学校から
帰ると
正雄は、ボンと
楽しく
遊びました。ボンはりこうな
犬で、なんでも
正雄のいうことはよく
聞き
分けました。ただものがいえないばかりでありましたから、
正雄の
姉さんも、お
母さんも、みんながボンをかわいがりました。
ただ一つ
困ることは、
日が
暮れてから、ボンがほえることであります。しかしこれは
犬の
役目で、
夜中になにか
足音がすればほえるのに
不思議なことはありませんけれど、あまりよくほえますので
近所で
迷惑することであります。
「ボン、なぜそんなにおまえはほえるのだ。もう
今夜からほえてはならんよ、ご
近所で
眠れないとおっしゃるじゃないか。」と、
正雄のお
母さんがおしかりになると、ボンは
尾を
振って、じっとりこうそうな
目つきをして
顔を
見上げていましたが、やはり、
夜になると、
家の
前を
通る
人の
足音や、
遠くの
物音などを
聞きつけて、あいかわらずほえたのであります。
正雄は、
床の
中で
目をさまして、またボンがほえているが、
近所で
迷惑しているだろう。どうしたらいいかと
心配しました。
正雄は
起きて
戸口に
出てボンを
呼びました。するとボンは
喜んですぐに
走ってきました。
思いがけなく
夜中の
寂しいときに
呼ばれたので、ボンはうれしさのあまり、
正雄に
飛びついて、ほおをなめたり、
手をなめたりして
喜んだのであります。
「ボンや、あんまりほえると、また、いつかのようにひどいめにあわされるから、
黙っているんだぞ。
夜が
明けたらいっしょに
散歩にゆくから、おとなしくしておれ。」と、
正雄はボンの
頭をなでながらよくいいきかせました。そうしてまた、
正雄は
床の
中に
入って
眠りました。
その
後でも、おそらくボンはほえたかしれません。けれど
正雄はよく
眠ってしまいましたから、なにごとも
知らなかったのであります。
朝起きると
正雄は、
戸口に
出てボンを
呼びました。ボンは、さっそくそばにやってきましたけれど、どうしたことかいつものように
元気がなかったのでありました。
ボンは
病気にかかっているように
見えました。
正雄を
見ますと、いつものように
尾を
振りましたけれど、すぐにぐたりとなって
地面に
腹ばいになってしまいました。そうして、
苦しそうな
息づかいをしていました。
口笛を
吹きましても、ついてくる
気力がもうボンにはなかったのであります。
正雄は
驚いて、
家の
中へ
入って、
「ボンが
病気ですよ。」と、お
母さんや、
姉さんに
告げました。
そこで、みんなが
外に
出てみますと、ボンは
脇腹のあたりをせわしそうに
波立て、
苦しい
息をしていました。そうして、もう
呼んでも、
起き
上がって
尾を
振ることもできなかったのであります。
「あんまり、おまえがほえるものだから、だれかに
悪いものを
食べさせられたのだよ。」と、お
母さんは、ボンの
頭をなでて、いたわりながらいわれました。
姉さんは、ボンの
苦しむのを
見てかわいそうに
思って、さっそく
獣医のもとへボンを
車に
乗せて
連れていこうといいました。お
母さんもそれがいいというので、
正雄は
車を
迎えにゆきました。そのうち
車がきましたので、ボンを
乗せて、
姉さんと
正雄はついてゆきました。
獣医のもとへいってみますと、ほかにもたくさんの、
病気の
犬や
猫が
入院していました。ほかの
病気の
犬は、
檻の
中から、くびをかしげて、
新たにきた
患者をながめていました。
獣医はさっそくボンの
診察にかかりました。
診察の
結果は、お
母さんのいわれたとおり、だれかに
毒の
入った
食物をたべさせられたのだろうということです。
医者はボンの
体を
子細に
検べていましたが、
後足についている
傷痕を
指さして、
「この
傷は、いつつけたのですか。」と
聞きました。
「その
傷は二、三か
月前に、やはりだれかにいじめられてつけたのでございます。なにしろ、
夜になるとよくほえますので、
近所から
憎まれていますもんですから。」と、
姉さんは
答えました。
ボンの
後足には、かなり
大きな
傷がついていました。
「ボンは
助かりましょうか。」と、
正雄は
心配しながら
獣医に
聞きました。
「さあ
手を
尽くしてみますが、そのへんのことはわかりかねます。」と、
不安な
顔つきをして
獣医は
答えました。
そのうちにボンは、しだいに
気力が
衰えてゆきました。
正雄や、
姉さんがその
名を
呼びましたけれど、しまいには、まったくその
声がボンには
聞こえないようになりました。そうして、
薬をのましたり、
手当をしたりしたかいもなく、とうとうボンは
目を
閉じたまま
死んでしまいました。
正雄は
悲しみました。
姉さんも
目をしめらして
悲しみました。そうして、ボンをまた
車に
乗せて
家へ
帰りました。ボンが
死んだということを
聞かれて、お
母んも
悲しまれました。
みんなは
相談をして、ボンをていねいにお
寺の
墓地へ
葬りました。そうして、
坊さんに
頼んでお
経を
読んでやりました。その
当座、
正雄はボンがいなくなったのでさびしくてなりませんでした。
朝起きても、
学校から
帰ってきても、
飛びついて
自分を
迎えてくれるものがなくなり、またいっしょに
散歩をするものがなくなったと
思うと、いままでのように
楽しみがなかったのであります。
こうして、はや
幾日かたってしまいました。
正雄は、ボンのことをいままでほど
思い
出さなくなりました。
ある
日のこと、
戸口から
尾を
振りながら
入ってきた
犬があります。なんの
気なしに、その
犬を
見ますと、
正雄は
驚いて
声をあげました。
「あ、ボンが
帰ってきた。ボンが
帰ってきた。」
と、つづけざまにいいましたので、みんなはびっくりして、そのほうを
見ますと、なるほど、ボンが
帰ってきたのでありました。
「どうしてボンが
帰ってきたろう。」と、お
母さんは
不思議がられました。
「
死んだボンが、どうして
生きてきたのでしょうね。」と、
姉さんもびっくりしていいました。
正雄は、すぐさま
戸口に
走り
出て、ボンを
見ようとしました。ボンは
喜んで
正雄の
足もとにすりよってきました。
正雄は
夢中になって、ボンの
頭や
脊中をなでたのであります。
「しかし、
死んだ
犬が、
生きてくるはずがないですねえ、お
母さん。」と、
姉さんはいいました。
「
私もそう
思うよ。ああして
死んでお
寺に
埋めてしまったのじゃないか。それがどうして
生きてきたんでしょう。」と、お
母さんも
不思議がっていられました。
けれど、その
形から、
毛の
色から、どこまでもボンと
変わりがありませんでした。
正雄は、たしかにボンが
帰ってきたのだと
思いましたから、
「だって、ちっともボンと
変わりがないじゃありませんか。どうしてもこれはボンです。」と
正雄はいいはりました。
「ボンは
後足に
傷痕があったはずだから、そんなら
検べてみればわかるでしょう。」と、
姉さんはいいました。
正雄は、
犬を
抱くようにして、その
犬の
後足を
検べていましたが、
急に
大きな
声をたてて、
「これ、こんなに
後足に
傷痕があります。」と
叫びました。お
母さんも、
姉さんも、みんなそばにきて、それを
見て、びっくりしました。
「まあ、どうしてボンが
生きかえってきたろう
······。」
と、
不思議がりました。
とにかく、ボンが
帰ってきたのだというので、
肉をやったり、ご
飯をやったり、お
菓子をやったり、ボンが
好きであったものをやったりして、
家じゅうは
急ににぎやかになったのでありました。そうして、
正雄は、また
明日から
朝早く
起きていっしょに
散歩をし、
学校から
帰ってきてもいっしょに
散歩することのできるのを
喜んだのであります。
するとその
日の
晩方のことでありました。
白いひげの
生えたおじいさんが
戸口を
入ってきて、
「あ、ここに
家の
犬がきていたか。さあ、こい、こい。」といって、ボンを
呼びました。しますと、いままで、
正雄のそばに
喜んでいた
犬が
急に
立って、おじいさんのほうへ
走ってゆきました。
正雄は
驚いて、
「あ、この
犬は
僕の
家の
犬ですよ。
連れていってはいけません。」と、
正雄はおじいさんに
向かっていいました。
「はははは、この
犬は
私の
家の
犬じゃ、それは
坊の
思い
違いじゃ、これこのとおり、
私についてくるじゃないか。」と、おじいさんは
笑って
答えました。
「いいえ、どうしてもそれは
僕の
家の
犬ですから、
連れていってはいけません。」と、
正雄は、あくまでもいいはりました。
「ははは、
困った
坊だ。」と、おじいさんは
笑っていました。
そのとき、お
母さんは
出てこられて、
正雄に
向かい、
「
家のボンは、このあいだ
死んだのじゃないか。やはりこの
犬は、おじいさんの
家のですよ。そんな
聞き
分けのないことをいうものでない。」と、しかられました。
正雄も、なるほどと
思いました。
「
私は、
何町、
何番地のだれというものじゃ。
今度の
日曜にでも
坊は
遊びにおいで。」と、おじいさんは
立ち
去るときにいいました。そうして、つえをついて
門口を
出ますと、ボンはおじいさんの
後について、さっさといってしまったのであります。みんなは
不思議に
思って、その
後ろ
姿を
見送りました。
正雄は
姉さんといっしょに、おじいさんの
家へたずねていってみようと
話し
合いました。
やがて
日曜日になりまして、その
日の
朝からよいお
天気でありましたから、
正雄は
姉さんと、おじいさんの
家へ
出かけました。おじいさんの
家は
町の
端になっていまして、その
辺は
圃や、
庭が
広うございまして、なんとなく
田舎へいったような
趣がありました。
おじいさんの
家はちょっとわかりにくうございました。
二人は
番地を
探して、あちらで
聞き、こちらで
聞きいたしました。そうして、やっとその
家を
探しあてることができたのです。
その
家は
珍しいわら
家でありました。
日の
光がほこほこと
暖かそうに
屋根の
上に
当たっていました。
鶏が
圃で
餌を
探して
歩いていたり、はとが
地面に
降りて
群がって
遊んでいたりしまして、まことにのどかな
景色でありました。
「まあ、ほんとうにいいところですこと。」と、
姉さんは
感心していいました。
「ボンはいるかしらん。」と、
正雄はいって
口笛を
吹いてみました。けれど、ボンはどこからも
走ってきませんでした。どこかへ
遊びにいっているのだろうと
思って、
二人は、その
家の
門を
入りました。
ちょうど
日当たりのいい
縁側に、おばあさんがすわって、
下を
向いて、ぷうぷうと
糸車をまわして
糸を
紡いでいました。
二人は、その
音を
聞くと、たいへんに
遠い
田舎へでもいっているような
気がしたのであります。おばあさんは
耳がすこし
遠いようでありました。で、
二人の
入ってきたのをすこしも
知りませんでした。
「ここがおじいさんの
家だろうか?」と、
正雄は
姉さんに
向かっていいました。
「おばあさんにたずねてみましょう。」と、
姉さんはいって、おばあさんのそばへゆきました。おばあさんははじめて、
人のきたのに
気がついたようすでありました。
姉さんは、おじいさんの
姓と
名とをいって、
「このお
家でございますか。」と、おばあさんに
聞きますと、おばあさんは、
糸車をまわす
手をやめて、つくづくと
姉さんと
正雄の
顔をながめながら、
「おまえさんたちは、どこからおいでになりました。
私は、ちっとも
見覚えがないが。」と、おばあさんは
答えました。
そこで、
二人は、
先日おじいさんが
犬を
連れて
帰ったことを、おはあさんによくわかるように
子細に
語りますと、おばあさんは、やはり、ふに
落ちぬような
顔つきをして、
「
多分、それは
家がちがいますよ、そんなはずがないから。」と、おばあさんはいいました。
「じゃ、
同じ
番地に、こういうおじいさんは
住んでいませんか。」と、
正雄は
聞きますと、
「そのおじいさんの
家ならここです。その
人は
私の
連れ
合いですが、もう
一月ばかり
前になくなりました。」と、おばあさんは
答えました。
二人は
思わず
顔を
見合って
驚きました。
「どうしたのだろう。」といって、
大いに
不思議がりました。よくおばあさんに
聞いてみますと、ボンの
死んだころと、おじいさんのなくなったころと
同じでありました。また、
先日正雄の
家へやってきたおじいさんと、
死んだおじいさんとは、ようすがそっくり
似ているのでありました。そのとき、おばあさんは、うなずきなから
二人に
向かって、
「わかりました。おじいさんは
平常犬や
猫や
鳥が
大好きであったから、きっとその
犬をつれて、いまごろは、
極楽の
路を
歩いていなさるのだ。
坊ちゃんが、
犬をかわいがっておやりだったから、きっと
犬があの
世からたずねてきたのですよ。それをおじいさんが
迎えにきて、また、
連れていったのです。」といいました。
正雄も
姉さんも、あるいはそうかと
思いました。やがておばあさんに
別れを
告げて
帰る
途すがら、
二人はボンのことを
話し
合いました。ボンはこの
世に
生きていて、
人情のない
人たちにいじめられるよりか、かえってあの
世にいって、しんせつなおじいさんにかわいがられたほうが、どれほどしあわせであるかしれないと
語り
合ったのであります。