「はゝあ、
此の
堂がある
所爲で==
陰陽界==などと
石碑にほりつけたんだな。
人を
驚かしやがつて、
惡い
洒落だ。」
と
野中の
古廟に
入つて、
一休みしながら、
苦笑をして、
寂しさうに
獨言を
云つたのは、
昔、
四川
都縣の
御城代家老の
手紙を
持つて、
遙々燕州の
殿樣へ
使をする、
一刀さした
威勢の
可いお
飛脚で。
途次、
彼の
世に
聞えた
鬼門關を
過ぎようとして、
不案内の
道に
踏迷つて、
漸と
辿着いたのが
此の
古廟で、べろんと
額の
禿げた
大王が、
正面に
口を
赫と
開けてござる、うら
枯れ
野に
唯一つ、
閻魔堂の
心細さ。
「
第一場所が
惡いや、
鬼門關でおいでなさる、
串戲ぢやねえ。
怪しからず
霧が
掛つて
方角が
分らねえ。
石碑を
力だ==
右に
行けば
燕州の
道==とでもしてあるだらうと
思つて
見りや、
陰陽界==は
氣障だ。
思出しても
悚然とすら。」
飛脚は
大波に
漾ふ
如く、
鬼門關で
泳がされて、
辛くも
燈明臺を
認めた
一基、
路端の
古い
石碑。
其さへ
苔に
埋れたのを、
燈心を
掻立てる
意氣組で、
引
るやうに
拂落して、
南か
北か
方角を
讀むつもりが、ぶる/\と
十本の
指を
震はして、
威かし
附けるやうな
字で、
曰く==
陰陽界==とあつたので、
一竦みに
縮んで、
娑婆へ
逃出すばかりに
夢中で
此處まで
駈けたのであつた。が、
此處で
成程と
思つた。
石碑の
面の
意を
解するには、
堂に
閻魔のござるが、
女體よりも
頼母しい。
「
可厭に
大袈裟に
顯はしたぢやねえか==
陰陽界==なんのつて。これぢや
遊廓の
大門に==
色慾界==とかゝざあなるめえ。」
と、
大分娑婆に
成る。
「だが、
恁う
拜んだ
處はよ、
閻魔樣の
顏と
云ふものは、
盆の
十六日に
小遣錢を
持つてお
目に
掛つた
時の
外は、
餘り
喝采とは
行かねえもんだ。
······どれ、
急がうか。」
で、
兩つ
提へ
煙管を
突込み、
「へい、
殿樣へ、
御免なせいまし。」と
尻からげの
緊つた
脚絆。もろに
揃へて
腰を
屈めて
揉手をしながら、ふと
見ると、
大王の
左右の
御傍立。
一つは
朽ちたか、
壞れたか、
大破の
古廟に
形も
留めず。
右に
一體、
牛頭、
馬頭の、あの、
誰方も
御存じの
||誰が
御存じなものですか
||牛頭の
鬼の
像があつたが、
砂埃に
塗れた
上へ、
顏を
半分、べたりとしやぼんを
流したやうに、したゝかな
蜘蛛の
巣であつた。
「
坊主は
居ねえか、
無住だな。
甚く
荒果てたもんぢやねえか。
蜘蛛の
奴めも、
殿樣の
方には
遠慮したと
見えて、
御家來の
顏へ

を
掛けやがつた。なあ、これ、
御家來と
云へば
此方人等だ。
其の
又家來又家來と
云ふんだけれど、お
互に
詰りませんや。これぢや、なんぼお
木像でも
鬱陶しからう、お
氣の
毒だ。」
と、
兩袖を
擧げて、はた/\と
拂つて、
颯と
埃を
拭いて
取ると、
芥に
咽せて、クシヤと
圖拔けな
嚏をした。
「ほい。」と
云ふ
時、もう
枯草の
段を
下りて
居る、
嚏に
飛んだ
身輕な
足取。
まだ
方角も
確でない。
旅馴れた
身は
野宿の
覺悟で、
幽に
黒雲の
如き
低い
山が
四方を
包んだ、
灰のやうな
渺茫たる
荒野を
足にまかせて
辿ること
二里ばかり。
前途に、さら/\と
鳴るは
水の
聲。
扨は
流がある。
里もやがて
近からう。
雖然、
野路に
行暮れて、
前に
流れの
音を
聞くほど、うら
寂しいものは
無い。
一つは
村里に
近いたと
思ふまゝに、
里心がついて、
急に
人懷かしさに
堪へないのと、
一つは、
水のために
前途を
絶たれて、
渡るに
橋のない
憂慮はしさとである。
但し
仔細のない
小川であつた。
燒杭を
倒したやうな、
黒焦の
丸木橋も
渡してある。
唯、
其の
橋の
向う
際に、
淺い
岸の
流に
臨んで、
束ね
髮の
襟許白く、
褄端折りした
蹴出しの
薄ら
蒼いのが、
朦朧として
其處に
俯向いて
菜を
洗ふ、と
見た。
其の
菜が
大根の
葉とは
違ふ。
葡萄色に
藍がかつて、づる/\と
蔓に
成つて、
葉は
蓮の
葉に
肖如で、
古沼に
化けもしさうな
大な
蓴菜の
形である。
はて、
何の
菜だ、と
思ひながら、
聲を
掛けようとして、
一つ
咳をすると、
此は
始めて
心着いたらしく、
菜を
洗ふ
其の
婦が
顏を
上げた。
夕間暮なる
眉の
影、
鬢の
毛も
縺れたが、
目鼻立ちも
判明した、
容色のいゝのを
一目見ると、
呀、と
其處へ
飛脚が
尻餅を
搗いたも
道理こそ。
一昨年亡くなつた
女房であつた。
「あら、
丁さん。」
と
婦も
吃驚。
||亭主の
亭と
云ふのではない。
飛脚の
名は
丁隷である。
「まあ、お
前さん、
何うして
此處へ、
飛んだ
事ぢやありませんかねえ。」
人間界ではないものを
······と、
唯た
今、
亭主に
死なれたやうな
聲をして、
優しい
女房は
涙ぐむ。
思ひがけない、
可懷しさに
胸も
迫つたらう。
丁告之以故。
||却説、
一體此處は
何處だ、と
聞くと、
冥土、と
答へて、
私は
亡き
後、
閻魔王の
足輕、
牛頭鬼のために
娶られて、
今は
其の
妻と
成つた、と
告げた。
飛脚は
向う
見ずに、
少々妬けて、
「
畜生め、そして
變なものを
洗ふと
思つた。
汝、そりや
間男の
鬼の
腹卷ぢやねえかい。」
婦は、ぽツと
瞼を
染めながら、
「
馬鹿なことをお
言ひでない。
丁さん、こんなお
前さん、ぺら/\した
······」
「
乾くと
虎の
皮に
代る
奴よ。」
「
可い
加減なことをお
言ひなさいな。
此はね、
嬰兒の
胞胎ですよ。」と
云つた。
十度、これを
洗ひたるものは、
生れし
兒 清秀にして
貴し。
洗ふこと
二三度なるものは、
尋常中位の
人、まるきり
洗濯をしないのは、
昏愚、
穢濁にして、
然も
淫亂だ、と
教へたのである。
「
内職に
洗ふんですわ。」
「
所帶の
苦勞まで
饒舌りやがる、
畜生め。」
とづか/\と
橋を
渡り
掛ける。
「あゝ、
不可い、
其處を。」と
手を
擧げて
留める
間もなく、
足許に、パツと
火が
燃えて、わツと
飛び
移つた
途端に、
丸木橋はぢゆうと
水に
落ちて、
黄色な
煙が
||濛と
湧立つ。
「
何が、
不可え。
何だ
内職の
葉ツ
葉ぐれえ。」
女房は、
飛脚を
留めつゝ
驚く
發奮に、
白い
腕に
掛けた
胞胎を
一條流したのであつた。
「
否、まあ、
流した
方は、お
氣の
毒な
娑婆で
一人流産をしませうけれど、そんな
事よりお
前さん、
橋を
渡らない
前だと、まだ
何うにか、
仕樣も
分別もありましたらうけれど、
氣短に
飛越して
了つてさ。」
「べらぼうめ、
飛越したぐらゐの、ちよろ
川だ、また
飛返るに
仔細はあるめえ。」と、いきつて
見返すと、こはいかに、
忽ち
渺々たる
大河と
成つて、
幾千里なるや
果を
見ず。
飛脚は、ハツと
目が
眩んで、
女房に
縋着いた。
強ひても
拒まず、
極り
惡げに、
「
放して
下さい、
見られると
惡いから。」
「
助けてくれ。」
「まあ、
私何うしたら
可いでせう。
······」
と
色つぽく
氣を
揉んで、
「とに
角、
家へおいでなさいまし。」
「
助けてくれ。」
川の
可恐しさに
氣落がして、
殆ど
腰の
立たない
男を、
女房が
手を
曳いて、
遠くもない、
槐に
似た
樹の
森々と
立つた、
青煉瓦で、
藁葺屋根の、
妙な
住居へ
伴つた。
飛脚が
草鞋を
脱ぐうちに、
女房は
褄をおろした。
まだ
夕飯の
前である。
部屋へ
灯を
點ける
途端に、
入口の
扉をコト/\と
輕く
叩くものがある。
白い
頬へ
口を
寄せつゝ、
極低聲で、
「
誰だい、
誰だい。」
「
内の
人よ。」
「
呀、
鬼か。」
と
怨めしさうに、
女房の
顏をじろり。で、
慌てて
寢臺の
下へ
潛込む。
布で
隱して、
「はい、
唯今。」
扉を
開ける、とスーと
入つた。とゞろ/\と
踏鳴らしもしない、
輕い
靴の
音も、
其の
筈で、ぽかりと
帽子を
脱ぐやうに
角の
生えた
面を
取つて、
一寸壁の
釘へ
掛けた、
顏を
見ると、
何と!
色白な
細面で、
髮を
分けたハイカラな
好男子。
「いや、
何うも、
今日は
閻王の
役所に
檢べものが
立込んで、
甚く
弱つたよ。」
と
腹も
空いたか、げつそりとした
風采。ひよろりとして
飛脚の
頭の
前にある
椅子にぐたりと
腰を
掛けた、が、
細い
身體をぶる/\と
振つた。
「
人臭いぞ、
變だ。
甚く
匂ふ、フン、ハン。」
と
嗅
して、
「これは
生々とした
匂ひだ。
眞個人臭い。」
前刻から、
手を
擧げたり、
下げたり、
胸に
波を
打たして
居た
女房。
爰に
於て
其の
隱し
終すべきにあらざるを
知つて、
衝と
膝を
支いて、
前夫の
飛脚の
手を
取つて
曳出すとともに、
夫の
足許に
跪いて、
哀求す。
曰く、
「
後生でござんす。」
||と
仔細を
語る。
曳出された
飛脚は、
人間が
恁うして、こんな
場合に
擡げると
些しも
異らぬ
面を
擡げて、ト
牛頭と
顏を
見合はせた。
(
家内が。)(
家内が。)と
雙方同音に
云つたが==
毎々お
世話に==と
云ふべき
處を、
同時に
兩方でのみ
込みの
一寸默然。
「
其の
時のよ、
己の
顏も
見たからうが、
牛頭の
顏も、そりや
見せたかつた。」
と、
蘇生つて
年を
經てから、
丁飛脚が、
内證で、
兄弟分に
話したと
傳へられる。
時に
其時、
牛頭は
慇懃に
更めて
挨拶した。
「
貴方、お
手をお
擧げ
下さい。
家内とは
一方ならぬ。」と
云ひかけて
厭な
顏もしないが、
婦と
兩方を
見較べながら、
「
御懇意の
間と
云ひ、それにです。
貴方は
私のためには
恩人でおいでなさる。
||お
前もお
聞きよ、
私が
毎日出勤するあの
破堂の
中で、
顏は
汗だらけ、
砂埃、
其の
上蜘蛛の
巣で、
目口も
開かない、
可恐く
弱つた
處を、
此のお
方だ、
袖で
綺麗にして
下すつた。
······お
救ひ
申さないでおかるゝものか。」
「
故郷を
離れまして、
皆樣にお
別れ
申してから、ちやうど
三年でございます。
私は
其の
間に、それは/\
······」
と
俯目に
成つて、
家の
活計のために
身を
賣つて、
人買に
連れられて
國を
出たまゝ、
行方の
知れなかつた
娘が、ふと
夢のやうに
歸つて
來て、
死したるものの
蘇つた
如く、
彼の
女を
取卷いた
人々に、
窶れた
姿で
弱々と
語つた。
支那に
人身賣買の
公に
行はれた
時の
事である。
「
······申しやうもござんせん、
淺ましい、
恥かしい、
苦しい、そして
不思議な
目に
逢ひましたのでございます。
國境を
出ましてからは、
私には
東西も
分りません。
長い
道中を、あの
人買に
連れて
行かれましたのでございます。そして
其の
人買の
手から
離れましたのは、
此の
邊からは、
遠いか、
形も
見えません、
高い
山の
裾にある、
田舍のお
醫師の
家でございました。
一晩、
其のお
醫師の
離座敷のやうな
處に
泊められますと、
翌朝、
咽喉へも
通りません
朝御飯が
濟みました。
間もなくでございましたの。
田舍の
事で、
別に
此と
云ふ
垣根もありません。
裏の
田圃を、
山の
裾から、
藜の
杖を
支いて、
畝路づたひに、
私が
心細い
空の
雲を
見て
居ります、
離座敷へ、のそ/\と
入つて
來ました、
髯の
白い、
赤ら
顏の、
脊の
高い、
茶色の
被布を
着て、
頭巾を
被つた、お
爺さんがあつたのでございます。
私は
檀那寺の
和尚の、それも
隱居したのかと
思ひました。
其の
和尚が、
私の
目の
前へ
腰を
屈めて、
支いた
藜を
頤杖にして、
白い
髯を
泳がせ
泳がせ、
口も
利かないで、
身體中をじろ/\と
覗込むではござんせんか。
可厭なねえ。
私は
一層、
藥研で
生肝をおろされようとも、お
醫師の
居る
母屋の
方に
逃げ
込まうかと
思ひました。
其の
和尚の
可厭らしさに。
處が
不可ないのでございます。お
察し
下さいまし。
······ 私が
逃げようと
起ちます
裾を、ドンと
杖の
尖で
壓へました。
熊手で
搦みましたやうな
甚い
力で、はつと
倒れる
處を、ぐい、と
手を
取つて
引くのです。
あれ、
摺拔けようと
身を

きます
時、
扉を
開けて、
醫師が
顏を
出しました。
何をじたばたする、
其のお
仙人と
汝は
行くのだ、と
睨付けて
申すのです。そして、
殿樣の
前のやうに、お
醫師は、べた/\と
唯叩頭をしました。
すぐに
連れられて
參つたんです。
生肝を
藥研でおろされる
方がまだしもと
思ひました、
其の
仙人に
連れられて
||何處へ
行くのかと
存じますと、
田圃道を、
私を
前に
立たせて、
仙人が
後から。
······情なさに
歩行き
惱みますと、
時々、
背後から
藜の
杖で、
腰を
突くのでございますもの。
麓へ
出ますと、
段々山の
中へ
追込みました。
何うされるのでございませう。
||意甚疑懼。
然業已賣與無如何||」
と
本章に
書いてある、
字は
硬いが、もの
柔にあはれである。
「
······目を
確り
瞑れや。
杖に
掴まれ。
言を
背くと
生命がないぞ。
やがて、
人里を
離れました
山懷で、
仙人が
立直つて
申しました。
然うした
身にも、
生命の
惜さに、
言はれた
通りに
目を
瞑ぎました
後は、
裾が
渦のやうに
足に
煽つて
搦みつきますのと、
兩方の
耳が
風に
當つて、
飄々と
鳴りましたのばかりを
覺えて
居ります。
可し、と
言はれて、
目を
開けますと、
地の
底の
穴の
裡ではなかつたのです。すつくり
手を
立てたやうな
高い
峰の、
其の
上にもう
一つ
塔を
築きました
臺の
上に
居りました。
部屋も
欄干も
玉かと
思ふ
晃々と
輝きまして、
怪いお
星樣の
中へ
投込まれたのかと
思ひましたの。
仙人は
見えません。
其處へ
二十人餘り、
年紀こそ十五六から三十ぐらゐまで、いろ/\に
違ひましたが、
皆揃つて
美しい、ですが、
悄乎とした
女たちが
出て
來ましてね、いづれ、
同じやうなお
身の
上でおいでなさいませう。お
可哀相でございますわね、と
皆さんで
優しく
云つて
下さるのです。
私は、
私は
殺されるんでございませうか、と
泣きながら
申しますとね、
年上の
方が、
否、お
仙人のお
伽をしますばかりです、それは
仕方がござんせん。でも、こゝには、
金銀如山、
綾羅、
錦繍、
嘉肴、
珍菓、あり
餘つて、
尚ほ、
足りないものは、お
使者の
鬼が
手を
敲くと
整へるんです、それに
不足はありません。
毎日の
事は
勿體ない、
殿樣に
擬ふほどなのです。
其の
代り
|| 其の
代り、と
聞いただけで
身がふるへたではありませんか。
||えゝ、
其の
代り。
······何、
其だつて、と
其の
年紀上の
方が
又、たゞ
毎月一度づゝ、
些と
痛い
苦しい
思をするだけなんですツて
|| さあ、あの、
其の、
思をしますのを、
殺されるやうに
思つて、
待ちました。
······欄干に
胸を
壓へて、
故郷の
空とも
分かぬ、
遙かな
山の
頂が
細い
煙を
噴くのを
見れば、あれが
身を
焚く
炎かと
思ひ、
石の
柱に
背を
凭れて、
利鎌の
月を
見る
時は、それも
身を
斬る
刃かと
思つたんです。
お
前さん、
召しますよ。
えゝ! さあ、
其の
時が
參りました。
一月の
中に
身體がきれいに
成りました、
其の
翌日の
事だつたんです、お
仙人は
杖を
支いて、
幾壇も
壇を
下りて、
館を
少し
離れました、
攀上るほどな
巖の
上へ
連れて
行きました。
眞晝間の
事なんです。
天狗の
俎といひますやうな
大木の
切つたのが
据置いてあるんです。
其の
上へ、
私は
内外の
衣を
褫られて、そして
寢かされました。
仙人が、あの
廣い
袖の
中から、
眞紅な、
粘々した、
艷のある、
蛇の
鱗のやうな
編方した、
一條の
紐を
出して
絲ほどにも、
身の
動きませんほど、
手足を
其の
大木に
確乎結へて、
綿の
丸けた
球を、
口の
中へ
捻込みましたので、
聲も
出なくなりました。
其處へ、キラ/\する
金の
針を
持つて、
一睨み
睨まれました
時に、もう
氣を
失つたのでございます。
自分に
返りました
時、
兩臂と、
乳の
下と、
手首の
脈と
方々に
血が
浸んで、
其處へ
眞白な
藥の
粉が
振掛けてあるのが
分りました。
翌月、
二度目の
時に、それでも
氣絶はしませんでございました。そして、
仙人の
持ちましたのは
針ではありません、
金の
管で、
脈へ
刺して、
其の
管から
生血を
吸はれるつて
事を
覺えたのです。
一時ばかり、
其の
間の
苦痛と
云つてはありません。
が、
藥をつけられますと、
疵あとは、すぐに
次の
日に
痂せて
落ちて、
蟲に
刺されたほどのあとも
殘りません。
えゝ、そんな
思ひをして、
雲も
雨も、みんな、
目の
下に
遠く
見えます、
蒼空の
高い
峰の
館の
中に、
晝は
伽をして
暮しました。
つい
此の
頃でございます。
思ひもかけず、
屋根も
柱も
搖れるやうな
白い
風が
矢を
射るやうに
吹きつけますと、
光り
輝く
蒼空に、
眞黒な
雲が
一掴、
鷲が
落しますやうな、
峰一杯の
翼を
開いて、
山を
包んで、
館の
屋根に
渦いてかゝりますと、
晝間の
寢床||仙人は
夜はいつでも
一睡もしないのです、
夜分は
塔の
上に
上つて、
月に
跪き、
星を
拜んで、
人の
知らない
行をします
||其の
晝の
寢床から
當番の
女を
一人、
小脇に
抱へたまゝ、
廣室に
駈込んで
來たのですが、
皆來い! と
呼立てます。
聲も
震へ、
身も
慄いて、
私たち
二十人餘りを
慌しく
呼寄せて、あの、
二重三重に、
白い
膚に
取圍ませて、
衣類衣服の
花の
中に、
肉身の
屏風させて、
一すくみに
成りました。
此が
禁厭に
成るのと
見えます。
窓を
透して
手のやうに
擴がります、
其の
黒雲が、じり/\と
來ては、
引返し、じり/\と
來ては、
引返し、
仙人の
背は
波打つやうに、
進退するのが
見えました。が、やがて、
凄じい
音がしますと、
雲の
中に、
龍の
形が
顯はれたんです。
柱のやうに
立つたと
思ふと、ちやうど
箕の
大さに
見えました、
爪が
電のやうな
掌を
開いて、
女たちの
髮の
上へ
仙人の
足を
釣上げた、と
見ますと、
天井が、ぱつと
飛散つて、あとはたゞ
黒雲の
中に、
風の
荒狂ふのばかりを
覺えて、まるで
現に
成つたんです。
村の
人に
介抱されると、
知らない
國の、
路傍に
倒れて
居ました。
其處で
訊ねまして、はじめて、
故郷は
然まで
遠くない、
四五十里だと
云ふのが
分つて、それから、
釵を
賣り、
帶を
賣つて、
草樹をしるべに、
漸つと
日をかさねて
歸つたのでございます。」
あはれ、
此の
婦は、そして
久しからずして
果敢なく
成つたと
傳へられる。
傳へ
聞く、
近頃、
天津の
色男に
何生と
云ふもの、
二日ばかり
邸を
明けた
新情人の
許から、
午後二時半頃茫として
歸つて
來た。
「しかし
奧も
美人だよ。あの
烈しく
妬くと
云ふものが、
恐らく
己を
深く
思へばこそだからな。
賣色の
輩と
違ふ、
慾得づくや
洒落に
其の
胸倉を
取れるわけのものではないのだ。うふゝ。
貴方はな、とそれ、
赫と
成る。あの
瞼の
紅と
云ふものが、
恰是、
醉へる
芙蓉の
如しさ。
自慢ぢやないが、
外國にも
類ひあるまい。
新婚當時の
含羞んだ
色合を
新しく
拜見などもお
安くない
奴。たゞし
嬌瞋火に
似たりと
云ふのを
思つたばかりでも、
此方も
耳が
熱るわけさ。」
と
六月の
日の
照らす
中に、
寢不足の
蒼白い
顏を、
蒸返しにうだらして、
筋もとろけさうに、ふら/\と
邸に
近づく。
唯、
夫人の
居室に
當る、
甘くして
艷つぽく、
色の
濃い、
唐の
桐の
花の
咲いた
窓の
下に、
一人影暖かく
彳んだ、
少年の
書生の
姿がある。
其の
人、
形容、
都にして
麗なり、と
書いてある。
若旦那には
氣の
毒ながら、
書いてあるので
仕方がない。
これが
植込を
遙かに
透し、
門の
外からあからさまに
見えた、と
見る
間もなく、
件の
美少年の
姿は、
大な
蝶の
影を
日南に
殘して、
飜然と
||二階ではないが
||窓の
高い
室へ
入つた。
再び
説く。
其處が
婦人の
居室なのである。
若旦那は、くわつと
逆上せた
頭を、
我を
忘れて、うつかり
帽子の
上から
掻
りながら、
拔足に
成つて、
庭傳ひに、
密と
其の
窓の
下に
忍び
寄る。
内では、
媚めいた
聲がする。
「よく
來てねえ、
丁ど
待つて
居た
處なんですよ、
心が
通じたんだわね。」
と、
舌つたるさも
沙汰の
限りな、それが
婦人の
聲である。
若旦那勃然として
怒るまいか。あと
退りに
跳返つた、
中戸口から、
眞暗に
成つて
躍込んだが、
部屋の
扉の
外に
震へる
釘の
如くに
突立つて、
拳を
握りながら、
「りんよ、りんよ、
權平、
權平よ、りんよ、
權平。
刀を
寄越せ、
刀を
寄越せ、
刀を。」と
喚かけたが、
權平も、りんも、
寂然して
音も
立てない。
誰が
敢て
此處へ
切ものを
持出すものか。
若旦那、
地たゝらを
踏みながら、
「
汝、
汝、
部屋の
中に
居るのは
誰だ、
誰が
居るんだ、
汝。」
と
怒鳴つた。
裡に
敵ありと
見て、
直ぐに
猪の
如く
飛込まないのが、しかし
色男の
身上であると
思へ。
婦人の
驚駭は
蓋し
察するに
餘りある。
卓を
隔てて
差向ひにでも
逢ふ
事か、
椅子を
並べて、
肩を
合はせて
居るのであるから、
股栗不能聲。
唯腕で
推し、
手で
拂つて、
美少年を、
藏すよりも
先づ、
離さうとあせり
悶えて、
殆ど
虚空を
掴む
形。
美少年が、
何と
飛退きもしよう
事か。
片手で、
尚ほつよく、しかと
婦人の
手を
取つたまゝ、その
上、
腰で
椅子を
摺寄せて、
正面をしやんと
切つて、
曰く
此時、
神色自若たりき、としてあるのは、
英雄が
事變に
處して、
然るよりも、
尚更ら
驚歎に
價値する。
逃げようと
思へば、いま
飛込んだ、
窓もあるのに
||「
然うだ。
一思ひに
短銃だ。」
と
扉の
外でひき
呼吸に
呟く
聲、
彈丸の
如く
飛んで
行く
音。
忽ち
手負猪の
襲ふやうな、
殺氣立つた
跫音が
犇々と
扉に
寄る。
剩へ
其の
扉には、
觀世綟の
鎖もさゝず、
一壓しに
押せば
開くものを、
其の
時まで
美少年は
件の
自若たる
態度を
續けた。
然も、
若旦那が
短銃を
持つて
引返したのを
知ると、
莞爾として
微笑んで、
一層また、
婦人の
肩を
片手に
抱いた。
其の
間の
婦人の
心痛と
恐怖はそも、
身をしぼる
汗は
血と
成つて、
紅の
雫が
垂々と
落ちたと
云ふ。
窘も
又極つて、
殆ど
狂亂して
悲鳴を
上げた。
「あれ、
強盜が、
私を、
私を。」
「
何が
盜人です、
私は
情人ぢやありませんかね。」
と
高らかに
美少年が
言つた。
「
何だ。
強盜だ、
情人だ。」と
云ひさま、ドンと
開けて、
衝と
入つて、
屹と
其の
短銃を
差向けて、
一目見るや、あ、と
叫んで、
若旦那は
思はず
退つた。
怪事、
婦人の
肩に
手を
掛けて
連理の
椅子を
並べたのは、
美少年のそれにあらず。
此がために
昨夜も
家を
開けて、
今しがた
喃々として
別れて
來た、
若旦那自身の
新情婦の
美女で、
婦人と
其處に
兩々紅白を
咲分けて
居たのである。
此の
美女、
姓は
胡で、
名はお
好ちやんと
云ふ。
一體、
此の
若旦那は、
邸の
河下三里ばかりの
處に、
流に
臨んだ
別業があるのを、
元來色好める
男子、
婦人の
張氏美而妬なりと
云ふので、
浮氣をする
隱場處にして、
其の
別業へ、さま/″\の
女を
引込むのを
術としたが、
當春、
天氣麗かに、
桃の
花のとろりと
咲亂れた、
暖い
柳の
中を、
川上へ
細い
杖で
散策した
時、
上流の
方より
柳の
如く、
流に
靡いて、
楚々として
且つもの
思はしげに、
唯一人渚を
辿り
來た
此の
美女に
逢つて、
遠慮なく
色目づかひをして、
目迎へ
且つ
見送つて、
何うだと
云ふ
例の
本領を
發揮したのがはじまりである。
流水豈心なからんや。
言を
交すと、
祕さず
名を
言つた。お
好ちやんの
語る
處によれば、
若後家だ、と
云ふ。
若旦那思ふ
壺。で、
親族の
男どもが、
挑む、
嬲る、
威丈高に
成つて
袖褄を
引く、
其の
遣瀬なさに、くよ/\
浮世を
柳隱れに、
水の
流れを
見るのだ、と
云ふ。あはれも、そゞろ
身にしみて、
春の
夕の
言の
契は、
朧月夜の
色と
成つて、
然も
桃色の
流に
銀の
棹さして、お
好ちやんが、
自分で
小船を
操つて、
月のみどりの
葉がくれに、
若旦那の
別業へ
通つて
來る、
蓋しハイカラなものである。
以來、
百家の
書を
讀んで、
哲學を
修する、と
稱へて、
別業に
居續けして、
窓を
閉ぢて、
垣を
開いた。
其のお
好ちやんであつたのである。
······ 細君の
張氏より、
然も、
五つばかり
年少き
一少女、
淡裝素服して
婀娜たるものであつた。
時に、
若旦那を
見て、
露に
漆したる
如き、ぱつちりとした
瞳を
返して、
額髮はら/\と
色を
籠めつゝ、
流眄に
莞爾した。
が、
椅子を
並べた
張婦人の
肩に
掛けた
手は、なよ/\としつゝも
敢て
離さうとはしなかつた。
言ふまでもなく
婦人の
目にも、
齊しく
女に
成つたので、
驚駭を
變へて
又蒼く
成つた。
若旦那も、
呆れて
立つこと
半時ばかり。
聲も
一言もまだ
出ない
内に、
霞の
色づく
如くにして、
少女は
忽ち
美少年に
變つたのである。
變れば
現在、
夫の
見る
前。
婦人は
身震ひして
飛退かうとするのであつたが、
輕く
撓柔に
背にかかつた
手が、
千曳の
岩の
如く、
千筋の
絲に
似て、
袖も
襟も
動かばこそ。おめ/\として、
恥かしい、
罪ある
人形とされて
居る。
知是妖怪所爲。
「
退け、
射殺すぞ。」
詰寄る。
若旦那の
手を、
美少年の
方から
迎へるやうに、じつと
握る、と
其の
手の
尖から
雪と
成つて、
再び
白衣の
美女と
變つた。
「
忘れたの、
一寸······」
で、
辷らした
白い
手を、
若旦那の
胸にあてて、
腕で
壓すやうにして、
涼い
目で
熟と
見る。
其の
媚と
云つたらない。
妖艷無比で、
猶且つ
婦人の
背を
抱いて
居る。
と
知りつゝ、
魂から
前へ
溶けて、ふら/\と
成つた
若旦那の
身體は、
他愛なく、ぐたりと
椅子に
落ちたのであつた。
于二女之間恍惚夢如。
「ほゝゝ、
色男や、
貴女に
馴染んでから
丁ど
半年に
成りますわね。
御新造に
馴染んでからも
半年よ。
貴方が
私の
許へ
來て
居るうちは、
何時でも
此方へ
來て
居たの。あら、あんな
顏をしてさ。
一寸色男。
私と
逢つて
居るうちは、
其の
時間だけも
御新造は
要らないものでせう。
要らないものなら、
其間は
何うされたつて
差支へないぢやありませんか。
ねえ、
若旦那、
私は
貴方は
嫌なの。でも
嫌だと
云つたつて、
嫌はれた
事は
分らないお
方でせう。
貴方は
自分の
思つた
女は、
皆云ふ
事を
肯くんだと
思つて
居るもの。
思はれるものの
恥辱です。
だから、
思はれた
通りに
成つて
||其のかはり
貴方に
差上げたものを、
御新造から
頂戴しました。
可かありませんか。
最う
此だけで
澤山なんです。」
言ふと、
齊しく、
俄然として
又美少年と
成つて、
婦人の
打背く
頬に
手を
當てた。が、すらりと
身を
拔いて、
椅子に
立つた。
若旦那、
氣疲れ、
魂倦れ、
茫として
手もつけられず。
美少年の
拔けたあとを、
夫婦相對して
目を
見合せて、いづれも
羞恥に
堪へず
差俯向く。
頭の
上に、はた/\と
掌を
叩いて、
呵々と
高笑ひするのを、
驚いて
見れば、
少年子、
擧手高揖して
曰く、
吾去矣。
「
御機嫌よう、
失禮。」
と、
變じて
狐と
成つて、
白晝を
窓から
蝙蝠の
如くに
消えぬ。
此は
教訓ではない、
事實であると、
本文に
添書きがあるのである。
大正三年三月
●表記について
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