ライン河から岸へ打ち上げられた材木がある。片端は陸に上がっていて、片端は河水に漬かっている。その上に
河は常よりも涸れている。いつも水に漬かっている一帯の土地がゆるい勾配をなして露われている。長々と続いている畠の畝に数週前から雪が積もっている。寒さは余りひどくなかったが、単調な、広漠たる、あらゆるものの音を呑み込んでしまうような沈黙をなしている雪が、そこら一面に空虚と死との感じを広がらせている。いつも野らで
河に沿うて付いている道には、規則正しい間隔を置いて植えた、二列の白楊の並木がある。白楊は、垂れかかっている白雲の方へ、長く黒く伸びている。その道を河に沿うて、河の方へ向いて七人の男がゆっくり歩いている。男等の位置と白楊の位置とが変るので、その男等が歩いているという事がやっと知れるのである。七人とも上着の
どこをも、別荘の園のあるあたりをも、波戸場になっているあたりをも、ずっと下がって、もう河の西岸の山が畠の畝に隠れてしまう町のあたりをも、こんた黒い男等の群がゆっくり歩いている。数週前から慣れた労働もせず、随って賃銀も貰わないのである。そういう男等が偶然この土地へ来たり、また知り人を尋ねて来たのである。それがみんな清い空気と河の広い見晴しとに、不思議に引寄せられているのである。文明の結果で飾られていても、積み上げた石瓦の間にところどころ枯れた木の枝があるばかりで、冷淡に無慈悲に見える町の狭い往来を逃れ出て、沈黙していながら、絶えず動いている、永遠なる自然に向って来るのである。河は数千年来層一層の波を、絶えず牧場と牧場との間を
この七人の男は二人ずつ並んで行く。その六人の跡から、ただ一人忙しい、不揃な足取で、そのくせ
しかし誰もこの老人に構っているものはない。誰も誰も自分の事を考えている。自分の不平を噛み潰しているのである。みな頭と肩との上に重荷を載せられているような圧を感じている。それだからその圧を加えられて、ぽうっとしてよろめきながら歩いているのである。そんな風であるから、どうして外の人の事に気を留める隙があろう。自分と一しょに歩いているものが誰だということをも考えないのである。連とはいいながら、どの人をも今まで見た事はない。ただふいと一しょになったのである。老人の前を行く二人は、跡から来る足音を聞いた。そして老人の興奮した、
しかしこの群の人々に、この岩畳な老人が目に留まらなかったのではない。今朝から気は付いている。みんなが早足に町の敷石を蹈み締め蹈み締めして歩いていた時に気が付いている。あの冬になってもやはり綺麗に見える庭の後に、懐かしげな立派な家が立ち並んでいる町を歩いていたときの事である。あのあたりの家はみな暖かい巣のような家であって、明るい人懐かしげな窓の奥からは折々面白げに外を見ている女の首が覗いたり、または清い苦労のなさそうな子供の笑声が洩れるのであった。老人はそういう家を一軒一軒心配げな、物を試すような、熱のある目で見ていた。丁度今一群の人達を眺めると同じような眺め方であった。どうかするとある家の前で立ち留まって戸口や窓の方を見ることがあったが、間もなく、最初は緩々と、そのうちにまた以前のような早足になって、人々の群に付いて来たのである。その間老人は、いつも右の手をずぼんの隠しに入れて、その中にある貨幣を勘定して、自分で自分を責めるような独言を言っていたのである。
その内そこへ婆あさんが一人見えて来た。小さい腰の曲った婆あさんである。籠を持って一軒一軒廻っている。この為事は馴れた業と見えて平気な様子をしている。どの家でも何かくれると、それを受け取って、所々に穴の開いている、大きな籠の中へ入れる。物を貰うたびに、婆あさんはきっと何か面白げな事をいう。そうすると物を遣った人も声を出して笑うのである。婆あさんは老人が家の前に立ち留まって、どうしようかとためらっているのを見て云った。
「這入って行って御覧よ。ここいらには好い人達が住まっているのだ。お前さんにも何かくれるよ。」
「いやだ。己には出来ない。立派な家の戸口は幾らもあるが。」老人は胸の詰まっているような、強情らしい声で答えた。もっと大男の出しそうな声であった。
「お前さんは
「いやだ。それに己はまだ一マルク二十ペンニヒここに持っている。実は二マルク四十ペンニヒなくてはならないのだ。それさえあれば己はあっちのリングの方にいる女きょうだいの処まで汽車で行かれるのだが。」
婆あさんは、目を小さくして老人の顔を見ていたが、一足傍へ歩み寄って、まだ
「うん。そうだ。こないだじゅうは工場で働いていたのだが、七週間この方、為事にありつかずにいるのだ。元は二人ずつの組にして使われたものだが、この頃はそうでなくなったからなあ。」
婆あさんはまた一足進み寄った。この不思議な人間を
老人はそこの家の前に暫く立っていて、また戸口と窓とを眺めた。そのうちに老人の日に焼けた顔が
そこで老人はその幅広な背中を六人の知らない男の背後に見せて歩いているのである。六人の群は皆肩幅の広い男ばかりである。ただ老人よりはみな若い。どれもどれも変に顴骨が出張っていて、目がひどく大きくなっている。その顔の様子はどこか老人に似ているのである。老人はやはり懐疑者らしく
一群は丁度爪先上がりになっていた道を登って、丘の上に立ち留まった。そして目の下に見える低い地面を見下した。そこには軌道が二筋ずつ四つか五つか並べて敷いてある。丁度そこへ町の方からがたがたどうどうと音をさせて列車が這入って来る処である。また岸の処には鉄の鎖に繋がれて大きな鉄の船が掛かっている。この船は自分の腹を開けて、ここへ歌いながら叫びながら入り込んで来る人を入れてやって、それを黒い鉄の膝の上に載せて、無事に海の上へ連れ出して、
男等は立って見下している。ここには物音が聞える。為事がある。鉄がある。軸や輪や

その時どうしたのだか知らないが、忽ち向うの白けた空の背景の上に鼠色の山の峯が七つ見えているあたりに、かっと日に照らされた、手の平ほどの処が見えて来た。その処は牧場である。緩傾斜をなして、一方から並木で囲まれている。山のよほど高い処にあるのである。その牧場が好く見える。木が一本一本見分けられる。忽ちまた真向うの、石を
この群のうちに一人の年若な、髪のブロンドな青年がいる。髭はない。頬の肉が落ちているので、顔の大きさが、青年自身の手の平ほどに見える。この青年がなんと思ったか、ちぢれた髪の上に被っていた鳥打帽を脱いで、それを高く差し伸べた手に持って岸に掛かっている船に向けて振り動かした。そして
この群の跡から付いて来た老人は今の青年の叫声を聞くや否や、例のしっかりした、早い歩き付きで二足進んで、日に焼けた顔に思い切った幅広な微笑を見せて、人の好げた青い目を面白げに、さも人を信ずるらしく光らせて、青年の前に来て、その顔を下から見上げた。「この人なら
青年は一刹那の間、老人と顔を見合せた。そしてなぜ見せている笑顔か知れない笑顔を眺めた。青年はその笑顔に励まされて、感動したような様子で、手に持った帽をまた被って、老人の肩に手をかけて、自分の青ざめた、今叫んだので少し赤くなった顔を、老人の顔に近く寄せて、暫く目を見合せた。そして老人がまだ口を開く隙のないうちに、あわただしく、吃りながら、さも待ち兼ねていたように、こう云った。
「おじさん。聞いておくれ。おいらはもう二日このかたなんにも食わないのだ。」
青年の常で、感情は急劇に変化する。殊に親の手を離れて間のないものが、のっぴきならぬ場合になると、こうしたものである。青年は忽ち目に涙を一ぱい浮べた。
老人はそのがっしりした体で、ごつごつした頭を前屈みにして、両足で広く地面を踏んで立って、青年の顔を見詰めている。思い掛けない事なので、呆れて目を

男等は一人逃げ二人逃げた。彼等は内の
老人はまだ両腕を高く上げて、青年の顔を見ている。「さあ、今のは笑談だと、つい一言いってくれ」とでも云いたそうな様子である。しかし青年の顔はやはり心配げな、嘆願するような表情を改めない。その目からは、老人の手の上に涙がほろりと落ちて来た。老人は始めて青年の心が分かって自分も目が覚めた。老人は屈めた項を反らした。そして青年を見くびったような顔をして、口に排斥するような笑を浮べた。ほんに馬鹿な事をした。向うで人に憐を乞うようなものに、あべこべにこっちから憐を乞おうとしたとは。さて老人はその場に立っていながら、忽ち体を背後へ向けた。それは自分の顔に表れる感情の闘を青年に見せまいとしたのである。「ええ、この若い男の胸の苦しいのは、自分の胸の苦しいのと同じ事ではあるまいか。あれも泣いているのではないか。折角己に打明けたのに、己がどうもせずに、あいつを突き放して、この場が立ち退かれようか。己が人の家へ立寄りにくかったのは、もしこっちで打明けた時、向うが冷淡な事をしはすまいかと恐れたのではないか。今こいつが己に打明けたのに己が冷淡な事をして好いだろうか。ええ、なんだって己は、まだぼんやり立っていて、どうのこうのと思案をしているのだろう。まあ、己はなんというけちな野郎だろう。」
熱い同情が老人の胸の底から涌き上がった。その体は忽ち小さくなって、頭がぐたりと前に垂れて、両肩がすぼんで、背中が曲がった。丁度水を打ち掛けられた犬のような姿である。そしてあわただしげに右の手をずぼんの隠しに入れてありたけの貨幣を掴み出して、それを青年の手に渡した。
「さあ、これを取って置け。お前はまだ年が若い。己よりはお前の方がまだこの世に用がありそうだ。」
青年は、貨幣を受け取って「
空からはちらほらと、たゆたいながら雪が落ち始める。
(明治四十三年三月)