明治十二三年頃の
出版だと
思ふ
||澤村田之助曙双紙と
云ふ
合卷ものの、
淡彩の
口繪に、
黒縮緬の
羽織を
撫肩に
引つ
掛けて、
出の
衣裝の
褄を
取つた、
座敷がへりらしい、
微醉の
婀娜なのが、
俥の
傍に
彳ずんで、
春たけなはに、
夕景色。
瓦斯燈がほんのり
點れて、あしらつた
一本の
青柳が、
裾を
曳いて、
姿を
競つて
居て、
唄が
題してあつたのを
覺えて
居る。
曰く、(
金子も
男も
何にも
入らぬ
微醉機嫌の
人力車)
||少々間違つて
居るかも
知れないが、
間違つて
居れば、
其の
藝妓の
心掛で、
私の
知つた
事ではない。
何しろ
然うした
意氣が
唄つてあつた。
或は
俥のはやりはじめの
頃かも
知れない。
微醉を
春の
風にそよ/\
吹かせて、
身體がスツと
柳の
枝で
宙に
靡く
心持は、
餘程嬉しかつたものと
見える。
今時バアで
醉拂つて、タクシイに
蹌踉け
込んで、いや、どツこいと
腰を
入れると、がた、がたんと
搖れるから、
脚を
蟇の
如く
踏張つて
||上等のは
知らない
||屋根が
低いから
屈み
腰に
眼を
据ゑて、
首を
虎に
振るのとは
圖が
違ふ。
第一色氣があつて
世を
憚らず、
親不孝を
顧みざる
輩は、
男女で
相乘をしたものである。
敢て
註するに
及ばないが、
俥の
上で
露呈に
丸髷なり
島田なりと、
散切の
······惡くすると、
揉上の
長い
奴が、
肩を
組んで、でれりとして
行く。
些と
極端にたとへれば、
天鵞絨の
寢臺を
縱にして、
男女が
處を、
廣告に
持歩行いたと
大差はない。
自動車に
相乘して、
堂々と、
淺草、
上野、
銀座を
飛ばす、
當今の
貴婦人紳士と
雖も、これを
見たら
一驚を
吃するであらう。
誰も
口癖に
言ふ
事だが、
實に
時代の
推移である。だが
其のいづれの
相乘にも、
齊しく
私の
關せざる
事は
言ふまでもない。とにかく、
色氣も
聊か
自棄で、
穩かならぬものであつた。
||(すきなお
方と
相乘人力車、
暗いとこ
曳いてくれ、
車夫さん
十錢はずむ、
見かはす
顏に、その
手が、おつだね)
||恁う
云ふ
流行唄さへあつた。おつだね
節と
名題をあげたほどである。
何にしろ
人力車はすくなからず
情事に
交渉を
持つたに
相違ない。
金澤の
人、
和田尚軒氏著。
郷土史談に
採録する、
石川縣の
開化新開、
明治五年二月、
其の
第六號の
記事に、
先頃大阪より
歸りし
人の
話に、
彼地にては
人力車日を
追ひ
盛に
行はれ、
西京は
近頃までこれなき
所、
追々盛にて、
四百六輌。
伏見には
五十一輌なりと
云ふ。
尚ほ
追々増加するよし
······其處で、
東京府下は
總數四萬餘に
及ぶ。
と
記して、
一車の
税銀、
一ヶ
月八匁宛なりと
載せてある。
勿論、
金澤、
福井などでは、
俵藤太も、
頼光、
瀧夜叉姫も、まだ
見た
事もなかつたらう。
此の
東京の
四萬の
數は
多いやうだけれども、
其の
頃にしろ
府下一帶の
人口に
較べては、
辻駕籠ほどにも
行渡るまい、
然も
一ヶ
月税銀八匁の
人力車である。なか/\
以て
平民には
乘れさうに
思はれぬ。
時の
流行といへば、
別して
婦人が
見得と
憧憬の
的にする
······的となれば、
金銀相輝く。
弓を
學ぶものの、
三年凝視の
瞳には
的の
虱も
其の
大きさ
車輪である。
從つて、
其の
頃の
巷談には、
車夫の
色男が
澤山あつた。
一寸岡惚をされることは、やがて
田舍まはりの
賣藥行商、
後に
自動車の
運轉手に
讓らない。
立志美談車夫の
何とかがざらにあつた。
しばらくの
間に、
俥のふえた
事は
夥しい。
人力車||腕車が、
此の

に
車と
成つた、
字は
紅葉先生の
創意であると
思ふ。
見附を
入つて、
牛込から、
飯田町へ
曲るあたりの
帳場に、(
人力)を
附着けて、
一寸(
分)の
字の
形にしたのに、
車をつくりに
添へて、
大きく
一字にした
横看板を、
通りがかりに
見て、それを
先生に、
私が
話した
事がある。「そいつは
可笑しい。
一寸使へるな。」と
火鉢に
頬杖をつかれたのを
覺えて
居る。
······更めて
言ふまでもないが、
車賃なしの
兵兒帶でも、
辻、
巷の
盛り
場は
申すまでもない
事、
待俥の、
旦那御都合で、を
切拔けるのが、てくの
身に
取り
大苦勞で。どやどやどや、がら/\と
······大袈裟ではない、
廣小路なんぞでは
一時に
十四五臺も
取卷いた。
三橋、
鴈鍋、
達磨汁粉、
行くさき
眞黒に
目に
餘る。「こいつを
樂に
切拔けないぢや
東京に
住めないよ。」と、よく
下宿の
先輩が
然う
言つた。
十四五年前、いまの
下六番町へ
越した
頃も、すぐ
有島家の
黒塀外に、
辻車、いまの
文藝春秋社の
前の
石垣と、
通を
隔つた
上六の
角とに
向ひ
合ひ、
番町學校の
角にも、づらりと
出て
居て、ものの
一二町とはない
處に、
其のほかに
尚ほ
宿車が
三四軒。
||春は
櫻の
賑ひよりかけて、なき
玉菊が
燈籠の
頃、
續いて、
秋の
新仁和賀には、
十分間に
車の
飛ぶこと、
此の
通りのみにて
七十五輌。
と、
大音寺前の
姉さん、
一葉女史が、
乃ち
袖を
卷いて
拍子を
取つた
所以である。
||十分間に
七十五輌、
敢て
大音寺前ばかりとは
云はない。
馬道は
俥で
填まつた。
淺草の
方の
悉い
事は、
久保田さん(
万ちやん)に
聞くが
可い。
······山の
手、
本郷臺。
······切通しは
堰を
切つて
俥の
瀧を
流した。
勿論、
相乘も
渦を
卷いて、
人とともに
舞つて
落ちる、
江智勝、
豐國あたりで、したゝかな
勢に
成つたのが、ありや/\、と
俥の
上で、
蛸の
手で
踊つて
行く。でつかんしよに、
愉快ぶし、
妓夫臺談判破裂して
||進めツ
||いよう、
御壯、どうだい
隊長と、
喚き
合ふ。
||どうも
隊長。
······まことに
御壯。が、はずんで
下りて
一淀みして

る
處から、
少し
勢が
鈍くなる。
知らずや、
仲町で
車夫が、
小當りに
當るのである。「
澄まねえがね、
旦那。」
甚しきは
楫を
留める。
彼處を
拔けると、
廣小路の
角の
大時計と、
松源の
屋根飾を
派手に
見せて、
又はじめる。「ほんの
蝋燭だ、
旦那。」さて、
最も
難場としたのは、
山下の
踏切の
處が、
一坂辷らうとする
勢を、
故と
線路で
沮めて、ゆつくりと
強請りかゝる。
處を、
辛うじて
切拔けると、
三島樣の
曲角で、
又はじめて、
入谷の
大池を
右に、ぐつと
暗くなるあたりから、
次第に
凄く
成つたものだ
||と
聞く。
······實は
聞いただけで。
私の
覺えたのは
······そんな、そ、そんな
怪しからん
場所ではない。
國へ
往復の
野路山道と、
市中も、
山まはりの
神社佛閣ばかり。だが
一寸こゝに
自讚したい
事がある。
酒は
熱燗のぐい
呷り、
雲助の
風に
似て、
茶は
番茶のがぶ
飮み。
料理の
食べ
方を
心得ず。お
茶碗の
三葉は
生煮えらしいから、そつと
片寄せて、
山葵を
活きもののやうに
可恐がるのだから、われながらお
座がさめる。さゝ
身の
煮くたらしを、ほう/\と
吹いてうまがつて、
燒豆府ばかりを
手元へ
取込み、
割前の
時は、
鍋の
中の
領分を、
片隅へ、
群雄割據の
地圖の
如く
劃つて、
眞中へ
埋た
臟もつを、
箸の
尖で
穴をあけて、
火はよく
通つたでござらうかと、
遠目金を
覗くやうな
形をしたのでは
大概岡惚も
引退る。
······友だちは、
反感と
輕侮を
持つ。
精々同情のあるのが
苦笑する。と
云つた
次第だが
······たゞ
俥に
掛けては
乘り
方がうまい、と
||最も
御容子ではない
||曳いてる
車夫に
讚められた。
拾ひ
乘だと、
樹の
下、
塀續きなぞで、わざ/\
振向いて
然う
言つた
事さへある。
乘るのがうまいと
言ふ
下から、
落ちることもよく
落ちた。
本郷の
菊坂の
途中で
徐々と
横に
落ちたが
寺の
生垣に
引掛つた、
怪我なし。
神田猿樂町で、
幌のまゝ
打倒れた、ヌツと
這出る
事は
出たが、
氣つけの
賓丹を
買ふつもりで
藥屋と
間違へて
汁粉屋へ
入つた、
大分茫としたに
違ひない、が
怪我なし。
眞夏、
三宅坂をぐん/\
上らうとして、
車夫が
膝をトンと
支くと
蹴込みを
辷つて、ハツと
思ふ
拍子に、
車夫の
背中を
跨いで
馬乘りに
留まつて「
怪我をしないかね。」は
出來が
可い。
師走の
算段に
驅け

つて
五味坂で
投出された、
此の
時は、
懷中げつそりと
寒うして、
心、
虚なるが
故に、
路端の
石に
打撞かつて
足の
指に
怪我をした。
最近は
······尤も
震災前だが
······土橋のガード
下を
護謨輪で
颯と
言ふうちに、アツと
思ふと
私はポンと
俥の
外へ
眞直に
立つて、
車夫は
諸膝で、のめつて
居た。
蓋し、
期せずして、
一つ
宙返りをして
車夫の
頭を
乘越したのである。
拂ふほど
砂もつかない、が、
此れは
後で
悚然とした。
······實の
處今でもまだ
吃驚してゐる。
要するに
||俥は
落ちるものと
心得て
乘るのである。
而して、
惡道路と、
坂の
上下は、
必ず
下りて
歩行く
事|| これ、
當流の
奧儀である、と
何も
矢場七、
土場六が、
茄子のトントンを
密造する
時のやうに
祕傳がるには
及ばない。
||實は、
故郷への
往復に、
其の
頃は
交通の
必要上止むを
得ず
幾度も
長途を
俥にたよつたため、
何時となく
乘るのに
馴れたものであらうと
思ふ。
······ 汽車は、
米原を
接續線にして、それが
敦賀までしか
通じては
居なかつた。「むき
蟹。」「
殼附。」などと
銀座のはち
卷で
旨がる
處か、ヤタ
一でも
越前蟹(
大蟹)を
誂へる
······わづか
十年ばかり
前までは、
曾席の
膳に
恭しく
袴つきで
罷出たのを、
今から
見れば、
嘘のやうだ。けれども、
北陸線の
通じなかつた
時分、
舊道は
平家物語、
太平記、
太閤記に
至るまで、
名だたる
荒地山、
歸、
虎杖坂、
中河内、
燧ヶ
嶽。
||新道は
春日野峠、
大良、
大日枝の
絶所で、
其の
敦賀金ヶ
崎まで、これを
金澤から
辿つて
三十八里である。
蟹が
歩行けば
三年かゝる。
最も、
加州金石から
||蓮如上人縁起のうち、
嫁おどしの
道場、
吉崎の
港、
小女郎の
三國へ
寄つて、
金ヶ
崎へ
通ふ
百噸以下の
汽船はあつた。が、
事もおろかや
如法の
荒海、
剩へ
北國日和と、
諺にさへ
言ふのだから、
浪はいつも
穩かでない。
敦賀は
良津ゆゑ
苦勞はないが、
金石の
方は
船が
沖がかりして、
波の
立つ
時は、
端舟で
二三里も
揉まれなければ
成らぬ。
此だけでも
命がけだ。
冬分は
往々敦賀から
來た
船が、
其處に
金石を
見ながら、
端舟の
便がないために、
五日、
七日も
漾ひつゝ、
果は
佐渡ヶ
島へ
吹放たれたり、
思切つて、もとの
敦賀へ
逆戻りする
事さへあつた。
上京するのに、もう
一つの
方法は、
金澤から
十三里、
越中伏木港まで
陸路、
但し
倶利伽羅の
嶮を
越す
||其の
伏木港から
直江津まで
汽船があつて、すぐに
鐵道へ
續いたが、
申すまでもない、
親不知、
子不知の
沖を
渡る。
······此の
航路も、おなじやうに
難儀であつた。もしこれを
陸にしようか。
約六十里に
餘つて
遠い。
肝心な
事は、
路銀が
高値い。
其處で、
暑中休暇の
學生たちは、むしろ
飛騨越で
松本へ
嶮を
冒したり、
白山を
裏づたひに、
夜叉ヶ
池の
奧を
美濃路へ
渡つたり、
中には
佐々成政のさら/\
越を
尋ねた
偉いのさへある。
······現に、
廣島師範の
閣下穗科信良は
||こゝに
校長たる
其の
威嚴を
傷つけず
禮を
失しない
程度で、
祝意に
少し
揶揄を
含めた
一句がある。
本來なら、
別行に
認めて、
大に
俳面を
保つべきだが、
惡口の
意地の
惡いのがぢき
近所に
居るから、
謙遜して、
二十字づめの
中へ、
十七字を
割込ませる。
曰く、
千兩の
大禮服や
土用干。
||或は
曰く
||禮服や
一千兩を
土用干||此の
大禮服は
東京で
出來た。が、
帽を
頂き、
劍を
帶び、
手套を
絞ると、
坐るのが
變だ。
床几||といふ
處だが、(
||親類の
家で
||)
其の
用意がないから、
踏臺に
嵬然として
腰を
掛けた
······んぢや、と
笑つて、
當人が
私に
話した。
夫人、
及び
學生さん
方には
内證らしい。
||その
學生の
頃から、
閣下は
學問も
腹も
出來て
居て、
私のやうに
卑怯でないから、
泳ぎに
達しては
居ないけれども、
北海の
荒浪の
百噸以下を
恐れない。
恐れはしないが、
不思議に
船暈が
人より
激しい。
一度は、
餘りの
苦しさに、
三國沿岸で
······身を
投げて
······いや、
此だと
女性に
近い、いきなり
飛込んで
死なうと
思つた、と
言ふほどであるから、
一夏は
一人旅で、
山神を
驚かし、
蛇を
蹈んで、
今も
人の
恐るゝ、
名代の
天生峠を
越して、あゝ
降つたる
雪かな、と
山蛭を
袖で
拂つて、
美人の
孤家に
宿つた
事がある。
首尾よく
岐阜へ
越したのであつた。
道は
違ふが
||話の
次でだ。
私も
下街道を、
唯一度だけ、
伏木から
直江津まで
汽船で
渡つた
事がある。
||後にも
言ふが
||いつもは
件の
得意の
俥で、
上街道越前を
敦賀へ
出たのに
||爾時は、
旅費の
都合で。
······聞いて、
眞實にはなさるまい、
伏木の
汽船が、
兩會社で
激しく
競爭して、
乘客爭奪の
手段のあまり、
無賃銀、たゞでのせて、
甲會社は
手拭を
一筋、
乙會社は
繪端書三枚を
景物に
出すと
言ふ。
······船中にて
然やうな
事は
申さぬものだが、
龍宮場末の
活動寫眞が
宣傳をするやうな
風説を
聞いて、
乘らざるべけんやと、
旅費の
苦しいのが
二人づれで
驅出した。
此の
侶伴は、
後の
校長閣下の
事ではない。おなじく
大學の
學生で
暑中休暇に
歸省して、
糠鰊······易くて、
量があつて、
舌をピリヽと
刺戟する、
糠に
漬込んだ
鰊······に
親んで
居たのと
一所に、
金澤を
立つて、
徒歩で、
森下、
津幡、
石動。
······それよりして、
倶利伽羅に
掛る、
新道天田越の
峠で、
力餅を
······食べたかつたが
澁茶ばかり。はツ/\と
漸と
越して、
漫々たる
大きな
川の
||それは
庄川であらうと
思ふ
||橋で、がつかりして
弱つて
居た
處を、
船頭に
半好意で
乘せられて、
流れくだりに
伏木へ
渡つた。
樣子を
聞くと、
汽船會社の
無錢で
景物は、
裏切られた。
何うも
眞個ではないらしいのに、がつかりしたが、
此の
時の
景色は
忘れない。
船が
下流に
落ちると、
暮雲岸を
籠めて
水天一色、
江波渺茫、
遠く
蘆が
靡けば、
戀々として
鷺が
佇み、
近く
波が
動けば、アヽ
鱸か?
鵜が
躍つた。
船頭が
辨當を
使ふ
間、しばらくは
船は
漂蕩と
其の
流るゝに
任せて、やがて、
餉を
澄まして、ざぶりと
舷に
洗ひ
状に、
割籠に
掬むとて
掻く
水が、
船脚よりは
長く
尾を
曳いて、
動くもののない
江の
面に、
其船頭は
悠然として、
片手で
艫を
繰りはじめながら、
片手で
其の
水を
飮む
時、
白鷺の
一羽が
舞ひながら
下りて、
舳に
留まつたのである。
いや、そんな
事より、
力餅さへ
食はぬ
二人が、
辨當のうまさうなのに、ごくりと
一所に
唾をのんでお
腹が
空いて
堪らない。
······船頭の
菜も
糠鰊で。
······ これには
鰯もある
||糠鰯、
且つ
恐るべきものに
河豚さへある。
這個糠漬の
大河豚。
何と、
此の
糠河豚を、
紅葉先生に
土産に
呈した
男がある。たべものに
掛けては、
中華亭の
娘が
運ぶ
新栗のきんとんから、
町内の
車夫が
内職の
駄菓子店の
鐵砲玉まで、
趣を
解しないでは
置かない
方だから、
遲い
朝御飯に
茶漬けで、さら/\。しばらくすると、
玄關の
襖が、いつになく、
妙に
靜に
開いて、
懷手で
少し
鬱した
先生が、
「
泉。」
「は。」
「あの、
河豚は、お
前も
食つたか。」
「
故郷では、
惣菜にしますんです。」
「おいら、
少し
腹が
疼むんだがな。」
「
先生、
河豚に
中害つて、
疼む
事はないんださうです。」
「あゝ、
然うか。」
すつと、
其のまゝ
二階へ、
|| いま、
我が
瀧太郎さんは、
目まじろがず、
一段と
目玉を
大きくして、
然も
糠にぶく/\と
熟れて
甘い
河豚を
食ふから
驚く。
新婚當時、
四五年故郷を
省みなかつた
時分、
穗科閣下は、あゝ
糠鰊が
食ひたいな、と
暫々言つて
繰返した。
「
食はれるものかね。」
「いや、
然うでない、あれは
珍味ぢやぞ。」
その
後歸省して、
新保村から
歸つて、
「
食つたよ。
||食つたがね、
······何うも
何ぢや、
思つたほどでなかつたよ。」
然うだらう。
日本橋の
砂糖問屋の
令孃が、
圓髷に
結つて、あなたや
······鰺の
新ぎれと、
夜行の
鮭を
教へたのである。
糠鰊がうまいものか。
さて、
其の
晩は
伏木へ
泊つた。
夜食の
膳で「あゝあ、
何だい
此れは?」
給仕に
居てくれた
島田髷の
女中さんが、「
鯰ですの。」
鯰の
魚軒、
冷たい
綿屑を
頬張つた。
勿論、
宿錢は
廉い。いや、
羹も
食はず、
鯰を
吐いた。
洒落ではなしに
驚いた。
港を
前に
鯰の
皿、うらなつて
思ふに、しけだなあ。
||風の
模樣は
······まあ
何だらうと、
此弱蟲が
悄々と、
少々ぐらつく
欄干に
凭りかゝると、
島田がすつと
立つて
······九月初旬でまだ
浴衣だつた、
袖を
掻い
込むで、
白い
手を
海の
上へさしのべた。
手の
半
が
屋根を
斜に、
山の
端へかゝつて
颯と
靡いた。「
此の
模樣では
大丈夫です。」
私は
嬉しかつた。
おなじ
半
でも、
金澤の
貸本屋の
若妻と
云ふのが、
店口の
暖簾を
肩で
分けた
半身で、でれりと
坐つて、いつも
半
を
口に
啣へて、うつむいて
見せた
圖は、
永洗の
口繪の
艷冶の
態を
眞似て、
大に
非なるものであつたが、これは
期せずして
年方の
插繪の
清楚であつた。
處で
汽船は
||うそだの、
裏切つたのと、
生意氣な
事を
言ふな。
直江津まで、
一人前九錢也。
······明治二十六七年頃の
事とこそいへ、それで、
午餉の
辨當をくれたのである。
器はたとへ、
蓋なしの
錻力で、
石炭臭い
菜が、
車麩の
煮たの
三切にして、「おい
來た。まだ、そつちにもか
||そら
來た。」で、
帆木綿の
幕の
下に、ごろ/\した
連中へ
配つたにせよ。
日一杯······無事に
直江津へ
上陸したが、
時間によつて
汽車は
長野で
留まつた。
扇屋だつたか、
藤屋だつたか、
土地も
星も
暗かつた。よく
覺えては
居ないが、
玄關へ
掛ると、
出迎へた
······お
太鼓に
結んだ
女中が
跪いて
||ヌイと
突出した
大學生の
靴を
脱がしたが、べこぼこんと
弛んで、
其癖、
硬いのがごそりと
脱げると
······靴下ならまだ
可い「
何、
體裁なんぞ、そんな
事。」
邊幅を
修しない
男だから、
紺足袋で、おや
指の
尖に
大きな
穴のあいたのが、
油蟲を
挾んだ
如く
顯はれた。
······渠は
金釦の
制服だし、
此方は
袴なしの
鳥打だから、
女中も
一向に
構はなかつたが、いや、
何しても、
靴は
羊皮の
上等品でも
自分で
脱ぐ
方が
可ささうである。
少し
氣障だが、
色氣があるのか、
人事ながら、
私は
恥ぢた。
······思ひ
出す
事がある。
淺草田原町の
裏長屋に
轉がつて
居た
時、
春寒い
頃······足袋がない。
······最も
寒中もなかつたらしいが、
何うも
陽氣に
向つて、
何分か
色氣づいたと
見える。
足袋なしでは
仲見世へ
出掛け
憎い。
押入でふと
見附けた。
裏長屋のあるじと
言ふのが
醫學生で、
内證で
怪い
脈を
取つたから、
白足袋を
用ゐる、その
薄汚れたのが、
片方、
然も
大男のだから
私の
足なんぞ
二つ
入る。
細君に
内證で、
左へ
穿いた
||で
仲見世へ。
······晝間出掛けられますか。
夜を
待つて
路次を
出て、
觀世音へ
參詣した。
御利益で、
怪我もしないで
御堂から
裏の
方へうか/\と

つて、
象と
野兎が
歩行ツくら、と
云ふ
珍な
形で
行くと、
忽ち
灯のちらつく
暗がりに、
眞白な
顏と、
青い
半襟が
爾側から、
「ちよいと、ちよいと、ちよいと。」
「
白足袋の
兄さん、ちよいと。」
私は
冷汗を
流して、
一生足袋を
斷たうと
思つた。
後に
||丸山福山町に、はじめて
一葉女史を
訪ねた
歸り
際に、
襟つき、
銀杏返し、
前垂掛と
云ふ
姿に、
部屋を
送られて
出ると、
勝手元から、
島田の十八九、
色白で、
脊のすらりとした、これぞ
||つい
此の
間なく
成つた
||妹のお
邦さん、はら/\と
出て、
「お
麁末樣。」
と、
手をつかれた
時は、
足が
縮んだ。
其の
下駄を
穿かうとする、
足袋の
尖に
大きな
穴があつたのである。
衣類より
足袋は
目に
着く。
江戸では
女が
素足であつた。
其のしなやかさと、
柔かさと、
形の
好さを、
春信、
哥麿、
誰々の
繪にも
見るが
可い。
就中、
意氣な
向は
湯上りの
足を、
出しなに、もう
一度熱い
湯に
浸してぐいと
拭き
上げて、
雪にうつすりと
桃色した
爪さきに
下駄を
引掛けたと
言ふ。モダンの
淑女······きものは
不斷着でも、
足袋は
黄色く
汚れない、だぶ/\しない
皺の
寄らないのにしてほしい。
練出す
時の
事である。
働くと
言へば、
説が
違ふ。
眞黒だつて
破れて
居たつて、
煤拂、
大掃除には
構ふものか、これもみぐるしからぬもの、
塵塚の
塵である。
||時に、
長野泊りの
其の
翌日、
上野へついて、
連とは
本郷で
分れて、
私は
牛込の
先生の
玄關に
歸つた。
其年父をなくした
爲めに、
多日、
横寺町の
玄關を
離れて
居たのであつた。
駈け
込むやうに、
門外の
柳を
潛つて、
格子戸の
前の
梅を
覗くと、
二疊に
一人机を
控へてた
書生が
居て、はじめて
逢つた、
春葉である。十七だから、
髯なんか
生やさない、
五分刈の
長い
顏で、
仰向いた。
「
先生。
······奧さんは。
······唯今、
歸りました。」
「あゝ、
泉君ですか。
······先生からうかゞつて
存じて
居ります。
何うも
然うらしいと
思ひました。
僕は
柳川と
云ふものです。
此頃から
參つて
居ります。」
「や、ようこそ、
······何うぞ。」
慇懃で、なかが
可い。これから
秋冷相催すと、
次第に、
燒芋の
買ひツこ、
煙草の
割前で
睨み
合つて
喧嘩をするのだが、
||此の
一篇には
預る
方が
至當らしい。
處で
||父の
······危篤······生涯一大事の
電報で、
其の
年一月、
節いまだ
大寒に、
故郷へ
駈戻つた
折は、
汽車で
夜をあかして、
敦賀から、
俥だつたが、
武生までで
日が
暮れた。
道十一里だけれども、
山坂ばかりだから
捗取らない。
其の
昔、
前田利家、
在城の
地、
武生は
柳と
水と
女の
綺麗な
府中である。
佐久間玄蕃が
中入の
懈怠のためか、
柴田勝家、
賤ヶ
嶽の
合戰敗れて、
此の
城中に
一息し
湯漬を
所望して、
悄然と
北の
莊へと
落ちて
行く。ほどもあらせず、
勝に
乘つたる
秀吉が
一騎驅けに
馬を
寄せると、
腰より
采を
拔き
出し、さらりと
振つて、
此れは
筑前守ぞや、
又左、
又左、
鐵砲打つなと、
大手の
城門を
開かせた、
大閤大得意の
場所だが、そんな
夢も
見ず、
悶え
明かした。
翌朝まだ
薄暗かつたが、
七時に
乘つた
俥が、はずむ
酒手もなかつたのに、
其の
日の
午後九時と
云ふのに、
金澤の
町外れの
茶店へ
着いた。
屈竟な
若い
男と
云ふでもなく
年配の
車夫である。
一寸話題には
成らうと
思ふ、
武生から
其の
道程、
實に
二十七里である。
||深川の
俥は
永代を
越さないのを
他に
見得にする
······と
云つたもので、
上澄のいゝ
處を
吸つて
滓を
讓る。
客から
極めて
取つた
賃銀を
頭でつかちに
掴んで
尻つこけに
仲間に
落すのである。そんな
辣腕と
質は
違つても、
都合上、
勝手よろしき
處で
俥を
替へるのが
道中の
習慣で、
出發點で、
通し、と
極めても、そんな
約束は
通さない。が、
親切な
車夫は、その
信ずるものに
會つて、
頼まれた
客を
渡すまでは、
建場々々を、
幾度か
物色するのが
好意であつた。で、
十里十五里は
大抵曳く。
廿七里を
日のうちに
突つ
切つたのには
始めて
出逢つた。
······ 不忍の
池で
懸賞づきの
不思議な
競爭があつて、
滿都を
騷がせた
事がある。
彼の
池は
内端に

つて、
一周圍一里強だと
言ふ。
彼の
池を、
朝の
間から
日沒[#ルビの「につぼつ」はママ]まで、
歩調の
遲速は
論ぜぬ、
大略十五時間の
間に、
幾
りか、
其の
囘數の
多いのを
以て
勝利とする。
······間違つたら、
許しツこ、たしか、
當、
時事新報の
催しであつたと
思ふ。
······二人ともまだ
玄關に
居たが、こんな
事は
大好だから
柳川が
見物、
參觀か、
參觀した。「
三人ばかり
倒れて
寢たよ、
驅出すのなんざ
一人も
居ない、
······皆な
恁う
腕を
組んで、のそり/\と
草を
踏んで
歩行いて
居たがね、あの
草を
踏むのが
祕傳ださうだよ、
中にはぐつたりと
首を
垂れて
何とも
分別に
餘つたと
云ふ
顏をして
居たのがあります。
見物は
山も
町も
一杯さ。けれども、
何の
機掛もなしに、てくり/\だから、
見て
居て
變な
氣がした。
||眞晝間、
憑ものがしたか、
魅されてでも
居るやうで、そのね、
鬱ぎ
込んだ
男なんざ、
少々氣味が
惡かつた。
何しろ
皆顏色が
眞つ
蒼です」
||此時、
選手第一の
賞を
得たのは、
池をめぐること
三十幾囘、
翌日發表されて、
年は六十に
餘る、
此の
老神行太保戴宗は、
加州小松の
住人、もとの
加賀藩の
飛脚であつた。
頃日聞く
||當時、
唯一の
交通機關、
江戸三度と
稱へた
加賀藩の
飛脚の
規定は、
高岡、
富山、
泊、
親不知、
五智、
高田、
長野、
碓氷峠を
越えて、
松井田、
高崎、
江戸の
板橋まで
下街道、
百二十里半||丁數四千三十八を、
早飛脚は
滿五日、
冬の
短日に
於てさへこれに
加ふること
僅に
一日二時であつた。
常飛脚の
夏(
三月より
九月まで)の
十日||滿八日、
冬(
十月より
二月まで)の
十二日||滿十日を
別として、
其の
早の
方は
一日二十五里が
家業だと
言ふ。
家業を
奮發すれば、あと
三里五里は
走れようが、それにしても、
不忍池の
三十幾囘||況んや
二十七里を
日づけの
車夫は
豪傑であつた。
乘つたものに
徳はない。が、
殆ど
奇蹟と
言はねばならない。
が、
其の
顏も
覺えず、
惜むらくは
苗も
聞かなかつたのは、
父のなくなつた
爲めに
血迷つたばかりでない。
幾度か
越前街道の
往來に
馴れて、
賃さへあれば、
俥はひとりで
驅出すものと
心得て
居たからである。しかし、
此の
上下には、また
隨分難儀もした。
炎天の
海は
鉛を
溶かして、とろ/\と
瞳を
射る。
風は、そよとも
吹かない。
斷崖の
巖は
鹽を
削つて
舌を
刺す。
山には
木の
葉の
影もない。
草いきれは
幻の
煙を
噴く。
八月上旬······火の
敦賀灣、
眞上の
磽
たる
岨道を、
俥で
大日枝山を
攀たのであつた。
······ 上京して、はじめの
歸省で、それが
病氣のためであつた。
其頃、
學生の
肺病は
娘に
持てた。
書生の
脚氣は
年増にも
向かない。
今以て
向きも
持てもしないだらうから、
御婦人方には
内證だが、
實は
脚氣で。
······然も
大分手重かつた。
重いほど、ぶく/\とむくんだのではない、が、
乾性と
稱して、その、
痩せる
方が
却て
質が
惡い。
午飯に、けんちんを
食べて
吐いた。
||夏の
事だし、
先生の
令夫人が
心配をなすつて、お
實家方がお
醫師だから、
玉章を
頂いて
出向くと、
診察して、
打傾いて、
又一封の
返信を
授けられた。
寸刻も
早く
轉地を、と
言ふのだつたさうである。
私は、
今もつて、
決してけんちんを
食はない。
江戸時代の
草紙の
裡に、
松もどきと
云ふ
料理がある。たづぬるに
精しからず、
宿題にした
處、
近頃神田で
育つた
或婦が
教へた。
茄子と
茗荷と、
油揚を
清汁にして、
薄葛を
掛ける。
至極經濟な
惣菜ださうである。
聊かけんちんに
似て
居るから、それさへも
遠く
慮る。
重湯か、
薄粥、
或は
麺麭を
少量と
言はれたけれども、
汽車で、そんなものは
得られなかつた。
乘通しは
危險だから。
······で、
米原で
泊つたが、
羽織も
着ない
少年には、
粥は
煮てくれぬ。
其の
夜から
翌日。
|| ||いま、
俥で
日盛りを
乘出すまで、
殆ど
口にしたものはない。
直射する
日の
光りに、
俥は
坂に
惱んで
幌を
掛けぬ。
洋傘を
持たない。
身の
楯は
冬の
鳥打帽ばかりである。
私は
肩で
呼吸を
喘いだ。
剩へ
辿り
向ふ
大良ヶ
嶽の
峰裏は
||此方に
蛾ほどの
雲なきにかゝはらず、
巨濤の
如き
雲の
峰が
眞黒に
立つて、
怨靈の
鍬形の
差覗いては
消えるやうな
電光が
山の
端に
空を
切つた。
||動悸は
躍つて、
心臟は
裂けむとする。
私は、
先生が
夏の
嘉例として
下すつた、
水色の
絹べりを
取た、はい
原製の
涼しい
扇子を、
膝を
緊めて、
胸に
確と
取つて
車上に
居直つた。
而して
題を
採つて
極暑の
一文を
心に
案じた。
咄!
心頭を
滅却すれば
何とかで、
悟れば
悟れるのださうだけれど、
暑いから
暑い。
悟ることなんぞは
今もつて
大嫌ひだ。
······汝炎威と
戰へ、
海も
山も
草も
石も
白熱して、
汝が
眼眩まんとす。
起て、
其の
痩躯をかつて、
袖を
翳して
病魔に
楯せよ。
隻手を
拂つて
火の
箭を
斬れ。
戰ひは
弱し。
脚はふるふとも、
心は
空を
馳よ。
然らずんば
······ などと、いや
何うも
氣恥かしいが、
其處で
倒れまいと、
一生懸命に
推敲した。このために、
炎天に
一滴の
汗も
出なかつたのは、
敢て
歌の
雨乞の
奇特ではない。
病める
青草の
萎えむとして
水の
涸いたのであつた。
けれども、
冬の
鳥打帽を
被つた
久留米絣の
小僧の、
四顧人影なき
日盛りを、
一人雲の
峰に
抗して
行く
其の
勇氣は、
今も
愛する。
心は
空を
馳よ。
然らずんば
||苦しいから、
繰返して、
汝炎威と
戰へ。
海も
山も、
草も
石も
白熱して
汝が
眼眩まんとす。
起て
······ うゝ、と
意氣込むと、
車夫が
流るゝ
汗の
額を
振つて、
「あんたも
暑からうなあ
||や、
青い
顏をして!
······も
些ツとで
茶屋があるで、
水など
飮まつせえ。」
水を
······水をと
唯云つたのに、
山蔭に
怪しき
伏屋の
茶店の、
若き
女房は、
優しく
砂糖を
入れて
硝子盃を
與へた。
藥師の
化身の
樣に
思ふ。
人の
情は、
時に、あはれなる
旅人に
惠まるゝ。
若いものは
活返つた。
僥倖に
雷は
聞こえなかつた。
可恐い
夕立雲は、
俥の
行くにつれて、
峠をむかう
下りに
白刃を
北に
返した
電光とともに
麓へ
崩れて
走つたが、たそがれの
大良の
茶屋の
蚊柱は
凄じかつた。
片山家は
灯の
遲い
縁柱の
暗中に、
刺しに
刺して、
悶えて
揮ふ
腕からは、
血が
垂れた。
其の
惱ましさを、
崖の
瀧のやうな
紫陽花の
青い
叢の
中に
突つ
込むで
身を
冷しつゝ、
且つもの
狂はしく
其の
大輪の
藍を
抱いて、
恰も
我を
離脱せむとする
魂を
引緊むる
思ひをした。
······紫陽花の
水のやうな
香を
知つた。
||一夕立して
過ぎながら、
峠には
水がなかつたのである。
やがて、
星の
下を
雨とともに
流れの
走る、
武生の
宿に
着いたのであつた。
一宿り。
一宿りして、こゝを、
又こゝから
立つて、
大雪の
中を
敦賀へ
越した
事もある。
俥はきかない。
俥夫が
朝まだき
提灯で
道案内に
立つた。
村へ
掛ると、
降積つた
大竹藪を
弓形に
壓したので、
眞白な
隧道を
潛る
時、
雀が、ばら/\と
千鳥に
兩方へ
飛交して
小蓑を
亂す
其の
翼に、
藍と
萌黄と
紅の、
朧に
蝋燭に
亂れたのは、
鶸、
山雀、
鸞、
目白鳥などの
假の
塒を
驚いて
起つのであつた。
峠に
上つて、
案内に
分れた。
前途は
唯一條、
峰も
谷も、
白き
宇宙を
細く
縫ふ、それさへまた
降りしきる
雪に、
見る/\、
歩一歩に
埋もれ
行く。
絡つた
毛布も
白く
成つた、
人は
冷たい
粉蝶と
成つて
消えむとする。
むかし
快菴禪師と
云ふ
大徳の
聖おはしましけり。
總角より
教外の
旨をあきらめ
給ひて、
常に
身を
雲水にまかせ
給ふ
······ 殆ど
暗誦した
雨月物語の
青頭巾の
全章を、
雪にむせつゝ
高らかに
朗讀した。
禪師見給ひて、やがて
禪杖を
拿なほし、
作
生何所爲ぞと
一喝して、
他が
頭を
撃たまへば、たちまち
氷の
朝日に
逢ふが
如く
消え
失せて、かの
青頭巾と
骨のみぞ
草葉にとゞまりける。
あたりは
蝙蝠傘を
引つ
擔いで、や
聲を
掛けて、
卍巴を、
薙立て
薙立て
驅出した。
三里の
山道、
谷間の
唯破家の
屋根のみ、
鷲の
片翼折伏した
状なのを
見たばかり、
人らしいものの
影もなかつたのである。
二つめの
峠、
大良からは、
岨道の
一方が
海に
吹放たれるので
雪が
薄い。
俥は
敦賀まで、
漸と
通じた。
此の
街道の
幾返。さもあらばあれ、
苦しい
思ひばかりはせぬ。
紺青の
海、
千仭の
底よりして
虹を
縱に
織つて
投げると、
玉の
走る
音を
立てて、
俥に、
道に、さら/\と
紅を
掛けて
敷く
木の
葉の、
一つ/\
其のまゝに
海の
影を
尚ほ
映して、
尾花、
枯萩も
青い。
月ならぬ
眞晝の
緋葉を
潛つて、
仰げば
同じ
姿に、
遠く
高き
峰の
緋葉は
蒼空を
舞つて
海に
散る
······を
鹿なく
此の
山里と
詠じけむ
嵯峨のあたりの
秋の
頃||峰の
嵐か
松風か、
尋ぬる
人の
琴の
音か、
覺束なく
思ひ、
駒を
早めて
行くほどに
|| カーン、カーンと
鉦の
音が
細く
響く。
塚の
森の
榎の
根に、
線香の
煙淡く
立ち、
苔の
石の
祠には
燈心が
暗く
灯れ、
鉦は
更に
谺して、
老たるは
踞り、
幼きたちは
立ち
集ふ、
山の
峽なる
境の
地藏のわきには、
女を
前に
抱いて、あからさまに
襟を
搜る
若い
男。ト
板橋の
欄干に
俯向いて
尺八を
吹く
一人も
見た。
天上か、
奈落か、
山懷の
大釜を
其のまゝに、
凄いほど
色白な
婦の
行水する
姿も
見た。
「
書生さん、
東京へ
連れてつて
||」
赤い
襷の
手を
空ざまに、
若苗を
俥に
投げて、
高く
笑つた
娘もある。
······おもしろいぞえ、
京へ
參る
道は、
上る
衆もある
下向もある。
何の
巧もないが、
松並木、
間の
宿々、
山坂掛け、
道中の
風情見る
如し。
||これは
能登、
越中、
加賀よりして、
本願寺まゐりの
夥多の
信徒たちが、
其の
頃殆ど
色絲を
織るが
如く、
越前||上街道を
往來した
趣である。
晴、
曇、
又月となり、
風となり
||雪には
途絶える
||此の
往來のなかを、がた/\
俥も、
車上にして、
悠暢と、
花を
見、
鳥を
聞きつゝ
通る。
······ 恁る
趣を
知つたため、
私は
一頃は
小遣錢があると、
東京の
町をふら/\と
俥で
歩行く
癖があつた。
淺草でも、
銀座でも、
上野でも
||人の
往來、
店の
構へ、
千状萬態、
一卷に
道中の
繪に
織込んで
||また
内證だが
||大福か、
金鍔を、
豫て
袂に
忍ばせたのを、ひよいと
食る、
其の
早業、
太神樂の
鞠を
凌ぐ
······誰も
知るまい。
······實は、
一寸下りて
蕎麥にしたい
處だが、かけ
一枚なんぞは
刹那主義だ、
泡沫夢幻、つるりと
消える。
俥代を
差引くと
其いづれかを
選ばねばならない
懷だから、
其處で
餡氣で。
金鍔は
二錢で
四個あつた。
四海波靜にして
俥の
上の
花見のつもり。いや
何うも
話にならぬ。が
此の
意氣を
以てして
少々工面のいゝ
連中、
誰か
自動車······圓タクでも
可い。
蕎麥を
食ながら
飛ばして
見ないか。
希くは
駕籠を
二挺ならべて、かむろに
掻餅を
燒かせながら、
鈴鹿越をしたのであると、
納まり
返つたおらんだ
西鶴を
向うに

して、
京阪成金を
壓倒するに
足らうと
思ふ。
······ 時に
蕎麥と
言へば
||丁と
||梨。
||何だか
三題噺のやうだが、
姑忘聽之。
丁と
云ふのは、
嘗て(
今も
然うだらう。)
梨を
食べると
醉ふと
言ふ。
醉ふ
奴があるものかと、
皆が
笑ふと、「
醉ひますさ。」とぶつ/\
言ふ。
對手にしないと「
僕は
醉ふと
信ずるさ。」と
頬を
凹まして
腹を
立てた。
若い
時の
事だ。
今では
構ふまい、
私と
其の
丁と
二人で、
宿場でふられた。
草加で
雨に
逢つたのではない。
四谷の
出はづれで、
二人とも
嫌はれたのである。
「おい。」
と
丁が
陰氣に
怒つた。
「こんな
堅い
蕎麥が
食はれるかい。
場末だなあ。」
と、あはれや
夕飯兼帶の
臺の
笊に
箸を
投げた。
地ものだと、
或はおとなしく
默つて
居たらう。が、
對手がばらがきだから
堪らない。
「
······蕎麥の
堅いのは、うちたてさ、フヽンだ。」
然うだ、うちたての
蕎麥は、
蕎麥の
下品では
斷じてない。
胃弱にして、うちたてをこなし
得ないが
故に、ぐちやり、ぐちやりと、
唾とともに、のびた
蕎麥を
噛むのは
御勝手だが、その
舌で、
時々作品の
批評などすると
聞く。
||嘸うちたての
蕎麥を
罵つて、
梨に
醉つてる
事だらう。まだ
其は
勝手だが、
斯の
如き
量見で、
紅葉先生の
人格を
品評し、
意圖を
忖度して
憚らないのは
僭越である。
私は
怯懦だ。
衞生に
威かされて
魚軒を
食はない。が、
魚軒は
推重する。その
嫌ひなのは
先生の
所謂蜆が
嫌ひなのではなくて、
蜆に
嫌はれたものでなければならない。
麻を
刈ると
題したが、
紡ぎ
織り
縫ひもせぬ、これは
浴衣がけの
縁臺話。
|| 少し
涼しく
成つた。
此の
暑さは
何うです。
······まだみん/\
蝉も
鳴きませんね、と
云ふうちに、
今年は
土用あけの
前日から
遠くに
聞こえた。カナ/\は
土用あけて
二日の
||大雨があつた
||あの
前の
日から
鳴き
出した。
蒸暑いのが
續くと、
蟋蟀の
聲が
待遠い。
······此邊では、
毎年、
春秋社の
眞向うの
石垣が
一番早い。
震災前までは、
大がい
土用の
三日四日めの
宵から
鳴きはじめたのが、
年々、やゝおくれる。
······此の
秋も
遲かつた。
それ、
自動車が
來たぜ、と
婦まじりで、
道幅が
狹い、しば/\
縁臺を
立つのだが、
俥は
珍らしいほどである。これから、
相乘||と
云ふ
處を。
······おゝ、
銀河が
見える
||初夜すぎた。
大正十五年九月|十月
●表記について
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