フィリップ一家の
「貧乏も、よっぽど貧乏じゃなくっちゃね、これをこのまんまうっちゃらかしとくなんて······」
「どうして? 僕は、とてもいいと思うね、この
すると、彼女は、
「壁にさわると壁土が指にくっついて来るんですからね」
フィリップが言うには、
「だから、
「お金持の住むような
「それは、よしたほうがいい、おばさん。まったくすてきだもの、この
「いつぺしゃんこになるかわからないね」
「心配せんでいい。お前が葬られるまでは大丈夫」
「これが頭の上へ落ちて来てかい」
こう返事をしたが、誰も笑わないので、自分ひとりで笑う。
「何も心配することはないさ」と、わたしは言う||「自分の
「そりゃまあそうですね」||フィリップのお神さんは、もう、うれしそうに、こう言うのである。
「僕がもしあんただったら、石ひとつ取替えたくないね。新しい家なんかより、僕はこのほうが好きだ。そりゃ、どんなにいいか||見て面白いと言う点から言っても、いろんなことを教えられると言う点から言っても、あの当世ふうのお邸なんかよりは、ずっとこのほうが好きだよ。そうだろう、第一、この古い懐しい家は、過ぎ去った事を思い出させる。それから、こういう家がなければ、われわれは、自分たちの先祖がどんなふうにして
「な、どうだ」||ほとんど常にお神さんに反対して、わたしの意見に同意するフィリップは、この時も、こう言うのである。
「ほんと。こういうような家は、よっぽど遠くへでも行かなけりゃ見当たりませんね。まあこの辺でも、類がないんだから」||彼女は思い出したように||「おはいりなさい、どうぞ」と言った。
まず
「取りはずしができるんです」||フィリップが言う。
お神さんは、決してこれを動かさない。一度壁にくっつけたら、くっついたままになっている。彼女は腕が長くない。それで、敷布をひろげるにも、壁の方の側の縁を折り込むにも、熊手を使う。
「以前には、寝台の上の方に、四つの
「麻の地に、太い毛糸で
「まったく、もつにゃもった。掛けたっきり、はずさないんです。寝台をかくしているわけですね。はいる時だけ
「ああいうふうな幕は、もうありませんよ」||お神さんは言う||「お邸の奥さんがみんなはずして行きなすったんですよ。壁掛けにするって買集めていなすった」
「おやじは自分のを五十フランで売ったんです。いい値でさ。二十フランの値打ちもない
「まだこの手の寝台が一つ
「どうして使わないの。あんた方の年では、もう
「フィリップは、別の寝床に寝たけりゃ寝るがいいんですよ。わたしは、わたしの寝床に寝るんだから」||お神さんはこう答える。
「お前のだ? つまりわしのじゃないか」||フィリップは言う。
「婚礼の時の寝床なんだから」||お神さんが言う。
「じゃ、別の寝床では眠られまいっていうわけだね」
「自分一人じゃ眠れないでしょうよ」
「あんたは、フィリップさん」
「わたしゃ外で泊ったっていうことがないんだからね」
愛情とか、節操とかいう問題ではない。彼らは、最初の夜一緒に寝る、そこで、それが一生習慣になってしまう。二人とも、死ぬ時でなければ、この共同の寝床を離れないのだ。
彼らは枕があるのに、その枕を使わない。夜は、それを
「そうすると
「掛け布団の下へ隠しとくさ。誰にも見えやしない」
「上へ出しとくのが
「だけど、枕があれば、枕を頭の下に敷くのはあたりまえだ」
すると、フィリップは言う。
「棺桶の中で、枕を頭の下に敷くんです。だから相続するものは、きっと枕だけ死んだものにつけてやることになっています」
「どんなのをつけてやっても勝手ですからね」||お神さんが言う||「なにも一番いいのを持たしてやらなけりゃならんと限ったわけじゃないんだから」
フィリップ夫婦は、
わたしは言う。
「道ばたで、かわいそうに、羽根の抜けた鵞鳥を、そう言えば、よく見かけたよ。僕は病気なのかと思っていた」
「わざわざ抜いたんです」||フィリップは言う||「ただ、あいつはたしかに抜き過ぎましたよ。翼を支えている羽根を抜いちゃいけないんです。さもないと、翼が垂れて、鳥がよわります」
「痛がって
「羽根が熟して、ひとりでに抜けるのを待っているんです。その時機が、羽根を抜く時で、年に三度抜きます」||お神さんが言う。
「所帯持ちの上手な女は、その時機を間違えません。一本の羽根も無駄になくなさないんです。羽根の落ちたのを一本拾うために、小川を七度飛び越すくらいの娘でなけりゃ、お嫁に行けないというくらいです」||フィリップが言う。
「いいな、その話は」
「いや、それは
フィリップは寝台のこっちの
「夜は夜の
「昼のじゃどうしてわるいんです」||フィリップが言う。
その昼の襦袢は、わるいはずがない。少くとも一週間、どうかすると二週間ぐらい着ていて平気なのだから。わたしは、お神さんが下の
「夢を見るかね、あんたは、フィリップさん」
「めったに」と、彼は言う||「夢はどうもいやでね、よく眠られなくって」
彼は、夢というのは不愉快なものだと思い込んでいる。お神さんのほうはどうかというと、いまだかつて夢を見たことがない。
「夢を見るのかも知れないけど、気がつきませんよ」||こう言う。
「つまり、夢ってどんなものか知らないわけだね」
「知りません」
「話して聞かせたじゃないか」||フィリップが言うと、
「お前さんの頭の中であったことは聞いたよ。だけど、あたしの頭の中じゃ、そんなことは一度もないんだからね、だからさ」
そのかわり、先に起きるのは、いつもお神さんである。
「
「時候によりますね」
「夏は」
「夏ね。時間をきめてあるわけじゃないんですよ。お
「
「閉めたことはありませんもの」||彼女は言う||「真っ暗がりは気味がわるくってね。お日様があたって眼をさますのはいい気持ですよ。お日様は、そこの、窓のまん前におうちがあって、うちから出なさると、わたしの鼻の上へ遊びに来られる」
わたしは年始に彼らを訪ねた。
この土地を去ったのは、野山が一面に繁りきったころであった。今度来て見ると、木の葉は散ってはいたが、麦が土から芽を出しているので、十月ごろよりも緑は鮮やかだった。長い間、日に乾いた草が、新しい短い草に変って、
ある種類の柏、それは葉のついた、その葉は新しい葉が出て来なければ落ちない、その柏を除いて、あとはどの木も、すっかり葉が散ってしまっている。
通り抜けることはできないと思っていた生け垣が、今では、
鵲はと見ると、遠くには行かないで、地上を、脚を組合わせるようにして跳ねまわり、やがて真直ぐな、例の機械仕掛けのような飛び方で、一本の木に向かって飛んで行く。ときどき、その木に止まり
渋い
桑の実は長く伸びた
うつぼ草の実が、しなびて、種をもってしまう。霜にあった後を、その実が好きなものはうまがって食う。
しかし、赤い野
村の入口で、わたしは、その村がばかに小さいのに驚いた。裏庭で仕切られていた家という家||その裏庭の木の葉が落ちつくして||それが一かたまりになって、天主堂の向こうを張っているように見える。例のお邸が近く見える。農家がまばらになり、畑がきわ立ち、ぶどう畑が明るく開け、森が透いて見える。限られた地平線の一端から一端へ、小川が裸のまま流れている。
やっと、フィリップの家にたどり着く。わたしは、彼と彼のお神さんとに会ってうれしかった。彼は八月ごろと同じ服装をしている。ただ、冬の
「死んだ人は一人もないかね、僕が行ってから?」
「無いほうがいいでしょう」と、彼は言うから
「そりゃそう」と、わたしが||「だけど、あっても別に不思議はないね」
「土地のものが、そんなふうに死んでしまったら、そのうち一人も残らなくなりますよ」
「もっともだ······。今、仕事は忙しいの?」
「畑が
「
「八時過ぎまで起きているのは
「あんたは、おばさん、お勝手の用事がすんでから、なにをするの」
「この通り、靴下を編むんですよ」
「やっぱりいつかの、あれかね?」
「それじゃ情ないでしょう」||彼女はこう答える。
「誰のです、そいつは、ピエエル君の?」
「いいえ、アントワアヌの」
「兵隊に行っている人。連隊は気に入ってるようかね」
「それがね、いっこうにわからないんですよ」||お神さんは答える||「手紙をまるでよこさないもんですからね。そうでしょう、切手を一枚
「いつまた、会えるの?」
「たぶん、今晩」
「今晩だって?」
「ええ、この前の手紙で、今日来るって、夕方の汽車でね、そう言って来たんですけれど。べつだん取消しても来ませんから」
「じゃ、来るんだろう。フィリップさん、あんた迎えには行かないの?」
「何しにです」
「
「道は知ってるんだから」||フィリップは言う||「一人で
「だって、そのほうが、帰りたてのほやほやのところをキスしてやれるわけだ」
「そりゃまあ」
「そうだろう。あんたはアントワアヌ君が可愛いんだろう」
「わたしどもは、昔からそんなことはしないんです、停車場へ迎えに行くなんてことは」||フィリップは、てれくさそうにこう言うのである||「それに、わたしゃ、今日は
フィリップが柱時計を見て、頭の中で時間を計っていると、鈴の音が聞こえた。
「そらね、先生だ」||わたしは言った。
「馬車で? そんなはずはないんだが」||フィリップは落ち着き払って言う||「ついでに乗せてでももらったかな」
お神さんは立ち上る。靴下の編み針が、不安に襲われた動物の触角みたいに動いている。フィリップが戸を
アントワアヌではない。それは一人の親切な百姓で、停車場の人がことづけた包みを、フィリップの家へ持って来たのである。
お神さんは、ひざまずいて、包みの
「じゃ、来ないんだ」||お神さんは言う。
「包みの中に手紙がはいってるかも知れないね」||わたしが言う。
「いいえ」と、彼女。
「底の方を探してみたら?」
「なんにもない」と、また彼女は言う。
「明日、きっと郵便で来ますよ、手紙がね。どうして来られなかったか、わけを言って来ますよ。それから、新年おめでとうも言って来ますよ」
「そうかも知れん」||フィリップは言う。
お神さんは、着物をひろげて、振って見た。半ズボン、上着、中折れ帽、よれよれのネクタイ、それから、いくらかの汚れもの。
「これ、みんな、向こうへ行く時に着けてった衣裳ですよ。まるで死んだみたいだ」
その時は通知してくれるように、フィリップに頼んで置いたので、彼は電報を打ってよこした||「ブタコロスドヨウビ」。汽車の中が十二時間、やっと、フィリップの家に着く。
「先生は元気かね」||わたしは尋ねた。
「ええ」||フィリップは答える。
「どこにいるの?」
「小屋の中、放してあります」
「静かにしてるかね」
「二日こっち、じっとしてます。食物をやらないんです。しばらく食わせずに置いて殺すほうがいいんだから」
「そりゃおとなしいんですよ」||お神さんが言う||「
「目方はいくら?」
「二百と七斤」
「たいした目方だね」
「そんなもんです」と、言って、フィリップは||「味は
「
「風が北にまわりましたね」||フィリップは言う||「降るこたありません。今夜霜が落ちたらしめたもんです。豚を殺すのに持ってこいの天気になりますよ」
「用意はすっかりできてるの?」
「せがれのピエエルを留めて置きました。運河の方へ働きに行くのをやめて、手伝わせます」
「僕も手伝うよ」
「隣の神さんと、わたしとが、腸詰めをこしらえます」||お神さんが言う。
「何時に起こすの?」
「豚かね」
「ああ」
「日が昇ったら」
「じゃ、おやすみ。どら、眠って元気をつけてこよう」
「あなたが来て下すってよかった。あなたの目の前であれを殺すのはうれしい」||こうフィリップが言った。
翌朝、七時に、彼はわたしの部屋の戸をたたく。煙突から射し込んで来る太陽の光で、着物を着る。フィリップは洗いたての前掛けをかけている。
ピエエルは手をポケットに突っ込み、わたしと一緒に、親爺の後について豚小屋に行く。フィリップは、一筋の綱を手にもち、二人を戸口に待たせて、自分だけはいって行く。われわれは、耳をそばだてた。
フィリップが豚のいどころを探し、話をしかけているのが聞こえる。豚は、この訪問に
「おやじは、綱を輪結びにして、やつの脚を縛ろうとしているんです」
怒る、怒る、豚がしきりに怒っている。今度は、猛烈に鼻を鳴らし出した。どこかの犬がこれに応じて
「少し明りを入れてくれ、明りを」||フィリップが言う。
わたしは戸を
「
彼らは小屋から出て来た。豚は、後脚を一本綱で縛られ、その綱をフィリップが高々と握っている。見ると
フィリップは、庖丁を歯でくわえて、身構えをする。一方の膝を豚の上にのせ、ふとった喉のあたりを撫でまわす。
笑っていたピエエルが
「鍋をこっちへよこせ」||フィリップがお神さんに言う。
「桶をこっちへちょうだい」||お神さんが隣の神さんに言う||「鍋がいっぱいになったら、そっちへあけますからね」
「どうもきまりが悪い。役に立たないのは僕ばかりだ」||こう言うと、
「だって、見ててくれる人もいなけりゃ」||フィリップが言うのである。
彼は指でしるしをつけた場所へ、庖丁の先を突き立て、それを刺し込む。刺し込むと言っても別段力を入れるわけではない。庖丁はわけなく滑り込む。豚のほうでも気持がいいだろうと思うくらいである。私は今にもいっそう叫び声が高まり、断末魔の狂乱が襲って来るかと待ち構えていた。と、もう動かなくなっている。
フィリップは庖丁の刃をひねった。血が滲み出る。やがて、ひろがった切り口から、規則正しく、どくどくと流れ出す。飛沫を散らすというようなことはない。赤い紐のように、濃くかたまって流れる。英雄の血のように豊かだ。見る眼には、ジャムの汁のように甘い。
フィリップが傷口を押さえるごとに、お神さんは鍋の血を桶にうつし、それを隣の神さんが、凝結しないように手でかき廻している。この隣の神さんは、血の塊りを投げる。それをいかにも面白そうにやる。紅の布ぎれを張ったような、その表面の重い
間を置いて聞こえる豚の叫びが、もう止まってしまう。かすれた最後のうめき声が、最後の血を外へ押し出す。泉の流れが、小石の上を飛んで流れるように見えた。庖丁の刃が、まだ、ぶよぶよした喉の中で動いている。もう血は出ない。豚は
「たしかにわかってるの、フィリップさん、死んだっていうことは」
豚は痛いよりもこわかったらしい。皮が
「そんなことがたまにあります」||フィリップはわたしに言う||「どうかすると逃げ出すんです、尻に火がついたように」
しかしフィリップは、冗談を言う日ではないといったように、豚の耳を立てて、わたしに、その下にある小さなどんよりした眼を見せた。印象に残る眼だ。これなら、もう火で
フィリップはその上に藁をかぶせる。と、ピエエルが火をつける。にわかに煙が舞い上って、眼をさす。焦げつく豚の皮の臭い、燃える角質の臭いが、やがて、われわれをよろこばせる||食慾をそそる。藁束の
ピエエルが、熱のために割れた
「ちょうど焼けかげんですぜ」||彼はわたしに言う||「たべてごらんなさい。村の子供たちなら、これを拾うっていうんで大騒ぎをしますよ」
「なるほど味はわるくない、栗の香がする」
「どっさりおあがんなさい」||ピエエルはこう言いながら、豚の四本の脚の、残っている十五本の
しかし、わたしは、うまいものを自分一人で食おうという
結婚の日に、フィリップは、いまだかつてこれほど笑ったことがないというほど笑った。そして、十四枚の皿を平げた。村中の女を踊らせた。一番年をとった婆さんたちでさえ、彼の腕に抱かれてまわらなければならなかった。嵐の日に
これに反して、お神さんは、食い気さえどこへやら、黙って腰をかけていた。
彼女は冗談を言われてもその意味がわからなかった。からかわれるとむきになった。
やがて、彼らは床についた。初めのうちは万事都合よく行った。彼女は、じっと動かずにいた。ただ、フィリップが与える接吻に、一つ一つ返しをすることだけ忘れないようにしていた。
ところが、彼女は、とつぜん飛び上って、前の日に血を絞った羊のように、ウエーと泣いた。
「ええい、泣くなら泣け、おたんちん」||フィリップはどなった||「
彼は一方の手で、軽く、新妻を撫でさすりながら、もう一方の手で、しっかり、彼女の口を
「なんでもいい、どうせ同じことです」||フィリップは言う。
「あんたは、なんでも同じことにしてしまう。問題は幸福ということだ。この村の人たちは、以前より今のほうが幸福だろうか」
「若いものは、そうじゃないって言いますね」
「しかし、あんたはどうだね、フィリップさん、年寄り仲間とも話をし、若い連中のぐちも聞いてみて、どう思うね?」
「わたしは、以前よりは仕合せなのが本当だと思いますね。寝る場所もよくなったし、食い物もよくなる、以前ほどみじめな暮らしはしなくなりましたよ。わたしにしてからが、嫁をもらうまで寝台なんかに寝たことはなかったんですからね」
「家畜と一緒に寝てたんだね」
「ええ。乾いた藁のほうが、汚れた敷布よりゃましですよ。夜中の十二時に、家畜が眼を覚ますので、わたしは、それまでに、とろとろっとするばかりです。奴らには奴らの習慣があってね。夜中に起きて、
「楽に寝られるかね、それで?」
「別に窮屈でもありませんよ。なにしろ
「牛の番をするって、何が来るの?」
「第一、狼がいまさ」
「え、狼が、こんなニエヴル河の
「いたんですよ」
「今はどうしたの」
「知らないね。それから、牧場に
「牛の番をする。そこで、フィリップさん、その番人の番は誰がするんだろう」
「誰もしない。これくらいの苦しい仕事は、みんな、あたりまえだと思っていましたよ。ほかの仕事と別に変らないぐらいに思っている。まあ、こんな仕事を、いまどきの若いものに言いつけてごらんなさい。いやだと言ってはねつけるか、承知をしたところで、車の中にはいないで、あっちこっちと、近所の百姓家を目がけて、おさんどんのそばへあったまりに行くのがせいぜいでさ」
「でも、どうして夜番をしないようになったの?」
「もう
「百姓はそれで気楽に眠れるかね?」
「ええ」
「で、牛のほうは?」
「自分で番をするわけです」
「それで、育ち方がわるくなったっていうようなことはないかね」
「いいえ。現にやっているのは、仕事をしない牛だけ見まわって、草を食わせるんです。そして、ふとらせるんです。わたしが働いてたころも、終りがたには、それが、コルネイユの
「ずいぶんくたびれるね、その仕事は」
「ほかの仕事と別に変りませんよ」
「一度も
「牛はわたしを知っていますからね。恐ろしいのは露ばかりです。長靴をはいているのに、
「コルネイユのうちの人たちはあんたを大事にしたかね」
「お神さんは、わたしたちの分に、裸麦や
「小麦だけ入れないで?」
「少しは入れてありましたよ、いくらなんでもね」||フィリップは言う||「ただ、どく麦、酔うやつね、あいつをあんまり入れ過ぎるもんだから、眼を覚ます時に、
「肉はどっさり食わせるかね」
「馬が一匹怪我でもしてくたばりかけると、そいつを殺して、使ってるものに食わせるんですが、その肉が二週間も続けうちでね。でも、
「酒は飲めたの?」
「一度も。今じゃ、使われているものも飲みますがね」
「良い酒を?」
「犬の足を洗うのにゃ良いでしょうよ。酒を飲むって言えりゃ、それでいいんです、あいつらは」
「農家の人がよくなったのかね」
「そうじゃありません。働くほうが横着になったんですよ。請求するんですからね」
「あんたには、それができなかったんだね」
「わたしらのころは、そんなことを考えるものもありませんでした」
「あんた方は日に十五スウぐらいしか稼げなかったのに、今のものはその三倍稼いでいる。あんた方は
「そして楽ばかりしようとする」
「そりゃね、楽になれば、それにつれて欲しいものもできてくる。それで、差し引きどうだろう、今は昔より仕合せというわけでもないね」
「なるほど、そうも言えるでしょう。若いものが猫も
「肉もなけりゃ」
「餓え死はしませんよ」||フィリップはこう言う。
「死に方が遅いと言うだけだ。どうだろう、フィリップさん、世の中の悪いことは、一方で有り余るほど
「金持もいなくっちゃならないんですからね」
「どうして?」
「だって、今まで、ずっといたものなんだから」
「どうして、あんたが金持になる番にあたらないんだ。あんたのおやじさんもお
「でも、そりゃ、そういうふうにできてるからですよ」
「ただ偶然にそうなっただけさ。偶然しだいで、どうにでもなるんじゃないか」
「その偶然という奴が、わたしにかぶりを振ったんでしょう」
「そういう不当なことに対して、あんたは苦情を持ち込む権利があるだろう」
「受け付けてくれるものがありゃね」
「どうだかわかるもんか。大きな声でどなるんだ。金持は出すと思うね」
「
「少くとも、余分なものだけは出させるがいい」
「人に何かやると、金でもなんでもね、その人間は善いほうにゃ向かないもんです。わたしにしてからが||早い話がね||すぐに始末におえない人間になりますよ」
「財産を
「いいや、いいや」
「どうして? 頑張るんだね。どうしてさ?」
「われわれと、あの連中とは違うからですよ」
これが、彼のきまり文句である。人間には二つの種族がある、金持の種族と貧乏種族。彼は金持の種族ではない。話はすこぶる明瞭である。その頭から抜けきらせることは不可能だ。
そのままでいるがいい。
九時になると、村は静かに眠ってしまう。
野良犬一匹、目につかない。
外には、月が照っているばかり。その月がまた、無駄なことに、白い光を投げかけている。誰も利用するものがない。
ところが、夜中の十二時に、
中庭を
すぐには帰ろうとしない。牛が水を飲むように、この静けさを味わうのである。
すると、また別の閂が音を立てる。第二の戸が開いて、同じ理由で起きて来た蹄鉄屋が家のなかから出て来る。彼は毛糸の上着をひっかけ、木靴をはいている。第一の視線が月のほうにそそがれる。
「こいつは見事」
言うことはたったそれだけ。
小便をする。
やがて指物師が姿を見せる。次に宿屋の亭主、それからガニアアル、それからフェルネ、それぞれ用向きの程度によって、急ぎかたが違う。
まるで、ここでこの時刻に出会う約束でもしたようである。
ところがそうではない。彼らはこういうふうに、夏の澄み渡った真夜中に起きるというだけである。その間、ちょっと、かみさんたちをうちへ残して自由を与えて置く。彼らにとっては自然のほうがましなのである。
お互いに顔を見合わせてよろこぶ。とぎれとぎれに口を利く。その声がよく響くので驚いている。冗談を言い合ったり、わるさをしようなどとは思わない。また寝に行くまでに、めいめい待ち合わせる。別に急ぐこともない。寝床はあんまり好きでないらしい。
「
ジェロムと言う村の最年長者が、杖をついて出て来る。娘が、
「おとっつぁん、
いくら言ってもだめである。
彼は頑として
一同が、親しげに「今晩は」といいかける。
それどころではないので、返事をしない。
人生の最も些細な行為を、しかつめらしく果たす。月も彼の欲求を紛らすことはできないと見える。
彼は用をすます。一同も用をすます。
「また、あした」
「
しょうことなさそうに、めいめい帰って行く。戸が音を立てる。最後の閂が、喉を締めつけられるように響く。
月が、ひとり外に残っている。今までよりもいっそう退屈そうに。紅雀の夢にさえ破れそうな沈黙である。
フィリップのお神さんはまだそわそわしている。そして得意満面である。というのは、大金持のお邸、その奥さんのドランジュ夫人が、彼女のところへ訪ねて来たのである。
「ほんとなんですよ、そりゃ、まったくですよ」||お神さんが言う。
「おめでとう。いつのことだね、その光栄にあずかったのは」
「今朝ですよ。部屋で仕事をしていますとね、だしぬけに、あの
「そんなに急に?」
「そんなふうでしたよ」
「おかしいな」
「ね、おかしいでしょう、お邸の奥さまが、朝っぱらから、わたしのような貧乏人のところへ訪ねて見えるなんて、誰がほんとにするでしょう」
「誰もほんとにしないね。僕も、いろいろ考えてみるが、その訪ねて来たわけがわからない」
「わけですって。だけど、奥さまが、そのわけをおっしゃったんですもの。わたしがどうしているか様子を見に来て下すったんです。御親切から、ただそれだけですよ」
「たしかにそうかね」
「でも、ほかに、あの方がここに見えるわけはないじゃありませんか。おいで下さいと言った覚えもないし」
「おばさん、あんたは、
「そうじゃないんですか。そりゃあなた、べつだんわざわざでもなく、ぶらっと寄って下すったんでしょうけれどね。わたしこう思ったんですよ||奥さまは散歩にお出掛けになった。天気はよし、晴れ晴れした気持におなりになった。わたしのうちの前をお通りになると戸が
「ありがたいと思ってるの?」
「だって、あのお方が、わたし
「
「ええ、暑いもんだから、真っ赤な顔をしておいででしたよ」
「ねえ、おばさん、あの人がはいって来た時、あんた、道の上に何か見かけなかったかね」
「いいえ」
「道に牛がいなかった?」
「どんな牛が?」
「牛がいたかって言うのさ」
「牛が道を通るのを見ていて、何が面白いもんですか」
「あんた、牛をこわいと思ったことはないの? あんたがだよ」
「なんだってまた、そんなことを
「お邸の奥さんは牛をこわがるかどうか知ってるかね?」
「知りません。知ったところでなんにもならないでしょう」
「なんにもならないどころか、それが大事なんだ。なぜなら、お金持のお邸の奥さんのドランジュ夫人が牛をこわがる人で、その奥さんがあんたのうちへはいってきた時に、ちょうど道の上を牛が通っていたとしたら、その奥さんが訪ねて来たからって、驚くに当たらないし、また、自慢にもならないわけだからね」
「やれやれ、あんたは、わたしよりよっぽど人が悪い」||お神さんは、当てがはずれたというような顔をして、こう言った。
「いやね、おばさん、僕は、
短く丸く、薪束のようなからだつき、それが、戸棚の脚のような広い足で、がっしりと立ったまま、彼女は、へり
「わからない、だって、あの人とあんたと同じ年かっこうじゃないか」
「そりゃあんた」||こう言って||「奥さんが娘っ子のポオリイヌの乳を離しなすった時、お乳がとまらなくってね、それでわたしが手伝ってあげたんですよ」
「どうやって?」
「吸ったんですよ」
「いくつだったの、あんたは」
「十九」
「でも、あんたはまだお嫁に行く前だろう」
「ええ」
「それで、コルネイユさんとこの奥さんは恥かしがらなかった?」
「わたしのほうからそう言ったんですよ。初めは、いいって言うんです。||あんたにできるもんか、おかしくって||こう言うんです。で、わたしは||奥さん、わたしは心からしてあげたいと思っているんです。なにも自分が面白くってやるんじゃありません。あなたが病気になるのが目に見えているからです||。すると、奥さんは、胴着のボタンをはずし、わたしは、奥さんの膝の間に割り込みました。すぐに慣れてしまいましたよ、奥さんは。朝、眼を覚ますと、わたしを呼ぶんです||さ、おっぱいを吸いにおいで||。そりゃ優しいんですよ、言い方がね。そのうち、間もなく楽になりましたけれどね。すると、いろんな
「気持はどう、
「べつだん飛びつくほどの仕事でもありませんね。ただ、あのやさしい奥さんが、苦しんでいなさるんでね。それを見ながら、ほうっておけますか」
「いいや、それはほうっとけない」
「ほんとにかわいそうでしたからね」
「吸乳器をどうして使わなかったの」
「そんなものはそのころ知られてませんでしたからね」
お神さんはパイプを当てて自分で吸ってみたのだけれど、結局、人間の口に越したものはない。
「あんたは乳を吸うのが上手だったんだね」
「ええ、自慢でなくね。はじめのうち、なにしろ娘のことですからね、朋輩から、からかわれるのがこわさに、隠れていましたけれどね。そのうち、誰よりもわたしが一番吸い方が上手だっていう評判が立ってしまって、それからというものは、どこかに乳の張る女がいると、わたしを呼びに来るんですよ。嫁入りしてからは、一度もこの仕事を
「そんな評判が立っても、フィリップさんは、あんたを可愛がらなくなるなんていうことはなかった?」
「どうして、どうして」||フィリップが口を出す||「人の乳を飲んで、肥えるの肥えないの、水々しくはなる、色は白くなる、ひどく
「ところが、こう言っても信用はなさるまいが······」||お神さんは言う||「わたしは、頼まれればいやな顔もせずに、土地の女の乳を吸ってやったでしょう。それに、そういう女たちの一人でも、あたしの乳を吸ってくれようとはしないんです。わたしが、自分の重い乳房を出して見せると、しかめっ
「ねえ、お前さん、あたしゃもう我慢ができないんだから。
「おれが、歯を削ることなんかできるもんか」||フィリップが答える。
「だっていつか、錠前屋のようになんの金具だか削っているのを見たんだもの」||お神さんは言う||「それに、たかが婆さんの歯一本、削れないなんてあるもんか」
「そんなに言うなら、やってやら」
「
「なんだ、この口は」||フィリップは言う||「これでスープを食うのか、このサーベルみたいなやつで」
「びくびくしないでさ」||この種の
「ああんしろ」||フィリップが言う。
フィリップは、
フィリップは熟練した草刈りである。無謀な熱心さで草地に鎌を入れるようなことはしない。まず
彼はたった一人の「憲兵」も残さない||というその意味は、鎌に当たらないで立っている一本の草もないようにするということである。
わたしは、彼が遠くから、小股で、足をひきずるようにして、右の脚は折り、左の脚はほとんど伸ばしたまま、いくらか
鎌は、右から左へと、急速な、そして確かな線を描いて、切り払って行く。それから、もとの位置に直って、尖端が上を向き、これから倒されようとする草を、背で撫でる。
ときどき軽く
フィリップは手を休める。指の先で刃をいじってみる。それから、木の
十時ごろ、お神さんが
彼がそれを飲んでいる間、彼女は「
フィリップは水をたんまり飲んで、胃袋が
フィリップはすぐに草を刈りにかからない。鎌の
お神さんは、ただ一つの貧弱な花束を摘み取っただけで、暑くってしようがない。前掛けで、これも顔を拭くのである。彼らは、
なんにも期待してはいけない。
刈り草の
彼らは、あなた方をうれしがらせるために、草の中に寝ころがったりなにかしそうにもない。
フィリップは、一日半だけ、邸勤めの下男をしたことがある。その当時、お神さんが
最初の日は、外出をして町の見物をすることを許された。見るものもろくに見なかった。見てもべつだん驚かなかった。なぜなら、
翌日、奥さんは彼に仕事服と前掛けとを着けさせて、尋ねた。
「お前さんの名はなんていうの?」
「フィリップ」
「これから、ジャンていう名におし」
そして、教育に取りかかった。
まず、家具の拭き掃除をすることであった。
一人になって、鏡を見ると、自分で自分だということがわからなかった。
はたきを投げ出して腰をおろした。とほうに暮れて、じっとしていた。
それから、意を決して立ち上った。煖炉の上の花瓶を一つ、なるべく軽い粗相ですむように、一番小さなのを取り上げた。そして、それを落とした。
かけつけた奥さん、
「しょっぱなから調子の
「はい、奥さん」||彼は答えた||「腹を立てないで下さい。わたしは帰ります」
「そんな粗相をしたからって、誰もおい出すとは言やしないよ。ジャン、こんどから気をつけておくれね」
「せっかくですが、奥さん、ともかくお暇を頂きます」
「どうして? 置いてあげるって言ってるじゃないの」
「わたしがいやだと言うのに置いて下さるんですか。さきほど、わたしは嘘をつきました。あの花瓶は、わざと、悪意で、暇を出されようと思って、こわしたのです」
「また代りの人を探さなけりゃならないのかね」||奥さんは言う||「あと八日はここで働く義務があるんだからね、そういうきまりなんだから」
「あなたのところではね。ところが、わたしのほうでは、国のほうでは、工合いよく行かなけりゃ、やかましいことを言わずに別れるっていうことになっていますがね。じゃ、前掛けを、ようがすか、ほうりますよ」
その晩、彼は悦び勇んで村に帰り、自分の家の戸を
時々、彼は
「取りに来れるなら来て見るがいい、その八日間の義務とかいうやつを」
フィリップは気位が高いというようなところはいっこうない。なんでもくれればもらうというふうである。紫のリボンがついだ子供の
フィリップの頭は大きくない。その帽子にうまくはまるのである。
「これで夏が越せます」
「リボンをはずすといい」
「なに、邪魔になりません」
フィリップが、若いともいえない年で、この子供くさい帽子を頂いて、畑で仕事をしているのを見ることができる。リボンの紫はおいおいに
猟に行くと、彼はわたしの行動を監視している。そして、わたしが垣を越えようとするたびごとにとんで来て、
「そんなにしてくれなくってもいいのに」||こうわたしが言う||「それじゃ
「あなたは別に心配じゃありませんよ。あなたの服ですよ。ちっとも用心っていうことをなさらないから、いろんなものに引っかけて破れるんです。いずれお
八月の
で、やっぱり草原に放して置く。
「けれど、何も食わずにいるじゃないか。苦しいだろうに」
「
「草は一本もなし、何を食えばいいんだね、
「何も
彼は決して、今から先のことを楽しむということがない。
「いよいよ草が
「ええ、また霜の用意がひと苦労でさ」
裏の畑で仕事をして汗をかいているので、ぶどう酒を一杯持って行ってやると、それを受け取りはするが、まず、水を一杯くれと言う。彼は
兵隊に出ている息子が長く手紙をよこさない。フィリップは、気がかりだという様子を見せたくない。彼は、自分の父親が、七年間兵隊に行って、七年間便りをしなかった話をする。どこにいるかわからなかった。
「とにかく帰って来ました」||フィリップは言う||「帰ってきたので、家へ入れたんです」
彼は、
「こいつはいいな」
「そんなものを着て平気でいられるかい」||お神さんが言う。
「いられるさ」
「絹のシャツを百姓の
「いけないのか」
「困った人だね、この人は、ほかと釣合いが取れないじゃないか。狼の
「やれやれ、しかたがねえ。一度ぐらい、その尻尾が道に落ちてることはないか」
彼は、
彼は股引をぶざまなかっこうではいていることがしばしばある。ボタンがはずれていたりする。しかし彼は、寒い空気さえ肌に触れなければ、そんなことはどうでもいいと言っている。
彼は、自分の牝牛を『おはな』と呼んでいる。
「都合が
役場の掲示は
彼の笑い声は、遠くで聞くと、むせび泣きのような音をたてる。彼が笑っているのを確かめるためには、彼の顔を見なければならない。
細民の汗は必ずしも
彼は
夕方、猟から帰って、彼は言う||
「あれだけの道を、また歩きなおすのはいやだなあ」
風が強く吹くと、風見が手間を惜しまないと言う。
川の水があふれると「海が見える」と言う。
彼が非常に愛していた弟が死んだとき、「こんなことにゃ、ちょっくらと慣れそうもねえ」と言った。
「どんなことだって無いとは限らない」||彼は言う||「猫の
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彼女は遅れようと思って遅れたのではないが、いずれにしても、彼女がわるかったのである。どうしてそうなったかというと、それはこうだ。
「ミサに行かないの、今朝は」
「まだ時間があるよ」||ナネットは、いきなり立ち上って、眼をこすりながらこう言う。
「時間がある? だってもうミサは鳴ったよ」
「うそ」||彼女は笑いながら言う。
「うそじゃないよ」
「うそだったら。鳴ったんなら聞こえるはずだもの」
「眠ってたからさ」
「眼をつぶってただけだよ、それもちょっとの間さ」||彼女は言う||「眠ってたなんて言えやしない。ほんとに
「じゃ、ちょうど鐘が聞こえないぐらい眠ってたんだろう」
「鐘が鳴りゃ、大きな音がするんだから、びっくりしてとび起きらあね」
「いくら頑張ったって、この僕が鳴ったと言うんじゃないか。あんたが行きつく時分には、もう司祭さんは始めてるから」
「大丈夫」||彼女は言う||「司祭さんはお年がお年だから、そう早くはできないし、ちゃんと間に合うよ」
「じゃ、信用しないんだね、僕の言うことを」
「いったいお前さんはミサがいつ鳴るか知ってるのかい、そんなこと言うけれど」
「もう一度言うが、僕は
「そうか。そんなに立派に聞こえたんなら、なぜ自分で行かないんだい、この罰当たり」
「おや、僕が
「へん、それくらいのことはしかねないからさ、信心のことときたら」
「きっとだから······」
「うるさい」
「よしよし、強情っぱり、勝手にするがいい。ちゃんと教えてあげたんだからね。お気の毒だが後悔しなさんな。
「さ、歩いた、歩いた」||彼女は言う||「わたしの
彼女は、こう言い放ったものの、内心、あまり
しかし、しばらくすると、郵便配達が路ばたから声をかける。
「ミサには行かないんかね、今日は、おっかさん」
「行くよ、行くよ」||ナネットは、どぎまぎしながら答える。
「おりゃまた、行かないのかと思った」||郵便配達はこう言いかえす。
「あの、ひょっとして、ミサの鐘はもう鳴ったんじゃあるまいかね」
「とっくに鳴ったよ」
「とっくにって、よっぽど前にかい」
「よっぽど前だよ」||郵便配達のこう言う声が、もう遠くで聞こえる。
ナネットは
「どこへ行くんだよ、あわてくさって」
「きまってるじゃないか、ミサにさ」と彼女は言う。
「みんなを迎えにかい」||『あっけらかん』が言う。
冷やかされて、ナネットは、
「やっと
「もうすんだころさ、たぶん」||相手の心も知らずに『あっけらかん』はこう言うのである。
「どうしよう」||ナネットはつぶやく。
彼女は思いあまって、路の上で
こうなっては、もう取りかえしがつかない。彼女は一度ミサに遅れた。今まで、どんな理由があっても、怠けることはもちろん、病気のためだろうが、仕事が忙しかろうが、決して欠かしたことはないのである。これまで、お産をするたんびに、その日は運よく日曜以外の日であった。
ところが、今日、もう死に目にも近づいて、ミサに行きそこなう。それに、彼女は、ほんとのことを言わないということができないたちなので、いいかげんな口実はつくらない。彼女は言う。
「わたしがミサに遅れた。それは全くわたしの過ちからだ。大きな過ちからだ。うっかり怠け込んだからだ」
村中のものは、いち早くそれを聞き伝える。彼女は一軒一軒を訪ね、
「
「そりゃ違うどころの話じゃないさ」
「どころの話じゃないね」||しおしおと彼女は言うのである。
「この次から、お前さんの
「お前は、だって、本気でものを言ってるのかどうかわからないんだもの、いつでも。あたしゃこの日曜っていう日は忘れないよ」
「この罪を
「神さまのお
「僕が神さまだったら、ちょっと考えるね」
「後生だからよしておくれ」||彼女は言う||「
「天罰だよ」
「ひどいことを言うね、お前は」||彼女は言う||「お前はたちがよくない、今夜は。どれ、ほかの人に、あたしの不幸を話してこよう、ルイーズさん、それからパジェット、それからまあ、誰でもいい、この人と思う人に」
「行っといでよ。おっと、気をつけて、あんたは
「
「誰も綺麗だなんて言やしない」
「この小僧め」||年を取った
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ロベエルが心もち口を
「あなたですよ、こいつをかいたのは」
「わたしだよ、そうそう、だが別にみっともなくはないじゃないか」
「なあに、かえって都合がいいんです、口笛を吹くのにね」||彼は少しぜえぜえ声でこう答える||「そのへんの
この思い出はわれわれを親しくし、しんみりさせるのである。
わたしはこの男、わたしの友ロベエルが好きだ。なぜなら彼は自分の生れた村に住み、それを離れようとしないから。パリはいまだかつて彼の心を
彼は満足してその日を送っている。日傭いである彼は、畑の仕事なら、いやになるくらいある。他人の仕事を終えると、自分の畑に手を入れる。疲れるということがない。餓え死をしないだけのものは十分に稼ぐ。ふとって脂ぎっているとは言えないが、達者なことは達者である。食うものは主にパンで、その他、サラダやチーズもうんとつめこむ。それから
彼の手は握ると少しがさがさしている。耳は寒さに凍え、日に
すぐ、彼はたばこ入れをわたしのほうに差し出す。
「や、ありがとう、わたしはやらないんだ、ところで、驚いたね」||わたしが言う。
「どうしてです」と彼。
「どうしてって、
「嗅ぐのは脳に
「そう、そりゃ知ってるがね、頭がすうっとすらあね。だが、若いものがなんだ、みっともない癖だね。長くやってるのかい」
「おやじが死んでからでさ」
「どういう関係なんだ、そりゃ。悲しくって嗅ぎたばこを嗅ぐわけか」
「そうじゃありませんよ」||彼は言う||「こうなんです。おやじがね、死ぬ前に、このたばこ入れを形見にくれたんです」
「こいつは
「ええ、あんまり
「そんならまあ、君は好きで嗅ぐわけじゃなく、お父さんの記念を尊重して嗅ぎたばこを嗅ぎ始めたんだね」
「慣れるのにちっとも骨は折れませんでしたよ。はじめて嗅いでみたとき、気持がよかったんですよ。
「その上、死んだお父さんを悦ばすわけだね」
「まあそうですね。このたばこ入れを
「たんびに?」
「まあね」
「君はそんなにお父さんが好きだったのかい」
「ええ」||ロベエルは言う||「働き手でしたからね、おやじは。それに真直ぐなひとでしたよ」
「遺産っていうのは、そのたばこ入れだけかね」
「おやじの家も残して行きましたよ」
「いま君が住んでる?」
「ええ」
「住み心地はいいかね」
「広いんでね。いくらか
「どこの御新造さん」
「家内ですよ」
「お神さんをもらったの」
「ええ、あなたと同じでさ」
「
「あなたんとこのと同じでさ」
「いやはや」
「全くわたしにとっちゃ申し分なしの別嬪でしょうな。二人の頭を枕の上に並べてみて、べつだん、ほかの夫婦よりゃまずいとも思いません」
「子供はあるの」
「二人、あなたと同じ、一人は男、一人は女、これもあなたと同じでさ。ですが、間違ってたと思うのは、そいつを養うことが、あなたのようにできるかどうか、そこを考えてみなかったことです」
「何を言うんだ、君はわたしよりは金持だよ、そしてわたしより仕合せだよ」
この言葉を聞くと、ロベエルは大声で笑い出した。そして、抜けた歯の穴で、陽気な節まわしの口笛を吹き出した。それが彼の返事だ。議論をしようにもできない。
「勝手に口笛を吹くがいい」||わたしは言う||「そのうちにきっと君の
「退職恩給でもついたらね」
「そうさ」
「わたしゃ、これでもう退職になってるんでさ。お待ちしてます」
「隣り同士で一生を送るかな」
「そいつはいい」||ロベエルは言う||「あなたは気位の高くない方だ。
「わたしも下っ端の人間じゃないか。どうしてそうからかうんだ、ロベエル。しようがない男だなあ。小さい時のように、二人は友達になれると思わないかい」
「そりゃあなた、思いますよ」||ロベエルは真面目になってこういう||「晩になると、代り代りに訪ね合って、カルタでもやりましょう」
「ほんとにそうしようよ。それから、砂糖を入れたブランでも飲もうよ。それから、寝る前には本を読もうよ、本を。どうだい、時々は本を読むかい」
「村の図書館の本を読みます」
「どんな本?」
「物語でさ」
「フランスの?」
「いいえ、インド人の······。奴らは茨の林を掻きわけてはいずり廻るんですね。で、だしぬけに飛び出して来て、農園を荒して行くんです。ぞっとするね。
「わたしもそうだ。それから、今日みたいに、日当たりのいいところを散歩しようね。まあ見てごらん、この土地を、われわれの故郷を。美しいじゃないか。この大きな草原、向こうに見える牧場、それをイヨンヌ河が貫いている、なんていう緑の色だ」
「すてきな射的場ができますぜ」
「射的場、なんだってそんな気になったんだ。あれは、とびきり上等な草が
「金になる草地です」||ロベエルが言う。
「われわれの大きな白い牡牛が、あのおかげで生きてるんだ。それにどうして、牡牛の代りに兵隊なんぞを入れようって言うんだ」
「別にそういうわけじゃないんですよ」
「それならそれでいいが······。それからまあ、あっちをごらん、河の向こう岸を······、どうだい、あの鐘楼の夕陽に輝いていることは」
「畜生、あいつをここから、ずどんと一発大砲でやったらなあ」
「またそんなことを言う。いったい、どうしたんだい。この自然を見て、君はそんな気ばかり起こすのかい。まるで将軍みたいなことを言うじゃないか。戦争があればいいと思うのか」
「いいや、いいや、戦争はまっぴら」||ロベエルは言う||「わたしゃ政治がどうのこうのと言ったことはありません。政府なんかなんだっていいんです、ただ戦争さえ起こしてくれなけりゃ······。わたしゃ戦争以外に恐ろしいものはありません」
「でも、今さっき、この草原を荒したり、あの鐘楼を大砲で撃ったりしようと思ったじゃないか」
「ありゃ、言うにゃ言いましたけれど、ほかのことを言ってもよかったんです」
「気をつけたほうがいいよ、ロベエル、人が聞いてるからね。そんなことを口に出すと、人がそいつを覚えていて、またほかのものに言うんだ。なにげなく言ったことでも、人は、君がそんなことを考えていると思うからね。なんでもない言葉が世間の評判になる。ことに、君は自分の村を
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マドムアゼル オランプ・バルドウの生涯を物語れば、一つ郷土小説ができるのであるが、それは単調にちがいない。彼女のすることは別に変ったことではない。人のために尽くすのが彼女の仕事である。
わたしが
彼女の兄が、もし彼女から、持参金として取ってある金を借りて、それを商売で
彼女は、
針仕事にかけては、どんな種類のものでも立派にやってのける腕を持ち、田舎の
一人の細君が
「型を
細君は、どれがどうだかわからずに、それでも粗末な涎掛けのために、手の込んだ、金のかかる刺繍を選び出す。オランプは何も口を
「いくらなんでも三十スウの
「でも、オランプさん、あの人が選んだ型はあんまり
「せっかくあたしを
彼女は、町の小さい娘たちに一時間五スウで裁縫を教えることを考えついた。
「高くはありませんね」||わたしがこう言うと、
「高いくらいですよ。でも、よかったら二時間いればいいんだから」
「同じ報酬で······」
「そりゃ······来た以上はいくらいたって······」
なるほど彼女の言うことはほんとである。一時間の代りに二時間、オランプさんのところにいる、それは全くどうでもいいことに違いない。難問題は、むしろ、娘たちが彼女のところに来るかどうかということである。
「ぐちを言うことはないんです。町の奥さんたちは、そりゃ親切で、仕事も下さるししますからね。ジェルヴェ夫人、お医者さんの奥さん、あの方は娘さんの支度をすっかりあたしにさせて下さるんですよ」
「娘さんはお嫁に行くんですか」
「いいえ、まだ十四ですもの」
「それにもうその支度を、あなたがなさるんですか」
「だって、早晩お嫁に行くことはきまってるじゃありませんか」
「それにしても、ジェルヴェ夫人は手廻しが早いな」
「あたしのためには都合がいいんですよ。自分の気が向いた時に、その支度のほうは、ぼつぼつやればいいんでしょう。今週は襦袢の
「
「そりゃそうですよ。お嫁入りの時に、パリに行って一緒にさせれば、支度はできてしまうんですからね」
「そうすりゃ高くつくでしょう」
「お金持なんですもの」
「同時にしまり屋なんですよ。きっと金は払わないでしょう。いや、わたしの言うのはね、余計は出すまいっていうこと」
「あたしがいるだけ下さることになっているんです。私どもは
「だって、あなたは勘定をしたためしがないじゃありませんか」
「後生だから」||オランプは言うのである||「後生だから、ジェルヴェ夫人になんくせをつけるのはよして下さいね。こうしてあたしに仕事をさして下さるのは、慈悲深い方だからですよ」
これらの奥さんたちは、自分のからだに着けられないようになったものを、オランプ嬢にやるのが一つの楽しみである。彼女は、涙を流してなんでももらうのである。彼女は色の
彼女を補助するのは愉快である。が、それがためには、ただ寛大であるばかりではいけない。よくあとさきを考えなければならない。町長の奥さんはそこを誤った。彼女は、毎年、オランプのために、流行に関する雑誌を取ってくれるのであるが、それが、有益な、彼女のよろこぶ贈物だと思っているに違いない。ところが、それはオランプにとってありがたくない贈物である、というのは、その雑誌の懸賞競技に加わろうと
彼女は時々休息をする。手拭いほどの大きさしかない裏の畑を耕しもする。折ふし、
この小さな町では、誰彼を問わず、彼女を利用している奥さんたちまで、いっせいに、マドムアゼル オランプの徳をたたえている。ただ一人、その母親のバルドウ夫人だけ、それを知らないでいる。
オランプは、兄の破産から僅かばかりのものを救って、それでほとんど間に合っているように母親には思わせてある。母親は心からそれを信じ、幸福を感じながら暮らしている。自分では、だから、なんにもしない。何をしようたってできもしない。彼女には持病の湿疹がある。それを掻いてばかりいる。
オランプは、つまり、ごまかしている。それで、苦もなく母親にみじめな境遇を知らせないですむ。毎日四時に起きるのに、母親には六時に起きると言ってある。彼女は、この定刻前の二時間を勝手の仕事に使わないようにしている。母親に知れるからである。彼女は裁縫をしたり、刺繍をしたり、音の立たない仕事しかしないのである。六時になると、バルドウ夫人が目をさまして、こう言うのが聞こえる。
「オランプや、もう起きたらどうだい」
オランプは
「起きるんだよ」||バルドウ夫人は繰り返す||「ミサに遅れるじゃないか」
オランプは、そうすると、ちょうど寝床からいやいや脱け出る時のような声をして返事をする。
「ええ、母さん、もう起きてよ」
「ゆうべは、お前、何時に寝たの」
「いつもの通りよ。母さん、九時」
「ずるけもの」と、バルドウ夫人は甘くきめつける。
それが真夜中の十二時だったことを、どうして知ることができよう。
「お前は乱暴だよ、オランプ、そんなに無茶に急いで食べるって法があるものか」
「そうじゃないのよ」||オランプは言う||「母さんが遅いのよ。母さんはお年寄りの歯でしょう、あたしのほうが歯は丈夫なんですもの。だから、あたしが先にしまって、先に食卓を離れるのはあたりまえだわ。なんなら、待ってて、母さんの食べるのを見ててあげましょうか」
「勝手におしよ」||バルドウ夫人は言う||「だが、言っとくがね、からだが丈夫だからって、お前はそれをいいことにしてるよ」
わたしが、彼女にオランプは聖女だと言うと、驚いて、「やっぱりね」||彼女はわる気でなくこう言う||「やっぱりね、一緒に暮らしてみないとわからないもんですね」
「ほんとよ、母さんの言うことは」||オランプは言う||「あたし、ずいぶん意地の悪いことがあるの」
「そう言っちゃ、またあんまりだがね」||バルドウ夫人は言う||「これの言うことはあてになりませんけれどね、まあ、これで、しんは
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村の食料品屋から、
牝羊が一匹、後に残っていると、それは彼の責任である。背中をさすったり、毛の間へ指をとおしたり、犬が来て追い立てるまで、彼はその羊に向かって主人然たる口を利くことができた。
羊小屋の戸口へ来ると、この小さなボヘミヤンはいよいよ必要になる。
生れたての
それがすむと、小さなボヘミヤンは、
小さなボヘミヤンは、またその後について行ったが、羊飼いは家の中にはいって、ほかの傭い人とともに一つの食卓に着いた。彼は、たった一人、中庭の真中にたたずんだ。
誰一人、彼の存在を意に介するものがない。お神さんも、わざわざ彼を追い立てようとはしない。
彼は大きく鼻をすすった。そして、再び羊小屋に戻って戸に耳を押しあてた。仔羊はもう落ち着いて、一匹一匹、声を立てなくなった。彼は外の閂がしっかりはまっていることを確かめた上、万一の用心に、大きな石を探して来て戸のつっかいにした。そうして置いて、もう何もすることがないと思ったらしく、彼は罎を取り上げて、この百姓家を去ることを決心した。
ちょうどその時である、彼は路上に一人のおじさんを見かけた。彼は木靴を脱いで、それを両手にはめ、
彼はわたしに「今日は」とも言わない。
彼の手は木靴を足に返した。そして、黙って、わたしと並んで歩いた||それは小さな乞食のようにでなく、小さな道連れのように。ただ彼はわたしと同じぐらい大股で歩くことを努めていた。彼はわたしの行くところへ来た。
わたしが初めに口を切った。
「なんだ、その罎の中の黄色いのは?」
「油と酢、そこの食料品屋で買ったんだ」
「サラダへ入れるのか」
「あたりまえよ、スープんなかじゃねえ」
「なんだって、そんなに振るんだい、罎をさ」
「油と酢とがよく混ざるようによ」
「どこへ持って行くんだい」
「うちの車へさ」
「車へ?」
「そうよ、あすこの、運河の橋んとこにいるんだ。今朝着いたんだよ、おれたちゃ。そして、今夜たつんだ」
「面白いかい、そうして、ほうぼうの道を通るのは」
「うんにゃ、そりゃ働いたほうがいいや」
「その年でか、生意気だなあ」
「九つだよ、おりゃもう」
「九つで、何ができると思う」
「人のうちへ傭ってもらうんだ」
「小さ過ぎるよ、お前じゃ」
「だって、おれより小さい、七つのやつが牛車を引っ張ってたぜ」
「うそつけ」
「ほんとだよ、おじさん、
「どうかなあ、ほんとか、そりゃ」
「うそだったら、神さまのそばへ行けなくってもいいや」
「お前、それで牛が引っ張れると思うかい」
「でなきゃ、羊か豚の番ならできら」
「お
「できることなら、おれに仕事を見つけてくれたいんだよ。きっとよろこぶよ。おっ
「お前はあんまり小さいって言ってるじゃないか」
「うそだい、おじさん、うそだい」||小さなボヘミヤンは、こう言ってじだんだをふんだ。
「そんなら、そんなに威張るなら、この村の百姓家に置いてもらったらいいじゃないか」
「今、行って来たんだよ。きっと置いてくれるんだけどなあ。もうちゃんと手が揃ってるからだめだ」
こうして、わたしたちは一緒にいくらかの道を歩いた。
小さなボヘミヤンは、ある時は走った。またある時はわたしと同じように歩いた。
彼は古い自転車帽をかぶっていた。この帽子は、当時、一番かぶるものが多く、したがって一番余計
彼は
「女の
「ははあ、
「そうじゃない、死んじゃったんだよ」
「お前は、おれに何かくれって言わないね。銭を持ってることがあるか」
「ない」
「欲しいか」
「うん」
「どうするんだ」
「パンを買うんだ」
「パン、どうして。おれがよろこぶと思ってるのか。そんな······。なんだってかまうもんか。それより
「おじさんの買えって言うものを買わあ」
「いいか」||わたしは、与えた金が有利に使われることを望む寛大な人間、とでもいうふうな厳かな調子で||「いいか、おれはお前に一スウやる、
「ああ、じゃ、そうすらあ」
「うちの人に見せるんじゃないぞ」
「ああ」
「お前が、ああって言ったって、見つけられるだろう、そうしたら取り上げられるばかりだ」
「隠しとくよ」
「どこへ」
「ここ」||彼は、ポケット代用の
わたしは、自分のポケットから、五スウだけつかみ出した。が、どう気がとがめたものか、一スウだけまた中へ入れて、小さなボヘミヤンに四スウ与えた。
「や、四スウだ」||彼は言う。
「そうだ、四スウだ。一スウ、ニスウ、三スウ、四スウ」
彼の眼はたちまち花のように輝き、
「ありがとう、ほんとうにありがとう、おじさん、ありがとう。さよなら、おじさん、御機嫌よう」
これが一生の別れであろう。彼はすでにわたしから離れていた、が、何か忘れものでもしたように、また帰って来て、わたしのほうに手をさし出した。その手を、わたしは、人通りのない道ばたで、それとなく、しかし力を籠めて握った。
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彼女はもう自分の年を知らない。人があまりたびたび尋ねるので、返事をする時に自分で何がなんだかわからなくなってしまうのである。彼女の言うことはほんとなので、全く自分がいくつになるのか、もうわからなくなっていた。彼女のことを一番よく知っている者は、八十六歳より若くはないと言っている。
この月、一つの大きな不幸が彼女を見舞った。孫娘の一人が間違いをしでかしたのである。
「はじめて、今度という今度は、あたしは頭があがらない」
それで、彼女はしょげきって、頭を下げている。彼女は総てを忍んで来た||骨の折れる仕事、赤貧、心痛、それから骨肉の死。彼女はいたるところで子供を
彼女は、薪を探して歩くことは平気だった。なぜなら、それはほかの仕事とほとんど変りのない仕事であり、かつ、その仕事は彼女より富裕な婆さんたちを侮辱することにはならないからである。天気の
あとは、その日その日のパンを探せばいいのである。あからさまに言うなら、乞食でもしなければならない。それは何よりも苦しいことである。苦しいことには違いないが、それもいずれはなれっこになる。現に、誰かが彼女の前掛けのポケットに何かを入れようとすると、彼女はまず後ずさりをして「いいえ、いいえ」と大きな声で言う。それからすぐに、低い声で「ありがとう、ありがとう」と言うのである。つまり、一方の手が、機械的に、ポケットをひろげるのである||
彼女を観察していると、わたしは疲れるということがない。わたしの驚きは増すばかりである。彼女はもとよりそれを知るはずはない。話の筋を運ぶのはいつもわたしの役目で、彼女は根気よくそれに答え、決して問を発しない。で、もしわたしが話を途切らすと、彼女も口を
彼女が時として自分の「性」を忘れることがあるのも、老衰を語る一つの徴候である。彼女は自分が女性に属しているということを、もう考えなくなっている。で、彼女は自分のことを言うのに平気で男性の形容詞を使う。
Jeune, je ne suis pas gros, j'etais petit, mais sain et fort de temp

わたしはそれをとがめる気にならない。なおすのはもう遅い。
「いくつの年にお嫁に行ったの?」
「二十四のとき。もっと早く行けたんだけれどね。綺麗じゃない、そりゃとびきり綺麗というほうじゃなかったけれど、人が見て逃げて行くようなことはなかったんですよ。これでも、なかなか望み手はあったもんです。ただ、おれが延ばせるだけ延ばそうと思って」
「なんだって延ばすの?」
「ただ、そんな気がしただけさ」
「すぐに子供ができたかね」
「いいえ、嫁入ってから、二年間はずっと娘さ。ところが、一番上の男の子ができてからというもの······」
「そうそう、そりゃ知ってる」
ここへ来るとオノリイヌの言葉をさえぎる必要がある。なぜなら、彼女は際限なく子供を生んだ。そしてその子供はみんな死んでしまった。彼女は、それを一人一人蘇らせ、かぞえ上げ、混ぜこぜにし、涙を
「ずっと
「そりゃむろん」
「お嫁に行ってる間だけね」
「行ってる間も、その後も」
「その後は、ぜひそうしなけりゃならないこともなかったろう」
「いつまでも夫婦は夫婦だからね」||オノリイヌは言う。
「そう言うけれど、田舎にも、だらしのない女がいるにはいるね」
「四人はいる」
「そういう女を軽蔑しますか」
「それはおれに関係のないこった」
「誰か嫌いな人間がいるかな」
「誰かって?」
「誰か、まあ、あんたの
「誰もいないね、おれに迷惑をかけたような人間は」
「じゃ、あんたは誰かに迷惑をかけたことがありますか」
「お蔭様でそんなこたあありません。そんなことでもあったらそれこそ大変だ」
自慢らしくこういったわけでもないが、彼女はすぐに気になって、返答をしなおした。
「それはそうと、年を取って意地が悪くなりはしないか、それが心配でね」
「心配はいらないよ」
「いいえ、いいえ、おりゃ、時々、そのへんの酔っ払いやのらくら者を見ると、腹の立つことがあるように思えてね」
「そのへんとは?」
「ええ、お互いさまだって、そのへんの人さね。ところが、そんな時、よっぽど我慢をしないと、つい馬鹿なことを言ってしまいそうでね」
「あんたにそんなことができるものか」
「これで、どうして、油断がならないよ」
「とんだ間違いさ。それがあんたの夢の見納めだろう」
「なるほど、そうかも知れない」||オノリイヌはこうつぶやいた。そして、彼女が常にわたしを待ち受けている沈黙の底に、再び首をうなだれた。
「ずいぶん苦しいことがあったろう」
「授かった苦しみです」
「あんたのような働き手はいまどきないね」
「まあね」
「あんたは死ぬのがこわい?」
「めったにそんなことは考えないよ」
「あんたは死なないかもわからないね」
この
「あんたぐらいの年になれば、もう死ぬわけがないじゃありませんか」
「年を取った、それだけでも死にますよ」
「百年は生きられるだろう」
「若いものにそういってやるんだよ。すると怒るよ」
「だが、全くのところ、もうしみじみ不幸な目に遭うのがいやになったでしょう。百年も生きていたかないね」
「少しぐらい、多かろうが、少なかろうが······」||彼女はなにか思案に
わたしは、彼女がどういうつもりでそんなことを言ったのか、はっきりわからない。年のことを言っているのか、苦しい目に遭ったことを言ってるのかわからない。彼女は夢を見ている。いつも動かしている頭の不規則な運動が、ちょうど
「目をお覚ましなさい」
「でもね、笑うこたあずいぶん笑ったんですよ」
「あんたが? どんな場合に?」
「土地の祭や、村の婚礼、それから川で洗濯女と一緒に」
「どんなことで?」
「いろんなことで。うれしいから笑ったんですよ。それに笑ったり踊ったりすることが好きでしたからね。こう見えても、裳の下に棒杭ばかり入れていたわけじゃないんですよ。とっぴょうしもない声で笑いながら踊ったもんですよ」
「まだ踊ろうと思えば踊れるかね」
「孫のピエエルが死んでなくって、あした、嫁でももらうっていうんなら、おりゃ、一番に踊るね」
「せめて、笑うことだけはできるね」
「
「ちょっと笑ってごらん」
「笑いたかないもの」
「ただ、どんなふうにして笑うか見たいからさ」
「本気にならなきゃ、だめですよ。なんといったって違いますよ」
「いいんだよ、わたしを悦ばせると思って。さあ、笑ってごらん」
「じゃ、よござんす、あなたのことだから」
彼女は立ち上る。提げ籠を椅子の上に置く。一方の足をあげる。手をたたく。三べんずつ馬の
「もうたくさん、もうたくさん」
大きな黒い口、その中にわたしは、沼のほとりにころがっている石のような、一本の長い歯を見た。わたしはぎょっとした。彼女の手は骨の音がした。
「それごらんなさい、無理に笑うんじゃだめですよ。息子の婚礼で、うんと笑いましたよ。そりゃ、よく笑ったもんだ、まったくよく笑った」
「そんなに笑ったの?、変だなあ」
「まったくですよ」||再び座に着いて彼女はいう||「おれぐらい泣いたものもないでしょうけれど、またおれほど一生のうちに笑ったものもありますまい」
「そういう一生を、もう一度繰り返してみたいと思うかね」
「苦も楽もひっくるめてなら、神様さえお許しになれば、もう一度繰り返してみてもいいね」
「お願いしてみたら?」
「どうもお祈りの仕方が悪いんでね、おれは。晩、寝床の中で、お祈りをしている最中に眠ってしまうんだもの。朝は、急いで仕事に出掛けるもんだから、みちみちお祈りをする。ところが、誰かに遇うと、ついおしゃべりをしてしまって、お祈りは半分どころでおしまいさ」
「正直な話、神様っていうものはあると思う?」
「あるにゃあるんだろうけれどね。あなたは?」
「わたし? わたしはどうだか、そんなことは知らないよ。じゃ、あんたは、若い時分と同じように神様を信じていますか」
「ああ、だけど、以前の方が神様は好きだったね」
「へえ、じゃ、どんなところが気に入らないの、神様の?」
「あんまりだと思うことが二つあるね、おれにはどうしてもそれがわからない。あとのことはまあいいとしてさ。第一、どうして悪い天気があって、作物に害をするんだね? どうして、前の日に下すったものを、翌日取り上げておしまいになるんだね? 裏の畑の
「神様なんていうものはきっとないんだろう」
「まったく、そう言いたくなるね」
「じゃ疑ってるんだね」
「疑っちゃいません。桜実が惜しいんだよ。それから、なぜ若いものを先に死なせ、年寄りを後に残すんです。ピエエル、おれの末の孫っ子ね、この冬死んじまった。それに、なんにも役に立たない
「泣くのはよしなさい。天国でピエエル君のそばへ行けるよ。天国があることを信じてるでしょう」
「それも時と場合でね、日によるんですよ。おりゃなんだかもうわからない」
わたしは彼女に泣くなと言った。しかし、彼女の涙は声のなかだけにしかない。彼女の眼はピエエルの死このかた乾ききってしまった。ただ声を出すだけである。涙がなにになろう。彼女はすでに椅子の上にうずくまっている。尖った
最初、人はこの離れ
煖爐の薪が消えると、第一に、姿の見えない
ついで、中庭を歩きまわっていた、たった一羽の
猫は、背中を丸くして、自分のよく
一夜、鼠どもが、手箱の最後のかけらを
と、にわかに時計が止まった。それはしだいに遅くなって止まったのではない。こつこつという音が、最後の一瞬間までじりじりと消えて行ったのではない。それは立ちながら撃ちのめされた人間のように、ばったりと歩みを止めたのである。今まで、自分が病気だということさえ知らなかった人間のように。
家の心臓は、もう鼓動を
村の人々は戸を押し
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路の上で、わたしがまず
「そりョ、うるソいの、オトしのおっコソん。日曜日に、オトしがオんトとおどるのをいヨゴるのよ。もう、オコんぼじョノいのに、オトし、ねえ、オんト」
つぎに、二人の女が通った。一方は若く、一方は年を取っている。新しい黒地の着物を着て、二人とも
「それもね」||年を取ったほうの女が言う||「それもね、なにかあの人たちのためになるならいいんだけれど、そうじゃないんだから、あっちじゃ、なんでもないことを、わざわざ、おもしろがってぶつくさ言うんだろう」
「そうよ」||と若いほうが答える||「ああいうふうなのよ、あの人たちは。何もかも
二人の女が姿を消したと思うと、今度は、二人の紳士に
「ねえ、君、わかるだろう、
彼は努めて笑おうとした。すると、連れの男は、まだまだ生きていられるんだから、今にわかるのはあたりまえだという顔つきをして、頭をゆすぶった。
なるほどね、こうわたしは心の中で言った。今まで路で出遇った人間という人間は、みんな苦労をさせられている人間だ。みんなお互いに苦労をさせ合い、そして、人に苦労をさせている人間だ。苦労は
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今度は戸口でつかまった。わたしが出ようとすると彼がはいって来た。で、二人は鼻と鼻を突き合わせた。
すぐに、彼は妹の話をしだす。どうも容態がはかばかしくないというのである。
どこで
彼は低い声で訴える。わたしにだけなんでも打明ける。彼の眼には、わたしが親切に見えるというのである。
わたしはできるだけのことはする。彼のいうことは
わたしは頭を振ったり、口を開いたりする。彼が歎息したり、薬屋の勘定が
たしかに、こういう偽善者の態度はわたしを疲れさす。彼を
しかし、彼は、わたしの督促を待たずに、どんどんしゃべる。自分の苦労を、ぶつぶつ語り続けるのである。同じことをなんべんでも繰り返す。ちょっとしたことを言い忘れたというので、また初めからやり直すかも知れない。それもそのはず、彼の生涯はもう生涯という名さえつかない。
べそをかくならかくがいい、そして自分で自分を慰めるがいい。これも慈善だ、人のために尽くすという行為に自ら誇りを感じながら、わたしは彼の言葉をさえぎろうとしない。この風の吹き通すところで、突っ立ったまま凍えるぐらい覚悟の上だ。
そこで、わたしは、にわかに木からでも落ちたようにわれにかえる。わたしはなにやら口の中でつぶやく。というのは、かわいそうな兄が、私に向かってやるせなさそうにこう言ったからである||「すみません、エロアさん、妹のことで、わたしがこんなことをいうのが、さぞうるさいでしょう」
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自然なポーズをとるために、わたしはまず平生通り腰をかける。右の足を伸ばし、左の足を曲げたままにして置く。一方の手をひろげ、もう一方の手を握って膝の上に置く。わたしはからだじゅうに力を入れ、七分三分に構えて一点を見つめ、そして笑顔を作る。
「どうしてお笑いになるんです」||写真師がいう。
「あんまり早過ぎるかね、笑うのが」
「誰が笑って下さいといいました」
「言われない先にやってあげたんだ。わたしは習慣を心得ている。初めて写真を
「それはそうですが」||写真師はいう||「あなたがお望みになるのは、ほんとうの写真なんでしょう。特徴のない、ぼんやりした姿ではないんでしょう。それを見て、口の上手な手合いが、お世辞のつもりで、||なるほど、どこか似ている||などとしか言わないような写真じゃないんでしょう」
「わたしは、総てが現われている、つまり、よく似ていて、
「あなたがまあどういう方であろうと」||写真師は言う||「笑うことはお止めなさい。最も幸福な人間は、好んで
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海を眺める時、海というもののどんなところが、まずわれわれの心をうつかと言えば、それは彼女がなんら驚くに足るべきものをもっていないことである。(
海を観賞する方法は人によって違う。あるものはひとり離れた一隅を選び、あるものは
水浴びする人々の間を行き来して、こういうこともできる。
「この海は大洋を思い起こさせる」と。
もし子供を腕に抱いているなら、そしてその子が泣き出したら、こういってやるといい||「こわくはない、しっかりつかまえていてあげる」
もし犬を連れていたら、その犬を撫でてやるがいい、静かにせよと命じながら。
馬に乗っているなら、試みにその気高い動物を波に向かって
わたしは、わたしの癖がある。軽い
「潮の
その婦人は波にからだを浮かせている。からだのどの部分も水平の上に出ていない。
その婦人は笑っている。あまり笑って、一滴の水を海の中に落とす。
「や、海の上に美しい
「あたしの口よ、それは。指をどけてちょうだい」
もう一人はからだを
「海を見てると眼が痛くなるわ」||一方が言う||「じっと見ていられないの。新婚旅行で
「あたしはね、もうきまってるの」||もう一方のが言う||「壮大な海の眺めにぶつかると、一週間あれが早くなるの」
ところで、これはまた犬儒学派の哲学者である。厳かな手つきで、あくまで荘重に、粗大な衣布の
黒衣を
おそらくは、この世をはかなんで、再生の日を送るべき一つの星を選んでいるのであろう。彼女はすでにこれと思う星を探しあてて、その世界に住み込んだ。彼女は運がわるい。その星はたちまち飛んで行く。
「しかし······」
「そうさ、わかってるとも、星が飛ぶもんか」
わたしはいろいろの型の船に乗って海へ出歩いた。
食事をせずに行くと、一回目には
わざわざ食ったシャンパンづきの御馳走を三度嘔いた。二度は納まった。
船首にいて嘔いた。船尾にいては嘔かなかった。しかし、真中で嘔いた。しかもフランネルの腹巻きをしていた。もっともあまり締め過ぎたかも知れない。ともかく、海へ出る時には、からだの軽い、気分の爽やかな日を選ぶ。そして、描いたような水平線を見つめながら、健全な、雄壮な思索によって心を紛らそうと努めるのである。それで、ある時は、平気であるが、ある時は、何もかも戻してしまう。
今朝着いたボルネ夫妻は、もう海岸を歩き、小さな港を一周し、小石を拾い、風に鼻をすすった。
昼食をする。食堂の窓から海が見える。
「あなた、おなかがすいてらしたの、もう大丈夫?」||細君が尋ねる。
「いくらかなおった」||ボルネ氏は言う||「とても治るまいと思った。ひどいもんだね、腹をえぐるよ、海の空気ってやつは」
彼はハンケチを畳んで、消化を助ける準備をする。その時、船頭の神さんが、魚を売りに来る。
彼女はみじめな
「かわいそうな女」||ボルネ夫人は言う||「なんていう生涯だろう。ありゃ、どうかすると、たしかに、魚の骨をしゃぶってるわね。それも人に売った魚の骨が路に捨ててあるのを拾って来るんだわ。あの女を見ると、あたし変になるの。自分の境遇と比べて見るの。で、あたしたちがよくぐちをこぼしたりなんかすることを考えるの。あの女の持ってるものったら何があるでしょう。それに、あたしたちは、ないものったらない。あたし、なんでもないことに涙を流してみたりする人間は嫌いよ。だけど、物事があんまり不公平なので、つい腹が立つの。自分が絶えず幸福だということが、なんだかおそろしいわ」
「なるほど、あの女を見て一種の感動を受けることは、わたしもお前と変りはない」||ボルネ氏は言う||「しかしながら、考え直してみよう。昼食をすまして、
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「僕の案内記を持って行きたまえ。そうしてホテルの番頭に、コンチ氏の紹介で来たと言いたまえ」
「それより、こう言ったほうがいい」||エロアは言う||「おれはひと息にこうどなってやる||コンチ君とジョアンヌ君とベデカア君の紹介で来た||って」
「どうぞおはいり下さい」||ホテルの主人は頭を地べたへつけるように
「礼儀正しいということがどれだけこっちの役に立つんだ」||イギリス人は考える||「フランス人の馬鹿は、お互い二人ぶんだけそれをやってくれている。どうかすると、おれの荷物を置くじゃまにならないように、片方の尻で腰を掛けるかも知れん」
ヴァランスにて。||もうすでにがっかりした。
アルルにて。||おや、
ラ・ブリュイエエルの百姓はもう同族のものを見分けることができないだろう。
誰が、邪念なく、進歩を否認することができよう。
彼は歩む。彼は歩む、百姓は。
野を通ると、まだ、黒く日にやけた
しかし、少くとも彼は、汽車が通ると頭をもちあげる。
翼がほしいという欲望をもっているにかかわらず、われわれは遂に空を飛ぶことはできないであろう。結局仕合せだ。さもなければ、空気はやがて吸うに堪えなくなるだろう。
君たちは考える。||エロアは自由なからだで、ああして旅行ができるとは仕合せだ。行くさきざきで風景を賞し、美しい
どうしてどうして。おれは、今まで与えたチップ、これから与えようとするチップのことを考えている。あの給仕は、おれの
それに、おれをシナ船に乗せたあの船頭、あれで十分だったろうか。たくさんだろう。おれならあれでたくさんだ。
それから、あの男、物を尋ねたのに、言うことが、こっちに一語も通じない、それでも「は、は、ありがとう、ありがとう」と言ってやった、あの男、あいつは
なお、あのマンドリン
なんだ、あの冷やかな、横柄な、がむしゃらな
貴様はなんだ、貴様は。自分の
よく見ているがいい、事務所の法官。おれは天国の元首然たる落ち着きを以て馬車に乗り込む。扉を
マルセイユにて。||わたしが学校にいるころはフランス第三の都会。それからずいぶんわたしは大きくなったものだ。
一人のふとった婦人が、彼女の印象と、わたしの印象とを一緒にして約言する。
「プラド、プラドって、人を馬鹿にしてる。ただ聞いていると、まるでオベリスクみたいだわ」
新しく部屋を取るごとに、わたしは面倒でもアルメニヤの紙を焼き
ツウロンにて。||
あれは、噴水だ。
また噴水か。
おや、銅像がある。誰の像だ? 誰が作ったんだ。
サン・ラファエルにて。||私が夜中に着く時刻を電報で知らせたので、皇族か公爵が変名で旅行をしているとでも思ったのだろう、ホテルはありったけの明りを
わたしは、一番
「何か召し上りますか」
「湯たんぽを一つ頼む······」
わたしが半長靴を戸口に出すと、明りが消える。わたしの用を弁じるためにさきを争うどころでなく、給仕どもはみんな寝てしまう。
わたしは独りぼっちになる。この屋根の下、ひっそりした部屋の中、空虚な響きを伝える二つの部屋に挾まれて、わたしは独りぼっちになる。
ホテルの部屋で眠るためにはあまりに疲れきっている旅行者こそ仕合せである。彼は、鞄を開き、刷毛や
二つの赤い岩が見える。一つは「海の獅子」と呼ばれている。なぜなら、アルフォンス・カアルの言うところに従えば、その岩は獅子が寝ている形を現わしているからである。もう一つは「
カンヌ(料理店ラ・クロアゼット)にて||エロアはそしらぬ顔で、彼の封筒を一枚机の下に落とした。あとで、給仕どもが、よそから来た人たちにこう言えるようにである。
「エロアがここで食事をした」と。
おお、月を見てなんの感じも起こさない地中海よ、お前は決して動かない。そして、
それから、お前、帆立貝の
これら庭園の緑樹は刃物屋の店先きのごとくわたしの眼を楽しませる。尖った梢に、一つ一つ
「ああ、ここへ来てせいせいした」
「そうだろう、ここの気候は腺病患者にもってこいだ」
今宵、夕陽は薄ぎたない黄色を呈している。卵を食ったんだと言うかも知れない。
アンチイブにて。||新聞フィガロの創立者ヴィルメッサン氏は、宏壮雄大なヴィラ「太陽荘」を築かせた。氏の考えでは、これを文学者の隠退所にあてるつもりであった。しかし、実際は、下宿屋になっている。
とはいえ、文学者が泊るのは差し支えない。
ニイスにて。||夕方はあれほど
たった一台の車、乳屋の車。
これらの
それに、いつものあの黒い服の
宿のあるじが、われわれの眼の前で注文の
「ニイスをどう思います」と、フランス人が国際的微笑をもって問いかける。
「あんまりフランス人が多すぎる」と、イギリス人が答える。
「
思いつきは結構、眼を欺くに十分。毎日曜日の午後三時、青年にそれをやらせることにする。
やれやれ、なんという暑さだ。おれの額の上に
ペストのように避けて通る||ローマ浴場の廃址、「若干のいい画を蔵する」博物館、珍無類の彫刻、ファサアドが、何百何年とやらに造られ、大祭壇がなんとやらの教会堂。
「顔を海の方に向けて、右へ進むのです。そうして市役所を左へやっておしまいなさい」
「大丈夫です」
ガリバルジの銅像の前で、もし、あなたが馬車に乗っているなら、一度降りて見なければなりません。
||いやいや。
なるほど穏やかな天気だ。窓を
しかし、わたしは絶えず、パリでは雨が降っている、氷が張る、こう言っていなければならない。ところが、今朝、フィガロを読むとこう書いてある||昨日はとびきりの上天気。張り合いが抜ける。
この皮のむけた土地が緑色になるのはいつのことだ。
軽いいでたちで、わたしの
ここは、冬の煖炉と鉢植えの木を入れた温室だ。
モナコにて。||汽車中。あの品の
宿料を聞き忘れた。なんという部屋だ。一晩に千フラン取られるかも知れない。眠れない。
毎日、二時から四時までの間に、アルベエル一世が、男らしい気持のいい頭の上に太公の冠と学者の冠とを戴いて、古い
モンテ・カルロにて。||わたしは、ほんとうの勝負好きだろうか、
後に言うが、わたしはモンテ・カルロで博打を打つ。モンテ・カルロでさえ、勝負には強い。で、賭け金と一緒に
鳩猟。||一つの箱が
ラ・コルニシュにて。||ごらんなさい、海の上の二
路ばたで物乞いをしているあの老婆は、へりくだった口の利き方をしない。
「どうぞ、お慈悲を」
彼女は恐ろしい剣幕で呪いの文句を浴せかける。それだのに人は、石をぶつけるかわりに、銭を投げる。
元気を出して、ずんずん登った! ここでは何も見えないだろう。その斜面を
もうひと息、最後の一歩。
止まれ! 早く、額の汗が乾かないうちに、眼を空に転じ、胃の
その後で、息をつけ。
マントンにて。||五分間停車。わたしのステッキを地に插す時間。帰りに抜き取って行こう。それはそうと、さぞびっくり仰天することだろう、わたしのステッキが小さな樹になっていて、葉のついた若い枝に覆われ、なお、もしかして、その枝の一本に、旅の
土地の娘たちはシトロンをたべない。しかし彼女らは、それを籠いっぱいに積み上げ、頭へ
彼女らのからだつきとその身持ちとは、そこから来る。
ヴァンチミルにて。||そこまでちゃんと合っていたわたしの時計が、そこから四十七分遅れていることになる。じゃけんな風と三角同盟に買収された土地の子供らとが、わたしの後から吹いたりどなったりする。われわれの美しいフランス、その郵便局でなら十スウも払えばすむ電報を、ここでは六十スウも払わされる。これ以上は言うまい。わたしはイタリアがどんなところか知っている。千古不滅の雪に最後の
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わたしは、それでも、ある偉人とある名士とに連れ立って、大通りを散歩する光栄を
偉人は顔をあげて、漠然たる様子で、規則正しく歩みを運んだ。その渇仰者は、彼を注視するために立ちどまった。あるものは、ほとんど親しげに通路を擁し、あるものは
彼は誰一人に眼をくれないように見えた。時として樹木の枝に笑いかけた。おそらく、いっさい無関心で、歩道の真中を歩くということしか考えていなかったろう、群集がひとりで道を開くままに。
しかるに、彼の右側には、名士が、
わたしは、未来ある少年、溝の縁を伝っていた。一言も口を利かなかった。何も聞こえない。それもそのはず、群集にもまれて、絶えず前に出過ぎるか、後へ
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夕食は簡単に片付けた。というのが、エロアは、二人の客、詩人ウイレムとその細君に予めそう言って置いたのである。
「簡単な食事を用意させたのだ。いかにも、君たちの胃袋にお礼を言ってもらうのを当てにしてるようでいけないから」
「じゃ、始めてくれたまえ」||ウイレムが言う。
「ほんとうに、あたくし、楽しみにしていたんですのよ」||ウイレム夫人は言う。
「いや、あなた方がなんておっしゃるか、もうわかっています。あなた方は、ほんとうのことをおっしゃるには、あまりに御親切です」
「われわれはほんとうのことを言うよ」||ウイレムがきっぱり言う||「お互いに同年輩だ。君に向かって手心を加える必要はない。もし君の脚本がまずければ、こりゃもうなんともいたしかたがない」
「うまいにも、まずいにも、誇張しないでくれ」
「
エロアは急がない。彼はまず聴衆にしっかり用意をさせようとする。彼は、自作の脚本を読む前に、短い、気の利いた序文というようなもので、その解説をして置こうと思うのだが、まあ、二三思いついた、それも月並みな予告をする。
「わたしはこの劇の価値が、どれほどのものかということは知っています。これはわたしの手始めです。いわば、開幕劇に等しいものです。たいした問題にはならないのです」
そして、彼はついに余計なことまでしゃべる。詩人ウイレムは書物のページを繰っているようなふりをし、ウイレム夫人は、鏡を出して、髪の毛をあちこち押えてみたりする、この様子だと、彼らはその瞬間、朗読のあることを忘れているとしか思えない。
エロアの細君はどうしているかというと、彼女は一言もしゃべらない。避け難い危急が切迫しているかのように心を
突然、独りで、エロアが決心をする。
「席に着いてくれたまえ。始めるよ」
相手はまだぐずぐずしている。ウイレム夫人は、自由で真直ぐなただの
「後へ
詩人ウイレムは
「もう
「黙っていて戴いたほうが結構です」
エロアは、こういって、なお、意気地なくつけたす。
「もっとも、どうにも我慢がおできにならないというような場合は、こりゃ別ですがね」
「黙っていましょう。さあ、どうぞ」||ウイレム夫人は言う。
エロアの細君は見えない。彼女は戸棚の横に隠れている。彼女は両手を胸に当てて、息苦しさに悩んでいる。
エロアはウイレム夫妻の顔を見て、卑怯にも微笑を送る。ランプの傘を下げる。
まず作者の名、その住所、それから標題、それから人物の名、背景、こう読んで行く。それだけでもう息が切れそうになる。誰かが一言励ましてくれればいいと思うほど、ぐったりする。
彼は陰険な敵の前で最初の数句を読み上げる。しばらくの間、彼の声は、乞食女のように、
が、やがて、彼は耳を
ひとしきり座が動揺した。そうだ、ウイレム夫人が動いた。そして溜め息をつく。彼女の口から、ひと声
「こりゃどうして、たいしたもんだわ」
直ちにエロアは、力を得て、調子を変える。細かい味をみせる。声という声は残らず出す。ウイレム夫人にさえ気に入れば、それでいいではないか。彼はもう恐れるところはない。で、彼は、彼女のほうに向き直り、これからは、彼女のために、この優しい頼みがいのある婦人のために読むのである。彼女はしきりに感興の抑え難きを示し、「おお」とか「ああ」とか「まあ、いい」とか「申し分なし」とかを連発する。
それは嬉々として舞い上る放鳥の群れである。
エロアの一言一句はことごとく効果を生む。二人は戦う。彼の一撃また一撃に、彼女は讃歎の叫びを以て応ずるのである。
しかるに、ほかのものはどうか。もう一人は、詩人は、批判者は、彼はどう考えているか。
エロアは朗読を中止する。そして言う。
「ちょっとひと息つかしてくれたまえ。一杯水を飲ましてくれたまえ。喉が渇いた」
そして、ウイレムに、眼で問いかける。
詩人は口髭を捻りまわしている。ぶらりと下った一方の脚で拍子を取っている。わからない、まるでわからない。彼は眠っているように見える。
「どうだね」||エロアは言う。
「親愛なるエロア君」||詩人はようやく重々しい口調で言う||「僕が詩人で、君が散文家であることは、僕にとって仕合せだ。さもないと、僕は非常に苦しい立場にあるわけだ。君は散文を書く。僕は韻文を作る。われわれは、だから競争者ではない。で、僕は少しも嫉妬を感じないで、こう言うことができる||
彼は口を
一同の生命は極度に緊張する。おそらく、他の人々の命が、ここで吸収されて、外では縮められているかもしれない。
エロアは綴った紙を取り上げる。
公園の柵の真中にいた
彼は、安らかな気持で、地の底から湧くような、そして熱情に満ちた声で、終りまで読む。彼は一同の満足に身を
一同は
「いじってごらんなさい。あたくしの手、こんなに汗」||ウイレム夫人は言う||「何度、大きな声が出そうになったかわかりませんわ。
詩人ウイレムは書斎の中を行ったり来たりしている。彼はそわそわしている。そして、誰にともなく話しかける。
「そこには、才能以上のものがある。そこにはほとんど······。想像していたよりもずっといいものだ。先生が下らないものを書くとは思ってはいなかった。陽気な、機智に富んだ、気の利いたものだぐらいに思っていた。胸を
「偉大な人間の」||ウイレム夫人が言う。
「批評にうつろう」||エロアが言う。
「批評すべき何ものも認めない」||詩人ウイレムは言う||「一つ留保をして置こう。それも、はっきりそうだとは言えない。僕は標題が内容をうまく伝えていないと思う。少し言い表わす範囲が狭いと思う。用心し過ぎていると思う。いじけていると思う。もっとそれが、旗印のように広く、堂々としているほうがいいと思う。つまりそれは、これからの模倣者に路をさえぎることにもなり、君が決定的に実現したものを、再び繰り返そうという無法な欲望を頓挫させることにもなるのだ。が、それは僕が間違っているかもわからない、約束は小さく実行は大きいほうがいいかもわからない。そのほうが目覚ましい驚歎を
「考え直してみよう」||エロアは言う||「や、どうもありがとう。それだけ友情を示してくれれば、あとのことは甘んじてうけいれる。僕は君たちを信じている。君たちは、そういう調子で、僕を
「もう一度、どこか一番面白いところを読んで下さればいいのに」||ウイレム夫人は言う。
「いや、それではせっかくの興が
彼はもう足が地につかない。彼は宙に舞い上る。空を飛ぶ、満身に日光を浴びながら。それでも、いくらか
「あたし、どんなに肩身が広いでしょう」||細君は彼に言う||「そんな偉い方のそばについていて、恥かしくないようにするには、あたし、どうしたらいいかしら」
「お前か、可愛いお前か、そうさな、まず第一に、そんなに泣かないこった。馬鹿だな、さあ、そんなに泣かないこった」
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みんな、わたしのようだろうか。わたしは一人の女と悶着が起こると、その女が死んでしまえばいいと思う。
時として人を窓から突き落としたい。また時として、自分自身を投げ出したい。
今日は何曜だろう。写真の
一生涯われわれが、めいめい、二人の幸福に身を委ねたなら、われわれは、めいめい、二倍だけ幸福なわけだ。つまり一倍だけ多過ぎるわけだ。
予め見越しをつけたことで、それのあたった
わたしは生活とその
友情は、二人の気分が長短相助け合う間しか続かないものだ。
フランス語こそ情けない言葉|| Tournure という語は、同時に、女の尻と男の頭に使われる。
奥さん、わたくしはあなたにこの社交界風俗研究をお
あなたは、本棚の中で、書物が自分で位置を
わたしは、自然によらなければ書かない。わたしは、生きた
日が暮れた、地球はまた一転した。夜の
なんだ、なんというあやふやなかっこうをした
樹の
乗合馬車で、わたしは奥のほうに腰をかけた。最初のうち、席を譲るまいとして、馬の
今日は、わたしに取って、人道的気まぐれの日と見える。またしても、哀れな老人が歩道から歩道へ車道を横ぎるのを助けてみたくなる。ところで、この老人は、わたしにしがみついて、「すみません」と「ありがとう」と濫発し、わたしに彼の祝福を与え、なお神の祝福を約束し、それが、人を鼻で
おれが二スウもっていれば、二人で分けよう。十スウあれば五スウはお前にやる。だが、兄弟、こんなふうにして、十万フランまでは、半分わけにするんだと思ったら間違いだ。われわれの共有財産は
もし、婚礼の日、指輪を新婦の指に
××さん、あなたがわたしをほんとうに愛して下さる時、わたしは
女というよりも花、花のようにしなやかで、花のように
一人の女を愛している時||君は言う||その女に贈物をする日は、決して予め選んだ日ではない。その前日に渡さないではおられない。
わたしは、わたしの愛する女に言う||「おれは、よく、自分はどういう気持なのかわからないことがある。馬鹿になるんじゃないかと思うことがある」
「なによ、あんた、つまらない、お馬鹿さんね」と、彼女が言う。
わたしの好きな好きな××さん、あなたはもうわたしを愛してはいませんね。ずっと以前には、わたしが長くあっちにいると、あなたはそっと戸をたたきに来る。そして、心配そうに、わたしに尋ねたものです||「おかげんがおわるいんじゃないの、あなた」
今では、わたしがあっちで死のうとしていても知らん顔をしているでしょう。
今夜、寝る前に、わたしは空の星を
それから、習慣に従って、子供の時のように、自分の行ないを反省して見る。夜具の中で十字を切る勇気はない。で、情けなく思う。自分を軽蔑する。うんと自分を叱って見る。自分で自分が
まあ、まあ、気を落ちつけろ。
自分も人間でありながら、その人間がわたしを人間嫌いにする。
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||お前は、今日も、昨日言ったことを残らず言った。
||お前は、最初の男に言った、「君の秘密を守る」と。お前は次の男に言った、「固く秘密を守る約束で、君にだけこのことを打明ける」と。そして、お前はそれと同じことを誰彼になく言った。
||お前は、接吻さえしたいと思うものに
||お前は、一般論として言った||「女という女はすべて、間抜けだ」と。そして、それらの一人一人に向かっては、特別に、彼女はほかの女よりも勝れていると言った。
||お前は、ある婦人に
そういう予防線を張りながら。
||お前は、お前の女の誕生日に、女に言った、「お前にあげるものを買うんだから一緒においで。お前がいれば、おれに無闇なこともさせまいから」
||お前は、平生避けている人間に、偶然
||お前は、人が話をしていると、それを途中でさえぎり、それから一句一句の接ぎ目でこう言った、「そうでしょう、そこでこうです、わたしは、まあ早い話が······」と。
||お前は、こう言った、「人非人だよ、政治家なんて奴は」||。そうしてお前はさも得意らしく一人の元老院議員を識っていると言った。
||お前は言った、「フランスは事業家の掌中にある」と。そう言ったかと思うと、その口で、「事業がうまく行くわけはないじゃないか」と言った。
||お前は言った、「おれは塩をひとつまみ
||お前はいった、「わたしは新聞なんか読まない」と。そう言うしりから、「それは新聞に出ていた」と。
||お前は
||お前は、お前の敬愛する先生に、若い時代の原稿をみんな焼いてしまったと言った。それでもまだトランクに一杯残っていると言った。幸いに、お前の先生はお前の言うことを
||お前は流派に囚われないことをしめすために、お前が感心している作家の悪口を言った。
||お前はなにくわぬ顔をして作者に言った、「あなたの最近の作については何も言いますまい。なにしろ、わたしがあなたをどう思っているかは、前から御承知のはずです」
||お前はいった、「こう言うと生意気なようですが······」そして、お前はやっぱりそう言った。
||お前は、気前よくお前の
||お前は、借りた金を返しに来た男に、「なあに、ちっとも急ぎゃせん」と言った。それに、その金を貸した後は眠れなかった。
||お前は、弁済する能力のない債務者について、こう言った、「貸したことを悔むんじゃない。金が惜しいだけだ」。それが、うっかり口を滑らしてあべこべを言ったわけではない。
||お前は、芸術家に向かって言った、「われわれは
||お前は、芸術家は貧しい暮らしをし、俗界を離れて一生を送らなければならないと言った。それに、お前は、大根畑の縁で、「ああ、この大根の数ぐらい、おれに千フランの
||お前は言った、「
||お前は、さもそれがなにげなく口から出たように、「理想をもっていなければならない」と言った。
||お前は滑稽にも、むきになってこう言った、「義務を尽くすこと、正しい人間としての単純な義務を尽くすこと、われわれが

||お前は言った、「危険を冒さないで
||お前は言った、「家族とは名ばかりのものだ」と。そしてまた、「母親はやっぱり母親だ」と。
||お前は、老人が「工合いが悪い、もういけません」と言うのに、うっかり、「それはまあ結構」といった。
||お前は、ユダヤの漂浪者に、きっとこう言うだろう、「歩くのは薬だよ」と。
||お前は葉巻を口に
||お前はお前の妻に言った、「この世で、お前の
||お前は、犬と猫とを比較してこう言った、「猫のほうが気位が高い。犬のほうが忠実だ。猫は人の御機嫌を取らない。犬は誰の手でも
||お前は、出版業者は自分の職をわきまえていないと言い、医者は医者の心得を
||お前は
||お前は言った、「戦争をやるならやれ。おれは、そんなことは知らん。おれの
||お前は言った、「おれはこわくない。ただいらいらするだけだ。胸がどきどきするだけだ」と。
||お前は、死去の報知を受け取って、こう言った、「気の毒なのは死んで行くものではない。生き残ったものだ」と。それはそうと、自分は、生き残ったほうがいいのだ。
||お前は言った、「わたしが、君たちより先に死んだら、死体は
||お前は、屋根の上で、大声に否定した神に向かって、秘かに言った、「神よ、わたくしは
||お前は、今日一日で、お前が昨日すでに言ったことを残らず言った。お前はそれを、明日もまた言うだろう。
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友||おれをダシに使っていろんなことを書きちらすのは、もういいかげんにしないか。
エロア||それよりまず、自分で嗤 われないようにしろ。
友||君に秘密を明かすと、おれが背中を向けるが否や、すぐに、そいつを手帳に書きつけるんだ。
エロア||秘密というやつは、どうも記憶に残らない。
友||すると、やがて、その話が、エロアと署名した小話の中に出て来るんだ。
エロア||君の協力は感謝する。
友||おれを裸にして、君のうちの窓口へ曝 すんだ。
エロア||また、どこかへ行ってシャツを着替えて来い。
友||もう君に用はない。君の友達はことごとく君に愛想をつかしている。
エロア||おれにはまだ本がうんとある。君たちは十人足らずだ。おれの最も盛んな時代にそうだ。おれの忠実な書物は、もう三千になっている。
友||おれも文学者だ。だが、おれは触れてはならないものに触れないことを誇りとしている。
エロア||もし君がほんとうの文学者なら、おれのように、向こう見ずに、なんでもやるはずだ。
友の群れの合声||あいつは自分にさえ手心を加えない。
エロア||予防だ。おれは、おれの魂に、ただ気まぐれから泥を塗ろうとするやつ、そう言うやつらの先手 を打つんだ。不孝な子、邪慳 な夫、薄情な兄弟、それから何、それから何、それがおれの魂だ。まあ聴け······。
母親||いいから。あたしはお前が、自分の母親の名誉を傷けるようなことを書いたあの本の中で、これがあたしだということはすぐわかった。
エロア||それはあなたが先に始めたんだ。お父さんにお訊 きなさい。
父親||こいつの前では何も言えない。お母さんは尊敬しないとしても、せめて、お父さんは尊敬しろ。正しい道によって一家の財産を作ろうとしているお父さんを。
エロア||わたしの前では、何ひとつ盗むことができないでしょう。
父親と母親||お前には財産を譲らない。
エロア||わたしは家族の罪悪をもう一つ知っているわけだ。大した金になる。
父親と母親||お前を呪 ってやる。
エロア||どうぞ······。あんなに急がないで。わたしのペンはあなた方の罵詈 の流れについて行けません。
兄弟||黙らないと横面をひっぱたくよ。
エロア||おれはなんでもうけいれる。さ、ひっぱたけ。それでまた喧嘩小説でもこさえよう。
姉妹||どうしてあたしたちを悲しい目に遭 わせるの。こんなに優しく、親切で、あんたを心から愛してるあたしたちを。
エロア||どうしてって······おれは、感じのいい人間を求めているからさ。
老僕||あの人はわしを食わしてくれてるんだ。
エロア||おれはお前を家族の一人と見なしている。
親類の人々||あれの小さい時のことを知っているわれわれを、今では馬鹿にしている。
エロア||わたしが、いつまでもそんなに小さいことを望んでおいでなのですか。
隣家の人々||この猫かぶりめ、あいつはよく家へ夜なべをしに来た。麻を切る手伝いをしに来た。黙って、ほかのものに話をさせていた。あいつのことを、みんなこう言っていた、「律義 な男だ、無邪気なもんだ。意地の悪いことはしそうもない······」
エロア||つまり、お人好 しというわけだ。よろしい。だからその仕返しをしてやる。
エロアの同郷人||医者、公証人、郵便電信局の女局長、あいつが本に書いたそういう連中は、腹を立てている。訴訟を起こすと言っている。
エロア||しめた。すてきな広告だ。
薬剤師||わたしのことなら、エロアさん、いくらでも本の中へお書き下さって差し支えありません。わたしはいっこうかまいません。
エロア||遺憾ながら、ホメエ君、君はわたしの専門じゃない。もっと上の、フロオベエルのところへ行きたまえ。
放浪者||おれは、夜中に、墓地で誰かが墓を発 いているのを見た。
エロア||おれだ。死骸と一緒に埋めてある手紙の束を掘り出していたんだ。本に書こうと思っているんだ。
妻女||親類だとか、近所の人だとかは、いわば他人です。だけど、あたしは、神聖な妻ですよ。そのあたしが、迷惑するようなことをなさるのね、今度は。あたしは、あなたを抱いて可愛がってあげることもできませんわ。あたしの愛の言葉が、またそのまま原稿になるんですもの。
エロア||得難い原稿だ。お前は、それでも、暮らしが立ち行くようにしなければならないと、いつも言うではないか。
妻女||あたしは、明りを消して、寝台の幕を引くと、自分が町の広場にいるような気がするんです。翌日、通りの真中で、人に指をさされるにきまっている。恥かしくて死んでしまうかも知れませんわ。
エロア||心配することはない。そうなったら、おれが甦 らせてやる。お前を不滅なものにしてやる。
子供||父ちゃん、あたい、父ちゃんのそばにいてもいい? いたずらはしないから。
エロア||坊や、しゃべれ、おれはそれを書きつける。泣け、お前の涙を受けてやる。病気になれ、お前の苦しみもがく様子をおれは描こう。もしおれが、お前を失う苦痛を知ったら、おれに委せて置け、おれはすばらしい冒涜 の言葉を神に叫ぼう||おとなしく引っ込んでいるように。
一の読者||厚顔無恥、唾棄 すべき奴だ。
二の読者||あいつは病気だ。
三の読者||愉快な奴だ。
四の読者||あれでどこか面白いところがあるんですか。
五の読者||自分を、少し悪者にしすぎる。
六の読者||おれの頭はどうしたんだ。何を言ってるんだろう?
批評家の一人||吾輩 にはよくわかる。
エロア||ありがたく思え。
エロア||おれは、おれ自身を愛している。
自然||それに、自然を愛している。樹を愛している······。
エロア||なんという瘠 せ方だ、今年の冬、あの樹は。
自然||それから、わたしの牧場を、わたしの小川を愛している······。
エロア||おれの手が水の上で字が書けるように軽いといいんだがなあ。
自然||それからまた、わたしのはかない靄 を······。
エロア||靄、彼女は日が暮れて生れる。夜の間生きている。そして朝がた死んでしまう、おれの夢のように。
自然||けれど、どうしてわたしの泥をこねかえし、わたしの積 み肥料 をひっくりかえすんだ······。
エロア||その積み肥料は、梶棒を離れた馬のように、畑で煙を立てている。
自然||お前は、あまり深く掘り過ぎる。地の女神シベエルの御機嫌を損じ、自然の神バンの怒りを買う。
エロア||そんなものは知らない。
生活のために必死に闘っている老人||何を言うのだ。世の中へは生きるために来たのだ。他人の生き方を見に来たのではない。お前さんは人生を眺めているに過ぎないんだ。生きているんじゃない。
エロア||それなら、おれは生れてからこの方 、何をしているんだ。
一人の婦人||あの人はお酒を飲まないわ。
エロア||飲みたくないからだ。
一人の婦人||あの人は煙草 を喫 わないわ。
エロア||煙がうるさい。
一人の婦人||あの人は勝負事をしないわ。
エロア||あなたは狡 いことをするだろう。
一人の婦人||あの人にはなにひとつ慰みがないのよ。
エロア||どういたしまして。ときどき、一人で踊ります。
美しい女||あの人は女を作らないのね。
エロア||わたしは結婚している。
美しい女||あたしがなんとか言ったら?
エロア||お気の毒さま。あなたはひどい目に遭 うだろう。わたしは髪の根でだけものを感じる男だ。
美しい女||あれは男じゃないわ。
エロア||文学をやる男だ。文学者だ。
一同||文学者! 文学者! 文学者!
エロア||そうだ。文学者だ。まぎれもない文学者だ。おれは死ぬまで文学者だ······。文学で死ねば本望だ。万一、おれの生命が永遠であるなら、おれは永遠に文学をやる。決して疲れるようなことはない。どこまでも、おれは文学をやる、ほかのことはどうでもいい、日光と酒の香 に酔いながら、律義者の渋面と嘲罵 をよそに、ぶどう酒桶の中で跳ね踊るぶどう作りのように······。おれが文学に夢中になればなるほど、おれは水平線の上で頭を持ち上げるのだ。
遠い声||文学者! 文学者! 文学者!
エロア(独りになる)||しっかりしろ、エロア。お前は一番幸福な人間だ。
[#改丁]誰もその男の言うことを信じようとはしなかった。が、彼が、腰掛けを離れ、足を
彼は一本の長い、丸い薪を取り上げた。それは一番軽そうなのではなく、その中で、一番重いやつに違いなかった。その棒には、おまけに、節くれや、苔や、古い
まず、その男は、その棒ぎれを振り廻して、そしてどなった。
「見たまえ、諸君、こいつは鉄の棒よりも堅い。ところが、
この言葉に、男も女も、教会堂でのように、いっせいに伸び上った。新婚のバルジェ、半
その晩は、彼らは笑わなかった。それはたしかだ。彼らはすでに、身動きもせず、口を
その男は、彼らを全く威圧したと見て取った。ここぞとばかり、彼は
しばらくの間、それを、
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七面鳥の飛ぶのを仕事のように見ていたジャック・フェイは、ある日、独りでこう言った。
「おれだって飛べないわけはない。翼さえありゃなんでもない。なに、おれが頼めば、おれの七面鳥が、どれか翼を貸してくれるだろう」
ところで、まず彼は、腕で空気をうつ練習をした。彼のまわりに、風と
足のほうはどうかというと、足はひとりでに歩いている。これも泳ぐ時のように使えばいいわけである。
そこで彼は、死にかけていた一羽の七面鳥をつかまえて、その翼を引き抜いた。それから、それをしっかり
彼は草原の中で、自分の七面鳥が逃げ狂う間を、走り廻り、跳ね上りした。翼を抜かれた七面鳥は、血で真っ赤になって、渦を巻いていた。ときどき彼は尻餅をついた······試しにである。
「これでよし」||彼は言った||「どれ、ひとつやってみるか」
彼は川岸の一本の古柳を選んだ。幹の節くれを伝ってらくに登ることができる。枝を払った頭が、ちょうど自然の小さなプラットフォームになっていた。
下には、濁った川が深い眠りを眠っているように見えた。そして、寄ってはすぐ消える軽い
「もしおれが、最初一回飛び損なっても」||ジャックは言った||「水浴びをするだけのことだ。痛かったところで知れたもの、上等な
準備ができた。
七面鳥の群れは、ゴロゴロ
「いイち!」と、ジャックは柳の木の上に立ち上って、
「にイッ!」と、また彼は、長く息を吸い込んで言った。
「さん!」は言わないで、決然として空中にからだを投げ出した。空と水との間に飛び込んだ。七面鳥の番をしていたジャック・フェイの姿を、それから見たものはなかった。
[#改ページ]
ジェロオムは八十になった。
彼は食うだけの貯えはあるので、空気を吸うためにしか外へは出ない。日に一時間か二時間、病みついてなおらない
彼は
泉まで来ると、彼はまず自分の
彼が、喉を渇かして待っているうちのものにそれを渡すとき、一滴もこぼさなかったと言って威張ることができるのである。
ただ、その水甕の水は、泉がそれほど遠くないのに、道で少し
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彼らは、路を離れるといきなり、原っぱをつっ切って、茂った木立ちのほうへ走って行こうとした。ところが、その木立ちは、あんまり遠すぎてなかなか行き着けそうにない。ポオリイヌとピエエルはもうこれ以上行くことはできない。恋心に頭がくらんで、草原のまんなかに、赤ちゃけた草と
路に人影が見えないと、青い木綿の雨傘は動かないでいる。
ところで、誰かが一人やって来た。
ポオリイヌは、いきなり指の先で傘の
雨傘は、風車のように、おとなしく、柄を水平に、骨の先だけがぐるぐる廻るのである。その廻り方は、いかにも相手を脅迫するように、何事かと眼を丸くしている旅行者の足取りに合わせて、それが遅ければ遅く、歩を早めれば早く廻るのである。
傘は二人の恋人を
やがて、止まる。
旅行者は、いっ時はっとしたが、気を取り直して道を急ぐ。焼けつくような熱さに、しらずしらず腰を屈めると、組み合わされた四つの足だけが、傘からはみ出していた。
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日曜日ごとに、昼食をすますと、バルジェは彼の妻に言った。
「どれ、ひとまわりして来よう。お前は子供らを連れて、どこかへ行くがいい。おれは、おれのほうで、犬を連れて行くから」
「だって」と、妻は言う。「なんなら、みんな一緒に行きましょうよ」
「犬はむやみに走るからなあ」||バルジェは答える。「お前たちはとてもおれたちについて
ピラムが、外の空気が吸える嬉しさに、敷石の上で
「しっ! こら、こら、息が切れるぞ。時間は十分ある」
まず彼は角の宿屋兼カフェエの店にはいる。そして、ピラムをテーブルの脚にしっかり結びつける。それから、自分は、一人の老友の前に座を占める。ゲームを始めるために彼の来るのを待っていたのである。
主人が
時間がたつ。夕方の七時が鳴ろうとする。と、バルジェは熱に浮かされたように時計を見上げる。彼の妻と子供たちはもう帰っているだろう。夕食の膳ごしらえができているに違いない。
「もうあと二度っきり」||彼は言う。
それがすむと、
「決戦、それで帰るとしよう」
それがすむと、
「
それから、中腰になり、始める前から指に汗をかいて、彼はまた言う。
「さ、早く、これでいよいよおしまい」
今度はおしまいである。バルジェはピラムをほどいてやる。そして、少し汗をかくために、家まで飛んだり跳ねたりして行く。それが、犬を散歩させて帰って来たのである。
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マリイ・マドレエヌは白木のテーブルの
値切るものがあると、彼女は、おとなしく、それで、しつこく頑張るのである。機敏に眼を働かして、品物を
すると、彼女の裳の中で、時には
「あばれているんですよ」||彼女は言う。「まだ時間があります。ひどくしちゃいけませんからね、そうすると血が出てしまうんです。ですから、そっと踏んでいるんです。それで羽ばたきをしなくなったらやめるんです。あんまりはやく殺してしまっちゃいけませんからね。頭に傷をつけると、買手がないでしょう。だから、木靴を脱いでするんです。こら」
マリイ・マドレエヌはちょっと裳をまくって見せる。そして、今、相手が買ったばかりの
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「条文がちゃんとあります」||収税官吏はノワルミエに言った。
『一八八九年七月十七日付法令、第三条、第三項、嫡子タルト庶子タルトヲ問ハス、生存セル七子ヲ有スル父及母ハ人頭並ニ動産ニ対スル課税ヲ免セラルルモノトス』
「いいか」||家に帰って、ノワルミエは妻に向かって言った。「われわれはもう六人子供がある。七人目をこしらえよう。税金を払わなくってもいい」
確かなことが二人に勇気を与えた。すでに彼らは他の多くのものよりも不仕合せでないような気がした。ノワルミエはほとんど毎日働いた。彼は乞食もした。それだけではない、どうかすると肉や馬鈴薯を盗んで来た。それでも彼の
また
「まあいい、税を払わんのだから」
ところが、翌年の課税として金九フラン五十サンチーム納入すべしという新しい白箋を受け取った。
「条文がちゃんとあります」||また収税官吏は言った。
『一八九〇年八月八日付法令、第三十一条。一八八九年七月十七日付大蔵省令、第三条。第三項ハ次ノ如ク改正ス。嫡子タルト庶子タルトヲ問ハス、生存セル丁年未満ノ七子ヲ有スル父及母ニシテ十フラン以下ノ人頭動産税ヲ課セラルルモノハ、此ノ課税ヲ免除セラルルモノトス』
「そらね、なるほど、九フラン五十サンチームの税金を納めるので、つまり十フラン以下だ。それから、なるほどお前さんは、嫡子として生存せる七人の実父には違いないが、その七人はみんな丁年未満ではない。長男のシャルルは二十一歳になった、すなわち丁年に達したわけです。そういうわけだから、なんにもなりません」
ノワルミエはこの言葉を、死んだ馬のように、どんよりした顔付きをして聞いていた。
「な、おい」||彼は妻に言った。「おれはわかったよ。やつらの考えが変ったのさ。ただそれだけさ」
どうして、彼女は、あんまりびっくりして、わかるどころの騒ぎではなかった。彼のほうも、収税官吏の言い分を妻に説明して聞かせるにつれて、だんだん、わかり方がぼんやりして来た。
「なんだって」||妻は叫んだ。「七人いて、それが、こんだ六人と同じことだって。じゃ、毎年、死ぬまで九フラン五十サンチーム出すのかい。そんなことがあるものかね。第一、子供の年がふえたからって、あたしたちのせいじゃないじゃないか」
長い間、ノワルミエは考え込んでいた。
「どうだ、おい」||彼はやっと口を開いた。「おりゃいいことを考えた。勘定にはいらない子供の代りをこしらえたらどうだ。税金のほうじゃ丁年未満ってやつが
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彼女らは、牛乳入りの
「あんたは行儀よく飲むってことができないのね」
アンリエットは、むっとして、下を向いた。と、
「おっしゃいよ、意地わるね」||やがて彼女は言った。「あんたには、こんな粗相はできっこないのね。珈琲をこぼしても、みんな、じかに
「あたしの胸が平べったいって、ちゃんと言ったらどう」
「そうじゃないのよ、マリイ、でも、あんたの胸は、あたしのみたいに邪魔にならないって言うの。あたしそう思うわ」
アンリエットは、それを証明しなければならない。
「マリイ、じゃ、較べて見ればわかるわ」
そう言ったかと思うと、二人は、
「降参した?」||アンリエットが言いかける。
「第一、あんたは
アンリエットは、言われるままに、マリイの後について行く。彼女らは二人の寝室にはいって、戸の
着物に
「そらね、あたしの、
「じゃ、あたしのは、はいりもしない。お茶椀がはじけちゃうわ」
鍵の穴に
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フランシイヌは散歩をしている。何も考えていない。その時、突然、彼女の右足が左足を追い越すことを拒む。
そこで彼女は、植えつけられたように、深く根をおろしたように、飾り窓の前を動かない。
「彼女は窓ガラスに姿を映したり、または、髪の毛を直したりするために止まったのではない。彼女の眼は一つの宝石に注がれているのである。彼女は執念深く、その宝石を見つめている。それで、もし、その宝石に翼が生えていたら、ひとりでに、蛇に見込まれた蛙のように、それが指環ならフランシイヌの指に、
それがもっとよく見えるように、彼女は眼を半分つぶって見るのである。また、せめてそれが
しかるに、窓ガラスのうしろに、店の奥から来た一本の手が現われる。袖口から出ているその手は、白く、

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公園の同じ並木道、鳩と
始めのうち、彼女らは、口を利かないで、互いに見合わせていた。そのうちに、それとなく双方から軽く話をもちかけた。
「坊や、赤ちゃんにぶつかるよ」
「坊や、赤ちゃんに
突然、黒衣の婦人は、たえかねて、薔薇色の婦人に声をかけた。
「まあお立派な赤ちゃんですこと、奥さま」
「ありがとうございます、奥さま。みなさんがよくそうおっしゃって下さいますんですよ。いくらそうおっしゃられても、こればかりは聞き
「そんな、あなた、いくら御自慢なすったってようございますわ。
「いいえ、奥さま、そんな、わたくし、子供の頭にかけて誓いますわ、そんなもったいない、
「そうでしょうとも、奥様、ほんとにね、おしあわせですわね、お母さまが。心の底からお羨しく存じますわ」
二人の婦人は互いに近づいて行った。そして、瘠せた子供が、かろうじて
「
黒衣の婦人は、がっかりして、
薔薇色の婦人はそれと見てとった。機転の利かなかったことが恥かしく、それに
「奥さま、こんなこと、あなたがお母さまだから申すんじゃございませんよ。でも、わたくし、あなたの赤ちゃんも、たいへんお立派だと思いますわ、こういうふうなたちの赤ちゃんとしてはね」
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彼女の
「あなたが、これを僕に下さるのは、きっと、僕があなたを忘れないようにでしょう」と、ピエエルが言う。
「いいえ」||彼女は言う。「あなたがあたしを忘れないっていうことは、もうちゃんとわかってるんですもの」
「それなら、この
「いいえ、あたし、そんな
「まあ、よござんす、それはどうでも」||ピエエルは言う。「これがあなたからの贈物であり、あなたが僕を愛して下さる、ただそれだけで僕は満足です」
「あたし、あなたを愛しててよ」||ブランシュは言う。「でも、あたしの
それはそうと、戦場で、ピエエルは、左の腕に
「ブランシュはああいう女だから」||彼は言った。「きっと、気を利かして、早く結婚したいと言うだろう」
彼は後送された。彼の最初の訪問は、ブランシュの家であった。彼は、生き残ったことに誇りを感じながら、いそいそと路の上を歩いていると、ふと、自分の
袖は平たくなってぶらりと下っている。でなければ、だらしなく右左へゆれている。そうかと思うと、獣の
「いくらかまわないと言っても、この
残っているほうの手で、彼はその袖をつまみ上げ、二つに折って、きちんと肩のところへ
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毎朝、泊り木から飛び降りると、
雄鶏は地上のあらゆる競争者を征服したといって鼻をたかくしてもいい||が、「もう一つの」それは手の届かないところにいる、あれこそ勝ち難き競争者である。
雄鶏は叫びに叫ぶ。呼びかけ、
雄鶏はみえを切る。羽根を
雄鶏は自分の
雄鶏はわが身知らずである。彼は、ところきらわず、恋の句点を打ちまわる。そして、金切声を張り上げて、ちょっとしたことに
雄鶏は
そこで、雄鶏は、日の暮れるまで
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これがいい、あれがいいと、とうとう探しあぐんで、彼女には名前を付けないでしまった。彼女はただ「牝牛」と呼ばれる。そして、それが一番彼女にふさわしい名前であった。
それに、そんなことはどうでもいい、彼女は食うだけのものは食うのだから||青草でござれ、
彼女がわたしを見つけると、軽い細やかな足取りで、割れた木靴をひっかけ、肌の皮を、白靴下のように脚のあたりに張り切らせて走って来るのである。彼女は、わたしが何か食いものをくれると思い込んでやって来るのである。彼女の姿を見ていると、わたしは、そのたびごとに、「さ、おあがり」と言わないではおられない。
しかし、彼女が
独り暮らしであるにもかかわらず、盛んな食慾が彼女の退屈を忘れさせる。最近に生み落とした
こわいものなしという男たちは、そのはち切れそうな腹を撫でる。と、女どもは、こんな大きな
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草原に放すがいなや、豚は食いはじめる。その鼻は決して地べたを離れない。
彼は柔らかい草を選ぶわけではない。一番近くにあるのにぶつかって行く。
それでなくても漬け樽のような形をした腹を、もっと、丸くすることより考えていない。天気がどうであろうと、そんなことはいっこうおかまいなしである。
肌の
しかし、豚は食いかけたもののあるところを動かない。
後は、ひと口も残すまいとする。
彼は、いくらか
「うるせえやつだな、また真珠をぶつけやがる」
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庭の桜の叉になった枝の上に、
「あれを捕って来て、自分で育てたいんだけれどなあ」
わたしの父は、これまでたびたび、鳥を籠に入れて置くことは罪悪だと説いたことがある。が、今度は、たぶん同じことを繰り返すのがうるさかったのだろう。わたしに向かってひと口も返事をしなかった。数日後、わたしは彼に言った。
「しようと思やわけないよ。はじめ、巣を籠の中に入れて置くの。その籠を桜の木にくくりつけて置くだろう。そうすると、親鳥が籠の目から食物をやるよ。そのうちに親鳥の必要がなくなるから」
わたしの父は、この方法について、自分の考えを述べようとしなかった。
そういうわけで、わたしは籠の中に巣を入れて、それを桜の木に取り付けた。わたしの想像ははずれなかった。年を取った鶸は、青虫を
ある日の夕方、わたしは彼に言った。
「雛はもうかなりしっかりして来たよ。放しといたら飛んで行ってしまうぜ。親子揃って過ごすのは今夜っきりだ。あしたは、家の中へ持って来よう。僕の窓へ吊しとくよ。世の中に、これ以上大事にされる鶸はきっとないから、お父さん、そう思っていておくれ」
わたしの父は、この言葉に逆おうとしなかった。
翌日になって、わたしは、籠が空になっているのを発見した。わたしの父も、そこにいた。わたしがびっくりしたのを見て知っている。
「物好きで言うんじゃないが」||わたしはいった。「どこの馬鹿野郎が、この籠の戸を
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一匹の
「この御恩はきっと返します」と、蟻が言った。
「わたしたちはもうラ・フォンテエヌの時代にいるのではありません」と、懐疑主義者の鷓鴣が言う。「もちろんあなたが恩知らずだと言うのではありません。が、わたしを撃ち殺そうとしている猟師の
蟻は、よけいな議論はしなかった。そして、急いで、仲間の群れに加わった。仲間は、一列に並べた黒い真珠のように、同じ道をぞろぞろと歩いていた。
ところが、猟師は遠くにいなかった。一本の
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それは、若いダニエルが象の見まわりをする時刻である。
いつもの見物が彼を待っていた||労働者、兵卒、娘、放浪者、それから外国人。
「さ、ちんちんだ」||ダニエルは、指を挙げて言う。
象は、一度ではうまく行かなかった。重くるしいからだを、やっと起こしたかと思うと、前に倒れる。そして鼻を鳴らす。
「もっと上手に」||ダニエルはつっけんどんに言う。すると、象は、
「そうだ」||ダニエルが言う。
象はもう四本の脚で立ってもいいのである。鼻を真直ぐに挙げて、口を
糸で引っ張ってあるような薄い耳が、満足げに
最後にダニエルは、紙で包んだ
象はたったひとりになると、家の留守番をしている村の老いぼれ
[#改ページ]
花||今日は日が照るかしら。
添え木||わしがついている。
野苺||なぜ薔薇には棘 があるんだろう。薔薇の花なんて食べられやしないわ。
薔薇の花||あんた、あたしを綺麗 だと思って?
薔薇の花||おはいりよ。
かわらひわ||燕ってやつは馬鹿だなあ。煙突を木だと思ってやがる。
壁||なんだろう、背中がぞくぞくするのは?
蜜蜂||さ、元気を出そう。あたしがよく働くって誰でも言ってくれる。今月の末には、売場の取締りになれるといいけれどなあ。
白い菫||だからさ、なおさら、控え目にしなくっちゃならないのよ、あんたたちは。
アスパラガス||あたしの小指は、あたしになんでも言うの。
馬鈴薯||あたし、子供が生れたようだわ。
黒つぐみ||知事閣下、わたしはこれしか着るものがないのです。
蟇||グワグワ。
三羽の鳩||おいで、ポッポ······おいで、ポッポ······おいで、ポッポ。
羊||メエ······メエ······メエ······。(訳者注。メエは mais に通じ「しかし」の意)
牧犬||しかしも糞 もない。
[#改ページ]その日の夕方は、魚がいっこうかからなかった。しかしわたしは、近来まれな興奮をもって帰った。
わたしが釣竿を垂れていると、一羽の
これくらい派手な鳥はない。
それは、大きな青い花が長い茎の先に咲いているようだった。竿は重みでしなった。わたしは、岩燕に木と間違えられた、それが大いに得意で、息を殺した。
こわがって飛んで行ったのでないことはうけ合いである。一本の枝から別の枝に飛びうつるつもりでいたにちがいない。
[#改ページ]
わたしのは鼠を食わない。そんなものを食う気にはならないらしい。つかまえても、それを
遊び
しかし、
[#改ページ]
いったい、なにごとがあるんだろう。もう夜の九時、それに、あそこのうちでは、まだ明りがついている。
[#改ページ]
この虫の触角はばかに長い。この本の中に挾んで置こうと思うと、それを胴のほうに曲げなければならない。
[#改ページ]
鍵の穴のように、黒く、ぺしゃんこだ。
[#改ページ]
精いっぱい歩きまわる。それでも、舌で歩くだけのことだ。
[#改ページ]
どの株も、添え木を杖に、武器携帯者。
何をぐずぐずしているんだ。ぶどうの実は、今年はまだ
[#改ページ]
貧乏な、しかしさっぱりした、品の
[#改ページ]
さては、いよいよ、かからないな。おおかた、今日が漁の解禁日だということを御存じないと見える。
[#改ページ]
彼らは麦の中で、小さな兵隊のように気取っている。しかし、もっともっと
彼らの剣は
風が吹くと飛んで行く。そして、めいめいに、気が向けば、
[#改ページ]
よく飛びもするが、よく走ることも走る。いつもわれわれの脚の間で、
[#改ページ]
道の上に、またも七面鳥学校の寄宿生たち。
毎日、天気がどうであろうと、彼女らは散歩に出かける。
彼女らは雨をおそれない。どんな女も七面鳥ほど上手に
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ながすぎる。
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鋤車が
で、この平和は、わたしが行ってそれを乱すまで続くのである。
ところが、わたしがそこへ行くと、鷓鴣は飛んでしまう。農夫も落ちつかぬ様子である。牛も驢馬もその通りである。わたしは発砲する。すると、この
これらの鷓鴣を、わたしはまず切株の間から追い立てる。つぎに苜蓿の中から追い立てる。それから、草原のなか、それから
それで、とつぜん、わたしは、汗をびっしょりかいて立ち止まる。そしてどなる。
「ああ、畜生、可愛げのない奴だ、人をさんざん走らせやがる」
遠くから、草原のまんなかの一本の
わたしは生籬に近づいて、その上からよく見てみる。
どうも、樹の蔭に、鳥が
あっちこっち、樹のまわりには、黄色い斑点が、鷓鴣のようでもあり、また土くれのようでもあり、わたしの眼はすっかり迷ってしまう。
もし鷓鴣を追い立てたら、樹の枝が空中射撃の邪魔をするだろう。で、わたしは、地上にいるのを撃つ。つまり一人前の猟師のいわゆる「人殺し」をやったほうがいいと思った。
ところが、鷓鴣の首だと思っているものが、いつまでたっても動かない。
長い間、わたしは
はたしてそれが鷓鴣であるとすれば、その動かないこと、警戒の周密なことは全く驚くべきものである。そして、ほかのが、どれもこれも、よく言うことを
わたしは、そこで駆け引きをして見るのである。わたしは、からだぐるみ、生籬の後にかくれて、見ていないふりをする。というのは、こっちで見ているうちは向こうでも見ているわけだからである。
こうすると、お互いに見えない。死の沈黙が続く。
やがて、わたしは顔を上げて見た。
今度こそはたしかである。鷓鴣はわたしがいなくなったと思ったに違いない。首が以前より高くなっている、そして、それをまた低くする運動が、もう疑いの余地を与えない。
わたしは、
夕方、からだは疲れている。腹はふくれてる。すると、わたしは、猟師にふさわしい深い眠りにつく前に、その日一日追いまわした鷓鴣のことを考える。そして、彼らがどんなにして今夜を過ごすだろうかということを想像して見る。
彼らは
どうしてみんな揃わないのだろう。呼んでも来ないのだろう。
どうして、苦しんでいるもの、
どうして、あんなに、みんなをこわがらせるようなことをしでかすんだろう。
やっと、休み場所に落ちついたと思うと、すぐもう見張り役の一羽が警報を伝える。また飛んで行かなければならない。草なり株なりを離れなければならない。
彼らは逃げてばかりいるのである。聞き慣れた音にさえ
彼らはもう遊んではおられない。食うものも食っておられない。眠ってもおられない。
彼らは、何がなんだかわからない。
傷いた鷓鴣の羽根が落ちて来て、ひとりでに、この
雨が降り過ぎたり、
鳥の中でも、
わたしは、鷓鴣以外に好敵手を
彼らは、実に小ざかしい。
その小ざかしさは、遠くから逃げることである。しかし、人はそれをまた見つけ出し、そして今度は思い知らせるのである。
それはまた猟師が行き過ぎるのを待っていることである。が、
それは、深い
それは、飛ぶ時に、急に方向を変えることである、しかし、それがために間隔がつまるのである。
それは、飛ぶかわりに走るのである。人間より早く走るのである。しかし、犬がいるのである。
それは、人が中にはいって道をさえぎると、両方から呼び合うのである。それが猟師を呼ぶことになるのである。猟師に取って彼らの歌を聞くほど気持のいいものはない。
その若い一組が、もう親鳥から離れて、別に新しい生活をし始めた。わたしは、夕方、畑のそばで、それを見つけたのである。彼らは、ぴったりと寄り添って、いわば翼と翼とを重ね合って舞い上った。そこで一方を殺した
一方は何も見なかった。何も感じなかった。しかし、もう一方は、自分の連れ合いが死んでいるのを見、そのそばで自分も死ぬような気がした。それだけのひまがあった。
この二羽の鷓鴣は、地上の同じ場所に、少しの愛と、少しの血と、それから、いくらかの羽根とを残したのである。
猟師よ、お前は一発で、見事に二羽を撃ち止めた。早くかえってうちのものにその話をしろ。
あの年を取った去年の鳥、
あるものは、折れた片脚をぶらさげて、ちょうどわたしが、糸でくくってつかまえてでもいるような形をしていた。
あるものは、最初ほかのものの後について行くが、とうとう翼が利かなくなる。地上に落ちる。ちょこちょこ走りをする。犬に追われながら、身軽に、半ば
あるものは、頭の中に鉛の
あるものは、犬を仕込むために、その口へ投げつける切れ屑のように、ぎゅっとも言わず落ちる。
あるものは、弾丸があたると、小舟のようにぐらつく。そして、ひっくり返る。
また、あるものは、どうして死んだのかわからないほど、
あるものは、急いでポケットの中に押し込む。自分が見られるのがこわいように、自分を見るのがこわいように。
あるものはなかなか死なない。そういうのは絞め殺す必要がある。わたしの指の間で、
向こうで、百姓がわたしの鉄砲の音を聞きつけて、頭を上げる。そして、わたしのほうを見る。
それは審判者である。······この働いている男は······。彼はわたしに話しかけるかもわからない。厳かな声で、わたしを恥じ入らせるかもわからない。
ところがそうではない。それは時としては、わたしのように猟ができないので業をにやしている百姓である。時としては、わたしのやることを面白がって見ているばかりでなく、鷓鴣がどっちへ行ったかを教えてくれるお
決して、それが義憤に燃えた自然の代弁者であったためしはない。
わたしは、今朝、五時間も歩きまわったあげく、空のサックを提げ、頭をうなだれ、重い鉄砲をかついで帰って来た。嵐の暑さである。わたしの犬は、疲れきって、小走りにわたしの前を行く。
すると、ちょうど、わたしが生き生きした苜蓿の中を通っていると、とつぜん、彼は飛びついた。というよりは、止まると同時に腹這いになった。ぴったり止まった。そして、植物のように動かない。ただ、尻尾の端の毛だけがふるえている。わたしは、てっきり、彼の鼻先に、鷓鴣が何羽かいるなと思った。そこにいるのだ。互いにからだをすりつけて、風と
犬もわたしも、決して向こうよりさきに動かない。
と、にわかに、前後して、鷓鴣は飛び出した。どこまでも寄り添って、ひとかたまりになっている。わたしは、そのかたまりの中へ、拳骨でなぐるように、弾丸を打ち込んだ。そのうちの一羽が、やられて、宙に舞う。犬が飛びつく、血だらけの
さあ、行こう。これで
ああ、この
終