わびしさ
······侘しいと
言ふは、
寂しさも
通越し、
心細さもあきらめ
氣味の、げつそりと
身にしむ
思の、
大方、かうした
時の
事であらう。
||まだ、
四谷見つけの
二夜の
露宿から
歸つたばかり
······三日の
午後の
大雨に、
骨までぐしよ
濡れに
成つて、やがて
着かへた
後も
尚ほ
冷々と
濕つぽい、しよぼけた
身體を、ぐつたりと
横にして、
言合はせたやうに、
一張差置いた、
眞の
細い、
乏しい
提灯に、
頭と
顏をひしと
押着けた
處は、
人間唯髯のないだけで、
秋の
蟲と
餘りかはりない。
ひとへに
寄縋る、
薄暗い、
消えさうに、ちよろ/\またゝく
······燈と
言つては
此一點で、
二階も
下階も
臺所も
内中は
眞暗である。
すくなくも、
電燈が
點くやうに
成ると、
人間は
横着で、どうしてあんなだつたらうと
思ふ、が
其はまつたく
暗かつた。
||實際、
東京はその
一時、
全都が
火の
消えるとともに、
此の
世から
消えたのであつた。
大燒原の
野と
成つた、
下町とおなじ
事、
殆ど
麹町の
九分どほりを
燒いた
火の、やゝしめり
際を、
我が
家を
逃出たまゝの
土手の
向越しに
見たが、
黒煙は、
殘月の
下に、
半天を
蔽うた
忌はしき
魔鳥の
翼に
似て、
燒殘る
炎の
頭は、その
血のしたゝる
七つの
首のやうであつた。
······思出す。
······ あらず、
碧く
白き
東雲の
陽の
色に
紅に
冴えて、
其の
眞黒な
翼と
戰ふ、
緋の
鷄のとさかに
似たのであつた。
これ、
夜のあくるにつれての
人間の
意氣である。
日が
暮れると、
意氣地はない。その
鳥より
一層もの
凄い、
暗闇の
翼に
蔽はれて、いま
燈の
影に
息を
潛める。
其の
翼の、
時々どツと
動くとともに、
大地は
幾度もぴり/\と
搖れるのであつた。
驚破と
言へば、
駈出すばかりに、
障子も
門も
半ばあけたまゝで。
······框の
狹い
三疊に、
件の
提灯に
縋つた、つい
鼻の
先は、
町も
道も
大きな
穴のやうに
皆暗い。
||暗さはつきぬけに
全都の
暗夜に、
荒海の
如く
續く、とも
言はれよう。
蟲のやうだと
言つたが、あゝ、
一層、くづれた
壁に
潛んだ、
波の
巖間の
貝に
似て
居る。
||此を
思ふと、
大なる
都の
上を、
手を
振つて
立つて
歩行いた
人間は
大膽だ。
鄰家はと、
穴から
少し、
恁う
鼻の
尖を
出して、
覗くと、おなじやうに、
提灯を
家族で
袖で
包んで
居る。
魂なんど
守護するやうに
|| たゞ
四角なる
辻の
夜警のあたりに、ちら/\と
燈の
見えるのも、うら
枯れつゝも
散殘つた
百日紅の
四五輪に、
可恐い
夕立雲の
崩れかゝつた
状である。
と、
時々その
中から、
黒く
拔出して、
跫音を
沈めて
來て、
門を
通りすぎるかとすれば、
閃々と
薄のやうなものが
光つて
消える。
白刃を
提げ、
素槍を
構へて
行くのである。こんなのは、やがて
大叱られに
叱られて、
束にしてお
取上げに
成つたが
······然うであらう。
||記録は
愼まなければ
成らない。
||此のあたりで、
白刃の
往來するを
見たは
事實である。
······けれども、
敵は
唯、
宵闇の
暗さであつた。
其の
暗夜から、
風が
颯と
吹通す。
······初嵐······可懷い
秋の
聲も、いまは
遠く
遙に
隅田川を
渡る
數萬の
靈の
叫喚である。
······蝋燭がじり/\とまた
滅入る。
あ、と
言つて、
其の
消えかゝるのに
驚いて、
半ばうつゝに
目を
開く、
女たちの
顏は
蒼白い。
疲れ
果てて、
目を

りながらも、すぐ
其なりにうと/\する。
呼吸を、
燈に
吸はるゝやうに
見える。
がさり
······ 裏町、
表通り、
火を
警むる
拍子木の
音も、
石を
噛むやうに
軋んで、
寂然とした、
臺所で、がさりと
陰氣に
響く。
がさり
······ 鼠だ。
「
叱······」
がさり
······ いや、もつと
近い、つぎの
女中部屋の
隅らしい。
がさり
······「
叱······」
と
言ふ
追ふ
聲も、
玄米の
粥に、
罐詰の
海苔だから、しつこしも、
粘りも、
力もない。
がさり。
畜生、
······がさ/\と
引いても
逃げる
事か、がさりとばかり
悠々と
遣つて
居る。
氣に
成るから、
提灯を
翳して、「
叱。」と
女中部屋へ
入つた。が、
不斷だと、
魑魅を
消す
光明で、
電燈を
燦と
點けて、
畜生を
礫にして
追拂ふのだけれど、
此の
燈の
覺束なさは、
天井から
息を
掛けると
吹消されさうである。ちよろりと
足許をなめられはしないかと、
爪立つほどに、
心が
虚して
居るのだから、だらしはない。
それでも
少時は、ひつそりして
音を
潛めた。
先づは
重疊、
抗つて
齒向つてでも
來られようものなら、
町内の
夜番につけても、
竹箒[#ルビの「たかばうき」はママ]を
押取つて
戰はねば
成らない
處を、
恁う
云ふ
時は
敵手が
逃げてくれるに
限る。
「あゝ、
地震だ。」
幽ながら、ハツとして
框まで
飛返つて、
「
大丈夫々々。」
ほつとする。
動悸のまだ
休まらないうちである。
がさり。
二三尺、
今度は
||荒庭の
飛石のやうに、
包んだまゝの
荷がごろ/\して
居る。
奧座敷へ
侵入した。
||此を
思ふと、いつもの
天井を
荒
るのなどは、ものの
數ではない。
既に
古人も
言つた
||物之最小而可憎者、
蠅與鼠である。
蠅以癡。鼠以黠。其害物則鼠過於蠅。
其擾人則蠅過於鼠······しかも
驅蠅難於驅鼠。
||鼠を
防ぐことは、
虎を
防ぐよりも
難い
······と
言ふのである。
同感だ。
||が、
滿更然うでもない。
大家高堂、
手が
屆かず、
從つて
鼠も
多ければだけれども、
小さな
借家で、
壁の
穴に
氣をつけて、
障子の
切り
張りさへして
置けば、
化けるほどでない
鼠なら、むざとは
入らぬ。
いつもは、
氣をつけて
居るのだから、
臺所、もの
置は
荒しても、めつたに
疊は
踏ませないのに、
大地震の
一搖れで、
家中、
穴だらけ、
隙間だらけで、
我家の
二階でさへ、
壁土と
塵埃と
煤と、
襖障子の
骨だらけな、
大きなものを
背負つて
居るやうな
場合だつたから
堪らない。
「
勝手にしろ。
||また
地震だ。
······鼠なんか
構つちや
居られない。」
あくる
日、
晩飯の
支度前に、
臺所から
女中部屋を
掛けて、
女たちが
頻に
立迷つて、ものを
搜す。
||君子は
庖廚の
事になんぞ、
關しないで
居たが、
段々茶の
間に
成り、
座敷に
及んで、
棚、
小棚を
掻きまはし、
抽斗をがたつかせる。
棄てても
置かれず、
何うしたと
聞くと、「どうも
變なんですよ。」と
不思議がつて、わるく
眞面目な
顏をする。ハテナ、
小倉の
色紙や、
鷹の
一軸は
先祖からない
内だ。うせものがした
處で、そんなに
騷ぐには
當るまいと
思つた。が、さて
聞くと、いや
何うして
······色紙や
一軸どころではない。
||大切な
晩飯の
菜がない。
車麩が
紛失して
居る。
皆さんは、
御存じであらうか
······此品を。
······あなた
方が、
女中さんに
御祝儀を
出してめしあがる
場所などには、
決してあるものではない。かさ/\と
乾いて、
渦に
成つて、
稱ぶ
如く
眞中に
穴のあいた、こゝを
一寸束にして
結へてある
······瓦煎餅の
氣の
拔けたやうなものである。
粗と
水に
漬けて、ぐいと
絞つて、
醤油で
掻
せば
直ぐに
食べられる。
······私たち
小學校へ
通ふ
時分に、
辨當の
菜が、よく
此だつた。
「
今日のお
菜は?」
「
車麩。」
と、からかふやうに
親たちに
言はれると、ぷつとふくれて、がつかりして、そしてべそを
掻いたものである。
其癖、
學校で、おの/\を
覗きつくらをする
時は「
蛇の
目の
紋だい、
清正だ。」と
言つて、
負をしみに
威張つた、
勿論、
結構なものではない。
紅葉先生の
説によると、「
金魚麩は
婆の
股の
肉だ。」さうである。
成程似て
居る。
安下宿の
菜に
此の
一品にぶつかると、
「また
婆の
股だぜ。」
「
恐れるなあ。」
で
同人が
嘆息した。
||今でも
金魚麩の
方は
辟易する
······が、
地震の
四日五日めぐらゐ
迄は、
此の
金魚麩さへ
乾物屋で
賣切れた。また「
泉の
干瓢鍋か。
車麩か。」と
言つて
友だちは
嘲笑する。けれども、
淡泊で、
無難で、
第一儉約で、
君子の
食ふものだ、
私は
好だ。が
言ふまでもなく、それどころか、
椎茸も
湯皮もない。
金魚麩さへないものを、
些とは
増な、
車麩は
猶更であつた。
······すでに、
二日の
日の
午後、
火と
煙を
三方に
見ながら、
秋の
暑さは
炎天より
意地が
惡く、
加ふるに
砂煙の
濛々とした
大地に
茣蓙一枚の
立退所から、
軍のやうな
人ごみを、
拔けつ、
潛りつ、
四谷の
通りへ
食料を
探しに
出て、
煮染屋を
見つけて、
崩れた
瓦、
壁泥の
堆いのを
踏んで
飛込んだが、
心あての
昆布の
佃煮は
影もない。
鯊を
見着けたが、
買はうと
思ふと、いつもは
小清潔な
店なんだのに、
其の
硝子蓋の
中は、と
見るとギヨツとした。
眞黒に
煮られた
鯊の、
化けて
頭の
飛ぶやうな、
一杯に
跳上り
飛
る
蠅であつた。あをく
光る
奴も、パツ/\と
相まじはる。
咽喉どころか、
手も
出ない。
蠅も
蛆も、とは、まさか
言ひはしなかつたけれども、
此の
場合······きれい
汚いなんぞ
勿體ないと、
立のき
場所の
周圍から
説が
出て、
使が
代つて、もう
一度、その
佃煮に
駈けつけた
時は
······先刻に
見着けた
少しばかりの
罐詰も、それも
此も
賣切れて
何にもなかつた。
||第一、もう
店を
閉して、
町中寂然として、ひし/\と
中に
荷をしめる
音がひしめいて
聞えて、
鎖した
戸には
炎の
影が
暮れせまる
雲とともに
血をそゝぐやうに
映つたと
言ふのであつた。
繰返すやうだが、それが
二日で、
三日の
午すぎ、
大雨に
弱り
果てて、まだ
不安ながら、
破家へ
引返してから、
薄い
味噌汁に
蘇生るやうな
味を
覺えたばかりで、
罐づめの
海苔と
梅干のほか
何にもない。
不足を
言へた
義理ではないが
······言つた
通り
干瓢も
湯皮も
見當らぬ。ふと
中六の
通りの
南外堂と
言ふ
菓子屋の
店の、この
處、
砂糖氣もしめり
氣も
鹽氣もない、からりとして、たゞ
箱道具の
亂れた
天井に、つゝみ
紙の
絲を
手繰つて、くる/\と

りさうに、
右の
車麩のあるのを
見つけて、おかみさんと
馴染だから、
家内が
頼んで、
一かゞり
無理に
讓つて
貰つたので
||少々おかゝを
驕つて
煮た。
肴にも
菜にも、なか/\
此の
味は
忘れられない。
||此の
日も、
晩飯の
樂みにして
居たのであるから。
······私は
實は、すき
腹へ
餘程こたへた。
あの、
昨夜の(がさり)が
其れだ。
「
鼠だよ、
畜生め。」
それにしても、
半分煮たあとが、
輪にして
雜と
一斤入の
茶の
罐ほどの
嵩があつたのに、
何處を
探しても、
一片もないどころか、
果は
踏臺を
持つて
來て、
押入の
隅を
覗き、
縁の
天井うらにつんだ
古傘の
中まで
掻きさがしたが、
缺らもなく、
粉も
見えない。
「
不思議だわね。
變だ。
鼠ならそれまでだけれど
······」
可厭な
顏をして、
女たちは、
果は
氣味を
惡がつた。
||尤も
引續いた
可恐さから、
些と
上ずつては
居るのだけれど、
鼠も
妖に
近いのでないと、
恁う
吹消したやうには
引けさうもないと
言ふので、
薄氣味を
惡がるのである。
「
何うかして
居るんぢやないか
知ら。」
追つては、
置場所を
忘れたにしても、
餘りな
忘れ
方だからと、
女たちは
我と
我身をさへ
覺束ながつて
氣を
打つのである。
且つあやかしにでも、
憑かれたやうな
暗い
顏をする。
その
目の
色のたゞならないのを
見て、
私も
心細く
寂しかつた。
いかに、
天變の
際と
雖も、
麩に
羽が
生えて
飛ぶ
道理がない。
畜生、
鼠の
所業に
相違あるまい。
この
時の
鼠の
憎さは、
近頃、
片腹痛く、
苦笑をさせられる、あの
流言蜚語とかを
逞しうして、
女小兒を
脅かす
輩の
憎さとおなじであつた。
······ ······たとへば、
地震から、
水道が
斷水したので、
此邊、
幸ひに
四五箇所殘つた、むかしの
所謂、
番町の
井戸へ、
家毎から
水を
貰ひに
群をなして
行く。
······忽ち
女には
汲ませないと
言ふ
邸が
出來た。
毒を
何うとかと
言觸らしたがためである。
其の
時の
事で。
······近所の
或邸へ
······此の
界隈を
大分離れた
遠方から
水を
貰ひに
來たものがある。
來たものの
顏を
知らない。
不安の
折だし、
御不自由まことにお
氣の
毒で
申し
兼ねるが、
近所へ
分けるだけでも
水が
足りない。
外町の
方へは、と
言つて
其の
某邸で
斷つた。
||あくる
朝、
命の
水を
汲まうとすると、
釣瓶に
一杯、
汚い
獸の
毛が
浮いて
上る
······三毛猫の
死骸が
投込んであつた。その
斷られたものの
口惜まぎれの
惡戲だらうと
言ふのである。
||朝の
事で。
······ すぐ
其の
晩、
辻の
夜番で、
私に
恁う
言つて、
身ぶるひをした
若い
人がある。
本所から
辛うじて
火を
免れて
避難をして
居る
人だつた。
「
此の
近所では、
三人死にましたさうですね、
毒の
入つた
井戸水を
飮んで
······大變な
事に
成りましたなあ。」
いや
何うして、
生れかゝつた
嬰兒はあるかも
知らんが、
死んだらしいのは
一人もない。
「
飛でもない
||誰にお
聞きに
成りました。」
「ぢき、
横町の
······何の、
車夫に
||」
もう
其の
翌日、
本郷から
見舞に
來てくれた
友だちが
知つて
居た。
「やられたさうだね、
井戸の
水で。
······何うも
私たちの
方も
大警戒だ。」
實の
處は、
單に
其の
猫の
死體と
云ふのさへ、
自分で
見たものはなかつたのである。
天明六、
丙午年は、
不思議に
元日も
丙午で
此の
年、
皆虧の
蝕があつた。
春よりして、
流言妖語、
壯に
行はれ、
十月の
十二日には、
忽ち、
兩水道に
毒ありと
流傳し、
市中の
騷動言ふべからず、
諸人水に
騷ぐこと、
火に
騷ぐが
如し。
||と
此の
趣が
京山の(
蜘蛛の
絲卷)に
見える。
······諸葛武侯、
淮陰侯にあらざるものの、
流言の
智慧は、いつも
此のくらゐの
處らしい。
しかし
五月蠅いよ。
鐵の
棒の
杖をガンといつて、
尻まくりの
逞しい
一分刈の
凸頭が「
麹町六丁目が
燒とるで!
今ぱつと
火を
吹いた
處だ、うむ。」と
炎天に、
赤黒い、
油ぎつた
顏をして、
目をきよろりと、
肩をゆがめて、でくりと
通る。
一晩内へ
入つて
寢たばかりだ。
皆ワツと
言つて
駈出した。
「お
急きなさるな、
急くまい。
······いま
火元を
見て
進ぜる。」
と
町内第一の
古老で、
紺と
白の
浴衣を
二枚重ねた
禪門。
豫て
禪機を
得た
居士だと
言ふが、
悟を
開いても
迷つても、
南が
吹いて
近火では
堪らない。
暑いから
胸をはだけて、
尻端折りで、すた/\と
出向はれた。かへりには、ほこりの
酷さに、すつとこ
被をして
居られたが、
「
何の
事ぢや、おほゝ、
成程、
燒けとる。
※[#「火+發」、U+243CB、268-12]と
火の
上つた
處ぢやが、
燒原に
立つとる
土藏ぢやて。あのまゝ
駈
つても
近まはりに
最う
燒けるものは
何にもないての。おほゝ。
安心々々。」
それでも、
誰もが、
此の
御老體に
救はれた
如くに
感じて、
盡く
前者の
暴言を
怨んだ。
||處で、その
鐵棒をついた
凸がと
言ふと、
右禪門の
一家、
······どころか、
忰なのだからおもしろい。
文政十二年三月二十一日、
早朝より、
乾の
風烈しくて、
盛の
櫻を
吹き
亂し、
花片とともに
砂石を
飛ばした。
······巳刻半、
神田佐久間町河岸の
材木納屋から
火を
發して、
廣さ
十一里三十二町半を
燒き、
幾千の
人を
殺した、
橋の
燒けた
事も、
船の
燒けた
事も、
今度の
火災によく
似て
居る。
材木町の
陶器屋の
婦、
嬰兒を
懷に、
六歳になる
女兒の
手を
曳いて、
凄い
群集のなかを
逃れたが、
大川端へ
出て、うれしやと
吻と
呼吸をついて、
心づくと、
人ごみに
揉立てられたために、
手を
曳いた
兒は、
身なしに
腕一つだけ
殘つた。
女房は、
駭きかなしみ、
哀歎のあまり、
嬰兒と
其の
腕ひとつ
抱きしめたまゝ、
水に
投じたと
言ふ。
悲慘なのもあれば、
船に
逃れた
御殿女中が、
三十幾人、
帆柱の
尖から
焚けて、
振袖も
褄も、
炎とともに
三百石積を
駈けまはりながら、
水に
紅く
散つたと
言ふ
凄慘なのもある。その
他、
殆ど
今度とおなじやうなのが
幾らもある。
中には
其のまゝらしいのさへ
少くない。
餘事だけれど、
其の
大火に
||茅場町の
髮結床に
平五郎と
言ふ
床屋があつて、
人は
皆彼を(
床平)と
呼んだ。
||此が
燒けた。
||時に
其の
頃、
奧州の
得平と
言ふのが、
膏藥の
呼賣をして
歩行いて
行はれた。
(
奧州、
仙臺、
岩沼の、
得平が
膏藥は、
あれや、これやに、
利かなんだ。
皹なんどにや、よく
利いた。)
そこで
床平が、
自分で
燒あとへ
貼出したのは
||(
何うしよう、
身代、
今の
間に、
床平が
恁う
燒けた。
水や、
火消ぢや
消えなんだ。
曉方なんどにや、やつと
消えた。)
行つたな、
親方。お
救米を
噛みながら、
江戸兒の
意氣思ふべしである。
此のおなじ
火事に、
靈岸島は、かたりぐさにするのも
痛々しく
憚られるが、あはれ、
今度の
被服廠あとで、
男女の
死體が
伏重なつた。こゝへ
立つたお
救小屋へ、やみの
夜は、わあツと
言ふ
泣聲、たすけて
||と
言ふ
悲鳴が、
地の
底からきこえて、
幽靈が
顯はれる。
しきりもない
小屋内が、
然らぬだに、おびえる
處、
一齊に
突伏す
騷ぎ。やゝ
氣の
確なのが、それでも
僅に
見留めると、
黒髮を
亂した、
若い
女の、
白い
姿で。
······見るまに
影になつて、フツと
消える。
その
混亂のあとには、
持出した
家財金目のものが
少からず
紛失した。
娯樂ものの
講談に、
近頃大立ものの、
岡引が、つけて、
張つて、
見さだめて、
御用と、
捕ると、
其の
幽靈は
······女い
女とは
見たものの
慾目だ。
實は
六十幾歳の
婆々で、かもじを
亂し、
白ぬのを
裸身に
卷いた。
||背中に、
引剥がした
黒塀の
板を
一枚背負つて
居る。それ、トくるりと
背後を
向きさへすれば、
立處に
暗夜の
人目に
消えたのである。
私は、
安直な
卷莨を
吹かしながら、
夜番の
相番と、おなじ
夜の
彌次たちに
此の
話をした。
三日とも
經たないに
······「やあ、えらい
事に
成りました。
······柳原の
燒あとへ、
何うです。
······夜鷹より
先に
幽靈が
出ます。
······若い
女の
眞白なんで。
||自警隊の
一豪傑がつかまへて
見ると、それが
婆だ。かつらをかぶつて、
黒板······」
と、
黄昏の
出會頭に、
黒板塀の
書割の
前で、
立話に
話しかけたが、こゝまで
饒舌ると、
私の
顏を
見て、
變な
顏色をして、
「やあ、」
と
言つて、
怒つたやうに、
黒板塀に
外れてかくれた。
實は、
私は、
此の
人に
話したのであつた。
こんなのは、しかし
憎氣はない。
再び
幾日の
何時ごろに、
第一震以上の
搖かへしが
來る、その
時は
大海嘯がともなふと、
何處かの
豫言者が
話したとか。
何の
祠の
巫女は、
燒のこつた
町家が、
火に
成つたまゝ、あとからあとからスケートのやうに
駈
る
夢を
見たなぞと、
聲を
密め、
小鼻を
動かし、
眉毛をびりゝと
舌なめずりをして
言ふのがある。
段々寒さに
向ふから、
火のついた
家のスケートとは
考へた。
······ 女小兒はそのたびに
青く
成る。
やつと
二歳に
成る
嬰兒だが、だゞを
捏ねて
言ふ
事を
肯かないと、それ
地震が
來るぞと
親たちが
怯すと、
「おんもへ、ねんね、いやよう。」
と、ひい/\
泣いて、しがみついて、
小さく
成る。
近所には、
六歳かに
成る
男の
兒で、
恐怖の
餘り
氣が
狂つて、
八疊二間を、
縱とも
言はず
横とも
言はず、くる/\
駈
つて
留まらないのがあると
聞いた。
スケートが、
何うしたんだ。
我聞く。
||魏の
正始の
時、
中山の
周南は、
襄邑の
長たりき。
一日戸を
出づるに、
門の
石垣の
隙間から、
大鼠がちよろりと
出て、
周南に
向つて
立つた。
此奴が
角巾、
帛衣して
居たと
言ふ。
一寸、
靴の
先へ
團栗の
實が
落ちたやうな
形らしい。
但しその
風
は
地仙の
格、
豫言者の
概があつた。
小狡しき
目で、じろりと
視て、
「お、お、
周南よ、
汝、
某の
月の
某の
日を
以て
當に
死ぬべきぞ。」
と
言つた。
したゝかな
妖である。
處が
中山の
大人物は、
天井がガタリと
言つても、わツと
飛出すやうな、やにツこいのとは、
口惜しいが
鍛錬が
違ふ。
「あゝ、
然やうか。」
と
言つて、
知らん
顏をして
澄まして
居た。
······言は
些となまぬるいやうだけれど、そこが
悠揚として
迫らざる
處である。
鼠還穴。
その
某月の
半ばに、
今度は、
鼠が
周南の
室へ
顯はれた。もの/\しく
一揖して、
「お、お、
周南よ。
汝、
月の
幾日にして
當に
死ぬべきぞ。」
と
言つた。
「あゝ、
然やうか。」
鼠が
柱に
隱れた。やがて、
呪へる
日の、
其の
七日前に、
傲然と
出て
來た。
「お、お、
周南よ。
汝旬日にして
當に
死ぬべきぞ。」
「あゝ、
然やうか。」
丁度七日めの
朝は、
鼠が
急いで
出た。
「お、お、
周南よ。
汝、
今日の
中に、
當に
死ぬべきぞ。」
「あゝ、
然やうか。」
鼠が
慌てたやうに、あせり
氣味にちか
寄つた。
「お、お、
周南、
汝、
日中、
午にして
當に
死ぬべきぞ。」
「あゝ、
然やうか。」
其の
日、
同じ
處に
自若として
一人居ると、
當にその
午ならんとして、
鼠が、
幾度か
出たり
入つたりした。
やがて
立つて、
目を
尖らし、しやがれ
聲して、
「
周南、
汝、
死なん。」
「あゝ、
然やうか。」
「
周南、
周南、いま
死ぬぞ。」
「
然やうか。」
と
言つた。が、
些とも
死なない。
「
弱つた
······遣切れない。」
と
言ふと
齊しく、ひつくり
返つて、
其の
鼠がころつと
死んだ。
同時に、
巾と
帛が
消えて
散つた。
魏の
襄邑の
長、その
時思入があつて、じつと
見ると、
常の
貧弱な
鼠のみ。
周南壽。と
言ふのである。
流言の
蠅、
蜚語の
鼠、そこらの
豫言者に
對するには、
周南先生の
流儀に
限る。
事あつて
後にして、
前兆を
語るのは、
六日の
菖蒲だけれども、そこに、あきらめがあり、
一種のなつかしみがあり、
深切がある。あはれさ、はかなさの
情を
含む。
潮のさゝない
中川筋へ、
夥しい
鯔が
上つたと
言ふ。
······横濱では、
町の
小溝で
鰯が
掬へたと
聞く。
······嘗て
佃から、「
蟹や、
大蟹やあ」で
來る、
聲は
若いが、もういゝ
加減な
爺さんの
言ふのに、
小兒の
時分にやあ
兩國下で
鰯がとれたと
話した、
私は
地震の
當日、ふるへながら、「あゝ、こんな
時には、
兩國下へ
鰯が
來はしないかな。」と、
愚にもつかないが、
事實そんな
事を
思つた。
あの、
磐梯山が
噴火して、
一部の
山廓をそのまゝ
湖の
底にした。
······その
前日、おなじ
山の
温泉の
背戸に、
物干棹に
掛けた
浴衣の、
日盛にひつそりとして
垂れたのが、しみ
入る
蝉の
聲ばかり、
微風もないのに、
裙を
飜して、
上下にスツ/\と
煽つたのを、
生命の
助かつたものが
見たと
言ふ。
||はもの
凄い。
恁うした
事は、
聞けば
幾らもあらうと
思ふ。さきの
思出、のちのたよりに
成るべきである。
處で、
私たちの
町の
中央を
挾んで、
大銀杏が
一樹と、それから、ぽぷらの
大木が
一幹ある。
見た
處、
丈も、
枝のかこみもおなじくらゐで、はじめは
對の
銀杏かと
思つた。
||此のぽぷらは、
七八年前の、あの
凄じい
暴風雨の
時、われ/\を
驚かした。
夜があけると
忽ち
見えなく
成つた。が、
屋根の
上を
消えたので、
實は
幹の
半ばから
折れたのであつた。のびるのが
早い。
今では
再び、もとの
通り
梢も
高し、
茂つて
居る。
其の
暴風雨の
前、
二三年引續いて、
兩方の
樹へ
無數の
椋鳥が
群れて
來た。
塒に
枝を
爭つて、
揉拔れて、
一羽バタリと
落ちて
目を
眩したのを、
水をのませていきかへらせて、そして
放した
人があつたのを
覺えて
居る。
見事に
群れて
來た。
以前、
何かに
私が、「
田舍から、はじめて
新橋へ
着いた
椋鳥が
一羽。」とか
書いたのを、
紅葉先生が
見て
笑ひなすつた
事がある。「
違ふよ、お
前、
椋鳥と
言ふのは
群れて
來るからなんだよ。
一羽ぢやいけない。」
成程むれて
來るものだと
思つた。
暴風雨の
年から、ばつたり
來なく
成つた。それが、
今年、しかもあの
大地震の
前の
日の
暮方に、
空を
波のやうに
群れて
渡りついた。ぽぷらの
樹に、どつと
留まると、それからの
喧噪と
言ふものは、
||チチツ、チチツと
百羽二百羽一度に
聲を
立て、バツと
梢へ
飛上ると、また
颯と
枝につく。
揉むわ
搖るわ。
漸つと
梢が
靜まつたと
思ふと、チチツ、チチツと
鳴き
立てて
又パツと
枝を
飛上る。
曉方まで
止む
間がなかつた。
今年は
非常な
暑さだつた。また
東京らしくない、しめり
氣を
帶びた
可厭な
蒸暑さで、
息苦しくして、
寢られぬ
晩が
幾夜も
續いた。おなじく
其の
夜も
暑かつた。
一時頃まで、
皆戸外へ
出て
涼んで
居て、
何と
言ふ
騷ぎ
方だらう、
何故あゝだらう、
烏や
梟に
驚かされるたつて、のべつに
騷ぐ
譯はない。
塒が
足りない
喧嘩なら、
銀杏の
方へ、いくらか
分れたら
可ささうなものだ。
||然うだ、ぽぷらの
樹ばかりで
騷ぐ。
······銀杏は
星空に
森然として
居た。
これは、
大袈裟でない、
誰も
知つて
居る。
寢られないほど、ひつきりなしに、けたゝましく
鳴立てたのである。
朝はひつそりした。が、
今度は
人間の
方が
聲を
揚げた。「やあ、
荒もの
屋の
婆さん。
······何うでえ、
昨夜の、あの
椋鳥の
畜生の
騷ぎ
方は
||ぎやあ/\、きい/\、ばた/\、ざツ/\、
騷々しくつて、
騷々しくつて。
······俺等晝間疲れて
居るのに、からつきし
寢られやしねえ。もの
干棹の
長い
奴を
持出して、
掻
して、
引拂かうと
思つても、
二本繼いでも
屆くもんぢやねえぢやあねえか。
樹が
高くつてよ。なあ
婆さん、
椋鳥の
畜生、ひどい
目に
逢はしやがるぢやあねえか。」と
大聲で
喚いて
居るのがよく
聞えた。まだ、
私たち
朝飯の
前であつた。
此が
納まると、
一時たゝきつけて、
樹も
屋根も
掻みだすやうな
風雨に
成つた。
驟雨だから、
東京中には
降らぬ
處もあつたらしい。
息を
吐くやうに、
一度止んで、しばらくぴつたと
靜まつたと
思ふと、
絲を
搖つたやうに
幽に
來たのが、
忽ち、あの
大地震であつた。
「
前兆だつたぜ
||俺あ
確に
前兆だつたと
思ふんだがね。あの
前の
晩から
曉方までの
椋鳥の
騷ぎやうと
言つたら、なあ、
婆さん。
······ぎやあ/\ぎやあ/\
夜一夜だ。
||お
前さん。
······なあ、
婆さん、
荒もの
屋の
婆さん、なあ、
婆さん。」
氣の
毒らしい。
······一々、そのぽぷらに
間近く
平屋のある、
荒もの
屋の
婆さんを、
辻の
番小屋から
呼び
出すのは。
||こゝで
分つた
||植木屋の
親方だ。へゞれけに
醉拂つて、
向顱卷で、
鍬の
拔けた
柄の
奴を、
夜警の
得ものに
突張りながら、
「なあ、
婆さん。
||荒もの
屋の
婆さんが、
知つてるんだ。
椋鳥の
畜生、もの
干棹で
引掻き

いてくれようと、
幾度飛出したか
分らねえ。
樹が
高えから
屆かねえぢやありませんかい。
然うだらう、
然うだとも。
||なあ、
婆さん、
荒もの
屋の
婆さん、なあ、
婆さん。」
ふり

す
鍬の
柄をよけながら、いや、お
婆さんばかりぢやありません、
皆が
知つてるよ、と
言つても
醉つてるから
承知をしない。「なあ、
婆さん、
椋鳥のあの
騷ぎ
方は。」
||と
毎晩のやうに
怒鳴つたものである。
······話が
騷々しい。
······些と
靜にしよう。それでなくてさへのぼせて
不可い。あゝ、しかし
陰氣に
成ると
氣が
滅入る。
がさり。
また
鼠だ、
奸黠なる
鼠の
豫言者よ、
小畜よ。
さて、
車麩の
行方は、やがて
知れた。
魔が
奪つたのでも
何でもない。
地震騷ぎのがらくただの、
風呂敷包を、ごつたにしたゝか
積重ねた
床の
間の
奧の
隅の
方に
引込んであつたのを
後に
見つけた。
畜生。
水道が
出て、
電燈がついて、
豆府屋が
來るから、もう
氣が
強いぞ。
······齒がたの
着いた、そんなものは、
掃溜へ
打棄つた。
がさり。がら/\/\。
あの、
通りだ。さすがに、
疊の
上へは
近づけないやうに
防ぐが、
天井裏から、
臺所、
鼠の
殖えたことは
一通りでない。
近所で、
小さな
兒が、おもちやに
小庭にこしらへた、
箱庭のやうな
築山がある。
||其處へ、
午後二時ごろ、
眞日中とも
言はず、
毎日のやうに、おなじ
時間に、
縁の
下から、のそ/\と
······出たな、
豫言者。
······灰色で
毛の
禿げた
古鼠が、
八九疋の
小鼠をちよろ/\と
連れて
出て、
日比谷を
一散歩と
言つた
面で、
桶の
輪ぐらゐに、ぐるりと
一巡二三度して、すまして
又縁の
下へ
入つて
行く。
「
氣味が
惡くて
手がつけられません。」
「
地震以來、ひとを
馬鹿にして
居るんですな。」
と、その
親たちが
話して
居た。
「
······車麩だつてさ
······持つて
來たよ。あの、
坊のお
庭へ。
||山のね、
山のまはりを
引張るの。
······車の
眞似だか、あの、オートバイだか、
電車の
眞似だか、ガツタン、ガツタン、がう
······」
と、その
七つに
成る
兒が、いたいけにまた
話した。
私も
何だか、
薄氣味の
惡い
思ひがした。
蠅の
湧いたことは
言ふまでもなからう。
鼠がそんなに
跋扈しては、
夜寒の
破襖を
何うしよう。
野鼠を
退治るものは
狸と
聞く。
······本所、
麻布に
續いては、この
邊が
場所だつたと
言ふのに、あゝ、その
狸の
影もない。いや、
何より、こんな
時の
猫だが、
飼猫なんどは、
此の
頃人間とともに
臆病で、
猫が(ねこ)に
成つて、ぼやけて
居る。
時なるかな。
天の
配劑は
妙である。
如何に
流言に
憑いた
鼠でも、オートバイなどで
人もなげに
駈
られては
堪らないと
思ふと、どしん、どしん、がら/\がらと
天井を
追つかけ

し、
溝の
中で
取つて
倒し、
組んで
噛みふせる
勇者が
顯はれた。
渠は
鼬である。
然まで
古い
事でもない。いまの
院線がまだ
通じない
時分には、
土手の
茶畑で、
狸が、
ばつたを
壓へたと
言ふ、
番町邊に、いつでも
居さうな
蛇と
鼬を、つひぞ
見た
事がなかつたが。
······それが、
溝を
走り、
床下を
拔けて、しば/\
人目につくやうに
成つたのは、
去年七月······番町學校が
一燒けに
燒けた
前後からである。あの、
時代のついた
大建ものの
隨處に
巣つたのが、
火のために
散つたか、
或は
火を
避けて
界隈へ
逃げたのであらう。
不斷は、あまり
評判のよくない
獸で、
肩車で
二十疋、
三十疋、
狼立に
突立つて、それが
火柱に
成るの、
三聲續けて、きち/\となくと
火に
祟るの、
道を
切ると
惡いのと
言ふ。
······よく
年よりが
言つて
聞かせた。
||飜つて
思ふに、
自から
忌み
憚るやうに、
人の
手から
遠ざけて、
渠等を
保護する、
心あつた
古人の
苦肉の
計であらうも
知れない。
一體が、
一寸手先で、
障子の
破穴の
樣な
顏を
撫でる、
額の
白い
洒落もので。
······ 越前國大野郡の
山家の
村の
事である。
春、
小正月の
夜、
若いものは、
家中みな
遊びに
出た。
爺さまも
飮みに
行く。うき
世を
濟ました
媼さんが
一人、
爐端に
留守をして、
暗い
灯で、
絲車をぶう/\と、
藁屋の
雪が、ひらがなで
音信れたやうな
昔を
思つて、
絲を
繰つて
居ると、
納戸の
障子の
破れから、すき
漏る
風とともに、すつと
茶色に
飛込んだものがある。
白面黄毛の
不良青年。
見紛ふべくもない
鼬で。
木尻座の
筵に、ゆたかに、
角のある
小判形にこしらへて
積んであつた
餅を、
一枚、もろ
手、
前脚で
抱込むと、ひよいと
飜して、
頭に
乘せて、
一つ
輕く
蜿つて、
伸びざまにもとの
障子の
穴へ
消える。
消えるかと
思ふと、
忽ち
出て
來て、
默つて
又餅を
頂いて、すつと
引込む。「おゝ/\
惡い
奴がの
······そこが
畜生の
淺ましさぢや、
澤山然うせいよ。
手を
伸ばいて
障子を
開ければ、すぐに
人間に
戻るぞの。」と、
媼さんは、つれ/″\の
夜伽にする
氣で、
巧な、その
餅の
運び
方を、ほくそ
笑をしながら
見て
居た。
若いものが
歸ると、
此の
話をして、
畜生の
智慧を
笑ふ
筈が、
豈計らんや、ベソを
掻いた。
餅は
一切もなかつたのである。
程たつて、
裏山の
小山を
一つ
越した
谷間の
巖の
穴に、
堆く、その
餅が
蓄へてあつた。
鼬は
一つでない。
爐端の
餅を
頂くあとへ、
手を
揃へ、
頭をならべて、
幾百か
列をなしたのが、
一息に、
山一つ
運んだのであると
言ふ。
洒落れたもので。
······内に
二三年遊んで
居た、
書生さんの
質實な
口から、
然も
實驗談を
聞かされたのである。が、
聊か
巧に
過ぎると
思つた。
後に、
春陽堂の
主人に
聞いた。
||和田さんがまだ
學校がよひをして、
本郷彌生町の、ある
下宿に
居た
時、
初夏の
夕、
不忍の
蓮も
思はず、
然りとて
數寄屋町の
婀娜も
思はず、
下階の
部屋の
小窓に
頬杖をついて
居ると、
目の
前の
庭で、
牡鷄がけたゝましく、
鳴きながら、
羽を
煽つて、ばた/\と
二三尺飛上る。
飛上つては
引据ゑらるゝやうに、けたゝましく
鳴いて
落ちて、また
飛上る。
講釋師の
言ふ、
槍のつかひてに
呪はれたやうだがと、ふと
見ると、
赤煉蛇であらう、たそがれに
薄赤い、
凡そ
一間、
六尺に
餘る
長蟲が、
崖に
沿つた
納屋に
尾をかくして、
鎌首が
鷄に
迫る、あます
處四五寸のみ。
和田さんは
蛇を
恐れない。
遣り
放しの
書生さんの
部屋だから、
直ぐにあつた。
||杖を
取るや
否や、
畜生と
言つて、
窓を
飛下ると、
何うだらう、たゝきもひしぎもしないうちに、
其の
蛇が、ぱツと
寸々に
斷れて
十あまりに
裂けて、
蜿々と
散つて
蠢いた。これには
思はず
度肝を
拔かれて
腰を
落したさうである。
が、
蛇ではない。
這つて
肩車した、
鼬の
長い
列が
亂れたのであつた。
大野の
話も
頷かれて、そのはたらきも
察しらるゝ。
かの、(リノキ、チツキテビー)よ。わが
鼬將軍よ。いたづらに
鳥など
構ふな。
毒蛇を
咬倒したあとは、
希くは
鼠を
獵れ。
蠅では
役不足であらうも
知れない。きみは
獸中の
隼である。
······大正十二年十一月