夏休みの十五日の
農場実習の間に、
私どもがイギリス
海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、
仕事が一きりつくたびに、よく
遊びに行った
処がありました。
それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の
岸です。
北上川の西岸でした。東の
仙人峠から、
遠野を通り
土沢を
過ぎ、北上山地を
横截って来る
冷たい
猿ヶ石川の、北上川への
落合から、少し
下流の西岸でした。
イギリス海岸には、青白い
凝灰質の
泥岩が、川に
沿ってずいぶん広く
露出し、その南のはじに立ちますと、北のはずれに
居る人は、
小指の先よりもっと小さく見えました。
殊にその泥岩
層は、川の水の
増すたんび、
奇麗に
洗われるものですから、何とも
云えず青白くさっぱりしていました。
所々には、水増しの時できた小さな
壺穴の
痕や、またそれがいくつも
続いた
浅い
溝、それから
亜炭のかけらだの、
枯れた
蘆きれだのが、一
列にならんでいて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。
日が強く
照るときは岩は
乾いてまっ白に見え、たて
横に走ったひび
割れもあり、大きな
帽子を
冠ってその上をうつむいて歩くなら、
影法師は黒く
落ちましたし、
全くもうイギリスあたりの
白堊の
海岸を歩いているような気がするのでした。
町の小学校でも
石の
巻の近くの海岸に十五日も
生徒を
連れて行きましたし、
隣りの女学校でも
臨海学校をはじめていました。
けれども
私たちの学校ではそれはできなかったのです。ですから、生れるから
北上の
河谷の
上流の方にばかり
居た私たちにとっては、どうしてもその白い
泥岩層をイギリス海岸と
呼びたかったのです。
それに
実際そこを海岸と呼ぶことは、
無法なことではなかったのです。なぜならそこは
第三
紀と呼ばれる
地質時代の
終り
頃、たしかにたびたび海の
渚だったからでした。その
証拠には、第一にその泥岩は、東の北上山地のへりから、西の
中央分水嶺の
麓まで、一
枚の
板のようになってずうっとひろがっていました。ただその
大部分がその上に
積った
洪積の
赤砂利や
※[#「土へん+母」、57-14]、それから
沖積の
砂や
粘土や何かに
被われて見えないだけのはなしでした。それはあちこちの川の
岸や
崖の
脚には、きっとこの泥岩が顔を出しているのでもわかりましたし、また
所々で
掘り
抜き
井戸を
穿ったりしますと、じきこの泥岩
層にぶっつかるのでもしれました。
第二に、この泥岩は、
粘土と
火山灰とまじったもので、しかもその
大部分は
静かな水の中で
沈んだものなことは明らかでした。たとえばその岩には沈んでできた
縞のあること、木の
枝や
茎のかけらの
埋もれていること、ところどころにいろいろな
沼地に
生える
植物が、もうよほど
炭化してはさまっていること、また山の近くには細かい砂利のあること、
殊に北上山地のへりには所々この泥岩層の間に
砂丘の
痕らしいものがはさまっていることなどでした。そうしてみると、いま北上の
平原になっている所は、
一度は細長い
幅三里ばかりの大きなたまり水だったのです。
ところが、第三に、そのたまり水が
塩からかった
証拠もあったのです。それはやはり北上山地のへりの赤砂利から、
牡蠣や何か、
半鹹のところにでなければ
住まない
介殻の
化石が出ました。
そうしてみますと、第三紀の終り頃、それは
或は今から五、六十万年
或は百万年を数えるかも知れません、その頃今の北上の平原にあたる
処は、細長い入海か
鹹湖で、その水は
割合浅く、何万年の
永い間には
処々水面から顔を出したりまた引っ
込んだり、火山灰や粘土が上に
積ったりまたそれが
削られたりしていたのです。その粘土は西と東の山地から、川が
運んで
流し
込んだのでした。その
火山灰は西の二
列か三列の
石英粗面岩の火山が、やっとしずまった
処ではありましたが、やっぱり時々
噴火をやったり
爆発をしたりしていましたので、そこから
降って来たのでした。
その
頃世界には人はまだ
居なかったのです。
殊に日本はごくごくこの間、三、四千年前までは、
全く人が居なかったと
云いますから、もちろん
誰もそれを見てはいなかったでしょう。その誰も見ていない
昔の空がやっぱり
繰り
返し繰り返し
曇ったりまた晴れたり、海の一とこがだんだん
浅くなってとうとう水の上に顔を出し、そこに草や木が
茂り、ことにも
胡桃の木が
葉をひらひらさせ、ひのきやいちいがまっ黒にしげり、しげったかと思うと
忽ち西の方の火山が赤黒い
舌を
吐き、
軽石の
火山礫は空もまっくらになるほど降って来て、木は
圧し
潰され、
埋められ、まもなくまた水が
被さって
粘土がその上につもり、全くまっくらな処に埋められたのでしょう。考えても
変な気がします。そんなことはほんとうだろうかとしか思われません。ところがどうも
仕方ないことは、
私たちのイギリス
海岸では、川の水からよほどはなれた処に、半分
石炭に
変った大きな木の
根株が、その根を
泥岩の中に
張り、そのみきと
枝を軽石の
火山礫層に圧し潰されて、ぞろっとならんでいました。
尤もそれは間もなく日光にあたってぼろぼろに
裂け、
度々の出水に
次から次と
削られて行きましたが、新らしいものもまた出て来ました。そしてその根株のまわりから、ある時私たちは四十近くの半分
炭化したくるみの
実を
拾いました。それは長さが二
寸ぐらい、
幅が一寸ぐらい、
非常に細長く
尖った形でしたので、はじめは私どもは上の
重い
地層に
押し潰されたのだろうとも思いましたが、
縦に埋まっているのもありましたし、やっぱりはじめからそんな形だとしか思われませんでした。
それからはんの木の実も
見附かりました。小さな草の実もたくさん出て来ました。
この百万年
昔の海の
渚に、今日は北上川が流れています。昔、
巨きな
波をあげたり、じっと
寂まったり、
誰も誰も見ていない
所でいろいろに変ったその巨きな
鹹水の
継承者は、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴた
昔の
渚をうちながら夜昼南へ
流れるのです。
ここを
海岸と名をつけたってどうしていけないといわれましょうか。
それにも一つここを海岸と考えていいわけは、ごくわずかですけれども、川の水が
丁度大きな
湖の
岸のように、
寄せたり
退いたりしたのです。それは
向う
側から入って来る
猿ヶ石川とこちらの水がぶっつかるためにできるのか、それとも少し
上流がかなりけわしい
瀬になってそれがこの
泥岩層の岸にぶっつかって
戻るためにできるのか、それとも
全くほかの
原因によるのでしょうか、とにかく日によって水が
潮のように
差し
退きするときがあるのです。
そうです。丁度一
学期の
試験が
済んでその
採点も
終りあとは三十一日に
成績を
発表して
通信簿を
渡すだけ、
私のほうから
云えばまあそうです、
農場の
仕事だってその日の午前で
麦の
運搬も終り、まあ
一段落というそのひるすぎでした。私たちは今年三
度目、イギリス海岸へ行きました。
瀬川の
鉄橋を渡り
牛蒡や
甘藍が青白い
葉の
裏をひるがえす
畑の間の細い道を通りました。
みちにはすずめのかたびらが
穂を出していっぱいにかぶさっていました。私たちはそこから
製板所の
構内に入りました。製板所の構内だということはもくもくした新らしい
鋸屑が
敷かれ、
鋸の音が気まぐれにそこを
飛んでいたのでわかりました。鋸屑には日が
照って
恰度砂のようでした。砂の向うの、青い水と
救助区域の赤い
旗と、向うのブリキ色の雲とを見たとき、いきなり私どもはスウェーデンの
峡湾にでも来たような気がしてどきっとしました。たしかにみんなそう云う気もちらしかったのです。製板の
小屋の中は
藍いろの
影になり、白く光る
円鋸が四、五
梃壁にならべられ、その一梃は
軸にとりつけられて
幽霊のようにまわっていました。
私たちはその
横を通って川の岸まで行ったのです。草の生えた
石垣の下、さっきの救助区域の赤い旗の下には
筏もちょうど来ていました。
花城や
花巻の
生徒がたくさん
泳いでおりました。けれども元来私どもはイギリス海岸に行こうと思ったのでしたからだまってそこを通りすぎました。そしてそこはもうイギリス
海岸の南のはじなのでした。
私たちでなくたって、
折角川の岸までやって来ながらその
気持ちのいい
所に行かない人はありません。町の
雑貨商店や
金物店の
息子たち、夏やすみで帰ったあちこちの
中等学校の
生徒、それからひるやすみの
製板の人たちなどが、あるいは
裸になって二人、三人ずつそのまっ白な岩に
座ったり、また
網シャツやゆるい青の半ずぼんをはいたり、青白い大きな
麦稈帽をかぶったりして歩いているのを見ていくのは、ほんとうにいい
気持でした。
そしてその人たちが、みな私どもの方を見てすこしわらっているのです。
殊に一番いいことは、
最上等の外国犬が、
向うから黒い
影法師と
一緒に、
一目散に走って来たことでした。
実にそれはロバートとでも名の
附きそうなもじゃもじゃした大きな犬でした。
「ああ、いいな。」私どもは
一度に
叫びました。
誰だって夏海岸へ
遊びに行きたいと思わない人があるでしょうか。
殊にも行けたら、そしてさらわれて
紡績工場などへ売られてあんまりひどい目にあわないなら、フランスかイギリスか、そう云う遠い
所へ行きたいと誰も思うのです。
私たちは
忙しく
靴やずぼんを
脱ぎ、その
冷たい少し
濁った水へ
次から次と
飛び
込みました。
全くその水の濁りようときたら
素敵に
高尚なもんでした。その水へ半分顔を
浸して
泳ぎながら
横目で海岸の方を見ますと、
泥岩の向うのはずれは高い草の
崖になって木もゆれ雲もまっ白に光りました。
それから私たちは泥岩の
出張った
処に
取りついてだんだん上りました。一人の生徒はスイミングワルツの
口笛を
吹きました。私たちのなかでは、ほんとうのオーケストラを、見たものも
聴いたことのあるものも少なかったのですから、もちろんそれは町の
洋品屋の
蓄音器から来たのですけれども、
恰度そのように冷い水は
流れたのです。
私たちは泥岩
層の上をあちこちあるきました。所々に
壺穴の
痕があって、その中には小さな円い
砂利が入っていました。
「この砂利がこの壺穴を
穿るのです。水がこの上を流れるでしょう、石が水の
底でザラザラ
動くでしょう。まわったりもするでしょう、だんだん岩が穿れていくのです。」
また、赤い
酸化鉄の
沈んだ岩の
裂け目に
沿って、
層がずうっと
溝になって
窪んだところもありました。それは
沢山の
壺穴を
連結してちょうどひょうたんをつないだように見えました。
「こう
云う溝は水の出るたんびにだんだん
深くなるばかりです。なぜなら
流されて行く
砂利はあまりこの高い
所を通りません。溝の中ばかりころんで行きます。溝は深くなる一方でしょう。水の中をごらんなさい。岩がたくさん
縦の
棒のようになっています。みんなこれです。」
「ああ、
騎兵だ、騎兵だ。」
誰かが南を
向いて
叫びました。
下流のまっ
青な水の上に、
朝日橋がくっきり黒く一
列浮び、そのらんかんの間を白い
上着を着た騎兵たちがぞろっと
並んで行きました。馬の足なみがかげろうのようにちらちらちらちら光りました。それは一
中隊ぐらいで、
鉄橋の上を行く汽車よりはもっとゆるく、小学校の遠足の列よりはも少し早く、たぶんは中隊長らしい人を先頭にだんだん橋を
渡って行きました。
「どごさ行ぐのだべ。」
「
水馬演習でしょう。白い上着を着ているし、きっと
裸馬だろう。」
「こっちさ来るどいいな。」
「来るよ、きっと。大てい
向う
岸のあの草の中から出て来ます。兵隊だって
誰だって
気持ちのいい所へは来たいんだ。」
騎兵はだんだん橋を渡り、
最后の一人がぽろっと光って、それからみんな見えなくなりました。と思うと、またこっちの
袂から一人がだくでかけて行きました。
私たちはだまってそれを
見送りました。
けれども、
全く見えなくなると、そのこともだんだん
忘れるものです。
私たちはまた
冷たい水に
飛び
込んで、小さな
湾になった所を
泳ぎまわったり、岩の上を走ったりしました。
誰かが岩の中に
埋もれた小さな
植物の
根のまわりに、水酸化鉄の茶いろな
環が、
何重もめぐっているのを
見附けました。それははじめからあちこち
沢山あったのです。
「どうしてこの
環、出来だのす。」
「この出来かたはむずかしいのです。
膠質体のことをも少し
詳しくやってからでなければわかりません。けれどもとにかくこれは電気の作用です。この環はリーゼガングの環と
云います。
実験室でもこさえられます。あとで
土壌のほうでも
説明します。
腐植質磐層というものも
似たようなわけでできるのですから。」私は毎日の
実習で
疲れていましたので、長い説明が
面倒くさくてこう答えました。
それからしばらくたって、ふと私は川の
向う
岸を見ました。せいの高い二本のでんしんばしらが、
互によりかかるようにして一本の
腕木でつらねられてありました。そのすぐ下の青い草の
崖の上に、まさしく一人のカアキイ色の
将校と大きな茶いろの馬の頭とが出て来ました。
「来た、来た、とうとうやって来た。」みんなは高く
叫びました。
「
水馬演習だ。
向う
側へ行こう。」こう云いながら、そのまっ白なイギリス
海岸を
上流にのぼり、そこから向う側へ
泳いで行く人もたくさんありました。
兵隊は一
列になって、崖をななめに下り、中にはさきに黒い
鉤のついた長い
竿を
持った人もありました。
間もなく、みんなは向う側の草の生えた
河原に下り、六
列ばかりに
横にならんで馬から下り、将校の
訓示を聞いていました。それが中々
永かったのでこっち側に
居る私たちは
実際あきてしまいました。いつになったら兵隊たちがみな馬のたてがみに
取りついて、泳いでこっちへ来るのやらすっかり
待ちあぐねてしまいました。さっき川を
越えて見に行った人たちも、
浅瀬に立って将校の訓示を聞いていましたが、それもどうも
面白くて聞いているようにも見え、またつまらなそうにも見えるのでした。うるんだ夏の雲の下です。
そのうちとうとう二
隻の
舟が川下からやって来て、川のまん中にとまりました。兵隊たちはいちばんはじの列から馬をひいてだんだん川へ入りました。馬の
蹄の
底の
砂利をふむ音と水のばちゃばちゃはねる音とが遠くの遠くの
夢の中からでも来るように、こっち
岸の水の音を
越えてやって来ました。
私たちはいまにだんだん
深い
処へさえ来れば、
兵隊たちはたてがみにとりついて
泳ぎ出すだろうと思って
待っていました。ところが先頭の兵隊さんは
舟のところまでやって来ると、ぐるっとまわって、また
向うへ
戻りました。みんなもそれに
続きましたので
列は一つの
環になりました。
「なんだ、今日はただ馬を水にならすためだ。」私たちはなんだかつまらないようにも思いましたが、また、あんな
浅い処までしか馬を入れさせずそれに舟を二
隻も
用意したのを見てどこか大へん力強い感じもしました。それから私たちは
養蚕の用もありましたので
急いで学校に帰りました。
その
次には私たちはただ五人で行きました。
はじめはこの前の
湾のところだけ
泳いでいましたがそのうちだんだん川にもなれてきて、ずうっと
上流の
波の
荒い
瀬のところから
海岸のいちばん南のいかだのあるあたりへまでも行きました。そして、
疲れて、おまけに少し
寒くなりましたので、海岸の西の
堺のあの古い
根株やその上につもった
軽石の
火山礫層の処に行きました。
その日私たちは
完全なくるみの
実も二つ
見附けたのです。火山礫の層の上には前の
水増しの時の水が、
沼のようになって処々
溜っていました。私たちはその溜り水から
堰をこしらえて
滝にしたり
発電処のまねをこしらえたり、ここはオーバアフロウだの何の
永いこと
遊びました。
その時、あの
下流の赤い
旗の立っているところに、いつも
腕に赤いきれを
巻きつけて、はだかに
半天だけ一
枚着てみんなの泳ぐのを見ている三十ばかりの男が、一
梃の
鉄梃をもって下流の方から
溯って来るのを見ました。その人は、町から、
水泳で
子供らの
溺れるのを
助けるために
雇われて来ているのでしたが、何ぶんひまに見えたのです。今日だって
実際ひまなもんだから、ああやって用もない鉄梃なんかかついで、
動かさなくてもいい
途方もない大きな石を動かそうとしてみたり、
丁度私どもが遊びにしている発電所のまねなどを、鉄梃まで
使って
本統にごつごつ岩を
掘って、
浮岩の層のたまり水を
干そうとしたりしているのだと思うと、私どもは
実は少しおかしくなったのでした。
ですからわざと
真面目な顔をして、
「ここの水少し
干したほういいな、鉄梃を
貸しませんか。」と
云うものもありました。
するとその男は鉄梃でとんとんあちこち
突いてみてから、
「ここら、岩も
柔いようだな。」と云いながらすなおに私たちに貸し、自分はまた
上流の
波の
荒いところに
集っている
子供らの方へ行きました。すると子供らは、その荒いブリキ色の波のこっち
側で、手をあげたり
脚を
俥屋さんのようにしたり、みんなちりぢりに
遁げるのでした。
私どもはははあ、あの男はやっぱりどこか足りないな、だから子供らが
鬼のようにこわがっているのだと思って遠くから
笑って見ていました。
さてその
次の日も私たちはイギリス
海岸に行きました。
その日は、もう私たちはすっかり川の
心持ちになれたつもりで、どんどん上流の
瀬の荒い
処から
飛び
込み、すっかり
疲れるまで
下流の方へ
泳ぎました。下流であがってはまた
野蛮人のようにその白い岩の上を走って来て上流の瀬にとびこみました。それでもすっかり疲れてしまうと、また昨日の
軽石層のたまり水の処に行きました。
救助係はその日はもうちゃんとそこに来ていたのです。
腕には赤い
巾を巻き鉄梃も
持っていました。
「お
暑うござ※
[#小書き平仮名ん、69-9]す。」私が
挨拶しましたらその人は少しきまり
悪そうに笑って、
「なあに、おうちの
生徒さんぐらい大きな方ならあぶないこともないのですが
一寸来てみたところです。」と云うのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんとうに少かったのです。もちろん何かの
張合で
誰かが
溺れそうになったとき
間違いなくそれを
救えるというくらいのものは一人もありませんでした。だんだん
談してみると、この人はずいぶんよく私たちを考えていてくれたのです。救助
区域はずうっと下流の
筏のところなのですが、私たちがこの気もちよいイギリス海岸に来るのを止めるわけにもいかず、時々
別の用のあるふりをして来て見ていてくれたのです。もっと
談しているうちに私はすっかりきまり悪くなってしまいました。なぜなら誰でも自分だけは
賢く、人のしていることは
馬鹿げて見えるものですが、その日そのイギリス
海岸で、
私はつくづくそんな
考のいけないことを
感じました。からだを
刺されるようにさえ思いました。はだかになって、
生徒といっしょに白い岩の上に立っていましたが、まるで
太陽の白い光に
責められるように思いました。
全くこの人は、
救助区域があんまり
下流の方で、とてもこのイギリス海岸まで手が
及ばず、それにもかかわらず私たちをはじめみんなこっちへも来るし、
殊に小さな
子供らまでが、何べん
叱られてもあのあぶない
瀬の
処に行っていて、この人の形を遠くから見ると、
遁げてどての
蔭や
沢のはんのきのうしろにかくれるものですから、この人は町へ行って、もう一人、人を
雇うかそうでなかったら救助の
浮標を
浮べてもらいたいと話しているというのです。
そうしてみると、
昨日あの大きな石を用もないのに
動かそうとしたのもその浮標の
重りに
使う
心組からだったのです。おまけにあの瀬の処では、早くにも
溺れた人もあり、下流の救助区域でさえ、今年になってから二人も
救ったというのです。いくら昨日までよく
泳げる人でも、今日のからだ
加減では、いつ水の中で動けないようになるかわからないというのです。何気なく
笑って、その人と談してはいましたが、私はひとりで
烈しく烈しく
私の
軽率を
責めました。
実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、ただ
飛び
込んでいって
一緒に溺れてやろう、死ぬことの
向う
側まで一緒についていってやろうと思っていただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の
一刻がそんなにまで楽しかったのです。そして私は、それが
悪いことだとは
決して思いませんでした。
さてその人と私らは
別れましたけれども、
今度はもう
要心して、あの十
間ばかりの
湾の中でしか泳ぎませんでした。
その時、海岸のいちばん北のはじまで
溯って行った一人が、まっすぐに私たちの方へ走って
戻って来ました。
「先生、岩に何かの
足痕あらんす。」
私はすぐ
壺穴の小さいのだろうと思いました。
第三
紀の
泥岩で、どうせ
昔の
沼の
岸ですから、何か
哺乳類の
足痕のあることもいかにもありそうなことだけれども、教室でだって
手獣の
足痕の図まで
黒板に書いたのだし、どうせそれが頭にあるから壺穴までそんな
工合に見えたんだと思いながら、あんまり
気乗りもせずにそっちへ行ってみました。ところが私はぎくりとしてつっ立ってしまいました。みんなも顔色を変えて
叫んだのです。
白い
火山灰層のひとところが、
平らに水で
剥がされて、
浅い
幅の広い谷のようになっていましたが、その
底に二つずつ
蹄の
痕のある
大さ五
寸ばかりの足あとが、
幾つか
続いたりぐるっとまわったり、大きいのや小さいのや、
実にめちゃくちゃについているではありませんか。その中には
薄く
酸化鉄が
沈澱してあたりの岩から実にはっきりしていました。たしかに足痕が
泥につくや
否や、火山灰がやって来てそれをそのまま
保存したのです。私ははじめは
粘土でその
型をとろうと思いました。一人がその青い粘土も
持って来たのでしたが、蹄の痕があんまり
深過ぎるので、どうもうまくいきませんでした。私は「あした
石膏を
用意して来よう」とも
云いました。けれどもそれよりいちばんいいことはやっぱりその足あとを切り
取って、そのまま学校へ持って行って
標本にすることでした。どうせまた水が出れば火山灰の
層が剥げて、新らしい足あとの出るのはたしかでしたし、今のは
構わないでおいてもすぐ
壊れることが明らかでしたから。
次の朝早く
私は
実習を
掲示する黒板にこう書いておきました。
八月八日
農場実習 午前八時半より正午まで
除草、
追肥 第一、七組
蕪菁播種 第三、四組
甘藍中耕 第五、六組
養蚕実習 第二組
(
午后イギリス
海岸に
於て
第三
紀偶蹄類の
足跡標本を
採収すべきにより
希望者は
参加すべし。)
そこで正直を
申しますと、この小さな「イギリス
海岸」の
原稿は八月六日あの足あとを見つける前の日の
晩宿直室で半分書いたのです。
私はあの
救助係の大きな石を
鉄梃で
動かすあたりから、あとは
勝手に私の
空想を書いていこうと思っていたのです。ところが
次の日救助係がまるでちがった人になってしまい、
泥岩の中からは空想よりももっと
変なあしあとなどが出てきたのです。その半分書いた分だけを
実習がすんでから教室でみんなに読みました。
それを読んでしまうかしまわないうち、私たちは一ぺんに
飛び出してイギリス海岸へ出かけたのです。
丁度この日は校長も
出張から帰って来て、学校に出ていました。
黒板を見てわらっていました、それから
繭を売るのが
済んだら自分も行こうと
云うのでした。私たちは新らしい
鋼鉄の三本
鍬一本と、ものさしや新聞紙などを
持って出て行きました。海岸の入口に来てみますと水はひどく
濁っていましたし、雨も少し
降りそうでした。雲が大へんけわしかったのです。救助係に私は今日は少しのお
礼をしようと思ってその
支度もして来たのでしたがその人はいつもの
処に見えませんでした。私たちはまっすぐにそのイギリス海岸を
昨日の処に行きました。それからていねいにあのあやしい
化石を
掘りはじめました。気がついてみると、みんな
大抵ポケットに
除草鎌を持ってきているのでした。岩が大へん
柔らかでしたから
大丈夫それで
削れる見当がついていたのでした。もうあちこちで掘り出されました。私はせわしくそれをとめて、二つの足あとの
間隔をはかったり、スケッチをとったりしなければなりませんでした。足あとを二つつづけて
取ろうとしている人もありましたし、も少しのところでこわした人もありました。
まだ
上流の方にまた
別のがあると、一人の
生徒が云って走って来ました。私は
暑いので、すっかりはだかになって
泳ぐ時のようなかたちをしていましたが、すぐその白い岩を走って行ってみました。そのあしあとは、いままでのとはまるで形もちがい、よほど小さかったのです、あるものは水の中にありました。水がもっと
退いたらまだまだ
沢山出るだろうと思われました。その上流の方から、南のイギリス海岸のまん中で、みんなの一生けん命
掘り
取っているのを見ますと、こんどはそこは
英国でなく、イタリヤのポンペイの
火山灰の中のように思われるのでした。
殊に四、五人の女たちが、けばけばしい色の
着物を着て、
向うを歩いていましたし、おまけに雲がだんだんうすくなって日がまっ白に
照ってきたからでした。
いつか校長も黄いろの
実習服を着て来ていました。そして足あとはもう四つまで
完全にとられたのです。
私たちはそれを
汀まで
持って行って
洗いそれからそっと新聞紙に
包みました。大きなのは三
貫目もあったでしょう。掘り取るのが
済んであの
荒い
瀬の
処から
飛び
込んで行くものもありました。けれども私はその
溺れることを
心配しませんでした。なぜなら
生徒より前に、もう校長が飛び込んでいてごくゆっくり
泳いで行くのでしたから。
しばらくたって私たちはみんなでそれを持って学校へ帰りました。そしてさっきも
申しましたようにこれは
昨日のことです。今日は
実習の九日目です。朝から雨が
降っていますので外の
仕事はできません。うちの中で図を引いたりして
遊ぼうと思うのです。これから私たちにはまだ
麦こなしの仕事が
残っています。天気が
悪くてよく
乾かないで
困ります。麦こなしは
芒がえらえらからだに入って大へんつらい仕事です。
百姓の仕事の中ではいちばんいやだとみんなが
云います。この
辺ではこの仕事を夏の
病気とさえ云います。けれども
全くそんな風に考えてはすみません。私たちはどうにかしてできるだけ
面白くそれをやろうと思うのです。
(一九二三、八、九、)