方今
我邦、改正・振興すべきものはなはだ多し。音楽・歌謡・
戯劇のごときもその一なり。このこと、急務にあらざるに似たりといえども、にわかに弁ずべからざるものなれば、早く手を
下さざれば、その全成を期しがたし。
けだし音律の
拙き、いまだ我邦より、はなはだしきはあらず。古代、唐楽を伝うといえども、わずかにその譜に
止まり、その楽章を伝えず。
恐くは語音通ぜず、意義感ぜざるをもって、伝うといえども、すみやかに亡びしならん。
その後
白拍子、
猿楽などあり。不全の楽にはあれど、邦人の作るところなるをもって人心に適するは、はるかに唐楽に
優れりとす。
慶元以還、民間
俗楽種々起り、楽器もまた増加し、
古昔に比すればいっそう進みたりというべし。しかれども、おおむね
卑俚猥褻にして、士君子の
玩に適せず。これをもって方今士君子、唐楽・猿楽にては
面白からず、俗楽は卑俚に
堪えずとして、ほとんど楽の一事を
放擲するに至る。これまた
惜むべきなり。
今これを振興せんには、第一、音律の学を講ずべし。音律の学は格致の学に
基き、別に一課をなし、音に従て譜を作り、譜を案じて調をなすの法なり。この法、支那には、ほぼこれあり。欧米諸国には、ほとんど精妙を極む。ただ我邦にいまだ開けず。今これを講ずるは、わが欠を補うの道なり。
楽器は和漢・欧亜を論ぜず、もっともわが用に便なるものを
択むを可とす。
楽章に
至ては、外国のものは用に適せず。内国に行わるるものまた、いまだ適当と
覚しきものなし。やむを得ずんば、
観世なり、
宝生なり、竹本なり、
歌沢なり、しばらく現今衆心の
趨くところにしたがい、やや取捨を加え、音節を改めば可ならん。
とうてい我邦の楽章には
韻※[#「足へん+却」、U+8E0B、151-7]なきをもって、聴く者をしておおいに感発せしむるに足らず。衆人
追々支那欧亜の唱歌を聴き、韻※
[#「足へん+却」、U+8E0B、151-9]に一段の妙趣あることを知り得ば、その趣に
傚い、邦語をもって新曲を製すること、また難からざるべし。
余かつて
謂う、外国技芸、採用すべからざるものなし。ただに唱歌の法、外国のまま用うべからず。新曲の製の止むべからざるゆえんなり。
戯劇もまたいっそう改正せざるべからず。方今の芝居は
婬に過ぎ、哀に過ぎ、誕に過ぎ、濃に過ぎ、人心を
害うこと多し。裁制を加えざるべからず。
かつ我邦の俳優は演じて唱せず。外国俳優のごとく、かつ演じかつ唱ずる
方、趣あるに似たり。
猿楽の狂言および俗間の茶番狂言なるもの
体裁さらに
善し。今一歩を進め、
猥雑に流れず時情に
濶らず、滑稽の中に諷刺を
寓し、時弊を
譏諫することなどあらば、世の益となることまた少なからず。
外国にては高名の文人ら、歌章を作り、梨園に附し、脚色を設け、演ぜしむることあるよし。芸園の雅遊というべし。
さて劇場の規模またおおいに興張せざるべからず。大略公園地の
法度に準じ、
賦金または有志の寄附金等をもって、都会の地ごとに壮麗・宏雄なる公堂を建築し、衆庶公楽の
処となし、
上は
皇上より
下は平民に至るまで、同遊偕楽あるに至らばもっとも妙とす。
これを要するに、楽は衆とともにするに
如かず。いやしくも衆の
楽むところを度として改正せば、あに振興の道なからんや。ひとえに才あり志あり余力ある人の裁制・誘導あらんことを要するのみ。
附言
角力戯は邦人の多く好むところなれども、野蛮の醜風を
免かれざるものとす。それ人たるものは、智をこそ
闘わしむべけれ。力を闘わしむるは獣類の所業なり。人をして獣類の所業をなさしめ、これを
観て楽しむ者もまた人類の所業にかなわず。いったん禁止せばその徒の
狼狽もあらん。
漸をもって廃業せしめば可なり。