村では秋の収穫時が済んだ。夏から延ばされていた消防慰労会が、寺の本堂で催された。
その時、突然一枚の
暫くすると、人々に腕を持たれた秋三は勘次を
「放せ、放せ。」と叫んでいた。
勘次はただ黙って突き立ったまま、ひた押しに秋三の方へ進もうとした。
「今日という今日は、承知せんぞ!」
「何にッ!」
二人は羽がい締めにされた闘鶏のように、また人々の腕の中で怒り立った。
「放してくれ、
「泣きやがるな!」
「何にッ!」
秋三は人々を振り切った。そして、勘次の胸をめがけて突きかかると、二人はまた一つの塊りになって畳の上へぶっ倒れた。酒が流れた。唐の芋が転がった。
「
「なぐれ。」
「やれやれ。」
騒ぎの中に二人の塊りは腰高障子を蹴
本堂の若者達は二人の姿が見えなくなると、彼らの争いの原因について語合いながらまた乱れた配膳を整えて飲み始めた。
併し此の噂は村の
まだ夕暮には時があった。秋三は山から下ろして来た
そして、家に着くと、戸口の処に身体の衰えた男の乞食が、一人彼に背を見せて
「今日は忙しいのでのう、また来やれ。」
彼が柴を
「秋か?」と乞食は云った。
秋三は乞食から呼び捨てにされる覚えがなかった。
「手前、俺を知っているのか?」
「知るも知らんもあるものか。
秋三は暫く乞食の顔を眺めていた。すると、乞食は焦点の三に分った眼差しで秋三を斜めに見上げながら、
「俺は安次や。心臓をやられてさ。うん、ひどい目にあった。」と彼から云った。
秋三は自分の子供時代に見た村相撲の場景を真先に思い浮かべた。それは、負けても賞金の貰える勝負に限って、すがめの男が幾度となく相手
「ほんに、お前安次やったのう。なんと汚い身体になったもんやないか。触ったら
「お
「今日はおらんぞ。お前これから何処へ行くつもりや?」
秋三は柴を下ろしながらそう云うと安次の傍へ蹲んだ。
「何処って、俺に行くところがありゃ結構やさ。」
「帰って来たんか?」
「帰ったんや。医者がお前、
「心臓か、えろう上品や病やのう。」
「うむ、もう念仏や。お母はおらんか。」
「お母に何ぞ用があるのか?」
「お前とこで世話になろうと思うているがの、一つ頼んでくれんかなア?」
「お前、俺とこへ来たのか?」
「うむ、医者めが、もたん云いさらしてさ。」
「それで俺とこへ転げ込んだのやな?」
「お前、酒桶からまくれ落って、土台もうわやや。お母に頼んでくれよ。おらんのか?」
「好え加減にしとけ。」
秋三は立ち上った。
「おい、頼む頼む。お母に一寸云うてくれったら。」
秋三はそのまま黙って柴を担ごうとすると、
「お前とこ、俺とこの
「俺とこが母屋や?」
「そうとも、誰なと聞いてみい。」
「
その時、秋三はふと勘次の家と安次の家とは同姓で、その二家以外に村には谷川と名附けられる姓の一軒もないのに気がついた。してみれば、今安次を勘次の家へ、株内と云う口実で連れていったとしたならば? 勘次の母の
と、忽ち、秋三は安次を世話する種々な煩雑さから
「おい、南の勘とこへ行かんか。あいつはお前とこの株内や。」
「
「そうかて谷川って云うのは、あの家一軒ばち有るか。お前とこの株内や。」
「だいたいあの家、俺は好かんのや。」
「贅沢ぬかしてよ。俺が連れてってやるぞ。立て立て。」
「あっこはとても駄目って。」
「あくもあかんもあるもんか。手前、あっこへのたり込むのが当り前じゃ。」
「あかん、あかん。」と云って安次は頭の横で泳ぐように両手を振った。
「ぐずぐずぬかすな!」
秋三が安次の首筋を持って引き立てると、安次は胸を突き出して、「アッ、アッ。」と苦しそうな声を立てた。
「早よ歩けさ。厄介な餓鬼やのう!」
「腹へって腹へって、お前、負うてくれんか!」
「うす汚い! 手前のようなやつ、負えるかい。」
安次は片手で胸を圧えて、裂けた三尺のひと端を長く腰から垂らしたまま曳かれていった。痩せた片肩がひどく怒って見えるのは、子供の頃彼の家が、まだ此の村で安泰であった時と同じであった。そして、まだ変らぬものは、彼の姿を浮かばせている行く手に固まった安泰な山々の姿であった。
西風が吹いて来た。勘次は桑の根株を割って風呂場の下を焚きつけた。煙は風呂場の下から逆に勘次の眼を攻めて、内庭へ舞い込むと、上り
「宝船じゃ、宝船じゃ。」と云いながら秋三が一人の乞食を連れて這入って来るのが眼に留まった。
「やかまし、何じゃ。」と彼女は云った。
「伯母やん、結構なもんが着いたぞ、喜びやれ。」
勘次の母は店の間へ出て行って乞食の顔を見た。
「まア珍しい、安次やないか!」
「安次も提灯もあったもんか、えらい高次じゃ。」
秋三は店の間をぐるりと見廻した。が、勘次に逢うのが不快であった。彼はそのまま、帰ろうと思って敷居の外へ出かけると、
「秋公
「もう好えやろが。」
「云うてくれ、云うてくれ。」
「云うてくれって、お前宝船やないか、ゆっくりそこへ坐っとりゃ好えのじゃ。」
「こらこら、俺も行くぞ。」
「阿呆ぬかせ! 伯母やん、此奴どっこも行くとこが無うて困っとるのやが、ちょっとの間、世話してやっとくれ。」
「そんなこと云うて来てお前。」
と勘次の母が顔を曇らせて云いかけると、安次は行司が軍扇を引くときのような恰好で、
「心臓や、医者がお前、もう持たんと云いさらしてさ。」
「どうしてまたそんなになったんやぞ?」
「酒桶から落ってのう。亀山で奉公して十五円貰うてたのやが、どだい、こうなったらもうわやや。医者が持たん云いさらしてさ、往生したわ。」
「ふむ、それは気の毒なことやなア、長いこと見んで、私ゃもうすっかり見忘れて了うたわ。何年程になるなア?」
「九年や。」
「もうそんなになるかいな、幾つやな、そうすると四十?」
「四十二や。」
「四十二か。まあ厄年やして。」
「厄年や、あかん、今年やなんでも厄介にならんならん。」
「そうか、四十二か、まアそこへ掛けやえせ。そして、亀山で酒屋へ這入ってたのかな?」
「酒屋や、十五円貰うてたのやが、お前、どっと酒桶へまくれ込んでさ。医者がお前もう持たんと云いさらしてのう。心臓や、えらいことやったわ。」
秋三は勘次の姿が裏の水壺の傍で揺れたのを見ると、黙って少し足音を忍ばせる気持で外へ出た。が、勘次を恐れている自分に気附いたとき、彼は一寸舌を出して笑ったが、そのまま北の方へ歩いていった。
勘次は裏庭から店の間へ来ると、南天の蔭に背中を見せて帰って行く秋三の姿が眼についた。
「今来たのは秋公か?」
「お前、秋が安次を連れて来てくれたんやがな。」
安次は急に庭から立ち上ると、
「秋公、こら、秋公。」と大声で呼び出した。
勘次は秋三に逢いたくはなかった。
「安次か、えらく年寄ったやないか。」と彼は安次の呼び声を
「うん、こう鼻たれるようになったらもうあかん。帰れたもんやないけれどさ。とうとうやられてのう。心臓や。お前医者めが持たん云いさらしてのう。どうもこうもあったもんやない。このざまやさ。」
「どうした?」
「酒桶からまくれてお前、ここやられてのう。」安次は胸を押えてみせた。
「ふむ、よう死なんでこっちゃして?」
「死にゃお前結構やが、運の悪い時ゃ悪いもんで、傷ひとつしやへんのや。親方に金出さそうと思うたかて、勝手の病気やぬかしてさ。
「そうか、道理で顔が青いって。」
「そうやろが。」
「そしてこれから何処行きや?」
「何処って、俺に行くとこあるものか。母屋に厄介になろうと思うて帰って来たのやが、秋公がお前、南の家は株内やぬかして、引っ張って来よったのや、ほんまに済まんこっちゃ。」
「秋が連れて来たんか?」
「うん、秋がお前、株内はここだけや云いよってさ。」
「母屋へ行け母屋へ。かまうか、俺がつれてってやろ。あいつ、ほんまに
「お前頼んでくれんか?」
「ええとも、あの餓鬼ったら、仕様のない奴や。」
「そうしてくれのう。土産も何もあらへんけど、二円五十銭持ってるのやが、どうにかならんかのう?」
「要るもんか。」
「要らんか、頼むぜ。」
「行こ行こ。」
「ちょっと待ってくれ、お霜さん、飯ないかなア、腹へって、腹へって。」
「飯か? 今頃お前、夕飯前でこれから焚くとこやがな。」
「ちょびっとでも
「じゃ見て来てやるわ。」
お霜は台所へ這入った。勘次は表へ出て北の方を眺めてみたが、秋三の姿は竹藪の向うに消えていた。彼は又秋三とひと争いをしなければならぬと思った。そして、胸の中で、自分は安次を引取ることに異議を立てるのではなく、秋三の
お霜は麦粉に茶を混ぜて安次に出した。
「飯はちょっともないのやわ、こんなもんでも好けりゃ食べやいせ。」
「そうかな、大きに大きに。」
「塩が足らんだら云いや。」
「結構結構。」
安次は茶碗からすが眼を出して口を動かした。
「こりゃええ、麦粉かな?」
「こりゃ麦や、塩加減はええか?」
「上加減や、こりゃうまい、お霜さん、わしは酒加減はよう
勘次は安次を待つのが
安次は食べ終ると暫く缶詰棚を眺めながら、
「しびは
煙は又風呂場の方から巻き込んで来た。お霜は洗濯竿の
「お霜さん。煙草一ぷく吸わしてくれんかな。」
「安次、行くぞ。」勘次は云った。
「お前ひとりで行って来てくれんかよ。」
「お前、行かにゃ何んにもならんが。」
「もうお前、ひ
「たったそこまでやないか、向うまで行ったら締めたもんや。お前図々しい構えてりゃことがあるかい。」
「
「そんなことを云うてらちがあくか。」
「こらかなわんのう。」
「行こって、行こって、悪るうなりゃ俺が引き受けてやろぞ。」
「もうお前。」
「行こ行こ、何んじゃ!」
勘次は安次の手首をとった。安次は両足を菱張りに曲げて立ち上った。
秋三は麦の種播きに出掛けようと思っていた。が、勘次が安次を間もなく連れて来るにちがいなかろうと思われるとそう遠くへ行く気にもなれなかった。で、彼は軒で薪を割りながら暇々に家の中の人声に気をつけた。
よく肥えた秋三の母のお留は古着物を背負って、村々を廻って帰って来た。
「今日は馬が狸橋から落ちよってさ。」
彼女は人の見えない内庭へ這入って大声でそう云うと、荷を縁に下ろして顔を撫でた。が、便所へ行く筈だったと気が附くと、裾を捲って裏口へ行きかけたが、台所の土瓶が眼につくと、また咽喉が渇いているのに気がついた。彼女は土瓶を
「秋公いるかな?」
「お前今日な、馬が狸橋の上から落ちよってさ、そりゃ
「秋公はな! 今俺とこへ来よったんやが。」
「知らんぞな。わしゃ今帰ったばっかりやが。お前、馬が横倒しにどぶんと水の中へはまりよったら見い、馬ったら
「さっき来たんやが、お前いやせんだ。」
安次は
「どうしてるのや?」
「どうって見た通りのざまや。」
「そうか。安次か。長いこと何処へ言ってたんや!」
「亀山や。」
「亀山か、近いところにいたんやして、お前何んじゃぞ、それ痩せて! 死神に
「あかん。」
「あかんって、どうしたんやぞ。」
「医者がもうお前、持たん云いさらしてさ、心臓や。どだいわやや。」
「心臓や、それは困ったことやないか。まア待っとくれ。」
お留は
「あかんのや、あかんのや、もうそんなことして貰うたて。」と安次は云って押し返した。
しかし、お留は無理に紙幣を握らせた。「薬飲んでるのか?」
「いいや、此の頃はもう飲みとうない。」
「叔母やん、秋がさっき来てな、安次を俺とこへ置いとけって云うのやが、俺とこは困るぜ。」と勘次はきり出した。
「何んやぞ? わし一寸も知らんが。」
「秋公はひどい奴や、こんな病人を俺とこへ無理に引っ張って来てさ。」
「そうかな、あいつ何処へ行っとるのやろ。」
「ほんとにあいつは
「わしとこにいりゃええわして。」
「阿呆ぬかせ!」と秋三は裏口から叫んで這入って来た。
「秋公、お前、ひどすぎるやないか。」と勘次は云った。
「何がひどい。手前とこは株内や、株内が引きとるのに何の不足がある。」
「お前こそ母屋やないか。母屋のなりして、株内へ廻すってことがあるかい。」
「母屋や、阿呆たれよ、どこがどう母屋や。それを検べてから云うて来い。」
「安次が母屋母屋云うてりゃ、それで分ってるこっちゃ。何も母屋やないもの頼って来る理窟があるか。」
「そんなもの、何代前の母屋かしれたもんか。俺とこが母屋やったら、何処でも母屋や。こんな死にぞこないの、油虫みたいな奴は、どこへへたばりさらすか知れるかい。」
「もう止さえせ。昼日中喧嘩して!」とお留は口を入れた。
「お母ア、黙っとりゃええんじゃ。」
「秋公頼むわ。どこへでもええで寝さしてくれよ。」と安次は云った。
「ぬかしてよ。
「そんなに大っきな声出さんでも、ええわして。」とお留は云った。
「いいや、声ででも
「阿呆なこと云うてんと、置いといてやらえな。」
「こんな奴置く位なら、石の頭巾冠ってる方が、ましじゃ。」
勘次は今が引き時だと思った。そして、そのまま黙って帰りかけると、秋三は彼を呼びとめた。
「勘公、此奴をどうするつもりや。」
「どうするって、こちゃ知らんわ。」
「知らん! もういっぺん云うてみよ。」
「こちゃ知らんてことよ。」
勘次は後も見ずに帰っていった。秋三は勘次の後を追い馳けようとして二三歩進んだが、又引き返すと、縁へごろりと横になっている安次の襟を持ってひき起した。
「寝さらして、こら!」
「もう勘忍してくれ。」
「勘忍も
「もうお前、へたばるが。」
「立てったら、立ちさらせ。」
安次は蹲んだまま怒った片肩をなお張り上げて、戸口までずるずる引き摺られた。
「そんなことせんと、ここで休ましといてやらえな。」とお留は云った。
「何アに此の餓鬼、
「痛いが、痛いが、痛いたら!」と安次は云った。
「やかましい、歩け歩け!」
秋三は忙しそうに安次を曳いて、勘次を見守りながらまた南の方へ下って行った。
お留は安次に渡した一円の紙幣が庭に落ちているのを見ると、走って行って渡そうかと思ったが、しかしそれでは
「まア好えわア。」と彼女は呟いた。
それより此の次もう一円増してやる方が、息子の無情な仕打ちを差し引いて
勘次は後から追って来る秋三の視線を強く背中に感じ出した。足がだんだんと早くなった。それに何ぜだか後を見ていることが出来なかった。竹藪を廻ると急に彼は駈け出したが、結局このままでは自分から折れない限り、二人の間でいつまでも安次を送り合わねばならぬと考えついた時には、もう彼の足は鈍っていた。そして今逆に先手を打って、安次を秋三から心良く寛大に引き取ってやったとしたならば、自分の富の権威を一倍敵に感ぜしめもし、彼の背徳を良心に責めしめもする良策になりはしないか、と考えついた時には、早や彼は家に帰って風呂の湯加減をみる為に、一寸手さきを湯の中につけていた。が、更に又彼は自分の愛人の姿を思い浮べて考えた。もしそうして彼女が自分の博愛を聞き知ったとしたならば? それは確に幸福な婚姻の日を、早めるに役立つことになるだろう。
秋三は着いた。不足な賃銀を握った馬丁のように荒々しく安次を曳いて、
「勘次、勘次。」と呼びながら這入って来た。勘次は黙って出迎えた。
「これ勘公、逃げさらすなよ。」
「遠いところを済まんのう、何んべんも。」
秋三は急に静な微笑を浮べた勘次のその出方が腑に落ちかねた。
「安次、手前ここに構えとれよ。今度俺とこへ来さらしたら、
安次は戸口へ蹲んだまま俯向いて、
「もうどうなとしてくれ。」と小声で云った。
「当分ここにおったらええが、その中に良うなろうぜ。」
そう勘次が静に云うと、安次は急に元気な声で早口に、
「すまんこっちゃ、すまんこっちゃ。」
と云いながら続けさまに
「しっかり、養生しやれ。」
秋三は嘲弄した微笑を勘次に投げた。
「ええか、頼んだぞ。」と彼は云うと、威勢好く表へ立った。
勘次は秋三の微笑から冷たい風のような寒さを感じた。彼は暫く庭の上を見詰めたまま動けなかった。
「すまんこっちゃわ、えらい厄介かけてのう、大きに大きに。」
勘次も安次に叩頭されればされる程、不思議に安次を軽蔑したくなって来た。彼は黙って裏の井戸傍へ立って来た。が、秋三の冷たい微笑を思い出すと身体が

安次は股引の紐を結びながら裏口へ出て来ると、水溜の傍の台石に腰を下ろした。彼は遠い物音を聞くように少し首を延ばして、癖ついた
「好えチャボや。」と安次は呟いて鶏の群れを眺めていた。
お霜は遅れた一羽の鶏を片足で追いつつ大根を抱えて藁小屋の裏から現れた。
「また来たんか?」
「また厄介になったんや、すまんが頼むぞな。ええチャボやな。こいつなら大分大っきな卵を産みよるやろ?」
「勘はな?」
「さア、今そこにうろうろしていらったが。」
安次は三尺の中から丸めた紙幣をとり出した。
「お霜さん。これ持っててくれんかな。二円五十銭あるのやが、何ぞの足しに、ならんかな。」
「そんなにたんと預かっておいて、お前使うて了うたらどうするぞ。」と、お霜は笑って云った。
「何アに使うて貰うたら結構や。持っててお呉れ、使い残りで悪いけど、それだけばち有りゃせんのや。」
「まアお前持ってやいな。お霜さんが安次の金とったなんて云われると、こちゃ困るわ。」
お霜は家の中へ這入って大根を切った。安次はまた三尺の中へ紙幣を巻くと、
「トトトトトト。」
と呼びながら鶏の方へ手を延ばした。どこかで土を掘り返す
勘次は
「安次、今晩は御馳走を食わそうか、よう?」
「いいや、もう結構や。」
「風呂が沸いてるぞ、お前這入らんか?」
「あかんのじゃ、あいつに這入ると、やられるんじゃ。」
「そうかて、いつまでも這入らずにいられまいが。」
「何アに、もうお前かれこれ二タ月這入らんが。」
「二タ月よ?」
安次はまた三尺から紙幣を出すと近寄って来た勘次にそれを差し出した。
「お前これ持ってくれんかのう。二円五十銭あるのやが、何んぞの足しになるやろぜ。」
「自分で持ってりゃええやないか。」
「こんなもの、
勘次は安次の

「お前まアどうするつもりや、あんな者連れ込んで来てさ。」
「抛っておいたらええが。」
「抛っておけって、たちまちお前どこへ置くぞ。汚い! わしは知らんぞな。お前勝手に世話しやいせ。」
「ええが。」
「ええがも無いやないか。お前たちまちどこへ寝せるつもりや。食わす位ならまだ我慢もしよが、どんと寝附かれて動きもこじりも出来んようになったらどうするぞ!」
「抛っといたらええってば。」
「抛っといてそれで済むもんならええわさ。それより、お前どこで寝せるぞ、奥の間か?」
「小屋へ置いときゃええ。」
「たあいもないお前、あんとこで死なれてみい。五月になったら蚕さん
「秋が連れて来たんやないか、秋に怒ったらええ。」
「秋ってあの餓鬼、どうも仕方のない奴や。ひとん所の恩も知りさらさんとからに、ひとん処へあんな者引っ張って来やがってな、
「米を何んぼ出しとこう?」
「連れて来るものがないと、終いにゃあんな乞食の病人引っ張って来さらして!」
「米をよ。」
「一斗でええ。」とお霜はわが子に怒鳴り出した。
夜、お霜が秋三の家へ安次を連れて行くと云い出したとき、勘次は秋三の前でいかにも寛大に安次を引き取った自分の態度を思い出した。これは困った。しかし、安次を拒んでいるのは自分ではないと思うと気が休まった。それに母親ひとりでとても秋三を説き伏せ終おせるものではないのを知ると、結局また安次は自分の家に落ちつくにちがいないと考えた。でお霜が出掛けてゆくことには、余り親子争いをしたくなかった彼は、外見、自分も母親同様の考えだと云うことを、ただ彼女だけに知らせるために黙っていた。が、安次を連れて行くことには反対した。けれども、自分のその気持を秋三に知らさない限り、自分の骨折りが何の役に立つだろう。そう思うと彼には秋三の罵倒が眼に見えた。が、また自分に安次を引き受ける気持のある以上、敵の罵倒に反抗し得るだけの力は、自然出て来るであろうと思われた。
秋三の母はひと
「姉やんか。丁度ええわ。あのな、
「それよりお前とこの秋って、どうも仕様のない奴やぞ。株内やぬかしてからに、わしとこへお前、安次みたいな者引っ張って来さらしてさ。お前とこが困るなら、わしとこかて同じこっちゃ。」
「秋ゃいくら云うても聞きゃせんのやして。あんな者の云うこと
「そうかて連れて来られたもの、黙っていられるかいな。」
「うちへ連れて来やいせ。何処かて同じこっちゃがな。なア姉やん、中古でな、ほんまに持って来いやが見せようか。織留のとこに一寸した
「要らん要らん。銭がないわ。」
「直ぐ売れてしまうで今やなきゃあかんぞな。銭なんていつでもええわ。上村の三造さんの嫁さんに頼まれてるのやで、姉やんが要らんだら持っていくけど。」
「わしらそんな
「そんなこと云うてたら、裸体でいようかしらず、まアいっぺん見てみやいせ。」
お留が奥の間へ立っていった後へ、秋三は牛の
「秋よ、お前もお前やないか、とうとうわしとこへ安次をにじりつけてさ。」と、お霜は云った。
秋三はお霜の来た用事を悟ると痛快な気持が胸に拡った。彼はにやにやしながら云った。
「にじりつけるか。勘が引受けよったのやないか。勘に
「連れて来んもの、誰が引受けるぞ。」
「そりゃお前、お前とこが株内やで俺が連れて行くのはあたり前の話や。」
「お前株内や株内や云うけど、
「定ってら、あんな物に迷惑せんとこって、あるもんか。」
「そんならなぜわし所へ連れて来た?」
「伯母やんみたいなしぶったれや、あんな奴の世話、いっぺん位しといてもええぞ。」
「お前って、

「また
「こんなしぶったれ婆と、誰が喧嘩するか。」と秋三は笑って見せた。
「お前、黙っていやいて云うのにな!」
「こいつ、どうしたらええ奴やろ!」とお霜は秋三を
「姉やん見やいせ。良え
お霜は差し出された丸帯を見向きもせず、
「いまに思いしらせてやるわ、覚えてよ。」とまた云った。
秋三は「
「何を云うのや! 姉やん、あんな奴に相手にならんと、まア一寸此の帯を見やいせな。」
「そんなもの、どうでもええわ。それよか、安次のことをきりつけんと
「安次ならうちへ連れて来てたもれ。なア、手にとって見てみやえな。中古でも夜さりゃと新に買うたように見えようがな。」
「そんなら安次を連れて来るぜ。帯は後でゆっくり見せて貰うわ。」
「あかんぞ、あかんぞ!」と秋三は叫ぶと、奥庭から
「うちへ置いといてやってもええわして。」とお留は云った。
「あかん。」
「そんなこと云うてたら、仕方あらへんやないか。」
「あかん、あかん。」
「おかしい子やな。あんな死にかけてる者、何処へ行くところがあるぞ、可哀想に。」
「あんな腐った
「そんな無茶苦茶云うてんと。」
「あかんったらあかん。南のが引き取りゃそれでええんじゃ。」
「お前とこ虫が湧きゃ、わしとこでも虫が湧くわ。」とお霜は云った。
「勘が引受けよったんや。不足があるなら何処へでも抛り出しゃええ。俺とこはもう関係があるもんか。」
「勘が引受けたって、勘はお前、お前が無理に連れて来たで、置いたまでのことやないか。」
「どう云うたかよう勘にきいて来い。」
「勘は知らんと云うとったが。」
「知らん? よしッ、そんなら勘を呼んで来い。
「秋よ、もう黙っていやいせ!」とお留は叱った。
「いいや、勘の餓鬼、豪そうな顔して引受けさらしたくせに、そんなほざいたことをぬかしてるなら、こちにも考えがあるわ。」
「ひちくどい! もうええわして。」
「云うとこまで云わにゃことが分るかい。勘を呼んで来い、勘を。」
「姉やん、もうこうなったら本当にきりがないでな。姉やんとこ今晩ひと晩、安次を置いといてやっとくれ。」
「そんな
「ひと晩でええわ。そしたら明日どこぞへ小屋建てよう、
「それでもお前、十五六円やそこらかかろがな?」
「その位はそりゃかかるわさ。そやけど瓦のかけらでもあろまいし、藁ばっかしで建てたら後が何なと間に合うがな、なア、そうしようまいか?」
「藁かて二三十束も要るやないか。」
「そんなもの、高が知れてるわして。あんな安次みたいな者を世話しといたら、功徳になるぞな。」
「ひんなかで建つやろか?」
「そればっかしにかかりゃ
「そうしようか、藁三十束で足るかお前?」
「足るとも。三畳敷位の小っちゃいのでけっこうやさ。それで安次も一生落ちつけるのや、有難いもんやないか。」
「あんな奴、抛っとけ。」秋三は笑いながら云った。
「阿呆ばっかし云うて!」とお留は叱った。
「あんな
「お前はよっぽど罰あたりやぞ!」
「俺が罰あたりなら、南の伯母やんら、とっくの昔罰あたって死んでら。のう伯母やん?」
「あれ見やえ!」とお留は云って姉を見た。
お霜は何か考えているらしく黙っていたが、
「お前、小屋建てるなら組で建てて貰うまいか?」と云い出した。
「組が建ててくれりゃ結構やけどなア。」
「そりゃ建てるわさ。いっぺん組長さんに相談してみよまいか?」
「どうなと勝手にせ!」と秋三は云って又奥庭の方へ這入って行った。
「そんなことしてると、またごてごて長びくでな。」とお留は云った。
「そうかてお前、実の所は組が引きとらんならんのやして、お前とこが母屋や云うたて、そんなこと昔から云うてるだけで、何も特別と安次とこと交際してたわけでもなしさ。うちかて株内や云うたてはっきりしたことって何一つないのやし、組が引取らんならんのや。なアそうやろう? その間、わし処に安次を置いとくわ。」
「そんねにうまい工合にいくやろか?」
「まア事は何でもあたってみよや。組長さんに相談してみよにさ。」
「そうしてみるか?」
「なア? わし、これから行って来るわ、事は何んでも当って見よや。何も母屋や株内や云うたかて名だけや。わし一寸これから行って来うぞ。」
お霜は外へ出ていった。
「しぶったれ!」と秋三は奥庭から叫んだ。しかし、勘次と
「こりゃ面白い、こりゃ面白い。」と、秋三は膝を叩いて喜び出した。
お留は丸帯の汚点をランプの下に
「こりゃ姉やんに持って来いやがなア。」と云いながらまた奥の間へ這入っていった。
安次の小屋が組から建てられることに定ったと知ったとき、勘次は母親をその夜秋三の家へ送ったことを後悔した。しかし、今はもうその方が
彼は初めて秋三に復讐し終えたような快活な気持になった。
一週間の後、小さな藁小屋が掘割の傍に建てられた。そこは秋三の家に属している空地であった。
その日最早や安次は自由に歩くことも出来なくなっていた。彼は勘次の家の小屋から戸板に吊られて新しい小屋まで運ばれた。
勘次は自分の手から全く安次が離れていったのだと思うと、今迄の安次に向っていた自分の態度は、尽く秋三に動かされていた自分の頭の所作事であったと気が附いた。けれども別に何の悔い心も起らなかった。ただ彼は自分の博愛心を恋人に知らす機会を失つたことを少なからず後悔した後で、それほどまでも秋三に踊らせられた自分の小心が腹立たしくなって来た。が、曽て敵の面前で踊った彼の寛大なあのひと踊りの姿は、一体彼の心の何処へ封じ込まねばならないのか? 彼は次第に不機嫌になって来た。
「厄介者が行ってくれたんで、晴々するわ。あんな者にいられると、こちまで病気つくがな。」
お霜は安次の立った後の掃除をしながらそう勘次に云った。勘次は何ぜだか母親に突きかかっていきたくなったが黙っていた。
「それでもお前のお蔭でみやいせ、蒲団三枚も損したわ。あの蒲団かて手織やが、まだそんねに着やせんのやぞ。お前ら碌なことしやせんのや。」
「好きで誰が連れて来る!」と息子は強く云った。お霜は何ぜ息子が怒り出したのかを疑いながら、
「お前が要らんことせなんだら誰が来るぞ!」と云い返した。
「済んでから、ごてごて云うな!」
「云う云う。お前の阿呆にもあきれるわ。」
「勝手に
「要らんことばっかしてな。お前ら
「安次の一疋やそこら何んじゃ。それに組へのこのこ出かけていって恰好の悪いこと知らんのか!」
「何を云うのや、お前!」
お霜は勘次をじっと見た。
「しぶったれ!」勘次は小屋の外へ出ていった。
お霜は何ぜ勘次が怒るのか全く分らなかった。が、自分の吝嗇の一事として、曽て勘次を想わない念から出たことがあっただろうか? 彼女は追っ馳けていって自分の悩ましさを尽く勘次に投げかけてやりたくなった。すると涙が溢れて来た。
お霜が安次の小屋へ行ってみたとき、もう組の人達は帰っていた。
「厄介ばっかしかけて、ほんまにすまんこっちゃ。」
安次はお霜を見ると弱々しい声で云った。お霜は彼の声からいかにも有難そうな気持を感じると初めて愉快になって来た。
「きょうは天気がよいで気持好かろが、ここにいたらお前、ええ隠居さんやがな。」
彼女は貸した安次の着ている蒲団を一寸見た。そして彼が死んでからまだ役に立つかどうかと考えたが、彼女の気持が良ければ良いだけ、安次を世話した自分の徳が、死んだ良人の「あの世の苦しさ」まで滅ぼすように思われてありがたくなって来た。彼女は入口の
「姉さん、すまんな、今お医者さんとこへ行って来たんやわ。もう来てくれやっしゃるやろ。」
暫くしてお霜はお留に呼び醒まされて彼女を見た。
「どうや、一寸はええか?」とお留は安次を覗いて訊いた。
「すまんこっちゃ、皆に厄介かけるなア。」
お霜は妹にそう云っている安次の声からも感謝の気持を見出した。そして、自分が預る「仏の
「何ぞ欲しいものはないか?」とお霜は安次に訊いた。
「結構や。」
「お前この間、銭持ってたの、どうしたぞ。それだけ欲しいもんでも買う方が好かろが?」
「火ん中へ
「燻べた!」
「邪魔になって仕様がない。」
「たあいもない。どうや、あんな物燻べて何んにもならんやないか!」
「もう半分気が触れてるのやぞ。」とお留は云った。
二人は暫く安次の痩せ衰えた顔を黙って眺めていた。すると、どちらも同じように、病人が最早や自分達と余程離れた不思議な遠い世界にいることを感じて恐ろしくなって来た。が直ぐその後で、お霜は病人が紙幣を自分に預ってくれと頼んだとき、預っておけば好かったと思って後悔した。だが、お留は、安次に与えようとしてまだそのままにしておいた金包のことを思い出すと、今まで忘れていたのは結局自分に仏様がそれだけ授けて下さったのだと思って喜んだ。
霜が降りた。夜が明け初めると間もなくその日は晴れ渡るであろう。山々の枯れた姿の上には緑色の霞が流れていた。いつもの雀は早くから安次の新しい小屋の
中では、安次が蒲団から紫色の斑紋を浮かばせた
野路では霜柱が崩れ始めた。お霜は粥を入れた小鉢を抱えたまま、
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。安次が死んどる。熱いお粥食わそう思って持っててやったのに、死んどるわア。」と叫びながら、秋三の家の裏口から馳け込んだ。
お霜の叫びに納戸からお留が出て来た。秋三は藁小屋から飛び出て来た。そして二人が安次の小屋へ馳けて行くと、お霜はそのまま自分の家へ馳けて帰って勘次に云った。
「お前えらいこっちゃ。安次が死によった。折角お粥持っててやったのに、冷とうなって死んどるのやして。」
「死によったか!」
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。」
お霜は小鉢を台所へ置くと、さて何をして好いものかと迷ったが、別に大事な出来事が起ったのでもなく、ただ自分ひとりが勝手に
勘次とお霜は直ぐ又安次の小屋へ行った。勘次は初め秋三と顔を合すのが不快さに行きたくはなかったが、それは却って秋三を恐れているようでいけないし、とうとう何時の間に決心したのか自分ながら分らずに、ただ母親に曳かれる気持で小屋へ来た。
「おい、喜びやれ、往生しよったぞ。」
秋三は勘次を見るなり皮肉な微笑を浮かべて云った。
勘次は彼の微笑から曽て覚えた嘲弄を感じると、憤りが胸に込み上げた。が、それを見抜かれるのが不快であった。彼は入口に下っていた筵戸を引きちぎって、
「こんな邪魔物は要らんやろが。」とごまかした。
「伯母やんに訊いてみよ、神棚へでも吊らっしゃろで。」
勘次は秋三を一寸
「さアお前らぼんやりしてんと、どうするのや?」とお霜は云った。
「和尚さん呼んで来うまいか。」とお留は云った。
「それよか何より棺桶や。棺桶どうする?」と秋三は云い出した。
「うちのお父つぁんの死んだときは棺桶やったが、あれでもお前、八円したぞな。」とお霜は云った。
「六分板やろが。あれならその位かかるわさ。杉の四分板やったら五円位で出来るやろ。」とお留は云った。
「大分苦しみよったらしいな。」
勘次は安次の紫色に変っている指さきを弄びながらそう云うと、
「苦しかったやろまいか。可哀想に、水いっぱい飲ましてくれる者がありゃせんしさ。」とお留が云った。
「やっぱり極道すると、碌な死にざま出来やせんなア。」とお霜は云った。
「棺桶どうする。」と秋三はまた云い出した。
「箱棺で好かろが。あれなら三円位で出来るしな。」
「寝棺はどうや、もっと安かろが?」
「寝棺は高い高い。どんねに安うても十両はかかる。」
「そうか。そんなら箱棺の口や。どうや伯母やん。ひとつ奮発してくれんか?」
「伯母やん。伯母やんって、損のいくことやったら、何んでもわしににじりつけるのやな。わしとこはもう、蒲団出したやないか。お前とこしてやれ。」
「そうかて、本当に勘が何もかも引き受けよったんやないか。そのくせ組へにじりつけて了うてさ。棺桶ぐらいしてもええぞ。」
「うちのがしたらええわして。」とお留は秋三をたしなめた。
「俺がする。」と勘次は云った。
「それみよ。」と秋三は
「勘よ、うちにビール箱が沢山あったやろが、あれで作ったらどうやろな?」とお霜は云い出した。
秋三はにやにや笑いながら、
「そいつは好え。あれなら八分板や、あんなもんでして貰うたら、それこそ極楽へ行きよるに定ってる。やっぱり伯母やんやなけりゃ、ええ考えが出て来んわ。」
「なア、あれはほんとに好かろが、三つ位で出来るやろ。」
「二つでええとも。あれでして貰うたら、安次もなかなか腐らへんわ。そりゃ結構や。」とお留は云った。
「勘よ。お前これから
勘次は黙って帰って来た。母親が煽動に乗せられているのを思うと、別に大工の手にかけて棺を造ろうかと思った。が、しかし一々秋三に反抗するのもあまり大人気ないように思われた。が、何かにつけて自分の弱味||安次を組の手に押し附けたと云う此の弱味、それは自分の知らないことだと彼一人拒否したとて免れないその点に、||絶えず触れて出ようとする秋三の態度には我慢がしきれなかった。彼は棚からビール箱を下ろすと、一枚一枚釘打で板を放した。放しながら、秋三を叩いている所を想像すると、尚お彼の力は加わった。
「此の餓鬼! 此の餓鬼! 此の餓鬼!」
彼は釘打を振り上げては打ち下ろした。すると、自分が棺を造っているのだと云うことも忘れて了って、だんだん加わって来る気持良い興奮の中に、間もなく彼は三つの箱をばらばらの板切れにして了った。そして、一時間の後には
「こりゃ上等や。こんなんなら俺でも這入りたいが。どうや伯母やん、一寸這入ってみやえ。」と秋三はお霜に云って、勘次の造って来た箱棺を叩いてみた。
「冗談云わんと、早よ安次を入れてたもれ。」とお霜は云った。
「こんな汚い奴、俺ゃ知らんぞ。」
「何でも知らん知らんと云うてよ。」
お霜は安次の蒲団を捲って、「早う。」と秋三を促した。
「おい、掻き込もうやないか、汚い。」
秋三は勘次にそう云って棺を横に倒すと安次の死体の傍へ近寄せた。
二人は安次の身体を転がしながら、棺の中へ掻き寄せようとした。が、張り切った死人の手足が縁に
秋三は棺を一人で吊り上げてみた。
「此奴、軽石みたいな奴や。」
「そやそや、お前今頃から棺桶の中へ入れたらあかんがな。お医者さんの診断書貰うて、役場へ死亡届出さにゃ叱られるわして。」とお留は云った。
「そんなら、もういっぺん打ちやけるか?」
秋三はお霜を眺めてそう訊くと、お霜は安次の着ていた蒲団を摘まみ上げて眺めた。
「そんな汚い物、焼いて了え。」と秋三は云った。
「よう云うてくれるな。これでもお前、洗濯してちゃんとしたら、結構間に合うわ。」
「まだそれでも、着て寝よう思うてるのやな。」
「きまってるわ。」
「しぶったれ!」
「何がしぶったれや!」
「まアまア伯母やんみたいなしぶったれて、あったもんやないわ。」
すると、お霜はいつになく厳しい眼付で秋三を睥みながら腰を延ばした。
「よう云うな!
「ぬかしてよ! 俺とこが恩受けてるのは、手前とこの親父にじゃ。」
「わしがいなんだら、誰がお前らに恩を施すぞ!」
「恩恩って、大っきな声でぬかすな! 手前とこが有るばっかしで、俺とこまで
勘次は怒りのために
「何さらす。」と叫んで振り返った。
再び勘次は横さまに
「此の餓鬼めッ。」
「くそったれッ。」
勘次の身体は秋三を抱きながら、どっと後の棺を倒して蒲団の上へ
「エーイくそッ。」
「何にをッ。」
二人は再び一つに組みついた。と、また二人は安次の上へどっと倒れると、血に濡れながら死体の上で蹴り合い出した。
(大正十年)