
是は
不調法仕つりましたと云ながら持て
座敷へ上んとするに少しも
持上らずウン/\と云て
力瘤を出し居るにぞ八五郎は此所へ出來り
我等が上んと云ながら
引立んとすれ共同人にも
動かねば八五郎は大いに
肝を
潰し是は
滅法界に重き御品なり先生
此御杖は
何程の
貫目候やら私し共には
勿々持上らずと云ければ後藤は打笑ひ
否多寡の知たる鐵の
延棒某しが
杖の代りに
突て
歩行品目方は十二三貫目も有べし途中にて
惡漢などに
出會し時には切よりも此棒にて
打偃すが宜しと云つゝ片手にて是を取ひう/\と風を切て振廻す
有樣宛然麻殼を
扱かふが如くなるにぞ八五郎は是を見て
彌々肝を
潰し先生の大力實に
天下無双ならんと見て居たるに後藤はコレ彌助
先刻の代りに
鳥渡一本
試みようかと
振上ければ彌助は大いに
仰天なし御免なされと云より早く
奧を
目懸て
迯行けり
然ば寶珠花屋八五郎は半四郎に
向ひ
偖も/\先生は
凄然き御力量哉
加之劔術は殊さら
御熟練と
伺ひ及び候が今少し
貴方が御早く御出あらば
好かりしに
惜き事なりと申ければ半四郎は聞て某し今少し早く參らば
好にと云るゝは
如何なる
譯なるやと
問に八五郎
然ば
御咄し申べし先刻越後者の
由若き夫婦連の
侍士私し見世に御休み
成れしが
逃亡者とも見えず
身形も可なり立派なれども一向に
旅馴ぬ樣子にてイヤモウ
意氣地もなく殊に女は足を
痛しとて
杖に
縋りて參りし處惡い
駕籠舁どもに付込れ
當底欺かれ乘て參りたるが
今頃は此熊谷土手の
中程にて路金も女も定めし
奪れ給ひしならんアヽ思ひ出しても
可愛さうな事を
致せしなり既に
其御侍士が
鴻の
巣までも行んと云るゝにより
私しが右の
駕籠屋の來らざる
中此熊谷土手は名代の
物騷なる所にて
殊に四里八丁もある場所ゆゑ必らず夜に
入に付今夜は
當宿に
泊りて
翌の
朝早立になされよと御止め申居たる處へ
駕籠舁めが
這入來り終に
勸め込て
引懸行しなり其時
貴方樣が御出成れたなら
惡漢の五人や十人は忽ちに打散し
助けて遣はされしならんに
呉々惜きことをしてけりと
咄せしかば後藤は樣子を
聞夫は又何故に
惡漢と知りながら教へては
遣ざりしぞ聞が如きにては
實に
痛はしき事なりと云に八五郎
否道中の
雲介駕籠舁などと申ものは今日は
此所に居ると思へば
翌は大坂へ參り又は東海道へ
稼に
歩行少しも
居所の極らぬ
奴輩ゆゑ
若奴等が仕事の
邪魔をする時は後日に如何なる
報をさるゝも計り難く夫故に
道中筋は何れの茶屋小屋にても
看々惡漢に
引懸りて難儀する旅人があらうとも
滅多な事は申されずと云ければ半四郎
成ほど夫は
道理なり何にしても
可愛さうなことゆゑ
何か救ひて
遣度ものと兩手を
組しが
可々某しは元來天地の
間に
差構のなき身分主人
持ではなし母親は兄半作が
世話ををするし全く
獨立の天下浪人又義を見てせざるは
勇なしと云る事あり某し今より
駈着其者どもを助けて
遣ん是より
道程は
何程あるやと問ひければ八五郎
然樣さ四里八町と申せども
多分中頃で爲す仕事ならん一
筋道ゆゑ
御出なされば間違ひなけれ共餘程時刻も
後れたれば
贅足ならんといふに半四郎は
最早立上り
假令贅足になればとて元々なり某し一ト走りに
追着助けてやらん
大方渠等怪我もあらんにより
本道外科兩人の醫師を頼み置かれよ
又燒酎鷄卵白木綿等の用意を頼むなり其入用は某しが出すべしとて後藤は路金を
胴卷の
儘亭主に預けおき
悉皆く用意を申し付て
強刀を
帶し鐵の
延棒を
引提熊谷堤を
指て
逸驂にこそ
馳行けり
偖又彼の
駕籠舁の
惡漢どもは浪人夫婦を
甘々と僞り乘て
寶珠花屋を立出しが程なく
熊谷堤の中程なる地藏堂の前に來り駕籠を
撞乎と
下しオイ
棒組々々マア
寛然と一ぷくやらかさうやれ/\世話しないことをしたと云ひながら
煙草入より
摺火燧を取出してかち/\と火を
打ち
付煙草を
呑ながら
最爰まで連て來れば
此方のものだ
先女が
捨賣にしても年一ぱい五六十兩が物はある
路用も十兩や十五兩はあるに相違なし
其外[#「其外」は底本では「相外」]衣類大小迄奪ひとらば何でも小百兩の仕事だ
久し
振で甘い酒が
呑る悦べ/\と
云聲を浪人夫婦は聞て大いに驚き然すれば
渠等は
豫て聞たる
護摩の
灰とか云へる
惡漢ならん是は如何せんと
當惑の折から一人の駕籠舁は
彼浪人に向ひオイ
御侍士先刻熊谷の茶屋から四里八丁の
丁場を二里半だと云て
乘て來たが
實は僞りよ此駕籠の
中の
代物と路用大小等が
見込で此所まで
汗水に成て乘せて來たのだ何と
肝が
潰たかヤイ此女は
勿論金と大小衣類まで
尋常に渡せば命は助けてやる
萬一否と云へば命も
倶に貰ふ分の事サア
素直に路用を出せといふに又一人も同じく
侍士に向ひ
應然樣だ殘らず渡したとて
損はあるまいコウ
侍士大方此女は
餘所の
箱入娘を
唆かし云合せて親の金を
盜み出して連て
逃たに相違なし元は
只取て來たものだ
不殘渡しても損にはならねへサア/\渡せ/\と
立かゝる故
此方は侍士一人なれども女房を
駕籠より出し手早く
後へ
隱して
楯になり
嗚呼殘念なるかな斯る惡人とも知らず己れ等如きに
欺かれ此所まで來しこと
口惜けれとは云ふものゝ
刀の
手前假令命は
捨るとも
汝がまゝに
爲すべきや覺悟をせよと言ひながら腰の一刀
引拔つゝ
身構へなせば
惡ものどもは打笑ひ何の
小癪な
青二
才と
息杖取のべ打て
蒐を此方は
騷がず切拂ひ又打込を
飛違へ未だ
生若き腕ながら一
生懸命切捲れば流石に武士の
働きには敵し難くや駕籠舁ども是は
叶はじと
逃出すを
何國迄もと
追行中豫て
相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、429-11]やなしたりけん地藏堂の
扉を開き七八人の
惡漢ども
破落々々其所へ
馳出し女を逃すな
擔引げと追取卷に女房も今は何とも
絶體絶命如何に此身が女なりとて
非道の
手込になるべきやと用意の
懷劔拔放ち彼方此方を
掻潜り死もの狂ひに
突廻れば惡者どもは是を見てヤア
小賢しき女の働き
叩き
倒せと
犇めくを
頭立たる大男は
慌たゞし
氣に
押止めコレ/\其女を叩き倒して
成者か大事の玉に
疵がつくとそツと
生捕と氣をつけられて惡漢どもよし/\
合點承知の濱と遂ひに懷劔を
捻取りつゝ手どり足どり
旋々まき
強情婀魔めと
引摺來て
捻つけ駕籠へ入れんとするを女は
爰ぞ一生懸命ヤレ人殺し/\助け給へと
泣叫べは侍士是に心付ヤレ南無三法
何時の
間に同類めらが
後ろへ廻り我が女房を捕へしやと
飛ぶ如くに
馳戻り
群がる中へ切入ど彼方は名に
負荒くれども手に/\
息杖棒ちぎり打合ふ折から又四五人
堤の
蔭より
顯れ
出疊んで仕舞へと
罵しり前後左右を追取卷打込棒は雨より
繁く多勢を相手に侍士は
死忿を顯はし切り結ぶ心は
彌猛に
逸れども終に刀を打落され
逡巡處を
惡漢ども寄てたかつて侍士を忽ち其所へ
打倒し
滅た
擲りに
打据たり斯る所へ半四郎は
彼早足も一
層遽しく堤の彼方へ
來懸りて遙か向うを見渡すに夜中の事ゆゑ夫なりと
目當は知ねど女の聲ヤヨ人殺し/\助け給へと叫ぶにぞ
偖こそ惡漢御參んなれと猶一
驂に
馳着て用意の
延棒を追取直して
躍こみて女房を
押たる惡漢どもを後ろよりヤツと云ひさま打たふせば
瞬間に二三人ウンとも云はず
息絶たり是を此場の始めとして當るを幸ひ
片端より
破落離々々々と
薙倒す勢ひに惡漢どもは大いに驚き是は
抑如何に
仁王の
化身か
摩利支天かあら恐ろしの強力や逃ろ/\と云ひながら命からがら
逃失けり
又打倒されし五七人は頭を
割れ
脛を
折れ或は
腰骨[#ルビの「こしぼね」は底本では「こしばね」]腋腹骨皆打折れて即死せしもあり
適々未だ
死ざるも然も哀れ氣に
呻く
體心地能こそ見えたりけれ後藤は是を
顧みてヤレ/\たはいもなき
弱虫めら只一打にて
逃散たりシテ
未死切ぬ
奴輩を斯して置は殺生なり
然とて
生返らせなば又々旅人へ惡さをなす者共なれば
止めを
刺て呉んと鐵の棒の
先を
咽の
邊りへ
押當て
一寸々々と
葭で物を突く如く
手輕に止めを刺し去より後藤は夫婦の者に向ひヤレ/\危き事でありしが
最早我等が
馳着たる上は心安く思はるべし
然ど御浪人には強き
怪我もなかりしやと云に夫婦の者は大いに
悦び
何れの御方かは存ぜねども
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、430-12]らず我々が
危難を御助け下され有難く御禮
言葉に盡し難し少々は
打疵を受たれども然までの怪我にも是なしと云ながら女房は後藤を
熟々見るに
月代は
蓬々と
生眼鋭どき六尺有餘の大男なれば又々仰天なし一旦命を助けられしは
嬉しく思ひしが是また同じく
勾引か
盜人にてあるべし如何して
能らんやと
薄氣味惡く
胡亂々々するを見て半四郎は是を
察し是々御浪人我等は此樣に見苦しき
身形故定めて
不審き者と
思されんが必ず御心配なさるに及ばず某は
讃州丸龜に住居なす後藤半四郎
秀國とて
劔道指南を致す者なるが此度用事あつて
上州大間々邊へ參り先刻歸り道にて熊谷の寶珠花屋といふ酒屋へ
立寄し處亭主の物語に貴殿御夫婦
惡漢どもの爲に欺かれ定めし
御難儀なされんと申事を聞及び武士は
相見互ひ我等も浪人の危難を
餘所に聞流すは
本意ならず思ひ
餘程刻限は
延たりと申せしかど
假令無陀になるとも屆くだけは御
助力致さんと
馳着しに幸ひ間に合てお
救ひ申たるは我等の
本望先々安堵致されよと申ければ夫婦は漸々安心してホツと
溜息を
吐我々夫婦は越後高田の浪人
新藤市之丞と申者なり誠に有難き
御厚情を以て斯樣に我々兩人をお救ひ下されし事千萬
忝けなく存じ奉つると初めて喜びの
色面に
顯れ兩人土に手を
突て厚く禮を申
述ければ後藤は
否々其樣に禮を云ふには及ばず夫よりは
先貴殿の
疵所の
手當致されよと申に後藤は
[#「後藤は」はママ]某の疵は
僅かばかりなりと云ふを否々少しにても疵は
大切なり
自然等閑て
波傷風にも
[#「波傷風にも」はママ]ならば容易ならず先兎も角も先刻の茶屋迄
御同道申ての事なりサア
遠慮に及ばず
此駕籠に
乘れよと今惡漢どもの
置去りにせし駕籠を
引寄浪人を乘せたれども
舁ぎ
人のなきゆえ後藤は
膝を
打是はしたり氣の付ざりしがこんな事なら惡漢の二三人を殘して
置ば
能つたに皆殺せしは是非もなしドレ參らうと半四郎一人にて
引擔ぎサア/\御女中
先へ
立れよと云つゝ行んとせしが半四郎は大小と
鐵の
禪杖の
邪魔に成たれば
若御女中憚りながら此大小と
杖を
持て下されと女に渡すに
赤銅造の強刀と鐵の
延棒なれば
大體の男にても容易に持事
叶はぬ程ゆゑ女房は
持所か大小ばかりにも
困り果て然りとて
否とも云はれず持には持れず如何して
宜らんと身を悶えて居るゆゑ後藤は
可笑く思ひ是はしたり
成程御前さんには持れぬはずどれ
此方へと
引取て駕籠の棒へ
下緒にて
縛りつけコレ御女中お前も
一所に乘り給へ然すれば
却て道も
捗どらんと云ふに女は
否々どう致して
勿々勿體なしと
辭退なしければナニ遠慮なさるな夜中の事ゆゑ外に誰も見る者なしサア/\乘り給へと手を取て夫婦二人を
無理に一つ駕籠に
乘是でよしとて半四郎は
向う
鉢卷片肌脱ぎ何の苦もなく
引擔ぎすた/\道を
駈ながら酒屋を
指て急ぎけり
扨寶珠花屋八五郎は後藤の出行し
後早々下男の彌助にいひ
付先燒酎鷄卵白木綿等を
買調へ夫より
外科へ怪我人ある趣き申
遣し招きけるに
醫師は幸ひ
在宿なればとて彌助に
藥籠を持せて先へ
差越し程なく寳珠花屋へ
入來りしかば亭主は
早速出迎へて座敷へ
請じしに醫師は
四邊を見廻し御病人は
何れに居らるゝやと
云ければ亭主八五郎然ればなり其病人と申は
多分今晩旅人に怪我の
有筈ゆゑ
急度今に參るならんといふに醫師は大いに
不審然樣か夫は餘り
手廻し
過たりシテ其怪我人のあらんと云事は如何の
譯なりやと申ければ八五郎は浪人夫婦の事より後藤半四郎が
助に
馳着し始末等
委細に物語りなどして居たりしが亭主は何にしても餘り
手間取るにより
其邊まで樣子を見せにやらんと
宿駕籠を頼みて其用意に及びし所へ後藤半四郎は
向う
鉢卷片肌脱になり駕籠一
挺へ夫婦二人を乘せ一人にて
引擔ぎ寶珠花屋の
門へ
駈着是々亭主今歸りたりと
表の
戸を
叩きければ八五郎は飛でいで
先生樣子は如何やと云ながら門の戸
引明ければ後藤は
汗を
押拭ひ
如何處か誠に危き事なり亭主貴樣の云し通り今一ト
足遲いと間に合ぬ處なりしが
丁度間をよく
駈着て惡者共を叩き殺し二人とも救ひて
來たと夫婦の者を駕籠より
下しければ亭主は是を見てヤレ/\夫は
御手柄々々先生の事ゆゑ定めし斯あらんと存じ
仰付られ
通り醫師も
招き
置燒酎白木綿玉子とも
調ひ置候なりと云つゝ半四郎
倶々新藤夫婦を奧へ
伴ひ醫師に
[#「醫師に」は底本では「醫師にへ」]診市之丞の疵口を
縫せ療治を頼み
置半四郎は又亭主へもよく
手當を申
付一ト間に入て
休息しやれ/\
草臥たり
拙者は酒を
飮べしと又々
酒肴を
取寄酒食をなして其夜は
臥床へ入にけり偖新藤夫婦は思ひ
寄ざる危難を救はれ萬事の事まで
厚く世話に
成ければ悦ぶ事
限りなく是も其夜は
打臥けるが偖翌日より後藤半四郎は自分の金を出し
藥其外手厚く世話を致させて先新藤夫婦の身元を尋ねしに
此夫婦の者浪人せしは其頃越後高田の
城主松平越後守殿藩中[#ルビの「はんちう」は底本では「はうちう」]にして
高二百石を
領し
側役を
勤し者なるが女房は同藩の娘にてお梅と
云て是も奧を
勤居たりしに
若氣の
過まちとて
不義密通[#ルビの「ふぎみつつう」は底本では「ふぎみつう」]に及びし事
薄々上へも聞え
御家法に依て兩人の一命をも召さるべきの
處同藩にて五百石を
領し
物頭役を勤むる大橋文右衞門と
云者平日懇意に致し
仁心も深き人ゆゑ其事を不便に思ひ
太守より御沙汰のなきうちにと
密かに新藤を招き金子二十兩を
與へ早々御家を
立退江戸表へ出て奉公をなりとも致し
始終夫婦になつて
暮されよと
懇切なる大橋の
情に預り兩人が命を助かり江戸表へ參らんと故郷を
立出しなりと始終の事とも物語り然るに
主親のお
罰にや
途中に於て惡漢どもに欺かれ既に一命も
失はんとせし程の危難に
逢たるを又
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、433-2]らずも
貴方の御助けに預かりし事
實に有難く存じ奉つる
此御恩は
生々世々忘却仕まつらず候と夫婦
諸共に涙を流して申しけり
扨も後藤半四郎は
夫婦が長
物語りを
[#「長物語りを」は底本では「長物語りを」]聞て成程若き者は
有うちの事何も是を
生涯の
恥となす程の事でもなし古き
俚諺に
後難は山にあらず川にあらず人間反覆の
中に
在と
云いつ
何時如何なる難儀
憂目に
出會も計られず然れど
又々運の
開く事もあるものなり何でも心も
正直にして大橋殿の恩を忘れぬ樣に致されよ江戸表へ出たなら
御夫婦とも
辛抱して
稼ぎ大橋殿に
恩を
復し給ふべし拙者も是より江戸見物致さんと思ふなれば江戸迄は
御同道申べし
先々心置なく
寛々養生なすが專一なりとて
眞實に申を聞夫婦は
増々悦び
心靜かに
逗留いたしける
中早くも十日程立疵口も
稍平癒して身體も大丈夫に
成ければ最早江戸表へ出立せんと申に亭主八五郎は是を聞き
先寛々と御逗留遊ばさるべし
併貴方には江戸表
不案内と申事なれば爰に
好幸ひあり私し兄江戸馬喰町二丁目に
武藏屋長兵衞と申て
當時旅宿を致して居るにより是へ先御落着ありて
寛々江戸見物を遊ばされ候はゞ然るべく私し兄の儀を申もいかゞに候へども
何ごとによらず
是は
斯だといふ時は是までも
隨分他人さまの御世話を申
氣象に候あひだ
失禮ながら
御相談相手にもなる
侠氣のものに御座候是へ私より
手紙を
添て差上申べしと云ければ後藤始め大いに悦び夫は何よりの幸ひ何分頼むと有りけるに八五郎は
後藤并に夫婦の者の
素性を
委しく書状に
認め是を
渡しければ兩人は悦び
旅宿代は
勿論醫師藥禮等に至る迄殘らず半四郎より勘定致し
翌朝は朝早く起出て支度を
調へ
夫々厚く
暇乞に及び後藤半四郎は新藤夫婦を
同道なし熊谷を出立して此程は
此堤にて危ふかりしなどと道すがら
語り
合つゝ江戸表馬喰町へ來り
武藏屋長兵衞方に
落着寶珠花屋よりの添書を出しければ亭主長兵衞も弟八五郎よりの手紙も是ある事ゆゑ
早速に出來りて夫々に
挨拶に及び
御緩と
御逗留遊ばさるべしとて奧座敷を一
間貸切厚く
待遇ける故後藤は心置なく思ひ夫より日毎に案内者を
連ては向島兩國淺草吉原或は
芝神明愛宕又は目黒不動と神社佛閣名所舊跡等を見物して
歩行氣隨氣儘に
日々酒而已多く
飮凡そ十四五日も逗留せしが後藤は萬事心を付新藤夫婦をも折々誘引せしかど市之丞夫婦は
素より僅の
貯へにて
國を
出途中にても※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、434-5]らず長逗留なし醫藥其他共後藤の世話になりしとは
云ものゝ追々に
金も
遣ひ
減しければ此上江戸見物などに
遣ひ
捨る貯へなきゆゑ
只禮のみ云て一度も同道せし事なく日々宿屋にばかり居て誠に
退屈勝なれば夫婦は
額を
合せ何時まで斯して居るとも
段々路用は
盡る而已にて江戸の樣子は知れざるゆゑ奉公するにも
何所へ頼んで
宜しきや勝手も
分らず
寧の事に何ぞ小商ひにても
始めて
見樣かと
明暮身の
有付を考へとつ追つ相談なし居たるに或日
此家の
手代來り決して御催促を
申譯には是なく候へども
最早暫時の御逗留ゆゑ
御旅籠も
餘程溜りしにより少々にても御拂ひ下さるべきや又は後藤樣の御歸りを
御待申さんかと後藤始め三人の
旅籠代二十日分十九
貫五百文金となして三兩と二百五十文に相成候と
云つゝ
書付を差出しけるに夫婦は
面を見合せ
暫時答もなかりしかば手代は樣子を見て
取何れ又後藤樣の御歸りの上願ひに出んと云て
立去しに
[#「立去しに」は底本では「立去りしに」]夫婦はホツと
溜息を
吐今も今とて相談の折から此家の旅籠の
書付を見るに
就ても
斯空々他人の
厄介になりて居るは如何にも心苦しく然りとて是を拂ふ心なしとは
云ものゝ
切ては此家の旅籠だけも後藤に聞せず拂ひたしと
猶種々に相談なせしに妻のお梅は是までにも
櫛簪などは追々に
賣盡し今は
着替一つ
有而已なれども此上は
其着替にても
賣代なし旅籠の代に
當んと申故市之丞も
詮方なく然らば我等の着替羽織とも未だ
之有により夫をも共に
賣代なし此家の
借を返さんとお梅に右の三品を取出させ
頓て先の手代を
招き彼三品を前に
置誠に
恥かしき次第なれども道中以來種々の物入にて今は
路用も
遣ひ
切當惑の折からなれば此衣類を
賣代なし此方の勘定を致し
呉られよと
云ひけるに手代は甚だ氣の毒顏に
否然樣の御事なれば後藤樣の御歸りの上御
相談成れて然るべし此御勘定とても
只今[#ルビの「たゞいま」は底本では「たいゞま」]戴かねばならぬと申譯にも御座なく今日は
見世の
帳合日故先刻一
應伺ひ候までなりと申を夫婦は
否々是までも後藤氏には一方ならず世話になりたれば
切ては此方の旅籠だけも
我々相拂ひ申度平に取計らひを頼むと云にぞ手代も
當惑なし如何はせんと考がへ居たるに後ろの
襖を
押開き御免なされと此家の
亭主長兵衞は
入來り只今
彼方にて御樣子を伺ひ
實に
御志操を感じ候なり
然ながらお三人のお旅籠を御一人
御留守中に戴き候も心よからず殊には當時
御差支の御樣子
旁々決して今日
頂戴致すに及ばず候間
此御品は
左に
右御納め下さるべしと申に市之丞夫婦は亭主の
情ある言葉を
聞に
付猶さら氣の毒に思ひ此上御世話に
相成は兎も角も此衣類は當時不用の品ゆゑ
何卒御賣拂ひ御勘定下されよと互に
爭ひ居る折から半四郎は
立歸りしが今兩人の言葉を
聞ながら
此所へ
入來りコレ/\新藤氏其儀は拙者に
御任せあれと云て亭主長兵衞に
向ひ偖此所に御座る新藤氏夫婦の事は
概略貴樣の弟より手紙にて承知も
有べきが
是若き者の有うち
實は越後高田の浪人にて同藩の娘をつれ
逃來りし譯ゆゑ
敢て
憎む程のこともなし夫に
旅馴ぬゆゑ熊谷土手にて
惡漢に
欺され既に妻をも
奪はれんとする所に八五郎の
咄しにより某
駈着て惡漢を
追散したれば夫が
縁となり御當地までも
同道致したるなり何にしても
便り
少なき夫婦の者
何か貴樣の世話を以て
取續きの
出來樣頼み申度尤も
丸々貴樣の
厄介に
懸ると
云譯には非ず是は
聊かなれども何ぞ商賣でも初めさせて下されよと後藤は
用意の金子を二十兩
取出し
資本と
云ふ
程にはなけれども宜しく
頼と長兵衞に渡しければ長兵衞は
素より
侠氣の者ゆゑ
否先生貴方がお連なされたお方なり殊に八五郎よりも
頼の
書状參りし事ゆゑ金子などは
入申さず私しが
能樣に御世話仕つるべきにより決して御心遣ひ
成れまじ
假令宿には一錢なくとも私しが何れとも
工夫致すべし
先々此金子は御始末下されよとて
其事由を
心快請合けるにぞ半四郎は大いに悦び夫は千萬忝けなし夫にて
先安心致したり
併ながら此金は兎も角も貴樣が
預り
置て
下されよと金子二十兩を
押し
返して渡し
厚く夫婦の身の上をぞ頼みける
是陰徳あれば
陽報ありとの
譬の如く
此事後年に至つて大岡殿の見出しに
預かる一
端とはなりぬ
然ば新藤夫婦は是を
見聞して大いに悦びしとは雖も是までも萬事後藤の世話になりしことゆゑ
切て
旅籠代だけは衣類を賣て拂はんと
云に夫をも
止られ猶亦二十兩の
資本金まで長兵衞に預けし後藤の
深切何と禮を云べき詞もなく
名利の程も
恐しと兩人涙に
昏て居たりしに武藏屋長兵衞は
委細引受て世話をなさんと
云に
彌々打喜び我々夫婦の命を御助け下されるのみならず
往々身の
落付まで御世話下さるとは誠に
冥加至極有難き仕合なりと
繰返々々[#ルビの「くりかへし/\」は底本では「くりかへ/\」]夫婦の者は
伏拜み
嬉し涙に
咽たりけり是より半四郎は國元へ出立の
用意に及び
日々土産など調へしが
彌々明日は出立せんと
別れを
告るに長兵衞夫婦の者
名殘を
惜み幸ひ大師河原へ
參詣ながら川崎宿迄送り申さんと己も
支度をなし翌朝後藤は
此家を立出るに新藤夫婦も
別れを
惜み影見えぬまで
見送々々後藤の方を
伏拜むこそ道理なれ又長兵衞夫婦は川崎宿まで送らんと同道なしけるに後藤も其志操の
厚きを
感じ
何時迄も
名殘は
盡ねども
又跡々を御頼み申せし新藤夫婦の事もあれば
此度は
大師迄にて別れ申べけれ
重ねて
金比羅へ
參詣の事もあらば丸龜城下なる
拙者の
宅へ必らず
立寄れよ又某事も
此後江戸表へ
出るならば貴樣の家を
定宿となし年中
互ひに
往來爲度者なりと道々話しながら川崎宿なる萬屋へ
到り同所にて
酒飯も
濟せ
頓て別れを
告夫より長兵衞夫婦は大師へ
參詣してぞもどりける
偖又後藤半四郎は是より
東海道を
往に今宵は
先藤澤泊りと
心懸鶴見畷など
打眺ながら神奈川臺も打越し處に町人體の男半四郎の
後になり先になり來りしが
程ヶ
谷の先なる
燒持坂の邊りより彼町人體の男は聲を
懸若旦那樣は
失敬ながら
何方迄御上り遊ばさるゝやと
云を半四郎は聞て某は四國の丸龜まで
戻る者なりと答るに彼男私しは
江州にて候が江戸表へ
商ひに參り只今歸り道也是から
又尾州名古屋へ
到り夫より京大坂へ
仕入に登り候
積りに付幸ひ御供同樣に
御召連下さるべし一人の道中と
云者は道に
倦るものゆゑ
御咄相手に御同道仕つり度と然も
馴々しく申すにぞ後藤は
否々某は
又道連の有は大いに
嫌ひなり殊に貴樣は江州者だと云ふが
近江盜人伊勢
乞食と云事があり
勿々江州の者は
油斷はならずと
斷るに彼男それは旦那樣貴方の
御聞違ひなり近江殿御に伊勢子正直と申ので御座りますナニ近江者が
泥坊と限りますものかと
云ければ半四郎は
否々夫は
左も
右もなんだか氣味が
惡し某は一人の方が
氣儘なりとてすた/\
早足に急ぎ行くを彼男も同じく早足になり
追駈ながら若旦那樣
何ぞ御一所に御願ひ申ます貴方樣は
見上た所武者修行を遊ばさるゝ御方と存じます御大小なんどは
餘程長きもので
御立派なり私し儀實は仕入の金を
所持致し居り候へば
何時の道中にても登り
下りが
心遣ひでなりません道中は金子の十兩から持つて居ると
惡ものが目を付て
油斷がならず
何卒御迷惑ながら御同道下さらば丁度旦那樣の御供の樣にて
惡漢が
付氣遣ひなく心丈夫に存じますと
云に後藤は
見向もせず夫は貴樣の
勝手次第にといひ
放し一向構はず
行中にはや戸塚の
棒鼻へ入りたるに或料理屋の
勝手に
鰹佳蘇魚鮃の數々の魚見えければ後藤は一杯やらんと
此家に入て
酒肴を
誂らへなどする
中彼男も
續て入來り是も酒を
言付しに程なく
双方へ酒肴を
持來りしかば後藤は
手酌にて飮居たるに彼町人も
大酒飮と見え大なる
茶碗にて
引懸々々飮居る
體に後藤は聲をかけコレ/\町人其方は
大分酒が飮る樣子なりといふに彼男は
此方に向ひイヤモウ酒は
大好物で御座りますと云ひければ半四郎夫は話せる/\其の酒飮は
某大好なり酒は一人で飮では
味くなし一
杯間をせぬかと申に彼町人は得たり
賢しと夫は有難し
直樣御間仕つらんと是より後藤の
側へ
寄献つ
酬つ
飮合いが其好む所に
辟すとの如く後藤半四郎は自分が
酒好故終に此男と合口となりて忽ち互ひに
打解つゝ
四方八方の物語りをなす
中良酒の醉も
回りしかば後藤は
近江盜賊の一件も
礑と
忘て仕舞至極酒の相手には面白く思ひ終に是より
道連となし飮合たる勘定も拙者が
拂ふ
否私しが拂ひますと爭ふ位の中になり其後の勘定は
面倒なしに一日代りと
極めければ半四郎は大いに
歡び
道々の咄し相手となし先今夜は藤澤へ
泊らんとて程なく宿屋へ
着たりけり然るに彼
道連に成し男は
元上總無宿にて近頃東海道を
往返し旅人の
懷中を
狙ふ
護摩の
灰の頭なり因て半四郎が所持の金に目を
懸樣々にして終に道連となりしかば
此夜何卒して半四郎の
胴卷を奪はんと
付狙へども後藤に
油斷なきゆゑ終に
其閑なく
翌日となりしかば又同道して次の夜は
箱根を
越三島宿の長崎屋嘉右衞門と
云旅籠屋へ
着けるに宿の女ども
立出是は/\御客樣只今おすましの御湯を
上ます
御草鞋は其處へと彼是爲る中に彼男は
姉樣又御世話に成ますと
然も心安き
體に
云を
聞主の嘉右衞門出來りて
兩人に
挨拶なし如何さま
折々見た事のある男なりと思ひしかば
是々女中共
御連樣がある
御草鞋を始末なし
御荷物を持て御座敷へ御案内せよと
指※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、438-5]に
連て兩人を座敷へ通し
御湯も
沸て
居ますと云ゆゑ
直さま後藤は彼男と
倶に
風呂に
入ながら酒肴を
誂らへ
置頓て風呂も仕舞て出來りしに女子どもは酒肴を
持出ければ兩人は
打寛ぎて
酒宴に時刻を
移しけり
偖又半四郎は
時移るに隨ひて
醉は十分に
發し
自から
高聲になり彼町人體の男に向ひ貴樣の樣なる者は
道連になると茶屋なとへ引づり
込此樣に
打解て酒を
呑合百年も
交際し如くなして相手の
油斷を
見澄し荷物又は懷中の金子等を
奪ひ
取護摩灰[#ルビの「ごまのはひ」は底本では「ごまのは」]とかいふ盜人が道中筋には有と申すが貴樣も其樣な
類ひならんと
正鵠をさゝれて彼町人心の内に南無三寶
彼奴め我等を
護摩灰と
悟しかと思ひ
故意と言葉を
和らげ旦那は
訝な事を御尋ね成る其の護摩灰と申は私しにて候
御油斷成るな
何樣に
貴方が御用心を
成れても御所持の荷物なり金子なり共
奪ひ
取んと思へば
直に取て御目に懸ますと然も
戯談らしく己が商賣を
明白に云て
笑ながら
平氣に酒を呑で居るゆゑ後藤も心の中に
此奴勿々の惡漢なりと思ひければ
彌々酒興の
體にもてなし懷中より百兩餘りも有ける胴卷を取出し是見られよ
此通り金子もあるが某
兎角して其の護摩灰とやら云ふ奴に出會て見度思ひしが
貴樣輩の樣なものに此金を取れまいと云つゝ
故意と見せびらかし
併し
盜人の
隙はあれども
守人に
隙はなしとか云なりと
大口開て打笑ひ
其胴卷を其所へ投出し置
増々醉に乘ずる體なれば彼町人の
曲者は
假令武者修行にもせよ
此の
機を
外さず充分に酒を
強付醉潰れたる時に
奪はゞ
造作もなしと心に
巧み頻りに後藤の
機嫌を取
強付々々酒を
勸むるに
稍三四升ほども飮しかば半四郎は機嫌
斜めならず
謠を謠ひ
手拍子を
拍て騷ぎ立るに
隣り座敷の
泊り客は兎角に騷がしくして
眠る事もならず甚だ
迷惑なし
能加減に
靜まれよと
襖一重を
隔て聞えよがしに
詢言ければ半四郎は聞つけて大いに
立腹の體にてもてなし
靜かにしろとは不屆千萬某が
錢にて某酒を呑にいらざる口を
利奴等なり無刀流の
達人後藤半四郎秀國が相手なるぞ
率出來れ
片端より
捻り殺して呉れんと大音聲に
呼はるにぞ
連の町人は
己が仕事の
邪魔になりてはならずと思ひしかば
若々旦那樣誰も何とも申は致しません貴方に對して
過言申者の有べきやと
種々に
宥め
賺しサア/\をつもりに致しませう
最早押つけ
子刻なり
率御休み成れましと女子共に
四邊を
片付させければ後藤は何の
蛆蟲同前の
奴輩某を知らざるやと
罵りながら
胴卷を取て
故意と腹に
周環卷たるまゝ
臥床に
入枕に付や
否や前後も知らぬ
高鼾に町人も半四郎の
側へ
臥みしかば家内の女子どもは酒肴の
道具を
下行燈へ油を
注足御緩と御休みなされましと
捨言葉を跡に殘して
出行けり是より家内も夫々に休み座敷々々も一同に
深々と
更渡り聞ゆるものは
鼾の聲ばかりなり然るに彼町人體の男は家内の
寢息を考へ居たりしが
大概丑刻時分とも思ふ頃
密と起上り
寢床にて
甲懸脚絆迄も
穿率と云へば
逃出すばかりの支度をなし夫より後藤が
寢たる
側に
指より宵の
酒宴の時見て置きたる胴卷の金を
盜み取んと
彼曲者は半四郎が寢たる
夜着の
脇より
徐々と腹の
邊へ手を
差入ければ後藤は目を
覺しはて
奴つめが來りしぞと
狸寢入をして
密かに
傍の夜具を見れば
連の男見えぬ故扨こそ奴つに相違なし今に
取押呉れんと
空鼾きをかき
熟寢入し體に
持成ば曲者は仕濟したりと彼胴卷を
解てそろり/\と引出すゆゑ半四郎は少し
體を上て引せけるに曲者は
爰ぞと思ひ
滑々と引出す處を半四郎は
寢返りをする體にて曲者の
首を
股間へ
挾み足を
緘みて
締付けるに
大力無雙の後藤に
締付られて曲者は
言を云事も
叶はず
只眼を
白く
黒くなし鼻にて息をするのみなり時に半四郎は
大音上盜人が
這入しぞや家内の者共
起給へ/\と
呼るにぞ夫れと云つゝ亭主は
勿論飯焚下男迄一同に騷ぎ
立盜人は
何處へ這入しと六尺棒或ひは
麺棒又は
箒摺子木など得物を
提來り此處よ彼處と立騷ぐ此の騷動に
宿合せし旅人の座敷々々部屋々々迄一同に
飛起刎起手に/\荷物を改ため廻り家内の騷動大方ならず半四郎は寢ながら大聲にて
何れも客人方何ぞ取られし物はなきやと云に一同
未々改め中ゆゑ
確と分らずなどと云所へ亭主男共は半四郎が座敷へ
走來り
若々御客樣盜人が
這入しよしゆゑ
爰彼處と改め見れども一
向に這入し樣子はなし其盜人は
何所に
居候やと云ければ半四郎は寢たるまゝにて
微笑ながら此處だ/\拙者の
股間に居と申ければ大勢一同に御客樣
御虚談ばかりと笑ひ出せしかば
否虚談ではなし全く拙者が股間に
引挾んで居る然れ共拙者が
連は見えぬ故先
此奴を改め
呉よと云れて亭主若い者一同
立懸り半四郎の
夜着を
捲り見れば
甲懸脚絆まで
穿旅支度をなし居けるゆゑ
能々是を見て大いに驚き此盜人は御客樣貴方の御連なりといふに半四郎も
能々顏を見て成程某の
連なり
奴護摩灰ならんにより
糺し呉れんと思ひし處とう/\今宵
引捕へたり一
體此奴某が連にはあらねども
一昨日戸塚境ひの燒持坂より連に成りたいとて
尾來りし者なるが
生國は近江の由なれど江戸へ商ひに出し歸りにて是より名古屋へ
回り其後京大坂へ
仕入に
上るにより供をさせて呉れよと云ども某は承知せず
近江泥坊伊勢乞食といふ事あれば江州の者に
油斷はならず連は
嫌ひなりと申せしかど
達て供を致し度し申に付
據處ろなく同道致せし
譯拙者も
些少油斷をせぬ故に果して
化の
皮を
顯はし
今捕押へたるは
能[#ルビの「よき」は底本では「いよ」]氣味なりと咄すを聞て家内の者共
然樣の御連にてありしか何にしても不屆な
奴引ずり出して
叩きのめせと
立騷ぐを後藤は
止め
否々打擲なして
若打處が惡く殺しもなさば死人に口無却つて
面倒なり先々拙者の連こそ幸ひ某しに
任すべし面白き計らひあり命をば助けて
遣がよし
誰樣も客人方に盜まれし品はなきやといふに
隣り座敷の客は
寢惚眼にてキヨロ/\しながら拙者は大事の者が見えぬなり
早々詮議成れて下されよと云ゆゑ大事な者とは何なりやと
問ひけるに客人
些申兼たるが
御寶が
紛失致し然も
昨日買たてなりと云ば皆々成程
犢鼻褌でござるか夫は
濟ぬ事
熟々御改めなされよと申にいくらさがしても一向御座らぬと
云時宿の亭主は
若々貴公の
裾の下から何か
紐が見えます夫ではなきやと
言れて夫はと云ながら客人は
内懷中へ手を入もじ/\致せしが
頓て
越中犢鼻褌を取出し見て是なり/\と申ければ一同どつと
笑ひつゝ今夜は
隣座敷にて大聲を
揚馬鹿な騷ぎをするゆゑ宵には
少しも
眠られず又夜中にも此騷ぎヤレ/\
飛だ目に
逢しと云ながら皆々客人は我が
寢所へぞ入にける因て家内の者は
大勢にて盜人を庭へ引出し
嬲りものにして
遣んと騷ぎ立を後藤は
先々待れよ某存じ
寄あれば決して
手荒き事はならずと申付未だ夜明までには間も
有べし今一
寢入するにより太儀ながら貴樣達は
此奴の番を頼むなりとて半四郎は盜人を
高手小手に
縛りあげ傍らなる
柱へ
縛り
着置ヤレ/\大騷ぎをしたりと云ながら其身は
臥寢に
入たりけり
偖其夜も
白々と明渡りけるに大勢の客人共は皆々一同に
起出嗽ひ
手水を
遣ゆゑ後藤半四郎も同じく
起出て
嗽ひ
手水をなせしに客人たち
昨晩は
飛だ事で
貴方も
嘸かし御
眠かりしならん道中にて知ぬ
連は
油斷は成ませぬと云に半四郎
否皆樣も
嘸かし迷惑偖々不屆の
奴もある者でござると
咄しの折から下女は
膳を持來り後藤の方へは一人前を
据るゆゑ後藤は是を見てモシ/\女中飯は二人前出して下され夫に
酒を一升
添て
呉られよと云に下女は承知なして
勝手へ
行しが程なく酒を持來り
膳を二人前半四郎の方へ
据ければ後藤は
柱へ
縛り
付置たる盜人の
繩を
解コレ汝爰へ來て
酌をせよと
茶碗を出しければ
彼曲者はヘイ/\と云ながら
怖々酒を
酌に後藤は
大安坐をかいて酒を飮ながら何だびく/\するな
何故其樣に
震へるぞコレ酒が
漏るぞ
落着て
酌がよい汝も酒が
好だ一
杯間をせよサア/\其
茶碗がいゝ夫で二三
盃飮べしと酒を
酌でやり後で飯も
食がよい今に拙者が手前を
料理して
遣ぞコレ/\
遠慮なく澤山食せよと云て笑ひ居るに彼曲者は如何なる目に
逢事かと
生たる心地は
更に
無何卒旦那樣
命ばかりは御助け下されと
齒の
根も合ぬ
許りに
詫ければ半四郎
彌々可笑くよし/\
先食事をせよと云に曲者は半四郎の
心中量られざれば有難しと口には云て食事をすれ
共一
向咽へは通らず
戰へ
居る
中に半四郎も食事を
仕舞手を
拍きて女を
呼昨夕からの
旅籠酒肴の
代共勘定をといふに女子は御酒代
御旅籠とも二貫七百文なりと書付を出すを半四郎は受取て
彼曲者に向ひ貴樣は
懷中の
財布に金があるべし
爰へ二分出せ其替りは命は助けて
遣と云を聞き曲者は
最良横着氣を出し金子などはすこしも御座なくと云ければナニなき事の有べきや
若包み
隱さば命を助けぬぞ汝が懷中に持て居るを某し
見屆たりサア出せ/\と
詰寄に曲者は是非なく
財布より金子二分取出し
然樣ならばと差出せしかばソレ見よ持て
居ながら少しもなきなぞと
未僞るは
不屆至極なりと云ながら
握り
拳にて
横樣に
擲倒さんとする故盜人は大いに恐れアヽ
眞平御免下さるべしと
平蜘の如くになつて
詫入にぞ半四郎は二分の金を受とり是で勘定を
取て
呉よ
夫二分渡すぞと云に女は受取
行て
直に
釣を持來りしかば半四郎イヤ釣はいらぬ
[#「いらぬ」は底本では「いらね」]夜中に
騷がした
茶代に
取置べしといひ
捨夫より盜人に向ひ汝よく聞け此程より彼是と二兩ばかりは遣ひしならんが
何商賣にても
儲け
而已あるものでなし時々
見込違ひにて
損もすることあり
然れば今度から能々人の
目利をして見損じのなき樣に商賣に身を
入よ馬鹿な奴だと笑ひけるに
曲者は
只平謝まりに
謝り居るゆゑ又半四郎は
渠を見て汝は命をとる
可奴なれども今日の處は慈悲を以て
助けて
遣はすにより有難く思へと
云聞せ居たるに此家の者ども出來り先生
然は仰せらるれども後日の
誡めなれば少し私どもにも御任せあれ斯して呉んと手に/\毛を一本づつ
引拔半分
禿頭頂にしてぢく/\と血の出る處へ
太筆に
墨くろ/″\と含ませぐる/\と
塗廻し夫より鹽水を
灌ぎ懸て強く
摩り
込ければ盜人はヒツ/\と聲を
揚て
困む事大方ならず後藤は夫で
好々最寛して
遣と聲をかけサア汝
斯印を付て遣はすにより以來心を改め
眞實の人間になるべし萬一又々
惡心萌たなれば其時其
小鬢の
入墨を
水鏡に
寫し今日の事を思ひ出して心を改ためよと云て此家の下男に
追放すべしと渡すに下男どもは
面白半分手取足取
引摺行宿
外れにて
突放しければ盜人は
命辛々這々の
體にて逃去たり
偖又半四郎は夫より宿屋を立出
長の旅中も
滯溜なく讃州丸龜へ歸りて
舊の如く無刀流劔道の
指南をぞ爲して居たりけり
扨又江戸馬喰町二丁目なる武藏屋長兵衞夫婦は後藤半四郎を送り
大師河原へ
參詣して歸りしが
豫て後藤より頼まれし越後浪人新藤市之丞の
世話をして何になりとも
有付せんと思へども新藤夫婦とも此程病氣
付永々煩ひしが六十日程立て
漸々快氣なりしかば新藤に向ひ偖御前樣方は
何迄も
只々安閑としては
居られまじ殊に此程の御病氣にて
預りの金も多分御遣ひ成れしかば
先何道なりと
世帶を
持何か家業を始め給ふが
肝要なり江戸表に誰ぞ
知己か又御
國者はなきやと申に夫婦の者は是を
聞段々厚き御世話に相成る事千萬忝けなし私し共に江戸は始めてなれば一
向不案内にて
知人とても更に是なしと云ければ長兵衞は
首を
傾け夫では
先私しが此事御世話を申なれば御武家
出の事ゆゑ
浪人職で劔術の道場を出すと云者か但し
手習師匠でもなされては如何と云に市之丞は
赤面の體にて
實に
御恥かしき事なるが劔術は甚だ
未熟竹刀を持ば
震が
出槍も同樣
手跡に於ては惡筆の上なしゆゑとんと其方は
不得手なりと申に長兵衞は若々其樣に
御卑下なされては
[#「御卑下なされては」は底本では「御卑下はされては」]御相談が出來ぬと云を
否さ決して卑下致す
譯に之なく實に長兵衞樣其方はとても及ばぬ事故
何か
寧の事町人に
成度と申ければ長兵衞は
腑甲斐なき事に思へども夫なら先私しが申通りに
成れて御覽じませ夫には
資本金の入ぬやうに
紙屑買が
宜しからんと
云ば
何れにも
好に頼むとの事に付終に
紙屑買と相談を
極めて名も新藤市之丞にては
不似合なれば長兵衞は自身の名の頭字を
遣て長八と改めさせ
己は親分になり同町の
家主治兵衞の
店を
借て
引越させ其外萬事長屋の
振合迄巨細に教へつゝ
先世帶を持せ萬端長兵衞が世話にて
紙屑買仲間に入り又橘町の立場へも長八を同道して
行敷金を
入御膳籠鐵砲笊籠量等を
借受いくら目あつて何程といふ事をも
覺させ
又金者は
相針はいくらに
銅は
潰にして何程といふ相場を
聞一々
手覺えに
書留させて歸りしが夫より長八夫婦は
店住ひとなり翌日より
籠を
擔て
紙屑を買に出けれ共元來越後浪人二百石取の新藤市之丞なれば
屑はござい/\と
呼事能はず何所までも無言にて
緩々と
籠を
背負て
歩行事ゆゑ
屑は少しも買得ず只侍士を見ては我身の上を思ひ
出花は
櫻木人は武士とは實に
道理なり武士程立派なる者はなし夫に
引替心からとは云ながら二百石の
侍士が
紙屑買となり果たること餘りと云ば情なし是と云ふ
思案の外より出來たる事主親を
後に
爲たる
罰ならんと獨り心にくよ/\思ひながら
行に又向ふより侍士の來るを見ては
涙を
流し人に
面を見らるゝも
恥かしく思ひて
歩行ゆゑ
肝心の
渡世の紙屑を少しも買ず
慢々と下谷邊まで
回りし處長者町へ來りし時は終に日も
暮しにより道に
迷つて馬喰町へ
歸る
方角を失ひ
種々聞ても一向に道は知ず
途方に
昏しゆゑ長八は番屋を頼み
日雇を二百文出して馬喰町まで
案内を
連てぞ歸りけるまた親分長兵衞は長八が今日は商賣の出初なれども少しは屑を
買得たかと
案事らるれば樣子を聞んと長八の
家へ
行最早長八殿は
[#「長八殿は」は底本では「長八郎殿は」]歸られしやと云に
女房お
梅は
何か
流し
元をして居たりしが
振返りオヤ
何誰かと存じたら長兵衞さん
先々此方へ
御上り
下されよとて此程中の
禮を厚く申
陳澁茶ながら
汲て出しければ長兵衞はコレ/\
御構ひなさるな時に今日は
出初めなるが長八樣はお
歸りかと云に
女房未だ
宿では
歸りませんと云へば長兵衞夫は大そう
遲い事だ如何して居らるゝやと
噂の
折から長八は
歸り來りしが
親分長兵衞の來て居るとは
夢にも知らずオイお
梅や
今歸りたりヤレ/\
今日は初めてとは云ながら
恐[#ルビの「おそ」は底本では「おろ」]ろしい目に
逢た下谷の長者町とか云ふ所へ
行て道に
迷ひ終に二百文出て
案内を頼んで來た
夫故此樣に
遲くなり其上
空腹もありモウ/\
脇の下から
冷汗が出るはやく飯を
食て
呉よと云ながら内へ
這入長兵衞を見て
間の
惡るさうにコレハと云しのみにて
辭宜をなせば長兵衞は
苦笑ひを
爲ながら長八に向ひ
紙屑買の道に
迷ひて二百文出し案内を頼みて來ると云者が
江戸廣しと雖もあるべきや餘り馬鹿々々
敷事なり御前も無筆にては
豈夫有まじ町内々々には町名札があれば其の町名を見ながら歸りても
能夫は
兎もあれ今日は初商ひゆゑ
紙屑は何程
買れたるやと申に長八は
暫時無言なりしが
否も面目なし實に初めてのせゐか少しも
屑は買へず一日
慢々歩行て
草臥設なりといひければ
流石の長兵衞も
惘れ
果物をも云ず面を
見詰て居たりしが今日は仕方なし
明日からは
精を出して
買樣に致されよ
左右其樣な事にては
江戸の
住居は出來難し先々御
休みなされと
云捨て
我家へこそは
歸りけれ
偖又紙屑や長八は親分長兵衞が
歸りし
跡にて食事をしたゝめ大いに
勞れしとて
湯などに
這入て
休みしが程なく夜も
明翌日になりければ今日こそは紙屑を
買習はんと思ひて
先淺草御門を
出藏前通りを行に往來も
繁く何分
間の惡ければ
先[#ルビの「まづ」は底本では「さづ」]觀音へ
參詣なし
矢大臣門より
淺草田圃へ
出し所前後に人も見えざれば
屑はござい/\と
小さな
聲で
呼習ひしがまだ人に見らるゝ樣なれども長八は思ひ切て
田圃の中程へ行き全く人の居ざるを
見濟し
大音揚て
屑はございませんか屑はございませんか/\と
無闇に
呼習つて居たりし處に近所の子供等是を見付てヤア/\
皆々早く
來見なアレ紙くづ買が
狐に
誑れて田圃の
中で屑はござい/\と呼で一ツ所を
往たり
來たりして
居るが
石を
投付て
遣うと云に子供等は
追々馳集まり是は
可笑い/\と手に/\石を取て
投付々々アレ/\くづやが
狐に
誑された
間拔ヤイ
腐脱ヤイと惡口しながら猶も石を
破落々々と投付ける故くずや長八大に驚き江戸と云所は恐ろしく子供等までも
人氣の
惡い所なりと思ひ
早々に田町の
方へ
逃出し此日もくづをば
買ひ
得ずして
歸けるが長八は
親分の長兵衞へ
行右の咄をなし實に江戸といふ處は人氣が惡いと云ければ長兵衞は是を聞て大いに
笑ひ
夫は人氣の
惡いのではなし
御前が
田圃中を
呼び
歩行しゆゑ子供のことなれば狐に
誑されたと思ひ石を
投付しは先に少しも無理はなく
至極最もなり又
御前も以前は二百石取の侍士なれば
今如何くづ買に
成果たればとて
顏恥かしく大道を
呼歩行ことの出來ざるは
敢て無理とも思はれず
依て
是からは
裏々を
回り
先知己を
拵らへるが
肝心なり
夫に
付彼川柳點に「
日々の
時計になるや
小商人」と
云句のありと申に長八は一
向分ず
夫は
何と云心に候やと云ば是は川柳點と云て物事の
穴搜しとも申すべき句なり其心は
何商賣にても買つけの
得意場を
拵らへるには毎日々々時を
違へず其所を
回れば今何やが來たから
最何時成んと家々にて其商人を
當にするやうになり
然すれば商ひも
必らず
殖るものゆゑ
御前も町内は申に及ばず
裏々を順に廻り今日は
好天氣とか又は
惡い風とか
御寒いとか
御暑とか云て
未くづは
溜りませんかと一
軒づつ聞て
歩行が宜しからん其の中には心安くなり人にも
顏を知られる樣になる斯の如くして
馴染が出來るとくづを
買求らるゝなり
然さへすると先々で
何時のくづ屋さんが
來から最早
申刻ならん
夕膳の支度を仕やうと云ふ樣に成ば
得意も多くなるにより毎日々々時を違えず
回るが
肝要なり今も云通り爰の處の川柳點にて「日々の
時計になるや
小商人」と
吟じられしと云ば長八は感心して成程よく
會得しとて長兵衞の
咄の通り
翌日の朝も
刻限を
極て籠を
背負て
直に
隣裏より呼初め一軒づつに今日は
結構な御天氣にて御家内樣御揃ひ遊され御
壯健の
段珍重に存候偖私しは馬喰町二丁目家主治兵衞店紙屑買長八と申者なり
以來御見知置れまして御心安く願ひ
上ます
未紙屑は
溜りませんかと
永口上にて
叮嚀に云て
歩行故裏々の内儀達は大いに笑ひけれども長八は少しも
臆せぬ者にて又其隣へ行と
例の如く永口上を
叮嚀に云ひ歩行しなり是長八は以前越後高田の藩中二百石取の新藤市之丞なれば
斯の如き永口上も
渠が爲には却つて云ひ安き言葉なり
夫より淺草下谷本郷小石川小日向牛込市ヶ谷四ツ谷番町麹町其外日々
廻りしかば
後々は
馴染も多く
出來誰あつて少しも笑ふ者なく
屑屋樣今日は紙屑が澤山あるゆゑ持て行てお
呉といふやうになり
叮嚀屑屋と方々にて
贔屓にされ終には
仲間にても名を
呼ものなく叮嚀屋と云へば長八の事となり段々心安き得意も
殖相應に屑も
買出せしかば
早晩昔しの身の上も忘れて追々錢の
儲かるに隨ひ
自から商賣に
勵みが付て長八は毎日々々相變らず
裏々の長屋々々を廻りけるに或時神田紺屋町の裏長屋を
回りしが
職人體の者五六人にて酒を
飮居る處へ例の通りていねいに口上を
云ふ
屑やで御座り升と云に職人は
酒機嫌にて屑屋さん
下帶を
買ねへか紙屑の
替りに
鐵釘を
買ねへと云ければ長八はハイとは云ど何の事やら一
向解らざれば私しは
屑ばかりでござりますと云に
御前未とう四郎江戸
馴ねへと見えると笑ひしかば
然樣で御座ります此間國から出て參りましたと云ふに
成程然であらう今度又屑が有たら
遣べし大きに
御苦勞と云れ長八は
何卒[#ルビの「なにとぞ」は底本では「なによぞ」]御贔屓を
御願ひ申ますと
[#「御願ひ申ますと」は底本では「御願申ますと」]其所を立去り夫より所々を回りて我家へ歸るや否や
親分の方へ
行親分に御聞申ことがあると云ゆゑ長兵衞は何事ならんと
心配して
其譯を聞くに今日商賣の
出先神田紺屋町の
裏にて職人衆が酒を飮て居ながら斯樣々々申されしが私には
少も
解らず何の事なるやと
問に長兵衞は少し笑ひを含みて夫は
職人衆の
符號にて其なげしと云は
下帶の事なりくぢらとは
鐵釘の事
股引をば
蛸と云ふ是れ皆職人衆の
平常に云ふ
符號詞なりと能々
譯を云ひ聞せければ長八は大いに悦こび成程
夫にて
解りしなりと是より紙屑は
勿論帶腹掛古鐵の
類何にても
買込賣買を
精出しけるゆゑ長八は段々と
繁昌して大いに
工面を直し少しづつ小金も出來て
先不自由なき身分になりしかば親分長兵衞も
世話をしたる甲斐ありとて大に悦び
猶何くれと心添をぞなしたりける偖又長八世帶を持し其翌年女子一人出生しければ
夫婦の喜び云ばかりなく其名をお
幸と
號兩人の中の
鎹と此娘お幸が成人するを
明暮樂しみ
暮しけるとぞ
「
年の
尾や
水の
流れと
人の
身は」とは
彼の大高源吾が
門飾りの竹を
賣歩行し
時晋子其角が贈りし
述懷の
名吟なる事は世の人の知る所にして
實に定めなきは人の身の上ぞかし偖も越後浪人新藤市之丞が心がらとは云ひながら今は
紙屑屋長八と
名乘裏店住居となりしかど追々商賣に身を入る
中月日の
關守なくはや十八年の
星霜を送りけるが娘お幸は
今年十七歳となり
尋常の者さへ山茶も
出端の年頃なるに
況や
生質色白にして
眼鼻だち
好愛敬ある
女子なれば
兩親は手の
中の
玉の如くに
愛しみ
手跡縫針は勿論淨瑠璃三味線も心安き方へ頼み
習せ樂み
暮して居ける處に
一日長八は淺草觀音へ參詣なし夫より上野の大師へ參らんと
車坂を通り懸りけるに山下の
溷際に
深網笠の浪人者ぼろ/\したる
身形にて上には丸に三ツ引の
定紋付たる
黒絽の
螢も
洩ばかりの古き羽織を着し
謠ひを
唄ひながら
御憐愍をと云て往來の者に手の内を
乞居けるを長八は何心なく
見るに羽織の定紋と云ひ
状恰好大恩受たる大橋文右衞門樣に
髣髴たるは扨も不思議なりと思ながら腰の
早道より錢七八文出して手の内に
遣ければ浪人者是は/\有難う存じますと云し
其物語まで
彌々文右衞門に
似たるゆゑ長八は忽ち十八年の
昔時を思ひ出し
萬一や其の人ならんかと
能々笠の中を見んとするに浪人者は
最早日暮方なれば
徐々仕舞て歸る樣子ゆゑ長八は
後に
尾て行けるに下谷山崎町なる油屋といふ
暖簾の
懸し
裏へ
這入しかば長八も同じく
續いて這入見るに九尺二間如何にも
麁末なる
浪宅なるにぞ長八は内の
體を
覗きし處全く大橋文右衞門に相違なきゆゑ
御免なされと云ひながら内に入しが互ひに顏を
見合て
驚愕なしヤア貴殿は新藤市之丞殿貴方は大橋文右衞門樣と云ふに
女房も市之丞を見て是は/\市之丞樣
何してマア我々が浪宅を御存じなるや
先々些是へ御通り下されと
云た所が御通りなさるゝ所もなき山崎町乞食長屋の
汚穢くるしく御氣もじ樣やと
言ひながらも
簀子の上に
莚をしき是へ御上りあれと
云ゆゑ長八は
御構下さるなと其所へ
上り
四邊を見るに
壁の方は破れたる二
枚屏風を立回し此方には
崩れ懸りし一ツ
竈に
炭か
鑄懸か眞黒に
薫ぶりたる
鍋一ツをかけ
飯も
汁も
兼帶の樣子なり其外
行燈は
反古張の文字も分らぬ迄に黒み
赤貝へ
油を
注燈心は僅に一本を入れ又口の缺たる
土瓶は今戸燒の
缺火鉢の上へ
斜めに乘て居る其體たらく目も當られぬ
困窮零落向う三軒兩隣は丹波國の荒熊三井寺へ行かう/\といふ張子の
釣鐘を
背負て一文貰ひの辨慶或は一人
角力の關取
烏の
聲色何れも乞食渡世の
仲間にて是等の類皆々長屋づきあひなれ
共流石大橋文右衞門は
零落しても以前は越後家にて五百石取の物頭役なれば只今市之丞の長八に
對面なすに
屹と状を改め新藤氏には
能こそ
御尋ね下されたり誠に一別以來
先以て
御健勝の樣子大悦に存ずると
述ければ市之丞の長八も久々の對面
故に夫々へ挨拶に及び扨大橋氏思ひ出せば早十八年の
其昔彼
貴殿の
御厚情に依て我々夫婦が一命を助かり
剩さへ廿兩といふ金子を
御惠下されし
御庇蔭を以て今日まで存命仕つる事千萬有難く存じ奉つり候然るに彼の
折國元を
立退江戸表へ罷り出候途中熊谷の土手にて
惡漢の爲めに我々兩人既に一命も危ふき難儀に
出逢候處丸龜の人後藤半四郎と云ふ人に救れ夫より身の落着方まで
世話に相成當時は馬喰町にて
紙屑買を渡世に致し
何か斯か
寒暑のなき樣に暮して
居り殊に其後一人の娘を
儲け當年十七歳に成候是と申も皆貴殿の
御厚恩なれば一度は御禮の書状も
差上度心得候へども世間へ憚りあるゆゑ
夫も
叶はず只々
明暮思ひ
暮し居るにのみに御座候處先づは
御揃ひ遊ばし
御機嫌克御樣子大悦に存じ奉つるとは申ものゝ大橋氏には如何して
斯御體たらくに候や存ぜぬこととは申ながら是まで御尋ねも申上ざる
段嘸かし不實の奴と
思し
召も候はんが
先仔細を承はり度と申ければ文右衞門
其仔細と申は最早八ヶ年以前の事にて御家の騷動出來致し忠臣は
退き
佞奸邪智の
輩ら
蔓延に付
身不肖ながらも是を
正し
些少忠義を盡さんと心懸しに却て小栗美作が爲に
讒せられ終に永の暇を給はり其後未だ
斯々して居るなり
然ども忠臣は二君に仕へずとの金言を守り一錢二錢の
袖乞をしても他家へ仕官の所存更に是なく
早晩天道某しが誠を
照し給ふ事あらば歸參仕つる時節もがなと夫のみ心
懸罷り在候なり斯樣に
困窮零落の身の上御目に掛るも誠に面目なき次第に候と互ひに
憂艱難の
物語りをなし
暫く時をぞ
移しける
却説紙屑屋長八は段々の
仔細を聞て
甚く
歎息なしたりしが何れ又々近日御尋ね申さんと
暇乞して立歸り道々大橋の
物語りを考へ嗚呼人間の
盛衰は
計り難きものなりさしも越後家にて五百石取の物頭役をも
勤められし
[#「勤められし」は底本では「勤らめれし」]大橋文右衞門殿が
今日は一文二文の
袖乞を致し
居らるゝとは餘りなる
零落樣偖も/\
笑止千萬なることなり
何かなして昔年の恩報じに當時の難儀を救ひ助け
度者と
種々に思案しながら我が家へ歸り來りしに女房お
梅は
立出てヤレ/\御歸りなされしか
何時になく
遲いにより大いに御
案事申して居たなれど今度の
狂言は
刎幕がよいと云事故芝居の
切でも
覗いて御出かと思ひましたと云に何サお
梅芝居處か
今日珍らしい御方に御目に掛り
夫故大いに
遲くなりしと申ければお梅夫は又
何誰に
御逢成れましたと問に長八は
溜息を
吐マア聞て
呉今日は思ひの
外都合よく
午前に商賣も
捗取たから淺草の觀音樣へ參り
夫より上野の大師さまへ
回らうと車坂まで
行し所不思議にも國元の大橋文右衞門樣に御目に
懸り
斯々いふ事より
後を
尾て
行つて見た處が山崎町の
裏住居夫は/\目も當られぬ始末御
新造樣なども誠に見る
影もなきしがなひ
體裁御目に懸るさへも
否もう誠に御氣の毒千萬
實に/\
御痛はしき事也大恩受たる大橋文右衞門樣が
彼樣に御難儀なさるを
餘處目には見て居られぬ
何ぞして
那節下されたる二十兩の金子を
才覺して
今上たなら
何樣に御喜びならん何卒御恩報じに
進度者なれども親分の長兵衞さんにはこんな
咄しも致されまじ
何したら金の才覺が出來るであらうと女房お梅に一
部始終を
咄しければお梅は是を
聞夫はマア
御愛惜い事
然樣思し
召は成程御
道理恩を受て恩を知ぬは人でなしとは云ものゝ
力業にも
屆かぬは金の才覺
何うか仕樣が有さうな者と夫婦は
膝を
突合せて
種々相談なせども何分思案に及ばぬゆゑ
寧のこと天にも地にも
掛代なき手の中の玉となしたる娘のお幸を不便なれ共遊女に
賣て金の
調達するより外の
工夫はなしと恩義に
迫りし夫婦が相談茲に漸く
調ひしかば娘お幸を一
間に
招き妻のお梅は
涙ながら
此度斯樣々々の譯にて是非ともなければならぬ金ゆゑ親の
爲長い
間でも有まじければ何卒
勤の奉公をして
呉よと事を分て云ひ聞せければ元より利發のお幸と云ひ
最早年も十七歳花なら今四五分
開き
初しばかりの
色娘殊には
親孝心の者ゆゑ兩親の爲とならば此身は如何なる
苦界の
勤めなりとも
厭はじと早速承知なせしにぞ
然ば何分頼むぞさて
彌々娘の身を
賣ことに決着はなしたれども長八は一向
手懸ざる事故
何所へ頼んで娘を
賣がよからんやと思ひしところ爰に淺草田町に利兵衞といふ
紙屑問屋ありけるが此利兵衞は元長八の國者にて以前は出入の町人なりしかば至つて
懇意なる者ゆゑ長八は利兵衞の方へ行つて右の
始末を段々と
咄て娘を賣て十八年以前なる
傍輩の恩金を返さんと思ふよし
悉しく
咄しければ利兵衞も其の志ざしを深く
感じ
早そく承知なし即ち
判人となりて新藤の娘を新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎の方へ申こみ
目見えを致させけるに
容貌も十人
並に
優れしかば大いに氣に
入だん/\
懸合の
末年一ぱい金五十兩と相談を
取極て利兵衞は
立戻り其段長八へ物語りしに夫婦は利兵衞の
骨をりを
勞らひ厚く禮をぞ
陳たりけり
偖翌日にもなりければ長八は娘お幸を
伴なひ判人利兵衞の方へ到り夫より同道して新吉原玉屋山三郎の方へ
行約定の
通り金五十兩と
引替に娘おかうを渡し長八は立歸らんと
[#「立歸らんと」は底本では「立歸んらと」]するに
豫て
覺悟とは云ひながら
今更別れの
悲しさは
何に
譬んものもなく親子は
胸も
張裂ばかり
齒を
喰しばりて居たりしが
斯ては果じと長八は心を鬼に取なほし奉公大事に身を
愼めと
言ながら立上るにお幸も是を見送りて御兩親とも御無事にと
互ひに
後は
言葉なく
別るゝ親子が心の
中推量られて
哀れなり因て世話人利兵衞も
深切者ゆゑ
世話料判代等一錢も取ず
實意に
周旋に及びけるとなり
斯て長八娘お幸を
賣渡し吉原より
戻りて女房お梅に相談の
上元金二十兩に利を
添て
直樣下谷山崎町の大橋文右衞門の方へ
持參致さんとは思へども利足を相當に
添ては何を云ふにも十八年の間の事なれば此金を
皆返すとも
利足ず殊に文右衞門は
豫々手堅き
氣象故利足と云ては
請取間敷により全く禮の心で
肴代とでも名を付廿五兩も遣はさば
然るべし
然すれば殘りの廿五兩を以て
資本となし是より表へ
出て小切類にても賣夫婦して
精を出し金を
貯へたる上一年も早く娘の身受をなす工夫こそ
專要なれ又親分の長兵衞殿へ此事は決して
話されず娘は屋敷へ當分奉公に出せし
積りにして置べし
若年季に入たなどと云事が知れては
夫こそあゝ云ふ
氣象の親分ゆゑ
然ういふ事なら
何故己に一應相談仕ないなどと必ず
喧しいこと云に相違なし因て
先夫は
何所までも其積りと長八夫婦は
種々に心配なし是より
直樣廿五兩の金子を持て下谷山崎町なる大橋文右衞門の方へ
到りけるに同じく
跡より續て
質屋の小僧も此家に入來り私しは
表の油屋五兵衞方より參りましたが番頭の久兵衞が申
聞ますには
衣類大小の
質が
一口最早月切に
相成流れに出しゆゑ先日一寸御斷り申上げましたが止て
置との事ゆゑ
今日迄見合せ置たれども今に
何の
御沙汰もなきにより最早流れ切に致します
夫共利あげを成るなら止め
置ますが餘り段々
日延に成ばかりに付利上でもなければ
然々止置譯には參りません今丁度流れ買が來て
居りますから
賣拂はうと思ひますが
何成れますか一寸聞て
來いと申しました文右衞門樣
何成れますと小僧は足元から鳥の
立樣に
火急の
催促に來りければ大橋は甚だ
當惑の
體にて
然樣かなと
暫時考へしが
否左に
右あれは大切の大小なれば流しては成ぬ品なり是非共
受出すにより今一兩日
待て下されといふに小僧はそれでも御
前樣來る度に
日延ばかりの御口上今日も又一兩日と仰せでは使に來た私しが
困ります其度に
譯らない使をするとて
呵られ又御前の方ぢや
能やうなことを云なさるし同じ事を度々の使は
否でござりますが今度こそ
間違はなければ
最一度番頭さんに
然樣云てみませうと質屋の小僧は歸り行しかば是を
側に
聞居たる紙屑屋長八は文右衞門が身の
困窮を
察遣り成程一文二文の
袖乞をする身の上なれば
在とあらゆる
品物は大小までも
質に入たるは
道理なり其日々々にさへ
差支る有樣ゆゑ如何に大切の品なり共
今は
勿々受出す事も成まじ
質屋よりは流れの
催促嘸かし
難澁の事ならんと己れが身分にも
競べて考へしが長八は
爰ぞと思ひて廿五兩の金子を出し扨大橋氏
甚失敬なる申し分には御座れ共此金子は十八ヶ年以前に
御恩借致したる金子
延引ながら返上仕つるにより
何卒御受納下され候樣に願ひ奉つる誠に
彼節貴殿の御厚情ゆゑに我々夫婦只今はどうか斯か致して居るも皆貴殿の
御庇蔭にて候然るに貴殿
斯御零落成れたる有樣を見るに忍びず
切てもの事に斯樣なる時節にこそ
御恩を
報ぜんと存じて持參致したれ因て此金子
何卒御受取下さるべしと二十兩の金子を
並べ外に金五兩は御利子と申には是なく
御禮の心ばかり
御菓子料にさし
上度と出しければ文右衞門は是を見て忽まち氣色を
變是は/\新藤氏思ひもよらぬことを仰せらるゝ者かな
往古は昔し今は今なり一旦貴殿に
惠みし金子を如何に某し
斯零落して一錢二錢の
袖乞をなせばとて今更受取り申べき
謂なし貴殿が昔の恩を思ひ出し給はば夫にて
志ざしの程は知て居るなり夫に
只今質屋より
流の
催促に來りしを聞れ斯樣の事をなさるゝ段一應御深切の御志ざし
忝けなく存ずるなれども貴殿も未だ
有福の身になられしと云うでもなければ此金子に於ては決して受取申されず今でこそ
斯困難に及ぶものゝ以前は越後家において
祿五百石を領し
物頭役を
相勤めたる大橋文右衞門
清長率鎌倉と云ふ時のため武士の
省愼差替の大小
具足一
領位は所持致し居り候
是御覽候へと
仕舞置たる
具足櫃并びに差替の大小を
古き
葛籠より取出して此通りと長八の前へ並べて見せければ長八は
殆んど
感心なし
流石は大橋氏
御省愼の
程感心仕つり候
然程迄の御心
懸有とは
夢さら知ず失敬の儀を申上しは甚
面目なきことに御座候
然れども以前の御恩を
報ぜんと我々夫婦相談の
上調達致して參りたる此金子ゆゑ
何卒御請取下され候樣是非々々願ひ奉つるモシ
御新造樣然樣なされて下さらば有難く存じますと云ふに妻は何とか
言ひたき
體なるを文右衞門は
白眼つけコリヤ新藤氏一
旦貴殿へ
惠みし此金子
假令何樣に申され候とも今さら手前に於ては
受取所存決して之なし早々
御持歸り下されよ某し當時
困窮に及ぶも是天命なれば何をか
憂へん
又誰をか
恨むる所もなし
拙者は少々
認め物あれば
御免あれ貴殿は
緩々御咄し成るべしと云ひつゝ其身は
机に
懸りけり
偖又文右衞門の女房は
勝手にて
番茶を入れ
朶菓子などを
取揃へて
持出たるに長八は大橋が
義氣の強きを彌々感じ心中に
成程斯まで
零落なしても武士の道を
立通し
指替の大小并びに具足迄
省愼置るゝ程の
氣質にては
勿々此金子を受取ざるも
道理なり
併しながら某しも一人の
娘を
賣て昔しの恩を返さんと致したるも
水の
泡となり
斯々云譯なりと
打明て
咄しも出來ず
而て見れば
深切甲斐もなし
然ど
又斯いひ出しては今更持て返るは如何にも
本意なく
置て
行んとすれば受取ずはて
何して
宜らんやと茶を
飮ながら思案の折柄又々
表の
質屋より
先の小僧が入來りて
若文右衞門樣先刻仰せられしことを
番頭久兵衞に申聞し處久兵衞の申には
最早月切には
成し
利上もなき事なれば
何時までも御
預り申事は
出來兼候
幸ひ
今流れ
買の道具屋が
來合せたれば
賣拂ひますにより
然樣御承知下さるゝ樣に申上ろとの事に
付一寸御斷り申ますと云置て
小僧は
直に立歸らんとするゆゑ文右衞門は小僧を
呼止イヤ
然云ことなら某し
直樣後より參り番頭に面會の上相談もせんにより少々の
中待て
呉られよと云ながら文右衞門は長八に向ひ某し
程なく
歸り申さん
間暫時の
中御咄し
成れよと云捨て文右衞門は表の
質屋へと出で
行けり跡に猶屑屋長八は
種々と考へしが
所詮此金子を以て歸らんことは思ひも
寄ず
如何はせんと座中を見廻すに是幸ひ
傍らに文右衞門の
煙草盆ありしかば其の中へ右の金子二十五兩を
入置其の
身は
素知ぬ
顏して女房に
暇乞なし歸らんとするに女房は
押止め市之丞樣
最早夫文右衞門も程なく
歸宅致事なれば先々御待下されよと申けれども長八は以前
世話に
預りし者の方に
疱瘡人是あるゆゑ夫へ是非々々尋ね
行ざればならず
何卒文右衞門樣御歸りあらば
宜敷仰せ上られ下されよ又々近日
御尋ね申上んと
言置長八はそこ/\に
暇乞して我家に立歸りしに女房お梅は
出迎へ御持參の
金子滯ほりなく文右衞門
殿請取れしや
如何にと云ふに長八
首を
振り
否々物堅い文右衞門殿
何あつても金子をば受取らぬと
言張れ
實に仕樣もなき
折から幸ひ
斯々云事にて
外へ
出られし
留守中密と
煙草盆の中へ入れ置て歸りたり然れば日々に
困る文右衞門殿ゆゑ
質屋からは
矢の
催促彼是にて右の金子を遣はるゝに相違なし
然すれば某しが
志操も
屆き
娘も
無陀奉公にならぬと云ふ者
也と
咄しければ女房お梅も打喜び夫はよくこそ
取計らはれたり
然すれば如何に
物堅き人にても手元にあるを遣はずには置れまじ先々夫にて少しは
胸が
晴たりと長八夫婦は悦びつゝ
咄に
時刻を
移しけり
偖又大橋文右衞門は
表の
質屋へ
行て
番頭久兵衞に
逢種々相談の上漸く一兩日
止置事に
取極て歸り來りしに新藤市之丞の見えざれば女房お
政に向ひ市之丞は
如何致せしやと云ひければお政然れば新藤氏は
良人の御歸り
迄と御止め申たなれ
共以前世話になられし
家に
疱瘡人が是ある由にて是非
見舞に
行ねば成ぬにより
何れ又々近日御尋ね申さん
宜敷申
上呉よと云はれて御歸り成れしと云ふに文右衞門
然でありしか市之丞と
云ふ
男は
義心盛んにして誠に
奇特なる者なり昔し助けし恩を忘れず今我等
斯困窮零落せしを
察し廿五兩の金子を
工面して持來りしは天晴
頼母敷志ざしとは云へ共
曩に某し一
旦惠みし金子を今さら
請取ては我等が一分立ず是に依て
堅く
斷わりを申せしゆゑ
早々歸りしと見えたりさぞかし
本意なく思ひしなるべしと云ひながら文右衞門
煙草を
呑んと
煙草盆を
引寄見れば
是は
如何に市之丞が持來りし廿五兩の
金子包の
儘火入の
脇に有ければ文右衞門は女房お政を
呼び此金子は
何如[#「何如」はママ]致したるやあれ
程に
斷わりたるを知りながら市之丞より
受取置しか大方
女のいらざる
猿智慧にて我が
留守を幸ひに
兎も
角も
御預り申さんなどと云て受取たるに相違
有まじエヽ
汝れは
腑甲斐なき女かな武士の女房には
似合ぬ
心底斯零落しても大橋文右衞門なるぞ心まで
困窮はせぬ
汝は
然までさもしき
根生になりたるやと女房お政を
叱りつけしにお政は驚き
是は/\餘りに
御推量過たり
良人の
御氣象を存じながら
何しに請取
置申すべき疑ひ給ふも
品にこそよれ實に私しは存ぜぬことなり
察するところ市之丞殿も
折角に
持參致されたる金子ゆゑ
良人が御受取なきを
本意なく思ひ私しにも知らさぬやうに
煙草盆の中に
入置て歸られたるに相違あるまじとて言葉に
淀みなければ文右衞門も
何樣と思ひ
然ば市之丞が此の中へ入て置たるに相違なからん
何にしても此金子を受取ては某しが一
分立ず
又和女は市之丞が
住所を知て
居かと
問けるにお政は
然樣さ只馬喰町とのみ承まはりましたと申ければ文右衞門は
宜々何れにも此金子は返さねばならぬ馬喰町へ
行て
紙屑買の市之丞と聞ば知れぬ事はあるまじ
明なば
直樣一走りと文右衞門は
夜の
明るを
待起出て早々に支度をなし二十五兩の金子を
財布に入て市之丞が家を尋ねつゝ馬喰町へと急ぎ
行き此邊に新藤市之丞と云ふ
紙屑買はなきやと一丁目より二丁目三丁目四丁目まで
悉皆く尋ねけれ共少しも知れず
是は知れぬ
筈の事なり以前は新藤市之丞にもせよ今は
浪人して屑屋長八と
改名したる者なれば
裏々は申に及ばず
自身番へ
懸りて尋ねけれ共一向知らざる
由を申自身番にて新藤市之丞などと
云六ヶ敷名の人は
紙屑買にはあるべからず
夫は
大方浪人者の
間違ひなる
可と云ゆゑ文右衞門は
當惑なせしかど
是非共尋ねて金子を返さんと思ひければ猶
裏々へも
這入込此御近所に
紙屑買を渡世にする新藤市之丞と申者の
宅は御存じなきやと
問に此町内には御用の屑買は御座らぬなどと云て大いに
笑はれければ大橋も
今は
是非無尋厭倦て下谷山崎町の我家へ歸り
偖も/\
困し事也馬喰町へ行て
表店は
言に及ばず裏々まで四丁の
間細やかに尋ね
探したれ共新藤と云ふ
紙屑買一向に知れず
何[#ルビの「なに」は底本では「なは」]しても大切の預り
物萬一此金子に於て間違ひにても有なば猶々市之丞へ
對して
言譯なし
何れにも此上尋ね
探して返へさねばならず
然れど
夫迄も斯して置は心遣ひ殊に
隣り近所は皆々
不肖の渡世をする
族而已丹波の荒熊三井寺へ
行う/\と云張子の
釣鐘或は
鉢叩き願人坊主などと云者許りなれば
勿々油斷は少しも成ず
若此金子の有事を知りて付込れなば如何なる
變事の出來んも知れず
何れにも又々明日馬喰町へ行きて尋ね當り次第市之丞へ渡す迄は
甚だ以て心遣ひなりと云に女房も
夫は
御道理なり今日は
終日尋ね
倦まれ
嘸かし
御勞れならんにより
貴郎は
宵の
中御臥みありて
夜陰よりは御心だけも
眠り給はぬ樣いたし度と申に
否々今宵とても
臥むに及ばず兩人して
寢ず
番をせんと云故然らば兩人の間に
置互ひに心付
合んと夫婦して二十五兩の金子を中へ
置風の
音にも飛起るやうにして夜もすがら
寢もやらず守り居けるが
深々と
更行に從ひ文右衞門は
過去來我身の上を思ひ出し
偖も/\如何成事にて斯迄
武運に
盡果たるこの身かな以前は越後家にて五百石の
祿を
頂戴し物頭役をも
勤め大橋文右衞門とも云はれたる
武士が人の金ゆゑ寢ず番を勤める事餘りと云へば
口惜き次第ぞや是といふも
小栗美作が
讒言ゆゑなり今更
悔む共
詮方なけれど天道誠を
照し給はゞ
何の世にか歸參する事もあらんとは
云ものゝ
今一錢二錢の
袖乞をして其日々々を
暮し
兼るも二君に仕へぬ
我魂魄武士の本意と思へども
實にあぢきなき
浮世かなと一人涙を流したる
問ず
語りの心の中思ひ
遣れて
憐れなり
然るに女房お政は
夫文右衞門が
問ず語りを
側にて
熟々聞居たりしが
堪へ/\し
溜涙夜半の
時雨と諸共にワツとばかりに泣出せしかば文右衞門は是を
見返りコリヤお政何が其樣に
悲しくて
泣をるやと云ひければ女房お政は
漸々に顏を
上何ゆゑに泣とは餘りに心なき仰かな
只今良人がお
一人言[#ルビの「ひとりごと」は底本では「ひとりごく」]聞に付ても今の身の
上情ない共しかないとも思へば/\
口惜く
嘸御無念に思召さん如何に物堅き
御氣象とて日々の
困窮の其中に二十五兩と云ふ此金の
眼前に
有りながら御歸しなさるとの御志ざしは武士道の義理一
應は
御道理なれ共市之丞殿が昔の
恩義を
報はんと
故意々々遣はされたる此金なれば
假令其儘御受取なされたとて何の不義理が
有べきぞ殊に今日も今日とて表の
質屋よりは度々の
催促若や流れに出る時は
僅十二三兩の金子にて大切の
大小を
失はるゝも
口惜く夫も金子なければ仕方もなし
眼前此所に
有金を武士の
意氣地と
云ひながら遣ふ事さへならぬとははて
何したら
宜んやと女房お政はくよ/\と女心の一
筋に昔しを忍び今の身の
敢果なき
體を
喞ちつゝ
如何なる因果と
泣沈むにぞ文右衞門は
状を
正しコレお政其方は何とて其樣に
未練なることを申ぞ浪人しても
此清長が妻ならずや夫に何とて以ての外
聞苦しき
世迷言急度省愼居申すべし是此金子は
受納めたりとて何も
仔細なき事は汝が申さずとも承知なれ共
然ある時は先にも申如く一旦
他人に
惠みたる金子を如何に
零落なせばとて取戻せしと云れんことも
無念なり又是迄年來
磨上たる武士の
魂魄何ぞ再び
變ずる事あらんや
渇しても
盜泉の水を
飮ず熱しても
惡木の
蔭に
舍らず君子は
清貧を尊ぶとこそ云へり今一錢二錢の
袖乞しても心
清きが
潔よし人間萬事塞翁が馬ぢや
又好春に花を
詠める時節もあらん
斷念よと夫婦互に力を
添へ
合憂物語りに時移りしに
頓て
塒を放るゝ鳥の聲に夜は
白々と明渡りければ女房お政は
徐々と勝手に
立出
朶折くべて
飯の支度に
懸り文右衞門は
嗽などして
其所らを
片付偖飯も仕舞ければ是より文右衞門は又々馬喰町へ
行市之丞を尋ね
探さんとする處へ表の質屋より
例の小僧が來り一昨日
御出遊ばし
御對談の上今一兩日
待呉よとの御頼み承知したれども其後
今日迄も一向に御沙汰是なく候間今日中猶豫いたし明日は是非々々
相流し候により
然樣御承知下されよと門口より
言放し小僧は急ぎて歸りけり
偖質屋よりは今日中
猶豫致し明日は是非とも
質物相流し候旨
斷りに來りければ文右衞門は
途方にくれ如何はせんと女房お政に
相談なしけるにお政も
太息を
吐那の一口は大小ばかり賣拂ひても金五十兩程になるべし
其外小袖合羽の類まで彼是六十兩餘の
金目の品々を僅かに十二三兩位に預けし
切流しては餘り
口惜き事に候はずや因て考ふるに一
先此金子にて
請出し其上外方へ賣拂ひ候はゞ
相應の代金手に入べし其時市之丞殿持參致されたる金子だけ
返濟致す共
遲からぬ事ゆゑ其中の
融通に
遣はれたならば市之丞が折角の
志ざしも通り
又貴郎の御義心も
貫くと申もの
双方の御趣意も立て宜く候まゝ是非々々
然樣に
成れよと申ければ文右衞門は
暫時く考へしが成程是は
其方の申通り一時の
融通に此金を借用したりとて
返しさへなせば我が一分も立又市之丞の志ざしも
貫りて遣はすと云もの
實に
那の大小を
此儘流して仕舞は餘り
殘念なり
然ば先此金子にて請出し我が年來の
懇意なる稻葉丹後守樣の藩中へ持參して
能直段に賣拂はんと文右衞門は
漸々承知なし市之丞が遺したる金子廿五兩の内を以て表の
油屋五兵衞の方へ
行番頭久兵衞に
逢て流れの一件段々と
延引に相成甚だ氣の毒千萬なり夫に付今日は右の品物を
賣拂はんとのお使
御道理にて候然るに幸ひ
昨晩外より
融通致したる金子是あるにより右の品々
受出し候間
御面倒ながら御取出し
元利共何程に相成候や勘定して下されと云ひければ番頭久兵衞は大いに驚き心の
中に思ふ樣此品々を今更受出されては
心當が
違うたり是と云も此質物は
外の
代呂物と違ひ五ヶ月限りの
約束にて凡六十兩程は
固く直段のある品を僅か金十二兩
貸てあるゆゑ流れになりて
賣拂へば金四十五兩は
儲かるなり其四十五兩の金子は皆己が
懷中へ
入帳面面は筆の先にて
能樣にごまかし置んとの
胸算用夫と云も平生文右衞門は一文二文の
袖乞をして居けるゆゑ大丈夫請出す
氣遣ひなしと
踏たればこそ
嚴重催促をしたりしに今請出されては甚だ
心當が
相違したりと番頭久兵衞は小首を
傾けしが又心中に考ふるやう此品物を
殘らず受出すと云ば仕方なけれども
勿々今十兩からの金子の出來る
筈はなし
大方大小計り
請ると云ならん其處で
拔差は出來ずと
斷わり流させ呉んと思ひければ久兵衞は文右衞門に
向ひ質物を受出さんとの
御事承知仕つり候へ共一品にても
拔差は手前にて
迷惑に候間殘らず御受なさるゝなら
格別其方の勝手に大小ばかり
請樣などと仰られても其儀は出來申さずと云ければ文右衞門
聞て夫は
御道理の事なり今殘らず請出す
間元利何程か勘定して下されと
云故番頭久兵衞は
飽迄見込違ひになりしかば心の中にては甚だ
忌々しく思へ共
詮方なく勘定致し見るに元利十三兩二分外に
時貸が六百文右の通りと文右衞門が前に
差出しければ文右衞門は是を見て是は/\
御世話と
云ひながら
財布の
中よりぞろ/\と一分金にて十三兩二分取出し
殘らず勘定して質物を
受取我が家をさしてぞ歸りける
偖文右衞門は我が
家に歸りて衣類大小を
能々改め見るに
品數も
相違なく幸ひ今日は
雨天にて
貰ひにも出られず
直樣是より稻葉侯の御家中へ大小を
賣に參らんと
今質より受出して來たる
衣服并に
省愼の大小を
帶し立派なる
出立に支度なして居たる處へ同じ長家に居る
彼張子の
釣鐘を
背負て
歩行辨慶がのそ/\と出きたりモシ/\文さん今日は
雨降で御互に
骨休み久し
振なれば一
口呑べし夫に今さんまの
生々としたるを
買あつたから是で一ぱい
遣やせう
先何は兎もあれ私しの
宅へ
御出なせへと
門口から
聲を
懸ければ文右衞門は是を聞て夫は忝けないが
生憎今日は少々
差掛りたる用事のあるゆゑ何れ又此後のことに致すべしと申しけるに辨慶は
打笑ひコウ/\文さん其樣に
稼ぐには及ぶまじ今より
貰ひに出るには
遲し是非々々來なせへと
忙しなく云ひければ文右衞門
否私しは今から稻葉丹後守樣の御屋敷まで參らねばならぬ用事が
有と云に辨慶は
猶門口を
這入ながらオイ/\貴樣は
勇しき
根性だな日々一文づつ貰ひ居ながら稻葉丹後守樣の御屋敷へ
罷り
出るなどと
餘り
口巾ツたきことを云ものかなと大いに
笑ひつゝ
[#「大いに笑ひつゝ」は底本では「大いに笑ひつゝ」]文右衞門の
容體を見るに上には
黒羽二重の
紋付下には
縞縮緬の小袖博多の
帶に
唐棧の
袴黒羅紗の長合羽を着し大小を
凜々しく
帶して如何にも立派なる
武士に
出立居たりしかば是はと驚き
然云事なら是非に及ばずと
云直し早々此家を立出しが
偖々不思議なる事もあるものかな此山崎町へ來りて
我等が仲間に
入袖乞に出る者が今日は斯の如く立派なる
身形にて然も稻葉樣へ
行と云は
何分合點行ず文右衞門は
舊越後家の浪人と
聞及びしが苦し
紛れに切取り
強盜をせしに相違なしと思ひければ夫より三井寺の辨慶は長屋中を
觸歩行しに仲間なる丹波の
荒熊又は
皿廻し
烏の
聲色遣ひなど皆々此浪宅へ來り樣子を
覗き見て
成ほど/\辨慶の云通り文めが今日の
身形は何でも只事ではなしと
噂區々なるに辨慶は少し
鬱氣し樣子にて
己ア
日來仲間の事ゆゑ文右衞門とは心安くして
度々酒も
飮合しが
那んな
身形をして出るに
[#「出るに」は底本では「出ばれ」]直に
探索方の御手に
會は必定なり
萬一縛られもする時は己も
直に
引合を食ふも知ず
困りしことと咄しければ
荒熊は聞て
然共々々文右衞門めが
召捕れなば手前は第一番の引合にて
同類同樣なりと云ければ辨慶は
勃然として
其樣に馬鹿にするな
己に
於ちやア憚りながら少しも
後ろ
暗い事など仕た事アネヘと彼是咄し
會て
乞食仲間は
些少妬ましき心より種々に氣を
揉居たりけり偖又彼油屋の番頭久兵衞は文右衞門が
質物を
受出して歸りし
跡に
茫然と手を
拱ぎて居たりしが彼浪人め一
文貰の身分にて
僅二三日の中に十三兩と云金子の出來樣
筈なし
融通せし金なりと云とも
奚ぞ袖乞に十兩からの金子を
貸人の有べきやはて不思議なる事もあるものだ
何した譯の金なるやと
良暫く考へしが
而て見れば一文貰ひの
苦紛れに
奴切取強盜をなすか又は
家尻にても切しならん
渠は元浪人者だと云から
表向は一文貰ひ
内職には
押込夜盜をするに相違なし
兎角然樣なければ金の出來る
筈はなし
假令然樣なくとも我が
胸算の相違なれば
奴を盜賊に
陷し未だ遣ひ殘りの金もあらばせしめて
呉んと忽ちに
惡意を
發し丁度此日質の流れを賣たる百兩と云金が見世にあるゆゑ是を
取隱し
置早々文右衞門の方へ行て金の
出所を
聞糺し
若出所明らかなれば夫までの事萬一
胡亂の申口ならば見世に
在し百兩の金を文右衞門が
盜み
取しと
云懸て同人が所持の金子を
體能騙り取んと
工夫にこそは及びけれ此油屋五兵衞方の番頭久兵衞と云ふは元上總無宿の
破落者なりしが其後東海道筋にて
護摩灰を働らき前書に
顯はし置たる通り後藤半四郎の
道連となり三島宿の長崎屋と云ふ
旅籠屋に於て半四郎が
胴卷の金子を
盜取んとして引捕へられ片々の
小鬢の毛を
拔取れ眞黒に
入墨をされて
命辛々逃し
奴なり然れども少しは是に
懲しと見え其後は惡き事もなさず中年にて奉公に
住込隨分身を
愼しみ居ければ主人五兵衞は此久兵衞が年頃といひ
萬端如才のなき者ゆゑ大いに心に
適ひ
好者を
置當しとて終に番頭となし見世の事は久兵衞一人に
任せしなり尤も五兵衞の
悴に五郎藏と云ふ者有けれ共是は
人並外れし
愚鈍にして見世の事等一向に
解ざれば此番頭久兵衞などには
宜樣に扱はれ主人か
[#「主人か」は底本では「主人が」]奉公人かの差別もなき位の事なり
又親父の五兵衞と云者は是迄商賣向には
勿々如才なけれ共
酒も
好女も好にていゝ年をしながら
此處彼處へ
圍ひ者をなし其上
屡々女郎買にも
行家の下女には手を付て
懷妊させて金を取られいやはや女を好むことは
鷄にも
似たりと云程のことなれば
近來家内の
不取締りは勿論なり故に何事に
寄ず番頭久兵衞が一人にて
宜樣に
掻廻して居ければ終に又昔しの
惡心再發なし此度文右衞門が
質の一件とても己が
氣儘に取計らはんとし又主人の金子百兩を
盜み取て文右衞門へ
塗付んと
巧み家内は誠に
亂脈にて主人はあれ共なきが如く此久兵衞一旦は
改心の
形に見ゆれども茲に至つて又々
本性を
顯はし大橋文右衞門に百兩の
云懸りをするといふ
大惡不道の曲者なり
然ば根が惡心のある者は如何にしても善心には
成難きものと見え
往々召捕るゝ
盜人ども
入牢の上御裁許に
逢追放又は入墨或は遠島と夫々に
御咎を仰付らるゝにより
迅速に
正路の人になるべき
筈なれども又人間に出る時は
以前に一
層惡事の効を
積遂には其身を
亡なひ惡名を萬世に流すを
見れば惡は惡に
亡ぶる事誠に是非もなき
次第なり
又主人五兵衞は其人を知らず
只己の
慾を
恣まゝになせしゆゑ遂には家の
滅亡を招くと
云是亦淺猿しき事にこそ
偖又大橋文右衞門は
支度調ひしかば稻葉家の藩中へと出行し
跡へ彼の油屋五兵衞の番頭久兵衞は入來り文右衞門さんは
御家にかと云ながら
直と上り
込ゆゑ女房お政は是を見てヤア油屋の番頭さん
折惡く
宿では留守なれども
先一ぷくあがりませ
又今朝程は何かと御世話に
成殊に約束の月も
切て度々
御催促をも
受誠にお氣の毒と云を久兵衞ナニ夫は商賣の事ゆゑ
厭ひませんが
若内儀さん承まはるも餘り
率爾ながら
能急に金子が出來ました尤も外より
御融通なされたとか仰せなれども
金子と云ふものは
勿々容易には
調ひ難きもの
最早濟し事ながら
既に流れ買に賣拂はんとする處なりしが
彼金は
何處から御融通なされしにや
些申し
惡き事なるが
御立腹なさるな
内儀樣一文
貰の
袖乞をする身分にて
昨日までも出來ざりし金が一夜の
中に十三兩餘りと
云大金の調ひしとは誠に
不測なり是に
依て失禮ながら御問ひ申す事なりと云ければ女房お政は
聞て夫は久兵衞さん
訝な事を御尋ねなさる
成程今此樣に
零落して一文貰をする身なれば
不審に思ひなさるも
御道理なれど此金子の出來しと云譯を
委細御物語り申せば
永き事なるが一寸摘んでお
咄し致さん此金子と云は最早十八年以前の事にて
元私しの
國許越後の高田に居たる頃同じ家中新藤市之丞と云者ありしが同役の娘と
密通に及びし事
薄々役人どもの
耳に入御家の
御法を
破りし者なれば
捨置れずとて既に兩人共一命にも關はる處を
夫文右衞門が
情に依て兩人が命を
助んと二十兩の金を與へて江戸表へ
立退せたるに其後夫婦になりて
取續き今にては
先相應に暮して居ると申事其助けたる市之丞に此ほど
廻り
逢し處我々夫婦此樣に浪人して
困窮に及ぶを見兼ての
深切先年の
恩報しなりとて
一昨日夕方に廿五兩と云金子を
調達して持參致されし譯ゆゑ何も別に
不審に思はるゝ事は是なしと金の出所を
白地に
咄すを聞て番頭久兵衞成程世の中には
義理の
堅い深切なる者もあれば
有者併ながら夫が
眞實の人間なるべし其市之丞殿とか申方は
當時何方に住居致され候やと申にお政は
打案じ左樣さ私しも未だ江戸の
樣子は不案内なれ共たしか馬喰町邊とかにて紙屑買を
渡世になし居ると申されしなりと云ければ久兵衞は茲ぞ
付込處なりと思ひ
然すれば其市之丞殿の家主の
名前又當時本人の名は何と申され候や紙屑買をするに
苗字つき新藤市之丞にても有まじと云にお政否
家主の名は承まはらず又當人の名も當時は
替り居るならんが
此程中逢し時には以前の名前新藤市之丞と
許り申
居しなりと云に久兵衞は
彌々しめたりと思ひ夫では内儀樣少し
胡亂なお咄しなり家主の名も知ず
當人の名前も分らぬとは如何にも
受取れぬ
事而て見れば兎にも角にも其金の出所が
怪しいと云つゝ
充分心の中に
笑を
含み
道理こそ一夜の内に金の
工面が出來たるなれ夫に付て
御談じ申す事があり
昨日の
朝流れる品を賣た代金百兩包みの
儘帳箱の上に
差置つひ事に
紛れて仕舞のを忘れしが
此方の旦那が歸られたる
跡にて
心付見るに其の金子何れへ
紛失せしにや一向分らず因て
嚴重に家内を
詮議なしたれども何分知れず是は
知ぬ
筈の事なり
其は文右衞門さんが
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、463-4]した出來心夫も
無理とは思はず
斯貧窮致さるゝゆゑ如何に
手堅き人にても心の
駒の狂ふのは
是有うちなり
然とて其儘
捨ても置れず
迷惑なすは我等のみ因て其百兩の金子は
早々御返し下されよ
然すれば人の耳にも
入ず内々事を
濟さん程にサア/\
素直に御返しあれと
思も
寄ぬ
言懸に女房お政は大に驚き
夫りやマア久兵衞さん
途方もない百兩の金子をば文右衞門が
取しなどとは
跡形もなき
云懸り
假令戲談にもせよ然樣の事を申されては
聞捨にならず夫には何か證據が
有て申さるゝにやと
見相を變て申に久兵衞は
冷笑ひ
否々人は見かけに寄ぬもの其時
其所に
居合せたは文右衞門殿ばかりゆゑ盜まれたるに
相違なし
盜人猛々しとは此事なりと云ひければお政は
彌々やつ氣となり私しを女と
侮りて
當事もなき
言懸り成程一夜の中に金の出來たるを
不思議と
云るれど夫は只今も申せし通り新藤市之丞が
持て來たる金なるに御前は何と思ひしにや
無體を
云ふも程があるとお政は
無念の
切齒をなすに久兵衞は
落つきはらひオイ/\
御内儀其樣に
逆み
上りになるからは猶々
怪しく思はれるマア
能々氣を
鎭めて御聞あれその市之丞とやらが家主の名も知れず
殊に當人の
名前住居も
知ずとは是怪しき證據の第一なり廿五兩といふ大金を
受取ながら其人の名前住所をも
聞て
置ぬと申さるゝは
元が
不正の
金子故に
確と
出所は
云れぬ
筈何でも百兩は
此方の旦那が盜み取たるに相違なし四の五の
言れずと只今返されよサア/\如何にと
詰よるにぞお政は
無念さ
口惜さ
叫と計りに泣出し成程當人の名前住所をも
聞ずに置たるは手前の
越度なれども
夫に於て其の樣なる
不埓を致す者でなし浪人しても大橋文右衞門
素は越後家にて五百石の
祿を
領し
物頭役をも
勤たる
武士なり夫を何として
不義不道の盜み心を
發すべきと
怒りつ泣つ
爭さうに番頭久兵衞は
左右に
冷笑ひナニサ其樣に子供
欺しの泣聲を出しても其手は
勿々食ぬ夫よりは御前方も一文
貰ひの苦し
紛れ
貧の盜みに
戀の歌とやら文右衞門さんが
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、464-2]出來心にて盜まれしと言つた方が罪が
輕い其所は
私しが心一つで取計らひ質を受たる十三兩の金子は
負てあげ
樣程に跡の金を殘らず御返しなされ然すれば此事は
是切にして上るなり夫が一番
上分別憖ひに
押を強く
云拔樣とても然樣
甘くは
欺されず是が
表向になる時は文右衞門さんは
甚御氣の毒だが御吟味中
入牢トヾの
迫は首がなし命あつての
物種なればサア/\殘りの金子を渡されよ
何だ/\と
責付るを此方は
増々聲ふるはせ
最此上は爭ふより今に
夫が歸りなば
直樣分る事柄なり金の出所は市之丞より受取たるに
相違なしと終には互に
大音揚云爭ひて居たりけり
評に曰く如何に久兵衞奸惡なりとも此方には拔目なければ惡謀も行ふ事能はず然るを二度まで來りし市之丞が當時の住所名前等も聞置ざりしは全く文右衞門の無念なり然ば久兵衞其落度に付込み斯難題を申懸るのみか己が見世の百圓[は#「百圓は」はママ]密かに我が圍ひ女の方へこかせし奸曲に逢ひ文右衞門は終に身の難儀となるは其人にして此過失あるは時の不幸と云べき而已
扨又大橋文右衞門は久々にて稻葉丹後守殿
藩中へ行一別以來の
挨拶に及び扨拙者儀
浪人の後斯樣々々の次第に因て
困窮なし餘儀なく
家重代の品も質入なせし處此度月切に相成既に流れんとの
[#「流れんとの」は底本では「流れんのと」]趣き
度々催促を受
殆ど
當惑なすと雖も
詮方なく年來
祕藏せし差替の大小僅かの金にて
他人手に渡んこと如何にも
殘念に存じ貴殿は
豫々御懇望[#ルビの「ごこんまう」は底本では「ここんまう」]もありし品ゆゑ御買取を願はんと持參なしたりと申に彼方も大橋の
困窮を察し
迅速に
購ひ
呉しかば文右衞門は喜びて代金を受取我が家を指して
歸り來りしに何やら
路次の中
騷しければ早々來り見るに油屋番頭久兵衞と我が
女房が何か爭ひ居たるゆゑ文右衞門は兩人に向ひて何事の
爭か
譯は知ね共互に
大音揚近所へ對し
外聞惡し靜に
譯を
咄すべしと云に
女房お政は
夫の歸りしを見て是は
好所へ御歸りなり今久兵衞さんが來られて餘り
無法な事を
言懸らるゝにより思はず大きな聲を出せしなり
其譯は
一昨日[#「一昨日」はママ]良人が
質物の日延をして歸りし後にて心付し處油屋の見世にありし百兩の金が
紛失したるに付
良人が
盜み取たるに
違なし然なければ一文
貰ひの
貧窮浪人が十三兩三分と云
質をすら/\
請出す筈がないと云るゝにより其
質を請し金は新藤市之丞と申人が昔し貸たる金を返すとて持て來た金なりと譯を申ても
聞入ず
質を受た丈の金はまけて遣るから殘りの金を返せ/\と
無理無體のことを申さるゝなりと
泣ながら
仔細を語りしかば文右衞門は是を
篤と聞しが夫は
不埓千萬の申懸なりと大いに
立腹し是より又久兵衞と文右衞門の
言爭ひになりければ
長屋中の者
追々此
騷動を聞付けそれ事こそ出來たり
我々が云ぬ事か一
文貰の
素浪人俄かに
大造立派な
身形をして稻葉丹後守樣の屋敷へ行などと云しが
果して
表の
質屋にて百兩の金が
紛失りし由
恐ろしき
盜人もあるものかな
而て見れば是までも
諸所へ
盜賊に
這入しに違ひなし此間もお内儀さんが
浴衣の古いのを二枚賣たいと云ひしが
那れも
盜み物ならんなどと
種々に
噂をなし兎も角も一ツ長屋に居れば我々まで
引合になるも知れず
日來一口づつ
呑合し者は今さら仕方なし皆々恐れ
用心してぞ居たりける偖文右衞門久兵衞の兩人は
増々云募り
假令今
浪人しても大橋文右衞門ぞや他人の金などに目を懸んや某しが
質物を受出せし金は
愚妻よりも申せし通り新藤市之丞と云者より受取たる金に
相違なく
其譯は斯樣々々と
馬喰町中尋ね
歩行たる事まで委しく申聞ると
雖も久兵衞は少しも
聞入れず否其新藤市之丞と云は町所家主も知れず
當人が今の名前さへ知れぬ位の事なる由是第一
怪しき證據なり又
不審なるは一夜の中に大金の出來る
筈もなし何でも御前が
質物流れの云
譯に來た時帳箱の上に
置し百兩の金子が
紛失したれば御前が
盜みしに
違ひなし
質を受たる十三兩三分は
勘辨するにより
殘りの金を只今
返されよと云ふに文右衞門扨々
聞譯のなき男かな然れば
是非に及ばず是を見て
疑ひを
晴されよと云つゝ
豫て
省愼み
置たる
具足櫃并びに
差替の大小までも取出し此通り
國難の時の用意も致し居る拙者なり他人の物を
盜むなどと云
卑劣の
武士にあらず是にても疑ひは
晴[#ルビの「はれ」は底本では「なれ」]ぬかと云ふに久兵衞は
大口開て
打笑ひイヤサ
盜人たけ/″\しいとは
貴殿の事なり此品々を
省愼み置たるとは
是又僞りなるべし大方皆
盜み取たる物ならん茲な
大盜人めと樣々に
惡口なしければ元より
武道を
琢く大橋文右衞門
賊名を
負せられては
最早了簡ならず今一度言て見よ己れ
其座は立せじと
刀追取膝立直し
怒の
目眥り
釣上て
發打と
白眼付けれ共久兵衞は少しも驚く氣色なく
否盜人に
相違なし百兩盜みし
大盜賊と大聲
揚て
鳴わめけば爰に至りて文右衞門は
耐忍兼一
刀すらりと
拔放し只一
打と
振上るに久兵衞は大に驚きヤア人殺し/\と
罵りながら表ての方へ一
目驂に
逃出せば汝れ何條
逃さんやと
路次を
放れて
追行折柄火附盜賊改めの
組與力笠原粂之進と云者手先兩人を
引連て今此所を通り掛りけるが文右衞門
拔身を振て久兵衞を
追駈行を見留夫
捕縛と云ふより早く手先兩人づか/\と
走り
寄り上意と聲かけ文右衞門并びに久兵衞とも
忽ち高手小手に
縛め兩人ながら
自身番へ引行けるに是を見るより近所の者ども
馳集り自身番の前は見物の人
山の如く夫が爲
往來も止るばかりの
騷ぎにて皆々文右衞門に
指さし彼が
乞丐頭長屋に居たる
浪人者此油屋と云質屋にて金を百兩
盜みし
大盜人元は越後浪人にて
劔術の
達人たりとか云が今御
召捕になる時
捕方の者を七八人
投付たれども
漸々折重なりて
捕押へ
自身番へ上られたり
何んでも
大盜人にて
手下が百人ばかりもありと云
咄しなり然れども
表向は一文
貰ひの
袖乞をして居たと云などと
虚にも理を付て
噂さしけるゆゑ
彌々人々
集り來り自身番の前は
錐を立る地もなき程なれば
番人は
鐵棒を引出し皆々人を拂ひ
退るに笠原粂之進は大橋文右衞門并びに油屋の番頭久兵衞の兩人を其所へ引据させ一通り
吟味に及びし處文右衞門は元より
潔白の
武士ゆゑ
些かも
包み
隱さず新藤市之丞より
返濟したる金子の
譯又久兵衞が百兩の
云懸りをなし
盜賊の惡名を
負せんとしたるを
殘念に存じ
怒りの餘り
打捨んと思ひ
詰たる
事由迄委細に申立たり又久兵衞は己れが
惡巧みを
押隱し
是非々々[#ルビの「ぜひ/\」は底本では「ぜんひ/\」]百兩の
云懸りを通して文右衞門を
盜賊に落し呉んとの了簡ゆゑ一文貰ひの
身分にして
俄然に
金策の出來たる
譯又店にて百兩の金が
紛失したるは斯樣々々と
辯に
任せて申立ければ其通り
双方の
口書を取久兵衞は
吟味中主人五兵衞へ
預けられ文右衞門は
直樣頭の
小出兵庫殿へ差出しと相なり
吟味中入牢申付られける又文右衞門が
女房お政は家主へ預けとなり長屋の者共にて
嚴しく
宅番を申付置
頓て
與力笠原は引取けり
扨文右衞門女房お政は家主
預けとなりて
宅番まで付し事なれば
少しも
身動きならず
只々夫文右衞門が此度の
災難を
歎き
悲しむ事大方ならず
明暮涙に
沈み何なれば
天道誠を
照し給はぬにや國にては
惡人小栗美作が爲に
讒せられ終に
浪人して
斯零落困窮に及び其上にも此度斯る
無實の難にあふ事はよく/\
武運に
盡果たりしか夫に付ても
恨めしきは新藤市之丞殿が當時の名前并びに
町所等を
委しく聞置ざりし事然れども彼方にても今は何と
改名せし位の事は話しも有べき
筈なるに夫等に氣の付ぬとは餘り
迂濶なりし
那れ程までに馬喰町を尋ね
探されても知れぬには仕方なしあはれ今にも市之丞殿が來たりなば夫は
災難を
遁れなんと女心のやるせなく
天に歎き地に
喞ち或ひは己を
悔み市之丞を
怨み種々樣々に
悲しみつゝ何卒して夫文右衞門殿が身の
證りの立工夫を授け給へ何か無實の難を
逃るゝ樣なさしめ給へと神佛を一
心不亂に念じ居たりしが
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、467-11]隣の話しの耳の入女房お政は心付是は當時天下に名譽高き御奉行と
評判ある大岡越前守樣へ
駈込訴訟をして夫文右衞門が身の
證りの立樣に
御慈悲を願ふより外はなし直樣駈出さんかと一
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、467-12]に思ひ
詰たれども如何にも
宅番嚴敷して一寸の間も門を出る事能はず然ども此お政は貞節と云
流石に元は五百石取の大橋文右衞門が妻なれば
氣象に於ても
男勝りゆゑ何卒
隙を見て
逃出し御奉行所へ
駈込んと
心懸てぞ居たりける又宅番に當りし長屋の者共
代々に來りては
閑に任せて
噂をなすに當座
利合を
推て全く文右衞門が盜人なりと思ひ居けるゆゑお政に向ひお前の
亭主と云者は恐ろしき
大盜人大方まだ/\油屋の百兩許りにてはあるまじ所々方々にて
稼ぎたる事もあらん今迄此方の
仲間には他人の物を
掠取などと云者一人もなし家業は此上もなき
賤しき一文
貰ひなれども心まで其樣に
卑賤はならず餘りと云ば馬鹿々々しい是
内儀さん私し共まで文右衞門樣の
連累を
喰た樣な者此通り宅番をして居ては家業に出る事もならず此方の

が
乾て仕舞ぞや
此罪は皆お前の亭主へ懸て行よく/\の
業つくばりなりと己等が
迷惑紛れに種々
恥かしめければ是を聞居るお政の
辛さ
殘念さ
辯解なすとも
實にせず
口惜涙に
咽返る心の中ぞ
哀れなり然るに天の助けにや
或夜戌刻とも思ふ頃下谷
車坂より出火して火事よ/\と立騷ぎければ宅番の者ども大いに驚き皆々我家へ歸り見るに早火の紛は
[#「紛は」はママ]破落々々と來たり殊に風も
烈しければ今にも
燒て來るかと皆々
周章狼狽手に/\荷物を
運び片付るゆゑ文右衞門が宅番する者一人もなし因てお政は是ぞ天の助けと大いに
悦び
此暇に
逃出して御奉行大岡越前守樣の番所へ
駈込訴訟をなさんと
手早く支度にこそは及びけれ
扨又お政は手早く
重代の
具足櫃を
脊負差替の大小を
引抱へ用意の金子を
懷中なし
然も
甲斐々々しき
出立にて逃出さんとするところへ
火事騷ぎの中なれ共家主
吉兵衞は大切の
囚人の女房ゆゑ萬一
取逃しもせば
役儀に
關ると
駈着來り
今逃出んとするお政を
引捕へ大事の御預り者
何れへ行るゝやと
咎むるにお政は南無三と思ひ無言にて
袖振拂ひ
駈出すをコレ/\
未だ
燒ては
來ぬぞ
此騷ぎを幸ひに
逃やうとて
逃[#ルビの「にが」は底本では「にか」]しはせじと又引止るをお政も今は一生懸命
邪魔し給ふなと云ながら用意の九寸五分を
晁りと
引拔[#ルビの「ひきぬき」は底本では「ひたぬき」]家主目懸て
突きかゝるに吉兵衞は大いに驚きヤア
人殺し/\と
後をも見ずに逃出せばお政は
爰ぞと
混雜紛れに
込合人を
押分々々車坂下の四ツ
辻まで逃來りしが今此處は火先にて四方より
落合人々押合々々
勿々通りぬける事能はず殊に上野近邊の出火ゆゑ其頃上野の御
消防は松平陸奧守殿(
伊達家)にて太守も出馬有しかば持口々々を嚴重に
固られたり又仁王門の
方御加勢には松平安藝守殿(
淺野家)の同勢にて
詰切る其外
町方に於ては近年大岡越前守の下知にて江戸中の
鳶の者をいろは四十八
組となし
[#「いろは四十八組となし」は底本では「いろ四十八組となし」]町方火消をば申付られたり是に依て此町
火消共一同に押出して火掛りをなし又武家方にては十人火消を
始め
諸侯方方角火消等夫々に持場々々へ
詰かけるゆゑ
其混雜云ばかりなし其上御使番
火事場見廻り并に火元見等東西へ
乘違へ
乘違ひ
駈通るゆゑ車坂下四ツ辻の邊は老人及び女子供等には
勿々通り
難く只々人の
波を
打のみなり
斯る處へ引續いて南町奉行大岡越前守殿出馬あり今此車坂下の四ツ辻を
通り
懸られし處
流石に町奉行の
威權あれば町方の者先へ
立往來を
開よ/\と制しけるゆゑ人々
動搖めき合て
片寄んとする時彼の文右衞門が女房お政は
具足櫃を
脊負差替の大小等を
引抱へし事なれば女の力にては人を
押分難く
其處此處と
揉れ
踉蹌中思はず其處へばたりと倒れ
伏既に人にも
踏れんとするを大岡殿馬上より是を見られ
那の
女助けよと聲を
懸らるゝに先に進みし同心畏まり候と
馳寄てお政を引起し
怪我はなきやと問を見て大勢の人々
成程天下の名奉行と
譽るも
道理此混雜の中にても
仁慈の
御差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、469-8]然ば其下に使へる役人も
斯の如しと感じ
合り此の時お政は大岡殿と聞て悦ぶこと限りなく是は全く
神佛の
御引合せ成べし既に
駈込訴訟をせんと思ふ折から幸ひ此所にて
行逢のみか今も今とて御助け
下されたる御慈悲深き御奉行樣御取上あるは
必定也是ぞ
夫の
運の
開き
時直樣爰にて願はんと心を決しつか/\と進みよりつゝ大岡殿の馬の
轡に取り付て
夫の身にとり一大事の御願ありと申にぞ前後を
固めし家來を始め與力同心
打驚き是は
慮外なり御出馬
先殊に
轡へ取り付とは
抑氣違か
亂心か女め
其處を
放しをれ不禮に及ばは切り捨るぞ大膽不敵も程こそあれ
退れ/\と大音に
叱りながらに
縋る手を引放さんとなしけれ共お政は
一※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、469-13]に我が
夫の無實の罪を
辯解んと
凝固まつたる念力ゆゑいつかな
轡を少しも放さず
夫の
命に
關はる大事何卒御慈悲に御取上を願ひ奉ると
聲震はせ引ども押ども動かねば同心大勢立掛り
強情女め
下らぬかと
無體に
引立行んとするを大岡殿は
此體を見られコレ/\
手荒き事をして
怪我を致させまじ
渠が
夫の一大事と申は何か仔細のある事ならんと
左に
右願ひの
筋取上て遣はすべし然れども今は此
混雜ゆゑ
後に
趣意は聞んにより一
先其者を上野町なる名主の方へ送り遣はせ
而又斯込合中なれば其具足櫃大小等は其方ども持參せよと
指揮あるに同心は
畏まり候とて
直樣手早く具足櫃を
脊負差替の大小九寸五分其外都合五本の
刀を
引抱へてお政を
引連上野町の名主佐久間
某方まで送り
行此者并びに具足櫃其外
後刻まで預るべしと申渡し又々火事場へ引返しけり是則ち享保四年
極月十三日の夜の事にて
漸々火事も
鎭まりしかば上野の
御固めは
勿論武家方人數町火消等も夫々に引取けるにより大岡越前守殿には火事場より
引揚がけ
直に上野町の名主佐久間某の
方へ
立寄れ文右衞門の女房お政を呼出し願ひの趣き一通り
糺しにぞ及ばれける
扨大岡越前守殿には佐久間某しの玄關へお政を
呼出されければお政は我が願ひ
御取上に相成事
冥加至極有難しと思ひ
平伏して居たるに其方
儀夫が一大事の願ひと申せど
先其方は
何處の者にて當時
何れに住居致すや
有體に申立よと云れければお政は
愼んで
首を
上私し事は越後高田の浪人大橋文右衞門と申者の
妻政と申者にて八ヶ年以前夫婦御當地へ
罷出下谷山崎町吉兵衞
店に罷在し處浪人の身の
上なれば追々
困窮零落仕つり只今にては往來に
立一錢二錢の
合力を
請漸々其日々々を
暮し居候と申
陳るに越前守殿又其方が願ひと申は
如何なる事なるやと
尋ねられければお政其儀は
夫文右衞門事此程無實の罪にて火附盜賊
改め小出兵庫樣御手へ
召捕れ入牢相成し事
故に御座候と申に大岡殿
而て其方が申處にては殊の
外困窮の身の上に聞ゆれども
此具足櫃又差替の大小等を見れば
餘程立派の品なるが
斯程の品を所持するは
甚だ以て
不審なり其道具は如何致して
所持するやと申されしかばお政は
平伏して恐れながら此道具と申は
夫文右衞門國元より持參致したる品々にて萬一
舊主へ
歸參仕つる事もありし時の
爲省愼置し道具に御座候と申を越前守殿聞れ
成程然らば
先中を改め見んとて
具足櫃を近く
運ばせ
蓋を開かんとせられしに
錠前が
卸し有ければ
鍵はあるやと問るゝにお政はハツと心付
其鍵は
夫文右衞門が所持致し候又
入牢仕つり候と申ければ大岡殿町役人へ
向はれ此町内に
錠前屋あるべし早々是へ
呼出せと申されしかば
家主佐兵衞は畏まり奉つると
直樣馳出し町内の錠前屋吉五郎と云者の
門を
遽たゞしく
叩き起し急用あれば
爰開給へといふに吉五郎は
戸を
明けながら急用とは
如何なることにやと申しければ佐兵衞は
息をきりながら
今名主樣の
玄關にて御奉行樣の
御調べがあるゆゑ貴樣を
直に
連て來たるべしとの仰せなりと云ふに吉五郎は是を聞て大いに
肝を
潰し
夫は又何事なるやと
惘れ
居たり一
體此吉五郎と云者は
極正直にて人のよき
事竟に一度も人と
物爭ひなどしたる
試しなく町方住居の者には
稀なる故皆々近所にても
佛吉々々と
渾名なす程の者なれば今御奉行樣が
直の
御調[#ルビの「おしら」は底本では「なしら」]べと聞て
暫時無言なりしが
稍々震へ聲を出し
夫は又何御用なるやと云に家主は大方貴樣の見覺えあるべし今夜などは火事場にて
何か
働きし事あらんと云ば吉五郎は
猶々驚き
否々私しに於て
然樣なる
不埓を致せし
覺え更に是なしと云に家主はコレサ
此處にて何を云とも
役には立ず覺えなければ早く
來たり御奉行樣の前にて
辯解致されよと家主は吉五郎を
促がして名主の玄關へ同道なせしに
正面には大岡殿を始め與力同心列を
正して嚴重に
居並びければ吉五郎は
彌々色蒼然齒の
根も
合ぬ
迄に
慄へながら家主の
後に
蹲踞るにぞ越前守殿是を見られ是へ/\と申さるゝに吉五郎は今にも
首を切られるかと思ひ
何分慄へて足も
踏止らぬを
漸々大岡殿の前へ
罷出て
平伏し
何卒御慈悲の御沙汰を願ひ奉つる私しは是まで人の
物とては
塵一
本にても
盜みし
覺え御座なく日
來正直に致せしゆゑ私しの事を皆々
佛吉と
渾名を付る
位なれば少しも
惡事は仕つらず何卒
命ばかりは御助け下されよと
泣聲を出して申しければ大岡殿は
微笑れコレ/\其方は
正直者と
云事豫て某しも聞及んだり
何も
汝に惡事有て
調べる
譯にてはなし安心せよ今此
調べ者に付て其具足櫃を
明んと思へども
合鑰なし是に依て其方を
呼に
遣したり必らず/\
心配するに及ばず早々
此所へ
合べき
鑰を持參して
此錠前を
開よと申されしかば
漸々吉五郎はホツと
太息を
吐ヤレ/\有難き仰せ畏まり奉つると
蘇生りたる
心地にて
直樣馳歸り多くの
鑰を持參なし
種々合せ見て
具足櫃の
錠前を
開けるとなり此事錠前を破りて
開なば隨分容易に
開べきなれど
假令奉行職の者なりとも
他人の所持品の
錠前を
手込に破る事はならず因て
故意々々鐵物屋を
呼出して
開させられたるなり是奉行職をも
勤むる者の心得は萬事
斯の如し此事我々の
上にある時は
自然面倒なりとて
他人の物にても
錠前を
叩き
開よなど云事なしとも
云難し
假にも
錠前を破るは
關所を破りしも同樣にて其罪至つて
重し
注意ずんばあるべからず
閑話休題吉五郎は
錠前を
開きて差出せしかば大岡殿自身に具足櫃の
中を改めらるゝに
中には
紺糸縅鐵小脾の
具足一
領南蠻鐵桃形の
兜其外
籠手脛當佩楯沓等六
具とも揃へて是あり
又底の
方に
何か
疊紙の樣なる
包あり是を引出して見らるゝに至て重き者にして
堅く
封印あり
其上書に慶長五年關ヶ原合戰
軍用金大橋文右衞門
源清澄と
書付あり是に依て越前守殿一應お政へ
斷られし
上封を
開てみらるゝに小判にて金百兩あり大岡殿心中に
甚だ感じられ是は全く
由緒ある武士なり兎角零落に及んでも萬一の時の
爲にと
先祖の意を受て
省愼置事天晴の心懸なりと思はれ又其儘元の通りに仕舞て
夫より大小二
腰九寸五分まで
能々改めらるゝに
何れも天晴れの
作物にして尋常の
武士の所持し難き程の道具なり因て越前守殿
彌々感じられお政へ向ひ其方
夫文右衞門が無實の罪にて
入牢致せしとは如何なる事なるや一々申立よとありしにお政は
答へて
私夫婦八ヶ年浪人の身の上ゆゑ油屋五兵衞方へ
衣類大小等質物に
預け
置し處約束の
月切に相成
質屋よりは
度々の
催促なれども其品々を請出す事も
叶はず一日々々と申
延置候
中彼方にては流れ買に
賣拂ふと申事に御座候然るに十八ヶ年以前
國許に在し時同家中の新藤市之丞と申者
若氣の
過失にて同藩の娘と不義に及びし
事役人共の耳に
入主家の法に依て兩人とも一命を
召れんとするを
夫文右衞門
不便に存じ
密かに金子二十兩を與へて助け
遣はしゝ處其市之丞夫婦の者當時馬喰町に住居の
由不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、472-15]此間中久々にて尋ね來り對面致し候に我々夫婦
零落の
體を見て氣の毒と存ぜしにや此程二十五兩の金子を
持參し先年の
恩報しなりとて差出し候得ども元來
夫文右衞門は
田舍育の
頑固ゆゑ一
旦惠み遣はしたる金子を今更受取ては武士の一分が立ずと申て
押返候處
其節又々右の質屋より月切の品々
彌々流れ
買へ賣拂ふ
由申來りしに付き文右衞門事其掛合に質屋へ參りし留守中に市之丞は
歸宅仕つり候其後
夫文右衞門質屋より歸り
煙草盆の
中を見候に先刻差戻せし廿五兩の金子是あり候ゆゑ
扨は市之丞
達て渡さんと云しを
我受取らざれば本意なく思ひ
密かに此中へ入置て歸りしならん
何にしても此金を
請取ては我が以前の志ざしを
無にするなりとて
翌早朝市之丞の方へ尋ね行き馬喰町を終日
彼是と
探しけれども今は其者の名前が
改り居るにや一向に
在家知れず
據ころなく持歸りて
翌日猶又尋ね行き是非々々市之丞に返さんと申
居し
折柄又々質屋より
嚴敷催促ゆゑ然らば
先其金子を以て質物を請出し賣拂ひて
後に市之丞へ返しても仔細なしと私し共兩人相談の
上二十五兩の
内十三兩三分にて
質物を請出し申候然るに油屋五兵衞方番頭久兵衞と申者私し方へ參り昨日まで一文なしの
袖乞が
急に大金の出來る
筈なし文右衞門が彼の
店へ參りし時
帳箱の上に置たる百兩の金子が
紛失したるにより必らず文右衞門が
盜み取りしに相違なし其金にて
質物を受出せしならんなどと
跡形もなき
言懸りを申すゆゑ
質を請出したるは市之丞より遣はしたる金子なりと
其譯を申せしかども一
向に聞入ず終に
夫に向ひ
盜賊呼はりを致すゆゑ
夫も
腹に
居兼既に久兵衞を切捨んと同人の逃出し候後を
追懸し處に
折惡敷御加役方笠原粂之進殿に
出會直ちに召捕れ候に付
夫は右の段々一々
辯解仕つり候へ共御聞入なく入牢と相成
誠に
歎かはしく存じ奉つり候因て右申上候
紙屑屋新藤市之丞の
在家さへ相知候へば金子の
出所も分り文右衞門が百兩の盜賊に
之なき事も明白に相分り候間何卒御慈悲を以て此段明白に御
糺問下し置れ候樣
偏に願ひ上奉つると
委細申
述ければ越前守殿一々
聞置たりとの事にて一
先お政を
下られしが此事一應加役方へ掛合の上ならでは
吟味に取掛り
難き儀なれども
渠が申し立て
如何にも
不便なりと思はれしかば大岡殿の
英斷を以て
直樣下谷山崎町の質屋渡世油屋五兵衞并びに番頭久兵衞とも
呼出し置べき旨申付られしゆゑ
頓て町役人へ山崎町質屋五兵衞并びに同人
召遣久兵衞等一同
揃ひしなら是へ呼出すべしと有ければ町役人畏こまり
同道して罷出るに油屋五兵衞は
豫て聞居たる文右衞門が百兩の一
件ならんと思ひければ一
向平氣にて
其所へ出るを越前守殿見られ
家持五兵衞其方は質屋渡世とあるが
質物は何ヶ月限りに
貸遣はすやと申されければ五兵衞は
平伏なし御定法通り八ヶ月
限に預り置候と申に越前守殿然らば浪人大橋文右衞門が
質物ばかり五ヶ月限り
流れに
出せし由是には何か
仔細の有ことなるや
有體に申立よと云れしかば五兵衞は大いに心
組違ひしゆゑグツト云て
暫時答もなかりしが其儀は私しは
辨まへ申さずと云を大岡殿聞れ此儀
其方辨へずとは
不都合なり己れが渡世を知らぬ
筈はなし
愚なる事を申さずとも五ヶ月限りの
譯有體に申立よとあるに五兵衞は
彌々當惑なし此儀は何卒番頭久兵衞へ御尋ね願ひ奉つり
度私しは
老年に及び候まゝ
見世質物取引の儀は同人へ萬事任せ置候間一
向辨へ申さず候と云ければ大岡殿久兵衞に
向はれ其方は五兵衞の見世を
萬事引受居る
由如何なる
譯にて文右衞門の
質物而已五ヶ月限りに
貸遣したるや此儀申立てよと申さるゝに久兵衞は先刻より五兵衞へ
尋問中腹の中にて
種々考へ置し故文右衞門方より五ヶ月限りに
受出すべき
對談ゆゑ其意に任せ約定仕つり候事に御座候
然も是なく候へば
御定法通り八ヶ月の
期限に御座候と云ければ越前守殿
微笑まれ然らば文右衞門は餘程
物好と見える
質を
置程の者が己れより月數を
縮めて約定なすとはハテ
不審なり夫れは
暫く
置其方儀文右衞門は百兩の金子を盜み取りたる盜賊なりと申せし
由此儀は
慥かなる證據ありや
如何にと有ければ久兵衞
爰ぞと思ひ其儀は文右衞門
事質物流れの
云譯に五兵衞の見世へ參りし節流れ品を賣拂ひ候代金を
帳箱の上に置候處文右衞門歸りし
跡にて右百兩の金子を
仕舞んと存ぜしに
紛失致し
種々詮議中其翌朝文右衞門十三兩三分程の質物を受出し申候因て
其樣子を考へ候に一
文貰ひの身分と云殊に
右質物流れの議前日まで度々催促仕つり候ても出來申さず候金子が一夜の
中に
調達出來候
筈是なく彼是
不審に存じ候間百兩の金子は文右衞門
盜み取し事と
推量仕まつり私しより
内々詮議に及び十三兩三分は文右衞門に遣はし殘りの金子を返さば
勘辨致すべき
旨申せし處文右衞門は新藤市之丞と申者より遣したる金子にて
質物受出し候なりとの
云譯に候へども右市之丞と申者は當時
紙屑買にて馬喰町邊に住居と計り申し居り其の町所家主名前すら
確と相知れざる
由を申候是全く不正の金子ゆゑ
出所を
定かに
云聞ざる事にて
手證は見屆ず候へ共是等の儀共思ひ
合すれば全く文右衞門百兩の盜賊に相違なしと存じ奉つり候依て右十三兩餘質物を
受出し候分は
勘辨致し遣はし
殘金だけを返し候樣にと申せしに却て
渠は盜人の惡名を付しなどと
殊の
外立腹して私しを切殺さんと刀を
拔放し追懸候節加役方の御手へ召捕れ申候何卒此段
御糺明下し置れ文右衞門百兩の金子を返し
呉る樣
偏へに願ひ上奉つり候と申立たり是に因て大岡殿は
篤と聞居られしが久兵衞儀
辯舌巧みに申立る處は一應
道理の樣に聞ゆれども是と云ふ
慥かなる證據もなし殊に此久兵衞は
片小鬢に
入墨ありて如何にも
惡黨らしき者ゆゑ
奴めが百兩
盜んで文右衞門になすり付んずる巧みなりと
流石御名譽高き奉行衆ゆゑ
敏くも
茲に
眼を
着られしなり
扨又越前守殿は久兵衞に向はれ
只今汝が云處一應
道理の樣に聞ゆれども
云ば無證據にして文右衞門が
誠の盜賊とも定め難し
渠全く盜まぬ時は其方の
云懸りと云ふ者にして無體の惡口に及びし上は文右衞門に切殺されぬが
先は仕合せ
其節殺されなば
死損なり
併し又盜みたる金と極めたる
印にてもあるにや質物を
請に來た時十三兩三分の金は
能改めしなるべし何ぞ
極印にても有しや
何ぢやと申さるゝに久兵衞イヤ何も極印は御座なく候へ
共渠の身分にて一夜の
中に金の出來る
筈は是なしと同じ事を申立るゆゑ越前守殿コリヤ久兵衞其金子は市之丞より
持參なりと申ではないか今にも市之丞の
在家さへ知れなば金子の
出所は
慥に知れるぞ汝が云所は無證據なり證據なき事は
公儀に於ては御取上にはならず殊に又汝が
内々詮議をして文右衞門へ十三兩三分は
負て
遣殘金を返さば
勘辨せんなどと自分
了簡にて
取計らふは甚だ以て
不審の至にして
主人持にはあるまじき
不屆なり汝は
探索方の
手先でも致すかと申されしに久兵衞は甚だ恐れ如何致しまして
然樣な事は仕つらず私しは
油屋五兵衞が見世の番頭を
勤め
居ますと
云ば越前守殿夫れは知れたこと又
汝は文右衞門が宅へ
何時行たるやと尋ねらるゝに久兵衞私しは文右衞門が
拔身を以て
追駈ましたる時に參りしが其節加役方の笠原粂之進樣の
御供へ
突當り
直に御召捕に相成候と申ければ越前守殿
否さ
幾日頃に文右衞門方へ言懸りに參りしぞと有に久兵衞は
拔らぬ
面にて恐れながら云懸りには參りませんと云しかば大岡殿
默止久兵衞
汝確とせし證據も
無事を申は則ち云懸りならずや
然らば
幾日に文右衞門方へ參りしや
其日限を申せと云るゝに久兵衞夫れは今月八日に御座候と申に越前守殿然らば
其夜前紛失したる百兩と申す大金をなぜ早々訴へには出ぬ
等閑置く事は甚だ怪しいぞ汝も
嚴敷吟味をせねばならぬ
奴なり
先づ主人五兵衞へ
屹度預け置け
愼しみ罷りあれコリヤ町役久兵衞は主人五兵衞へ
屹度預け置く能々其方共心付けよとありしかば家主吉兵衞
[#「家主吉兵衞」は底本では「家主喜兵衞」]畏まり奉つるとて
直樣五兵衞久兵衞の
[#「五兵衞久兵衞の」は底本では「五兵衞は久衞門の」]兩人を
引連て
下りけり又文右衞門女房お政は家主吉兵衞へ預けとなり越前守殿は文右衞門が所持の
具足櫃并に大小等奉行所へ
止置と云渡され一同夫々に引取と相成たり因てお政は願ひの
筋取上となりしを悦ぶ事限なく猶又
夫文右衞門が
災難を遁るゝ樣にと神佛を
念じ居たりけり扨又大岡越前守殿には
直樣翌十四日火附盜賊改め役小出兵庫殿へ
掛合の上大橋文右衞門を町奉行の手へ
引取られ
翌々日享保四年
極月十六日初めて文右衞門の一件
白洲に於て
取調べとなり越前守殿出座有て文右衞門をみらるゝに
久しく
[#「久しく」は底本では「久敷」]浪々なし殊に此程は
牢舍せし事
故甚だ
窶れ居ると雖も自然と
人品よく天晴の
武士なりしかば大岡殿
徐かに言葉を發しられ越後高田浪人大橋文右衞門其方
儀當時山崎町家主吉兵衞
店に
罷在袖乞致し居る由
然程零落の身分にて油屋五兵衞方へ
入置たる質物受出しの節十三兩三分と申す金子
俄に
調達せし由右の金子は元より所持なるや又は外々より
融通致したるや一夜の内に金子調達せしは其方
業體に
似合ず
不審なり
悉しく申立よと云るゝに文右衞門は
愼んで
首を
上右金子の譯は十八年以前
國許に罷り在候節同家中に新藤市之丞と申者私し
同役の娘と
密通に及びしを重役共
薄々聞込捨置れずと既に兩人ながら一命にも
關はるべき場合に立到り候に付き某し
不便に存じ二十兩の金を
惠み助けて遣はせし所江戸表へ罷り出でたるよし然るに
其後私し儀八ヶ年以前越後家を浪人仕つり御當地へ
罷り
出下谷山崎町吉兵衞店に住居罷り在候に
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、476-18]此程
中右市之丞尋ね參り久々にて面會仕つり
互ひに身の上の
物語りに及び候處私し夫婦
零落困窮仕り候を市之丞義
見兼候や一兩日
過候と金子二十五兩持參致し先年の
恩報じなりとて差出し候へども私し儀一
旦市之丞に
惠みたる金子を今如何に
困窮なせばとて請取候ては昔しの志ざしをも
無に致すにより
固く相斷り候て受取申さゞるを市之丞は
本意なく存じたるにや私し儀質物流れの掛合に參り候留守に
煙草盆の
中へ人知れず入れ置て歸りしを私し
歸宅後見出し候間
直樣翌朝市之丞の
宅を尋ね右の金子を返さんと馬喰町へ
到りて
段々承まはり候へども何分市之丞の住所相知れ申さず
據ころなく
宿元へ歸り候然るに質屋よりは又々流れの
催促ゆゑ
兎も
角も此金子を
融通いたし質物を請出し候後
賣拂ひ市之丞の金子を
揃へて返さんと存じ右の
中十二兩三分をもつて質物を受出し候に相違御座なく
然るに油屋五兵衞番頭久兵衞と申者
袖乞の身分にて一夜の中に大金の出來る
筈はなしその節見世の帳箱の上に
置たる流れ品を賣候百兩の金子
紛失致せしに付右は私し
盜み取候に相違なしと
理不盡なる
云懸仕つり候ゆゑ私し儀市之丞より
差越たる金子の
譯を申聞ると雖も一向
双合ず
[#「双合ず」はママ]却て盜賊の
汚名を付け種々に惡口申
募候何分
勘辨なりがたく久兵衞を切捨んと存じ候
機御加役方笠原久米之進殿に召捕れ
斯繩目の
恥辱を蒙り候事
口惜き次第に存じ奉つり候右新藤市之丞なる
者住所相知れ候へば私し
虚言に之なき
旨御分り相成べき儀に付何卒
御威光を以て同人住所
御糺しの上御吟味成し下され候樣願ひ奉つり
度尤も私し儀市之丞が
住所名前等
確と承まはり置ざるは
不念の至り恐れ入り奉つり候
呉々も御慈悲を以て是等の儀を
御糺明下し置れなば久兵衞申
懸の段は明白に相分り候儀ゆゑ此段恐れながら
御賢慮下し置れ候樣
偏に願ひ上げ奉つり候と文右衞門は如何にも
無念の
體面に
顯はれ
拳を
握り
齒を
切齒りて
一伍一什を
悉く申立しかば越前守殿は此趣きを
篤と聞れしが今文右衞門が申す口と又女房お政の申す口と少しも
違はず
符合せし
而已ならず
斯困窮の中に具足一領差替の大小并に具足櫃の
中には關ヶ原の軍用金百兩其
儘貯へ置し程の心懸なれば文右衞門盜賊に是なき事は
明白なり
然れども百兩を盜みし當人の
出ざる中は文右衞門の
片口のみにて
免す
譯には成り難く尤も百兩の
紛失は言掛りなしたる久兵衞こそ
怪しき者なれと
敏に
眼を
着られけれども是とても未だ
聢としたる證據なければ
詮方なしよつて文右衞門に向はれ其方申立の儀はこの越前
聢と聞置たり猶追々吟味に及ぶコリヤ文右衞門
嘸々無念なるべけれども大法に因て吟味
中入牢申付ると云渡され扨大岡殿には
直樣急の差紙にて翌十七日には横山町馬喰町兩國邊の紙屑買を
殘らず
呼出されければ紙屑買共は
不測に思ひ中には少しづつ
内證物など買し
心覺えのある者は思ひ
過しより
俄に
逃亡を
[#「俄に逃亡を」は底本では「俄に逃亡を」]するもあり彌々當日に相成ければ名主町役人
差添にて
屑買一同南町奉行所の
腰掛へ
相揃ひ
頓て
呼込に隨ひ
白洲へ
這入て
傍らを見るに浪人大橋文右衞門
繩付の
儘控へ居る其外
繩取役同心等嚴重に
詰合けり又正面には大岡越前守殿出座有て
砂利の
間に屑屋一同平伏なし居るを見られコリヤ浪人文右衞門其方が申立し新藤市之丞と云者此中に
居るやと申さるゝに文右衞門
頭を
上夫れ是と見分しが又大岡殿へ向ひ此中には市之丞
見當り申さずと云ければ越前守殿
然らば一同
下るべしと有に屑屋の
面々は何事やらんと思ひの
外迅速に
下られければ一同ホツと
溜息を
吐て引取けり因て文右衞門は
歎息なし
御威光を以て屑屋一同御呼出し下置れ一々
見分候へ共新藤市之丞の相知申さゞるは誠に
是非なき次第にして能々
武運の
盡果たる身の仕合せなりと無念の涙に
伏沈[#ルビの「ふしゝづ」は底本では「ふしをが」]み居たりしかば越前守殿も氣の毒に思はれ
猶亦追々吟味の致し方もあらん
然樣存ぜよとて又々傳馬町へぞ
下られける扨も
斯迄に市之丞を尋ねられしかども更に其人の知れざるは
左右文右衞門が
運の
拙き處なるべし
扨又彼の新藤市之丞當時紙屑屋長八は或日女房お梅に向ひ此程文右衞門の
留守中廿五兩の金を
煙草盆の中へ置ては來りしが今日あたりは
遣れしならんか武士の
意氣地を立るとは云ものゝ餘り
物堅き人かなと文右衞門が
噂をなし夫に付ても娘お幸は
嘸かし
辛き
勤めならんなどと
密々咄しの折から親分の武藏屋長兵衞は長八
殿家にかと聲を
懸ながら入來りしに長八夫婦が
巨燵の中に
差向ひ何か
睦じき咄しの樣子ゆゑ長兵衞は見て是はしたり
相惚の夫婦は
又格別樂みな物私は此年になつても
隨分浦山しいと
放氣交りに
贅口を云つゝ同く
炬たつに
這入しに女房お梅は
振返りオヤ長兵衞樣能こそ御入下されしと少し
赤くなりしが
早々流し元ヘ行甲斐々々しく酒肴の支度をして居るに長兵衞は長八に向ひ
此頃は
此方の娘がさつぱり見えぬが風にても引しかと問ければ長八は今の
噂を聞れしかと思へども
何喰ぬ
顏にて何も變ることは御座らねどお幸は
能世話人ありて
此間備前樣の御屋敷へ
見習奉公に出ましたと云に長兵衞は
僥倖なり併ながら
押詰ての
數へ日に
嘸々物が
懸りしならん我等も夫と知るならば何ぞ
祝うて
遣ものを知ざるを仕方もなし時に長八さん
今度據ころなき事にて是非々々
貴郎を頼み度事あつて
來が頼まれて呉ねへかと云で長八夫は何の用かは知ね共
萬端御世話になる
貴方ゆゑ私しで間に合事なら決して否とは云ません
御遠慮なく
御咄なされと云ば長兵衞は喜び
然請合て呉れば
拙者も
實に頼みいゝ實は私しが兄に清兵衞と云者ありしが若き中は
蕩樂者にて
箸にも
棒にもかゝらぬ人間なりしに先年
上方へ行と云て
宅を出た
限一
向便もないゆゑ私しも
兄弟の
情にて今頃は
何國に何をして居けるやら行當り
爲撥死はせぬかなどと案じて見たが其後三年ばかり立と
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、479-10]讃岐の丸龜より
書状が屆いたゆゑ夫を見ると日頃
案じ
暮せし兄清兵衞よりの
手紙に
付懷しくはあれども
蕩樂者ゆゑ
何せ
善事な
譯では有まじと
封を
開き見るに今では
極の
辛抱人になりし由當時
丸龜にて江戸屋清兵衞と云ては
立派な
旅籠屋になりて
暮し居ると
云趣きの手紙也依て
漸々私しは安心なし夫より
此來互に書状の
音信して居たりしと話す所へお梅はお
燗が出來ましたから一ツ御
上りなされましと
湯豆腐の
鍋と
陶を持來るに長兵衞是は
先刻の
口止が併しお氣の毒と笑ひながら
豬口を
取酒と
湯の
辭儀は仕ない者なりお
燗が
能中と
波々受是より長兵衞長八の兩人は酒を
呑ながら今も云通り兄も
近來にては丸龜中先一番の旅籠屋だとの
評判さ
其所で人間の運と云者は知れぬ者元はと云へば
些細な居酒屋にて
亭主が死んだ
後は後家一人ゆゑ
漸々浣洗濯人仕事を
片手間にして其日々々を
暮し居たりしが如何なる
縁か其
後家の處へ兄清兵衞が
這り
込夫より
辛抱して段々と
稼ぎ出し夫に又女房が
勿々針仕事が
能爰彼處にて頼まれ夫婦にて
稼しかば
忽ち三四年の
間に金が出來て
普請をなし
旅籠屋となり夫に又兄は元より
小料理が
好にて
隨分庖丁に
妙を得たれば
江戸風に氣が
利て居るとか云れて
評判よく
少光陰の中に仕出して
段々と
普請も
建直し今にては
勿々立派なる
身上になりしといふ
金毘羅へ行たる者が歸りての
咄しなり丸龜にて江戸屋清兵衞と云ば一番の
旅宿だと云事なれば
歡び
旁々尋ね度は思ひしか共五日や十日にては行事も出來ず
只々蔭ながら
悦ぶばかりなりし處此度兄清兵衞
大病にて九
死一
生と云事を申
越たれば是非々々
存生の中に
面會致し度今にては私しも親はなし親のなき後は兄は親同前なりと云ば是非
逢に
行積りなり併し是も
早押迫つて
數へ日にはなるし彼是又暮の
始末にて
旅立所ではなけれ共
兄弟一
生の別れなれば何有ても
逢ねばならず夫に付
長旅の事ゆゑ心の知れぬ者を供に連ては道中が心遣ひなれば貴樣
何卒一所に
行呉よと餘儀なく頼みけるに長八も
否とも云れぬ親分長兵衞の事なれば
始終を聞て長八は成程
御道理の事なり兄樣へ一生の別れと申せば
假令元日であらうが
大晦日で有うが是は行ねばならず直に今より
御供を致さんと心能承知なしければ長兵衞は大いに
悦喜夫では私しも大いに
安堵したり夫なら斯仕樣御前が行て
呉ると
跡は女一人なれば
世帶が
費るからとてもの事に世帶を
仕舞お
梅樣は我等の方へ來て居るがいゝ
然樣すれば
跡の
苦勞もなし安心なりと萬事に
拔目なき長兵衞何樣公事宿商賣程有て
行屆く事
勿々感心成ものなり扨是より
翌日早々長兵衞は家主へ
斷り
世帶を
片付女房お梅を親分の長兵衞方へ
預け長兵衞長八の兩人は
旅の用意を調へ讃州丸龜を
指て急ぎ
發足なしたりけり是に因て大橋文右衞門の一件に付兩國邊の紙屑屋殘らず
呼出されて文右衞門へ引合せありけれども證人になるべき
肝心の新藤市之丞が居ざりしなり市之丞の長八が讃州丸龜へ
發足せしは十二月十四日の事にして紙屑屋一同
呼出されしは同月十七日なれば僅に二三日の
相違にて證人の出ざるゆゑ文右衞門一
件落着に餘儀なく年を越て翌年
享保五年の
春と相成けり
扨又馬喰町二丁目なる武藏屋長兵衞は兄清兵衞が
大病との手紙故子分の長八を供に
連道中を急ぎて大坂まで上り此所より
船に乘し
處機よく海上も
穩かにて
滯留りなく讃州丸龜へ
到着し江戸屋清兵衞と尋ねしに
直樣知れければ行て見るに
咄しよりも
大層なる
構ひにて間口八間に奧行廿間餘の旅籠屋にて
働き女十二三人見世番料理番の下男七八人又勝手には
菰かぶりの
酒樽七八本を並べ其前には
大盤臺に
生魚山の如く仕入
板前煮方其外とも都て江戸風を
專らとなし料理屋旅籠屋
兼帶なり因て
間毎々々には
泊り
客あり又一時の
遊興に來る客も多く殊の外
繁昌なる見世なれば長兵衞も心の中に是は聞しに
増る家のかゝりかなと思ひながら内へ入コリヤ長八荷物は此處へ
卸すべしヤレ/\
草臥しと云つゝ上り
端に腰をかければ大勢の者立出御早う御着なされました
御草鞋を
解ませう
御洗足をと
盥へ湯を
汲て持出し
奧の
御座敷が明て居ります彼處へ入せられまし御
酒で御座りますか御
膳をあげますかと云ながら茶を汲で出すに長兵衞は姉樣酒も御膳も
緩と後にてよし早速ながら聞度事がある此方の兄の
病氣は如何なり九死一生の
大病と云手紙が來りしが何な樣子なるか未だ
存生なりやと
藪から
棒に聞ゆゑ女共は
膽を
潰し御客樣は變な事を
仰せられます此方の家には兄だの
大病人だのと云は御座りません男衆も大勢ありますが旦那樣に若衆ばかり皆達者で居ります夫は
大方門違ひで御座りませうと申に長兵衞
否々門違ひにてはなし
此方の家は江戸屋清兵衞と云ならんと云を女ども聞て此丸龜にて江戸屋清兵衞と申は此方ばかり夫では
違ひ御座りませんと云に長兵衞
礑と
膝を
拍オヽ
然樣だ餘り思ひ過しをして跡先に聞し故分らぬはず夫なら此方の旦那清兵衞と云は私しの兄なるが
此節大病を
煩ひ居ると云事
未死にはせぬか
達者で居ますかへ九死一生の病人と聞かれ知らぬ
筈なりと云時長八
傍邊よりモシ/\旦那に江戸の馬喰町から人が參りしと云てお
呉と申せば女供は何事なるや樣子しれぬゆゑ奧の方へ走り行モシ旦那樣江戸の馬喰町から御客樣で御座りますと云ば亭主清兵衞は
不審に思つて馬喰町からの客人とは
合點行ずと
考へ居るに又々
後からも女共が來り旦那樣
變な客人で御座ります
奧座敷が明て居ますから御通りなされ御酒にしますか御膳を
上ますかと申たらナニ酒も御膳も
後にてよし兄は大病にて九死一生だと云手紙が來しが未だ
生て居るかと御尋ねなされたが何だかさつぱり
譯が分りませんと云を聞清兵衞
漸々考へ付手を拍てオヽ然樣か
分たりと云ながら店へ
駈出ければ女共は
彌々譯が分らず
只呆れ
果てぞ居たりける是出し
拔の事ゆゑ
豈や弟長兵衞が
[#「弟長兵衞が」は底本では「弟清兵衞が」]年の
暮に
押迫つて來やうとは思はず
尤も是まで
平常逢度思ふ一心より九死一生の大病なりと手紙に
嘘を
書て
遣はしたる事ゆゑ
早速には思ひ出さず
暫時考へしが
漸々の事にて江戸より弟が來りしかと心付
俄かに
周章しく出來り見るに年こそ
寄たり弟の長兵衞に
相違なき故清兵衞は大いに
悦び是は/\長兵衞能こそ來て呉しなり
豈夫今年の中に來ては
呉まじと思ひ居たりしに能も/\
遠路の所を尋ねて呉しぞ先々
草鞋を
解て上るべし二人
連か御前樣大きに御苦勞なり先々御
上りなされ是々お初お
粂我等は何を
胡亂々々して居やる早く
洗足の湯を以て來ぬか氣のきかぬ
奴等だナニ其所にある夫なら早く
草鞋を
解何ぜ
洗足をせぬのだと清兵衞は
嬉し
紛れに女共を
叱り
散して彼の是のと
世話をやき
大勢居ながら餘り目はしの
利ぬ
奴等だ兄と云ば某しが弟に
違ひなし何故早く
然樣云ないなどと
無理ばかり云中に長兵衞長八の兩人は足を
洗ひ
仕廻故清兵衞は先へ立サア/\
遠慮なしに奧へ/\と兩人を
[#「兩人を」は底本では「兩人は」]伴ひ行先久々にての
對面互ひに
堅固にて目出たしと
挨拶に及ぶ中早や
商賣柄とは云ながら女房も
如才はなく酒と肴を
取揃へ
自身に持來たれば清兵衞は長兵衞に向ひ
嘸々草臥しならん
然樣何時までも
畏まり居ては
究屈なりモシ/\
御連の
衆御遠慮なさるなコレサ
平に/\と是より皆々
寛ぎ兄弟久し
振にての
酒宴となり女房も
傍にて
酌をしながら
初對面の
挨拶をなしければ
[#「なしければ」は底本では「なしけれだ」]清兵衞は弟に向ひ長兵衞是は我等が女房なり以後
心安く頼む又
遇々來りしに
兄嫁などと思ひ
遠慮しては
面白からず
平に心安くなし呉よ
若供の
衆遠慮があつては
惡い心安く
御頼み申と兄弟中の
水入らず
献つ
酬へつ
良暫し
酒宴にこそは及びけれ
扨又長兵衞は兄の清兵衞に向ひ
先達ての手紙の
樣子にては大病にて九死一生との事なれば大いに
心配致せしなれ
共節季師走の事ゆゑ
勿々旅立などは
出來難き
所なるが萬一の事にてもある時は死に目にも
逢れずと思ひて
取物も
取敢ず
俄の
旅立隨分道を急いで來た處に今樣子を見れば
大丈夫にて
煩ひし樣子は一
向見えぬか那の手紙は如何なる譯でありしやと云ければ清兵衞は
天窓を
掻成程不審は
道理の事實は我等が大病なりと手紙に
記て
遣しは
虚言なり
譯を聞て
呉尋常の手紙にては手前も一
軒の
主人容易に出て來る
氣遣はないと思ひしゆゑ我等が
謀計にて九死一生なりと云て
遣ば如何に
遠國にても
殊に寄たら來るべしと思ひての事なりしが
斯面を合て見れば我等が
謀計の
當りしなり今にては見らるゝ通り
相應に
身上も仕上たれば貴樣が今度遣ひし二人の
路用金位は損をば
懸ぬ
能江戸
土産を
遣はすにより
緩々と
滯留して
金毘羅樣へも參りたり江戸にもなき
珍らしき
船遊山でもして春になつてから
[#「なつてから」は底本では「なつたから」]緩りと歸るがよし然すれば我等も都合して貴樣
達を送りながら江戸見物に
行うと思ふゆゑ
久し
振にて又貴樣の處の世話にならうかと
兄弟誠を明し
合久々にての
對面に餘念もなき
物語にぞ及びける
斯りし程に長兵衞は先兄の無事なるを
悦び心の中には
此位なら
節季師走の中を來らず共能にと思ひけるゆゑ兄さん御前は夫でよからうが私は道々も
明暮お前の事のみ
案じられて斯して
態々來からは
切ては
死目に
逢度と思ひて何なにか
苦勞をしたか知ぬほんに一時に十年ばかり
壽命を
縮たと
怨みを云ば清兵衞否モウ其話は何か
己に
負てくれ
往昔の樣に
蕩樂をして貴樣の
厄介に成には
勝だらう實は此樣に仕上た身上を見せ度と思うての事なりと云に長兵衞は夫も然樣かと
咄しの
折柄時に兄さん此丸龜に後藤半四郎と云
劔術の先生在しが今にても居らるゝやと問ければ清兵衞聞て夫は當時此四國中には
肩を
双ぶるものなき
劔術の大先生なり其上
見懸に依ず
慈悲深い御人にて金銀に少しも目を懸ず
若貧窮者や病人のある時は
醫者に懸て下されたり金銀を
施されたり
珍らしき
氣象の先生なれば
近郷近在にては
生神先生々々と人々が
敬ふ
位なり夫に又我等の處は
格別に
御贔屓にて女房は
針仕事を能する故後家で居た時分には後藤先生の
浣ぎ
洗濯から衣類を殘らず仕立たれば何なにか御心安くなし今でも
縮緬類は時々此方へ仕立に遣はさるゝが
昔と違ひて
商賣が
忙しけれ共お
馴染ゆゑまさかに今では出來ませんとも云れず其度に仕立て
進るなり夫に又先生は
極酒好にて
毎日店へ酒を
飮に御出なさるが
誠に氣さくな御人にて我等の所の酒を飮では外の
店のは
飮ないとて御
宅で
飮る時には御弟子衆に五升三升づつ取に御
遣しなさる實に古今の酒好先生なりと
兄弟噂を
爲居たり
扨又清兵衞は弟長兵衞に
盃盞をさしながら貴樣は如何して後藤先生を知つて居るやと問に長兵衞然ば
縁と云ふ
者は
奇代な者にて
今度共に
連て來りし此人は
舊越後高田の浪人にて若き時同家中の娘を
連て江戸へ
逃來る時に
在所の
熊谷宿の弟八五郎が見世に休み夫より
駕籠屋の
惡漢に
引罹り
既に
路用も女房も取れ
命さへ
危き處後藤先生が
上州大間々なる
師父の大病にて行れたる歸り道に是も八五郎が見世へ休まれて
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、484-9]したる事から八五郎は
此衆夫婦が
惡漢に
引罹りたる事を物語りしに後藤先生は
其若者不便なれば助けて
遣はさんと云れて
熊谷土手へ
追駈行駕籠屋の
惡漢共を
叩き
散し
此衆夫婦を御助けなされ八五郎が家へ連て來り
疵所を
養生なし夫より八五郎も
那通りの
氣象者故不便と思ひ手紙を
添て私が所へ此衆夫婦と後藤先生三人を送り越せし故後藤先生と
相談して此長八をば私しが世話をして
世帶を
持せ今では親分子分の
間柄今度
頼んで供に
連て來りしも此
譯也又其節先生が廿兩と云う金を出して此衆夫婦を世話をして
呉よと御
頼みゆゑ私も
左に
右と
相談の上紙屑商賣を初めさせし處
僥倖に
繁昌して今では
先不足もなく
暮し居りて十七歳になる娘一人
儲けたり
概略後藤先生の
眞實に御世話下されたる
譯は右申通りゆゑ今度
幸ひ私が供をしながら昔しを忘れず
[#「忘れず」は底本では「忘れづ」]後藤先生へ
御尋ね申て
厚く
御禮をも申上させんと
思連て來し譯なり此樣又機の好幸ひなる事もなし併し月日の立のは早き者にて今年にて十八年以前の事と
委細咄しければ清兵衞扨は然樣なることにて御知り人になりしか
成程縁と云者は
不思議なる者なり
咄して見れば貴樣たちは親分子分私しは又後藤先生とは
大の
御懇意なりと云つゝ
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、485-1]四邊を
見廻し
遂話しに身が
入大分夜が
更たり
嘸々草臥しならん今夜は
寛々と休むがよしと漸々
盃盞を
納め女どもに云付て
寢床を
敷せ
各々臥所に入たりける
扨翌日にも成ければ武藏屋長兵衞并に長八は後藤先生へ尋ね行んと思ひ
主人の長兵衞へ
[#「長兵衞へ」はママ]何ぞ
土産をと
相談しけるに長兵衞は
[#「長兵衞は」はママ]遠方を來た事ゆゑ
土産も
持ぬとて
矢張酒がよし
外の物は何を上ても其樣にお
悦びなされず酒さへ上ると夫は/\何よりのお悦びなり我も
同道せんにより夫は我等が
宜樣にするとて五升入の
角樽へ酒を入
熨斗を付一尺餘りの
鯛を二
枚肴籠に入てサア/\是では
隨分[#ルビの「ずゐぶん」は底本では「ずるぶん」]恥かしからずと
支度をなし是より三人
連にて丸龜城下なる後藤半四郎の方へと
到りけり又後藤方にては此日は
丁度稽古日にて
多の
門弟聚り
竹刀の
音懸聲等
喧びしく今
稽古眞最中なる所へ三人は
玄關に
懸り
案内を乞ひければ
奧より
竹具足を
着今面小手を取たるばかりにてせい/\と
息を
切ながら一人の
門弟取次に出を見て長兵衞
[#「長兵衞」はママ]會釋なし私しは江戸表馬喰町の新藤市之丞と申者に候が久々にて後藤先生の
御機嫌伺ひに參上仕りたり
此段宜く
御取次下さるべしと云に門弟の者右の由を後藤へ申けれども
今稽古の
眞最中[#ルビの「まつさいちう」は底本では「まつさいうち」]にて取次の云事は少しも
耳に入ず
稽古の
邪魔なりと
叱り付られ門弟は
膽潰して又々
玄關へ
立出若名前が
違はせぬかと聞に長八
否相違御座なく先年熊谷土手にて御世話に
預りたる者にて候と云ば門弟は然樣かと云ながら
稽古場へ行て見るに今後藤は稽古を
休み
息を入て居けるゆゑ
怖々前へ行先生只今の者に能々
承まはりし處熊谷にて御世話になりたる者のよしに候と云ば後藤は是を聞何と云る熊谷にて世話に成し者だと夫れはへんな事なり其者
大方藤の
局であらうが
某しは是まで女に心安き者はなき
筈なりと
淨瑠璃狂言の
洒落を云ゆゑ門弟には少しも
譯らず
當惑して居るを後藤は是々其者の名前は何と申やと云に新藤市之丞と申せしと聞や
否や後藤扨とは
[#「扨とは」はママ]云ながら
稽古の
形體にて
玄關へ出來り是は/\
珍らしや市之丞殿能こそ
參られたり
而また長兵衞殿清兵衞殿も
同道か何れも
珍らしき人々先々此方へ/\と云ながら
一間へ通しやれ/\
久々なりと
互ひに一
別以來の
情を
述夫々挨拶に及びしが此度兄の病氣の
間違とも云はざれば
金毘羅樣へ
參詣旁々昨夜此清兵衞方へ
到着仕つり
取敢ず御
機嫌伺がひながら先年の御
禮に市之丞同道にて
參上仕つりしと申ければ後藤は
喜びて清兵衞に向ひ貴樣の所の
此客人達は
少し
仔細有て昔し
馴染の者なり
其仔細は
後にて
寛々咄すべし時に長兵衞殿此清兵衞殿と云男は
勿々如才なき者なり夫の又女房が
縫針の
業は大の
上手にて某しも
仕立物を
度々頼むなりと語るに清兵衞は
傍邊より
進み此長兵衞儀は私しが
實の
弟に候と申せしかばナニ長兵衞殿は貴樣の弟
成とや
然樣か
縁と云者は不思議なる者なり然すれば三人ながら親分子分兄弟の中別して
遠慮はいらぬ
先打寛ぎて
咄すべしと是より後藤は
稽古を
休み弟子中へ
斷りて歸し
遣り
再び
座敷へ來りしに清兵衞は五升入の
角樽に
鮮鯛一
折を
添て出し先生是は餘り
御
末なれども長兵衞長八兩人の
御土産なり
御受納下さる樣御願ひ申上ると云ば後藤は此品々を見て是は/\
手厚き
土産何よりの
好物然も
澤山に
惠まれ千萬
忝けなし清兵衞貴樣の店の酒を飮では外の酒は一
向飮ぬ
何も
結構々々と大いに
悦び
直樣肴を
調理酒を
開き
酒宴にこそは及びけれ
扨長八は先年熊谷土手にて
助られたる事より廿兩の金子を惠まれたる事まで
厚く
禮を
述其後夫婦とも
暫時病氣なりしが
漸々全快なし
夫より長八と改名して紙屑買となりしに
僥倖よく
追々繁昌して先不自由もなく
暮す中お幸と
云娘迄儲けたる事など
物語り是と云も皆先生の
御庇蔭なりと
厚く
禮を云に後藤も
喜び
夫は長兵衞の
深切と貴樣の
運の
能ゆゑなりなどと種々樣々の
話しに
移りしが其日は
暇を
告て江戸屋へ
歸り頓て其年も
暮正月にもなり家々の年禮も
濟しかば半四郎は幸ひ
好道連なれば
當春は江戸表へ
出て無刀流劔術の道場を
開かんと思ひ立當地の道場をば高弟に
讓り長兵衞長八兩人十四五日逗留の中に半四郎は支度を
調へ
[#「調へ」は底本では「調へ」]長兵衞長八を連れて江戸屋清兵衞に
分れを
告るに清兵衞も萬端世話をなし
土産物は先達て便船に
頼み置路用金等迄長兵衞に
遣し
互ひに
暇乞に及びて讃州を出立なし三人は道中
滯ほりなく江戸馬喰町なる武藏屋の見世へ到着しければ家内は一同に
出迎へ道中
恙なく歸りしを
悦ぶ事限りなし其中にも日々に
待居たりしは長八が女房お梅にて歸るや
否や長八を一ト間に呼び去年極月中旬町御奉行所より
[#「町御奉行所より」は底本では「町奉御行所より」]此邊の紙屑問屋并に屑買を一同に
御呼出にて
御尋ありしが段々其樣子を聞しに山崎町に居る浪人者が百兩の金を
盜み其金にて
質物を
受出したる事露顯して
召捕れ其盜賊の引合なりと申事にて如何にも
樣子が氣に
懸り萬一文右衞門樣の御身の上に
關る事ではある間じきやと思へども御前さんも長兵衞樣も
留守の事なり
外に
咄し
逢人もなし
實に女の身の
悲さは只々蔭ながら文右衞門樣を御案じ申ばかり兎角私は
氣懸りなりと女房の
咄しを聞て長八は眉に皺を寄成程夫は氣に懸るは道理なり己も屑買はすれどもナニ不正の品を買ものか併し何にしても變な事と小首を
傾けしが
否是は質物を
受出したるに付露顯したると云ば分りしなり夫は彼の廿五兩の金よりの事ならん其節質屋より質物が
流れるとて度々嚴敷催促なりしが右の金にて其品を
受出せしゆゑ
疑ひの
懸りしも知れず是と云も
袖乞の身分にて云ば不相應なる大金の事ゆゑ疑ひの
懸るまじとも云難し何にしても文右衞門樣が盜賊などなさる
氣遣ひなけれど己も
聞ては
捨て
置れず何分氣に
掛により明日は早々山崎町へ行て文右衞門樣を
御尋申さんと夫婦相談に及びたり扨翌日にもなりければ長八夫婦は
早朝より兩人して山崎町
乞丐頭長屋なる大橋文右衞門方へと志ざしてぞ出行ける
「我が
影の我を
追けり
冬の
月」と人之を
疑ふ時は
柳の
掛り
紙鳶も
幽靈かと
思石地藏も
追剥かと
驚くが
如し然ば大橋文右衞門の女房お政は
夫の身の上を種々に案じ
居たるに豈計らんや紙屑屋長八夫婦御免なされと云ひながら
入來るを見ると
等しく
挨拶もせざる中に長八に
獅齒付胸元取て
捻居々々爰な市之丞殿の恩知らず御前の置て行たる金ゆゑ夫文右衞門は盜賊の
疑ひ
掛りて
召捕れ入牢となりし無實の災難夫に
奚ぞや去暮中御奉行所へ紙屑買を一同御呼出になり
御尋ねありし時は一向に其場へ
面出もせず夫ゆゑ今に
夫の
證りも立ず不實と云ふも
餘りあり御前の
在家さへ知れなば文右衞門の身分は
直樣證りが立御免のあるに
相違なし
恨しきは市之丞殿と
女心の一※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、488-2]に
迫り
口惜紛れに市之丞へ喰付呉んとするゆゑにお梅は
惘れて茫然たりしがマア/\御新造樣其所を御放し下されよ
恨みは
御道理なれども
夫には
種々譯があり先々御氣を
鎭めて一
通り御聞下され度と長八
諸共宥むると雖どもお政は更に聞入ず否々私し共に何か
恨みのあつてしたる業ならん私しの
夫は
召捕れ
入牢となり此寒氣に若や牢死したなら私しは如何せん恩を仇で
報すとは御前方夫婦の事サア/\只今直に夫文右衞門が身の
證りを立出牢させて下されと
泣つ
恨つ
掻口説を市之丞夫婦は一々
御道理には御座れども何卒御新造樣私し共の申事を一通り御聞なされて下さりませ
貴方の
樣に
仰しやつた
計りでは
譯が
分りませず私共の申事を御聞成れた其上にて不實の
廉も御座るなら如何樣共思召次第に成されましと種々樣々に
宥め
賺しければお政は
漸々に手を
放すにぞ長八は
襟かき合せ其譯と云は舊冬
此方へ
參りし後親分の長兵衞に
頼まれ十四日の日に
出立[#ルビの「しゆつたつ」は底本では「しめつたつ」]して讃州丸龜へ
參り昨晩江戸表へ歸りし處女房お梅が去暮中紙屑屋仲間一同御番所へ御呼び出になりし
始末を
咄せしゆゑ
何にしても文右衞門樣の御身の
上が
案じらるゝにより
急ぎ只今
御尋ね申せし
譯又大恩請たる文右衞門樣に
何意恨あつて
御難儀になる事を
仕出しませう
全く舊冬
御呼出しの節は丸龜へ
參りし
留守の事又
貴方へ
置て參りたる廿五兩の金は私し共夫婦
相談の上一人の娘を
吉原へ
身賣せし
[#「身賣せし」は底本では「身賣して」]金子にて
慥なり
夫と申も十八ヶ年以前の御恩
報しと
存じて
致したる其金故に
却て文右衞門樣の
仇となりしは
誠に
御氣毒とも
何とも申樣も御座なく
殊に又肝腎の町所名前をも申置ず
夫是にて無實の御難儀を
掛しこと誠に面目次第も御座なく候との
物語りを聞て女房お政は大いに
驚き扨は然樣な事にてありしかと今さら
恨みを云しが面目なく而て又其一人娘を吉原へ
勤め奉公に
遣れたとは扨も/\
悼はしき事如何に
昔しの恩あればとて夫程までに御夫婦が御
心盡しを
成れしものを勝手の事而已云並べ
無恥な者と思されんは
返す/″\も
恥かしやと
面赤らめて
詫入にぞ長八夫婦はナニ/\其樣に
仰られては却て私し共も面目なし何は兎もあれ然樣
云事なら直樣是より家主を同道なし御奉行所へ
訴へ
出でて文右衞門樣の證人となり早々御差免しに相成樣御
願申候はん
必ず/\御
心強く思し
召下されよと長八夫婦は
暇乞して
急ぎ馬喰町へと歸りけり
茲に又後藤半四郎は旅籠屋長兵衞方に滯留して居けるが今日長八夫婦の者見えぬゆゑ長兵衞を呼長八は何れへ
行たるやと問に長八は何か
急用ありとて下谷の山崎町へ參りしと答へければ半四郎
然樣か
親類にても有て行たるやと云に否何か外の用達に參りし樣子なるが山崎町と云處は
乞丐頭長屋ばかりあつて浪人者や
物貰ひの住居する所なりと云ば半四郎
夫では長八は二人して一
文貰ひにでも
出掛しか歸り/\
能稼ぐ男なりと大いに
笑ひ
居たる所へ長八夫婦は歸り來りしかば後藤は是を見て長八
貴樣は
何れへ行しや
何だ
貰ひはありしかと云ば否先生御戯談所では御座りません
實に
大變が出來ましたといふを聞長兵衞夫は何が
大變だと云に長八
誠に大變なり親分に御相談申さねばならず
夫に
付ても是まで親分には
隱て
御咄し申さざりしが私し共夫婦は
豫て御存じの通り
國元を
逃亡なし江戸へ
出て
來りしも
元はと云ば同家中なる大橋文右衞門と云人の
情にて兩人が
命を
助かり
殊に廿兩と
云金迄も
惠まれ路用として江戸へ來りし
譯なるが道中にても先生の御恩になり又親分の
厚き御世話にて今日までも無難に
暮し
居るも是皆樣の
大恩なり
然るに去年の極月
初旬淺草の觀音樣より上野の大師樣へ參詣せんと下谷の車坂を
[#「下谷の車坂を」は底本では「下谷車車坂を」]通り
懸りしに
深編笠を
被りて
黒絽の
羽織のぼろ/\したるを
着如何にも
見寥しき
容體をして
謠ひを
唄ひながら
御憐愍々々と云つゝ往來に
立て袖乞をする者あり其者の
羽織の紋が
丸に三つ引ゆゑはてな
羽織の紋と
言葉遣ひと云大橋文右衞門に
能似て
居るが
若や浪人でもして零落されたることかと思ひて
有合の
錢を七八
文遣しに有難うと
云ふ其聲音迄文右衞門に寸分
違はず
餘り不思議に思ひしかば
立止まつて
笠の
内を見樣と思ふ中其浪人は
日暮なれば
仕舞て歸る
樣子なれども
蟲の知らせしか文右衞門に
違ひなしとこゝろへ夫より
後を
尾て
見屆けしに山崎町の
乞丐頭長屋へ
這入しかば其所を
尋ねて見るに
果して大橋氏なるゆゑ私しもハツと思ひて何の
言葉も出ざりしが
漸々の事にて
段々樣子を聞に八ヶ年以前主家の騷動にて浪人なし
斯樣々々との
咄しに付私しは
膽が
潰れるのみか如何にも
氣の
毒に存じヤレ/\國元では五百石取の
物頭役大橋文右衞門と云れた人が今一
文貰ひの袖乞とは
情なしとも
哀れとも餘りの事の
困窮零落と思へば/\思ふ
程何分其儘見ては居られぬにより直樣宿へ歸り女房お梅に
相談の上昔しの
恩報じに
娘お
幸を
吉原の
玉屋山三郎方へ五十兩に
身賣して其内廿五兩を文右衞門の
宅へ
持參なし
昔しの
恩報じなりと
差出せし
處物堅き文右衞門なれば何と云ても
請取れず私しも仕方なき故
考へ居たる中文右衞門は
留守になりたるを
幸ひ何も云ずに右廿五兩を
煙草盆の中へ入れ
置て
歸りたり
然るに其金にて文右衞門が
質物を
請出せし處一文
貰ひの浪人者が一夜の中に金の出來る
筈はなし殊に文右衞門が流れの
云譯に來たる時に帳箱の上に
置たる百兩の金子
紛失したる故何でも文右衞門が
盜みとりたるに
違ひなしと
質屋の番頭久兵衞と云者が
云懸りて彼是と
爭ひとなりしに文右衞門は
盜人の
惡名を付られたるを
殘念に思ひ切て
捨んと
逃出す久兵衞を
追懸し
折火附盜賊改め役小出兵庫樣の御組下笠原粂之進とか云ふ人に
召捕れ
入牢となりしを文右衞門の女房が大岡樣へ
御直訴訟をなし夫が爲
舊冬此の
邊の紙屑屋を御奉行所へ御呼出しになり文右衞門へ
引會されし
所其節折惡く私しが御當地に居合せざれば文右衞門が金子の
出所明かならず因つて今に
入牢なし居る由實に親分大變が出來たるなりと云ば私しの
親切が
却て
仇となり
恩ある人に
難儀を
掛し樣なるもの然れば私しも
斯しては居られぬゆゑ是より
直に御奉行所へ
駈込訴を致し其金の證人に成うと思ふにより
何卒親分願書を
認めて下されと一
伍一
什の物語りを長兵衞は聞て
成程夫は大變な事貴樣の
遣はしたる金より
疑ひを
請て
無實の
難に
陷しと聞ては如何にも見て居られぬは
道理なり
願書は元より
商賣柄認るのに
手間隙は入らず然ば長八ナゼ貴樣は
娘を賣しや
可愛さうに只一人娘のお幸を
身賣せず共廿五兩の金子は何れ共出來やうに此長兵衞と云親分が付て居るぞ
然程の事なら我等に
相談するがよし私しも馬喰町での武藏屋長兵衞旅籠屋仲間にて人にも知られし男
也長兵衞の子分が一人娘を
賣たなどと云れては此長兵衞が
面目なし如何にも
捨ては置れぬことなら
最初より
斯樣々々の
譯也と
咄しもあれば
假令手元に金は
無ても廿五兩位の金は何れとも
融通は出來る者を我等に
咄しもなく大事の娘を賣などとは長八貴樣にも
似合ぬ
心底なり
先達て云し時は
屋敷へ
奉公に
遣はしたりとよくも人を
欺むきしなど申に長八は
額を
撫否然樣云るゝと實に
面目次第もなし併し年中御世話にばかりなり其上
節季師走押迫ての金の
才覺餘り心なしに
御話しも出來ぬゆゑ
據ころなく淺草田町の利兵衞と云國者を頼んで江戸町の玉屋山三郎方へ
賣し
譯誠に申
譯御座らぬと申せば長兵衞よし/\お幸は
不便なれ共
今更詮方なし其中には受出す樣に仕やう先夫は
後の事
差當[#ルビの「さしあた」は底本では「さしあて」]つて文右衞門樣の一
件片時も
捨ては置れず
早々願書を
認ためんと
用意にこそは
懸りけり
扨又長兵衞は願書を
認ためんとするに先より
傍らに
酒を
呑居たりし後藤半四郎は長八が話しを聞夫は何にしても
氣の
毒なる事なり併し其金を返せし處は實に
頼母敷心底なるが今の
咄しの
樣子にては其大橋氏へ百兩の金が
紛失したと
言懸りし油屋の番頭こそ
不屆なる
奴なれ浪人しても
帶刀する身が
盜賊の
惡名を付られては其分に
差置れずと云は
道理なり番頭久兵衞とか
云奴こそ
怪しき
曲者其者を
嚴敷吟味せば文右衞門殿の
證りは立に相違なし是長八貴樣
案内をしやれ某し是より直樣油屋へ
踏込で久兵衞とか云ふ奴を
引捕へて
聞糺し
呉んと
帶〆直して立上りたり後藤は
元來仁心深く
正直正路の人なれば斯の如き事を聞時は
頻りに
憎く思はれ
他人の事にても
何分捨置れぬ
性質なり是犬は
陽にして正直なる
獸ゆゑ
猫狸其外魔性の
陰獸を見る時は
忽地噛殺すが如し
己が
性に
反して
陰惡を
巧むものは
陽正の者是を
見分するに
忍びざる所なり故に此半四郎も己正直なる心より番頭久兵衞が
邪しまなるを聞て
立腹し殊に又今酒を
飮だる一ぱい
機嫌ゆゑ
猶々憤ほり
烈しく
直に油屋の見世へ
踏込で番頭久兵衞を
引捕へ目に物見せて
呉んずと
罵しる
聲を聞一ト間の
襖を
颯と
押開き
御免成れと長兵衞の弟なる中仙道熊谷宿の
寶珠花屋八五郎此所へ入來たり是は/\後藤先生新藤市之丞樣
誠に久々の御目
通り先々御
機嫌克恐悦に存じ奉つる
道理こそ
先程より一ト間の内にて御
咄しの
聲を
承まはるに扨も
能似たるお
聲なりと存ぜし處果たして後藤先生なりと云ば一同も是はと
驚き長兵衞は八五郎に向ひ貴樣は
何時頃出府したるや己は昨日歸つたばかりゆゑ
未だ
家の御
客も知らざりしと云に八五郎いや私は此間中より來て居るが
兄貴は四國へ行て未だ歸らずと云し
誠に
思案に餘りし事が出來て
心配なりと云を
傍より後藤はコリヤ八五郎殿
誠に久し
振なり貴樣の世話に成しも
稍十七八年にもなるべし思へば一と昔し半の餘なるが貴樣の娘は
無事に
成人せしなるべし
最早年頃ゆゑ
聟にても
貰ひしか
變る事もなきやと尋ねられ八五郎は
否御
尋ね下され
有難く其娘の事にて
今度出府致せしなり長兵衞殿先一通り聞て下され
兄貴も知らるゝ通り
去年秋中山崎町に居る國者の山田屋佐兵衞が
仲人にて先は質屋渡世土藏もあり
地面も
持て
相應の身上との事ゆゑ
相談なし油屋五兵衞の
息子五郎藏と云者へお秀を百兩の持參金にて
支度も
夫相應にして
嫁に
遣た所が
其聟殿が
餘程拔作にて仕方なしと雖ども折角
縁有て行たる者なれば
先々今少し
辛抱せよと
云聞居たる處其舅と云者は大の
女好にて
嫁の
寢所へ來ては
口説たてる
由誠に
惘れ
果たる事なり夫にまだ大變なる事あり其店の番頭久兵衞と云者は
恐しい
惡黨にて是も主人の
嫁の處へ毎夜々々
這掛る由右の
譯なれば人にはなしも出來ず
兎角娘も
居耐れぬ
故此間中
駈出し來りし
也因て
離縁にする
積りにて
媒酌へ
段々掛合し處親亭主を
見捨て出行たる女なれば
持參金道具は
勿論離縁状まで出す事はならぬと
云張誠に
困り
果たる
故其
儘捨ても置れず
故意々々出府して
自身掛合處に
聟は
大馬鹿なり
舅の五兵衞は何日行ても一寸とも
會ず唯店の久兵衞と云者ばかり一人彼是云て何れにも
埓が
明ず尤も向うが何樣に
惡敷とも親亭主を
見捨たと云
廉があるゆゑ
道具衣類は云までもなく百兩の
持參金はとても返す
氣遣ひなしと思ふゆゑ
夫は
損をしても
構ぬが
何分離縁状を出さぬには
甚だ
困り
果たり何にしても番頭久兵衞と云
奴の
面の
憎さ
言葉にも
陳られず兄さん何か仕方はあるまいかと云ふを
傍邊に聞居たりし後藤は
彌々立腹し夫は如何にも油屋の
奴輩不屆なり何にしても其久兵衞と
云奴が
惡者に相違なし
主從して
嫁へ
不義を
仕懸るとは
大膽不敵なり其上
離縁状を出さぬなどとは彌々
捨置れず此一件は貴樣
達承知しても此の後藤半四郎が
承知ならぬ是より
直に某し
自身に行て百兩の
持參も
衣類諸道具離縁状までも殘らず取て
遣はすべし又向うにて
種々云て其品々を出さぬに於ては主從
倶に
引摺出し奉行所へ
召連訴訟して一言も
言せぬ樣にせねばならぬコリヤ長兵衞久五郎
[#「久五郎」はママ]貴樣
達案内を頼むサア/\山崎町へ行油屋へ
押込で遣らんと云故長兵衞と久五郎の
[#「久五郎の」はママ]兩人は
甚だ
心配なし
先生貴公の
御氣象では
御立腹なさるゝも
御道理なれど先々
能咄合て大ぎやうにならぬ樣に
懸合が宜しく何れにも明日の事に致す
積りなれば
兎も
角も
御鎭まり下されよと漸々に
宥めけり
然ば後藤半四郎は明日こそ是非々々
某し同道すべし
待構へたり
扨又長八は何にしても大橋文右衞門樣の御事を
跡廻しにはならぬと云を長兵衞久五郎の
[#「久五郎の」はママ]兩人今其事を
訴へなば第一
貴樣始め
我々まで其一件に
身體を
縛られて
仕廻により
先離縁状を
取此一件を片付て後に大橋樣の一件に
懸らんと
相談を極め
左に
右明日
仲人佐兵衞を
連て山崎町へ
行懸合事にせんと申すに後藤も是非々々同道すべしと云ふゆゑ長兵衞八五郎は甚だ心配なし
若先生を同行して
行時は餘り
強氣なる事をして
大騷動を
仕出さねばよいがと思ふゆゑ今一
應私し
共限りにて
掛合夫にても
埓明ざる節は先生に願はんと申に後藤は
何貴樣達其樣に心配する事はなし某しとてもまんざら
如才の事はせず
先斯樣にすべし
拙者が八五郎殿の
弟分になり親類なりと云つて行ば
仔細無貴樣達は先へ行て一通り
懸合れよ某しは其中
表に
待居て
彌々貴樣達の掛合
埓が明ずば其時に油屋へ
踏込で掛合遣さん其
積りにしては如何と云ば
皆々承知なしたりけり扨
翌日に相成ければ後藤半四郎は長兵衞八五郎同道にて山崎町へ
行先仲人の山田屋佐兵衞方へ立より今日は是非々々娘が
離縁状を
貰ねばならず夫に付我等兄弟共へ
咄せし所が
持參金衣類道具等までも損をして離縁状計り取とは餘り
馬鹿氣た事とて
不承知を申餘り無法の
挨拶なりと云に付今日其弟を同道して參りしなり御苦勞ながら御出下されよと云に
仲人佐兵衞は
[#「佐兵衞は」は底本では「左兵衞は」]是を
聞モシ八五郎さん御前に弟はなき
筈なるが其弟と申さるゝは今迄
何地に
御在なされしやと問ければ八五郎は
拔らず御前さんの御存じなきも
道理なり
幼少の時
里に遣して
其儘縁切になし置しが今にては
段々出世して四國の丸龜に於て劔術の
師匠をなし居けるが此節江戸見物に出來りし故兄弟久々の
對面にて何やかや
咄したる
譯なり夫に付今日同道して來たりしと云ふに佐兵衞は
然樣なるか道理こそ私しは知らぬ筈なりと是より半四郎長兵衞長八仲人佐兵衞を同道して油屋へ
掛合に
到り半四郎をば門口に
待せ
置長兵衞八五郎佐兵衞の三人は油屋の見世へ上り込に此日油屋五兵衞親子は大橋文右衞門の一件にて奉行所へ
呼出しになりて
見世には番頭久兵衞只一人帳場に
控へ居たりしかば三人の者は
先一通りの
挨拶に及び扨久兵衞殿此間中より
度々御懸合申せし通り娘事先は
御縁のなき
譯成ば
何か今日こそは
離縁状を
遣はされて下され
早斯樣になりて當人の氣の進まぬものを無理に押付て元の
鞘に
納めると
云譯には
參らず私しどもの方にても
彼是と申日に御懸合の
筋もあると云ものゝ
其所を申て見れば
實も
蓋もなき
譯勘辨して
云ずに居るが花なり
何か離縁状を出して下されと云に番頭久兵衞は
空眠りをして居たりしが
否其事は前々より申通り
親亭主を見捨て逃出したる嫁に離縁状は
遣れぬと主人も申
聞られ
殊に今日は
兩旦那とも
留守ではあるし
假令又内に御出なされて御
咄し申た所が
親夫に暇を呉た女へ
直素直に離縁状を御出しなさいとは
傍からも云れぬなり若旦那にも存じ寄りありと
云れし故
右にも
左にも離縁状は出されぬから何れとも御前方の
存分になさるが
能と
聲荒らかに
云放したり
扨又長兵衞は八五郎が
掛合を聞き番頭さんには一
應御道理の樣なれ共決して
親亭主を
見捨たと
云譯にてはなく
嫁の方にもよく/\
居耐納れぬ
譯ある故也八五郎の娘ばかり惡きとも
云難く夫を
彼是と
洗ひ
立をすれば
舅五兵衞殿は
勿論御前までへも
恥辱を
與ふる譯なれば私し共の方にて云ぬ中が花なり御前とても
此見世の
支配人同樣に御出なされば御前の取計らひ一つにて何れとも
成ことと思はれる私しどもゝ同じ
御咄許りを何時迄も致すは
迷惑なり殊に又私しの末の弟が
六ツケ
敷云ふゆゑ何か
最初より申通り
持參金の百兩衣類道具代等は兎も角も
離縁状ばかりを遣はされて下され
然すれば御前の方は十分ならんと申に久兵衞コレ
馬鹿な事を云なさるな御前
親類書にも八五郎殿の
外に弟はなき筈なりよし分つたり是は定めて出入師とか
公事師とか云ふ者を
連て來りしならん
面白し/\何でも連て
來るがよし此久兵衞が相手なり親夫に暇を
呉た女に離縁状は
勿論持參金などは少しも返す事成ず
率公事師にても何でも連て來るべし此方よりこそ願ひ出べきと思ふ處なり此久兵衞が相手になれば奉行所へ出樣が
公方樣の御前であらうが
立派に
言開きて見せるサア/\
何れとも勝手にせられよと大聲に
罵りければ佐兵衞
[#「佐兵衞」はママ]八五郎の兩人は心中に
此處へ後藤先生を
呼込では必らず
騷動にならんと思ひ腹の立のを
堪へ/\て久兵衞を
宥め離縁状を取んとすれ共彼
勿々聞入ず猶々
募りて不法を云ゆゑ
據ころなく後藤半四郎を呼に此方の後藤は
先刻より表に立て
懸合の樣子を
聞居たりしが元より
氣象濶達の人故ぢり/\氣を
焦ち今に見よと
腕を
摩つて
待處に八五郎が呼込や否や油屋の見世へ
躍り
上りたり
其體赤銅造りの
強刀を帶し
段織小倉の
大縞なる
馬乘袴を
穿ち鐵骨の扇を持て
腕捲りなしたる勢ひ仁王の如き有樣ゆゑ番頭久八
[#「番頭久八」はママ]アツと云て
奧へ
逃入んとするを半四郎は腕さし
伸して久兵衞の
首筋引掴み忽ち其所へ
捻伏玄翁の如き
拳しを
振上久兵衞が面體を二ツ三ツ打叩く故久兵衞は大いに恐れ何卒御免下され
御侍士樣何ぞ命ばかりは御助け下さりましと
只管詫入を後藤は猫の仕置をするやうに鼻づらを
疊へ
摺付々々己れが此店の久兵衞とか
云奴か
汝番頭の身を以て
大膽不敵にも亭主が馬鹿なりとて主人の
嫁へ不義を
仕掛る
人外者めと又々鼻づらをこするゆゑ御免々々と
泣叫くを是
能聞け汝は主人五兵衞とやらと兩人して
嫁のお秀へ不義を仕掛るは主從共
揃ひも揃ひし
畜生ども
因て嫁のお秀も
居耐れず終に
逃出せしなり夫に
奚ぞや親亭主を見捨て
駈出したる女故離縁状を出されぬの持參金道具迄も渡されぬなどとは
極惡不道の申分只今持參金の百兩衣類諸道具へ離縁状を
添て出せ
若出さぬに於ては
汝れ
斯して
呉んと又々
拳を振上ければ久兵衞は兩手を上げアヽ
何卒御勘辨下されよ
仰の通り持參金も離縁状も殘らず差上申べし
何卒御助け下さる樣
偏へに願ひ奉つると涙を流して
謝まるにぞ後藤は
漸々勘辨して遣はさんと云ながら引起しよく/\顏を見たりしがはて
汝れは
何處でか見た樣な奴オヽ
夫々片小鬢の
入墨にて思ひ出したり汝は/\不屆なる奴と
白眼付られ久兵衞は再び
驚き何とぞ御武家樣
御慈悲を願ひ奉つると何か樣子有氣に疊へ
天
[#ルビの「あたま」は底本では「あまた」]を
摺付々々
詫入つゝ持參金の儀は此節店の都合も御座れば二三日御待下さるべし荷物并びに離縁状の處は兩主人歸り
次第申
聞今晩にも直に御宿所まで持參仕り候はんにより
呉々も是までの
不都合御勘辨下さる樣
偏へに/\願ひ上奉つると
震ながら
平蜘の如くになりて申ゆゑ後藤は
稍言葉を
和らげ然らば
屹度間違なく馬喰町二丁目武藏屋長兵衞方へ持參せよ
若又
違約に及ばは
直樣汝を
引連訴訟するぞ
急度間違へなと申先是にて
概略極りしなり
率皆々歸るべしと後藤は立上るに三人も
倶に出立しが
仲人佐兵衞へ別れを告げ
馬喰町を
指て歸りける
扨道々長兵衞八五郎は後藤に向ひ彼の久兵衞と云ふ奴は先生を見ると大いに
肝を
潰せし樣子にて
無闇に手を合せて
御慈悲々々と
謝まりたる
可笑さよ尤も先生の勢が
凄じいゆゑ誰も先生の顏を見ると恐るれども別して
彼奴は色
蒼然て
慄へ出せしが何でも先生を知つて居る樣子何れ
譯のあることならんと云ふ半四郎は
聞て夫は
其筈なり某し先年國へ歸る時東海道
戸塚の
燒餠坂より
[#「燒餠坂より」はママ]彼奴が
道連になりし處其夜三島の宿へ泊りしに拙者の
寢息を考へ
胴卷の金を取んとしたる
騙子なり其時
彼奴を
引捕へしに宿屋の者ども寄集り
片小鬢の毛を引拔て
入墨をなしたるなり因て某し彼奴を
戒しめ以後惡心出しなら其の入墨を
水鏡に
映し見て心を改めよと云て逃し遣はしたる奴なれば
拙者が顏を見るや
否や
肝を
潰したるはず
廻り/\て今日又拙者に再會するとは因果な奴なりと久兵衞が
舊惡を
咄しかば長兵衞八五郎は
始終を聞て扨々
然樣なるか如何さま
渠が
小鬢に半分
眞黒に入墨をしてありしが
飛だ
不屆なる奴先生が御出下されしゆゑ
早速埓が
明しなり彼奴先年の
舊惡を云れては
堪らぬ故夕方までには
屹度離縁状を持て來るに
相違なし先には大きに
案じ先生が
正直の心より又如何なる
騷動が出來樣かと思ひしに斯して見ると先生を
御連申ただけもつけの幸ひ
案じるより
産が安いとは此事なるべしと
道々話し
乍馬喰町へぞ
歸りける是より長兵衞長八は
相談して大橋文右衞門の一件を
證人になりて訴へ出んと願書を
認め掛るに後藤半四郎も是を聞き長兵衞殿
拙者の名前も書入られよ
然すれば
引合ゆゑ御呼出しになるに違ひなし其節奉行所にて久兵衞が
舊惡を申立
吟味詰を願はゞ百兩の
盜人も大方番頭久兵衞の仕業に
相違有まじ又貴樣は
公事宿の商賣柄
拙者が事は兄弟とか親類とか云て名前を書加へられよと申に長兵衞
畏まり候と
其處は
馬喰町にて八十二
間組の公事宿だけあれば筆を
揮つて願書を
認ため直に
翌朝南町奉行大岡越前守殿へ
訴訟出しかば越前守殿には願書を取上になり
追て
沙汰に及ぶとの事にて其日は下られけり扨又山崎町なる油屋五兵衞の番頭久兵衞は今日
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、497-10]らずも
寶珠花屋八五郎の娘お
秀が
離縁状の一件に付後藤半四郎に
再會して大いに驚きしと雖も先々離縁状を馬喰町へ持行後藤先生に
慈悲を願ひて以前の惡事を云はれぬ樣に
頼まんと思ひ
若旦那五郎藏が奉行所より歸るを今や/\と
待居たり此番頭久兵衞は
大膽不敵なる奴なれども今後藤に舊惡を云るゝ時は己油屋の店に居る事ならず因て早々
離縁状を出して此一件は掛り合を
免かれ而して文右衞門へ
言懸りし百兩は何所までも申張て
渠に
被せ
己れは
其儘ぬく/\と油屋に居る
了簡なり然れば半四郎長兵衞長八の三人が大橋文右衞門の爲に
證人となりて奉行所へ訴へ出し事は神ならぬ身の
夢にも知らず是
天罰の然らしむる所にして久兵衞が
極惡露顯の小口とこそはなりにけれ扨も
享保五年三月五日油屋五兵衞并びに同人家内は
奉公人に到るまで一人も
殘らず呼出しと相成しかば家主五人組一同
差添奉行所へ
罷出るに程
無白洲へ
呼込になり願人相手方とも
居並びし時に大岡殿
出座有て
吟味にこそは及ばれたり此大岡殿は
吟味の
節何時も目を
眠りて居られたりと昔し足利家の
御世名奉行と世に
稱へたる
青砥左衞門尉藤綱も
訴訟を
聽時は必らず目を眠りて居られしとぞ夫は又何故と云に
假令いかなる名奉行にても元來
凡人の身なれば其人の顏色を見て
愛惡の心生ずるは是人情なり然すれば知らず/\
依顧贔屓の
沙汰にも成ゆくにより心に
親疎のなきやうにと
眼を
眠りて訴訟を聽れたりとぞ何さま
容貌ち
優にやさしく見えると雖も心に惡を
巧む者あり又顏色
蓬ろにして恐ろし
氣なる者も心は
實に竹を
割たる如き善人あり或ひは言葉を巧みに人を罪に落とすもあり又
己十分の理を持ながら
訥辯の爲に言伏られて
無實の
罪に
陷るもあり
其善惡を
糺されるは
表眼を眠り
心眼を以て是を見る時は其
邪正自然に感ずると云ふ
偖大橋文右衞門一件
關り
合山崎町
質渡世家持五兵衞并びに同人家内の者奉公人に至るまで一同
呼出しになりし處此の番頭久兵衞のみ
名前之なきに
付彼一人は
留守をして家に殘りし
也是は大岡殿深き
思慮あるが故に久兵衞一人は
故意と差紙に名前を
載ず外の奉公人を
呼出して久兵衞が平日
身持の樣子を
聞糺さんとの事なる由
時に越前守殿白洲を見られ下谷山崎町家持五兵衞
悴五郎藏其方
年は
何歳になるや
又妻はあるかと尋ねらるゝに五郎藏はひよくりと
天窓を
上じろ/\
四邊を見廻しながら私しの年は
慥か廿二歳ばかりにて
妻は御座りましたが私しを
嫌ひ
此間御出やりましたと
自他も分らぬ事を一向
恥る
景色もなく云ければ越前守殿は
微笑まれ是は餘程
拔作なりと思はれし故
其儘にして若い者重助へ向はれ其方年は
何歳になるや
何頃より五兵衞方に奉公致し
居るか
有體に申立よと云れしに重助はハツと答えて私し儀當年廿二歳にて
幼少の時より五兵衞方へ參り
最早十年程相勤め
罷り在候と申を大岡殿聞れ大分其方は
神妙者と見える昨年より當年へかけ
傍輩の
中に
暇を取て
下りしと云ふ者か又は
不首尾にて
暇を
遣しとか何か五兵衞方をいでし者はなきやどうぢやと有に重助ヘイ當六月中
迄七年ばかり
勤めし
傍輩に藤助と申す者御座りしが
眼病にて
下りしもの其外には
出ました者は一向御座りませんと申しければ越前守殿なるほど其の藤助は今以て歸參は致さぬか
未だ
眼病を
煩ひ
居るやどうぢやとあるに重助
御意の通り今以て眼病にて
惱み居りますと申せば大岡殿其藤助が
家内の樣子は
何ぢや兩親はあるか又渡世は何をして居るや存じ居らば一々申立てよと云はるゝに重助ハイ
兩親はなきとのこと藤助の
妹が一人御座り年は十九歳ばかりにて未だ
亭主も是なき
由なりと申しければ大岡殿其者は人の世話にでもなりて居る樣子かと申さるゝに重助は
困りし
面色にて
其樣は一向存じませぬと云ば大岡殿汝は傍輩の
事故病氣
見舞に
行しならん夫れとも見舞には行ぬか
何ぢや少しにても僞るに於ては其方の爲にならぬぞコリヤ主人五兵衞並に悴の五郎藏などは
見舞に
行たで有うどうぢやと云るゝに重助
否私し共も主人も參りし事は一度も御座
無併し番頭久兵衞は
折々見舞に參り候と申せしかば大岡殿
左樣かと申され此事を
手帳へ
留置れたり又若い者の喜七に向はれ其方
生國は
何國にて年は何歳なるやと尋ねらるゝに喜七私し生國は下總國
行徳にて年は十九歳也と答へ夫れより越前守殿は松三郎金藏下男彌助に至る迄
何れも生國
歳等を
聞れ
好々下れ/\と申されければ皆々
白洲を
出て
腰掛へ
下りたり此時
漸々十歳ばかりに
成[#ルビの「なる」は底本では「なり」]小僧の三吉と云ふ者有りけるが主人五兵衞始め
此所へ
出し人々吟味の
濟次第一人づつ段々と
下りて今は主人の悴五郎藏と
己のみ只二人白洲に殘されければ
心細くやありけんめそ/\と涙を流して
泣居るに
[#「泣居るに」は底本では「汝居るに」]大岡殿三吉を見らるゝに
如何にも
物賢こく
利口さうなる小僧ゆゑ此者を
欺て
能々聞糺さば百兩の盜賊も知れるに相違なしと
最初より目を
着られしかば斯の如く
後へ廻されしなり
然れば
先再び
馬鹿子息五郎藏を
糺さんと思はれ越前守殿コリヤ五郎藏其方の
妻は何故
汝が
家を
出しや又當人は親類中より參りし者かと申さるゝに五郎藏
否親類から參つたのでは御ざりませんが一
所に
寢るのが
嫌ひで
御出やりました
貰つたから親類で有りましたが出て行けば他人でござりますどうぞ御奉行樣私しの
内儀を
御歸し下さる樣偏へに御願ひ申ますと
眞面目で云ふゆゑ
居並びし役人共一同笑ひに
耐兼眞赤に成て居るにぞ越前守殿も
笑はれながら
好々御威光を以て近々に
取戻して遣はさん
而又其方は家内にて
怕ものは誰なるやと尋ねられければ五郎藏ハイ私しの
怕者は番頭の久兵衞でござります毎度私しを
恐ろしく
叱り
付たり
怕眼で
白眼ますから久兵衞ほど
怕者は御座りません夫れに
引替若い者重助は誠に
好者にて若旦那々々々と云て大事にして
呉ますと申すに越前守殿夫れにて分つたり
下れ/\と申されしかば私しの
御内儀さんは
呉々も
御歸し
下さいましと言つゝ白洲を立て下りけり
跡には彼の十歳ばかりなる三吉小僧のみ
彌々一人殘され
其上早日は
暮て白洲へは
灯りがつき
四邊森々として
何とやら
物凄く成しかば三吉は聲を
揚て
泣出すゆゑ越前守殿は
言葉靜にコリヤ/\三吉
最少と前へ出よ何も
怕事はなし
泣な/\サア/\
好物を遣はさうと
饅頭を紙に
載て與へられ是を
喰よ/\手前は一番利口者オヽ
賢い奴だサア
遠慮せずに
喰よ/\と申さるゝに
其處は子供ゆゑ
菓子を見ると
直樣莞爾々々しながら
押頂きて
懷中へ
仕舞ふ
故大岡殿コレ/\小僧
其處で
喰よと言はれしかば三吉ヘイ有難う御座いますが
家へ
持て
行番頭
樣に見せてから
喰ないと
叱られますと申すに大岡殿オヽ
然樣か手前は
利口者だサア夫れなら今一ツ遣はさうと此度は自身に
縁側まで
持出られ手渡しにして
直に
喰よ/\と申されしに三吉は
彌々莞爾々々として
饅頭を
喰居るに越前守殿
何だ三吉其方の年は
幾歳になると聞れけるに三吉は早少し
馴染の
付し
體にてハイ私は當年十歳になりますと答へければオヽ十歳になるか
能答へが分る
至極温和い奴ぢや
今尋ねる事を一々申立よ
素直に云ば
家へ歸して
遣る
又虚を云ば家へも歸さず
宿入にも
遣ぬぞよ三吉其方は番頭久兵衞の
供をして車坂の藤助の家へ行たであらう
公儀では
能御存じなるぞと申さるゝに三吉は成程
時々久兵衞樣の供をして參りましたアヽ御奉行樣には能知て御出でなさいます私しは
家に居るより
供をして
行方が
餘程能御座いますアノ久兵衞さんが
何時もと違つて藤助さんの所へ
行時には
莞爾々々して
饅頭だの
羊羹だの又錢だのと
種々[#ルビの「いろ/\」は底本では「いみ/\」]な物を
呉ますし其上
供の時
計りは久兵衞さんが少しも
叱りません家に居ると毎日々々
叱られて
計り居りますと云ひければ越前守殿も
莞爾々々されながら
然樣か
能其方は
咄しが分る
夫から番頭の供をして藤助の處へ
行と番頭は何をして居ると尋ねらるゝに
小僧アノ藤助さんの
方へ
行と久兵衞さんは
直に二
階へ
上りお
民さんと云ふ
美麗姉さんと何だか
咄しをしてお
出なされます其時は
何時でも久兵衞さんが私しに山下へ行て源水でも
輕業でも見て
來いと言て錢を五十文か百文づつ
呉ますから私しは山下へ
行遊んで來ては又供をして
家へ歸りますと云ひしかば大岡殿成程
然して又其
眼病で
下つて居る藤助は何をして居ると
問るゝに小僧ヘイ藤助さんは下の
火鉢の
傍に居て色々な面白い
咄しをしたり
甘い物などを
呉ますと云ば越前守殿
然樣か其藤助の
家は車坂の通りにて右より左へ
行好所だらうなと申されしに小僧
然樣さアノ大井戸より左の方へ行くと
水菓子屋の
裏でございますと云ふを大岡殿
然樣よ/\其大井戸の
先で有るだらう
抔申さるゝに小僧オヤ御奉行樣には能く御存じで
御出なされますと驚くを大岡殿ムヽ三吉其方は利口者なれば
家へ歸つても今云し事を決して
誰にも
咄すまいぞ
若咄すと又々呼び出して今度は歸さぬぞよと有るに小僧は
平伏なし決して申しは致しませんと答へければ大岡殿
夫で
好サア歸れ/\と申さるゝを聞き小僧三吉は
發と
息をつきて白洲より出で來り夫れより
腰掛へ行きけるに皆々打より三吉手前一人
跡に殘つて
嘸怕つたらう何を御奉行樣が御聞き成れたと問ひければ三吉は内心に
爰だと思ひ
只何歳になるの
家は
何所だの父や母は有るかのと御聞なされたる
[#「御聞なされたる」は底本では「御きなされたる」]計りなりと云ふゆゑ皆々
然樣であつたかと
隱すとは心も付ずサア/\
餘ほど夜も
更たれば急ぐべしと一同
揃ひて山崎町の油屋へぞ歸りける
扨又番頭久兵衞は今日文右衞門の一件にて五兵衞始め一
同呼出されしゆゑ
流石の
惡黨も
如何成行やと
竊かに心配なし居たる折柄
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、501-13]らず後藤半四郎入り來り
退引させずお秀の離縁状は
取れる事になりしかば若旦那五郎藏歸り來らば早々離縁状を
認めさせ馬喰町なる半四郎の方へ
持行んと思ひ居たるに
漸々夜に入りて一同歸り來りしゆゑ久兵衞は
脛に
疵持身なれば
斯間の
惡き
機には御奉行所にても何か
面倒なることありしならんと思ひ離縁状の一件は
後になし
直樣家主吉兵衞方へ行き
今日御番所にて御尋ねの一件は
如何なる儀にやと聞くに吉兵衞は
家の者に聞けば
直樣分る事を
故意々々此所まで聞に來る事もないと思へば私しは
差添なれば皆々の
後に
居たるゆゑ何の御尋ねやら一向に聞取れずと云ければ久兵衞は是非なく
立歸り
店の重助喜助松五郎
[#「松五郎」はママ]金次等に聞けるに皆々只油屋へ
何時頃奉公に來て
歳は
幾つだと云ふ御尋ねばかりにて外には何も
仔細なしと云ふを彼の
馬鹿息子五郎藏は
莞爾と笑ひながら
己は
嬉い事がある女房お秀を取返して下さると仰せられ誠に
優しき御奉行樣なりと
一人悦び居たりけり又小僧の三吉は白洲へ一人
取殘され
泣しと云て皆々に笑はれたる
故家へ歸るや
否や
店の
隅に
小さく成て居るゆゑ番頭久兵衞は三吉を呼び手前
一人跡に殘されたと云ふが御奉行樣が何を御聞なされたか
咄して
聞せよと
云共大岡殿より
豫て
口止めありしかばさらに物を云ず
默止居るにぞ久兵衞は
急込ヤイ三吉何を申し
上たるや己れ云はざるに於ては
斯するぞと
頬を
爪捻尻を
爪捻種々にして
責問ども一向に云はざるゆゑ久兵衞扨は此小僧めが車坂のお民の一件を申し
上たるに相違なしと
察しければ
此上押ても聞ず夫よりは
先五郎藏に
咄して離縁状を認めさせ早々
持て
行ねば後藤が又々
踏込で來たると云しかば是は
差當つての難儀と思ひ若旦那々々と二
階へ連れ行き
扨外の事にてもなく今日
御前さんのお留守にお秀さんの
伯父なりとて後藤半四郎と云ふ浪人者が來り
斯樣々々の掛合になり是非離縁状を出せとの事なるが
若遣ずに置けば大變な
騷動に
成行ゆゑ早々
去状を
御書なされと申すに五郎藏は甚だ不承知なる
面にて
返詞もせざれば久兵衞は
種々に
説勸むると雖も五郎藏は却て
腹を立て今日御奉行樣がお秀を
取戻して遣はすと仰せられた故離縁状は
何樣しても
書ずと云ふに番頭久兵衞は甚だ
困り
果否然樣なる事を云はれたとて離縁状を
遣ずに置けば今にも後藤半四郎が來るに
違ひなし
然すれば家内中
鏖ろしにすると云て歸られたり
劔術遣ひの浪人なれば
勿々切り
兼は致すまじ又お秀ばかり女にてはなし私しが
外に
美しい女を
嫁に
貰ひて
上ます程に是非とも去状を御出し
成れと
威しつ
賺しつ
漸々の事にて離縁状を認めさせ是を以て早々馬喰町なる武藏屋長兵衞の方へ到り後藤半四郎に
對面して去状を渡し持參金の百兩並びに道具類は何卒兩三日の間御待ち
下さるべし
然すれば相違なく御渡し申さんと半四郎へ
呉々約束して立ち歸りしが久兵衞は道々心に考ふる樣今日三吉めが車坂の一件を御奉行所へ申し
上たる樣子ゆゑ
兎も角も惡事の
顯れ
口になりたり
然れば
所詮斯しては
居られず何でも足元の
明るい
中に
高飛をするより外に思案はなしと
忽然元の惡心を
起し其夜家内は
寢鎭まり
良丑刻半[#ルビの「なゝつはん」はママ]共思ふ
頃不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、503-2]起出で
豫て勝手は知りしゆゑ
拔足さし足して奧へ忍び行き
佛壇の下より三百五十兩の大金を盜み
出し是をば
胴卷に入れて
確と
懷中にて
縛り夫れより又土藏へ忍び入り
質物の中にて
何れも金目なる小袖類を盜みとり
風呂敷に包みて
背負傍邊に在りし
鮫鞘の脇差を腰にぶつこみ猶又
拔足差足をして裏口より忍び出で
草鞋を
履て
逃去んとする時馬鹿息子の五郎藏が小便に
起戸惑ひなしつゝ
暗紛れに久兵衞へ
突當りしかば久兵衞は驚きながら
透し見てモシ若旦那
御靜かに成れましと云ば五郎藏も大いに驚きヤア貴樣は久兵衞か
草鞋を
履て今より何所へ
行のだと聞れて久兵衞は
南無三寶見
咎められしか
最早斯なる上は是非に及ばず
毒を
喰はゞ
皿までと腰なる一刀拔くより早く
聲立させじと五郎藏が口の中へ
突貫し二ツ三ツ
[#「二ツ三ツ」は底本では「二ツ二ツ」]刺りしかば五郎藏は七轉八倒なすのみにて
其儘息は
絶果たり
頓て久兵衞は一刀を
鞘に納め
周章狼狽五郎藏の
死骸を
庇間合へ
捨置て
早足に
逃出し手拭ひにて深く
頬冠りをなし
膽太くも坂本通りを逃行く
機から向うより町方の定廻り同心手先三人を
連吉原より返りと見えて
此方へ來るゆゑ久兵衞は
仕舞たりと思ひながら
早足に
軒下へ廻り
天水桶の
蔭へ隱れんとする處をソレ怪しき
曲者召捕と聲の下より手先の者三人
破落々々と立懸り上意々々と云ながら取て
押へ忽ち
繩をぞ
懸たりける因て久兵衞は
逃損じたりと思ひながらも
遁るゝだけは
云拔んと何卒
御免し下されよ私しは決して怪しき者に候はず
偏に
御勘辨を願ひますと云ば手先の
者何だぐず/\云ふ事たアネヘ貴樣は怪しい奴に
相違ない夜中
無提灯にて
其樣な大包みを
背負形容にも
似合ぬ
鮫鞘の
脇差をさし是は大方
其處らで盜み來りしならん殊に
草鞋を
履是れ
何しても
泥棒と云ふ
看板を掛て居る樣なものだサア此方へ來いと直樣坂本の自身番へ引上しに出役岡村七兵衞
馬籠藏十郎の兩人
控へ居る前へ久兵衞を引き
据て
先雜物を改るに質物と見え
皆質札の付たる
儘にて大風呂敷に一包みあるゆゑヤイ
汝は
何れの者ぞ尋常に申立よと有りしかば久兵衞は
俯向居たりしが
首を
上私しは山崎町油屋五兵衞方の番頭を
勤め久兵衞と申す者にて何も決して
怪しき者には御座なく候と申すに
馬籠岡村の兩人此包みは如何致したる品なるやと尋ねければ久兵衞は
拔らぬ
面にてヘイ是は
下質へ
下に參る品で御座りますと云ふに兩人ナニ下質へ
下に
行かとコレ
宜加減な
虚を
云夜中
草鞋懸にて
下質へ
下に
行奴がある者か
爰な
不屆者め
有體に白状せよ
眞直に申立なば
公儀にも御慈悲が有ぞと云つゝ久兵衞の
脇差を改めるに
鮫鞘にて
縁頭其外立派なる
腰のものなれば
中身を
見と
拔放ければ
鍔元より
切先まで
生々しき
血汐の付
居にぞコレヤ
汝は大膽不敵なる奴かな是が何より證據なり
何處で人を殺し
夜盜をして來りしぞ尋常に云て仕舞へ
何で
汝が
命は
無者だ
幾ら隱しても
遁れる
譯には
行ないぞコリヤ町役人油屋五兵衞を呼出すべしと云ければ
畏まり候と町役人走り行き油屋の
表を
叩けれども今日は奉行所へ一同
罷出勞にも
熟寢こみ居て何分
起出ぬゆゑ裏口に廻り見るに如何さま久兵衞が逃出したる所らしく戸など
明放しありしかば
家へ入て家内の者を起し
此方の番頭久兵衞が
今自身番へ
上られたるに付五兵衞殿を起して
呉よと云ふに夫はと云て家内皆々
騷ぎ立て五兵衞を起しければ五兵衞も驚き
何にしても大變なりと
考へ
居る中町役人共は
若い
衆若衆内々に
怪我人はなきか改め見よと云ふに一人の若い者若旦那の五郎藏樣が御見えなされぬが
何所へ
御出なされしやと申すに一同
何樣是は不思議と云ふを聞き主人の五兵衞は
出來りナニ
悴がみえぬと夫れは
何所へ行たかと家内中を
探せ
共一向に
影も見えず
猶隈なく
探し
求むる
中裏口の
庇間合に五郎藏が倒れて居たりと
大聲揚て呼はるゆゑ夫れと云て
手燭を
照し
行て見るに口中を
刺られ
朱に
染みて居りしかば是は大變々々と
云聲に親父の五兵衞も
駈付て五郎藏が殺されたりとは夫れは
如何せし事ぞと死骸を見てヤヽ是はと
尻餠を
搗起る事もならず
悲むにぞ家内中上を下へと騷動しける所へ坂本の自身番よりは矢の
使ひにて御役人が
御待兼なり五兵衞殿を早く連て
來られよとの
事成ども五兵衞は
悴を殺され心
顛倒して
只其處よ
此所と
胡亂つき居けるゆゑ町役人は
叱り
付自身番[#ルビの「じしんばん」は底本では「じしんだん」]へと
急ぎけり
却説油屋五兵衞は町役人に
伴はれ坂本の自身番へ
到りしに
豫々心を
緩して
召仕し番頭久兵衞は高手小手に
縛められ居たるゆゑ五兵衞は久兵衞を見るや
否や
汝は/\
人面獸心なる奴かな五年
以來目を懸て遣はしたる恩を忘れよくも
悴五郎藏を
突殺し金銀質物を盜み出せしよな悴の
敵思ひ知れやと云ながらも
飛懸りて
押伏んとするゆゑ役人は聲をかけコリヤ/\五兵衞
控へ
居れ此方にて
召捕たる罪人を
手込にせんとは不屆なり愼んで此方の調べを
受よと
叱り
付るに五兵衞はハツと心付是は
實に恐れ入り奉つる
彼奴に悴を殺されたる無念の餘り御役人樣の御前をも
忘れ
不禮仕つり候段
眞平御免下さるべしと云ば役人聞て
夫は不便の儀なり
而又其手續きは如何なる事ぞと尋ぬるに五兵衞
渠は私し方へ五ヶ年以前より奉公に參り
至極實體に勤め
居ますゆゑ年頃も相應に付き番頭に
取立店の事ども
任せ置候處今宵悴五郎藏を殺害仕つり金子三百五十兩を
盜み
取猶又奧藏へ忍び入り質物品々並びに
脇差一
腰を
持出し候やに存じられ候へどもいま
確と取調べ行屆き申さず候と云ひければ其段久兵衞を
糺すに同人も
今更陳ずる事能はず
今宵の事共白状なしけるにぞ一々
口書を取り翌朝町奉行大岡越前守殿役宅へ
送りに相成たり是に因て油屋五兵衞よりは右の始末を
巨細に認め五郎藏の
死骸檢使を願ひ出でけるに早々役人來りて
死骸を改ため五兵衞始めの
口書を取り大岡殿へ差出せしかば大岡殿此久兵衞は
浪人文右衞門が
豫て
關り
係の者なればとて
直樣白洲へ呼出され調べにこそは
懸られけれ
然れば久兵衞は
繩付の
儘砂利の
上に
蹲踞まるに大岡殿是を見られ下谷山崎町
家持五兵衞召仕ひ久兵衞其方生國は
何國にて年は
何歳なるや
又何頃より五兵衞方へ奉公
住致したるや有體に申立よと云はるゝに久兵衞私し生國は
上總國東金にて五ヶ年以前より五兵衞方へ奉公
住致し
居歳は當年四十二歳に相成候と申しければ越前守殿
而て又其方
如何成所存にて五兵衞の悴を殺害致したるや
且又金子三百五十兩並びに質物品々
脇差等迄盜み取りたるに相違なきやと有るに久兵衞は
今更遁れぬ處と
覺悟を
極めしかば仰せの通り
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、505-17]出來心にて金子質物等を
盜み
逃出さんとせし
機五兵衞悴五郎藏に
見咎められ候間
據ころなく殺害致し
立退申候此儀は全く出來心に付何卒御慈悲に
命ばかりは御助け願ひ奉つり候と
然も初心らしく申を越前守殿
此奴勿々横道なりと思はれコリヤ久兵衞其方は去年極月中旬浪人文右衞門事五兵衞の店にて百兩の金を
盜みたりとの言懸りは是れも其方が
仕業なるべし有體に白状せよと申さるゝに久兵衞
心の
中に今度の事は
其節五兵衞と
突合になり一旦白状したれば今さら
爲術なけれども百兩の金は
何所までも文右衞門に
負せ
渠をも
倶に殺さんと思ひしかば恐れながら此度の儀は御尋ねの通りに
相違御座なく候へ共百兩の金は文右衞門が
盜み取りしに
違ひ御座なく候と申しければ越前守
否汝は
然樣申せども文右衞門の
人體盜賊などすべき者に非ず其は全く馬喰町なる紙屑屋長八より遣はしたる金子にて
質物を
受出したりと申す此儀相違なく聞ゆるぞ
眞直に白状致せと有るに久兵衞ナニ其者は長八にては是なく新藤市之丞と申す
紙屑買の由に御座候
併し同人の住所を尋ね候處知れざる
由を申し金子の出所不定に御座候
間百兩の金は文右衞門が
盜み
取しに相違御座なく候と
云張しかば越前守殿
聲高によく承まはれ
汝は何程
辯を
巧みに
陳じ
僞はる共此方には
慥かなる證人あるぞ證據なきことは
強て
問糺さず如何程に
強情を申すとも
汝が一命は助かる事でなし
彌々陳じ
僞はるに於ては證人を
此處へ呼び出すぞ
何ぢや夫れにても云はぬかと申さるゝを久兵衞は
猶恐れず
假令誰が
出ましても存ぜぬ事は
何時までも存じませんと云ふに大岡殿コリヤ未だ其方は
強情を申か
扨々大膽なる奴かな
然らば證人を
呼出し引合せんとて下役へ
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、506-12]あれば武藏屋長兵衞紙屑屋長八の兩人白洲へ呼び込みになり
其所へ罷り出るを越前守殿見られ馬喰町二丁目武藏屋長兵衞
並に前名新藤市之丞
當時紙屑屋長八
其方
共儀此程
訴への趣き
今一應
其所にて申し立よ且又
去ぬる十二月中越後高田浪人大橋文右衞門へ尋ねの儀に付
紙屑問屋並びに屑買等一同呼出したる
節其方江戸内に住居致し
居しや又旅行留守中にてもありたりや其
仔細包まず申し立よと申さるゝに長八
愼しんで答る樣私し儀は元越後高田の藩中に候處今より十八ヶ年以前
若氣の
過まちにて同役の娘と不義に及び主家の法に依て一命をも
召さるべきの處物頭役大橋文右衛門の
情けにて助けられ廿兩の金子を
惠み
呉候を路用にいたし江戸表へ
罷り
出候節中仙道熊谷堤に於て
惡漢に
出逢ひ私し共夫婦一命も危き
機から讃州丸龜の浪人後藤半四郎と申す者に
救はれ猶又右半四郎より金子廿兩を
惠み
呉候て江戸表馬喰町まで同道いたし其後是に
控へ居り候長兵衛の
世話に相成
紙屑渡世を致し罷り在候處
去ぬる十二月中私し儀上野の大師へ
參詣の
途中上野車坂下にて大橋文右衛門に
廻り逢ひ夫れより同人宅へ參り樣子を尋ね候處文右衛門は八ヶ年以前
國表越後家浪人いたし當時は山崎町に
住居悉皆く
困窮零落に及び往來に立て袖乞を致し
漸々其日々々を送り候と申す事故私し儀甚だ氣の
毒に存じ十八ヶ年以前の
恩義を
報ぜんと思ひ一人の娘を新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎方へ身の
代金五十兩にて
年季勤めに遣はし右五十兩の中二十五兩を大橋の方へ持參仕り候處文右衛門儀
武士の
意氣地を立て一
旦惠み遣はしたる金子を今受取ては一分立ずと申して何分
請取申さず是に依て私し儀も
折角娘まで賣たる金を請取られざる事
實に本意なく存じ文右衛門が油屋五兵衛と申す質屋へ質物流れの
懸合に
出行候留守中
密かに煙草盆の中へ入れ置て罷り歸り候處是に
控へ居る長兵衛が兄の大病にて讃州丸龜へ參るに
付同道致し
呉よと申すにより
幸ひ先年
大恩受し後藤半四郎へも
謝禮旁々尋ねたくと存じ十二月十四日長兵衞私し兩人御當地を出立致し讃州丸龜へ
罷越候事に候へば
舊冬屑屋一同御呼出しの節は御當地に罷り在り申さず
漸々一昨日江戸表へ立歸り私し妻より
舊冬屑屋一同御呼出しの樣子を承まはり候に
付文右衛門の
安否を尋ね候處御
召捕に相成候由ゆゑ大いに驚き
取敢ず
今般御訴へ申上奉つり候儀に御座候
右故文右衞門質物を受出せしは全く私しより
相贈り候金子に相違之なく
勿々文右衛門儀盜賊など仕つり候者に候はず
何卒御慈悲を以て同人儀出牢仰せ付られ下し
置れ候樣偏へに願ひ上奉つり候と一
伍一什を殘らず申し立しかば越前守殿長八が
眞實を甚だ
感じられ
且は文右衛門夫婦の申す
口と少も相違せざるゆゑ
然もあるべしと思ひ
夫よりまた久兵衛に向はれ其方も今申す通り前名新藤市之丞當時
屑屋長八が申立たる通り文右衛門が
質物を受出せし金子は長八より
贈り遣はしたるに相違なしと申す
然すれば其方百兩の金子を盜み取り罪を文右衛門に
負せんとせしに相違あるまじコリヤ久兵衛よく承まはれ文右衛門が家内を
吟味せしに殘金十一兩
餘在りたり是を思へば文右衛門
盜賊でなき事は
明白なり
斯程に證據ある上は汝何程陳ずる共
詮なき事ぞ
痛き思ひをせぬ中に白状せよサア
何ぢや云ぬか
汝如何に強情なり共云せずには置ぬ
不屆なる奴哉と
白眼るれ共久兵衞は少しも恐るゝ
面色無假令文右衛門儀百兩の盜賊に御座なく候共私しは其金一向に存じ申さずと云ひ居たるにぞ
流石の大岡殿も扨々
強面奴なりと
惘れられしが
好々然あらば白状するに及ばず
汝に逢せる者有り驚くなとて
直樣車坂下六兵衛
店藤助並びに妹お民を呼出しとなる是は久兵衛が
圍ひ置し女なれば此二人の者出なば如何に
強惡なる久兵衞にても
最早陳ずる事能うまじと思はれたり然れ共久兵衛は
兎角己が
命はなき者と思ひしゆゑ百兩の一件は是非々々文右衛門に
負被せ
倶に
抱込で殺す
了簡なり
然る程に藤助並びに妹お民の二人は家主六兵衛差添にて罷り
出白洲へ平伏なすにぞ久兵衛是はと思ひしが此者兄弟出し
上は
露顯するに相違なしと心の中に思案を
極め猶も
工夫をなし居たり
扨も番頭久兵衛は種々事を左右に
寄百兩の盜賊は大橋文右衛門に
相違なき
旨申し立ると雖も大岡殿は
心眼を以て善惡を
見拔れ追々證人等も引合せらるゝことになりしかば
流石強惡の久兵衞も
巧みし事ども彌々露顯と
觀念なし居たり
然ば越前守殿の裁許は實に天眼通を得たりと云ふべし是も其頃の事とかや江戸神田鎌倉河岸に豐島屋十右衛門と
云名譽の
酒店あり
渠は
中興の出來分限にて元は
關口水道町の豐島屋と云ふ酒屋の
丁稚なりしが永々の
年季を實體に勤め上しかば豐島屋の
暖簾を
貰ひ此鎌倉河岸へ居酒屋の店を出せし處當時
常盤橋外通り
御堀浚ひ
御普請最中に
付渠が考へにて
豆腐の
大田樂を
拵へ是を居酒とともに
安價賣けるゆゑ日々大勢の人夫此豐島屋へ居酒を
呑田樂を
喰ひに來りしに
渠如才なき者なれば我身代に
取付は此時なりと思ひ
愛想能酒も
負て
酌ければ其の
繁昌大方ならず日毎に三十貫文餘りの
利潤を得て忽ちに大身代となりて酒店をも
開しかど
[#「開しかど」はママ]昔しを忘れぬ爲とて居酒の店は
其儘に商賣なし今以て繁昌致しけり此の者素より日蓮宗を
信仰なし己の
菩提所は
牛込の宗伯寺なりしが終に一
大檀那となり寄進の品も多く又
雜司ヶ
谷の
鬼子母神金杉の
毘沙門天池上の
祖師堂などの
寶前へ
龍越と云ふ大形の
香爐を供へ
何れも豐島屋十右衛門と云ふ
奉納の
銘あり是れ亦今以て存すと云ふ或日此豐島屋の店へ往來者大勢入り込み
例の如く居酒を飮居たりしが其中に年の頃六十餘と見ゆる
老人獨酌にて一二合飮て其後代錢は拂ひたれども酒の
醉廻りしにや
頻りに
睡眠居たるが
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、509-3]目を
覺し
蹌踉しながら一二丁程行し頃彼の老人
血眼になりて豐島屋の店へ立歸り最前
我腰掛居たる邊を
胡亂々々と何やら尋ねる樣子なりしが
側なる者に
對ひ私しは最前此所にて酒を
飮代錢は拂ひたれども心氣の
勞れにて思はず
暫時居眠り
眼覺て後此所を立ち出で途中にて心付懷中を見し處に大事の
財布を取落せり其の財布の中には命にも
替難き金廿兩入置たれば若
何方ぞ
御拾ひ成れし御方あらば何卒御渡し下されよとほろ/\涙を
飜しながら申しける故
在合人々
興を
醒し我々は財布の樣なる物は一向見掛けずと云けれ共尚ほも
五月蠅其處斯處と尋ね廻りける故
店の者共是を聞て此者は盜人か
騙りならんと思ひけるにコレ
爺殿貴殿が二十兩と云ふ金を取落したるとや夫は
夢にても見しならん
萬一實に落したり共此所の店にては有まじ夫れは外を
搜されよ
斯見た處が二十兩は
扨置二兩の金も持るゝ樣な
人物ならずと散々に罵りければ老人は
首を
振然言るゝは
道理なれど其金子には仔細ありと云ふをも聞ず大勢の若い者
此爺めは我等が店へ
難題を言掛る
騙なりとて一同立掛り
打擲して表へ
突出しければ大聲揚て
泣出し如何にも皆々疑はるゝは是非なけれど私しは
搖り
騙りをする樣な者にては決して之なしと
種々申し譯をなせ共皆々聞入れず早々立去べしと
追遣るにぞ老人は是非もなく/\
涙を
拂ひすご/\立歸らんとなしける處に此豐島屋の向うを
立場として日
毎に出て居たる
駕籠舁あり今日も此處にて往來の客を進め居たりしが今老人の
突出されしを見て餘りの
勞はしさの儘彼の老人を
小蔭へ
指招き
其許は
先刻豐島屋にて酒を飮歸りし跡に何かは知ず
木綿の財布らしき物落て有しを店の若い者
拾ひ取り
何處へか隱せしを我等
彼所にて能く見屆けたり其品は正しく
其許の財布ならん
然れ共今の如く
其許を打擲致す程の次第なれば今と成ては
勿々直素直には出すまじけれ共餘り
其許の
勞はしさに此事を内々知せ申すなりと云ければ老人は是を聞て力を
得扨々御親切
忝じけなし私しは本所松坂町に住む七右衞門と申す者なるが其金の譯と云ふは我等女房三年越の大病にて
打臥居り惣領の
悴は
風眼にて
種々療治致せ共當春よりとう/\兩眼共
潰れ何共詮方なく我等は老年に及びし
上重病人に掛りて商賣等も致さず益々困窮に
迫り今日を
凌ぎ兼るより
種々工夫致せ共外に手段もなきまゝ家内相談づくにて
不憫ながら一人の娘を吉原角町の
海老屋へ勤め奉公に賣渡し身の
代金二十兩血の涙にて受取持歸る途中餘りの
悲しさに
胸の
塞りしまゝ
切てもの
憂晴しと豐島屋へ立寄て一合飮しに心氣の
勞れより我を忘れて
暫時睡眠不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、510-5]目を
覺し立歸りしに財布の見えねば南無三と取て返して
探せし處只今の次第ゆゑ此上は親子三人
飢死より外なしと覺悟致せしと涙を
拭々語りければ
駕籠舁は始終を
聞彌々氣の毒に思ひ此事に於ては我等證人と也申すべきにより急ぎ御奉行所へ願ひ出で申さる
可しと云にぞ七右衞門は
最嬉く
直樣彼の
駕籠舁久七を同道して南町奉行所へ訴へ出でたりけり
然ば
訴訟所にて一通り尋ねの
上白洲へ呼び入れられ大岡殿
出座あつて七右衞門并に
駕籠舁久七の申す
旨を
篤と聞れ其儘兩人とも
留置れ急ぎ豐島屋十右衞門へ差紙にて早々罷出づべき旨
達しられければ豐島屋にては大いに驚き何事ならんと主人十右衞門は心も心ならず急ぎ御番所へ出る處に
早速白洲へ呼び入れられ大岡殿は十右衞門を見られ
今日其方
店先に金子の落し物はなかりしやと尋ねらるゝに十右衞門は
首を
上私し儀今日他出仕つり只今歸宅の處へ御差紙に付留守中の儀は未だ承まはり申さず候間御尋ねの趣き罷り歸り店の者共を
篤と
吟味仕りし
上御
請申し
上べしと申しければ大岡殿願ひ人七右衞門并に
駕籠舁久七を呼ばれ七右衞門の落せしと云ふ金子は如何樣の財布へ入れ
置しやと
問るゝに七右衞門は
斯樣々々の
縞柄なりと
其模樣を
委細申し立てける時越前守殿大聲にソレ其者共を
縛れよと下知に隨ひ同心立ち掛りて七右衞門久七の兩人を高手小手に
縛めたり
斯りし程に兩人の者共大いに驚き是は
何故と
嘆きければ越前守殿
呵々[#ルビの「から/\」は底本では「とら/\」]と笑はれ
盜人猛々しとは汝等が事なり其金子は此間
盜まれし者有て
疾に此方へ訴へたり然るを知らずして訴へ
出たる事是
天罰なり依ては汝等其金を
盜しに
相違なしソレ
引立よと申さるゝにぞ同心
直樣引立假牢へぞ入れたりける其時越前守殿十右衞門に向はれ今其方承まはる如く右の金は
盜み物なり日々其方店へは大勢入り込む
事故萬一落て有るまじき物にも非ず能々吟味致し今日中に申し出づべし捨置て若後日申し出るに於ては
其罪重く盜賊の
同類たるべし家内の者共
屹度穿鑿を
遂早々
否やを訴へよと
嚴敷申渡されしかば豐島屋大いに
怖れ早々立歸り手代始め一同
呼出し今日大岡樣
斯々仰せ渡されたれば萬一右の金子を拾ひしものあらば隱さず申し出よと言渡しけるに若者のうちに一人
發規と
返詞をせざる者ありしが
稍あつて此者申すは先刻掃除を致し候處
隅に財布樣の
物是有し故
拾ひ置き候とて差し出せしかば改め見しに金二十兩入て有しに付十右衞門は早速奉行所へ
持參なし右の段申し立て財布を
差出しけるに越前守殿最初
假牢へ入置れし兩人の願ひ人を
繩付のまゝ再び白洲へ呼出され其方共訴へ出し財布は
是成べしと渡され先に汝等へ
繩を
掛盜人
盜み物と云し故夫なる豐島屋大に驚き
騷ぎ早速吟味行屆て其金を出したり
然も無ては
押包み容易に出すまじと思ひし
故斯は
計ひしなり
偖々汝等
窮屈に有しならん
早繩を
解免し此金子を請取すべしと申渡されければ七右衞門久七の兩人は始めて其譯を
悟り
實に有難き仕合せなりと涙を流して喜びけり猶又大岡殿七右衞門を
呼れ汝が證人
駕籠舁久七は
奇特なる者ゆゑ
渠が親切にて其金汝が手へ
戻りしなり因ては二十兩の内十兩久七へ遣すべし其代りに汝が娘の勤め奉公の
苦難をば助け
遣さんコリヤ十兵衞
[#「十兵衞」はママ]と
呼れし時十兵衞
[#「十兵衞」はママ]は始終の樣子を聞て大岡殿の
頓智に
舌を
卷實に恐れ入て
冷汗を流し居たりしゆゑ急に答へも
出ず平伏するを大岡殿見られ其方知らざる事とは申ながら
其金子を
押隱し置しは下人共の不屆にして其方平生の申付方
行屆かざる故なり因て下人共儀
屹度御仕置にも仰せ付けらるべき
筈なれ共用捨致し遣す其代り七右衞門が
娘を早々其方請出すべし其上にて同人を
其方へ
屹度預くる間吉原勤め
年季だけは汝が方へ差置べし若此娘の儀に付
異變之有ば早速此方へ訴へ
出よと申渡されければ七右衞門は此事を
聞より
彌々有難く思ひ聲を
揚て悦び涙に
昏たりけり又豐島屋十兵衞
[#「十兵衞」はママ]は有難き仕合せ委細畏まり奉つるとて
立歸りしが此事番頭始めへ相談に及びし處右の女を
預る
儀は
迷惑千萬の事なり
生物の事故如何なる
異變あらんも
量り難し然る時は又
御咎めの程も知ざれば請出せし上何分にも願ひ上て娘を親元へ
引渡すより外に
了簡なしと評決して其段奉行所へ願ひ出でければ大岡殿聞屆られ親元へ相對に致すべき
旨申渡されしにより其段豐島屋より親元へ
掛合猶又
双方より
伺ひ
濟の上豐島屋より衣類其外殘る所なく支度して金子も
幾干か相添七右衞門方へ娘を送りたり
誠に
孝心の
餘慶報い來て
苦界を
遁れ
駕籠舁の實意を以て此事早速
裁許に相成り其上大岡殿の
當意即妙七右衞門娘の悦び
譬るにものなしと此頃此儀
專ら評しけるとかや彼番頭久兵衞は己が盜みし金を大橋文右衞門へ言掛り此七右衞門は己が
落せし金を言掛りなりとて打擲を
請其
事柄相反すと雖も
各自其
邪正を
洞察れし裁許天晴明斷と言つべし
扨又大岡越前守殿には文右衞門一件
段々吟味の
末下谷車坂町六兵衞
店藤助の兄弟を
呼出されしかば久兵衞は
彌々絶體絶命と
覺悟は
爲ものゝ又何とか
言拔んと心に
工夫をなし居たり時に大岡殿藤助に向はれ其方は油屋五兵衞方へ
何頃より奉公
住致し又
何頃眼病にて
暇を
取しやと申さるゝに藤助私し儀は十六歳の時より五兵衞方へ參り七ヶ
年相勤め候處昨年
春中より眼病を
煩ひ
勤め
兼候
故七月中暇を取て
宿へ下り
居候と云ければ越前守殿其方
歳は何歳にして兩親又は妻なども有りやと尋ねらるゝに藤助私し年は廿二歳兩親は
先年死去仕つり妻も御座なく
只今は
妹の世話に
成漸々今日を
暮し罷り在候と申すを越前守殿聞れ夫れは
不審の事なり妹の手一ツにて今日を暮すと申せども渡世は何をして居るや
但し又妹が人の
世話にでもなりて居るかどうぢや其方主人方の番頭久兵衞は汝が處へ
常々出入と申すが全く
然樣か
公儀にては
能御存知なるぞ僞るに於ては其方の爲に相成ず明白に申立よと有りしに藤助は
大いに恐れ私し
儀久々眼病にて甚だ
難澁仕つり今日を
暮し
兼候ゆゑ妹の民こと番頭久兵衞の世話に
相成り右にて今日を
過し居り候と云ければ越前守殿成程
然もなくば女の手一ツにて
暮しの
立筈はなし
而又去年十二月中旬に久兵衞より何ぞ預りたる物はなきやと
問るゝに藤助は少し
考へ
其儀私しは
聢と
辨まへ申さず妹民へ御尋ね願ひ上奉つると申せしかば越前守殿お民に
向はれ其方は久兵衞より
何か
預かりたる物はなきやどうぢやと尋ねらるゝにお民は
先刻より
慄へ居たりしが
漸々面を
上去年の
暮十三日に久兵衞さんより百兩の金子を私しへ
渡されて是れは
手前に
遣はすにより何にても
買求めよとて
貰ましたと申立ければ久兵衞
傍らにて是を
聞コリヤお
民己れは
跡形もなき事を云ふ女なり
何時己が手前に百兩などと云ふ大金を
預しやコレ
宜加減に
虚を
吐と恐ろしき眼色にて
白眼付けるを大岡殿見られコレ/\久兵衞當所を何と心得居る
虚實は此の方にて
聞分けるぞ
爰な
横道者めと大聲に
叱られしかば大膽不敵の久兵衞も
威光に恐れ
一縮みと成て
控へ居るに大岡殿コリヤ民其方久兵衞より
貰ひし百兩は如何致せしやと有りければお民は久兵衞の
方を見ながら右の金子にて
櫛簪又正月
着の小袖
帶など
種々拵へ兄藤助にも
着物を
調へて遣はしましたが未だ
餘程殘りをりますと申すに越前守殿コリヤ久兵衞今其方も
聞通り
己が
世話をして
置女が
暮の十三日に百兩の金を貰ひて
種々品物を求めたりと申すではないか其の百兩の金子は
如何して
所持せしや主人の金を
盜み取り無證據なりとて文右衞門に
塗付んと
巧みしに相違あるまじ
不屆至極の奴なり汝は一年何程
給金を取て居るや其金
盜まざれば
何方より出したる金子なるや明らかに白状せよ
斯程に證據のある事を
何時まで
陳じ居るぞ
未練な奴ぢやと申されしかば久兵衞はお民を
發打[#ルビの「はつた」は底本では「ほつた」]と
睨つけヤイ
爰な恩知らずの
畜生女め百兩の
金を此久兵衞より預けし
覺えはなし
何時預けしや
能了簡して見ろ
己は
夢にも知らぬ事をべら/\
喋りをると
然も恐ろしき顏色にて
睨付ければお民も今更一生懸命に
泣聲を出し久兵衞さん御前こそ
虚を
御吐なさる私しは御奉行樣より
有體に申せとの仰せ故
包まず申上るのさ決して私しを
恨んで下さるな御前は
主殺しの
上夜盜をしたとか言ふ事
迚も命は助からぬから男らしく
正直に白状して
御仕舞なオイ久兵衞さん私しとても御前の恩は忘れはせぬが
公儀を僞るは
恐しいゆゑ正直に申上ます必らず
恨んで下さるなと云ふに久兵衞
最早仕方なしとは思へ共猶強情を
張て居るを大岡殿コリヤ久兵衞是れにても
己は白状せぬかと云るゝに久兵衞は
左右に伏せず一
向覺え御座りませぬと申ければ大岡殿
聲高に扨々
汝は強情なる奴かな然らば
猶又引合する者あり彼の者是れへと申さるゝに同心ハツと答へて馬喰町二丁目八十二軒組武藏屋長兵衞方旅人後藤半四郎
這入ませいと
呼込に久兵衞は是を
聞て大いに驚き
色蒼然て
控へ居たり時に後藤半四郎は
今日呼出しに付先刻より
呼込あるを今や/\と
待兼たるゆゑ直樣浪人臺へ罷り
出一向
容體にも構はず控へたり
然れば久兵衞は半四郎を見て彌々驚き眼を
閉頭を下げて居けるに大岡殿如何に半四郎
渠の證據を申立よと云れしかば後藤は久兵衞を見るや
否や忽ち怒り
心頭に
發しヤイ久兵衞
汝は大膽不敵の
惡黨なり先年三島の一件を打忘れ
益倍惡心増長して今度大橋文右衞門へ百兩の
云懸をせし事
言語同斷の
曲者なり
汝是を盜み取て文右衞門に
負んとの
惡巧又主人五兵衞が悴五郎藏の
嫁に不義を
仕懸しゆゑお秀は
耐兼て
逃出したるを却て
親夫を
見捨て
出し女には持參金道具類とも返す事はならずなどと汝一人の
取計ひにて
引止置渡さざるは皆横領せんの
巧ならん爰な大惡人めと
白眼み
詰しが大岡殿へ向ひ某し儀當年より十八ヶ年以前劔術の師なり養父なりの後藤五左衞門と申す
者諸國修行に出し所上州大間々にて病死仕り候
砌早速同地へ罷り
越師父の
追善を
營み其後罷り歸り候節中仙道熊谷土手にて越後浪人新藤市之丞と申す夫婦の
者惡漢に
取卷れ難儀致し候を見るに忍びず某がし
惡黨を
追散し夫婦を救ひ夫より熊谷宿寶珠花屋八五郎と申す
旅籠屋へ止宿致し市之丞
疵養生致させ候處江戸表へ罷り
出度由申候に付右八五郎兄なる江戸馬喰町二丁目武藏屋長兵衞方へ
彼夫婦の者を送り
屆け猶少しの
手當を遣はし夫婦の身分を長兵衞に
頼み
置某しは國表丸龜へ立歸り候節東海道戸塚宿より江州商人と申す者
道連に相成其夜三島宿の長崎屋と申す宿屋へ止宿仕つり候所夜中に至りて
右連の男某がしが
寢息を考へ所持の金子を盜み取んとするにより
引捕へて金子は取り返し以來心を改めよとてよく/\
異見を
差加へ候節宿屋の者共
馳來りて
渠が
片小鬢の毛を
拔取入墨を致せしに付猶又
渠惡心
出しなら
水鏡みなり共
移して改心せよと申し
含め逃し遣はせし奴は即ち是なる久兵衞に御座候然るに某し
儀此度江戸表見物として長兵衞方へ止宿仕まつり候處折節長兵衞弟熊谷宿寶珠花屋八五郎も出府致し
居面會仕つり候に同人娘儀江戸下谷山崎町油屋五兵衞悴五郎藏と申すものゝ方へ
縁付候へども家内
不熟且は此久兵衞事嫁の秀へ不義を仕懸候趣きにて右秀儀
里方へ逃歸り候に付
據ころなく離縁仕つらんと掛合に及び候處是なる久兵衞一人不當のみを申
募り持參金道具代は勿論親亭主に
暇を
呉候女に離縁状は出し申さゞる由を申して一
向取合申さず依て秀親八五郎
歎き候間不便に存じ某し油屋五兵衞方へ
掛合に參り候に
豈はからんや番頭久兵衞と申すは先年三島宿にて一
旦取押へたる
騙子なれば
渠も驚きし樣子にて大いに恐れ早速離縁状は
差出し候へども右の通り
素よりの
惡漢ゆゑ是まで如何樣の惡事を
爲しやも計り難し此度浪人文右衞門の一件も久兵衞が
仕業に
相違是なきやに存じられ候間何卒御
糺明の
上文右衞門出牢仰せ付られ候樣願ひ奉つると
事明細に申立ければ越前守殿聞置たりとのことにて
[#「ことにて」は底本では「にことて」]如何に久兵衞白状せぬかと申さるゝに久兵衞は
差俯向し
儘一
向無言なれば半四郎は
堪へ
兼ヤイ久兵衞某し罷り
出る上は如何程
陳じても
役には立ぬ有體に白状して
仕舞言ざるに於ては此半四郎が目に物見するぞと
白眼付るに久兵衞はハツと
平伏しが最早此の上は是非なしと思案を
極め
漸々に
首を
上て文右衞門に申しかけし百兩の
金實は己れが盜み取て藤助妹へ遣はしたる始末等殘らず白状に及びしかば是に於て久兵衞は
口書爪印申付られけり是即ち
幕府の
規則にして
假令如何樣に證據物等
之有り其者の
惡事判然たりとも當人の口より白状に及ばぬ中は
爪印申付られぬ事なり
然ば
斯樣に
念を入て吟味を
詰らるゝとかや
然程に久兵衞は口書爪印と
成けるゆゑ大橋文右衞門は出牢申付られしかば去年十二月より今年三月まで
概略四ヶ月の
間無實の難に
苦しみしも天日明かにして終に
其濡衣を
干ければ當人は申に及ばず女房お政の
歡喜言ん方なく
迅速に腰懸まで迎ひに來り是偏へに御奉行の明斷に
因所なりと白洲の方に向ひて
頻りに
伏拜み
嬉し涙に
昏たりけり時に後藤半四郎は再び大岡殿に向ひ恐れながら某し御奉行樣へ願ひ
上奉つり
度儀御座候右は先刻申上し寶珠花屋八五郎娘秀離縁の儀に付油屋久兵衞方より
[#「油屋久兵衞方より」はママ]持參金并びに
道具類等未だ返し
呉申さず候間
何卒御威光を以て右の金子道具共殘らず相渡し
呉候樣の御沙汰
成下され
度此段偏に
[#「偏に」は底本では「偏ひに」]願ひ奉つると申ければ大岡殿
點頭れて
直樣八五郎を
呼出され其方娘を五兵衞方へ
縁付し處今度
離縁に及びたれども未だ持參金道具類を
請取ざる
由持參金の
高は何程なるや申し立べしと有に八五郎は何事なるやと思ひしに
斯る尋ねなれば意外に喜び娘が持參金は百兩に御座候と申立ければ大岡殿五兵衞を
見られ其方は
嫁秀を
離縁に及びし處未だ持參金道具類とも返さざるよし
不埓なり今日中に殘らず返すべし持參金を切金などには相成ぬぞ此段
屹度申渡すぞと
嚴敷申付られたり因て五兵衞は
爲術なく畏まり奉つるとて夫れより一同
腰懸へ
下り五兵衞は八五郎に向ひ今仰せ渡されの
儀は何卒持參金ばかりにて
勘辨致し
呉られよと申ければ
側に聞居たりし後藤半四郎は進みより
否々道具類とても決して勘辨相成ず彼是云て
埓明ずは貴樣が
嫁のお秀へ毎夜々々不義を仕懸し始末を申立て
御吟味を願ふべしと云ふに五兵衞は甚だ
赤面なし夫れは如何にも
迷惑仕つるにより
其處はどうかと申すを半四郎は
否々底も
葢も
入ぬ彼是云るゝなら御吟味を願ふ
而已なりと云ければ五兵衞は殆んど
爲方なく
然あらば
取揃へて御返し申すべしと云ふに半四郎夫れは云ふまでもなし
急度返さば
其儘若今日中に返さざるに於ては又候訴へんと
嚴敷云ふゆゑ五兵衞は終に金百兩并びに諸道具とも
戻しけるとなり右相談の
濟し頃大岡殿又々一
同呼込れコリヤ五兵衞其方が久兵衞に
盜まれたる三百五十兩は
其儘汝へ
下遣はす
併し召仕ひ久兵衞を盜賊と知ず
差置浪人文右衞門へ無實の
賊名を
負せんと云懸りたる其罪甚だ
輕からず是に依て文右衞門へ
詫金百兩遣はすべし尤も改めて猶申渡すで有う
然樣心得よと有るに是又五兵衞は是非なく
發と平伏して仰せ畏まり奉つると申すに大岡殿は後藤へ向はれ半四郎右の
詫金は其方へ
取立方申付る間五兵衞へ
懸合に及び受取次第文右衞門へ相渡し申すべしと云れ夫れより又文右衞門を呼れ
右詫金百兩を其方
請取ば長八が娘の身請をなし親元へ歸すべし殘り金の儀は其方存じ
寄次第に致せと申されければ文右衞門は有難く畏まり奉つる
旨申すに又大岡殿は下谷車坂町六兵衞
店藤助と
呼れ其方儀久兵衞より
預り
置たる百兩の金子は殘り何程
是あるやと尋ねらるゝに藤助
恐ながら私し儀
困窮の身分に
付借錢等相拂ひ當時三十五兩殘り有り候と申を大岡殿聞れ
然らば其金三十五兩は
公儀へ御取上になるぞ
然れども藤助
能承はれ右の金子は
元不正の金ゆゑ不足の分まで殘らず御取上に相成る
筈なれ共其方永々の眼病にて
盲人同樣に付
格別の御慈悲を以て殘金三十五兩だけ御取上に相成る間有難く存ずべしと申渡され此日は一
同下られけり扨翌日七日の差紙にて一件
關係の者一同呼出され落着とぞ相成ける
是享保五年三月七日なり時に大岡越前守殿
白洲に出座有て申渡し左の通り
下谷山崎町
家持
五兵衞
其方儀
盜賊とは
知ざるとも
召使ひ久兵衞へ
家業向打任せ候により浪人文右衞門へ
難儀を
掛候段重々
不埓に付
屹度咎め申付べきの處
格別の
御憐愍を以て御沙汰
之なき間文右衞門へ
詫金百兩遣はすべし
下谷車坂町
六兵衞店
藤助
其方儀久兵衞を
盜賊と知らずと雖も不正の金子を
預り
置事不屆に付
屹度咎め申付べきの處
格別の御憐愍を以て過料錢七貫文申付る
右
藤助妹
たみ
其方儀兄藤助眼病中
孝養を盡し候段
奇特に
思し
召れ
御褒美として
青差五貫文
下し置る有難く存ずべし
馬喰町二丁目
武藏屋長兵衞
同人方旅宿
浪人
後藤半四郎
其方共儀新藤市之丞外萬事
世話致し候段
神妙に
思し
召れ御褒美として白銀十枚ヅツ下し置る有難く存ずべし
馬喰町二丁目
前名新藤市之丞
當時屑屋
長八
其方儀先年の恩義を忘れず文右衞門へ
金子返報致し候
志操[#ルビの「こゝろざし」は底本では「こゝろざ」]神妙に思し召れ御褒美として青差五貫文下し置る有難く存ずべし
新吉原江戸町一丁目
玉屋山三郎代
彦助
淺草田町
喜六店判人
利兵衞
其方共儀長八
娘身受相談の儀は
公儀に於ても孝心を御賞し有るに
付利欲に
關らず
深切に
懸合を
遂遣はすべし
屑屋
長八娘
かう
其方儀親孝行の段
奇特に思し召れ御褒美として
白銀五
枚下し
置る有難く存ずべし
元油屋五兵衞
召仕
久兵衞
其方儀主人の金子を盜み
取剩さへ主人悴五郎藏を殺害致し候段重々不屆に付江戸中引廻しの
上淺草に於て
磔に申付る
右相濟屑屋長八は娘お幸の
戻りしを喜び
頓て
聟を
娶て小切店に
商賣替をなし家内益々
繁昌しけるとぞ又大橋文右衞門は
心懸天晴なる者に
付目を
懸遣はすべきの由奉行所より町役人へ内意も
之有し
旨古主松平越後守殿へ聞え早々歸參となり
元知五百石に復し物頭役申付られ忠義を盡しけるとなり其後此一件落着の
趣き越前守殿より將軍家へ言上の
砌り後藤半四郎の
噂を申上られしかば其者の
武藝を
試みんとの上意にて半四郎を
吹上へ
召出され御旗本十八人まで劔術試合を仰せ付けられ八代將軍吉宗公
上覽有し處後藤に敵する者一人もなく皆々
打負ければ將軍家
殊の外御賞美有て新知二百石下し置れ御旗本に
御取立相成ければ半四郎の
喜び
譬るにものなく是より後藤喜三郎秀國と改名して
忠勤を
勵み
家富榮えけるとなん
後藤半四郎一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]松田お花一件 爰に
備前國岡山御城主高三十一萬五千二百石松平
伊豫守殿の
藩中松田喜内と云ふ者
有代々岡山に
住居せしが當時の喜内は
壯年なるに兩親を
亡ひ未だ妻をも
娶らず獨の妹お花と云るを家に養ひ置
纔に兄弟二人の家内にして
祿高五百石を
[#「五百石を」は底本では「五千石を」]を領し外に
若黨二人
下婢一人中間小者共主從九人の
暮しなり扨此喜内は學問を好み軍學武藝にも達し物
堅き
生質なれば諸方より妻を
勸むる者あれども妹を他へ
縁付ざる中は
迎へ難し殊に我等未だ三十にも足ざれば急ぐにも及ばずとて
請引ざるにぞ當時の若者には
珍敷人
也と一家中
譽ざる者は無りける又妹お花と云は當年十六歳にて
容顏の
美麗なるは我朝の小町
唐土の
楊貴妃をも欺くべく然らば同家中は素より岡山中に双ぶ女は有まじと評判高かりければ是又諸方より
嫁に
貰はんと云者
最多けれども兎角喜内が心に
適はず
宜に
挨拶して打過ける茲に喜内の
若黨に吾助と云者有しが此お花を深く思ひ初主人の妹とは知ながら折々
可笑き
想振などして袖
袂を
曳けれども此吾助元來
醜き男にて
勿々お花が相手になるべき
器量ならず殊に若黨なれば尚更
請引樣もなければ只一人
胸をぞ
焦ける然るは其頃同家中に高五百石を領す澤井佐太夫の次男に友次郎といふ者あり當年十九歳にて古今無双の美男なりしが
早晩の程にかお花と
割なき中となり喜内が
當番の留守の夜などには
竊にお花が
閨に忍び來り語らう事も稀に有しかば彼の若黨の吾助は此樣子を覺り口惜き事限りなく
彌々胸を苦しめて居たりけり斯て或夜の事喜内は當番にて留守成しかば例の如く友次郎はお花の部屋に忍び來りしを吾助は
聢と
見濟し此由を御殿へ行て旦那へ申上二人の
不義を
顯し
日來の無念を晴し呉れんと
直樣御殿へ走り行き只今
急用有て參りたり早々喜内樣に御目に
懸りたしと云入けるに
頓て喜内は何事成哉と立出るを吾助は
待兼て聲を
密め
御令妹お花樣御事
豫て澤井友次郎殿と不義成れし事私し存じ居候へども
確なる事を見ねば旦那樣の
御耳にも
入難しと
存し處今宵も御當番の御留守を
窺ひ友次郎殿事お花樣の
御部屋へ忍び來られたり此事
確に見屆け候故御
注進申上候と云ければ喜内は
騷ぎたる
體もなく吾助其方
供を致せと云ながら
直樣自宅に立歸りお花が部屋に
直と
這入ばお花はハツト
仰天して友次郎を
夜着の中に手早く
隱し
側に有し友次郎が
脇差を引拔て兄上
御免し下されと云より早く
咽喉にグサと
突立んと爲るを喜内は手早く
押止め其方は
豫て出家の望み有て相州鎌倉なる
尼寺へ參り度
心願の由夫故
豫て我に
暇を呉よと申せしを今迄は
許さゞりしが夫程迄に思ひ
詰し事なれば
止たりとも止るまじ因て只今身の
暇を
遣すべし其方
出家致すからは此以後
對面は
叶はぬぞ
然ながら女の身にて遠路の處身を
衞る者なくては叶はずと云ながら
彼の友次郎が
脇指をお花に渡し此脇指を
肌身離さず何事も相談して
怪我なき樣に暮すべしと
懷中より
二包の金子と藥の入し
印籠を取出し是は
纔ながら兄よりの
餞別なり二品を持て早々出立せよと云つゝ
其儘お花が部屋を立出ればお花は元より友次郎も夜着の中より喜内が
後影を
伏拜み
頓て兩人は支度をなし
二包の金と藥を
押戴きて懷中に
納め何方を當と定め無れど
見咎められては一大事と
鼠竊々々に岡山を
立退けり
偖喜内は翌日になり私しの妹花と申者
豫て
出家遁世の
望み有之に
因止事を得ず昨夜身の
暇を遣はし候と太守へ屆け出ければ
[#「屆け出ければ」は底本では「屆け出けれが」]夫にて事故なく
濟けるが
濟ぬは彼の若黨吾助胸にて二人の不義の樣子を現在に見屆ければ
必定物
堅き喜内の事故二人共に手討に
爲べし然れば是迄の
無念も
晴るなりと思ひて告たりしに案に相違の喜内が計ひ金迄
持せ
落して
遣其上喜内よりの申聞にはお花事は
豫て出家の望み有により暇を遣せしなり夫を不義者などと申
觸せし段
不埓千萬なりと大いに
叱られしゆゑ吾助は喜内の心を知らねば
片贔屓なる
仕方と
[#「仕方と」は底本では「代方と」]深く喜内を
恨みつゝ
此返報は今に思ひ知すべしと爰に於て喜内を殺し恨みを晴さんとの
惡念芽しけるこそ恐ろしけれ斯て吾助は
好機あれかしと
[#「機あれかしと」は底本では「機あれかしらと」]隙を
窺ひけるに喜内は何事も愼み深く其上武術に達しければ
憖ひに手出を
成て仕損じては一大事と
空敷半年餘りを過しけるが或時喜内は
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、524-18]風邪に
冒されて
臥たるに追々熱氣強く十日餘りも床に着ければ其間若黨二人一夜代り/\に次の間へ
打臥夜中の藥を
煎じなどしけるが今宵は吾助の番に當りて例の如く次の間に寢て居たりしに喜内は
熱氣少し
薄らぎたるにや其夜は
心快げにすや/\と眠れる樣子なれば吾助は心に思ふ樣今喜内殿病に
疲れ
眠りたるなれば
假令寢首を
掻共正體は有まじ豫ての怨みを晴すは此時なりと常に案内知たる事なれば
先納戸へ
到り喜内が衣類と金子二百兩を取出し一包にして夫より
密と雨戸一枚を外し
置件の包を
飛石の上に置
徐々[#「徐々」は底本では「除々」]下て庭口と門の
扉を開き
迯る道を
補理置て元の座敷へ歸り喜内が
寢息を考ふるに喜内の運の盡にや有けん正體もなく能寢入り居るにぞ吾助は心に
歡び用意の刀を拔放し喜内が寢たる上に
打跨り
言をも云ず
柄も
徹れと
咽喉を
刺貫せば喜内はアツと聲を立しが元來物に動ぜぬ人なれば心を鎭めて考ふるに
咽に貫きし刀の刄右の方を向て有し故左りの方へ
跳起て枕元に有し短刀を拔き
汝曲者御參なれと切て掛れど病に
疲れし上
痛手をさへ負たれば忽ち
眼昏みて手元の狂ひし
故吾助が
小鬢を少し切しのみ尻居に
撞と倒れたり吾助は切付られてハツと
駭き
迯る
機會に
行燈を
蹴返して暗がりと成ければ此所ぞと
滅多切に
斬散しける程に喜内は左の手を切れたり茲に於て喜内は是非なく聲を立て皆々
出會々々[#ルビの「であへ/\」は底本では「であひ/\」]と云程こそあれ吾助は
見咎られては一大事と豫て拵へ置たる
迯道より彼の一包を
携へて
何處ともなく
迯失けり其後へ若黨下部等は喜内が聲を聞付て走り集りしが行燈は消て闇がりなれば
狼狽廻り
漸々に
灯を
燈し見るに是は如何に主人喜内は朱に染て
俯臥に倒れ居るにぞ皆々仰天して
抱き起し呼生るに暫くして喜内は息を吹き返し有し樣子を
委敷物語り重て若黨の忠八と云ふ者を
側近く招き寄汝は我が方に幼少より勤め
魂ひをも見拔し故申殘すなり我吾助を一打に爲んと思ひしに
眼昏みたれば
纔に
小鬢少しを
斬剥しのみ取り迯したる段殘念千萬
也我死なば右の由明白に太守へ訴へて家財殘らず相改め請取の役人中へ引渡すべし
其節見苦敷振舞無き樣皆々へ申付よ又
具足櫃の内にある貞宗の短刀と用金五百兩の内二百兩は汝預かりて何卒國々を廻りて妹お花に
遣し
呉よ又百兩は右の路用として汝に
遣すなり殘りの二百兩は汝を始め下人共一統に遣さん
間配當すべし此旨我
遺言なりと役人中へ申達し
麁忽なき樣に致すべしと云を忠八は涙と
倶に聞終り御意の旨
委細畏まり奉つり候お花樣には
屹度御目に懸り此二品を御渡し申御遺言の
旨趣も御傳へ申すべし然れど
敵吾助未だ遠くは參るまじ
追止て恨みを報ぜんと
刀追取立上るを喜内は待てと
呼止今
汝追行共最早時刻も移りたれば其甲斐有るまじ汝其
志操あらばお花に廻り
逢し上
我無念を晴し
呉よと云うを此世の名殘にて廿八歳を一期とし終に果敢なくなりければ
最早歎きても
詮なしと忠八は主人の
遺言の趣きを下人共に委細に告
倶々に喜内が死骸を夜着の内に
納め其由
目附役迄訴へ出ければ早速檢使入り來りて死骸を
檢め忠八より遺言の趣きを
委細聞て立歸りし
後種々評議ありしに當時喜内に親類もなく子は猶更有ねば是非なく家斷絶に及びけり因て忠八は
遺言の通り家財殘らず太守へ差上貞宗の
短刀と金五百兩のみを殘し置其中金二百兩は下女下男五人へ旦那の
紀念なれば
何迄も御恩を忘れず
御回向申せと
[#「御回向申せと」は底本では「御回向せと」]云ひ聞せて
配分しければ皆々
涙ながらに
押戴き
散々にこそ出行けれ夫より先に忠八は喜内の死骸を寺院に
葬り
石碑を建て
回向料など
厚く寄附し萬事手落なく
濟せければ下人共を下たる跡にて明朝屋敷を引拂ひ候旨屆け出其
翌朝件の二品を
[#「二品を」は底本では「男二品を」]腰に付泣々岡山の城下を立て或松原に差掛りしが此方の
松蔭より黒き
頭巾にて
面を隱せし一人の
侍士四邊を見廻し立出て忠八暫しと云
聲に驚き
見返れば彼の侍士が黒き頭巾を
脱[#ルビの「ぬぐ」は底本では「ねぐ」]を能々見るに澤井友次郎の父佐太夫なりしにぞ忠八は再び
驚きて一
禮成ば佐太夫も
會釋して此方へと云て以前の
松蔭へ
連行扨も此度喜内殿の
横死嘸々愁傷ならん其方も知て居らんが友次郎の事に付ては大恩の有る喜内殿故
某[#ルビの「それが」は底本では「それがし」]しも早速參り御世話も致す
可筈なれども世の
義理有ば思ひながら打過にせしが扨今朝其方が出立と聞及びて
最前より
此所に
待居たりしなり友次郎事は
勘當致せし者故某しより何も
助言は致さねども喜内殿の大恩を思はゞお花殿に力を
添敵吾助を討取べしと其許心付れしならば其由悴に告て給るべし又此金子は
纔ながらお花殿へ
進じ申度とて金二百兩の包を出し外に金五十兩是は其方が
路用の足に致すべしと二包の金子を渡せば忠八は其
志操を感心し
主人末期に及びお花殿へ
紀念金として二百兩預かり居候へば是にて事足ぬには有まじけれど折角の御
志操故私し御預り申
屹度御屆け申すべし又友次郎樣へも只今の御
言葉は私しの存じ寄も同樣に御座候へば
憚りながら
御助言申上候はん
然ども私し事は主人より路用として數多の金子を
貰ひ請て候へば
御思召の程は
重々有難く存ずれども此金子は
返納仕つりたしと云を佐太夫は
押返し夫しきなる
僅の金子を彼是と云れては
却て痛み入なり平に
受納めらるべしと
種々に云ければ忠八今は
辭し
難く二包の金子を
押戴き
然ば是にてお別れ申さんと云を佐太夫も止め
兼て
呉々も
首尾能本望を遂目出度歸國有べし猶もお花殿の事頼み入と茲に佐太夫忠八の兩人は涙ながらに別れけり
然程に忠八は岡山の城下
外なる松原にて澤井佐太夫に別れ何を當と指て行べき方も無れど先京大坂は
繁華の地なれば
若やお花樣御夫婦の
彼處に止まり給はんも※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、527-8]り難し彼是と思はんよりは
先大坂へ
登り夫より京都と
段々尋ねんと
吉備津浦より
便船せしに日々
追手風打續き十日目にて大坂川口へ
着船しければ夫より大坂に足を止め日毎に新町
道頓堀或は
順慶町の夜見世など人立多き所に行てはお花夫婦并に吾助が
所在を尋ね
探せども是ぞと思ふ手掛りも
無斯て
在事二百日餘りに成しかば
最早大坂にては有まじ京都に行て尋ね見んと其夜伏見
登りの船に乘て翌朝伏見に着せしが此處も
繁華の土地なればとて三日
程逗留して尋ぬれ共夫ぞと思ふ人もなく然らば京都へ
登らんと此處を立出三條の龜屋と云る
旅籠屋に
宿りしに當所は大坂と違ひ名所古跡も多く名にし
負ふ
平安城の地なれば賑しきこと大方
成ず
祇園清水を始として加茂北野金閣寺其外
遊所はもとより人立
繁き方へ行ては尋ぬれども此處にも更に手掛りなく彼是と半年ばかりも暮しける
中或日
雨強く
降て流石の忠八も此日は外へも出ず宿屋に一人
徒然に居たりしに此家の亭主
出來り偖も
折惡敷雨天にてお客樣には嘸かし
御退屈成んと
下婢を
呼
を入菓子など出して
待遇にぞ忠八も
折柄宜咄相手と種々の物語をなしけるうち亭主申けるは一昨年の
夏祇園祭の時にて候ひしが私し方へ
年頃廿歳ばかりの男と十六七の女中の
御武家方と見ゆる人と
祭見物に登られ二夜泊りて歸られしが其日の
晝頃立戻られて大切の
印籠を忘れたれば何とぞ吟味致し
呉よと
云れし故座敷々々を殘らず尋ぬれども一
向に
知申さず尤も祭の時分なれば客人多く私し方ばかりにて五十人
餘の
相客なれど若や先へ立れし人が
間違られ荷の
中へ入て行れしも
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、528-3]り難し氣の毒ながら私し方には之なしと申せしに夫婦の
衆は大に力を落されあの印籠は大恩ある人より
紀念同樣に貰ひし品なれば失ひては
濟難し然りながら忘れて立しが此方の
過ちなれば是非もなしと
悄然として立れたり扨其後二日
程過て右の印籠を下女が座敷の
袋戸棚より見付出し候が然ればとて何處の
何某と
云御人なるか聞ても置ねば御屆け申べき
便りもなし併し言葉遣ひは中國筋の御人と見請たれば其後は
中國言葉の御客と見る時は若や
斯樣の人は御存じ
無や御逢成る事も有らば其の節
取落されし印籠は私し方に確にお
預り申置候へば此由を御通じ
下さる
可とお頼み申せしが今に
知ず餘り雲を
掴む
樣成御頼み事
也とて
呵々と笑ふを忠八は
倩々聞て何やら其樣子は友次郎御夫婦に
似て其上印籠を
紀念同樣と云しも謂れ
有筋なりと思ひしかば忠八は膝を進め
御亭主只今の物語り拙者少し
心當り有苦しからずば其印籠を
鳥渡拜見は成間敷哉と云に亭主は其は何より
易き事
也とて下女を
呼て其印籠を
取寄忠八に渡し此品にて候と云にぞ忠八手に取て一目見に
黒地に金にて丸に三ツ引の
紋散し紛ふ方なき主人喜内が常に腰に提られし印籠なれば思ず
涙を落とせしが
故と
笑に
紛し再び亭主に
對ひ此印籠は拙者が心當りの人の所持品に相違なし
然りながら
斯申せし
計りにては不審は晴まじ彼の夫婦の面體は
斯樣々々には有ざりしやと云うに亭主は手を
拍て仰の通り少しも違はず何でも物ごとは話して見なば
譯らぬものなり貴君樣に此お話しをせずば大切の品を
何時までも
預り居るか知れざりしに今日元の主へ返へすべき
便りを得しは實に
不思議の幸ひなり然らば此印籠貴方樣へ御渡し申べし何卒
先樣へ御屆け成れて下さる
可と悦びて
言けるにぞ忠八も又大に悦び
然らば此品は拙者
慥に預り參る可し
併別に證據もなく受取て參らんも心
能らねば以前
失ひたる持主を同道致して御挨拶に參るまでの間だ金子三兩御預け申置べしと云を亭主は押
止め夫程迄に
堅く仰せらるゝものを何故疑ひて金子などお預り申
可や其儀は
御無用なりと云にぞ忠八は亭主が
侠氣に感じて懷中より金百疋取出し是は餘りに
輕少なれども此印籠を探し出せしと云女中に
遣し給へと渡しけれども亭主は手にだも取ず某し旅籠屋商賣を
致居れば御客樣の物品の
紛失爲は某しが不調法なり然るに
探し出したればとて女中共へ
斯樣なる御心遣ひを蒙る
謂れなしと一向に受
納めねば忠八は止事を得ず其意に隨ひ彼の印籠を
請取て
状を改め是に就て尋ね申
度事有右夫婦の者は此家を立て何國へ參り候や存て有ば
教へられよと云に亭主暫く考へて何國と申す先は存ねども
出立の時大津へ出る道を問れし樣子
確に覺え
居候へば若や江戸の方へでも御
出にては有間敷哉是も聢と定めては申されずと云を聞て忠八は大いに
悦び然る上は今より
直に出立す
可と云を亭主は
押止め此大雨に
勿々御出立は相成るまじ其上
最早申刻も
過たれば大津迄出給はぬ内に日は
暮申すべし夫よりも今宵は此所に泊られて
翌未明より立給ふが御便利成べしと申ければ忠八も
實にもと思ひ其夜の内に
是迄の宿賃を拂ひ外に茶代として二百疋を遣はしければ此
度は亭主も
辭み難く受納め酒肴など出して
饗應けれども忠八はお花等が
行方を聞より少しも
心落付ず酒も宜程に濟し夜着引冠りて寢たれ共餘りの
嬉しさに其夜はまんじり共せず
翌朝未だ暗き中に
起出食事抔もそこ/\仕舞て大津の方へ立出けり
是より先に友次郎お花の兩人は喜内が
情にて金子二百兩と藥の入し印籠を貰ひ請備前岡山の城下を泣々立出しが何處へ行て身を
寄んと云方もなく然ばとて岡山
近所にも住居も成難く兎角此邊に
居んよりは遠路ながら江戸へ
赴かば諸侯も多き處と
聞及べば
能主取りも成べしとお花にも此由を云聞せ
旅裝ひは道々調へんと
先二百兩の金を百兩はお花の胴に附させ殘りの百兩を自分に所持して
慣ばぬ旅を陸路より漸々大坂迄
着ければ
先此所にて暫く休足すべしとて
或旅籠屋に逗留して住吉天王寺を始め所々を
見物しければハヤ五月も
過六月の初旬となり炎暑強き頃なれば凉風の
立迄當所に逗留して秋にもならば江戸へ下り
主取せんと云をお花は聞て成程暑さの時分道中は
堪難き物ならんが
然とて此所に浮々と長逗留して路用を遣ひ
※[#「冫+咸」、U+51CF、530-2]さば主取も
爲給ふに萬事不都合
成ん少しの暑さへ耐へ江戸に
落付て安心なすが増ならずやと云も其理有ば友次郎も然らば出立の
用意すべしと宿へも其由を物語り享保二年六月五日の
夕船に乘て翌六日の朝伏見へ着船したりける
折柄祇園祭りなれば參詣として大坂より船にて京へ
登る者引も切ず其時友次郎はお花に
對ひ其方も
見聞通り祇園祭の由にて此通りの見物なり此處よりは
僅に三里と云ば好機なれば祭りをも見たる
序に名所
古跡をも見物爲べし江戸へ下りては重て見物に上るも難かるべしと云ばお花も
悦び見物いたし度といふにぞ友次郎はお花を連て人の
後に付行程に頓て京都九條通りへ
出此處にて宿屋を尋けるに三條通りにありと
教ゆるゆゑ即ち三條通りへ行き龜屋と云家に
泊りしに祇園祭りとて見物人の
相宿多く漸々八疊の間を二ツに仕切て其處へ落付未だ日も高ければ其日は
東山邊を見物なし翌日は又祇園會の
山鉾などを見て歸りには御所より北山の方を
見物する處友次郎は元よりお花も始めて都の地を
踏事なれば見る物聞く物毎に耳目を驚かさゞる事なけれ
共少しも早く江戸へ行んと
云心頻りなれば僅に二
夜泊りて龜屋方を出立せしが斯る混雜の
中成ば友次郎は喜内に貰ひ受けたる印籠を取落し一里餘行て思出し
那は大切の品なれば紛失させては
濟難し此處迄來りて取て返へすは太儀なれども印籠には
代難しとて取て返し龜屋に至り
右の由を云て尋ねけれども一向に知れず是非なく其處を立出て其夜
大津に泊り翌日は
未明より立て名にし
負近江八景を眺めつゝ行程に其以前大津を立し時より
後に成り先に
[#「先に」は底本では「老に」]成て行しは
町人體の一人の旅人なり友次郎夫婦は何の氣も付ず
瀬田の橋の手前なる茶店に腰打掛けて休みし時彼の旅人も其店へ
這入煙草など
吸ながら友次郎等に對ひ貴君方には何へ御越有哉と云掛られ友次郎は豫て道中には
騙子と云もの有と聞及び居ければ
弱みを見せては成まじと思ひ我等は中國の者なるが主人の用事により夫婦
連にて江戸表へ
參るなりと云へば彼旅人は夫こそ誠に幸ひなり私し事は大坂
天滿邊の町人にて候が此度江戸の店へ用事有りて
罷越候に付幸ひの御道連苦しからずば今晩の御泊りより
御同宿致し度と云れて友次郎は迷惑せしが
然有ぬ體にて夫は幸ひの事なり相宿の儀は兎も角も先
道連に成申さんとて是より彼の男と
同道して行程に彼旅人は
旅馴たる者と見えて此邊の名所々々知らざる處もなく
此處に見ゆるが
比良の高嶺彼處が三井寺
堅田石山などと案内者の如く
教ふるにぞ友次郎夫婦は
我知らず面白き事に思ひ猶樣々に此處は
何彼處は何と尋るに元より辯舌優れし者故夫々に答へ
追々京大坂の話遊女町芝居などの事迄尾に尾を付て物語りけるにぞ夫婦は旅の
憂をも忘れ
歩行もさして
太儀に非ざれば流石は若き人心
能道連を得たりと打悦び互ひに笑ひつ笑はれつ何時か
草津石部も夢の間に打過て水口の驛に着し頃は夏の日なれども
早申刻過共思はれける八九里の道を
咄に浮たて歩行し事故お花は餘程
草臥たる樣子なり友次郎とても
久敷京大坂に逗留し今日
踏出しに大道を歩行たる事なれば今宵は早く共此宿に
泊らんと云けるを彼の男は
否々夏の旅は是から先が
肝要なりお花樣とやらには駕籠を
傭ひて進らせん何分僅の道故先の
宿迄行給へ晝中と違ひて夕方はまた格別
歩行能ものなりと
[#「歩行能ものなりと」は底本では「歩行能ものなりと」]勸められ
餘儀なく夫婦も水口を立出けり
斯くて澤井友次郎は彼の町人の
勸めにより水口の宿外れよりお花を駕籠に
乘其身は町人と共に咄
等爲乍ら駕籠の
後に付て
行程に一里餘りにして大野と
云る
建場に來りしが友次郎は過つて草鞋の
緒を切ければ
履替んとしける中彼の町人は傍に
寄最早日も暮るに近ければ此建場は休まずに行べし草鞋を手早く
履て
追付れよと
云捨駕籠を急がせ遣けるにぞ友次郎今直に履替れば暫く
待給へと云を耳にも掛ず彼の町人は聞えぬ
體して
急ぎ行ゆえ友次郎は心ならねば
草鞋を履や否直に
駈し追付んと
急迫ども駕籠は
何に行しや見えず猶も追付んと足に
任せて急ぎけれども一向に影だに見えざれば餘りの
不審さに向ふより來る二三人の旅人に各々方は
斯樣々々の駕籠に
行逢給はずやと問けるに知ずと云も有しが其中の一人が其
駕籠は今方
確此後の松原から南の
横道へ一人の男が付て急ぎ行しと云にぞ偖は彼の町人と見えしは
惡者にて有けるか欺かれしこそ殘念なれ未だ
遠は行まじ
退止てお花を
取返さずして置
可やと宛然狂氣の如く以前の旅人が
教たる
横道を指て急ぐ程に何時の間にか日は全くに
暮果たり然ども宵月の時分なれば少しも
撓まず何處迄もと追行ども更に駕籠の見えざるのみか
問んと思ふ人にも
絶て逢ざれば若此儘尋ね得ずばお花は如何に成やらんと
案事る程猶胸安からず暫しも
猶豫ならざれば足に任せて追程に
何時しか廣き野中へ出
道幾筋となく有ければ何に行て
能事かと定め兼四方を眺めて立止まりしが
遙向うにちら/\と燈の光り見るにぞ友次郎は大に
歡び何は兎もあれ彼處は人里有處と思はるれば湯にても水にても一ツ
貰ひて
息を休め其上にて又尋ねんと
燈火の見ゆる方を當に
歩行事大凡一里許と思ふ頃燈火の
光は見えず成けるにぞ
彌々途方にくれ斯ては詮方なし然ばとて
斯しては居られず何にしても
此道を行ば人里へ出ぬと云事は有まじと心を
勵して歩行まんとしけるに是まで
何里共なき道を走りたる事故大いに足を痛め歩行難きを
引摺々々又もや十四五町も歩行しと思ふ時漸々一
軒の家有所へ
出たりける友次郎は心嬉しく偖は
最前燈火の
光見えしは此家成りけるかと心に
點頭立寄て見るに
門の戸を堅く閉て
早寢たる
樣子也然れども此所を
起して尋ねずば
何にも尋ぬる方あるまじと思ひ門の戸を
敲きて
呼起すに未だ内には寢ざるにや年寄たる
嫗の聲にて應と言て門の戸を
開友次郎の顏を見て何所より來給ふやと問れて友次郎は小腰を
屈め夜
更て御老人を駭かし申事何共氣の毒千萬なり某は旅の者にて
先刻一人の惡漢に
出合連の女を見失ひ夫を尋ねんが爲に所々方々と
駈廻しが不案内と
言殊に夜中の事故道に踏迷ひ
難儀致す者
也何とも申兼たる
[#「申兼たる」は底本では「中兼たる」]事ながら湯にても水にても一
椀戴き度と言ば主の老女は
打合點夫は何とも御氣の毒千萬なり先此所へ上りて
緩々と休み給へとて
圍爐裏に掛たる古藥鑵より湯茶を
汲で差出す
其待遇體の念頃なるに友次郎も心
落付暫らく息を休めて扨老女に打對ひ
率爾ながら此處は何と
言所にて東海道の宿迄は
道法何程是有やと尋ぬるに老女は答へて此處は大野の在にて
街道迄は二里餘りも有ぬべし只今承まはれば
御連を見失ひ此所迄後を追駈て走り
詰にて
來給[#ルビの「きさたま」はママ]ひしと
成ば
定めてお草臥の事ならん今より
何を尋ね給ふ共夜中にては知申まじ見
苦しさを厭ひ給はずば今宵は此所にて夜を明し明なば早く此村の者を
傭ひ大勢にて尋ね給へと云れて友次郎はお花の事の心に係れば
暫しも
落付氣は無れども先刻よりの足の
勞れに今は一歩も歩行べき
樣なければ老女が言葉を幸ひに容を改め
夜中參り御世話に
成ばかりも氣の毒なるに一夜の宿は何共御頼み申兼れ共
見らるゝ通り足を
痛め居れば實は今より一足も歩行難し依て仰に任せ何の
端に成とも一夜を明し申
度必ず御世話は御無用と云にぞ老女は然ばとて
盥に水を汲て友次郎に足を
濯がせ圍爐裏に柴を
折焚ながらお旅人には定めて
物欲く思はれんなれ
共此處等は街道へ
遠ければ魚類は乾魚も
買難し今朝炊たる麥飯に鹽漬の
茄子あり是にて厭ひたまはずは飢を
凌ぎ給ふ迄に
進らせんと膳を出すにぞ友次郎は大いに悦び是は/\
辱けなし然らば遠慮なく戴き申さんとて
飢たる腹へ五六椀を食し今は
腹合も直り漸く人心地付しが
荷物は殘らずお花の
乘たる駕籠に付しかば
着物は
汗に成たれども着替る事さへ成ず
然共夫等を厭ふべき時ならねば飯を
喰仕舞て老女に一禮を
述圍爐裏に
寄て煙草をぞ
呑居けるに老女は膳を片寄ながら
礑と手を
拍私しは隣村迄今宵の中に是非行ねば成ぬ用有しを事に
取紛れて打忘れたり折角の御客に留守を
預けるはお氣の毒ながら手間の入る
事にあらねば暫時留守して給はるべし定めて勞れ給へし成らんに着せ進らせん夜の物もなし
當所は殊に
蚊の多ければ爐に蚊遣りを仕掛て其の邊りに寢轉び
草臥を休め給へ何卒
暫時頼み進らすと云つゝ立ち上りて門の戸引き閉め出て行きけり
跡には友次郎只一人思ひ
廻せば廻す程お花の事が心に
係り
眠らんと爲れども心
冴其上夜の更るに隨ひて漸次に
蚊は多くなり右左より
群付にぞ斯ては
勿々眠られずと起上りて圍爐裏に柴を折くべ居る時しも此方の
納戸共覺しき所にて何者やらん
夥多しく
身悶えして苦しむ音の聞ゆるにぞ友次郎は
膽を
潰し何事成んと耳を
濟し窺ふに聲は聞えねども
足摺して苦しむ樣子の一しほ始めに
彌増ければ何共
合點行ず心成ずも
密と立上り襖の透間より
差覗くに納戸の中には灯りもなく小さき火鉢に
蚊遣の
仕掛有しが
燃落て薄暗き側に聢とは見えねども細引にて縛られたる一人の女居たり友次郎は
發と思ひ能々見るに此は如何に
己が尋ね
探すお花なりければ驚きながらも嬉しさ限りなく
直樣走り入て其體を見るに身は
細引にて縛られ口には猿轡を
箝てあり友次郎は見も悼ましく
先縛りし繩を
解捨猿轡をも
取り
除るに
解手遲しとお花は友次郎に
抱付流石に餘處を兼しか聲をも立ず泣けるを友次郎は
諫め勵まし泣てのみ居ては事分らず樣子如何にと
問掛ればお花も
屹度心付涙を拂ひ妾が此處まで
[#「此處まで」は底本では「此まで處」]連られ來りしには種々
樣子有ども夫は道々御話し申さん夫れよりは先急ぎ此所を
遁れねば二人とも如何なる
憂目に逢んも知れ難し少も早く
落付給へと云ば友次郎は何か
仔細は分らねども然らばとて手
早く
草鞋履しむればお花も有合の草鞋を足に
引掛二人手を取り
裏口より忍び
出しは出たれども
何に行ば
街道ならんと思ひながらも一
生懸命の場所なれば足に任せて走る程に
何程來りしかは知らざる
中夏の夜の明安く
東雲近く成しと覺えて行先に驛路の鈴の
音人足の聲など遙に聞えければ友次郎もお花も
始めて
蘇生たる心地して扨は街道に近く成しぞと猶も道を急ぐ程に
頓て
宿場共思はるゝ所へ出し頃は夜は
白々と
明放れ往來の旅人も多く有ければ兩人は
漸々心落付初めて勞れを覺え
先づ此邊にて
一息繼んと茶見世に立寄て腰を掛ければ茶店の
親父は茶を
汲て出しながら二人の樣子を見て
不審さうに貴君方には夜前は水口へ御泊にて有しかと尋ねられ友次郎は包み
難く我々は
昨日惡漢に出逢夜通しに此所迄遁れ來し者なり此
宿は何と申すやといへば
親父は氣の毒さうに夫は
嘸かし御難儀の事成ん此處は土山宿にて街道筋なれば
最早惡者の
追來る憂ひなし緩りと御休み成るべしと
深切の言葉に友次郎も頼母敷思ひ此所にて草鞋
買調へてお花に履せ自分も履替などして
厚く一禮述立出しがお花は是迄に息をも
繼ず歩行續けし事なれば友次郎は夜前の
始末を話すべき
隙なかりしが最早惡者の追ひ來るべき心
遣ひなしとてお花は友次郎に
打向ひ昨日大野とやら云
建場を出しより駕籠舁共頻りに急ぐ故妾も
不審に思ひ
貴君の事を尋ぬれば
駕籠舁共の云にはお連樣は跡より續いて來給ふなり早く行ねば日が
暮ると尚も急ぎける故妾も實に
然事と思ひ居し内日は暮て人一人も
通らぬ野原へ舁込だり貴方には
續いて來給ふかと度々
問ども其後は駕籠舁共は聞ぬ
體して一向に返事もせず斯て餘程の道を走りしと思ふ時
怪き一ツ家に駕籠を舁込しが
主の老女一人居り其時彼の町人と思ひし男私しに
對ひ最早此所迄來る上は如何に
叫ぶとも詮なし翌日は京の遊女町へ連
行て金にする
積なれば其心得にて
此姥樣の處に今宵悠々と泊り居よと云れて偖は惡漢に
欺かられしか殘念や口惜やと
遁れんとすれ
共先づは四人の
[#「四人の」はママ]荒男勿々遁すべき樣無れども然ばとて
阿容々々として遊女などに賣るべきや心を
勵まし隙を見合せ
迯出せしが女の甲斐なさ終に
又捕へられたり因て彼等は云樣
斯して
置ば又々
迯んも知れずとて有合細引にて
縛めらるゝ時に胴卷に入し百兩の金をさへ見附られ暗々と
奪ひ取れ納戸の
柱に縛り付られ彼の百兩の金は四人にて
取分になし三人の男は其の
儘歸りたり然るに其跡へお前樣のお
出有し故彼の老女は私しの連なるを知り心能宿を貸し置
密かに以前の三人に知らせお前樣を殺さんとて
隣村まで行くと云て出行し其樣子は納戸の中にて殘らず聞ては
居ながら猿轡を
嵌られたれば聲を立る事さへ成ず
夫故に那樣に物音をさせてお
知らせ申せしに夫と
察してお前樣納戸に入りて私しを
助け下されし故危き所を遁れ候ひし然ながら
面目なきは百兩の金を取られしことと云ば友次郎は
始終を聞終りて彼百兩の金子を失ひたるは止事を得ず
怪我のなかりしが幸ひなり實に
浮雲き事成しと語りつ聞つ兩人は道を急ぎて辿りけり
夫よりして友次郎
夫婦は
路次の
油斷なく少しも早く江戸に
到り
如何にもして身の
落付を定めんものと
炎暑の強きをも
厭はず夜を日に
繼で
行程に
早晩大井川をも
打渡り箱根の
峠も難なく越え藤澤の
宿に
泊りたる其夜友次郎は
俄に
熱氣強く起り
悶え苦みけるにぞお花の驚き一方ならず
土地の醫者を頼みて見せけるに是は
大暑の時分に道中を
爲給ひし故
邪氣を
冒込其が
俄に發したるのにて先づ申さば
霍亂なりとて藥を置て
戻りしにぞお花は
早速煎じて
飮するに其夜の明方頃になり友次郎は
夥多敷吐けるが夫より大いに
熱も
醒すや/\と
眠る樣子なるにぞお花は少しは
安堵せしに其翌日より友次郎の右の足に大きさ
茶碗を
伏たる程の
腫物出來て
病む
[#「病む」はママ]こと甚だしく自由には
起居も成ざればお花は又もや
駭きて以前の醫者を
呼て見するに此度は醫師も
首を傾け是は何共
名付難き
腫物なり何にもせよ口を明て毒を取らねば大事に成んも知れず大切なる
腫物なれば
隨分お大事に成るべしとて
煎藥と
膏藥とを
調合して置て行ければお花は
彌々胸安からず醫者の
教へたる通り腫物に
膏藥を
貼煎藥を勸めて
看病に
暫時も
油斷有ね共如何成事にや友次郎が
腫物は元の如くにて一
向口も
明ず
痛みは少づつ
緩む樣なれども兎角に
氣分宜しからず
惱み居けるぞ
傷しや友次郎も最早日付にしても江戸へ
着るゝ處迄
來て居ながら
情なき此
病氣と心のみ
速れども其
甲斐なく妻のお花も夫の心を
汲分ては悲しくも又
口惜きを一人心を取
直し夫の氣を
落さぬやう
可笑もあらぬことにまで笑ひ
慰め居たりしが
兎角藥の
効驗もなく夏も
去秋も過てはや其年も
暮になりけれども一向に
驗も見えず
斯て居ること
既に一年餘りに成ければ
路用の
貯へとてもお花が
所持せし百兩は
惡漢に奪ひ取れ友次郎が
持し百兩も岡山を立しより是迄に
過半遣ひ
捨し上此處にて斯一年餘りの病氣に
藥代は元より
旅籠其の外の物入りに
大概遣ひ失し今は
貯はへも
殘り少なになりければ
斯ては當所に長く
逗留も成難し然ばとて
夫の病氣今少し
快方ならねば出立も成まじとお花は一人心を
痛めつゝ又四五ヶ月も
滯留せし中終に
路金は
殘りなく
遣ひ
捨夫よりは
櫛を
賣簪しを
賣て其日の
旅籠となせしが此さへ彼の
惡漢に
出會し時夫婦の
衣類を
包みし
荷物を
奪ひ取れし事ゆゑ
最早賣物もなく
詮方なければ
胸を
苦しむるばかりなり然るに此
旅籠屋の主人と云は
元江戸にて
相應に暮せし町人ながら當所へ
移り宿屋を始めし者にて
侠氣ある
生れ付なれば友次郎が
長の病氣にお花が
苦勞する樣子を見て
氣の
毒に思ひ
種々心を
付慰めしが此程は
貯へも
乏しく成りしと見え
猶々心勞する
體の如何にも
不便なりと思ひしにぞ或時友次郎が
座敷へ
例の如く
見舞に來り御
客には今日の御樣子は如何に
哉と尋ぬれば
折節友次郎は
眠りにつきお花は
枕元に
藥を
煎じて
在しが夫と見るより
言葉を
改め是は/\
御深切に
毎々御尋ね今日は何よりも心
能樣子にてすや/\
眠り居候と云を亭主は
聞て夫は/\先何より
重疊なり而て御
食事などは如何やと云ふにお花は食事も
氣分も
快き折には
隨分給候が氣分の
塞ぐときは
無理にも
給られぬと申て
溜息ばかり
吐居兎角に
果敢々々敷驗も見えず實に
困り入候とほろりと
翻す一
雫を見せじと
瞼をしばたゝき
夫に
就ては
長々逗留の
間種々と
別段の御
厄介になり何とも御氣の毒千萬と云ば亭主は
能咄しの
機と思ひ何時まで御
逗留ありしとて手前は夫が
商賣なれば少しも
世話とは思ひませぬが
御良人は御大病なり其樣なことには
決して御心遣ひなく何時
迄も
緩々と御
逗留成れまし然ながら斯樣申せば何とも
失禮千萬なれども
永々の御
逗留と云
殊には
御良人の御病氣にて
御物入も
莫大ならん
縱令餘計の
御貯はへ有とも斯して在れなば
追々殘り少なになり
旅先は別て
心細くも思ふものなり金銀は
湧物なれば今なくとも出來る
時節も
有事故若其樣な事にて御
心配なさるは御無用なり
縱令御貯への
路金盡たりとも御病氣
御全快迄は御心
靜に御
逗留成るべし其間は何に
寄ず御入用有ば
仰られよ又少々の金子なれば
隨分御
用立申べし必ず然樣な事に
御遠慮あるべからずと
深切なる亭主の言葉にお花は
涙を流して
打歡び是迄
種々と厚く御世話に
預りし上只今の其御
言葉此御
恩は
命に
代ても
報じ
難し實は御
察の通り
僅の
路銀を
遣ひ
盡し此程は
櫛簪しを
拂ひしも
最早夫さへ殘りなく
誠に
當惑の
折柄なるに
御深切の御言葉に
甘え何とも
鐵面皮しき御願ひなれども今少し
夫の病氣の
快る迄御慈悲に
滯留を御頼み申たく夫に付て又一ツの御願ひ有何の御役にも立まじけれど切てもの
御恩報じに私しを御女中
衆の中へ御加へ下され御客樣の御給仕にても御させ
成れて下さりませと云ば亭主は
打案じ夫は入ぬ
御心配なり御武家に御
育ち成れし御身が宿屋の女の
手傳ひも成まじ然ながら手前に然樣な心は
塵程も有ねども
貯へなくて
滯留するは氣の毒と御
心遣ひが有ては
却て
惡ければ御
言葉に
隨ひ御
客が多く手の足ぬ時は御頼み申べしと
言れてお花も少しは
安堵し
臥たる友次郎を
搖起し此事を
内々話しければ友次郎も
悦びて何分共に願ひ候と
言れて亭主も夫婦の者の其
心根を
察し
遣り
本意ならぬ事には
有ど
終に
其意にまかせけり
夫よりしてお花は
日夜下婢の中に立
交り勝手
元の事など
働くにぞ亭主はいとゞ不便に思ひ家内の者に言
付てお花を
恤はらせければ
下婢仲間にてもお花を
麁略にせず力の
入事などはさせざりけり然ともお花は身を
粉にしてなり恩を
報ぜんものと思へば如何なる
賤き
業をも少しも
厭ず客が來れば夜具の
上下風呂に
浴れば
脊中を
洗ひ或時は酒の
給仕などにも出るにお花は
容顏麗しければ是を
慕ひ多くの旅人の中には種々なる
戯れ事を云掛る人など有て
五月蠅も腹
立敷折も有ども何事も夫の爲且は
情ある亭主への
恩報じと思へば氣を
取直して
宜程にあしらひつゝ月日を送りけるに或時旅人多く
泊り合せし中に一人の
若黨體の武士あり
風呂に入たる
樣子なるにぞお花は例の如く
老實しく
湯殿へ到りお湯の
加減は如何や
御脊中を
流申さんと云へば彼の旅人は否湯も宜
加減なり決て
構ふべからずと云ながら此方を
見返り不※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、538-9]お花の顏を見て彼の旅人は驚きたる樣子にて小聲になり
貴娘はお花樣にては無きや如何の
譯で此家にと云れてお花は
薄暮ければ
面貌は知れざれど我が名を呼は
不審なりと彼の旅人の顏を
能々見るに岡山に
在し時數年我が家に使ひたる若黨の忠八にて有ければ
餘りの事に言葉も出ず女の細き心にて
斯る
賤き
姿に成しを絶て久敷
逢ざりし若黨に見らるゝ事の
恥しくも
口惜く又嬉しさも
取交て先立涙を押拭ひ其方は忠八にて有けるか
恥しき此身の姿是には
種々話もあり聞度事も
多けれ
共此處では話しも成難し友次郎樣も此家に在るれば後に
緩りと語るべしと云に忠八は
點頭て然らば友次郎樣に
御目に
懸りたる上何かの御話も仕つらん私しも
仔細有て御二人樣の
御行方を
那地此地と
尋ね居しが此所で御目に懸らうとは夢にも存ぜずと云時
勝手にて御花さん/\と
呼聲の聞ゆるにぞ然らば後にと云捨て御花は
頓て立去けり
斯て忠八は三年
越尋ね
詫たるお花に
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、538-16]らずも
今宵廻り逢たることなれば一時に
豫ての
望み足ぬと湯もそこ/\にして上り
夕飯も
仕舞お花の知せを今や/\と待中に程なくお花は出來り此方へと
云案内につれ忠八は
後に付て行ける
程に友次郎が病に
臥たる一間に到りしかば忠八は
座敷に入り先友次郎が病氣の樣子を見て大に驚き
其故を如何にと問に友次郎は漸々に枕を
上誠に我々二人が
不義今更
悔みて詮なく又其方に對面するも面目なき仕合せなり我れ此病氣を
煩はぬ先に
不義不孝の
天罰ならんか此所まで來る道すがら種々の
艱難に
逢路用の金をさへ失ひし
其概略を語らんに兩人が
岡山を
立退しより
陸路を大坂へ
登り廿日餘り
休足せしが
少しも早く江戸へ到り身の
落付を定めんと同所を出立せし其
折柄祇園祭ありと聞京都に立寄り見物して行んと彼地に到り
過ちて大切たる
印籠を失ひ夫より江戸に下らんとして
大津の
宿外れより惡漢に付れ終にお花を
奪ひ取れ
斯樣々々の
譯にて
取返せしが其の
節荷物と
[#「荷物と」は底本では「荷物も」]路金百兩を奪はれたり然ながら
我懷ろに
遣ひ殘りの金六十兩
餘も有ければ是にて江戸へ
下り取付んと思ひ夫より道を急ぎて
當所迄來りし所此病氣に
取付れ
假初の樣なれどもハヤ二年越しの
長煩ひに貯はへ殘らず
遣ひ捨其上お花の
櫛笄ひ迄も
賣盡し外に
詮方も無りしに此家の主人がお花の苦勞する樣子を見て
悼しく思ひ或日我が
眠り居る時此座敷へ來りお花に對ひ
縱令貯への路金は盡たり共然樣な事に少しも
心遣ひなく病氣
全快ある迄
看病して
緩りと
滯留致すべしと情ある言葉を頼みに貯へはなけれども不自由なく
暮し居れば
切ては少の
手助けでもして亭主の恩に報はんとお花が心付にて下婢の中に
立交り賤き身と
成下りし事是
偏に天の
惡しみ給ふ處と今更思ひ當りしと有し樣子を物語れば忠八は
驚き
歎じ此處に夫程
御滯留有とも知らず所々方々尋ね
[#「尋ね」は底本では「お尋ぬ」]廻りしこそ愚なれ併し
今宵此家に泊らずば御目にも
掛らず江戸迄行んものを是誠に天道の引合せ給ふ處成べしと云つゝ
潜然と
[#「潜然と」はママ]目に涙を浮めけるにぞお花は怪みて
側に
摺寄り此方の事のみ云て御國許の樣子は如何にや其方が私共の
行衞を尋ぬると云も
不審夫は置て
兄君喜内樣にも澤井の父樣にも御
機嫌能か物堅いお生れながらお兄樣は早三十にも成給へば御内方でも迎へ給ひしか樣子は如何にと
問懸れば友次郎も
諸ともに
絶て久敷
古郷の樣子少しも早く聞度と云れて忠八兎や云ん角や云んと
胸の中一人
苦しめ居たりけり
扨も忠八はお花夫婦に
問掛られ何とか云て宜からんと一人胸を苦めしが何時迄か包み隱さんと心を定め
四邊を
見廻し聲を
潜めてお兩人樣
御尋なくとも申上ねば成ぬ大切の事あり其仔細と言は一昨年の事にて候ひしが私し同樣に御
家に御奉公致し居候吾助事何故かは存じ候はねども喜内樣の御病氣の
節御看病を致しながら人々の寢入りたる樣子を
考へ喜内樣の御病氣
勞れにて眠り給ひしを
見澄し一刀に御
咽元を
指貫き候ひぬ然ども勇氣の喜内樣故
刺れながらも
跳返し給ひ短刀にて唯一
討にと
切掛給ひしが御病中と云
深手を
負れし上なれば御
眼眩みて吾助が
小鬢を少し斬れしのみ
折柄燈火消ければ吾助は是を幸ひと滅多切に
切散し
闇に
紛れて何國ともなく
遁失たり其時始めて喜内樣には御聲を
上られしにぞ私し始め皆々ソレと
言つて
馳付候ひしにお
悼しや深
手何ヶ所も
負給ひ
御養生叶ふべくも候はず其時喜内樣には私しを近く召れ敵は吾助と
見屆ながら
打洩しぬる事
殘念なり汝は幼少より家に仕へて
性根をも
見拔たれば申し殘す一儀あり我死なば
具足櫃の内に
貞宗の短刀と用金の
貯へ五百兩
有其内金二百兩と
短刀はお花が行衞を尋ね出し
紀念なりとて渡し
呉よ又百兩は汝が路用に
遣はし殘り二百兩は下人共へ
配當すべし其外の品は一切手を付ず取調て
御見分の御役人へ御
渡し申すべしと
細々御遺言有て終に
亡く成給ひし然ば泣々
仰せの如く取計ひ御
石碑をも
建立して御後の取
賄ひ萬事
濟せ後下人共へは御
紀念金を分與へて暇を取せ私し事は
翌朝岡山の城下を
出立致せしに城下外れの松原にて友次郎樣の親公佐太夫樣に
端なく御目に
掛り
斯樣々々の
仰せ有しと友次郎へ
教訓の言葉とお花へ
贈る二百兩の金を
預りし事又其身も
路金にとて五十兩の金を
貰ひしを
辭退すれども聞入なければ據ころなく受納めたることまで
始終の樣子を
委敷物語ればお花は元より友次郎も夢かとばかり打驚き涙は落て瀧の如く中にもお花は心も
亂るゝばかりに
泣悲しみ
暫時は
正體も非ざりしが何思ひけん友次郎が
脇差を
拔より早く
既に
自害すべき有樣なるにぞ忠八は
遽て
押止め御花樣には
如何なれば
御生害を成れんとは
仕給ふや兄君の御
成行を御聞成れ御心にても亂れ給ひしかと
言ばお花は涙を
止め是程の大變を
聞しなれば少しは心の
亂れもせん此度吾助が兄君を
害せしは
皆我身より起りしことと思はるゝなり其の
譯は
日外よりして吾助事我が身に
度々不義を云
掛しかども心に染まねば強面くも
返事も
爲ざりしに
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、541-4]した事より
恥かしながら友次郎樣と互に思ひ思はれて終に割なき中と
成しを吾助は
疾に
知しと
覺しく是を
口惜き事に思ひけん
妾一日友次郎樣を
部屋に
忍ばせたることを兄君に申上二人ともに
戀の
意恨憂目を見せて夫を
腹慰に
爲と思ひし處兄上には我身と友次郎樣とを
夫となく其夜の中に落し給ひしかば夫より吾助は
愚にも兄君を
怨み
斯る
大變を生ぜしなれば然は我が身の
不義より大切な
兄君を
亡ひたるなり
日外部屋にて
自害せば此大變は起るまじきに
死後れたるこそ
口惜けれ今更死ぬとも
詮なけれども
切ては命を
捨て成と兄君への申譯をせんものと又もや
刄を
取直すを友次郎は
痛みも忘れ
叶はぬ足にて
躄り出先
刄を
拏取て其方が申處も
道理なり我とても其
折潔よく切腹せば斯る事にも
成まじきを命を
惜み
落延しは今更
後悔至極なり然しながら今
其方にせよ我にせよ
假令生害したりとも
何面目あつて喜内殿に地下にて言譯が成べきや夫よりも我思ふには敵吾助を
尋ね出て
首取て
亡魂を
祀らば少しは罪を
贖ふに足るべきか心を
鎭めて
熟と思案を致すべしと言れてお花も
成程と思ひしが友次郎の言葉に
隨ひければ忠八も
安堵して先喜内が
紀念に
遣はしたる
貞宗[#ルビの「さだむね」は底本では「さだむぬ」]の短刀と金二百兩并びに佐太夫がお
花へとて
贈りたる金二百兩を
胴卷の中より取出し二人の前に
並べ又彼の
印籠を取出して
日外失なひ給ひしと有りし印籠は是にては候はずやと言ば二人は大いに
驚き如何にして此品の其方の手に入しやと言に忠八は是には
長き御
物語りあり一通り御聞下さるべしとて岡山の城下外れにて佐太夫に別れしより吉備津の
便船に乘り大坂へ
着同所に半年餘も
逗留し夫より京都に到り三條通りなる龜屋と言るに宿を取此所にも
半年餘りも居て友次郎樣夫婦の
所在を尋ねしかども一向に知ず然るに或日
雨降て外へも出られねば
空しく宿屋に在し所宿の亭主の
物語にて此印籠を得しのみならずお二人樣の
御行方も大方知ければ其
翌朝京都を立出江戸へと
心指夜を日に
繼で
急ぎしに
不測にも當宿にて御面會申せしなりと
始終の樣子を
物語れば友次郎夫婦は
歎きの中にも印籠の再び手に入しことを喜び且龜屋の亭主の
侠氣なるを
感じ其の夜は
積る物語に夜を
更し
翌日に成て此家の亭主を
招き
國許より是なる
家來參り合せて金子も手に入たれば
御案事下さるまじ是よりは主從三人に成て
御世話も
増ならんが今少し
御厄介に成たしと言けるに亭主もいとゞ
歡び夫は何より
重疊なり
日外より申通り
御逗留の事は
何時迄にても
仔細なしとて此日は酒肴など出して忠八を
饗應ける
斯てお花は喜内に
貰ひたる
印籠の中に何ぞ友次郎が
藥に成べき品は無かと一ツ/\に開て見るに其中に
腫物一切の
妙藥と記したる一包の藥有りければお花は大に
悦び友次郎にも忠八にも是を見せ
試[#ルビの「こゝろ」は底本では「ことろ」]みに用ひては
如何やと
言ば友次郎は何にもせよ
腫物一切の藥と有ば用ひるとも
障りには成まじとて
包みを
披きて見るに中に用ひ方まで
委敷記し有にぞ大いに便りを得て其藥を
紙へ
伸て
腫物の上に
貼置けるに其
夜亥刻頃より痛む
[#「痛む」は底本では「病む」]事甚だ
敷曉方に成て
自然と
潰え
膿の出る事
夥多敷暫時有て
痛は
忘れたる如く
去ければ少しづつ
動かし見るに是迄
寢返りも自由に成ざりし足が
膝を立ても
痛む事なき故友次郎は云に及ばずお花忠八も
甚く
悦び
斯ては日ならず江戸へ下らるべしと猶
怠りなく
看病せしかば五日目には
起居の成樣になり十日目
頃は座敷の中を歩行程に成ければ
最早大丈夫なり
此處より
通し
駕籠にせば
日着に江戸へ着すべしと友次郎は其日亭主を
呼び明朝出立の事を
話し是迄
長々厚き
世話に成し事をお花と
倶に禮を
述旅籠賃の外に
肴代など
遣はし
下婢共にも少しづつの心付して友次郎お花をば
駕籠に
乘忠八は
後に付て
藤澤宿を立出けり
話頭異りて爰に松田の
若黨吾助は主人喜内を
討果して
豫ての
鬱憤を散じ衣類一包みと金子二百兩を盜み取
闇に紛れて備前國岡山を立去しが
豐前國小倉の城下に少しの
知音有ければ此に便りて暫く身を
隱し其後何れに成とも
落付を定めんものと先づ小倉を心指て漸々
辿り着其人を尋ねけるに是は四年
跡に江戸表へ
引越たりと言にぞ吾助は
頼む
木蔭に
雨漏心地して尚も種々と聞合するに當時は江戸本郷邊に
呉服物の見世を出し當所より
織物類を取
登せる程の身代になりしと聞少しく
落付然らば是より江戸へ下り本郷へ尋ね行て身の落付を頼まんと思ひけれども元來吾助は船に
弱き生れ付なれ共
暗き
身故便船を
求め
播州室の津に
到りけり當所は
繁華の
湊にて名に聞えたる
室の
早咲町など
遊女町軒を
連ねて在ければ吾助は例の
好色者と言ひ懷中には二百兩の金もあり先此處にて
勞れを慰め
鬱を晴さんと五六日
早咲に
逗留して居たりしが不※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、543-6]心に思ふやう此處にて金銀を
遣ひ
捨んよりは江戸へ行て身を
落付後心の儘に樂まんと夫より室を立て其夜は
姫路に
泊り三日にて大坂へ着せしかども江戸へ
下る心
頻りなれば暫しも
止らず東海道は人目
繁ければ若や岡山の人に
逢もせば
面倒なり
木曾路より
中仙道を行に
如く事なしと路次を急ぐ
程に日ならずして
板橋の宿に着にけり然るに吾助江戸は始てなれば何れが本郷にや西も東も分らぬ故小倉にて
聞たる通り本郷二丁目にて
呉服商賣をする
桝屋久藏と云者と尋ねしに其頃新店なれども
評判よきにや直に知ければ吾助は大いに
悦び
先見世に行て樣子を見るに
間口は六七間
奧行も十間餘
土藏は二戸前あり聞しに
増て
大層なる
暮し成りければ獨心中に歡び是程の暮しならば我等一人
位何やうにも世話して
呉れるならんと
小腰を
屈めて見世へ
這入我等は元備前岡山にて
御懇意に致したる者なり
何卒御亭主に御目に懸り
度と云ければ店の者は奧へ到り主人久藏に斯と告いざ勝手口より御通り有べしと
案内するにぞ吾助は勝手口に到り此處にて
草鞋などを脱で
奧へ通るに主人久藏も立出て
先互の
恙なきを祝し合
扨久藏言出けるに
偖も
貴殿には備前岡山なる城下に
能奉公口有て主取なし給ふ由承まはりたるのみにて其後は
絶えて
音信も聞ず其中に我等は御當地へ
引越たれば猶以て
御無沙汰に
打過しに而て此の度如何なる故有て岡山より江戸には下り給ひしといふを吾助は聞て我等事
御存じの通り岡山にて主取は致したれども高が
若黨奉公なり何時
迄勤めたりとも
詮なしと奉公の中
種々なる内職致し
辛じて
漸々五十兩の金子を
溜たれば何卒大坂か江戸へ出此金を
資本にして一
稼ぎ仕つり
度と思ひ一
先小倉に行て
貴殿にも御相談致し其上
何れとも決し申さんと
遙々小倉へ
赴きしに貴殿は江戸へ御引移りの由
承まはり然らば直樣江戸へ下り御目に
懸り萬事の御相談
相手に
御頼申さんものと
遠路の處をも厭はず
態々御尋ね申たりと
辯舌に任せて言葉を
巧みに言たりける
抑々本郷二丁目なる
桝屋久藏と言る者は
元備前岡山在の百姓の子にして吾助とは
元來懇意成しが此久藏十八九歳の
頃豐前國小倉なる
織殿へ奉公に行段々
精勤して金を
蓄はへ後江戸へ
轉居りて今
斯る
大層の暮しはすれども
生得律義の男にて少も
惡氣なく人の言事を何に寄ず
眞實なりと思ふにぞ此度も吾助が言葉を
眞實と思ひ
聊か疑ふ心なく奉公の中に五十兩金を
蓄へたりとは若いには
珍しき人なりと感ぜしかば吾助に向ひ
遠路のところ
態々御尋ね有て御身の
落着を御頼み
成れ度との趣き承知致したり然ながら我等も
近頃御當地へ
引移り未だ昨今の事故
何れに
御周旋致すべしと言
懇意の方もなきが幸ひ此節我等
店の者無人にて手廻り兼れば當時御身の落付の
定まる迄我等方に
逗留有て店をも
手傳ひ給はらば此方も大に
仕合せなりと言にぞ吾助は打歡び
然らば仰の通り是より當分の内お
役には立まじきがお見世のお
手傳ひ仕つらんと是より桝屋方に
逗留して店の手傳ひなど
爲けるに元より
奸才に長し奴なれば手代の中に立
交り人の
爲事迄
己引取てする樣に
働くゆゑ久藏は吾助の立
振舞を見て能人を得たりと歡びける
斯て吾助は桝屋方に居ること凡そ半年餘りなるが
生れ得ての
好色者なれば家内に
召使ふ下女に
折々不義など
仕掛れども既に前章にも
言ふ如く至て
醜き男ゆゑ誰あつて心に
從はんといふ者なかりしに其頃此桝屋へ上總の在方より
奉公に來りしお
兼といふ女今年十七歳なるが
丁百には餘程
足ぬ生れ付にて下女仲間にても
馬鹿々々とて遊びものにされる者あり吾助は思ふやう此女ならば
必定我が言ことを
肯べし當座の
慰みものには是にても
無には
増成んと或時お兼を
捕へて樣々に
口説遂に無理
往生に本望を遂げるに此女
根が
愚者なれば段々吾助に
欺かれ折々忍び
逢ける内
何時[#ルビの「いつ」は底本では「いか」]しか
腹に子を
妊し月の重なる
儘に人目にも立程に
成りければ吾助も是には殆ど
當惑して種々と思案し一の巧みを思ひ付たれば或夜おかねと忍び
寢の物語りに我等如何なる
縁有りてか其の方と
斯深き中なりと腹に子まで妊せし上は
末長く夫婦に成べき
所存なり然ながら今は互に
奉公の
身故自由には成難し然れども追々月も
重りては
奉公も成まじ因て一先宿へ下り
墮すとも
産ともして又々奉公に出られよ尤も宿へ下るに只は
下られまじ
切て二兩か三兩の金を持せて
遣度者なれども知らるゝ如く我等は此家へ奉公はすれども
給金を取身分にも有ねば一兩の
工面も成難き夫故に
種々工夫せしに一ツの計略を思ひ付たり其
譯と言は
其方も定めて知て居らん
飯焚の宅兵衞は數年奉公して
給金も
餘程旦那
方に預け有る由然るに彼の宅兵衞は
日頃より其方に心
有樣子なれば
厭惡で有うが
如何にもして彼が心に隨ひ一度にても枕を
交し
呉よ
然さへすれば腹の子も宅兵衞が胤なりと云立るとも
仔細なし其の上にて彼より金を
取夫にて
身輕になる時は其方も我等も安心と云ふものなり若又不承知ならば我等も
詮方なし其方とても金子もなく
宿へ下りては宿の手前も
惡からんなどと
種々に
欺し
賺しければ元來
愚なるお兼のことなれば
甘々と吾助に
欺かれ
終に其の言葉に隨ひ宅兵衞に言寄る
便りをぞ待にける爰に
飯焚の宅兵衞と云は
桝屋久藏が
豐前小倉に居る時よりの飯焚にて
生得愚鈍なる上最も
吝く一文の錢も只は
遣はず二文にして遣はんと思ふ程の男なれども
至極の女好にて年は五十を
越えたれども折々は
夜鷹などを買ひ行て家を明る事もあり又は下女共には
優しき事を言
掛恥をかく事も
度々なれども其を
恥とも思はず近頃は彼お兼に思ひを掛け
時々袖褄を引けるに一向に
承知もせざりしが
或夜宅兵衞一人居る
臺所へお兼は何か用有て來りしを宅兵衞
好機と思ひ戯れ
寄りけるに思ふより易く心に
隨ひければ宅兵衞は天へも昇る嬉さにて夫より二三度も忍び合し其の内お兼は
懷妊の樣子を物語るに宅兵衞は
吃驚し何として
能らんと云ふをお兼は聞豫て吾助に入
智慧されし事なれば宅兵衞に
對ひ今更斯なる上は
何共詮方なし何れへ成とも
連退て是非共女房にして給はるべしといはれて宅兵衞は五十を
越えて十六七の娘を
如何に思ひても女房にはされず
偖も
當惑千萬と
思案すれども元來
愚鈍なる生れ付故工夫も出ず
困り切し
體を見てお兼は今更斯なりては奉公も
成難し若
此儘切る御心なら
手當をして給る
可し其金にて宿へ下り身輕に成たしと云にぞ宅兵衞は
然爲には何程の金が有ば
宜やと問ば先少くとも五兩なければ宿へ下り身輕には
成れまじと云れて宅兵衞は
是には又
當惑の樣子なればお兼は
顏色を變て扨は私を
慰み者にして女房にもせず金も出さずお前は
構はぬ
了簡成ん其心ならば私も
此儘には
濟し
難し
迚も生ては居られねば此通り
旦那樣に申上お前の首へも繩を懸ねば此
腹立[#ルビの「はらだち」は底本では「はちだち」]は止難しと云れて宅兵衞は
彌々仰天し
種々とお兼を
宥め
賺し然らば金五兩
渡す間夫にて
身輕になり必ず
沙汰なき樣にすべしとて
澁々五兩の金を
遣けるこそ
愚なりける事どもなれ
偖もお兼は宅兵衞を
欺きて金五兩を取しかば竊に悦び吾助に
逢て其由を
知するに吾助も大に悦びしが又一ツの計略を思ひ付お兼に
對ひ扨々其方の
智慧の程
感心せり其
働にては女房にしても末頼
母敷思ふなり夫に
就て爰に一ツの相談あり夫婦の中に隱し
隔をするに異な物なれば何事も包まず打
明て言べし
豫々其方の宿は他人と聞たれば二兩
持行とも世話の仕樣に
異りは有まじ然れば五兩の金を
皆持行て宿へ
遣は
溝へ
捨るより
無益なり夫より五兩の中二兩を宿へ
持行身輕に成る入用に遣はし殘りの三兩は我等
預り居て
頓て夫婦になる時
帶にても又何にても其の方の好みの品を
拵へる
足にせば便利成べしと云れ
生得愚なるお兼故是を
眞實と思ひ終に吾助の言葉の如く二兩の金を
持宿へ下りたり然るに惡事千里の
諺の如く
早晩吾助がお兼と言合せ
飯炊の宅兵衞より金五兩を
欺き
取しと
言事家内の者の
耳に
入見世にても
取々の
噂ありけるを吾助は聞て心に思ふやう此事
若も宅兵衞が
聞ば事
六かしかるべし夫のみ
成ず見世の者にも顏を見らるゝ樣にて何となく
居惡く成たり
最早江戸の
勝手も
分りたれば
此處に居ず共又外に
宜處は
幾許も有るべしと或時主人久藏に
對ひ我等
豫々日光の御宮を
拜見仕りたき
心願なりしに幸ひ此度
能道連の出來候へば參詣致し
度候なり因て
暫時の間お
暇を願ひ度と言ければ久藏は
僞りとは心付ねば夫は何より
好事なり我等も
豫て心願なれば
同道致し度ものなれども
商賣に暇なければ此度は
殘念ながら同道も成難し其
許は我等方の奉公人と言にも
非ねば勝手次第に參詣
有べしと
餞別として金子三兩
遣はしけるに吾助は思ひしより
首尾能を
悦び
禮もそこ/\
支度を
整へ
其日出立せしが日光と云は元來
虚なれば夫より
芝邊へ行て四五日
身を
隱し居たりける然るに其頃芝明神前に
藤重と云る
淨瑠璃語りの女有しが
容貌衆人に
勝れ心
優しき者なる故
弟子も多く
日々稽古の
絶る隙なく繁昌しける此所へ吾助は
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、547-6]稽古せんものと
這入込たるが
好色者の
癖なれば
藤重が
嬋娟なる姿に
迷ひ夫よりは稽古に事
寄せ日夜
入浸りに行きけるが
流石に云
寄便りもなく
空敷月日を
過したり然共吾助は喜内を
害し奪ひ取し金も二百兩の
中多くも
遣はず
隱し持しかば其の金の
有に
任せて
藤重が
好むと云物を
調へて
遣其外
劇場見物花見遊山などにも同道して
只管氣に入るゝやうにぞ仕掛ける夫は
偖置爰に澤井友次郎夫婦
并びに
若黨忠八は藤澤宿を立て其の日の中に江戸に
着先馬喰町の宿屋に足を
止め此處にても
尚種々に療治せしかば友次郎の
病は全く
快よくなりければ夫よりは忠八と
諸倶所々方々を
廻り敵の
行方を尋ねしかど未だ
天運の
定まらざるにや一向に手懸りさへもなく
空く其年も
暮て明れば享保五年となり春も
中旬過て
彌生の始となり
日和も
長閑に打續き上野
飛鳥山或ひは
隅田川などの
櫻見物に人々の
群集しければ今ぞ
敵を尋ぬるに
幸の時節なりとて
日毎群集の中に
紛れ入て尋けるに似たりと思ふ人にも
逢ざれば
最早江戸には居るまじ是よりは
何國を尋ねんと主從三人
額を集めて
相談すれども是ぞと云
能思案も出ざれば
先今暫時江戸を尋ね夫にても
手係りなくは其時何國にも
行べしと是より又心を
配りて所々尋ね廻りしが頃は三月十五日
梅若祭とて
貴賤老若の
別なく向島の
賑ひ大方ならず然るに此日は友次郎
腹痛故忠八一人向島へ
行て
[#「行て」は底本では「行ゆて」]隅田川の
堤を彼方此方と往來の人に心を止めて
歩行けれども更に似た人もなく早日も
西山に
傾きしかばいざ
旅宿へ
歸らんとて三圍の下より渡し船に
乘川中迄[#ルビの「かはなかまで」は底本では「かはなきまで」]漕出したる時向うより數人
乘合し渡し船來り
行違ひさま其の船の中を見るに廿二三の女を
同道したる男は疑ひもなき敵と
狙ふ吾助にて有れば忠八は
汝れ吾助と
言ひながらすツくと
立ち
上る間に
早瀬なれば船は
疾三
反ばかり
隔りし故其の船返せ戻せと呼はれ共
大勢の
乘合なれば船頭は耳にも入ず其
中に船は此方の
岸に
着けれとも忠八立たりし
儘船より
上らず又もや元の
向島の方へと乘渡り
群集の中を八方へ
目を
配りて吾助を尋ね
廻りしかど何方へ行しやら
混雜の中と云
殊に
時刻も
延引したれば
終に行方は知れざりけり忠八は
殘り多き事
限りなけれども
早黄昏に及び
詮方なければ一先旅宿へ歸り友次郎樣お花樣にも此事を物語り
方便を以て尋ねんものと其日はすご/\
立歸りぬ
扨も忠八は馬喰町なる
旅宿に
歸りてお花夫婦に
打對ひ今日向島の
渡舟にて
斯々の事ありしと告げれば夫婦は悦ぶ事大方ならず只行方を
見定めざりしは
殘念なれども江戸の中にさへ居らば尋ぬるにも
便りよし
然ながら
彼奴も
惡漢なれば其方と
面を合せしからは
浮々江戸に
落付ては居るまじ
翌日は
暗きより
起出て其の方は品川の方より
段々に尋ぬべし我は千
住板橋など出口々々を尋ね見んとて
翌朝寅刻より
起出て友次郎忠八の兩人は品川と千住の方へ尋ねにこそは出行けれ爰に又
桝屋方にては吾助が
日光へ行とて出しより
早五六ヶ月になれども
歸り來ざれば
偖は宅兵衞を
欺き金を取し事の
顯れんを
恐れて
逃亡せし者ならんと
店にて取々の
噂をなしければ此事
早晩宅兵衞が耳に入始て
欺かれたる事を知り
口惜さ
限りなく如何にもして
此恨みを報じ度は思へども
流石に
打明て主人にも
言難き
譯合なれば一人心を
苦め居たりしが
馬鹿程怖きものはなしとの
諺ざの通り宅兵衞は思ひ
詰てや或時主人にも告ずして大岡越前守殿の
役宅へ右の
仔細を自身に
訴へ出ければ越前守殿一
應糺問の上
桝屋久藏を
呼出され吾助を
召捕迄宅兵衞事主人預け申付るとて下られける斯て又吾助は
隅田川の花見に
藤重を
同道して到りしに
計らず
渡船にて忠八と面を合せしかば心の
中安からず
若やお花夫婦も
當地に來りて我を兄の
敵と聞尋ね居んこと
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、549-1]り
難し三十六計
迯るに如ずとか云ば一先
何れになり身を
隱し
時過て又江戸へ來るが
上策ならんと
俄に
旅立の
用意せしが
然とて
是迄に心を
盡せし
那の
藤重を一夜なりとも手に入ずして別れんこと口惜し
今宵竊に
忍行て
咄をなし我が心に
隨はゞ直に同道して
立退べし
若不承知ならば止事を得ず手足を
縛りてなりとも思ひを
晴すべしと其夜
近所合壁の
寢靜りたる頃藤重が家に
忍び行て見るに是は如何に
何程開かんとしても
戸は
釘にて
外より
打ち
付て有ば少しも
開ず内の樣子を
窺ふに
灯の氣も見えず
能々見るに表の戸に
貸店と
云紙札の
貼付ある故是は
門違ひせしかと
四邊を
見廻すに間違ひにも
非ず吾助は何分
不審晴ねば
直樣家主方を起して
藤重は
何方へ
引移りしやと尋ぬるに家主は答へて
然ばなり
藤重は
久敷我等
店に住居致せしが
俄に
田舍の
伯母の方より
迎へ來りしとて
宵の程に家を
片付我等に渡し出立致したりと云れて吾助は力を落し扨其の行先は何れ成と問ば家主は
打案じて
慥には知らねども
今宵は千住
泊りとか申したりと云を聞て直に家に歸り
旅支度を成し千
住を
指て
急ぎけり
諺に云己人を
欺かんとすれば人又
己を
欺くと藤重は吾助に思はれ物をも多く
貰ひ花見
遊山などに
連らるゝを甚だ心
能は思はねども
商賣柄なれば
愛敬を失ひては成ずと
表面には
嬉しき
體をなして同道せしが其折々
無理なる
戀を云掛られ夫さへ心に
障らぬ樣
云拔て居しに今日
隅田川の
渡船にて誰かは知ず
行違ひに面を見合せしより
俄に吾助が顏色變り
狼狽たる
體を
利發の藤重なれば早くも
怪しと
推し其上
今宵夜更て
遊びに來るべしと約束されしも
氣味惡ければ家主に頼み其身は室町なる心安き者の方へ
暫く行て居る程に
留守は
當分明家の積りにして若吾助が尋ね來らば
斯樣々々に云
拵へて給るべしと頼み置けるにぞ右の如く家主より
返答せしなり此藤重と云は
前に
姑へ孝を盡し大岡殿より
御褒美を
戴きし津國屋の嫁お菊にて其後人の
世話により
舊習ひ
覺し
藝の
善れば斯る
業ひに世を送りしなり然ば
狂言とは
夢にも知ず吾助は足に
任せて
急ぐ程に芝神明前をば
寅刻に立て千住大橋迄は未だ
暗き中に來れども春の夜の明
易く
掃部宿に
掛る時は早白々と
明け渡り
稍人面も見ゆる頃思ひも
依ぬ
後ろより吾助
待と聲を掛られ驚きながら見返る處を上意々々と呼はり
捕方の者十人餘りばら/\と掛り
折重りて終に
繩をぞ
掛けるに吾助も喜内より
劔術柔術を學び得て覺えある
惡漢なれ共
不意と云
多勢にて
押伏られし事故
汚面々々と
召捕れけり斯て又友次郎は其朝馬喰町の旅宿を
曉寅刻に立出て板橋の方へ
到り吾助を尋ぬれども何の
手係りもなきにぞ然らば千住の方を尋ねんとて
飛鳥山下通りより段々千住の方へと
赴く途中にて五六人の男が
歩行ながらの
噂に
今朝千住にて
召捕れたる者有しが
小鬢に餘程の
古き
太刀疵の有程の者故何でも
只者には有まじと云を聞て友次郎は
小首を
傾け小
鬢の
疵とは少く心當りありと
後に
尾て
追々噂を聞ながら行に年の
恰好面體の樣子尋ね
探す吾助に
紛れ非ざれば
直に
掃部宿の自身番に
懸りて
委細尋ぬるに斯樣々々の人にて名は吾助と云者と
咄しけるにぞ友次郎は
足摺して我板橋を
後にして千住を先に尋ねなば吾助に出逢本望を達すべきに公儀の御手に
召捕れては
詮方なし一先旅宿に
歸りて分別を定むべしと
悽々馬喰町へ戻りけり
扨も
捕方の同心より吾助事千住にて
召捕し段
屆けに及びければ大岡越前守殿には先吾助に
入牢申付られ一兩日
過て引出され其外
桝屋久藏飯焚宅兵衞
元桝屋の下女お兼など呼出され扨て吾助お兼の兩人に
對はれ汝等
主家にありながら
密通せしのみならず
懷妊せしを人に
塗付んと
謀り吾助兼相談の上
飯焚宅兵衞を
欺き
不義不貞の
振舞をなし金子五兩
騙り取たる段
不屆至極なり
眞直に白状せば
御憐愍の御沙汰も有べし
包み
隱さば
屹度拷問申付んと申されければお兼は更に
生たる
心地せずわな/\
震へて居けれども吾助は
少も恐れたる
體なく
仰には候へども私し事是なる兼と
密通致せし事
毛頭御座なく然ば宅兵衞より金子を
騙り取しなどと申事
夢にも覺えこれなく候
察する所是は定めて宅兵衞が兼と
密通致し
懷妊させ是非なく金子を兼に遣はし候所今更金子惜く相成其
故根もなきことを申立私し共より
金子をねだり取らんと云彼が
巧に候はんと申立れば越前守殿はお兼に
對れ汝吾助と申合せ宅兵衞を欺きしは
相違無や少しにても
僞り
飾らば
苦敷思ひを爲べしと
言和らかに申されけるにお兼は
漸々面を
上震ひ聲して仰せの通り相違御座なく如何にも吾助殿と申合せ宅兵衞殿を
欺き金子五兩
貰ひ受候と申立るに越前守殿
點頭かれ如何に吾助兼は既に
白状に及びたり斯ても未だ
陳ずるやと
種々に事を分て
詮議有ければ終に右の
段々白状致しける依て
猶沙汰に及ぶべしとて吾助兼の兩人は
入牢申付られ宅兵衞は元の如く主人久藏に預けられ其の日は
白洲を
閉[#ルビの「とぢ」は底本では「とざ」]られけり然ば吾助白状はなすと雖も
落着に致されざるは越前守殿吾助が
面體の
太刀疵と云
何樣一
癖有べき
惡漢と見られし故
内心には今一應吟味致し
舊惡有ば
糺明有んと思はれしなりとぞ然るに其日馬喰町の宿屋同道にて大岡殿御役宅へ
愁訴致せし者あり越前守殿
取上られて
早速吟味あるに
此別人ならず備前岡山の
藩中松田喜内が家來忠八なり越前守殿一通申立よと有しかば忠八
首を上私し主人喜内儀病氣にて
平臥罷在候節私し同樣
若黨を
勤め居候吾助と申者
夜中竊に主人喜内を
刺殺し
出奔致し候に付夫より右喜内妹花と申者と同人
連合澤井友次郎并びに私し三人にて吾助が
行方を尋ね
恨を
報い申度とて三ヶ年の間
苦辛を
厭はず
所々尋ね
廻り候處漸々此程
隅田川の
渡船にて
面を合せしが不運にも取り
迯せしによりその後
猶又手
配りして
相尋ね候
折柄此間千住に於て
召捕られ候段承まはり及び候然る上は若も吾助事
死罪にても仰付られ候へば是迄の
辛苦も
水の
泡となり
本望を
遂得ず
殘念此上なく候に付
恐れ多き儀に候へ共吾助事
死罪御免
仰付られ候樣御
慈悲の御沙汰願上奉まつり度と申立る時越前守殿
倩々聞居られしが
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、551-13]眼を開き
呵々と打笑はれ我今朝よりの吟味に
勞れしにや
居眠り居て只今汝が申せしこと
委敷は聞取り得ざりし然りながら此程
召捕へたる吾助と云る者は今日白状に及びたるが
死罪に成べき程の罪にもあらず依て
明後日未刻に
追放申付る筈なり汝等が尋ぬる吾助とやらは
必定人
違ひならん
疑は
敷ば明後日
追放の場所へ
到り對面すべしかならず御府内にて
麁相なる儀いたすこと勿れとて下られけるに忠八は思はず
眼中に
涙を
浮め大岡殿の
仁心を悦び
感じ
飛が如くに馬喰町の
旅宿へ
戻れば友次郎お花は今日の
首尾如何なりしと
右左より
問掛るに忠八は越前守殿の
仁智の
概略を物語り然れば明後日は
豫の
本望成就仕つらんと云けるにお花は元來友次郎も
雀踊して喜び
是偏へに大岡殿の
仁心より出る處なりと南の方を向て夫婦
諸共伏拜み夫れより
貯への金銀にて
敵討の
支度晴やかに
拵へ其日の來るを
待詫けり然程に大岡越前守殿には一日
隔て次の日此
程の通り吾助お兼宅兵衞
其外關係の者共を呼出し先吾助お兼の兩人に向はれ吾助事は兼に種々なる惡事を申
含め宅兵衞と
通じさせ金子五兩を
欺き取せ其中三兩を
私欲に
遣ひ候
段不仁不義の
仕方なり因て三ヶの
津構の上
中追放申付る又
兼事は同罪とは申ながら
元來愚なる
生得と相見え
淺果なる致し方故
輕追放の上江戸
構ひ申付る次に宅兵衞事は吾助等が
巧みは人外なれども其の巧みに
陷り兼と
密通したるは汝が
愚なる故なり然ば金子を取れたるは
自業自得と言べし此以後心を改め女色に
迷ふ事
勿れと有て
其餘は
構なしと申渡され此事
落着なしたりけり斯て其日
未刻頃吾助お兼の兩人は
追放に成しかば何を
當に行べき方もなく品川宿を
打過ける時吾助はお兼に
對ひ
斯なる上は
最早詮なし是よりは約束の通り
其方と夫婦になり
何へ成共行て暮すべし其の中には又
能了簡も出んかと云ばお兼は
成程夫婦
倶々に
稼がば
暮されぬ事は有まじ夫に付ても宿へ
預置たる
那兒には
乳を
飮せる者もなく
嘸[#「さぞ」は底本では「さぜ」]や
泣て居る
成ん吾助殿能思案は候はずやと
涙ながらに物語るを吾助は
聞敢ず今更小兒の事など言たればとて
詮方なし
捨た氣に成て
斷念よと
何にも
薄情なる吾助の言葉にお兼は
忘れんとすれども忘れられず心ならずも歩み行に此時後の方より
日來の
恨み思ひ知やと
聲掛誰やらん
拔討にお兼が
肩より乳の
下掛て
切下ければお兼は堪らずアツと云て
倒れたり吾助は驚き何者の
所爲なるかと見返へれば是
則ち
別人ならず彼の
飯焚の宅兵衞なれば吾助は大いに怒り
汝如何なれば掛る
振舞を爲ぞやと
云せも敢ず宅兵衞は
怒れる聲を
張上て汝等が
此程の致し方如何にも
心根に
徹し
殘念なる故訴へ出たる所大岡樣の
御仁心にて汝等が命
恙がなきことを得たれば我が恨みは
猶晴難し
先我が
刄を
請て見よと
眞向に
振翳して切て
懸る此時吾助は身に
寸鐵も
帶ざれども
惡漢なれば
少も恐れず
傍に落たる松の
枯枝を
追取て右に
請左りに流し
暫し戰ひ居たりしが吾助は
元來劔術を心得たる男なれば宅兵衞が
隙を
窺ひ持たる
太刀を打落し
痿む處を
續け打に
面を
目掛て討ければ宅兵衞は
眼昧みて
蹌踉を吾助は得たりと落たる刀を拾ひ取
眞向より
唐竹割に
切下たれば何かは以て
堪るべき宅兵衞は聲をも立ず死したりけり吾助は一
息吐て
傍を見廻し宅兵衞が
懷中を
掻探り
持合せたる金子五兩二分を奪ひ取り仕合せ宜と
獨笑してお兼が
死骸を
見遣もせず
鈴ヶ
森の方へと
走り行こそ
不敵なれ
惡裏に有者は
天是を
罰し
惡表に
顯るゝ者は人是を
誅すとかや
偖も吾助は宅兵衞を
易々と
殺し
懷中の金五兩二分と
脇指を
奪ひ取其上
足手搦みなるお兼さへ其處に命を落せしかば誠に
勿化の幸ひなりと悦びながら足を早めて
馳る程に
頓て鈴ヶ森へぞ
指懸りける斯る所に
並木の蔭より
中形縮緬の小袖の
裾高く
端折黒繻子の
帶を
脊にて
堅く
結び
緋縮緬の
襷を
懸貞宗の
短刀を右の手に持
顯れ出たる一人の
女行先に
立塞り
汝大惡無道の吾助大恩有る主人と知りながら
兄君を
害し岡山を立
退し事定めて覺え有べし今爰に
逢しは天の
賜もの
疾々勝負を致す可しと云時又此方の
並木の
蔭より一人は
小紋紬の小袖一人は
小紋木綿の
布子に
股引脚絆甲斐々々敷出立にて
二腰を横たへたるが兩人等く
顯れ出如何に吾助今は
遁れんと
爲共道なし
早々恨みの
刄を受よと双方より詰寄るは是なんお花友次郎忠八等の三人なり其時吾助は
發と
驚きしが元來
強氣の
曲者なれば
呵々と打笑ひヤア
小癪なり我を敵と云汝等こそ兄親の目を忍びたる
不忠不義の
曲者なり又汝等が兄喜内は
善惡邪正の
別ちなく
親しきを愛し
疎きを
惡む
誠に國を
亂すの
奸臣なる故我
討取て
立退しを汝等は
愚昧なれば是を
覺らず我を
敵と付
狙ふ事
偏に
麁忽の至りなり然ながら
強て
勝負を
望むと成ば
片ツ
端より我手に
掛今の
迷ひを覺して
呉んと彼の宅兵衞を殺して奪ひ取たる
脇指を引拔て
一討とお花を
目掛討て
掛るをお花は心得たりと
貞宗の
短刀を以て
切結ぶに女なれども喜内の妹ゆゑ
豫て手に
覺えも有其上兄の
敵と思ひ一心
籠て
切立れば吾助も
侮り
難くや思ひけん爰を
專途と戰ふ程に友次郎も忠八も手に
汗を
握り目ばたきも
爲ず
控へたりお花吾助の二人は右に拂へば左に支へ一上一下と
祕術を盡して
踏込々々戰ふ程に吾助は名を得し
曲者なりお花は心
猛く勇めども
流石女の
悲しさは
尖き吾助の
刄を
對戰兼思はず
後退りなし小石に
礑と
躓き
倒るゝを吾助は得たりと
太刀振上只一刀に討たんとするやお花は
眞二ツと見えし時友次郎が
曳と打たる
小柄の
手裏劍覘ひ
違ず吾助が右の
肱に打込みければ忽ち
白刄を取り落すにぞお花は直くと立上り樣吾助が
肩先五六寸
胸板懸て
斫込だり然れども吾助は
死もの狂ひ
手捕にせんと大手を
廣げ追つ
捲りつ飛掛るをお花は
小太刀を
打振々々右に
潜り左に拂ふを吾助は猶も
追廻り進んでは退き
退ては進み
暫時勝負は見ざりしに忠八は
先刻より
拳を
握りて
控へ
居りしが今吾助が眼の前へ來りし時
足を
伸て
渠が向ふ
脚を
浚しかば
流石の吾助も不意を打れて
眞逆さまに倒るゝをお花は
透さず
駈寄て左の
腕を
打落せば吾助は
起んと
齒切を爲す友次郎お花忠八
諸共押重り十分止めを
刺貫し終に首をぞ
刎たりけり
斯りし程に
所の
村役人等は二ヶ所にての
騷動を聞傳て追々に馳集り先友次郎等を
取圍み事の樣子を聞けるに友次郎は
容を
改め
我々は元岡山の藩中松田喜内と申者の親類にて右喜内の
敵吾助と云者を
狙ひ
討んと三年の間所々を
尋ね
廻り千
辛萬
苦し今日此處にて出會年來の本望を達したり然る上は如何樣にも
所の
作法通りに行はれよと少も
惡びれず答ければ村役人共然らば
暫く
控へ給へとて當所の名主又品川宿の役人共も
立合一同
評議の上當所の御
代官へ訴へければ
早速役人中
出張有て
敵討の
體見分あり先友次郎等三人は
御沙汰有迄名主方に
控居べしとて番人を
嚴重に付
置扨此由を備前岡山の
城主松平伊豫守殿江戸屋敷へ問合せに及びけるに此方の
元家來に相違なきに依引取申度との事なれば
此趣き友次郎等へ申
聞近々伊豫守殿
御邸へ引渡すべき間
其用意有べしとの事故三人の
悦び大方ならず其日の來るを今や/\と待程に其後岡山侯より
迎への人
數來り
大名小路の上屋敷へ三人を引取れたり
折柄太守には岡山
在城中なれば
家老中對面有て
此度の
手柄拔群[#ルビの「ばつぐん」は底本では「ばつくん」]なりと
賞美有りて
遠からず岡山表へ
差下すべき旨申渡され夫より五日程
過て又家老中より
奉書到來致し
明朝江戸表
發足有べし尤も道中
警固の爲
足輕十人を
差添らるとの事なれば友次郎等は有難き
旨請をなし
翌朝未明に
發足せしが三人の中お花友次郎は通
駕籠忠八は願ひに因てお花の駕籠の
側に
付添事を
許され其外十人の
足輕は前後に
立並び若や道中にて
非常の事も有ばとて
專ら用心をぞ爲たりけり斯て始の夜は藤澤宿にて泊り以前世話に成たる
旅籠屋何某が家に行て
厚く
禮を
述けるに亭主も此程
鈴ヶ
森にての
敵討の事此邊迄
隱れなく
遖れ
御本望を達せられし
段先々大悦なりと
祝し
倶に悦び其夜は
酒肴など出して種々に
待遇けるにぞ友次郎等は以前に
異らぬ
主の
侠氣を感じ
厚く
禮物を
贈りて夫より
路次を
急ぐ程に日成ずして岡山に
着せしかば
即日太守へ目見申付られ
花事は一旦出家の望み有由にて出國致せし處兄喜内が
凶變を聞心を
俗に
改め千
辛萬苦して
首尾能兄の敵を討し段
誠に女
丈夫共云べし又友次郎事も花を助け敵を
討せし段
信義厚く
賞するに餘り有依て父佐太夫に申
諭し
勘當を免させ今より花と夫婦になり松田の家を
相續致すべしと有て又忠八も
庭口より召れ
太守へ目見を
免され其方
賤き若黨の身にて主人を助け
大功有し段
神妙なり依て今より十人
扶持下され
足輕小頭申付るなりと家老中より三人へ
執達に及びければお花友次郎は云に及ばず忠八まで
君恩の
忝けなきに
感涙止め敢ず何れも
重々有難き段御
請申上て引
退き夫より友次郎は改めて松田の養子となり
養家の
名跡を
繼で松田喜内と
改名しお花を妻となし
舊領五百石を
賜り又忠八は
足輕小頭となりて兩家共
代々岡山に
繁昌せしとぞ
寔に君君たる時は
臣臣たりと云
古語の如く岡山侯
賢君に
在ます故に喜内
不幸にして
僕の爲に
討るゝと雖も其
妹に
又勇婦有て仇を
討家を起せり友次郎も始はお花が
色香に
迷ひ
出國したる
過ちは有ども
後にお花が
助太刀して
美名を
世上に上たる事是
偏に岡山侯の
賢良なるより下にも又斯る人々ありしと其頃世上に
噂せり
松田お花一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]嘉川主税一件 人は只
實心を旨とし
苟且にも
僞り
欺く事勿れと然るを言行相反し私欲を
逞しうなす者必ず其の身を
亡すこと古今珍しからずと雖も人世の
欲情を
脱するは難き事ならんか茲に當時嘉川平助高吉と云る
御旗本あり先祖は輕き御家人なれども柳澤出羽守殿大老職の頃同家へ
諛段々と立身なし有難くも五代將軍綱吉公の
御治世の時
遂に御旗本の列に入り高二千五百石まで加増ありて相應の役柄を
勤めし家なり然るに平助は四十の歳を
越と雖も未だ一子なく家名の
斷絶せん事を歎き
親類どもと
相談の上小十人組頭金松善四郎とて高七百石を領せし御旗本の二男
主税之助と云へる者
人品歳頃とも
相應なるにより是を乞ひて嘉川の養子に貰ひし處に其後平助は藤五郎藤三郎と云へる二人の男子を
儲けしかば主税之助を
貰ひしことを
悔れども一旦養子とせし上は是非なしとて其後
家督を主税之助に
讓しが
其砌り平助は主税之助に
對ひ我今度汝を養子とせしにより今度
家督を
讓ると雖も其方の
跡式は我が實子たる藤五郎藤三郎の内
器量を見立て讓り
呉よ此事承知なれば兩人とも汝の
悴に致すべしと言けるに主税之助畏まり奉つる仰の如く兩人とも某し悴に仕つり嘉川の
名跡は必ず兄弟の内に繼せ候はん此樣決して御案事有べからずと立派に請合ければ平助は甚だ
悦び我等死後には何分
宜敷[#ルビの「よろしく」は底本では「よろりく」]頼み申と
堅く申付置たり然るに幾程も無く平助は六十歳を一
期として
病死しけるにより主税之助は養父の頼の通り兄弟の内に
家督繼せんと我が子の如く
愛しみ
育しが其中に主税之助も實子を儲け名を
佐五郎と呼び
寵愛淺からず何時しか先代平助の
遺言を
忘れ己が實子佐五郎に
家督を讓らんと思ひ立ち夫に就ては藤五郎藤三郎兄弟を
亡者にせずんば此事行ひ難しと茲に
惡心萌せしこそ嘉川家
滅亡すべき
基と後に知られける
然ば近頃藤五郎兄弟の事は何に依ず
惡樣に
罵り
機に
觸ては三度の食を
斷て與へざる事なども有しかば藤五郎は
倩々思ふやう實子佐五郎出生以來養父母には我が兄弟を
疎とんずること甚しければ兄弟の中へはとても
家督は
讓るまじ
家名相續の出來ぬものなれば身を我儘に暮んと心を決し晝夜酒色に
耽りしが頃は
享保二年六月下旬大岡越前守殿役所へ神田豐島町居酒屋の亭主源右衞門と云ふ者御訴へ申上るとて
駈込ければ役人早々奉行へ申立けるに何等の趣意なるや
篤と
糺すべしとのことに付き役人は源右衞門に
尋問るに私し儀
居酒商賣仕つり候に今朝一人の
侍士入來り
亂心と相見え家内の者と
彼是口論致し諸道具を投散し其上刀を拔立騷ぎ候に付
據ころなく
捕押へ置候間何卒御
慈悲を以つて同人
宿元へ御引渡し成下され候樣願ひ奉つり候と申により其段役人より奉行へ申立しかば越前守殿
聞屆けられ
早速召捕方申付られしにより同心兩人源右衞門に案内させ右酒屋に到りて彼のものに
對ひ
其方亂心と相見え
居酒屋を
荒し家内を
騷す段不屆なり因て奉行所へ
召連行により
然樣心得よと申し渡しければ彼の者大いに怒り我は
嘉川主税之助が悴藤五郎なり町奉行所などへ
相越べきものに非ずと云て
種々に
惡口なしけれども役人は
頓着なく其儘引立
連歸りて
白洲に
引据置き大岡殿の前へ
出樣子を
相糺し候處嘉川主税之助
惣領藤五郎と申者に候と御
旗本の事故
内々申立てければ越前守殿是を聞れ扨々
不行跡千萬なり是を表向きの沙汰となす時は
渠が父の家名にも
關るべしとて思案の上白洲へ出座有て藤五郎を見られ其方儀帶刀をも致す身分を以て
不行跡に及ぶ事言語に
絶えたる不屆なり汝は浪人か併し住所は何方なるや
豈夫住所は有まじ
無宿であろうなと尋ねらるゝに藤五郎は越前守殿の心を悟らず
否々拙者儀は
斯砂利の上に於て御吟味を受べき身分に御座なく候と云へば大岡殿ナニ
汝は
砂利の上處か名もなきものならんと有に
否拙者は嘉川主税之助
悴藤五郎と申す者なりと云へば越前守殿オヽ然らず藤五郎の家來と申すか然ば
亂心と見えるに
依吟味は追て致す先
入牢申付ると有て
假牢に入置れ早速此段嘉川主税之助方へ申入らるゝ樣
其許御子息藤五郎殿家來と申神田豐島町酒屋にて
酒興の上
亂暴に及候者有之に付此方へ
召捕置候間用役の者一人早々御
差越成るべしとの事なれば嘉川の
屋敷にては大いに驚き是は
概略藤五郎の事
成んが大岡殿の
仁心にて藤五郎家來と申越れしと見えたりとて
早速用人の
伴佐十郎と
言者越前守殿役所へ罷出ければ越前守殿佐十郎を呼れ其方主人藤五郎
召使の者
亂心と相見え豐島町居酒屋源右衞門と申者の方へ參り家内を
騷したるに依て此方へ
召捕置たり但し吟味致すべきなれども亂心に
紛れなき故今日引渡し遣す尤も
由緒も是有家來ならば
隨分念を入て
療治を差加へ病氣中は
座敷牢へなりとも入置が宜からんと申されければ佐十郎ハツと
平伏なし段々御
懇情の御言葉有難く
畏まり奉つる主人も定めて忝けなく存候はん早速
罷り
歸り御示の如く
屹度相守らせ申べく候と涙を流して打喜び夫より藤五郎を
請取駕籠に乘せ
急ぎ屋敷へ
連歸りて
委細を主税之助へ申述ければ主税之助は大いに
憤ほり
偖々不屆千萬の次第奉行所の
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、561-7]なれば少しも
猶豫ならずと早速座敷牢を
補理是へ
閉籠置たりけり然らば大岡殿の心にては藤五郎は先代平助の實子なるにより一旦の不身持さへ改めなば
往々家督を
讓る者ならんと思はれ
何所迄も家來の體に
取扱はれしは實に
特別の
慈悲と云べきを却て主税之助は是を
好機會なりと藤五郎を
廢して實子
佐五郎に
家督を
繼せんと思ひ
公儀へは長男藤五郎は多病と申立己が實子佐五郎を
惣領に相立度旨願ひし處願の通り仰付られしゆゑ主税之助は
豫ての望みの如くなりしとて大いに
悦びしと雖も先代よりの家來は
左右藤五郎兄弟を
贔屓なすにより
渠等在ては實子佐五郎の爲にならず此上は藤五郎兄弟をなきものとせんと
惡心彌増て
先藤五郎より方を付んとて一日に
漸く食事一度づつを與へ
干殺さんとこそ
巧みけれ
然ば
無慚なるかな藤五郎は其身
不行跡とは云ながら
僅か三
疊の
座敷牢に
押籠られ
炎暑の甚はだしきをも
凌ぎかね
些々たる
庇間の風を
待身となりし
哀れさは
譬ん
物もなかりけり茲に
腰元お島と言は其以前より藤五郎が
密に
情をかけし女なれば此程の
體裁を
慕ほしく思ひ人目を忍びて朝夕の食事其外何くれとなく心を
配り居たりしに當家の用人
伴佐十郎
建部郷右衞門山口
惣右衞門の三人は先殿平助の代より勤め
殊に
[#「殊に」は底本では「殊に」]山口惣右衞門は藤五郎の
傅役にて
幼少より育て
上己は當年七十五歳になり
樂勤を申付られし身なれば此程の
有樣を見て深く心を痛め主人
主税之助へ種々藤五郎の
詫言をなし出
牢有べきやう申しければ主税之助大いに
立腹し又しても/\藤五郎の事を
意見立なす
條不屆なり重ねて藤五郎の事を申さば
暇を出さんと
慘々に
叱りければ惣右衞門は是非なく我家へ歸り
佐十郎
郷右衞門の兩人を
招き先年先殿平助樣の御
遺言もありしを
當殿には
左右無理非道の取計ひなるにより此後御兄弟の御身の上如何樣の儀出來んも知れず御兩人を何分御頼み申と涙を流して内々相談致しければ此事を
主税之助に告る者ありて種々惣右衞門を
讒言なせしにぞ主税之助も
始終は
邪魔と思ひ居たるゆえ是幸ひとて惣右衞門に永の暇を申渡しければ惣右衞門は
豫て
覺悟の事とは云ひ先代よりの
勤功もあるを
情なしとは思へども是非なく妻と
悴を
引連嘉川の
邸を
立退けり然れども其の節同役の
伴建部の兩人へ返す/″\も藤五郎兄弟の事を頼み置て其身は神田三河町二丁目千右衞門店なる
裏長屋へ
引越浪々の身となり惣右衞門七十五歳女房お時五十五歳
悴重五郎二十五歳親子三人
幽かに其日を
送り居たり然るに
嘉川主税之助は惣右衞門に永の暇を遣してより今は
意見する者なく
益々惡事増長なし藤五郎を
彌々干殺さんと
嚴しく
食止をし其上弟藤三郎當年
僅か五歳に成を
惡みて種々
折檻なし
剩さへ藤三郎の乳母お安と言女をも永の
暇を遣したり其
譯は此乳母先代平助の時より
奉公に來り
譜代同樣の
極にて藤三郎の乳母となせしかば藤三郎を
愛しむ事生の親にも
勝りて
彼是と
執成けるを主税之助夫婦は甚く憎み我子の爲に
邪魔成んと終に
咎なきお安を牛込神樂坂水茶屋兄吉兵衞の方へ歸しけり
斯先代よりの家來に暇を出し
新規に抱へる者共には用人
立花左仲安間平左衞門又中小姓には安井伊兵衞
孕石源兵衞其外
徒士六人の者を
近付主税之助は
彌々惡心
増長して藤五郎の命は此節に至りて實に風前の
燈火よりも
猶危ふけれども只
腰元のお島一人
密かに是を
勞り漸々と命を保ち居るのみなり
然れば
新規抱への用人安間平左衞門と言は當年四十歳餘りなれども心
飽まで
邪しまにして
大膽不敵の
曲者なり此者金銀を多く
所持なし嘉川家
身代の
仕送をするにより主人も手を下げ萬事一人の計ひなれば
邸内の者此平左衞門を恐れ誰一人
詞を返す者もなきゆゑ平左衞門は
我儘増長し其上ならず年に似げなく大の好色者にてお島の
容貌美くしきに心を
掛間がな
隙がなお島を
口説けれ共
勿々承引せず却て平左衞門を
辱しめ
惡口しける故平左衞門は其身の惡き事も思はず
渠が惡口を大いに憤ほり心中に
偖は此女は藤五郎と言男のある故に我を
強面爲成んと思ひ夫より
種々と藤五郎兄弟の事を
憎みて主人主税之助の前へ出藤五郎殿を
生置時は
建部伴の兩人の者は御先代よりの御家來故彼の御兄弟の事を思ひて
渠等兩人御
支配向へ如何の事を申出べきやも
量難し假令
然なきにもせよ藤五郎殿を
盜み出さんと此程より
渠等が樣子を
窺ひ見るに其
萌しなきにしも非ずと申ければ元より無智短才の主税之助故是を實と思ひ然らば此上は如何はせんと相談なすに平左衞門は得たりと聲を
潜め
竊に
毒殺せん事一の手なるべし先藤五郎殿さへ
亡者にする時は
跡に
障りなしと言へば主税之助大きに
悦び
好機のあれかしと見合せ居けるとなり
然ば嘉川主税之助は
何卒して藤五郎を害せんと思ひ
新規抱へ入れ
用役安間平左衞門と種々談合致しけるを
腰元お島此事を
竊に知りける故大いに打驚き早々此由を内々にて
伴建部の兩人へ告知らせければ伴建部の兩人も甚だ
駭き此儀一日も
打捨置難し御兄弟
諸倶に主税之助樣の計略に
係り御命を失はるゝ時は嘉川の御家名
斷絶せん事
必定なり如何はせんと兩人
竊に
額を合せて談ずると雖も
好分別も出ざれば先々此儀山口
惣右衞門に
相談せんと夫より
伴佐十郎は急ぎ神田三河町二丁目山口惣右衞門の方へ到りて
對面の上右の一條を種々と
談合しければ山口も毒殺のことを聞大いに
駭き
其許の云るゝ如く此事少しも延し難し若
打捨置時は一大事ならんにより片時も早くお島と申合せ御兄弟諸共一先盜み出し其後支配へ屆け何卒して
先御主人の御
血脉を
絶さぬ樣に致しなば
我々が臣たる道も立により此上は急ぎ御二方を救ひ進らせん事
專要なり此儀御兩所の力を
偏に御頼み申なりと言ければ
佐十郎は
合點何樣御尤も至極なれば早々郷右衞門お島ともに申合せ取計ふべけれども御兄弟を救ひ出せし上御二方を
隱匿進らするは何方が宜しからんと申せば其儀は少しも心を勞されな年こそ寄たれ此惣右衞門御兄弟を隱し置
頓て
愛度御家督に
居奉つらん必ず/\氣遣ひ
仕給ふまじと請合ければ
佐十郎然らば
豫て申通り
勿々手延になり難ければ今明日の中是非とも御救ひ申べし
何道にも一と先
爰許へ御連申さんと堅く約束なし
佐十郎は
急ぎ立歸りて此段建部郷右衞門にも話しければ建部も深く悦びつゝ夫より
竊に右の由を腰元のお島にも話し置其節は必ず頼むと示合せて互に
能機を窺ひ居たりし處頃は享保三年十二月廿一日朝より大雪降りて其寒き事誠に堪難く何國も銀世界となり庭の木立は時ならぬ花を生ぜしかば主税之助は
新參の
用役安間平左衞門
立花左仲其外氣に
適たる
佞臣どもを集め雪の寒を凌がんと晝より
酒宴を
催せしが
呑や
謠へと調子づき追々
亂酒になり夜に入ると雖も猶更に
各自謠ひ
淨瑠璃にだみ聲を
張上遂にはすてゝこ
踊やかつぽれと醉に乘ぜし有樣は何時果べきとも見えざりけり然るに伴建部の兩人は
[#「伴建部の兩人は」は底本では「伴建部兩人のは」]先代よりの用役ゆゑ
兎角煙たく思に付此
酒宴の席へ呼ざるを兩人は是ぞ
屈竟の幸ひ此
機にこそ我々が望みを達せんと竊に悦び猶彼是と心を配りしが
今宵は是非共過さじと女房にも此事を話し其方は御
裏門に待受て藤三郎樣の御供をなし神田三河町惣右衞門の方迄
立退べし藤五郎樣には
[#「藤五郎樣には」は底本では「藤三郎樣には」]我々御供を致し後より行んほどに必ず共に
仕損ずまじと申含め置
豫々相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、564-10]の支度してお島が手引を相待けり然るに奧にては夜の
更行に隨ひ酒宴の騷ぎも
漸次に
薄らぎ最早座敷も引て皆々席を退き
臥床に入ければ夜は
深々と
降積る雪に
四邊の
然にて
鼾の聲のみ聞えるにぞ
伴建部の兩人は今や/\と窺ふ
機お島は藤三郎を
抱上小用に
連行體に
持成座敷々々を忍び出て
漸々に
錠口へ來りければ
待儲たる兩人は
密と請取りお島は佐十郎の耳に口を寄せ
先藤三郎樣の御事を計ひ夫より御兩人
倶に御庭の垣を越てお小座敷より忍入藤五郎樣の入せらるゝ處へ御出候へと申ければ佐十郎
打點頭呉々も頼むと
言置兩人共に先藤三郎樣を
連行んと
其處を
立去出るに雪は
彌々降頻其寒き事絶え難く漸々と裏門口へ出れば豫て宵より伴建部兩人の妻女お松お花は夫と云い合わせて有る事なれば寒きを厭はず待居たりしが斯と見よりお松は立
寄藤三郎を
肌に
脊負お花と供に三河町を指て急ぎけり又伴建部の兩人は腰元お島が働きにて難なく藤五郎の
押込ある
組牢の處に到り見るに哀なる哉藤五郎は主税之助が惡心により
日外より日々食物を
斷れてあれば
惣身痩衰へ眼は
窪み小鼻も落て此世の人とも見えざるゆゑ兩人の用人は
涙を流し是が嘉川家の若殿樣の有樣なるか扨々淺ましき御事なり少しも早く御
連退申さんと兩人して
組牢の
柱を一本音のせぬ樣に漸々
引拔郷右衞門は藤五郎を
脊負て夫より座敷々々を忍び出れど
若此期に
臨みて
出合者有ば最早一
生懸命に
討果さんと伴
佐十郎は前後左右に眼を
配りながら刀を
拔持て郷右衞門の後に添藤五郎を
守護なし漸々と忍び出以前の裏門の潜りを開て外へ出立ホツと一
息吐夫より兩人は惣右衞門の方へと走りたり
扨又三河町なる山口惣右衞門は此事を
晝の中に伴建部の兩人より申
越たれども惣右衞門は此節病氣にて
起居も自由ならざれば
今宵邸内へ
行働く事能はず又悴重五郎は九月中より御
代官の供をして他國へ行し故是も今度の用に立ず斯
打臥居て御兄弟樣の
遁れ來らるゝを
待事本意なさよと宵より頻に聞耳を立てゝ枕をもたげ我身の病苦は
打忘れて
幾度となく家内のものを門へいだしては氣を
焦ち只々藤五郎兄弟を
待詫てぞ居たりけり
斯て其夜も
追々に
更渡り
早子刻も過
丑刻の
鐘も
遙に聞え
軒端を
誘引雪風の身に染々と冷るに何此
眞夜中の大雪に
伴建部の計りし事ゆゑ
首尾能御屋敷は
遁れ出給ふ共自然と途中にて凍えは
爲給はぬか
嘸や夜道は御難儀ならんと老の心のやるせなく女房に
對ひコレお時やアヽ何も己は御二人樣の事が
案事られてならぬ今夜も彼是
最今に
寅刻なれば今迄沙汰のないは
萬一渠等が仕
損じはせまいかと
此胸が
落付ぬ我年こそ寄れ此病氣でさへ
無成ば第一番に
御邸より御二人樣を御
連申さんに
佐十郎郷右衞門の兩人にのみ
骨を
折せ
斯のめ/\と我が宅に居ん事眞に云
甲斐なしとは
言何分病には勝難し
偖々何か
仕樣は有まいか萬一此事を
仕損じなば御二人の御命にも
關はるならんと
起つ
臥つ氣を
揉機しもゴウゴウと耳元近く聞ゆるは
東叡山の
寅刻の
鐘コリヤ斯うして居られぬと物に
縋りて立上り
蹌踉足を踏しめつゝ二足三足
端近く出行
機會裏口に人の足音爲ければ惣右衞門は耳引立て
那お時何やら
裏で聲がするコレさお時早く行や行て見て來やれ是さ/\と
急立られ女房は早々に立出誰殿かと云に彼の者小聲にて
然言聲はお時樣やれ/\
嬉しやと言を
聞門の戸を明ればお松お花の兩人は藤三郎と
倶に雪まぶれに成しを
打拂ひて内に入お松は藤三郎を
脊より
下しければお時は是を見てやれ/\
若樣か此のお寒いのに
能先御出遊ばしたお松樣もお花樣も
嘸かし
御寒いことで御座んせう先々早ふ此方へと
案内しけるに兩人は藤三郎を
伴ひ
奧へ
這入ば惣右衞門は
待構し事ゆゑ我を忘れて
打喜びやれ/\嬉しや南無
金毘羅大權現心願成就有難やと
泪を流して
伏拜みテモマア此寒さに
御機嫌よくと藤三郎を
撫摩りなどする中に伴佐十郎
建部郷右衞門の兩人はお島が働きにてなんなく藤五郎を
救ひ
出し是も同じく脊に
負ながら此處へ
急ぎしに男の足故程なく來りければ皆々大に
悦び
合先是にて一
安堵と一同に
太き
息をホツと
吐夫より皆々火鉢に寄て雪に
濡たる
衣など
乾ながら郷右衞門云
樣斯二方樣共首尾能
盜み出せしゆゑ明日は
必定御邸にて尋ね
探さん然すれば
豫て御邊が此處に住居せらるゝを
知事なれば是非共
爰へ尋ね來るべきにより御兄弟樣
此儘爰には差置參らせ難し此儀如何せんと
相談せしかば惣右衞門は
點頭其儀は
先殿樣の御恩に成し御出入りの
陸尺七右衞門は男氣の者にて
須田町一丁目に住居致せば此者を頼みて
渠か方へ御二方共に
竊に忍ばせ申さんと某し豫てより思ひしか共此病氣にて
渠の方へ行事能はず夫故未だ渠には申談ぜざれども
貴殿より御頼みあらば
承知致さんと云に郷右衞門其儀は
至極然るべきにより片時も早く某し是より須田町一丁目へ
馳參り
陸尺七右衞門に
折入て頼み申べしと立上るを皆々夫は何共此大雪にと云けれども
郷右衞門
是迄の處をさへ
爲課せし事なれば此上の
駈歩行に雪位はおろかなり殊に是より須田町までは
僅の
道ゆゑイデ
片時も早く
到らんと此處を立出七右衞門の方へぞ
急ぎける
程もなく須田町一丁目へ來り七右衞門の門を
叩きて
案内申入ければ七右衞門の家内は夜中の事ゆゑ
不審何れの
邸よりの使にや
未だ夜の
明ざるに來る事
能々火急の用向ならんと思ひ尋ねければ郷右衞門は
據ころなき
要用にて
罷越たり七右衞門
在宿なれば
面談申度と
言入けるに七右衞門在宿に候と答へながら
出迎ひ是は/\郷右衞門樣何御用にて
斯早く御出なされしやと申ければ
郷右衞門
然ば未だ夜の中より來りしは
貴樣が男氣を
見掛て
竊に
頼み度一條ありと云を
聞七右衞門
然ば先
此方へと一間へ
通しけるに郷右衞門聲を
潜め藤五郎兄弟の事を
委細に語りければ七右衞門夫は/\とばかりにて
惘れ居たりしかば建部は
膝を
進め右の次第ゆゑ何卒御二人樣を
暫の内
隱匿呉らるゝ樣
偏に
頼み申と
言ければ七右衞門は
元來男氣の者なるに付
段々郷右衞門の物語りを
聞主税之助が惡意を
憎み
殊更先代の
厚恩を受し者故委細を
汲取て郷右衞門に向ひ扨々恐れ入たる御物語り
御二方樣の事は私しが身に
代ても
御引受申し
上御世話仕つるべければ必ず/\
御氣遣ひ
成れまじと世に
頼母しく引請ければ郷右衞門は大いに悦び
然らば
明方迄には
御連申さんにより
呉々も
頼むなりと云ひ置て立歸りしに七右衞門も
斯請合し上はとて己も郷右衞門の
後より大雪をも
厭はず三河町なる山口惣右衞門の方へ到り
猶も惣右衞門に
對面して
委細己が
心底を
語りければ惣右衞門始め一同七右衞門の
氣質を
感じ惣右衞門は病氣
故萬事心に任せず
迚偏に郷右衞門を
頼ける故七右衞門は委細
呑込然る上は
佐十郎樣郷右衞門樣とても
此方に
在れては宜しからず御兄弟樣の御供して手前の方へ
御越成るべしとて
伴建部夫婦の者も
倶に主從都合六人を早速我方へ
連歸り
何是となく
心切に世話をなしける事
實に
頼母しき
男氣なり
斯て
翌廿二日の
朝嘉川家の人々藤三郎の
見ざるを
不審に思ひし所藤五郎を入れ置きし
囹も
破れ其上伴建部等も居らざれば大いに驚き
騷ぎ
邸内の者共を殘らず
呼出し吟味に及びけれ共皆々一
向に知らざる
旨申ければ主税之助は
憤怒是れ必らず
腰元お島の
手引にて藤五郎兄弟を
佐十郎郷右衞門の兩人に盜み
出させしに相違
有まじ
然すれば先づ三河町二丁目の惣右衞門が方を尋ね
見るべしと有て早速
孕石源兵衞安井伊兵衞の兩人を
呼び三河町なる
右惣右衞門の方へ
探に遣はし置き
猶又安間平左衞門立花左仲の兩人を相手に種々と
相談に及びけるに兩人も
是は
正しく
殿の御考への通り伴建部と申し合せお島の手引に
疑ひなしとの事ゆゑ夫れよりお島を
呼付藤五郎兄弟は其方が
手引して佐十郎郷右衞門の兩人に
盜ませしに相違有るまじ
眞直に申せと
責掛若し此事を言ざるに於ては
仕樣が有るぞと
威し付けれどもお島は
努々手引など致せし
覺え
之なしと答ふるを聞き安間立花の兩人目をむき出し
汝何故に知れたる事を
陳ずるやあり樣に申すべしと
頻りに
責付ると雖もお島は恐るゝ
面色もなく
假令如何樣に仰せらるゝ共私しは更らに存じ申さず殊に
伴建部の御兩所は此
御邸の案内は私しより能く存じ居らるれば何として私し
風情の手引を頼みに
斯る
大膽なることを致され申さんや此所能々御
推察下さるべしと申しければ主税之助は
疊を
蹴立扨々
口賢く云ひぬかす女め
汝より外に
此手引をする者なし
然に因て汝を
詮議するぞ有樣に
吐せばよし若し此上にも
取隱さば
憂目を見せんと云へども知ぬとばかりゆゑ立花左仲は
立掛りお島を
引立て
庭に
連行衣類を
剥て
雪に
氷りし松の木に
縛り
付割竹を以てサア有體に
云々と
嚴く
打擲き種々手を
替責ると雖もお島は更に
屈せず後には
眼を
閉て一向に物を言はざれば主税之助は
彌々怒り
此奴勿々澁太女なり此上は
槍玉に
上て呉んずと云ひつゝ三間
柄の大身の槍を追取
鞘を
外して
小脇に
抱込お島に
對ひサア汝言はぬか
何ぢや言ぬと此槍が其の美しき
體に御見舞申すぞ是でも言はぬか/\と既に
突べき勢ひゆゑ安間平左衞門は是を
押止め
暫時御待ち下されよと言ふ處へ安井孕石の兩人は立ち歸りければ主税之助は兩人を
見や
否や樣子は
何うぢや
行衞は知れたるかとの尋ねに兩人言葉を
揃へ仰せに隨ひ三河町二丁目を
種々と
穿鑿仕つり候處
居酒商賣の
裏長屋にて
漸々と尋ね當り彼の惣右衞門に仰せの趣きを申し聞かせ樣子を
探り候へども藤五郎樣御兄弟の
行衞は一向に存じ申さずと申し
其上惣右衞門は病氣にて
臥居り
又彼が
悴重五郎も他國へ
行しよしにて家内には
只惣右衞門夫婦のみ
居候まゝ
種々尋ね候へ共何分知らざる由ゆゑ夫れより近所
合壁にて承たまはり候と雖どもこれと申す
取留たる儀は御座なく候とぞ申しける
然ば主税之助は大いに氣を
焦ち
左に
右今度の儀を惣右衞門の知らざる事の有るべきやと
足摺して
急遽ゆゑ立花左仲は進み
出只今兩人の申す如くにては
勿々穿鑿行屆くまじ此儀今一應私し三河町へ罷り
越一手段仕つり
度と云ければ主税之助は大いに悦び然らば其方
猶此上の
穿鑿致すべしと云けるに夫れより左仲は
直樣三河町にと
馳行たり
偖主税之助は又々お島の
傍へ
行汝先程より
種々と尋ぬれども一向に白状せず扨々
憎き女めと
言樣又も槍を追取て
種々と
威しけれどもお島は
觀念せし
體にて眼を
閉し
切一言も發せず居るゆゑ平左衞門は
豫てお島に心あるにより又々
押止め
先々御待ち成さるべし手引は
渠が致せしにもせよ
盜み出せしは伴建部の兩人なれば此者どもの
有家さへ知るれば藤五郎殿御兄弟の
行衞も知れ候はん其の上にて
如何樣とも御存分に遊ばされて
遲からずと取りなす處へ立花左仲
息急と歸り來れば如何に左仲
手係りなりとも知れたるかと尋ぬるに左仲答へて
左ん候ふ私し三河町へ參り見候處彼等兩人申す如く惣右衞門は全くの病氣にて又
悴の重五郎も御代官の
供をして他國へ行しに相違なし因て
渠が
隣家の者を
種々に
賺し其夜の樣子を
相探り候處一人の者の申し候には
夜前深更に及びて惣右衞門方へ
人出入の有し樣子に相聞え候と申す
故猶々穿鑿致し候處其後
陸尺の七右衞門が惣右衞門方へ來りて
種々の話しの
體なりと申し候
然すれば彼の惣右衞門も自分の方に
置時は忽ちに知れんことを思ひ御先代よりの御出入の
縁を以て
陸尺の七右衞門を頼み
匿ひ
置候と相見え候然すれば藤五郎樣御兄弟は須田町一丁目なる陸尺の七右衞門の方に
匿ひ置くに
紛れ御座なく
候としたり顏にて言ひければ主税之助大いに喜び成ほど其方が
穿鑿能も行屆きたり扨々
憎き
奴輩かな此儘
捨置時は事の破れなれば
假令病氣なりとも
直樣惣右衞門めを
引摺來れ我れ自身吟味せんと
敦圉荒く申しけるを安間平左衞門は是れを
制し惣右衞門
事舊は御家來に候とも當時は御
暇の出でたる者ゆゑ是非は
兎も
角も彼の方へ
連退匿ふと申す程のことなれば
渠等も
根深く
巧みたると相見え候へば
勿々以て容易の儀には參るまじ
然れば何事も此方にて
後手に
成ざる樣に
表向き御吟味
御請成るべしと申しければ主税之助は是を聞て大いに
駭き
若此事
表立吟味を
請る時は是非共今迄の惡事を彼等より
逐一申し立て
露顯に及ばん我れ夫れを
言解ん道なし是れ自ら石を
抱き深き
淵に臨むの道理にして何れの道にも
負公事なり何か外に
能思案こそ有らまほしけれ此儀兩人にて我れを救ひ
呉よと申しけるに平左衞門も左仲も
此體を見て
苦々しく思ひ左樣に
御心弱くては
叶ふまじ是れ迄の事共も
豫て其御覺悟なくしては成るまじくと存ぜしに只今の御樣子にては
聊かも
其御覺悟なく
成れし事と相見えたり
然ながら今更夫れを
彼是と申すも
詮なき事に候へば
先々御心を
鎭め給へ
篤と御相談の手段も御座候ふべし
古語にも
遠き
慮かりなきときは近き
憂ひありと申すは
正しく是なるべし
然ども三人
寄時は
文珠の
智慧此平左衞門左仲御
附申し
居中は御安心
成れ能々御思案候べしと種々相談しける
中良半日餘りお島が雪の中に
縛められ
身神ともに
冷凍え
人心地もなき
體を見て平左衞門は
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、570-9]をなし藤五郎を
押籠置たる
牢の中へ入れさせ番をつけて
差おきたり
然れば嘉川主税之助は我子の愛に
眼昧み終に其家名を失ふに至る事
是汝に
出て汝に歸るの古言
宜なるかな此度
伴佐十郎建部郷右衞門の兩人藤五郎兄弟を
救ひ
出し山口惣右衞門并びに
陸尺の七右衞門と申し合せ兄弟の者を
深く
匿んとする
故主税之助は
詮方なく安間平左衞門立花左仲を相手に
種々と相談せしが
寧此方より
支配へ
委細屆書を差出し
表向吟味を
請べしと
頓々に決定して立花左仲は
頓て支配へ書面を
持參せんと
爲時安間平左衞門は左仲を
呼止御邊此書面の趣意を能々
腹へ入れ置き
若宮崎内記儀
直々御尋ねあらば其時こそ日頃の
智辯を
振ひ宜しく申し爲し給ふべしと何か
耳語[#ルビの「さゝやき」は底本では「たゝやき」]ければ左仲は
微笑此書面は貴殿の認められしことなれば我れ能々
腹に
納めて持參致し某し日頃の
能辯を以て天晴
上首尾に
仕課せ申すべしとて獨り
誇り
顏に支度を
調へ飯田町なる支配宮崎内記殿の
邸へと急ぎしかば程なく宮崎殿の
邸へ
到り同家の用人
溝口三右衞門に
面會して右の段委細申し入れ
御屆け書面は主税之助
持參致すべきの處病氣に付き拙者より差出し候
旨申し
述ければ三右衞門是を
請取左仲を
控へさせ置て内記殿の前に出で嘉川主税之助用人立花左仲の口上を申し
述屆書差し出しけるに内記殿は是れを
披見せられし所其書面に曰く
一先達て御屆申上置候嫡子藤五郎儀昨夜中座敷牢を破り弟藤三郎並びに家來伴佐十郎建部郷右衞門の者共とも行方相知れ申さず其上私し居間に之有候金子百兩紛失仕つり候是等の儀は右家來共兩人の仕業と存じられ候勿論同人共舊來思ひ掛の事も御座候處其事を果さず候に付亂心の藤五郎を誘引出し惡巧み致すべく存念と推察仕つり候之に因て渠等御召捕之上其筋御吟味下し置れ候樣仕つり度此段書付を以て御屆申上候
宮崎内記殿
右の如くの屆書なれば宮崎殿
眉に
皺を
寄られ一通り
自身承まはらんにより其立花左仲とやらを是へ
呼出すべしと申されけるに用役の溝口三右衞門は
早速左仲を呼出しけるに内記殿見られ只今差出しの屆書の趣き
篤と
披見致し候處此儀
容易ならざることなり尤も
先達て差出せし屆け書に藤五郎儀病氣と申す事は是あれ共
嫡子并に弟藤三郎まで一夜の中に
家出致し
行方相知れず
加之家來兩人も
逃亡せしなどゝは何か其意を得ざる事共にて甚だ家事
不取締なることなり殊に其家來は家の重役と云ひ先代より
召使ひし者の趣きなれば
旁々以て
怪敷ことに思はるゝ併し家來の儀は兎も角も子息の
行方知れざることは一寸の
間も
打捨置れざる儀ゆゑ主税之助
自分參向有られるやうに早々
罷り歸りて
急度申聞べしと申渡され内記殿には主税之助
不參の儀甚だ
等閑なりと申さぬばかりの樣子にて少し
憤ほりを
含まれければ左仲は其心を
汲取て大いに恐れ入り仰せの趣き
畏まり奉つり候へども
先刻私しより申上候通り誠に
折惡く主人主税之助事病氣に候間
據ころなく家來を以て右の段申上奉つり候
何卒格別の御慈悲を以て右書面の趣き御聞取成下され候はゞ此上もなき有難き
仕合せに存じ奉つり候と云へば内記殿
然らば其方
名代に罷り
出る程の者なれば萬一答へが出來るかと申さるゝに左仲
不肖乍ら主人の家事
向は支配をも仕つり候私しに御座候へば
大概の所は御答への儀申上候はんと云に依て内記殿内心に此者の樣子を見らるゝ處
一癖あるべき奴と思はれしかば
暫く
思案の
體に見えたりけり
扨も内記殿は左仲が樣子
佞辯奸智の
曲者と見て取り大いに
怪まれけれ共
先一ト通り事を
糺して見んと思はれ猶又左仲に
對ひ其方儀家の支配を致し候故
概略答へんとの事なるが然らば其方に尋ぬべし書面に
是有所の
建部郷右衞門
伴佐十郎の兩人
舊來の思ひ立ちとは如何なる譯なるぞ此儀心得居るかと申さるゝに左仲は
爰ぞと思ひ其の
事故は
嫡子藤五郎
亂心仕つり候に付
先達て御屆申上候弟
佐五郎を以て
家督に仕つり候儀を右兩人の者共
不得心にて藤五郎弟藤三郎を
嫡子に立てべき
旨主人へ度々
相勸め候得共藤三郎儀は未だ
幼少と申し其上
多病の
生れ付に御座候ゆゑ主人主税之助
承知仕つらず候を
渠等兩人
野心を
差挾み候事と相見え候と
邪辯を
震つて申しければ内記殿は是を聞かれ其方の申す通りなれば其
建部郷右衞門
伴佐十郎の兩人は先代平助以來よりの家來と相見えたり當主主税之助は先代平助の
實子藤五郎兄弟の中を
家督を致すべき
遺言を受たる趣きなれば藤五郎を
廢する以上は藤三郎を
家督になすべきは
順當なるを
世評の樣子にては
何うやら主税之助が甚だ
欲情に
關り
自身實子の佐五郎を
家督に致せしとの事餘人は
兎もあれ此内記が心には是れ
甚だ
如何のことに思はるゝなり
然れば
渠等兩人は先平助の代より
舊來の家來共の事故藤五郎が
病身の時は
弟の藤三郎に
家督を
繼せんと思ふは理の當然ゆゑ藤三郎を
順養子に
爲ねば成ず
否サ是は只某しが話なり尤も夫には又
種々の
込入たる
仔細も有べし
併しながら建部郷右衞門
伴佐十郎兩人の家來は先平助へ對しての義理
合も思ひ
彼是にて弟藤三郎を
家督にせん事を主人主税之助へ
勸めしならん然るを主税之助不得心とあらば右等の事に付
主從の
中不和に罷り成しと相見たりと有しかば左仲も理の
當然ゆゑ
是非なく
御意の通りと申けるに又
居間の金子百兩
紛失せし趣き是は郷右衞門
佐十郎兩人の其夜
逐電の事故彼の金子は
渠等兩人が
盜み取し事と主税之助始め皆々
疑ふと見えたりと申さるゝに
御意の如く此金子ばかりは
全く
渠等兩人の者が盜み取しに
聊か相違御座なく候と申しければ内記殿コリヤ其方
左樣申す
上は其金子
渠等が
盜みしと云ふ
屹度した證據有りや全く
折惡敷紛失の事故渠等を疑ふものならん汝が今申す
通りにて
慥なる證據有て申すが如し然らば其證據より
承まはらんと申されければ
流石奸智の左仲なれども一句も出ず居るを
何ぢや證據有りやと
言るゝに左仲恐れ入りましたと
閉口なせしかば内記殿
益々不審に思はれ其は
折惡き事故疑ふも
道理なれど今汝が如く申す時は證據にても有るかと思はる
兎角紛失物などは人を疑ひし後にて手前に有る事もあれば此儀は右兩人を
召捕篤と吟味の上ならでは
決定仕難し其儀如何とあれば今汝が申す方此内記甚だ
信用せずとの
詞の中に
拵へ事と
正鵠を
指れしにぞ左仲はグツと
再度閉口の樣子ゆゑ
良あつて内記殿何は
兎もあれ藤五郎兄弟の者の
行方又家來兩人の
在所とも早々尋ぬべし此義
考ふるに
渠等兩人の者主人の
子息を
誘引出せし事餘の儀にあらず藤五郎病氣の上は藤三郎を
家督に
爲と其の事
上向へ願ふ
存念ならん
然樣の儀ならば
奚ぞや
斯せず共致し方如何程も有べきに忠義の
志は却つて主家の
害とならん
併ながら屆けの趣き聞置なり
呉々も右の者ども
行方は早々吟味致し若し
市中に
居を見
當らば
屹度其處に張番を付け置き此方と并に町奉行へ屆け出よ必ず
權威を
施す事なく
成丈穩便にすべし萬一
手荒がましき事相聞えなば
屹度沙汰に及ぶぞ又此度の儀は
輕き事にあらねば早速御用番の
若年寄衆に
進達に及ふべし此旨主人へ
篤と申聞けよとて
席を立れしかば左仲は思ひの
外なる事ども故早々
屋敷へ
歸りけり
然るに立花左仲は宮崎内記殿にて
種々尋ねられし事ども
委細主人へ申
聞んと急ぎ立歸りて主税之助の前へ
出ければ主税之助は
待草臥し
機ゆゑ直樣聲を
懸如何に左仲内記殿の方にて
何と云れしや
何ぢや/\と
急立て尋ぬるに左仲は未だ座にも
着ぬ
樣故甚だ答へに
困りける主税之助は其次第を聞んと
頻に急ぎしかば左仲は
太息を
吐今日私し宮崎樣の御屋敷へ罷り
越御屆書を差上げし處内記樣早速
御逢成れて御屆け
書の趣き
逐一御
尋問有りける故其次第を申立候處
先御聞濟の樣には候へども何か此方の
御樣子を内記樣
御聞込ありて
豫じめ
御悟成れたる
體に御座候其上
伴建部の兩人が事は御前の
成れ方宜しからざる故と仰せられ
況て此事は
輕からざる儀故
早速御用番へ
進達成るゝ間
然樣心得よとの仰せに候と申しければ主税之助は是れを聞き
面色青然偖々夫れは
困り入しことなりと
頭を
低て
弱りし
體に安間平左衞門は
傍に居たりしが
冷笑ひ
否早御前の樣に御心弱くては
表向吟味の時は甚だ
覺束なし
都て物事は
根深く
謀り決して
面色に出さぬ樣なさねばならぬ事なり然るを
斯の如き
御樣子にては
對決なしに忽ち
[#「忽ち」は底本では「忽ら」]負公事と成り申すべし此上の處御心を大丈夫になし給ふべし後には
斯申す安間平左衞門
控へて
居れば
假令大山が
崩れ來る共少しも御心勞に及ばずと力を付れども主税之助は
兎角安心せず
否々然う手輕く申せども内記殿の心中が
何も心配なれば公事の
始末を話して見よ
佐十郎郷右衞門の兩人へ惣右衞門と云ふ
古狸が
後見をすれば是は容易の
公事でなし
那の惣右衞門めは
年こそ
老込たれど
並々の者に非ず
彼是評定所へ
出るならば此方が是迄の惡事を申立るは
必定なり
然すれば我等に吟味
係らんにより其時は如何に
返答して
宜るべきや是平左衞門
能分別を
教へよサア平左衞門
何ぢや/\と
急立ければ平左衞門は
微笑ながら夫
等のことは物の
數に
足ずと申を主税之助シテ其時は
何申
了簡なるや早く云て
聞せと云へば平左衞門はせゝら笑ひ
然とては御氣の小い事なり
何是式の事御心
勞に及ぶべきや先其時の事は
臨機應變と申事あり今
爰にて申事は更に役に
立申さず其
相手の樣子先の
出次第にて
何變ずるも量り難し此所にて申事は
勿々其節の間に
逢ものに非ず
假令考へて今申た所が本の足袋屋の
看板なり然ながら
然程御案事有らるゝことならば
先御
安堵の爲
少し御心の
休むやうに申上げん先以て
外までもなく
渠等兩人を金子の
盜賊と申立置たれば御吟味の節彼是申すとも右盜賊の
罪を
遁ん爲に惣右衞門を
語ひ忠義ごかし藤五郎殿
[#「藤五郎殿」は底本では「藤五殿」]御兄弟を
誘引出し候儀と
存ずる旨を
仰立られなば其事のみにて
渠等に
罪は
歸し候なり其上主と家來の事なれば
此公事に於ては御前に九分の
強みが之あるゆゑ事の
次第を仰せらるゝ時は是渠等が一ツの申
開きに困り候事
目前にて候若又
對決になり候とも藤五郎殿の
不行跡は一
度町奉行の手にも
係りたる程の
仕合せなれば疑ひは先へ掛る道理に候藤五郎殿も
何で
命はなき男又藤三郎殿は有りても
幼少なり
兎角邪魔になるは惣右衞門郷右衞門
佐十郎の三人にて
其の
中にも先郷右衞門
佐十郎の兩人をば
討取ば此度の公事は
必定勝利ならん右兩人を
討取手段を一
刻も
早成さるが
捷徑なりと申ければ主税之助は首を
傾け兩人を討取は公儀の方が
濟まじと云へば平左衞門
呵々と打笑ひ
扨々夫では何の
謀計も行ひ難し
能思召ても御覽
有べし先
渠等は
盜賊の事故
召捕んと致せし所
手向ひ仕つり候故
據ころなく討取候と申に何の
譯の候べき萬一
此事手違ひに成し處が
半知と
思召さば公事は勝なりと言を聞て主税之助は
漸々打合點然らば
切首の多兵衞其外
新參の者共に此事内分で頼み置んと金銀を遣し郷右衞門
佐十郎を討取ば又々
禮の
仕方ありと申付ければ元より
惡者共の事ゆゑ金銀に
眼が
晦喜び勇みて請合
日夜三河町より須田町邊を忍びて
付覗ひけり
扨又支配の宮崎内記殿は
先日嘉川家の一件に付家來の立花左仲
持參の屆書の趣を月番の
若年寄衆へ
進達致されし處此儀容易ならずと有て
早速年寄衆の評議となりたり
其頃天下の御政事に
關かる人々には老中
間部越前守殿同
井上河内守殿同
久世大和守殿同
大久保長門守殿
若年寄石川近江守殿同黒田豐前守殿同
土岐丹後守殿なり右の
人々立會嘉川家一件
種々評議是ある所土岐丹後守殿進み出られ今度の一條主税之助儀先一
應は
宜からぬやうに聞ゆれども又
逐電せし用人共も
合點行ざる儀なり
金子盜取候罪を
遁れんが爲に主税之助が申通り計ひし事かも知れず是は
町奉行に申付て彼の兩人の
家來を糺明に及ばせ
其後評定所にての吟味
然るべしと云れければ一同
此儀宜しからんと
早速大岡越前守殿へ達し有ければ越前守殿
思案の上
定廻り同心へ申付られ藤五郎藤三郎並びに
佐十郎郷右衞門の行衞を吟味致すべき旨に付
同心は
委細畏まり候とて夫より
先山口惣右衞門
浪宅を
探索せんと三河町二丁目の
[#「三河町二丁目の」は底本では「三河町三丁目の」]家主方へ罷越其方店子山口惣右衞門と云へるは嘉川主税之助の
浪人にて
裏屋に
住居と聞御用是ある間只今
自身番屋まで召連れ來るべしと申し渡しければ
家主は
畏まり候と惣右衞門へ其段申達しけるに惣右衞門は豫て覺悟の事もあれば年は
寄共流石武士ゆゑ何の
恐氣もなく家主同道にて自身番へ出ければ定廻り同心は立出其
許儀嘉川主税之助方に
勤仕致し
居し事ありやと申ければ仰の
通當夏中迄勤仕罷在り候と云ふに同心
點頭今度嘉川家より
公儀へ
御屆に及ばれしは
嫡子藤五郎次男藤三郎並に家來
伴佐十郎建部郷右衞門も去廿二日の
夜逐電の趣きなり
因て御老中方より町奉行へ吟味の儀仰せ付られし
故今日其行方を
尋ね出さん爲御邊を是
迄招き申たり以前の好みを以て若彼の者共を
竄ひ
置も致しなば
早速相渡し申すべし此儀
取隱し候はゞ其許の爲になるまじと
云を聞惣右衞門は
豫て
斯あらんと心得し事ならば少も動ぜず心の中に未だ
佐十郎郷右衞門より
訴へ出ざる中
公儀より尋ね出されし時は
渠等定めて
手都合惡かりなんと思ひ
何も
隱すべきにはあらね共先爰に知らざる
體に申方
宜しと
思案なし
御問尋には候へ共其の
儀決して覺え御座なく候尤も以前の好も候へば某しを
便りて參り候はゞ
竄ひもいたすべけれども未だ
手前へは參り申さず主税之助方よりは
昨日尋ね參り候間右の
旨を
答へて歸し候と申ければ同心然らば
聢と
左樣か
萬一後日に
顯れなば決して爲に
成まじ
併しながら參らざる儀なれば
是非に及ばず先吟味中家主へ
屹度預申付る惣右衞門も
左樣相心得よ時に陸尺七右衞門の宅は何方ぢや惣右衞門
御邊は知らざるやと思ひ掛なき尋ねに
日頃大丈夫の惣右衞門なれ
共ハツと
仰天なし七右衞門の
宅は須田町一丁目に候と答へしかば定廻り
同心は事に
馴しゆゑ
樣子を見て取
偖は此上七右衞門を
吟味すれば
相分るべしと心に
合點して夫より須田町一丁目なる七右衞門方へと急ぎ赴きたり
古昔宋の
文帝の
頃魏の中書學生に
盧度世と云者あり
崔浩の事に坐し
亡命て
高陽の鄲羆の
[#「鄲羆の」はママ]家に竄る
官吏羆の子を
囚て之を
掠治羆其子を
戒めて曰君子は身を殺て
仁を成故に汝死す共云べからず其子固く父の命を
守官吏火を以て其
體を
燒種々責問と雖も
終に言ずして死すと云夫と是とは變れども
陸尺七右衞門は
卑賤者に
似氣なく
豪侠にして
義を
好むが故に山口惣右衞門始め三人の頼みに因て藤五郎兄弟並びに伴建部の夫婦ども
上下六人を我が家に
連歸り何くれとなく厚く
周旋をして
匿ひ
置しに嘉川家にては藤五郎兄弟并に
家來伴建部の兩人共
逐電なし
加之主税之助居間の金子百兩
紛失せし
旨[#ルビの「むね」は底本では「むな」]を其
筋へ屆出ければ
町奉行大岡越前守殿より藤五郎の兄弟始め家來の者共を
穿鑿として
同心出張なし山口惣右衞門は町方
預けに相成し
由其上三河町より直樣此方へ役人中參らるゝ
趣きも惣右衞門より
内々知らせ
越しけれども七右衞門は
覺悟の事故
聊か驚く氣色もなく
早速に伴建部の兩人へ此事を
話し
猶三人
打寄相談をなすに
何せ隱し立は成まじき間御呼出し次第
罷出吟味を
請んと思ひて
相待所に程なく定廻り同心自身番に來りて七右衞門を呼び出すに付七右衞門は
即ち自身番へ罷出し所
役人申ける其の方儀
此度山口惣右衞門の
頼みに
依つて嘉川藤五郎兄弟并に建部
郷右衞門伴
佐十郎の人々を
匿ひ
置條三河町に浪宅致す山口惣右衞門の白状なりとあびせ
掛因ては如何の
筋合之有渠等を匿ひ置ぞ
眞直に申立よと言ければ七右衞門少も
屈する面色なく
御意の如く私し
儀四人共匿ひ置候に
相違御座なく候
尤も此儀は私し事先嘉川平助樣
御代格別の
御厚恩に相成候間
今度御世話申候
儀を
恐れながら一通り申上べし當代主税之助樣は誠に
驚き入たる御方にて己が實子に
迷ひ平助樣御實子の御二方樣を
非道になされ殊に藤五郎樣へは食物を
止めて
干殺さんと成され又藤三郎樣の
未御幼少者を
朝夕に
打擲き夫は/\
苦々敷事に御座候
斯申上るを
御胡亂と
思召さば是まで嘉川樣の奧向に勤めし者に御尋ね下さるゝが論より
證據相分り候夫れゆゑに平助樣御代の
御用役は山口樣も私し方に居らるゝ二人の衆も藤五郎樣御兄弟の御命が
危く存ずる故
斯の次第に成行申せしなり私し儀は
賤敷身分に候へ
共聊かたりとも
僞りなど申者では御座なく又人樣の
難儀を見ては居られぬが私しの
持前故是非なく彼の人々を
竄ひしに
相違御座なく候何れ
双方御
糺しの上は明白に相分り申べく殊に只今の御用人中は
非道の者共にて殿へ
惡智慧を
加候由私しは數年の出入
屋敷の事故先一旦の
難儀を
救ふ心に候へども
斯御尋ねの上は
包まず申上るにより御役人樣方の
御慈悲を以て宜敷御取計ひ下されよと憚る所なく申ければ役人も只
合點居たりしが
兎に
角藤五郎
始めを渡すべしと申により七右衞門は則ち藤五郎藤三郎
并に
佐十郎
郷右衞門を引連役人へ渡しければ同心人々を請取直樣立歸りて此段
委細に大岡殿へ申立けるに則ち越前守殿夫は苦々しき事なりとて
急ぎ御
月番の老中方へ申上られしにより老中方の
仰せには吟味中藤五郎藤三郎の兩人は
先先平助の
親類共へ
預け
置佐十郎
郷右衞門の兩人を
篤と
取糺せし上は
兎も
角も相分るべしと有しかば越前守殿承知仕つるとて
退出後早速佐十郎郷右衞門の兩人を呼出されたり
偖も大岡殿は
退出後早速佐十郎
郷右衞門の兩人を
呼出し今度の
趣意を
尋ねられければ兩人謹んで
平伏なし私し主人の先代平助儀
當主主税之助養子に
參られ候後兩人の
男子を
儲け候は則ち藤五郎藤三郎にて是を主税之助の子となし御
家督を
讓呉候樣平助
末期に
遺言仕つりしを其節は主税之助も
屹度請合私ども兩人
並に
惣右衞門等證人同樣其
席に
罷在候所主税之助實子
佐五郎出生の後は先平助
遺言に
戻り
[#「戻り」はママ]我が子に
家督を
繼せんと
種々惡謀を
構へ藤五郎を
強面致さるゝこと誠に朝夕目も
當られぬ次第故私し共三人の者
種々と
諫め候へ共
聊かも
取用ひ之なく非道の所置日々に
増長致すに付藤五郎も
若氣にて是を情なき事に思ひ或時は
放蕩の
擧動等御座候故是又其儘に
打捨難く
諫めつ
宥めつ致し候中
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、578-17]藤五郎
不行跡のこと御座りしを主税之助は幸ひに亂心と申
立座敷牢に
押込我が
實子佐五郎を
嫡子に
相立其上二男の藤三郎まで
亡者にせんと
種々難題を申ては
毎日打擲致し
若是を
意見立致し候者是あれば
早速暇を出さるゝゆゑ其後は誰一人諫め申者御座なく
剩さへ
新參の家來を愛し
古參の私し共は
除者の如くに致し
家政を亂し候に付山口惣右衞門は
餘りに見兼て
諫め候を
殊の外
憤ほり
直樣永の
暇を申付其後
新參の家來を相手に藤五郎藤三郎共を
害せんとの
密談致候を腰元の島と申者
竊に聞知私し共へ
告知せ候間
據ころなく兩人申合せ藤五郎兄弟を
救ひ出し候事に御座候之に依て
何卒主税之助を
召出され右等の儀
御吟味の上嘉川の
家名相立樣
御慈悲を以て御
説諭成し下され候樣願ひ奉つり度候と申立ければ大岡殿篤と是を聞れ其方の申
立相違も
有間敷なれど右口上の趣き
書面に致し差出すべしと有しかば
佐十郎
郷右衞門の兩人
口書を認め差出す其文に曰く
一私し共兩人儀は先主嘉川平助以來より勤仕罷在候處當主主税之助養子に參られ候後平助儀藤五郎藤三郎の二子を儲けられ候に付主税之助養ひ子に仕つり成長の後兩人の内へ家督相讓り呉候樣平助病死以前主税之助へ遺言仕つり其節私し共并に當時永の暇に相成し山口惣右衞門等其席に罷在承知仕つり候儀に御座候處其後主税之助實子佐五郎出生以來藤五郎兄弟を憎み非道の所置御座候より藤五郎儀若氣の至にて不行跡御座候を幸ひに同人を廢し候は是非なき次第に付弟藤三郎を嫡子に致すべき旨私し共諫め候を主税之助儀不承知にて同人實子佐五郎を嫡子に立られ候然耳ならず藤五郎并に藤三郎儀は先平助實子に付始終佐五郎爲に相成申さずと存じられ候哉藤五郎は座敷牢に押入食物を相止め藤三郎儀は幼少に之有候を種々難題申付朝暮折檻仕つり責殺さん覺悟と相見え候間私し共心配仕つり候處彌々藤五郎兄弟を亡ひ候べき内談を腰元島と申者聞知り是を私し共に知らせ候により嘉川家一大事と相心得右島を案内に致し當十二月廿二日の夜奧へ忍び入り藤五郎并に藤三郎の兩人を一先盜み出し候に紛れ御座なく候然る處當主主税之助より其夜居間の金子百兩紛失の由申立候は其身の惡事を押隱し申べき爲私し共へ御疑ひ相掛り候樣にと心得斯る儀を申掛仕つり候かと存じられ候之に依て何卒明白之御吟味願ひ奉つり度此段書取を以て申上げ奉つり候以上
元嘉川主税之助家來
同
伴 佐十郎 印
右の如く
書取差出候に付大岡殿
篤と一覽
致れ追々吟味に及ぶ兩人共吟味
中揚屋入申付ると申渡され夫より
右書面を老中方へ差出されしに付老中方始め
若年寄大目付御目付三奉行の評議となり嘉川主税之助は吟味當日迄
閉門を
仰付られたり尤も當年十二月も
早月末殊に
歳暮かた/″\來春の御用
始めまで嘉川家の一件は御
差置との事にて何方も
歳暮又は新年の
壽き
賑々敷御用も多ければ其
中に正月も立て早二月となりしにぞ
近日嘉川家の一條も吟味に取り
掛らんとの事どもなり
時に嘉川主税之助は我が
實子の
愛欲に
眼闇みて家の
亂れは一向構はず彼安間平左衞門始め新參の家來を
相手に
只管惡事を
相談して居る中大岡殿は
伴佐十郎建部郷右衞門の兩人より委細の事故
聞糺され吟味の
當日まで主税之助
閉門仰せ付られしに
付主税之助を始め嘉川の家來どもは
今度の一件の
縺れはお島の
手引に相違なしと其後も
晝夜責さいなみ
終に打殺し死骸は何方へか
捨置知らざる
體になし居たるにお島の
親里住吉町吉兵衞方より此儀に付大岡越前守殿奉行所へ
訴へ出ければ越前守殿
早速白洲へ
呼出され目安訴状を披き見るに
一住吉町忠八店吉兵衞申上奉つり候私し娘島と申者三年以前より御旗本嘉川主税之助樣御屋敷へ腰元奉公に差出し置候處當人へ用事之あり昨年冬中より度々御屋敷へ罷出候へ共何か御取込の儀御座候由にて一向に御逢せ下さらず何共合點行ざる事と存じ居候中世間の風説惡き儀を承はり候間猶又御屋敷へ罷出當人へ達て對面致し度旨願ひ候處御用人安間平左衞門殿を以て仰聞られ候には島儀去る十二月廿二日の夜盜賊を手引に及び候に付御手討に相成たりとて島持參の道具而已御下下され候得共死骸は御渡し下されず因て甚だ打驚き愁傷仕つり候處右道具の中に娘島儀豫て覺悟致し候事と相見え遺書一通之あり候に付之を披見仕つり候に主人とは申ながら餘り御情なき致され方と存じ候間切ては御慈悲を以て死骸だけも御下げ下され候樣仕つり度之に依て此段歎願奉り候以上
住吉町忠八店
家主 忠八 印
右の如く
讀上ければ越前守殿大いに
驚かれ
扨は嘉川家の一件
彌々主税之助の惡事に相違なしと思はれ吉兵衞に向ひ
其島と申は其方の娘なれば死骸を
下て
貰ひ度思は
道理なり
嘸其方が心には
殘念なる事にあらん是も
所謂過去の約束
事ならんか然共餘り
苛酷仕方ゆゑ其方が
胸中察し入る尤も嘉川家の事に就て
大分入組たる筋あれば
近々に
評定も是有るべしシテ又其方が願ひし時娘の死骸
何として渡さばやと尋ねられしかば吉兵衞
涙に
咽びながら其儀は嘉川家の
御用人平左衞門殿の申さるゝには御
手討になりたる者ゆゑ此方にて
取置たり
然樣存ずべしとのことで御座りましたが其平左衞門と申人は
恐しい人で
大層な
見識にて私しを
睨み付猶何とか申たならば又私しをも
手討に致しさうな
勢ひなりしと云ば大岡殿夫は
何時頃手討に成し樣子なるやと有に吉兵衞ハイ
何時頃で御座りますか日も申
聞られず
大概海川へでも死骸を打
捨られしならん何時が命日やら一向分らず定めて娘は
迷うて居る事にやと思へば
涙の
乾く
間も御座りませんと人目も
恥ず
泣居たるに越前守殿も甚だ氣の
毒に思はれ
扨々非道の致し方なり
宜々程なく吟味を遂て遣はすシテ其
遺書を
持參致居るかと問るゝに
御意の如く
持參仕つりしと吉兵衞は
懷中より取出して
指出しければ越前守殿是を見らるゝに
手跡も見事にして其文章も
勿々能譯りしかば則ち目安方へ渡され目安方
高々と
讀上る其
文に
申
殘し
參らせ候事 (
裏書)正月廿五日夜封す
久々御めもじも致し申さず御
懷しさのまゝ
聊かの人目を忍び
書殘し參らせ候
扨當御屋敷の
殿樣御
親子の御
中兎角惡しく去年夏中より藤五郎樣御事
座敷牢御
住居にて召上りものもろくろく進ぜられざる程の
仕合せ御
最惜き事申ばかりも御座なく又御
弟子藤三郎樣も殿樣奧樣の御
惡しみ深く
未だ御
幼少の御身を
旦暮御折檻遊ばし日夜おん
涙の
乾く間もなく誠に/\
御愍然存じ上參らせ候
夫に付御
先代よりの御用人
衆と御
相談申上去る十二月廿二日の夜御二方樣を御
救ひ出し申上候處其事私しへ
疑ひ
掛り夫は/\誠に
恐しき
責苦を受候御事詞にも筆にも
盡がたく
斯樣の儀を御
知せ申上候も不孝とは存じ候へども
始終の所私しの命はとても御座なき事と
存じ候へば最早此世にての
御目もじは出來
難く先立不孝は御
免し下され度候尤も大殿樣は大惡人ながら御
氣象甚だ甲斐なき御方に御座候處御用人安間平左衞門殿と
[#「安間平左衞門殿と」は底本では「安同平左衞門殿と」]申人は實に情なき者にて其の心の恐ろしき事
鬼とも
蛇とも
譬へ
難き大惡人に御座候
往昔より
惡逆非道の者の
咄しも
承まはり候へども此平左衞門殿程の大惡非道の人を
未だ承まはり申さず候此人
近來御屋敷へ御
召抱へに相成て
皆此者より
殿樣へ惡敷事を御勸め申上候まゝ
元來惡心の有せらるゝ殿樣ゆゑ
一方ならず御意に
入日々惡事のみ相談あるにより私し事も遠からず平左衞門殿の手に
係り候はんと思ひ
定め※
[#まゐらせさうらふ、582-16]私し
亡後は何の樣子も御存なく
御歎も有らんかと存じ此事
故あら/\
書殘し參らせ候
猶委しく申上度候へども少時間の
隙を見合認め候まゝ別して筆も廻り
兼候
宜しく御
推もじ願上參らせ候かしく
しまより
斯の如くの
遺書を越前守殿
聞れ如何にも
憐れの事に思はれしかば心中に扨は其島が殺されし死骸は
思當りし事も有とて考へ居られけり
○越前守
殿寺社奉行より
掛合の張面
[#「張面」はママ]取寄らるゝ
[#「取寄らるゝ」は底本では「寄取らるゝ」]事
然ば大岡殿はお島が
遺書を
[#「遺書を」は底本では「遺書と」]熟と聞かれて嘉川家の一件
豫じめ
推量られ右島と申す女の殺されし事は正月廿五日
過の事と思はるゝにより當二月二日
寺社奉行黒田
豐前守より兩奉行所へ
掛合ありし
節の帳面を持參せよとて
取寄られ御覽あるに寺社奉行所へ
千住燒場光明院より訴への寫し左の通り
一昨夜亥刻前淺草阿部川町了源寺切手を持參致し所化僧一人檀家三人差添棺桶送り越候處掛合中右棺桶を置捨に致し候間相改ため候に女の死骸にて變死に紛れ御座なく候依て御檢使願ひ奉つり候以上
千住
右檢使の
書取寫し左の通り
年頃廿一二の女
惣身に
打疵多して
[#「打疵多して」は底本では「打疵多して」]殺候樣子に相見申候尤も
衣類は
紬縞小袖二枚を着し
黒純子の
龍の
模樣織出の丸
帶を
締面部眉左の方に
古き
疵の
痕相見候
淺草
了源寺より
訴への
寫し
一昨夜當寺の切手を持參致し所化僧一人檀家三人差添千住燒場光明院へ火葬の者送込候處其後所化僧檀家共棺桶捨置逃去候由光明院より掛合越候へども當寺に於て右樣の覺え御座なく候に付此段御屆申上置候以上
淺草阿部川町
右の通り
書留之有るに
付き越前守殿吉兵衞に向はれ其方
娘島は當年
何歳に成やと問るゝに吉兵衞ヘイ
同人は當年廿一歳に相成ますと申ければ越前守殿
然らば同人左の
眉の方に
古疵の
痕はなかりしやと申さるゝを
聞吉兵衞不
審に思ひ御
意の如く
幼少の時
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、584-8]怪我を致せしが其
痕が今に
殘り在しを娘が人
相に
係ると人々が申せしとて
平常に苦勞致し
居しが此度
斯樣の死を
遂ると云は云
當たることと思はれ一しほ
歎かは
敷存じ候と申立ければ大岡殿然すれば其方が娘の死骸は千
住燒場光明院に之
有間彼の處へ
行早々引取り
葬り得させよと有て右兩所より
訴へ出し
書付の
趣きを
委敷申聞られしにより吉兵衞は其
始末を聞より大いに驚き扨は娘島事は嘉川主税之助殿の手に
係り
非道の
最期を
遂しに相違なし定めて彼の惡人の安間平左衞門めが
仕業より出し事ならん思へば/\
怨めしきは主税之助殿
主從なりと或は
怒り或は歎き大聲上て泣居たるは如何にも氣の
毒なる有樣なり夫より下役人は
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、584-13]して吉兵衞を
勞はり爰を下らせしが大岡殿は早々右の趣きを
老中方へ申立られ
不日評定所に於て吟味有べきとの事なり
善惡邪正も
判然るゝ
期至れるかな
頃は享保四年の二月に時の町奉行大岡越前守忠相殿住吉町吉兵衞の
願ひ出し一件
逐一
聞糺され老中方へ申立られ
掛り役人
評議の上右關係の者共評定所へ呼び出され吟味あるべしと定まり尤も此度は
最初より
見込の儀も
是あるに付當日の吟味は越前守へ仰せ付られしにより
早速小普請支配宮崎内記殿へ明九日
支配下嘉川主税之助并に同人家來安間平左衞門の兩人吟味
筋之有に付
差出さるべき旨
剪紙を以て達せられければ宮崎内記殿
委細承知致したりと有て
即刻此段嘉川主税之助并に
親類へ達せられし處翌九日親類山内三右衞門是は百俵五人
扶持の
輕き御家人にて先平助の伯父なり同人并に
小普請組頭等
附添警固なし駕籠へ乘せて罷出評定所
腰掛に
相控へ御
下知を待れけるに今日は
月並の評定日なれば
士農工商儒者醫師或は
順禮古手買追々に罷り出控へ居ける中役人
方家々の
定紋付たる
筥挑灯を
照し
行列正しく出仕有に程なく夜も
明渡り役人方
揃はれしかば
稍有て嘉川主税之助一件の者共
呼込になり武家の分は玄關にて大小を受取
屏風圍ひの内へ
控へさせ
置平民の分は
白洲の
溜りへ控へたり時に案内に隨ひ
各自吟味の席に
罷り出れば白洲には雨
障子を高く
掛渡し御座敷
向[#ルビの「むき」は底本では「むぎ」]的歴なる事
誠に目を驚かすばかりなり扨主税之助は
入側右の方に
着座なし引續きて附添の
小普請組頭末座に親類石原文右衞門山内三右衞門
縁側には
家來安間平左衞門罷出其
有樣最憎々しき面魂ひにて一
癖有べき者と言ねど面に
顯れつゝ吟味を今やと相待
居たり
扨役人方の上席は老中井上河内守殿
若年寄大久保長門守殿石川近江守殿
[#「石川近江守殿」は底本では「石貝近江守殿」]寺社奉行黒田豐前守殿左の方には
大目付有馬出羽守殿
御目付松浦與四郎殿其外評定所
留役御徒士目付小人目付に至るまで
威儀を
正して
列座あり此時大岡越前守殿掛り故直と
席を進まれければ
目安方聲高々と小普請組宮崎内記支配嘉川主税之助同人家來安間平左衞門と
呼上る時各々一同に
平伏す
頓て越前守殿
目安方に建部郷右衞門
伴佐十郎兩人の口書をと申されければ
目安方是を讀上たり因て大岡殿主税之助に向はれ
只今承まはる通り伴佐十郎建部郷右衞門の兩人より申立たり
此儀如何やと
尋ねられければ主税之助首を上其の義は
渠等兩人盜賊に相違御座無く候處
己等の
罪を
遁ん爲
然樣の
儀を申立候事と存じられ甚だ
不屆なる者共に御座候先渠等兩人
拙等方に
[#「拙等方に」はママ]勤中も
種々不埓の
筋有之候者共にて
兎角某しを
輕んじ
奇怪至極に存じ居候と申を
聞れ越前守殿コレ主税之助
其許の
樣に取所もなき事を申されては
聊かも
返答と云に非ず先渠等が
罪有事は
有樣に申され又渠等より申立たる
條々は
其許神速に申開かるべしと申けるにぞ主税之助は
元來愚成上其身の
行ひ甚だ
非道の事のみ
故越前守殿の
詞に
怕恐れハツとさし支たる體を見て安間平左衞門は
生得大膽不敵の
曲者成ば主人の答を
齒痒きことに思何とか口を利たき體に控居たり
再び越前守殿主税之助に
向はれ
其許は
先代平助の
養子に相成し
後平助は藤五郎藤三郎の兩人を
儲けしに付平助末期に藤五郎兄弟は家の
血筋故其許の養子となし
家督を
讓り呉候樣呉々遺言ありし時
急度承知致し
居ながら何故に藤五郎兄弟を
廢し實子
佐五郎を
嫡子に致されしやと尋ねられければ主税之助夫等の儀は
仰に候へども藤五郎は
其躬不行跡にして
勿々異見も聞入ず其上亂酒により一
度は
公儀の御苦勞にも
係りし者に付
押籠相廢候と
答ければ越前守殿其は一應聞えたれども何故に藤五郎の
食物を
止められしや又藤三郎は
幼少なるを
非道に
折檻致さるゝこと我子
佐五郎の爲に
行末惡しかりなんと思ひ
渠等兄弟を殺さすとの
心底なるや
然樣の惡心を
起し我が子の爲と存ずる
淺猿き心
偖々苦々しき
所爲なり
斯淺果なる惡事何として其身の
望みを遂ることなるべきや因て其許も
能々我身を
顧みられよ
古語にも
父父たれば
子子たり
父父たらざれば
子子たらずと云に非ずや然る故に
此度の如き家の
騷動を
引出すなり
加之御邊の
居間の金子
紛失は伴佐十郎建部郷右衞門の兩人が
盜取しと云事
確固なる
證據有や是とても其身の惡事を
隱さんが爲に跡方もなき
空言を申
立渠等兩人に
惡名を付る其許の巧み甚だ以て
言語に
絶たり此儀辯解ありやサア如何に返答致されよと
高聲に申されたる有樣
威權鋭ければ主税之助はハツと言て生膽を取れし如く色
蒼然つゝ
震ひ
出し一言の答へも
成ず其儘
平伏なしけるを大岡殿見られ心に此奴は大惡
成共取に
足ざる
愚人なり然すれば是迄なしたる惡事は
悉皆く安間平左衞門の勸し業と察せられしかば平右衞門に
[#「平右衞門に」はママ]對はれ主税之助
家來安間平左衞門とは其方の事かと申されたる其聲
自然と骨身に答へしにや
流石に
不敵の平左衞門もハツと平伏なしたる
體甚だ恐れし樣子なり其時越前守殿
最徐かに尋ねらるゝ樣其方は嘉川の屋敷へ何時頃より奉公住致せしやと申さるゝに平左衞門三ヶ年以前奉公住仕つり候と申ければ大岡殿
然らば
先主は何方なるやと有に平左衞門先主人は京都に御座候と云へば大岡殿ナニ京都と申か其方の
言葉は京
訛り少しもなく關東言葉の樣に聞ゆるぞ
而て
先主の名前は何と申すぞと云はるゝに平左衞門は
堂上方に奉公致し候と申しければ大岡殿
堂上方に
勤仕せしと云ふか生國は何方にて
武家か町人か百姓か
有體に申せと云はるゝに平左衞門ヘイ決して
僞りは申し上ず私し生國は相州なれ共京都へ參り
久々奉公仕つり
居しと申立ればナニ生國は相州とな
然すれば大久保家の家中の者なるかと問るゝに平左衞門
否然樣には之無私し親は
農人に候が私し儀
幼少より武道を好み候故
當時武家の奉公致し候と言ければ越前守殿
能こそ有體に申たり尤も其方が言はずとも汝が
素性は
大概知れたり此上は何事も
包まず明白に申せ
若僞らば爲にならぬぞシテ農人の
悴なれども
武邊を
好むと申が其方親類に武家は有かと申さるゝに平左衞門
否私し親類に武家は一人もなく候と申立れば越前守殿又主税之助に
對はれ其
許平左衞門を召
抱へる
節親類
書は何と有しや親類は町人百姓のみなりしか夫は町人百姓のみにても
苦しからざれども其請人は
何と申すが致したるやと
尋られしに主税之助答へて其節の
奉公請は手前出入の
多兵衞と申者に御座候と云ければ越前守殿其多兵衞と申者
商賣は何を
渡世に致居るやと有に主税之助多兵衞は渡り
徒士を
業と仕つり候と言へば所は何處にて
苗字は何と申やと
問るゝに住所は
小柳町一丁目にて
切首多兵衞と
稱候と申を聞れ大岡殿ナニ
苗字は切首と申かと言れて主税之助ハツト
赤面して是は甚だ
惡敷事を言たりと思ひ心中大いに
當惑の景色にて否
苗字は
存じ申さずと云に大岡殿ナニ苗字は知らぬとや
夫は又
麁忽千萬シテ平左衞門は始何役に
召抱へられしやと申さるれば主税之助
渠には用役を申付候と云ふを越前守殿
否々然樣にては有まじ大身小身とも其家の用役と申は
重い儀にて其上聞ば山口惣右衞門
伴佐十郎建部
郷右衞門などと申家付の
家來も
[#「家付の家來も」は底本では「家付の家來も」]ありし
趣きなるに何用有て
多分の家來を召抱へしや先代平助は御役を勤むる
頃より右三人の用役にて
事足たるを其
許の代に成て家來を
殖せしは何か存じ寄にても有ての事なるや又山口惣右衞門は何故有て
永の
暇申付られしや當時
渠は
三河町に浪宅を
構へ居ども町役人などの申には至て
手堅き者の由其上
舊來の家來と言
老功の者なれば萬事の取締りには
至極宜しからんに此儀は其
許の心得違ひを
妨げる故ならんと有しに主税之助其儀は平助以來の家來共
種々不調法も之あり又私し儀を
輕蔑に仕つる事法外にて誠に輕き者は致方之なく候間
據ころなく永の
暇申付候
存寄故
新規に家來を召抱へ候と云ば越前守殿
否々渠が
輕蔑になすには有間じ是は正しき
舊來家付の家來に付其
許の
我意を
異見に及び
兎角邪魔に成故ならん
然樣の
空言を
止て有體に申されよ
假令如何樣に包み
隱すとも大
概此方へ知れてあれば今更
陳ずるは
詮なきことなり又平左衞門其方の奉公
請に立て
貰ひたる
切首の多兵衞と申は
如何樣成
由緒あつて請人に成しやと申さるゝに平左衞門は
面倒な事を尋ねらるゝと思ひながら
右多兵衞が弟の
願山と申京都智恩院に
所化を勤め
居り候
頃私し儀は堂上方に
勤仕の事故右願山と
度々出會仕つり至つて別懇に致せし其好身にて私し儀
浪人後江戸表へ出多兵衞方の
世話に相成候と申ければ越前守殿其願山と申者は今以て
智恩院に居るや但し
雲水の身分なるやと
問るゝに平左衞門
渠も當時は雲水の身分と相成兄多兵衞の方に來りて
同居仕つり居り候と言しかば越前守殿
礑と手を
拍れ夫にて
概略分つたり
先月[#「先月」はママ]初旬了源寺の
所化と
僞りたる坊主は
正しく其の願山で有うと
何樣其方の
別懇にする曲者ならん此儀は
何ぢやと思ひ
掛なき事を
尋ねられければ平左衞門は夫はと吃驚仰天なせし樣子なりしが
元來大膽不敵の曲者なれば
莞爾と笑是は/\思ひ
掛なき御尋ね私し儀
其儀は一向に存じ申さず候と然も知らぬ
體に申けるにぞ越前守殿此體を見られ扨々
此奴めは餘程
念の入たる曲者なりと
思はれ否々汝如何樣に
陳ずるとも此方には
屹度したる
證據あり其上
未だ/\其方に聞事あり
腰元島の事は何ぢや是も其方が一
向知らぬと申さば主税之助に
言するぞ
然すれば其方は
卑怯未練と言れんにより
惡黨は惡黨だけに
潔よく
白状せよ假令此上如何程隱すとも主税之助始めの惡事を
天奚ぞ
免すべきや然るに事を
左右に寄せ彼是陳ずるは
天命を知らぬと云者なり主人主税之助は惡人ながら又
愚直の處もあり其方は
此期に及でも
未だ運の
盡たるとは思ずや此越前守が見る處
汝は
勿々立派なる惡黨成れど一度
帶刀もせし身なればサア
武士らしく白状なし名を
潔くせよと申されければ平左衞門は
心中に偖々音に聞えし
名奉行だけありて
何事も
天眼通を得られし如き
糺問アラ恐しき
器量哉と暫時默止て居たりけり
斯て
天眼通を得たる大岡殿が
義理明白の吟味にさしも
強惡の平左衞門一言の答へもならず心中
歎息して居たりしかば越前守殿
然もあるべしと思はれ
乃至其方此上
富婁那の
辯を振つて何程申掠るとも島が一條に付ては
確なる
證據あり本月
朔日千住燒場へ島の
死骸を置捨に致したる事相違是有まじ又た千住光明院淺草了源寺より訴へ出し
書面もあり右等を只今
爰に於て
讀聞すべし主税之助諸共
能々聞れよと申さるゝ
言葉の下より
目安方役人書面を讀上げる
光明院檢使願書面本件第十一回目に記載有に付茲に除く依て其回と見合せ讀給へ
右檢使書取の
寫し
前同斷
淺草了源寺よりの
訴へ
書面前同斷
越前守殿コリヤ平左衞門何と
斯樣の屆書是有る上は
其方儀主税之助と申合
島を
害して其死骸を
隱さん爲淺草了源寺よりの
送りなりと
僞りを構へ其
手段をせし所光明院にて
差拒みし故彼處へ
棺桶を置捨に致たるに相違有まじ
其上島の親住吉町吉兵衞よりの
歎願書も是あり
夫も序に讀聞せよと云るゝに又々
目安方の者右の
書付を
讀上る
住吉町吉兵衞願書は本件第十一回目に記載之あるに付爰に除く因て其回と見合せ讀給へ
因て平左衞門は
増々心中に驚くと雖も
猶も其の色を見せず
默止て居たりしかば大岡殿少し
聲を張上られコリヤ平左衞門
是まで主税之助が爲せし
惡事は皆汝が
勸めし處ならん
併し汝程の
惡才有者が何故又島が
死骸の始末は
斯淺果なる工夫をなして
置捨に致したるやと申されければ平左衞門此ことを
聞然る上は
切て我が身の罪だけも
遁れんと忽ち
奸智を
廻らし
恐れながらと首を上御意の如く誠に
天命遁難きものにして島が死骸取隱し方
淺果なりとの
仰せ此平左衞門
身に取何程か
恥しきことに御座候
是に付ては種々申上度儀御座候へども其事
詳らかに申上る
時は主人の惡事に御座候尤も斯成行し上は
是非に及ばず罪は
殘らず私しへ
仰付られ下され候へば有難く存じ奉つり候と
言葉巧みに申立ければ此時大岡殿
彼奴此場の
變を見て又
惡計を設けしよなと思はれけれども態と
心付れざる
體にて成程罪は
殘らず其身に引受度と申事
奇特の申條なれども主税之助が科は最早
遁るべき道なし依て
主人の儀なりとも
今更包み隱すは却て
未練の至りなり
有體に白状して罪に
伏すべしと有に平左衞門
心中にしめたりと思ひ
仰の如く主人の
惡事を申上なば臣たるの道を
失ふのみならず我が身の
罪を
遁れん爲の樣に
思召の程恐入り候間
差控へ候へども右樣御尋ねに付
止を得ず
有體に申上候はん私し儀三年以前
當主人に
抱へられ候節
實は中小姓を相勤候處夫より
段々取立られ用人に相成候後
先代よりの
古老たる山口惣右衞門に
永の
暇を申付られ候然れどもいまだ先代よりの
用人佐十郎郷右衞門と申者御座候を
兩人共に
差置[#ルビの「さしおき」は底本では「さしおか」]私しめに
而已用事申付られ餘り
首尾の宜き故
合點行ずと存じ居候處
或夜主人儀私しを
竊に
招かれ人々を拂つて申されけるは藤五郎藤三郎の
兩人を
如何樣にも致し
無者にして我が子
佐五郎に
家督を
讓り度思ふにより力を
添呉る樣にとの
頼みに付我が子の
愛に
迷ふは凡夫の
常とは申ながら
扨は斯る巧みの有故に私し儀を
斯迄に取立し事やと存じ
仰天は仕つり候へども萬一
荒立に成らんかと心を
鎭め其後機を見合せ
意見致し候へども
勿々以て用いひまじき
樣子に付兎に角事を永く延す中には又致し方も有べしと
内外承知の體に
待なし先主人の氣に
適ふ樣に致し
置其中には
佐十郎郷右衞門の兩人と
内談の上猶又主人を
諫め申さんと存じ
種々心を
碎き居しに
渠等兩人の者は却て私しを疑ひ夫よりして
傍輩中も自然と宜からず
成行候へども
兎角渠等兩人へ
私しの本心を顯し
實を見せて篤と
相談せんと思ふ中
佐十郎郷右衞門兩人は藤五郎藤三郎を
盜み出し候
故扨は渠等兩人も主人の
惡意を
察しけれるにや兄弟を
盜み出しうへ
訴へ出る
存念と心付南無三寶是は
逸りたることをなし
公邊へ御苦勞を
掛なば兄弟の
命は
助る共嘉川の家は
滅亡ならんにより此上は最早是非もなし心に
染ぬ事なれ共
佐十郎郷右衞門ら兩人を
罪に
落し
主家の滅亡を
救はんと
據ころなく
愚案を以て主人の
居間の金百兩
紛失せしこと申立て候是は
跡方なき
僞りに候へ共右樣申立るに於ては御上にても
佐十郎郷右衞門の兩人に
疑がひ
掛らんにより藤五郎
兄弟を盜み出せしは己等が罪を
遁ん爲
忠臣ごかしに爲せし儀と申立一旦の
主恩を
報い候心得に御座候ひし又島の事も然の通り主人の申付に
任せ殺して
仕舞は
安けれども
渠は女に
似氣なき
忠節者ゆゑ
切て命ばかりも救ひ得させんと種々に主人を
諫め候て一先
渠を
當分押込置て
猶助候半んと存ぜし中相役の立花左仲と申者竊に
主人と申合せ
絞殺し其儀に付右等の儀は全く
後にて
承はりたる
事ゆゑ萬事の儀ども
相違仕つりて候と申
立けるを
先刻より主税之助は聞居たりしが
耐へ兼
默れ平左衞門今となりて然樣なる儀を
口賢くも申が
此度の事は皆其方の
勸めしに非ずや然すれば
此惡事の元は其方なり夫を都合よきやうに申さば
我又言事澤山有と申に平左衞門
呵々と
笑ひ是は
未練の事を仰せらるゝ物かなと
言をナニ
未練とは其方の事なりと
爭ふ時大岡殿コリヤ兩人
共默止と聲を掛られ平左衞門は此方
吟味中なり主税之助
控へませいシテ平左衞門
我は
思ひの外なる
忠臣者ぢや然すれば其方に
罪は有ども又其方を
憎むべきに非ず
猶其後は
何ぢやと云るゝに平左衞門其御沙汰は恐入候何事も皆私し儀全く
行屆かざる故成ば
何處迄も私し儀
罪に
陷り候と然も
忠臣らしく申ければ大岡殿
是平左衞門其方が惡事は
最早夫迄なるか
未々申儀が
澤山有んサア
何ぢや今少申立ぬか其方が申し立てねば此方より
尋ることありと申されければ平左衞門は
底氣味惡く答へも
發規と
爲ざりけり
斯て大岡殿は安間平左衞門を種々に
糺されける所さしも世に
轟く
明奉行の吟味故
其言葉肺肝を
見透す如くにて
流石の平左衞門も申掠る事能はずと雖も
奸智に
長たる
曲者ゆゑ
忽まち答への趣意を變じて其身の
罪を
遁れんと胸中に
巧み
佞辯を
震ひけるを大岡殿は
猶も心長く聞居られければ平左衞門は十分に
奸智を
逞ましうし主税之助の
惡事を其の身に
引請主人を救ふ
體に見せ掛兎角私しの不調法故
此上は私しを如何樣にも
仰付られ主人儀は何卒
御仁惠の御沙汰願ひ奉つると申立けるに大岡殿
呵々と
笑はれコレ平左衞門其方の申處至つて
忠臣の樣に
聞ゆるなり
併しながら爰に少し
解せぬことが有ぞ其は住吉町吉兵衞の
娘島が
殺されぬ以前
豫て
覺悟せしと見えて渠が遺書あり其
文言を
見るに彼の
島は其方を
大分怖がりし樣子なり此儀は何ぢやと申さるゝに平左衞門
否ナニ別て
怖がりしと申事は
之なき筈に候と云へば大岡殿
夫を
讀聞せよと有る時目安方彼の
遺書を
讀上る
遺書文言本件第十一回目に記載あり其回と合せ讀給べし
越前守殿
何ぢや平左衞門
那にても島を
救ふ心なりしやと申されけるを平左衞門は
少も
臆せず仰には候へども
私し儀主人の前を
憚り表向は島を
強面致したるゆゑ島は女心に私しを實に恐ろしき者と存ぜしと
思はれ候と申を大岡殿
否汝は種々に
言掠むると雖も
詞の
前後皆符合せず其島は女にこそあれ汝も申通り
天晴の
忠節者殊に
其利發なる事は男も
[#「男も」は底本では「 も」]及ぶまじ然すれば其方が主人の手前を憚りて島を
強面せし事を
渠爭悟らざるものあるべきや
然るを渠が
恐るゝは
是全く其方が
惡心ある事疑ひなし何樣に
奸智の辯を
振ふ共此越前守が
眼力にて
見拔たるに相違なし無益の舌の
根動さずともサア
眞直に白状せよと申さるゝに平左衞門コハ
情なき事を伺ひ候もの哉私し儀聊かも
言葉を
飾らず主人の
惡事を身に
引請けん事を願ひし處却て右樣の御疑ひを蒙る
事餘り殘念なりと云はせも
果ず大岡殿
大音に默止れ平左衞門汝未だも
奸智の
辯を以て公儀を
欺かんとするか其儀越前守は
疾より承知なり
加之ならず問に
任せて
主人の惡事を申立る段
實の
忠臣奚ぞ斯る
擧動あるべきや茲な
重々不屆者め
夫引下せと下知の下より
忽ち平左衞門を
縁より下へ引下し高手小手に
縛めたり然ば
大膽不敵の平左衞門も大岡殿の
烈敷言葉に一句も出ず
繩目に及ぶぞ心地よし
扨又大岡殿は
老中方に向はれ主税之助并に
家來平左衞門儀
只今吟味仕つり候通り是迄の惡事相違御座なくにより
先主税之助儀は
他家へ御預け仰せ付られ追ては
吟味然るべきやと申し述られければ老中方にも
至極道理との事にて大岡殿吟味の致され
方を
感心あり夫より
役人へ評議中主税之助は
御小人目付警固に及び
席を下りて
屏風のうちへ
入置平左衞門は
入牢申渡されしが主税之助儀は
交代寄合生駒大内藏へ御預けと
定まりたり此生駒家の
先祖は
讃州丸龜の
城主にして高十八萬石を
領し
豐臣家の御代には老中の一人にして生駒雅樂頭と號し
天晴武功の
家柄なり其後徳川家に
隨ひ四代目にして家中に
騷動起り既に家名
斷絶すべきの處親類藤堂和泉守殿歎願により羽州由利郡矢島に
於て高八千石を賜り
交代寄合に成され屋敷は下谷竹町にて
拜領致れたり
斯樣の家柄故此度主税之助を御預けなさるゝ
旨老中井上河内守殿より
奉書を以て達せられしかば生駒家に於て
早速用意に及びお預かり者
請取として差出す家來左の如し
騎馬 一人 士分 五人
足輕 十人
乘物 一挺
是に因て生駒家々來より
奉書の請書一
通評定所へ
差出す
御奉書拜見仕つり候御預りの者有之候由
別紙御書付の
通家來共評定所迄爲請取差出し申候
恐惶謹言 太田備中守殿
井上河内守殿
松平右京太夫殿
本多伊豫守殿
斯て生駒家の家來は評定所の
門前に控居て御下知を
待ける時に
御徒目付青山三右衞門玄關に立出て生駒家より
差出しの
人數揃ひたるやとの
尋にハツと
答へて
同家の
用人金子忠右衞門同留守居役加川新右衞門の兩人罷り出
御達し通り人數相揃ひ
控へ罷り在候と
答へければ青山三右衞門玄關番に
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、594-5]なし然らば
先各々方是へ控有べしと
案内に
連評定所の座敷に
暫時控へ居たりけり
偖も生駒家の
用人留守居等は
玄關脇の座敷に
控へ居けるに
暫時有て御徒目付青山三右衞門再び出立迎の
乘物に
締りの儀御心得有べきやと云へば
金子忠右衞門加川新右衞門の兩人
御念の入たる御尋ね
締りの儀は
錠前に及ばざる旨御書付に
任せ錠は付申さず候へども
警固の
儀は人數別段
覺悟仕つり候と
答へ
彼是する中夜に入り御徒目付御小人目付案内にて嘉川主税之助を
玄關に送り出せしかば生駒家の
用人金子忠右衞門玄關に
手を
突今日
嚴命に因て主人生駒
大内藏へ貴君樣を御預け相成しに付御迎へとして用人金子忠右衞門
留守居加川新右衞門
參向仕つり候と云へば主税之助は
會釋して是は/\
御大儀某しこそ嘉川主税之助なり
以後何かと御世話に相成ん
宜しく御頼み申すと言ひながら則ち
乘物に
乘移るに生駒家の
人數前後を
固めて引取りけり夫より役人方一同
退散に付大岡殿も評定所より
歸宅され即刻定廻り
同心を
呼れて小柳町一丁目に
住居致す切首多兵衞并に同居の
弟願山と申す
僧を
召捕べしと有りければ
畏まり候とて同心は
早速其夜小柳町近邊に到り能々
聞糺すに幸ひ此夜多兵衞願山共
居宅に在て
惡黨共を
集め大博奕を始め居たり多兵衞は
廣袖の小袖を着し三ツ
布團の上に
大安坐をかきて
貸元をなし願山
坊主は向鉢卷にて壺を振宵より
大勢車座に
居並び互に
勝負を
爭ひしが一座の中に
目玉の八と云ふ惡者は
今宵大いに仕合せ
惡く一文なしに
負て
詮方盡しかば貸元の多兵衞に向ひコレ親分
資本を
貸て呉れ餘り
敗軍せしと云へば多兵衞は
何が二貫や三貫の
端錢を
負たとて大敗軍も
無もんだ其樣な
少量な事を聞
耳は
無へ此馬鹿八めと
罵るにぞ目玉の八は
負腹にて心地宜らぬ
折柄故大いに
怒ナニ馬鹿八だと此拔作め口の横に
裂た
儘に餘り大造を
吐露な
飛だ才六めだ錢を貸す
貸ぬは
兎も
角も汝の口から馬鹿八とは何のことだ今
一言云したら
腮骨を
蹴放すぞ誰だと思ふ
途方もねへと云へば
切首は眼を
剥出し大音に
汝云せて置ば
方※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、595-5]がないびんしやんとすると
張倒すぞと
敦圉切つて
罵るをナンダ張倒すイヤ置て呉れ汝等に張倒されてお
溜り
飜しか有るものか
爰な
強曝しめと互に口から
出放題に惡口を吐散せしが多兵衞は
終に
堪へ
兼直立さま茲な馬鹿八めと既に
飛掛らんと
爲るを目玉も同く立上り
小癪な
汝れが
否汝がと打て
掛れば此方も
負ず
仲間喧嘩のどツたばた
燭臺を踏倒すやら煙草盆を蹴飛すやら打つ
擲れつ
掴み
合果は四邊も
眞の
闇上を下へと
返しけり斯る
騷を見濟して捕手の役人聲々に上意々々と
踏込にぞ
惡者共は是を聞コリヤ
堪らぬと一
目驂闇を幸ひ
這々に後をも見ずして
逃去けり役人は外の者に
構ひなく
終に多兵衞願山の兩人を
捕押へ高手小手に
縛めつゝ夫より家内を
改めて町内へ
預け兩人を引立歸り其夜は
假牢に入置
其段越前守殿へ申立しかば越前守殿には右翌日に至り
先達て
揚屋へ
入置れたる郷右衞門
佐十郎の兩人を出され御吟味中嘉川平助
親類山内三右衞門へ御
預を申付られたり此三右衞門は
小身の上至て
貧窮の處へ
己夫婦とも都合四人の口故日々の
賄ひに甚だ
難儀致しけるを須田町の七右衞門は聞及び
例の
侠氣なれば
早速三右衞門の
方へ來りて
何くれと
見繼深切に
世話をなしけるゆゑ三右衞門は
甚だ七右衞門の
氣性を
感じ
喜びける
天明かにして
善惡の賞罰有りと然れば切首の多兵衞
僧願山諸共多年の
積惡遁れ難く
享保四年二月十二日大岡殿の
白洲に引出さるゝに多兵衞は今年三十六歳
弟願山は三十二歳なり大岡殿
先切首の多兵衞を
呼れコリヤ多兵衞其方の
異名を切首と申す由
夫は何故に
然樣の名を付て置にやと
尋ねらるゝに多兵衞は
首を
上恐れながら私し儀
御覽の如く
此首筋から脊へ掛けて
切込れし疵が御座るゆゑ人
呼で
渾名を切首と申候と云ければ
[#「云ければ」は底本では「云はれば」]大岡殿見られて成程
汝が
首筋には大きなる
疵が見える其疵は又
何して付られしぞ
隱さずに申せと云れければ多兵衞はナニ
隱しませう此疵は一昨年の
夏中供先にて
喧嘩御座候節陸尺の七右衞門と申者に
切れ
此通りの疵に相成しと申ければナニ供先の
喧嘩で切れ夫故其疵に成たるとな
夫は
何時の事なるやと有に多兵衞それは
享保二年の夏五月
端午の
式日私し出入
屋敷嘉川主税之助樣親類中へ
禮に
廻勤致され候故私し
徒士を仕つり神田明神下にて小川町の五千石取の太田彦十郎樣に
出會しまゝ互ひに
徒士の者双方の名前を呼上
行違ひ候節嘉川家の供頭が御
駕籠の
戸を
引外し
狼狽廻るを見て太田樣の陸尺共が
聲々に此土百姓の
大馬鹿者め戸の
明建も知らぬか知らすば
教て遣ふ
稽古に來いと
散々に惡口致候ゆゑ嘉川樣の事に付此多兵衞めも
堪へ
兼て
進寄つひ
一言二言々爭ひし中双方
錆刀を引き拔切合處に太田樣の方には中
小姓徒士などにも
手利の者之あり其上
陸尺の七右衞門は
力もありて
能働き候然るに嘉川樣の方には中
小姓孕石源兵衞
安井伊兵衞を始め私し并びに
陸尺中間迄必死になりて戰ひし故一時は太田樣の方
引色に相成候然るに太田樣の
陸尺共豫々此多兵衞に
遺恨あり其故は
彼七右衞門と申者元嘉川家の陸尺
頭を
勤め居たりしに今の主税之助樣の
代になりし
頃陸尺の出入を取替られし時私し口入仕つり
外より入込ませ
彼の七右衞門は出入を
止られ申候此
怨み有るに因つて此日の
喧嘩を幸ひに
陸尺の七右衞門
惡口雜言を申し其上太田樣の者共此多兵衞の働きにて引色になりたるを七右衞門大いに
憤ほり
雷の如く
喚いて
忽ち嘉川樣の者共を
追返し
中にも私しを目掛けて
追來り
後ろより大
袈裟に切り付申候是に
因て嘉川家の者ども
散々に逃退き
漸く喧嘩も鎭り屋敷へ歸りし後此事
内濟にて
相濟たり然れ共私し儀首筋より
脊へ
掛けて
大疵あるに付其時より異名を
切首と人々申候と少しく
自慢がてらに
長々と申ければ大岡殿成程其
遺恨もある故陸尺の七右衞門は
今度の一件に世話を致して
居ると見ゆる
先づ夫は
兎も
角も多兵衞汝が世話で嘉川家へ
奉公住致せし
安間平左衞門と申者は其方
何の
縁に
因て請人になりしやと尋ねらるゝに多兵衞其の
安間平左衞門儀は私しの
弟願山の懇意にせし
縁を以て
渠が
請人は仕り候と云へば大岡殿然らば其方
弟の願山儀は以前京都
智恩院の
弟子なりしかと申さるゝに多兵衞
否然樣でも御座りませぬ然らば
何ぢやヘイ弟願山儀は江戸
表の
寺にて
出家致せしと申すを大岡殿ナニ江戸表の寺ぢや江戸表とばかりでは一
向解らず何と申寺なるや
眞直に申せと云れけり
偖も大岡殿は多兵衞の
異名切首と
云譯を
尋ねられし處多兵衞は少しく
誇り
面に喧嘩の次第まで
委細申立しにより
其物語りの
中廉々此節の一件に思ひ當りしことなど有ける
故夫となしに長々と多兵衞の申を聞居られしが
其後渠が弟願山の事に
及び江戸表の
寺は何方の
徒弟なるやと
糺さるゝに至りて多兵衞はハツと心付
大いに
狼狽し
樣子を越前守殿は
敏くも見て
取られ何ぢや多兵衞云へぬか云へまい其寺は淺草
阿部川町了源寺であらうコリヤ多兵衞先達て了源寺の
所化と爲り
燒場切手を
持參なし島の
死骸を千住の燒場光明院へ
持込棺桶を其處へ
置捨にして
逃失し由又其時檀家と
僞り
參りたる者も三人是有る趣き兩寺より訴へ出しなり其
節のことは其方も其一人ならん此事有體に
白状せよ萬一
隱し立なさば
嚴しく申付方有ぞと
大音に
言れしかば多兵衞は大岡殿の
威權に
呑れわな/\
爲ながら心中に
想ひけるは此事斯まで
悟られし上はとても
言紛すこと叶はず
寧有の
儘に申て仕舞はんと
覺悟を
極め其の儀全くは嘉川の殿樣に頼まれ私儀は
施主に立ちて參りしに相違御座なく候と申を大岡殿聞れ
成程汝は
至極諦めの
宜奴能こそ
眞直に白状致せしぞシテ殘りの二人は
何者なるやヘイ是も
矢張嘉川樣の
御家來安井伊兵衞孕石源兵衞の兩人に候と言に大岡殿
宜々然うで
有らうダガ又其の
禮として主税之助より金子を
何程取たイヤサ何程取て頼まれたと申事よと有ければ多兵衞は
否々金子は少しも
貰ひませぬと云へば大岡殿
馬鹿な事を云へ金でも
貰はずに
其樣事を
爲る
白痴が
有者か取たなら取たと申せ何も其方が
頼れる程で金子を取たとて
別に
恥にも成ぬ又其方の身分で其金を取ぬと申たとて
別に
褒る處もない今申通金子を取て
頼まれしとて罪の處は同じ事だぞと申さるゝに多兵衞は
彌々閉口なし實に恐れ入ました金子を
別に取て
頼まれたと申ではなく
少々計りの
酒代を
貰ひしと云に夫は
何程だと
問るればハイ一兩貰ひ候と申を大岡殿大いに
笑はれコウ多兵衞
夫は
餘り安いものぢやたつた一兩
位で
頼まれたか
併し其の趣ぎに相違なきやとあるに多兵衞其儀は
少しも相違御座なく候と答れば大岡殿オヽ
能是迄白状致した此上の處決して
陳ずるな先是迄の處では其方の
身分に
構ひないぞ
爰を
能々得心して以後
尋る
節は有樣に申立よ先
引立いとの下知に隨ひ同心
引立て入替り
願山を白洲へ引据るに大岡殿
渠を見られコリヤ
了源寺の
所化を
勤たる願山とは汝かことかハテサア驚くな其方が白状せぬ前に汝の
兄切首の多兵衞が
殘らず白状して
仕舞たは何も
今更隱すには及ばぬイヤ
汝れは
勿々並々の
奴ではないコレ願山能承まはれ汝が兄の多兵衞は
潔りとして
小氣味の
能奴ぢや其方も
兄の通りすツぱりと白状せよ主税之助に
頼まれ島の
死骸を
燒場へ送りし時金子は何程取しぞ
隱さず申せと云はるゝに願山は大いに驚き
扨々兄は
腑甲斐なき
奴とは思へども
今更陳ずる事も出來ざれば其儀は嘉川樣に
頼まれし
節金二兩
貰ひしと申ければ大岡殿笑はせられ
汝も安い人間ぢや
併し兄より
利發者兄の多兵衞は主税之助に
頼まれて島の
施主に立ながらたツた一兩
貰つたと申其方は二兩
貰つたと云ふが兄の
施主役より汝は
坊主丈佛に付ては
骨が
折る了源寺の似せ切手を
拵へ又其外の
氣配りも坊主でなければ萬事
行屆かず其の上
掛合も致す
旁々以て汝は大役で有たナ
先々其儀は夫で
宜し/\シテ
願山汝が
[#「願山汝が」は底本では「願山汝が」]世話を致せし安間平左衞門と云ふ者は
何う云ふ
縁で心安く成しや
此儀有體に申せと
問るゝに願山は此事なりと思ひしかば其平左衞門儀は私し京都
智恩院に居りし
頃度々
渠れと
出會し
故夫より
懇意になり其後私し儀御當地へ參るに付
渠も又御當地へ
下り私しを
頼みまするに
因世話を致し候と申ければ大岡殿其平左衞門は京都に
居し
節何れに
奉公致したヘイ
日野大納言樣に
勤居りましたナニ日野家に居つたと其方は
智恩院に居た故夫で渠が世話を致したか
御意に御座ります大岡殿イヤハヤ
夫は甚だ申口が
暗いぞ其方智恩院に居つて
度々出會たる者を世話致すと申は第一心得ぬ事なり此後も京都に於て度々出會し者が此地へ
下らば
皆世話を致すか
何ぢや京都に居る時平左衞門のみ
出會て外の者には
出會ざりしか此儀は何ぢやと有に
願山恐れながら
然樣の儀には御座なく平左衞門事は
彼の
地にて
別段懇意に致せしゆゑ
渠の世話は仕つりしと云へば大岡殿
是さ願山汝
如何程申ても申口が
闇し平左衞門
其方何にか
由縁にてもあるか又は餘儀なき事にても
有しか一
向左樣なる儀もなく
只々汝は京都にて
渠と度々
出會別段懇意に致したと申が
然ほど
別懇ならば渠が生國なども定めて聞たで有らう渠が生國は何國ぢやヘイ
生國は
存じませぬハテサテ
更に取處もない
併しながら渠には何ぞ恩義にても受しことあるや
然も是なき時は一向に申口は立まい何ぢや答へが
出來ずば夫は
追ての事平左衞門が日野家に
勤しは
何時頃の事なるやと
有に願山ヘイ四年以前に御座候と申ければ大岡殿オヽ四年以前は
享保元年何月
迄勤めて居つたぞ願山答へて四年以前の十二月の
中旬頃迄勤めて居りましたと存じます大岡殿然らば其の時の平左衞門が名は何と申たと
尋ねらるれば
願山は
暫らく考へ
種々の名もと
云掛しが
否矢張安間平左衞門と申まして御座りますと云へば大岡殿コレ/\願山然うでは有るまい
外に名が有つた
筈ぢやとてものことにすツぱりと云て
仕舞最う
隱しても
皆知れて
居るサア
眞直に申せと云るゝに願山は
何かぐず/\云ひ
兼る
體を見られ大岡殿イヤハヤ
意氣地のなき
坊主め
疾より知れてある事を
汝隱しだてをする
大馬鹿めコリヤ
其大帳を是へと申さるゝ時目安方ハツと
差出すを
取て見らるれば享保元年の帳に
日野家の家來逐電の者
安田平馬
三十九歳
佐々木靱負
三十六歳
右兩人の者
去る廿一日の夜
逐電仕つり候に付御斷り申上候
日野大納言内
斯の如く帳面に
書留之有り右日野家
家來逐電の始末は毎年八月十五日
城州男山石清水八幡宮
放生會に付
參向の
公家衆あり
抑々此正八幡宮は
[#「正八幡宮は」は底本では「正天幡宮は」]其
昔時 應神天皇を勸請し奉つり
本朝武家の祖神なり就中源家に於ては
殊の
外御尊敬あること
御先祖八幡太郎義家公此
御神の御寶前に於て御元服あつて八幡太郎と
稱し
奧羽の
夷賊安倍貞任
[#「安倍貞任」は底本では「阿倍貞任」]同宗任を
征伐あられしも
悉々く此八幡宮の
神力に因所なれば
實に有難き
御神なり然ば
末代に至る迄此御神を
武門の
氏神と
尊め奉つる事世の人の皆知る處なれば爰に
贅言せず因て當時將軍家より
社領一萬石御
寄進あり
斯る目出度御神なれば例年八月十五日御祭禮の
節放生會の御
儀式あり
近國近在より其日參詣なす者數萬人及び八幡山崎淀一口其近邊は
群集一方ならず
淀の城主稻葉丹後守殿より
毎年道普請等丈夫に申付られ當日は
警固の役人罷出て往來の非常を
戒めらる然れば今年も
參向の
公家衆は御三方にして例年の如く御先は
花山院中納言有信卿菊亭大納言定種卿勅使は日野大納言定立卿なり
斯て
參向の公家衆例年の通り八幡宮御
寶前に於て御
神拜終御式路淀の城下に差掛られしが茲に
木津川淀川[#「淀川」は底本では「淀」]桂川と云ふ三所の大川あり是に大橋小橋孫橋といへる三橋を
架渡し
領主稻葉家の
普請にて今日公卿方此橋を御通行あるにより同家より
警固の人數嚴重に
御道筋を固めしが稻葉家の運や惡かりけん花山院殿と
菊亭殿の御二方は難なく通り給ひしが勅使大納言殿の御駕籠此孫橋へ差掛られし時
桁中途より折れて橋板五枚ばかりと共に日野家の御
先供水中に落入や否や續いて大納言殿の陸尺も
踏外し忽ち御
駕籠も水中へ落入既に
沈まんとする有樣に
周章狼狽陸尺共は足を
踏直して上らんと爲を見て稻葉家警固の者共大に驚き
驚破一大事の出來たりと
大勢馳來りて
飛込々々難なく御
駕籠も
救ひ上たり尤も御駕籠半分程は水中に落入しと雖も稻葉家の役人共爰を
專途と身を
惜まず
働きしゆゑ
[#「働きしゆゑ」は底本では「働しきゆゑ」]大納言殿御怪我もなく御
旅館へ御
供して入奉つり
御裝束を召替られ御
歸洛有しは
誠に危き御ことなり然らば御同勢中水中に落入し者凡廿人ばかりにして此日彼の
所化願山も日野家へ
傭れ醫師の代を勤め大納言殿の御供に
列せしが
運能水難を
遁れたれ共外に水死の者五人
[#「五人」はママ]あり御
道具荷物の類も落入て以の外の大騷動なれば稻葉家より水練に勝れし者を數十人撰み水中を彼方此方と
尋廻漸々に兩人の
水骸を始め御道具類を引揚けれども御大切の御
太刀は一
向に知れず是は正しく
水勢早き大河なれば川下へ
流れしならんとて川下の方をも
猶又人數を増して
探しけれ共更に御太刀の知れざりける此の御太刀は
全く安田佐々木兩人の侍士が此騷ぎを幸ひに
取隱し是を種として稻葉家より
金子を
欺罔取んと
巧みしことなり此時の
落首に
ちはやふる
神代も
聞かず
淀川に
烏帽子着ながら水くゞるとは
然ば今日の
變事に付稻葉家に於ては大いに
心配致され
取敢ず日野殿の御
機嫌伺ひとして
家老の中を
遣はされんと城代稻葉
勘解由を以て京都日野方へ參入致させ
種々の
音物山の如く贈られて今日の
變事を
詫入太守も
深く
心配致さるるに付大納言樣御
機嫌伺[#ルビの「きげんうかゞ」は底本では「きげけんかゞ」]ひとして參上仕つり候と申述るに日野家の
青侍士安田平馬佐々木
靱負の兩人
兼て申し合せ今度の儀を
幸ひ稻葉家へ
捻込大金を
掠め取るべしと思ひし
機から故大いに
悦び兩人は立出是は/\
勘解由殿には
能こそ御入來只今の御口上の
趣き
痛み入候主人儀は別段變る事も是なく併し此度の儀は
勅使として
石清水へ御參向の御道筋なれば
豫々道橋修繕等是有るべきの處右の
始末勿々言語に
絶たる事急ぎ此趣き關東へ申達し江戸表の御
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、601-18]に任せ申べき間
然樣心得られ此段丹後守殿へ申達さるべしと
然も
仰々しく云ければ
勘解由は甚だ
當惑の體にて此儀江戸表へ伺ひ候存じ寄に候はゞ某し
斯推參仕つらず只々何分にも御兩人の御
熟懇を以て波風なく御
執計ひ下され候樣頼み奉つり候と申ければ此樣子を見て安田佐々木兩人は
仕濟したりと心中に悦び
彌々※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、602-3]に乘て
大柄面をし此儀大納言殿には元より
穩便を好まるゝと雖も御
同行成れし御
兩卿方の手前もある故
餘儀なく斯は御談じ申せしなり
然ながら爰に一つお頼み申度儀御座候其事御承知に候はゞ拙者共何とか
工夫致し取り扱ひ申すべく其の
譯は
近來當家も
勝手向至て
不手廻りに付殊の外御難儀成れ見らるゝ如く御殿の
普請も
打捨置候次第ゆゑ此度の御
謝物の御心得にて少々
金子を御家より御用立られては如何や
然有る時は双方共無事にして宜からんと云を聞勘解由は打喜び金子にて
相濟事なれば何とか取計ひ申すべしシテ其の金高は何程なるやと申に安田佐々木の兩人は右金高は
先水死二人の代り金二千兩御
道具の中御太刀一
口銘は
來國行是は別て御大切の御品成ば此代金千兩外御道具代金三百兩都合三千三百兩右の如く借用致され
度と書付を出しければ勘解由は
眉に
皺を
寄扨々是は餘り大金
若此事世間へ相知れ候時は
双方共宜からず此儀は御
用捨に
預かり度と申けるを兩人は聞て大に
憤ほり然らば勝手次第如何樣とも仕つる三千三百兩を大金と申さるゝが御主人丹後守殿御
身上に
較べて見る時は
實に易きこと十萬石餘の大名少々の金子を出し兼て此方より申達なば家も
領地も
棒に振るべし大切の 勅使御參向の
砌り橋の
手薄にて水中へ落されしと有ては 天子へ
刄向ふも同然
逆罪の
咎遁るべからず爰を存じて無事に扱はんと申を彼是御邊申さるゝからは
詮方なく此趣き江戸表へ
早々達し申さんと
言放しければ勘解由大いに驚き先々御待ち下さるべし全く金子を
惜むに非ず此上は
兎も
角も
仰せに任すべしと早速金子を取寄せ日野家へ用金と號して右の高三千三百兩
進上致し何分宜敷頼み上ると申し
置て勘解由は立歸り
諸司代松平丹波守殿へは此事を
輕く屆に及びたり然れ共松平殿は
内々承知致され日野家の致し方を甚だ
憎まれ又稻葉守も
[#「稻葉守も」はママ]卑怯未練の事なりと申されけるとなり
扨も
城代稻葉勘解由は
主家を大切に思ふが故
是非なく三千三百兩の金子を
差出し此度の一件事故なく
濟せしかば先は稻葉守
[#「稻葉守」はママ]上下の者
安堵[#ルビの「あんど」は底本では「あいど」]はなしたれども未だ淀川へ
沈みし太刀の出ざれば毎日人夫を出して淀川の上下を吟味に及けれど一向知れざれば因て
暫く其儘に打
過誰一人此事を安田佐々木兩人の
惡巧みと知る者なく斯
惱しは是非もなし然るに安田佐々木の兩人は充分
事調のひしと大いに喜び三千三百兩の金を
密かに
分取にして毎日物見遊山に出かけしは是則ち三日極樂とも謂つべし
尤も安田は
強慾の
曲者ゆゑ此金子を一向に遣ず佐々木の
奢を見て
苦々しき事に思ひ御邊斯大金を遣ふ時は
忽ち足が付諸司代より直に吟味と成んにより此金を資本として何ぞ
吉事に有付工夫をなし給へと異見しけれども佐々木は一向聞入ず湯水の如くに遣ひける故果たして松平丹波守殿此事を
聞込れ扨こそと
早速吟味をせんとて日野家へ承まはる
可儀有之候間安田
平馬佐々木
靱負の兩人當役所へ差出さるべしと達しられしかば日野家に於ては何ごとならんと怪しまれしが安田佐々木の兩人は
豫て
覺えのあることなれば
素知らぬ面は爲すものゝ心中に南無三
寶と思ひ其夜
竊に兩人并びに願山とも申合せ跡を暗まし逐電して江戸表へぞ下りける是に
因て日野家より右の
旨所司代へ屆られければ松平殿甚だ殘念に思はれ此段江戸表へ達し是より兩人の
行方御尋ねとなりたりけり扨又安田は江戸にて安間平左衞門と改名して願山の
兄多兵衞を
頼み彼の金子を以て
何方へか住込
仕送り用人に成んと心掛けしに幸ひ嘉川家にて仕送り用人を召
抱へたしとのことに付多兵衞を
請人として主税之助方へ住込しなり
寔に此平左衞門は斯の如くの曲者ゆゑ大岡殿再度願山を吟味なさんと工夫有て日野家よりの屆を調べられし上又
白洲を見られコリヤ願山其平左衞門には外に名が有筈なり其頃は
汝も同じ京都に居たる故知つて居ならん何ぢや
答が出來ずば此方より云つて
聞せん彼は日野家の
雜掌安田平馬と云し者ならん四年以前
逐電の
節書上に三十九歳とあり歳頃も
丁度似合なり汝隱し立をすると其方にも罪が掛るぞ有體に白状致せと有ければ願山は
仰天して思ふ樣は斯まで
委しく知らるゝ上はとても
叶はぬ處と覺悟をなし京都にありし頃佐々木安田の兩人は
惡巧により稻葉家の家老稻葉勘解由を
欺き金三千三百兩を
掠め取しことを始め其外の惡事等
迄殘らず申立ければ大岡殿能白状致した
猶追て吟味に及ぶと申さるゝに
下役の者立ませいと
聲懸頓て願山を退ぞかせけり
諺ざに其事
爾に出て爾に
復ると
宜なる哉此言や
所化願山の
白状に因て再度日野家の一件委
細吟味有るべしと大岡殿
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、604-7]あつて平左衞門を呼び出されしに平左衞門は又何をか
尋ねらるゝやと
白洲に
蹲踞る時に大岡殿平左衞門を見られ汝先年日野家に於て
雜掌役の節は安田平馬と名乘しかと尋ねられければ平左衞門
吃驚なせしかども
飽まで
大膽者ゆゑ此事何所までも
押隱さんとおもひ私し儀は
然樣の名にては御座なく候と云へば大岡殿
打笑はれイヤ平左衞門又しても
隱し立を致すか汝は存じの外
未練な
奴ぢや汝が
懇意にせしと云願山が其方并に
靱負の事まで殘らず
白状に及びたるぞ其方と
靱負兩人にて勘解由を
欺き三千三百兩
掠め取し事
眞直に申立よと云はれしかば
扨は願山が白状せしか此上は
是非もなしとて心を定め
京都日野家に仕へし
節の
惡事殘らず白状に及ければ大岡殿
神妙なりシテ又其方は何故京都を
逃亡致せしぞ及
靱負は其後
如何なせしやと
尋ねらるゝに平左衞門其儀は
只今申上し通り稻葉殿より
贈られし金子を
分取に致し
靱負は日々
遊興に
遣ひ候により所司代は
不審におもはれしにや日野家へ御
訊尋の儀有之に付我々兩人差出べき
旨掛合御座候間右の大金を
掠め取し事萬一
露顯に及ぶ時は主人の家の
難儀ならんと存じ兩人申合はせ
逐電仕つり候と申立しにぞ
然らば又々
吟味に及ばんと先今日は
下れと有て此段
早速老中方へ申達されければ
井上河内守殿より稻葉侯城代稻葉勘解由へ
聞糺すべき儀有之間勘解由を江戸表へ
早々差下し大岡越前守役所へ差出さるべしとの
達しに稻葉家に於ては大いに
驚き
急使を以て國元へ申遣はせしかば國元にても
種々評議に及び是は
先達て大金を差出せし御咎ならん此度江戸表へ
罷り出る時は必ず
切腹にても致さずんば申
譯立難しとの事にて誰一人
勘解由に
附添下向せんと云者なく其座白けて見えにける豫て
覺悟の勘解由は進み出て
各々は此度の儀を恐れらるゝにや主人の仰せ殊に
御奉書の上は一
刻も延引すべからず
最初より某しは此儀に係り此度の
御召も皆々勘解由の
所業なれば只今より我一人下向致さん各々は御
國許を守られよと云ひ捨て我が方へ歸り
妻子にも此ことを
物語り此度の一件申
譯なくは我主家の爲自害致さんにより其時は汝等必ず
歎くべからずと
能々後のこと共申置勘解由は
發足なし道中取
急ぎて日ならず江戸小川町の上屋敷へ着し其旨
太守へ申ければ
丹後守殿早速御召有つて日野家の一件御
訊尋申に勘解由は委細を申述此事
少も御苦勞
遊ばられな私し宜敷申譯仕らんとて御前を退き到着の旨老中方へ御屆けに及びけるに大岡越前守殿
役宅へ
罷出べき段御達に付勘解由は翌日
未明に南町奉行所へ出にける大岡殿
出座有て其方事先達て
勅使石清水八幡宮へ御參向の
砌日野家歸路の災難に付
種々取扱ひ其節金三千三百兩同家へ
贈りしと云ふ事相違
無やと
訊尋ねられしかば勘解由は
平伏なし御尋ねの如く其節損じ候
御道具代金と致し差出せし事相違御座なく候と申けるに大岡殿附添の留守居へ向はれ然らば今日は
先退出致すべし追て呼出す間吟味中
屹度愼ませ置べしと申渡され夫より又此段京都所司代松平丹波守殿へ
急使にて申送られければ松平殿是を聞れて
偖こそと思され急ぎ日野家へ使者を以て申入らるゝは此度江戸表より
問合せの儀有之る間大納言殿御内
雜掌一人早々江戸表へ下向有るべし尤も道中の儀滯りなく此方より申付
差添人一人同道致させ申べしとの口上なり日野家に於ては大きに
驚き是は先達て
逃亡せし安田佐々木の事ならん然し
何樣なる間違ひ有るも知れずと殊の外大納言殿御苦勞に
御召れ家老山住河内へ其段
仰られければ山住聞て君少しも
尊慮を苦しめ給ふまじ私し關東へ下り申
開き仕つらん此儀全く稻葉家の
不覺と申ものなれば
頓て歸京仕つり
吉左右申上奉つらんと申て山住は江戸表へ下向致しけるに
所司代よりは豫て此旨
急使を以て老中方へ通達に及ばれしかば大岡殿へ
達せられ
到着の翌日山住河内を奉行所へ呼出され越前守殿
對面有に山住は
謹んで
平伏なし
某儀は日野家の御内山住河内と申者に候此度御用有るに付
召呼れしは如何なる儀に候やと申ければ大岡殿
然れば此度の事餘の儀に非ず先年
石清水八幡宮
放生會の節大納言殿參向致され其頃歸路に淀の
孫橋落て大納言殿始め
大勢の人夫其外御道具類水中に流れ候と
承まはる其
砌日野家より稻葉丹後守方へ此事を
種々に申入られ稻葉の使者より金子三千三百兩取れ候段
其頃御内の安田平馬佐々木
靱負兩人の
計らひにて其實右兩人の者是を取候由なれども日野家に
於て是を心得居られ候や其
眞僞を
糺さん爲御邊を召寄たりと申されければ山住は御尋ねの趣き成程
然樣の儀も御座候故兩人の者
逐電仕つり候儀と相見え候併し其節
私し儀は病氣にて
引籠り
居り一向存じ申さず
渠等兩人の
私欲により稻葉家の使者を欺き大金を取し事は相違御座なく併し主人儀は一向存じ申さず候事ゆゑ全く
欺むかれ候は使者の不覺ならんか
卑くも日野大納言は
清華の一人何ぞ金銀を
奪ひ取事の候べき此儀は
渠等を御吟味下されよと申ければ大岡殿
聢と
然樣かと有に仰の通に候と申て山住は
退出爲たりけり
斯て大岡殿山住河内が申に
因て早速稻葉勘解由を呼出され其方先達て差出せし
金子日野家にては一向知らざる由全く其方の
不覺にして安田佐々木の兩人に
欺かれ
掠取るゝ
條家老も勤むる身に
似合しからず立歸り
猶屹度愼み罷り在べしと以の外に
叱られしかば勘解由は
駭き答べき言葉なく
寥々と屋敷へ歸り此段主人へ申しければ丹後守殿大きに驚かれ
扨々金子は
惜むに足らずと雖も我
思慮なく
青侍士共に欺かれしなどと人口に
懸らんこと
殘念なり併し今更
悔るも
益なし兎に角愼み罷在
公儀の御沙汰を
待べしと申付られしかば勘解由は我が家に歸り一
間に
籠りて居たりしが
獨り
倩々考ふるに我大金を
掠め取られ
剩さへ主人の名迄
穢せし事何として人に面の向られべきや此上は
切て自害して申譯せんと覺悟を
極め
終に
切腹せしこそ
哀れなれ
然ば此由丹後守殿聞れて
甚く
周章ありしかど
詮なければ早速老中方へ
屆られしに付其の段大岡殿へ達せられしかば大岡殿此上はとて平左衞門を
嚴敷拷問に掛られし所
終に
包み
藏す事能はず是迄の
惡事追々白状にぞ及びける又平左衞門が宅を
穿鑿なせしに
遣ひ
殘りの金子六百兩出たり(是は勘解由より
欺き取し金子八百兩
有しを立花
左仲は此
騷動を聞と
等く
安間の
宅へ
忍び入二百兩
奪ひ取りて
逐電せしかば
嘉川家
宅番の者より此段大岡殿へ屆け出しなり)然ば平左衞門の
惡事彌々明白なりと雖も彼の佐々木
靱負が行方を
猶吟味有べしと是を尋ねらるゝに平左衞門
渠は先年日野家を
逐電の
節大津迄同道せしが夫より分れて
渠は三井寺の方へ行私し儀は
願山諸共に江戸へ下向致せしにより其後
靱負の行方
更に心得申さずと云ゆゑ然らば
是非に及ばず併し其方
生國は
相州と申たれども是又
僞りならん
眞直に申せと有ければ平左衞門
彌々驚き
斯見透さるゝ上はとても叶はじと思ひ私し
生國實は
江州井伊家の
藩にて山田
藤馬と申者の
悴に候處
幼少の
頃兩親に別れ我
儘に身を
持崩し十七歳の時
浪人仕つり其後京都に出て日野家に奉公致し候と茲に至つて實の
素性を
白状に及びけり
茲に又佐々木靱負は日野大納言殿に仕へ
同勤安田平馬と申合せ稻葉家の
老臣稻葉勘解由を十分に
欺き大金を
掠め取安田と兩人
分取になし其金をもつて
遊興なしける中平馬靱負の兩人相尋ねべき
儀是あるに付
所司代御役宅へ差出すべく旨日野殿へ
掛合ありしかば
南無三
寶と思ひ兩人申合其の夜の中に日野家を
逐電して
願山を
誘引大津
迄來しが
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、607-14]心中に思ひけるは我々斯三人打連立ては
豫て
諸司代も目を
着しやうゆゑ江戸
表へも
注進ありしは必定なり然樣の所へ
空然々々と行見付られなば一大事我は
泉州堺に少々
知音有により彼方へ尋ね行身の落付を定めんと
覺悟なし我は三井寺を見物なし
後より追付んとて
平馬願山と
袂を分ち
頓て
泉州堺を心指して行けるに日の中は世間を
憚るにより夜に入りて
伏見より
夜船に
打乘翌朝大坂八
軒屋へ着茲にて
緩々と休み日の
暮るを待て夜食の
支度して爰を立出泉州
堺に着し
知音の方を尋ねけるに其知音と云は至つて
貧敷日々人に
雇はれ
幽かなる
煙りも立兼ねるものなりしが先爰に
匿れて
逗留し能き
傳手を以て片田舍へ
引籠り遣ひ
殘りし金にて何とか能
思案なすべしと思ひて彼是半月餘りも
過しけるに
知音の者は日々の暮しに
指閊え
難儀の
樣子なるにぞ
靱負は氣の毒に思ひ或日
懷中より金五兩取り出し紙へ
捻りて
主に
對ひ
御邊今日の營み是ぞと申程の事もなく日々雇の
稼を致さるゆゑ我れ永々
逗留なす事甚だ氣の毒に思ふなり是は少しなれども
先暮し方の足にも致されよと渡すに主は大いに
驚き是は思ひも
寄ぬ事を
仰せらるゝものかな我等
御覽の如く是ぞと申
業もなき故其日の
手當も甚だ
乏しきを
見兼ね給ふは
御道理なれども我等事
生れ付
無能ゆゑ是非なく
斯暮し候まゝ日々
進らする物も心に任せず右さへ
御厭ひなくば
假令此上何時迄居らるゝとも決して御氣遣ひに及ばずとて
押返しければ
靱負は
首を
振否々然に非ず此は此程
手土産にても持參すべきなれども其代りに進ぜるなりと種々申て
漸々受納めさせ
猶靱負は申樣我等未だ少々の
資本もあれば何ぞ一
目論見致し度思ふなり何と
金貸渡世は如何有らんと
相談なせば主は
駭き御身何程の金を持給ふか知ねども當地の
金貸渡世は
大坂掛て
極大身代の者なりと云に
靱負は
否彼の大身代の金貸渡世とは違ひ
小體に致し手早く
高利を
貸んと思ふなりと申せば主は聞て夫は何共申
難し當時の人氣にては甚だ
危し
熟と考へ給へと云ふゆゑ
靱負は先々急ぐ事にも非ずと其日は夫なりにて主も雇の
約束あれば出行ける扨靱負は後に
倩々と
思案して今渠と話見たれども當時にて右樣の渡世をする時は京都へ程近ければ
勿々危し何れにも
片田舍へ
引込で外は工夫せんと思ひしが
兎角心落付ず彼是と考へ居たる中主も歸り來りければ靱負は主に
對當地は斯土地
柄も能事ゆゑ上手なる
易者あらずやと云ひければ主は
點頭當所には
名高き
易者にて
白水翁と申あり
寔に名人なりと云ひければ
靱負は大きに悦び然らば今日は
最早夕陽に及びしゆゑ明日參るべしとて
目録など
用意に及びけり
抑々此
白水翁と
云は
能人の
禍福吉凶を
判斷し
成敗を
指に其人の年
齡月日時を聞て
卦[#ルビの「け」は底本では「けい」]を立
考へを
施こし云ふ事實に
神の如く世の人の知る處なり扨翌日にも成りければ
靱負は其身の
吉凶を見ることゆゑ
沐浴して
身體を
清め彼の
白水翁の方へ到りて頼みければ白水翁靱負に對ひ年
齡生れし月日等を聞
卦を立て
良久敷考へ居たりしが靱負に向ひ此
卦は甚だ
占ひ難し早く歸り給へと云ふに
靱負如何にも心得ぬ
面色にて某しの卦は何故に
占ひ
難きや察する所
卦の
表吉からざれば
白地に示し難きならんか然ども
故意參りしこと故何事なりとも
忌憚りなく
占ひ下されよと云ひければ白水翁
頭を
左右に
振我元より
言葉を
飾らざるが故に其許の
易は申されずと云ふ靱負問て今も申如く假令如何なることなりとも苦しからず夫を聞ん爲斯來りしなり是非とも語り給へと云ひければ白水翁
左程に申さるゝことならば是非なきにより語り申さん先づ此
卦に
因時は其
許正に
死し給ふべしと申に
靱負は
呵々と
笑ひ何人か世に生れて死せざるの
道理あらんや我幾年の後死するや
白水翁曰く今年死し給はん今年何月に死すべきや今年今月死し給ふべし今月幾日に死するや今年今月今日死し給ふべしと云にぞ
靱負は心中大いに
憤りて
再度問ひけるは
時刻は何時なるや白水
答へて今夜三
更子の
刻に死し給はん靱負は思はず
詞を
荒らげ今夜實に死しなば萬事
夫限り
若死せずんば明日
貴殿を只は
差置難しと云に白水翁夫は
道理なり其許明日まで
恙なくんば來つて
我首を取給へと申せば靱負は
渠が
言葉の
強きを聞て
彌々憤ほり白水を
床より引下し
拳を上て
既に
打んとなす此時
近邊の者先刻よりの
聲高を聞付何ことやらんと來りしが
此體を見て
周章て
捕押へ種々靱負を
宥ける故靱負は心付我は今日
蔭の身なり殊に京都へ程近き所にて
斯騷がしきことを仕出し萬一京都の人の目にも掛る時は此身の一大事に及ばんと人の
中裁を幸ひに早々
立歸りしが
[#「立歸りしが」は底本では「立歸りがし」]靱負は主に對ひ白水翁の方へ參り
斯樣々々云々也と有し事共
物語しかば主は驚き白水翁が斯申時はと思ひながら靱負の樣子を見るに今夜
子の
刻に死する者が
斯健かに有べき樣もなし如何なれば
翁が斯樣の事を云しかと
不審するも
道理ぞかし然れば靱負は甚だ
氣色を
損じ居ける故主は昨日
貰ひし
金子にて
酒肴を
調へ來り
左右物事は
祝ひ直さば
凶[#ルビの「きよ」はママ]も
吉に
變ずべしと申
勸め兩人して
酒宴を
催せしが
靱負は元より
好な
酒ゆゑ主が
氣轉の
熱がんに氣を取直して
快よく
獻つ
酬れつ
飮居たりしが何時しか日さへ
暮果て兩人共
睡眠の氣ざし
肱を
枕にとろ/\と
睡むともなしに
寢入しが早三
更の
頃靱負は
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、610-1]起上り其のまゝ爰を
飛出しける故主は何事なるやと
狼狽ながら後より
追馳行しに其
疾き事
飛が如く
勿々追着事能はず待ね/\と
呼止れど靱負は一向
耳にも入ず足に任せて
馳行しが
頓て
海邊に到り
波の上を
馳行事
陸地を
歩行がごとくなれば主は
膽を
消しアレヨ/\と呼はりける其間に靱負は
遙か
沖の方へ行し樣子なれども
星明りゆゑ今は定かに見え分ず主は
漸々に
波打際へ
馳來りて
透し見れば早靱負が
姿は
影もなく
末白波となり行しは
不思議と云ふも餘りありと
暫時呆然と
海原に立たりしが
何時迄斯て居るとも更に其
甲斐なければ
詮方盡て立歸りしが如何にも不思議は
晴ざりしとぞ
偖又嘉川主税之助の用人安間平左衞門と共に
惡事に
加りし立花左仲は主人主税之助并に同役平左衞門共に
評定所へ呼出されしかば我身の事を
倩々考ふるに我今此屋敷を出て何方へ仕官を望む共
召抱へらるべき樣なし然とて
空然々々當屋敷に居る時は
頓て平左衞門同樣に呼出さるべし尤も我
差せる
罪を作りし事はなしと雖も主人并に平左衞門の惡事に掛りし事も有れば其罪申し開くべき道なし猶又お島の事も我主人と共に
責惱せし事もあり全く
殺せしは平左衞門なれども
彼是と惡に
與せし事なれば何れの
途にも申譯立難し如何はせんと
種々工夫を
運らしけるに平左衞門が金子を
所持なす事を
豫て知りければ或夜安間が宅へ忍入
箪笥の錠をこぢあけ二百兩の金を
盜み取其儘屋敷を忍び出夜に
紛れて千住の方へと行たりけり此左仲は
元下總銚子在の百姓の悴なりしが江戸へ出て御旗本を
所々渡り
侍士を勤め夫より用人
奉公をなし流れ/\て嘉川家へ
入込しに當時嘉川の
評判惡き故
自から
知音の人も
遠ざかりしにより
常陸筑波山の近邊に少しの知音を
便り行んと千住へ出筑波を
指て急ぎしが先江戸
近邊を夜の中に通り
拔け
流石晝中は人目を
憚り
密かに彼の盜み取し二百兩の金にて
宿場の
飯盛女を揚げて日を暮し夜に入るを待て其處を立出で夫より松戸の渡しも
漸々通り越
小金が
原に差掛りけるに扨
物淋しき原中ゆゑ先腰なる
摺燧を
取出し松の根に
尻打掛煙草
燻らす折柄
後より
尾來りしと見えて一人の大の男腰に
長刀をぶつ込み左仲の
側へ
衝と來りて旅人は何れへ行るゝや日の中は能き
慰みをなし夜を掛ての一人旅樣子あり氣な御人なり我等は
夜道が大いに
勝手なれば御同道申べし其火を爰へ貸給へと
竹火繩を左仲が
煙管の
元へ
差出すにぞ左仲は
愕然となし思はず
震へ出せし體を見るより彼の者は
莞爾と笑ひ左仲が側へ同じく
腰打掛旅人は何等の
用にて
斯夜道を致さるゝやと云ひけるに左仲は
最初より一言も云はず居たりしが彼の者の
容體を見て大いに恐れ
渠紛れもなき盜賊なるべし我渠を見しより思はず
恐怖し事故我弱みを見て
斯馴々敷傍へ
寄種々と申なるべしと思ひ内心には甚だ
怖恐しなれども爰ぞ我身の一大事一生懸命に
肱を張落付たる
體にて我等は行先未だ決せず其譯は
我召使ひたる
仲間に貯への金子を一
昨夜奪はれ
逐電致せし故夫を捕へんと
斯夜道も厭はず通るなり
御邊は又
何故此處を今時分通らるゝやと申ければ
彼者は左仲が樣子は晝の中より
篤と見濟し又左仲が
懷中に
金子のある事も知りたれば
斯後より
尾來りし故今左仲が申を聞て大いに笑ひ御身は
賊に
逢ひ夫を捕へん
爲追行と云給へど千住にて今朝より
暮方迄女を相手に
快樂日の暮てより夜道をさるゝ事今の話に
符合せず
誠の事を云ひ給へと
詰るに左仲は
御邊は何人なれば先程より
我等を
種々と
嘲哢せらるゝぞと思はずも少し
言葉を荒く云ひければ
彼の者申しけるは我等が名を
聞度と云ふ事なら何より
易し我は
此街道で強盜を働き
道玄次郎と云ふ
賊の頭なり御身如何に我を欺き
遁れんと思ふ共
斯折込んだら最早佛の仲間入尋常に其懷中の金を渡して行ば
命と衣類は
見遁すのみならず三朱や一分の路用は
呉て
遣又惡く
情張と是非に及ばず此世の暇を取するばかり
手短の話が先斯した處だ何れなりとも御望み次第
何だネ旅の
衆其懷ろは御前が彼の飯盛の
揚代を
拂ふ時篤と見て置夫故跡を
尾たのサ又
此方さんも其金は
何やら
盜した樣だが
盜した物なら
盜するは私が商賣ぢやサアきり/\と渡さぬか命までを貰ふとは申さぬと云れて左仲は
力身も
拔け齒の根も合ずくづ/\と是非なく懷中より金百兩の
包を取出し盜賊に渡せば是々夫では
濟まぬ惡ひ
根性だ
斯直段の極つて居る者をサア
淡泊と男らしく渡して仕舞へと云れて又も殘りの金を殘らず取出し盜賊の前に差出せば次郎は
莞爾と打笑ひ夫れで能い
心持ちだらうドリヤ路用ははずんで
呉ようと
額銀一ツ
投出しサア是で何處へなりと
行をれへ言捨道玄次郎は
悠々と金を
懷中して何國ともなく立去けり左仲は跡に
大汗拭き偖々危ふきめに逢しと
呟きながら道玄次郎が
投出したる一分の金を
拾ひ上げ是が路用か情なやと
塵打拂ひ
常陸の方へと急ぎしが未だ夜も深ければ左仲は原中を
辿り/\て
行程に心細くぞ思ひけり(此道玄次郎と云は當時
盜賊の
張本にて手下の者百五六十人もあり諸所にて押込み夜盜を働きし
曲者なれども終に運盡て是も大岡越前守殿に
召捕られ刑罰に行はれしとなり)
斯て立花左仲は
危くも此所を
逃れ漸々命は助りしと云ふものゝ盜み得し金は
賊の爲に
奪はれ路用にせよとて投出せし
僅か一分の金を拾ひ取心細くも夜の道を行所に
遙か向ふに火の光りの見えければ不思議に思ひ此原は未だ
人里までは程あるを
彼處に火の光り見ゆるは如何にも
心得ずと思ひ
段々近づきて樣子を見れば
野火を
焚て居る者あり皆
怪氣なる
[#「怪氣なる」は底本では「怪氣なる」]荒男ゆゑ左仲は又もや賊ならんと
仰天は
爲たれども今更立戻るべきやうもなく心ならずも彼の火の
許へ行しに彼者ども左仲を見付
扨々暫く
客を
待設けたりと云ひつゝ兩人
直と立上り左仲を中に
取圍みサア懷中の金を置て
行若彼是いふ時は是非に及ばず
荒療治だぞと兩人左仲が手を取に左仲は
最早一
生懸命腰の一
刀拔き放し
切て懸ればソリヤ
拔たぞと兩方より手に/\
晃く
山刀請つ流しつ
切結ぶ左仲は茲ぞ死物狂ひと働け共二人の賊は事ともせず
斬立々々切捲れば終に左仲は斬立られ
這は
叶はじと
逃行を一人の賊は後より
小手を
伸して
袈裟掛に左の
肩先四五寸ばかりエイト云樣切下れば左仲はアツと
反返るを今一人が
眞向よりざツくり切たる
一太刀に二言と云はず死してけり二人は血刀
押拭ひ先久し
振りの
山吹色と懷中へ手を入れてヤアないはコリヤどうぢやと二人は
不審晴やらず猶も懷中を
掻探り
財布を引出し振つて見て二人は
吃驚ヤアたツた一分の
本尊樣淺草の觀音樣は一寸八分だたツた一
分とは情ないと何分
不審晴やらず今朝見て置た此仕事どうした
表裡の
瓢箪ぢやと
呆れ果たるばかりなり(此二人の賊は
道玄次郎が手下なり左仲が樣子を千住にて見て取
能代呂物と付つ廻しつ居たりしが左仲は夜道に此原を通る樣子故大いに
悦び先へ廻りて網を張しを
頭の道玄次郎は
渠等より其知せもなき故一向知らず千住
宿にて左仲が樣子を見付しかば此原の入口にて左仲に
追付十分に仕事をせしなり又手下の兩人は
更に此事知らざれば今斯の如く左仲を
殺して金のなきに
呆れたり然ば左仲は一度助かりし
命も
終に手下の者の手に
掛りて果しは
是天の
惡みならんか)
斯る處へ道玄次郎はのさ/\と來掛り
此體を見て大いに
笑ひ二人の手下に
打對ひ役にも立ぬ
無駄骨折扨も
働き
薄い奴等と云はれて二人は大いに
怖れ
無益の殺生致せしと
天窓掻き/\
閉口したる其有樣ぞ
見苦しき次郎は
重ねて申樣此樣な
仕事を爲ぬ樣に以後は必ず
注意ろと
叱り散して兩人の手下を
連て立去ぬ
然ば嘉川主税之助
家來安間平左衞門の兩人は
多年の
積惡一時に
顯れ又々此度
再應の吟味に及ばれける處に安間平左衞門はとても
遁れぬ處と
覺悟をなしたりし事なれば尋ねの
廉々明白に白状に及びし故
其次に願山を
呼出されて其方京都に有りし
時日野家に於ては
何役を勤め
罷在しぞと申さるゝに願山も
最早覺悟の事なれば私し儀京都に居候節日野家の
醫師に
雇はれ折々供も勤めし所
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、613-14]らずも安田平馬佐々木
靱負の惡事に
與し京都を
逐電して平左衞門
諸倶に嘉川家へ入込み
此度の惡事に
携はり島が
死骸を千住の光明院へ
捨置候又了源寺に居しは十三ヶ年以前の事にて其頃同寺
旦那中川佐太郎と申者を
葬り候節兄多兵衞と申合せ
是を夜中に
掘出[#ルビの「ほりだ」は底本では「ほだだ」]し其の死骸の
衣類等を
殘らず
剥取申候處此儀
顯れしに付早々
逐電致し候と一々白状に及びければ即ち其
趣きを淺草
阿部川町了源寺へ申
遣されしかば了源寺にては大いに
驚き早速
所化僧一人罷出右の
段相違之なき
旨委細申立又願山儀は
常々身持
宜からず第一
淫酒の二ツに
耽り其上
博奕を仕つり
剩さへ
和尚の居間へ
忍び入衣類金銀を
盜み取逐電致し候者なりと申立ければ越前守殿此
趣きを
聞れよし/\
猶追て呼出すこと
有べしと申
渡され了源寺の
所化は下られけり
其後評定所へ嘉川一件の者ども
殘らず
呼出さる其の人々
左の
通り
嘉川主税之助同人家來
安間平左衞門
切首多兵衞
僧願山嘉川家々來
孕石源兵衞
安井伊兵衞嘉川藤五郎
建部郷右衞門
伴佐十郎山口惣右衞門
陸尺七右衞門右の者一同
白洲へ
罷り出ければ
老中井上河内守殿
若年寄大久保長門守殿石川近江守殿
寺社奉行黒田豐前守殿大
目付有馬出羽守殿御目付松浦
與四郎殿を
始め
評定所留役御勘定
吟味役御
徒士目付御小人目付其
外の役人列座あり其時町奉行大岡越前守殿
例の如く
席を
進まれコリヤ主税之助其方儀嘉川平助
養子の身として先平助以來の
家來を
我意に
任せ
永の
暇を
差遣し藤五郎藤三郎の中を
嫡子に
相立べきの處に左はなくして
己れが
實子たる
佐五郎を以て
嫡子に立養父平助の
遺言を
破りしのみならず
惡意を
起し藤五郎藤三郎を
亡はんと
爲たる
段彌々相違なきやと申されければ主税之助は恐入て惡事相違御座なく候と申けるに大岡殿又平左衞門に
對はれ
其方詞に
似合ぬ
大膽不敵の
曲者なり先年京都日野家に於て稻葉丹後守の
老臣稻葉勘解由を
欺きて三千三百兩の
金子を
掠め取り
其後切首多兵衞が世話を以て嘉川主税之助方へ
隨身なし
追々申立たる如くの
惡意を
差挾みし段相違無かと申さるゝに平左衞門其事儀相違無御座候と申立れば又大岡殿には
切首多兵衞
并に
僧願山主税之助家來孕石源兵衞安井伊兵衞建部郷右衞門伴
佐十郎陸尺七右衞門
[#「陸尺七右衞門」は底本では「六尺七右衞門」]皆々出て居るかと
有時一同に
罷出候と申に越前守殿
其方共一同是まで申立たる
趣相違なきやと申さるゝに一同相違御座なく候と答に及びたり時に越前守殿
然らば一
同口書爪印申付るとあつて
口書爪印相濟今日は一同下る
可追て呼出すと申
渡されければ
其日は一同に下りけり
然ば
此度の一
件大岡殿
格別に力を
盡されしは京都
堂上方の
御内に
關係の事
故なればなり
然ど四海に
轟く
明智の
忠相殿ゆゑ
始終の所まで
洞察されて
嚴敷問られければ
大惡無道の安間平左衞門も終に白状に及び口書も
相濟御
咎の次第を一々に取
調て
進達に及ばれしかば右書面を老中方一覽
有れし處
明白なる
捌き故將軍家へ伺の上伺ひの
通りたるべき
旨の下
札にて
相下られけり是に
因て嘉川一件の者ども
落着とこそ成にけれ
大岡殿
吟味により安間平左衞門が
惡事當人より
追々白状に及びしと雖も
渠は
並々ならぬ曲者なれば
未だ
殘らずの白状には
有べからずと思はれ
猶種々と
糺されけれども
其外の事は一
向に申立ず
因て
何卒京都にて
彼れと同勤したる佐々木
靱負を
召捕吟味せんとて諸方へ手を
廻され
詮議ありしかども
更に
其行衞知れざるに付
切ては立花左仲にても
召捕んと
是又探索ありし處
彼左仲は
小金ヶ
原にて
切殺されしと云ふことの知れしかば左仲は
詮なし
呉々も靱負を
尋ね出さんと又々
諸國へ手を
廻されけれ共靱負の
在家少しも知ず
其中西國へ
差出されたる
探索の者より靱負は
泉州堺にて
入水せしと云事を申立しかば
然ある時は
先是迄にて平左衞門が罪の次第
落着に致すべしとて嘉川一
件の者共
口書申付られ落着の
調べを老中方へ
差出されしとなり
評に
曰く此嘉川家一
條は大岡殿大いに御
心勞なされしは第一貳千五百石の御旗本を
失はん事を
格別に惜まれけれども主税之助は至て
愚智短才に在ながら其心は大惡の
生付故更に取處もなく
切て
半知も殘し
賜はる樣にと大岡殿
肺肝を
碎かれけれども主税之助がなせる
所爲悉皆宜しからざるに付甚だ
口惜き事に思はれ又
家來山口惣右衞門
伴佐十郎建部郷右衞門の三人の
忠臣の
志操深しと雖も主人主税之助が
所爲に
押潰され渠等三人の
忠志は
然程に見えず又陸尺七右衞門の
深切も右の如し又
賤しき女なれ共
腰元お島が忠節天晴なる事男にも
勝りしなり
是等の忠節も
皆主税之助一人の
愚惡の爲め
空敷嘉川家
斷絶に及びし事是非なき次第なり
然ば嘉川家一
件大岡殿
追々吟味詰の上一同口書相濟しかば
彌々享保四年三月廿二日一同
呼出され大岡殿申渡し左之通り
小普請組
宮崎内記支配
嘉川主税之助
其方儀先平助養子に相成候節約束を
背き藤五郎藤三郎の兩人を
廢し我子
佐五郎に
家督を繼せん
爲種々惡事等企て候段
不屆に
思召改易の上八丈ヶ島へ
遠島仰付らる
同人家來
安間平左衞門
其方儀先年京都日野家に
勤中種々惡事に及び其上嘉川主税之助方に於て
主人の惡事を助け先代平助
嫡子藤五郎藤三郎に
無禮法外の儀を働き
侍女島を
絞殺し候
段重々不屆に
付獄門申付る
淺草阿部川町
了源寺舊所化
願山
其方儀出家の
身として淺草阿部川町了源寺にて
盜賊に及び其上京都日野家に於て惡人共に
荷擔なし又此度嘉川主税之助に
頼れ島が死骸を了源寺
所化と
僞り
千住燒場光明院へ置捨に致候段
重々不屆に付死罪申付る
嘉川主税之助假抱
徒士
多兵衞
其方
儀常々身持不行跡而已成ず今度主税之助申付により
島の死骸を弟願山と
馴合光明院へ
捨置に致其上主税之助に
頼れ建部郷右衞門
伴佐十郎の兩人を
討殺んと存所々
尾睨ひ候段重々不屆に付三
宅島へ
遠島申付る
嘉川主税之助家來
孕石源兵衞
同
安井伊兵衞
其方共儀主人申付とは云ひながら
惡事に
荷擔致候に依て江戸
構申付る
嘉川主税之助養子總領
嘉川藤五郎
其方儀嘉川家
嫡子の身分を以て常々
不行跡の由沙汰有之の處
當時病氣にて存命も
量り難き由是に
因て全快まで
親類へ御預仰付らる
嘉川主税之助舊家來
建部郷右衞門
同
伴佐十郎
同
山口惣右衞門
其方共儀
忠節の計ひとは申乍ら
用役の
身分を以て家事不
取締に
致し候段屹度叱り申付る
須田町一丁目治兵衞店
七右衞門
其方儀
先代嘉川平助に
恩も有之り候由にて藤五郎藤三郎
建部郷右衞門
伴佐十郎右四人
匿ひ候
段深切の
致方に候
得共身分不
相應なる儀に
付以後法外之なき樣心掛べし
故平助二男
嘉川藤五郎
其方儀
格別の思召を以て
先知八十俵下し置れ
新規召出さる
是新規御
取立に相成
僅に家名存せしは大岡殿の
仁智に因る所なり
嘉川主税一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]小西屋一件 都會の土地は
殊更に
繁昌競ふ大江戸の中にも
目貫は本町通り土一升に金一升といふに
違はぬ商家の
櫛比土庫高く建連ね何れも
魯は有らざる
中に同町三丁目に
數代續く小西長左衞門といふ
藥種屋あり間口凡そ二十間
餘りにして
小賣店問屋店の
二個に分ち
袖藏あり奧藏あり男女
夥多の召仕ありて何萬兩といふ
身代なれば
何暗らず送りゆく
主個長左衞門は
今茲(享保二年)五十の坂を二つ三つ越え
妻のお
賤は是も又四十を
五つ
六つ
越たるが
子といふ者は長三郎とて今茲十九になる男子一
個然に此長三郎は
生れ附ての美男にて女の如き者なれば
誰言ともなく本町
業平又小西屋の
俳優息子と評判殊に
高かるより夫婦は
何卒能嫁取て
樂隱居をば爲ん物と朝暮思ひ
消光けるが長三郎は若きに
似氣なく
浮たる
意は
毫もあらで物見遊山は更にも
言はず
戸外へ出る事を
嫌ひたゞ奧まりたる
一室に
籠り書籍を
繙き
讀事を此上もなき
快樂と爲しつゝ月日を送りけるに惡きは惡き
能はまた
能とて之を
苦にするは是また親の
常なれば長左衞門夫婦の者は長三郎の
温順を
反つて
苦に
病み
年頃に成し身にしてあの如く
外へも出ねば
癆症も
發りやすらん
一個の
外掛替のなき者なるを
病起らば
如何せんと
長年勤る
管伴の忠兵衞を
聘び事の由を話して
折も有しならば息子を
戸外へ伴ひ出し
保養をさせて下されと
言ば忠兵衞心得て
主個の前を
退出けり其年もはや彌生の初旬
木々の
梢に
花咲出徐々と吹く春風も
自然なる温暖さ然ども
息子長三郎は例の如く籠りゐる
障子を開て忠兵衞が若旦那樣
相變らず今日も
御本で御座りますかと進み
這入に此方は見返へりオヽ
誰かと思へば
管伴忠兵衞
昨今水揚の
荷物ありて店は
大層いそがしいと聞しに今頃何用にて「ヘイ水揚
物も御座りましたが夫も
大略結了て少の
閑を得ましたより參りし
解も外ならず時も
彌生の好時節上野
隅田の花も
咲出何處も彼所も
賑ふゆゑ
貧富を問ず己が
隨意割籠を造り
酒器を持ち花見に出で
積鬱を散じる中に
和君のみは
斯垂籠て御本をのみお
讀で有ては
身體の
毒またお目の毒に成ますれば
少は
戸外へお出なされ青い物でも
御覽じたらお氣も
晴やうお目にも能らうと夫で花見をお
勸申しに參りましたと
[#「參りましたと」は底本では「參りましたしと」]言ければ長三郎は
片頬に
笑み今に初ぬ
和郎の
親切主人思ひは有難けれど
憖じ戸外へ出る時は
反つて身の
毒目の毒なれば
只居馴染し居間に居て好な書物を
讀ながら庭の青葉を
眺てゐるが此身の
藥で有ぞかしと言を忠兵衞
押返し
這は若旦那のお言葉とも
覺ずお
庭と雖も廣くもあらず
況てや書物に
意を
入れば第一お目の毒なれば
戸外へ出て爛漫たる櫻の
盛り山水の
望は
素より
四方の人が花に
遊行酒に醉ひ打戲るゝ
景状を御覽にならばお目の藥と
再度言はれて
氣色ばみ忠兵衞夫等を目の藥と
爲か知ねど
然にあらず目には
忌可き物
十ありと
或醫者どのに聞たりしに中にも風に
中るを
忌み又白き物を見るを
忌む今や
開花の
時節とて打續たる
日和なれば上野
隅田も人もや
出ん
然れば
彼所は打ち水
爲可き者もあらざれば
塵芥は立て風吹ば
眼に入て目の毒なり又櫻は
赤き樣に見ゆれど
素之れ白き物なれば
散行く樣を見やりつゝ
空に知れぬ
雪ともいひ雪に見まがう
云々と古歌にも多く
讀出たれば其の白き物を
好んで見んこと則ち眼の毒なる可し又花の
下は
醉人騷客所狹まで
雜沓すれば
喧嘩口論
間々ありて側杖打るゝ人もあり然るを
浮加々々其所へ至り
設し
災難に
會ときは父母への不孝此上なし我は君子に非れども
危き事には
近寄る可からず
部屋に
耳居て花のなき庭を眺て
消光なば
書物を讀ため身に
徳付き戸外へ出ねば
父母も案じ給ふの
愁なし我は見ぬ世の人を
友とし
樂みゐるこそ樂みなれと
最物堅き長三郎が
回答に
膠なく
言放すに忠兵衞今は
詮方なく是ほど迄に勸めるに
承引景状あらざるは世に
偏屈なる若旦那と
霎時呆れて居たりしが
屹度意に思ひ附く事や有けん
膝を進めモシ若旦那樣
和君は今人立多き花見の
場所へ立寄
設も災難に
會ば
無上親不幸と仰あれど夫は夫れ其一を知て其二を知ざる
最淺慮な思し召
和君が
戸外へもお出なさらず
内に
耳居て書物
計り讀で御座るが上もなき親不孝にて御座りませうと言はれて
此方は
面色更コレ忠兵衞
和郎は氣でも
違しか學問もせず遊び
歩行ば親不孝共も
言可けれど
吾儕は性來好でもあり
勸られても遊には「サヽ其所に一つのお話しあれば
意を
鎭てお聞なされ
和君は此家の一
粒種何萬兩といふ
身代を相續爲る御身ゆゑ學問に
凝夜歩行一ツ
爲らざるも
然なくては
叶ねどとは言へ善惡二つながらお
案じ
爲るは親御の
常況てや外にお子とてなき
和君が餘り
温順すぎ
設し病氣でも出はせぬかとお案じなされて玉くしげたに
[#「玉くしげたに」は底本では「玉くじげたに」]親樣が此忠兵衞をお
呼なされて
息子をば
責て花見か芝居へ
抔遣て
欝をば
晴させてと
仰が有て候へば先花見をばお
勸申せば
兎にも
角にも
偏りし事のみ
被仰お
出なくば御兩親樣が折角のお心盡しも
無に成て返つて
掛る
御心配學問なさるが
親不孝と申すは
茲の次第なりと一什を
明すに打聞
息子腕叉いて默然たりしが
漸々にして首を
上世に有難き御
慈愛を傳承りて勸たる和郎が言葉を
用ひずして
博識振たる我答へ
今更思へば
面目なし花はともあれ父母の
意を休むる其の爲に明日は花見に
行可ければ必ず
惡くな思ひ給ひそと
和郎よりして言て呉て
流石孝子の
解安く答へにければ忠兵衞も
夫拜承り何より安心
斯と申さば御兩親も
嘸お喜び
爲る可し夫では明日お
辨當の支度も致せばお
供には店の和吉をお
連なされ
上野成共隅田成ともお心任せの方へ至り終日お遊び爲されませ和吉も
今年は十四なれば
貴君のお
供には
恰好と
嬉しき餘り忠義の忠兵衞己れ一
個饒舌廻し其座を
退き
奧へ至り偖斯々と夫婦に
話せば二人は
息子の
孝心譽め又忠兵衞を
勞ひて
明日の支度に
左や
右と心を
勞すは世の中の
渾の親の
情成可し斯て其翌日に成しかば
朝より
辨當など
製造て之を
重箱に入
風呂敷に包みて和吉に
脊負せて
待間程なく長三郎は
身姿を繕ひ部屋の中より
立出來り兩親始め忠兵衞にも
挨拶成て和吉を
引連出はしたれど
騷しき所は素より好まねば
王子邊へ立越て
楓の
若葉若緑を
眺んにも又上野より
日暮里などへ掛る時は
渠醉人の多くして
風雅を妨げ
面白からねば音羽通を
眞直に護國寺
首め
波切不動へ參詣
爲て田圃道を
緩々王子へ行可しとて小川町へと
掛けるに和吉は大きに
望を失ひ花見と
言ば上野か
隅田又は日暮里飛鳥山人の
出盛る
面白き所へ行が
本統なるに如何常より
偏屈成若旦那とは言ながら
遠き王子へ態々行夫も
賑ふ日暮里をば
嫌ひて
見榮なき
土地の音羽を通て行と云は世に
珍しい人も有と口には言ねど
幼稚心の腹の中にて思ひ
續進ぬ足を
引ずりながら
後に從ひ音羽町の七丁目迄來りしが長三郎は此時は頻に
腹痛なし初め
堪へ難なく成しかば
厠に
入んと思へども
場末の土地とて
借んと思ふ茶屋さへ
非ぬに
困じたり
此所等あたりは
場末の土地とて
厠を
借んと思へども茶屋さへ無に
困じたる長三郎の
容子を見て和吉は側の
裏へ入り
其所此所見れば
汚げなる
惣雪隱ありたれば斯と
告るに喜びて其所へ
這入て用を足し
出つゝ手をば
洗んと見れば
雪隱の角の柱に五合樽の
片手を
斷り引掛あれど中には水なし困じて
側に待ゐたる和吉に
吩咐井戸の水を
汲せんとなし其
節に此
眞向ひの
棟割長家建續けたる其中にも一
層汚く
荒果し
最小狹なる家の中に五十四五なる老人
一個障子一枚
押開き
端近ふ出物の本を
繰廣げ見てゐたりしが今長三郎が手を
洗ふ水のなきをば
困じゐる
容子を計らず
庭越に見やりて
此方に打向ひ
茲等邊に見も
懸ぬ
立派な
姿は
定めし通行の方である可きに水がなければお
困りならん此方へ這入て
遠慮なく手をばお
濯なさるがよいと言れて
喜び
會釋して
破し垣根の
切戸を
明け廣くも非ぬ庭へ進むに老人
背後を
見返りておみつ水を
掛て
上なと言れてハイと答へなし
勝手口より立出るは娘なる
可し
年齡まだ十七か十八
公松の常磐の
色深き緑の髮は
油氣も拔れど
脱ぬ
天然の
美貌は彌生の花にも増り又
中秋の
新月にも
劣ぬ程なる一個の
佳人身には
栲なる
針目衣を纒ひて其
容賤げなれども昔し
由緒ある者なるか
立擧動は
艷麗にて縁側へ出
擂盆の手水鉢より水をすくひ手に
注しは縁の
端男は手をば洗ひながら見れば娘は
比ひ
稀なる美女にて有れば是までは女を
如夜叉と思ひ込し
最物堅き長三郎も
流石木竹に非れば此時
初て
戀風の
襟元よりして
慄と
染み娘も見たる其人は本町
業平俳優息子と
綽名の有は知らざれど
比ひ
稀なる美男なれば是さへ茲に
戀染めて斯いふ男が又有らうか
斯いふ女が又有らうかと
互に
恍惚茫然と
霎時言葉もあらざりしが
稍々にして
兩個が
心附ては
羞はしさに
發と面に
紅葉して長三郎は手を拭ひ
主個親子に禮を
演和吉を
引連立出ながら跡へ心の
殘りけるが見返り/\
路次口へ出でゆく姿を娘もまた殘り
惜氣に見送りける斯くて長三郎は
戸外へ出ながら思ひ
續る娘がこと
彼いふ女を妻と
爲たらば男に
生れし
甲斐あらんに
我も妻をば
持身なれば
返つて親に話せし上
否々夫も
自身の口から斯々なりとは
言惡し如何はせんと
取つ
置つ思ひ
廻せば廻すほど我身ながらにもどかしく
最早花見に行可く氣もあらねば此方へ歸り
掛るに和吉は
狼狽て袖を
引モシ若旦那
然行ては「イヤ
吾儕は花見にはモウ
行ぬ是から家へ
歸るなり」と
言捨足を早めるに和吉は
本意なき
面地にて夫では花見は
止になつたか
然して見ば辨當を
此音羽まで
脊負て來て
又脊負返す遠方御苦勞何の事はない辨當の供をして來た樣な物だと
吻き/\本町へ歸る
途中も長三郎思ひ
惱し娘がこと言はぬも
辛し言も又恥しゝとは
懷中育ちの大家の
息子の
世間見ず胸に餘て立歸るも
餘に
早しと思ふより如何したことと兩親が問ば
先刻音羽まで參りましたが
腹痛にて
何分心地惡ければ王子へ行ずに立歸りしと答へて
欝々部屋に入り
夜具引擔て
打臥しが目先に殘るは娘の
姿眠らんとするに
眠られず忘れんとするに
忘られず
夢と
現の境を行く
戀病なりとは
露知ぬ兩親大きに氣を
揉て相藥など與ふるうち其日の
申刻下る
頃淺草邊まで
掛取に行たる忠兵衞歸り來て
聞ば
斯々言わけと
主個が話すに
打驚きお
否と仰せ有たるを
無理にお
勸申したは此忠兵衞ゆゑ夫がため
御病氣起らば
大變なりと
先取敢ず長三郎の部屋へ至りて
障子の
外まで來りし時に中にては
魔るゝやら
寢言やらサアお出なさい有難うと
判然言しが其跡は何を
言しか譯も
解らず忠兵衞
不審に思ひながら障子を
開いて内に入る
音に
此方は目を
覺せば忠兵衞
膝を
摺寄て今日の事は旦那樣より
伺ひまして
折角のお花見にさへお
出がなしと聞て驚き
御容子を
伺はんとて
障子の
外へ參りし
節に
寢言なるか夫かあらぬか
如此と
和君は仰せ有ましたが
熱もあらぬに今の御言葉どうも
合點が參りませぬ然すれば病氣と
仰被は
嘘にて
途中で何事か有しを胸に思うてゞ御座りませうが
如何なることか此忠兵衞にお
話しを
如何なされて下されませと
星を
刺れて長三郎
發と計に
顏赤め面目なげに見えけるが漸々にして
首を下げ
和郎を初め兩親に
語もいとゞ
面伏と思ふ
計りに言も出さず
心地惡しと打伏しが
然問れては
包に由なし實は今日音羽まで
行たる時に
箇樣々々厠へ入んと七丁目の
鹽煎餠屋と炭團屋の裏へ這入て用を
足し出たる
後に
淨水に
困る
節から
斯々の娘を見染ぬ世に二個となき美人なれば
漫に戀しく思ひつゝ
此美婦人に
比ぶれば櫻も
爭で物かはと花見を
爲氣も
失果て立歸りしが氣も
結れ
床へ這入て忘れんと
目睡夢の其中に水を
呉しを見たりしが
偖は
寢言を言たるか面目なしと計りにて一
伍一什を語りけるを
聞忠兵衞は
呆れ
果吐息を
吐てゐたりしが一個點頭此方に向ひ能く
游ぐ者は
溺るゝとやら
平常よりして女
嫌ひで學問にのみお
凝なさるゝ
和君が計ず見染れば思ひの程も又
強し
然は然ながら夫程まで
御執心なる
女兒なら
假令旦那樣御夫婦が何と仰が有らうとも
此管伴が引受て
急度和君の思ひをば
叶る樣に致しますれば必ずお
案じ成されますなと言ば長三郎は
莞爾笑忠兵衞
何分能き樣にと
言より外に言葉なきを聞流しつゝ奧へ至り
主個夫婦に今日の
始末箇樣々々と話しけるに
夫婦の者も
膝を打ち
如何懷中育といへ
何故云々とは言ずして思ひ
惱し
愚さよ今まで
夜歩行一つせず親孝行な長三郎
設し氣に入し者あつて
素生正しく心立の
能者あらば
賤き勤の藝者にもあれ娼妓にもあれ又は
如何なる
身分よき人の娘は言も更なり
賤き者の娘なりとも金に
飽して
貰ひ取り
嫁に爲んと思ひしに今日
計ずも
氣に入た女を見染て來たといふは此
上もなき
大幸なれば御苦勞ながら
管伴どの
明日にも先の
家へ行き身元正しき者ならば
婚儀を
言込下されよとは言聞が如き
體では支度の程も
覺束なければ夫等は一
式此方で致して
遣て
苦くなき故此儀も心得給ひねと
一個子だけに子に
甘き親は
言葉も
行屆き落なく言れて忠兵衞が是も一つの安心と
委細承知し
店の方へ行しに頃は春の日もやゝ
暮初て石町の
入相の
鐘響きけり斯て
管伴忠兵衞は此
婚姻を言込は何より安き事ながら
只云々と言許りで向うの名さへも
知ざる所へ
突然行ても話し難し
要こそあれと
考へしが
漸々思ひ附事ありて明日
疾起出音羽の方へ至るに
附ては案内者に和吉を
連て參りますと
主個に言て
俄の支度
辨當包み
吹筒携げ和吉を呼で今日は
吾儕が花見に行なれば辨當を
脊負供をしてと言ば和吉は
首を
振何の用かと思ひましたら今日も亦花見のお
供吾儕は
昨日若旦那に
連られて行き
懲々したれば
何卒之は長松どんか留吉どんに代らせてと言をも
聞ずに打笑ひ
然でもあらうが若旦那とは
違つて
吾儕のは
物も
喰せ
錢もやる故
是非共に「夫では
和郎はあの所と
違つて上野か向島「イヤ
矢張行先は王子にて
然も音羽へ出て行く
積り「ヲヤ/\夫では
昨日と
同じだと
鬱ぐ
丁稚に錢を取せ急がし立れば幼稚の
習ひ
錢を貰ひし
嬉しさに初の
不平も
何處へやら
後に
引添出行きつ音羽の村へ
差掛り七丁目まで來りければ
確に
茲等と忠兵衞が
歩行ながら
四邊を見たりぬ
其時管伴の忠兵衞は
四邊を見れば
聞しに違ず
鹽煎餠屋と
炭團屋の
路次の有しに茲ぞと
點頭和吉
雪隱へ這入ゆゑ一所に
來よと言ながら
裏へ這入れば和吉はまた
今日も此裏の雪隱へ這入
樣では花
見の程も
覺束なしとぞ思ひける忠兵衞雪隱にて用を
足し
立出見れば水はなく向ふの
家に話しの
老人障子を
開きて書を
讀ゐたるに是なる可しと
庭口より進み入つゝ
小腰を
屈め
眞に申し兼たれどもお
水を
少々下されませと言ば老人
承引てお光や掛て
上るやうと言葉の
下に立出る娘は水を
注ぎ掛け忠兵衞なれば
恍惚もせず其儘
奧へ入たれば
能は見ねども
一寸見るさへ比ひ
稀なる美婦人と思へば
家の若旦那が
見染て思ひ
惱も
道理要こそあれと
主個に向ひチト
率爾なるお願ひにて申し出すも出しにくきが
吾儕は本町三丁目
小西屋長左衞門方の
管伴にて忠兵衞と申す者なるが今日出番かた/″\にて
御覽の通り
丁稚を
連王子へ花見に
行積りで
辨當なぞも
容易致し
[#「容易致し」はママ]參りましたれど
早草臥殊には
腹も
空しより
茲等で開いて一
杯と思へど通に掛茶屋も有ねば
實は
困じてをりしが
只今水を
頂いたを
御縁に致して願ひまするは此お
縁側を
霎時の中お
貸なされて
[#「なされて」は底本では「下されて」]下さらば
酒器を
開きて
腹を
繕ひぶら/\行ます積なるが
如何なもので御座りませうと言ば
主個は
片顏に笑み
何の事かと思ひしが
素より安き其
御無心浪人者の
疲世帶むさくろしきをお
厭ひなくば
其所は
冷れば
此方にてと座敷の中へ
花莚を
敷せて
二個を
招ずるに此方は喜び
有難き旨を
演つゝ上へ登り
風呂敷包を
解開き辨當を出し
吹筒の酒を飮んと
爲けるを主個の
老人押禁[#ルビの「おしとゞ」は底本では「お とゞ」]め彌生と言ど未だ寒きに
冷酒は
身體の
毒なればツイ
温めて差上んと娘に
吩咐温めさせ料理は
御持參なされたれば此方で
馳走の
爲樣もなし責て
新漬の
香物なりともと言へば娘は
心得て出して與ふる
饗應振此方は主個に
酒盞を
薦る物から親子ともに
下戸なればとて手にだも
觸ず
詮方なければ
一個にて傾けながら
四方八方の
話の中に
容子を見れば昔し
由縁ある人なる可し親子の
立擧動尋常ならず親は
篤實面に
顯れ娘は孝行
自然と知れまた容貌も
勝れたれば忠兵衞ほと/\
感心なし
主個の
方のうち向ひお見申せばお
宅樣はお二個
限にてお
孃樣は
失禮ながら
美麗きお生れ
質にて御座りますが定めしお
婿樣をお取にてと
問れて老人
一滴ホロリと
泪を
翻しながら初て
逢た此方衆に話すも
最ど
面伏ながら
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、628-6]した事から此樣に
吾儕の家にて
酒食するも何かの縁と思ふ故
我身の
恥を包もせで話すを
聞て下されかし
素吾儕は有馬家にて
祿五百石を頂戴なし小姓頭を
勤たる大藤武左衞門と云者なるが
夫婦の
中に子と言は是なるお
光たゞ一人
然るに妻は七年前
世を
早くせし
以來は何にも彼にも只二人
偖我口より此樣な事を申すは
自負に
似たれど
吾儕は
性來潔白にて只正直を旨となし
苟にも
曲し事は
嫌ひ善は善惡は惡と
一筋にいふ者なれば
如何せん
水清ければ
魚住ずの
譬に
洩ず朋輩の
讒言に依り浪人なし此
裏借家へ
移り住み近頃
多病になりたれど心持のよき其日は此護國寺の門前へ
賣卜に出
僅の錢を取つて親子が
活計となすも
今茲で
丁度三年越し他に樂みもあらざれど娘も
最も
孝行にして呉る故
夫のみが
此上もなき身の
喜び是も
今茲はモウ十七
婿を
取ねば成ざれど
貧乏消光の浪人者の
家へは來る者あらじと思へば
何處へなりとも
嫁に遣んと思ふにも似ず相應の
縁邊なければ其儘に
背丈の
延たを
抱てをると
偖心配な者でもありと
語る一什を打聞く忠兵衞
渡りに船とて大いに喜び
拜承りたるお身の上一人娘を
餘所他へ御縁付といふ事ならば
最似附はしき
縁談が御座りまするが
如何であるかと申すは
外の事ならず
吾儕家の若主人は十九に
成て
箇樣々々お
孃樣とは
年齡から容貌の程も一
對なれば此方へ
嫁にお貰ひ申す譯には參りますまいかと問ば
主個は
首を
振り本町通りの小西屋というては
名高き藥種問屋江戸
指折の
豪商にて
誰とて知ぬ者もなき
大身代の嫁に成とは娘が
出世此上なき喜びなれども
此方はまた見る影もなき
浪人者釣合ざるは不縁の
基決して是を
相應せし縁邊なりとは言難ければ御
深切の程
有難けれど此義はお
斷り申すべしと言れて望を失ひたる忠兵衞今は
詮術なければ
昨日息子長三郎が花見に出たる其折に
計ず
茲の雪隱に入り水を
頂き手を
洗ふ
節[#ルビの「をり」は底本では「をら」]に見染て
箇樣々々と
息子が寢言兩親がことより
自己が來りたれど
只一向にも言入かね實は
斯々計ひて
御懇意になり此話しを言出したりといと
事實を明して
演たるに
主個は
礑と
横手を打ち偖は
然いふ
解ありしか夫にて思ひ合すれば
供をなされし
丁稚どの如何やら
吾儕は見たやうな最前よりして考へ居りしが昨日來りし人で有しか
然なら水を
上し方が
足下の家の
息子なりしかとは知ねども
容姿もよく若きに
似氣なく
物柔で
折屈能き人なれば
娘持身は早くも目が附き
何處の息子か知ざれど
美男の上に
温順やと
同事なら
斯いふ人に娘を
遣たき物なりと
然大家とは知ざれば
一個意に思ひゐたるが息子殿には
不束なる娘お光を夫程に
思し
召て給はるからは此方も今は
推辭に
術なし
吾儕は
承諾致したが
女兒は如何と
振返り問れてお光は先程より父と
客との
物語り昨日見染めた其人は然る
大商人の
息子にてしがない
消光に
追るゝゆゑ
繕ひもせず
花香もなき此身の
姿がお目に
止り夫程迄に戀慕うて下さるといふ有難さ
勿體なやと
計にて
嬉しさ
交る
恥かしさに
塵のみ
捻りてゐたるゆゑ今改めて
父親に問れたりとて
回答も出來ず
押默止てゐる
横顏を見やりて父は打笑ひ
勝た樣でも
未幼稚兎角縁談の事
等は
恥しいのが先に立ゆゑ
判然返事も出來ぬ物だが一
生連添本夫の事
否な者をば
無理やりに行とは決して言はせねど
昨日向ふは
其方をば見染た程の事といひ
吾儕も
息子を能く見たれば
和女も定めし見たで
有う
然すれば
見合も濟だと言物
殊に息子殿は
戀病で早く
安否が聞たいと
管伴どのも急がるれば
其所で
和女に
問なれば
遠慮をせずに
回答を
爲ねと言るゝ程猶
彌増未通女心の
初戀に
慕ふお方と縁の
糸結んで
解て末長く添るゝ事も父親が
承知とあれば
[#「あれば」は底本では「あれど」]竟斯々と言んとすれど
言ひ
兼しが斯ては
果じと思ふよりハイ
吾儕は
彼方なれば實に嬉しう御座りますと有か無かは聲出して思ひ
切てぞ言たる儘發と
面に
紅葉して座にも
得堪ず勝手の方へ
逃るが如く行たるは
娘意ぞ然も有可し父は見やりて打笑ひお
聞の如く娘お光も承知した事なれば吉日を
撰び
結納のお
取交も致さんと言れて忠兵衞
胸撫下し夫
拜承り
安堵しました實は
云々若旦那に誓つて置し事なれば
設し御
承知のない時は
如何爲んと
腹の中で一方
成ず心配を致して居しが
先は
重疊左樣御座らば立歸り
喜ばせし上又
改めて出まする事に仕つれば
何分宜敷お頼申すと
喜びを
演別れを告
取散し辨當など
始末をなして
舊の如く風呂敷に押包せ
丁稚に
脊負せ
勇進んで歸りけるが和吉は
霎時側に在て
二個が話しを
熟々聞主個の息子が
昨日茲より歸りし
譯も今日は又
態々爰まで忠兵衞が來りて
汚き
家をも
厭はず酒を
飮たる事までも今はさつぱり
分りしが餘り
咄しの出來すぎて花見は又も
廢止になり
再度遠き音羽より
辨當箱を
脊負戻せしに
幼稚意に
管伴を恨む
罪もなかりけり
偖も
管伴忠兵衞は歸ると其儘今日の
始末を
落なく話したりけるに
主個夫婦はほゝ
笑み
容貌許りか
[#「許りか」は底本では「許かりか」]心操も又其
素生も
勝たる女で有らば言分なし追て
※人[#「冫+氷」、U+2B947、630-9]を立表向
遣はすなれど
善は
急げ且は
一子にも安心を
爲るが
能ゆゑ
箇樣々々の
結納造り明日
遞與て
變改なき樣致してと云れて忠兵衞
心を
得つ
主個が前を
退ると其まゝ長三郎が部屋へ
行き先方がこと
兩親がこと萬事
上首尾なるよしを
告れば是さへ喜びて
忽地心地は能く成けり忠兵衞
直に
結納を
揃へる中に其日は
暮行き
明日朝の
間に品々を
釣臺三
荷に
積登せ我家の
記章染拔たる大紋付の
半纒を着せたる
漢六個に
擔がせ音羽へ至り路次口に
待せ置つゝ進入り
昨日の
禮を
演たる上
※人[#「冫+氷」、U+2B947、630-13]を立て
良辰を撰び結納持參なす可き所ろ思ひ
立日が
吉日と主人も申し候へば
差附がましく候へど今日
品々持參したれば何卒お
受取下されと水引掛し
目録書を出せば大藤受取て世に
婚禮には
用ひる
日と又
忌可き日と有といへども
何も
附會の
説の多くて取可き所ろも
更になし然は云へ
世俗に從はずば
和郎の方の
如何にやと思ふ計りに
良辰を
撰みてと言はしたれど
此方にては
素より日には
構ひなければ今日
結納幾久しく受納致すと目録書を
押頂けば忠兵衞は
路次の
外なる者を
呼込み三荷の
釣臺運ばせて油團を掲げ其中より
取出したる
柳樽も
家内喜多留と
記しゝは妻を
娶の祝言にや
麻を
白髮とかい附しは麻の如くに
最直に
共白髮まで
消光なる可し其の
外鯣を
壽留女とするなど
皆古實なる
書振の二樽五種とは言ながら
何れも
立派に
製たれば只さへ
狹き此家は所せまきまで
並べ立られ
坐る
間さへ有らざりけり
主個は何やら娘お光に
私語示せばお光は心得
何程づつかの
祝儀を包み與ふるほどに
六個の者は
管伴を經て禮を演べ早用なしと忠兵衞が
言るに
何れも
空釣臺を
擔で本町へと歸りける跡に忠兵衞
懷中より金子二百兩
取出し此方の
望みに
縁談を無理に願ひし事なればお
支度其他に和君の方へ
御物入を掛ましてはと
思ふよりして此金は
其所に記しゝ
帶代に差上ますれば失敬ながら
御受納の上是を以てお
支度の
程希がふと言ば大藤
景色ばみ甲斐なく
消光浪人ゆゑ
貯への程も
覺束なしと思うて
斯は言るゝかは
知ざるなれど武左衞門支度金を
取り
娘をば
嫁に遣たと言れなば
實の
嫁には非して金に其身を
任しける
妾々も同樣にて
末代までも家名の
汚れ娘持身は殊更に
婿迎へるか嫁に
遣か
爲ねば成ぬは
生れし日より知てをりたる事なれば其
入用にと
豫てより貯へ置たり金子ありて
貧苦の中にも失はざれば今度の支度に事
缺ず
此事はしもお光はまだ知ねば共に是を見て
疑ひ
晴せと言ながら
衝と立上り床の間に
飾置たる
破果し
具足櫃の
葢かい遣り除け
底を
探つて一包の
金取出し
二個に示し爰に百兩あるからは必ず
心配無用なりと浪人しても流石は
武士用意の金を貯へは
實に色も香も
最深き山吹色とぞ
知れたり娘は
初て
見たる金今日まで
明しも
爲給はで貯へ置て下さるも此身の上を
思し
召親の
慈悲こそ有難けれど又今更に有難涙忠兵衞
意に
面目なく御浪人なるお身の上を
輕視斯と申すにあらねど主人が
寸志を其儘に申し述しが支度金とお
見做ありては面目なく
殊にお
嗜みの大金を
拜見致し
汗顏の外は之なく候へば此二包は持歸り主人に
篤と申し聞候なればお
立腹をと云ば武左衞門
面を
和柔否とよ
此儕が
心志の徹らば
爭で
怒る可き然ども
折角持參せし金を其まゝ
持返らば
和郎は
幼稚の
使に
等しく主人に言譯あらざる可し
就ては一度
受納したれど
此方は見らるゝ如くにて
親子の
外に人もなければ結納持せて遣難し依て此まゝ此金は其
婿殿に
上下料に送りたりとて返し給ひぬ然すれば
和郎の役目も
立んと信あり義あり何から何まで拔目のあらざる
言葉に
感じ忠兵衞は
只拜々と言受なして金を納め我家へ歸り
夫婦の者に一伍一什を告ければ二人は
流石武士は武士いと
見上たる親子の者と思へばいよ/\
頼もしく婚姻する日を急ぐ物から
大家の事ゆゑ
出入の者まで萬事行屆かする其爲に支度に
掛て日を送りまだ當日さへ
定めざりけり
偖も此方は
裏店に
開闢[#ルビの「かいびやく」は底本では「かいびくく」]以來見し事なき釣臺三荷の結納物を
擔ぎ入ける
爲體に長家の者は目を
驚かし
何處へ行やと思ひしに思ひ掛なき大藤の家へと
擔入たりければ偖は娘のお光さんが
何處ぞへ
嫁に行事かアノ結納の容子では先は大家の思はるゝが
成程彼兒は
容貌が能く音羽小町と
綽名にさるゝ程にてあれば
氏なくて玉の輿に乘る
果報愛度其日
消光の賣卜者の娘が大家の
嫁に成なら親父殿まで浮び上り
左團扇に成で有らうと然ぬだに口やかましきは
棟割長屋の
習慣とて老婆も
嚊も小娘もみな路次口に
立集ひ
姦と讀むじだらくの
口唇翻す
餞舌塒求むる小雀の
群立騷ぐ如くなり斯くとはいざや
白髮交の髮を結びて手拭
冠り
拭の
[#「拭の」はママ]布子の
裾端折片手に
古びし岡持下げ足元輕く立歸る
老婆は長屋の
糊賣お金營業仕舞て
這入來る
姿を見るより
夥多が
和女は
隣の事といひ常から親しくなさるゝゆゑ
彼所の事は御存じだらうが
今日是々と結納を
賣卜者の家へ持込だか先は
何處だか御存かへと問れて
此方は寢耳に水
皆さん方も知ての通り
吾儕は子もなく
本夫に
遲れ
一箇者ゆゑ營業に出るとき家に錠を
卸し
隣へ
頼歸ればまたヤレ火を呉れの湯を呉のと
貰ひに行て一つ家も同じ
樣にはしてゐる故夫程立派な
結納が來る程ならば
吾儕にも何とか
話が有りさうな物で有るのに無のは
不思議吾儕が聞て上やうと先に
進ば
夥多は
後に從ひ
雜路々々と皆門口まで來りしが
別れて
己が家々に思ひ/\に
入にけるお金は
門より聲を
掛這入ば長屋の
噂に
違はず最美事なる品々が所狹まで並びゐたるに
如何した者と
裡問ば武左衞門は
昨日より今日までの事
委敷演べ
箇樣々々の事ありて急に今日結納の
取交せをばしたれば
婚姻の日は先方より
言越參らば直にしても致せるやうに爲て置たく就ては娘が
天窓の
物帶も
衣類も
箪笥長持其外一
式新撰く
整へんとは思へども是等に男は
役に立ず然とて
親類縁者とても有らねば
萬事を頼みたく今日は
和女の歸りをば實は
二個で待てゐたりと言ばお金は
斑なる
齒を
顯して打笑ひ然いふ目出度お話と聞ては
吾儕も實に
嬉しく斯いふ事を申すのもチト
失禮では有りますが常にお
柔しいお
光さん
吾儕は自分の子の樣に思つてゐませば
營業を休んでなりと
駈歩行御用を達て
上ますよ是といふのも
親孝行を
神や
佛がお守りなすつて此上もない
幸福が參つた事で御座りませうとお金も共に
打喜び是より後は營業を
終了とお光の方に至り萬事の
相談買物なんどに
深切盡せば親子は喜び
親類代りに當日はお金も其所の
席に
臨みよろしく
頼と此者の
衣類も
帶も
拵へやりしにお金はいよ/\嬉しさ
増し
自慢たらだら此事を長家は
素より
四邊へも
吹聽なせば其邊へ
發と
噂の立行て或は之れを
羨むあり或は之を
妬むもありて
衆口喋々當分はお光の事のみ云あへるを
耳に入たる家主の庄兵衞
俄に安からず思うて一人心を定め此
婚姻を
妨げんと
謀し
奸計※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、633-7]に當り
竟にお光が
汚名を
蒙り
赤繩絶たる所より
白刄を
揮つて
奸を
鋤き
白洲に
砂石を
掴むてふ
最爽快なる物語は
亦回を次ぎ章を改め漸次々々に説分くべし
月明瞭ならんとすれば
浮雲之を
覆ひ花
美麗からんとすれば風雨之を
破る
寸善尺魔の
俚言むべなる哉大藤武左衞門の
女兒お光は孝行の
徳は
孤ならず
隣家の
老婆が
婚姻の事如斯と
徇歩行より思はぬ事の起りて喜ぶ幸ひも今ふり
變る
災禍の
素を如何と尋るに此裏長家の家主を庄兵衞というて
今茲廿年餘り二つに成り未だ定まる
妻もなく母のお
勝と
二個消光を
爲ども茲等は
場末にて果敢々々しき
店子もなければ僅か
許の家主にては
生計の立ぬ所より庄兵衞は
片手業に貸本をもて營業と爲ぬ又同町に山田
元益といふ
醫師あり是は
這れ庄兵衞が兄にて
幼名を庄太郎といひしが
性來善からぬ
品行ありて
賭博を好み
酒を飮み親に
苦勞を掛ることも度々あれば父は
怒り
久離を切て
勘當せしに
渠方々を
彷徨うち少く醫師の道を覺え町内へ來て山田元益と
表札を
掲げ
門戸を張れども
素より
拙き
庸醫なれば病家は
最も
稀々にて
生計の立つほど有らざれば
内實賭博を旨とすれば父の
怒はいよ/\強く
勘當免ん樣もあらねば
其儘にして過行しが去年父親は
死去しに母は
女氣の心
弱き所へ
持込詫言せしかば故なく
濟で今ははや
往通をなす中に成しに元益は兄といふを笠に
打着て庄兵衞に
無理を言うこと度々なれど庄兵衞意に心能らず思うて
言葉爭ひせし後は久しく
往通もなさで居しが庄兵衞は
疾より大藤の
女兒お光に
戀慕なしつゝ忍び/\
袖褄を引者ながら彼方は
路傍の柳に
等く
浮氣の風の吹くまに/\
靡く女に非れば
打腹立て
言懲さんとは思へども家主なればと
堪へて程よく
紛はし其まゝにして過すに庄兵衞
情慾いよ/\
募りお光は我を
嫌ふにあらねど未だ
未邊女氣の
[#「未邊女氣の」はママ」]うら
羞しく
發揮と
問答を爲さざるなる可し就ては
氣永く
口説時は竟に意に從ふならんと思ふにも
似ず其娘は今度本町の小西屋へ
縁談究り箇樣々々と
糊賣お金が話したるを聞より此方の庄兵衞は今迄
手活の花とのみ思ひゐたりし女をば他へ取るゝ無益しさ如何はせんと
取置つ
胸を
碎つ
寢食も忘るゝ計に考へしが
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、634-8]思ひ附きお光をば手に入んこと外になし此
婚姻の
妨げせば
渠自然此方へ
靡かん
噫然なりと思案せしが此
方策に
困じ
果就ては惡き事に掛ては
敏き者は兄の元益是に相談なして見ばやと先元益が方へ至るに
博奕に
負の
込たるか
寢卷一枚奧の間に
煤ぶりゐたるが夫と見て
誰かと思へば弟の庄兵衞何と思つて出て來たか知ねど兄に
無禮を云ひ
謝罪にも來ねば此方もまた今日まで出入も
爲なかつたが一體何で來たのだと
問れて此方は
天窓を
掻きツイ先頃はお互に
蟲の居所の
惡い所から言葉
戰ひ
爲たれども考へ見れば
吾儕が惡いと
斯謝罪た上からは主は素より
舍兄のこと心持をば取直し何卒力に成て下せへと云ば元益
點頭て然事
柄さへ
解つた事なら素より
同胞何を云ふ然し改まつて力に成てと言のは
如何いふ次第だかと問れて庄兵衞はお光が事一
伍一什を打明し斯いふ
解ゆゑ
邪魔を入れ其
婚禮を
茶々風茶に
爲たらば女は
吾儕の物と
究てはゐるが手段に
困り其所で兄貴に相談に來たが
趣向は
無物かと問はれて元益笑ひ出し世に
自惚と
瘡氣のない者はないとぞ言に
違はずお光は未だ手に入ねば此
婚禮が
破談に成てもお主の方へ來るか來ねへか其所の所は
解らぬが是を破つて自分の方へ引入やうとは
流石に弟感心したゆゑ力に成て其
婚禮を
破談にしやう。夫ぢやア
爲て下さるか
如何も
吾儕がことを
構へ
爲て見せようが此
姿では
如何も
斯も
詮方がねへ付ては
身姿を
拵るだけ金をば五兩貸てくれ。ムヽ五兩と云ては
吾儕の身では大金ながら
後刻までに
急度調達持て
來が然して金の入用と
邪魔の手段は如何いふ
解か安心するため聞せてと云ば元益庄兵衞の耳の
邊へ口さし寄せ何事やらん
稍霎時私語示すを聞中に此方は
莞爾笑ひ出し聞了つては横手を
拍ち成程々々
奇々妙計必ず當るに相違なし夫なら直に金の
算段。
急度相違のない樣に直に調達致して來ようとつかと
戸外へ出たるは其日も已に
暮合すぎなり

も此家には妻子もなく
一個住にて
玄關番を兼た
飯焚の男一人在れど是さへも使に出たる後なれば
同胞如何なる
密談せしや
知者絶て無りけり斯て後庄兵衞は
翌朝五兩の金を
調達兄元益に
遞與しに此方は心得其金もて
質に入たる
黒紋附の小
袖羽織を受出し近所の
竹輿屋へ
吩咐て醫師
陸尺。三人
仕立切棒の
竹輿路次口へ
据させ
自己は夫に乘り方々と
聲掛させながら本町へこそ到りけれ
竹輿舁豫て心得ゐれば同町三丁目の
藥種店小西屋長左衞門の前に
下し戸を
引開て直しける
雪踏の
鼻緒の
最太き心を隱す元益が出てしづ/\進み入に店の者等は之を見れば
年未だ
三十路に
足ざれど
人品骨柄賤しからず
黒羽二重に丸の中に
桔梗の
紋附たる
羽織を着なし
竹輿の
體裁陸尺の容子を見ても何某と稱るゝ御殿醫先生ならんと思へば一同
敬ひまづ此方へと
上座へ
招すに元益更に辭する色なく
最鷹揚に
挨拶して打ち通りつゝ座に附ば今日は
管伴忠兵衞が不在なるに依り
帳場にゐる主人長左衞門は立出て
敬々しく
挨拶なしお
茶を
上よと云ければ
和吉は番茶を
茶碗に
汲みイザと計りに進めけり
發時主個は此方に向ひ御用の
筋は如何なる品と問へば元益
茶碗をば先下に置き
懷中より一枚の紙取出し如何も少々の
買物にて氣の毒ながら此方の店は
藥種が能きゆゑ
態々と
遠方よりして參りたれば此の十一
味を何れもみな一
兩目づつ
調合なし
極細末にして
貰ひたいと出すは
身姿も能き事ゆゑ定めし高金の品のみならんと思うて開き
讀下せば然に非ずして
極安き物のみなれば
呆れながら
委細承知を仕つりぬ
只今藥研に掛ます
間霎時お待ち下されと云つゝ夫を和吉に
遞與製造方へ廻させしは多少を
論ぜぬ
商個の是ぞ實に
招牌なる
可し
偖細末の出來る間と元益に
四方八方の話しを爲ながらも餘りに
不審と思ふ故此方に向ひて
膝を進めちと
失禮な事では御座れど
營業ゆゑに貴君樣に伺ひまするは外でもなき只今
仰せ
附られし彼お藥の調合にて弊家共も代を
累ね此營業を致しをれども箇樣な藥の合せ方初めて
拜見致しますが一體是は何病に
驗ますものか
苦からずばお教へなされて下されませと云ば元益打笑ひ成程是は貴主方が見ても一向解らぬも道理にこそあれ此藥は
素漢方家の
配劑ならず
愚老先年長崎にて
醫道修業を爲しをり
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、636-3]阿蘭陀の名醫より
傳習したりし
稀代の
妙藥テレメンテーナと
稱物にて則ち
癲癇の
良劑なり然れども今の
品耳ならず
阿蘭陀人より傳へられたる
奇藥を
二種加ゆるゆゑ如何程
重き
癲癇なりともたゞ一二服を服用すれば
忽地全快なさんこと
霜に
沸湯を注ぐに等き世にも
怪有なる
奇劑なるは是迄
夥多の人に用ゐ
屡々功驗を示せしより今度
音羽町の
浪人大藤武左衞門の娘お光が
矢張癲癇の
患ひありとて
愚老の方へ
療治をば頼に來しゆゑ
診察するに數年の病のかうぜしなれば
我妙藥の力にても
到底全快
覺束なければ一時は之を
斷りしが父なる者の云るには今度
娘は江戸向の大家の
嫁に
望まれしが
病有ては相談も出來ねば
深く
押隱し
疾や
結納を取交し近日
婚姻致す事に成しに依ては
行早々病起らば如何にせん故に
根切にあらずともと
頼まれたるより今日わざ/\此方へ參りし事なりとまづ
大略しを語りけり
其道を以て
計る時は君子と雖も計り得るに
易しとかや扨も山田
元益はお光の
婚姻を
妨げるため此小西屋の店へ來り
癲癇なるよし餘所ながら
咄出せば
主個を初め並ゐる店の者共等も
顏見合せてゐたりけるに
爲て
遣たりと
意に
笑み
猶も
主個に打向ひ今の
女兒の行先は
大身代の由なれば此
婚姻の
首尾よく成らば
女兒計りが
僥倖ないで
親まで
浮び上る事ゆゑ是非とも是を
爲遂たし然ども
隱して
遣たる病氣が一日二日の中に起らば
折角なしゝ
婚姻も
破談になりて
寶の山へ入ながらにして手を
空く
戻るが如き事ある可し因て
到底治らずとも藥の
功驗で二月三月起らずにゐれば其後に
假令發する事ありとも
早夫までには
夫婦の中に
人情と云が
起り來れば
癲癇ありとて
離縁には成る
氣遣も有まいからと云れて見れば其やうな物とも思ひ
上治して致してやらねば其親子が
折角得たる
出世の道の
妨げ爲やう思はるれば先の家へは氣の毒ながら
偖斯までには爲たりしと何氣なき
體咄す
節藥の
細末出來しとて
持來るより受取つ錢を拂ひて長居は惡しと
會釋をなして元益は店を
立出竹輿に乘り
首尾よく行しと舌を
吐き我家を差て歸りけり
跡見送つて長左衞門思ひ掛けざる醫師の
咄しに
只管呆れて言葉も出ず
茫然として望みをりしが
影さへ見ず
成し頃やう/\
我に歸りつゝ
慌忙奧に走り入り今の次第を
斯々と話すに妻も且
呆れ且は驚く計りにて
夫婦交に
面を合せたゞ
吐息のみ
吐ゐたりぬ
斯る所ろへ
管伴の忠兵衞外より歸り來り居間へ至るに長左衞門は
待兼たりし
風情にてオヽ忠兵衞か
遲かりし
和郎は此家に長の年月
勤て居て今にては
管伴とまで用ゐらるゝ
身で有る故に大事の/\
一個息子へ取る
嫁も
吾儕等三個は
皆目見ず和郎に
任した今度の一
件それを何ぞや
探りもせず何故あつて
彼樣な
病持をば
引摺り込み
結納までも
取交せしぞ
息子の
意に
叶たる者にてあらばとは
云たれど惡ひ病があつても
能いと我々夫婦は決して云ぬに
和郎は左樣な
女兒とも知ずに
縁を組せし
無念か又は知ども
當座のみ
能ければ
能との不實心で知て居ながら
横着を
極し
譯か
聞ま
欲と腹の立まゝ
藪から
棒にまくり
立つゝ
云ければ忠兵衞
呆氣に
取るゝ
耳少も
合點行ざれどもお光の事とは大方に
推せばいよ/\
分り
兼猶押返して問けるに
主個は今方店へ來し醫師が
述たるテレメンテーナの藥の事より大藤の
女兒は
斯と話したるが和郎は大事な主人の
嫁が
途中なんどで
轉倒り
天窓へ
汚き
草履草鞋を
載られ恥を世の中へ
晒してゐても大事ないかと
怒りの
言葉も無理ならず此方も是を
婚姻の
邪魔なす者の
所爲と知ねば
彼奸計を
信實となし
貴妃小町にも勝るとも劣はせじと思ふ程なる美人であれば其樣な病も
素より有るまじと思ふが故に
近所隣家の人にも更に平常の
行跡さへも聞事なく
縁を
組しは身の
過失この娘にして其病ありとは
嗚呼人は見掛に
依ざる物かと
嘆息なしてゐたりしが
漸々にして
此方に向ひ
然惡病のあると知らば
假令若旦那がどの樣に
戀慕ひて居給ふとも決してお世話は致すまじきに全く知ずに
爲し事故
不行屆の其
廉は平に御
勘辨下さる可し
然して此上の御
思案は何の思案に及ぶ可き
直婚姻を
變改してと言はれて忠兵衞
度胸を
突き
仰御道理では御座りますれど先から好みし
縁談ならず此方よりして若旦那が
見染て無理に
貰ひに行き此
管伴の目の黒い中に如何なる事ありとも
離縁はされぬと
受合しを今更
斯と申しては參り兼れば此事のみはと
言を
主個は
押返し
假令ば無理に
貰ひしとて婚姻なしゝ
譯にもなく本の
結納だけ
取交した事にてあれば仔細有まじ夫をば
強て
否と
云は
和郎は病氣を知ての事か。全く以て是から先に行て呉るか。サア。サア夫はの
詰臺詞忠兵衞今は
詮方無れば左樣御座らば此由を若旦那へ一
應話してと云ども
主個は更に
肯ず何の
息子に話すに及ばう
如何戀慕ふ美人でも
覆轉つて
泡を吹く者と知なば
戀路は
覺ん
息子は
吾儕が
能樣に言ゆゑ
和郎は音羽町へ早く
行ねとせり立られ忠兵衞今は理の
當然に
迫られたれば一句も出ず
力投首腕組して進まぬ足を進めつゝ音羽を差て行にける神ならぬ身の此方には
然る
災禍の
配り來て無き名を
負しと
露知ぬお光が
嫁入の支度の
好惡父親とも又お金とも相談して
調へければ
衣類諸道具今は殘らず
揃ひたるに大家の事故先方にては
夥多の支度ある事にて未だ
調はぬか
婚姻の日をば
何日とて云うて來ぬかモウ今日あたりは
來然な物と
親父が
言ば
女兒もまた戀しい人と二世の
縁結ぶに附て
嬉しさの
一日を
千秋と思へども言はるゝ度に
恥かしさの先立なれば
果敢々々しき
回答もなくて
面はゆげ
斯る所ろへ門の戸開け
這入來るは小西屋の一番
管伴忠兵衞なれば夫と見るより
父親は
最笑し
氣に迎へ上げ忠兵衞どのか能く來ませし今日等は定めし婚姻の
日限究にお出が有らうと今も今とて娘と
二個噂を致して
居りし所ろマア/\此所へコレ娘何を
迂濶致してをるお茶を上ぬか如何ぞやと
待遇振の
厚き程
此方はいよ/\
意に
恥ぢ
言出惡く
背後には
汗する
計りに在りたるが斯ては
果じと口を開き決してお構ひ下さるな今日はチト申上兼し次第が有て參りたり夫と申すは餘の事ならずお
娘御樣とお約束を致しましたる
吾儕方の主人の
息子長三郎こと實は先日より病氣に附き
種々醫藥を
撰ぶ物から
功驗は
毫しもあらずして次第
漸次に
重り行き昨今にては
到底此世の人には非じと醫師も云ひ
吾儕共も思ひますれば
節角お娘御を
迎申しても
祝盃さへも致さぬうち
後家と
爲のが
最惜ければ此度の縁はなきものと思し
絶念下さるやと申して參れと長左衞門が
吩咐に依て
態々參りましたるが
實にお氣の毒の次第にてと
言たる
儘に
戸外へ
飛出し
跡をも見ずして
逃行きけり此方の
父女は思ひも因ぬ
管伴忠兵衞が斷りに
夢かと計り驚きつ又は
呆れて
顏見合せ
少時言葉もあらざりしがお光は
呀と聲立て其所へかつぱと打伏つ
前後正體なき
叫びぬ父も
泪に目を
潤せしが此方に向ひてコリヤ娘必ず泣な我も泣じ
和女を
育て此年月
能婿取んと思ふ所へ幸ひなるかなと今度の婚姻
無上親娘が悦びを思ひ附ても
亡き母が
生て
居なば
嘸や
嘸悦ぶならんと今日迄も樂しみ居たる甲斐もなく
忽地斷るとの
變改如何なる事に
原因候や知らねど一度約束して
結納までも取
交せしに
斯言來る所を見れば
幾許大家の
由緒ある家のと
云ても町人は町人だけで
詮方なし必ず
喃々思ふなよと
勵しながら父親も同じ袂を
潤はしぬ娘はやう/\顏を
揚げ女と生れし
甲斐なさは
百年の苦樂他人に在りと常から教を受まつれば
本夫を
持ば
生涯を
任して
朝暮仕へんと思ひし事も
空頼み仇し
縁に成ることゝ知ば年頃貧苦の中にも失ひ給はで
吾儕の爲に
祕置れたる用意金を盡して爲し支度さへ今
浪費に成りたるは
悔き限りに候へど夫も是非なきことながらモウ
結納を取
交せし後にてあれば
同衾は
爲ねど已に夫婦で有ると今故なく離縁されては
吾女は世間へ此顏が向られませねば如何なる
越度如何なる
粗想で離縁されしか其趣きを小西屋へ一度掛合
吾儕の
身體の明りの立やうに
何卒なされて下されませと
理り
迫たるお光の
述懷無實に
陷り樂みし
赤繩茲に絶しと知ぬは憐れといふも
魯なりけり
父は
泪を拂ひつゝ娘に向ひて又云やう其
述懷は
然事ながら
設此先が武士なりせば今更になり
箇樣な事を
面目なくて云ても
來るまじよし又云て來たればとて
此方も
承引其明の立ざる中は使の者を
爭阿容々々返す可き然るを先が町人にて
素町人と
云る者は利に
耳走りて恥を思はず義理には
暗き者なるゆゑ
斯る事さへ云出すならん然るを此方は人がましき者と思うて
理窟を
云は
所謂乞食に
棒打にて
毫も役に立ざれば腹の立のは無理ならねど此は是までの事と
斷念必ず案じる事なかれと
説ど
諭せど娘氣の亂れ染ては
麻糸の
解よしもなき其
節から隣の家の
糊賣お金例の如く
營業を
終了て今がた歸り來り我家へ入て荷を
卸し
重能代りの
石決明貝を
携へ隣の家へ至り火を
貰はんと行き見れば年が年中
物爭ひ一つなしたる事もなき家には
似氣なく親と子がさも
不快氣なる
面地して然も
泪を
翻しゐればお金は不審と
眉に
皺平常からして親子中の
能と云のは音羽中へ
響て親に孝行な其お光さんが何した譯でと問ど親子は
嘆息の外に
回答もあらざれば一所に置ては
面倒というてお金は無理やりにお光を我家へ
連行つ何で
喧嘩をなされたと問ばお光は面はゆ
氣に物
爭そひせし
解ならず
二個泪を
翻してゐたるは斯樣々々の次第なりと婚姻
破談に成し事を
包ず告ればお金は驚きあれ程までに手を下て
貰ひに來りし小西屋で
今更俄に斷りに來のは何とも
合點行ぬと云たる
耳にて
詮方なければお光を慰め家へ歸し
吾儕も大藤武左衞門に會つて
悔みを
云にける物語
二枝に
分る
不題忠兵衞は主命なれば詮方なく
最云難き事の由を親子の者に云傳へ
其所をば
遁も出せしが
設し
追掛らる事もやと
意の恐れに
眞暗散方跡をも見ずして我家へ
歸り向ふの始末
斯々と
咄して
汗を
拭ひけり夫婦は聞て先は
安堵此事
一子に云ん物と思へど未だ暇に
乏しく咄しもせねば
和郎まづ
一子に
篤と此
由をと云れて
最ど
迷惑ながら
否とも云ねば部屋へ行き
今朝店へ一
個の
醫師の來たりしことよりして
親公のいかりに詮方なく向ふを
斷り歸へりしまで
一伍一什をはなしけるにきく長三郎は
宛然に
髮
の花をば散したる
心地せられて
茫然たりしが
面色を
變へ膝をすゝめコレ
管伴どの忠兵衞どのそも/\大藤の
女兒おみつは父母の女房にするというて
婚姻いひ
込しことならずこの長三郎が
彼を
見染和郎を以て
結納まで取交したるなかなれば假令
癲癇の病ありとも
吾儕が
能というならばそれまでにして
父母も
敢て
左や
右いふ
筋有るまじ夫をして病有るものはと
云解ならば一
應は我に話して縁組を
變更す可きに然なくてその當人なる
我耳へは
毫も入ず和郎をもて變更さするは如何なることぞ父母も父母なり和郎も和郎あまりと
云ば餘りなる
壓制業とや云
可けれ又一
方より云時はお光に
斯る病ありとも

は大道にて
轉覆り
泡を
吹たる所をば見たるに非で店へ來し
何れの者やら名も知ぬ醫師が云たることなれば是また證據と爲に足ず然るに夫を
眞實となし斷りたりしは
麁忽千萬此方は
現に見たるといふ證據あらねば其
醫師の云しが
嘘そにて大藤の
娘に病の氣も有らぬを
疾て斷り後に至り斯と心の就く事あらば
只面目なき
耳ならず本町の小西屋こそ大
身代で有りながら事理の
解りし者なきや出所不定の醫師の言葉に
迷ひて病もなき
娘を病有とぞ思ひ詰め
結納までも取交せし其
縁談を斷りしは
最笑ふ可き事なりと世間の人の口の端に
掛りし時は我身と父母の
恥のみならず小西屋の
暖簾に
疵の附ことならずや故に縁談
破談の事は
吾子は決して
承引難し然れども其實病あつて父母がお光を
嫌ひ給ふと云事なれば長三郎は
假令焦れて死する迄も是非縁組とは云ざるなれば
只今直に
癲癇と云る證據を上て來て見せなば
[#「見せなば」は底本では「見せねば」]此のまゝ
許しもせん
設し然もなくは醫師の云ひし言葉は
嘘と思ふゆゑ父母に
迫りて病に
係らずお光を如何でも女房に爲ねば成らぬと
居丈高辯舌尖く
演立たる
理の當然に忠兵衞は一
句も出ず首を
垂れ
考へ見れば長三郎が云に違はず
渠お光の病氣といふは何處の者やら
譯らぬ醫師が云し
耳にて
實際見たる譯ならねば今に成ては其病の有無とても
計れずと
少迷ひの
晴來れば晴る程なほ面目なきは
初よりしてお光が上を能も
探らぬ
過失なりしと思ひ附ては中々に
辯譯なけれど
首を揚げお年若には
似給はで事理
明瞭なる今のお言葉御尤にて
返す可き
言の
葉とても候はず然ども
今將た
貴君樣が旦那樣御夫婦に
仰せられてはお家の
騷ぎ
只何事も忠兵衞が
不行屆に
起りし事ゆゑ一度は斷り候えども如何樣とも爲し彼娘の病氣の有無を問合せ
再回御縁の
結ばる樣致しますれば暫時く
吾輩にお預け下されませと思ひ入りてぞ
詫けるに長三郎は面を
和げ夫ほどまでに云なりせば
此回は許し
遣はす可ければ今日よりして五日の中に
設病氣有る物ならば有とぞ云る
確な證據を取て其
旨吾輩に云ね又無時には
縁談再回結びて
高砂を
謠る樣に
取計ふ可し夫も五日の中に限りぬ
設し日限を過す時は我も
堪忍爲難ければ
双親に向ひ此事を
詳細云て意中を聞ん
和郎も是を心得てと
嚴重云れて忠兵衞は
詮方なけれど言受し部屋を
退き
投首なし五日の中に善惡二つを身一つにして分る事の
最難ければ思案に
暮るに
最前よりも部屋の外にて
二個が
問答立聞せし和吉は密と忠兵衞の
側へ差寄り
袂を控へ人なき座敷へ引入て
委細は
彼所で聞ましたが思ひ設けぬ今度の一件
吾儕も
最初に若旦那のお供をなして彼所へゆき夫から和君のお出の時もお供を致して
最初からの事
柄は
皆知てゐるにあの娘御に限ては
然いふ病の有る事とは思はれざれど有といひ
又若旦那の
被仰處も道理と思へど五日の中にどうして
夫を
探り給ふか
吾儕も共に案じられてと云ば忠兵衞
點頭て年より
怜悧和郎の心配吾儕も
切迫に
詰つた故
先云るゝ通り五日をば承知をなして受合たれど何を
當にも雲を
闇。然いふ譯なら此事は
秒時吾儕にお任せなさい彼近所へ
行夫とはなく病が有か
非るかを聞定て來て參ますから成程是は
大人より
幼稚の
方が遠慮がなくて聞には
至極能らうから何分頼と
管伴に云はれて心得
打點頭優たる和吉は其儘に立出音羽へ至しが
何處で
問んと思案に
暮先大藤が住居なる路次へ思はず入にけり
怜悧な樣でも幼稚なる和吉は
家を立出て音羽の町へ至りつゝ路地へは入しが何處で聞んと
其所等迂路々々爲しゝ
末但見れば大藤が
隣の家にて老婆一
個膳に向ひ
夜食と云へど未だ暮ぬ長日の頃の
飯急ぎ和吉は見やりて
打點頭會釋をなして内へ這入ば小僧さん
糊ならばモウ無よイエ/\糊では有りませんがチト物が
承はりたくてと云はしたれど
究が
惡く
暫時文字々々手を
揉ながら四邊を
見返り聲を
密め變な事をお聞申す樣ですが
隣のお家の大藤武左衞門樣の娘のお光さんは
癲癇病だといふ事です全く然で御座りますかと問ば此方は其
娘が婚姻
破談の事に就き胸の
有也無也晴ざるをり今癲癇と
言れては
口惜もあれ
忌々しければ
赫と怒つて
箸を
捨衝と立上り
飛掛り和吉が
首筋取より早く其所へ引附目を
怒らしコレ小僧
和主は
何處の者かは知ねど大藤の娘お光さんに癲癇が有るるとは何の
謔言彼お光さんは
容貌能く親孝心で
優[#ルビの「やさし」は底本では「やさ」]くて癲癇所ろか病氣は
微塵聊かない人を癲癇病とは何の事一
體何處から聞て來た
而て
和主は何處の者だサア云聞んと老婆の
憤激和吉は
苦き
息を
吐き
然被仰れては一言も御座りませねば申し升が何卒此手を放して下さい
息がはずんで
溜りませぬと云ばお金は手を
緩め
然して如何だと
再度問れ今は
包もならざれば
自己は本町小西屋の
召仕なることより婚姻とまで
極しが
今朝箇樣々々の
醫師來りて大藤の娘お光は
云々と云たりしに
主個長左衞門は大きに驚き
直管伴の忠兵衞をもて此方へ斷りに
遣せしが子息長三郎は聞て
怒り忠兵衞を
説破して五日の
間に
癲癇の
有無を
調て來る
樣にと云れて困り切たる
景状見るに忍びず
吾儕が
負擔爰迄聞に來りしと
一什を
演て
泪組み
咄を聞てお金の驚き息子が見染めて取ぬまでも二百兩といふ
大金を
支度金にまで
遣した小西屋今日に成り婚姻を
變更するとは物の不思議と思つてゐたが
此咄でやう/\
素は
譯つたり然ども醫師といふ奴が
態々彼所へ行し
上あらぬことさへ
並しは
何考へても
合點行ずモシ小僧どん其醫師の
年齡恰好その他に是ぞと云ふ目印はハイ
登時吾儕は家にゐたゆゑお茶も出たり話にも
聞惚れよく/\見ましたが年の頃は二十七八
丸顏にして色黒く
鼻は
低くて
眉毛濃く
眼尖く其上に左の
目尻に
豆粒程の大きな
黒子が一つあり黒
羽二重の
衣物にて紋は丸の中に
確に
桔梗と言れてお金は横手を
拍ち其の
人體で考へれば醫師と云るは町内の元益
坊主に
極つたりと云は
面體のみならず
黒羽二重に桔梗の紋は
掛替のなき一丁
羅渠奴小西屋の
店へ行き隣の女に惡名を付しは
大方弟なる此家主の庄兵衞めに頼れての
業なる可し
渠庄兵衞は
日頃よりお光さんには深く
戀慕し度々
口説ど云う事を
肯ぬ所より遺恨を
含み元益坊主を頼込み此婚姻を
邪魔をしようと無き事
云せし物なる可し夫にて思ひ合すれば先刻
營業の歸り
路元益坊主の裏手を通ると
庭の
障子を
開放し庄兵衞と二人して
並んで酒を
飮でをり
先は
首尾よく行て來たゆゑ
必定破談に成るだらうと咄してゐたは氣が付ねど常には
中の
惡き
兄弟今日のみ一つ座敷に在て酒
汲交すは
稀代なことと思つてゐたが咄しの樣子と
彼是考へ合すればいよ/\
渠奴に相違ない惡さも惡き
二個の者如何してくりようと
拳を
握り向ふを
佶と見詰たる手先に
障る
箸箱をば
掴みながらに
忌々しいと怒りの餘り
打氣もなく
側に
茫然坐りゐて獨言をば聞ゐたる和吉の
天窓を
箸箱にて
發矢と
打ば打れて驚きお金は氣にても
違ひしかと思へばキヤつと云さまに其所を飛出し
遁行ける此聲により
糊賣お金はやう/\夫と心付き其の人にてもあらざるに怒りの餘り打たるは
面目なけれど
聞捨には成ぬは今の元益の一條
直此事をお光さんにと云よりお光は
翌日の
仕掛か
米淅桶を手に
携て井戸端へとて行ん物とお金の前を通り掛ればお金は夫と見るよりもお光を
呼入今の次第和吉が來りし事よりして斷りたるは
癲癇と云
觸したる元益が
所爲に
因こと是はまた家主庄兵衞が
戀慕に出で
云々なりし一
伍一什を
委敷語るを聞お光
破談の事の原因はやう/\
解りし物ながら
怒に堪ぬは家主が其
奸計は
口惜き如何はせんと計りにて涙に
暮る女氣の袖を
濕らせゐたりしが
稍有つて顏を揚げ
俄の破談は如何した事と親子二個が一
方ならず心配致して居し所ろ今
拜諾りしお話しにて
吾儕が無き名を負たりし次第はきつぱり
譯りましたが今此事を親父さんに話しを致せば武士
堅氣無實の
惡名附られてはと怒つてどんな間違に
成うも知ねば
明日にても氣の
落附た其時に吾儕が
徐々に云ますから何卒
和君からはお話なくハイ夫は承知しましたが餘り
憎い
爲方ゆゑ明日に成たら親父に話して急度掛合にと
飽まで
籠る親切を
謝しつゝお光は
泣顏隱し井戸端へ行き
釣上る
竿を直なる身の上も
白精の
米と事變り腹いと黒き其人が
堀拔井戸の
底深き
謀計に掛り無實の
汚名を蒙りたるも
最前まで
澄か
濁か分らざりしが今は
譯れど
濡衣を
干よしもなき身の
因果と思ひ廻せば廻すほど又も
泪の種なるを思ひ返へしてゐる
節から後の方より
背中を
叩きモシお光さんお光さんと云者のある誰ならんと
振返つゝ打見やれば元益方にて
祝酒を
汲交しゐて歸り來る庄兵衞なれば此方は發と怒りの餘に飛附てと
逸る
意を
押鎭め誰かと思へば
大家さん
大層御機嫌で御座りますねヘイヤ
澤山もやらねど今
其所で
一寸一杯やつたばかりさ夫は
然とお光さん今日
新版の本が
出來て未だ
封切もしないのが澤山あるが日が
暮たら
迫て
畫だけも見にお出
而て今夜は
母親は大師河原の親類へ泊り
掛にと行て留守
内には
吾儕一人限ゆゑ必ずお出の色目
遣ひお光は
恨を
晴したく思ふ
折から云々と
言はれて大きに
意に喜び其
上ならず母親も
留守と云るは
序よしと早くも
思案し
莞爾笑み夫は
嘸かし面白ふ御座りませうが
甲夜のうちは
親父も起きてをり世間も何だか
騷々しく本も
讀でも身に成ませねば
二更でも打て親父が寢てから
密と忍んでゆき
御本を
拜見致しますから
何卒夫までお寢なさらずにお待なすつて下さいと
言つゝ
一寸男の顏
横目で見たはお光の方に深き意の有とも知ず音羽小町と言るゝ程の
美人にてらされ庄兵衞五
體宛然蕩る如く
何もピンシヤン
爲る娘が今日に限つて自分の
方から夜が
更たらば忍んで行うと言のは夢か
現かや是も
矢張小西屋が破談に成た故で有うあゝ悦ばし嬉しとて手の
舞足の
踏所も知ざるまでに
打喜び夫では
晩に待てゐるから
急度で有るよと念を
押莞爾顏して我家へ
這入しあとにお光はまた
米淅了り我家の中に入し頃は護國寺の
鐘入相を
告ければ
其所等片付行燈に火を照し附け明るけれど
暗からぬ身を暗くされし無念に父の武左衞門心濟ねば
鬱々と今日も
消光てお光に向ひ面白からぬ事のみにて
身體も惡く覺ゆるに床をば
延て少の
間足を
叩て
呉ぬかと言れてハイと答へながら押入
開て取出す蒲團は薄き物ながら恩いと厚き
父親に我身の上より苦勞を掛け
未だ此上にもお
嘆を掛る不孝の
勿體なさと口には言ねど心の中思ひ
續けて蒲團を
敷イザと
勸る
箱枕のみならぬ身の親父が横に成たる
背後へ廻り腰より足を
摩り
行手弱腕も今宵
此仇を
斃さんお光の精神是ぞ親子が一世の別れと
究る心は如何ならん
想像だに
悼しけれ
女兒が
優しき介抱に
心緩みし武左衞門
枕に
着てすや/\と眠りし容子にお光は
長息夜具打掛て
密と
退側に在し硯箱を出して墨を
摺流す音も
憚り
卷紙へ思ふ事さへ
云々と
書つゞる身生
命毛の筆より先へ切てゆく
冥途の旅と死出の空我身は今ぞ亡き者と覺悟をしても親と子がたゞ二人なる此住居然るを
吾儕が先立てば誰とて後で
父樣の御介抱をば申し上ん夫を思へば
捨兼る生命を捨ねば惡名を
雪に難き
薄命お目覺されし其後に此
遺書を見給はゞ嘸驚きもなさる可く又お歎もなさる可しと思ひ廻せば
廻すほど死で行身は
悲歎もあらねど後へお殘りなさる其悲歎は如何ならん不孝はお
許し下されと口には云ねど意の中おもひ
續て
打詫る涙は
胸にせぐり來て
呀と計に泣出さんと爲しが父や目を
覺さんと袖を
噛〆堪ゆるは泣より
辛き手の
震へ筆の
運びも自在ならねど
漸々にして
始終の事を記し終りて
確く
封じ枕元なる
行燈の臺に
乘置稍しばし又も
泪に暮たりしが斯ては果じ我ながら
未練の泪と氣を
取直し袖もて
拭ひ立上り母の
紀念の
懷劍を取出し拔て
行燈の
火影に
佶と鍔元より
切先掛て打返し見れども見れども
曇なき
流石は
業物切味と見惚て莞爾と
打笑ひ
鞘に納めて
懷中へ忍ばせ父の
寢顏を見て
餘所ながらなる
辭別愁然として居たる折早くも二
更の
鐘の
音は
耳元近く聞ゆるにぞ
時刻來りと立上り
音せぬ樣に
上草履を足に
穿つて我家を
密と
拔出で
家主の庄兵衞方へ至り見れば
此方は
待に待たることゆゑ
未だ
寢もやらず茶を
沸し菓子を
整のへ
坐り居て
夫と見るよりお光さんか
定めし
甲夜からお出で有らうと
待草臥て居りたるにと云へばお光も
莞爾に
吾儕も早く來たいのは
山々なれど
父親がお寢なさらぬので家が出られず
只氣を
揉でゐた所ろ
今方お
休みなされたのでやう/\出て
參りましたと云つゝ上りて
火鉢の
側身をひつたりと
摺寄て
坐れば庄兵衞
魂魄も飛して
現を
拔しながら見れば見るほど
美くしきお光はいとゞ
面はゆげの
形に
此方も
心中時めき
言んと
[#「言んと」は底本では「言はんと」]しては
口籠る究りの
惡きを
隱さんと思へば立て
箱の
中より
新しき
本種々取り出し之を
御覽と
其所へ
置ばお光は
會釋し
行燈を
引寄頻りに見る
側で茶を
汲み
菓子を
薦めながら其の
横顏をつく/″\と
眺めて
意に
思ふやう
自分の方から
更るを待ち
親を寢かして
來る
樣なは
今宵泊らん積ならん
何まで
斯してゐたらばとて
果しなければ
此方より
誘ひ立ねば
未通女の事ゆゑ
面伏にも
思可しと
一人承知し
押入より
夜具取出し其所へ
床敷延てお光に向ひ
吾儕は
御免を
蒙[#ルビの「かうむ」は底本では「からむ」]るゆゑ
和女は
緩慢御覽なさいと言つゝ
床の中に入しが何でう
眠りに着る可き
只此方のみ
窺ひ
居うち又告
渡る
鐘の音は子の
刻なれどもお光は
寢ずいよ/\
本に
見入體に庄兵衞今は
堪りかね
夜具の
中より手を
出しお光の手を取りぐつと引ば此方は發と
顏赤らめしが
振拂ひもせず讀さしたる本をば顏へ
押當ながら引るゝ儘に床の上へ倒れ掛りし
姫柳風に揉るゝ
景状[#ルビの「ありさま」は底本では「さりさま」]なり庄兵衞是は首尾よしと思ふ間もなく娘のお光夜具の
襟をば庄兵衞の顏へすつぽり掛けながら口の所を
左手にて押へ附れば庄兵衞は
息の
詰りて
苦さに何をするぞと
云せもせず右手に
懷劍拔間もなく
柄をも
徹れと
脇腹へ
愚刺と計りに
差貫けば何ぞ
溜らん庄兵衞は
呀と叫も口の中押へ附られ聲出ず苦き儘に
悶けるをお光は上へ
跨りて思ひの儘にゑぐりければ七
轉八
倒四
肢を
振し
虚空を
掴んで
息絶たりお光はほつと
長息吐き
夜具かい
退てよく/\見れば全く息は
絶果て四邊は
血汐のから
紅ゐ見るもいぶせき
景状なり
不題大藤武左衞門は娘が出しを
毫も知ず
臥てをりしが甲夜よりして枕に着たるゆゑなるか夜半の鐘に
不斗目を覺し見れば
側にお光のをらぬに
扨は
雪隱へでも行きたるかと思うてやほら
寢返りなし
煙草を
呑んと枕元を見る
行燈の
臺の上に
書置[#ルビの「かきおき」は底本では「かくおき」]の事と記したる一
封ありて然も之れ娘お光の
手跡なれば一目見るより大きに驚き直に
飛起封じ目を開く
間遲しと讀下す其の
文體は此度の小西屋の婚姻
破談の儀は家主庄兵衞の爲る業にて
這は日頃より
如此の
擧動ありしが

を聞入ぬ所ろより兄元益と云へる者と語ひ今朝同人を小西屋へやりテレメンテーナの事を言せ
俄に
破談に成たる事是等は絶て知ざりしが
最前和吉と云る小僧が
隣のお金の
許へ來り聞に參し其
節に
箇樣々々の事を話しお金は
營業よりの歸り道二人が話しの
容子を聞き殘らず
吾儕に話したるより其無念やる方なく
渠を殺して身の
汚名を
雪ん物と思ふより庄兵衞に會ひ云々と申すに因て
僥倖なれば只今よりして彼方へ
赴き
仇を殺して身の明を立んと思へど我私しの
恨を以て他人を殺さば
罪科脱るところもなければ
生て
憂恥晒さんより其の場を去ず
自害して相果て申せば
先立まする不孝はお許し下されかしと今死る身を
氣丈の
女兒筆の前後少も
亂れず一
伍一什を記しあるにぞ見る武左衞門一
句毎に或は驚き或は
嘆じ又悲しみ又は感じ
暫時言葉もいでざりしは
女兒の生命に
係る
大事猶豫なすべき所に非ずと思へば
寢衣の
儘にして我家を立出で家主の門口へ行き戸を
引開見ればお光は
已にはや庄兵衞をば
刺留つゝ今や
自害をなさんとする
景樣なるに大きに
慌忙ヤレ
待暫しと
大聲を
揚んと
爲しが
夜隱のこと
設も長家へ
漏聞え目を覺まされなば一大事と思へば
側へ立寄て
刄持手を
確り
禁め聲を
密めて云るやう
娘逸る事なかれ
委細の事は
書置にて
逐一
諒知なしたりし
流石は大藤武左衞門の娘だけあり無き名を
負し
遺恨を
晴す其爲に
刄を振つて
仇を
斃す實に見上げたる
和女が
心底年まだ
二十歳に足らざる少女の爲可き
業にはあらざりける男
勝の
擧動こそ親
恥しき
天晴女然れども人を殺し置き
自儘に
生害なすと云は天下の大法知ぬに
似て
武士たる者の爲こと成ず依て
暫時死を
止り
夜明るを待ち
奉行所へ名乘て出て
相應なる
處分を受るが
至當なれば先其
刄を
納ずやと
斯る
節にも老功なれば物に動ぜず
理非明白演て
諭せし父が
言葉にお光はやう/\承知して
刄の
血を
押拭ひ
鞘に
納て
腰に
帶れば父は
再度此方に向ひ此家に長居する時は
眞夜中なりとも如何なる人に知れて
繩目の
恥を受んと言も計られねば早く立去り
支度をしてと云にお光も心得て父
諸共に家を
出門の戸立て我屋へ歸り武左衞門は此一件を
最も
委敷認めたる
訴状一通を
造りし上親子支度をなす中に
疾明近く東の方の白み來るに時刻よしと音羽を立出奉行所へと
頻りに足を
急せしが
知者絶てあらざりけり夜明し後に長家の者は一同
起出夫々の
業に
就ども家主の庄兵衞方は戸も明ず夫のみならず長家中では
早起なりと評判する武左衞門の家も戸が
開ねば不思議に思ひて起して見んとお金を
首四五人が先家主の方へ至り雨戸を
叩て呼物から
答はなきゆゑ戸へ手を掛れば
瓦羅利と開くにいよ/\
不審と進み
這入ば
這は如何に
主個庄兵衞は何者にか
殺害されたる物と見え
血汐に
染りて
床の上に
倒れゐるをば見て驚き
顏見合する計りなり就ては大藤武左衞門の家も未だに戸が開ねば是さへ
設やと一同が疑ふ餘り
彼方へ至り戸を引開れば是はまた家は
裳脱のから
衣被つゝ
馴にし
夜具蒲團も其まゝあれど主はゐず
怪有なる事の
景況に是さへ
合點行ざりけり
長屋の者の一同は
捨置難き二つの
珍事中にも家主庄兵衞が殺されたるは
大變なりと其の
兄山田元益の許へも斯と
報知るに元益驚き
駈來り家内を改め見たる所ろ何一つだに
紛失をなしたる物も
非れば
這は
盜賊の業ならず
遺趣切ならんと思ふ所へ大師河原へ泊りに行し母のお
勝は歸り來り夫と見るより
死骸に
取附前後
不覺に
叫びしが
偖有る可きにあらざれば此
趣きを
訴へ出
檢視を
乞うて其上に山田と計て死骸をば
泣々寺へ
葬りけり
不題其頃の北町奉行は大岡越前守
忠相というて
英敏活斷他人に
勝り善惡
邪正を照すこと
宛然照魔鏡の如くなる實に
稀代の人なりしが此頃音羽七丁目の浪人大藤武左衞門父子奉行所へ
駈込で娘お光こと
云々個樣の譯ありて家主庄兵衞を手に掛けたれば
相當の
御處分下されかしと
委細訴状に
認めつゝ
自首して出しに忠相ぬし
這は
捨置れぬ事共なりと先親子をば
止め置き音羽の方をば
探らするに
書面に
違はず庄兵衞は何者にか殺されしとて
檢視を願ひ出たる
耳かは其の
朝よりして大藤親子は
欠落なして
行衞知ねば
設や父子の業ならずやと
噂なすよし
聞えければ又小西屋方を
窺はするに茲は
召仕の
丁稚和吉
糊賣お金の
許へ至り
委細を
聞より大きに驚き
直立歸りて
管伴に
如此の由
話たりしに忠兵衞もまた
驚嘆し此事
主個[#ルビの「あるじ」は底本では「おるじ」]夫婦を
首め
息子長三郎にも
話したるに息子は然もこそあらんと思ひ夫婦は
頻に
麁忽を
悔い
再度婚姻を結んとて翌日忠兵衞を音羽町へ
遣たりしが此時
已に家主は殺され
父子は
行衞の
知ぬとて長家は
鼎の
沸が如く
混雜なせば
詮方なく立返へりつゝ云々と
三個に告て
諸共にお光の
安否を案じゐるよし
確に知たる忠相ぬし
獨りつく/″\思ふ樣お光は
奇才容貌とも人に
勝れし
耳ならず武士の
眞意を能く
辨へ
白刄を
揮つて仇を
斃すに其父もまた
清廉にて是を
隱さず
名乘て出る親子
微妙者なれば
何卒お光を
扶てやらんとは思へども天下の
大法人を殺さば殺さるゝ其條目は
脱れ難し如何はせんと計りにて
霎時思案に
暮たるがやう/\思ひ
附ことありてや
一個點頭有司に命じ庄兵衞の母お
勝。山田元益。
糊賣お金。小西屋長左衞門。を呼出し初て
白洲を開きける此
命彼方此方へ通ずるに元益親子は庄兵衞の
仇の御
詮議なる可しと思へどもお金の呼出さるゝを
不審みつゝ
伴ひ出また小西屋は何ごとやらんと
愕くよりして長左衞門病氣と稱して出もせず其代人は
管伴忠兵衞
丁稚和吉を
供に連れ奉行所へ出
腰掛へ和吉を待せ進みける斯て大岡忠相ぬしは一同白洲へ呼込たる後お光親子を
繩附の
儘にて其所へ引出せば此方は見やりて思ひ掛ずと驚くの
外言葉なし
登時忠相ぬし一同に向ひ山田元益母勝の
訴へに依て家主庄兵衞を
殺したる
曲者を
吟味せし所ろ同長屋の
浪人大藤武左衞門が娘お光の
所爲なるよし
渠等自ら名乘出たるに依て明なれば今日
審判を開かんとす
此旨一同心得よと
宣告さるゝに此方の者は思ひ依ざる人殺しも
豫て
疑がひ居たりしに元益親子は進み出庄兵衞を
殺害なしたるはお光なりとは
夢にも知ねど
渠等親子は其の朝より
行衞知ずに成しかば
設やと思ひ居たるに
疾も名乘て出る
段愕き候外はなし就ては上のお慈悲を以て亡庄兵衞が
草葉の
蔭の追善にさへなりますやう御
計ひこそ願はしけれと申し上るに
忠相ぬし承知しながら此方に向かひ小西屋長左衞門代忠兵衞其方々にては此お光を
嫁に
貰はんと
言入已に
結納までも取交せしを如何なれば
俄に
變更せしぞ此事
逐一申し上よと言れて忠兵衞おそる/\一
端斯とは約したれど箇樣々々の
醫師來りて彼お光こそ
癲癇病なりとテレメンテーナと言ふ藥のことを
述たる上に又言やう依て主人は大きに驚き其後の
始末は
云々なりと申上れば
忠相ぬし然もあらん然もある可しお光が訴へも夫に
符合し
無き名を
負て
婚姻の
破談に成しは庄兵衞が日頃よりして
我戀の
協ぬことを無念に思ひ兄元益を彼方へ
遣し
癲癇病と言せしより事の茲には及べるなりと深くも
遺恨に思ひつゝ
偖こそ庄兵衞を
殺害なしたるならめ如何元益其方弟の頼を受け小西屋へ行きし事あるかと問れて此方は
形を
改め
這はお奉行のお言葉とも覺えず
身不肖ながら山田元益
仁術とする
醫道をもて身の
營業となすものが
爭で左樣な惡き事に
荷擔致して
濟可きかは此
儀御賢察を
希ふと口には
立派に言物から
意の中には
密計の早くも
顯れ夫ゆゑに弟は
最期を
遂たるかと
愕くの外あらざりけり忠相ぬしは
點頭て醫師の
面目然も
有可しコレ金庄兵衞の爲に元益が小西屋へ至りしとは其方が言出しお光に語りし所ろより此
騷動には及びしが夫には確な
證據があるか。ハイ外に
證據とても御座りませねど
吾儕が
營業[#ルビの「あきなひ」は底本では「ありなひ」]よりの歸り
途元益方の
裏手を
通ると箇樣々々の話しをば。イヤ
夫計では證據に成らぬ外に
確なことはないか今日
呼出しゝ忠兵衞も其日は家に居らずして來りし醫師をば見ずと
言り依て確な事にあらねば
證據なりとは申されぬ
篤と考へ申上げよと言れてお金は小首を傾け
霎時考へゐたりしが
漸々にして
首を上げ外に
證據と申しまするは小西屋の
小僧和吉と申すが
吾儕方へ參りしをり店へ來りてお光さんに
癲癇があると言たる
醫師は
年齡云々にて又
面體は
箇樣々々然も
羽織には
丸の中に
桔梗の
紋が
附てゐたと申に因て日頃より見知る山田元益に
面體恰好計でなく
羽織の
紋も相違なければ確に夫とお光さんに話しを致して候ひしが其
醫師こそは小西屋の小僧和吉が見知をれば御呼出に相成ば即座に
解り申す可しと云うに忠相ぬし此方に向かひ長左衞門代忠兵衞其の和吉といふ召仕は只今にても宅にをるか。ヘイ未だ召仕をりまして今日も同道致し只今お
腰掛に
控へをりまする。ムヽ夫は實によい
手都合ソレ
呼込の聲の
下忽地和吉は呼び入れらるゝに
巍々堂々たる政府の
白洲一同
居並び
吟味の
體に和吉は見るより
幼稚意に大きに恐れハツと計りに平伏せしが
側を見れば
先つ頃店へ來りてお光のことを
云々言たる醫師の居るにぞ又
驚きてヤア
和主はと一言いひしが御
場所柄あとは言葉も出さざりけり此方の元益
最前は
確の證據のあらざれば
仁術をもて業となす醫師ゆゑ惡き
荷擔はせずと奉行に向ひ
立派に云ひ
眩めんとこそ計りしが今
我面を見知たる和吉が出しに
發と計り
驚き
怖れて
面色土の如くに
震ひ出せば
忠相ぬしを
首として並居る一同
母親のお勝も
偖は其の醫師は元益なりしかと計りに
呆れて
顏を見合せゐたりぬ
忠相ぬしは呼び出せし和吉に
言葉はあらずして
元益の方へ打向ひ其方
最前も申す通り
醫は
仁術を以て業となせば小西屋方へ行たることは決してあるまじと思ふゆゑ和吉は茲へ呼び出したれど
最早吟味を爲にも及ばじ依て小西屋へ參りし
醫師は何れの者やら
解らずとせん
就て其方も醫師の事ゆゑ今
越前が問たきことありそも/\醫師は
螢雪の學の
窓に年を
重人の
生命を
預る者ゆゑ天下の
條目成敗の道も少は心得つらんが中にも重き
罰といふは
婚姻妨げの
罪科なり之をば
重く爲時は
死罪の刑に處する可し又
輕くなす其時は遠島と
爲が
制規なるが其方之等を知たるかと時に取ては
氣轉の問條此方は聞も及ばざれど名高き奉行は
言の
葉に
僞はりあらじとおもひしかば如何にも
仰せの通りにて心得ゐるよし答へけり
登時大岡忠相ぬし
再度元益に向ひて云やう其方
親子は庄兵衞の殺されたるより其の
敵を
討て
呉よと願ひ出たるをり武左衞門
親子の者は
正しく庄兵衞を殺したりと訴へ出たらば
敵と言は武左衞門の娘光なる事云ずして
明瞭なり因て光をば
處刑せんとは思へども處刑
爲難き次第あり

は如何と
尋るに只今も申す通り婚姻
妨げの
罪科は重くて死罪輕くて
遠島なり然るに庄兵衞事
自己みつに
戀慕して小西屋との婚姻を
妨げんと
何國の者やら
相分らざる醫師を遣し世に有りしとも覺えざるテレメンテーナといふ藥の事を
吹聽し結納までも取
交せし婚姻を妨げ致す段その罪最も重ければ光の手に
掛りて
相果ずとも
上に於て死罪に處し
處刑場の土と
爲可きところ
高運にも光が手に掛りたれば
捨札に惡名を殘し非人に
左右せらるゝ事なく
席薦の上にて相
果先祖
[#「先祖」は底本では「先組」]累代の
香華院に葬られ
始終廟食の
快樂を受るは之れ則ち光が
賜物にして
仇乍も仇ならず
反つて
恩とこそ思ふ可けれ依て元益親子は光を
恨む事を
止て
厚く庄兵衞が
跡を
吊ふ
[#「吊ふ」はママ]可し元益は又其母勝こと
年[#ルビの「とし」は底本では「とり」]寄て
相續人の庄兵衞に
死別れ然こそ
便なく思ふ可ければ元益は
醫業を
廢して
更に音羽町の町役人となり庄兵衞の
跡を相續して
母勝に
孝養を
盡し大事に
掛て遣す可し大藤武左衞門娘みつ事は
婚姻妨げを爲たる庄兵衞
上に於て
死罪にも行ふ可きの所ろ上へはお
手數を
掛ずして十八年の少女には
似氣なく武士の娘とは言ながら
白刄を
揮つて庄兵衞を
討即座に
自害し
果んと爲しは上のお
手數を
省くの
御奉公天晴なる
擧動なり父武左衞門は
自儘に
死なんとする娘を止め
夫を引連
事柄を
委細に
述て
自首する段
法度を重じ上を
敬ふ武士の
面目さもあるべし因て兩人は人殺しの
罪さし
免せば此旨
有難く心得よ夫と
指揮に小役人は二人が
繩目を
免しけり忠相ぬし忠兵衞に打向ひ小西屋長左衞門代人忠兵衞其方事
主人の申し附とは言
乍出所不定の
醫師の言葉を
信じ
結納取交し迄
濟たる婚姻を
破談に致すこと
不埓千萬なる事なれど
斯事柄の相分り光に病のあらざる事
判然致す上は長左衞門
夫婦長三郎に
於ても光を
嫁に致さん事仔細あるまじければ只今より親子の者を
引取行き親類方へ
預置き其所にて萬事支度を整へ吉日を撰んで婚姻を
取結ぶ可し光は天晴の者なれば此度は
斯云越前守
冰人と
成て取すれば早々婚姻を行ふ方よからん此事
只に忠兵衞のみならず光親子の者も心得て能からうと
仰ありしはお光親子は家主庄兵衞を手に
懸たる者なれば
解放せしとて
直音羽へ
返さば如何なる
災禍起らんも計られず又
渠親子も家主を
害せし土地へは歸り難しと
推して斯は言しなるべし忠相ぬし又も忠兵衞に
打向ひ此度は
珍事忽地にして斯善惡を分ちし事一は
糊賣お金が
親切と
丁稚和吉の忠義に
依ば和吉は此まゝ引連歸りて目を
掛け
使ふは
勿論なる可く金はまた
光親子と共に
親類方へ預け置き
爾來光が召使いとして一生を
易く
消光す可し是にて一件
落着したりと述給ふ程に小役人は
落着一同立ませいと
諸聲合して言にける實に
曇りなき
裁判は人を損せず理を
迫て
自然と知せる天下の
大法早亡き身とまで
覺悟せしおみつ親子は
不測に助り然のみならず
戀しと言
郎の
許へ
縁づくやう
再度結ぶ
赤繩に
有難泪は
白洲なる
砂を
濕らす其
喜びお勝は
初て庄兵衞の
惡きを知て小西屋へ行しは兄の元益なれば是も如何なる
祟や有んと元益と共に
胸安からず思ひゐたるに
慈悲深く山田が事は問給はで是を庄兵衞が
代りとなし
養親が
義を
托し給ふに
二個は
生たる
心地して
砂に
頭を
埋る
許り又忠兵衞は忠相ぬしが
活機明斷凡ならで
今更めて
婚姻結び
※人[#「冫+氷」、U+2B947、653-9]とまで成給はんと
述給はるの有難さは是のみならず和吉お金も思ひ
掛なきお奉行のお聲掛りは一世の
榮巨萬の金を
貰ひしにも勝る嬉しさ喜ばしさ何れも
怪我なき一同は
打連御門を出にけり斯て元益は音羽町へ立歸り我家を
終了て母の方へ同居なし
醫業を
廢止て家主となり名も庄兵衞と改めて
先非後悔一方ならず能く母親に仕へつゝ長屋の者をも
憐みしに其の家次第に
豐になり他人の信用も得たりければ或者の世話に依て妻を
迎へ之が
腹に男女
夥多の子を
産せいよいよ
榮え行けるに母のお勝も大いに
安堵し常に
念佛三
昧の
道場に遊び
亡き庄兵衞が
菩提を
弔ひ
慈悲善根を事としたれば九十餘
歳の
長壽を
保ち
大往生の
素懷を
遂たりと
不題忠兵衞はおみつ親子お金和吉を
伴て奉行所を下り主人方の親類呉服町の何某屋へ至り今番所の歸りにて
箇樣々々の始末なれば是なる
三個を暫しが
間預り呉よと言けるに爰の
主個も此話しは
朧氣ながら聞ゐたれば
斯即座に
落着せしを喜び
少も
異議はあらずして三
個を奧の座敷へ通しぬ扨忠兵衞は和吉を
引連主人の方に立歸り
主個夫婦長三郎の前にて
今日奉行所の
容子をば
逐一
演説したる上三
個を
呉服町の親類方へ
預置て歸りたるまで委細のことを述たるに親子はおみつが庄兵衞を
殺しことを
首て
知容儀優れし
耳ならず又
志操も人に
優れ
流石は武士の
胤ほどありて斯る
擧動を
爲しこと小西屋の
嫁と爲といふとも
羞しからぬ女なりと長三郎は
殊更に
戀慕心の
増りゆき夫婦は夫とも
意附で
醫師の言たる言葉を信とし
縁談斷り此
騷動に及びたるをば
後悔の外には更にあらざりけり然ども大藤親子の者
糊賣老婆[#ルビの「ばうも」はママ]お金まで彼方に在ては
捨置難しと
三個が衣類其の他をも此方より持せやり忠兵衞をして音羽町の二軒の家を終了せて
少の
家財を爰に
運び小西屋には裏手の
明地へ更に武左衞門が
隱居所を
營み
普請出來の其の上は爰より
嫁入をさせんと計りぬ然るに大岡忠相ぬしは町奉行の身を
持て之が
※人[#「冫+氷」、U+2B947、654-5]に立んと言しは元益等が
恨を
含んをば恐れての事ならんか町人の身として奉行を
※人[#「冫+氷」、U+2B947、654-6]に立んこと世に
勿體なき譯なればと親類一
同連署して此
件は
辭退し終りぬ
兎角するうち
新築全く
出來せしかば親子お金を其所に移し
黄道吉日を
撰びて立派に
婚姻を
取結ぶに
二個は
思ひ
思はれし中なれば其親みは一方ならす男女
夥の子を
擧けしに中なる一
個は成長の後
有馬家へ
召出され家臣と成て大藤の家名を再興し武左衞門は一生を
安樂に送りお金は
終身不足なく此家に
仕へ
管伴忠兵衞は此度の一件に附き
盡力一方ならざれば
褒美として
宅持の通ひ
管伴となり和吉も
種々の
褒美ありしが三年の後長左衞門夫婦は隱居し長三郎は
主個となり和吉は
元服して二番
管伴となり其家ます/\
榮えたり
大岡
忠相ぬしが
勤役中の
捌にて人の
耳目を驚かせし事
枚擧するに
暇あらざるほど多き物から中にも殊に
勝れたるは天一
坊が
裁判なり之は物の本にも作り又
芝居にても
脚色講談落語は更にも言ず其他
種々の物にも見え其の筋に
大同小異ありと雖も其主意とする所は
微賤の一
僧侶吉宗ぬしの
落胤と稱し
政府に
迫る事急にして其
證跡も明かなれば天下の
有司彼に
魅入られ既にお
世繼と
仰がんと爲たりしを一人大岡越前守のみ夫が
邪曲を
窺ひ
知身命を
投打て
既往今來を尋ね遂に
奸計を
看破つて
處刑せしといふ
有名の談話にて
斯る奸物を
發顯こと忠相ぬしの外能く
凡庸の奉行の爲し得可きことにあらねば傳へて
美談となす物から又聞く所ろに依ば彼天一坊なる者は實に吉宗ぬしの
落胤に相違なく將軍未だ紀州に在るとき
侍女と
轉び
寢の
夢を結びて
懷姙なしゝ一子なるが
民間に成長して後
未見の
父君將軍と成しかば證據
物を
携へて訴へ出たるなればよしお
世繼とせざるまでも
登用てもて
生涯を安く送らん事
最々容易の
業ながら忠相ぬしつら/\
渠を見るに
貴介公子の
落胤に
似氣なく
奸佞面に顯れ居れば
意許せぬ
曲者なりと夫が
成立よりの事柄を探り看るに實に忠相ぬしが思ふに違はず
腹黒にして
品行能らず天下の
主個と爲は更なり
落胤として
所領の少も
宛行ふて
扶助する時は後に到りて徳川の爲に害をば爲可き者と早も見て取り知たれば我思ふよし云々と
吉宗ぬしに
言上せしに君又
英敏明才にていよ/\
政治を
改良して
公方の職を
萬世不朽に傳へんといふ
素志なれば今大岡の言るを聞如何我
胤なればとて然る
曲者を
採用し後に
害をば
殘さんこと
武將の所爲に有ざれば天下の爲に彼をして
強て
僞者と
言詰て
宜敷刑に行ふ可し是を爲す者其方の外には決して有可からず能せよかしと
内命ありしに忠相ぬしも
推辭に
術なく遂に天一をして
僞者とし
二葉の中に
摘たるなりとの事實に然るか
否を編者未だ
識別すること
能ざれど
設果して
信ならしめば
吉宗ぬしが
賢明なるは
言計りもなく
僞を
僞として其の
惡を
訐き
奸を
鋤賊を
滅するは之奉行職の
本分なれば
僞者の天一坊を
見顯すは然のみ大功とは稱するに足ねど
眞の天一坊を
僞として
能天下の爲に是を
滅せしは
智術萬人に越え
才學四海に並ぶ者なき忠相ぬしに有らざれば
誰人か能く
此機變を行なひ君をしていよ/\
賢明ならしめ民をしてます/\
欣慕の
念を起さしむるに至らん
空前絶後の名奉行なるがゆゑ後に年功に依て三千石より一萬石に
加増し大名の中に加へられたり然ども町奉行にして大名に
任ぜられたるも
先例なく大名にして町奉行を
勤たるも
先例なければ此時忠相ぬしは町奉行を
止られて
更に寺社奉行に任ぜられしなど未だ
例なき
美目を
施し
士庶人をして其徳を
慕せ今に至るまでも名奉行と言る時は只に忠相ぬし一
個に
止るが如く思ひ大岡越前守の名は三歳の小兒といへども之を
知頻に
明斷を
稱るこそ
人傑の
才稀世の人といふ可し是等を今茲に
喋々する事殊に
無益の
辯に
似たれど前にも
已に
述たるが如く此小西屋の裁判は忠相ぬし
最初の
捌にして是より
漸次に其名を
轟かし
末世奉行の
鑑と成たる
明斷に
因て忠相ぬしが
履歴とその
勳功の
大略とを豫て傳へ
聞異説天一
坊さへ
書記して
看客の
覽に
供ふるなれば看客此一回を
熟讀して忠相ぬしが人と成り
腹にをさめ而して後に前段の
落着の場を見たまはゞ
宛然越前守を目前にみるが如きの思ひある可し然れども編者が
筆鈍き上
緒數毎回限りあれば
其情充分に
寫す事
難し恐らくは
角を
斷て牛を
斃すの嘆なき能はず夫等は偏へに
御海容を乞ふのみ
小西屋一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]雲切仁左衞門一件 當に
秋霜となるとも
檻羊となる勿れと此言や
男子たる者の
本意と思ふは
却て其方向を
誤るの
基にして
性は善なる
孩兒も生立に
隨ひ其質を
變じて大惡無道の賊となるあり然ば雲切仁左衞門
抔も其一にして今の世までも惡名を殘したる其
物譚を茲に説出すに頃は
享保年中
甲州原澤村に佐野
文右衞門と
言て
有徳に
暮す百姓あり或時文右衞門は甲府表に出て所々見物なし日も西山に傾むきける故に
佐倉屋五郎
右衞門といふ穀物問屋へ一
泊を
頼たり此佐倉屋と云は文右衞門より毎
度米穀を送りける故
平常心安き
得意に付
早速奧へ
請じ
種々饗應なしけるが此の家の娘におもせといふは
今年十六歳にして
器量も十人並に
勝れし故文右衞門は年若にて未だ妻もなき身なれば
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、659-8]此娘に
執心なし
竊に文を送しにおもせも文右衞門が男
振優に
艷く甲府の中にも多く有まじき
樣子に
迷ひ
終に人知ず
返書を取り
交し二世の
誓を立たりけり然るにおもせの親五郎右衞門は此
事を
聞より一度は
怒りけれ共佐野文右衞門は
有福の
暮しと言殊には人
柄も
宜若者なれば人を以て
掛合の上おもせを文右衞門の方へ
遣せしにより思ひ思はれし中なれば兩人の
喜び大方ならず
最睦敷暮しけるに程なく
懷妊して一人の男子を
儲け其名を文藏と呼て夫婦の
寵愛言ばかりなく
蝶よ花よと
育てけるに
早文藏も三歳に
[#「三歳に」はママ]なりし
頃父の文右衞門
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、659-13]風の心地にて
打臥けるが次第に病氣
差重り
種々養生手を盡しけれ共其
驗なく
終に享保元年八月十八日歸らぬ旅に
赴きけり
因て女房おもせは深く
歎きしが今更
詮なきことと村中の者共打
寄て成田村なる
九品寺へ
葬送なし一
偏の
烟として
跡懇切に
弔ひたり此おもせは
至て
貞節者にて男
勝りなりければ未だ
年若なれども
後家を立てゝ三歳なる
[#「三歳なる」はママ]文藏を
守立て奉公人の
取締も
行屆きしかば
漸次々々に
勝手宜なりし故所々へ貸金
等もいたし番頭に忠兵衞と
言者を召抱へて益々
内福にぞ
暮しける然るに享保十一年には
最早文藏二十四歳となりければ
能嫁をとらんと
近所の心
易き者を頼みて
種々穿鑿せしが兎角
長し
短しにて
相談も
調はざるうち文藏は忠兵衞を召連れ
駿州へ米の拂ひ代金を受取に到りて
駿府町の
問屋なる
常陸屋佐兵衞と云者の方へ泊りし所佐兵衞が
悴に佐五郎といふものありて歳も同じ頃なれば心
安く致しけるに佐五郎思ふには
斯懇意には致せども文藏事は餘りに
手堅く何時も金錢を大切に致し一
向に遣ふといふことなし
我度々勸むれ共大の
堅固にて一
向聞入ず然ども此の度は是非とも
誘引出さんと文藏に向ひ
此處の二丁町は天下御免の場所ゆゑ一度は
見物あれと無理に
勸むる故毎度の
勸め
然々斷るも氣の毒と思ひ
或日夕暮より兩人同道にて二丁町へ到り
其處此處と見物して
行歩中常盤屋と書し
暖簾の下りし
格子の中におときといふ女の居りしが文藏
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、660-8]恍惚し
體に
彳みける佐五郎ははやくも
見付何か文藏に
私語其家へ上りしが
病にて文藏は
現になり
日夜おときの方へ
通ひ
詰ける故番頭の忠兵衞は以ての外の事なりと思ひ
段々異見を加ゆると雖も
勿々用ひる
面色もなく言ば言程
猶々募りて多分の金子を
遣ひ
捨るにより忠兵衞も持餘せし故
國元へ歸りて母親へ右の段を
咄しけるに母のおもせは
眞赤になり夫は以ての外の事
夫なき後は我等が
育あげし文藏なれば母親の
甘く育しと言れては世間の手前
濟難殊には又畜生同然の遊女などに
迷ひては
先祖へ對しても申譯なしと大に
怒りしを忠兵衞は
先々と
宥め置夫より親類中へも
内談をなし一
先文藏を
駿府より連れ歸り打寄て
種々異見に及びしかど文藏は何時かな思ひ
切樣子もなく
假令不孝と
云れ勘當受る共是非に及ばずと思ひ切て申ける故
然ば忠兵衞も致し方なく
然程に思ひ
詰給ふ上は暫時私しへ御
任せ有べし必ず思し
召違ひ有て
短氣の事など爲給ふなと種々に
諭置きて忠兵衞は
御家のおもせが機嫌を
見合せ文藏樣は只一人の御子と云那程までに
御執心の事なれば彼女を
請出し御
嫁になされて然べし
欠替のなき御子の事
萬一御
不了簡抔あらば何と
成れ候や
爰の所を
貴方樣も
篤と御考へ遊ばし
曲て御聞入あるべしと詞を盡して申勸めしかば母おもせは
女郎は
畜生同前と思へ共只一人の子と
云支配人の忠兵衞が申勸る事故詮方なく然る上は
是非に及ばず其女を受出申べし我等は
隱居を致さんと
泣々申けるを忠兵衞は是を聞御
道理の
樣なれ共
先々受出して御覽あるべし
強ち女郎と申ても畜生同樣の者ばかりも是なしと段々母親を
説諭して文藏に
右の段
咄しければ文藏は天へも上る
心地して
最嬉しく忠兵衞を神か佛の樣に
伏拜み夫より文藏は忠兵衞を
同道して
駿府へ赴き
彼常盤屋へ
行て身請の事を亭主へ懸合金百十五兩にて
彌々お
時を身請と
相談調ひしかば忠兵衞は常盤屋の亭主に向ひ斯の如く身請をなす上は彼の女の身元は何れ成や
承まはり
度と尋ねけるに亭主は是を
聞何樣御道理の御尋ねなり彼女の身元は當國
木綿島村の生れにて
甚太夫と云者の娘なれば
里へ渡りを付て
御引取成るべしと申ゆゑ
夫より忠兵衞は
早速甚太夫の方へ
掛合しに父甚太夫も大いに喜び萬事すら/\と根引も
濟しかば文藏お時の兩人を
駕籠に
乘忠兵衞は
附添原澤村へと急ぎ立歸りしに母のおもせは
如何なる者を連來やと
日々案じ居ける所へ皆々歸り來りければ早速忠兵衞を招きて樣子を尋ねしに右のお時は木綿島村の
甚太夫といふ百姓にても
家柄の者の娘なりしが
年貢の
未進に付據ころなく常磐屋へ
勤め奉公に出して未だ
間もなきに
渠運強くして此方の旦那樣に受出され勤めの月日もなき故外の遊女とは大に
違人品もよしと申に付少しは安心なし居たるに何樣文藏は申に及ばず
姑にも
能仕へ奉公人迄
行渡りの能ければ母のおもせは思ひの外歡びて近所の者へも私しの
嫁は夫婦中も
睦敷殊に私しを大切になし
呉候事若き者には
珍らしくお前樣方も嫁を取るゝならば女郎が
宜しきなどと今は
却て
自慢を
爲程なれば家内
睦しく暮し居たりけり
然るに
或日五十歳ばかりの男來りて忠兵衞に
逢私し事は
木綿島村の甚太夫殿より頼まれて來りし者なるがお時樣の
父公甚太夫殿此節
俄に大病とて
打臥居られ候間此
由お時樣へ御咄し下さるべしと申
故忠兵衞は
早速に此段をお時へ咄しければお時は是を聞て
驚愕なし如何
成急病にやと甚だ案じ
歎き夫文藏へ此事を語りしに文藏も驚き外ならぬ
事故手代忠兵衞へ如何せんと相談なせば忠兵衞は打案じ此度お時樣爰へ來り
給ひ今
直に
親公の病氣なりとて行給はゞ世間の聞えも惡し是は御夫婦連にて
身延へ
參詣とて御出の
方宜しからんと申にぞ其段母へも咄しければ母は大の
堅法華の事なる故
尤もの事なりとて
許せしに付お時は大に喜び
早々其用意をなし名主林右衞門へも頼み
置て近所へは
身延參詣と
披露し忠兵衞へ跡の事
共言含め文藏お時は下男吉平が實
體なる者故是を
供に
召連て主從三人頃は享保十二年十月十日
原澤村を出立なし夫より
鰍澤の御
關所へ掛るが
路順なり都て甲州は
二重の御關所あり土地は
御代官の支配ゆゑ御關所手形を願ふべきなれども
日數も掛るにより御關所をば
拔道を廻りて通らず
切石下山と急ぎ來りしが猶身延へも
往ず
萬澤の御關所へ
掛りしが是又手形なくては通行ならず依て此處をも廻り道をして行んと思へども土地
不案内の事ゆゑ茶屋へ寄り
問合せて通らんと思ひ立寄しに此茶屋に先より三人連の男
休み居たりしが今文藏の一
群來りて御關所の拔道を通る樣子を聞何か三人私語合ひ此處を
出立窺ひ居たり此三人の中
頭立たる一人は甲州にて名高き
惡漢韮崎出生の雲切仁左衞門といふ者なり
若年の
頃より心
剛にして
眞影流の
劔術を好み
天晴遣人なりしが或時
雷落て四方眞暗となりしに仁左衞門は事ともせず
拔打に
覆ひ下りし雲の中を切けるに
不思議や
鼬の如き獸二ツになつて
落けるゆゑ人々大いに驚き是より雲切仁左衞門と
渾名せり今一人は手下にて肥前の
小猿といふ者
又一人は同く肥前長崎
在方村と云ふ所の
出生向ふ見ずの三吉と云者なり扨て文藏夫婦は此茶屋にて
拔道の樣子を聞
駕籠を雇ひて
打乘萬澤の廻り道へ
來掛るを見て小猿は仁左衞門に向ひ
是は必ず
能鳥なれば五兩や十兩には
有付べしと云を
聞傍より三吉は面白し/\
彼奴を威して
取んと
駈出すを仁左衞門は押
止め汝が
器は
小細々々今懷中の物を取のみにては面白からず後の
種にする
工風あり
先其方兩人は
斯樣々々に致せと言付萬澤の御關所を通りて先へ行拔今や來ると待居たり文藏夫婦の者は斯る事のありとは
夢にも
知ず甚太夫が病氣の事を案じ急ぎて來懸りしに向ふ見ずの三吉
肥前の小猿兩人は
目明し
風俗に
拵へ其所へ
直と出立汝等女を連て天下の御
關所を廻り
道せし事
不屆なりと
咎れば文藏夫婦は是を聞て
仰天なし兩手を地に突何卒御見
遁し下されよと詫けれ共
惡漢共は
勿々聞入ず大切なる御關所何と存じ
拔道を致せしやと申故兩人は
途方に暮て
答へも出來ざれば三吉小猿は
汝等役所へ來れとお時文藏並に
供の吉平三人へ繩を
掛ければ三人は
只夢に夢見し心地にて
引立られつゝ行所に身の
丈六尺有餘の
大男黒羽二重の
小袖に黒八丈の羽織
朱鞘の
大小十手取繩を
腰に
提のさ/\と出來りしに小猿三吉は
腰を
屈是は/\御役人樣
斯樣々々の者を
召捕候と申しければ彼役人打笑て夫は我等請取て一
應取調んと云ながら文藏に向ひ其方は何國の者にて何用有て
何方へ行にや
眞直に白状致せと申けるに文藏はがた/\
震へながら私しは
原澤村百姓文藏と申者に候が是なる妻の里
木綿島村の父が急病ゆゑ
見舞に
罷り
越候間何卒御慈悲にて御通し下され候樣願ひ奉つると
言ければ彼の侍士は點頭其は
不便の事なり此
儘引立行時は御法通り
磔けなれば何卒助けて
遣し
度と
暫し工風の
體に見えしが汝等
親孝行の
志ざしにめで我一
了簡を以て
見遁し遣はさん併ながら手先の者共へ
酒代にても遣はさねば相成らずと申を
聞文藏は
蘇生たる心地にて大に喜びこれこそ地獄の沙汰も
金次第と
目明し方の兩人へ
[#「兩人へ」は底本では「兩人の」]所持せし有金三十七兩を殘らず差し出だしければ彼の役人どもは其の
金子を請取り此の事決して
口外致すまじと申渡し何國ともなく立去けり
然ば文藏夫婦は役人の後影を伏拜み實に有難き御
慈悲なり然ながら我々身延山を
僞りし
佛罰にて空恐しき目に逢しならん早々御
詫をすべしと下
男吉平へ申付て原澤村へ
立歸させ
番頭忠兵衞へ内談の上金子を取寄せ身延山へも金十兩を
納めて御
詫をなし
漸々日數を
經て駿州
木綿島村へ十月十五日に着たりける然るに
甚太夫は
平常痰持にて急にせり
迫けるが三四日の内に思ひの外
全快し先
常體なれば夫婦は
早速對面なせしに甚太夫は兩人が
遠方の所を
深切に尋ね來りし事を深く喜び彼是と
饗應にぞ夫婦も安心し此度
途中にて少々
入費も是ありしにより甚だ少しながらと金子二十兩を土産に贈りければ甚太夫は
彌々其の志ざしを感じ
緩々逗留ありて
旅勞れを休められよと言に夫婦の者は一兩日
逗留なし頓て
暇乞して木綿島村を出立し三人打
連故郷へこそは歸りけれ
然ば文藏夫婦は此度廻り道をなして金子を
遣ひし事必らず
口外爲べからずと吉平へも
堅く
口止して濟し居たりしが
誰知る者もなく其年も
早十二月となりて
追々年貢の上
納金を
下作より
集けるを文藏の代になりては
別して
毎年も
都合能年々
實入も
殖るに
往々は
舅甚太夫も
此方へ引取べしと
姑も申により喜び居たりけり
扨又雲切仁左衞門は彼三十七兩の金を小猿
向見ずの兩人へ十兩宛
分與へ己は十七兩の金を
懷中になし日々
遊び
暮しけるが仁左衞門は兩人に向ひ此上某し大金を儲ける
手段を考へ置たり此事
首尾能行時は此後
盜賊を
止其金を以て
末を
安樂に暮しなん若又惡事露顯する時は互ひに命を落す
而已なり今一
働きなすべしと申ければ兩人は
異議に及ばず然ば大金
儲に掛らんと其
相談をなし居たり然るに其年の十二月五日原澤村の
名主用右衞門の方へ
木綿合羽を着したる旅の
侍士一人入來り其方へ少々尋ね度
仔細ありと申にぞ名主用右衞門は何事なるやと思ひ
早速座敷へ通して茶
烟草盆を出し
挨拶に及びける處彼
侍士用右衞門に向ひ當村に文藏と申者はなきやと尋ぬるに用右衞門何
樣文藏と申者當村に
罷在候と答へければ侍士は點頭其文藏が身の上に近頃何ぞ
後暗き事はなきや其方より内
糺し致すべしと申けるに用右衞門は大に驚き文藏儀平常
實體にて
慈悲深き者ゆゑ然樣の事有べき
筈なしと思へども先彼侍士を
待置て早々文藏方へいたり只今我等方へ御侍士一人御入にて
斯樣々々の御尋ねあり貴樣に後暗き事の有べき樣なけれど一
應申聞ると申せしに文藏は
内心ぎよつとなせしかども
素知ぬ體にて其は一向心當りもなしと申を用右衞門は
押返し
篤と
考へられよと尋ねけれども文藏
立腹の
體に見えしかば用右衞門も
何樣と思ひ立歸りて
此旨を侍士へ申
述けるに然らば此段申上べしと云て侍士は立歸たり因て名主用右衞門は
不思議の事に思ひ
竊に心
痛してぞ居たりける
さて又同く十月二十七日の
[#「十月二十七日の」はママ]暮方名主用右衞門方へ五六人の侍士來りし
故用右衞門
肝を
冷して出
迎ひける所
先に立し者
此御侍士を案内せし
我々は江戸南町奉行大岡越前守樣御組中田甚太夫殿の
手先の
岡引なりと云ければ用右衞門は
増々驚きけり(
今此處へ來りし役人體の者は雲切仁左衞門の
手下なる三吉小猿の兩人にて
甲府邊の者三四人を
錢五百文づつにて雇ひ供に召連たるなり)時に
小猿の甚太夫は用右衞門を呼び
當村の百姓文藏方へ案内致すべしと申故用右衞門は
狼狽廻りて
組頭百姓
代組合の者
等大勢呼集め是は先日のことならんと恐る/\案内致しけるに此文藏の宅は
長屋門にて土藏七戸前其外
納屋等數多ありて番頭忠兵衞初め下男十人下女五人馬三疋の
大福家なりし處夜五ツ時
頃御用提灯を先に立
名主組頭一同に案内して入來りしゆゑ文藏は
何事ならんと大いに驚きし中
上意と
聲掛主人夫婦を高手小手に
縛めければ母は
仰天しながら如何の譯にて候や
悴儀は御
召取に相成べき
惡さを致す者にあらずと
泣々詫言なしけるを小猿の甚太夫は母に向ひ文藏夫婦は
去る十月中萬澤の御關所を
廻り道を致し候江戸
町奉行大岡越前守殿へ相聞え今日
召捕に向ひたり其節
供に召連し下男なる
趣き是亦差出すべしとて吉平をも召捕ければ母のおもせは
種々と歎きけれ共小猿の甚太夫は
首を
振其方何樣に歎くとも江戸表よりの御
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、665-9]なれば
差免し
難併し子の罪は親に懸らざれど母をば村役人へ
急度預け
置奉公人は番頭忠兵衞
始め殘らず是又村役人へ預申付るなり
居宅の儀は村の百姓共申合せ
晝夜番を致すべしと申渡し家内
諸式米倉迄殘らず改めの上中田甚太夫の
封印を付其外
帳面へ
書留るに米千八百五俵
麥五百三十俵並に
箪笥長持數十
棹村役人
立合にて改め
相濟其夜
寅半刻事濟に相成
山駕籠三
挺を申付て是へ文藏夫婦に下男吉平を
乘明日巳刻迄に當所の御
代官簑笠之助殿御
役宅へ召連て罷り出べしと
急度申渡し村役人共より預り
書面を
請取小猿の中田甚太夫は我手の者共を召連
立歸りけり因て
彼是する内に夜も
明離れければ名主用右衞門は文藏に向ひ
今更申は
詮なき事ながら此間御役人御出にて御
内糺しの節に
取扱ひなば又々如何樣にも
内談の致し方も是あるべき所其節心付かざるこそ
殘念の事共なれ今と成ては
是非に及ばずと申けるに母のおもせを始め
皆々何といふべき
詞もなく
唯涙に
咽び歎き
悲むより外はなかりけり
扨も文藏夫婦並に
下男吉平は
翌朝大勢村の者を差添御代官簑笠之助殿御役宅へ
召連罷り出昨夜御預の
囚人を同道仕つり候と申立ければ御代官所にては不審に思ひ其儀一
向此方に於て
覺なき事なりと申されける故
名主用右衞門は進
出昨夜大岡越前守樣御組の由中田甚太夫と申され候御仁が御
召取なされ
明朝當御役所へ差出し候樣にと仰せ付られ候に付則ち召連候と申せしかば
御代官の方にては是を聞れて
扨々不審の事共なりと大岡の下役人共當地へ來り一應の斷りもなく
支配所へ
踏込候段何共
合點行ざる儀なり其上前以て内談もなく當役所へ三人の囚人を引渡し候儀
旁々其の
意を
得ず然れども囚人と
有ば打捨置がたしとて此段甲府御城代
八木丹波守殿酒井大和守殿へ申
達されける故評議の上先御
勘定奉行へ差出し然るべしとの事に付
夫より江戸表御勘定奉行酒井壹岐守殿へ
差出されければ酒井殿の方にても
關所破りとあるからは輕からぬ科人なり然れ共大岡殿の
手先にて
召捕し者なるを此方にて
裁許は成り難し兎に角大岡へ引渡候方ならんとの事にて越前守殿御役所へ引渡と相成たり
仍て大岡殿村役人を
召出され一應糺されけるに十二月廿七日夜御組の中田甚太夫殿と申す御仁御出張にて
文藏夫婦御召捕相成御代官へ引渡し候樣
仰せ渡され
米穀金銀
諸道具藏
等迄殘らず封印の上御引取相成候間其通り御代官所へ
召連訴へ出候處一
向御存じ
是なきとの事にて
夫より御勘定奉行へ御引渡し
相なり
猶又當御役所へ相廻候と申立るを
聞れ越前守殿
直樣中田甚太夫を
呼出され其方名前を僞りしは何か
遺恨にても有者の
仕業か又は盜賊の
巧みならん何れにも
篤と
吟味致すべしと
有て文藏夫婦を呼出し越前守殿文藏を見られ其方儀
去十二月二十七日の夜當方の
下役と
名乘し者に召捕れ候趣き其節の
手續明白に申立よと尋ねられければ文藏は
涙を流しながら其節は名主用右衞門案内にて私宅へ御役人樣御出成れ一言の
御糺しもなく私し夫婦を
御召捕相成しは
斯樣々々なり私し母并に下人共は村役人へ御預け
家内の番は村方
百姓等へ
仰付られ
諸色土藏とも殘らず御役人樣
御封印にて其後御引取の所
其節明日
巳刻簑笠之助樣御役所へ相送り候樣仰せ渡され候て御役人樣御
立歸り相成候然るに簑笠之助樣御役にては一
向御存じ是なき
段仰せ
聞られ候と
委細に申上しかば大岡殿名主用右衞門へ對はれ此儀は何ぞ文藏へ
意趣遺恨にても是ある者の
心當りはなきやと申さるゝに用右衞門
暫時考へ文藏儀は至て
實體なる者ゆゑ
意趣遺恨等請べき者に候はず然れども去年十二月五日何れより
御出成れ候や御侍士樣御一人私し方へ御越にて文藏に何ぞ
[#「何ぞ」は底本では「侍何ぞ」]不審なる儀はなきやと御尋ねゆゑ
早速文藏へ
承まはり合せ候處一向
何も覺え是なく候と申候に付其段申上候に其御士儀何か御考への
體にて御歸り成され候然るに其の後二十七日の日斯樣々々の次第に候と申立ければ大岡殿又用右衞門へ尋ねらるゝ
樣其方の支配なれば文藏が
家内の
樣子も
能知つらん何ぢやと申されしに用右衞門
仰の如く私し支配に候へば文藏の樣子は
能存じ
居候
先にも申上候通り
渠は一
體實體なる者にて
平常慈悲深く又女房と申候は
駿府二丁町の
遊女なりしを請出し候が是又心懸よき女にて奉公人より
小前百姓共迄も
平常譽候て家内
和合いたし居候と申立ければ大岡殿然れども文藏夫婦の者近頃何方へ
歟行し事は是なきやと尋ねられしに
[#「尋ねられしに」は底本では「尋とねられしに」]用右衞門去年十月中に夫婦
身延山へ參詣仕つり候儀
御座ると申立れば大岡殿其儀二十七日に召捕候節吟味は致さずや又萬澤の御關所
近邊には萬澤
狐と申居るが故殊によりて化される事も有なり其節途中に於て何ぞ
怪敷事はなかりしやと尋ねらるゝを
聞文藏は大いに
[#「大いに」は底本では「大さに」]驚き恐れながらと進み出御奉行樣の御眼力誠に恐れ入奉つり候其節萬澤の
脇にて目明し二人に
出會私し共三人に
繩を
掛候處へ御役人樣御出ゆゑ
愈々六かしからんと思ひし
機地獄の
沙汰も
金次第とやらにて有金三十七兩を差出し御内分に成下され
相濟申候然るに十二月二十七日の夜御役人樣御出御座候處右は
萬澤にて出會候目明の
面體に
能似寄候と申を大岡殿
篤と
聞れしが
早速同心山本彌太夫を呼出され文藏宅の樣子を改め來るべしと申付られしにより彌太夫は
直樣原澤村名主用右衞門同道にて甲州原澤村なる文藏の宅に
到り
番頭忠兵衞を呼出して家内土藏の
封印を
切解箪笥長持等一々改むる時忠兵衞は
文庫藏の
長持を明此中に金千百八十兩
入置候と申に右の
金見えざれば大いに仰天し幾度となく探し求むれども少しの金と違ひ
大金の事故
紛れべきやうもなく如何にも不思議のことなりと
惘れ果たる趣を彌太夫は見て扨は奉行衆の
鑑定通り盜賊の
仕業にて似役人をなせしならんと思ひ早速立歸りて右の趣き
巨細に申し立てければ大岡殿然らば文藏夫婦の者外に惡事もあらざるゆゑ助け遣さんと思はれけれども
關所破りと言ては
磔に成べき大法ゆゑ
種々に工夫ありて又々文藏夫婦を呼出され其方夫婦とも顏色
殊の外惡し如何致せしやと申されければ文藏は恐る/\
首を上私し共儀此間中より病氣に御座候と申立るに
[#「申立るに」は底本では「申るに立」]何樣不便のことなり此上病氣
重りては成ずと有て宿預けに申付られたり斯る
囚人を
宿預けといふは誠に深き
御慈悲なりと見聞人毎に泪を流し大岡殿の
仁心を感じけり又大岡殿には其中に
似役人をせし
盜賊を吟味せんと所々
探索を申付られけり扨又彼の雲切仁左衞門肥前の
小猿向ふ見ずの三吉の三人は
似役人となりて原澤村の
名主始めを首尾よく欺むき文藏方にて金千百八十兩
盜み取しかば仁左衞門は三吉
小猿に向ひ
斯樣に仕合よく
行し
智嚢古の
諸葛孔明我朝の楠
正成も及ぶまじとは云ふものゝ是まで
夜盜追剥人殺し等の數擧て算へ難し此上盜賊をなさば
終には首をも失はん
然ば汝等に此金を三百兩
宛遣はし殘り五百兩は我が物となし此
後盜賊を止め此金子を
以各々金堅氣の
業を始め町人になり百姓になり
了簡次第に有附べし併此以後は三人共に
音信不通になし
假令途中などにて出會とも
挨拶も致すまじと約束を定め
分殘りの八十兩は
當座の祝ひに
遣ふべしとて三人一同に江戸表へ出立なし先吉原を始め品川或ひは深川と所々にて
遊びけるが
頓て彼八十兩を
遣ひ
仕舞しかば三人は約束の如く思ひ/\に別れけり夫より雲切仁左衞門は本郷六丁目へ
住居して家名を甲州屋と
呼米商賣を始めけるが元より
拔めなき者ゆゑ次第に
繁昌なし此所彼處の屋敷又は大町人などの
舂入を
請合ければ
俄に手
繰能金銀も
殖るに
付地面を求めて
普請をなし今は男女五六人の暮しに成し處近所の者の世話にて女房を
持家内
睦まじく
繁昌致しけり扨又
肥前の
[#「肥前の」は底本では「肥前の」]小猿は本町二丁目にて
賣家を
求め名を肥前屋小兵衞と改め
糶呉服を初めければ
是又所々の屋敷に出入も
殖段々と勝手も
能成凡夫盛なるときは神も
祟らずといふこと
宜なるかな各自仕合能
光陰を送りたり然るに小兵衞は尾張町の呉服
店龜屋の番頭仁兵衞といふ者に
取入呉服物を二三百兩づつ預りて
商賣しける所に此仁兵衞
頓死して一向
勘定合の分らざるを
僥倖に肥前屋小兵衞は二百八十兩程の
代物を
只取になし是より増々仕合せ
能相成けるに付
間口三間半の店を
開き番頭手代小僧共五六人
召仕ひ何れも江戸者を抱へるゆゑ何事も商賣向に
明るく
繁昌なすに付て小兵衞は女房を
持んと思ひ是も
工風して御殿女中の下りを尋ね宿の妻として
都合よく
日増に内
福と成たりけり夫に引替向ふ見ずの三吉は三百兩の金を配分されしかば其金を懷中して所々を
徘徊なし
專ら賭博に身を入又大酒を呑己が有に任せて女郎
藝者を
買金銀を
土砂の如く
遣ひ捨る故に程なく三百兩の金も遣ひなくし今は
漸々丸の内の本多家の
大部屋へ
轉げ込
飯を貰ひて
喰居たりしが
追々寒さに向ふ時節なれど着物は
古浴衣一ツゆゑ如何共爲方なく
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、669-7]大部屋を立出し頃は享保十六年十一月なりしが三吉は
種々工夫して
本所柳原
町に
舂屋の權兵衞といふ者あり此者は
豫て
知人なる故是を
頼みて欺かばやと思ひ常盤橋御門を出てふら/\本町二丁目へ
來懸りし所に
左側に肥前屋と書たる
暖簾懸り居たりしかば是も
肥前の者ならん彼の小猿めも
同じ國なりしが今は
如何成しや我は元同國片村の名主の腹より出たる者なるが此體に成果たり併し此間迄は三百兩の金を持居たれども今は一文もなしなどと
獨り
呟きながら通る所に肥前屋より
小僧を一人供に連て
出行者の體小猿に
髣似たりしかば三吉は
後を
尾て能々是を
窺ひみるに小猿に相違なきゆゑ心中に
悦びしに小兵衞もちらりと振り返り見て
奴は三吉めなりと思ひ恐れしにぞ知ぬ顏にて
早足に行過る所を三吉は
猶後より尾來るゆゑ小兵衞は彌々恐れ種々に
逃廻ると雖も三吉は
尾慕ひければ小兵衞は足に
任せて逃歩き夜に入て漸々歸り我が家の
表口より入時後に
尾て三吉は
直と入來り御免なさいと言ながら
店先に腰を掛私しは元御
知己の者なれば此家の旦那に御目に
懸り度と申に番頭手代はじろ/\顏を見ながら其の段主人へ申通じけるに小兵衞は殊の
外困り入只今
留守にて何方へ參り候や
相知ずと申べしと言付ければ手代は立出其
旨申聞るを聞き三吉然らば御
歸迄
相待申
可と言て上り
込一向
動かぬ故小兵衞も是非なく密と
勝手の方より出て
表へ廻り只今歸りし
體にて三吉を見付是は
珍らしやと表へ呼出し向ふ横町の
鰻屋へ
上りて物語りけるに三吉は
膝を進め
扨々面目なき
仕合なれども誠に此體なれば
何卒少々の合力を御頼み申と
言懸られ小兵衞は是非なく懷中に在合し金六兩三分を殘らず出し
遣しければ三吉は大に
歡び昔し
馴染とて御無心申せしに
早速多分の金子御貸下され忝けなし是を
元手に一商賣に有附今の御恩を
報ぜんと口から出次第申しけるを小兵衞は打聞此後は豫て申合せし通り必ず
我等方へ參られ候事無用なりと申せしかば三吉は
天窓を
掻仰せの如く此後は決して
立寄まじと
堅く約束なし猶又
綿入羽織一ツを貰ひ夫より本所柳原町なる舂屋權兵衞を尋けるに權兵衞は
故郷へ
引込たる由
土地の者申故三吉は力なく又々
安宅の方へ到りしに當時は所々に
切店有て引込ける故ぶらりと是へ上り大に酒を
飮一分ばかりも遣ひ其夜は遊びて翌朝立出
朝飯を表にて
喰居たりし時
防ぎ傳吉といふ者に出合互に昔し
語りをなし夫より此傳吉方に
食客となり居けるが此傳吉は先年甲州へ
行ける折雲切仁左衞門方に少しの中居たる事ありて三吉と
兄弟同樣にせし者なり
夫故今傳吉方に
遊び居たるに傳吉は三吉が金を持て居る事を見し故是を
謀りて
博奕を
勸めしかば固より好む事ゆゑ
直樣引懸り
專ら博奕をなして居たりけり
斯て彼三吉は又々
博奕に
引懸り肥前屋小兵衞方にて貰ひし
彼六兩は殘らず
負て仕舞元の通りの
手振となりけれ共
綿入羽織ばかりは殘り有事故種々
思案なし此上は如何共
詮方なければ元へ立歸るより外なしと本町二丁目なる
肥前屋小兵衞の方へ行御
免下されと店へ
上るゆゑ番頭大に
困り
折角の御出に候へども主人小兵衞儀は
留守にて御目に
懸り候事相
叶はずと斷りけるを三吉然らば御歸り迄御待申べしとて以前の如く
居込樣子故今日は
遠方へ參りしにより歸りの程も
計り難しと申ければ三吉は我等是非々々御目に
懸らねば相成
難き用事あり二日にても十日にても御歸宅を
相待申べしと歸氣色はなかりしにぞ店の者は
殆ど
當惑なし殊に小兵衞の女房は
御殿下り故此體を
覗き見て甚だ驚き小兵衞へ
早々歸し給へと
迫りしかば小兵衞も
難儀千萬に思ひ番頭を以て主人小兵衞儀は仕入方に
參り候間何日
頃罷り歸り申べくや程合も計り
難く候に付先々御歸りありて四五日も
立候はゞ又々
御入下さるべしと云せければ三吉は是を聞て
腹を立今こそ肥前屋の旦那などと
横柄面をして居れども元はといへば
己と同樣に人をゆすり取又は
追落しをしたる事もあり今己が斯の如く
落ぶれたればとて其
好みを以て少々の
見繼位はなしても
能筈なり若今己が御手に
逢時は同罪なりと大聲を出すにぞ小兵衞は
甚だ
迷惑なし此
樣子にてはとても
素直には歸るまじと夫より旅の
支度をし又裏口より
密に
立出門の外より今歸りしと聲を懸ながら内へ入けるに人々
旦那の御歸りと言を聞三吉は
最前より待居し事なれば小兵衞に
向ひ少々御咄し申度事ありといふに小兵衞は三吉を
奧の間へ
連行女房へも
引合せ此人は
舊國元にての久々馴染なれば今宵は奧座敷にて
咄しを致すべしと兩人は一間に入て
内談するに小兵衞は三吉に
向ひ貴樣は
能積りても見られよ一人二三百兩
分取なし此の上は各自
家業に有附べし因ては以後
音信不通と云事を仁左衞門始三人
堅く言葉を
交して別かれしにあらずや然るに
此間も六兩三分と言金子を譯なく
合力し間もなく其形にて又々
參らるゝ事餘りなる仕方なり
昔しとは違ひ今は
眞面目に日々の
利潤を以て其日を送る我等なれば最早此上は
何共仕方なしと云けるを三吉
額を
押へ夫は道理の事ながら我等
何程稼ぎても不運にして斯の體と相成ども今一度商賣に取付度
何卒昔しの好みを以て
救ひ給はれと申ければ
小猿は暫く考へ
然らば雲切仁左衞門方へも
行て頼み見られよと言けるに三吉其事も
思はぬにはなけれ共
當時仁左衞門は
何所に居るや一
向行方を知ず若御存じあらば教へ
給はれと申せしかば當時仁左衞門は本郷六丁目にて甲州屋仁左衞門と
言大富家なり是へ便て
相談あらば又
好話しも有べし
尤も我等は仁左衞門と申合せし以來出會は致さゞれども
餘所ながら樣子を
承たまはり居るなりと
咄しけるに三吉は大に
悦び然らば
翌日にも
直樣本郷へ行んといふを
小猿は
聞てとてものことに百兩ばかりも
誣頼夫にて取付商賣をいたさるべし是までの如くにてはならぬゆゑ
篤と
認めし事を致されよと言ければ三吉
納得なし先以
御教忝けなし
併し如何いたして
誣頼申べきやと聞に小猿夫は
豫々出入は申すまじと堅く申合せし事なれ共斯樣々々の
譯にて
詮方なく參りたりと申されよと
言含めしかば三吉は
委細承知して立歸り翌日本郷六丁目へ尋ね行て表より甲州屋仁左衞門殿とは此方にて候やと申入ければ番頭は然樣に御座候と答ふるに
然らば御主人仁左衞門殿へ
御目に
懸りたし
仰せ入られ下さるべしと言入しかば仁左衞門何心なく
立出見るに以前の三吉なれば
惡い
奴が來りしと思へども
詮方なく先一間へ連行其方は何故
尋ね來りしやと申に三吉は
面目無氣に私し事
爲事なす事手違ひになりて誠に難澁仕つり今は早行べき所もなく
豫て兄弟分の
小猿にも借金百兩ばかりも出來此上如何とも
致し方なき折から此度大岡樣の御手に
召捕れし所小猿が
工夫にて岡引衆を
頼み旦那衆へ内々百兩
贈りて
見遁しにして貰ふ筈なれども右の金子に
差支へ候間
何卒百兩御
貸下さるべし其百兩の金子なくては
岡引衆も
勿々承知いたされず御手に
逢候はゞ萬一
拷問に懸り
苦し紛れに古への原澤村の一件などを申し出す
間じきとも云難く然すれば御
互の身に
關はる事故
何分にも見遁して貰ふより外なし其
手段は金子なりと
眞顏に成て語りければ仁左衞門も
其事に至らば誠に身の大事なりと心に納め是非なく百兩
工夫して相渡しける故三吉は大に
悦び
是誠に
命の親なりと押戴き其の金を懷中し立出けるが百兩といふ
金を只取になせし故
直に吉原町へ
行て拾兩ばかり遣ひ
奢り
散し殘り九十兩を持てぶら/\淺草へ
出ける處
遠乘馬十四五疋
烈敷乘來りしかば三吉後へ
逃んとする
機其の馬一疋
斜めに駈出し
往來の者を踏倒す故三吉は
狼狽て漸々
馳拔諏訪町へ來り酒屋へ這入て懷中を見るにいつ落せしや九十兩の
金見えざりければ三吉は
駭驚仰天して立歸り
猿眼に成て能々尋ねけれ共
人通り多き所ゆゑ一向に
跡形もなし依て又々元の手ふりとなりければ
再び本郷の甲州屋へ行仁左衞門に右の事を
物語りて無心を
言けるに仁左衞門は大いに
難澁に思ふと雖も詮方なく又々金子を
遣しけるが是をも又遣ひ
切て本町の小猿の方へ
無心をいひ又本郷の仁左衞門と兩家へ打て
違ひに無心を
言懸[#ルビの「いひかけ」は底本では「なひかけ」]否と言ば以前の事を大聲にて
並る故仁左衞門も
殆ど困り入けるが
急度工夫をなし本町の肥前屋へ來り
内々相談に及びけるは彼三吉事とても
生置ては我々が身の
詰りなれば
謀計を以て
渠を切て捨んと
談合なし夫より三吉を
欺し久々なれば三人同道して御殿山の花見に
行べしと申しければ三吉大いに
悦び
直樣行んと三人
打連立頃は享保十七年三月十八日御殿山にて花見をなし酒の
機嫌に
古への物語りなどして品川より
藝者を
呼大酒盛となりて騷ぎ散す中
早日も
暮相と成ければ仁左衞門は
頓て身を
起し我等は
今宵據ころなく用事あれば泊る事はならざれども
淺さり遊んで歸らんと夫より
新宿の相摸屋へ
上りしが其夜九ツ時分品川を三人連にて立出
高輪へ來りし時仁左衞門
大音揚コレ三吉汝は
先年甲州にて金子
配分せし砌方々申合せしを一向に用ひず我等兩人へ
無體に
難儀を懸る事
度々に及ぶ如何に
惡逆無道の
者なり共恥を知ざるは
人間にあらずといふ儘に
引捕ければ三吉は大に驚き
逃出さんとする所を肥前の小猿
飛懸りて
拔打に右の腕を打落すに雲切仁左衞門は
大脇差を引拔て三吉が眞向より
殼竹割に切割りければ三吉は
吁とも
云ず二ツに成て死したりけり仁左衞門は小猿に向ひ
先々是にて
安心せりとて彼死骸を
海へ
投込歸りしゆゑ此事知る者なかりしが
固より同氣
相求る者ども故是より折々は
出會けるに兩人とも三吉に金子を多く
取れしかば
勝手向不如意になりしより今一度
大稼ぎをなし
是限にせんと兩人申合せて又々
惡心を
起しけること是非なけれ
偖又
其頃兩換町に
島屋治兵衞とて兩替屋ありけるが
肥前屋小兵衞は此家へ
度々兩換の事にて行店の者にも
心安く成て
篤と樣子を窺ふに概略勝手も
分りしかば是ぞ
好らんと思ひ仁左衞門へ島屋の事を
語りければ夫こそ
屈竟の事なりとて兩人
相談の
上同く十七年十月二十八日の夜
雨は車軸を流し
四邊は
眞闇なれば是ぞ幸ひなりと兩人は
黒裝束に目ばかり
頭巾にて島屋の店へ忍び入
金箱に手を掛出さんとする
機番頭太藏は
眼を覺まし大音に
盜人々々と聲を立るゆゑ仁左衞門小猿は
逃出んとする所に大勢
追來りしかば
止を得ず三人程
切拂ひて其場を
逃去金はまんまと奪ひ取
仕合よしと兩人五百兩宛
配分して悦び別れけり然ば
彼兩替屋にては翌朝
早速町奉行所へ訴へ出ければ大岡殿島屋の
手代を
呼出され一通り尋ねらるゝに
若い者左吉重次郎千次郎の三人
手負の趣き又盜まれし千兩は一昨日
蓮池御藏より受取候金子にて殘らず私し方の
極印を打置候と見本の金を差出せし故大岡殿夫より江戸中兩換屋は申に及ばず
諸商人共迄一同に
此段觸示されけり
扨又肥前屋小兵衞は
盜みし金の五百兩を
配分して大に歡びしが是ぞ
天罰の歸する處にして右の
町觸の出し日は留守にて心得ず越後屋に
反物の
借百三十兩あるを跡の
爲なれば先是を
拂はんと思ひ越後屋へ右の
小判を持參し拂ひけるに越後屋にては甚だ
心中不審に思ひけれ共
是迄間違もなき肥前屋小兵衞
事故渠へ申も如何なりと
此段を奉行所へ
訴へければ早速右の百三十兩を取上られて改めの上兩替町の島屋治兵衞を呼出され
此金を見よと渡さるゝに治兵衞は改め見て此金に
相違御座なく候と申立しかば
直樣本町二丁目の肥前屋小兵衞へ捕方を
差向らるゝに捕方の面々肥前屋へ
行向ひ上意と
[#「上意と」は底本では「申上意と」]聲を懸ける故家内の者共大に驚きけるを小兵衞今は
是迄なりと思ひ一尺八寸の刀を
引拔捕手の者へと打懸るに
左右より立寄し二人
飛違ひ十手を以て請流しける中一人の同心
後へ廻りて
白刄を打落し右の手を
捻上終に召捕て奉行所へ
引立ければ大岡殿小兵衞を見られ其方事去る十月二十八日夜兩替町島屋治兵衞方へ
忍び
入三人に手を
負せ金子千兩を
盜み
取しならんと尋ねられけるに小兵衞は
最早遁れぬ所なり何日迄陳じ居て
拷門に
[#「拷門に」はママ]懸らんよりは速かに
白状し罪に
歸せんと覺悟をなして其夜の
事共一々白状に及びたり
扨又本郷の甲州屋仁左衞門は本町の肥前屋小兵衞が
召捕れし事を聞ける故
南無三と思ひしが
熟々工夫をなすに所詮我此所を
遁れたり共
天罰爭か
免かるべきと
屹度覺悟を極め我思ふ
仔細ありとて妻へ離縁状を渡し又番頭其外店の者一同へ金を與へて
暇を
出し夫より南町奉行大岡殿の
役宅へ
訴へ出私し儀は元雲切仁左衞門と申
是々の惡事ありと
白状に及びたり依て大岡殿
渠が勇氣を深く感ぜられ
汝惡人ながらも
英雄なり能こそ
自身に名乘出しと申されて其日は
入牢と相成けり
其後仁左衞門小猿の兩人を
呼出され其方共江戸へ出でざるうちは何方に
罷り
在しぞと尋られし處仁左衞門私し儀は甲州に
住居仕り候と申立ければ大岡殿
然らば汝等享保十一年
[#「享保十一年」はママ]十二月廿七日
似役人と相成て原澤村の百姓文藏夫婦を
召捕て金を
盜み取候に
相違は有まじと申されければ小猿は
顏色變て俯向居たるに仁左衞門は
莞爾と笑ひ何樣世の人
賢奉行と
稱へ
進する程有て御明察の通り私共儀享保十一年
[#「享保十一年」はママ]十月萬澤の御
關所手前に
休居候處に原澤村の大盡夫婦にて
廻道せしを付込
似役人と相成三吉小猿を
目明となし私儀は御役人の
體にて夫婦を
召捕金子三十七兩を出させ其場を
見遁申候其後十二月
初旬手下の者を原澤村の名主方迄
遣樣子を
探置同月廿七日又候似役人と相成名主方へ罷越案内致され
彼大盡夫婦を召捕家内は申すに及ばず土藏へ
封印を
附置有金千百八十兩
盜取申候此時盜取し金を
資本に致し
銘々家業に有付以後は
盜賊を
相止申可と三人申合せ小猿三吉の兩人へ三百兩宛私は五百兩
分取候て夫より御當地へ
出小猿は呉服店私しは
穀物見世を出し候處彼三吉儀は三百兩の金子を
遣ひ
捨候ては私し共兩人を尋ね來り
無心を申事度々に及び甚だ
難澁仕つるにより小猿と申合せ
餘儀なく御殿山の花見と申し三吉を
欺して
連行高輪にて切殺し死骸は海へ打捨申候然れども
天罰にて三吉に兩人とも
身代を荒され借金多く相成候に付今一度
盜賊を致し身代を
直し商賣を致し候はんと存じ小猿と申合せ十月二十八日の
夜兩替町島屋治兵衞方へ忍び入金千兩盜み取り五百兩宛
配分仕つり是を
盜みをさめと存じ候處其金は
目印の
極印ありしとは夢にも存じ申さず小兵衞が
遣ひ候より事
顯れ斯の
仕合に相成候段是ぞ
天罰にて恐れ入奉り候と少しも
未練なく一々白状に及びける故大岡殿
神妙なりと申され又小兵衞に向はれ只今仁左衞門が申に相違なきやと尋ねらるゝに小兵衞も
是非なしと
覺悟をなし
聊かも相違之なき旨申立しかば
口書爪印申付られ仁左衞門小猿の兩人は鈴が森にて
獄門の刑に行はれたり
扨又原澤村の百姓文藏夫婦を
呼出され其の方共身延山へ參詣の
途中關所を通るのは
如何と存じ廻り道を致し候と申せども此儀甚だ
不審千萬なり此萬澤村には昔より
惡狐ありて是を萬澤
狐といふよしを
我聞居たり然れば其方共萬澤の關所
破りにては是なく
全く萬澤狐に
誑かされ萬澤の裏道を
彷徨しならん依て其虚に乘じ
汝等盜賊[#ルビの「たうどく」はママ]に金子三十七兩
奪はれしに相違なからん然すれば何ぞ關所破りといふにあらんや然れば汝等に罪なきにより御
構ひなしと申し渡されしかば文藏夫婦は
言ふも更なり名主組頭を始め
附添の村役人共一
統夢かとばかり
打喜び大岡殿の
仁心を感じけるとなり
雲切仁左衞門一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]津の國屋お菊一件 鐘一ツ
賣ぬ日はなし江戸の春とは
幕府の
盛世なる大都會の樣を
纔十七文字に
綴りたる古人の秀逸にして其町々の繁昌は
詞を盡し難く
別て神田は
土地柄とて人の心も
廣小路横筋違いの僻みなき
直なる橋の名の如く
實に
昌平の御代なれや
甍双べし軒續き客足絶ぬ
店先は津國屋松右衞門とて小間物を商ひ
相應の
活計をなし妻お八重との
中に二人の子を
儲け長男を松吉と
呼び既に嫁をも娶り妹をお粂と
名付是も淺草田原町なる花房屋彌吉方へ
縁付樣子も好とて夫婦
倶々安心なし最早悴松吉に世を讓り
氣樂隱居をせんものと思ひ居たりし
折から不※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、679-7]目違の品を
買込みす/\損毛をなせしが始にて二三度
打續き商ひの
手違ひより松右衞門は心を
痛め
遂に病氣となりてたうとう床に着きければ家内の心配
大方ならず醫者よ
藥と
種々に手を盡し
看護に怠り無りしかども松右衞門は
定業にや四十二歳を一期となし
果敢なく此世を
去にける不仕合せも
續けば續くものにて
惣領の松吉も
風邪の心地とて打臥しが是も程なく
冥土の客となりしかば跡に殘りし母と
嫁の悲歎云うばかりなく涙に
暮果暗夜に
燈火を失ひたる如く只
茫然として居たりけり然ば段々と打ち續きたる
冗費に今は
家藏も云に及ばず假令家財雜具迄も
賣拂へばとて
勿々借金の方に引足ず母子倶々種々に心を
碎けども女の身と云殊に
大金の事なれば如何とも
詮方なく何分是は淺草なる娘の方へ相談なすに
如ことなしとて早々娘を
呼寄て相談しけるに此お粂は
元來生質善らぬ者なれば唯手前勝手の事のみ言て一
向世話もなさゞれば母は大いに
立腹なし親の
難儀を
見返らぬとは鳥獸に
劣りし
奴親でもなし子でもなし見下果たる
人非人と
切齒をなせども又外に
爲べき樣も有ざれば
家財雜具[#ルビの「かざいざふぐ」は底本では「かざいだうぐ」]を人手に渡し其身は嫁と
諸共に淺草諏訪町にて裏店を
借請注洗濯賃仕事をなし細き煙を
立けるが嫁のお菊は
老實しく立働き
孝養怠り無りしかば母のお八重も大に喜こび
睦しくこそ
暮しけれ此お菊は未だ
二十を一ツ二ツ
越し
歳なれば後家を立さするも
愍然ゆゑ聟養子を取か然なくば外に
縁付なば一生の身の
治りにも成べしと
姑は勿論懇意の者共迄も
色々勸むると雖もお菊は一向
承引ず母樣始め皆樣の仰を
背くには有ねども今更
聟を迎へなば
亡夫に言譯なく夫とても
母樣の御心休めに成事ならば
更々厭ひは致さね
共今聟を
取時は其人に氣兼ありて母樣への孝行も
自然怠る道理なれば少しも望みに候はず又
外々へ
縁付などとは思ひも
寄ぬ事何卒此事ばかりは
御免しをと一向
承引氣色もなければ
姑女始め人々も其孝貞を深く感じ再度勸むる言葉もなく其意に
任せて打過けり斯て
光陰の
經程に姑女お八重は是まで
種々辛苦せし
疲れにや持病の
癪に
打臥漸次に病氣差重りしにぞお菊は大いに心を痛め種々
療養に手を盡し
神佛へも祈りしかど其
驗も
甞てなく後には
半身叶はず腰も立ねば三度の
食さへ人手を
借るほどなれどもお菊は少しも怠らず晝は
終日賃仕事或ひは
注ぎ
洗濯をなし夜は
終夜糸繰などして藥の
代より口に適ふ物等を
調へ二年餘りの其間を只一日の如く
看病に手を盡せども全快の
樣子は見えず彼是する中に享保四年も早十二月の
中旬と成しに
長々の病人にて
入費等も多く
勿々女の手一ツにては三度の
食事さへ成難く諸方の
借方は段々と言延したれ共
最早此暮には
切て半金づつ成共拂はねば濟ず
然ばとて外に
詮術もなく相談相手になる筈の人は田原町へ縁付し娘お
粂なれ共母が長々の病氣の中も
漸々一度
見舞に來りしばかりにて其節も心配の樣子もなく
劇場の咄などしてそは/\と戻りし
限其後は見舞の
使だに
差越ず如何に不人情成ばとて
實母の病氣を案じぬとは人非人とも
無義道とも
譬へがたき者なりと心の内には思へ共
色にも出さず只一
心に
稼ぎけれど
燒石へ水の
譬の如くなれば
左やせん
右やと
獨り心を苦しめしが
若此事母樣の御
耳に入ては猶々病氣の障りと包む程
猶心苦しく思案に
昏て居る中に早十二月も廿五日と
迫りしかば今四五日の間に金子
調達なさゞれば一夜明るより母樣に藥も
進らせられず
然とて何程
考へても
降て來る金も有まじ
寧田原町へ
到り是程迄に難儀の譯を
打明て頼みなば
假令日常は
左も
右も
切に切れぬ親子の中
豈夫餘事とは見過ごすまじ是も母への孝行なれば出來ぬ迄も一
應相談致すべしと心を決し母の機嫌を
窺ふに
折節母は
氣分宜げにすや/\と寢入たる
樣子なれば是
幸ひと悦びつゝ諏訪町より田原町迄
遠き道にも有ねば
日は暮たれども
宵の
間に一走りと
行燈を
點し
煎じ上たる藥をば歸りて
飮せる樣に
爲し置立出んとなせし時
如何しけん風も無に今
燈したる行燈の
灯の
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、681-3]消ければ心
宜らぬ事とは思ひながらも又元の如く灯を
燈し門の戸を
堅く
閉て立出たり折柄
師走の末なれば
寒風肌を
貫く如きを追々の難儀に衣類は殘ず
賣拂ひ今は
垢染たる袷に
前垂帶をしめたるばかり
勿々夜風は
凌ぎ難きを
耐忍びて田原町に到りけるに見世には客有りて
混雜の樣子なれば裏へ廻りて勝手口より
密に
差覗くに今日は
餅搗と見えて
備を取もあれば
熨斗を延もあり或は
鱠を打者も在て大勢の手傳ひ
臺所に
居並び大取込の樣子を見てお菊は太息を
吐嗚呼昔神田に居る時は我が家が
斯賑しかりしが世が世なればとて
僅の間に此樣に
零落るも前世よりの約束事成べし夫に付ても此の家に
縁付しお粂殿是程の
身代に在
乍一人の母さまの
貧苦を
餘所に見るとは何云心の人なるぞ殊には自分の
身勝手のみ
云散すは鬼か
蛇か思へば/\
情なやと愚痴の出るも道理なり偖裏口より入んと思ふに
灯は
萬燈の如く大勢なる他人の居る中へ
斯窶然き姿にて
這入ん事此家の手前も有ば
如何せんと
少間彳み居たりしに
傍に寢て居し一疋の犬
怪しく思ひてや齒を剥出し
吠付にぞお菊は驚き思はずも裏口の障子を
引明駈込んと
爲に臺所に居たる男共
見咎め誰だ/\と言ながら立出
窶然き姿を見て
乞食とや思ひけんコリヤ今頃に來たとて餘り物もなし貰ひ度ば
翌日早く
來よと云れてお菊は
忽然胸塞り口惜
涙に
哽びながらも好序と思へば涙を隱し成程
斯樣な見苦敷
姿をして參りし故
乞食との御見違へサラ/\御無理ならねども私し事は津國屋の
嫁菊と申者にて此御
家の御新造樣に少し御噺申度事有て參りたれば此
由御
通じ下さるべしと云に彼の男はじろ/\と顏を見ながら奧へ入しが
頓て立出
折角の御出なれども今日は
折惡く餅搗にて客も大勢あり一方成ぬ取込故御目に掛りて御
噺も成難く御
氣の
毒ながら御用もあらば明日にも御出あるべしと云にぞお菊は餘りの
仕方と腹は立共色にも見せず
重ねて男に向ひ今宵は御取込にて御話も成ずと有て
推て申も
如何なれども御母樣の御身の上に
就急に御話申さねば成ぬ事故
鳥渡なりとも御目に掛り
度存じますれば御
邪魔ながら最一
應御取次下されよと頼みけるに彼男は
點頭て奧へ入しのみ待ども/\何の
返事もなく彼是する
中早淺草寺の初夜を
報る鐘耳元に響き渡り
寒風肌膚を
刺が如く一
入待遠く思ふに就我家の事を
氣遣ひ
若母樣が御目を覺され此身の居らぬを尋ねはし給はぬか然共
折角是迄來りしを話も
爲ずに歸らん事餘りに
殘惜と猶も返事を待程に
漸々にして十六七の下女立出
此方へ御通りなされと言にぞお菊は悦び
後に
就て通るに勝手の
脇なる一間へ
誘ひ今に御新造樣お逢なるべしと云
置立去しが茶一ツ出さず小半時ばかり立て
漸々此家の女房お粂立出て
偖々珍しや
適の御出に
折惡く取込にて大に御待せ申せしと言ばお菊は
莞爾と笑ひ
否々私しこそ御
忙しき中へ參り御
暇をお
缺せ申し御氣の毒なりと互に挨拶
終りてお菊は膝を進め早速ながら今宵
態々參りしこと餘の儀にあらず御前樣にも豫て御存じの通り母樣の
永の御病氣
假初ながらも三年越なれば
入費多きゆゑ私しの手一ツにては勿々
引足ず御醫者樣の御禮も此春より未だ少しも致さねば此春には
切て金子の一兩も
上ねば來春からは母樣へ御藥も
上られぬ
譯殊に
米薪其外とも追々拂ひが滯ほり其
催促をされる度一時
延しに致し居れども
最早此暮には是非半金も
遣ねばならず夫故
種々心配致せど何分私しの
稼では其日々々を暮す迄にも
引足ず其中にも私しは三度の物を一度
喫る樣に致て
少にても母樣の御口に適物を調へて
進んと思へども夫さへ心の儘ならず
然ども
鰻を
進たらお力も付ふかと存
夜業に糸を
繰し代にて鰻を
買に行かんとせしが
能々思へばお
夜食のお米も
無れば詮方なく
進度鰻も買うこと成ず是程
切なき譯なれば御相談は爰の處お前樣もお
良人のお手前もあらんが唯今申通りの譯なれば御氣の毒なれ
共何卒金子三兩夫共
御都合惡くば二兩にても
宜く母樣の御病氣の御全快迄御貸下さる樣御願ひ申上ますと
拜みつ泣つ頼み
入此金子の出來し事を母樣へ早く御
知せ申せば何程か御
喜悦ならん何分にも此場を御
救助下されと詞を盡して頼みけるをお粂は
碌々耳にも入ず
適々の御無心と云殊には母のことなれば
何樣にも都合して
上度は山々なれども
當暮は未だ
掛先より少も拂ひが集まらず
其外不都合だらけにて
頓と金子は手廻り兼ればお氣の毒ながら御
斷り申ます
勿々私し
風情の身にて人の
合力など致す程の
器量はなし
外々にて御都合成れよと取付端もなき
返答にお菊は餘りの事と
呆れ
果少間言葉も無りしが
然とて外々へ相談
爲べき當も無ければ口惜さを
堪へ成程
當暮は御不都合との事なれば是非もなき次第なり斯樣申さば御聞取りによりて御腹も立れんが
憚りながら此御
身代にて
僅二兩か三兩の金子なれば
御都合の成ぬ事も有まじ又御前樣の爲にも
掛替なき一人の母樣が御
命にも
係る大事の時故今一應
御思案成れ何卒此場を御
救助下さるべし然すれば何程か御孝行にも相成べし此場さへ
凌げば
後の處は私しの命に代ても母樣に御不自由はさせ申まじ何分にも茲の處を御願ひ申と涙を流して頼みけれども女房お粂は
鼻で
會釋那も孝行是も孝行と其
度毎に金を貸ては私どもの
腮が
干上る元々神田に居られし時は不自由もなき
身代成しを母樣始めお前方の仕樣の惡さに今の困窮然ば御自分の
不始末から不自由
成る事なれば
私共の
知事ではなし今私が
構立をして倶に
貧乏する時は
夫に對して何と云譯が成べきぞ然はなく共お粂の
里は
貧窮なりと云るゝ度の
肩身の
狹さ恥しさ御氣に
障るかは知ね共私し共は
寢衣にも着られぬ樣な
衣物を
着然も
窶然き姿にてお前に致せ母にせよ私しの家へ來られては内外の手前も面目なし此以後共に
格別の御用もなきに御出は御無用と
厭まで
惡口を
吐散し
恥しむるを先刻よりお菊は無念
堪へしが思はずワツと泣出しお前はな/\
強欲非道の大惡人今
眼前母樣の御命に迄
係る
難儀其を見返らぬのみならず
罪科もなき母樣を
然惡樣に云なすとは
何云貴妹のお心やらシテ又今のお
答では
假令此後母樣が
死給ふ共
構はぬとか私の爲には義理ある
姑女貴妹の爲には實の母樣假令何でも人間の
皮を
被りし者ならば
其な非道は云れぬ
筈貴妹の樣な恩知ずの人には此上頼みもすまじ此末共に親類とは思はぬなりと腹
立紛れ思ふが
儘に云
散し
挨拶もなく立歸るをお粂は顏を
膨らしてアヽ其樣な
貧乏神は
門へ寄せるも
不吉なり早く退出せ追出せと
呟きながらそこ/\に奧の方へぞ入にける
斯て津國屋の老母お八重は
偶然目を
覺し
四邊を見るに
嫁お菊の見えざれば如何せしやと
延上りて見廻せども勝手にも居ざる
樣子ゆゑ
獨倩々思ふ樣我長々の病氣にて
腰も立ず身體自由ならぬ大病を斯る
貧窮の其中にお菊が手一ツにて今日と
凌ぎ
翌日と暮せど
追々重なる借金に切なき事も多からんに孝行深き
嫁なれば
苦敷顏も見せねども
最早節季に押し移れば
嘸かし苦勞を
爲る成ん此事病氣の中にも
案事られ少しなりとも手助けと思へど叶はぬ病の身我さへなくば何方へなりとも
縁付て此苦勞はさせまじきものを
可哀や我故
身形も
構はず
此寒空に
袷一ツ寒き樣子は見せねども此頃は苦勞の故か
面痩も見えて
一入不便に思ふなり今宵は
何方へ行しにや最早
初更近きに
戻り
來ねば晝は身
形の
窶然く金の
才覺にも出
歩行れぬ故夜に入て才覺に出行しか女の夜道は
不用心若惡者に
出會はぬか
提灯は持ち行しか是と云も皆我が身の
在故なり
生甲斐もなき身を
存命孝行の
嫁に苦勞をさせんよりは
寧死ぬるぞ
増ならん今宵の留守を幸ひに首を
縊て死なんものと
四邊を
探り廻りけるに
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、684-9]細帶の手に
障れば是幸ひと
手繰寄枕元なる柱の根へ
夜着布團を
積重ね其上へ
稍と
這上り
件の
紐の
兩端を柱の上へ
縛付首に卷つゝ南無阿彌陀佛の
聲諸倶夜着の上より
轉び落れば其
途端に首
縊れ終にぞ息は
絶えたりける
却て
説お菊は田原町にて金の相談せしに金を
貸ぬのみか
種々の惡口
雜言を云れ
腹立紛れに
罵り散し
愛想盡して立出しが外に便るべき先
無れば如何はせんと
思案しながら歸る道にて
俄に
胸騷ぎ
爲ゆゑ
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、684-12]心付是迄遂に夜に入て家を明ける事なきに今日は
鳥渡宵の間にと思ひしが存じの外に手間取しゆゑ母樣は目を
覺されしならん
然すれば我が歸りの
遲きを案じ
持病にても
起しは
爲給はぬかと思へば
暫時も
猶豫ならずと足を早めて我が家に
歸り來て見るに是は如何に老母は首を
縊りて
死居るにぞお菊は驚き
周章て
縋り付涙とともに
呼叫べど最早
疾に事切て手足も氷のごとく
蘇生べきの樣もなければお菊の
愁傷一方ならずワツとばかりに
泣沈む聲を聞付
隣家の人々何事やらんと
追々駈着此體を見て大いに
駭き
憂ひに沈みしお菊を助け起し
且恤り且慰め相談なし此由早速
公儀へ訴へ出べきや又内分に
濟すべきか何にも致せ娘のことなれば田原町へ此由申遣し其上にて何れとも計ふべしとて直樣一人の男田原町へ
駈行老母が
變死の樣子を知らせければ早速娘夫婦は來りて
死骸を
檢めし後お粂はお菊に向ひ母樣が變死の
樣子仔細ぞ有ん
如何なりと問ばお菊は涙を
押拭ひ私し
留守の中に此如く
成行給ひしと答へしをお
粂は
冷笑ひ
否然樣にては有まじ病氣に
疲れし母樣ゆゑ
勿々自身にて首を
縊り給ふ程の
氣力は
無筈なり
察する處長々の病氣に
看病も
夏蠅と思ひお前が
縊り殺したる成べしと思ひ
掛なき
難題を
言懸られお菊は
口惜きこと限りなく
屹度膝を立直し是は思ひも依ぬ事を
仰せらるゝもの
哉云掛されるも程がある
勿體ない母樣を何故に殺すべき
長々の御病氣なれば我が
命に
代てでも御
全快あるやうにと神に祈り佛を念じ永の年月及ぶだけ
看病に心を盡せし事は私が口から申さずとも御長家中の人々も能御存じなり夫程辛苦なしながら何しに手に
懸殺しませう
然るに他の事と
違ひ
斯難題を
云懸られては私しの一分立難し何を證據に私しの
所業なりと云るゝとや
血眼になりて言けるにぞお
粂の
良人は
押止め今此處にて爭ひしとて
詮方なき事なり我等も
了簡あれば出る處へ出て
屹度糺すべしと
言置家主相長屋の者へも我等
所存あれば今晩の始末
委細に御奉行へ訴へ出る間
上より御
沙汰ある迄はお菊を屹度お預け申すなりと
言ひ
捨て夫婦
連立田原町へ
歸り
即刻老母變死の始末より此儀は
嫁菊と申者の
仕業と
推察仕つり候間御吟味願ひ上奉つるとの趣きを訴訟に
認め月番の町奉行大岡越前守御役所へ訴へ出たりけり是により
諏訪町の家主長屋の者どもも
内分に
濟せることもならねば一同相談を爲すにお菊が
常々の孝心
勿々母を殺すやうなる事は
有間敷けれ共
皮想から見えぬが人心なれば若や田原町なる夫婦の者の言如く成んも
計難し先お菊に
屹度したる番人を付置て此始末を早々訴へ申すべしとて月番の大岡越前守殿
御役宅へ
書付を以て訴へにこそ及びけれ
斯て其
翌朝淺草諏訪町へ
檢使の役人出張相成老母の
死骸を
篤と吟味ありてお菊を始め同長屋の者の
口書を取お菊を
腰繩にて
引連られ
即日の吟味となり願人淺草田原町小間物商賣花房屋彌吉同人妻粂并に淺草諏訪町家主組合長屋の者殘らず召出され一同白洲へ
呼込になりしかば一番にお菊は腰繩にて引出され
砂利に
蹲まる時越前守殿
出座あつて願人花房屋彌吉同人妻粂と呼れ其方共願ひ出たる通り菊事
姑女を
締殺したるに相違なきやと申さるれば彌吉は
愼んで
首を上仰の通り老母儀長々の病氣なる故此者
看病致さん事を
五月蠅存じ人知れず締殺し候に相違之なく然るを自殺の樣に申立候共
長病に
疲れ候者自身に首は
縊る程の氣力あるべき樣も御座なく是第一の
不審にて候私し妻事は昨夜
書付にも
認め上候通り右老母が實の娘に御座候へば何分にも御
吟味願ひ奉つり候と申立けるを越前守殿聞れてお菊に向はれ如何に菊其方は何故に
姑を締殺したるや
眞直に申立よとありけるにお菊はしとやかに申樣
恐ながら申上奉つり候私事
姑女を締殺し候覺え
毛頭御座なく元私し事は
賤き者の娘にて津國屋が
未神田に
住居致せし節同人店に居候中兩親も死に
果候ひしを不便に思ひ私しを引取嫁に
致呉候大恩は
勿々私し一生の中に報じられ
間敷と存じ心の及ぶだけは孝行を
盡し度心得に候處
運惡しく
舅を
暫時の中に失ひ其上借財多く出來
止ことを得ず家財殘らず
分散いたし
姑と兩人にて淺草諏訪町に
裏店を借受賃仕事或は洗濯など致し
纔に露命を
繋ぎ居候中又もや姑の三年越の
長煩ひに
入費も
莫大にて困窮に困窮を重候へ共茲ぞ恩の報じ
際と存じ夜の目も眠ず
賃苧をうみて看病
怠たりなく致せし事は家主始同長屋の者をお尋ありても相知申すべく候
斯難儀の暮を致し居候に付
當暮には藥代其外諸方の買掛り都合六七兩にも相成申候事ゆゑ此
節半金も遣はさず候はねば來春よりは
姑に藥を飮せること成難く然りとて私しの働きにては夫だけの金子
勿々調ひ申さず途方に暮居り候然る處是に居る彌吉妻粂事は私し
姑女の實の娘に御座候へども私し方不仕合せに相成
姑女が三
年越煩ひ居候ところ其中
漸々一度見舞に參りしのみにて其後使一度さし越候事御座なく候因て此度の
難儀の次第申候とも相談は致しくれ
間敷とは存ぜしなれども
現在母の
命にも係り候事故何とか又話も出來申すべきやと存じ昨夜
宵の内
姑女事快よく眠り居しに付此間に參りて相談致すべしと田原町へ到り右の
譯を委細に話し金子三兩
若成ずば二兩にても宜しく貸
呉れる樣然うなき時は母に藥も飮されずと頼みし所
取付端もなき返答の上大いに私しを
恥しめ候然れども外に頼むべき方も御座なく候故
口惜さを
堪へ猶種々頼み入候へども一向
取合も致さず候まゝ是非なく立歸りし所如何なる
仔細か姑事首を
縊り居候ゆゑ打驚き種々
介抱いたし
呼生しかども其甲斐なく候故途方に暮居し處此物音を聞付て相長屋の人々集り來り
實親子の事なればとて
早速田原町へ右の樣子を申遣せし處彌吉
粂同道にて參り死骸を
檢め
見私しの
仕業成と申かけ其由訴へ出し事にて何を證據に然樣の儀を申立候
哉假令私し命を召れ候とも
姑を
締殺せし覺え
毫程も御座なく候何卒私しの
心底御察し下され度願上候と
仔細包ず思ひ込で申立ければ越前守殿
點頭れ諏訪町の家主其外長屋の者に向はれ
只今菊が申立し通りなるかと尋ねらるゝに
家主始め皆々恐る/\進み出只今菊が申上候通り常々
渠が孝行なることは長屋一統感心致し居候然るを
姑を
締殺候者
渠なりと彌吉夫婦の者より願出候
段私ども一
統心得難く存じ候と申立れば越前守殿は彌吉夫婦を見られ昨夜菊事其方が家へ金子
無心に參りし哉と
尋らるゝにお粂は
夫の答へを待ず
仰の通り昨夜私し方へ金子用立
呉候樣申參り候へども當暮は
種々物入も多く其上懸先より
未少しも拂ひを請取らず
夫彌吉も
心配致居候中ゆゑ假令私し身内の者なりとも
金子を貸くれと申すも餘り心なきことと存じ
斷り申候と云ひける時越前守殿其方は母の
病中に一度見舞に參りしと菊が申立しが夫に相違なきやと
訊尋られければお粂は少し
詞の
淀みしが私し方甚だ
無人にて私し店に居申さず候ては用向差支へ候ゆゑ
漸々一度見舞に參り候と申立るに越前守殿夫は
何時頃の事なりと云るればお粂は指を
折暫時考へ居しが去年の四月
頃と覺え候と申立る此時越前守殿は彌吉に向はれ彌吉其方は一度も
見舞に參らざりしやと尋ねらるれば彌吉は大に
赤面なし私し事は日々出入場の用向
繁多にて存じながら不沙汰致し粂を名代に遣せしのみと申立けるに越前
殿然ば菊が
姑女を締殺せしと
申事は何ぞ證據にてもある哉と
糺問られしに彌吉夫婦は言葉を
揃外に證據とては御座なく候へども三年
越煩ひ居候者が自身に首を
縊る程の氣力は御座なく候はん其上菊事私し方にて金子
調達致さず候を
遺恨に存じて母を
締殺し候事と存じられ候へば
能々菊を御吟味下され度願上奉つると申立るを越前守殿打聞れ
扨々汝等は理も非も知らざる
誠に無法者なる哉汝只今何と申せしぞ去年の四月只一度
見舞しのみと申したるにはあらずや然れば母の
容體今頃は氣力衰へたるか増たるかは知らざる成べし然るを
長病故氣力衰へ自身に首を
縊ることは成ずなどと
當推量を申立夫のみ成ず金子を貸ぬと
夫を遺恨に存じ
姑を殺せしなどと申せども
然樣の儀が證據に相成べきか萬一
夫が爲菊が殺したるにもせよ母の
命に
係ると申たるに金を貸ぬは
汝等が心得違ひより母を殺す譯に相當り汝が手にて殺せしも
同然なり我人を遣はして死骸を能々
檢査させしに其の死せし體自身に首を
締たるに相違なし其上家主惣長家の者一同の申處皆菊を
譽ざるはなし今菊が申す處は皆理の
當然にして汝等が申條は甚だ不都合なり
現在母の三年越に
煩ふを假令何程商賣が
閙敷とて一度見舞し
外使にても容體を
問ざるとは餘りと申せば不孝の至りと云べし彌吉は
聟なるが粂は實の娘なり然れば
母親の困窮と言ひ病氣と聞ば菊より借用致し度由申入ずとも
汝等が
身代を半
分分にしてなりと
救助べきが至當なり
其を
僅二三兩の金をも貸ず只今に至り證據もなき事を
公儀へ申立候
段不屆者めと
白眼れしかば彌吉夫婦は
戰慄出し恐れ入て居たりける
其時越前守殿
重ねて彌吉夫婦に向はれ汝等
未菊を疑ふ樣子ある故
具に申聞すべし我菊が
姑の死骸を
檢査さする
序に
家探しを致させしに夜具衣類迄姑女の着たるは
格別垢染も爲ず綿なども澤山に入てあり又菊が分は
唯今夫に着て居る外は何一ツなきが
然ども破れたる
骨柳一ツあり其中に
反古を
裏返して
綴たる帳面一册あり
披き見るに
姑が日々の容體大小便の度數迄
委敷記載てありしとて
即ち是へ差出せり
仍て披き見るに其の深切に認め有事此一條を以ても菊が姑を
殺さゞる事分明なり斯ても菊が
仕業なりと疑ふ
哉と申されしかば彌吉も粂も恐れ入て
今更面目なく聊かも
疑念是なき段申立たり依て越前守殿お菊が
腰繩を
宥し解せられ諏訪町の家主
長屋の者に向はれ
汝等も聞通り老母を殺せし事菊が
仕業に非ず自害に相違なし去ながら何故に斯る
成行に成しやらん汝等思ひ
當ることはなきかと
尋問らるゝに家主其外は言葉を
揃へ何故と申儀
確と存じ候はねども
常々老母が我々に申候には嫁が
孝行に致して
呉るは
嬉しけれども生甲斐なき我が身が居るゆゑ孝行なる嫁に
苦勞を
掛老先の有者を此儘に
朽さするは
憫然なり是を思へば早く死ぬるが増ならん
抔申により
皆々寄ては
諫め候ひしが若や是までの言葉の通り嫁に苦勞を爲ん事を
厭ひ自ら縊れ死したるにもや候はんと申立ければ越前守殿は我も然樣思ふなり然る上は老母の
死骸は其儘菊に下さるべし又今迄身
貧なる處姑女に
事へ孝行を
盡せし段
上にも定めて御
滿足に思召ならん依て御
褒美として銀五枚取せ
遣すと申渡され諏訪町家主組合長屋の者一同に下られ又彌吉粂事は
現在母姑女の續き合に在ながら其身の
吝より
困窮難儀の場所も見返らず
剩さへ老母自害致し候
證據をも見出さずお菊が仕業なりと申立
公儀へ御苦勞を懸し段麁忽不義の致し方に付重き御
咎めにも申付べきの處格別の御
憐愍を以て
重過料申付ると有て此事は
先双方落着に及びけるが
誠に越前守殿ならずば斯手早く黒白も判るまじと人々申合りしとぞ
昔時唐土漢の代に是と
能似たることあり
趙氏の
妻若き時夫を
亡ひ
未子も無りしが其後
夫を持ず姑に
事へて孝行を盡くしけるに元より其
家貧ければ
麻をうみ
機を織て朝夕
姑女を養ふ事
夫の世に在し時よりも
厚かりしかば姑女の思ひけるは
嫁は
未年若くして
鰥となり一人の子供もなきに
久敷我に事へて孝行成は嬉けれども
斯て年寄ば頼む方もなくならんこそ
最惜けれ孝行なる嫁の
志操を我故に
何時迄か苦しめて世に
存命んよりはとて
密に首を
縊て死したりしに此姑に一人の娘ありて我が母を嫁の
締殺したるならんと思ひ時の
鎭臺へ訴へ出けるに鎭臺
不詮議にて孝行なる嫁を罪に行ひけるに天其不政を
憎み給ひしが其處三年の間
雨降事なく
飢饉成しにより其後鎭臺を代られたり後の鎭臺此事を
怪みて
或博士に
占はするに
日外罪無して殺されたる嫁の
祟り成んと云ければ鎭臺には大に駭かれ
塚を
建て是を
祀り訴へたる娘を罪に行ひ
前の鎭臺の官を
剥れしかば天も
漸々受納有てや是より
雨降出して三日三晩
小止なく因て草木も
緑の色を生ぜしとかや趙氏が妻とお菊が孝心は和漢一
對の
美談と
謂つべし
津の國屋お菊一件
終[#改丁][#ページの左右中央][#改丁]水呑村九助一件 夫聖代には
麟鳳來儀し
仁君の代には
賢臣聚ると
理なるかな我が
朝徳川八代將軍
有徳院殿の御代に八賢士あり
土屋相摸守松平右近將監加納遠江守小笠原若狹守水野山城守堀田相摸守大岡越前守神尾若狹守是なり然るに其有徳院殿の御代
享保二年大岡越前守町
奉行と成始めて工夫の
捌きあり其原因を尋るに本多長門守
領分遠州
榛原郡水呑村千五百石の
村名主九郎右衞門が實の弟に九郎兵衞と云者
有平生より
心正しからず其が
菩提所に
眞言宗大石山不動院と云寺
有此住寺も又大の
道樂者にて同氣相求るの
諺に
泄ず九郎兵衞と
平生に親しくなしけるが九郎兵衞は豫て
袋井宿三笠屋甚右衞門が
抱へ遊女お芳を買
馴染互ひに惡からず思ひ居たりしうち或時不
動院と
馴合彼のお芳を盜み出し寺へ
匿ひ置しが其後
彌生の
節句となりて庭にてお芳に田樂を
燒せ法印始九郎兵衞其外土地の
破落戸五六人集り酒を
呑皿小鉢を
叩き或は
唄ひ或は
踊りなどして樂みけり
却説袋井の甚右衞門は
此程お芳の
逃亡なせしは
的きり九郎兵衞の所業ならん然すれば不動院などに匿れ居るも知れずと
流石は
商賣柄だけ
敏くも
勘を付村の
探訪薩摩傳助赤貝六藏の二人を
連咽の
乾[#ルビの「かわ」は底本では「かげ」]きし體にて此寺へ這入り水を
乞て
飮んとし
乍ら樣子を
窺ひ居たるにお芳は
味噌が
足ぬとて臺所へ來り
老僕に味噌を出させるを甚右衞門は見付け
己はお芳にあらずやと言ひざま
引捕へ直に召し
連訴へんと言ふを不動院が聞付て中へ立入りしかば然ば御
坊に御
任せ申すとて夫より
懸合の上金三十五兩今宵中に
才覺して渡すべしと
約束を極め甚右衞門外兩人の者も其の夜は寺に
泊りける此日は三月節句の事なれば
村方所々にて宵の中は
田舍唄又は三味線など
彈て賑ひ名主九郎右衞門方へも
組頭佐治右衞門
周藏忠内七左衞門等
入來り座頭に儀太夫を語せ樂みながら
酒宴をなし夜九ツ
時過る頃佐治右衞門忠内の兩人は
暇乞して歸り家内も
寢靜まりて夜も八ツ時と思しき
頃勝手の方より一人の
盜賊忍び入り年
貢の取集め金五六十兩
用箱に有けるを盜み出さんとする
處に
主人九郎右衞門は目を
覺しヤレ
泥坊と聲を立しかば盜賊は
吃驚なし
用箪笥を
抱へて
逃出んとするを九郎右衞門
飛懸り
遁さじものをと押へるを
盜人振り
拂ひ
突退つゝ互に組付
英々と
揉合聲に驚き家内の者ども
馳來り
棒よ
繩よと
呼はり/\
漸々高手小手に
縛めたり然ども面體は
眞黒に
墨を
塗たるゆゑ何者とも見分らず此
騷ぎを聞し
周藏七左衞門の兩人も馳來り勝手より
手燭を取寄る此時村の
小使三五郎は
臺所に
寢て居たりしが
物音に驚き
金盥を
叩立しかば一村二百軒の百姓
夫やこそ名主殿へ盜賊が
這入たぞ
駈付て
打殺せと
銘々得物々々を
携へて其處へ來りヤア盜人は面を
墨にて
塗たるぞ
洗ひて見よと
聲々に
罵り盜人の面を水にて洗ひ落せば這は如何に弟九郎兵衞なりしかば
座中の人々
惘れ
果て
皆脱々に歸りける
組頭の兩人は
據ころなく跡に
殘りて兄九郎右衞門は
相良へ
突出すと云うを
種々と取扱ひ
漸々涙金として金五兩
遣し
勘當とこそなりにけれ是に因て袋井の者三人はお芳を
引立連歸る然ば九郎兵衞は
仕損ぜしを
忌々しく思ひ仁田村の八と云ふ
獵人の
宅へ
引越居る處へ手先の
幸八と云ふ者此事を
嗅付け
郡代役所へ引行入牢させけるを
兄九郎右衞門聞
込流石憫然に思ひ
内々取繕ひをなしけるに因つて
領分構ひとなり九郎兵衞は夫より駿河國
府中に知る人
在により
遙々と尋ね行き此處に三ヶ月程居たれども
兎角人請惡く
彌々落付難きに付
煮染たる樣な
單衣を
着縫止のはせ返りし
菅笠と錢は
僅百廿四文ばかりの身上にて
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、694-13]立出江戸へ行んとせしが又甲斐國へ赴かんと
籠坂峠まで到りしが頃は六月の大暑
故榎の
蔭に
立寄清水を
掬びて顏の
汗を流し足を洗ひ
嗽などして
暑を
凌ぎ
休らひ居たり此處は景色もよく後ろは
須走り前は
山中の湖水と
打眺め居る彼方の
坂より
行衣に
襷を
懸て
金剛杖を突ながら
鈴の
音と
倶に來る富士同者あり
渠も此處に休み水を
呑足を投出し居るに九郎兵衞是を見て嗚呼
御前は
羨ましい
私は今此
湖水に身を投やうか此帶で首を
縊らうかと思ひ居たりと云ふを富士同者イヤ
若衆夫は大きな
了簡違ひ誰しも
若い時は一日に
[#「一日に」は底本では「一時に」]迫詰て
然樣[#「然樣」は底本では「然樣」]云氣にもなる者一體此方の國は何處で名は何とゝ聞かれ九郎兵衞は口から出任せ我が家には
金の
茶釜も
有樣に
大層を云一萬兩程
遣ひ
込親父から
勘當を請たりと話すを同者
實と思ひ私は
相摸領[#ルビの「さがみりやう」は底本では「さがみみやう」]御殿場の者にて
小前の百姓條七と云者だが
上田が六石三斗中田が七枚半山が七ツ
有ば
親子三人
暮故十日や廿日は
麥飯さへ
承知なれば
貴殿一人位は苦にはせぬ其中に何
商[#ルビの「あきな」は底本では「あなき」]ひでもするか但しは
又奉公にでも出るかよも死ぬには
増で有うから
己が
在所へ御座れと
深切に云ければ九郎兵衞夫は千萬
忝けなしと追從たら/\
連立つゝ御殿場へ來りて條七方の
同居となり
半年ばかりも
厄介に成し中條七は馬を一
匹飼て
追せける故九郎兵衞も今は行處なければ條七の弟分になつて三年程
稼ぐ中
茲に條七女房お
鐵と云ふは三歳になる
娘お里もありながら何時しか九郎兵衞と
怪敷中と成しにぞ或日九郎兵衞と云合せ
土地の
鎭守白旗明神の
森にて
白鳥を一羽取是を
料理して
鴈と
僞り食せけるに不思議や條七は五十日
經か
經ぬに
髮も
脱癩病の如く
顏色も變り人
交際も出來ぬやうに成ければお
鐵は仕濟したりと打
悦び條七に打
向ひお前は
入聟の身斯る
業病になりては
先祖へ
濟ず早く實家へ歸り
呉よと
最つれなくも言ければ條七も
詮方なく
前世の業と
斷念るより外なしと女房娘を九郎兵衞に頼み
跡の事まで
念頃に話しける九郎兵衞故意と斷り云しか共女房の
親類共打寄
否癩病にては村へ置れぬ
定法なれば是非共跡を
引受られよと折入て
頼しにより九郎兵衞は
漸々承知して入夫となり六石三斗の
田地を
質入なし金十兩
借請條七に
渡ければ條七は是非なく
金毘羅參と云箱を
首に
懸數年
住馴し
故郷を
後に
立出けり然ば九郎兵衞は是より百姓になり
消光處に
良らぬ事のみ多ければ村方にても
持餘し
何も
呆れ果ては居けれども九郎兵衞は
狡猾き者故
勿々越度を見せず
惡事の
腰押或ひは
賭博の
宿などして
食客の五六人は
絶す追々
田畑も
賣拂ひ水呑同樣の
困窮となり凡十四五年居る中
女房も
死亡今では娘と
只兩人差向ひてに漸々其の日を
送りけり茲に又
遠州水
呑村名主九郎右衞門は五ヶ年以前
病死なし名主
跡役は當村の惣左衞門と云者に申付られしかば
悴九助は當年廿歳に
成共今は
昔に
引替て
困窮なし借金も多かりしゆゑ母は氣病が
終に大病となり今は此世の
頼も少く或日
枕邊近く九助を
呼寄父樣死なれし以來種々不幸が
打續斯貧窮となりしこと如何にも殘念なれば其方
何卒辛抱して
田畑も元の如くに取
戻し河口九郎右衞門が
名跡を建呉よ又
弟九郎兵衞は當時
駿河國御殿場に居る由今は心も直りしならんと思へば其方の爲には
現在の
伯父なる故一度は
公父の
戒名を屆け呉よと涙と
供に九助が手を取り顏を
倩々と打
眺め
息も
絶々に
遺言なすにぞ九助は
迫來涙を
呑込々々何とて然樣に心
弱き事を云るゝや何卒氣を
勵まし少しも早く
全快爲給へとて種々に
勞りけれども
終に介抱の
驗もなく母は正徳元年七月二十一日病死し
菩提所不動院に
葬り
月堂貞飾信女と云戒名に
哀を止めけり村方にては九助の孝心を感じ
親類始め皆々
打寄厚く世話をなし後
懇切にぞ弔ひける夫より後九助は
獨身となり
艱難に
暮しける中にも
亡父母の
遺言片時も忘れず朝夕の
回向怠りなく
勤め一人工風を
爲居たり然るに此時江戸へ
出訴の事
組頭出府致すべき處
種々取込のことあるにより
飛脚を村方より立ると云を九助は聞込何卒
私しを飛脚に
遣て下されと云ければ
皆々承知して申付しゆゑ幸ひ御殿場へ
立寄伯父九郎兵衞にも
逢度思ひ
支度をなし家内の事を
能々頼み股引脚半草鞋にて御用と云
繪府を首に掛沼津
宿より足高山の
裾通りを行ける後から旦那々々馬を取つせへ安價く乘せへ
戻だから
酒代だと云を聞付け九助は
若馬士殿是から御殿場へは
何位あらふ日一ぱいに行れ樣かアヽ御殿場迄は四里半だから少し
暮ますべい御殿場より
外に
泊る樣な村も無から御殿場迄行つせい私は御殿場へ
戻る馬だ三百文に
負るから四里半
乘つせへと云ふ九助も
獨り旅では有是非御殿場へと思へば幸ひと
相談を
極め馬に乘て馬士と話し行處に向ふより横に乘たる
田舍馬六七
疋鼻を揃へて來るを
件の馬士
見付て是御用だ繪符だ/\若い
衆オイ/\と云ふに
面々ばた/\と
飛下る故九助は是サ馬士殿
下ず共
宜に
憫然な何さ
惣體に根方の
奴等はずるいから
時々目に合せて置ねへと成やせん時に旦那
急なら箱根を御
越成れさうなものだに
矢倉澤通は何か御用でも御座りますか今宵は御殿場一番の富士屋へ御泊申ませう
何程田舍でも御泊り成れて御覽じませ海道にも餘り
御座やせんと云に九助はノウ馬士殿私は
尋る人が有が此方に聞たら知れやうか
誰で御座ります然れば元は御殿場の者ではない
最早十五六年
以前に來て今では村の人に成たとの
咄しイヤ御殿場も
上下掛て二百軒餘有から名を聞ぬ中は知れやせん成程然樣で有う元は
遠州の者在所に居る時は九郎兵衞と云たが今は何と云かと云顏を
件の馬士は
熟々見て
手綱を止め然いふ此方は遠州
相良水呑村から來なされたか如何にも我は水呑村の百姓なりハヽア
胡瓜の種は盜とも人種は盜まれぬとハテ見れば見る程
違ない十六年
以前別た兄九郎右衞門が
悴の九助ぢやなお前は
伯父の九郎兵衞樣かと
互に
吃驚馬より
轉び
落手に手を取
交し
悦び
涙に
咽けり
姑くして
馬士云樣話は
宅で出來るから日の
暮ぬ中
馬に
騎つせへ
否伯父樣と知ては
勿體ない
馬鹿を云へ
御殿場迄の
旦那殿と
讓合う中何時か我家の
表へ來りしが日は西山へ入て
薄暗ければ外より是お里
遠州の兄が來たと云にお里は
應と云出る此家の
構へ昔は然るべき百姓とも云るれど今は
壁落骨顯れ
茅の
軒端の
傾きて
柱に
緘む
蔦葛糸瓜の花の
亂れ
咲き
住荒したる
賤が家に娘のお里は十七歳
縹致は人に
勝れしかど
容體もなく
缺茶碗に
[#「缺茶碗に」は底本では「缺花碗に」]澁茶を
酌で差出す
盆も
手薄な
貧家の
容體其の内に九助は
草鞋の
紐を
解足を洗ひて上に
上り先お里へも
夫々の
挨拶して
久々の
積る話しをなす中に
頓てお里が
給仕にて
麥飯を
食終りし後九助は金二兩
土産に出し九郎右衞門が
遺言并びに
伯父樣の
分米の
田地十二石手を付ずに今以て村
預けに成て居ますと話すを九郎兵衞は聞て大いに悦び
我等儀段々の
不仕合せ故今は
古郷忘れ難く何か此上は娘お里を手前の女房になし親の
名跡を立て呉と
潸々と
涙を
落せしかば九助は母の
遺言もあり殊に
亡後は
伯父は親なりお前樣は村方の處を何なりと
片付て置れよ私しは江戸の用事
濟次第
引返し
古郷へ
御同道致しませうと一
宿して申合せ
翌朝江戸へ赴きける九郎兵衞は跡にて村役人
始め親類へも
委細話せば皆々は
厄病神を
拂ふ樣に心得居屋敷并に少の
畑は親類へ引取九郎兵衞親子は九助が戻りを待居たり
偖も九助は江戸の用向
滯ほりなく
相辨じ歸り
掛に又々御
殿場へ
立寄伯父九郎兵衞の親子を同道なし
古郷水呑村へ立歸り夫より直に當時の
名主惣左衞門方へ九郎兵衞同道にて參りければ惣左衞門は昔より九郎兵衞と
相口故
早速領主の
役場へ申立歸村の儀を取計ひ
豫て
預りの田地十二石餘り九郎兵衞へ相渡し娘お里を九助が妻と致させて是より
互に
稼ぎける然れども只今は親九郎右衞門が
讓りの田地は
質に入てあるゆゑ伯父の田地のみにて萬事足ぬ勝なる上九郎兵衞も
徐々地金を出し九助を
意地め
入聟同樣に
囂ましく
朝夕云ける故九助も何卒
亡母が
遺言[#ルビの「ゆゐごん」は底本では「ゆるごん」]の如く田地を請け
戻し度と
豫て心
懸居たることなれば江戸へ出て一
稼ぎなさんと思ひ九郎兵衞とも種々相談なせし上女房お里にも
得心させ夫より九助は支度をなし江戸表にて奉公すべしと
暇乞して出立なし
既に
藤枝より
岡部を過て宇都谷
峠に到れば
絶頂の
庵室地藏尊の
境内に
西行の
袈裟掛松あり其所の
脇へ年の頃五十位と見ゆる旅
僧のやつれたるが十歳許りの女の子を引立來り彼の
僧目を
剥出し是サ此子は
怖い事はない此伯父と一所に
歩行々々と
引摺行を娘はアレ/\
勘忍して下されませ
母樣が待て居ますと
泣詫るを
旅僧は
扨々囂ましい
強情者めと
無理無體に
引摺々々行處へ九助は何
氣なく
行掛りければ彼の娘は九助を見るより大いに悦び
小杉の伯父樣此
坊主が
勾引ますアレ/\
伯父樣々々と云れて九助は何ぢやと
立止を旅僧は是を見と等く是は
堪ぬと其儘後をも見ずに
逃行けり斯て彼の娘は九助に向ひ御前樣の御
蔭にて助かりたり今の坊主は私しを
無理無體に引立て
柴屋寺の
畑屋から茲迄連て來ましたゆゑ
勾引と存じ小杉の伯父樣と申ましたので御座いますと云ひけるにぞ九助は
扨々子供に
似合ぬ
利發者家は
何處ぞと尋ぬるに
阿部川宿の
兆といふ者の娘
節と申者なりと申せば九助は
憐然に思ひサア/\
宅迄送つて
遣らんと手を引つゝ阿部川宿の
宅へ
到見るに母は
中氣にて手足
協ず一人の娘を
相手に
難儀の樣子なり娘お節は母に向ひ右の次第を
委細話せば母は大いに驚き
且悦び九助に逢て
厚く禮を
述今宵は此家に泊り給へと
達て
止めけるゆゑ其夜は其處へ泊りしに娘お節は
米をとぎ
味噌を
摺り
最忠實しく
働く
體如何にも孝子と見えけるゆゑ九助も
不便に思ひ
勝手元迄手傳ひて少し
乍ら
母公に何ぞ
進らせられよと錢一
貫文を
遣ければ母子は有難
涙だを流し幾度となく
伏拜みたり扨も翌朝九助は
懇切に
暇乞して此屋を立出
道中を急ぎ日ならず江戸に着ければ
知己の
周旋にて日本橋
室町三丁目の番人に
抱へられ
勤けるが元來
正直の九助故町内の
氣請能月に三貫文の外に
草履草鞋其他荒物
飴など賣ける中
駿河町越後屋三家の
掃除を引請しにより彼是月に二兩位に成りしとぞ或夜
廻の節
霜月末の事にて寒氣
烈敷雪は
霏々と降出しゝ中を石町の鐘と
倶に
子刻の拍子木を打乍ら
小路々々を廻らんと
桐山三
甫が見世の
角迄來りし時足の
爪先へ引掛る物ありしゆゑ何心なく取上見れば
縮緬の
財布なりしかば町内を廻り
仕舞取出し
改め見れば小判八十兩ありて外には
書付もなきゆゑ
驚きながら
早々町役人へ屆けしに
行事打寄相談の上
訴へ出
猶町内へも札を出し公儀にても
御詮議ありし處更に
請取る人の出ることもなく一年
程經て後番人九助儀町役人共
差添町奉行所へ
罷出べき旨
差紙に付家主五人
組名主同道にて
罷出けるは
舊冬九助が
拾ひし金八十兩
殘らず下し置れしにより九助始め町役人一同有難く
頂戴して歸り
殊に九助は
夢かとばかり
打悦び居たりし處其夜
子刻頃廿四五の男
番屋をホト/\
敲きて入來り御目に
懸るは
初てなれど
私し事
去年の冬金子を
落したるは
斯々なりと段々譯を咄し其節請取に罷出ませうとは存じたれども大金を
粗末に致したる儀に聞えも
惡く其の上世間へパツと
露顯致しては
奉公も出來ぬ故彼是と心を
痛めながら今日まで
待合せて居ましたが今日
承はればお前樣へ
公儀より下され候由に付右の
御談を申上
度と云ふ其
譯は私し一人の
母を持ますが
當年七十三歳其上
病氣にて久々
難儀致し居り只今にも
死にますれば
見送り方も出來
兼ます故御前樣へ
折角下されしを御
無心申も如何なれど
何卒其金をと
涙を流して申にぞ九助は
元來正直者故我が身の上に
引當て
氣の
毒に思ひ
直樣八十兩の金を取出し扨々夫は
御難儀至極殊に御老母の病氣
養生の爲に
落したる金を
欲いと云るゝ
趣き御
道理千萬
併此金は
去冬夜廻りの
節我等拾ひ
町内より御訴へ申上置し所
落主無きゆゑ今日我等へ下されしなれば
親公の爲と有ば
進ぜ申べし町所家主名前は何と云るゝと
聞ば彼の者然ればなり町所名前などを申位なら去年
紛失の節訴へて
戴きますが私しは奉公の身の上なれば金は入らねど
只老母の病を治し度一心にて出ましたに名前を申さねば御渡し下されぬとなら
是非もなしと涙にむせぶ有樣如何にも
實情に見えければ九助は感じ扨々御前は孝心
厚き御人故
殘らず
渡して進ぜませうと
財布の
儘渡せしにぞ彼の者大いに
悦び全く御
蔭にて老母の
療治も出來ますと
押戴き/\
猶遠からず
御禮に上りますが少しも早く母へ見せ悦ばせ度存じますと
叮嚀に禮を述てぞ歸りける依て九助は本意なく思へ共親孝行の爲とあれば更に
惜共せず
頓て
門の
締をなさんと
爲に上り口の
草鞋草履などの中に何やら
帛に
包しものありて其
匂ひ
芬々たり
不審ながら
披きて見れば金の五六寸四方の
箱の中に
名香あり是は
那の人が落して行しならん今に心付ば取に來るべしと思しが待てども參らざれば其の夜は
寢翌朝九助
茶を
飮で居る處へ二丁目の番人作兵衞といふ者來り
四方山の
咄の中此
匂を
嗅ぎ不審に思ひながら歸ると程なく
定廻りの
同心來りて行事を
呼寄名香紛失につき内々の御
調べゆゑ
藥屋共へ吟味致す樣申付るを
聞番人作兵衞は勝手より
這出旦那樣
不思議の事が御座ります三丁目の番の所にて云々と話せば同心は夫と九助を
呼寄て
吟味なすに其の品は昨夜
草鞋を買に來りし者が落して參りし故取置ましたと言にぞ
早速取寄て見改めたるに内々御
詮議の品に
相違なく因て送り
状を
認め九助を町奉行所へ送りたり時に享保二年九月廿一日大岡越前守殿町奉行始めての
白洲なれば別て
與力同心の役々
威儀嚴重に控へし所へ九助は
怖々罷出るに越前守殿之を見られ其方手元に之有し
伽羅一兩目餘入たる金の
香箱は細川越中守方より訴へに及びし
紛失の品なり其方如何して
所持致せしや有
體に申せと云はれしかば九助は
首を上私し小屋へ十九日の夜
子刻過
頃草鞋を
買に參りし者が歸りし後に右の品が御座りしゆゑ其者が落せしことと思ひ取に
戻らば
遣さんと存じて
差置ましたと申立るに越前守殿否其方は町内の番人も致す身ゆゑ落し物と知らば町役人共へ話聞せ其の上にて町内へ
札でも出すか又は
公儀へ訴ふべき
筈なるを何故其儘に差置たるぞと有ば九助ヘイ
恐ながら大方
直に取りに
參り
[#「參り」は底本では「參り」]ませうかと
存まして其儘
姑く差置ましたと云に越前守殿
否々其方は町役人の下を
致ながら申分が
暗いぞ大方金でも取て人から
預りたるならんと申さるれば九助は
眞面に成イヱ/\全く以て然樣な儀には御座りませぬと云にぞ大岡殿は町役人共へ九助が日頃町内の
勤方は如何やと
尋問られしに九助儀は極の正直者にて去年の十一月
下旬夜廻りの時金八十兩
拾ひ其の節私し共へ申聞し上御訴へに及び置し處
落主之無きに付一昨十九日右金子を九助へ下し置れましたと申立るに越前守殿ジツと九助が顏を見られしか
暫時控へよと申さるゝ時
常盤橋御門番松平
近江守殿番頭夏目五郎右衞門より差出したる者兩人足輕
小頭一人
足輕六七人附
添罷出しに其者共の
風俗何れも
棧留綿入の上へ青梅の
袷羽織を着年は廿四五歳にて差出しの書面は左の通り
一此者共儀今曉寅刻頃主人近江守持場御橋の中程に於て口論箇間敷儀申募り居候故番所より聲掛追拂はんと致せし處一圓退去仕つらず互いに掴み合金八十兩を双方自分の物の由申爭ひ候段御場所柄をも顧みず不屆きの次第故早速取押へ町名家主等相尋ね候へ共何か取留らぬ申口にて至極怪敷存じ候間其儘差出候に付御吟味下さるべく候以上
松平近江守家來番頭
九月廿二日
[#「九月廿二日」はママ]夏目五郎右衞門
同人家來給人兼目付
荒川源助
大岡越前守樣
御役所
右讀終る時役人立出て兩人
請取松平近江守殿家來は早々退けり時に越前守殿二人の者を見られ
其方共身分は何なりやと
尋らるゝ一人進み出私しは下谷山崎町源次郎と申者私しの
金を此者が
自分の金なりと申て
無理に取んと致せし故
竟に大きな
聲を出し御見付にて
叱られ候と申立るに今一人も進み出
恐れながら申します私しは神田佐久間町一丁目
番組宿屋上州屋
軍助方手代利三郎と申者私の金を此源次郎我が金だと申候と又々
爭はんと爲すゆゑ越前守殿兩人共
默れと聲を
懸られ其方共此金子八十兩は如何樣の
筋で
爭ふぞ
富でも
取たか又は拾つたのかと申さるゝに兩人はハイとばかりにて答へも爲ざればコリヤ
何致したサア
有體に申立よと有ければ
漸々利三は
頭を上夫は私しの親共より
讓金なりと云に越前守殿然すれば汝等は兄弟か兩人
否と云ば越前守殿ソレ
縛れとの聲に
連兩人を
高手小手に
縛め左右へ引
据たり此時九助は其者の顏を見て
吃驚なしコレ/\
貴殿ゆゑに私は此
通御番所へ送られ
迷惑致せり貴殿が落して置た
帛紗包大方取に來るで有うと思ひ今日迄
待て居しにヤレ/\
嬉しやと
涙を流しながら
正面に向ひ右の
帛紗包を
落したるは此者なりと申立るに大岡殿其者に向はれ汝は此帛紗包を
室町三丁目番小屋の前に
忘れ置たる由
汝が
盜だか但しは
同類の手から請取たかと
糺さるゝに盜賊は
空嘯いて一向存じ申さず殊に
那者は見た事もなき人なりと云九助は大いに
急立全く
那者が
草鞋を買に參りしと申せしは
僞り今は何を
隱しませう去年
夜廻りの節金八十兩拾ひたるを此程御番所より
戴きし其夜此者が參り斯々申て其金を持歸りし後に其
帛紗包が落て有しと申に夫は此金かと
財布の
儘投出さるゝを九助は見て是で御座りますと申にぞ越前守殿
點頭れ
[#「點頭れ」は底本では「頭點かれ」]九助
汝は
餘り
正直過る此上我が金だと云者有ば
公儀へ訴にて渡せ
決て
相對で渡すなハテサテ正直な奴も有ばあるもの御用
相濟だぞ
連歸れと有ければ町役人共九助を連て歸りけり
斯て九助は五ヶ年の間
辛抱をなし殊に
今度奉行所より
賜りし金を合すれば百六七十兩の金子にも成しゆゑ
古郷へ
歸豫ての望みの如く
先祖の跡を立んと出立の
支度して
伯父始めへの
土産物を
種々整へ江戸錦繪淺草海苔
館林團扇其外
田舍相應の品々を
買求め
荷造りをして町内の
飛脚屋十七屋より先へ
廻し夫より
名主家主
町代は申に及ばず
懇意の先々へ
暇乞に參りしに何れも
餞別をぞ呉れしかば
稍二百兩近くの金を
胴卷へ入古郷を
指て旅立ちしが先
阿部川へ立寄先年のお
兆を尋ねけるに二三年以前
相果娘お節は
親類へ引取れし由
故偖々變り果たる浮世かなと
呟きながら
鞠子の
宿も
越宇都谷
峠に
懸りしに
蔦の
細道時雨來て心
細くも
現にも夢にも人に逢ぬ
日と
辿り/\て岡部より
早藤枝に來りし頃
跡になり先になり
怪し
氣なる者二三人付
添來れば
故譯と
相良街道へは
這入ず既に瀬戸川迄來りし時日は
西山に
沈しかば
惡漢共兩人
前後より引
挾み御旅人
酒代を貰ひ度と云に九助は
種々と云譯をすれ共兩人の
惡漢更に聞入ず
直と立寄て左右より手を
引張し故今は是非なく
盜賊々々人殺々々と
呼叫ぶに向ふより
正面に島田講中と
書水の
[#「書水の」は底本では「書水の」]丸の合
印の
[#「合印の」は底本では「合印の」]小田原
提灯を
提半
合羽の穴より
鮫鞘の大脇差を顯はし
水晶の
長總の
珠數を首に懸し一
個の男
來懸りしが此
容子を見るより物をも云ず忽ち一人の盜賊の
腕首掴んで瀬戸川へ
眞逆まに投込ば
生死は知れず成にけり後に殘りし惡漢
共我等が仕事の
邪魔爲るなと兩人
等しく
飛掛るを彼男は
引捕へ汝等は往來に
網を張旅人の
懷中胴亂に目を掛けて
追剥強盜を爲んとする
命知らずめ己を
誰とか思ふ東海道五十三次
音に聞えて隱れのない
題目講の
講頭水田屋藤八を見忘れたか汝等能く聞け
身延山の
會式戻り罪作りとは思へども見るに忍びぬ此場の
時宜命は
暫時助け船七十五里の
遠江灘天窓の水先押
曲て尻を十
分卷り
帆に早く
湊へ
逃込て命ばかりの掛り船ドリヤ
梶を
採ふかヱイと二人を左右へ一度に投付れば
惡漢共は
天窓を抱へ雲を
霞と逃失けり藤八は後見送りおつなせりふの
機會からヤア逃るは/\時に御旅人
怪我は無かと九助を
勞り介抱なし先々今宵は私が
宅へ御泊り成いと夫より九助を同道して藤八は我が家へ來り
門口よりサア御客だ御湯を取れと亭主の聲に家内の者は
立出てソリヤ旦那樣が
御歸と云つゝ一
同出迎を藤八は是々途中から御客を連て來たと云
中に十六七の娘
甲斐々々敷盥に湯を取て
持來り御洗ひ成れましと顏を見るより彼の娘はヤアお前は水呑村の九助樣と
吃驚すれば九助も驚き
然樣云
此方は阿部川のお節殿と
早々足を洗ふ
中娘は藤八に向ひ旦那樣此お方は先年
御恩を請た御人で御座りますと聞て藤八も驚き
然れば豫て話の九助殿人を助けたれば又
助けらるゝアヽ
陰徳あれば
陽報ありとはテモ不思議と是より座敷に
到り互に
一伍一什の物語りをなし九助殿
明日は私が送つて
進度が
據ころない用事が有る故參る事は出來ず去りながら又途中にて
何樣な事が有まいものでもなし然る時は百日の
説法屁一ツとやらなれば金子などは先私に預けて
明後日頃村方の親類衆でも
遣はさるゝか又
確乎な使をお
立成れよ其時の
證據には幸ひ
御延の
貫主樣に
曼陀羅の裏書を願つて書て頂いた是は私が
骸にも
替られぬ大切の品なれどお前に渡すサア金と引替に致さんと藤八が
深切に九助も
安堵し百八十兩の金を
預置何角と
懇切に禮を延べ又家内へも
聊か心付などして藤八方を翌日
辰刻頃出立古郷水呑村へぞ歸りける
土産物は
飛脚にて先へ送りし事故
[#「送りし事故」は底本では「送り事し故」]伯父九郎兵衞女房お里も待居たる處なれば皆々
出迎ひ悦び
合に九助は其足にて
名主惣左衞門是は先年病死して
悴惣内當時名主役
勤め居るゆゑ同人方へ參り其外
組頭左治衞門
周藏始め村中一同へ廻り歸村の旨申聞ける故先方よりも皆々大勢
悦びに來り中にも九郎兵衞は江戸の
首尾を聞ゆゑ九助も段々始終の話より歸り掛けの道中にて
斯樣々々島田
宿の水田屋が
情曼陀羅の話等を爲し明日は金を請取に參るとて十界の曼陀羅を
佛壇へ上置其夜は九助も
旅勞れゆゑ前後も知らず休みしが翌朝
佛壇を見れば日蓮上人
直筆十界の曼陀羅見えざるにより家内は
大騷ぎとなりて直樣菩提所
不動院を招き
卜筮を頼みけるに此は色情より事起りて盜人は家内にあり
女成べし後には
公事出入にも成ん隨分身を
愼まれよと云て歸りしが此時
土地の醫師高田
玄伯通り掛しをも呼込み又々
占考を頼みけるに
錢六文を並べて
占ひ此盜賊は男で御座ると云ながら
歸去けるにぞ九助は種々と工夫し其儘四里廿一丁を一
息に飛が如く水田屋へ到り息を
繼々紛失の話をなしければ藤八は先
此方へと云まゝ九助は座敷へ通りけるに
正面に十界の曼陀羅を
飾り左右に
燈明香花を備へ有しかば是はと驚き問に藤八は
然ればなり今朝御親類の周藏と云る人此
曼陀羅と引替に金は持參致されしと聞てそれは老人で御座るかと云ふに藤八
否皆未
若い御人其外に
喜平治にも
[#「喜平治にも」は底本では「喜平治もに」]來られしと語るに九助夫は皆
年齡が違ひますと聞藤八ハヽア
成程違ふ筈だ跡で此方にも少し
胡亂の儀思ひ當る事も御座れば
私が明日參つて吟味致さんにより村中の者を御
招あれと申故左樣なら御苦勞ながら
斯樣々々に致して招き置ん程に
何分御頼み申と約束して立歸り九助は
伯父に向ひ
折惡敷先方が
留守にて
分らざれども
久々家内の者村中の世話になりし事ゆゑ名主組頭
親類を始め招いて
濁酒でも
飮せ
度と相談の上人を廻し支度をして待うち翌日に成しかば名主
鵜川惣内後家お深組頭周藏佐治右衞門
傳兵衞木祖兵衞親類には千右衞門喜平治
金助大八丈右衞門兩
隣の善右衞門
孫四郎辰六
角右衞門其
外多人數入來り九郎兵衞八右衞門
久七八内忠七六之助などは
分家故皆々勝手働き先代が
取立し百姓三五郎辰八等は水を
汲米を
炊ぎ村方大半
呼寄ての
大饗應故村の
鎭守諏訪大明神の
神主高原備前并びに醫師
玄伯等を上座に居て料理の
種々は
興津鯛の
吸物鰯に
相良布の
奴茹の大
鮃濱燒鰌の
鼈
などにて
酒宴を始め
一順[#ルビの「ひとゝほり」は底本では「ひとほり」]盃盞も廻りしかば九助は
密と座を立裏口へ出て待處に水田屋藤八
密に來りければ
此方の小座敷へ案内なし三五郎を
相手に
差置伯父九郎兵衞の前は
道連の人が尋ねて參りしと申
置しに藤八は
軈て酒宴の席を
覗き見れば二ツ
髷の後家の
側に居る
巴の
紋付たる黒の羽織を着せし者と其
傍に居る
花色の
布子を
着酌をして居る兩人なりと云に
那れは當時の名主
惣内今一人は名主の手代
源藏と云者なり扨々
憎き奴かな今に目に物見せて呉んと云つゝ
何喰ぬ顏色にて九助は座敷へ出今日皆々樣を御
呼立申せども是と云
興もなく候へば只々御
氣根に御
上り下されよと云に周藏は取
敢ず此周藏佐治右衞門を始め神主樣御醫師樣
親方の後家樣其外
皆々十分に
下されたサア/\勝手の
手傳衆大勢ぢや御
亭主も一ツ御
上り成れと
猪口を
指ば傳兵衞も又
進み
出九助殿此傳兵衞も今は
隱居しましたが
先親方九郎右衞門殿の頃より懇意とは申ながら當年八十一歳で御座る
否サ
化も致さぬが何と九助殿江戸も私が若い時とは
違ひ
日に
増月に
増繁昌で御座らう何と
珍らしい事はないかなと云ふ
機に九助は
膝を進め
別段何も珍らしき事も御座らぬが
差當り
不思議と申は私が江戸表にて千
辛萬苦して
貯へた金子が一昨夜
紛失致[#ルビの「いたし」は底本では「いた」]ました其譯は定めし皆々樣も御
聞成れたで御座らうが其金子は
島田宿の水田屋へ預け置右の代りに持て參りし
證據の
日蓮樣の
直筆の
曼陀羅一昨夜
中に私が所で
紛失し誠に五年の辛苦は水の
泡と成ましたと語るに一座の者共夫は
何か
詮議の
爲樣は無事哉と云ば九助はイヱ夫に就て御話が御座ります
天道と云者は
爭はれぬもので
正直の
頭を照らし給ふ故其盜人が知ましたと云を
聞惣内
親子はハツと
面を赤らめしを
組頭の佐治右衞門は氣も
付ず進み出夫は他國の
盜人か村内の者か
憎き奴なり
早々吟味さつしやれと
張肱を爲に九助はイエサ
外々でも御座りません
那のと惣内の
面を見れば惣内
顏を
背けるを思ひ切て茲に御座る
名主樣ハイ惣内殿シテ同類は
手代物書の源藏と
語るを聞より名主の
後家お深は
急立ナニ九助殿
貴樣は親類と
云念頃の
中年
若でも惣内は村役も致す者
滿座の中での
泥坊呼はり
酒興と云ては
濟ませぬと
詰寄るを九助は
微笑私は氣違ひでもなく酒亂でもなければ
證據の
無事は申しません
曼陀羅を
盜み取り島田宿の中町水田屋藤八方へ參られて九助が親類周藏と
僞られしは惣内殿喜平次と
騙りしは源藏右兩人曼陀羅を證據に百八十兩を
騙り取と云を源藏は
嗚呼是此源藏を盜人とは大それた何を證據にと目に
角立れば惣内
膝立直し名主役の惣内を盜人などとは
言語同斷なり九助品に依り
筋に因ては
了簡成難しと聞
皆々四方より九助を取
卷たり
是を
機に九郎兵衞は此方より
飛で出九助の
髻りを
掴み取て
捻伏齒を
喰切拳を
固めて
散々に叩き
居汝れは
太い
奴江戸へ出て金を
貯親父が
質田を
取返すの又は百八十兩
貯へたの貰つたのと
虚言八百を
吹散し其實一文なしで家へのたり
込其上名主殿を始め源藏までを
盜賊呼はり
組頭衆や
年寄衆へ此
伯父が何の
面向が成ものか
盜人猛々敷とは汝が事なり兄九郎右衞門殿の
位牌へ對して此九郎兵衞が云
譯立ぬ汝が親九郎右衞門に
成代り此伯父が勘當する出て
失ろと猶も
打擲なす處へ
暫く/\と
聲懸一間より
直と出るや
否や九郎兵衞を取て
突退け名主手代を左右へ
押分て
動乎と
居りし男を見れば下に
結城紬の小袖二ツ上は
紺紬に二ツ
井桁の
紋所付し小袖を着五本手縞の
半合羽を
羽折鮫鞘の大脇差を手に持たり是別人ならず島田宿の旅籠屋水田屋藤八成ば別て惣内源藏の兩人は
愕然としたる樣子にて
俯向居るに藤八は一同へ向ひ茲な名主惣内殿并に手代の源藏兩人
盜賊と見たは違ひなしコレ名主手代の
衆昨日の
朝此九助殿の親類周藏嘉平次と
云て確な
證據日蓮樣の
曼陀羅を持參なし引
替にして百八十兩の金を能も
騙り取れたなイヤサ東海道五十三
次品川から
大津まで名を賣て居る此水田屋藤八を能も
誑し
騙つたなサア此上は
相良の役所へ
拘引出し
面の皮を
剥て
遣らなければ此藤八の蟲が
落付ぬ未だ此上にも爭はゞ
片端から覺悟をしろと
大音に
罵られし惣内源藏の兩人は今更何とも言葉なく穴へも
入たき樣子なり
然どもお
深九郎兵衞は
双方より進出コレ此方は藤八殿とやら千五百石の
束もする庄屋役を
如何に
年若なればとて盜賊
呼はりは何事ぞ是には
確な證據でも有ての事か是サ組頭
默言て御座つては
濟ますまいと
怒り立れば組頭の周藏傳兵衞も
呆れ居しが漸々進み出コレ藤八殿餘り
大きな聲をさつしやるな
小聲でも
解ります先當時の
役頭を盜賊
呼り
確な證據なくては云れぬ事
段々聞に九助が親類と
私等が名をも
騙られては
猶以て
迷惑至極と云
傍より嘉平次も
然樣々々我等は百姓
代も致す者
殊に
組頭と申て名を
騙り
眞間と
欺て
御在つたりと云を藤八
如何にも是を御覽じろと一通の書付を
出し其節證據の曼陀羅を取替行るゝ事故請取も
糸瓜も入ぬ譯なれど深切づくの
預り物
生若い衆の御出に付
念の爲
取ずとも
宜い請取までサア御覽じろと差出すを各々取上げ
披き見るに
一金百八十兩也
右九助よりの預け金
確に
請取申候
處實正なり後日の
爲請取證仍て如件
水呑村九助親類
喜平次 印
水田屋藤八樣
周藏喜平次始め一同此請取を見て此
手跡は源藏なり周藏が
印形は
名主惣内殿の印形喜平次のは源藏が
判是は如何にと周藏はお深に對ひコレお深殿此通りだが
未若い
年をして周藏や喜平次が名を
騙るとはハテ
大盜賊と惣内を
睨めば
後家お深は
堪へず悴惣内を押伏せ
打擲なせば源藏は堪り兼逃出す所を九助が親より召使ひの三五郎飛で出
突然襟髮掴んで
捻倒しコリヤヽイ源藏汝は
能も/\己が旦那を馬鹿にしたな
汝は水呑村の水呑百姓なりしを
先旦那の御蔭にて一人前の百姓に取立られたる其
恩儀を忘れ
盜人に同意爲す爰な
畜生めと云聲聞て勝手に働き居りし若い者又は九助が
家附の親類小前の
輩ら十二三人
襷懸にて面々飛出し
彌々大騷ぎとなりし故藤八は兩手を
上げ是々皆なの
衆先々靜にせられよ此れ處か
未々お
負がある是を惣内殿
貴方覺えが有うなと
投出す
姫路革の三徳を見て惣内はヤア是はと云を藤八はオヽ
吃驚する
筈貴方が歸つた其跡に落して置た此三徳中は六
韜三略の卷ドリヤ/\讀で聞せやう皆の
衆膽を
潰さずにマア落付て聞給へダガ九郎兵衞殿
此方の娘も偖々
枇杷葉湯誰にも
渠にも大振舞情の深い人さんぢや
而又庄屋の
後家樣よ此方の
息子も
物喰宜何を喰ても
中るめへサア聞なせへ/\
一筆申上參せ候扨々思ひ掛なく九印出拔に歸國致し途方に暮參せ候豫々夫婦になり度祈居候へども此の後は寛々御げんもじも心元なく存參せ候
藤八サア聞なせへ是が
序開き是からが追々魂丹だと一調子張上て
此上は當處を立退き鳥棲ぬ山の奧虎臥す野邊も厭ひなく御連添下され度夫のみ念じ上參らせ候右に付九助事江戸にて百八十兩貯へたる金子島田宿中町の旅籠屋にて水田屋藤八と申方へ預け置割符の曼陀羅持歸り申候
藤八
何だ村の
衆膽が
芋にも
化さうなもので御座らうサア/\茲が
肝腎だ
其曼陀羅を持參致せば誰にても右の金子を引替に渡し候由承まはり候まゝ竊に其曼陀羅を其方樣へ御渡し申候間金子首尾能御請取下され度金子さへ有ば何國の浦にても心の儘と存候へば一時も早く立退度夫のみ祈り居參せ候猶委細の事は源藏殿より御聞下さるべく候何も心急れ候へば先は荒々申上參せ候めで度かしく[#「かしく」は崩し字]
さ 印 より
惣樣へ
と
讀了り藤八サア是でも
汝等は爭ふかと云れて九郎兵衞は今更面目なさに娘お里を引据此猥婬者めと人前
繕ふ
打擲に
後家のお深も猶惣内を打
据る故一同見ても居られず
組頭周藏佐治右衞門傳兵衞
木祖兵衞長百姓喜平次善右衞門
[#「善右衞門」は底本では「喜右衞門」]神主備前醫師玄伯等
各自中に
立入先双方共に預りて此日は皆々引取しがお里は組頭周藏へ預け其夜
猶又周藏方へ惣内始め寄合て心得違ひの趣きに
扱ひを入れ百八十兩の金子を殘らず
戻しければ九助はお里を是迄の縁と
斷念殊に伯父の娘なれば
嚴しき事も成難しと千
辛萬
苦して
貯たる金の中を五十兩
分與へ
離縁なせしかば村中の者共も又中に立入
双方和談の上お里を惣内の女房とし續て伯父の九郎兵衞も惣内方へ
介抱人に
這入お深と夫婦になりて
消光居たり其後九助は親九郎右衞門が質に入置たる田地を請戻し
譜代の
召使三五郎を
鍬頭として元の如くに家を起しければ家付きの親類周藏喜平次を始
感心なし
獨身にては
不自由ならんと
島田宿の水田屋へ到りて種々相談の上
姪のお節を
貰ひ度由を云入ければ藤八も一
同の
深切を感じ喜びお節を己が
養女として
支度も立派に調へ水呑村九助方へぞ送りける茲に又惣内は九郎兵衞に
惡智慧を加れ村中の
山林を
賣或ひは
質入などにせし事
顯れければ村方小前一
統百五十軒
集合して惣内が
不埓の
筋を
算へ
立那樣成名主は役に立ずと
連判を以て組頭へ差出せしに
依組頭共
種々宥め扱ひけれども
勿々一同
承知せざれば
止を得ず
領主役場へ申立て惣内は名主
役取
上られたり扨又惣百姓
連印を以て九助は親の跡故是非跡役仰付らるゝ樣にと本多長門守殿郡奉行へ
願書を差出しければ願ひの通り川口九助へ名主申付られ村方の者喜び睦しく暮しけり
茲に又
駿府の
加番衆松平玄蕃頭殿の
家來に石川安五郎と云ふ
若侍士ありしが駿府二丁目の小松屋の
抱へ遊女
白妙が
許へ通ひ互ひに深くなるに付
廓の金には
迫るの習ひ後には
揚代金も
滯ほり
娼妓が
櫛笄衣類までも
無しての立引に
毎晩通ひ居たりしが
早晩二階を
謝斷しが
煩惱の犬に
追れ
猶懲ずまに忍び通ひける
中或夜若い者共の目に
懸り
引捕へられ
桶伏にぞせられける是は
据風呂桶を
伏其上へ大いなる石を
上鐵砲を
引拔其穴より
僅に食物を入るのみ其樣彼の
軍鷄籠を伏たる如くなり
古昔廓と
唱へ
大門御免の場所には之ありしとなり然ば
白妙は大いに
歎きしが或日
饅頭二ツを紙に包み
禿躑躅を
密と
招き是を
桶の
穴より入れさするに安五郎
忝けなしと何心なく
饅頭を二ツに
割に中に
少さく
疊し紙ありければ
不審に思ひ
披き見るに
今宵子刻頃廓を立退候積り委細は大門番重五郎が情にてお前樣は柴屋町へ[#「柴屋町へ」はママ]先へ御出なされお待合はせ下さるべし何事も御げんもじの節と申殘し參らせ候かしく
と
認めて
有故安五郎は此兩三日
桶伏の
恥辱に
逢無念至極に思ひ
晝夜寢もやらず居る處成ば文を見て扨は重五郎
日頃我に
辛く當りしは
却て
情有し事かと
龍門の
鯉天へ
昇り
無間地獄の
苦痛の中へ
彌陀如來の
御來迎ありて助を得たる心地して大いに悦び今や
時刻と待居たりしが心の
緩よりとろ/\と
睡眠中雷の落たる如き物音に夢は
破れて
四邊を見れば
晴渡りたる北斗の
光晃々として
襟元へ落る
木滴に心付見れば
桶は
側に打返して有しにぞ
彌々不審に思ひ
彼方此方と見廻す中彼の重五郎は柳の
小蔭より
衝と立出小聲にてアヽ
若安五郎樣私は
白妙樣には
遁れぬ縁の有者此の處にての
長談は無益なり少しも早く
鞠子の奧の
柴屋寺へ御出成れて御待あれ
委細は白妙樣から御
話有ん私しも後より
花魁の供をして
追着ます早う/\と云ければ安五郎はオヽ何も云ぬ重五郎殿
忝けないと空を
霞に
遁れ出
頓て阿部川を
打越て柴屋寺へと
急ける(柴屋寺と言は柴屋宗長が
庵室にして今
猶在と)既に其夜も
子刻の
拍子木諸倶家々の
軒行燈も早引て
廓の中も
寂寞と
往來の人も
稀なれば
時刻も丁度
吉野屋の
裏口脱て
傾城白妙名に
裏表の
墨染の衣を
假の隱れ
簑頭巾の上に
網代笠深くも忍ぶ大門口
相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、710-18]の
咳に重五郎其所へ御座るは
花魁かと言れて白妙
回顧オヽ重さんか安さんはへ其安さんは
最疾に
鞠子へ行て待てゞ在ば
暫時も早くと
打連立彌勒町を
後とになし渡り求むる阿部川の此方の岸へ
着船へ
飛乘る
機會に
後からヤレ
待居らう重五郎と
追駈來るは別人ならず
江尻の宿の
落破戸儀右衞門と
[#「儀右衞門と」はママ]云男なり
最も白妙が
馴染客にて是迄多くの金銀を遣ひ手にも入ず白妙を今失ひては
口惜しと
追駈來り
逃亡者を渡せばよし萬一渡さずば汝れ迄刀の
錆にして遣ると氷の如き一刀
引拔終に重五郎を
切殺し心
急たる其餘り
煙草入を落せしを氣も付ず
跡晦まして
逃去りけり其
隙に船は向うへ着しかば白妙は急ぎ船より上りて柴屋寺へ馳來り安五郎に
逢今何者か追來たり斯々なりと物語り何分此所は危ふしと云にぞ安五郎も打驚き然らば早々
落延んと白妙の手を取此所を立出て島田宿なる水田屋藤八方へ到り豫て
侠氣の事を聞及べば是迄の始末を語り當分我等兩人を
匿ひ呉る樣にと
只管頼みけるに男を
磨く藤八ゆゑ
早速承知はなしけれども當所は
街道端[#ルビの「かいだうはた」は底本では「かいだうばこ」]にて人の目にも付易し幸ひ
相良領の水呑村にて九助と云ふは我等が親類なれば同所へ行て居られよ其中には二丁町の
[#「二丁町の」は底本では「二十町の」]方は片を付て進ぜますと受合九助への
手紙を
書て渡せば二人は
悦び
厚く禮を述て直樣水呑村へと立出けり爰に水呑村の鵜川惣内は名主
退役の後
彌々村中の
氣請惡く
加之九助の金の一件より盜賊の
惡名は
消ず身代は日に増に
傾きけるが是に引かへ九助方は
益々繁昌なすを見るに付聞に付口惜さ限りなく何事か
有かしと窺ひ居たりし中金谷村に
大法會ありて
續合の事故九助惣助九郎兵衞お里等も其席へ到りしに此時九助は
混雜の
紛れに
紙入を忘れて
小便に立しを惣内九郎兵衞は
面を見合せ
點頭ながら
竊其紙入を取
隱し法事も濟し後
何喰ぬ顏にて其場を立
去途中へ出て彼の紙入を改め見るに金五兩二分と島田宿の水田屋藤八より九助へ送りし手紙あり是は何かの種に成んと九郎兵衞は
懷中なし五兩二分の金を得たれば
久々にて一
杯飮ふと
或料理屋に
立入九郎兵衞惣内夫婦三人
車座になり
獻つ
酬つ
數刻酌交せしが
良夜も
戌刻過漸く此家を立出九郎兵衞は殊の外の
酒機嫌にて
踉々蹌々とし乍ら
下伊呂村の
外れへ
來掛りし頃は
早亥刻に近くて
宵闇なれば足元も
暗くお里は大いに
草臥しと河原の石に
腰を掛るに九郎兵衞惣内も同く石に
腰を
掛火打道具を取出し
煙草くゆらせ居たりしが九郎兵衞は
彌々醉が廻り
頻にほく/\
居眠に
終に其所へ
正體もなく
打臥たり依て惣内お里は夫に
當惑なし何か
醉の
醒る藥はなきやと考へしに惣内は
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、712-1]心付此宿外れに藥種屋有ば夜中ながらも
呼起して早々藥を求め來らんお里は其
中九郎兵衞殿を
介抱せよと言置て尻引からげ
馳行けり
然なきだに
白晝さへ人通りなき相良の
裏道殊に夜中なれば人里遠く
麥搗歌鳥の
宵鳴遙かに聞え前は名に
負大井川
海道一の早瀬にて
蛇籠を洗ふ波の音は狼みの
遠吼と
倶に
物凄くお里は
頻りに氣を
揉ども九郎兵衞は前後も知らず
高鼾折から川の向よりザブ/\と水を
分此方へ來る者ある故お里は是を
透し見るに
生憎曇りて
黒白も分ず
怖々ながら
蹲踞居れば
件の者は河原へ
上り
背より一人の女を下しコレ聞よ
逃亡者と昨日から
付纒ひつゝやう/\と此所へ
引摺り
込までは大に
骨を折せたぞサア是からは
汝が身を
彌勒町なる吉野屋へ
拘引て行て渡さうかそれより
直に濱松へ賣て
呉るが
早道だイヤ/\
歩行と引立るに女は
涙聲震はせ私は其樣な者ではない二世
迄掛し夫の有身金が
欲くば此
邊に知る人あれば其家まで行たる上は
幾干でも
望みの通り上ます程に何卒
免して/\と詫るを何だ
喧しい
贅言云ずと此
己を叔父だと
云せば
濟事だと
罵る聲の耳に
入九郎兵衞は不※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、712-10]目を
覺し猶も樣子を
打聞に
詫る一人の女の聲扨は我今
眠りし中
惡物共がお里を
捕へ
勾引さんとなす事ぞと寢ぼけ眼に立上り
汝曲者遁さじと聲を知るべに打掛れば彼の
曲者は驚きながら見付られては後日の
妨げムヽと
點頭傍邊に落し松の
小枝を取より早くオヽ
合點と受止つゝ
強氣無慚に打合に年は寄ても
我慢の九郎兵衞茲に
專途と戰へども
血氣盛んの曲者に
薙立られて
堪得ず流石の九郎兵衞
蹣々と
蹌く處を
滅多打無念々々と
跡退り既に斯よと見えける處へ惣内は
息切と引返し來り
爭ふ聲を聞や
否ヤア
叔父樣か惣内か此奴はお里を
追駈し
盜賊なるぞと
呼はるに惣内心得
脇差を拔より早く切付れば
流石不敵の曲者も二人が太刀先に
恊ひ難く河原の方へ
逃行しが以前の女の
彷徨[#「彷徨」は底本では「彷彿」]居たるを其儘に引抱へ又
駈出せば九郎兵衞は遣らじと後より
飛掛れば
忌々敷やと惡漢は女を
撞と投出す
機會に切込九郎兵衞が
刄に
叫と一聲
叫び女の體は二ツになり
無慚の最期に惣内はお里と心得心も
空汝女房の
敵めと追詰々々切
結び九郎兵衞
諸共曲者を
終に其場へ切
伏たり斯て兩人はホツと一
息吐處へお里も
遁て
駈來り其所に御
在は父樣かといふ聲
聞てオヽお里か能マア無事でと親子三人
怪我のないのを悦び合中
遠山影に差
昇る月の明りに
透し見て然すれば此等の者共はと男女の死骸に
當惑する色を見てとり九郎兵衞は
其方兩人は
豫てより
望の如く江戸へ
行充分金を
貯るがよい己も其中後より行んと彼の兩人の着類を
剥取惣内お里へ
着替させ跡の始末は斯々と耳に口
寄囁きつゝ
暫時も
疾く立去れと指揮に
點頭夫婦の者は
先刻盜し九助の金の遣ひ殘りを受取て親父樣無事でと打分れ江戸の方へぞ急ぎける斯て九郎兵衞は二人の
首を切落し
傍邊に小高き
岳の有しかば
小松の根を
掘て
埋め又死骸の傍邊へは彼盜し
紙入を落し置是で
好迚翌朝
領主の役場へ出惣内夫婦昨夜
大井河原下伊呂村にて切殺され
罷在由人の知せにより
早速馳付見屆候處全く同人夫婦に相違無之其傍邊に九助の紙入
落之有により同人所
業と存じ候旨訴へに及びけり
茲に又九助の女房お節は
今年は
實母の七
回忌にも當るに付上
新田村
無量庵の
住職大源和尚と申は
善知識にて人の
尊敬も大方ならずと承まはれば是へ
布施を上て
回向を願ひ度と夫九助へ頼みければ九助も其孝心を感じて今金谷村より歸りし
草臥足をも
厭はず再び白米五升と
鳥目二
貫文を自身に
背負行大
源和尚へ回向を頼みしかば和尚も其
志操を感じ
懇切に
供養をなして後九助の額を
熟々と見
貴殿は大なる
厄難あり是は
遁れ難きにより
隨分愼みを第一に致されよと申を聞て九助は大に驚き
立歸りしが途中下
伊呂村の
堤にて一人の武士に出
逢たり武士は
小腰を
屈め
若斯樣々々の女に
逢給はずやと
問掛られ九助は一向見掛ぬ旨
答へれば彼者又水呑村に九助殿と申人が御座るかと
聞故ハイ其九助は私しで御座ると云に夫は
幸い某しは松平
玄蕃守家來石川安五郎と申者樣子有て今御
尋申處なりと
懷中より
書簡を出して渡し何れ妻を尋ね出して後其方へ
參らんにより其節はよきに頼むと
約しつゝ安五郎は又々後の方へ
引返しける九助は彼の手紙を見れば島田宿の藤八よりの
名宛なれば
披き見るに安五郎
白妙の兩人を
匿まひ
呉よとの頼み故其儘懷中なし夜に入しかば急ぎ歸る河原にや何やら
跌きしが
死骸とも氣が付ず行過たり彼の安五郎は九助に
分れ妻の行方を尋る中
彌生の空も十九日
子待の月の
稍出て
朧ながらに差かゝる
堤の
柳戰々と
吹亂れしも物
寂寞水音高き大井川の此方の
岡へ來
掛るに何やらん二
疋の犬が
爭ひ居しが安五郎を見ると
齊しく
咥へし物を取
落し何所ともなく
逃行けり安五郎は彼の
品を何やらんと立寄見れば女の生首に犬の齒形の殘りて居れば驚きながら
猶よく/\見るに
見違方なき
白妙が首故ヤヽ是はと
吃驚なし首を
抱上げ
胡鷺々々聲コリヤ白妙
何いふ事で此有樣何者の所業ぞや何國に
影を隱すとも此
讐を討ずに置べきやと血眼になりて
怒れども歎くに甲斐なき此場の
時宜實に
哀れを
止めける
時に後ろの方に當り
生者必滅會者定離嗚呼皆是
前世の
因縁果報南無阿彌陀佛と唱ふる聲に安五郎は
振返り見れば
墨染の衣に
木綿の
頭巾を
肩まで掛け杖に縋りし一人の道人なりしにぞ安五郎は
側に立寄
貴僧は何所の御出家なるか知らねども是なるは
某しの妻にて候が如何なる前世の
因縁にや今日
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、714-8]らずも何者にか首を切られ
胴さへ見えぬ此
形容何卒御情に御
弔ひ下され度と涙ながらに頼みければ出家は
點頭其は心
易き事かな
早々生死の
迷ひを離れて
涅槃の道に引導すべければ是より我が
庵に參られよとて夫より上新田村の無量庵へ
同伴なし
懇切に弔ひければ安五郎は
厚く禮を
述其身は
故郷へ
赴く由申
暇乞して立出たり扨又郡奉行松本理左衞門方にては九郎兵衞の訴により九助を
早々召捕べしと下
役手代黒崎又左衞門市田武助の兩人に申付て
手先の者を召
連九郎兵衞の
案内にて九助方へ
踏込來り上意と
聲掛忽ち九助を高手小手に
縛めければ九助は
膽を
潰し是は何事なりやと云けるを役人は
發打と
睨み何事とは
白々し其方昨夜大井河原下伊呂村の
辨天堂の前にて
先名主惣内夫婦を
切殺[#ルビの「きりころ」は底本では「きりころし」]したる
段九郎兵衞が
注進に因て
明白なれば則ち
召捕なりと云ければ九助は
彌々驚て此九助人などを
殺しましたる
覺えは決して御座なく是は定めし人
違ひならんと
種々言解ける
側より女房お節も
取縋り九助は
勿々人殺しなど致す者では御座りませぬ何卒御
堪忍成れて下されと
倶々に
泣詫る斯る處へ
譜代の三五郎も
馳來り其所へ
平伏御役人樣九助儀は
勿々人など殺す樣な者では御座りませぬと
右左より取付
詫るを役人は其方共の存じたる事に非ずと取て
突退け九助を引立る故九助は是非なき事と
諦めお節三五郎の兩人に對ひ必ずともに
騷ぐに及ばず我が身に覺えなき事なれば御役人樣の前で申
解をなし今に
戻ると宥めるを
下役共は
贅言云せず引立よと
遠慮會釋もあら/\しく
足輕に
繩を取せ
相良の城下へ引立行き郡奉行役所の
白洲へ引出したり此時上座には
松本理左衞門下役手代左右に
並び理左衞門
發打と
睨みコリヤ九助
汝が伯父九郎兵衞の訴へに依ば其方儀昨夜下伊呂村に於て惣内夫婦を
斬殺し後日に知ざる樣
首を切落し取
隱し置たる由
有體に白状せよと云ければ九助は首を
上全く以て然樣の
覺え御座なく
元來惣内夫婦に意趣もなければ殺す道理がと
半分云せず理左衞門は大聲に
默止愚人め今朝
檢使吟味の
節死骸の
傍邊に汝が鼻紙入の落てありしのみならず其紙入の中には
島田屋の
[#「島田屋の」はママ」]藤八方より汝へ
送りたる手紙も
有殊に汝の衣服の
裾に血の付たるを女房に洗はせ
庭へ
干て置たと有是等が
確かな
證據なり然れども
未だ爭ふか
不屆者めと言れて九助は
彌々呆れ果私しの紙入は昨日
金谷村
法事の場所にて
紛失なし又衣類のすそへ血の付は金谷村の法事より歸りて後再び上新田村の
無量庵へ相越し妻が
實母の
回向を頼み夫より戻りの
途中大井村の河原にて宵闇の
暗紛れに
躓きしにて
生醉の寢て居し事と存じ其儘罷歸り今朝見ればすそは血だらけ故
始て驚きまして御座ると云に理左衞門
其は
胡論なる申條言解
暗いぞ茲を何處と心得て然樣な前後揃ぬ儀を申す全く汝が殺したに相違有まいサア
明白に申せ云ぬに於は
膝を
挫ぎ石を
抱せても云するぞと
威猛高に叱り付けれども九助は決して僞りは申上ませぬと云を理左衞門は
少しも聞入ず追々吟味致さんが先今日は
入牢申付るとて此日は調もなかりける扨も九郎兵衞は早く九助を殺して己が
科を遁れんと思ひ
田地を
質入れなし
漸々金を拵へて郡奉行松本理左衞門を始め手代四人へ
賄賂を
遣しけるに下役の
黒崎又左衞門は
異儀なく承知なし又々願上の
手續を内々
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、715-16]しければ九郎兵衞は渡りに舟と再び
願書を差出せしゆゑ翌日差紙にて九郎兵衞夫婦並に村役人付
添出る處に九助も
牢より繩付にて引出され又前日の如く
嚴しく
責問けるに九助は夢さら覺えなき事故是は餘の者の
仕業に相違之なしと申立れ共理左衞門ナニ惣内夫婦に
遺恨はないと申せども遺恨ありしに違ひないソレ九郎兵衞が願書を
讀聞せいとて是を讀むに
一水呑村先名主惣内後見九郎兵衞并に妻深申上奉つり候當名主九助と申者は私共の甥に御座候處數年困窮に付家内相談の上江戸表に奉公稼ぎに罷出候右留守中は私共并に九助妻里のみ取續も相成兼候故右惣内方より時々合力受漸くに取續罷在候處五ヶ年目に九助歸村仕つり留守中妻里惣内と不義致候と申立惡名相付私し共親子を追出し候故私し儀惣内方後見も致し居候間介抱人に相成娘儀は惣内妻に致させ候然る處九助儀は江戸表より同道仕つり候哉又は途中より連參り候哉節と申女を引入直樣後妻に仕つり候全く此節を妻に致べく了簡にて私し共親子に惡名を付追出し候儀と存じ奉つり候其後右九助多分の金子にて質地取戻し其上新たに田地買請當時名主役仕つり候へ共私欲押領宜しからざる儀共多く有之に付惣内歸役願ひも致させ度小前の百姓共時々寄合も有之由之に依て其等の儀を無念に存じ當九助夜惣内夫婦金谷村よりの歸を待受切害致し首は切捨取隱し候へ共兩人とも衣類に覺え之ある而已ならず悴共の事故手足骸等にも覺え之あり相違なき儀に御座候加之右死骸の傍邊に九助紙入落有之又紙入の中には島田宿藤八より九助へ送り候手紙も有之候事其節御檢使樣方御改め通りに御座候全く九助儀惣内夫婦を切害致候に相違無之儀と存じ奉つり候に付何卒御慈悲を以て兩人の解死人御吟味下し置れ候樣仕つり度依之此段願ひ上奉つり候以上
水呑村先名主惣内後見
同人妻
ふか
親類肩書 善兵衞
仁右衞門
組頭肩書 傳兵衞
木祖兵衞
サア何ぢや
汝五ヶ年の間江戸へ
奉公に出し
留守中家内の者惣内が扶持を受し恩をも思はず惣内に
不義の
汚名を負せ己れが
外にて
語合し女を妻に致さんが爲罪なき伯父の娘恩ある
惣内へ惡名を付
先妻を
離縁に及びし段不屆き至極と
窘付るを九助は
無念の事に思ひ恐ながら全く以て遺恨などとは存も付ませぬ儀にて
既に惣内と
不義ある女房
憎い
奴とは存候へ共現在伯父九郎兵衞が娘故義理を
考へ不義せし者へ
金迄付け
渠が存念通り惣内方へ遣す程の儀に御座れば何しに恨を殘しませうぞ何分
御慈悲の
御吟味願ひ奉つると申を
理左衞門は
默言と
叱り其方伯父九郎兵衞へ金子を遣し
一旦奇麗に里を
離縁致したなれ共惣内方へ
再縁なせしを見て
未練を遺せしならん又金子等
遣したも定めし
扱人の
差略で有う彼是を
遺恨に存じ惣内夫婦の者を殺し疑ひの心を晴ぬ爲に兩人の首を
取隱し
奸計に相違はない恨はないなどと申がコリヤ云譯は
闇い
首は何處へ隱したサア
眞直に申せと
睨め付るに九助はイヘ決して覺えは御座りません
此間も申上ます通り十九日に
金谷村へ參り又
夕申刻過より上新田村に
到りて夜に入
迄彼方に居し故人を殺したる覺えは御座りません
因て
猶更兩人が首の有處存じ居る筈がと云んとするを理左衞門默止と止めコレ九助其方
他行先が怪しい
殊に
願書の趣きにては其方
名主役に
[#「名主役に」は底本では「主役に」]相成り私慾を構へ村方難儀に付村役人小前の者共相談の上
退役を願ひ惣内に
歸役致さんと申
内談を聞無念に存じ惣内夫婦を殺したに
相違ないぞと
押付るに九助は
伏せずイヘ/\
然樣な儀は
毛頭覺え無之先惣内山林の竹木を隱し
伐仕つり其外小前へ勘定に
押領の
筋が御座りまして
退役仕つりし事は
既に御役所にても御調御座りました儀又私し儀は
村役人總百姓の
勸めにより
餘儀なく親共勤めましたる跡故名主役を相勤めます殊に惣内
歸役の
相談の儀などは一向承まはりし事も御座なく假令右體の儀御座ればとてそれを
遺恨に思べき
筈もなく右體の儀は
跡形もなき
僞り事と存ずると云語を
繼組頭周藏進み出只今名主九助申上まする通り
惣内歸役の相談などと申
儀は
勿々思ひも付ぬ事其は九郎兵衞が僞はりにして九助は
素より正直者に御座れば
何卒御慈悲を願ひ上ますと言を又默言と叱り付汝は
何者だと
問にハイ
組頭で御座ります名は何と云うヘイ周藏と申しますと答ふるに理左衞門コリヤ
汝には
尋ねぬ
控て居れ
不埓な
奴と
白眼付をイエ九助の
正直なる事は村中の譽者にて誰知らぬ人も御座りませぬと云を理左衞門又
汝れ口を
利か
糺明を云付るぞと
威せば周藏は吃驚し老人の事故
慄へ居るを後より三五郎
這出て只今
組頭周藏申上しに相違なく九助儀は一文一錢の勘定も粗末は御座なく
小前の者共へ
憐を掛けと云を理左衞門
默止汝又何ぢやと有れば三五郎はハイ私しは百姓代三五郎と申者で御座りますと
云に理左衞門ナニ百姓代と申か控て居れと云ふをイヤ控ますまい九助が事は
村役人へ御
聞なされませ隣村の名主共へ御尋ねなされても日來の
行状は知れますと申を理左衞門
大音に
默止三五郎と云をイヘ默止ますまいと云ば何役人へ對ひ不屆の一言牢へ
打込ぞと
叱り付れば三五郎はハイ/\牢へでも
檻でも勝手の處へ入度ば入さつしやい何ぼ御奉行でも
理より
外には御座るまい
依怙贔屓などを云つしやるなと
肱を張ば理左衞門大いに怒りヤイ
汝れ役人に
對ひ
再應の口
答へ
不屆きな奴ソレ
縛れと
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、718-11]をなすに三五郎は理左衞門を睨み
隨分縛つしやい私は
痩ても
枯ても三石八斗八升の御
田地持水呑村の三五郎と云殿樣の御百姓で御座ります
憚りながら
然樣云後ぐらい
片贔屓な御
捌は見た事が御座らぬと云うにぞ理左衞門堪へ兼イヤ
渠を
縛れと云聲の
下々役人はつと
立掛るを周藏木祖兵衞種々と
詫入漸々三五郎を外の
腰掛へ出しゝかば跡は
寂寞となり理左衞門
大音揚コリヤ九助
假令右を左りに云
拔んと爲る共二十日の
朝其方が衣類の
裾へ
血汐を
引其上
汝れが紙入藤八よりの手紙が入てありしを
落して置たからには
云譯は有まいぞと言ふに九助は其儀は此
間より申上ます通り私し妻の母の
法事と
辯解せんとするを理左衞門はコレ又同じ事を
幾度申たとて
辯解[#ルビの「いひわけ」は底本では「いひかけ」]にはならぬ全く惣内夫婦を殺したに相違なけれど
勿々大體のことでは
白状すまじ
牢問申付るぞとて此方を向コリヤ九郎兵衞夫婦氣遣
爲るな子供等が
解死人は取つて遣すぞ立て/\追て呼出すと申渡したり
斯りし程に九郎兵衞は理左衞門を始め下役人又々
賄賂を
遣ひ奉行へ金十五兩下役人へ三兩づつ
牢屋掛りへ金二分づつを
贈りしゆゑ九助は石を
抱く事十三度其外種々樣々に品を替て責られし故今は一
命も
危きとの事を妻のお節は
聞及び有るにもあられぬ
[#「あられぬ」は底本では「あれぬ」]思ひなれば村役人
倶々お慈悲願ひに出けれども其
度々役場にて
叱りを請る
而已少しも取上らるゝ事などなく又
差添の村役人共も其
度毎に九助の
仕業に之なき趣きを申立れども
證據なき故取
上られず皆々
歎息の外なかりしに
獨三五郎は
譜代の
主筋故何分九助が
無實の災難を
遁れさせ
度思ひ此上は家老方へ御
嘆き申より外なしと
豫々心掛居ける中
或日本多家の
長臣都築外記中村
主計用人
笠原常右衞門の三人が
相良の
用達町人
織田七兵衞が
下淀川村の
下屋敷へ參られ
終日饗應になる由を聞出し今日ぞ旦那さまをお助申時なりと大に悦び一
通の願書を
認め天へも
登る心地にて梅ヶ
橋といふ處に待
請しに聞しに
違はず夜に
入と右三人の
供人定紋付の
箱挑灯を先に立
道を照して來りける故三五郎は
土橋の口に平伏し
恐れながら願書御取上願ひ奉ると差出すを
都築外記は願の筋有ば其支配の役人より
向々の役人へ願ひ出よと
差戻せど三五郎は猶さし出し其御役人方御取上げ御座らぬにより
據ころなく
貴所さまへ御願ひ申上ますとて
動かねば
[#「動かねば」は底本では「動かねが」]籤九
度山目付中村
主計はイヤ
外記殿
夫は取上るに及びますまい
打捨て歸られよと云を外記は
否々一通り聞たる上相計らはんと屋敷へ連歸り
委細を聞
糺し三五郎が忠義を
感心なし家來を付て理左衞門方へ遣はし此者儀は忠義者
故能々吟味を遂られよと申送りしかば
松本理左衞門も
餘儀なく
畏まる
趣ぎ
返答に及び
置夫より三五郎を呼出し汝
支配の奉行を
差越御家老
外記殿へ
直訴に及び候段
不屆至極の奴なりと
眼玉を
剥出し
叱り付ればヘイ如何樣に申上ましても御取
上御座らず九助儀は
無實の
災難に陷ります事見るに堪兼候と云を理左衞門大音上げ
默止此方は善惡を
糺す奉行
職なるぞ私しが事で濟ものか九助事は確乎なる證據有により
數日吟味なす所なり如何に
土民なればとて
理非を
辨へぬ申條牢舍申付べき奴なれども彼老
中より忠義の者と申越されし故村役人へ
屹度預け
置此上
直訴にも及ぶ時は村役人共
屹度申付ると
叱り
散らし歸しければ三五郎は殘念には思へども今更
仕樣もなく
寥々と村役人に
伴はれ我が家へこそは歸りけれ
扨又九助は
晝夜嚴敷拷問牢問に
掛り
骨節も
挫げるばかりに弱り果今は
息も
絶々と成て頼みなき世の有樣に
熟々思ひ
巡らす樣如何なれば
掛る
無實の罪に
罹りし事ぞ是も前世の
業因ならんと
斷念ながらも
餘りと云へば
情なし是
全く
伯父九郎兵衞が
賄賂を以て役人の手を
借無理無體に我を殺さんとなす成ん然すれば何程
苦痛に
堪るとも
終には命を失はずには置れまじ此上は一日も早く
苦痛を
遁るゝこそ
優ならめ
然ながら如何なる因果の報いにや我
幼少にて父に
後れ
艱難辛苦の其中に又母をも
亡ひしかど兩親の
遺言を大事に守り江戸にて五ヶ年の千
辛萬苦も水の
泡蟻の
塔を
組鶴の
粟を
喰が如く五體の
膏血を
絞り
蓄へたる金が今思へば我が身の
讐敵とは云ものゝ親の
勤し
村長役を勤なば親々が
未來の悦びと思込しが却て怨みを受る
基となり無實の大
難を
蒙りたるか
情なきは九郎兵衞殿如何なる前世の
敵同士か
現在血を分し伯父
甥の中で有
乍ら娘や
婿が
敵なりと後家のお深に
昏められ
解死人願ひは何事ぞと姑くは人をも
怨み身をも
悔みて
泣沈みしが
嗚呼我ながら
未練なり此上
拷問強ければとても存命思ひも寄ず此苦みを
請んよりは惣内夫婦を殺したりと身に引受て白状なし
娑婆の
苦患を
遁んものと心を爰に決せしが
然るにても罪に陷り
尸を野原に
晒さん事我が恥よりも先祖に對し面目なし嘸や跡にてお節を
始め三五郎等が
歎くで有んと
越方行末を思ひ
遣り又も泪に
昏し
機丑刻の
鐘鐵棒の音と諸共に松本理左衞門は
下役二人下男五六人召連
自分獄屋に來り
鍵番に戸口を明けさせ九助を引立て拷問所へ引出し理左衞門は
上座に直り是迄
屡々拷問に及べども
酢の
蒟蒻のと云
掠め今に白状致さぬ故今日は此理左衞門が自身に
拷問を見聞せん
強情奴めと一
調子引上げコリヤ者共九助を拷問せよ一
體汝等が
手弱い故なり今日は我が見る前なれば責殺しても苦ふないヤイ九助覺悟を致せ
湯責火責水責
鐵砲責
海老熊手背割木馬しほから火の
玉四十八
具の責に掛るぞヤイ/\責よ/\との聲諸とも
獄卒共ハツと云樣
無慘なる
哉九助を
眞裸にして
階子の上に
仰向に寢かし槌の枕をさせ
荒繩にて
縊り付大
釜に
汲込みし大川の水を理左衞門
屹度見て夫々
嚴敷水を喰はせろ用捨する奴は同罪なるぞときよろつく
眼と共に下知し既に水責に及んとする處に九助は豫て覺悟の事なれば是御役人樣先々
拷問を暫く御待下されよと云に理左衞門はイヤ成ぬ此間より數日の責に白状せぬ
強情者是非今日は骨を
挫き肉を
叩きても
[#「叩きても」は底本では「叩ぎても」]言さにや置ぬ
譫言拔すな夫責よと下知なすを九助は猶も
苦し氣に其責には及びませぬ只今白状致しますと云に理左衞門はナニ白状致すとか然ば
眞直に白状致せハイ今日迄
種々と
陳じましたが我程御役人樣の御察の通り惣内夫婦を殺しましたに
相違御座りませぬ此上は
如何樣に御
仕置も
恨みとは存ませぬと煮立涙と諸共に白状に及びしかば理左衞門は打笑ひ
彌々夫に相違は有まいな夫見よ疾から然樣申さば責られて痛いめはせぬのに
何程僞りても天の御
罰人を殺して知れずに居るものかソレ役所へ引廻せとて役所へ
引行早速下役人に口書を
認めさせ白洲に於て是を讀み上る
一私し儀豫々遺恨有之候に付三月十九日の夜下伊呂村大井川端にて惣内并に同人妻を切害仕り候に聊か相違無之恐入奉つり候之に依て如何樣の御仕置に仰付られ候とも御領主樣へ對し御恨は少も御座なく候以上
水呑村名主
理左衞門コリヤ九助サア
爪印致せと書付を
差出せば九助は是を見てワツとばかりに血の涙を流しながら爪印を
爲たりけり因てり理左衞門は
早速九郎兵衞夫婦を呼出し兩人に向ひ其方共願ひに因て九助を
段々吟味致す處其方
悴惣内夫婦を大井河原に於て
殺害致したる段相違なき趣き
白状に及ぶ同日
口書爪印
相濟たる上は
近々所刑仰付らるゝ惣内夫婦の
解死人は取て
遣[#ルビの「つか」は底本では「つかは」]はすぞ然樣に相心得よと然も
爲たり
面に申ける九郎兵衞夫婦は有難き旨を申上九助を
八打と
睨みサア九助汝は/\
憎き奴なり御役人樣の御
蔭曇らぬ鏡に移るがゆゑ神國の御罰にて今白状に及びたるが能氣味なりと
罵るを女房お深も
倶々にコレ九助
能も嫁のお里に惡名を付け其上に悴惣内夫婦の者を殺したる爰な大
惡人めと泣聲に成て
窘付れども九助は
只眼を
閉て物言ず居たりしは誠に覺悟を極しと見え
最哀ぞ
増りける
偖も郡奉行松本理左衞門は夫々申渡し
相濟早退座せんとなしける處に百姓三五郎申上ますと云ながら
白洲へ
飛込ゆゑ下役どもソレと
取押[#ルビの「とりおさへ」は底本では「とりおさ」]るを猶も聞入ず
大音揚今は何をか
隱申さん惣内夫婦を殺せしは全く私しなり
何卒御所刑に
仰付られ下さるべしと云ば理左衞門は面色を變三五郎を
白眼其方は
先達て前後
揃はぬ儀を家老中へ
直訴に及び甚だ
不屆き至極に付入牢申付べき奴なれ共
古主九助が事の願ひ忠義らしく聞ゆる故村役人に預け遣はしたり然るに又
右體の儀を申出る
段不埓なり村役人共其奴を引立歸れ御取上は無ぞと叱り付るを三五郎は否々彼の人殺しは私しに相違なく夫を人違ひ成れては御役儀が立ますまいと
窘付れば理左衞門は爰な強情者め其惣内夫婦を殺しましたは私しに
相違ないと
既に九助が白状に及び
口書爪印迄相濟たり夫を今更人殺は汝なりと名乘出る事
狂氣でも致したか然なくば
最初九助
入牢中の
節何故名乘て出ぬ此奴察する處人殺は
汝なりと忠義めかして名乘出るならば九助めは助る事も有うかなどとの奸計ならん早々村役人共引立よと
言に三五郎は又否決して立ますまい私しも
解死人に成事を好んで出しからに
筋の無事は申立ず
素より九助は慈悲深き生れ付故勿々人など殺すべき者に之なく全く
拷問の嚴しきと私しを
助け樣との兩條にて白状致せし事に
相違なく既に九助が今日
口書と聞えし故科なき者を殺すは如何にも
不便に付止を得ず名乘出しなり因て下死人は此三五郎めに
聊も違ひ御座らぬと白洲に
鰭伏少しも動かねば役人は
勿論村役人共持餘し叱りつ
宥めつ漸々に白洲を引立
公事人の
溜りへ引出したり時に九助が女房お節は今日九助が
白状に依て
口書爪印相濟近々所刑になるとの事を
聞狂氣の如く
悲しみ歎きしが
切ては夫の命乞をせんものと相談の爲島田宿の水田屋藤八が
許へ行んと
駈出せし途中にて
折よく藤八に
出會ければお節は大いに悦び九助は斯々なりと咄すに藤八も
然ばなり私も其事にて出來りしと云つゝ兩人同道して直に役所へ來りしに白洲は引たれども外の
溜りの中に九助は
繩付の
儘居けるを見て藤八お節は走り
寄問んとすれど
迫り來る涙に言葉もなかりけり
牢内より出入の節科人の側へ親戚を寄る事は法度なれど江戸と違ひ村方の人足のみにて知り合の百姓ども故知らぬ顏にて煙草くゆらし居たりしとぞ
扨も九助は
數日拷問の
苦痛に
堪兼身に覺えなき人殺しの罪を白状に及ぶ程のことなれば
總身肉落頬骨高く眼は
窪み色
蒼然髯髭蓬々としたる體彼の
俊寛僧都が鬼界ヶ島の
俤げも
斯やとばかり思はれて藤八お節も目も眩み心も消え入る體なりしが
漸々に涙を
拂ひて藤八に
摺寄コレ九助殿變り果たる此姿見るに付ても日々の
拷問苦痛は
嘸かしと思ひ
遣るゝなり併ながら何云譯で人殺しと白状致されしやら如何に
責らるゝが
苦しいとて殺しもせぬ者を殺したとは
辛抱甲斐のなき事ぞ
假令骨が
舍利になればとて知らぬ事は
何處迄も知らぬとは何故云はれぬぞと云を九助は聞終
瀧の如く涙を流し是は/\藤八樣御
心切なる其お
詞素より人は殺さねど日々夜々の
拷問嚴しく
假令白状なさねばとて
迚も助かる
命にあらずと
斷念し故一時も早く此世の苦痛を遁んと覺悟を
極めし此九助
皆是迄の約束
事コリヤお節是が一
生の別れぞと聞てお節は殊さらに
絶入ばかりに泣伏を藤八はコレ/\お節
何した者だ
切て九助が死なぬ中
逢せて
遣度漸々と是迄
折角駈付しに何にも言ず
泣居ては
切角逢し
甲斐もなし云
度事の有ならば
早く云てと急立るにお節は漸々顏を
上夫の姿を打まもり又も玉なす涙の
雨聲さへ出ず
縋り
寄私も一所に死にたしと身を
慄はして歎く
體道理せめて哀れなり九助も
瞼を
屡瞬き是お節
其方は此九助と夫婦に成たるは
前世よりの惡縁ならん我は天地の
神祇も
照覽あれ人など殺せし覺えは
露聊かもなきなれど是皆伯父九郎兵衞が
惡巧みより無實の罪に
陷る事と
推量はなしながら
證據なき故
辯解立ず是と云も先立れし親々への孝行と思ばこそ不義
淫奔せし
先妻お里憎ひ奴とは思へども眼前伯父の手前もあり向ふよりこそ取る金を
此方からして金まで付
離縁なしたる其
情けは
結句此身の
仇となり役人
衆の詞にも
所詮存命協はぬと云れしなれば此
覺悟然ど其方は此事の御
咎はよも有まい程に御所刑濟ば
田畑居屋敷家作家財は其方へ下さるゝで有うゆゑ殘らず其を
賣代なし其金を
持藤八樣へ相談申て何方なりと再び縁を
求めよや其後
自然我事を思ひ出せし日もあらば只一
遍の
回向をと云ばお節は
恨めしげに九助の
面を打まもり夫は又
聞えぬ
仰ぞや御前に別れて
外々へ
縁付やうな私ぢやない氣の
弱い事を云ず共コレ
父樣何卒九助が
命乞をと云後より
下役立出コリヤ/\
科人へ逢せて遣るは役人の
慈悲くど/\と
何時迄居るのだサア立々と聲を
懸るに藤八は懷中より金二分を出し密と
袂へ入れ何分にも九助が事お慈悲の
御取扱ひを願ひ上ますと
慇懃に申ければ下役人
點頭否夫は案じるな
囚人は大切に致さねば
成ぬことは
上からも
再應御
觸の有儀なり併し今
遇せた事は他へ云まいぞと
徐々九助を引立れば藤八お節は
何分にもと
挨拶なし兩人は九助を見送るに九助も此方を
振返り互ひに
見交す顏と顏
是今生の
暇乞と三人が涙は
玉霰見送り見返り別れけり藤八は我と心を
勵まして
宜々お節是からは御
家老邸へ
駈込で藤八が命を
的に
今一度御願申て此公事を
引繰返さで置べきや
然樣ぢや/\と立上るを私も
倶に命を
的とお節も
續て立上り是非ともお願ひ申た上お
聞入のない時は御家老樣の御
玄關で其儘
舌を
喰切つゝ死して夫の
身代りにと云ば藤八
打點頭オヽ
能云た其
位度胸を
据ねば
裁許は破れぬサア/\來いと出立る機會に此所へ息せきと島田宿なる
問屋場の五助と
言者
駈來り
大汗たら/\コリヤ藤八殿々々々名主樣より
至急用の御手紙早々御歸りなされましと聞て藤八
何事と
状箱取上げ開き見れば
急使を以
啓達令め候
豫々道中御奉行樣御
觸有之候將軍
家御
代替り御
巡見使松平縫殿頭樣
梶川庄右衞門樣御
先觸參り
來月中旬頃御
止宿の由に御座候尤も此度は先々の御巡見とは違ひ
格別に御
念も入
公事訴訟其外
奸曲私欲の節も御
糺明有之に付所々より願ひ出候者も多く御手間取成れ候由故
道端譜請御
宿割等申付候之に依て
貴樣早々歸宅致さるべく候以上
と讀上しが此藤八は
旅籠屋肝煎と言宿人足の世話をもしける故是は又惡い處へ
御巡見ハテ急に歸らねば
成ずコレ五助や御巡見樣は
未だ
山向かハイ藝州の
御飛脚の噺には
櫓澤通りが一昨日頃で有うと申ましたと
聞て藤八ハテ
御巡見街道は
櫓澤竹の下スリヤ今頃は沼津吉原富士の根方邊と手を組で
思案の
容子成しが
礑と横手を
拍是お節願うてもなき幸ひが出來たぞ
嗚呼是が
矢張天道樣の御
助けぢやヤレ嬉しや
忝けなやサア己と一所に來やれと云どお節は
合點行ずデモマア九助が切れる故御家老樣へと
半ばも
云せずナニ願ひも
糸瓜も入ものかと云節
[#「云節」はママ]お節は未だ解せずデモ
爪印が濟だ上は捨て置たら夫の
命夫故
御駕籠へ
駈付てと藤八一人呑込でお節を
急立連行にぞお節は一向樣子が解らず
父樣何處へ行のだと不審の顏に藤八はハテ知れた事今度の御
巡見使は上樣の御代替りの御名代云ば
昔の
最明寺諸國の
善惡聞糺す爲にと御座る御役人九助が事を
御駕籠訴に
行か行ぬか天下の吟味
叶はぬ迄も願つて見ん夫で行ねば是非もない
夫が
大事と思ふなら己と一所に願ひ出よと聞てお節は
飛立思ひ夫なら父樣
寸時も早ふ御駕籠訴とやら云事をイヤサ何も彼も己に
任せて一
所に來い
細工は
流々仕上を見やれサア/\早く支度してと云にお節も一
生懸命村役人へ
預の身なれど跡は野となれ山坂を足に任せて走り行相良の城下を放れつゝ夫九助が
命乞と思ふ計りの
力草島田宿迄一息に來りし頃は夜も
戌刻水田屋へこそ着にけり
斯て藤八はお節を
同道して島田宿の我が家へ歸り
宿場の
用向萬事の儀は弟岡崎屋藤五郎へ頼み
置寄場へ人を走らせ雲助
頭信濃の幸八を
呼寄駕籠二
挺人足三人づつ尤も通し駕籠なれば
大丈夫な者をと
云に幸八は
委細承知なしシテ又親方
何處迄御出と
聞に藤八は
然ばサ先は
確と知れぬが
大概箱根
前後位と思へば
能と云を聞て幸八は
心得其夜の中に
部屋から
撰で呉服屋の六
團扇の源
入墨七箱根傳助小僧の吉品川の松
抔何も當宿の
腕こき六人
體へは
赤合羽を
羽折各自向ふ
鉢卷をなし
腰に
挾しは
叺莨入手には竹の
息杖を
携へ
曉寅刻に皆門口へ來て親方御支度は
宜かと大聲に云ば水田屋の
家内は立出是は御苦勞々々々今
旦那は御出なさると云中藤八出來りしが先其
打扮は
紺縞の上田の
袷に
紺紬の
盲縞の羽織
濃御
納戸の半合羽を着
鮫鞘の大
脇差を帶し
晒の手拭を首に
捲付門口へ出て何も
太儀今度は此の藤八が一世一代命を
的の願ひ
筋娘を連て
行ねばならぬ近くて
沼津か
三島遠くて小田原
大磯なり夫迄は行まいが
太儀ながら手前
達精出して
呉骨は
盜ぬと云に雲助共聞て口々に何親方の事だから
斯云時にでも
骨を
折ずば何時恩を返すときが有うナアと云時下女が
熱がんの酒と茶碗を
持出せば雲助どもは是は有難う御座りますと手ん/″\に五六
杯ヅツ
引かける所へ藤八ソレ
肴と
銘々に金二分
宛遣に雲助はイエ親方是は入やせんと
辭退なすを馬鹿を云な
肴が
無て
呑れるものか又骨折は別だぞと云中お節も出來たるに女房娘を始めとして皆々
門へ送り出
風呂敷包は駕籠に付サア/\急いで
遣て
呉と云に何れも
合點と二
挺の駕籠を
舁上れば
御機嫌能うと一同に見送る中に女房は
呉々お節が頼み事
首尾能成就なす樣にと云に藤八
莞爾と笑ひ
其處に
拔りが有者かと
夜明烏と
諸ともに
寢ぐらを放れ
行空は花の島田を
後になし
急ぐに
瀬戸の
染領や
清き小川を打渡り心は
正直一
遍の實意ぞ深き
洲崎村五里の
八幡も駕籠の中
祈誓を
籠し櫻山
巡る
麓に風
薫[#ルビの「かほ」は底本では「ほを」]る時は
卯月の末の空花の
藤枝はや過て岡部に續く
宇都の山
蔦の細道
十團子夢か
現にも人にも
遇ぬ宇都の谷と彼の
能因が昔を今に
振も變らぬ梅若葉
鞠子の宿を通り拔
阿部川にこそ來りけれ藤八お節の兩人は
傍邊の茶屋へ駕籠を
下させ暫時
憩ひながら藤八は茶屋の亭主に向ひ此度
公方樣御代替の
御巡見樣御通りの由
最何處らまで御出成れたで有うと問に茶屋の亭主はハイ此間からの
騷ぎで御座りますが未だ
此邊へ御出は御座りませぬ
併昨日
雲州の
御飛脚が
咄には箱根を一昨日とやら御
越成れまして富士の根方廻はりが二三日掛ると仰られましたから今日
邊りは三島で御座りませうと云を聞と等く藤八は又々
夫急げと聲を
懸るに雲助ども
合點と駕籠
舁上れば
木枯の
杜を
那方に此方なる
賤機山を心指て行手は名に負駿河の府中
午刻も過て
巴河音にぞ知るゝ
濱續き清水
久能は右の方は左にとりて富士見山
茂る夏野の
草薙の宮を力に
伏拜み
江尻の宿や
興津川薩陲峠は七ツ過
手許も
暗き倉澤の
間の建場を提灯
燈由井の宿なる
夷子屋に其夜は駕籠を
舁込だり斯て藤八宿屋の
主に
委細の樣子を聞くに今宵は原の御泊なりと云に
漸々心も
落付夫より願書を認め是お節明日中には
御巡見樣方へ御願ひ申上るにより必ず氣を大丈夫に持申上る事を能考へ置と云ばお節は
彌々打喜び
實に何から何まで厚い御世話有難う御座りますと言けるが
終夜寢も遣らず心
急儘一番
鳥の
鳴や否や起出つゝ支度調へ藤八
諸共曉寅刻比より宿屋を乘出し
蒲原の
驛外にて夜も
明渡り
辨慶清水六代御前松並木も打越て
岩淵の渡りに來り
暫時休息なし
頓て富士川の
逆卷水も押渡り岩をも
徹す
念力の岩手の村や四日市見上る方は富士の峯
夫の
命取止て
鶴芝龜芝青々と
齡ぞ永く打續き麓の
裾野末廣く天神山や馬場川口
柴橋大宮
木綿島吉原
驛も打過て
日脚も永き
畷道未刻下りに來懸たり斯る折から遙か彼方より露拂ひ右左に立下に/\笠をとれ馬の
牽綱を
詰よと
制し來れるは將軍家
御朱印入の長持なり藤八は未だ
御巡見使の來らるゝとは思はぬ故
傍邊の
馬士に
對ひ
何方樣の御通行ぢやと問に馬士は打笑ひ是を知られぬか御順見樣ぢや
疾く
下さツしやれと云を聞藤八は何
御順見樣ぢやヤレ嬉しやと駕籠から
轉げ落ぬ
許りに
下立コリアお節サア/\
己と一所に此方に居やれと道の
傍邊に兩人
跪居る中麻上下を着せし
驛役人ども先に立下に/\と往來の者を制しながら來るに程なく
正使御目付代御使番高二千石松平縫殿頭殿
先箱赤熊二本道具
徒士小姓馬廻り持槍は片鎌の黒羅紗
長柄簑箱對箱草履取引馬
鞍覆は黒羅紗丸に
蔦の
紋所引續いて公用人給人其外上下七八十人萬石以上の
格式なり
副使は御勘定梶川庄右衞門殿槍挾箱長柄其外引揃へ行列正しく通行あるに藤八は夫と見るより
豫て用意の
訴状を青竹に
挾み往來の傍らに平伏なし大音上で願ひ上ますと青竹を差出せば松平
縫殿頭殿駕籠を止めよと聲を
懸らるれば
駕籠脇の侍士石井彌兵衞右の訴状を受取り
駕籠の中へ差出すを縫殿頭殿一通
披見致され彌兵衞兩人を是へ
呼と申さるゝに彌兵衞は
畏まりコリヤ兩人共近ふ出よとの
指揮に隨ひ藤八お節ハツと進みて平伏す時に縫殿頭殿コレ彌兵衞
其所にて樣子を
聞と願書を渡されしかば彌兵衞は左の手に願書を持ちながら
跪踞其方儀は願書の
面に
有通り當國島田の藤八と申者か又夫なる女はと問に藤八ハツと答へ是は私が養女節と申者にて遠州
榛原郡相良領水呑村九助妻なりと申立れば縫殿頭殿是を
聞れ其方共顏を上よと有しに兩人は恐る/\少し
面を
上る時
駕籠の中より
熟々と見らるゝに(此時は
所謂誠心の
虚實眞僞面に
表るゝを見分る
緊要の場なりとぞ)兩人は氣を
詰て
控へながら願書御取上の
有無は如何や又
咎にても
蒙る事
歟と心配し居しに
頓て縫殿頭殿彌兵衞を呼れ兩人が體を見るに僞らざる樣子
自然面に
顯るゝにより願書の趣き一通り
糺明遣はせと
言れ駕籠をと有に
徐々乘籠を
舁出すにぞ彌兵衞は跡に殘り其方どもの訴状御取上げ是ある間今夜の
御本陣は吉原
驛なるにより汝等同所に到り下宿して御沙汰を相待べしと申渡すを兩人ハツと
鰭伏時彌兵衞は吉原驛の役人を呼
那なる兩人の者共
今宵御吟味の
筋有之に付其方共に
屹度預る間願人共を
粗略に致すなと申渡し其
儘駕籠に
追尾けり
然ば藤八はヤヽ御取上下さると歟ハヽア有難や嬉しやと涙を流し頭を大地へ
摺付々々伏拜めばお節も餘りの嬉しさにウンと後へ
仰向反し
儘暫し正氣を失たり
俚諺に
富を取て目を廻し身代に苦みし者
漸々金の
蔓に
有付ヤレ/\嬉しやと思ひ病氣付事あり是心の
弛より出るとかや茲に畏くも 人皇百九代
後水尾天皇には至て和歌を好ませられ
後々三十六
歌仙を御
撰み遊ばされし事あり此事
世の人の知る所なり時に
元和九年徳川二代將軍家御
上洛あられしかば京都の
繁華前代未聞なり然るに其年の十月頃時の
關白二條左大臣殿の
諸大夫にて
[#「諸大夫にて」はママ]取高七石二人
扶持なる
河島伯耆守と云る人
或日只一人
祇園の社へ參詣なし祇園
豆腐と云を賣る家に立寄しに一人の女
早々膳を持出いざ御上り成れましと出す時その女
雪ならば
梢にとめてあすや
見んよるのあらしの
音ばかりして
と
詠じける故
流石公家の
侍士感心し
腰の
墨斗を取出し今一度
吟じ聞せよと云に女は恥らひし體にて
口籠るを河島
其方の名は何と云ぞと聞に女はヘイかぢと申ますと答しかば夫より河島立歸り二條殿へ右の歌を差上しに二條家
御感の餘り其
儘奏聞なし給へば
賤敷女にも
斯る
風流有けるよと
即座に御
歌所へ
遣はされ
歌仙へ
加へさせられ又
北面北小路從五位下
東大寺の
長吏[#ルビの「ちやうり」は底本では「ちやうし」]若狹守藤原保忠 勅使として祇園へ
至り 勅使なりと聲を掛ければ茶屋にては
吃驚なし
狼狽廻るを 勅使は此家に
梶と申女
居る由此所へ
出しませいと云るゝに
彌々仰天しながら何事やらんと
漸々連出しかば 勅使は其方は
冥加に
叶ひし者
哉汝が
詠歌殿下へ相聞え其上
當吟の
叡覽に
備へられし所
名歌なりとて仙歌へ御
加へ遊ばされ
猶又
叡感の餘り 御
宸筆を下し
置る有難く
頂戴せよと
函を出せばおかぢは
押戴拜見して涙を流し斯る
卑き
賤の
女が
腰折も和歌の
徳とて
恐多くも
關白殿下へ聽えしも有難さ云ん方なきに況てや十
善萬
乘の君より御
宸筆とはと云つゝ前へがツくり
平伏致すと思ひしに
早晩死果居たりしとぞ依て
遺骸は
洛外壬生の
法輪寺に
葬り今におかち女の
墳同寺にありて此
和歌殘けるとかや
然ばお節が目を
暈せしとて
大騷動となり人々
立騷ぐにぞ
縫殿頭殿是を聞れ女が
心底を感心有て
印籠の中なる氣付を出し
駕籠脇の者に渡され立歸りて是を與へよとありしにぞ
駕籠脇の
侍士立
戻りて彼の
藥を與へしかば藤八は
押戴き
重々有難き仕合なりとて宿役人
倶々介抱なせしに
漸々氣の付ければ
驛役人同道にて
直に吉原
驛伊豆屋
甚助方へ
到り本陣の御沙汰を今や
遲しと待居たり既に其
日も
暮近き頭一人
足輕八ツ
字蔦と云字の
目引に
紺の
看板着たる
小者を連て伊豆屋へ來り藤八お節
同道致すべしと云渡せば兩人は
驚破やと悦び宿役人同道して本陣の
勝手口へ廻り右の段を申
込けるに
良あつて是へ通せと有ければ本陣の次の
縁側先へ兩人を呼出す此時
正面には松平
縫殿頭殿少し下りて右の座へ
梶川庄右衞門殿次には
公用人櫻井文右衞門田村治兵衞此方には川上
貞八石川彌兵衞
浦野紋兵衞
縁側際には
足輕五六人
非常を
警しめ
廣庭には吉原宿名主問屋
本陣組頭宿役人並居たり公用人櫻井文右衞門兩人が
願書を以て
入側に進み出島田宿藤八同人養女節と
呼時用人ハツと平伏なすを見て其方共儀遠州水呑村名主九助と申者の身分に因て今日御
駕籠訴に及びし段御
取上に相なりしは今度上樣御
代替に付御
仁政の始め諸國へ御
巡見使を相立てらるゝは御
領私領とも忠信
孝義の者を見いだし且つは其所の役人
自然私欲の
筋等之れあり下々の者
難澁致す向もあらば夫々御
糺明仰付らるゝ御
趣意なり依て上樣御
目代との仰を蒙り
駿遠三
尾の四ヶ國の
巡見使として松平縫殿頭
罷越せし處なり然ば其方共願ひの筋江戸表へ御差出に相成天下の御
評定にも相成に付願書の趣き一通り御
吟味有之により有難く存ずべしとの仰にけり扨是より一通り
糺問の上藤八お節の兩人江戸表へ
差立となりたり
夫任ずるに其人を
擇めば
黜陟明らかにして
刑罰中らざるなく
實に百姓をして
鼓腹歡呼せしむ
諺ざに曰其人を知らんと欲すれば其の
使ふ者を
觀よと故に八代將軍
吉宗公は徳川氏中
興の君と
稱へ奉つる程の
賢明に
在ませば其下皆其
任に
適はざるなく今般の巡見使松平
縫殿頭殿も藤八お節が
訴訟を一
目して其事
僞りならざるを知り
即夜旅館に
呼寄一通り
糾問に取掛られたり然れば藤八お節の兩人は願ひの
趣き御
取上に相成し事
實に有難き
仕合なりと
涙を流し平伏してぞ居たりける時に
縫殿頭殿公用人櫻井文左衞門藤八に向ひ夫なる節と申女は如何なる身分の者にて其方養女に致せしぞと申すに藤八
謹んで
面を上げ
渠は當
阿部川驛の勘五郎と申百姓の娘にして右勘五郎
妻兆と申者は私し妹に候へ共實は
姪の
續きに
罷りなり候然る處同人儀
幼年の頃より
不仕合の者にて五歳の時
父勘五郎に
別れ母
兆が手一ツで
育てし處九歳の
春又母
兆中
症に相成候て幼少の身にて日々
往來の人に
僅の物を
商ひ其
餘力を以て母を
養ひ居候に付私し如何にも
不便に存じ親子共引取べき旨
種々申聞候へ共今更
厄介に相成候は
不本意なりとて聞入申さず五ヶ年の
長病を只一日の如く
甲斐々々しく
看護仕つりし其孝行を
土地の人も
聞傳へて
賞者にせられしが遂に其
甲斐なく十四歳の
砌り右母
病死仕つり他に
頼るべき處もなきにより夫より節を私し方へ引取し事なりと申せば文左衞門ムヽ扨は
姪の事故
娘に致して九助方へ
縁付遣したかと申に藤八は仰の通りなれ
共夫には
因縁の御
咄あり右節事母
兆を
介抱の中十歳の
際勾引され既に
何國へか連られべき處九助儀江戸表
出府の節其場所を通り合せ此
難儀を救ひ
遣し其夜節方へ一宿仕つり
艱難の
體と孝心の程を感じ九助より
錢一貫文
遣はして
翌朝九助は江戸表へ出立いたせし由其後
節儀私し方へ引取し處
段々其節の事共を物語り今一度其人に
逢禮を申
度由日來申居しに夫より五ヶ年を相
立私しは
日蓮宗故十月
會式に甲州
身延山へ參詣の
戻り瀬戸川迄歸り來りし時
盜賊に
出會し旅人
難儀の
體故見兼まして其
盜賊を
追散し私し儀
幸ひ
旅籠屋の事に付右の旅人を連戻り
泊候
機是なる節は其旅人を見るより
吃驚致し此が以前の
恩人水呑村の九助なりと申により私しも
外ならず思ひ
段々承まはるに九助儀大金を
持參致し居る由故
翌日送り屆け度と存候處私し儀
據ころなき宿の用にて同道致し
兼るに付
無用心ゆゑ金子は私し
預り
渠へは日蓮上人の
曼陀羅を渡し置右を
證據に持參致さば金子は
引替に渡すべき約束仕つり九助は
歸宅仕つりしなり其譯は私しの宿より九助村方迄は六里程の
行程にて大井
河原[#「河原」は底本では「江原」]續ゆゑ甚だ街道
物騷に存じ昨日の如く
途中盜賊にも付られなば
如何故村方へ立歸り親類共にても兩三人
同道にて來らば大
丈夫と心得斯の通り取計ひしと申ければ文左衞門シテ其金は何程にて其
滯ほりなく九助に渡せしやと問に藤八は然ばにて候其金高は百八十兩にて其
翌日九助が親類なりとて周藏喜平次と申者兩人彼の
曼陀羅を
持參仕つりし故引替に渡し遣せし處其日の
未刻頃に九助私し方へ參り昨日
預り歸りし
大切の
曼陀羅紛失致し申譯なき仕合せなりとて如何にも
當惑の體に申故其
曼陀羅は先刻
親類の者持參致し
預り金と
引替手前へ
聢と請取まで
取置し趣き申聞候と云を
[#「云を」は底本では「云は」]聞文左衞門は夫は親類と申て請取に參つたは
僞者だなと云に藤八は
御意に御座ります因て私し九助と
計略を
示合せ九助
歸國の
祝ひと申
振舞を致させ村中の者を
呼寄私し
竊に參りて見まするに周藏と名乘りしは村の名主源藏
[#「名主源藏」はママ]又喜平次と申せしは右名主の手代源藏と申者にて
偖又
茲に不思議な事は
渠等二人が戻りし後に三
徳が
落てありしが其中に九助の
妻里と申者九助が
留守中名主惣内と
密通致し
曼陀羅を
盜みて同人へ送り彼の金を
騙取其後村方を
出奔致す
申合せの
文在しにより私し是を以て九助の
證人となり右の金子を
取返し候處九助妻と申者は九助の
厄介になり居る伯父九郎兵衞の娘にて九助とは
從弟續きに候と云ば文左衞門はハテサテ
込入し儀ぢやなと言を藤八は又語を繼ぎ其上九助伯父九郎兵衞と申者も名主惣内母
後家と
密通致し居り
尋常ならぬ中ゆゑ親類
内相談の上にて里へ金五十兩付て
離縁いたし其後惣内と夫婦に相なり伯父九郎兵衞も
介抱人と名を付惣内母へ後家
入夫に
這入しなり又九助の親類共は私し
姪節を九助の妻に致し度段相談仕つるにより一方ならぬ深き
縁と存じ私し養女に致し同人方へ
遣はせしなりと事
細密に申ければ文左衞門は
委細相別りたりとて夫よりお節に向ひ其方只今藤八が申通に相違無かと云にお節はハイ相違は御座りませぬと申時文左衞門シテ此度九助が
難儀と云譯は人
殺の
科人とて無實の罪に陷たる趣き
願書に見ゆるが
猶又
口上を以て
委敷申立よと有る藤八は
膝を進め右惣内名主役
勤中押領彼是宜らざる儀之ある旨
小前百姓一同より申立により名主
退役と相なり猶村中相談の上九助儀を惣内
跡役に御領主樣へ願ひ出九助儀名主役仰付られ相勤居候處當三月十九日夜下伊呂村大井河續きの河原に於て右惣内夫婦何者の爲に
切害せられしか二人共に首は切て取
隱し
胴ばかり殘り居りしを伯父九郎兵衞惣内の
母諸共九助が
仕業なりと
訴訟出しに依て
召捕れ晝夜
拷問強きにより九助は是に
堪難く
己が
科ならぬ事を身に引受
無理白状に及びしかば終に
口書極り
爪印も
相濟明日頃御所
刑に相成由ゆゑ
斯火急に願ひ奉つると申立るを
縫殿頭殿先刻より
熟々聞居られしが頓て
膝を進められ夫は何か
仔細の有さうな事シテ然樣に
拷問に掛るには何か
證據がなくてはならず何ぞ
遁れ難き證據にても有しやと
尋らるゝに藤八
謹んで答ふる樣先月二十日は節が
實母の七年
忌祥當なるにより大井川の東上新田村と申處に
尊き
御僧が在る故何卒母の
供養を頼み度と夫九助に申せしに九助も姑の事に付金谷村より歸りし
草臥足をも
厭はず自身に
夕申刻過より右の寺へ參る其夜
亥刻近き頃
宅へ
戻り來る途中
下伊呂村の河原にて死人に
跪きたれども
宵闇なれば物の
文色も
分らず殊に
夜陰の事故氣の
急まゝ早々
宿へ戻りて其夜は
打臥翌朝
門の戸を
明候節衣類の
裾に血の付居しを妻
節が心付如何なる事ぞと申せしに九助も驚き昨夜
河原にて
跪きしが酒に
醉し人の
倒れ
伏居る事と思ひしに
怪我人にてもありしかと
語り居し時九郎兵衞が案内にて
領主の
捕方入來り
有無を
言せず召捕
入牢申付られしに依り私ども大に驚き
段々樣子を
承まはり候へば九郎兵衞夫婦
田地を質に
入金子を役人
衆へ
遣したと申事是は人の
噂なれば
聢とは申上兼れ共九郎兵衞夫婦の者
甚だ
怪しく存じ候と事
細密に
長々と申立ければ
[#「申立ければ」は底本では「申立けれる」]縫殿頭殿にはシテ其法事を頼に參りし寺の名は
何と申又其事
故を申立なば定めし其
和尚をも
呼出し九助が寺へ參りし
刻限歸宅の
時刻等も取
糺ありしならんと申さるゝに藤八
然ば其儀を九助より度々申立ると雖役人衆
一向取
上も御座なく只
白状致せ/\とのみ日々
拷問嚴敷何分
苦痛に
堪かね候に付餘儀なく身に覺もなき人
殺の趣きを白状致せしと此所に居る節と私へ九助より申しましたと云時お節も
首をあげ
只今藤八が申上し通りゆゑ夫の
命を何卒御助け下る樣にと申に縫殿頭殿コリヤ其方ども九助
入牢中何して
會其
話を聞きしぞよもや白洲で話したでも有まいと尋ねられしかば節はハツと
語が
閉がり只もぢ/\して居る故藤八は又進み
出右の一件は一昨日
御慈悲願ひに節を召連れ領主役場の
腰掛へ參りし
際九助は
爪印濟に成とて腰掛の
圍の中に居し故實は下役人へ少の
贈物を致し其人の心入にて
腰掛の小
蔭で此世の
暇乞を致せとて
遇せられ其
節委細に
承まはりし儀にて既に御所刑も
獄門とか申事なれば只今頃九助は何なりましたか何卒して助け
遣し度此段
偏に願ひ奉つると如何にも
火急の
歎願に聞ゆれども未だ盡さゞる
[#「盡さゞる」は底本では「盡さゝる」]所あるにより縫殿頭殿は
猶念を
押れ其方
最初九助江戸奉公中に百八十兩と云大金を
貯へたと有が右は如何樣の儀で貯しぞと申さるゝに藤八其儀
承まはりし處江戸
駿河町の町内抱へ番人を
相勤め
店先にて
小商ひ仕つり千
辛萬苦致して貯へし由申聞し
也と云ふに松平殿なる
程町内の番人などと云は
隨分金の出來る者と聞込んだが
僅か五年
許りの中に百八十兩とは餘り
大金の事ならずやと有にお節は其儀は九助が毎度話しますには金八十兩町内に
落し物が御座りしとか其落主が知れませぬ故御
奉行樣へ訴へました處其後も落し人が出ませぬにより大岡樣とやら申御奉行樣より拾ひ主九助は
正直者との御
譽の上右の
金子八十兩を其儘
戴きしが其節も何か
種々と取込だ事が御座りしとか申事其後歸國の節
越後屋とやらから金二十兩程貰ひ町内地主樣家主樣から十兩ヅツ貰ひ自分が
貯へし金も四五十兩餘にて其
外町内の方々より
餞別を
贈られ都合百五十兩程に成しとの事成と云に
縫殿頭殿如何樣藤八其
通に相違無かと申されしかば藤八其儀は節が只今申上し通り
毛頭相違は御座
無何卒御
慈悲の吟味願ひ奉つると申時縫殿頭殿
副使の
梶川庄右衞門殿に向はれ御聞なされた
通渠等が願ひの
赴き相違なく聞こゆるによりとに
右領主の所置を差止置此段江戸表御老中方へ早々
御用状にて申
遣し
公邊の御
裁許に任せ候方よからんと存ずるが如何やと有るに梶川氏も同意の趣き申さるにより
縫殿頭殿又藤八お節に向れコレヤ藤八節兩人の者此度江戸表へ差送り天下の御吟味に成る間然樣相心得一
先下宿へ下り
控へ居れと申し渡されければ兩人はハツと平伏し
喜び涙に
昏たりける夫より
松平殿は給人竹中直八郎を
呼出されて其方は江戸表へ兩人を
同道なし
邸へ
連參り
御用状を御月番の老中方へ差出し御下知次第掛の奉行へ兩人を引渡し候上
再び
旅行先へ來るべしと申付られ又給人
牧野小左衞門を呼出され其方は
早追にて遠州
相良へ參り
長門守用人共へ此書状を相渡すべし是は水呑村百姓一件江戸表へ
差立再び吟味に相成事故此方より遣す書状
否は申さぬ筈なれども本人の
爪印相
濟候などと
難澁申
間敷にも非ず其節は此儀を
拒めば主人長門守爲にも
相成まじき段
屹度申渡し
且右掛の諸役人迄
殘らず
迅速に出府致す樣に申渡すべし早々急げと云れしかば
畏まり候とて牧野小左衞門は吉原
宿役人に
早駕籠一
挺申渡し其夜の
子刻過に吉原宿を
乘出し
相良の
城下へと急ぎけり
茲に又水呑村の百姓三五郎は主人九助が無實の
災難を
逃れさせんと種々
工夫をなしけれども領主の役人共
勿々取上げなく却て當時村
預の身となりしかばいとゞ
殘念至極に思ひ此上は
神佛の
應護に非ずんば
遁れ難かるべしとて一七日の間荒行を始め
晝夜共に六ツ時に
水垢離を取て鎭守へ百度參りを致しける其七日の
滿ずる日の
暮方山の上よりして
颯と
吹下す風に飄然と眼の前に
吹落す一枚の
牌あり手に取て見るに
立春大吉護摩祈祷守護可睡齋と記したれば三五郎は心に思ふやう彼の
可睡齋と云ば
東照宮より御
由緒ある寺にして當國の
諸侯も御歸依寺也因ては可睡齋へ參り
委曲事を話し實意を
打明て御願ひ申なば
命乞の事
協ぬ儀は有まじ然なり/\と其儘
駈出して見付驛なる
可睡齋の臺所へ
駈込三五郎は手を
突何卒御
住持樣に御目通りを願ひ度と云けるに
役僧は其方は何者なるやと
問に三五郎ハイ私しは相良領水呑村の百姓三五郎と申者御住持樣へ
直に御目通の上御願ひ申上度儀御座るにより參りしなり
何卒御
執次下さるべしと申ければ役僧は
己に申ても
解るものを百姓の
分際として御
直に申上たしなどとは無禮なりと少し
怒りを
含みて汝は當山を何と心得居る
駿遠參三ヶ國の
總祿所八百ヶ寺の
觸頭寺社奉行直支配の寺なるぞ
其住職の
大和尚へ
直談致などとは不屆至極なりと云に三五郎は
否夫は御前樣の仰なくとも承知で御座る
寺社奉行樣の御直支配は
扨置假令宮樣御門跡樣でも御願申上からは御
逢下されぬと云儀は
憚りながら御座るまじ御
釋迦樣は
淨飯王と云天子樣の御子なるが世を御
救ひの爲なれば
惡病人は勿論五十二類の者迄にも御
教化遊ばされしと承りしと云に役僧は
益々怒り其方は
高慢の儀を云
奴かな
釋迦の時は釋迦の時今の
時代は又今の時代なりと申を三五郎は何分承知せず然樣なら御
釋迦樣の時は
極樂へ
遣今の時代は地獄へ御
引導成れますか
憚りながら
出家の御身分は何と御
心得成れますぞと
顏色變て言ひければ役僧は
己不屆至極な奴なり
汝は大方
搖り
騙に相違は有まいコリヤ男共此
奴を
追出せ
夫擲き出せといふ聲を聞より下男共は手に/\
棒縢を
[#「棒縢を」はママ]携へて追立んとすれども三五郎は少しも
騷がず
擲なら
勝手に
擲かつせい何を以て出家の口から私を
搖りだの
騙だのとは云つしやる
昆虫迄も殺さぬを
殺生戒とは申さずや罪なき一人の百姓を打
擲んとは出家に
似氣なき成れ方お釋迦樣は親を
殺し
主を殺す五
逆の
罪人でも
濟度なさるゝに此御寺を見込て御願ひに參りし
土民の申事を御聞
入なき時は是非に
及ねども兎に角
和尚樣に御目に掛り一
通り願ひ上げ
協ぬ時は
歸る分の事私より決して手出は致さぬと云つゝ其所に居し
凝にぞ
弟子番僧は
立騷ぐを
方丈聞かれ何事なるやと
尋らるゝに水呑村百姓三五郎と申者御逢を願ひ度と申
出しが百姓の
分際にて御
直に御目通りは叶ひ
難[#ルビの「がた」は底本では「がこ」]しと申せしかば
斯の仕合なりと言に
方丈は其者是へ
通せと申さるゝゆゑ
侍者の坊主
立出コレ
各々方鎭まられよコリヤ百姓
和尚樣御
逢成るゝに因て此方へ通るべしと言を聞て三五郎是は有難しと後に
尾て大方丈を
通拔鼓樓の下を
潜りて和尚の座敷の
縁側へ
罷り出平伏なすに此時
可睡齋は靜かに
緋の
衣の袖をかき合せながら三五郎を見遣られ
相良領の百姓三五郎とやら
愚僧へ如何なる用事あつて參りしぞと尋ねらるゝにぞ三五郎はハツと答へ
最前より無禮の儀ども申上しを
御咎めもなく却て御
目見仰付れし事
冥加至極有難き
仕合せなり方
丈樣へ御願ひと申すは
別儀にあらず私し主人儀無實の罪に
陷り近々御所置に
相成に付何卒御
衣の袖を御
掛なされて御たすけ下さる樣に願に
罷り出しと云ければ
可睡齋は
眉を
顰め夫は如何樣の儀なるやと
言るゝに三五郎は九助が是までの
事柄を
一伍一什物語り右に付私し儀
主人の身代り御仕置に相成樣願しかど夫さへ御
取上なければ此上は何卒
貴僧樣の御慈悲
御情で九助が一命
御助け成れて下さらば
誠に有難う御座りますと申せば可
睡齋聞てイヤ
佛道は人を助くるが
趣意なりとて
王法有りての佛法なれば國の
政事に口出しはならず又役人と雖も
筋道なくして人を
害すべきや其九助と云者
假令此
度人を殺さず共是迄に何か惡事が有か但し
前世で人でも殺したる
因果の
報いなるべし然すれば何も
悔むには及ばず皆是因果の
歴然なり
雜法轉輪と
諦めよと言るゝに三五郎は押返し
然樣でも御座らんが
其處が御
出家の役
首の座へ
坐る者を何卒御救ひ成れて下されよと
只管に頼みけれども可睡齋は
首を
振汝よく
聞よ佛法と言共今は末法なり
釋迦の時代とは事
異り
愚僧が如き
不徳にては
勿々有罪の者を
現世にて救う事は成
難し因て國法を立て是を
仕置す然れば及ずながら
未來は救ひも遣さうが現世の罪人を救う事は協はずと申さるれば三五郎は猶も
首を
縁に
摺付其處が御衣役御
圓頂役なれば諸役人も一
了簡異り殊には御
寺格と申彼是助る儀も御座らんにより何卒
命乞成下さるゝ樣
偏に願ひ奉つる此事御聞入下さらば
假令私しの
骸は如何樣に相なるとも聊かも
苦しからず何卒主人の一命をと涙を流し手を合せ
鰭伏々々歎く
體忠義の心
底顯れしかば可睡齋も感心なし
善哉々々汝が
志操感心致したり
力の及ぶ
丈は救ひ遣はさんと云しかば三五郎はハツとばかりに平伏なし有難
涙に
咽び
頓て
暇を告て
臺所へ下り
所化へも
厚く禮を
述居たる處へ奧の方より
侍僧出來り明日は
未明の御供
揃ひにて相良まで御出あるにより
陸尺仲間を
支度すべしと申渡しけるを三五郎は聞て
彌々身に
染々と有難く思ひて立歸れり時に享保二年四月廿七日今日は九助の一件
落着なし
死罪獄門と相定り
家老中諸役人町役所立會の上申渡す事故本多長門守家老本多外記
[#「本多外記」はママ]既に支度に及びて
玄關先に
駕籠を
寄巳刻の太鼓を相待處へ
對の
先箱天鵞絨袋入の立傘等を持ち
緋網代の
乘物にて可睡齋城門へ
乘込來るゆゑ門番人下座をなしながら
可睡齋樣と呼上れば
執次の者は立出て書院へ案内す可睡齋は外記に對面して時候の
挨拶終り後に九助が
命乞の趣きを申入らるゝに外記は
仰の趣き委細承知仕つり候へ
共既に
口書爪印濟たる上は今更致方なく候間然樣に思召るべしと云を可睡齋押返し
愚僧態々推參致し右の趣き御
聞濟是なきに於ては
退院致すべき
存寄に候と思ひ入て申されけるにぞ外記は殊の
外迷惑に思ひ然樣の思召ならば
曲て一等罪を
輕く致すは
格別二人迄の人殺しあればとても助命の儀は
相成難し
何れ共に是より出席致し今一應吟味の上罪を一段輕く申付る樣取り計はんと申に可睡齋も
止を得ず何分にも九助が助命に
相成樣御取計ひをば頼入候なりと
厚く申
置れ
旅宿なる相良の功徳寺へ引取けり斯て程なく巳刻の太鼓も
鳴たる故外記は役所に出けるに
早同役の中村
主計用人小笠原常右衞門柳生源藏大目附武林軍右衞門
物頭には里見※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、737-13]右衞門橋本九兵衞目付朝比奈七之助
徒目付岩本大藏勘定奉行兼郡奉行松本理左衞門代官黒崎又左衞門市田武助町奉行
緒方求馬等出席ありて
足輕共は白洲を固めたり
偖又白洲の
縁側には町奉行下役郡方手代々官迄殘らず
綺羅びやかに居並び今日は九助に切繩を掛て引
据九郎兵衞夫婦村役人周藏喜平次木祖兵衞三五郎下伊呂村名主藤兵衞組頭
惣體引合人殘らず罷り出村役人より
去る廿四日
節儀逐電いたせし旨屆け出一同
外記が出席を待けるに可睡齋との
掛合に依て
時刻延引なし漸々只今出席にて
傍邊の人々へ
會釋して上席に直りしかば松本理左衞門は進み寄九助が爪印を差出すを外記は取上げ口書を
熟々見て九助儀
斯まで白状致し口書へ爪印までなすからは聊かも相違は有まじ然れ共爪印は
逆手なり手を
逆に致し押たるは怪しむべし此儀吟味を
遂られしかとあるに理左衞門は
眉に
皺を
寄仰せの通り
逆手なれども夫は
渠が
得手勝手にて押たるも知れず
左角白状が證據にて爪印は
實の
掟までなれば其邊の尋は致し申さずと答ふるにぞ外記は
首を
振否々左樣の取計は有之まじ
假令白状致すとも口書爪印なければ
所刑には致さぬ
筈なり然るを白状さへなせば爪印は何でも
宜と申ては爪印を
押せるに及ず是は其身の中
骨の
端にて
證印爲す事なれば爪印は輕からぬ儀ゆゑ猶一通り
糾され然るべく存ずる也とあるにぞ理左衞門は是非なく九助に向ひコリヤ九助其方儀此程爪印の節
掌を上へ返して押たる者と相見え爪印が
逆に成て居るはコリヤ如何の譯なりやと云ければ九助はハツトばかりにて一言の
返答もなく只
落涙に
沈み
俯向て居たるにぞ理左衞門は
迫込でコリヤ何ぢや御重役方よりの御不
審なるぞ
汝れ何心なく押たのか
但指に
痛所にても有て
逆に押たるやコリヤ何ぢや/\と
迫立れど九助は一向無言にて只
無念の
顏色をなし
切齒を爲しながら涙を流し居たりける外記は
仔細ぞ有んと上座より聲を掛け如何に九助
不分明なる爪印の致方眞實に申すべしと有しかば九助はハツと
頭を上げて家老中の席を然も
恨し
氣に見上げしが外記の方に向ひ
流石は御當家の御重役程有て
能こそ御尋ね下されたり實の處は人を殺したる覺えは御座らねども責苦の嚴敷故に
所詮實事を申上たりとも必ず御取上はなき事と心得
寧一思ひに
斬れし方が増ならんと覺悟を極め無實の罪を引受て兩人の者を殺せしと
白状は致せしなれども此身にとりて覺えなきこと故至極
殘念に存じ爪印の
節恐れながら上を
怨む心より我を忘れて
逆手に
捺まして御座ると申ければ理左衞門大いに
憤ほり大の
眼を
剥出して九助を
發打と
睨付コリヤ/\其方は只今御重役の一言にのさばり若や命も助るかと
未練にも今となりて
諄言を申條
不屆至極なりと大聲にて
叱り付外記に向ひ只今御聞の通りなれば何も
仔細は御座候はずと云ふを外記は否々
何やら少し吟味が殘つたかと考ると言ふ時同役の中村
主計進み出否外記殿此上御尋ねなさるゝに及ばず
假令如何樣に
拷問が
強いと申たとて身に覺えのなき者ならば白状は致すまじ然るを今此方にて
不審致す詞の
緒に付て
彼是申は
可謂引れ者の小
唄とやら取に足ずと申せしかば外記も
暫時默止居たりしを理左衞門は得たりと九助に向ひ其方は
言語道斷の惡人なり先日獄屋に於て白状致せしを今又
然樣の
空言を申上ば
汝又骨を
碎き肉を
醢にしても云さすぞ少しく
甘き
詞を
懸れば直樣事を兩端に申立る
條不屆至極なりと
勃然となりて怒るにぞ九助は二言と
返答もせず居たりしかば理左衞門は家老中へ
對ひ
此期に及んで斯の如きの
始末言語同斷の
曲者ゆゑ
彌々今日御
所刑に行ひ然るべしと申時
主計は
點頭如何樣
御法の如く申渡て宜からんと云を聞理左衞門は開き直りて高らかに
其方儀先名主惣内妻さとは
先妻に有之候へども一旦
離縁致し候上は
違論之なき筈の處右體の儀を根に持惣内へ
遺恨を
含み去る二月十九日下伊呂村
辨天堂前大井河原に於て右惣内さと兩人を
殺害致し候段不屆至極に付水呑村下伊呂村引廻の上
獄門申付る
と申渡し又水呑村先名主惣内
介抱人九郎兵衞并に同人妻村方役人及び
下伊呂村役人共と呼時一同ハツと答ふるにぞ理左衞門は何れもへ向ひ九助儀先名主惣内夫婦に遺恨是れあり殺害に及び候段一々
白状に及びしに不屆
至極に付
引廻しの上
獄門仰付らるゝなり左樣存ぜよ其外の者共は
不埓の
筋も之なきにより
構ひなしと申渡せば
皆々ハツと平伏なし一
件引合の者共は退きけり此時家老
外記は
不審少なからず思へども證據も之なき事故
強ても
論じ
難く其
席を退き
可睡齋の旅宿に
到り
對面の上天下の
大法は
破り難き趣きを申述
後念頃に
法養の事を頼みける然ば
無殘なる
哉水呑村の九助は
豫て
覺悟とは言ながら我が罪ならぬ無實の
災難今更
怨んで
甲斐なしと雨なす涙に面を
浸し首うな
垂て面目なげに目を
閉口には
稱名唱へ
未來を頼み彌陀如來
救はせ給へと口の内今ぞ一期と
看念なし
水淺黄色の
袷の上に
切繩を
懸馬の上に
縛り付られ眞先には捨札
紙幟を立與力同心
警固をなし
非人乞食取込で
相良の町へ引出されしは
屠所の歩行の未の上刻是を見んとて
群集ふ老若男女おしなべて
哀の者よ
不便やと云ぬ者こそなかりけれ
斯る所に向ふよりして
早駕籠一
挺ワヤ/\と
舁來り人足どもは夫御早なり
片寄々々御用々々と聲を懸つゝ制しければ
引廻し者は道の
傍らへ寄居るを早の
侍士所刑者と聞より
駕籠の
簾を
撥退見るに先に立たる捨札に水呑村九助と書付けありしかば
領主の
檢使役人是へ/\と
[#「是へ/\と」は底本では「々々是へと」]聲を掛しかば仕置掛りの者ども
吃驚なし當日の
檢使與力村上權左衞門田中大七の兩人馬より下り立駕籠の前に來りて
拙者共は
本多長門守家來村上權左衞門田中大七と申者今日人殺し
科人水呑村名主
[#「水呑村名主」は底本では「水呑名主村」]九助儀
獄門の仕置に
付檢使申付られ只今
刑場へ
臨む所に候然るに
貴所樣には如何の御方にて又何等の御用之あり拙者共を御
呼留成れ候やと申に早打ちの侍士
莞爾と笑ひ
御道理の御
訊問拙者儀は御代替りにつき將軍家の御目代
巡見使松平縫殿頭殿家來牧野小左衞門と申者此度
御領内水呑村名主九助一件江戸表へ御差出の御用状
持參致したり當地
重役衆に
御意得る間
所刑者は是より引返されよと申せば兩人の
檢使答る樣御巡見樣よりの御
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、740-10]とあれば
仔細も有之間じく候え共拙者共
役儀に候へば此處に控へ
罷在り重役共の下知次第引取るべし
依て
直樣引返し
[#「引返し」は底本では「引迄し」]候儀は御差※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、740-11]に隨ひ難しと申ければ小左衞門は是は
御道理なる儀某し早々重役衆に御
達し申べし沙汰の有
迄御
控へあれと云
捨駕籠を
急がせんとなす時兩人は
暫しと聲掛今日は當所
評定落着日に付役人共町役所に
相詰居るにより
直に役所へ御出有て
然るべしと申にぞ小左衞門承知なし町役所へと急ぎ行
頓て遠州
榛原郡相良の城下
根來町役所へ
横着に
乘込たり
然ば詰合の役人共大いに驚き何事やらんと早速尋ぬるに諸國巡見使松平
縫殿頭使者牧野小左衞門なりと云ながら駕籠より立出刀
引提役所の上座へ
通りければ諸役人下座へ引下り一同
平伏す時に小左衞門重役衆と聲を掛るに家老本田外記
[#「本田外記」はママ]中村
主計進み出一通り
挨拶畢る時兩人は何等の御用に候や伺ひ奉つらんと申ければ小左衞門は
状を改め今度主人縫殿頭より使者の趣きは長門守殿御
領分水呑村百姓名主九助一件に付用人共より
各自方への御用
状先御披見成れよと首に掛たる御用状を相渡せば
外記は之を請取
封押切て讀上るに
以剪紙得御意候
然ば
今般主人縫殿頭儀
台命を蒙り
駿遠三
尾濃四ヶ國
[#「駿遠三尾濃四ヶ國」はママ]巡見として罷越し駿州吉原宿
泊の節長門守殿御
領分水呑村名主九助妻
節并に駿州島田宿藤八と申者
愁訴の趣き吟味に及び候所
再應糺明の筋有之に付右の段江戸表御老中方へ縫殿頭より御屆けに及び右節藤八とも
差立相成候間本人九助并に九郎兵衞夫婦下伊呂村々役人其外
掛合の者一同勘定奉行兼郡奉行松本理左衞門始め掛り役人殘らず江戸表へ早々差出し三番町松平縫殿頭屋敷迄
相送らるべく旨申入候
樣縫殿頭申付候之に依て此段御
達に及び候以上
松平縫殿頭家來
斯の如き文面に詰合の役人共は一同
茫然たるばかりなりしが
俄に役所は大
騷動となり
科人九助は早々引き返させよと早馬にて
乘着させ又
領主には在國故家老共より申達し巡見使へは
畏まり奉つるとの御請書を差出し郡奉行其外
掛役々へは出立の儀申渡す等其
混雜鼎の
沸が如くなり茲に又九助は引廻しの馬の上に
縛られ既に
相良の城下
外まで引れ來り今
刑場へ
臨まんとする時江戸の方より來りし
早打の
侍士に
引止られ檢使の役人を始め
暫時其所に
待居ければ
[#「待居ければ」は底本では「侍居ければ」]此は如何なる事やと思ひける中程もあらせず城下の方より
汗馬に
鞭を
當御巡見使よりの御
差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、741-16]なり九助を早々
引戻せと
大音に呼はるを
聞檢使の役人を始め
警固の人々
驚破とて其儘城下へ引返せば九助は今死ぬる身と思ひ定めしに
俄に引返せし事如何なる譯やと夢に夢見し心地して
只茫然たる
計りなり斯て四月廿八日
囚人九助を
還羅鷄籠に乘せ
徒目附足輕目附等
警固なし其の外松本理左衞門黒崎又左衞門
市田武助
栗坂藤兵衞
抔吟味掛の役人
何も
駕籠に
打乘又九郎兵衞夫婦村役人共大勢付
添本多家用人
笠原常右衞門惣取締として江戸表へ出立なしたりけり
偖又松平縫殿頭殿の給人竹中直八郎は藤八お節が
願書并びに御
用状等江戸表へ
持參し御用番の老中松平
右近將監殿へ差出し御下知に依てお節藤八の兩人は町奉行大岡越前守殿へ引渡せり然ば越前守殿には藤八お節を一通り吟味の上小傳馬町三丁目竹屋權八方へ預けられ其後五月十二日に九助九郎兵衞を始め
關係の者一同本多家より差送りに成しかば九助は
入牢九郎兵衞夫婦并に村役人共は馬喰町三丁目伊勢屋惣右衞門方へ
下宿申付られ下伊呂村役人は
納め宿淺草平右衞門町坂本屋傳右衞門方へ下宿松本理左衞門始め掛役人は主人方へ預けに相成たり却て
説駿河國府中
彌勒町二丁目なる小松屋にては
抱へ
遊女白妙が
家出せしとて大に驚き手を廻して諸所方々を尋ね
探せしに
行方知れざれば此は
必定桶伏にしたる石川安五郎が
爲業に相違有まじと人々言居ける所に
大門番の重五郎が
阿部川の
河原にて何者にか切殺され
死骸は河原に有之との事なれば此は
渠は番人の事ゆゑ
白妙を
追駈行殺されしものならんとて
早速河原に行て見るに重五郎が
死骸の
傍らに
萌黄羅紗の
煙草入落て居たる故中を改むるに
巴屋儀左衞門樣と云書状二三通外に
買物樣に
手控小帳あり依て小松屋より駿府町奉行桑山下野守殿へ訴へければ
支配内なるにより先
江尻宿の巴屋儀左衞門を
差紙にて呼出し
吟味ありし處儀左衞門心中に驚けども
遁るだけ遁ば
遁れんものと私し儀は十六日に
彌勒町へ參り其節吉野屋と申大門前の酒屋の表にて
大神樂の
舞居しを
暫時見物致し候中
煙草入を
奪れしと見えて御座らぬ故諸所尋ね中に候と申を
桑山殿然樣では有まじ
段々其方が樣子を
糺せしに小松屋の
抱遊女白妙に
執心して只今迄も度々安五郎とか申者と
口論にも及びし趣き聞えたり然すれば汝大門番重五郎を殺す心は有まじけれど
渠安五郎白妙が
逃亡を
追駈し節何か
間違にて殺したに相違は有まじ
包まず申立よと
問詰らるれども儀左衞門は
白状せず
否々全以て殺せし覺えは御座なく尤も白妙と申遊女は兩三度も呼て遊し事御座候へども私しは
妻子も有身に候へば人を
殺す迄には
迷ひ申さず煙草入は全く
盜まれし品に相違御座なくと云ければ
桑山殿には打笑みコリヤ能思うても見よ其煙草入は實盜み取られしものならば
僅か其
場所より二十町内外の處に有べき筈なし其方が申處にては煙草入は安五郎重五郎兩人の中にて
盜み取し樣に聞ゆるが
確と然樣かコリヤ汝が
行状能知たり日頃
不正ざる趣きなれば
疑はしき
廉々少からず
吟味中
入牢申付ると言渡されけり此儀左衞門の女房をお
粂と云しが
夫が此の
災難は
必竟安五郎が
仕業なれば
渠等が
在處知れる上は夫が無
實の難は
遁なんにより
何卒して安五郎を尋ね
出し
夫の
災難を助けんには
神佛の
加護に非ざれば
爲難し幸ひ遠州秋葉三尺
坊の
應護を
祈らん者と一
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、743-8]に思ひ
込しかば夫よりして秋葉山へ
遙々と登しが本社は
女人禁制なるゆゑ上る事ならず因て
玉垣の外にて
祈り居しに
早晩夜に入ければいざや私が家へ戻らんと
崖の道へ來
掛るに
茶店の
仕舞たるが在しにぞ是れ
屈竟なりと
笹の葉を
身に
※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、743-10]ひ
手拭にて
頭らを
包み此處に
這入通夜をなし一心に
夫が災難を
遁れる樣になさしめ給へと
立願をぞ
籠たりける此所は名に
負周智郡大日山の
續き秋葉山の
絶頂なれば
大樹高木生茂り晝さへ
暗き
木下闇夜は猶さらに月
暗く
森々として
更行樣に如何にも
天魔邪神の
棲巣とも云べき
峯には
猿猴の木傳ふ聲谷には流水
滔々と
而木魂に
響遠寺の
鐘も
最物
凄く遙に聞ば
野路の
狼吼て青嵐
颯々と
梢を鳴し稍丑滿頃とも思ふ頃
怪しや
遙か
麓の方よりがさ/\わさ/\と
小笹茅原押分て來る
氣態なればお粂は
屹度氣を
鎭めて
汝今頃
登山なすからは
強盜か但し又我が如き心願にて夜參りする者なるか何にもせよ
訝かしと
星明りに
透し見れば旅人と
思しく
菅笠眞白に光りたり
茲に又彼の石川安五郎は上新田村の
無量庵を出立
先豐浦雲里の方へ行んものと道を急ぎしに※
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、743-16]らずも
踏迷ひ
喘ぎ/\
漸々秋葉の
寶前に來りしが此時は
早眞夜中にてゴーン/\と
鳴しは
丑刻の
鐘なれば
最早何へも行難し
麓へ下れば
狼多く又夜
深に本坊を
起す共起はせまじ幸ひ此茶店にて夜を明さんと
呟きつゝ
茶店に入てお粂が
通夜して
居共知らず上り
込だり扨もお粂は
大膽不敵の女なれば先方の心は知らざれ共
闇さは
闇し
息を
堪て居る中
既に
寅刻の
鐘も聞え月は
梢の間に
顯れ木の間/\も
現々と
茶店の中まで見え
透ゆゑ安五郎は
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、744-2]此方を見返れば
笹簑着たる者の居るにぞ是はと
吃驚し然るにても斯る山中に人の居るこそ
訝しけれ但し
妖怪の
所爲なるかと
疑ひつゝ聲を掛け夫なる者は何者ぞ
旅人か又は
山賊の
類なるか
狐狸なるか
應へをせよと
傍らへ
摺寄ればお粂は
疾より心得居し事ゆゑ一向
驚かずアイサ私しは
盜賊山賊の類でなく又
狐狸にても候はず
大願有て當山へ
籠りし者なり本社
拜殿は女人
禁制故此
茶屋にて
通夜を致し候因て貴所には何れの御方にて候哉と
問返され安五郎は又驚き
扨々女子には
珍らしき者かな如何なる
心願かは知らねども斯る
深山へ
籠らるゝ事
感じ入たり某しは信州へ
秋葉越して參らんと思へども一人
旅ゆゑ
泊てはなく斯る
深山に
踏迷ひ漸々是まで參りし者なれば
必ず心を
隔給ふな
最早夜明にも間はあるまじ夫までは
先暫時此所に
休息致さん又其
許には定めて此
近邊の御人成んと聞にお粂も此人
盜賊などにあらずと安心し
打解し
體にて
傍へ寄私しは駿州
江尻の者なりと云ながら
面を
透し見て
吃驚なしヤア此方樣は石川安五郎樣と云に安五郎も
顏を
透[#ルビの「すか」は底本では「かす」]し見て然樣云其方も何やら見た樣な
御内儀其許はと云をお粂は聞私しは江尻宿の
絹商人にて
巴屋儀左衞門が女房粂と申者此方樣故に夫儀左衞門は
無實の
災難大門番の重五郎を
殺したとて今は
入牢の
苦み夫も誰故此方樣が小松屋の
抱遊女白妙を
盜み
逐電し夫のみならず大門番の重五郎を殺し
罪を
夫へ
塗られし
殘念さに何卒此方樣に
出會夫が
罪を
免されんと此
秋葉樣へ
誓願込たる一心
屆きて今
此處にて出會しも
嗚呼忝けなしと
宮居の方を
伏拜むを見て安五郎はアヽ若コレ御内儀
粗忽な事を申されな小松屋の遊女
白妙を連て
立退しは此安五郎に
違ひなけれど然ながら其節我は
鞠子の
柴屋寺へ先に參りて
白妙の來るを
待て居し故其場の樣子は知らず
跡にて白妙に聞くに彼の大門番の重五郎といふは
元白妙が親元遠州
濱松天神町松下
專庵と云醫師に
召遣れし
古主筋故其夜の
都合をなして白妙を
逃したが又儀左衞門殿も
一體白妙が
馴染の客にて是も其夜白妙を
阿部河原まで
追駈來られ重五郎と
問答中白妙は
船に
飛乘柴屋寺まで參りしなり其後樣子を聞ば重五郎は
船場にて
横死の由
是全く儀左衞門殿が手に
掛られしに
相違なし然れば御内儀必ず我を
恨み給ふな是皆
自業自得と
諦められよと申をお粂は聞も
終らず
濶と
急込是は
卑怯なり安五郎殿白妙と
逃亡せしのみか何が
證據で重五郎を家來筋と
言るゝや
死人に口なし
所詮爰にて
兎や
角云とも
理非は
解らず
夜明なば
是非にも
駿州まで同道なし
善惡を分てお
貰ひ申さにやならぬと
血眼になりて申にぞ安五郎は
當惑なし我等とても段々の
不仕合折角連退たる白妙には
死別れ今は
浮世に
望みもなければ
信州の
由縁の者を頼み
出家遁世を
遂べしと存ずるなり何とて
僞りを申べきと問答の中に
疾曉に
近くなりければ安五郎は
急ぎ
立去んとしけるをお粂は
先待れよと引
止る故安五郎は
面倒なりと
突飛すを又も
飛付女の一
念止らぬ遣らじと
爭ひける中茶屋の
簀の
子を
撞乎踏拔罵り合て
挑みける此物
音本坊へ聞えしにや何事ならんと
朝看經の
僧侶達下男諸共十六七人手に/\
棒を
携へて
駈付見れば是は如何に餘りし
黒髮を
振亂せし廿四五歳の女と三十
近き
色白き男と
組つほぐれつ爭ひ居たしかば扨は
此奴等色事の
喧嘩にてもなすかや併し見て居られぬとて漸々に
双方を
引分委細の樣子を聞て所の
代官首藤源兵衞より
公儀御代官二
股の
陣屋大草太郎左衞門殿へ差出し一通り吟味の上駿府へ
差送りに相なり石川安五郎は
揚り屋入申付られ其後同所町奉行
桑山下野守殿
種々吟味ありしかど重五郎を殺せし覺えなく又
白妙が
身寄の者の申立るにより白妙が親
濱松の松下
專庵後家を呼出し
吟味有けれども事
柄確と分らず小松屋よりは安五郎
多分脇へ賣たで有んとの訴へなり又儀左衞門の女房も訴へ出しに付
無量庵柴屋寺を呼出さねば分らずとて江戸
表へ差出しに相成たり時に石川安五郎廿七歳
江尻宿商人巴屋儀左衞門三十一歳同人妻粂二十五小松屋小兵衞并
彌勒町々役人江尻宿々役人
差添江戸町奉行大岡越前守殿へ差送られしかば
駿府町奉行
桑山殿よりの
調書を以て
一通吟味これあり安五郎は
揚屋入儀左衞門は
入牢同人女房粂は長屋預け申付られ駿府御代官太田三郎四郎殿へ柴屋寺
住持を差出す樣又遠州
相良本多長門守殿家來へ同領内上
新田村
無量庵を差出すべき旨差紙を出されたり
享保二丁酉年五月十八日南町奉行大岡越前守殿白洲へ一件の者一同呼出され一々呼込になりしが
縁側には本多長門守殿留守居始め郡奉行代官等今度吟味掛りの者ども白洲右の方に九郎兵衞夫婦左の方には藤八お節少し
引放れて
本繩足枷に掛り九助平伏す時に大岡越前守殿本多長門守
家來と呼れ九郎兵衞が願書を是れへ差出せと申さるゝに本多家の
留守居ハツと答へて
懷中より取出し
目安方へ差出すを大岡殿の御覽に入目安方之を讀上る
一本多長門守領分遠州榛原郡水呑村百姓九郎兵衞同人妻深右兩人願ひ上奉つり候當村名主九助儀は私しども甥に御座候に付私し娘里儀を九助と娶合置候處右九助儀先年江戸表奉公へ罷出候に付里并びに私しども跡へ殘り居り九助留守中取續き方難澁仕つり候を親類惣内儀毎度世話致呉候然る處九助歸國仕つり候てより種々難題申掛自分旅行中島田宿藤八召使節と申者と密通仕つり貞節に留守相守居候里に種々惡名を付離縁致すべく段申重々不埓に御座候間其節異見差加へ候へども却て私しを恨み遺恨に思ふか悴惣内と里と不義致居る旨申掛離別致候故私しども親子道路に餓死も仕つるべく候處惣内儀見兼候儘私し共を引取世話致呉其後百姓共取持にて惣内へ里を娶合候然るに九助は是を遺恨に存じ私し方へは不通に仕つり其上惣内夫婦を付狙ひ候事と相見え金谷村へ惣内夫婦罷越候歸りを跡より尾來り夜に紛れて兩人を切害仕つり立退候へども天命遁れ難く其場に九助懷中物落有之同人衣類の裾へも血を引居候に付此儀御訴へ申上候により召捕られ御領主御役人樣御吟味の處九助儀包み課せず終に白状に及び申候然る所今に又々召出され御吟味を蒙り候何卒御慈悲を以て惣内夫婦解死人に仰付られ下し置れ候はゞ有難き仕合せに存じ奉つり候以上
遠江國榛原郡水呑村百姓
大岡越前守殿是を
聞れコリヤ九郎兵衞云願書の
趣きにては
嘸かし
無念に有ん如何にも不便のことなり女房
深も一人の
子息を殺され
老行夫婦の
路頭に
迷ふは後世の杖を
奪れ
嬰兒の
乳房を隱されたるやうなるべし
併此事
屹度九助が殺したると聞受難と申さるゝに兩人は
憤然となり
否々相違御座りませんと云ふ大岡殿コリヤ九郎兵衞夫婦其方共が
悴や娘の殺されし所は何と云地所なるやと有に九郎兵衞はヘイ
大井川の
端下伊呂村辨天堂の前なりと云ければ而て
其の
下伊呂村辨天堂の前より水呑村迄は何程なるや又惣内夫婦は其日何用有て何時に
宅を
出しぞと
尋問らるゝに金谷村に
法用有て
晝前巳時頃より參りしと申しければ大岡殿には
其節九郎兵衞夫婦は
宅に居しやと尋ねらるに私しども兩人も法用の
席へ
同道仕つりたしと
[#「仕つりたしと」はママ]申せしかば然らば歸りの
節も同道ならんに悴夫婦の
切害に
遭し時
只見ても居る間じ如何せしぞと
問詰られ九郎兵衞はグツと
差迫りしが然あらぬ面にてヘイ其節は私し共兩人は
少々先へ
戻りしゆゑ悴夫婦の殺されし事は存じ申さず
翌朝村の者が知らせに驚き其場所へ到り見屆け候處兩人は
數ヶ
所の
疵にて
首は御座なくと申せば大岡殿ナニ首が
紛失致し居りしや夫は又如何なる事ぞと
問るゝを九郎兵衞是は
後日詮議の時首さへ無れば知れまじとて九助
取隱せしなりと云ば大岡殿シテ又首のなき者を
悴夫婦と何して知りしぞと有に九郎兵衞夫は衣類
恰好にて
相分りしと申せば大岡殿ナニ
衣類恰好で分つたと申か成ほど我が子なれば衣類恰好の
見覺えあるは
道理なり
扨々不便な事を致した九助へ吟味を
遂解死人を取て遣すぞと云るゝゆゑ九郎兵衞夫婦は
〆たりと思ひ
莞爾々々面に居たりけり大岡殿は九助に向はれ面を上いと云れ同人の
面體を
篤と見らるゝに年の
頃三十歳ばかり
顏色痩衰へ
肉落骨顯はれ
何樣數日
拷問に苦しみし體なり扨又女房お節を見らるゝに
渠とても
顏色更に
人間の
潤ひなく
色蒼然て兩眼を
泣脹し
櫛卷に髮を取りあげ如何にも
痩衰へたる
其體千辛萬苦の
容子自然と面に顯はれたり
正直の
頭に
舍り給ふ天神地祇云ず
語ず
神明の
加護にや大岡殿夫婦の
體最憐然に思されコリヤ九助其の方は如何なる
意趣有て親類
縁者たる惣内夫婦を
大井河原に於て殺したるぞ願人九郎兵衞夫婦よりの願書前に
讀聞[#ルビの「よみきか」は底本では「よみかき」]せたれば
承知ならん一々覺え有るか何ぢやと
尋問らるゝに九助ははら/\と涙を流し
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、748-3]らず
公儀の御
調べに相成し事
冥加至極有難く存じ奉つる然らば現在の
儘申上候はんが私し儀何等の意趣も之なき惣内夫婦を
殺し申べき此儀何卒御
推察願ひ奉つると申しければ大岡殿
倩々聞れ汝は然樣に覺え無事を
何故に人殺しと
白状に及び
剩さへ
爪印まで致したるぞと是に九助は
怨めし氣に本多家の役人を見遣り御意の通り私し一向覺え御座なき
趣き委細に申上げ候へども御領主の
役人衆御聞入是なく毎日々々の
拷問嚴敷石を抱せ
海老に掛らるゝ事既に十三度に及び
皮肉も
切破れ
骨も
碎るばかりの
苦痛に
堪兼是非なく無實の罪に
陷し所此度是なる
妻節恐れ多くも松平縫殿頭樣へ御
駕籠訴仕つりしより江戸
表へ召出され
再應の御
吟味に
預ること有難仕合に私し
風情の女房が願を御取上げ相成し事一夫一婦の願ひをも
捨給はぬ
[#「捨給はぬ」は底本では「捨給ひぬ」]聖代賢き御代とは申ながら土民の事に付天下の御役人樣へ御
苦勞掛奉つる事
冥加の
程も恐しく此末の申
譯立ず此儘死罪に相成とも少も御
怨とは存奉つらずと申立ければ大岡殿コリヤ九助其方は然樣に申ても一
向に
跡方もなき儀を九郎兵衞とても
訴へは爲まじ
虚は
實を以て爲すと云ことありと云るゝに九助は
愼しみ
恐れながら私し儀は以前五ヶ年
程江戸へ
罷り出奉公仕つり金百八十兩
貯へ國
許へ
戻りし處江戸稼ぎの留守中先妻里儀
先名主惣右衞門
[#「惣右衞門」はママ]悴惣内と
不義仕つり
剩さへ私しの金子を其翌日惣内に
騙取せしを
那に
控居る藤八が
計らひにて金子は
殘らず取
戻し候間先妻里の
不埓はあれども
親類中故右金子の中を分手當も仕つり
離別致せし所同村百姓共の
世話にて不義の相手惣内方へ取持仕つり又伯父九郎兵衞儀も
幸ひ惣内親惣左衞門は
相果母親深ばかりゆゑ
渠が方へ參り度と申に
任せ里に付て伯父をも遣はせしなり
恐れながら私しが
心底斯の如く何卒御
賢慮を願ひ奉つり候
遺恨に存ずる心底ならば
不埓の先妻は申に及ばず伯父九郎兵衞へ千辛萬苦致して
貯へたる金を遣はす理の御座るべき是れ私しが
遺恨を
含まぬ
證據に候と申せば大岡殿には五年に二百兩に近き
大金を貯へたる稼は武家町人は何れへ
奉公致したるぞと有るに九助然れば御
恥しきことながら日本橋室町三丁目のといふ時大岡殿如何さま番人の九助なりしと云るれば九助は然樣に候と
答るに大岡殿成程今はみいらの如くに
骸は
碎かれ昔の
形容なきゆゑ心付ざりしが其
砌は正直過て上の御厄介になりたる
汝今
更昔しの事を彼是と
勘考するに今度の儀も
篤實過汝が身の
難儀に成しかも量り難し水清ければ
魚棲ず人明らかならば
交はり少なしとは汝が事ならん扨々
憫然至極と
姑らく
默止て居られしかば
白洲は
寂と
靜まりたり
良有りて大岡殿再び九助に向はれ番人を
勤め中天より
授かる金とは云ながら千
辛萬
苦せし金の中八十兩と
[#「八十兩と」はママ]申大金を不義の
女房并に伯父九郎兵衞へ能く分て遣はせしぞ
伯父は母方か
父方かと問はるゝに九助こたへて
亡夫九郎右衞門まで七代の間水呑村
名主を仕つり九郎兵衞は九郎右衞門の
弟なれ共一
體若年よりといはんとせしが伯父の
讒訴は如何とぞ心ろ付
亡夫の
勘當を受け十七年の間
相摸國御
殿場村に居りしを私し親共死去の
節戒名を
屆け呉よとの
遺言も有之に付其後村方の
飛脚序に九郎兵衞の在所を尋
逢同人御殿場にて
養ひし娘里諸共
古郷へ引取候と申ければ大岡殿には
父なき後は伯父を父に代るの心得
奇特なことぞ而て又
深は其の右に
[#「右に」はママ]如何なる
縁續きなるやと言るゝに九助はヘイ
元母方の伯父
嫁なれども惣左衞門
死去せし後當時又九郎兵衞に
連添居れば伯母とは云候と申せば大岡殿
成程汝が申口にては惣内を
害する程の
意趣も有まじなれ
共汝の
衣類の
裾に
血を引又
所持の
鼻紙入が
殺害人の
傍邊に
落て在しと申が此儀は如何なるぞと
糺さるゝに九助は其儀は同日私し儀も金谷村の
法會の
席へ參り居り
混雜の
砌鼻紙入を
置忘れ小用に立し中
紛失仕まつりしにより諸所相
搜し候へども一向に見當り申さず
餘儀なく歸宅仕つりしところ其節私し妻の實母年回に付上新田村なる
無量庵の
大源和尚へ供養を頼み度と
妻申候により私しの爲にも
姑の儀故
草臥足をも
厭はず
夕申刻過より右の寺へ參り暫時物語等致し居
存外遲なはり夜
亥刻近き
頃上伊呂村迄
[#「上伊呂村迄」はママ]歸り來りし時河原にて何やらに
跪きたれども
宵闇なれば物の
文色は分らず
只人の樣子ゆゑ
酒に
醉し者の
臥り居し事と心得氣の
急まゝ能も
糺さず早々歸宅仕り其夜は
直樣打臥翌朝起出門の戸を明候折
衣類の
裾に
血の付居しを妻節が見付如何いたせしやと申され私しも
驚き
考へ然すれば昨夜河原にて
跪きしは生醉に之なく怪我人にても有しや
且昨日金谷村
法會の
席にて鼻紙入を失ひ種々相尋候へども
見當らずなど物語り居し
機から九郎兵衞が
案内にて御領主の役人入來り有無を云せず
召捕れ申候然れば右鼻紙入の紛失と云ひ其夜切害人の
傍邊に
落し之有し事ども如何にも
不思議と存候間其邊を御吟味下さるゝ樣御領主の
役人衆へ度々申立候へども更に御取上御座なく
只々人
殺しの儀を白状せよとのみ嚴しく仰聞られ其後
種々の
拷問に掛る事二十五度の中石を
抱き
海老責になる事十三度何程申
解致し候とも
少しも御聞入なく候まゝ
寧此世の
苦痛を
遁れんと存じ身に覺えなき罪に
陷候と申ければ大岡殿には而て其方鼻紙入
紛失の
詮議は之なきやと云はるゝに九助夫等の儀は一向御
糺しは御座なくと申せば越前守殿
暫時考られコリヤ九助其方は當時の妻節とは
豫々密通致し居しゆゑ
渠を入んが爲先妻へ無實の
汚名を
負せ
追出したる
旨九郎兵衞よりの
訴状面に見ゆるが此儀申
解ありやと有に九助は全く以て
右樣の事は御座なくと委細の
事故を申立んとする機後に控へし藤八
恐れながら其儀は私しより申上んと進み出全く申樣の
筋には御座なく先以て是なる節と申女は私し
姉の娘にて
駿河國阿部川出生の者に候所姉
聟相
果幼少の身を以て母の長病を
介抱致せし孝行
大人も及び難く然るに
或時不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、750-12]勾引されしを九助江戸へ出府の
砌途中にて渠が
厄難を救ひ遣し其後五年過て九助儀は百八十兩餘の大金を所持仕つり江戸より歸國の
旅中瀬戸川にて難儀の
機私し儀
[#「私し儀」は底本では「私し姉」]身延山へ參詣の歸り掛け幸ひに行逢見兼しまゝ
盜賊共を
追散し私し方へ伴ひ立歸りしなり其
頃は私し姉儀
病死仕つりしにより節は私し方へ引取置候處九助と
顏を見合せ
互に不思議の
再會を喜び候と言を聞れ大岡殿は扨々人を助れば助けらるゝ天の
惠爭はれぬものと申さるゝに藤八は
仰の如く九助儀大金を持て歸村の程
覺束なしと私し儀存じ右の金を預り歸村後兩三人
連にて
請取に參り申べしと
約束いたし私しより日蓮上人
直筆の
曼陀羅を九助に渡し右を證據に金子と取
替遣し候筈の所翌日九助の
親類周藏喜平次と申者の由にて曼陀羅を持參仕つりし故預りし金子を
渡し遣せしに其日の
夕暮九助
蒼くなりて馳來りしに付何事にやと相
尋ね候所曼陀羅
紛失の次第斯樣々々と
片息になつて申聞候により私し工夫仕つりし所此儀他村の者の知べき程の
間合之なく何れ村中の者ならんと心付候まゝ同人歸村の
祝ひと名付水呑村惣中を呼集め大
振舞致すべく其節私し
密かに參り見候はゞ右曼陀羅を盜み取私し方へ
騙に參り候者相知申べしと
相談仕つり九助儀は
直樣水呑村へ立歸り歸國の振舞と申翌日村中を呼集め酒宴
最中私し儀密に同人方へ參り
勝手より
窺ひ見候處昨日九助
親類周藏と名乘しは名主惣内
喜平次と申せしは同人手代源藏と申者に付九助へ其
段申聞
取押へて吟味仕りしに九助
留守中同人
妻里事惣内と
密通に及び居九助
持歸り候曼陀羅を
盜み取惣内へ
送り遣はし惣内儀源藏と申合せ私し方へ參り金子
騙り取しに
相違是なき旨
相顯れ候
併しながら村中の者共名主の事ゆゑ氣の毒に存じ中へ立入
種々取
扱ひ里儀は何となく
離縁と云事に相成九助より申上し通り金子は惣内より
取戻し候まゝ右の中ちを五十兩九郎兵衞里兩人の
養育料として
遣し候儀に御座候其後九助同村の周藏喜平次木
祖兵衞等が
取持にて私し
姪節儀を九助と
配偶たき由申により私し養女に仕つり同人方へ
遣せし儀に御座れば何も
不義の
徒ら者のと私養女に
難曲を付るに及ぬ事
委細は村役に御聞下されなば
委細御分りに相成候と云にぞ大岡殿コリヤ周藏木祖兵衞百姓
代喜平次今藤八が申通りに
相違なきやと有に三人の者共一同に
毛頭相違之なくと申せしかば大岡殿
然ば
[#「大岡殿然ば」は底本では「然ば」]九助が申處一々理のある樣に相聞ゆ
猶追て吟味に及ぶと申さるゝ時
下役の者一同立ませいと聲を掛其日は白洲を
閉られけり
斯て又
享保二年五月廿六日
双方共明廿七日
辰の
刻評定所へ
罷出べき旨
差紙あり依て願人相手方
殘らず評定所
腰掛へ
未明より相
詰る抑も評定所に於て
吟味のありしは寛永八年二月二日町奉行島田
彈正忠殿宅へ老中方其外役々
寄合公事沙汰ありしが始めにて其後
酒井雅樂頭酒井
讃岐守殿并に老中方の
屋敷へ寄合れしに寛永十二年十一月十日御
城内に評定所を定められ十二月二日より評定所に於て役々寄合あり夫より毎月二日十二日廿二日を定日とせられ
元祿二巳年八月廿五日より必ず御
目付は立合事に相成しなり
然ば此日も
老若方を始として兩御目付三奉行
諸有司小役人に
到るまで皆其家々の
定紋付きたる
箱提灯を
燈し立行列正しく評定所へ出席せられ
威儀嚴重に列座さるゝ有樣實にや日本の
政所曇らぬ鏡の天下の善惡
邪正を明らかに
吐出す流れる
龍の口
偖又諸國よりの
訴訟人共
士農工商出家沙門醫者山伏の諸民に至るまで皆々相詰
罷在ば程なく本多長門守
領分遠州
榛原郡水呑村九助一件
這入ませいと
呼込になり一同ハツと答へ願人相手方其外村役人共付
添白洲へ
繰込九助は領主より
引渡しの
儘いまだ
足枷を打れ
繩目嚴敷栗石の上に
蹲踞り其次に女房節
舅藤八とも
謹んで
平伏す又右の方には訴訟人九郎兵衞夫婦其外引合の者村役人等居並びしが何れも遠國
邊鄙の者始めて天下の決斷所へ出ければ白洲の
巍々堂々なるに
恐怖なし
自然と
戰慄居たりける又た本多家の役人松本理左衞門始め吟味掛りの者一同
留守居付添縁側へ
罷出左の方には目安方與力其上に
留役衆白洲の左右には十手
捕繩を持同心
跪踞居る時に
警蹕の聲と
諸ともに月番の老中
志州鳥羽の城主高六萬石從四位侍從松平右近
將監源
乘包殿上座に
着座あり右の方三
疊程下り若年寄上州
館林の城主高五萬石從五位
に朝散太夫太田備中守源
資晴殿引き續いて寺社奉行
丹羽國永井郡
園部の領主高二萬六千七百石從五位朝散太夫小出信濃守
藤原英貞殿大目付には上田
周防守
義隣殿町奉行中山出雲守殿大岡越前守殿
公事方勘定奉行
駒木根肥後守殿
筧播磨守殿御目付杉浦貞右衞門殿浦井權九郎殿出座あり大岡殿正面
端近く進み出られ右の方に中山殿其の右に大目付御目付立合たり其外勘定吟味役衆
祐筆衆勘定衆兩支配勘定に至る
迄公事立合の役々出席あり此時大岡越前守殿本多長門守家來松本理左衞門と呼れ其方儀は長門守郡方役人として此度九助一件
吟味いたし候
趣きの處其方
詮議強く因て九助事
白状致し罪に伏せしと有
然樣に
相違無やと
尋問らるゝに理左衞門
首を上仰の如く九助儀吟味仕つりし處明白に白状致し罪に
相伏し
口書爪印迄仕つり
科の
次第申し渡し相
濟候處九助妻節并に舅藤八
何樣の儀を
存付候にや一旦罪に伏したる九助儀を今更公儀へ御苦勞を掛奉つり候儀恐れ入り奉つり候全く九助
妻舅藤八とも
不埓至極成者共なりと申ければ大岡殿成程其方が申如く一旦
裁許濟たるを
破らんと爲事
恐を頼みざる
[#「頼みざる」はママ]段
不埓の至りなるが併し理左衞門天下の政事も大小名の家の
政事も
理に二ツは是なく其方は長門守家にては此越前守同樣の役儀をも勤れば
[#「勤れば」は底本では「勤をば」]決斷には如才有まじ
夫人の命の重き事は申さずとも承知ならん然ばよく/\吟味に念を
入囚人九助が罪を
訊糺し罪に
伏せざる中は
是を罪せず
況んや罪の
疑しきは輕く
賞の疑しきは重くすと是賞を重んじ罪を
輕くする事の理なり其方共が
吟味は定めて九助の衣類の
裾に
血の
染たると
鼻紙入の落てありしとを以て
證據となし人殺しは九助と
牢問に及びしならん依て九助は
呵責の
苦痛に
堪兼て其罪に
陷入しを其方は一途に人殺しは九助なりと心得しに
相違有まじと申さるゝを理左衞門は
己が落度にならんを
恐れ
強て云張んと思ひければ
否々落なく吟味仕つりし所全く
意趣有て惣内夫婦を
切害せし趣き白状仕つり其上爪印まで相濟候なりと云に大岡殿イヤサ其所が
所謂虎を
畫てならざれば
却て
狗に
類すと云が如く似て非なる者の間違ひ安き所なり因て篤と
糺明せざれば無實に人を殺す事
往々あり是等は此上もなき天の
憎む處なり餘り
嚴敷拷問に掛らるれば
所詮斯る
苦痛を
爲よりはなどと罪なき者も覺悟に及ぶ事あり是を屈死と云其方是等の儀は申さずとも心得あるべきなれどもいまだ吟味に足ざる所ありと申されしかば理左衞門は
否私し
取調候處にては
血汐の一儀
而已にても九助が人殺し明白なるに況んや其日他行仕つりしと翌朝九郎兵衞夫婦訴へ出其場所に
鼻紙入[#ルビの「はながみいれ」は底本では「ほながみいれ」]の
落てありしかば何より
確な
證據なりと申
張るを大岡殿
押返されコリヤ理左衞門夫が其方
役儀に
疎きと申者九助が
殺たる惣内夫婦が
死骸は數ヶ所の
疵とあり然すれば右の
血汐九助が
裾而已ならず外々へも
掛るべきに左はなく
裾ばかりへ
着しも
不審なり又九助が申立には其夜
上新田村より歸り掛下伊呂村へ來懸りし
途中にて
躓き其の節何者か
倒れ居りしに血汐を引たりとあり然ば九助出先
無量庵をも呼出し九助が
歸宅の
刻限をも
取調申べき
筈なるに其儀是なきよし又
死人の傍邊に同人の
鼻紙入が落てありし趣きなれども右の品は同日
晝の中九助儀
金谷村の法會の席にて
失ひし品なりと申然すれば同人に
恨ある者是を
盜み取人殺しの
罪を九助に
負せんと其場所へ落し置しも
計り
難し依ては鼻紙入
紛失の事柄をも篤と
取糺すべきの處是以て一向其沙汰なく
只々裾に
血を
引たると落てありし鼻紙入とを以て
人殺しは九助なりと見
留嚴しく
拷問に掛し事甚だ其意を得ざる
取計ひなりとありしかば理左衞門其儀は九助何樣申立候とも
渠が
裾に
血を
引居候
而已か所持の品も落て在しからは全く九助が
所業に
相違之なく
假令拷問に掛かり候とて身に覺えなき事は
白状仕つらざる筈なり
前より申上候通り
口書書爪印まで相
濟候は全く
渠が白状に因ての儀に候と
何時にても同じ事を申立るにより越前守殿心の中には扨々
強情なる者とは思はれしかど
猶詞を
和らげられ然らば吟味の
節刄物は何なる品にて
切害致せしや又九助が家内の刄物等
詮議いたし血の跡にても殘り居
怪敷思ふ品にても是ありしや其邊の
糺明屆きしやと有しに理左衞門はグツと言し
切暫時返答なければ大岡殿サテ此儀は何ぢやと再
應尋問らるれども理左衞門は
面色青くなり
赤くなり額に
玉の
汗を
流しうぢ/\として
返答なさゞるより大岡殿少し
聲を
張上られコリヤ理左衞門其方は
先刻より某しが相尋問る事ども一向に
應へなきは
糺明行屆かざる儀と存ずる
彌々其
邊の取
調もなきは役柄に不似合の
致方不埓至極なり只九郎兵衞が申立のみを取上九助を
召捕拷問に及びし事夫は
本田家の
[#「本田家の」はママ]作法なるや
政事は大小有とも法は天下の法なり人の
道は天下の道なり道と法とは私しに
暗ますべからず然るに其の方の如きが
裁許不穿鑿は云までもなく法外の
裁斷と申すべし其の方も領主の
公事決斷を預かる者ならずや斯る
無智短才の
輩がらに此重き役儀を申し付るこそ重役も
左程目の無きものどもにもあるまじ殊に其の方が
面體斯まで
愚鈍者とも見えず是程の
辨まへなきこともあるべからず是には何か
仔細あらんとじり/\
眞綿で首を
締るが如き
糺問に理左衞門ハツとばかりに
溜息を吐き自然惣身
戰慄出しは見
苦しかりし
體裁なり大岡殿には又黒崎又左衞門市田武助の兩人に對はれ其の方どもは理左衞門が下役として九助の所刑方萬事申
談じたる趣き
倶々不吟味なるぞと言るゝに又左衞門其の儀は私くし事毎度同役武助と申合せ種々
異見も仕まつり役儀と申ながら餘り手
強くばかり致しては
實意の吟味に之なき段申聞ると雖も
左右立腹仕まつり私し九助へ
荷擔致し
贔屓の樣にも申され
迷惑に付上役の儀ゆゑ
餘儀なく其
儘申通りに仕つり候と申ければ大岡殿夫は
矢張其方共が
不詮議なり左程に思はば
何故重役に訴へぬぞ
假令頭たり共
趣意に違ふことありと知つゝ重役へも訴へぬは
左右[#ルビの「とかく」は底本では「ととく」]心得違なりと云れしかば兩人一言もなく
恐入て平伏す因て大岡殿また九郎兵衞夫婦を
見遣られ只今
承まはる通り九助が裾に血の付て居るの鼻紙入が落てありしのとばかりでは甚はだ
分明ならず然ば
篤と
思慮いたし事故明白に申立よと有りしにぞ九郎兵衞は
神妙らしく
徐々首を上げ
恐れながら
悴惣内夫婦を殺せし者九助より外には御座なく其
譯と申は先悴惣内が女房里は九助よりも申上し通り同人の先
妻に御座候處九助儀只今の妻節と
密通致居し故私し共
親子を
邪魔に
致し
罪なき者に罪を
着せ
離縁仕つりしにより私し共
路頭に
迷ひ候を村内の者共
達て
勸めに
任せ里儀を惣内妻に
致候
[#「致候」はママ]夫を九助儀今
更未練にも
遺恨に存親類中も
不通に相成
加之同人名主役申付られしより
村長の
權威を
振ひ
私欲押領多く小前の者ども
難儀仕つるに付村中寄り合ひ又々惣内を
歸役致させんと
内談いたせし儀を何時か九助
承知はり其事を
憤ほり
妬み居り候ゆゑ下伊呂村
辨天堂前に
待伏致し惣内夫婦を殺したるに
毛頭相違御座なく何卒明白の御吟味
偏に願ひ奉つると
矢張同じ事を申立れば大岡殿是を聞れ心に思はれけるは老中方始め諸役人の前にて今一
應明白の吟味を聞せんと
故意と
徐かに
詞を
發せられオヽ九郎兵衞
能こそ
委細に申
立たりコリヤ九助其方は只今九郎兵衞が申立に
因ば
左右伯父女房とも無體に追出したる樣なり此儀
如何なるぞと問るゝに九助は
愼んで
答るやう
其等の儀は先日御詮議の節も申上し通り先妻里儀は惣内と
不義仕つりし
而已か藤八へ預け候金子を
騙り取べき
爲曼陀羅を盜み惣内へ
贈り又
翌日酒宴の席にて藤八に
見顯はされ候處惣百姓共
取扱ひにて
惡名を付ず離縁いたし又當時の妻節義と私し密通など致し候事
毛頭是なく妻に
貰ひ受候は斯々なり加之私し名主役申付られ候以來
私欲押領等の儀仕つりし
覺え
聊かも御座なく候と
巨細の
手續明かに申立猶御不審の
廉も候はゞ村役人へ御尋問下さらば事
故委細御分りに
相なるべしと申立しかば越前守殿其事故は先日も申立たる
趣意なれども
先妻里惣内と不義致せしと申は
聢としたる
證據にてもありしかとあるに九助其儀は藤八へ御
尋ね願ひ
奉[#ルビの「たてま」は底本では「たてまつ」]つると申に大岡殿
如何に藤八其方委細の事を心得居かと申されければ藤八
進み出右の儀は先日申上し通り九助
宅にて村中
惣振舞の節惣内事
強情を申
募り居に付き其前日私方へ
騙りに
參りし時
落して
行し里よりの
文を取出し何れもの前にて
讀聞せ其
文言は九助事江戸
表より
持歸り候金百八十兩
島田宿藤八へ
預け是あり曼陀羅と引替に
渡す
約束故曼陀羅を
盜取送り
遣し候間右の金子を
請取其後兩人にて
逃亡致さんとあるゆゑ一座の者共大いに
驚き惣内も
終に一言もなく
閉口いたし候と申ければ大岡殿シテ其文は其方今に
所持致て居るかと云はるゝに藤八
否其後村中役人
立會相談の上里の離縁状に
添て惣内方へ遣したりと云に大岡殿然らば九郎兵衞が申立とは大いに
相違いたし居なり此義節は如何心得居るや
猶委細申立よと有しかばお節は
恐る/\
首を上私し先年
駿河國阿部川村に母と一所に居十一歳の節一人の
出家に
勾引され
宇都の
谷地藏堂まで
引行れし處幸ひ向ふより
參る
旅人のあるにより時に取ての
作意にて
小杉の
叔父樣と
聲を掛しにより彼の
僧は
驚き私しを
放して
逃出せしかば其旅人に
災難を
救はれ阿部川の宿まで
送り
呉し時
始めて九助と申事を
承まはり
彼是日暮方に相成りしまゝ一
禮の心にて一夜を
泊候ひし處
却て私し
親子の
難儀の體を見兼
餘計の
錢を
惠まれ其後五ヶ年の後九助江戸より歸國の
節藤八方へ一
泊致せし時私しも藤八方に居不思議に
再會仕つりしかど其節は
途中にて
胡麻灰に出合九助
難儀致す
趣意に付金子のことに心
遣ひ仕つり居り先年の禮さへ
熟々申候
間合御座なく候まゝ不義など致し候事は
努々御座なく候と
巨細に申立けるにぞ大岡殿なる程
齒に
布着せぬ明白なる
答なりコリヤ藤八節を九助方へ遣せしは水呑村々役人共其方へ掛合て
貰ひ
請しと有が如何やと尋問らるゝに藤八ヘイ
御意の通り九助
親類中周藏左次右衞門
木祖兵衞喜平次
與右衞門大八
善右衞門
孫[#ルビの「まご」は底本では「よご」]四郎八人の代として周藏喜平次の兩人
媒妁となり私し
姪を
達て
所望に付遣せしに相違御座なく然も此度周藏喜平次木祖兵衞
等罷出居により何卒御尋
願[#ルビの「ねが」は底本では「ねがひ」]ひ
奉つり候と申
故大岡殿コリヤ水呑村々役人周藏木祖兵衞喜平次と
呼るゝに何れも平伏なせば大岡殿は
只今藤八が申立る通り相違なきやと有に何れも
仰せの通りなりと申ければ大岡殿然らば節と九助夫婦の儀は
夫是の
義理にて
繋れし天地
和合の
縁にて
双方の申口により事分明なり九助其方島田宿
泊の
節盜賊の
難とは如何なる
譯ぞ又百八十兩と申ては大金なるに其方
馴染も
薄き藤八へ預けしは如何の手續なりしや
猶明白に申せと尋問らるに九助は先日も申上し通り百八十兩
餘りの大金を江戸表より
所持仕つり歸國の節
箱根山向ふより
怪き者兩三人後になり先になり付參り
既に
瀬戸川まで來かゝりし時は三人の者
難題を申
掛甚だ
難澁仕つり一命にも及ばんとなす
機是なる藤八
身延山
參詣の歸り掛け幸ひ其處へ
差掛り私し
難儀の體を見兼右の三人を
片端より
擲き
倒して私しを
救ひ呉同道致し同人宅まで立歸りし處只今節より申上し通り阿部川村の
兆と申者の
娘節が
居合せ藤八は同人
叔父なる由
承まはり候處其翌日藤八申には水呑村まで送り度は
存ずれども
據ころなき用事あるにより用心の
爲所持の金を藤八方へ預け置き歸村の上親類共にても兩三人同道にて請取に參るべし夫迄の
證據に此
曼陀羅を渡し置ん此品は
身延山代
代貫主の極ある日蓮上人
直筆の曼陀羅なり一時も
放されぬ大切の品なれ共金の
引替の爲
預んと申
渠が
思操の
信實に
感じ命にも
替難き大金を
預けし事なりと申せしかば大岡殿人々の申立を篤と聞れ如何樣一々
道理至極に聞ゆるなり扨九郎兵衞
深の兩人只今
承まはる
通り其方共の申立とは
皆相違致し居るぞ汝等公儀を
僞り
訴訟出る條
不屆至極なりと
睨まれけるに兩人ハツと云て
慄出せしがお深は猶
強情に
假令渠等何と申上候共九助と節の不義致せし事は相違御座
無と何かまだ云んとするを大岡殿
默止汝には問ぬぞ其方は先名主惣左衞門が後家にあり
乍ら誰か
媒妁にて九郎兵衞の
妻にや成しやと申さるゝにお
深はシヤア/\として
否誰も
媒酌人は御座なくと云に大岡殿
大音にて大
白痴め天有ば地あり
乾坤和合
陰陽合體して夫婦となる一夫一婦と雖も私しに
結婚なすべからず
然るを汝等が子供達夫婦になりたれば其親々も夫婦になつて
苦しうないと
思ふか汝等が
容子を見るに九助の留守中
悴惣内儀里と
不義を致せしは汝等兩人が
豫て不義致し
居を
見習ひしなるべし
不埓至極の
奴ぢや九郎兵衞申開きありやと云れしかばグツと
差支一言もなく
尻込なすにより追々吟味に及ぶ下れと云るゝ時下役の者立ませいと
聲掛一同
白洲を下られけり
然れば老中方初め諸役人も今日の吟味大岡殿の
明察通りならんと
感じられたり
其後又々評定所の白洲を
開かれ以前の如く老中方
始め諸役人出座ありし時
縁側に
控へたる遠州
榛原郡上新田村
禪宗無量庵の
大源和尚進み出
彼方に罷仕る九郎兵衞と申者と何卒
愚僧が
掛合を御免下されなば御吟味
筋も早く御分りに相成申べしと申
立けるに大岡殿其儀は
何成共
苦からず
差免すとありしかば無量庵は
少し白洲の方に向ひコレ九郎兵衞定めて
愚僧を
見覺えあらんと云れて九郎兵衞は無量庵を下より見上げ何か
吃驚せし樣子なりしかば無量庵は
微笑是九郎兵衞
愚僧に
逢ては一言の申譯は有まいと言に九郎兵衞は然あらぬ
體にて
合點の
行ぬ
貴僧が一言
最前より
容子を
聞ば上新田村無量庵の
庵主とか申事
尤も水呑村より三里に
近き
隣村なれども此九郎兵衞
素より
歸依なければ御
坊の
顏を見るは此御白洲が
始めてなり一言も有のないのと言るゝは如何なる事やと
空嘯いて
居たりしかば無量庵は然樣で有う
人間と
生れて
恩を知らぬを
畜生に
等しと云己等如き恩も
情も知らぬ
犬に
劣りし者は
忘れしやも知れず某しは
元相摸の國
御殿場村の百姓條七がなれの
果なり抑其方は
勘當請し身にて一
宿の
泊る家さへなきを我
富士詣での
下向の
砌駕籠坂峠にて始めて
出會汝が
死んと云を
不便に思ひ
連戻り我が宿に差置六七年
養ひ
置し中其恩義を
忘れ我が女房と
密通なし此條七を追出し田地家
屋敷家財迄奪取んと
謀計て
白鳥を
鷺なりと
僞り
喰せ我を
癩病になし妻子親族に
疎ませたり故に餘儀なく我古郷を立去て原の
白隱禪師の御弟子となり日毎に
禪道の
教化を得て忽ち
開く
悟道の
明門無位眞人至極に
治したる白鳥の毒氣殊更
師の坊より
大源と法名を
賜はり無量庵の主に
直りたり然るに汝は
計略首尾能行ひしと心得我が女房を
妻となし我が娘里を子と
呼て
終に我が家を
押領なせしが其後
博奕に
身代を失ひ御殿場を立退しと聞えたり
然すれば惣内の妻の里は汝が娘に
非ずして此
坊主が娘なり夫に付て我感ずる處あり
彼大井河原
辨天堂の前にて
相果し二人の
死骸は惣内里には有べからず定めし是には
仔細のあらんサア返答せよ何とするやと
板縁を
叩て
詰ければ九郎兵衞發と
赤面しながらも汝こそ不屆者なれコリヤ條七汝は
癩病となり妻子の
捨處に
困りしを此九郎兵衞が引取世話をして遣せしを
忝けないとも言ず恩を仇なる其惡口然樣なる
邪心者故
惡病をも引請しなり我が身の
因果も
感ぜぬ
無得心者と云ふ無量庵
呵々と
笑ひ汝今愚僧をば見た事もなしと云しが扨々俗家に云
盜人
猛々しとは汝が事なり今更
斯る惡人に
交す
詞はなけれども
釋迦は又三界の
森羅萬
象捨給はず汝の如き大惡人
善道に
導き度思ふがゆゑ及ばずながら出家に
列なる大源が申處を
能々承まはれ此上は汝
積惡を
懺悔なし本心に立歸れと
睨付られ九郎兵衞は一言もなく
閉口せし樣子を大岡殿
篤と見られコリヤ九郎兵衞今大源が申を
聞ば汝は
重々の
強惡言語に絶たる者なり依て吟味中入牢申付るとの聲の下より同心ばら/\と
立掛り
高手小手に
縛めたり又ふか儀も九郎兵衞と密通に及び萬事
宜からざる致方不屆至極なり依て
手錠宿預け申付ると有て是又手
鍔腰繩に掛られけり夫より大岡殿九助に向はれ其方
段々吟味を
遂る處一々
明白に申立ると雖も其方儀先頃無量庵へ
闇夜の
節提灯の用意もなく參りしとあり其
刻限篤と申立よと云れければ九助夫は去る三月十九日は私し妻節が實母七回
忌の
逮夜に當り候間上新田村無量庵の住寺は
生佛の樣に
近郷近村にて申
唱ふるにより何卒
回向を頼み度旨申聞候故私しは金谷村より歸りし
草臥足なれ共其
孝心に
愛無量庵大源和尚の庵へ參りし頃は
夕申刻過にして暫時物語いたせし間歸宅は其夜
亥刻頃と申に大岡殿又無量庵に向はれ九助が參りし
刻限歸宅の刻限とも
尋問らるに九助同樣の答へなり時に九助は無量庵に向ひ其節
那方の仰せには
厄難の
相あるにより
能愼めとの事故
何致たなら
遁るゝ事やと
御聞申たれば前世の
因縁に
因此世に於て
災難に
逢なれば遁るゝ事はなり難し然ども命には
恙ないとの
仰なりしが今日までは
先露命を
繋で居りしなりと云を聞れ大岡殿然らば汝無量庵より
直に
戻りしかとあるに九助仰の如く其夜
戌刻過同所を立出一里ばかり參りし大井川の河原を打越下伊呂村の
堤へ掛りし時は空も
曇り
眞闇にて
四邊は見えねども急ぎて歸る途中思はず
武士に
突當り段々樣子を承はりしに
連の女の
行衞を尋る由其人は駿府御城番樣の御家來なる石川安五郎と申御方の趣きにて私し妻節の里水田屋藤八の手紙を持て私し方へ
尋參る處なりしとて右の手紙を見せられし故
同道致さんと存ぜしに
連の女の
在處未だ知れぬにより尋ね出し
同伴の上
參と申され
右等の話にて甚だ手間取亥の刻近き頃たどり參りし處辨天堂の前にて
躓きたれども
刻限は延引致し氣は
急により死人共
心付ず其儘歸宅いたし翌朝相良へ御
召捕に相成し事は此程申上し通りに候と申せば大岡殿シテ其
武士の連の女の
在所は知れたるかと問るゝに九助ヘイ其儀は只今申上し通り私し事は相良へ
召捕れしにより其後の儀は一向存じ申さず然ども藤八は
存居やも
計り難しと申ければ大岡殿又藤八と呼れ其方安五郎とは如何樣の
縁有て九助方へ手紙を
添て遣したるやと有に藤八は其安五郎殿が
連立參られし
白妙と
云女は私し
遠縁の者濱松天神町なる
醫師の娘に候間此縁を以て九助が方へ手紙を
添て送りし處其翌日安五郎が私し方へ參られ申聞らるゝには大井河原にて我が女房の首を
拾たる節
機好く無量庵の大源和尚通り掛られしより
回向を頼みたるに
憫然に思はれ首を
葬り
呉られしと物語りを聞居し處へ又水呑村の
聟九助が大難を受たりとの知せに付
吃驚致せし儘安五郎殿へは
早々に
挨拶を
成直樣水呑村へ
飛が如くに參りし故
跡の事は一向に心得申さずと云ふ然るに
當時石川安五郎の一件駿府町奉行にて
取調られ
彌々大門番の重五郎は巴屋儀左衞門が殺せしとの事なれども白妙其外種々引合も多く是に因て江戸町奉行大岡殿へ引渡し相成しかば九助方
引合として今日石川安五郎も呼出され白洲の
縁側に控へ居たり然ば大岡殿石川安五郎と
呼れ其方儀妻を同道致し遠州濱松へ罷越たる趣きに相違なきやと有に石川安五郎はハツト
平伏なし仰の如く私し妻の實家は遠州濱松天神町松島專庵と申町醫師に
[#「申町醫師に」は底本では「町申醫師に」]候間同人方へ參る心得にて同道仕り候
尤主人へは湯治仕つる旨屆け候て罷越たるに相違御座なくと申立たり
因に云此石川安五郎は駿府御城番松平
玄蕃頭殿家來と云且水田屋藤八よりの内談も有しにより
抱へ主小松屋の方にても
亡逃屆を願ひ下になし安五郎の方へ身請せし事に取計ひし故今度安五郎は
白妙を妻と申立しことなり
看客怪み給ふ事なかれ
扨又大岡殿
尋問らるゝは其筋
本道を
往ずして大井川の川下へ掛り九助方へ立寄んと致せし者なるやと
云るゝに
然れば私し妻儀は水田屋藤八親族の者に候へば同人方へ立寄り夫より同人
聟の水呑村名主九助の方へも立寄候心得にて大井川を相良の方へ參らんと存じ島田より馬を
傭ひ
未刻過同所を出立
致し
河袋と申處迄は私し儀馬に
附添參りたるが山王の宮脇にて小便を致し居る中見失ひ候に付後を
追掛しに上新田村の土手に右の馬は
草を
喰ひ居候が妻も
馬士も
行衞更に知れ申さず候間東西を尋ね廻り
往來の人々に承はるに今此先へ馬士が女を引立て行たりと申により猶ほ
後を
追駈候中とくに日は暮
方角も
分らず
彷徨居りしうち
※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、761-7]らずも九助に出會段々の物語りに
手間取追々夜も
更行に
隨ひ月も出しかば夫を便りに
探し廻る中大井川の彼方なる岡の方に何やら犬の
噬て爭ひ居し
體ゆゑ
立寄しに犬は其品を置て一
驂に
逃行しまゝ右の品を取上見るに女の
生首なり
仍て
月影に
透して猶
熟々改し處
紛ふ方なき妻白妙が首に候間何者の所業なるやと一時は
胸も一
杯に相成我を忘れて
周章仕つり居候
機から上新田村
[#「上新田村」は底本では「上新田町」]無量庵の住僧通り合はせ皆是前世の約束なりと御
教化ありて右の首を無量庵に葬り呉られ候と云に大岡殿シテ
其邊に男の首は
無りしやと申されければ安五郎否男の首は
見當り申さず候へ共其後大井川邊に男女首なき死骸是ある趣き承まはりし故同所へ罷越見候處女の方は妻の
恰好に
似寄候へども衣類相違仕つり居により
不思議に存じ候中右の死骸は水呑村元名主惣内夫婦のよしにて既に人殺し九助
捕押に相成候趣きに付外に妻の死骸は見當り申さず其儘に打過申候と答へしかば大岡殿
始終を
篤と
聞れ
何樣仔細ぞあるべし
偖々不便の至り
也而て其方が妻の敵は一向知れぬかと有に安五郎
然ば其後一向に手掛りも御座なく候と答ふるゆゑ
猶追々吟味に及ぶとて一同
白洲を
下られ老中方始め
役々退出せられけり
茲に又遠州水呑村の
先名主惣内夫婦は九郎兵衞が計ひに任せて江戸表へ出府なし
靈岸島邊に國者の居るを便りて參り此者の世話にて八町
堀長澤町の
裏店を借受
惣内は甚兵衞と
改名し又里はお
豐と改め
少々の
小商ひを始めしが素より
爲馴ざる事にて
肩を
痛め
足を
勞し爲る事成す事
損毛のみ多く
早此頃は
必至と
差迫り今日にも
難澁致ける是ぞ
誠に天の
憎しみを受し者なればお里のお豐は
洗濯をし又惣内の甚兵衞は
日傭に
駈歩行手紙使や
土こね
草履取又は
荷物を
擔ぎ何事に依ず
追取稼を爲し漸々其日を送りしが或日
番町邊の
屋敷の
中間部屋に
小博奕ありて
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、762-5]立入しに思ひの外
利運を得たり
素より
好む道なれば其後は彼方此方と
博奕場を
廻り
歩行けるに斯る
惡黨も
運の向事ありしにや三度に二度は必らず
勝て少しく
懷中の
暖まりしかば
彌々能事に思ひ追々
大賭場へも立入
博奕の仲間に入たりけり然るに六月
末より七月へかけて四五度
續けて
打負しより又々大いに
困窮なし一時勝たる
節拵へし夫婦の
衣類は申に及ばず
家財道具を
皆賣盡し今は
必至の場合に至りければ何がなして
猶資本を
拵へ大
賭場を
張んと思ひ日夜
工夫なし居たりしが茲に甚兵衞は先頃より
日雇などに
雇はれし
南茅場町の
木村道庵と云醫師あり
獨身なれども大の
吝嗇者ゆゑ小金を持て居るよしを甚兵衞聞出しければ彼が
留守へ忍び入て物せんと茲に
惡心を生じ
旦暮道庵が
宅の樣子を
窺ひ
或夜戌刻頃來りて見れば表は
錠前を
卸しありしかば甚兵衞勝手は
豫て覺え居れば今日こそ
好機なれと
裏口へ
廻り水口を
押て見れば
案の如く
掛錠掛けざる樣子故シテ
遣たりと
直と入り
居間の
箪笥を
引明て金三四十兩
懷中に入れ
立上る處に
横面へ
冷りと
觸る物あり何かと
疑ひ見れば
縮緬の
單物浴衣二三枚と倶に
衣紋竹に掛てありしにぞ
毒喰ば
皿迄と是をも
引外して懷中へ
捻込四邊を
窺ひ人足の
絶間を考へ又元の水口より立出
何喰ぬ
顏にて我が家を
指て立歸りたり
道庵は此日
病家にて
手間取
漸々夜亥刻近き頃歸り來り
灯を
點して
四邊を見るに座敷を取
散しあれば
不審に思ひ其
邊を改めしに金子四十三兩と
縮緬の
單物又
木綿千
筋の單物
眞岡中形の
浴衣三枚
紛失せり因て家主孫八へ
委細を
咄して訴へに及しに
翌日定廻りの
同心孫八方へ出張にて
道庵へ心當りの
有無を
尋ね有しかば
道庵別に心當りは御座なくと申に然らば日頃出入致す
貧乏人又は心
易く致し
朝夕小遣錢などを
貸遣せし者はなきやと有に道庵は
暫時考へ別に是ぞと申者も御座
無候へども
貧困人は三四人迄出入致し申候其者の名前一人は
先妻の
甥源次郎と申只今本郷
金助町に罷り在當年四十五六歳に相
成家内
困窮には候へども
正直者にて金子
貸遣し候ても
約束の時日には
屹度返濟致し殊に當時御小人目付を
勤居其外には傳八と申して私し方に二三年も
奉公致し是も
篤實者にて金の番人に致すとて心遣ひのなき者にて深川一
色町に
八百屋を仕つり當時は妻をも
持居り候又
小網町三丁目河内屋と申
古着屋の
裏に九郎兵衞と申
藥種屋の若い者にて
以前より出入を仕つり今に
毎日の樣に參る者あれども是も至て正直者なりと云ば
同心は
最外に
朝夕出入る者は無かと申ければ道庵
猶打案じ八丁堀長澤町に居る甚兵衞と申者
元遠州
邊の
生れの由其日稼の
貧窮にて
折々日雇ひにも致し
召遣ひし事御座れ
共此者も
在所に居し頃は名主役も
勤めし由に承まはりしが成程日
傭取には人
柄も宜しく折に觸ては
留守居をも頼みし事御座候へど
聊かも曲りし心はなき樣に存られ是まで安心致し居其外
別段内外心安く致す者も御座らぬと申立るに同心はシテ其甚兵衞とやらんは一人者か又
女房持かとの
尋問に女房
持なりと
答しかば
道庵の申
口を一々
書留て道庵を歸し
猶種々工風の上先八丁堀長澤町の
自身番屋へ
行家主源兵衞を呼出し
店子甚兵衛の
[#「甚兵衛の」は底本では「源兵衞の」]身元を
糺しけるに
[#「糺しけるに」は底本では「糺けるに」]渠は當四月同人店へ引
移り夫婦
共三州者の由にて
隨分實體らしく相見え候へ共女房は此節
煩ひ居るとの事に付早速甚兵衞を
自身番屋へ呼出し段々と
吟味に及ぶ中外一人の
同心は甚兵衞の家内を
取調ぶるに道庵方にて
紛失せし單物一枚出たる故女房は家主へ
預甚兵衞は直に
召捕猶懷中其外所々改めし所
胴卷に金十二兩餘あり又同人宅の
床下に金二十八兩是あり都合四十兩の金出しにより其金を
所持せし事故を糺されしに申口
不分明[#ルビの「ふぶんめい」は底本では「ぶぶんめい」]故町奉行所へ送りになり入牢申付られたり因て女房は大いに
驚き己病中なれども夫の罪の
輕く濟やうにとて
茅場町の
藥師に
朝參りを始めし所或日
俄雨に逢堂前にて
晴間を
待し中
無量庵も
雨舍に
駈込不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、763-17]種々の物語より親子の
名乘をなしお里は今さら夢の
覺たる如く
後悔して惣内と
姦通せし事の始より九助を
罪に
陷し夫より
影を
隱して江戸表へ
出今難澁をする迄の事どもを
詳に語りければ
大源和尚は大いに驚き此日はお里に分れ其後和尚は
白洲にてお里より聞たる
委細の事を申立しにより
段々吟味の上終に甚兵衞は
包み
課せず因て元惣内と申せし事より其外人殺し等の事まで
明細白状に及びしとぞ
享保二
丁酉年十月廿二日
双方一
統又々
評定所へ呼出しに相成前規の通役人方出座にて
公事人名前一々呼立濟て大岡越前守殿九郎兵衞を見られ其方願書の趣き
段々取調べし所
確なる
證據もなし然らば
屹度人殺は九助とも定め難きを
麁忽の訴へに及び候段
不屆き
至極なり夫人の命の
重きことは云迄もなきを只衣類の血と鼻紙入の落て有しを以て
證據となし申立ると雖も
首もなき兩人の
死骸故
確なる證據とは申難し別に何ぞ確なる證據にてもありやと申さるゝにお
深は九郎兵衞が
答へをも待ず進み出御
道理の御尋問
悴惣内は
幼少の頃私しが毎度
灸を
据ゑしによりて灸
痕これ有又子供同士の口論に
鎌で
疵を付られし痕も御座候へば
縱令首はなくとも悴と申者は
確と見
留しと申ければ大岡殿シテ其
疵痕[#ルビの「きずあと」は底本では「あときず」]は何れに有やと尋問らるゝに左りの
肩より脊へかけ四寸程もありと云へば大岡殿又
里が
死骸の
證據は何ぢやとあるにお深是は
嫁とは申ながら私しには
聢と知れませぬと答へしかば大岡殿は九郎兵衞に向はれコレ其方は永く
養ひし
娘の
死骸なれば
見覺えが有ん何ぞ
目的はなきやと申さるゝに九郎兵衞答へて
渠は
現在一人の娘なれば何見違ふことの候べき
姿と申又衣類と云と申を大岡殿コレ九郎兵衞娘が
體に
疵處其外證據はなきやと云るゝに九郎兵衞は然樣で御座ると云ば大岡殿
聢と左樣かと
念を
押るゝに九郎兵衞仰の通りなりと答へしかば大岡殿コリヤ村役人周藏木祖兵衞惣内夫婦
横死の節
檢使と
立會の上にて其方共も改めたで有ん兩人の
死骸如何なりやと有に周藏木祖兵衞は首を上仰の通り御領主の役人檢使の節改めし處
肩より
脊へかけ
疵が有之候へ共惣内は何時の間に斯る大
疵を
拵へしやと一同
不審に存じたりと申せば大岡殿は
而て女の方は何ぢや
僞りを申な此方にも聞込し儀も有ぞ
有體に申立よと申さるゝに周藏木祖兵衞の兩人は其女の
骸も
改めし處身肉に
疵等は御座らねども只二の腕に安五郎二世と
彫物が御座候と申を大岡殿聞れてナニ安五郎二世と有たかコリヤ九郎兵衞其方が
娘は以前
賣女でも致したか安五郎二世と有は九助か惣内の
幼名にても有しかと申さるゝに九郎兵衞は
以外の事なれば答へに
當惑なせしが
否然樣なものでは御座らぬと申をお深は傍邊よりモシ九郎兵衞殿其
彫物は
[#「其彫物は」は底本では「其殿彫物は」]此
間ソレ
小さく有たと云れたではないかと九郎兵衞へ
眼で知らせる樣子なるを大岡殿は見て取れ大
音に
默止此出
過者め
汝に
尋問はせぬぞ只今九郎兵衞が申には里の
骸に
疵は無いとあり又汝も
嫁ではあれど知らぬと答へしには非ずや然るを今村役人共が申立るを聞て九郎兵衞に
取拵へごとを云はせんとする
心底不屆きなり安五郎と云は是に居る松平玄蕃頭家來石川安五郎なるぞ
渠駿府二丁目小松屋の
抱遊女白妙と申を身請して妻と致し右妻の古郷へ夫婦連にて
罷越途中大井川の
端にて何者の
所業共知れず殺され其
首は
下伊呂村の
岡にて
犬がくはへ
爭居たりしを見付しと安五郎申たり又今一人男の
首は同所を少し
放れし
岡の
小松の根がたを犬の
掘し跡より
顯れ出たるが其者は
藤枝宿の
馬丁松五郎と申者の由是亦同村の者ども申立たり然すれば九郎兵衞
親子の
奸計にて右の
死骸へ惣内夫婦の
衣類を
着せ
置兩人の首を取隱し九助を罪に
陷さんと謀計し事
鏡に
影の
移るが如し依ては惣内夫婦の者
存命いたし居ならん
重々不埓至極の
奴輩なり汝等が
巧み此越前が
白眼し處決して相違あるまじ如何に/\と申さるれ共九郎兵衞は猶も
恐れず
是は御奉行樣の仰共存せず現在我子供等の
存命致し居る者を人手に掛し抔と
忌はしき儀を訴出る者の有
可や
殊には九助が申上る事
而已御取上に相成只々私しを御
叱は
恐ながら御奉行樣の
依怙贔屓と申ものと云を大岡殿聞ナニ九郎兵衞依怙贔屓と申か能承はれ天下の
裁斷を
爲者
聊かたりとも私しの
意を以て
依怙の
沙汰をなすべきや
都て汝が申立は僞り飾ゆゑ本末不都合の事而已多く
聟の惣内は九助が留守中に里と不義致し
汝は惣内母と
密通に及び居しは
畢竟子供等が不義を汝等が
執持致せしも同前なり
然るに九助は其等の儀を
怒ずして速かに離別に及び父が
遺言を
重んじ
不埓の伯父女房等に
大切の金子を
配分致遣たるを好事として
義理も人情もなき惣内方へ入
込夫にても
尚倦足ず無罪の九助を
咎に
陷し罪科に行はせんと
巧し段人面獸心とは汝がことなり今見よ
確成證據を出し二言とは
吐せぬぞ又同じ
衣類を着たるは一
郷に
往々ある事
加之女が死骸も他人にて
白妙に相違なし然らば惣内里では有まじサア
有體に白状致せ
左右強情を申
居只今にも惣内夫婦が出たなら
汝は何と申譯致んぞと申さるゝにお深は又進み出恐れながら女は
別人かは存ぜねども悴儀は
衣類のみ
似たるのみに是なく
帶脚絆迄相違御座らぬと左右強情に
言張に大岡殿大聲に又しても入ざる
差出口
默止其日は九郎兵衞同道にて惣内夫婦
金谷村の
法會の
席へ
參り歸りも同道なりしに九郎兵衞は
途中より聊か先へ戻りしと申ではないか
然るに惣内は
己の女房の
影を
隱し態々他の女を
連て
殺される程の間合もあるまじ夫を
強て申なら里は宅へ
戻りしかと有にお深
否歸りは致さぬと云にぞ大岡殿此
頑愚め己が連出したる
女房里を脇へ遣し又他の女を連て殺されたなどと
然樣に自由に
成と思ふか
公儀を
僞り
掠んとする
横道者めコリヤ安五郎
今一應白妙が事故を九郎兵衞始めへ申
聞せよと有に安五郎ハツト答て其儀は
先日よりも申上し通り
故郷へ參る
途中妻白妙を
馬士に
奪れ其後首ばかりを下伊呂村の
岡にて
拾ひ
上[#ルビの「かみ」は底本では「あげ」]新田村の無量庵へ頼み
葬りしとの手續きを委細に申述ければ大岡殿コリヤ九郎兵衞
ふか那を
聞たか
而て又安五郎其方が妻には二の
腕に安五郎二世と
黥みあると云が
然樣かとあるに安五郎はハツと云て
赤面しければ大岡殿コレ安五郎其河原の男女の死骸は
察する
處馬士が其方の妻を
勾引さんとする
折人違ひ等にて九郎兵衞か惣内の中にて兩人を殺し其始末に
困りし處より首を切て知れぬ樣になさん
爲衣類を着せ
替九助を罪に
陷さんと致せしものと思はる然すれば其方の女房の
敵は是に居る九郎兵衞なるぞと云るゝに九郎兵衞は思はずハツと云て
顏色變りたり大岡殿是に
構れずコリヤ
藤枝宿問屋儀左衞門并に
馬士權兵衞馬持八藏と呼れコレ八藏其方召使松五郎と申馬士の首は下伊呂村の岡にありて死骸は見えざる趣きを
注進せしが其後も見當らぬかと問るゝに八藏
仰の
通り首のみ見當りしにより其後
體をも所々
相探し候へ共一向に知れ申さず尤も
下伊呂村の河原に男女の死骸これある趣きに付
樣子相
尋ね候處夫は
最寄の百姓夫婦なりとか申ことゆゑ其外には心あたりも御座なくと申にぞ大岡殿
然樣して其松五郎の出生は何國にて
平常の行状は如何なる者なるぞと有に八藏
然ば其松五郎儀は信州伊奈郡の者とのみ申居しが道中馬士などは
素より本國も
聢と相知申さず
平常は然まで惡人とも心得ざりし處
追々跡にて承まはるに一體
勾引など致せし者との由なりと申ければ大岡殿コレ九郎兵衞八藏の申立を聞しや
那の通り女は安五郎が女房男は
藤枝宿の馬士松五郎に
相違も有まじ
斯の如く
明白に
相分りたる上は
眞直に申上よ
僞りを云ば
嚴敷拷問を申付るぞ骨を
碎きても云せずに置べきや如何に/\と有に九郎兵衞は猶も
強情く是は
誠に以て御
無體なる仰
哉私し申上る儀に聊かも僞りは御座なくと
云張にぞ大岡殿
否僞りなしとは云さぬぞコレ/\本多長門守家來共只今承まはる通り大井河原の男女の
死骸は
推察する所石川安五郎妻と今一人は其を
勾引せし
馬士松五郎に相違有まじ依ては其方共の
決斷甚だ
暗く
依怙贔屓の
沙汰に聞ゆるぞ此申譯があらば申聞よとあるに本多家の役人共追々吟味
詰の樣子を聞今さら何とも
陳ずべき樣なく
赤面閉口なし甚だ恐れ入候旨答へければ大岡殿には
彌々以て申
譯なきやと申さるゝに三人口を
揃へ何とも申譯御座なくと申にぞ越前守殿只今に相成申譯なしと申せども其奉行頭人たる者
過ち有ば則ち領主の罪領主の罪は則ち將軍家の罪なり民は國の
源無罪の民を
罰する時は
士以て
徒たるべし一夫
憤りを
含めば三年雨降ずと云
先哲の語あり百姓は國の寶人の命は千萬金にも
換難し然るを
正直[#ルビの「しやうぢき」は底本では「しやうぢく」]篤實なる九助を無實の罪に
陷し入しは奉行の
不明なり其不明なる者に
重き役儀を申付たるは其領主の
落度也夫此度の一件は其方共必ず九郎兵衞より
賄賂を請しに相違有まじと
正鵠をさゝれて理左衞門はグツト言て暫く
無言なりしが
否然樣の儀は御座なくとぐづ/\答ければ大岡殿
假令其方
陳ずるとも不吟味の罪は
遁れぬぞ此上にも申
掠んとなさば餘儀なく
拷問にも掛ねばならず然すれば武士の
恥辱は申に及ばず主人へ猶
恥を與る道理なりサア尋常に申立よと言るゝに理左衞門最早
遁れぬ所と覺悟をなし實は九郎兵衞より
時候見舞として
聊か
到來せしと申ければ大岡殿其は何程
貰ひしと云に理左衞門金十五兩貰ひたりと申せば大岡殿ナニ金十五兩とやコレ理左衞門時候見舞とあらば
魚鳥の類か他國の
産物ならば
格別役柄をも
顧みず金子を
受納なせしは即ち
賄賂也下役黒崎又左衞門市田武助其方共も
受納致せしならんと有に兩人は今上役の理左衞門が白状なせし上は
密すも
益無と思ひ上役の申付に
違背も如何と存じ金三兩づつ受納せしと言ければ大岡殿假令上役の申付なりとて
不正の金を受しは
重々の
不屆なり三人共
揚り屋入申付ると言れ又九郎兵衞の方を見られてコリヤ九郎兵衞只今其方へ見するものが有夫を見て驚くなソレ/\彼の兩人を引出せとの
指揮に
隨ひ同心は惣内を
本繩に掛引出せば
後より女房お里も
手鎖にて家主付添立出る九郎兵衞夫婦は是を見るよりもハツト
驚き
呆たる體なるにぞ大岡殿は何と九郎兵衞夫婦の者此兩人は知らぬ者か當春大井川の
端下伊呂村に於て九助の爲に
切害されしと汝等が
訟訴出たる惣内夫婦は今江戸本
[#「江戸本」はママ]八丁堀長澤町と云所に
罷在又々
不埓の儀有て
召捕吟味なせしに
委細白状に
及たり
然ながら
相果たる惣内
夫婦此世に居べき
筈なければ是は必定
幽靈か又は
狐狸の類か惣内に化たるか
予が目には見分らず汝等は親子の事故
目利も
屹度知れるで有う幽靈か又
化生か何ぢや汝等が目には何と見えるコレ九郎兵衞ふか頭を上て
能見留よコリヤ惣内此程申立し如く大井川の
端にて人殺しをせし趣き今一
應申聞よと聞るゝに今さら面目なき體にて私し儀里と夫婦に相成しより
段々村中の
氣請の
惡敷なり役儀は九助へ申付られ家も
淋しく成行中にて母は日増しに
奢増長し
追々困窮に
迫りし折から九助が江戸表にて金子を
蓄殖たる趣きを聞て
羨敷存じ私し夫婦も江戸へ
出稼ぎ
度は存じたれども
外聞も惡く彼是
延引致し居中金谷村に
法會ありて九郎兵衞
諸共里を連て
罷越歸宅の節夜分大井川の端迄參りし處九郎兵衞は酒の
醉にて河原の石に
凭て
熟睡いたし
眼の
覺ぬゆゑ私し儀藥を買に參り
漸々に戻り來りしに九郎兵衞は何者かを相手に
戰ひ居により
左に
右助けんと存じ
宵闇の
暗紛れに切付たるは女の聲ゆゑ偖は女房を切たるかと
狼狽たる處に
傍邊より男一人打て掛りしを兩人して
追廻し漸々に
討留熟々見れば男も女も知らぬ者に付大いに驚きしを九郎兵衞は
了簡ありとて私し共の衣類と
渠等の衣類
着替させ一時も早く
立退く樣にと申故
跡も
氣遣敷は存ずれども九郎兵衞が申
詞に
任せ其所より
直樣江戸表へ罷出改名とう致し居候なりと申立ければ大岡殿コレ九郎兵衞
渠が申は
僞りか惣内が白状に相違有まじ
左右未練に爭はずとも
最早有體に白状致せと申さるゝに
流石奸惡の九郎兵衞も茲に至て初めて
觀念なし今は何をか包み申さん只今惣内が申上しに相違御座なく
渠が藥を
調へに
[#「調へに」は底本では「調へし」]參りし跡にて女の
泣聲致すにより里が
勾引され候事
哉と存じ惡者と
戰ひ居候中惣内
立戻り來兩人にて其者を
追掛河原の方へ到り
暗紛れの
出會頭に切込たれば女の
叫ぶ聲に里を切しことやと驚きながら
漸々件の男をも
切害仕つり其
中月も出候に付
熟々見候へば男女兩人とも存ぜぬ者ゆゑ一時當惑は致せしが今更致し方も無之ゆゑ茲に
惡計を考へ出し
豫て
妬ましき九助に此人殺しの
科を
負せ
渠を
亡者にせんと存じ惣内夫婦の者の衣類を死人へ
着替惣内お里兩人が影を
隱させ其日
法會の
席にて盜み
置たる九助の
鼻紙入を後の證據に死骸の
傍邊に落し置又
悴夫婦と申立る爲死人の首を
切小半道程傍なる
丘の小松の根へ
隱し
埋め
置扨惣内夫婦切害に逢たる旨領主の郡奉行へ訴へ出二十兩餘の
賄賂を
遣ひ九助を殺さんと致せしは如何なる
天魔の
魑入しやと今更
後悔仕つるも
詮なき事なれば
切ては
罪障消滅の
爲懺悔仕つるなり因ては御殿場村の條七娘里儀の不義も何も
斯も
引纏て惡事は此九郎兵衞なれば御
法通りの御
所刑を願ひ奉つると
委細白状に及びしかば大岡殿
神妙なりと有て又お深に向はれ
只今九郎兵衞が申通り相違なきやと
尋問らるゝに最早一
言の
強情も
言難く恐れ入たりと申にぞ大岡殿夫れ見よ天に
眼なしと雖も是を見天に耳なしと雖も是を
聞正邪判然たるは天道の照し給ふ處なり其罪成ぬ九助が無實は今日
顯然たる上からは
出牢を申付村役人共へ預け
遣す其外松本理左衞門始め吟味方役人并に九郎兵衞ふか惣内里等は
爪印申付ると有て何れも口書爪印とぞなりにける
時に
享保二年十二月廿五日一
同白洲に於て申渡され左の通り
本多長門守家來
松本理左衞門
其方儀重き役儀をも勤ながら百姓九郎兵衞より
賄賂の金銀を
受夫が
爲不都合の吟味に及び
罪なき九助を一
旦獄門に申付候條
重々不屆至極に付大小
取上主家門前拂申付る
本多長門守家來
黒崎又左衞門
市田武助
其方
共支配とは申ながら松本理左衞門申
趣きに
相任せ
賄賂の金銀
受納致せし
而已ならず不
都合の吟味に及び候條不屆至極に付
主家門前拂申付る
本多長門守領分
遠州榛原郡水呑村百姓
九郎兵衞
酉五十七歳
其方儀若年より
不身持に付兄九郎右衞門
勘當を受け
相摸國御
殿場村百姓條七世話に相成居候中
惡法を以て條七を難病に罹らせ同人
妻鐵と
密通の上條七を追出し
家屋敷田畑家財等迄
押領致し條七娘里を押て自分養女に致し
甥九助が信實にて古郷へ連歸り候節九助へ里を
娶合家内不如意に付九助江戸表へ奉公に出候留守中娘さと村役人惣内と不義致し其身も惣内母
ふかと
密通に及び九助より
配分の金子を取り里を惣内妻に致し其後下伊呂村にて石川安五郎
妻并に
馬士松五郎を切殺し惣内夫婦を密かに立退せ同人夫婦
切害に
逢し趣きに訴へ出九助を罪に
陷さんと
謀計上を
僞りし
始末公儀を恐れざる種々惡事
重々不屆至極に付死罪の上
獄門申付る
本多長門守領分
遠州榛原郡水呑村先名主
當時八町堀長澤町
源兵衞店惣内事
甚兵衞
酉二十七歳
其方儀村役中
不正の儀多く
殊に九助妻里と
密通に及び九助
親類と
僞り水田屋藤八方より金子百八十兩餘
騙り取り其後下伊呂村にて石川安五郎妻
并びに
馬士松五郎の兩人を
切害なし九郎兵衞と申合せ
其所より
出奔致し甚兵衞と
改名の上長澤町源兵衞
店に
罷在裏茅場町醫師木村道庵方へ
忍び入金子四十三兩
其外衣類品々
盜み取候
始末重々不屆
至極に付
引廻しの上
獄門申付る
本多長門守領分
遠州榛原郡水呑村先名主
惣左衞門後家
ふか
酉四十六歳
其方儀
悴惣内不屆の儀を
押隱し九郎兵衞を
後見人と名付我が家へ入れ
密通に及びし而已ならず同人と申合九助へ
無實の申
掛をなし亡なはんとせし段不屆至極に付
村拂申付る
惣内妻
さと
酉二十一歳
其方儀
養父九郎兵衞申付とは云ながら夫九助が
所持の
曼陀羅を
盜惣内へ相
渡し藤八より金子を
騙り取せ候段不屆至極に付
遠島をも
仰付らるべきの所
實父條七當時出家大源が
願ひに
依罪一等を
宥させられ
輕構申付る
駿州江尻宿百姓
儀左衞門
酉三十二歳
其方儀石川安五郎小松屋
遊女白妙同道にて
立退候節私しの
趣意を以て
追掛彌勒町番人重五郎と申者
支へ候を
切害に及び候段
不埓至極に付死罪申付る
同人妻
くめ
酉二十四歳
其方儀重五郎
切害人は石川安五郎とのみ心得
強て
訴へに及び候條心得違ひなり之に依て
嚴敷叱り置く
松平玄蕃頭家來
石川安五郎
酉二十六歳
其方儀
吟味致し候處
別段の
惡事無之とは申ながら不行屆の儀も有之候故主人方にて
遠慮申付る
駿州相良領水呑村名主
九助
酉二十七歳
其方儀吟味
相遂候所
聊かも惡事是なく且亡父の
遺言を
守り不埓の伯父を
呼戻し養ひ候而已ならず其後大金をも
分與へし所
數月無實の罪にて
[#「無實の罪にて」は底本では「無實にの罪て」]入
牢致し居し段
不便に
思召れ且つ至孝の者に付
苗字帶刀差許す樣領主へ仰付らる之に
依て村役の儀は前々之通り心得べし
九助妻
せつ
酉十九歳
駿州島田宿
水田屋藤八
其方共儀
聟夫等の
災難を歎き
艱難辛苦の上公儀
巡見使へ
訴出申立
明了なるにより善惡判然と相
顯れ九助の
寃罪を
雪ぎし
信義貞操の段厚く
譽置く
遠州上新田村
無量庵住持
大源
駿州鞠子宿
柴屋寺住持
宗久
其方共儀
[#「其方共儀」は底本では「其方儀共」]不埓の
筋も之なし
構ひなし
其外
双方付添の役人共
右の通り申
渡せしにより其
旨心得よと申渡されける實にや大岡殿の
裁斷明鏡に物を
移すが如く
後世其
才量を
稱へるも
宜なる
哉水呑村九助一件
終